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How did you feel at your first kiss?
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 暑い暑い暑いと、判りきったことを揃いも揃って口にしている。
 観月は辟易とした。
「はいはい、うるさいですよー、あなたたち」
 面倒極まりないと赤裸々に態度に出して、観月は手を打ち叩く。
「集中して聞かないとどんどん時間は延びますからね。それでもいいのならいつまでもそうやって囀っていなさい」
「さえずるって何だーね」
「そうだよ観月。だいたい観月」
「ああもう好きなだけどうぞ。まだまだここで太陽を浴びていたいようなので、お付き合いしますよ」
 観月が意図的に冷徹な言い方で畳みかければ、チームメイトは揃って一気に大人しくなった。
 出来るなら最初からそうして下さいよと観月はこっそり溜息を零す。
 暑いのなんて、観月だって当然そうなのだ。
 さっさと説明も終わりにしたい。
「それでは。明日の練習試合の注意事項について。説明の所要時間は五分です。邪魔しないで聞きなさい」 
 はーい、と少々間延びはしているが従順な返事が上がったので、観月は中断していた話を再開させた。
 強い日差しの下、ただ一人だけが心地よさそうに青空を見上げて笑んでいるのを横目に。



 観月の話が終わると、テニス部の面々は解散の掛声と共に一気にコートから散らばった。
 観月がラケットの他に資料を入れたファイルやフォーム確認の為のデジカメなどをまとめて持つと、横から一式攫われた。
「……何ですか」
 持って行く、というように赤澤が観月の結構な荷物を手に軽く首を傾ける。
「いいです。自分で持てます」
「じゃ、観月は俺のラケット頼む」
「………………」
 交換条件のようで、ちっとも釣り合っていない。
 観月は日に焼けた赤澤の顔を見上げてあからさまに溜息をついた。
 無論赤澤がそれを気にした風はない。
 赤澤が、こんな風にどこかエスコートじみた立ち居振る舞いを観月にすることは珍しくなかった。
 一見、粗野といったほうがいいかもしれないくらい大雑把な赤澤なのだが、彼は相当なフェミニストだ。
 それも相手を選ばないで自然にやってのけるので、見た目のギャップと相まってか、かなりもてる。
 だからといって観月は女生徒達のように、赤澤に優しくされてはしゃいだりときめいたりなどする気はないので、結局単に居心地が悪いだけになる。
 部長とマネージャーという大義名分があるが、それを使う場合甲斐甲斐しく世話をするのはマネージャーである観月の役目の筈だ。
 何故こういう関係になっているのか観月は不思議でならなかった。
「………荷物なんて持たなくていいから、それだったら試合の説明の方してください」
「観月が話す方が判りやすいからさ」
 サンキューな、と快活に赤澤は笑う。
 観月の小言も気にせず、照りつける太陽を見上げて赤澤の笑みは消えないままだ。
「好きですか」
 そんなに暑いのが、と観月が尋ねると。
 何故か一瞬面食らったように押し黙った赤澤が、そっちかと言ってまた笑う。
「好きだぜ。夏はいいよな」
「そっちかってどういう…」
「いや、お前のことをって意味かと思ってよ」
「はい?」
 好きですか、そんなに。
 それがどうして自分の事になるのだ。
 だいたいそんな事を何故自分が真っ向から赤澤に聞かなければならないのだ。
 観月は叫びそうになるのをぐっと堪えた。
「赤澤、貴方……平気そうに見えますけど、のぼせてるんじゃないんですか。本当は」
「のぼせてっつーか、浮かれてるみたいだな」
「……は?」
「夏好きだし、隣にお前いるし」
「………………」
 この、男は、と。
 観月は奥歯を噛み締めた。
 さっきから言いたい放題何なんだ。
 観月が無言で赤澤を睨み上げると、すぐにその視線に気づいて、悪いと赤澤が苦笑いした。
 おそらくは率直な、何の意図もなく赤澤の口をついて出たであろう言葉だという事は観月も判っている。
 いわゆる口説くような言葉を赤澤が口にする事を、観月は徹底的に諫めているので。
「………………」
 別に赤澤が嫌いな訳ではない。
 現に、こんな風に突っぱねてみせた所で、実際観月は赤澤と付き合っているのだ。
 それを観月が公にしたくないだけの話。
 そういう心情が素気ない態度を呼んで、素気ないくらいならまだいいのだが、随分ひどい態度をとってしまっている気がする。
 今更ながらに観月は気になって、そっと隣の赤澤を盗み見た。
 見たところ赤澤は怒った風もないし、不機嫌な様子も見受けられなかった。
 でも、こんな態度を繰り返していたら、そのうち本気で呆れられそうだ。
 いくら飄々とした赤澤だって、四六時中素気なくされていれば嫌気もわいてくるかもしれない。
 そう思った途端、無性に観月は不安にかられた。
 歩みが遅くなる。
「観月?」
 どうした?と赤澤はすぐに観月の様子の変化に気づいて振り返ってきた。
 足の止まってしまった観月の所まで近づいてきて。
 ぽん、と頭の上に赤澤の手のひらが乗せられた感触に、観月は自分が俯いていた事を知る。
「俺、何かお前を不安にさせたか?」
 実際、不安になっている。
 でもそれは、赤澤のせいではない事も知っている。
 それでも観月は顔を上げる事すら出来なくて。
「なあ」
「………………」
「お前、色々怒ったり嫌がったりするけどさ。二人っきりの時に好きだって言うと、ちゃんと聞いてくれて、すごく恥ずかしそうにしてるのが可愛いなって思ってんだよ。俺はいつも」
「………………」
「今のは、俺が、気が緩んで口に出しちまっただけ。な?」
 ごめん、と軽く頭を撫でられて。
 たいしたことないみたいに観月の不安を浚って。
 そんな風に何もかも見透かされているのに、今度はもう腹を立てる事も観月は出来ない。
 ただ、そんな風に言ってくれる赤澤に、訳もなく安心もして、憎まれ口の一つも言えないまま小さく一つ頷くので、観月は精一杯だった。




 優しく、出来たらいい。
 普通で、いられたらいい。
 好きだと、素直に返せたらいい。
 そのどれも、何一つ、出来ないのに。
 それなのに。




 観月が黙って頷いただけの事で、赤澤は笑った。
 明るく、優しい、当たり前のような笑顔で。
 観月の傍にいたまま観月の何もかもを奪っていく、そんな男だった。

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 跡部は絶対に時間を無駄にしない。
 ちょっと神尾の想像には難しいくらいの多忙な毎日を送っているらしいので、持て余す暇などまるでなく、退屈を覚えるなんて事もないようだ。
 かといって余裕のない慌ただしい姿なんて絶対人に見せないが、神尾が窺える様子だけ取っても、すでに常人とは違うレベルに忙しそうだ。
 これだけ色々何でも完璧にこなせたら制限ないだろうなと神尾は思う。
 そんな跡部が、何をするでもなく、先程からずっと、神尾を見ている。
 徐に手を伸ばしてきて、神尾の髪に触れながら、はっきり言ってどうでもいいことを、だらだらと喋っている。
「お前、この髪型に意味あんの?」
「…意味って何」
「いつどの状況でもこれだからよ」
 跡部の部屋のソファに並んで座って、神尾は何か距離が近いと思う度に、少し身体を引いて。
 跡部はすぐにその距離を埋めてきて。
 その繰り返しで神尾はいつの間にかソファの端の方に座っている。
 勿論跡部はそんな神尾のすぐ横にいる。
「髪は、これで、しょうがねえの!」
「ふうん?」
「分け目はここで勝手に分かれるし」
 言えばその分け目に跡部が指を伸ばしてくる。
「髪はすぐ、ぺたんってなるし」
 元からそうだから放っておけと素気なく言ってやったのに、跡部はまるで気にした風もなく、親指と人差し指に神尾の髪を一束挟んで、毛先まで滑らせてくる。
 するん、と髪の先が跡部の指から落ちる。
「………ていうか、跡部、何なんだよさっきから」
「アア?」
「なんか……くっついてくるし…! 人の事、ガン見だし!」
 敢えて気にしないようにって、突っ込まないでやってるのに!と神尾は自分でも訳が判らぬまま癇癪を起こした。
 要するに、正直な話、だんだん恥ずかしくなってきて神尾は落ち着かないのだ。
「別にいいだろ。俺がお前をどう見ようが」
「落ち着かないんだよっ」
「慣れねえなあ、お前」
 慣れる訳がないだろう!という言葉を、叫ぶ前に神尾はぐっと飲み込んだ。
 含み笑う跡部のゆるんだ気配に、物慣れないのはお前のせいだと視線に込めて睨んでやるのが精一杯。
 神尾だって知っている。
 落ち着かないのは、ドキドキするからだ。
 一緒にいる毎に、跡部が、今まで見た事のない顔をしてみせるからだ。
 楽しそうだったり、嬉しそうだったり、するから。
 時間を無駄にしない跡部が自分の横で寛いでいる。
 どうでもいい事を話して、だらだらと過ごしている。
 それが跡部にとって大事な事なんだと、言葉を使わないで思い知らせてくるから、神尾は猛烈に恥ずかしくなる。
「珍しいよな。ここまで俺に慣れねえってのも」
「………………」
 綺麗な顔で呆れてみせる。
 世の中はこの男にそんなに簡単に慣れるのかと神尾はものすごい驚いた。
 言わないけど。
「ま、お前にも一向に飽きねえけどな」
「………跡部さあ…」
「何だよ」
 神尾がちょっと声のトーンを落とすと、跡部は聞き返しておきながら、手のひらで神尾の頬をやけに丁寧に包んで軽いキスをしかけてきた。
 ふわりと落ち着いた香りがする。
「何だよ、神尾」
「………………」
「そんな顔させるようなキスしてねえだろ」
 少し不機嫌に跡部が言って、キスのせいじゃないと神尾は不貞腐れた。
 飽きるとか。
 跡部に言われると、ひやりとする。
 その時どうなるんだろう、もうこういう風にはいられないのかなと思うと、神尾は自分でも驚くくらい、しょんぼりしてくる。
「おい、」
「だから……跡部さあ…」
 ああもう自分から言いたくない。
 だからといって自分から聞きたくもない。
 だけど、言って、聞いて、心の準備というやつをしておかないと、と神尾は溜息で踏ん切りをつける。
「神尾」
 重く名前を呼ばれて、そう言えば何で跡部はこんなにおっかない顔してるんだろうと、神尾は思った。
 よくよく見ると、おっかないというより、何だか。
「てめえはもう飽きてるとか思ってんじゃねえだろうな」
「………………」
 その話は跡部じゃなかったかと神尾は首を傾げた。
 いつの間に、自分が飽きている事になっているのか。
「……それ、跡部じゃん」
「バァカ。俺は一生飽きねえよ」
「………え?」
「俺の話はいいんだよ。てめえだ、てめえ」
 ムッとしてるような。
 でもそれだけじゃない。
 あまりこれまで見たことのない表情の跡部に、突然に半ばのしかかられてしまい、神尾の身体はソファの背もたれをずるずると滑った。
「跡…部…?」
 キスに近づいてくる跡部の肩に伸ばした神尾の手は、跡部を押しやる為にではなく、取り縋るように動いた。
 肩口あたりのシャツを、両手にきゅっと握り締めると、今までしたことのないやり方で口づけられた。
「………ん…、…ん、っ、…」
 わずかに唇が離れると、とろりと唾液が零れてきて神尾は目を回した。
「え、………なん…、…ん…、んっ」
 離れて、すぐに塞ぎ直された唇で、尚、とろとろと甘ったるいキスをされて。
 うわ、と声にならない声で神尾は動揺した。
「こっちは段階踏んでやってるんだ」
「………え…?…、…」
 キスが解かれても頭がくらくらして喋れない。
 ただ跡部が繰り返し与えてくるキスに、神尾は唇をひらくだけになる。
「…っ……ぅ、ン」
「そう簡単に飽きさせてなんざ、やらねえよ」
「跡……、…」
 なんかもう、わけのわからないことになっている。
 自分のどこをどう見たら、跡部に飽きてる事になるんだと、神尾は理解不能な振る舞いばかりの王様を涙目で見上げた。
 ソファに並んで座るだけでドキドキしているのに。
 飽きるとか飽きないとか、それ以前に。
「…………心臓…止まる…かも」
「アア?」
「跡部といると早死にしそー…」
 ふざけんなとかなり本気に跡部に凄まれて。
 睨まれて。
 噛みつかれて。
「……っ…、ン」
 長いキスは、甘いキスで。
 神尾は濡れた唇から、色々なことを甘く憂う溜息を零した。
 お帰り海堂、と聞き慣れた声がした。
 海堂が顔を上げれば歩いて行く方向の少し先に乾が立っていて、ひらひらと片手を振っていた。
「乾先輩…」
 多分、乾を見てほっとした海堂の心情は、表情や態度にも出ていたのだろう。
 乾は少しだけ目を瞠って、それからゆっくりと微笑むと、海堂の元へとやってきた。
 対峙して、近くから海堂を見下ろした乾は、片手で海堂の頭を撫でるように髪をかきまぜてくる。
「お疲れ」
 笑んでいる乾の手に抗う気力も、もはや海堂には残っていなかった。




 夏休みに入って早々、海堂は母親の実家に家族揃って帰省する事になっていた。
 中学に入ってから休みとくればテニス三昧で、盆暮れ正月は自宅にいるのも精一杯といった状態だったので、なかなか祖父母に会う事もなく、海堂も気にはしていたのだ。
 中学三年のこの夏に、高校に入ればまた忙しくなるだろうからと、思い切って数日泊まりに行く事になり、それはそれで良かったのだが。
「やっぱり親戚大集合だったか?」
「………ッス」
 そうかー、と優しげに頷く乾の横に並んで歩きながら、海堂は大変に賑やかだったこの三日の事を思い返して、長く息を吐いた。
 元々の性格に長男気質加わって、どうにも甘え慣れしていない海堂には、大人達から年少の親戚まで、たっぷりと構われまくる事にかなりの気力を持っていかれてしまったのだ。
「合宿とかは普通に出来るんだから、団体行動が駄目だって訳でもないと思うが」
「テニスは別です…」
「大人数が苦手?」
「まあ……多少…」
 こんな風に当たり前のように会話をしているが、そもそも約束もしていないのに当たり前みたいにこうしている自分達は何なんだろうと海堂は考える。
 ちらりと盗み見るように傍らの男を見上げれば、気づいているのかいないのか。
 乾は前を見たまま、よく頑張ってきたじゃないかと言った。
「見てきたみたいに言いますね」
「想像に難くないね」
 さっきは正面から伸びてきた乾の手が、今度は横から。
 頭を抱き寄せるようにされて、またくしゃくしゃと指先に髪をかき乱される。
「………………」
 この人には何をされても平気だな、と海堂は思った。
 乾以外の誰にされても、こんな風に普通に受け入れる事は到底出来なさそうだ。
 思えば最初から、乾に対しては海堂の言動はいつもそれまで人には見せられなかったものばかりだった。
 頼るとか。
 甘えるとか。
 それ以上の事も。
 何でこの男には出来たんだろう。
「ん? どうした?」
 じっと乾を見上げている視線に、乾が不思議そうに海堂を覗き込んできた。
「……疲れちゃったか」
 疑問とも確信とも言いかねる口調だったが、海堂は黙って頷いた。
 乾はあっさりとした手つきで数回海堂の頭を撫でてから、何飲む?と近くの自販機を指さした。
「本音は、うちに連れて帰りたい所なんだけど」
 早く休ませてあげたいからこれで悪いな、と乾が先に立って自販機に近づいていく。
「………………」
 広い背中を見つめて、海堂は考えた。
 疲れきった後、一人でいるより乾と一緒にいる方がよほど休まるとか。
 そんなのは、もう、いつからだったのか。
「乾先輩…」
「んー…?」
 どう言えば良いのか海堂には見当もつかない。
 何にする?と振り返ってくる乾の気配に、だから何の考えもなしに動いた。
 額を、触れるか触れないか程度に少しだけ。
 乾の背中に押し当てた。
「………海堂」
「………………」
「振り返ったら、ダッシュとか、無しな」
 物凄く慎重に乾が宣言するのがおかしかった。
 物凄く神経を集中させて乾が振り返るタイミングを図っているのも。
 海堂は俯いたまま考えた。
 家族は、もう一日田舎に残ることになって、予定通り帰ってきたのは海堂だけだ。
 だから。
「逃げるなよー」
「………………」
 猫でも捕獲するような言い方で、いよいよ振り返ろうとする乾を。
 今日は自分を持ち帰るつもりの全くないこの男を。
 この後どう持ち帰ろうかと、海堂は真剣に考えている。 
 珍しく神尾が気難しい顔をしているので、目線だけで何だと跡部が問いかけると、床に座り込んだまま神尾はもぞもぞと動き出した。
「何か、ひりひりする……って言うか、ピリピリ?…する」
「どこが」
「背中?」
「てめえの事を俺に聞いてどうすんだ、バァカ」
「何か、とにかくこのへんが」
 ううー、と呻きながら背中に後ろ手を伸ばす神尾に呆れた溜息をつきつつ、跡部は正面からその痩躯を抱きこんだ。
 胸元に収まった神尾が着ているTシャツの襟繰りを引き、背中あたりの肌を見下す。
「あー……」
「え、なに? 何か出来てる?」
 ちょっとだけ身構えて、、飛び上るような反応を見せる神尾の様子は何かにつけ子供っぽい。
 本当に子供っぽいのだが、この身体に。
 その傷をつけたのは。
 また、その状況は。
「……そういや、噛んだんだったな」
 神尾の肌に歯を立てたのは跡部だ。
 細い首の裏側の、肩甲骨近く。
「え! 何か虫とか?」
 見当はずれの言葉を放ってくる神尾の、小さく丸い頭を跡部は叩いて憮然とする。
 虫呼ばわりされたのだから当然の反応だと思うが、神尾は神尾で怒ってくる。
「痛い!」
「てめえの記憶の有効時間は何時間だ? それとも何分か? アア?」
「な、なに怒ってんだよう!」
「この俺様を虫呼ばわりしやがって、どれだけ馬鹿だ、てめえは」
 何の事だと一瞬きょとんとした顔をした神尾だったが、跡部の指先が神尾のうなじを軽く辿った仕草に一瞬首を竦め、そこから徐々に記憶の回路が繋がったらしかった。
「あ、………跡部、かよぅ…」
 語尾が情けなく立ち消える。
 表情は声以上に判りやすかった。
「………………」
 神尾のそういう態度は、いつでも変わらない。
 怒ったり、たてついてきたり、びっくりするくらい素直だったり、どうでもいいことを恥ずかしがったり。
 案外ふてぶてしくタフでもあったり、何の躊躇いもなく、単純に可愛かったりする。
 好きにしているつもりでも、少しも思いのままになっていない感覚は、跡部にしてみればいつでも不可思議な印象のままだ。
 正面から改めて神尾を腕に抱き込んで。
 昨夜自分がつけた噛み跡に、神尾の衣服越しに跡部が唇を落とすと、神尾の身体が殊更小さく縮まった。
「………………」
 昨日もそうだった。
 力づくで抱き締めていないと、まるで制御できない感情。
 歯でも立てて噛み殺さないと正気でいられなくなるような衝動。
 それらを跡部に与えるのは、いつだって神尾だ。
 本人は全くの無自覚のようだし、説明してみたところで伝わる筈もない。
「……跡部…」
「なに緊張してんだよ」
「す、……するよ、…緊張!」
 当たり前だろと喚く身体は、今、跡部の腕の中に確かにある。
 確かにこうして、あって、抱きしめているのに。
 まだ欲しい、まだ抱きしめたい。
 力のこもる跡部の腕の中で、神尾の身体の感触は薄くなる。
 くぐもった声に名前を呼ばれて、噛みつくようなキスで返す。
 跡部は神尾の唇を塞ぎながら、抱き締める腕に力が入りすぎて、ひどく窮屈な口付けを自覚した。
 身体はぴったりと密着して、互いの隙間がなくなって、鼓動も混ざって溶ける。
「噛みつきでもしねえと、」
「………え…?」
 耐えられない。
 そんなあの一瞬の衝撃が果たして神尾に理解できるのかどうか謎だと、跡部は言葉を途中で切った。
 お前のせいだと跡部は思っているから。
 神尾に向ける口調は責める響きで。
 逆に口付けや服越しにそこを撫でる跡部の指先は丁寧で執拗になる。
 繰り返していると、神尾が喉奥で声を詰まらせて、跡部の腕の中で、とろりとやわらかい気配になる。
 それはそれで跡部の焦燥感は増すばかりだ。
 甘く落ちてきた重みに、そっとキスを終わらせる。
「………途中で、…黙んな…、ばか…」
 深いキスから逃してやった直後、もつれたような口調で神尾が悪態をついた。
 言葉は単なる虚勢のようで、実際は不安なのか、神尾はひどく落ち着かない。
 仕方がないので跡部は神尾でも判るように教えてやった。
「よすぎて、噛みつくとか抱き締めるとかしてねえと、こっちは終われない。全部お前のせいだから、ある程度痕が痛いのくらいはお前が責任とって引き受けろ」
「は……?………なん…、なに、それ……意味わかんな、っ…」
「意味が判らなくても赤くなんのかよ。…は、随分器用じゃねえの?」
 赤い頬を手の甲で逆撫でしてやると、神尾はほとんど涙目で跡部を睨みつけてきた。
「跡部が…!」
「ああ?」
「そういう、やらしい顔、するからだろ…っ…」
「……やらしい…ねえ…?」
 どんなだよ?と笑って聞いておきながら、跡部だって薄々自覚もしているのだけれど。
 自分の顔が、とりわけ神尾に充分すぎる程に効き目があることもしっているから。
 ぐっと顔を近づけて笑ってやる。
「それくらい、俺をよくしてんのは、てめえだろ?」
「み…っ…、…耳元で喋んなよっ」
「半ベソかよ」
 笑い出した自分の胸元が握りしめられた神尾の拳で叩かれるのを跡部は見下し、尚笑う。
 すっかり子供の癇癪だろう。
 これでは。
 赤い顔をして、赤い目をして、言い返したくても何も言えなくなって睨んでくる。
 その眼差しがきつければきついほど、跡部の機嫌はよくなるばかりだ。
「笑うなっ、ばかっ」
「いいだろ別に。俺がどんな顔してようが」
「よくないいぃ…!」
 これほどまでの跡部の本音の言葉と行動を前にして、いっそ強気に出れば圧倒的に勝ち目があるのは神尾の方の筈なのに。
 全くそれに気がつかない上、本来は分が悪い跡部の、全てからかいなのだと本気で思っているらしい。
 馬鹿な奴だと心底から思って、かわいくてどうにかなりそうだともうっかり思って、跡部は神尾を両腕で抱き締めた。
 相変わらず神尾は、勝っていながら負けていると思いこみ、ただひたすらに跡部の腕の中で喚いていたが。
 あいにく跡部もそこをフォローする気はなく、勝手な神尾の思い込みを、上機嫌のまま放置したのだった。
 ファミリーパックのアイスの紙箱を片手に抱えたジローに宍戸が向き合っている。
 氷帝の、学校近くのコンビニの前。
 口調は荒いが面倒見のいい宍戸と、スイッチが入らない状態のぼんやりしたジローとでは、一緒にいても同学年同士には見えにくい。
 目上の人達相手に微笑ましいと思うのもどうかと考えつつ、鳳は黙ってその様子を傍らで見ているのだけれど。
「お前、袋貰わなかったのかよ? そんな抱えてると、中の、すぐ溶けるぞ?」
「あー…袋は、エコ」
「とにかく早く帰って……って、食いながら帰んのか」
「ん」
 全部食うと腹壊すぞと言いながら、ジローがごそごそと紙箱から棒のアイスを取り出すのを宍戸は手伝ってやっている。
「何味食うんだよ」
「甘いやつー」
「アホ、どれも甘ぇよ」
 アソートのアイスキャンディをひっかきまわして気に入りの一本を選んだらしいジローは、口にくわえたまま更に箱から二本を取り出した。
「あい、あえう」
「あげるじゃねえよ。口に食べ物入れたまま喋んな」
「………………」
 それでも通じてるんだなあと鳳が苦笑いしていると、眠そうな顔のままジローはアイスを口に入れ、片手を振って歩き始めた。
「こけんじゃねーぞ!」
「あーい」
 溜息をつきながらその小さな背中を見送った宍戸の視線が、すっと鳳に向けられて。
「長太郎、どっち食う?」
「宍戸さんは?」
 ジローから受け取った二本のアイスキャンディを手にした宍戸が、鳳の返答を聞くや、小さく笑った。
「何ですか?」
「どっちにするかって聞いた所で、お前の返事はいつもそれな」
「苦手な物なら苦手だって、ちゃんと言いますよ?」
「ミントガムはそうしなかっただろうが」
 確かに鳳はミント系の辛い味には強くなく、以前に宍戸から貰ったそれを、いつまでも鞄に入れておいたことがあったのだけれど。
「あれは全く別の次元の話です」
「はあ?」
 宍戸さんから初めて貰ったものだったから、と鳳が微笑んで告げると。
 まじまじと見返してきた宍戸が、がっくりと肩を落として、嘆息する。
 どういう意味での溜息かと、鳳は宍戸の名前を呼びかけた。
「宍戸さん?」
「………そういう、キラッキラした顔、ちょっとは自重しねえかな。ほんと、お前」
 うんざりしたような顔だったけれど、言われた言葉はやけに甘く響くので、鳳も曖昧に首を傾げるしかない。
 自分が今どういう顔をしているかなんて、正直判らないけれど。
 好きな人に向けている表情なのだから、自重出来るものでもないだろうと鳳は思う。
 ありのままだから。
 宍戸を前に取り繕わなければならないことは何もない。
「……っあー、もう、溶ける!」
 俺はこっちにすると水色の方を選んだ宍戸が、黄色い方を鳳に手渡してきた。
「いただきます」
「買ったの俺じゃねーけどな」
 透明なパッケージはコンビニ前のゴミ箱に捨てて、冷たいアイスキャンディを口にしながら歩き出す。
 頭上にある太陽が、自分達へと落としてくる日差しは容赦ない。
 まだ梅雨明けもしていないのに、強く、熱い。
「お前のレモン?」
「いえ、パイナップルですね。宍戸さんのはソーダとか?」
「やっぱミントじゃねえよなあ…」
 多分それを幾らかは期待していたのだろう。
 眉を寄せる宍戸は、甘いものよりも、味や香りのすっきりとしたものの方を好む。
 取り替えてあげようかなと鳳は一瞬考えたのだが、パイナップルとて相当甘い部類だ。
 それでは意味ないかと提案を止めたのだが、突然鳳は、宍戸に肘と手首の間辺りを掴まれて瞠目する。
 自分のものよりは大分華奢な、でもしっかりと伸びた指で、結構強く引っ張られて。
 何だろうと鳳が訝しがるより先に、鳳が手にしていたアイスキャンディの先端が宍戸の唇に触れていた。
「………………」
 鳳の腕に手をかけたまま、宍戸が鳳の冷菓を舐め、少し考える顔をして、溜息をつく。
「やっぱ甘い…」
 睫毛を伏せたすっきりとした涼しい目元を、気難しげに寄せられた眉間を、鳳は見おろして。
 衝動というより、本当に真面目に、抱き寄せたいなとか、キスをしたいなとか思う。
 さすがに今ここでしたら宍戸に真剣に怒られるだろうから出来ないけれど。
 彼がくれるこの距離感が特別すぎて、自分以外の相手には多分見せないであろう所作の気安さに、何か堪らないような気分になって困った。
「…長太郎」
「あ、…はい」
 一瞬ぼんやりしていた鳳は、宍戸が憮然と上目に睨んでくるのに気づいて、返事の後かすかに苦笑いを浮かべた。
 自分の考えていることなど筒抜けなのだろう。
 宍戸は憮然としていて、結局怒られるのかと、鳳が神妙に宍戸の言葉を待っていると。
 アイスキャンディで冷たく濡れた宍戸の唇は、ふわりと甘い匂いの溜息を洩らして、ひそめた低い呟きを零す。
「だからそういう顔をだな…」
「はい………えっと、すみません」
「そうじゃなくて! 我慢させてるのが可哀想で堪んなくなるようなツラもすんな、馬鹿!」
「……、は…?」
 うっかりキスくらいしてやりたくなるだろうがと宍戸は吐き捨て、不貞腐れている。
 結構真面目に怒っている。
 でも、言っているそれは。
 いったい、何なのだ。
「………………」
 うわあ、と鳳は生真面目に照れた。
 宍戸からからかわれたり更に怒られたりはしなかったから、多分あまり表情には出ていなかったようだ。
 それにしたって本当にもうどうしようかと思って。
 熱冷まし。
 そんな気分で、鳳は無意識に、手にしていたアイスキャンディを口に運んだ。
 そしてすぐに、それは今しがた宍戸が口にしていたとか、そんな事を考えたら熱など冷める訳がない。
 宍戸もどうやら同じような状態らしく、水色のアイスキャンディに歯を立てていた。
 並んで歩いているけれど、お互い少しだけ相手のいない方に身体を向けて。
 その日の帰りに二人で食べたアイスキャンディの味は、それですっかりうやむやになってしまった。



 翌朝の通学路で、珍しく朝からしゃっきりと目が覚めているらしいジローが、氷帝の学生の姿も多い公道で大声を出しながら駆け寄ってきた。
「宍戸ー、おはよー! 鳳ー、おはよー!」
 自主練のあと一緒に登校していた鳳と宍戸に向かって走ってきて、朝一番にジローが言った事には。
「なあ宍戸ー、昨日鳳は何味だったー?」
 どっかん、と。
 それは派手に投下され場は一瞬静まり返る。
「……、っは…?」
 宍戸が裏返った声を上げる傍らで、絶句した鳳は、咄嗟にかけるフォローの言葉も見つからない。
「あ、聞くの逆がよかった?」
 ゴメン!とあっけらかんと笑ったジローは、今度は鳳を、じっと見つめて。
「宍戸は何味だった? 鳳」
「…、…ジロー先輩」
「ジロー、……てめえ…」
 昨日食べたアイスの味を聞きたいのなら。
 そうじゃなくて。
 そうではなくて。
 聞き方は!と鳳と宍戸の心の声はシンクロしていたが、公衆の無言の動揺は凄まじく、そんなものは敢え無く搔き消されてしまった。
「何や、賑やかやなあ」
 がっくんは昨日もいつも通りイチゴ味やったで?と呑気に話の輪に入ってきた忍足に、正直鳳と宍戸は心底感謝したのだったが。
 影の功労者である筈の忍足は、気の毒にも次の瞬間、隣にいた向日に容赦なく蹴り飛ばされてしまっていた。
 嫌いな事はいっぱいある。
 騒がしい場所や、ガサツな行動、人の話を聞かない相手、鬱陶しい天候。
 思い通りに進まない計画、抑制の出来ない感情、欺かれること、まずい食事、見苦しい情景。
 あげていく側から増えていくみたいに、それくらい、観月にとって嫌いな事はたくさんあった。
 傍からは、神経質だとかデリケートだとかいう言葉で簡単に纏められてしまう無数の出来事。
 ちなみにそういう自分への評価も、観月はやはり嫌いだった。
 別に神経が細い訳でもないし、繊細な訳でもない。
 普通に考えて、こんなものを好きな人間がいるのかと観月は思う。
 当たり前の苦痛や不満を、異様なように受け取られる事こそ不服で、だから観月はそういった事を極力口にしなかった。
 溜息でそれを一蹴し、流す術を身につけた。
 そういうわけで、今となっては、夥しい数ある観月の嫌いな物を把握している相手など誰もいない。
 誰もいない筈なのに。
 何故か、過去に観月が口にした事は全て記憶していて、更に口に出した事のない嗜好まで把握している男が一人いた。
「観月、寄りかかっていいぞ」
「………はい?」
 ルドルフの屋外用のテニスコートで、ベンチに座って練習メニューの打ち合わせをしていた只中だ。
 赤澤の言葉に観月は不審げに顔を顰めた。
「なに気味の悪いこと言ってるんです。貴方」
「だって雨上がりだろう?」
「……それが何だって言うんです」
 肩を越す長い髪をゴムで括っている赤澤が、切れ長の目で観月を流し見てくる。
 観月の愛想のない言葉にも気にした風もない。
 それどころか彼は、淡々とした口調で、観月の思いもしなかった言葉を紡いだ。
「雨の塩素の匂いで気分悪くなるだろ、お前」
「………………」
 そんな事、口に出した事は、一度もない。
 観月が睨むように見返してもまるで動じない赤澤が、観月の頬を掌でそっと撫でた。
 あまり甘くないやり方だったけれど、その接触に観月は息を飲む。
「肩にもたれるとかじゃなくて。背中で寄りかかってきていいし」
「しませんよそんなこと!」
 全力で否定しつつ、観月は赤澤に問いかけた。
「雨の話なんて……貴方にした事ない筈ですけど」
 実際、苦手なのだ。
 雨上がりの、塩素の混じった匂い。
 元々観月は匂いには敏感で、それで機嫌だけでなく気分まで悪くなることも度々あった。
 ただ、それこそ雨上がりの匂いだけで具合が悪くなるなどと言おうものなら、どういうからかいかたをされるか判ったものではない。
 だからこれは誰にも言った事がないのだ。
 確実に。
「あー、聞いちゃいないけどさ」
「それなら何故」
「見てりゃ判るだろ」
「………………」
 どういう意味だと観月が尋ねるより先。
 赤澤が、上半身を屈めるようにして、ぐっと観月の顔に近づいてくる。
 急に間近で、下から覗きこむようにされて。
 観月が息を詰めると、赤澤は淡く笑みを浮かべた。
「具合悪いってとこまではいかないみたいだけどな。気分が悪いって顔はするからさ。雨上がりは」
 そこまであからさまに自分の感情が顔に出ているとは思わなかった観月は、赤澤の指摘にどう返していいのか判らなくなった。
 そんな困惑までよんでしまったかのように、赤澤が唇の端を引き上げて声をひそめる。
「俺がお前を好きすぎるんだ。ダダ漏れって訳じゃねえから、気にするな」
「………、っ…」
 さらっと言われた言葉に雁字搦めにされた気分で、観月は赤澤から視線を外した。
「寮に戻っててもいいぞ」
「……追い出されるみたいで不愉快です」
「そっか? じゃ、こうしてな」
 肩を抱かれて引き寄せられる。
 同時に赤澤は片足を折り曲げてベンチに上げて、横向きに座って背中を向ける。
 かたい背中にこめかみを当てることになり、観月はますます気難しげに眉間を歪めた。
 結局こんな体勢だ。
 しかし観月はそのままそこで目を閉じる。
 雨の匂いはまだ周囲に散乱している。
 体温の高い男の熱は正直暑苦しい。
 でも、嘘みたいに観月は楽になる。
 何なんだ、と唸るように観月は重心を赤澤の背中にかけた。
 誰かに甘えるなんて、それこそ観月の一番嫌う事なのに。
「なあ」
「………何ですか」
「お前、ちゃんと寄りかかってるよな?」
 感触が軽すぎて判らねえなどと言いながら、おそらく観月が嫌がるから、赤澤は振り返ってまでは確かめないのだろう。
 あまりに真面目な問いかけに、観月は握った拳で赤澤の背中を一度叩いてやった。
「どれだけ鈍いんですか」
「おー、いたか」
「いたかじゃありません!」
 笑っている赤澤に、観月は腹を立て、呆れて、そして、恥ずかしくなる。
 赤澤には、結局ダダ漏れな気がする。
 嫌いな事も、好きな事も。
 でも、多分その原因は自分だ。
 赤澤が察するばかりでなく、自分が発しているのだろうと観月は思った。
 だから今。
 こうしている今。
 観月の感情は、赤澤には判りやす過ぎる程に判りやすく伝わってしまっているに違いないのだけれど。
 もういい、と観月は諦めた。
 赤澤の背に持たれて諦めた。

 好きすぎるんだ。

 そんなの、どっちがだ。
 こっちだってだ。

「いいです。もう。諦めてあげます」
「ん?」
 低い問いかけに、観月は何でもありませんと呟いて、ますます赤澤の背中に体重をかけた。
 すごい集中力というものはつまり、色々な方向へとそれが向けられる。
 特に乾の場合はその傾向が強いように思う。
 集中していると他の事は目に入らないようだし、何かのきっかけで別の事が気になると瞬く間にそちらに没頭したりする。
 海堂は、机を挟んで真向かいに座っている乾の様子を見ながら、しみじみと、そう考えた。
 放課後、もう誰もいないから入っておいでと、乾の教室にメールで呼ばれた。
 海堂が行ってみると、乾は広げたノートを前に何やら思案顔で。
 それもいつもの事と言えばいつもの事、海堂は目礼して教室に入り乾の前の席の椅子を引き出して座った。
 それから大分経ってから、ちょっと待っててな、と顔を上げない乾が呟き、どうぞと海堂は答えた。
 背中を向けるのも何なので身体は乾と面と向っているものの、乾は何やら呟きながら一心不乱にノートに文字を綴っている。
 そんな様子を何とは無しに海堂は見つめている。
「………………」
 乾の手が。
 ああ、探してるな、と海堂は思って、消しゴムを近くに滑らせてやる。
 乾の指先がそれに当たって、確実に手に取る。
 ふと気付くと足元にマーカーが落ちている。
 海堂は座ったまま屈んでマーカーを拾い上げ、机の上に置いた。
 ほどなくして、また何かを探す手で乾の手が動き出し、そのマーカーを取る。
 集中の仕方が、どこか子供っぽいのが乾だ。
 海堂は少しだけ唇の端を緩めた。
 夢中になる、没頭する、そうする事で他が見えなくなる性質は自分達の共通点かもしれない。
 でも、こうやって二人でいれば、目の届かない範囲を片方が補う事も出来るのだ。
「海堂」
「……何っすか?」
 いきなり呼びかけてきて、ノートの一枚を千切った乾が、知ってたか?と生真面目な声で問いかけてくる。
 てっきり何かテニスに関するデータだと思って差し出された紙に視線を落とした海堂は、そこに書きつけられた言葉を見て眉根を寄せる。
「乾先輩。何ですか、これ」
「うん。さっき気づいたんだけどな」
 いまあいたい。
 紙面に書かれていた文字だ。
 海堂は真面目に首を傾げると、乾は今の今まで没頭していたデータ帳を徐にぱたんと閉じて、机の端に押しやった。
 指先で文字の上を叩く。
 ここにきて初めて、正面から目と目が合った。
「逆から読むと、いたい、あまい、ってなるんだな。これ」
「………………」
 今、会いたい。
 痛い、甘い。
 回文というやつかと思いつつ、海堂は曖昧に頷いた。
「……はあ…」
 それがどうかしたのだろうか。
 でも、それを訊ねるのを海堂は止めた。
 多分、意味はないのだろう。
 乾の思考は取り留めない。
「海堂に会いたいなあと思ってさ」
「………………」
「頭の中で考えた言葉が何でか逆さになったらこうなって」
 発見もしたから、これはもう海堂に直接言おうと思って呼んだわけだ、と乾は笑う。
 そうして恐らく海堂が到着する間に全く別に思いついた事があって、データ帳を開いたのだろう。
 すると今度はそちらに夢中になって。
 しばらく海堂は放置されていた訳なのだが、不思議と乾のそういう所が、海堂は気にならなかった。
 時々、おかしな人だとは思うけれど。
 物事に集中して、のめり込んでいる時の乾が、海堂は嫌いでなかった。
 乾の書くデータのように、きっと頭の中もびっしりと情報や知識で埋まっているであろう男が、ふと自分の事を思い立ったりするという現実が少し不思議で。
 無意識に気の緩んだ表情になった自分に、海堂は気づかなかった。
「あー…、やっぱ、呼んで良かった……」
 頭上に大きな手のひらが乗せられる。
 何だと海堂が目を見開くと、乾がやけに和んだ顔で微笑んでいた。
「海堂の、こういう顔見られるんだからなあ」
「………別に、顔なんて普段と変わっちゃいないと思いますけど」
「海堂には見えないもんな?」
 だから。
 何で、そう、嬉しそうに笑うのだ。
 乾の方こそ。
 どうにも気まずくなって海堂は視線を乾から外した。
「あの」
「ん?」
「………頭。撫でんの止めて貰えます」
「黙って俺の手を叩き落とさないで、まず聞いてくれる所が優しいよな、海堂」
「あんた、さっきから何なんですかっ」
 優しい笑顔と、優しい手と。
 心底から嬉しそうなその気配は何なんだ。
 海堂が噛みつくように怒鳴っても、やはり乾は楽し気に、手を退かさない、笑みを絶やさない。
 そうしてやっぱり海堂も、振り払えないのだ。
「黙って待っててくれて、ありがとな」
「………………」
「消しゴムとマーカーも、ありがとう」
 気づいていないとばかり思っていたのに気づいていて。
「こういうのも、恥ずかしいのに、ちゃんと我慢してくれてありがとう」
「……判ってんなら…っ」
 頭を撫でられるとか、本当にありえないくらい恥ずかしいんだと思う海堂の心中も、きっちり把握した上で、乾は止めない。
 何だか頭の中がぐるぐるする。
 海堂は黙りこむ。
 心臓が痛い。
 感情が甘い。
 痛い、甘い、今会いたい。
 つまりこういう事かと。
 実感させられている気分で、乾の手の感触に甘んじた。
 最初にキスをされた時は本当にびっくりしたけれど、その先があるのだと知った時は、その比ではなく驚いた。
 跡部からのキスは、少しずつ時間が長くなって、少しずつ重なり方が深くなって。
 唇の表面の感触だけだったのは最初の数回。
 徐々に口腔や舌などの粘膜の感触を繰り返し与えられ、それだけでも神尾はかなり目を回していたのだ。
 なので、今日に至って、跡部の指先が神尾の耳元からするりと髪の内部にもぐってきて、跡部の唇で首筋を撫で下ろされ、神尾は飛び上った。
 キスは終着地点ではなかったのだ。
「………………」
 ぎくりと竦み上がった神尾の喉元で、跡部が低く笑った。
「さすがに流されねえか」
「…なが…、……え?…」
 神尾が言葉を詰まらせていると、ちらりと上目を寄越して、跡部は唇の端を引き上げてきた。
 どの角度から見ても、うんざりするほど秀麗な顔立ちだ。
 そのせいか、はたまた違う理由のせいなのか、神尾はのぼせたように顔を赤くして押し黙る。
 普段だったら、そういう、人を観察するようなツラすんなと、怒鳴る事など神尾にとって簡単な事なのに。
 出来ずに言葉に詰まる。
 そんな神尾の様子をつぶさに見やって、跡部は、また小さく笑った。
「ま、この先の意味は判ってるみてえじゃねえの」
「………っ……」
 頭を片手で抱え込まれるように、跡部の指先に力がかけられるのが判った。
 下から首を反らして伸びあがる跡部に、唇を塞がれる。
 キスで塞がれ出口を無くして、ますます荒く鳴り出したのは神尾の体内の鼓動だ。
 それでもキスはいつも通り。
 いや、正しくは、やっぱり少しずつ、長くなっているし、深くなっているのだけれど。
 跡部の空いている方の手が、神尾のシャツの裾から内部に忍んでくる。
「……、……ッ…」
 咄嗟に神尾は両腕を突っ張らせた。
 跡部を押し返すような所作に自覚はなくて、自らの手で跡部を引き剥がして初めて、神尾は茫然とした。
「あ………」
 拒絶、した訳ではないのだ。
 ものすごく矛盾しているかもしれないけれど。
 でも、だから、神尾は慌てた。
 跡部のキスから逃げるような真似をしたのも初めてだった。
 ひょっとすると物凄く怒っているんじゃないかと、恐る恐る神尾が伺い見た先で、跡部は、何故か機嫌が良い時の、少しばかり皮肉気な笑みをその唇に刻んでいる。
 うわあ、こいつ、人がびびってるの見て楽しんでやがる、と神尾は頬を引き攣らせた。
 それって物凄く悪趣味なことだろう。
 咄嗟に怒鳴りつけてやろうと神尾は思ったのに、何故か頬に軽いキスを受けて、どっと赤くなって、済し崩しだ。
「取り敢えず返事を寄越せ」
 何だか跡部から擦り寄ってくるようなキスがまた頬を掠って、神尾はくらくらと、跡部に問い返す。
「……返事って…なに」
「許可しろっつってんだよ」
 許可って何のだよう?と思わず泣き言めいた言葉を放った神尾は、そもそも返事などと言いながら、はなから選択肢がない跡部の物言いに、つくづく俺様な男なのだと思い知る。
「早くしろ」
「は…っ…早くとか言うな、馬鹿…!」
「早くじゃなけりゃいつだ」
 一分後か二分後かと矢継ぎ早に跡部が畳み掛けてくる。
 咄嗟に神尾は言い返していた。
「ご、………いや、…十分後……!」
「十分だな。判った」
「………………」
 自分で言っておいて何だが、十分って何だ、何なんだ…!と神尾は錯乱した。
 あっさり引いた跡部にも若干面食らう。
 正直な所、跡部が本気な事は神尾にも充分に判っていた。
 からかうような雰囲気を作っているが、どこか切羽詰った焦燥感のようなものを、確かに神尾は目の前の男から感じていたからだ。
 だから余計に身構えてしまったのだが、そんな跡部が日常の俺様ぶりを考えても実に珍しい事に、神尾の言う通りに十分を待つらしかった。
 くるりと身体を反転させられ、神尾は背後から跡部に抱き込まれる。
 背中にぴったりと跡部が密着していて、頭上に唇を埋められているのも感触で判った。
「な…、に、……この格好…」
「顔見たまま待ってられる訳ねえだろ」
 低く呟くような声に、神尾はこれ以上はないと思っていたのに、また頭の中が茹だる。
 煮えてくる。
 そういう真剣な声で言う事かと言ってやりたいが、頭も働かないし唇も動かないのだ。
 神尾は自分でも知らず知らずに混乱と動揺を深めていて、跡部はそれを熟知しているようだった。
 それから何も言わずにいる跡部の腕の中で、神尾は、呻くような声を洩らしながら、考える、ことになった。


 一分が経ち、二分が経ち、三分が経ち。
 四分、五分、六分。
 七分が経ち、八分が経ち、九分が経ち。


 十分が経った。

 十五分が経った。

 二十分が経った。


「面白ぇなあ、ほんと、お前」
 跡部は珍しく屈託なく笑みを零し、オラ、返事、と神尾を抱き込み揺すってくる。
 神尾は自分の胸元を通って肩を掴んできている跡部の肘下あたりを抱えて、大混乱を極めてショート寸前だ。
「や、…マジで、しぬ……」
「バァカ。死ぬ訳ねえだろ、この先控えて」
 ここから出してと目を回して神尾が言っても、しがみついてきてんのお前だろうと跡部はますます笑うばかりだ。
 そう、跡部は、笑っている。
 どれだけ神尾が待たせても、怒りもしない。
 何でだろうと神尾は跡部の腕の中で考えた。
 背後にいる跡部の表情は見えないけれど、明らかに機嫌がいい。
 普段だったら業を煮やして怒鳴ってきてる筈なのに。
 だらだらと、ただ時間が過ぎていくような、はっきりしないやり取りなど決して好まない男なのに。


 三十分が経った。

 それから。


 跡部の溜息にうなじがくすぐられて神尾は肩を竦める。
 仕方ねえな、と跡部の声がして、さすがにキレたのだろうかと神尾は思ったのだが、そうではなかった。
「俺が、お前の許可を貰ってやろうと思ったが、お前が言えないなら仕方ない」
「……跡部…?」
 跡部の腕の中で身体が返される。
 数十分ぶりに、正面から顔をつきあわせる。
 両頬を跡部の手のひらに包まれ、支えられ、唇に甘ったるいキスを貰って、それが多分神尾の最後の困惑を吸い取っていった。
「お前には拒否権やるから」
「………………」
 僅かに離れた唇と唇の合間で囁かれる。
「嫌なら全力出して逃げな。逃げきれないなら腹くくれ」
 もう、跡部は、笑っていなかった。
 ズキズキと、鼓動が熱くて、早くて、息苦しくなる。
 神尾をそうしておかしくする表情で、跡部は神尾の衣服に手をかけた。


 えらそうな王様の、それは最大級の譲歩だろう。
 だから貰った拒否権を、神尾はどこかそこらに、必死になって、投げ捨てた。
 ひどい雨に降られて全身濡れた。
 雨宿りするような場所もない所でのいきなりの雨だったので、ただもう濡れるしかなかったのだ。
 じっとりとした湿気は梅雨特有のもので、そろそろまた雨が降るだろうとは思っていたが、それにしたっていきなりすぎた。
 そして今鳳に、彼の自宅の前で、シャワー浴びて着替えて行って下さいと宍戸は誘われたのだが。
 はっきり言って人の家に上がれるような状態では、まるでなかった。
「いい。ここまで来たらもう帰る」
 びしょ濡れの後輩を見上げて宍戸が言えば、打ちひしがれでもしているかのような顔で見下ろされる。
 あまりの真剣さに宍戸は盛大な溜息を吐きだした。
「………その顔は何なんだよ、お前…」
「だって宍戸さんが」
「だってとか言うな!」
 宍戸がそうやって怒鳴ったところで臆した風もなく、尚、肩を落とした鳳が自分にしかこんな甘ったれた顔を見せないという事は宍戸もよく判っている。
 でもだからといって、その図体でそれはないだろうというような、全身全霊、全力でしょげられてしまっては、どうしようもない。
 結局いつも、こうやって自分が甘やかしてるって事かと内心で思いつつ、宍戸は、判ったと鳳に言った。
「じゃあ、シャワー貸してくれ。ついでに服も」
「はい。宍戸さん」
 それはもう、満面の笑みで鳳は笑う。
 手を引かれるようにして促され。
 ここまで濡れていれば、室内を濡らすのも、一人も二人も一緒でしょうと言われて。
 びちゃびちゃの有様で上がり込み、玄関からバスルームへと直行した。
 鳳の家は、早い時間帯に家人がいることは殆どない。
 宍戸は廊下の濡れ具合も気にしつつも、二人で入っても手狭な感じのまるでしない広々としたバスルームでシャワーを浴びた。
 雨もシャワーも同じ水であるのに、まるで違う。
 鳳が先に宍戸にシャワーを使わせたのでバスルームを出たのも宍戸の方が先だった。
 用意されていたタオルで身体を拭くと、そのすっきりとした清涼感で、力が抜ける。
「宍戸さん。そこのクローゼットに新しいバスローブ入ってるんで、着て下さいね」
「いらね」
 少しして、後から出てきた鳳は、宍戸の即答に生真面目に反論した。
「駄目ですよ。風邪ひいたらどうするんですか」
「ひくかよ。六月に」
「それあんまり関係ないと思いますけど」
 そんなことを言いながらも、鳳は彼自身のことなどまるでお構いなしに、せっせと宍戸の世話を焼く。
 髪先から滴を落としながら、宍戸にバスローブを羽織らせた。
「ええと。あと、着替えは……何がいいかな…」
「……長太郎。お前、人のことはいいから自分の身体拭けっての」
 自分の事は放ったらかしで宍戸のバスローブの前合わせまで結んでくる鳳に呆れて。
 宍戸は新しいタオルに手を伸ばし、鳳の髪を拭き始めた。
 宍戸より大分背の高い年下の男は、宍戸の動作に合わせて僅かに屈んできて、宍戸にされるがまま、ぽつりと言った。
「あー…宍戸さんの髪、俺が拭いてあげたかったなあ…」
 心底からの呟きに、宍戸は吐息で笑う。
「末っ子だもんな、お前」
 構われる事ばかりで、だから構いたいんだろうとからかってやると、鳳はじっと宍戸を見つめて、宍戸さんだってそうじゃないですかと言った。
 真面目に不服を言う様が、つくづく可愛げがあって。
 宍戸はうっかり気をとられそうになる。
「ま、……確かに俺も末っ子は末っ子だけど、俺の場合はお前がいるだろうが」
 自分だけにしか甘えてこないその存在。
 鳳のそういう可愛げを宍戸は気に入っている。
 構いたがりは鳳の方だとばかり思っていたが、実際は自分の方がその傾向が強いのではないかと、宍戸は最近思っていた。
「宍戸さん」
 宍戸に髪を拭かれながら、鳳が一層身を屈めてきた。
 呼びかけに、何だと疑問に思うより先に。
 ふわりと唇がキスで覆われた。
「………………」
 目を開けたまま宍戸が受け止めたキスは短かった。
 長い睫を伏せた鳳の表情は、つぶさに間近に見てとれる。
「弟とか…嫌だな」
 ゆっくりと睫毛を引き上げて、至近距離の、鳳の小さな囁きが宍戸の唇を掠る。
 ひそめた小さな声での、不服。
「……アホ。言ってねえよ、んなこと」
 年下って意味で言っただけだと、フォローめいた言葉を宍戸が口にしたのは、鳳が甘ったれた言動とはあまりに不釣り合いな表情をしてみせるからだ。
 少し憂鬱そうに眉根を寄せる。
 明るい甘い色の目で、じっと宍戸を見据えて。
「………………」
 こんな風に、鳳の中にある大人びた部分と子供じみた部分のアンバランスさは絶妙で、宍戸にしてみればこの年下の男に向ける自分の感情は自然と様々になる。
 頼る。
 甘やかす。
 頼られる。
 甘やかされる。
 何を、どうしても、一方通行にならない。
 何をしても通じ合う、だから、どう接触を持っても、どう思うところがあっても、構わないのだ。
「まあ、弟でもいいと思うけどな…」
 ふと、ひとりごちたのは。
 つまりそういう感情から出て言葉だったのだが。
 盛大にそれが不満らしい鳳に、さっきよりも深いキスでまた宍戸は唇を塞がれて。
「だから。弟じゃ嫌なんですけど」
「あー、はいはい」
「うわー、今すごい適当に流したでしょう、宍戸さん!」
 何でそんな真剣に怒るんだと、宍戸は呆れようとしたのだが、失敗した。
 おかしくなってしっまったのだ。
「はいはい」
「しかも、すっごい適当にあしらってるし」
「うるせ」
「大きい声出してません」
「そういう意味じゃねえよ」
 ああもう、と宍戸は伸びあがって。
 続きだと言わんばかりに、手にしたタオルで荒っぽく鳳の髪を拭いた。
 こうやって、鳳が屈んでこなければ。
 爪先立ちしないと彼に届かない。
 という事はつまり、またでかくなってやがんのかと顔を顰めた宍戸を、見つめていた鳳の目が徐々に見開かれる。
 それはつまり。
「………………」
 身長差がついても、まだ今のところ。
 キスには不自由ない程度の差だと宍戸が思った通りだったからだ。
 驚く鳳の表情もよく見えて、宍戸は下から鳳の唇に口づける。
 伸びあがって僅かに片側に倒した分だけ、首筋が少しばかり窮屈で。
 でも重ねた唇の心地よさの前には何の問題もなかった。
 そうやって、宍戸は機嫌良くキスをほどいたのに。
「……何だ、そのツラ」
 鳳ときたら何だ。
「や、……」
 心底驚愕した顔をして固まっているのだ。
 自分がキスして何がそんなに不満だと宍戸が噛みつくように怒鳴る。
「お前もしただろうが!」
 しかも二度。
 鳳も負けじと言い返してくる。
「しましたけど…! だけど、してもらったの初めてなんですけど…!」
「……し、……してもらったとか言うな、アホ!」
 だから何でそんなに判りやすく、感動しましたって顔をするんだと、今更ながらに宍戸は気恥ずかしくなってくる。
 うわあ、と呟いて口元を片手で押えている鳳を宍戸は照れ隠しに睨みつけたのだが。
 その視線を、鳳はそれはもう甘ったるく、見つめ返してきて。
 抱き込まれる。
 バスローブ越し、大きな手のひらに腰を支えられ、宍戸は額と額を合わせるようにして擦り寄ってくる鳳を、その表情を見上げて。
 結局は、すべてを笑って受諾する事になるのだ。
「長太郎ー、……お前、それじゃああんまりにも簡単すぎねえか」
 キスをひとつ宍戸が渡しただけで、綺麗な顔で、幸せだと鳳は笑う。
 とろけたような表情が、何故、とても大人びて目に映るのか。
 可愛い喜び方で男の顔をする鳳に、欲しければこんなものいくらでもとればいいと、宍戸はもう一度軽くその唇を塞いだ。
 ぐっと腰が強く抱かれる。
 宍戸から始めたキスは、角度のついた深いキスで鳳から塞ぎ直され、宍戸は一瞬目を瞠ったが、一瞬の後は、そのまま鳳に全てを預けて目を伏せる。
 抱きしめてくるから。
 背がしなる。
 喉が震える。
 濃厚になるキスで。
 雨に濡れたのとも違う。
 シャワーを浴びたのとも違う。
 それでも、それ以上の、濡らされ、浴びせかけられる印象で、抱き竦められている。
 口づけられている。
 手を伸ばし、宍戸は鳳の濡れ髪を撫でるように頭部を抱き寄せた
 また深くなったキスに、くらりと目を閉じた視界も回る。
 自分のこの手で、抱き締める事の出来る、存在。
 手のひらで愛おしさに触れられるということ。



 ただもう、無条件で、信じている、愛している。
 それは、ただもう、無条件で。

 好きだと切に焦がれたと同時に、相手からも焦がわれた。
 欲しいと強く願ったのと同時に、相手からも願われた。
 望んだものは、すぐに同じ思いで返されて。
 苦しかった時間は僅か。
 思いつめた迷いも一瞬。
 戸惑いを吹き払い、躊躇を薙ぎ払って、お互いに手を伸ばす事の叶ったその瞬間には、自分がどれだけ凄まじい安堵感と幸福感を覚えたか、無論忘れはしないけれども。
 だからこそ後になって、今になって、どうしたらいいのか判らない事があるし、どうにもならない事も出てくるのだ。





 清潔な茶色の髪で気づいた。
 厳しく完璧な姿勢と佇まいの後姿。
「若、今帰りか?」
 宍戸が声をかけると、目線だけで振り返ってきた日吉が僅かにだけ目を瞠っていた。
 宍戸は鞄を掴む手を手首から反らし、肩に乗せて、少し歩を早め日吉の隣に並んだ。
 正門までは、まだ距離がある。
「………一人ですか」
「おう」
「…珍しいですね」
「そうか?」
「そうですよ」
 感情のこもらない低い声、素っ気無い短い言葉。
 それでも話かけてくるのは日吉からで、宍戸は小さく笑みを浮かべて日吉を流し見た。
「お前も珍しいな」
「俺はいつも一人ですが」
「いや、俺相手にそんなに喋るのがだ」
「………………」
 そうは言いながらも、案外と二人きりの方が、寡黙な日吉でもあれこれ喋る事を宍戸は知っていた。
 今はもう引退しているが、テニス部に現役でいた頃、宍戸が日吉から感じていたのは他のレギュラー陣達への敵対心とは全く違うものだった。
 もっと簡単に、感情の面で好まれていなかった。
 宍戸は早くからそれに気付いていたけれど、別段だからといって日吉を毛嫌いしていない自分も知っていた。
 憮然として、生意気で。
 でも宍戸は、恐らく自分が下級生であった時、上級生達は自分に対して同じ事を思っていたのだろうと知っているから、負けん気が強くて愛想がなくて勝気な日吉が他人事に思えなかったのだ。
 春先、宍戸がレギュラー落ちをし、その後すぐに異例の復帰を果たした時から暫くは、宍戸に対する日吉の態度は露骨に不快そうだったのだが、それもいつの間にか軟化していて、今となってはこんな風に二人で話をしている空気もやわらかい。
「鳳、もう帰りましたよ」
「ああ…知ってる」
「今週入ってからずっとあんな調子ですね」
「不機嫌か?」
 宍戸が問うと、日吉は前方を見据えたまま、そこまでは興味ないんでと言った。
 それで宍戸は小さく笑う。
 すると、報復なのか日吉が冷えた声音で告げてくる。
「それこそ珍しい」
「…何がだ?」
「逆ならともかく」
「………………」
 それでもまだ笑った目のまま宍戸が日吉を見やると、日吉も涼しい視線を宍戸へ向けてきていた。
「つまり宍戸先輩が悪い喧嘩ってことですか?」
「真っ向から言うか、そういうの」
 やはり自分と似ている所があるのだと、宍戸は日吉を見ていて思う。
 敵も増えるだろう、しかしその分、理解者には深く感謝もするだろう。
 自分と同じように。
「そうだな。俺が悪いな」
 宍戸は日吉から視線を外して溜息をつく。
「………………」
「あいつが怒るのも当然だな」
「……へこんでるあんたを見るのは気持ちが悪いし気が滅入ります」
「悪かったな」
 ぼそぼそと交わす会話で正門につく。
 家の方向は逆なので、話はここまでだ。
「じゃあな。若」
 鞄を持っていない方の手を肩口で軽く振った宍戸だったが、自分の向かう方向に日吉が並んでついて来たのでぎょっとする。
「…おい?」
「腹が減りました」
「……は?」
「俺はファーストフードは嫌いです」
「はあ?」
 どうしたんだこいつ。
 宍戸が困惑する中で、ちらりと視線だけ向けてきた日吉の表情に、ぶっきらぼうな気遣いが見えた気がして宍戸はますます呆気にとられた。
 そしてつくづく、この後輩は自分と似ているのだと思い知らされる。
 不器用で、無愛想で、優しい言葉が使えない。
 全く似たもの同士だ。
「そばがきは?」
「うまい所なら」
「うまいぜ。この間も食った」
 行くかと日吉を促しながら、この間そこに一緒にいた相手の事を思い出して、宍戸は小さく溜息をついた。









 結局日吉とはテニスの話ばかりした。
 寧ろそのほうが気が晴れた宍戸は、割り勘を譲らない日吉を宥めすかし、しまいには店主が心配してくるような小競り合いを交わしつつ代金を払った。
 憮然としている日吉は今思い出してみてもおかしかった。
「宍戸ー。昨日は、えっらい渋い場所で、日吉とデートしてたんだって?」
「…は?」
 昼休み、机にうつ伏せてうつらうつらと昨日の事を思い返していた宍戸は、賑やかな向日の言葉に顔を上げた。
 好奇心でキラキラした大きな目が目前にある。
「……んだよ。寝かせろよ」
「そんなに眠いようなこと、昨日したんだ?」
 日吉と?と言ってくる向日に宍戸が眉根を寄せる。
「何言ってんだ、岳人」
「だって昨日見てたらさー、なかなかの仲良しっぷりだったじゃん?」
「…おい?」
「萩之介、ちょっと泣きそうで可哀相だったんだからな」
「おい」
 真剣な宍戸の声に、向日は肩を竦めた。
「そっちは平気。お前たちが店の前で別れた後、俺と侑士で日吉に特攻かけたから」
「滝は」
「勿論一緒にいたよ。止めなよって言われたけどさ」
 聞くわけないじゃん?と向日は笑った。
「日吉も見物だったぜ。俺らはともかく、萩之介見たらさ。かわいいねー、あいつも」
 態度に出さないようにしてたけどめちゃくちゃ焦っててさあ、と大笑いする向日を宍戸は呆れて見返した。
「お前らなぁ…」
「つーわけで、あっちは別に、もめちゃいねえよ」
「…それならそれでいいだろうが」
「だな。で、こっちは?」
 こっち?と宍戸は訝しげに聞き返す。
 宍戸の机に頬杖をつく向日は、唇を端を引き上げた。
 ただし目は笑っていない。
「日吉には話せて俺には言えないのかよ」
「……別に日吉と話はしてない」
 日吉同様、向日も気づいているのだろう。
 彼が知っているのなら忍足も知っているだろうし。
 憶測が広がっていくのに、宍戸は嘆息する。
 今日は木曜日。
 実質四日、校内で接触無しでいるという事が、学年も違うというのに異変だと思われる自分達の距離の近さを改めてつきつけられた気分になる。
「鳳が悪いんじゃないんだ」
 お前なんにも言わないってことはと向日が真っ直ぐな視線と一緒に宍戸に放る言葉。
 そうだよ、そうだけどな、と宍戸は言葉にしないで溜息をつく。
「どうしたよ。らしくねーじゃん」
 ん?と小首を傾けて宍戸を覗き込んでくる向日は、本当に見目の可愛らしさとミスマッチなまでに男らしい。
 華奢な指で宍戸の髪をくしゃくしゃにまぜてきた。
「……、んだよ…っ」
「そうそう。そういうおっかない顔してなきゃ宍戸らしくないぜー」
「おっかないは余計だ!」
 遠慮の欠片もなく宍戸の背を叩いた向日は、今度は宍戸のタイを引張って、ぐっと顔を近づけてきた。
「今日は俺とデートするか」
「……お前なぁ…」
 キスでもしそうな至近距離は完璧にわざとだ。
 呆れた宍戸が思わずもらした呟きに、低い関西弁が被さってくる。
「勘弁してや、岳人」
 アホ言うなってつっこんだら本当にキスしてまうやん、と振り上げた右腕で胡乱と前髪をかきあげる忍足に、口調に誤魔化した不機嫌が垣間見えるようで、宍戸は笑いながら向日の肩を雑に押し返した。
「おら、しっかり手綱握っとけ、忍足」
 忍足に背を凭れかけるくらい強く向日を押し返した宍戸は、机に肘をついた手のひらにこめかみにあずけて生欠伸をする。
「こっちはジローが昨日遅くにいきなり泊まりにきて寝不足なんだよ」
「何でジローで寝不足なん?」
「だよな。どうせ寝てたんだろ」
「……何だか知らねえけど、すっげえ構ってくれモードで、喋りまくるわ、引っ付いてくるわで、いい安眠妨害だったんだよ」
 不思議そうな顔をしている忍足と向日にそう説明してやると、二人は顔を見合わせて同じような顔をした。
「………なんだよ」
「かいらしなー、ジローは」
「やり方が動物っぽいけどな」
「おい…?」
 したり顔をする忍足と向日に宍戸は不審気な眼差しを向けたが、それ以上の説明は無かった。
 そしてそんな他愛もないような話をしているうちに、昼休みが終わるチャイムが教室に鳴り響く。
「おっと、次、教室移動だ」
「行こうか、岳人。……あ、それからな、宍戸」
「何」
「早いとこ仲直りせんと、跡部がきれるで」
「………跡部?」
 何であいつがきれるんだ、第一、別にあいつがきれたって、と思った事が全て顔に出たらしく、宍戸に向かって向日が呆れた大声をあげる。
「判ってねえなあ、お前。跡部マジできれるぞ」
「だから何であいつが」
「何でとか言うあたり、宍戸も相当鈍いよな。ついでに教えておいてやるけどな、跡部がきれて、お前んとこに行くわけねえんだからな」
「せやで、宍戸。矛先、お前のわんこや」
 覚えとき、と言って忍足も笑い、向日と一緒に教室を出て行った。
「……んだよ、あいつら。訳わかんねえことばっか言いやがって……」
 呻きながら宍戸はくたくたと机に顔を伏せる。
 昨夜に引き続いてこの昼休みも結局中途半端に眠いままだ。
 わんこねえ、と唇の形だけで宍戸は呟いてみた。
 昔から、取り分け宍戸に従順で献身的な年下の男は、そんな風によくからかわれていたけれど。
 そんなんじゃねえよなあと宍戸は誰に言うでもなく口にする。
 もし、あの男の。
 柔和な態度や、優しい振る舞いや、謙虚な物言いなどを知り、彼を見縊っている輩がいるとしたら、それはひどい誤りだ。
 頻繁にそれを口にする宍戸の友人達は、本当の所を知っている上で言うのだから良いけれど。
 本気で怒った時の、暴力や言葉ではなく、噴出すような感情の気配や。
 丁寧な手が生む、渾身の力。
 色薄い瞳に宿る、艱難。
 そういうものを持っている男だ。
「………………」
 数日前のあの日に、一瞬だけ目にした鳳の凄愴な表情を思い出し、宍戸は喉が痞えるような思いで細い息を吐き出すしかなくなった。









 今改めて、あんなことは、そう無い事なのだと、宍戸は考えている。
 最初のきっかけ。
 知っているのだ、ちゃんと。
 あんな幸運じみた奇跡のような事。
 そのままにしておいたら渇望する執着心で正気でいられなくなるような想いが、生まれたてとほぼ同時期に、相手から優しく掬われたような事。
 だから例え、まっすぐな信頼と、まっすぐな愛情を、惜しみなく宍戸に向けた鳳のやり方がどれだけ判りやすく人の目に映っていたとしても。
 結局は、自分の方が明らかに分が悪いと言い切れる程に、自身の感情が濃いのだと。
 宍戸は判っていた。
 鳳を乞う自分の感情の表し方が、どれだけ判りにくいものかも自覚している。
 だからいつも鳳ばかりが際立ってしまうけれど。
 あれだけ懐かれて、あれだけ好かれて、と言われる事も少なくないけれど。
 その比にならない程なのだ。
 本当の、自分の思いは。
 それは鳳にも伝えきれていない筈だ。
 だから宍戸は、ふと怖くなったのだ。
 今自分の隣に鳳がいることが奇跡的な事なのだと判った上で、少しずつ薄れていくかもしれない鳳の恋愛感情と、普通でない執着じみた勢いで増していくばかりの自分の恋愛感情とに、食い違いが出始める時がくるのが怖くなった。
 今まで当たり前のようにされてきた事が、そのうちに、少しでも普段とは異なる気配を見せるのかもしれないと思い始めると、その思考は常に宍戸を巣食うようになった。
 肩を並べて歩く、テニスをする、電話で話す声、抱き締められ方、キスの感触。
 薄れたら、変わったら、無くなってしまったら。
 その時どうしたらいいのかと宍戸は思ってしまった。
 今宍戸の中にある感情すら伝えきれないうちに、そんな時がきてしまう事も怖い。
 鳳が、薄れたら、変わったら、無くなってしまったら。
 寂しいよな、とひっそり冷えた気持ちを抱えていた宍戸を。
 先週末、鳳は宍戸の部屋で抱き締めながら、思いつめたような顔をして言ったのだ。
 宍戸さんが今何を考えているか教えて下さいと。
 それで、結局あの諍いだ。









 言葉は、難しい。
 気持ちを言葉に代える、もっとうまい方法があるなら知りたいと切に願う。
 口にしている自分でも、その言葉が本当に正しいのかどうか、不安に思う事がある。
 好きも伝えられない。
 不安も伝えられない。
 沈黙は形にならない誤解を生むし、言葉はどこを修正をしていいのか判らない程に取り留めない。
 鳳の腕の中で、宍戸は言葉が見つけられなかった。
 その沈黙は鳳をどう受け取ったのか、肩を掴まれ身体を離された時の喪失感は、それだけで宍戸の頭の中の寂しいいつかの気配と一緒になる。
「お前は、俺が本当に思ってること、知らないだろう」
 どれだけ好きか。
 どれだけ好きか。
「お前は、いいよな」
 惜しみない言葉、惜しみない態度、いつも全部を聞かせてくれて、いつも全部を見せてくれて。
 必ず気持ちの全てを表してくれるから、そこから少しずつ、失われていく過程を見なくてはならない自分とは違う。
 怖い。
 その宍戸の気持ちは、何も鳳へと伝わらない。
 ただ鳳は、そう呟いた宍戸を、本気で怒った。
 握り潰しそうな力で宍戸の肩や腕を掴み、噴出さんばかりの強烈な怒りを滾らせて、目だけはひどく辛そうに。
 あの時に鳳に言われた言葉は回顧を拒否する。
 宍戸は鳳の腕に抗わなかった。
 言われた言葉に返さなかった。
 鳳は宍戸の部屋を出て行った。
 そのまま、四日だ。
 あれから、四日だ。
 悪いのは自分だろうし、鳳が怒ったのも当然だろう。
 ただ、早かれ遅かれこうなったのかもしれないという諦めじみた思いが宍戸にはあって、その気配こそが、周囲を困惑させているという事には気づけずにいた。
 宍戸にその事を告げ、手酷く一喝してきたのは、結局跡部だった。









 翌日の金曜日の放課後、あろうことか昇降口で待ち伏せをされて、宍戸は深々と嘆息し、肩を落とした。
 跡部は尋常でなく整った顔を皮肉たっぷりに歪める。
「溜息つきたいのは俺様だ。この馬鹿野郎が」
「はいはい…俺が悪うございました」
「思ってもいねえこと口先だけで言うんじゃねえ。腹立つんだよ、てめえは」
 コートのポケットに両手を突っ込んで肩をそびやかす跡部の悪態を真横で聞きながら、宍戸はとうとう跡部かと内心で思っていた。
 跡部は、一番こういう話をしたくない相手でもあるのに。
 結局自分達は交互に、幾度となく、こういう話で相手に意見してきた。
 他の連中がいる前では対峙して話す事はあまりない。
 その分二人きりの時は、本音で話すだけだ。
「鳳が離れていくのも当然みたいなツラをお前がしてるから、あいつらが戸惑うんだろうが」
「………そうは思ってねえけどよ」
「同じだ。馬鹿」
 跡部に舌打ちされて、宍戸は苦笑いする。
「でも、嫌なんだぜ。それ」
 怖いとは口にしなかったが、どうせ跡部には伝わってしまうのだろう。
 ぽつりと宍戸が返した言葉には辛辣な切り返しはされなかった。
 跡部が黙るので、またぽつぽつと宍戸は話をし始める。
「あいつなあ……」
「………………」
「俺のどこをどう気に入ったのか知らねえけどよ……もしそれが、何かの拍子に簡単に無くなったり変わっちまうようなものだったりしたら、怖いだろ」
「怖がるたまかよ、てめえが」
「全くだよな……好きすぎるんだろうな」
 本当に、全くだ。
 そして、本当に、好きすぎるのだ。
 自分は、鳳の事を。
 宍戸は改めてそう思い知って、隣に肩を並べる跡部を見た。
 跡部がこの上なく苦々しい顔をしているので、そんな事を言った自分を呆れ返っているのだろうと思った宍戸だったが、跡部の目が明らかに何かを直視しているのに気づき、その視線の先を追い、息をのむ。
「………長太郎…」
「…で? てめえをそうやって腑抜けにさせたあいつを、殴るくらいはしていいんだろうな、当然」
「お前…なに馬鹿言ってんだよ」
 冗談だろうと思いつつも、宍戸が頬を引き攣らせたのは、近づいてくる鳳を跡部が見据えたままだったからだ。
「おい、跡部…」
「てめえがベタ惚れらしい顔は避けておいてやる」
「ば、…っ……顔だけじゃねえ……っ…」
 腹部であろうが足であろうが背中であろうが頭であろうが冗談じゃないと、宍戸は跡部の身体に手を伸ばす。
 ひそめた声で言い合いをする跡部と宍戸のすぐ近くまでやってきた鳳は、いきなり、まるで跡部から奪い取るかのように宍戸の肩を掴んで引き寄せてきた。
 強く引張られて足元のよろけた宍戸を、鳳が回りこんで抱きとめる。
 鳳は跡部に背を向けたけれど、宍戸は鳳に抱き締められたまま跡部の顔を見る事になって硬直した。
「俺は宍戸さんの中のどこか一部が好きなんじゃない」
「………長太郎…、」
「宍戸さんが好きなんです」
 呆れ果てた冷たい溜息、それは跡部の唇から放たれて。
「だとよ、宍戸」
「跡部、…」
「ついでに俺様からも教えておいてやる。他の男の名前口にする場所は選べ」
 俺なら相手半殺しだときつい声音で口にして、跡部は宍戸達を追い越し校外に出て行った。
 現に鳳の腕の力は凄まじく強くなっていて、宍戸は困惑の中うろたえて身を捩らせた。
「宍戸さんが嫌がったって、怖がったって、俺はどんどん勝手に、もっとあなたを好きになる」
「長太郎…?……」
「好きすぎるなんて、そんなの俺でしょう。俺だって判ってる、おかしいくらい宍戸さんが好きだって。それでおかしくもなってるって。だからせめて、宍戸さんを壊したりするような事はしないって決めてる。乱暴なことは絶対しないって、決めてた、でも」
「お…い……長太郎…、…」
 闇雲な力と、矢継ぎ早な言葉に振り回されて宍戸も混乱する。
 場所も、行動も、とんでもない気がしてきて狼狽する。
「あんな風に怒鳴るだけ怒鳴って、勝手に出て行ったような俺に、宍戸さんがうんざりしていても、離してなんかやらない」
 顔が見えない。
 でも、そんなに苦しそうな声を出されて、宍戸はじっとしていられなくなった。
「長太郎」
「脅しでも泣き落としでも今なら何でもやりそうで、そういう自分に自分で呆れてますよ。俺だって」
 でもね、と呻き声と一緒に身体が離れる。
 肩は掴まれたままだった。
 やっと合わせる事の出来た目を見て宍戸は眉根を寄せた。
 鳳が辛そうで。
 ひどく辛そうで。
 こんな獰猛な目をした鳳を宍戸は初めて見た。
「好きだ」
「…………長太郎…」
 好きだ。
 鳳が、そうまで懸命になって告げる言葉を、自分こそ本来ならば、彼の倍は言わなければ伝わらない。
 宍戸はそう思った。
 だから。
 はやく。
 ここではもう、泣き出すのを我慢するのに精一杯で、口がきけないから、だからはやくどうにかしてくれと希う。
 宍戸は一言だけ鳳に同じ言葉を返して、今までの比ではない力で抱き締められてから、あとはもう、一刻も早くどこかに閉じこもりたいとだけ、願って目を閉じた。









 歩きなれた道。
 学校から鳳の家まで殆ど話をしなかった。
 鳳の部屋の扉からベッドまでは殆どもつれ込む様になって、倒れこむ。
 制服をもどかしく脱がせあい、唇を合わせて舌を絡ませあう。
 即物的に手のひらに捕らわれても、そのまま性急に口腔に含まれても、構わなかった。
 自分の身体の何が溶け出していくのか判らない感触だけ怖くて、宍戸は鳳の肌にしきりに触れていた。
 粘つくような手つきの自覚はあって、居たたまれない羞恥心にまみれながらも止められなかった。
 鳳の舌に濡れそぼった箇所はどこもひどい熱をもって脈打っているようで、宍戸は朦朧となりながら鳳の身体の上に乗り上げる。
「……宍戸さん…?……」
「ン………」
 鳳の首筋に口付けながら、足を開き、鳳の胴体を間に置いて膝をつく。
 鳳へと指を伸ばすと、苦しげなそれに指先が触れて、宍戸は小さく啼いた。
 宍戸のしようとしている事を、鳳は全部、見上げている。
 そして宍戸は、そんな鳳を全部、見下ろしている。
 身体より先に視線はもう完全に繋がっていて、だからこそ急くように、そこからも早くちゃんと繋がりたくて宍戸は膝立ちになった。
 拓かれるのとは違う。
 受け入れるだけなのとも違う。
 鳳の顔の両脇に手をついて、自ら含み入れていく触感は生々しかった。
 ひっきりなしに小さな声がもれて、唇が震える。
 宍戸はきつく手元のシーツを握り締めながら、身体を沈めていった。
「く…、…ぅ、…、っ…、…ぅ…、ぁ」
「……宍戸さ…、……」
 その間中、髪を撫でられる。
 何度も、啄ばむようなキスをされる。
 片肘で身体を支えて、肩を浮かし、首を伸ばし、窮屈な体勢でも鳳が甘く与え続けてくれるキスを感じながら、奥深くまで、全部。
 宍戸は自分からも鳳に口付けてから、徐々に肘を伸ばし、腕を突っ張った。
 上半身を起こしていくさなかに、更に、もっと、繋がりが深まるのをまざまざ感じ取りながら、宍戸は最後、揺らめくように背を反らせた。
 両腕が身体の脇に落ちる。
 揺れる。
 染み入るような刺激に肩で息をつきながら、宍戸は目を開けた。
 潤む視界に、鳳を探す。
「長…太郎……」
 もつれる舌で、みつけた相手の名前を呼んだ。
 いつもは見上げている顔を今は見下ろして、浅い呼吸を何度も何度も宥めては、一つの言葉を口にし続けた。
「……好き…だ…」
「宍戸さん」
「好き、だ…」
 鳳が息を詰める。
 宍戸の体内にある熱の存在感が膨れ上がる衝撃に震え慄きながら、宍戸は繰り返した。
 好きだ。
 でも、伝えきれない思いの方がやはりまだ強くて苦しい。
「好きだ…、……」
 言葉から零れてしまう気持ちが辛い。
「お前が…、……好きだ……」
 溢れて溢れてどうしようもないのに、鳳に全て流せていないのが怖い。
「長太郎、」
 嫌だ、もう、と首を振って涙を振り零して、宍戸は身体をぎりぎりまで浮かせる。
 のけぞったまま首筋を反らせて一気に身体を落とす。
 嗚咽が伸びて、喉から高い泣き声がか細く響いた。
「…、ッ……宍戸…、さ……」
 身体の深くまで鳳をのんで、大きな手のひらに鷲掴みにされた腰だけで身体を支えられ、宍戸はびくびくと肢体を痙攣させる。
 どうやったら伝えられるのか判らない。
「宍戸さん……、待って、泣かないで…どうしてそんなに泣くの」
「……、っ……ぅ…」
「……宍戸さん……辛い…?」
 お願いですからちょっと待ってと掠れた声に哀願されて宍戸は鳳に視線を合わせた。
 餓えた顔で、愛しいと食い入るように訴えてくる雄弁な眼差し、それが、自分にも欲しかった。
「…、っ…く……」
 無理しないでと鳳は言ったけれど、無理ではないから宍戸は聞かなかった。
 鳳の腹部に手をついて、また身体を浮かせていく。
 信じられない拓かれ方をしている箇所を更に擦られて、両腕が震えて震えて止まらない。
「宍戸さ…、……」
 喉を鳴らし、息を詰める鳳が、片腕で宍戸の腰を支えつつ、もう片方の手では宍戸の動きを食い止めようとする。
「お願い……無茶して、壊したくない…」
 懇願する鳳を、宍戸は泣き濡れた目で睨みつけた。
「……これ…で…も、…足りない」
「宍戸さん」
「壊れても、…無茶でも、…俺が、お前を好きだってことと、…これっぽっちも…釣り合わ…ね…よ…、」
 宍戸の中に在るもの。
 鳳へ差し出してしまいたいもの。
 どうやっても見合わない。
 その気持ちを正しく等しく表せる方法が見つけられない。
 だからずっと不安で、怖かったのだ。
「…長太郎」
 好きだ、と口にして、涙を零す。
 繰り返す。
 好きだ、そう告げて、浅い息を継ぎ、泣いて、感じて、嗚咽と恋情に濡れる。
 もう本当に、どうにかして欲しかった。
 気持ちを自分で表しきれないもどかしさに、宍戸は、それならばもう例え強引にでも構わないから、鳳に命じてしまいたくなる。
 引きずり出して奪えと、止め処もない自分の恋愛感情に慄いて宍戸が自分の胸元に片手を当てて鳳を見つめた時だ。
「………ッァ…ぁ…ア、…っァ」
「……、……っ…宍戸…さん」
「ひ、ッ…、…っ……ぅ…、」
 物凄い力で下から突き上げられて、宍戸は断続的な痙攣と、不規則な声でバラバラにされかけた。
 鳳の腕は宍戸の腰から宍戸の両方の二の腕へと移っていた。
 二の腕を鷲掴みにされて、そこだけを支えにしてきつく体内を抉られる。
 動きのあまりの強さに首から頭が揺さぶられた。
「ん…、っ、く、ぅっ…、ァっ…」
 送り込まれる動きと共にベッドへ押し倒された。
 すでに行き場のない所へ尚も強引に入り込まれたようなあまりの衝撃に宍戸が震えながら吐き出している間も、鳳は動きを止めなかった。
 長い指が、大きな手のひらが、宍戸の泣き濡れた頬や目元を撫でまわす。
 壊れたようになったのは、身体ではなく感覚だ。
 触れられた顔の皮膚でも感じ入って、宍戸は半ば意識を飛ばしながら、鳳の手のひらに口付けて、舌でそこを舐める。
 鳳も宍戸と同じ感覚を覚えたようで、宍戸の中で強張りが液体とも固体ともつかない熱を吐き出してきた。
「…、…っ…ふ、…っぅ…、…く」
「好きだ、」
「…ッ……ぁ……、ぁ…、長太郎……」
「好き…なんです……宍戸さん。本当に、俺はどうにかなりそうで…」
 鳳は言った。
 宍戸の名前も、好きだという言葉も、何度も口にした。
 鳳の腰を、広げた両足に挟み込んで、まるで鳳の執着のように吐き出されてくるものを受け入れながら、宍戸は頷く。
 同じ回数。
 好きだと告げられた回数。
「……長…太郎…」
「ん、……宍戸さん…」
 もつれた舌を吸われる。
 唇をひらく。
 深くなる。
 強くなる。
「こんなことして…」
 宍戸さんに嫌になられたら俺はどうしたらいいんですかと、当の宍戸に向かって恨み言を言う鳳の頭を宍戸は震えの止まない両腕で抱き込んだ。
「………のが…いい」
「…宍戸さん?」
 ほんの少しも、宍戸に乱暴などしたくないのだと思っている鳳を知っているけれど。
 宍戸は両腕で、鳳に取り縋る。
 懇願するように力を込める。
「たまにでいい……こうされないと、…どうにか…なる、から…」
 自分自身で表しきれないのだ。
 鳳を、好きすぎる気持ちを伝える術に迷うのだ。
 それならば、どれだけの無茶をされてもそれが嬉しいのだという身体と態度で判られたい。
 宍戸の望みを聞いて、鳳は困ったような吐息を零したけれど。
「そんな、つけ上がらせないで下さい」
「……なんで?」
「俺、宍戸さんが好きすぎて、普通じゃないでしょう。どう見たって普段から」
 それなのにまだ許されたら本当に何するか判らないと告げてくる鳳の胸元におさまって、宍戸は呟いた。
「だから普通じゃないくらい好きなのはこっちなんだっての」
「宍戸さん?」
 こうしてゆるく抱き込んでくれる腕も心地いい。
 でも、欲しいだけ全部貪られる事も望んでいる。
「長太郎」
「はい…?」
「もう一回」
「だから………ねえ、宍戸さん。俺の話聞いてますか?」
 情けない声を出す鳳に宍戸は笑みで返して、聞いてる、と言いながらキスをした。









 喧嘩をしても、冷戦状態を経て、仲直りをしても。
 好きだとうんざりする程に、告げあったとしても。
 まだ完全に、恋愛感情にただ甘く浸りきれないこの気持ちを、ゆるく和んだものにするには、長い長い時間がかかるらしかった。
 少し落ち着くだけのことに長い長い時間が必要らしかった。


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