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How did you feel at your first kiss?
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 開いた口が塞がらない。
 神尾は、ぱかーっと口を開けて、そのゴージャス極まりない建物を見上げた。
「……なんだこれ」
「いつまでそうやってんだ。行くぞ」
「うわ、…待て待て待て…! 置いてくな…っ…」
 さっさと先へと行ってしまう跡部の後を、神尾は慌てて追いかけた。
 こんな所に置いていかれたら困る。
 ものすごく困る。
「跡部ってば……!」
「……泣きそうな声出すんじゃねえよ」
 皮肉っぽく唇を引き上げ、肩越しにちらりと視線を投げてきた跡部の態度はむかつくが、店内から次から次へと現れては、いらっしゃいませと頭を下げる大人たちに、神尾ではとても太刀打ち出来ない。
 びくびくしていると跡部が更に呆れた様子で言った。
「メシを食うだけだ。びびってんじゃねえ」
「……メシってお前……ここ何屋だよ?」
「………………」
 大袈裟な程あからさまな溜息を跡部につかれてしまって、神尾も慌てた。
「なんだよ?」
「………何屋ってなあ。テメエ…」
「だ、…って…、跡部がいきなりこんなとこ連れてくるから…っ」
「お前が言ったんだろうが」
「……へ…?」
「お前が。牡蠣が食いたいって言うから、連れてきてやったんだろうが」
「な…違、…俺は牡蠣ってうまいのかって、跡部に聞いただけじゃん…!」
 テレビ番組で女性レポーターが、足をばたばたさせて、身体もじたばたさせて、涙目になって生牡蠣を食べていたから。
 神尾は跡部に、牡蠣ってそんなにうまいのか?と聞いただけ。
 それでどうしてこうなるんだと、跡部の後を追っていきながら神尾は食い下がった。
「跡部!」
「同じ事だろ」
「ちっげーよ!」
「騒ぐな。うるさい」
「…………、…ぅ…」
 ただでさえこの場にあまりにも不釣合いな制服姿の自分に怯んでいる神尾は、跡部の一言にぴたりと口を噤んだ。
 制服というのは何も神尾だけでなく跡部もそうなのだが、はっきりいって跡部の場合は気味が悪い程この煌びやかな空間にマッチしていた。
 黒いスーツを着た大人達が頭を下げては、時々跡部に声をかけてくる。
 馴染みの店らしかった。
 応対の仕方も堂に入っていて、神尾は跡部の後についていくうち、個室へと足を踏み入れていた。
「…………なんなんだこれ……」
 美術館みたいな部屋だった。
 昼間なのに部屋の中は暗くて、凝った造りの間接照明が、舞台に当てるスポットライトみたいにテーブルを浮かび上がらせている。
 背後に回った黒服の店員に椅子を引かれ、おっかなびっくり神尾は座った。
 お化け屋敷の方がどれだけ心臓に優しいかと心の底から思う。
 跡部が何語かよく判らないものの名をいくつか口にして、そして待つこと数分。
 今度は店員が水槽みたいな銀色の細長い器を運んできた。
 中にはクラッシュアイスが敷き詰められ、その上に生牡蠣が列を成して乗っていた。
 神尾は再び口を開け、盛大に呆気にとられた。
 あまりに眩しくて、食べ物がキラキラ光るなんて、いったいどういう世界の話なんだと思う。
 テーブルの中央に生牡蠣のケースが置かれる。
 そして目の前には白い器に入った様々な色のソースが所狭しと並べられていく。
 端から、どうやらソースの名前と説明を口にしているらしい店員の、話す言葉が神尾には全く理解できず。
 恭しく頭を下げて彼らが去っていった後も、神尾は目の前の光景を凝視するばかりだった。
「……おい」
「……………………」
「そうやって間抜け面で見てたって、腹は膨れねえぞ」
「な、っ……誰が間抜け面だ…っ」
 はっと我に返った神尾が、そう怒鳴ると。
 跡部が、吐息程度に笑った。
「…………、……」
 それこそスポットライトを浴びるように。
 頭上からの照明を受けて恐ろしく秀麗な笑みを見せた跡部は、食え、と顎で神尾を促した。
 本当にえらそうな仕草なのだが、こんな場所で見ると見惚れてしまいそうで怖い。
 神尾はそんな跡部と、目の前の大量の牡蠣とを、恐る恐る交互に見やった。
「…………………」
「……これどうやって食うの」
「手で食えよ」
「………どこ持つのこれ」
「殻持てよ」
 クラッシュアイスに転がされるようにして並べられた大振りの生牡蠣。
 目の前にはフォークらしきカトラリーが数種。
 そして大量のソースだ。
「…………………」
 神尾が悩んでいると、跡部の唇から深い溜息が零れた。
 もういい、と聞こえて。
 神尾が慌てて跡部を見やると。
 跡部はまっすぐ神尾を見ていた。
「食わせてやるからこっち来い」
 手の甲で、跡部は自分の腿の上を叩いた。
 膝に乗れとでもいうのかと、跡部の言葉の意味に気付いて神尾は赤くなる。
「やだ!」
「来いよ」
「いい!」
 嫌なのか良いのかどっちだよと言って、跡部の声が低くなる。
「なんで」
「…なんででも!」
 なんとなく空気が変わった気がする。
 神経が何かを感じて神尾は思わず身構えた。
 跡部がゆっくりと目を細める。
「来いよ。食わせてやる」
「…………………」
「誰も来ねえよ。お前がここにあるだけじゃ足りないって追加オーダーしなけりゃな」
 意地の悪い事を言いながら、跡部の声は、低く甘く響く。
 酷く優しく囁く。
「…………………」
 赤くなったままそれで完全に硬直した神尾に、跡部は幾度目かになる溜息を吐き出しながら、徐に立ち上がった。
「………跡、部?…」
「…………………」
 跡部は無言で神尾の背後に立った。
 神尾が跡部を振り返ろうとして、出来なかったのは。
 跡部が、まるで背中から神尾に覆い被さるようにして近づいてきたからだ。
「…………………」
 神尾を背後から抱きこむように、跡部は右手を伸ばし牡蠣を手にした。
 そして、左手の指先で、神尾の顎を支える。
 仰のかされたらまるでキスの時のようで。
 神尾がぎょっとしていると、ゴツゴツした牡蠣を下側から指三本で掴んでいる跡部の右手が近づいてくる。
 爪の形まで跡部は綺麗だ。
「カクテルソースか?」
「…………………」
「ビネガーでもレモンでも……どれがいい」
「……よくわかんねーってば」
「だったら最初はこのまま食ってみろ」
 跡部の左の親指に唇をそっと掠られ、すぐに牡蠣の縁が唇の狭間に宛がわれる。
 跡部に顎を支えられたまま、神尾はつるりと口にすべってきた滑らかなものを咀嚼した。
「………ん、………ぅ…まー…!」
「…赤ん坊か。テメエは」
 口調ほど凄みのない声で言い、跡部は席に戻った。
 食え、と頭を軽く叩かれた神尾は、すでに言われるまでもなく、どんどん牡蠣に手を伸ばしていた。
 それは、本当に生牡蠣が美味しかったせいもあるし。
 跡部に、食べさせられたという行為が急激に恥ずかしくなってきたからでもあった。


 よくよく考えれば一つ幾らするんだろうという生牡蠣だ。
 満腹になるほど牡蠣だけを食べてから、今更のように神尾は青くなったが、料金の事を言うと跡部は不機嫌に一言。
 誰がお前に払わせるって言った、と言い捨てて。
 入ってきた時以上の足早で、店を出る。
 神尾も慌てて後を追った。
 ここに来たのは跡部の家の車でだったが、帰りは呼ばなかったようだった。
 跡部はどんどん先に行く。
 ごちそうさま、と神尾が早足で歩きながら言うと少し歩調が遅くなった。
 おいしかった、とこれもまた本心から言えば漸く肩が並んだ。
「……………………」
 跡部は黙っているけれど、今はそんなに不機嫌なわけではない事は、こっそり伺い見た表情で、神尾にもよく判った。
 外はすっかり暗くなっていて、神尾は今自分達がいる場所がどこなのかよく判っていないから、跡部の少し後ろを同じように黙ってついて行く。
 肌寒くなってきたせいか、何となくもっと近くに寄りたいようなおかしな気持ちになる。
 もっと跡部の近く。
「……………………」
 そう思って。
 じっと跡部の背中を見て歩いていた神尾は、ふいに跡部に話しかけられた。
 歩いたまま。
 跡部は前を見たまま。
「こっちもか」
「………え?」
 なに?と跡部の横に並んで、神尾は跡部の顔を見上げた。
 跡部は神尾を見ずに言った。
「こんなことも、俺が教えてやらねえと出来ないのか?」
「……………………」
 呆れた声なのに。
 するりと神尾の右の指全部に絡んできた、跡部の左の指全部の感触が優しい。
 てのひらをぴったりと密着させて、互い違いに絡み合う指の接触が甘い。
 本当に恥ずかしいくらい甘ったるく手を繋がれてしまって、神尾は跡部の二の腕に、ことんとこめかみを押し当てた。
 跡部が急に立ち止まる。
「……こういう事だけはうまくなりやがって」
「…………跡部…?」
 なに?と神尾が跡部を見上げると。
 暗闇の空を背にした跡部の顔がすでにもうすぐ近くにあった。
「……………………」
 自分の横にいる相手とキスをする為に首を少しなれない方向に捩じって。
 舌を使わず、唇を重ね続けるキスに、つないだ互いの手の中であたたかいものが灯ったような感触がした。
 そしてそれは、ゆっくりと離れていく互いの唇の狭間でも、同じように生まれた。

 あたたかく灯る。
 キスから生まれたような星がひとつ。
 夜空に柔らかく瞬いている。
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