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How did you feel at your first kiss?
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 大切なものは両手で扱うだろうと笑って、乾は海堂の身体に触れる時は必ず両手を差し伸べてくる。
 海堂の両肩を大きな手に包み、背の高い男なので、抱きしめるにしろキスをするにしろ乾は身体を大きく屈めるようにして海堂に近づいてくる。
「………………」
 乾がやってくるまでの僅かであり曖昧なその時間が、海堂にとって苦しいのは、こうしていることが恥ずかしかったり怖かったり不安になったりするからで、でも乾の唇を自分の同じ箇所で受けとれば、その瞬間に海堂の困惑は全て落ち着く。
 海堂の中で行き場のなかったものが、正しく心地よい場所に、すっとおさまる清涼感は、乾のキスから始まっていく。
 初めてキスをした時、言葉が追いつかなくて、いつの間にか触れ合わせていた唇は。
 今ではそれ一つで、乾のことも海堂のことも甘く卑猥なものの塊にしてしまう。




 海堂は、全てを相手に任せてされるキスというものを覚えてしまった。
 丁寧に重なって、塞がれて。
 長くそうされるのも、軽く短く繰り返されるのも。
 乾が海堂の良いようにと、誂えてくれているかのように気持よかった。
 二人きりになった時には、キスしないではいられなくなってしまった。
 自分達の間に漂う煮詰まった甘さが、もう流せないほどになっている。
 乾は言葉を惜しまなかったから、何故抱きしめたいのか、キスしたいのか、海堂を抱きたいのか、教えてくれて。
 感情を表す言葉を持っている乾が海堂には羨ましかった。
 海堂にはいつも飢餓感じみたものがあるだけで、乾へと、どういう言葉でそれを向けていいのか判らなかった。




 判らないのが自分だけかと思うと悔しい。
 だから海堂は、理屈でなく、乾の方から余裕のなくなってくるこういうキスが好きだった。




 乾の両手が海堂の頬や背中や腰を抱きこみ、どんどんむさぼられるように深まるキスに海堂の足元が覚束なくなっていく。
 乾の部屋に入るなりはじめたキスは、今ではもう聞いたこともないような濡れた音をたてている。
 合わせた唇の狭間から、あふれてくる音や液体が、まず思考を切り崩して、どろどろになって、意識から先に、二人が交ざるための準備を始めていく。
「………ふ……、…ぁ」
 密着しきっていた粘膜が息継ぎのために急いて離れ、肩で息をしながら互いの舌と舌の先が触れる。
 ただそこだけ、微かな接触をもった箇所から、痺れるように沁みてくるものに海堂の喉が震えて、そうなって初めて乾は深く首を傾けて噛み合わせをずらし、海堂の口腔を直に探ってきた。
「舌の先って、甘みを感じる場所だって知ってる?」
 あんまり近くで囁かれて、乾の声は海堂の頭の中を攪拌するように響いた。
 返事が出来ない。
「ここのあたりで苦味を感じて………」
「…………、……ん……」
「ここが酸味を感じる所」
「……ぅ………」
 最初に舌の根元を。
 次に舌の脇を。
 乾の舌先に辿られて、海堂は乾の両手に肩を抱かれたまま、その腕の中でがくりと足場を崩した。
「………ぅ…………」
 それでも支えられている。
 二本の腕に、しっかりと。
「……座ろうか」
「……………………」
 乾の胸元に押し当てられるようにしながら、海堂は乾の部屋のベッドに座らされた。
 横に並ぶ乾に半ばもたれかかるようになっている海堂の髪を乾は繰り返し撫でながら小さなキスをこめかみに埋めてくる。
「ねえ海堂……」
「……………………」
「…今日さ」
 耳元に吹き込むように、低い乾の声がする。
 海堂は細い喉声を上げてかたく目を閉ざした。
 声を聞かされるだけで駄目になるのが判って怖い。
「………、てみようか」
「…………な…?」
 頭は乾の言った言葉を理解しようとする。 しかし身体はついていかなくて、海堂は痺れたように身動きがとれなくなってひどく息苦しくなった。
 返事はなくてもよかったのか、乾の指先が制服の上から海堂の足の狭間を撫でる。
 そこの熱っぽさが自分自身でもいやというほど判った海堂は、次に乾の手のひらにそこを掴み込まれて、ゆっくり加わってくる甘ったるい力にうつむいて歯を食いしばった。
「…………っ…く…」
 宥めて労わるように乾の手は動くのに、海堂の身体は熱を帯びて変化していく。
 海堂が声をかみきれなくなってくると、ますます容赦がなくなった。
「さて……外すよ」
「…………意味わかん…ね……、…」
「いつもこれしたままだって、気づいてなかったか?」
 笑って、乾は彼がいつもしている鉛入りのリストバンドを外し、放り投げた。
 リストバンドはカーペットの床に落ちて、鈍い音が響く。
 ひどく重みのあるものが落ちた音だ。
 無意識に海堂の身体が震えた。
「逃げないの」
「……、……っ……」
「海堂」
「ャ………、…ッ………め………」
「早く…動くだけだろ…?」
「……ぅ……、…」
「痛くない」
「っん……、ん…ー…、……っ…ゃっぁ」
 痛くて怖い訳じゃないのだ。
 ひっきりなしで止め処もなくて、触れられて、動かされて、濃厚なものをいつもと違ってあっさりとあちこちから引き出されるのが怖いのだ。
「……、…先輩…、……っ…」
「俺こういうときに我慢しろなんてこと教えてないよね。海堂」
 海堂のしていることを咎めるように、乾は抑揚のない声を出す。
 乾の指が締め付けるように海堂に絡んできて、海堂の踵が震えながら床を蹴った。
「………ほら、また我慢してる」
「…っゃ…」
「………海堂……」
「そこ……で…喋………、な……っ」
「…ん? 声もいい?」
 リストバンドを外した乾の手が複雑に淫らにひっきりなしに動いて。
 耳を舐められながら囁かれて。
 海堂は自分で濡れていく、形を変えていく、そういう自分が乾の目にどう映っているのかだけが不安だった。
「海堂…」
「も……、…ヤ……っ…離……、っ」
「……零さないから。このまま大丈夫だよ」
 からかうのではなく笑う声が耳に届いて、無意識に乾の胸元に顔を伏せて息を詰めた海堂を、長い腕が強く抱き込んでくる。
「………ッ…ァ、っ…………く…」
 全てを相手に任せてされるキスだけでなく、最後は相手にきつく抱きしめられながらいきつく事を覚えてしまった海堂は、小さな終わりを迎えて声を詰まらせた。
「…、っ…ぅ」
 安堵と虚脱感でぐったりと乾の腕の中に落ちる。
 乾が軽く身じろいでいるのが伝わってくる。
 何をしているのかは必至で考えないようにしている海堂は、乾に名前を呼ばれて気だるく顔を上げた。
「…………………」
 自分のことは見られたくはないけれど、相手のことは見たいという、矛盾を抱えての海堂の眼差しは、普段の数倍やわらかかった。
 あやされるように、乾に抱き取られたまま背中を擦られるのも、相当恥ずかしいのに止めてほしくはないという矛盾も呼ぶ。
「次から、外してしような」
「………嫌だ」
「どうして?」
「……………見てりゃ判ったろ……っ…!」
 関節や筋肉を傷めない範囲で負荷をかけているリストバンドを、乾は入浴の時以外外さない。
 それが当たり前のことだったはずなのに、何でよりにもよってこんな事の最中に、乾が外してしようなんて思い立ったのかと。
 海堂の目つきはだんだんきつくなる。
 あるとないとで何が違うか、判ってしまっただけに余計だ。
「じゃ、…時々でいいから」
「返事しろってんですか」
 な?と甘えるように請えば、それが通る確立が高い事を承知で乾は言っている。
 そう思っていた海堂だったが、実はどうも乾は、本質的に甘えたがりなところがある。
 確立を計算してのことではなくて、これが地なのかもしれない。
「海堂。時々ならいいだろ?」
「……………………」
「うーん……判ったよ。じゃあ海堂が嫌なときは死ぬ気で抵抗して、されてもいいかって時は許してくれ……これでどう?」
 妥協してくれよと軽くキスされた。
「…………俺が…」
「うん?」
「その代わり。俺が」
 ちらりと乾を見やって、海堂は低く交換条件をつきつける。
「…………錘のプレートの数、倍にしろって言った日は……あんた、倍嵌めろよな」
「………そうくるか海堂」
「嫌ならいい」
「嫌じゃない。了解。取引成立」
 契約印みたいなキスをされて。
 海堂は抱きしめられながら、乾のベッドに押し倒された。
 乾の機嫌が良いのが判るから、海堂は少しばかり癪で、溜息と一緒に呟いた。
「………腰用のウエイトとかねえのかよ…」
「開発してもいいけど、そんなものがあったらウエイト外してした日には、海堂、泣いて物凄い事になるんじゃないの」
「…………ッ……、……!…」
 乾の忍び笑いは海堂の唇で。
 海堂の怒声は乾の唇で。




 溶けた。




 意図的に、手足に嵌めた重い錘が、その継続で飛躍的な力をくれた。
 無意識で、意識に絡めた思う心が、その継続で特別な人をつかまえた。


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 飲んだ水が体内に行き渡るまで約一時間かかる。
 一口に見合う一つの認識が、体内に行き渡ってそれを確定するのだって、一時間あれば充分だ。
 そう言った乾の言葉は、ひどくまともな事を言っているようにも聞こえるのだが。
 一時間でこんなこと決めたのか。
 一時間で認めてしまったのか。
 乾は。
 そう思うと、海堂はひどく焦った。
「あんた、もう少しちゃんと、よく、考え…」
 焦って、そして海堂は、必死だった。
 懸命に言い募る。
 言葉のうまくない自分がもどかしい事この上なかった。
 普段ならば感情が暴走しがちなのは寧ろ海堂の方で、それにうまく対処してくるのが乾の筈なのに。
 何故今は、こんなことになっているのかと思えば、海堂の顔も一層強張っていく。
 そもそも、この体勢だ。
「乾、先輩…」
 こんなに力の強い人だったのだろうか。 
 海堂は愕然と、しかし、もう認めるしかない。
 自分の両手首が部室の壁に押さえつけられていて、それが全く振り解けないでいる事。
 海堂を押さえつけてきているのは乾だ。
 乾の形に影が落ち、海堂の視界を覆っている。
 海堂が、最初にまともに取り合おうとしなかったのが、いけなかったようだ。
 こうでもしないと、本気だって判ってくれないのかな、と乾が言って浮かべた薄い笑みは、海堂に冷たさではなく、熱を感じさせた。
 痛い熱だ。
 乾に握りとられている手首も、近すぎる距離も。
 海堂は歯噛みした。
 だってまさか乾がそれを。
 言うとはまるで思いもしなかったのだ。
「どうして今決めちゃいけないんだ」
「……っ……、…」
「こいつだって。お前だって。どうして思っちゃいけない」
 乾の声は決して大きくない。
 訥々とした物言いは、普段の乾そのままだ。
 彼がふざけている訳ではない事くらい、海堂は判っていた。
 人馴れ出来ず、人付き合いの不得手な海堂の、唯一といっていいほどの近しい相手が乾なのだ。
 海堂にとって、乾でしか有り得ない、成り得ない事が、いったいどれだけたくさんあると思っているのかと、歯噛みするように海堂は乾を睨み上げた。
 海堂がどれだけ睨んだところで、乾は決して視線を外さなかった。
 それどころか、尚一層近づいてきて。
「……、………」
 海堂の唇を、唇で塞いだ。
 壁に海堂を縫いとめたまま、首を傾け、口付けてきた。
 重なるだけの唇。
 海堂は乾を睨みつけていた目を開けたまま潤ませる。
 泣いてしまうかもしれないと思った。
「…っ………、ぅ……」
「海堂…ごめんな」
 低い声は、決してキスを詫びた訳でも、この拘束を詫びた訳でもない。
 乾は多分全部判っている。
「お前は、一生言わないつもりだったのかもしれないけど」
「………、…」
「俺は、駄目で、ごめんな」
 お前が好きだと乾が言うので、とうとう海堂はしゃくりあげた。
 やはり乾は判っている。
 だから泣いてしまっていいのだと言われたようで、海堂は嗚咽した。
 好きだ、なんて。
 そんなのは、海堂は、もうずっと、ずっと、ずっと。
「海堂」
「…………っ…く…」
 でも絶対に、それを告げることはないと思っていた。
 気づかれる事もないと思っていた。
 少なくとも海堂は、自分からそんな秋波が送られる事なんて有り得ないと思っていたし、好きで好きでどうしようもなくなった相手に、だからといってどうしたいという明確な展望もないまま、それでいいと思っていた。
 それなのに、どうして乾は。
「……、…っ、バカ…だろ、…あんた」
「海堂」
「俺、…っじゃ…あるまいし、」
 なんで、と声を荒げて、海堂は乾に手をとられたまま泣いた。
 乾はそれを全部見ていて、笑いもせず、弱りもせず、淡々と言った。
「お前が決めてるのはよくて、俺が決めるのは駄目なのか」
「ちゃんと考えろよ、…っ…」
 もっとちゃんと、と海堂は涙声を振り絞った。
 そんな一時間やそこらで、自分を好きだなんて決めて、言ったりするなよと続ければ、乾はあからさまに不機嫌な顔をした。
「お前、まるで俺の気の迷いとでも言いたげだな…?」
 それだ。
 確かに、海堂が言いたい事はそれだ。
 涙が絡んで重たくなった睫毛を海堂がしばたかせると、溜息と一緒に乾の唇が海堂の睫毛の先に触れてきた。
「一年以上も続くのか。気の迷いってやつは」
「…、…ぇ……?」
「一時間もあれば理解した。自分がお前にどういう感情を持ってるのか。一番最初に会った時にな」
「………………」
 いきなり乾がとんでもないことを言い出したせいで、海堂の涙はぴたりと止まってしまった。
 壁に両手首を押し付けられたまま、海堂は唖然と乾を見上げる。
 いったい。
 何を言い出したのか、この人は、と瞳を見開くと。
 海堂の視線を受け止めて、乾が唇の端を微かに緩めた。
「一目惚れなんだが?」
「な……、…」
「何だ。知らなかったのか」
 バカはどっちだと乾が笑う。
 気負いのない話し方。
 見慣れた自然な笑い顔に、力が抜ける。
「……っと…」
「………………」
 思わず座り込んでしまいかけたのを、今度は手首ではなく腰を支えられて食い止められた。
 海堂は乾の両手に支えられたまま、困惑も露に呟くのが精一杯だった。
「今決めた…っつった…」
「ああ、告白をね」
 呆然とした海堂の呟きに、乾は柔らかな笑みで即答してくる。
「いい加減、海堂に、俺を諦めてるみたいな顔されんのきつかったから」
「……、…ッ…」
 見破られているというより、見透かされている。
 乾は笑って言うけれど、でも、ほんの少し寂しそうな気配もして、海堂はらしくもない自身の弱気を今少しだけ後悔した。
 でもまさか乾が自分の事でそんな顔をするとは思っても見なかったのだ。
「初めてが無理矢理っぽくなったのは悪かった」
 唇を乾の親指の腹に辛く擦られ、じわりと熱を帯びた自身を自覚しつつ、海堂は無言で手を伸ばした。
 乾の制服のシャツを、胸元で、握りこむ。
「海堂」
 ぽんぽんと背中を軽く叩かれながら抱き締められて、海堂はふと、乾の言葉を思い出す。
 飲んだ水が体内に行き渡るまで約一時間かかる。
 だとすれば、乾にされたキスも、今少しずつ海堂の体内を巡っているのだ、きっと。
 行き渡るまでには、多分約一時間。
 二人でしたキスだから、行き渡る瞬間も同時に違いない。
 海堂だけでなく、乾にも広がるはずだ。
「………………」
 それならせめてそれまでには。
 海堂も、言葉にしておきたいと、願う。
 その時間までに、長く想っていた感情に見合う言葉が見つけられるかどうかが正直海堂には不安でもあったが。
「海堂」
 少し強引で、とても穏やかな、言葉と所作とで乾がこうしていてくれているから。
 海堂は乾の胸元のシャツを握り締め、そこに額を押し当てながら、目を閉じる。
 さがす。
「そうやって、言葉を探している時のお前が、俺はすごく可愛いんだよな…」
「…………るせ」
 そうしてやはり乾には。
 見破られているというより、見透かされているのだ。
 甘い声音は独り言だったようだ。
 海堂は手紙を出した。
 手紙と言ってもそれは一枚のポストカードで、綴った文面も極めて端的なものだ。
 最初、それは長いこと。
 海堂はポストカードの紙の白さを見つめていた。
 用件は決まっているのに何も文字が書けなかったのだ。
 言葉が思い浮かばない。
 見つめすぎた紙の白さにしまいには眩暈がしそうで、海堂は一度その手紙の事を諦めかけた。
 しかし性分というべきか、きっぱり諦めるのはどうにも癪でいた折、たまたま立ち寄った近所の文具店で、黒いポストカードを目にした。
 そして白い色鉛筆、衝動的に買ったそれらで。
 あれほど滞っていた手は楽に動いた。
 日にちと、時間と、そしてその日のその時間に海堂が行くつもりでいる店の名前。
 最寄りの駅。
 走り書きの地図。
 それらを海堂は几帳面に書き綴った。
 結局文章らしきものは何も書けなかったが、それで構わない気がしていた。
 カードを返し、表書きには、彼の住所と、名前の、宛名を。
 自分の名前は書かなかった。
 多分彼は判るだろうから。
 切手も買った。
 真っ直ぐに、左隅に、蝶の絵の青い切手を貼った。
 そうして数日かけた簡素な手紙は、通学途中のポストに投函した。
 ポストへと落とした時には、かさりと小さな音がした。
 散った落ち葉を踏みしめたような音がした。
 今の季節が生んだ音を奏でて、そうして海堂は乾への手紙を出したのだった。








 三年生は、夏を経て部を引退した。
 彼らの姿を部内で見なくなって一月が過ぎた。
 最後の夏。
 海堂は自主トレでも乾といることが多かった。
 そして今も時々、自主トレを一緒にする事がある。
 これまでに、海堂が乾から教わった事は無数だ。
 部内では会わなくなったけれど、時々は一緒に走りこんだり、打ち合ったりしている。
 これから教わっていく事も多いのだろう。
 ただどこか予感めいたものではあったが、海堂はそう思っている。
 乾がこれまでに海堂にくれた淡々とした助けと、真摯な忠告と。
 見抜かれすぎてしまう事に躊躇はあるけれど、理解されている安心感に躊躇いはない。
 乾の緻密な計画や思考は、しかし決して海堂を管理する事はなかった。
 支配もしなかった。
 乾はただ、やるべきことをやり、抑えるべきところを抑えたら、あとは海堂の好きにしていいと、圧倒的な寛容さで抱擁してきたのだ。
 そして、それならば自分には何が出来るのだろうかと海堂は考える。
 乾が自分にしてくれた事の、そのうちのどれだけかでも。
 自分は返せるのだろうかと考える。
 いざ乾との一番深かった接点がなくなってから後、海堂は、そのことを考え続けていた。
 そして決めた事は、ただ予感で、ただ自分が漠然と、思っているだけではなくて。
 これからのこと。
 自分が乾に伝えたいこと。
 返したいこと。
 望んでいることを。
 示す心づもりを表したかった。
 海堂が、そんな風に思った事はこれまで一度もなかったのだ。
 誰かに自分の事を伝えようとした事がなかった。
 人は人で、自分は自分で、その考えは変わらないけれど。
 察しのいい理知的な相手に、甘えきって頼りきって、何もしないでいていい筈がない。
 今が全てで、今ばかりを見てしまう海堂に、今の後、その先行きの見方を、教えてくれたのは乾だ。
 乾が見ているものを、以前の自分であったら見ることは叶わなかった。
 共に練習して、意思を伝え交わして、ダブルスを組んだから、出来るようになった事だ。
 乾は海堂に未来の見方を教えてくれた。
 だから海堂は乾にそのことを伝えたい。














 

 河川敷、さらさらと。
 草が風に棚引く音はしても川の水は音もたてずに流れて静かだ。
 繰り返し繰り返し、水面に浸した手拭を振った河原と、この川は繋がっている。
 川と、草と、石と。
 他に何もない河原に、無造作に位置する佇まい。
 小屋だ。
 そしてガーデンファニチャー、日差しよけのパラソル。
 くすんだ白い外壁、水の匂い。
 パイプとウッドのガーデンチェアーに座って、何の変哲もないただひたすらにのどかな川の水面を海堂が見ていた。
 バンダナを外した。
 風が髪の合間を通っていく。
 軽く頭を揺すった海堂は視界の端に待ち人を見つけた。
 背の高い、男。
「海堂」
「………っす」
「よかった。居て」
 まず、そう言って乾は現れた。
 乾は私服だった。
 ジーンズから出したままの生成りのシャツの裾が川からの風にはためいていた。
 海堂も学校から一度帰宅して、着替えてランニングをしてくるだけの時間の余裕があった。
 乾の状況が判らなかったのだが、この分だと急がせた事にはならなくて済んだらしい。
 海堂は密やかにほっとした。
 乾は海堂の隣に座った。
 川が見られるように、椅子の向きはどれも同一方向なのだ。
 長い脚を持て余しがちに広げて僅かに前屈む。
 海堂を覗き込むように乾は見てきた。
「手紙な」
「………………」
「これ、字は間違いなく海堂なんだ。それは勿論判ったんだが、またどうして手紙?」
 海堂の手紙を持った手を軽く顔の前に翳し、問いかける乾はどことなく楽しそうだ。
 そして嬉しそうだ。
 海堂は低い声で言った。
「あんた、メールの返事早すぎんだよ」
「早いとまずいか?」
「余計に忙しくさせてんじゃないかって気が気じゃない」
「忙しい時は、普通返事出来ないものじゃないかな」
「忙しくて返事をするから言ってる」
 だから手紙にしたと海堂は言った。
 現に乾は、それほどまめでない海堂が稀に出したメールへのレスポンスが異様に早いのだ。
 だいたい乾という男が、暇を持て余しているという姿を海堂は見たことがない。
 それなのに、海堂が一言何かを言えばたちどころに懸かりきりになるから悪いのだ。
 手紙ならばいつ乾の元へ届いたのか時間で表す事が出来ないからそうした。
 用件をかかなかったのはわざとだ。
 文字で伝えられるのならそれこそメール一通で済む話だからだ。
「いいところだな……」
「………………」
 そして海堂にとって乾との会話が、深呼吸をするように楽な訳は、こういう所にある。
 物事を追求するのが好きなくせに、こと海堂相手だと、乾はこんな風に海堂を逃してくれるからだ。
 眼差しを一度川の向こう岸に向けてから。
 ゆっくりと乾の視線は海堂へと戻ってくる。
「一人で来るのか?」
 海堂は黙ったまま頷いた。
 誰かと来た事はない。
 ランニングのさなか偶然見つけた場所なのだ。 
 海堂は現れた店主に料理を数品オーダーした。
 乾は何の変哲もない水面をぼんやり見ている。
 退屈とは違う、寛ぐ和らいだ気配がした。 
「静かなところで、ちゃんと、メシ食って」
「…ん?」
「それで、その間くらいは」
 海堂も川の水を見据えながら呟く。
「あれこれいろいろと考えまくったりしないで、ぼーっとしてたっていいと思うんですけど」
「………………」
「ちょっとくらい、そういう時間があってもいいんじゃねえの…」
 はっきりと言葉にはし辛い。
 うまく説明は出来ない。
 ただ何となく、最近乾の様子が大分疲れているように海堂には思えていた。
 それで自分に何が出来るのか、相変わらず判らないままだけれど。
「海堂には俺が、ちょっといっぱいいっぱいに見える?」
 乾がそんな風に聞いてきたので、海堂は頷いて返した。
乾が声もなく笑みを零す。
「そっか……参ったな……」
 何故そこで乾が笑うのか海堂には判らないが、そこで運ばれてきた料理に、食べようかと乾が言ってきたので頷いた。
 トマトクリームのフェトチーネの皿と、オリーブの器。
「これオリーブか…?」
 ふっくらとつややかで、透ける翡翠の色をしたオリーブは、見目からして自分の知るオリーブとはもう明らかに違うと乾が言い、口にしてその驚愕が更に膨れ上がったらしい表情を目にした海堂も微かに笑った。
「何だこれ……うまいな、これがオリーブなら、俺が今まで食ってたのはいったい何だったんだ」
「………………」
 最初に食べた時に海堂が思ったままの言葉を乾も口にした。
「……うわ、こっちもうまい。噛むとちゃんと小麦粉の味がする」
 乾の言葉を聞きながら、海堂も同じ物を口に入れた。
 奥歯で噛み締めると歯ごたえのあるフェトチーネの、小麦粉の香りが舌にとけこんでくる。
 川の水の気配を身近に感じながら、無数の静かな音のする空間で同じ皿からパスタとオリーブを食べた。
 何を話すでもなく過ごしているのに、食べてる途中で乾が海堂を流し見て唇の端を引き上げてきた。
「……参ったな。浮かれて、ちょっと俺まずいわ」
「………………」
 どういう意味か海堂にはよく判らないのだけれど。
 乾が寛いで笑うので、それはそれでいいのだと海堂は思った。
 異変というほど大袈裟なものではなかったが、乾が普段よりも疲れているようだったのが、まるで海堂の杞憂になるように変わっていくので。
「乾先輩」
「ん…?」
「ここの店、来月いっぱいで営業一時終了して、半年休みになるんですけど…」
「ああ……立地条件の関係かな? ということは四月から十一月までの既刊限定営業なんだ」
 海堂は頷いた。
 息を吸い込む。
 必要な言葉に、必要な量だけ。
 背を伸ばした。
 そしてまっすぐ乾を見据えた。
「いろいろ、ありがとうございました。乾先輩。俺はあんたに感謝してる」
 頭を下げる。
「お…?……おいおい…海堂…?」
「続きがあるんで黙ってて下さい」
 そして海堂は頭を上げた。
 何故かひどく慌てている乾に怪訝に目を瞠りつつ、海堂は続きも口にする。
「ありがとうございました。今後もよろしくお願いします」
 真摯に告げて、深く頭を下げた後、再度顔を上げた海堂は、これまで見た事のない乾を目の当たりにした。
「おまえ、……おまえな…ぁ……焦らせるなよ!」
「何であんたが焦るんですか」
 乾の結構な剣幕に眉根を寄せる。
 海堂にしてみれば最大級に誠意を尽くして乾に感謝を告げたというのに、逆に声を荒げられたのだから堪らない。
 しかし乾が引き攣ったような真顔で叫んだ言葉が。
「三行半かと思うだろ!」
 これだったもので。
「………………」
 呆気にとられた後、海堂は吹き出した。
 俯いて肩を震わせる。
 三行半って。
 いったいどこをどう酌んだらそんな話になるのだ。
 だいたいこうも慌てた乾など海堂は初めて見た。
「………海堂。笑いすぎだ」
「………、……」
 呻くような乾の声にますます笑いが噛み殺せなくなった海堂は、こんな風に笑っている自分を不思議に思いながら、乾を見つめた。
「来年の四月は奢って下さい」
「海堂?」
「今日は俺が払います」
 だから来年は、と繰り返した海堂に。
 乾が驚きを隠せないでいる表情を浮かべる訳は、海堂にも判っていた。
 今でないこと、遠い先の他愛もない約束を、海堂がまるでねだる様に乾に告げた事は、今この瞬間が初めてなのだ。
 誰かと、いつかまだ判らない日のことを、約束する。
 海堂は今初めてそれをした。
「構わないっすか」
「よろしくお願いします」
 それこそ信じられないほど生真面目に乾が深々と頭を下げるのがおかしかった。
「今度は俺が手紙を出すか」
「……別にメールでいいっす」
「手紙、嬉しかった」
「………………」
「嬉しかったよ、手紙自体もらうのが久々だし、まして海堂からだから余計にな。受験のお守りにしようかと」
「……そういう効果あるわけねえって…」
「じゃあ宝物にしよう」
 宝物にするよと臆面もなく言い切った乾の笑顔に、気恥ずかしさと共に海堂は思う。
 来春、自分の手元に届くであろう宝物。
 気持ちは言葉に含ませる事が出来る。
 そんな言葉を運ぶ手段は幾つもある。
 でも、今の自分達と、半年後の自分達の気持ちに一番見合うのは、きっと、直接的な睦言を並べなくても。
 恋文となり、艶書となる、思いの丈の羅列だ。
 シャワーだけで大丈夫かなと、乾は海堂に問うでもなくひとりごちている。海堂はといえば、何故か乾も一緒に浴室に入ってきているので、ひどく困惑していた。
「あの、…乾先輩」
 しかし海堂の戸惑いなど物ともしない乾の手によって、海堂の雨に濡れそぼった衣類は次々と剥がれていく。
「ちょ…、…っ……」
「シャワーしかない時に身体を効率よく温めるにはな、海堂」
 乾が、自らの手で全裸にさせた海堂の両肩にタオルをふわりと被せた。
 その上からシャワーを宛がってくる。じんわりと、深い温かさが肌に滲みた。
 確かに、直接シャワーだけ浴びるのとでは格段の違いだ。
 海堂が、目を見張ったのに気づいた乾が、甲斐甲斐しく海堂の冷えた身体にシャワーの温流を注ぎながら微苦笑と共に囁いてきた。
「ひょっとして、また猫に傘貸した…?」
「……違う」
 あからさまに意外そうな顔をする乾を見上げ、海堂は憮然と言った。
「傘は飛んでいった」
 ここに。
 乾の家に、向かう途中。
 傘は突風で一瞬のうちに、ホオズキのような形になって空へ飛んでいった。
 秋雨前線が猛威を振るい、朝からの大雨だったにも関わらず、手のつけようもない程にびしょ濡れになって乾の元を海堂が訪ねることになった経緯はそんな訳だ。
 そして、海堂の物言いのいったい何がおかしかったのか、小刻みに肩を震わせて乾は笑い出している。
 笑いながらも優しい手のひらは絶えず海堂を冷やさぬよう気遣っていた。
 シャワーの湯だけに限らない。
 丁寧な所作の乾の手に、海堂は身体をゆっくり温められていく。
 身体は温まる。寒さを、ふと海堂が覚えた箇所は、もうひとつだけ。
 そこにもすぐ、乾はやってきた。
 唇に、飢えた様なキスが被さって。
 これでもう、海堂は全身くまなく乾によって温められたのだった。
 乾が欲しくなったのを海堂は聡く察したようだった。
 異変は乾が、それまで深く拓いていた海堂の身体から、引き抜いていくさなかに感じ取られてしまったらしく、海堂の目元が赤くなって、乾は苦笑交じりに唇をそこに近づける。
 そうしながら全て身体を退けて、海堂の隣に乾も身体を横たえる。
 気づかなくていいよと事実を封印するように乾は海堂に唇を寄せたのだが、余韻というには未だ生々しい甘い倦怠感と深い疲労感を纏わせて海堂のしなやかな身体が乾の身体に乗ってきた。
 名残も、新たな兆しも。
 重なりあってしまう。
「………どうするの」
 それから?と乾の苦笑は深まった。
 正直なところ乾はかなり驚いてもいて、何だか小声になってしまった問いかけで尋ねれば、顎を引いて俯いてしまった海堂の表情は見えなくなってしまう。
「海堂」
 さらさらと、指の合間から零れる黒髪を、何度も何度も乾はすきあげた。
 指先に感じる甘さに無心でそれを繰り返していると、海堂の視線が乾の元へゆっくりと戻ってきた。
「海堂、…?…」
「………………」
 海堂の指先が丁寧に乾の頬に宛がわれ、ふわりと重なるキスで唇を掠られて乾は目を瞠る。
 先程まで、あらゆる体液で濡れそぼっていたような海堂の唇が乾に伝えてくるのは清潔で温かな体温だった。
 ただ重ねられているだけで甘い優しい感情がひたひたと身のうちを埋めてくるような気がする。
 乾が目を閉じると海堂はもう少し深く擦り寄るようにして角度を変えてきた。
 こすれあった頬が微かな熱を帯びている。
 唇の入口の浅いところにいる海堂の舌は、とけそうに柔らかな印象で。
 なのに乾の舌と絡ませ合うと濡れた強い弾力が伝わってくる。
 海堂が放つ熱はひどく熱いが決して相手を傷ませない。
「どうするの……」
 乾が口にした言葉は、今度は意味が全く違う。
 先程は海堂に動向を尋ねた。
 今度は海堂を少しだけ甘くなじった。
 もう散々にのみこませて、おぼれさせて、したたらせた。
 海堂は先程から声も出せないままでいる。
 体温も、嬌声も、体感も、すべてこのベッドの上で狂わせた。
 今はもう乾の身体の上に乗り上げるのが精一杯の様子で、それにも関わらずキスを繰り返して乾を唆す清廉な卑猥さに乾はつけこむ。


 乾のそんな声を聞き、海堂の瞳はひどく幸せそうに濡れてきらめいてから閉ざされた。
 脳の中に新しい回路を作ろうかと乾は言った。
 海堂の頭部を大きな手のひらに包んで、じっと見つめてくる。
 いつもは無機質に感じる目の色が濃くて強い。
 何を言われているのかよく判らなかった。
「………………」
 だから海堂は乾がそうしてくるのと同様に、じっとその眼差しを見返した。
 唇が塞がれる。
 いきなり、でも、軽く。
「………………」
 海堂の後頭部には乾の手のひらが宛がわれたままだ。
 空いている方の手、乾の左手が海堂のシャツの釦にかかる。
 海堂は小さく息を詰めた。
「こういう風に、釦を外したりとかさ……」
「………………」
「普段は利き手で当然やるような事を、いつもとは逆の手でやるんだよ」
 現に乾の手はぎこちなかった。
 釦がなかなか外れない。
 そのたどたどしさが奇妙に気恥ずかしく、海堂は目を伏せた。
 睫毛が視界に影を落とす。
 海堂は黙って自分の胸元で滞っている乾の左手を見つめた。
「うまく出来ないって事は、脳にとっては新しい刺激なんだ」
「……乾先輩」
「相当じれったいけどな」
 苦笑いして、乾は海堂の唇に丁寧にキスを落とした。
 海堂は俯いていたはずなのに、回りこむようしにして、あくまでも唇に、しっかりと。
「少しずつ、少しずつ、でも頻繁に」
「………………」
「こうやって刺激を与えてやると、脳の中に新しい回路が出来上がっていくんだ」
 釦がひとつ、やっと外れた。
 乾の指先は次の釦にかかり、二つ目からはもう少しスムーズになった。
 三つ目。そして四つ目。
「………………」
 長い時間をかけて、釦は全て外された。
 海堂の肩からシャツも外される。
 露にされた肩先にもキスをしてきた乾の頭を、海堂は左手で触れた。
 何か、胸が甘く詰まるような感触がする。
 どう、触れればいいのか見失う。
 手のひらに甘い体温が籠もった。
 よく知っている筈の乾から、初めての感触がする。
「海堂」
 乾の左手に髪をすかれる。
 だから乾の背中を海堂も左手で抱き返した。
 こんなにも近くにいて、それなのに少しもどかしい感じがする。
 それは決して嫌な感じではなく、焦がれる思いに油を注がれるような、ゆるやかな甘苦しさだった。
 乾の言葉のまま、言うなれば違う回路が海堂の中に出来上がってしまったかのように。
「………どうした?」
「……わかんね……でも…」
「ん………」
 言葉でうまく言えない海堂の真情を正しく酌んで、乾は海堂の手を包んだ。
 重なった手。
 繋いだ手。
 自分達は一続きになってキスを交わした。
 脳の中にも新しい回路が出来かけでもしているのか、深く唇を重ね合わせる刺激が頭の中に生々しく沈んできた。
「………、…ン………」
 ひくりと慄いた海堂の困惑を、乾はゆっくりとキスで舐め溶かした。
 乾の舌が海堂の口腔でひらめくのと同じく、左手が海堂の背を擦っている。
 その少し慣れない感触に海堂は肩を上下させた。
 海堂もまた左手を差し伸べて、乾の後ろ首に指先をうずめた。
 互いが互いを抱き寄せて。
 むさぼられるようにキスが深くなり、その感触がひどくまわりのいい薬のように四肢を巡った。
 いつものようにはいかない手。
 その手のする事に引きずられる。


 キスを小さく飲みながら、頭の中にも身体の中にも、ゆっくりたまっていく熱の在り処と行方を思った。
 行先も、出所も、全ては乾のその手から。
 新しく作られた回路を通って、より一層、深く濃く染み渡った恋愛感情は、また一層確かなものとなって埋まってしまった。
 海堂の中に。

■結構切羽詰ってる乾先輩×おとなしめに可愛い薫■



「ここの筋トレ。少ないか?」
「……………っす」
 ノートの紙面を指差す乾に向かい合って、海堂はこくっと頷いた。
 今日も部室に最後まで残ったのは乾と海堂だった。
 毎日乾の作った練習メニューをこなす海堂に、一日の終わりに簡単に調整をしてやるのが乾の日課だった。
「物足りないかもしれないけど、ここはいじれないな。かわりにこっちならもう少し増やしてもいい」
「二倍」
「…二倍?うーん…二倍はなあ…」
「………………」
 海堂は口数が少ない。
 そして言葉は端的だ。
 彼は曖昧な表現を使わない。
 生真面目な顔をしてノートを見据えている。
「海堂」
 呼びかけてから。
 海堂の首の裏側に指先を当てて、引き寄せて唇を合わせる。
 先に確認をとると断られそうだと乾は思って、でもこれも随分と卑怯なやり方だと
ひっそり自嘲する。
「………先輩」
「ずるいな。こういうのは」
 やんわりと笑んだ乾の柔和な顔から、笑みが消える。
 張り詰める。
 目つきが急にきつくなって、海堂を直視した。
「でも」
「……………………」
「卑怯でもずるくても何でもいい」
「……………………」
 息を呑んでいる海堂に、机一つ挟んだ体勢から身体を乗り上げるようにして口づける。
 乾の手のひらの中の海堂の首筋は、細かった。
 怯えながら熱くなっていく肌が、乾の手のひらをひどく疼かせた。







■モテモテ乾先輩×きつめに可愛い薫■



 駐輪場の所に、数人の人だかりが出来ていた。
 鞄を小脇に挟んで、海堂は興味もなくその横を取って校外に出ていこうとする。
 さすがにすれ違う時にそこにいた面々の顔が目に入った。
 乾がいた。
「…………………」
 いたというより、乾を中心にその輪は出来ていた。
 半泣きになっている女生徒が一人。
 彼女を取り囲むように、友人らしい女生徒が3人。
 状況をからかって見ているような男子生徒が乾の後ろに2人。
「だから、乾君、いっつも好きな人がいるからって断ってるけど、それって誰なの?だいたいほんとに好きな人いるの?」
「そうだよ。口から出任せで言ってるんだったら、頑張って頑張って告白したのに、この子が可哀想じゃない」
 海堂は肩で溜息をつく。
 出来ればこんなところを通りたくはなかった。
 そこにいるのは全員3年生で、乾は部活の先輩で。
 何だかもめてるし。
「……………………」
 勝手にやっててくれと思うのが半分、こんなところでやってんじゃねえよと思うのが半分。
 海堂は不機嫌に歩みを早めた。
「もしどうしてもこの子と付き合えないんだったら、せめて乾が誰のこと好きなのかちゃんと教えてよ」
 うーん、と乾の困ったような声がした。
さっさと通り過ぎてしまおうと海堂はその横を抜けた。
「こいつ」
「…………………」
 抜けた、筈だったのに。
 ぐいっと腕を引かれていた。
 バランスの崩れた海堂が、何事が起きたかと思えば、二の腕を乾に掴まれていた。
 何してるんだこの人とぎょっとしているうち、乾は海堂の方を見ずに、ぶっきらぼうに言った。
「こいつがね、好きなんだよ。俺」
「……………は?」
 そこに居たほぼ全員が同じ声を上げたが、一番怪訝に、は?と口にし、表情にも出ていたのが海堂だった。
 ひどく怖いものがそこにあるような目で、海堂は乾を見上げる。
 何を言ってるんだと乾をどれだけ食い入るように見つめても視線は合わなかった。
「…………………」
 場は呆けたように静まり返ってしまって、暫くしてみるとそこには乾と海堂だけが残されていた。
 海堂の腕は、まだ乾に掴まれたままだ。
「…………その場逃れに、ああいう馬鹿みたいなこと言い出すんじゃねえ」
 不機嫌を極めるような勢いで言った海堂は、二の腕が握りつぶされそうになって息を詰めた。
「………海堂」
「………ぃ…っ…てぇ…んですけど……」
「海堂」
 痛いのは腕だけではなくなった。
 身体中、と海堂が気づいた時には、全身を身包み抱きしめられていた。
 わらっている。
 でも優しくて、嬉しそうだから。
 いいかと思う。
 唇を重ねて、わらった男。
「……………………」
「………ひよこのさ…」
 動く乾の唇を。
 海堂は自分の唇に感じながらゆるく瞬きを繰り返す。
 優しくて、嬉しそうな振動に、睫の動きが重なって。
「生まれる時に、卵の殻の中から鳴く声がして………そうすると鳴き声と同時に母鶏が、卵の外から殻を噛んでるんだよね………」
「…………乾先輩?」
「そういう風に気持が一致した形で行われる行為のことをソツタクっていうんだけど」
「……………………」
 言葉が生まれる時に、海堂の内から鳴くようにあふれるもの。
 それと同時に乾が外から唇をふさぐ。
 気持が一致した時の、同時の行為。
「それを思い出してさ……」
 キスして笑う男。
 海堂は両手を伸ばして乾の肩に掴まる。
 首を傾けて下から伸び上がり。
 今度は乾の内から生まれたがっているものを助けるように、こちら側からそっと噛んだ。


 生まれたてのひよこのような、小さくて小さくて、でもしっかりとした命のように。
 愛情を、ひよこを何羽もかえすように生む。
 毎日のキスという手助けをつかって。

 少しずつ目が合う時間が長くなってきた。
 それでいて、会話する時間が増えれば増えるほど、一緒にいる時間が長くなれば長くなるほど、何故か海堂の視線は乾からぎこちなく逸らされていくのが、最初乾も不思議だったのだけれど。
 すぐにその理由が判るようになる。
 どうも海堂は物慣れないらしい。
 人と極普通の会話を交わすこと。
 何となく、ただ一緒にいること。
 決意や意志でもって相手を見据える事は出来るのに、ちょっとした接触や日常会話などには、困惑も露な目で海堂は視線を逸らせる。
 内面はどこまでも柔らかいのに、外見がどこまでも硬質で、そういうギャップは乾にしてみれば何も問題のないことなのに、当の本人はそういう当たり前の事に対して、どうしたらいいのか判らないようだった。
 呼びかければ、こちらを向く。
 見つめていると視線が逃げる。
 肩に手をおけば受け止める。
 置き続けていると心情の揺れがすぐに伝わってくる。
 繊細かと思うと豪胆な所もあって、懐きはしないが懐深い。
 海堂の中に、こんなに様々な要素が詰まっていることを、今の今まで気づいていなかった自分に乾は驚いた。
 データを取る事が日常で、だからそうやって集めたデータで、何となくだいたいの事は判ってしまっている気になっていた。
 実際は、これまで採取したデータでは気付かなかったことばかり、海堂は示してくる。
 海堂のことで新しく気づいた点を、乾は何故かデータにとろうという気にもなれなくて、そういった場面に直面する度、今目の前で知る出来事に、ただ、夢中になる。
 この感情は何だと乾自身が唖然とする。
 海堂に対して向けてしまう、まるで執着のような固執する感情は。
「先輩?」
 低い、小さな呼びかけに籠もる気遣いの響きを聞くよりも感覚で掴まえて、それだけでくらくらするような感じ。
「………あの?」
「ああ、悪い。ちょっと考え事」
 ごめんな、と乾は海堂を見つめて返した。
 早朝のテニスコートは、まだ自分達しかいない。
 澄んだ静かな空気の中、ぼうっとしていたのは自分なのに、邪魔をしたかと思ったのだろう、海堂の僅かな戸惑いが透けて見えた。
 だから乾は畳みかけた。
「今日はこれ。イレギュラーボール。どこに跳ねるか判らない」
 手にしていた特殊形状のボールを海堂の手に握らせた。
 おとなしく手のひらをひらく仕草が、普段の海堂からは見られないどこか子供っぽい所作で、そんな事にも一々乾は気にかかる。
「投げて、受け止める。敏捷性、反射神経、動体視力、集中力のトレーニングに最適だ」
「……ッス」
 頷いているだけ。
 でも海堂のその様が乾にはもうどうしようもないほど重要な事に思える。
 結局海堂がどんな振る舞いをしても、どんな表情をしても、どんな言葉を口にしても、もう何もかもが乾に刺さってくるので。
 そういうことなんだな、と認めるしかない。
「…あの、…乾先輩?……ひょっとして具合悪いんですか」
「いや、すまん」
 つくづく気もそぞろに見えるのだろう。
 海堂の問いかけに乾は何でもないんだと続けようとして、出来なかった。
 言葉が詰まったのだ。
 喉下で、完全に。
「……熱は…ないみたいですけど」
 海堂は腕を伸ばしてきて、手のひらで乾の首の片側を、そっと包みこんだ。
 手のひらに乾の体温を感じ取って小さく呟いた声と、僅かに首を傾ける仕草とに、乾の心情も跳びはねる。
 イレギュラーボールの軌跡のように、海堂から指し向けられてくるものが、自分のどこに跳ねてくるのかが判らない。
 そのどれも、取り逃すつもりは勿論ないけれど。
「………海堂…」
「はい?」
 むやみやたらに、降参したいような気持ちになる。
 浮かれたいのか落ち着きたいのか判らない。
 無心に乾の呼びかけの続きを待っているらしい海堂の目は、今はしっかりと乾を見据えている。
 好きだと告げたら、海堂はどうするだろう。
 視線は逃げていくだろうか。
 手のひらは離れていくだろうか。
 幾つもの疑問は浮かぶ。
 けれど不思議と告げる事が怖いとは思わず、乾は肩の力を抜いた。

 まずは受け止めやすく、判りやすく、彼に渡す。
 その後の事は、その後から考える事にする。
 そう順序を決めて、乾は海堂に、ゆっくりと笑いかけた。
 今時、真正面から、仲直りしようぜなんて言ってくるのはどうなんだ。
「跡部ー。なあ。仲直りしようよ」
「………………」
 不機嫌全開の跡部に敢えて話しかけてくる輩など氷帝にだっていないというのに。
 他校生で、年下で、そんな相手が何故真っ向から跡部の顔を覗き込んでくるのだ。
 臆した風もない。
 しかし、僅かばかり落ち込んだ様子は隠さず、神尾は無言を貫き通している跡部の傍でそれを繰り返す。
 仲直り。
 意味が判らない。
 理解不能だ。
 跡部はうんざりと神尾を睨みつけた。
 顔の片側を隠す神尾の長めの前髪はいつもと変わらず、その表情の半分を隠している。
 見える見えないは、跡部にしてみれば然して問題ではなかった。
 神尾相手に洞察力を働かせる必要もない。
 見たままが全て、それ以上でもそれ以下でもないのが神尾だ。
 跡部の部屋に二人きりでいて、喧嘩のきっかけになった出来事などいちいち思い返していられない程、要するにどうってことのない自分達にとって日常的言い争いを今日もして。
 怒って神尾は喚き、怒って跡部は口をきかなくなる。
 腹が立つ、でも神尾は出ていかないし、跡部は追い返さない。
 結局相当不穏な空気の中、相変わらず二人でいて、どればかりが経ったのか。
 もっか神尾は仲直りとやらを提案してきて、跡部はそれを無視している。
「な、跡部。仲直りしようぜ」
「………………」
 何故説得されているのだ。
 ともすれば優しげな口調で、まるで言いくるめられているかのように。
 そう思えば、跡部の目つきはますますきつく鋭さを増す。
 意図的に視線を神尾からずらしていたというのに、そんな跡部の視界に、ひょっこりと神尾は彼の方から入ってきた。
 ソファに座る跡部の正面に立っている神尾が、腰から上体を屈めるようにして顔を背けた跡部の眼差しをじっと上目に追って見詰めてくる。
 瞳に一滴、心細さなど落しているから、気に食わないと思う跡部の感情は完全に限界値に近くなる。
 手加減無しの不機嫌を込めて、跡部は神尾を睨みつけ、吐き捨てた。
「何だよ、この距離は」
 ふざけてんのかてめえ、と跡部が低く呻くと。
 神尾が一生懸命何かを考える顔をしながら、そろりと跡部に近寄ってきた。
 遅いと怒鳴りつけたい気分を奥歯で噛み殺して、跡部は引っ手繰るように神尾の腰に腕を回し抱き込んだ。
「…、…うわ……ちょ…っ…」
「うるせえ!」
 もがくような素振りにますます腹が立って、跡部は結局神尾を怒鳴って腕に力を込める。
 平らな、薄い腹部ごと抱き込む事は跡部にはあまりにも簡単すぎた。
 そのまま我ながら跡部が物騒だろうと自覚する目つきで神尾を睨み上げると、慌てていた神尾は数回の瞬きですっかり落ち着いて、そのくせどこか困ったような曖昧な笑みを唇に浮かべていた。
「跡部怒ってるからさあ……近づいてもいいのかなって。ちょっと悩んだんだよう」
「………………」
 知った事かと跡部は一瞥で切り捨てる。
 そもそもいつまでも手も伸ばせない距離にいるようでは、仲直りとやらをする気など本当はないんだろうと、跡部が非難を込めて睨めば、それを受け止めた神尾の手が跡部の肩の上に、ふわりと置かれる。
「ごめんな、跡部」
「ごめんで済む訳ねえだろ」
 だいたい、あの中途半端な距離感を保たれて、仲直りも何もない。
 繰り返し不機嫌なオーラを撒き散らす跡部に対して、神尾の手は跡部の肩から髪へと移動して。
 跡部の髪を軽く撫でるような所作をする。
 ごめんと繰り返す神尾の言葉は、いかにもふわふわと軽く聞こえるのに。
「あのさあ、跡部」
「………………」
「どんだけ喧嘩しても、俺、お前を好きなままだろ? それ、知らねえってことないよな?」
 当たり前の事を言うように、神尾の口調には何の気負いもない。
 軽い口調ほど、言葉の意味は軽くはない。
 神尾の指先は恋人を余裕で甘やかせるほど器用ではないから、跡部の髪を撫でる動きは本当に下手で、でも、素直すぎるほどに素直な言葉はどこまでも生真面目だ。
「すっげえむかついても、嫌いになったりしないし。めちゃめちゃ腹立っても、やっぱり跡部が好きだから。だからさ、俺は跡部と喧嘩したら、ちゃんと仲直りしたいんだけど」
 真面目に言う神尾に、跡部は何となく未だむかついて、腹が立って、でも神尾と同じように思うのも事実なので。
 神尾の二の腕辺りを掴み、強引に神尾を自分の方へと引きずり寄せた。
 近づいてきた神尾の唇に跡部が下から喰いつくように口づけると、本気で慌てたような小さな声が間近になった神尾の喉に詰まったのが聞こえた。
 距離が近いから神尾の顔が熱を帯びた事も判った。
 ぐっと神尾の首の裏側を掴んで強く引き寄せて、思う存分その唇をむさぼって。
 跡部が舌先を覗かせたまま神尾を口付けから解放すると、神尾の狼狽はすぐさま溢れ出し零れ落ちてくる。
「な…っ……なんで、この状況で……っ…」
「何でだ? 馬鹿言ってんじゃねえよ、神尾」
「だ、…だって…! 仲直りしよって、話してる時に何でこんな…!」
「普通定番だろうが」
「ええっ。や。ムリ。こんなのしながら話とか俺絶対無理…っ」
 赤くなっているのか青くなっているのか、神尾は跡部には全くもって理解できない事を言い、じたばたと暴れ出す。
 挙句に跡部から離れようともがくので。
「仲直りってのを、する気あんのか、てめえ!」
「こ…っ、…こっちの台詞だ、馬鹿跡部…っ!」
 意味が判らない。
 訳が判らない。
 それはお互いがお互いに思っている事。
 それで何度も喧嘩をするし、仲直りの傍からまた言い争いが始まったりするのだけれど。
 それでも、どうしたって、この相手でないと嫌で、喧嘩したって一緒にいるのがいいのだ。
「うわ、跡部、なんで服脱がす、っ」
「この上まだそんな事言ってんのか」
「や、…ちょっと…それは、仲直りしてから…! な? な?」
「しながらすりゃいいだろうが」
 もう何が何だかというような有様で。
 お互い、それはもはや甘ったるいような罵り合いや取っ組み合いで、髪も呼吸も心音も乱して。
 全部乱れて。
 全部もつれて。
 もう目も当てられない。

 こんがらがって、もうどこかから解きようもない。
 それが二人の、恋の縺れ。
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