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How did you feel at your first kiss?
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 きらきらするのは何でなんだろうと、神尾は待ち合わせ場所のオープンカフェを目前にして足を止めた。
 今日は薄曇りで、太陽は雲に隠れてしまっている。
 明け方まで雨が降っていたから、むしろどんよりとした感じの天気なのに。
 それなのに。
 テラス席に座っている制服姿の跡部の髪は、透けるようにきらきらしている。
 綺麗な顔をしている事は勿論知っているけれど、遠目に見ても、尚綺麗だ。
 ぼんやりしていて、それでも跡部はきらきらとしている。
「………………」
 今更ながらに、ちょっととんでもない存在感だよなあと思いながら、神尾は跡部に近づいていった。
 神尾が声をかけるより先に跡部は気付いて、軽く顎で指し示すように、向かいの席を無言で促してくる。
 横柄な態度の筈なのに、跡部がすると粗野な印象はまるでない。
 オープンカフェは待ち合わせには便利だけど目立つよなあと内心ひるんだ神尾だったが、跡部といればどこにいたって目立つのだからと思い直して、向かいの席に座った。
 すぐにオーダーをとりにきたギャルソンに神尾がアイスミルクを頼むと、跡部が滑らかな低音で、洋梨とチョコレートのカンパーニュサンドとリンゴとカマンベールのサンドと言った。
「え?」
「腹へってんだろうが」
 そう言って跡部が口をつけたカップの中身は多分ブラックのコーヒーだ。
 ふわりといい香りがした。
 神尾は言われた言葉に、うん、と素直に頷いて。
 下がった目線が、カップを持っていない跡部の左手に止まる。
 テーブルの上にある跡部の手は、しっかりと骨を感じさせる強さはあるけれど、本当にびっくりするくらい指先までしなやかに整っている。
 その手に。
「え。跡部、それどうしたんだ?」
 利き腕ではない方だけれど、親指の第一関節脇に、随分と痛々しい切り傷がある。
 深く切ったのだろう。
 生々しいようなそれは、跡部の手にあるから、その傷ひとつがやけに目につく。
「昼間、書類で切った」
「え。跡部がか」
「俺がだよ」
「え」
 跡部がカップをテーブルに置き、眉を顰めて神尾を見据えてくる。
「何だ、お前さっきから」
「え、だって、跡部?」
「俺が切っちゃ悪いのか」
 悪くはないけどびっくりだ。
 神尾は内心で思う。
 そういう事を跡部はしないような気がするのだ。
 ちょっとしたミスだとか、怪我だとか。
 些細な不注意というものに、無縁の男のように思えてならない。
 普通であればそんな奴いないと思う所だが、何せ跡部なのだ。
「……ど…したんだ? 何か、調子悪いとか…?」
 神尾が思わず心配になって尋ねると、跡部は少し細めた目で、器用に神尾を見下ろして。
 薄い溜息を零してきた。
「跡部?」
「お前がなあ…」
 更に溜息の混ざった呟きに、神尾は恐る恐る跡部を見つめ返す。
 自分が、何だろう。
 ここで何故自分が出てくるのか、神尾にはよく判らない。
「…俺? 何かした?」
「ちらつくんだよ」
「………………」
 言われて。
 神尾は目を瞠った。
 俺が、ちらつく。
「えと、…えっと…?」
「………………」
 神尾は首を傾げる。
 跡部は黙って見据えてくる。
 自分がちらついて跡部が指を切る。
 よく判らない。
「……えー…っと、…ごめん」
 神尾が考えるより先にそう言うと、跡部が不機嫌な顔になった。
「謝れっつったか」
「や、言ってないけどさ…」
 何かあまりいい意味ではないような。
 そう思って神尾は困っているのだが、跡部は別にそれは悪かねえよと言ってきた。
 悪くないのか、と面食らう神尾に跡部はとんでもない事を言ってきた。
「お前が四六時中頭ん中ちらつく」
「………………」
 どこか憮然と吐き捨ててさえ、跡部の秀麗な面立ちは欠片も崩れない。
 またカップに手をやってコーヒーを飲む跡部は、落ち着いているようでもあるのに、和んでいるのとは無縁な強い眼差しを長い睫毛で少しだけけぶらせて神尾に向けてくる。
 何で恥ずかしくなってきたんだろうと、神尾は自分で自分の事が判らなくなり、うろうろと視線を彷徨わせてしまった。
「あ! そうだ、俺、絆創膏持ってる」
 急に思い立って、神尾は鞄の中を探った。
 いつでも持ち歩いている訳ではないけれど、学校帰りならば鞄に入れてあるのを思い出したのだ。
 昼間切ったと言っていたけれど、別に今から貼っておいても損はないだろう。
 跡部の事だからまさかこういうものまで高級品仕様なのかなあと思いながらも、神尾は極々普通の絆創膏を一枚取り出した。
 切ったのは左手だから巻くのも簡単だろうと神尾は思って、はい、とそれを跡部に差し出すより先に。
 跡部が左手を伸ばしてきた。
 恐ろしく優美な仕草で伸ばされてきた手。
 手の甲を上にして。
 何だろう、このどこかで見たことのあるシチュエーションはと神尾は呆気にとられた。
 跡部は唇の端を引き上げて笑う。
 仕草といい、表情といい、王様というか、お姫様?と神尾は溜息をつく。
「……自分で出来るだろ」
 一応言うだけは言ったが、跡部は素知らぬ顔だった。
 手も差し伸べてきたままだ。
「………………」
 ううう、と呻いた神尾は結局、絆創膏を包む薄紙を破いた。
 この俺様めと内心で愚痴を言いつつ、神尾は跡部の左手をとった。
 親指に絆創膏を巻いてやる。
 人にする事に慣れていないから、慎重なぐらいに真面目に巻いていた所に、跡部がまた余計な事を言ってくる。
「そのうち本物、はめさせてやるよ」
「……は…?」
「薬指にな」
 横柄に笑う。
 でもそれが綺麗で、本当に綺麗で、神尾は絶句した。
 お待たせしました、とギャルソンの声が割って入ってくるまで神尾はそのまま呆けていて。
 色とりどりのカンパーニュサンドを並べられても、空腹はどこへやらだ。
 あたためられたバケットの上でチョコレートがとけかける匂いが刺激したのは、神尾の麻痺した空腹ではなく、機嫌よく微笑む跡部に対しての、どうしようもない、どうしようもない甘い気持ちだ。
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 観月がシャワーを浴びて浴室から出てきたのを見計らいでもしたかのように、部屋の扉がノックされた。
 タオルで濡れ髪を拭きながらパジャマ姿の観月が静かに扉を開けると、そこには赤澤が私服姿で立っていた。
「結構降られたか?」
「…シャワーを浴びる程度にはね」
 予報にもなかった事とはいえ、データ重視の観月からすると、こういう不意打ちに行き当たるのは些か不本意だ。
 出先から寮に戻るまでに、言葉通りに雨に降られた観月は溜息をつきながら、入りますかと赤澤に尋ねる。
 入っていいならと笑う赤澤に観月は身体をずらした。
 一人でいる時間が好きで、寮生活をしていながら何なのだが、あまり部屋に来訪者が来る事を好まない観月だったが、
赤澤には慣らされた感がある。
 頻繁に現れるが、観月が断れば無理強いはしないで帰る赤澤だから、観月も慣れた。。
 扉の隙間から身体を滑り込ませるようにして赤澤が観月の部屋の中に入ってくるのを横目に、観月はあらかたの水分を拭き取ったタオルでおざなりに髪を拭きながら呟く。
「貴方も濡れたんですか、部長」
 赤澤も今日はでかけていた筈だ。
 天気予報にもなかった突然の通り雨に観月が降られたくらいだ。
 赤澤とて同じだろうと観月は思っていたのだが、赤澤の長い髪はかわいていて、少しも雨を感じさせない。
 じっと見つめる観月に赤澤があっさり首を左右に振った。
「いいや。俺は濡れなかった。傘持ってた」
「……随分珍しいじゃないですか。折り畳み傘なんて絶対持って歩かないのに」
「大事なものがあったからな、今日は」
「…大事なもの?」
「ああ」
 これ、と赤澤が目の高さまで持ち上げたものは、彼が右手に持っているマチの広い紙袋だ。
「なんですか、これは」
「ケーキ。食おうぜ」
「は?」
 おめでとう、と言って赤澤は観月の額に軽く唇を寄せた。
 面喰って観月は無防備にそのキスを受け止めてしまう。
 赤澤の唇が離れると、頬にはほんのりと熱が残った。
 瞬きをして、観月が無意識に額に手の甲を当てていると、赤澤が屈みこむようにして観月の唇にもキスで触れ、誕生日だろ?と唇と唇の合間で囁く。
「なんで……知って…」
「好きな奴の誕生日くらい知ってるだろ、普通」
 気負いのない声は優しかった。
 触れるだけの唇と同じくらい。
「………………」
 赤澤はいつもそうだ。
 観月は唸りたいのをこらえるように、赤澤を睨み据える。
 たぶん、睨んでるようには見えないだろうが、悔しいじゃないかと内心で誰に言うでもなく観月は言い訳をする。
 好きだなんて言葉、観月には扱い辛くて仕方無いのに、赤澤はいつでもさらさらと観月にそれを注ぐのだ。
「食堂行くと、人が集まるからなあ……少しだけ独り占めさせろよ。…な?」
「別に、誰も」
 反論など容易く封じられる。
 部屋の中なのに赤澤の手に肩など抱かれてテーブルまで歩いて座らされる。
「紅茶、取りあえず缶で勘弁な」
 袋の中から取り出した紅茶の缶を片手に二本持ってテーブルに置き、大雑把そうな手なのに丁寧にケーキの箱も取り出した。
 小ぶりの箱だったが、赤澤が中から引き出したケーキに観月は目を瞠る。
「……赤澤。貴方、これ何て言って頼んだんですか」
 箱に見合う大きさでケーキも小ぶりではあったが、しかし、小さいながらも二段重ねのデコレーションケーキは、さながら。
「どう見ても、ウエディングケーキのミニチュアじゃないですか……」
 クリームのデコレーションは繊細だ。
 レース細工のように、細く細やかなラインで絞り出された飾りつけは上品で、あとは綺麗な色の赤い実と、控え目な粉砂糖のみの装飾も観月好みではあるけれど。
 赤澤は観月の言葉を受け止めて、確かにそれっぽいと明るく笑った後、ウエディングとは言ってないけどな、と観月の目を覗き込んだ。
「すっげえ大事で、大好きな奴の誕生日ケーキ…っつっただけ」
「な、……」
「綺麗な奴で、綺麗なものが好きだから、そういうケーキを探しただけ」
 伏目に観月を見つめる赤澤の眼差しは甘い。
 食おうぜ、と目元にキスされながら言われて。
 赤澤はプラスチックのスプーンを観月に手渡し、二つの缶のプルトップを開ける。
「このまま…ですか」
「切り分けるの難しそうだろ?」
「確かに…そうですが…」
 少なくとも観月は、小さいサイズとはいえホールのケーキに直接フォークを刺すということを、した事がない。
 普段であれば絶対にしないのに。
「ほら」
 赤澤がひとくちぶん、フォークに刺したケーキを観月の口元に近づける。
「自分で食べますよ…!」
「そうだな。まあ、取りあえずこれは食って」
「……っ……」
 長い指がフォークの柄の方を挟み、観月を、見つめて赤澤が微かに首を傾ける。
 あーん、と声にはしないで唇だけ動かしてくるから余計に気恥ずかしい。
 観月は自棄になった。
 口を開けて、ケーキを食べる。
 人の手から物を食べさせられるなんて記憶にない。
 赤澤は、そうやって観月にケーキを食べさせると、その同じフォークを使って、今度は自分の口にケーキを運んだ。
 だからどうしてそういう事を平然とやるんだと怒鳴ってやりたいけれど、声が上ずりそうで観月は諦めた。
 手渡されたフォークで、自分も同じように手を伸ばす。
 お互い向き合って、両側からケーキを食べ始め、しばらくは無言だったが、小さく赤澤が声にして笑ったので観月はちらりと上目に赤澤を見やる。
 何ですかと眼差しで訴えれば、赤澤は言葉をはぐらかしはしなかった。
「いや、なんか初めての共同作業…ってやつみたいだなぁと…」
 ケーキ入刃でもあるまいし。
「な、っ…」
 思って、声が荒っぽくなってしまうのは気恥ずかしいからだ。
 また話がウエディングに絡んで、赤澤と、赤澤相手だから、そういう話になるのが恥ずかしいのだと、何故気付かないのかと観月は歯噛みする。
 赤澤を睨むように目つきをきつくする。
 まるでこたえた風もなく、赤澤は笑っていた。
「ケーキ入刃より、一緒にこうやって食ってる共同作業のがいいな、俺は」
 言いながら、フォークを持っていない方の手が伸びてきて、大きな手のひらが観月の頭に乗せられる。
 まだ湿った髪をそっと撫でつけてくる手の温かさに、もう本当にこんなことされたら誤魔化すものも誤魔化せないと、観月は顔を赤くした。
「なんなんですか、さっきから貴方…、……」
「風呂上りで、パジャマ姿で、ケーキ食ってるのが可愛い」
「からかわないでください…!」
「からかってない。年上になっちまったけどな、可愛い、お前」
 他に誰もいないのに、自慢するみたいなその口調は何なのか。
 微笑んではいるけれど、むしろ真面目な顔で赤澤が告げてくるから居たたまれない。
「観月」
「……っ…、…」
 突然観月の隣にやってきた赤澤が、両手で観月を抱き込んでくる。
「ちょっと食うの休憩な?」
「……なん…、…」
 赤澤の胸元に抱き寄せられて、ぽんぽんと背中を叩かれて。
 フォーク持ったままですよと観月が叫ぶと、すぐにそれが取られてテーブルに置かれ、今日初めての、唇へのキスが落ちてくる。
「………、…ん」
 甘い匂いがする。
 クリームの、ケーキの、そして何より触れ方の本当に甘いキスで唇を塞がれて、抗えた試しがない。
 パジャマ越しに観月は肩を赤澤の手のひらに包まれ、唇をやわらかく吸われてキスがほどける。
 吐き出す吐息が震えそうで、観月は俯いた。
「……ごめんな?…続き、食うか?」
 耳元で囁かれる。
 観月は首を左右に振って、赤澤の胸元に今度は自分から身体をあずける。
 背中に回った赤澤の手が、すこし驚いているのが判った。
「続き、…」
「…観月?」
「……ケーキじゃない方で」
 消えそうな声だったのに、赤澤はちゃんと聞きとった。
 からかうような事を言わない男だとわかってはいたけれど、赤澤が黙って受け止めてくれるから観月はほっとする。
 早く脈打っている観月の首筋を手のひらに包むように支えながら、赤澤は観月の額に、そっと唇を押し当てた。
「………赤澤…」
「ん…?」
「ケーキ…ありがとうございます」
「俺も」
「え?」
「俺には観月をありがとう」
 よく判らない返事を貰い、面食らう観月の唇に赤澤は丁寧なキスを寄せて。
 パジャマがゆっくり、剥ぎ取られていった。
 青学三年乾貞治と、青学二年海堂薫は、向かい合わせに対峙している。
 テニス部のコート脇にいる二人は、向き合って、顔を合わせて、立っている。
 今し方まではおそらく生真面目にテニスの話などしていたのであろう二人だが、誕生日おめでとうと言った乾と、眼を瞠った海堂とで、もっか二人は無言で顔を見合せている。
 口を噤んで相手を見ているだけ。
「あそこ、かわいいね」
 小さく笑みを零して、不二が呟いた。
「は?……かわいいって、…乾が?」
 海堂すっごい睨んでるよっ?と菊丸が頬を引きつらせた。
 不二の袖を掴んで揺さぶる菊丸に、不二は今度はもっとはっきりとした笑い声を響かせて否定する。
「違うよ、かわいいのは海堂」
 恥ずかしいんだね、と不二は海堂を見つめ直して囁く。
「かーわいい」
「なになにおチビまで!」
 恥ずかしいんでショ?海堂センパイ?と越前が肩にラケットを乗せるようにして首を傾け笑う。
「精一杯で威嚇してる子猫っすね。あのカンジ」
「越前に子猫なんて言われたら海堂は絶叫しそうだね」
「不二先輩だってそう思ってんじゃないですか」
「まあ、そうだね」
 不二と越前の会話に。
 むう、とたちどころに不機嫌そうに頬を膨らませた菊丸は、自分を挟んで左右にいる二人を交互に見やってから、大石に飛びつくようにして走り寄っていった。
「大石ー!」
「ん? どうした、英二」
 満面の笑みで菊丸に問いかける大石は、飛びついてきたうえ盛大に泣きついてもきた菊丸にびっくりしたように瞬いた。
「なんだよなんだよみんなしてー! 海堂の誕生日とか、海堂が可愛いのとかは、俺だけが知ってる筈だったのに!」
「…英二?」
 ずるいー!と癇癪を起した菊丸を、なんだかよく判らないながらも、そうかそうかと苦笑いで宥めてやりながら、大石は近くにいた桃城に声をかける。
「海堂は、今日誕生日なのか?」
「何で俺に聞くんですか、大石先輩」
 心底嫌そうに顔を顰めながらも、そうっすよ、と桃城は言った。
 言葉ほど不機嫌ではないのは、大石を見やって、にやりと笑った桃城の表情で見てとれる。
 桃城は大石にこっそりと耳打ちする。
「タカさんが特大穴子盛り、ケーキ代わりに差し入れしてくれるって言ってましたよ」
 まだ内緒っすけどね?と笑う桃城に、大石もまた困ったような小声で問いかけた。
「おいおい……手塚は知ってるのか?」
「知ってるっすよ。俺とタカさんで了承貰いに行きましたから。サプライズの号令は部長です」
「うーん……何だかんだ言って桃は」
 苦笑交じりの大石の呟きを、桃城はあっさりと切って。
「穴子寿司の為なんでね?」
「…ま、そういう事にしておくか」
 大石は器用に菊丸を宥めながら、桃城に向かって尚も器用に、溜息と笑みとを同じ分量、洩らした。



 何となくざわめきを周辺に感じない訳ではなかったが、それより何より今海堂は、目の前の出来事で手一杯だった。
 誕生日おめでとう。
 乾は、そう言った。
「ええと……海堂?」
「…………なんで」
「ん? ああ…誕生日?」
 海堂の硬直に、最初は困ったような苦笑いで海堂の名前を呼んだ乾は、海堂の言わんとしているところに気づいたようで、あっさりとそれに答えてくる。
「知ってるよ。そりゃ」
「……データ、そんなことまでとってるんですか」
「確かにね。でも、これはちょっと違う」
「………乾先輩?…」
「好きな子のことは、勝手に何でも覚えるし、忘れない」
「…、…は…い?」
「今日がそうだっていう知識があるから、ただ言った訳じゃないよ」
「………………」
 乾の手が、バンダナ越しに海堂の頭の上に、ぽんと乗せられる。
 数回、かるく、撫でられて。
 長身を腰から折るように乾が海堂に顔を近づけてくる。
 海堂の耳元に唇を寄せて、乾はもう一度言った。
「誕生日おめでとう。海堂」
「………………」
 ぐらぐらと、足元が覚束ない。
 海堂はそんな錯覚を覚えた。
 乾の手が、まるでそんな海堂の危うげな足元を察しでもしたのか、更にしっかりと海堂の後頭部を支えるようにして。
 三度目。
 今までで一番近くなった距離は、海堂の耳元へのその言葉以外にも、幾つかのものを海堂へと吹き込んでくる。
「好きな子の誕生日は、おめでとうって、とにかく、ただ言いたい」
 落ち着いた低い声で、乾がほんの少しの笑みを混ぜて囁く声に海堂は立ち尽くす。
「何度でも言いたい」
 誕生日なのに。
「海堂」
 胸の病気にでも、なったのか。
「おめでとう」
 息をするだけで。
「誕生日」
 呼吸が甘苦しい。

 誕生日なのに。
 無関心というものとは違う。
 けれど宍戸にとっては、人は人、自分は自分、という考えは己の中に強かった。
「んなわけあるか。最初っから俺に突っかかってきておいて」
 跡部が呆れて吐き捨てたのは、恐らく初めて言葉を交わした時の事を言っているのだろう。
 宍戸は宍戸で憮然と跡部の背中を睨みつけた。
「あれはお前の言動があまりにも目に余ったからだ」
「アア? そんなもん、それこそ人は人で放っておけばよかったんじゃねえの?」
「自分が入部しようとしてるテニス部で余計ないざこざ起こされたら堪らねえだろうが!」
 中等部の入学式。
 代表挨拶の檀上で異才を放った跡部は、その日中にテニス部でも派手にやらかしてトップの座を奪い取った。
 あまりの傍若無人ぶりに宍戸は今でも心底呆れている。
 そんな跡部と最初から随分と剣呑とした接触ばかり持っていた宍戸だったが、付き合いも三年目になってくると、荒い言葉を交わしながらでも、こうして二人でいる時間も増えてくる。
「そんなこと気にするタマかよ、お前が」
「どっかの俺様に、ふてぶてしさは鍛えられたんでね」
「よく言うぜ。そこまで落ちてて」
「あ?」
「大方てめえが、いま何でへこんでんのかの見当くらいつくがな」
「……るせえよ」
 レギュラー専用部室で、跡部はパソコンに向かっている。
 モニタを見たままの跡部の背中に向けて宍戸は悪態をついているのだが、本気で喧嘩腰になるような気力は正直なかった。
 椅子に座って、机に上半身を投げ出すようにしている。
 跡部が部室に入ってきた時から宍戸はそうしていて、跡部がやってきたからといってそのままでいたし、跡部もまるでお構いなしに自分の仕事をしている。
 そのくせぽつりぽつりとどちらからでもなく会話が始まってもいた。
「鳳のあれは性分だ」
 いきなり名前を出されて、呼吸が止まったのは一瞬。
 何の疑いもしない跡部の口調に、何だか否定や取り繕いも面倒になる。
 宍戸は溜息をつきながらぼそぼそと言った。
「わかってる」
 一学年下の背の高い後輩は、何故だか宍戸を慕っていて、どちらかといえば性格のきつさが災いしてあまり人に懐かれるという経験のない宍戸にとっては稀有な後輩だ。 
「わかってる。あいつは、誰に対しても優しいよ」
 宍戸の呟きに含まれたものを跡部は察したようで。
「そうだな」
 ただな、と気のない声でその後を続けた。
「その誰もを、お前と同じ位置に置くな」
 どう見たっててめえには特別扱いだろうがと、うんざりとした様子で告げられる。
 宍戸はまたも溜息だ。
「……んな事ねえよ」
 跡部は呆れ返っていると伝える沈黙しか返してこない。
 それは宍戸の予想の範疇内だ。
 そもそも跡部がこの話を振ってきただけでも珍しいくらいだ。
 恋愛沙汰に対して、跡部はシビアで厳しい。
 まるで手加減をしない。、
 宍戸とて、少なくとも跡部相手には決して話す類の内容でないと判っている上で、うっかりと零してしまったのだ。
 こうなればやけだと宍戸は溜息をついて白状した。
「わかんねえんだよ。あいつ」
「………………」
「わかんなくて、なんかもう、……自分自身にイラつくんだよ」
 優しく、穏やかで、素直な後輩。
 何故あそこまで慕われるのかと宍戸自身が怪訝に思う。
 しかしそれと同時に、何も自分だけが特別なのではないとも、宍戸は思う。
 鳳は誰に対してもそうなのだ。
 礼儀正しく、気さくで、丁寧だ。
 宍戸は物慣れなくて戸惑うけれど、鳳のそういう態度は誰にでも向けられていて。
 だから別段自分だけが特別なのだとは思わないようにしようと、言い聞かせていないと。
 なんだかおかしな感情を生みそうで宍戸は落ち着かない。
 こわい、と思うのだ。
「誰にでも優しいのがそんなに不満か」
「………………」
 そういう風に言われると、よく判らなくなってくる。
 それが嫌なのだろうか。
 それとも、自分に優しいのが嫌なのだろうか。
 結局何だろうなと宍戸はあいまいな苦笑いを浮かべるだけになる。
 溜息混じりにうつぶせていた顔を上げる。
 パソコンに向かっていた跡部が、椅子の背もたれに肘を乗せて、振り返ってきた。
「宍戸」
「……なんだよ」
「びびるな」
 短いその一言に宍戸は押し黙った。
 言葉がすぐに出てこなかった。
 いつもなら反抗心に火をつけるような言葉である筈なのに。
 跡部相手に、宍戸は何も言えなくなる。
「何でてめえがそんなにびくついてる」
「………びくついてんのか…俺は」
 驚いて確認した声は、何故だか途方にくれたような弱い声音になってしまう。
 跡部は秀麗な顔を呆れで歪めて、きつく嘆息した。
「は、…自覚ねえのかよ」
「………………」
「てめえはな、宍戸。懐いて、慕って、盲目的にお前に心酔してる鳳に、びびってんだよ。ここまで言ってやりゃ、何でだかもう判んだろうが」
「跡部…」
「呆れて物も言えねえよ」
「……それだけ喋っておいてよく言うぜ」
「いい加減その鬱陶しい顔引っ込めろ。うぜえ」
 吐き捨てる口調にも、いつもと違い腹もたたない。
 宍戸はのろのろと上体を起こした。
「悪ぃ。へんな話した」
「全くだ」
 容赦ない返答をしながら、跡部は立ち上がった。
 宍戸の二の腕を掴んで歩き出す。
「なん、…」
「うるせえ。腑抜けのお前と試合をしてやるから有り難く思え」
「はあ?」
 何なんだよと睨みつけて毒づきながらも、でも何となく笑ってしまって、宍戸は跡部に引っ張られるようにしてコートへ向かった。




 ここ最近の宍戸の鬱々としたものなど木端微塵にしてくれる勢いの跡部とのゲームを終えて、宍戸はコート脇に座りキャップを外して髪から汗をうちふるう。
「……あの野郎…」
 えげつないくらい完璧な強さを見せつけてきた相手に対して毒づきながらも、言葉ほど宍戸の機嫌は悪くなかった。
 腹が立つのは勝てない自分に対してだけだ。
「宍戸さん」
 ふと影が落ちてきて。
 声も降ってきて。
 顔を上げた宍戸の視界は、自分の向かいに立った鳳でいっぱいになる。
「長太郎」
「隣、いいですか?」
「おう」
 背が高いけれど圧迫感のない鳳は、宍戸の横に腰を下ろして、手にしていたタオルを差し出してくる。
「サンキュ」
「いいえ」
 やわらかく穏やかな鳳の笑みは、いつ見ても丁寧で甘い。
 自分にまでこんな表情を見せる鳳に、正直宍戸は躊躇いを覚えるのだ。
 正直慣れない。
 好意だとか、信頼だとか、そういうものに。
 当たり前のようにそれらを示してくる鳳に、宍戸は、それがひどく特別な事のように感じ取ってしまう事が怖い。
 いつも自分に、そうではないのだと言い聞かせていないと、まるで自分だけが特別扱いされているような気にうっかりなって困るのだ。
「珍しいですね、試合」
「ああ…」
 そういえばそうかなと宍戸は跡部との対戦を思い返した。
 鳳から向けられる呼びかけは、いつでも自然だ。
 だから宍戸も気負いなく返事が出来る。
「なにか…」
 しかし今はすこし違っていて。
 鳳の言葉は、そこで途切れて。
 宍戸はタオルをこめかみに押し当てたまま鳳を見やった。
 何だ?と目線で促すと、やけに真面目な顔をした鳳が、しばらく宍戸をじっと見た後、ぽつりと言った。
「会話、してるみたいな試合でしたね…」
「…会話?」
「宍戸さんと、跡部部長。テニスしながら、二人だけが判るような言葉で、話してるみたいで…」
 また言葉が途切れる。
 その違和感よりも更に強いのは鳳の表情だった。
「長太郎?」
「ちょっと…悔しかった」
 言葉通りの表情。
 宍戸は面食らう。
「何言ってんだ、お前」
 別段責めるような言い方ではなかったのに、鳳はまるで睨むように宍戸を見据えてきた。
 それがあまり見たことのない顔で、宍戸も戸惑ってしまった。
「…長太郎…?」
「だって、俺の言葉は届きそこなってばっかなのに」
「え?」
「どうして?」
 なんでなんだろう、と力なく呟かれてしまってますます宍戸は混乱してしまった。
 どうしてだとか、何故だとか、そんな事は自分の方こそ聞きたい。
 鳳が突然何を言い出したのかまるで判らない。
「お前が……なんだよ?」
「俺…?」
 問いかけに問いかけで返してきて。
 鳳はひどく悔しそうに肩を落とした。
 見たことのない表情ばかり見せつけられて宍戸は言葉に詰まる。
「本当は…独占したいとか、そういうのだけです。俺は」
「長太郎?……」
「我儘だって…判ってますよ、ちゃんと。でもね」
 タオルに手を伸ばしたのかと思った鳳の手は、タオルごと、宍戸の手を包んできた。
 宍戸がぎくりと肩先を跳ね上がらせたのと同時。
 鳳が座ったままお互いの距離をぐっと縮めてくる。
 怖くて竦んだ訳ではなかった。
 ただ、宍戸は驚いたのだ。
「宍戸さん」
「………………」
 俺ばっかりのひとになってくれたらいいのに、と呻くような声で言われてしまって、宍戸は本当に唖然とした。
 鳳に掴まれている手首は痛いくらいだった。
 そういう言葉や力強さは、どれも宍戸の知らない鳳だ。
「頼ったり、憂さ晴らしとか、愚痴言うだけでも、八つ当たりだっていい」
「長太郎、…」
「俺は、全部、欲しいって。それが伝わらない」
「おい……」
「好きですって、何度も言ってるけど、本気にして貰えないの、どうしてなんだろう」
「は、…?……」
 切羽詰まった態度では、笑い飛ばす事も出来ないけれど。
 いったい鳳が何を言い出したのかと、言われた言葉すべてに宍戸は茫然となるばかりだった。
 好きだという言葉。
 確かに鳳はやわらかく、丁寧に、会話に織り込んできたけれど。
 でもそれは。
「宍戸さんは言われ慣れてるんでしょうけど……でも俺はね、そういう人たちと同じ位置に置かれたくないって事だけ、判って」
 どこかで聞いたことのあるような言葉が放たれた鳳の口元を、凝視するくらいしか、宍戸に出来る事はなかった。
 言われ慣れてるってなんだ、と愕然とした。
 鳳は宍戸の沈黙をどう受け取ったのか、最後の懇願めいた言葉で少し感情を落ち着かせたようで、宍戸の手首を掴んでいた指をそっとほどいた。
 労わるように指先で宍戸の皮膚を撫でて、徐に立ち上がる。
「宍戸さん」
 それはもう、宍戸のよく知っている鳳の声だ。
 逆光になった鳳を、宍戸は眼を細めて見上げる。
 表情までは判らなかった。
 けれど鳳は微笑んでいるように宍戸には思えた。
「宍戸さんが好きです」
「………………」
「諦めないです」
 手を差し伸べて引き起こしてくれる鳳の手に無意識に従ったまま、宍戸も立ち上がり、そうしてからもまだどこかぼんやりとした感じで足元が覚束ない。
 誰にでも優しく真摯な後輩。
 それを自分にまで、と宍戸が思っていた、これまで。
「宍戸! 鳳! いい加減にしろ、てめえら」
「うわ、部長相当怒ってますね……行きましょう、宍戸さん」
「……長太郎…?」
 鳳に再度掴まれた手首。
 走り出した鳳に優しげに引きずられ、宍戸も走る。
 跡部の怒声は呆れのたっぷり染み込んだ声音で、その意味合いは、きっといろいろな理由を含んでいる。
 ひょっとすると跡部は、宍戸の心中を見透かしていたのと同じように、鳳の心中もまた判っていたのかもしれない。
 今宍戸は面食らうばかりで、いったい何をどうすればいいのかまるで判らない状態だけれど。
 きっと鳳も、宍戸の思っている事になど、まるで気づいていないのだ。
 甘い目眩と戸惑いの坩堝で溶けていくような感覚。
 迷子のような自分達。
 早く抜け出さないと。
 早く気付かないと。
 早く、早く、そう、思いが募って、走って、走っていて、言葉が追い付かない、気持ちは膨れ上がる。
 どうしたらいい?という疑問は己に向けるべきか、相手に投げかけるべきか。
 今はただ目の回るような高揚感に攫われるようにして走っているので精一杯。
 鳳の手はしっかりと宍戸の手を握っていて、宍戸の思考は鳳でのみ埋められている。
 こんなにも近くにいて、こんなにも懸命で、それでも今尚、自分達は迷子のままだ。
 突然なのに、驚くよりも、ほっとするようなタイミングでいつも乾は現れる。
 当たり前のように自分に差し向けてくる手に、海堂はいつも躊躇する。
 必ずの、そのためらいの理由は、何だろうか。
「海堂?」
「………………」
 おいで、と微笑まれて、やさしく伸ばされてくる手。
 その手を前にして、海堂はいつも動けなくなる。
 辛抱強く待たれてしまうとますます踏み出せない。
「………………」
 乾は今春、青春学院の高等部へと入学した。
 その新しい校舎から、中等部へと忍んでくるように、ふらりと現われた先はテニス部の部室だ。
 最後まで部室にいた海堂に、仕事は終わった?と甘い優しい声で誘い出すように帰宅を促して。
 それが何だか日常であるような錯覚を海堂に覚えさせる。
 どうしてここにいるのかと思うけれど、口に出して尋ねる程不思議な事には思えない。
 乾と対峙するだけで、こうして二人でいることに、疑問を覚えなくなるのだ。
 一緒にダブルスを組んでいた頃に比べれば、一緒にいる時間は格段に少ない。
 でも、迎えにきた乾に促されて部室から出て、しばらく一緒に並んで歩いて。
 あまりたくさんは話をしなかったけれど、その沈黙は全然苦痛でない。
 それはやはりいつもの自分達だ。
 海堂は、気ばかり急いているような最近の自分をうっすら自覚した。
 気負っている訳ではないけれど、最上級生になって、新入部員も増えて、環境の変わった春先、気持ちにゆとりが足りない。
 昔から、乾といるとそれまで気付かなかった事に思い当たる事がよくあって、今もただ一緒にいるだけなのに、海堂は気づいたあれこれを噛みしめて乾の背中を見やった。
「………………」
 今、乾に促されて海堂が進む道は、自宅へ向かう道ではない。
 すこし寄り道、と途中で耳元近くに囁かれて。
 それに異論はなかったけれど。
「海堂」
 ふと足をとめた乾が、後ろ手で差し出してきた手には戸惑う。
 乾が、海堂とつなごうとする手。
「………………」
 取れと言うのだろうか。
 海堂は呼吸を詰めて思う。
 いつも、いつも、当然のように差し出される彼の手を。
 その都度、当然のように、自分が?と海堂は自問する。
 それは乾にはどうという事ではないのかもしれないが、海堂にしてみれば、こうやって身動きもとれなくなる程の出来事なのだ。
 乾から与えられるものは大抵、海堂が初めて受け取るものばかりだ。
 昔も、今も。
 これからもだろうか。
 そしてこれからも、この手は海堂に伸ばされるのだろうか。
「ほら。海堂」
「………………」
 乾は肩越しに振り返ってきて、やわらかく唇に笑みを浮かべた。
 それは日の暮れかけた春の空気に溶け込むような笑みで、大丈夫だよと乾は続けて、じっと海堂を見つめてくる。
 何だかますます反応出来なくなる海堂にも、乾は寛容で、根気強い。
 しばらく見つめられたまま。
 そして結局は乾の方から、海堂の指先をそっと手の中に握りこんできて、大丈夫だからとまた笑う。
「………………」
 ひとの言葉を信じる事への安堵と、つながれた手の感触に乱れた鼓動が入り混じる。
 乾がゆっくりと歩き出す。
「桜、好きだろう?」
「はい…?」
「すごく綺麗な桜を見つけたから見せてあげるよ」
「………………」
 穏やかな声。
 惑いのない手。
 促され、歩き出し、海堂は乾の広い背中を見つめる。
 手を、つないでいていいのだろうか。
 こうして。
 見下ろすと、乾の大きな手の中に包まれるようになっている自分の手が目に入って、海堂は戸惑う。
 同じ分だけ、安心もする。
 手をつなぐ。
 乾は極自然にそうしたけれど、ものすごく特別な事だと海堂は思う。
 あまり、人通りはない。
 辺りは少しずつ暮れなずみ、ひっそりと静かだ。
 どこに行くのかは知らない。
 でも連れられて歩いた。
 手と手をつないで歩く。
 爪先が疼いた。
 乾の歩幅は広くてゆっくりだ。
 海堂の呼吸のペースに似通っている。
 深くて、合わせてみると、すこしくらくらする。
 海堂は黙って歩いた。
 固そうな、しっかりとした骨格の背中を見据えて、どことも知れぬ行先は桜のある場所だという事だけが海堂の知り得る世界だ。
「………………」
 桜。
 今盛りの花が、確かに海堂は好きだった。
 それを乾は当然のように知っている。
 データ収集が趣味の男であるから、別段特別なことではないのかもしれないけれど。
 海堂にしてみれば、いつでもどんなことでも、さりげなく乾に理解されている事が多くて物慣れない。
「ほら。あそこだ」
「………………」
 乾の背中しか見ていなかった。
 促されて我に返ったような気持ちで海堂は言われた先を見据える。
 乾が指さしたのは、本当に小さな公園だった。
 雨風に塗装の剥げた小さな遊具は、すでに本来の機能を果たしていない。
 小さなベンチがあって、それが辛うじてそこが狭隘ながらも公園なのだと知らしめている程度の空間。
 でも、ささやかなその公園には、伸びやかな枝ぶりを広げる桜の樹が、淡い花びらをやわらかく撓ませるようにして花開いていた。
 近づいて行って、ベンチの前で、桜を見上げる。
 大きすぎない桜の樹は、とても視界の近い所で、ほころぶ花の色味も繊細に咲いていた。
 きれいだよなあ、とひとりごちる乾の声に、無意識に頷いた海堂は。
 片頬を乾の大きな掌にくるまれ、その動きを途中で止められる。
「…先輩…、…?」
 乾の手は海堂の頬をくるんだまま、ゆっくりと上体を屈めるようにしてきて、海堂の唇にそっと重ね被せるような一瞬の接触を落として、離れていく。
「………………」
 あまりに自然すぎて、一瞬何事もないかのようにそれを受け入れた海堂だったが、間近にいる乾の顔をぼんやり見ているうち徐々に正気づいてくる。
 何を、今、この男は、と絶句する。
 あはは、と乾は力の抜けた笑いを零して、ごめんな、と海堂のこめかみに唇を寄せてきた。
「だ…っ……、から…!」
「頷き方、可愛いな、おまえ」
 うん、って可愛かったから。
 そんなことを言って優しく笑う乾に海堂はますます言葉を失った。
 乾は、ごめんごめんと言いながら海堂の手を握ったまま、ひとりベンチに座った。
 海堂は乾の正面に立って、普段とは逆位置にいる乾を見下ろした。
「小さすぎるんだな、ここの敷地が」
「………………」
「もうすこし広かったら人も集まって騒がしくなりそうだけど」
 桜を見上げて言う乾の、のんびりとくつろいだ笑顔に、海堂は甘苦しい気持ちになった。
 疲れてるのかと思い、気づいた時にはつながれていない方の手を海堂は伸ばしていて、乾のこめかみあたりを手のひらでそっと撫でる。
 乾が嬉しそうに目を細めて、すこしだけ海堂の手のひらにもたれるようにしてくる。
「なあ、海堂」
「………なんすか…」
「海堂は、桜のどこが好きなんだ?」
「………………」
 いきなり何だと思いこそしたが、別に二人でする会話に理由が必要な訳でもない。
 海堂は、そっと乾を見下ろして、それから満開の零れだしそうな桜を見やった。
「花が…」
「…うん?」
「花が咲いた後に葉が茂るから」
 すこし考える顔をしてから、ああ、と乾は頷いた。
「確かに桜は、花が散って終わり、じゃないな」
 花の後に新緑がある。
 花が散ってしまっても、物寂しさを感じる前に、青々と艶やかな葉が茂る。
 他の花とは違う。
「そうか。判った」
「…先輩?」
「うん? 海堂がね。桜を好きな理由がさ」
「……嫌いな奴はあまりいないと思うんすけど…」
「そうだね。けど、海堂の好きにはいつもちゃんと理由があるからさ。何となく好き、とかいうのはあまりないだろ」
 だからそれ知りたくてね、いつも、と乾は言った。
 海堂の手を取ったまま、海堂の手の甲を親指の腹でやわらかくたどる。
「好きなものに対して、曖昧な理由とか感覚っていうのがあまりない海堂だから、そういうの余計判りたいって思う」
「………………」
 考えもしていなかった事を言われて海堂の思考は逡巡する。
「だから知りたくなる。海堂が好きなものの、理由」
 探究心は、乾の専売特許だろう。
 真っ直ぐに見上げられる眼差しには、もっと甘い光もあって。
「乾先輩」
「ん?」
「あんたを好きな理由は、もう知ってますか」
 それとも聞きますか、と海堂は言って、ひっそりと笑った。
 乾があまりにも判りやすく、絶句して、恋に溺れて、撃沈した顔を見せたからだ。
「海堂ー……」
 海堂の両手を握り取る乾の手に力が入った。
 泣き言めいた声に海堂は何ですかと促すけれど、乾は何も言えないみたいでそれがまた海堂の笑みを深くさせる。
 すこし風が吹いて、桜の花びらが散ってくる。
「先輩…?」
「桜はきれいだわ…海堂はきれいだわで……」
 参った、と海堂の両手を握り込んだままベンチに座ってがっくり項垂れる乾の肩先にも桜の花びら。
「……なら、顔、上げてください」
 自分がどうだかは知らないが、桜は本当に綺麗だ。
 ちゃんと見ろと海堂が促せば、乾は顔を上げてきて。
 だから海堂は身体を屈めて、近づいた。
 そっと、乾の頬に、唇を寄せる。
 大切な、大切な、ひとだから。
 与えてもらうばかりだった時間が随分と長かったので、急がないけれども、きちんと。
 海堂からも与えたいから。
 触れるだけの頬へのキスからまずは。
 赤澤がコートの中で固まっている。
 聖ルドルフのテニス部内でシングルスのトーナメント戦を行った試合での最終勝利者でありながら、赤澤は試合が終わった後も何か思う顔でコートに立ちつくし、周辺の視線を集めている。
「どうしただーね。赤澤は」
「さあ?」
 柳沢の問いかけに首を傾げた木更津は、裕太からも同じ質問を向けられて、何で俺に聞くのかなと肩を竦める。
「俺にはよく判らない。二人とも観月に聞けばいいのに」
「無理だーね! なあ、裕太」
「そうですよ!」
 そもそも普段から精神的にも体力的にもタフな赤澤の様子がどこかおかしいとなれば、原因は大抵ひとつなのだ。
「…どうせ観月絡みだろうって、二人とも思ってるってわけだ」
 木更津の冷静な声に、柳沢と裕太が揃って大きく、こくりと頷いた時だ。
「悪い。走ってくる」
 それまでどこかぼうっと空を見上げていた赤澤が、特に誰に言ったというでもない口調でそう告げて、長い髪を右手でかきまぜるようにしてコートから走って出て行ってしまった。
 落ち込んでいる風ではない。
 機嫌が悪いといった気配もしない。
 ただ普段のさばさばとして何事にも直球な赤澤ではなく、何か気難しげに、煮え切らないものを無理やり飲み込んでいるような。
 何とも曖昧な雰囲気を滲ませている。
 喧嘩だろうか。
 そう思って三人がそっと盗み見た観月は、コート脇のベンチに座っている。
 腿に乗せたノートパソコンの画面ではなく、走っていった赤澤の背中を見ていた。
「喧嘩……」
「………って感じでもないんだけどなぁ」
「ですよね…観月さんも、ちょっと腑に落ちないっていうか…戸惑ってるって感じですよね…」
 何なんだと迷う部員たちをよそに部活が終了する時間になっても部長は戻らない。
 溜息混じりにマネージャーである観月がベンチから立ち上がり、終了の号令をかけ、部活を終わらせてもまだ赤澤は帰らない。
 観月が無表情のまま、ひとり部室には向かわず、ジャージ姿のまま歩き出したのを横目に。
 テニス部員たちは慌てて部室へと向かい、身支度を整え、次々帰宅していく。
 有能で手厳しい辛辣なマネージャーと、寛容でマイペースで大らかな部長の言い争いは、珍しい事ではないものの、迫力がある事には変わりない。
「さ、俺達も帰ろっか」
「だーね」
「…大丈夫でしょうか? 観月さんたち」
 真面目に肩を落とす裕太を間に挟んで、寮へと歩いて行きながら、柳沢と木更津のダブルスコンビは図らずとも同時に、内心で同じ事を考えていた。
 そろそろかな、と。
 つまりはそういう事だ。




 観月はテニスコートを離れ、部室棟を過ぎ、グラウンドに向かう途中、教会の手前で足を止めた。
 赤澤が教会の壁に、寄り掛かって立っている。
 仰のいた喉元を汗が伝っている。
「部長」
 歩み寄って行き、手にしてきたタオルを観月が差し出しても、赤澤はどこかぼんやりとしている。
 黙って見返してくるばかりなので、観月は溜息交じりにタオルを赤澤のこめかみあたりに押し当てた。
 汗を押さえるようにしてやりながら、静かに問いかける。
「どうしたんですか。部長」
 されるがままでいる赤澤の長い髪が、汗で首筋に張り付いているのを、そっと指先で払う。
「そんなに調子悪そうには見えないですけど…何かありましたか」
「観月」
「何ですか」
「………………」
 しっかりと名前を呼んできたのに、それで口を噤んでしまう赤澤にも不思議と苛立つことはなく、観月は淡々と先を促した。
「何ですか? 赤澤部長」
 二人で向き合って立っている足元に射し込む教会の日陰の色が次第に傾きを広げ、濃くなっていく。
 観月も黙ると、静かに沈黙が落ち、場は音も色身も密やかに静まった。
 見下ろすように観月を見つめてきていた赤澤が、深い溜息を吐き出しながら低い声を放ったのは、どればかりしてからのことだったか。
「……、…っ…あー、…! マジで駄目だ」
「…赤澤…?」
 突然に声を上げた赤澤は。
「走ってくる」
「は?」
 面喰った観月を余所にまたもや走り出そうとして、しかし今度は観月がそれを行かせない。
「あなた、さっきから走る走るって」
「悪い。観月」
 赤澤の強い腕が、それでも力の加減を気遣うような手つきで観月の肩にかけられる。
 押しのけられる。
 観月を避けて走っていこうとする赤澤を、観月は両手で押しとどめた。
「待ちなさい」
 ユニフォームを握りこむ子供っぽいしぐさになってしまったが、気にしてなどいられない。
 観月は目線をきつくして赤澤に対峙する。
「ちょっと落ち着きなさい。何がどうしたんですか!」
「……止めるなよ」
 赤澤が少々面食らったような顔をして観月を見つめてくる。
 まさか止められるなんて思ってもみなかったという顔だ。
 走ってくるだけだって、とその後付け加えられた言葉に、観月は更に眉間を歪めた。
「いい加減オーバーワークです。いくらあなたが頑丈だからって、むやみやたらに走ったって、意味ないです」
「勘弁しろよ…観月」
 走らせろって、と赤澤が普段あまりしないぞんざいな所作と声とで観月の制止を振り切ろうとする。
 そうなってくるとだんだんと観月も憮然となって、口調が荒くなる。
「だいたい、何を考えてるか知りませんけど、そんな風に上の空でやたらに走ったって怪我するだけですよ」
「上の空じゃねえよ」
「上の空ですよ!」
「空っぽにしたくて走ってんだっての…!」
 大声を出したかと思うと、赤澤は続けざま更なる声で怒鳴った。
「俺の頭の中なんざ、お前の事ばっかだよ!」
「……は?」
 一言もらすのが精一杯。
 それっきり絶句した観月の表情をどう見たのか、赤澤は深く嘆息して、軽く頭を左右に振った。
「いや、…それは元からだからいい」
 よくない!と咄嗟に言ってしまいそうで、言うことの出来なかった観月に対して、赤澤も少し頭が冷えたようだった。
 大きく目を見開いたままの観月を横目に見やって、小さく溜息をつく。
 溜息ばかり何回つく気だと観月はぼんやり思う。
「あのな、観月」
「……なん…ですか」
「俺は、お前が好きだ」
「………はい…?」
「それはさっきも言ったけど、まあ、元から。かなり前から、ずっとだけどな」
「…部長?」
 だけどな、と赤澤が真面目な顔で観月を強く見据えてくる。
 咄嗟に観月は息をのんだ。
「お前に手を出したい」
「………………」
 怖いくらい真剣な顔で。
 声で。
 いったい何を言い出したのかと観月は唖然と赤澤を見返した。
 好きだと言ったのか。
 手を出したいと言ったのか。
 この男は、自分に。
 きつすぎるような精悍な顔立ちで、真剣に告げられて、観月は混乱すら出来ない。
 言葉は言葉のままだ。
 そして赤澤は嘘をつかない。
 ごまかすこともしない。
 この驚愕は、観月に混乱ではなく幾許かの怒りを運んできた。
 それは次第に濃く、強くなる。
 元から、前から、好きだとか。
 そんなの観月は知らない。
 今の今まで知らなかった。
 しかも赤澤が、それは別にいい、なんて言う事も気に食わない。
 そういう風に、避けておけるような感情なのか。
 それから、と観月は思考の回転を尚早めていく。
 何より観月が一番に腹をたてたのは、赤澤が頭の中を空っぽにしたいなんて言った言葉だ。
 何故空っぽにされなければならないのか全くもって理解不能だ。
「……っ、…だから、貴方は馬鹿だっていうんです!」
 観月は声を振り絞って叫んだ。
 だいたい、と更に感情の赴くまま、観月は赤澤を怒鳴りつけた。
「僕に手を出したいならそうすればいい。何故しないんですか!」
「おい、」
「僕にしたいことがあるんでしょう? そういう事が、違う事で発散出来るとでも本気で思ってるんですか?」
 観月の明確な怒りに面食らっていた赤澤だったが、観月の最後の言葉にはきっぱりと首を左右に振った。
「いや、それは無理だ。今走ってて完璧にそれは判った」
「遅い!」
「容赦ねえなあ…」
「貴方は情けない声を出さないでください」
 それでも、赤澤が微かに笑った顔に、観月は内心ひどく安心した。
 ここ最近の赤澤ときたら、観月をもってしても何を考えているのかまるで判らず、その事がどうしてこんなにと観月自身びっくりするくらい、心許なく思えてならなかったのだ。
 いつもどれだけストレートに感情を明け渡されていたのか、それをひしひしと思い知らされた。
「観月」
「………………」
 さりげなさすぎて、そうされて一呼吸たってから初めて、観月は気づいた。
 抱き寄せられている。
 教会の影、観月は赤澤の腕の中にいる。
「………………」
 胸が、痛い。
 ひとつ強く心音が鳴って思わず息を詰める。
「…赤澤…?」
「でもな、観月」
 囁くような赤澤の声は振動で伝わってくる。
「お前、ああいうこと言うのは止めとけ」
「……何ですか」
「したいならすればいいとかだよ」
「いけませんか」
 言葉を返せば、顔が見合わせられないほど互いが近くにいることに気づかされる。
 観月の言葉は赤澤の胸元に篭った。
 赤澤の言葉は観月の髪先に触れる。
「どうして僕だけ文句言われるんですか」
「文句って、お前」
「正しく順を踏むなら別に問題はないでしょう。何を貴方は愚図愚図言ってるんですか」
 胸は、相変わらず、ずきずきと痛むくらいに鳴っていて。
 観月は怖い訳でもないのに震える唇を噛みしめながら、言い募った。
 赤澤は何だか唖然としていた風だったが、一度きつく観月を抱き締めてから、観月の肩に手を置いた。
 ひどく大切そうな手つきで肩を包まれ、そっと離される。
 観月が顔を上げると、汗で濡れた顔がゆっくり近付いてきて。
 赤澤の長い髪も汗に濡れていて。
 お前が好きでどうにかなりそうだという赤澤の言葉が、甘い詰りで観月の唇になすりつけれる。
 言葉をそのまま封じ込むよう唇が塞がられ、赤澤の舌が中に入りたそうに観月の唇のあわいを擽った。
 遠慮がちな舌先を、いっそそそのかすように少し噛んでやろうとした観月だったが、うすく唇をひらくなり貪欲に赤澤の舌に侵入してこられて、むしろほっとした。
 頭をかかえこまれるように固定される。
 強引だ。
 そして優しい。
 そんなキスを繰り返される。
 赤澤の手のひらの中で、自分が小さく閉じ込められていくような甘苦しさがあった。
「観月………観月…、」
「………っ…ぅ…」
 角度を変えられ、塞ぎ直され、唇を、何度も、何度も、キスで触れられて。
 赤澤の腕の中で、再び胸元に押さえつけられるように抱きしめられてからも、観月は幾度も薄い肩を喘がせ続けた。
 その間ずっと、観月の背中は赤澤の手のひらに撫で摩られていた。 
「…赤澤…部長、……あなた、…ね…」
「……ん?」
「これが最初で最後…って訳じゃないんですから…!」
 もう少しそのへん考えなさいよと観月が叱ると、赤澤は喉奥で転がすような笑いを零して、そうだなと言いながら両腕で観月を身ぐるみぎゅうぎゅうと抱きしめてくる。
「だから…! 逃げたりしてないんですから、そんなに力を入れなくていいでしょう…っ…」
「悪い」
 何だかもう、どんどん今になって恥ずかしくなってきた。
 照れ隠しのように怒り出す観月を抱きよせて、赤澤はここ最近の彼とはまるで別人だ。
「正しく順を踏めば、問題ない。…ってことで、OKか?」
「……さっきそう言ったでしょう」
「判った。もし俺が正しくなかったら、お前が修正してくれ」
 いきなりふるなよと赤澤が言うので、馬鹿と悪態をつきながら、観月も両腕で赤澤の背中を抱きしめ返す。
「僕がずるかったら、あなたが訂正を」
「ん」
 誓い合う。
 何故ならここはそういう場所だからだ。
 一昨日はすごく雨が降った。
 昨日は汗ばむほど暖かかった。
 今日は晴天だが身震いするほど冷たい強風が吹き付けてくる。
 春先の気候だけでも、そんな風に充分めまぐるしいのだから。
 学校帰りの待ち合わせ場所の公園で、久しぶりに顔を合わせるなり思いっきり不機嫌な顔をするのは止めて欲しい。
 神尾はそう思った。
 不機嫌な顔をしてきた相手は、跡部だ。
 神尾の目の前で凄む跡部の形相は、はっきり言って凄まじい。
 おっかない。
 憤怒の表情ではない。
 跡部は本気で怒ると秀麗な顔を怜悧に冷たくきつくする。
 むしろ無表情の領域で。
 そういえば自分の親友もこういう怒り方をするよなと神尾は思った。
 綺麗な顔の人間は怒り方も同じなのだろうか。
 ほとんど毎日顔を合わせる親友は、いつ見ても綺麗な顔をしているが、半月ぶりに会った跡部の顔立ちの整い方というのはまた破格だ。
「てめえ」
「………へ?」
 ぼんやりそんな事を考えていたせいか、神尾は跡部の唸り声で、はっと我に返る。
「んな間の抜けた言葉じゃなくて、俺に他に何か言う事ねえのか」
 腕組みして壁に寄り掛かっている跡部は、神尾を見下ろして更に冷たく鋭い視線を引き絞り、あらゆるものを凍りつかせるような声を放つ。
 脅えるわけではないが、怖い…と神尾は硬直した。
 ここでうっかりと迂闊な言葉など零したら、いったいどうなるのか。
 判らない。
 跡部の顔をじっと上目に見ながら、神尾はどうしたものかと思い悩む。
 何か自分はしただろうかと。
 どうしてこんな状況になっているのだろうかと。
 考えるが、だいたい、何か言う事と言われても、何ひとつ思い当たらない。
 困る。
 判らない。
 だから腹も立つ。
 次第に眉根が寄っていく神尾を跡部はどう見たのか、顎を軽く上げて見下す視線を一層鋭利に光らせて、低い声で吐き捨ててくる。
「何で来た」
 何でって。
 神尾はそれにはさすがに唖然とした。
 約束していたではないか。
 言ったのは跡部だ。
 無論神尾も同意した。
 約束の時間、約束の場所に来た神尾を、無言の怒りで迎えた跡部にこそ、神尾は何でと聞きたいくらいだ。
 それでも咄嗟に、日にちや時間間違えてないよな?と神尾は一度は我が身を振り返ってから、意見した。
「…どういう意味だよ、それ」
「………………」
「跡部、なに怒ってんの…?」
 神尾だって不機嫌に口にした言葉は、何故か少々力なく響いてしまった。
 言ってしまってからそれに気づいて、神尾はごまかすように慌てて跡部から視線を外す。
 なんか。
 なんかこれでは、傷ついたというのが、あからさまだ。
 実際そうなのだけれど。
 会いたくて、跡部に、それで神尾は来たのに跡部は何だかとても怒っていて。
 あからさまに不機嫌で。
 自分が何かしただろうかと神尾も考えるのだけれど、だめだ、頭がうまく働かない。
 跡部と対峙した瞬間から、だめだ、いろいろな事が判らない。
 跡部は何も言わないから、神尾は不条理だと思いながらも繰り返し理由を当たるが、判らない。
 神尾の視界は自身の足元しか見えていないから、跡部の表情までは判らないけれど。
 多分変わらず冷たいような眼のままだろう。
 跡部は。
「………………」
 跡部とは本当によく喧嘩もするけれど。
 だいたいは些細なきっかけがあってのことで、あまりこういう、訳のわからない諍いを起こした事はなかっただけに神尾はどんどんと何も言えなくなっていく。
 約束しておいて、来たら来たで、何で来たなどと言われるのは甚だ理不尽だし不条理だと思うのだけれど。
 それを責める言葉も紡げない。
 何を、どう言えばいいのか判らなくなる。
「じゃ…帰る」
「言ってねえだろ、そんな事」
 跡部の即答に神尾は却って腹が立った。
「言ってるだろ!」
「来たからには帰さねえよ」
 帰さないなどと言いながら、漸く目線が合った跡部の表情には甘さのかけらもなくて。
 やっぱり不機嫌丸出しで。
 腕を組んだまま、神尾を睨んでくるだけだ。
「……いい。帰る」
「いいわけねえだろ」
「いいから帰る」
「よくねえって言ってんだろうがっ」
 いきなり正面きって怒鳴られて、神尾は思わずびくりと身体を竦ませる。
 跡部が僅かに目を見開いたのが判った。
「神尾」
「……訳わかんね、よ……跡部、」
 整いすぎる顔での本気の不機嫌は拒絶にも似て、実際拒絶なのかもしれないと思ったらもう居たたまれなくて。
 神尾が一歩後ずさると、跡部が右腕を伸ばしてきて、神尾の左の二の腕を掴んできた。
 その手の力は強かった。
「……バァカ」
「………………」
 何で泣くんだと呆れた風に言われて。
 泣いてないと即座に言い返したまではよかったが。
 そのあと思いもしなかった優しい仕種で跡部の指先が神尾の目元を擦るから。
 結局それでびっくりして、ぽろっと零れ落ちてしまったのだ。
「神尾」
「……っ、…」
 跡部が悪い。
 みんなみんな跡部が悪い。
 そう言ってやりたくて言えなかったのは、口を開いたら本当に声にして泣いてしまうかもしれないと思ったからだ。
 ぽつんと一滴落ちた涙が呼び水にならないとも限らない。
 唇を引き結んで俯いた神尾は、ぐいっと腕を引かれて、次の瞬間。
 視界は跡部の胸元でいっぱいになった。
「予定のキャンセルくらい普通にしろっつってんだよ」
「……え?」
 思いもしないような言葉を、真意の掴めない声で告げられて、神尾はうろたえる。
 何故キャンセルなどしなくてはならないのかと神尾が目線を上目に引き上げると、跡部は溜息をつきながら神尾を見下ろしてきていた。
 もう、冷たくない、と神尾は咄嗟に思った。
 跡部は相変わらず不機嫌そうではあるが、溜息交じりに再び神尾を抱き寄せてきた。
「なに…?」
「うるせえ」
「跡部?」
 どうして?と尚神尾が聞くと。
 跡部は片腕で神尾を一度きつく抱き寄せてから、嘆息する。
 神尾の頭上に跡部の吐息が当たった。
「どうしてじゃねえよ。具合悪かったんだろうが」
「具合?……って、……え?」
「だいたいそういう事を、お前の口からじゃなく聞かなきゃなんねえのが、一番むかつくんだよ」
「跡部ー…?」
 なんか。
 なんか。
 事が随分大袈裟な気がする。
 神尾はひそやかに焦った。
 跡部の腕の中、辛うじて判ってきた概要に面食らいながらも、うわあ、と声にならない声を洩らす。
 確かに神尾はここ数日の天候不順で、少々風邪っぽかったりもした。
 調子も出なくて、リズムに乗り切れないこともあった。
 でも、だからといって、ここまで大袈裟な話ではない。
「あのさ、跡部」
「てめえが言ってこなかったってのが一番腹立つんだよ。判ってんのか神尾」
「や、だから、それはさ…」
 どうやら本当に、それが理由でここまで不機嫌らしい跡部を前に、神尾は次第に、困ったような擽ったいような不思議な気分に陥った。
 心配。
 されているのだろうか、つまり。
 そう考えると、ひどく哀しかった気持ちはたちどころに霧散して、まるで拗ねているかのように悪態をつきまくっている跡部に対して、神尾は、うわあ、と繰り返し言わずにはいられなくなる。
 しどろもどろに神尾は言った。
「何で来たとか…言うなよな……俺、今日跡部と会えるから、これまで頑張って、大人しくしてたのによう…」
「……アァ?」
「薬も飲んだし、夜はいっぱい寝て、テニスだって我慢して、セーブして。ちゃんと治して来たのに、何で文句言われてるわけ? 俺」
 ひどくねえ?と名残程度の涙目で跡部の腕の中から上目に睨んでやれば。
 珍しく跡部は言葉に詰まったかのように沈黙した。
 掴まれていた二の腕から、するりと跡部の指が外れていく。
 さみしい、と肌に感じた気持ちをそのまま表情に乗せてしまった神尾は、今度は背中を回った跡部の片腕に肩から抱き込まれて。
 また密着して。
「帰さねえって言ってるだろうが」
 素っ気ないようでいて充分に優しくもある跡部の声にほっとする。
「……んだよ、跡部のバカ」
「てめえにバカなんざ言われたくねえな」
「…バカ」
 バカ、バーカ、と急激に子供じみていく言葉にも、跡部は怒るでもなく、神尾の背中を軽く叩いてくれる。
 神尾が跡部の胸元に顔を埋めて繰り返している間、ずっと。
 そしてとうとうしまいには、ちょっと笑いを含んでいるような溜息を神尾の耳元にくれて。
「今日は否定しないでおいてやるよ」
「えらそうに言うな、バカ。なんだよ、跡部なんか」
「…会いたかったんだろ?」
「………ぅ、……」
 ひどく楽しげに跡部は囁いてくる。
「まるっきり落ち着きのないお前が、余計具合悪くしたかって周りが思うくらい、おとなしくしてたんだろ?」
「……、……」
「神尾」
「そ、……だよ、っ…悪いか…っ」
「いいや?」
 実際この上なく機嫌良さそうに跡部は笑った。
「悪かねえな」
「なに笑ってんだよ…っ」
 本気で暴れてもびくともしない。
 神尾は結局跡部の腕の中で多少身じろいでいるだけだ。
「笑ってんじゃ、ねーよっ」
「そういう事なら笑うだろ」
「跡部、!」
「は、……マジで笑える」
 屈託なく笑い声を響かせて、跡部は神尾の肩を抱いて歩き出そうとする。
 意固地になるつもりはなかったが、踏み出す一歩のきっかけをくれるような軽いキスで唇を掠られて、場所を考えれば喚いて拒むのが当然のはずなのに。
 神尾は跡部の唇が離れていく僅かな隙で、ちいさく問いかけるだけだった。
「跡部」
「何だよ」
「……誰が、言ってたんだ?」
「あぁ?」
「俺来る前、誰かから聞いた…? 深司とか…?……ぁ、…ひょっとして橘さ」
「人の機嫌の良さに水さすんじゃねえ」
「……ぇ…?」
 間近に見る跡部の表情が一瞬で不機嫌にきつくなって。
 唇を、盗むように今度は強く貪られて。
 膝がぶれ、腰を抱かれる。
「……、…っ…ふ…」
「………少しは学習しろ、このバカ…」
 なんだか久しぶりに会う跡部の機嫌は、悪くなったり良くなったり目まぐるしい。
 今度は舌打ち交じりに強引に引っ張っていかれる先は。
 跡部の家、もっと正確に言えば、跡部の家の、寝室へだろう。
 いつでも余裕のある態度の跡部は、時折こんな風に判りやすく不機嫌になる。
 荒っぽく、余裕などは欠片もないようになって、神尾の手を握る。
 広い歩幅で歩く。
 こういう跡部の気配に、神尾は時々あっさりと呑まれてしまいたくなる。
「跡部…」
 跡部は神尾に背を向けたまま片手で取り出した携帯電話で車を呼んでいる。
 それでも神尾の声は届いているようで、手短な言葉で車の手配をすると跡部は携帯を切って神尾を振り返ってきた。
「家ついてからお前に拒否権ねえからな」
「……べつに、しない…」
「明日から寝込むんじゃねえぞ」
「………なに、する気なんだよう…」
 跡部が荒れた春の風のように、勢いのある甘く婀娜めいた笑みを神尾に差し向ける。
 そんな季節の変わり目、春とか嵐とか。
 乾は慎重だ。
 しかし臆病ではない。
 抱きしめられて、キスをされて、海堂にはそのことがよく判った。
 繰り返す手は、戸惑いではなく、丁寧なだけ。
 力の強さは、乱暴なのではなく、執着を表す。
 乾の腕の中で、海堂は小さく吐息を零す。
「海堂」
 耳の際で聞こえた低い声。
 されるがまま抱きしめられている海堂が身体を僅かに震わせると、乾の手が海堂の背中を抱いた。
 そのまま乾の指先が海堂の肩口からうなじに忍んで来る。
「………、ん…」
 かたい指の腹に肌をなぞられて、海堂が僅かに俯くと大きな手のひらがぐっと海堂の後頭部を掴むようにしてきた。
 仰向けにされ、唇はすぐに深く塞がれた。
 大抵の時は無機質な気配を漂わす乾が、熱をはらむ瞬間に海堂は敏感だった。
 生々しく舌を取られて、海堂ははっきりと震えた。
 乾は角度のついたキスを尚きつくする。
 しっかりと乾の手に支えられている筈の首が、ぐらりと揺らぐような錯覚を覚える。
 水の中で溺れるような心もとなさに、海堂は咄嗟に伸ばした手で乾の胸元のシャツを掴んだ。
「海堂…」
 キスがほどけ、海堂の手はそこから引きはがされる。
 そうした乾の手は優しかった。
「……先輩、…」
 乾の指先は海堂の手のひらをやわらかく辿った。
 手のひらが疼く。
 そんなこと初めて知った。
 重ね合わせた手の大きさが違うこと。
「海堂」
 名前を呼ばれて、手と手を合わせて、唇と唇も再び重なる。
 肌が触れ合う感触より、呼吸が混ざる感触の方がより濃密で強かった。
「ごめんな」
 乾の声が呼気に混ざって海堂の唇に触れる。
「ちゃんと、ゆっくりでいいって」
 唇を幾度となく塞がれながら。
「そういうふうに、言ってやれなくて、ごめんな」
 言葉の意味はあまり判らなくて。
 海堂は乾の舌を受け入れるようにわずかに唇をひらくことで精一杯だったから、寧ろ謝るのは自分の方ではないのかと考えた。
 キスの、回数が増え、深さが増し、粘膜が過敏になっていく。
 ひとりでは出来ないことをされる。
 そういうことが海堂には物慣れなくて、ぎこちなくなってしまう所作を乾はその都度優しく詫びて。
 でも、乾は絶対に止めはしないし、海堂も絶対に嫌だと思わない。
 繰り返される抱擁。
 繰り返されるキス。
 奪い合うのではなく、与えあっている感じがする。
 密度の高い、何か甘くて熱いような、不思議で知らない感覚が溜まっていく。
 気持ちの中に、集まって、とどまっていく。
「海堂」
 髪を撫でられる。
 手をつながれる。
 乾の、いったいどこにこんな熱があったのだろう。
 海堂は目を閉じて、乾のすることを受け入れて、ふと思う。
 テニスをしている時とも違う。
 何かに没頭している時とも違う。
 この、もどかしさに苦しがっているかのような、どこか切迫した乾の声や力は。
 どこに今まで潜んでいたのだろうか。
 身動きの取れない自分。
 それは乾の力での拘束ではなく、乾があまり露にする事のない内面を僅かずつながらも剥き出しにしてくるからだ。
「………………」
 海堂は、乾に繋がれていない方の手をそっと伸ばす。
 乾の後首に指先をかけて。
 縋って。
 途端に一層深くまで貪られた唇を今より更に開いて、熱い舌を受け入れて。
「ン、……」
 自らの手でも、乾の首を引き寄せる。
 組み合わせた指と指とが更に強く結びつき、どうしようもないほどの安堵感に海堂は浸された。
 この人は。
 この男は。
 自分に何をしているのか、判っているいるのだろうか。
 聡明なその思慮の中で、本当にそれを理解しているのだろうかと、海堂はゆっくりと睫毛を引き上げるようにして乾を見詰めた。
 唇を重ねた近すぎる距離では、はっきりと見て取れる訳ではないが、それでも。
 強すぎる乾の眼の光の強さに、くらりとなって。
「………甘くなった」
 ぽつりと漏らした乾の言葉の意味を図りかねる海堂だったが、キスをほどいてから、まるで何かを味わうように乾が舌で唇を舐める仕種に眩暈をひどくして脱力する。
 乾の肩口に顔を伏せると、乾は海堂の髪に唇を寄せて、弱ったような笑い交じりの声音で囁いた。
「今、何した…?」
「……知るか…」
 掠れた小声では、虚勢を張ったところで何の効力もないだろうと海堂は思ったのだが、乾は暫く無言でいた後、唐突に。
 まるで我慢出来なくなったかのようにきつく海堂を抱きしめてきて。
 口早に、何か八つ当たりっぽいような事を暫く言っていたのだが、最後は低い声で、好きだとひたすらに。
 海堂に浴びせかけるように、言い出したので。
 海堂はそれをほんのひとかけらも取りこぼさないよう、乾の背をしっかりと抱きしめ返した。
 コミュニケーションは、ひどく不得意だ。
 けれど、それでいて、欲しいものには貪欲な自分を海堂は知っている。
 海堂を抱きしめて、海堂にキスをする、乾には、だから伝わるはずだ。
 伝える身体で、伝わるはずだ。
 何読んでんだ?と声をかけられて、鳳はベンチに座ったまま慌てて顔を上げた。
 いつの間にか鳳の正面にいた宍戸が、口元までたくしあげるように巻いていたマフラーを片手で押し下げながら身を屈めて、鳳の手元を覗き込んでくる。
 宍戸に気づいて鳳はぎょっとした。
「……んだよ、別に慌てふためくような本じゃねえじゃん」
 宍戸が鳳の手元へと伏せていた目を引き上げてきて。
 目が合うと笑った。
「………………」
 確かに宍戸の言うように、鳳は見られて困る本を読んでいた訳ではない。
 けれど鳳が、即座に本を閉じて慌てた理由は。
 夢中になって読んでいたのでは決してない本の方に気を取られて、宍戸に気付くのに遅れた自分自身に慌てたからだ。
 宍戸とは場所と時間を決めて待ち合わせていたのだから、今ここに宍戸が来ることが判っていた上での事だから尚更だ。
 広すぎる駅ビルは、駅の改札から離れたエリアの休息用ベンチほど空いていて、夏は涼しく冬は暖かい。
 待ち合わせには最適で、よく利用している慣れた場所でもある。
「あの…宍戸さん」
 鳳がベンチから立ち上がるより先、宍戸が隣に腰を下ろしてきた。
「何だ?」
 流し見られて鳳は弱ったように問いかけた。
 気付かないなんてあり得ないだろう。
「…怒って…る?」
 どこかおそるおそるの問いかけに対して、宍戸は怪訝そうに首を傾げてきた。
「何で?」
 鳳の声は更に小さくなった。
「本なんか読んでて、集中してない、とか」
 宍戸さんに、と。
 鳳が慎重に付け加えると。
 宍戸は呆れたような顔をした後、軽やかに笑った。
「ああ? 目の前にいない俺にどう集中すんだよ、長太郎」
 とん、と鳳は胸元を宍戸の手の甲で叩かれる。
 その指先が薄赤い。
 マフラーはしているけれど、手袋はしてきていないようだった。
「……俺、ひょっとして、相当ぼーっとしてました?」
 宍戸は寒がりで。
 けれどこんな風に指先が赤く染まるのは、冷えている最中よりも、少し時間が経ってからの症状だ。
 寒い場所から暖かい場所に移動してしばらくすると、宍戸の指先はいつもこういう色になる。
 徐々に色濃く、いつまでもだ。
 手にそっと握りこんでしまいたくなる微かに痛々しいような色味。
 鳳がそれに気をとられていると、肩を並べてベンチに座っている宍戸が、空中を見つめるように前を向いて、鳳の名前を呼んだ。
 そうやって声を小さくすると、宍戸の声音は、ぐんとやわらかくなる。
 鳳はその横顔をじっと見据えた。
「…ぼーっとしてたっていうなら、それ、俺の方かもな」
「はい…?」
「お前、やっぱ目立つなーって思ってよ。声掛けるまで、しばらく見てた」
「俺が…ですか。…目立ちますか?」
 宍戸の言葉に戸惑って返した鳳は、目線が合わないまま、宍戸からの言葉でまたびっくりする。
 強いて言えば身長くらいか、それ以外で特に自分が目立つタイプではないと思う鳳には、どうにも物慣れない言葉だった。
 しかし宍戸は鳳の困惑を一蹴する。
「目立つだろ。お前、綺麗な顔してるしよ。しかもすげえ優しいんだろうなあって。そういうのも顔とか雰囲気見りゃ判るし」
「は、?」
 普通、放っておかねえよなあ、お前みたいなの、と宍戸が囁くように言うので。
 鳳は心底、どういうリアクションをとればいいのか判らなくなってしまった。
 誰よりも綺麗で優しいひとにそんな事を言われて、どう反応すればいいのだろうか。
 面食らいつつも呆気にとられた呆れ顔を曝している鳳に、ふと気づいたかのように宍戸の視線が戻ってくる。
 宍戸は軽く眼を瞠った後、少し眉根を寄せた。
「なんだよ」
「え、…っと…」
「このくらい言われたっていつも平然としてんだろ、お前」
 少しばかり不機嫌そうに睨まれて、鳳は慌てて言い返した。
「いつもなんて言われませんし! だいたい平然となんてしてませんよ、宍戸さんといて…!」
 本当に、いつも、いつも、宍戸といると気持は休まったり乱れたり熱くなったり苦しくなったりする。
 その目まぐるしさを、ほんの少しも厭えない。
 ただ好きで。
 気ちは全部そこにつながるからだ。
「……そういうのも。宍戸さんに言われるから照れるんじゃないですか」
 もう、たぶん顔が赤いのも。
 隠しようがないだろうと鳳は思い、自らそう告げた。
「好きな人にそんなふうに言われたら、照れるでしょう、普通」
「…………にしたってお前。………んな、わかりやすく…赤くならなくたって、いいだろうが」
「なりますよ! 大好きなんですよ、宍戸さんのこと! おかしくなりますよこんなの」
「逆ギレすんな、アホ」
 言葉ほどは荒くもない、むしろ優しいような声で宍戸は呆れて。
「つーか、場所選んで言え、ばか」
「バカなんですよ。そういうバカな男にあれこれ注文つけないで下さいよ」
 鳳は開き直って、そんなのいろいろ無理ですからとぶつぶつと呟いた。
 片手で頭を抱えるようにして宍戸と逆側に視線を逃がす。
 これでは単に不貞腐れているだけだ。
 鳳自身判っているから余計、落ち込みがひどくなる。
 今更ながらに格好悪いなあと泣き言を口にしたくなる。
「あのなあ…」
 けれど。
 ふわりと溜息に混ぜるような宍戸の声が耳元すぐ近くに聞こえて。
 鳳は勢いよく宍戸の方へ向き直った。
 宍戸は鳳の肩に片手を置いて、顔を近づけ、小声で。
「格好いいって言っただけでおかしくなるんなら、その先どうすんだよ。長太郎?」
「…宍戸さん?」
「好きなんだぜ、おい」
 宍戸の唇から零れた吐息は、溜息よりも格段に優しかった。
 好きだ、ともう一度優しい息で鳳の耳元に囁いてから、宍戸は鳳の肩に手を置いたまま身体だけ離す。
 ほんの少し細めた眼で宍戸は鳳を見据えて。
「特別なこと言ってんじゃねえんだよ。俺は」
「宍戸さん」
「ほんと、ばかだよなあ、お前」
 自惚れて、余裕かましてたっていいのにな、と宍戸は言い、手を伸ばしてきて鳳の前髪を軽くかきまぜた。
 それこそ判りやすく甘やかされている宍戸の手の感触に、鳳は堪らなくなる。
 抱き締めたい。
 急激に膨れ上がった欲求は濃かった。
 それを堪える辛さの、ほんのひとかけらも判っていないような宍戸に、甘苦しい不満を少しだけ覚えるけれど。
「宍戸さん」
 それと同じ強さで、ひたひたと胸を埋める感情の方が、結局は勝つ。
「おいー…」
 まだ薄赤い宍戸の指先を握り込むように。
 手のひらにつつんで、そっとベンチに押さえつける。
 宍戸は眉を顰めていたが、鳳の手を振り払いはしなかった。
 溜息などひとつ零しながら、手はそのまま。
 そっと鳳へと身体を近づけてくる。
 二の腕と二の腕が触れ合う。
 視線はそれぞれ、逸らしているけれど。
 お互い。
 体温が、混ざりたそうに放熱しているのを感じていた。
 休日を利用して、観月が他校への敵情視察を終えルドルフ寮に戻って来たのは夕刻前のまだ明るい時分だった。
 いつもは賑やかな寮内のサロンも、休日ということで外出者が多いのか、各々室内で好きに過ごしているのか、ひっそりと静まっている。
「よう、おかえり。観月」
 いきなりそう声をかけられても、別段観月は驚きはしなかった。
 ただ、僅かに見開かれた眼は、すぐに、すうっと細められて。
「貴方……」
 観月はあからさまに深く大きな溜息を吐き出す。
 呆れも露わにして。
 観月は一人サロンにいた赤澤へと詰め寄っていく。
「何なんですかその格好は……!」
 眉根寄せた観月は足を止め、間近に対峙した赤澤を睨みつける。
 赤澤は呑気に首を傾けた。
「何だ?」
「何だじゃありません!」
 赤澤が手にして口をつけているのはホットの缶コーヒーのようだったが、この冬の時期でも日に焼けた色のままの赤澤の肌は、肩から剥き出しになっている。
 ノースリーブのシャツ一枚だけの格好は、いくら寮内であっても、この時期異様だ。
 しかも缶コーヒーを飲むのに軽く腕を上げれば、ダブルウエストのカーゴパンツから上、腹部は簡単に曝け出されている。
「この寒いのに何ですかその格好は。貴方何考えてるんですか、」
「ん…ほんとだ。冷たいな」
「…………、……」
 風邪でもひいたらと続けるつもりで赤澤を叱り飛ばしていた観月は、瞬間、息をのんだ。
 缶コーヒーを持っていない方の赤澤の手が、観月の頬を掠って、そのままそっと包み込んできたからだ。
 硬直してしまった自分を観月が自覚するより先、その手は離れていったけれど。
「お疲れさん」
「………………」
 そう言って、赤澤は缶コーヒーを観月の手に握らせてきた。
「……え?…」
「少しはマシだろ」
 笑った赤澤の顔が近くにあって。
 観月は今はもう離れてしまった赤澤の手のひらの感触を、己の頬にまざまざと感じ取った。
 そこにあった、赤澤の手のひら。
「………………」
 急に、何を、どう言えばいいのか、観月は判らなくなる。
 途方にくれたようになって無言で立ち尽くす観月は、そんな自分を間近から見つめてくる赤澤の視線に、自分がゆっくりと絡めとられていくように錯覚した。
 落とされている視線はやわらかい。
 見下ろされているのに、威圧感はおろか、ただひたすらにふんわりと甘い気配だけがする。
 冬だとか、寒いだとか、冷たいだとか。
 今の今まで、観月が口にしていたり体感していたものが、すべて吹っ飛んでいったしまったかのようだ。
 指の先にまで熱が詰め込まれた。
 じんわりと痺れる熱は観月を内側から温めて、それが判るから観月は赤澤から視線を外した。
 ずっと見返していたら、今よりもっととんでもなくなりそうで、視線を逃がしたのだ。
「………………」
 呼吸の為の息にすら熱がこもりそうで、観月は思わず、手にしていた缶コーヒーを一口飲んだ。
 飲んだそばから、こくりと喉を通っていった液体の感触と、気づいてしまった事実に、また目を瞠る。
 じっと、手にした缶コーヒーを観月は見つめてしまった。
「観月?」
「………………」
 不思議そうな赤澤の呼びかけに、観月はまじまじと見つめていた手の中のものから、赤澤へと、視線を移した。
「どうした?」
 舌火傷したとかじゃねえよな?と気遣わしく屈んで顔を近づけてくる赤澤に、そんなわけありますかと観月は苦笑いで返した。
 どう言って良いものか判らないのだが、取りあえず赤澤が心配そうなので、思ったままの事を口にする。
「……こういうの」
「ん?」
「回し飲みとか……出来なかったんですけどね…」
 別段潔癖症というわけではない。
 けれど、誰かの飲みかけの飲み物を口にするなんて事を、観月はこれまで、一度もした事がない。
 意識しての事ではなかったが、勧められれば断っていたし、自らそうしようと思った事もなかった。
「初めてだったので」
 ちょっと驚いただけです、と観月が呟き終わるか終らないかのうちに。
「………え、…?」
 抱き寄せられて観月はか細い声を上げる。
「……赤澤…?」
 硬い胸元に押しあてられるように。
 背中を交差して肩に回った赤澤の手に抱き込まれている。
 落としこそしなかったが傾いてはいないかと、観月が手にした缶コーヒーを気にしたのも一瞬のことで。
 痛くはないけれど更にぎゅっと赤澤に抱きしめられて、観月は戸惑った。
「なん……ですか、…急に…」
「熱出そう…」
「は?……ちょっと、貴方、風邪っぽいんじゃないんですか」
 そんな格好してるから!と怒鳴った観月は首筋に赤澤の唇が埋められて、ぎくりとする。
「ん、……っ、…な…に……」
 軽くそこを啄ばまれて、観月は急激に力なくなってしまった声をこぼした。
「……赤…澤…、…?」
「ヤバイ…」
 熱っぽい囁きに観月は本気で焦ってくる。
「大丈夫ですか?……ちょ、…っ……部屋に帰りますよ、」
 本気で具合が悪くなっているのではないかと危ぶんで、観月は赤澤の背を片手で抱き返すように促した。
 何だかずっしりと重みを増した気がする赤澤の身体を受け止めるのに、足元が覚束なくなってくる。
「そりゃ有難いけど……観月、判って言ってんだろうな…?」
「はい…?…」
 熱い、と次の瞬間観月が思った箇所は、自分の唇だ。
 こんな所でされる筈のない事、その感触。
「な…、…っ……なに考えて…、…っ」
 寮の、こんな場所で。
 噛みつくようなキスなんかされた。
 信じられないと観月は愕然と赤澤を見返した。
 いつものように叱りつけようとして、でもそれが出来ないのは、間近で見る赤澤の婀娜めいた表情に完全に中てられたからだ。
 どうしてそんな、急に。
 嬉しそうな笑みを浮かべたまま、苦しそうな欲情を強くさらしてくるのだ。
 途方にくれたような声で観月が呼びかければ、赤澤はきちんと説明をくれた。 
「そうだな…お前、回し飲みとか絶対しないよなって、思ってさ」
「………………」
「それがさらっと飲んじまって、挙句初めてだって言って、ちょっと驚いたって、言ってるの、お前、その驚いた顔とか声とか、めちゃくちゃ可愛かったんだよ」
「………、…な……」
「あー、くそ、ヤバイ、どうすんだ。一気に頭回っちまった」
 くらくらしてきた、と熱のこもった声で紡がれる言葉はどれも取り繕いなくストレートで。
 観月は聞いてる端から盛大に赤くなったが、いつものように何かを言い返す事が出来ない。
 まるで混乱や欲情が伝染してくるかのように、観月の頭も一気に回ってきてしまったかのようだ。
「こんな所でそんな事言わないでください……!」
 信じられない、と弱い声で詰りながら、観月は赤澤の広い背中を握った拳で叩いた。
 たいした力もこめられない。
 これでは、早く連れて行けというねだる意味合いでしかない。
「………………」
 そんな観月の左手は、すぐに、赤澤の手に握りこまれた。
 しっかりと。
 そして引きずられていく。
 それは観月の望んだように。
「………………」
 部屋につくまで一度も振り返らなかった赤澤の背中に、しかし観月が不安を覚えることはなく。
 部屋につくなり改めて重ねられた赤澤の唇に、安堵と眩暈と衝動とを与えられた。
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