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How did you feel at your first kiss?
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 面と向かって間近にすると、未だに神尾は、ぼーっとなる事がある。
 跡部の顔。
 知り合って間もない頃の方が気にならなかった。
 整った造作だとは思っていたけれど、見惚れるとか、そういった事は一切なかったのに。
 跡部と付き合いだして、一緒にいるようになって、好きだと思う気持ちが増えていく度に、神尾にとって跡部の表情の逐一が意味を変えた。
 緊張めいた照れで、うっかり浚われるようにみとれたり、身動きがとれなくなることも度々あって、最初のうち跡部はそんな神尾を随分と盛大にからかってくれたものだが。
 そして今も尚、時折そんな状況に陥る神尾に対して近頃の跡部は。
 ただからかう事よりこちらの方が得策とでもいいたいのか、神尾を背後から抱きこんでくるのが常になった。
 しょうがねえなとでも言いたげに目を細めて、跡部が神尾に手を伸ばす。
 くるりと身を返され、背中側からぴったりと抱き寄せられて。
 座り込む跡部の腕に包まれて、神尾はぴったりと跡部と密着する。
 その体勢も大概甘ったるい。
 だが跡部の顔を直視しなくて済む分、神尾には幾らか気が楽だ。
 そうしたまま、顔は見合わせないで、くっついて、喋る。
「赤ちゃんって、こーんなちっちゃいのなー。マジで可愛かったんだぜ!」
 今もその体勢だ。
 神尾は両手の人差し指を立てて赤ん坊のサイズを再現して見せながら、跡部の腕の中だ。
 今年最初のキスの後に。
 目を開けた神尾の視界いっぱいに広がった跡部の顔に、神尾が新年早々やられてしまった為だ。
 新年といっても、年が明けて数日が過ぎている。
 でも今日が、神尾が跡部に会った今年最初の日だ。
 キスの直後の跡部の顔は、本当に、ひどく綺麗だった。
「それで、姉ちゃんに、甥っ子か姪っ子早く作ってくれって、俺言ってんのにさあ」
 正月の三箇日はのんびりというよりは、何だかばたばたと忙しかった。
 それでも神尾は久しく会っていなかった親戚が連れてきた小さな小さな赤ん坊が可愛くて、その時の話を夢中になって跡部にしている。
「欲しがってばっかいないで自分で作れとか言うんだぜ」
 うちの姉ちゃん嫁いきたくねえのかなあ?と神尾は頭上を振り仰ぐように顔を上げた。
 跡部の表情が、真逆の角度でちらりと見えて。
 ん?と、その時になって漸く神尾は怪訝に思った。
「…なに不機嫌になってんの?」
 実にわかりやすく跡部は憮然としていた。
 そういえばこの体勢になってから、跡部は一言も言葉を発していないことにも神尾は気づいた。
「跡部、赤ちゃんきらい?」
 そう尋ねると、跡部はますます不機嫌そうな顔をした。
 子供みたいだ、と神尾はふいに思う。
 跡部に対してそんな事を思ったのは初めての事だ。
「跡部?」
「…つくるんだろ。てめえが赤ん坊」
 不機嫌というか。
 不貞腐れている。
 何故だろう。
「え…跡部、赤ちゃんつくれんの…?」
 神尾は思わず身体を捩って跡部の腹部を見る。
「何で俺様が孕むんだよ!」
「だって俺じゃ無理だし」
「俺だって孕めるか!」
「や、…跡部なら何でもかんでもどうにかしちゃうのかなーと…」
 じいっと跡部の腹部を見据えていると、神尾の両手首が跡部の手にとられ、そのまま床に押し倒される。
「……てめえは新年から碌な話しねえな」
「俺なんかへんなこと言った?」
 何で怒るんだろうとさっぱり理由が判らずにいる神尾は、噛みつかれるようなキスを跡部からされてびっくりする。
 さっきのキスは、本当にふんわりとやわらかくて、それとは全く違うやり方だったからだ。
「最悪だ、てめえは」
「……跡部…ー…?」
 どうしてこういう事になっているのか判らないながらも、神尾は今、自分を強引に押さえつけて拘束してきている跡部の腕の力が。
 何だか、恐る恐る神尾が差し出した自身の人差し指をぎゅうぎゅう握りしめてきた赤ん坊の小さな小さな手の力を思い起こさせて胸が詰まる。
「跡部」
「………………」
 神尾の肩口に跡部は顔を埋めてしまった。
 肌に触れる跡部の髪に、神尾は頬擦りするようにした。
 両手がきかないので手では撫でてやれない。
「俺、今年も跡部が好きだぜ」
「うるせえ」
 拗ねちゃったか。
 跡部はこういう時にかわいいよな、と神尾がひっそり思う。
 最初のキスの後、跡部の顔にみとれて盛大に照れた神尾を跡部は呆れていたけれど。
 跡部だってさあ、と考えながら神尾はもうあまり強くは戒められていなかった跡部の手から自分の両手を取り返す。
 硬い跡部の背中を、神尾は自身の両手で気持ちのまま抱きしめた。
 力、いっぱいで。
「跡部。好き」
「……くそ、泣かすぞ、てめえ」
 本気で凄まれたけれど、これっぽっちも怖くない。
 神尾は跡部にしがみつくように力をこめて、笑って、頷いた。
「いいよ」
 泣かせても。
 なにしても。
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 何だよと宍戸が聞く前に、宍戸の右手は鳳の左手に握られていて、冷たいですねと真面目に心配するような声で呟かれた。
 何だよとは今更口に出しづらくなる。
 鳳が意図してそうしたのか、そうでないのか、宍戸は少しばかり恨めしく背の高い後輩を睨んだ。
「………………」
 でも鳳と視線が合ってしまうと、宍戸はぎこちなく視線を彷徨わせてしまう。
 繋がれた自分たちの手と手が見える。
 大きな手のひらに負けない長い指はまっすぐに伸びていて、鳳のその手に包まれた自分の手が随分頼りなく宍戸の目に映る。
 冬の冷気に悴む手を労わるように軽く撫でさする鳳の手つきはさりげないようでいてひどく甘い。
 じわりと熱が滲んできたのは鳳に触られている手ではなく、何故か顔で。
 宍戸は思わずその場から逃げだしたくなった。
「………………」
 初詣と称して、いつもよりも大分遅い時間にたやすく出歩けている大晦日。
 待ち合わせた公園から夜空の下、二人でまだ、歩き始めてもいない。
 会話らしい会話を始めるよりも先、鳳の手はいきなり宍戸の手を包んだ。
「宍戸さん」
 鳳の表情を見ないでその声を聞いた宍戸は、自分がうなだれるように地面を見据えている事に気づかされる。
 優しい甘い声は低く響いて、鳳ははっきりと宍戸を呼んだ。
「顔、あげて?」
「………………」
「ね…? 顔、見せて?」
 手を握られたまま、宍戸の左頬が鳳の右手に包まれる。
 心臓、壊れる、と宍戸は思った。
「宍戸さん」
 耳元に近づいて、鳳が懇願するように呼んでくる。
 緊張ではない。
 困惑でもない。
 でも、少しだけ久しぶりに会う鳳に、自分がどんな感情でこんなにも縛られているのか宍戸には判らなくて。
「待て、…ちょっと」
「宍戸さん」
「悪ぃ…変だって判ってるから、もうちょっとだけ待っててくれ」
 宍戸は握られていない方の手のひらで、そっと鳳の胸元を押す。
 ああもう、とやけっぱちに喚きだしたくなる。
 顔が死にそうに熱い。
 頭の中は煮えそうで、胸の中ではどくどくと血が走っている。
 何なんだと思ったのと同時に、判った、とも宍戸は思った。
 変な自分、つまりそれは。
 つまり自分は、おそろしく照れているのだという事。
「宍戸さん…」
 声にも、手にも、匂いにも。
 時間にも距離にも恋情にも。
 そう、びっくりするほど宍戸は餓えていて、鳳が足りないでいたのだ。
 だからこんな風にそれら全てが与えられてしまえば、それはもう尋常でなく照れてしまって。
 確かに二人きりで会うのは久し振りなのだけれど、これはないだろうと宍戸は呆然とした。
 こんな、急激にふくれあがるような気持ちが、今の今まで自分のどこに潜んでいたのだろうかと困惑した矢先だ。
「無理、」
「…え?」
 いきなり耳元で囁かれた鳳の呻くような一言に、反射的に宍戸が顔を上げかけ、それが適わない。
 宍戸は鳳の胸元に押し付けられていて、長い両腕にきつく抱きすくめられていた。
「長…太郎…?」
「………無理、です…、もう…ほんと無理…」
 かわいい、と苦しげに吐かれた言葉に。
 宍戸は固まった。
「…、は?」
 誰もそんなことを宍戸に言う人間はいない。
 鳳だけが口にする言葉。
 破壊力は凄まじい。
「おかしくなる…」
「……っ……、…」
 一方的に責められ、詰られているようにも聞こえる声なのに、少しも宍戸は苛立たない。
「宍戸さん。俺、お願いがあるんですけど」
「………んだよ…」
「来年は、今年より、もっと一緒にいたい」
 突拍子もないように鳳が宣言してきた。
「離れてる時間がすこしでも長くなると、久しぶりに会った時に、おかしくなるので」
 ほんとに、お願いします、とやけに真面目に、真面目すぎるほどに真面目に、鳳に乞われてしまって。
 宍戸は、自分自身でも確かにちょっとそんな気がしたので、鳳に抱きしめられたまま、こくりと黙って頷いた。
 約束をとりつけて、ほっと息をついたのは二人同時だ。
 本当に。
 来年はそれだけ気をつけよう。
 お互いがお互いに、そうかたく決意した。
 観月の実家から聖ルドルフ寮に送られてきた大量のさくらんぼは瞬く間になくなった。
 余ったら時はどうしようかと観月が思うような量だったのだが、それも杞憂に終わったようだ。
 各部屋を回って配るまでもなく、食堂に置いておいただけで全てのさくらんぼが引き取られていった。
「観月さん、ありがとうございます。いただきます」
 甘いもの好きの後輩が律儀に頭を下げてくるので、観月も部屋に帰る足を止めてひっそりと小声で耳打ちする。
「裕太君、まだ僕の部屋にもありますから、それ食べ終えたらまたいつでもいらっしゃい」
「ありがとうございます。でもお家の方、観月さんに一番に食べて貰いたいんだと思いますから」
 ちゃんと観月さんも食べて下さいね、と観月が目をかけている後輩は屈託なく笑顔になった。
 邪気のない表情は伝染する。
 観月も自然と零れたように笑って、手を上げ裕太と擦れ違う。
 本当に、どうしてあそこまでと思うくらいに。
 裕太は自分に懐いていると観月は思う。
 自分はあまり良い先輩ではないだろうにと思いながら観月が寮の自室に戻ってくると、室内には壁際に寄せたさくらんぼの箱と。
 それから壁に寄りかかって座っている赤澤の姿があった。
 かつて観月に、裕太は懐いているんじゃなくてお前を慕ってるんだよ、と観月の自嘲を訂正してきた男だ。
 その上、見当違いの悋気までちらつかせてきた訳の判らない男。
 自然と裕太からうつった笑みは別のものにすりかわる。
「なんだ観月。人の顔見るなり溜息かよ?」
 低い声はさばけていて、唇の端には笑みが刻まれているから、言葉程気分を害しているようではないようだ。
 長い脚を投げ出して座り、右膝だけ立て膝になっている赤澤はのんびりとそう言って、観月を見つめてくる。
 赤澤の手元にあるさくらんぼの箱は手つかずのままだ。
「食べないんですか」
「ん? 待ってた」
「別に待ってなくても。好きに食べてて下さいって言ったでしょう」
 今度はかなりはっきりとした吐息を零して、観月は椅子を引いて机に向かう。
 赤澤は身体の向きこそ違えど、観月の足元に座り込んでいるような位置にいる。
 斜に眺めおろした眼差しを観月が向けると、赤澤は穏やかに笑っていた。
「家の人たちは、ともあれお前にって心情で送ってくれたんだろうしな」
 きれいだよな、と赤澤が箱に整然と並んでおさまっているさくらんぼを見やって囁く。
 どうして果物を見るのにそんな甘い眼差しをするのだろうか。
 うっかりと赤澤のそんな表情を食い入るように見つめてしまいそうで、観月はぎこちなく視線を外す。
「さくらんぼの実には、目に見えない小さな穴があるんですよ」
 何か喋っていないと落ち着かないような気になって、観月は赤澤を見ないまま話し続けた。
「だから雨に当たると実の中に水が入り込んで、膨らんで、パンクしてしまうんです」
 そういう点で手の掛かっている果物ですね、と添えた観月の声に被せるように。
 赤澤から放たれてきた言葉の意味が、観月にはすぐには判らなかった。
「そういうのを知ってるなら、気をつけろよ」
「…はい?」
 何か扱いがまずかっただろうかと、観月がさくらんぼの箱を見ると、赤澤が首を左右に張った。
「違う。お前」
「僕が何ですか」
「まんまお前だろ、今の」
「今の…って…」
「目に見えないのも同じだな」
 無数の穴、それがすなわち観月に脆さが無数あると、そう赤澤は言っているのだろうか。
 観月はたちまち憮然となった。
 椅子に座ったまま目線だけでなく身体ごと赤澤に向き直る。
「そういうものに人を例えないでくれませんか」
 どういう意味で赤澤がそう言ったのか。
 正確に理解している訳ではないけれど。
 とりあえずの見目の可愛らしさや手間暇のかかる性質、人の手がいつだって必要で、放っておかれたら正しく育つことも出来ないその果実に己を例えられるのは、正直観月を複雑に苛立たせた。
 まるで見当違いだと言い切れない自分を自覚しているから余計にだ。
 そして、現にそんな観月に一番労力を費やしているのがこの赤澤だから観月の心情は更に荒らくれる。
「手塩にかけて、囲うように、ただ守って?」
「おい、怒るなって」
「何で怒ってるのか判らないで適当に宥めないで下さい」
 ただひたすらに大切にしてくるような赤澤の腕を。
 観月は時にはひどくいやだと思う事がある。
 守られるような接触を。
 与えられて安堵する自分もだ。
 赤澤を睨んでいた眼を観月が逸らすより先、赤澤の腕が伸ばされてくる。
「判ってるっつの」
 握りこまれた指先。
 赤澤は距離を縮めることなく手だけをつないできた。
「弱いとか手がかかるだとか言ってるんじゃない」
「………………」
「観月が、いくらさくらんぼそのものでもな? お前が傷まないようにって、手を伸ばしても、守っても。最後はちゃんと違う」
 赤澤の言っている事が少しおかしい。
 観月は憤慨以外のそんな思いで眉を顰めた。
 観月が怒っているのは、可愛らしすぎる弱く脆い果実に例えられる自分自身と、一方的な擁護が必要だと言われているかのような事実に対してだ。
 最後というのは何だ。
「……何ですか。最後はって」
「出荷はしないって事だよ」
「…出荷……?」
「観月を食うのは俺だけだって話」
「な、……なに言ってるんですか、赤澤…!」
「食う為だけに育てる訳でもないしな」
 本当に。
 真顔で。
 いったい何を言うのかと、観月は咄嗟に何一つ言い返せなくなった自分自身にも呆れた。
 赤澤はそんな観月をどう見たのか、観月の指先を握りこむ手に、ぎゅっと力を入れてきた。
「お前が好きだって事」
「……、…っ……」
「好きだよ。観月」
 赤澤は繰り返す。
 観月が硬直していると、腕が引かれた。
 椅子に座っていた体制から床に座り込んだのに、どこも少しも痛くない。
 観月は赤澤の広い胸に抱き込まれていた。
「………………」
 胸元に押し当てられた自分の顔が熱を帯びていくのが判って観月はますます何も言えない。
 長い両腕に囲い込まれるように抱き締められて、自分がまるでとても小さく弱いものになってしまうような感覚もこわい。
 こわいのに、いやではないから、どうしようもない。
 膨らんで、膨らんで、パンクしてしまいそうだ。
 これでは本当に。
「観月」
「………っ……、…ゃ」
 赤澤の声や、抱擁や、体温や、匂いが。
 自分の中に入り込んで、埋まっていって、膨れ上がり破裂しそうだ。
「おーい……観月…」
 参ったな、と苦笑交じりの赤澤の声音が耳元間近から聞こえる。
 観月の混乱を過敏に察したのであろう赤澤は、観月をやわらかく抱き締めなおして、耳の縁にそっと唇を落としてくる。
「好きだ」
 弱くなったのではなく、小さくなっただけ。
 甘い声は少しだけ変貌して尚も観月に囁いてくる。
 繰り返し、繰り返し、それでいて全くおざなりにならない赤澤の低い声。
「ばか、…っ…もう、いい…、…!」
 もういい、それ以上言うなと、そう繰り返しても止まらない。
 好きだと、降る雨のように赤澤の唇から告げられ続け、浴びせかけられ、観月は息も絶え絶えになった。
「も、……何なんですか、…っ……貴方は……!」
「何って」
 お前にベタ惚れなんだよ、とやわらかく耳元で笑われて。
「…言葉の暴力ですよ…!」
 焦がれるような声も。
 耳元で囁いてくるやり方も。
 衒いのない言葉も。
 全部。
 全部全部暴力だ、ここまでくると、と観月は八つ当たりじみている事を自覚しながらも責め立てた。
 赤澤がそれで機嫌を悪くする事はなかった。
 ただ軽い溜息と一緒に。
 少しだけ身体を離して。
「非常にデリケートだな、お前は」
 判っちゃいたが、とからかうでもなく苦笑いする。
「面倒なら放っておけばいいんです」
「バカ」
 日に焼けた精悍な顔は、随分と情けない顔で観月を覗き込んできて。
 それでも何ら遜色ない面立ちを唇が触れ合う距離まで近づけてきて。
「お前が面倒だった事なんざ一度もねえよ」
「……っ…近い…、」
「そうか?」
 薄く笑った形の唇でキスされる。
「ん、…っ…」
「構わせろよ」
 な?と甘く角度を変えられて、口づけられて。
 ぎゅっと赤澤にしがみついてしまった観月は、更に熱っぽい手に背中を抱き返されて目を閉じる。
 キスで床に押し倒されて、首筋をくすぐる赤澤の長い髪の感触に微かに震える。
「……か…ざわ」
「…ん…?」
 構わせろ、まで言うのなら。
 これまでだって散々に赤澤は観月を甘やかしてきたのだから。
「途中で飽きたりなんかしたら…その場で枯れてやる」
 きつく睨み据えて観月は言ったのに。
 赤澤は、蕩けても精悍な顔だちを少しも損なわない笑い方で観月の頬に口づけた。
「それならお前は一生綺麗なままだな」
 臆面もなく言い切った赤澤に観月が返せる言葉はない。
 けれど言葉の代わりに、観月は赤澤の唇へ。
 重ねた唇、忍ばせた舌先。
 赤澤だけしか口にしない、赤澤だけしか口に出来ないものを、観月の方から差し出した。


 大事に噛まれて、熟れた。
 夕焼けに周辺が色づいている中、海堂が乾に視線を向けると、その時すでに乾は海堂を見ていた。
 あの、今日、と海堂が口を開くと、暇だよ、とその時点で即答された。
「……………」
「え? 違った?」
 おかしいな、と乾が首を傾けるのを前にして、内容は違わないが、何かが違わないだろうかと海堂は思う。
 部活が終わった後、テニスコートを囲うフェンスに寄りかかって乾はノートに何かを書き込んでいた。
 それが終わるのを見計らって海堂は声をかけようとしていたのだが、ちょっと目を離した隙に、乾はノートではなく海堂の事を見てきていた。
 長身からやわらかい視線を向けてくる乾を見返しながら海堂は小さく吐息を零す。
 違わないですと首を振ると、よかったと即座に乾が笑みを浮かべた。
「……良かった…っすか?」
「そりゃあね。恥ずかしいだろ、全然そんな話じゃないって言われたら」
 食いつきすぎの自覚はあるよと乾は尚も笑う。
 海堂には乾の言う事がよく判らなかった。
 少し首を傾げるようにして乾を見ていると、乾は広げていたノートを両手で閉じた。
 小脇に挟んでから乾は苦笑いを浮かべる。
「あんまりそういう顔しない。………言ってる意味、判るか?」
 海堂は正直に首を左右に振った。
 乾はやっぱりなという顔をしたけれど、不思議と海堂は腹がたたなかった。
「それはな、海堂。俺が逆上せあがるからだよ」
「のぼせ…あがる……」
「そう。ますますお前に夢中になるからってこと」
「は、…?……」
 面喰って固まった海堂の目前に、いつの間にか近寄ってきていた乾が。
 バンダナ越しに海堂の頭部を大きな手のひらで撫でてくる。
 無骨な手つきだけれど、誰にもされた事のないような事をされて、ますます海堂は固まった。
 こんな事を海堂にしてくるのは乾だけだだ。
 硬直する。
 でも決して嫌ではない。
 そしてこんな風に海堂が何も言えず何も動けずじっとしてしまうのも乾に対してだけだ。
 乾はゆっくりと数回海堂の頭を撫でてから、長身を少し屈めた。
「もう少し……そうだな、…打ちたいのかな?」
「………っす」
 海堂の表情を読むようにして、乾はじっと海堂を見つめて言葉を探して放ってくる。
 相変わらず乾の手は海堂の頭上にあるまま。
「少し、つきあって貰えますか」
「少しと言わずに好きなだけいいぞ」
「……あんた…そういう所すごく、…気前良いっすよね…」
「自分でも時々びっくりするよ。お前絡みの事はね。最初から」
「………………」
 特別なんだろうなあと、まるで他人事めいて乾が呟くから、海堂は微かに笑い目を伏せる。
 唇の端が僅かに引きあがるだけの表情は、乾の目にも触れなかっただろう。
「………………」
 最初から。
 それを言うなら海堂も、最初から乾に対しては通常の自分らしからぬ行動をとっている自覚はあった。
 テニスの事で誰かに相談をしにいくなんて事、海堂は後にも先にも乾にメニューを乞いに行った時くらいなものだ。
 上級生である乾は、近寄りがたいタイプではなかったが、独特の世界観があって、海堂とは別の意味合いで単独行動が多い。
 それでも海堂よりは数段社交性はあって、多分後輩からトレーニングメニューを乞われれば、それが海堂でなくても応じただろう。
 海堂はそう思っていたが、不動峰戦の際に乾が海堂に個人メニューを制作していた事を知った三年生達は一様に驚いていた。
 あの乾がねえ、という言葉の意味する所を海堂はよく判っていないままだ。
 ただ何となく、こうして乾といる時間が増えていく中で、気づく事もあった。 
 乾は日増しに、海堂に甘く砕けていく。
 海堂を甘やかすというよりは、乾自身の内面を時折いとも容易く海堂に明け渡してくる事がある。
 お互いの距離が近くなっていく。
 同じ時間を過ごすようになる。
 その中で、乾が他の誰にも向けないような目をしてきたり、言葉を伝えてきたり、してくる。
 海堂に。
 少しずつ、それは海堂にも判るように、深く近くなっていく自分達。
 乾の変化を海堂が感じるように、乾もまた海堂の変化を感じているのかもしれない。
「………先輩も…」
「ん?」
「あんまりそういう顔…しない方がいいっすよ…」
 乾の手が海堂の頭から離れて。
「どんな顔してる? 俺」
 扉でもノックするかのように指の関節を曲げた乾の裏手で。
 す、と頬を逆撫でされた海堂は、ひそめた乾の問いかけには無言のまま。
 幾許か恨めしい心境で、物慣れない柔らかなその所作の感触を受け止める。
「………………」
 それは海堂の事だけしか見ていない目。
 外部からの接触には無抵抗なほど柔軟なのに、乾の方から人に手を伸ばす事は殆どないのに、そっと海堂にはいつだって彼から手を伸ばしてくる。
 右の頬に触れている乾の右手の甲は、人肌の温かさを海堂に伝えてくる。
「……俺が、つけあがるような顔っすよ」
 よく判んねえと思いながら口を開けば、出てきた言葉は本当に海堂にも理解不能だったが。
「いいよ」
 それを聞いて乾は笑った。
 力の抜けた、くつろいで、柔らかな、優しい顔で笑う。
「そうしていいよ」
 耳元でそう言われた。
 何故かと海堂が考えるより先、背中を乾の掌で抱き寄せられている体勢になっていて。
 甘すぎるような接触はすぐに解けたけれど、抱きしめられたような感触は海堂の体内にじんわりと染み込んでくる。
「むしろそうしてくれ」
「……はあ…」
「海堂、俺をこんなに浮かれさせてどうするんだ」
 実際は少しもそんな素振りなど感じさせない乾が、しかし至極心地よさそうに笑ってコートの中へ入っていく。
 とろけたような色合いの夕焼け。
 海堂が目を細めたのはそのせいだけじゃなかった。
 コートに入った乾が振り返ってきた表情と、声とが理由だ。
「海堂」
 その声で名前を呼ばれて。
 おいで、とラケットを持っていない乾の左手が自分へと伸ばされる。
 逆上せ上がる。
 こういう事かと、海堂は乾の表情を見て、理解した。
 神尾は首を左右に振った。
 束になって散らばる髪の先から滴が弾け飛ぶ。
「犬か、お前は」
 呆れた口調で全裸の跡部は同じ格好をしている神尾の身体を大きなタオルで包み込む。
 抱き込むようにして身体を軽く拭いてやると、神尾はそれこそ小動物のように目を閉じていた。
 おとなしいのは疲れているからだろう。
 神尾は跡部の家の浴室にある、別室になっているミストサウナが好きなようで、シャワーや入浴の最後はいつも最後にそこに行く。
 跡部はその隙にタオルを持って扉前で神尾を待つのが常だ。
 中の長椅子で身体を横たえられるのが楽なのだろうけれど、抱き尽した後の身体には、ミストサウナとはいえ負担がかかりすぎないとも言えない。
 今日など特に怪しいものだ。
 神尾の全身を大判のそのタオルで身ぐるみ包んで、跡部はそのまま神尾を抱き上げた。
「……ぅ…わ…、…」
 流石にいきなりの体制に驚いたらしく、神尾が声を上げて、咄嗟に跡部の肩と首に手を伸ばしてくる。
「な、……なに……ちょ…っと、…跡部」
「うるせえよ、じっとしてな」
「歩ける、…っ…、歩けるってば、自分でっ」
「そうかよ」
 答えながら、しかし下ろす気などさらさらない跡部は、神尾を抱きかかえたまま浴室を出る。
 肌触りのいい大きなタオルの中で神尾はしばらく身じろいでいたが、歩きながらのこの状態で暴れるのは得策ではないと察したのかじきにおとなしくなった。
 真っ白なタオルの中でうっすらと赤くなっているのを見下ろし跡部は唇の端を緩める。
 実際の身長差以上に、こうして抱きかかえていると神尾は小さく見える。
 腕の中に抱き込めば、まるでそうした人間だけが知る事の出来る、どこか特別で秘密めいた甘さがある不思議な存在になる。
「跡部ー……」
「アァ?」
「身体、ちゃんと拭けよぅ」
「拭いてやるよ」
 当たり前だろうがと、跡部はタオルに包んだままの神尾をソファの上に下ろした。
 徐々に冬の気配が見え始めている時期だ。
 部屋は適度に暖めてある。
 タオルから神尾の頭だけ抜き出して、身体の線を辿るよう改めてタオル越しに神尾の肌を撫でれば、そうじゃなくて!と神尾は怒鳴った。
 間近からの大声に眉根を寄せながらも手は止めず、腰から上半身を屈みこませた跡部は神尾を睨み据えた。
「うるせえな、てめえは本当に」
「俺じゃなくて跡部だってば!」
「何だよ」
「何だよじゃなくて! 身体、ちゃんと拭けってば」
「してるだろ。それもすこぶる丁寧にな」
 肩から二の腕を撫で下ろして、肘を包んで、手首から手の甲、指先まで全部。
 布地越しに跡部は手のひらで包み擦る。
 丁寧に触れてやると自身の手のひらも熱っぽく疼く感触を跡部は神尾で知った。
「俺じゃないってば、跡部だよ!」
 相変わらず神尾は赤い顔のまま反抗的で。
 跡部は、人の楽しみを邪魔するんじゃねえと内心だけで思いながら、神尾のうるさい唇を軽くキスで塞いだ。
 騒いでいた神尾はぴたりと口を噤み、唇が離れてから数秒後、面白いくらいに赤くなった。
 含み笑いを零しながら跡部は床に膝をつく。
 神尾の脚も片方ずつタオルで包むように足先まで拭いていく。
「も…、……っ…」
 神尾の羞恥は限界のようで、もう怒鳴ることも出来ず言葉を詰まらせている。
 硬直している様を跡部は脚を拭いてやりながら上目に見やった。
 神尾のそれはすぐにまたその唇を塞いでやりたくなるような表情で。
 でも少々今は遠くて。
「おい」
「……ぇ?」
 キスを寄こせと、立てた人差し指の動きだけで神尾を促すと、神尾は珍しく察しよく、これまで以上にまた赤くなった。
 ミストサウナでのぼせたかと些か跡部も不安になる程だ。
「跡部…ー…」
「早くしてくれ」
 完璧に命令するよりもこれくらいの言い方をする方が神尾にはいいのだ。
 跡部がもう一度指先の仕草だけで促すと、神尾がおずおずと身体を屈めてきた。
 ソファに座ったまま伸ばしてきた両腕は。
 てっきり跡部の肩に乗る程度だと跡部は思っていたのだが。
「……おい」
 神尾はその両腕を跡部の首に回して、ぎゅっとしがみつきながら倒れこんできた。
 こうなると互いの間のタオル一枚の厚みが、やけにもどかしく感じるような体制だ。
「バカ、てめえ」
 キスをしろと言って何故この体制なのか。
 凄んだ跡部に更に神尾はしがみついてきて言った。
「………跡部が言う事聞かないからだろ」
「言う事聞かねえのはお前だろうが。俺はキスしろっつったんだよ」
 抱きつけとは言ってねえと返しながらも、跡部は神尾の薄い背中を抱き返した。
 せっかく頭の天辺から爪先まで丹精込めて拭いてやったのにと跡部は溜息をつく。
 跡部の溜息をどう受け止めたのか、神尾は少し早口に言い募ってきた。
「ちゃんと身体拭けよな。エスカレーターって言ってもさ、跡部、受験生な訳だし」
 風邪とかひいたらどうすんだようと情けない声が首筋になすりつけられて、跡部は更に深い溜息を吐いた。
「俺様が自己管理をしくじる訳ねえだろうが」
「風呂上りに身体濡れたまんまでいて、何の説得力もねーよう……」
 かわいくない事を言っているのがかわいいのだから、どうしようもない。
 跡部は呆れを隠さず、神尾の背中を軽く手の平で叩いた。
「……ったく…おら、起きな。こんな格好でいる方がやばいだろ」
 馬鹿なお前でも風邪ひく、と耳元近くに囁いてやると、神尾は唸るように喉を鳴らして、顎を引き、僅かに身体を離して上目に跡部を睨んできた。
「俺は大丈夫なんだよ!」
「何だよその根拠の全くない自信だけの口調は」
 この距離で怒鳴るんじゃねえよと眉根を寄せた跡部だったが、続く神尾の返事に呆気にとられてしまう。
「俺、この間インフルエンザの予防接種受けたから大丈夫なの!」
 確か。
 注射が大層嫌いじゃなかっただろうか、こいつ。
 跡部はそう思って、呆気にとられた。
 前に神尾がそんな事を言っていた。
 つまり注射が怖い訳かと交ぜっ返した跡部に対して、怖いんじゃなくて嫌いなんだとやけに神尾がむきになって反論していた事を跡部はしっかり覚えている。
 あの時の様子では、嫌いというよりも、やはり本当は怖いのだろう。
 神尾は相当注射が駄目なようだと跡部は判断した。
「予防接種って、どこで」
 だからこそ疑問に思って跡部は神尾に問いかける。
 身体の上に神尾を乗せたまま。
「え? ちっさい時から言ってる家の近くの病院だけど…」
「強制命令でも出たのか」
 は?と神尾が怪訝そうに小首を傾げた。
「家族にか部活でかって意味だ」
「別に誰からも言われてないぜ、そんなこと」
「自主的にかよ」
「そうだけど……それが何だよ?」
 予防接種だ。
 具合が悪くなってからの話ではない。
 それを神尾が自ら受けに行くという事は正直驚きだった。
 以前、注射を巡るその言い合いの中で。
 注射は嫌いだから打たないと言い切る神尾に、高熱でも出せば打たざるを得ないだろうと跡部が言ったのに対して、神尾はまたも断言で返してきた。
 曰く、高熱なんか出したことないしこれからも出さないし、という事で。
 子供っぽい断言で言い切っていた。
 その神尾が自ら予防接種など打たれに行ったのはやはりどうしたって不思議で、跡部が黙って考え込んでいると、神尾は真顔で跡部の顔を見下ろしてきた。
 じっと見据えてくる眼。
 そして。
「跡部がインフルエンザとかかかっちゃったら大変だろ」
 言われた言葉。
「………ああ?」
「だから、俺がもしインフルエンザとかになっちゃって、跡部にそれうつしたりとかしたら、駄目だろ? だから予防接種受けてあんの。だから俺は大丈夫なの」
 判ったかよ?と神尾は跡部の身体の上で、まるで威張るように笑った。
「…………てめえは……」
「うわ、…っ」
 呻くように歯ぎしりして。
 跡部は腹筋で身体を起こし、無理矢理神尾を床へ押さえつけた。
「な…に?……なんだよ、跡部」
「……何だよじゃねえ。それはこっちの科白だ」
「跡部、…ちょっと…ほんとに風邪ひくぜ?」
 気遣わしげに見つめられるので、跡部はやけっぱちに完全降伏だ。
 神尾の両手首を床に押さえつけながら、華奢な首筋と肩口に顔を伏せる。
 こんな生き物見た事ねえ。
 そう直接肌になすりつけるように告げると、からかわれているとでも思ったのか神尾はじたばた暴れたが、跡部は構わずそのままでいた。
 少しばかり性急に唇を塞げば、本気でびっくりしている表情が視界を埋めた。
「熱出そうだ……ったく…」
 キスの終りに甘ったるい本音を悪態にすりかえて放てば案の定。
 慌てふためいた神尾は、跡部の深まり色濃くなってしまった執着と恋情には、まるで気づいていなかった。
 宍戸が眉を寄せて腹部に掌を当てる。
 下駄箱を目前にして中途半端な位置で足を止めたのを、すぐ隣を歩いていた向日は怪訝そうに見やった。
「何だよ宍戸」
「………………」
「腹の具合でも悪いのか?」
 今日は水曜日で部活がない。
 放課後、隣のクラスである宍戸と向日は廊下で一緒になって、そのまま正門に向かって昇降口まで降りてきた所だ。
 下駄箱では向日を待っていたらしい忍足が、薄い鞄を腕と脇腹とで挟むようにして立っていて、ポケットに手を入れたまま向日の声に便乗するように言葉を放ってきた。
「岳人。そういう時はな、腹の子の心配してやらな、あかんで」
 唇の端を笑みに引きあげている忍足に近寄って、向日は、ふうんと小首を傾げた。
 それから向日も忍足と同じような笑みを浮かべて、宍戸を振り返る。
 全く性格の異なるようなこの二人は、さすがにダブルス歴が長いだけあって、結託する時の息の合い方はぴったりだ。
 向日は一つ年下の後輩の名を上げて、パパ呼んできてやろうかと宍戸をからかおうとしたのだが、向日がそれを言うより先、宍戸が相変わらず腹部に手を当てたまま真顔で呟いた言葉は、忍足と向日を絶句させた。
「長太郎が腹空かせてる気がする」
 向日の手が、忍足の制服の裾を、ぎゅっと掴む。
 忍足も向日に同じ事をしていた。
 彼らを硬直させた宍戸は、薄く平らな彼自身の腹部を見下ろしながら、どことなく憂いだ目で溜息などついていた。
「侑士…」
「………体内回帰っちゅーやつやろか…」
「鳳の奴、そこまでか? そこまで宍戸のこと好きか?」
「恐ろしいで、ほんま」
「おっかねえ……おっかねえよ侑士…!」
 手に手を取りあんばかりに慄いている忍足と向日に、さすがに宍戸も鬱陶しそうな目線を向けた。
「さっきから何言ってんだお前らは」
「聞くけどよ、宍戸。お前の腹に入ってるのは、鳳との子か? それとも鳳自身か?」
「岳人、男前や…答え怖くて俺にはとても聞けへん…」
「……てめえらいい加減にしとけ」
 ひくりと片頬を引きつらせて、宍戸は乱暴に下駄箱から靴を取り出して履き替える。
 所作荒く、宍戸は忍足と向日に向かって、吐き捨てるように言った。
「俺が腹減ったから、あいつはもっとそうだろうって思っただけだっての」
「生活サイクル一緒ってこと? 何だよ、俺達の知らない所で、もう同棲生活スタートってこと?」
「アホ!」
 まとわりついてくるような向日を手で払うようにして宍戸は怒鳴ったが、向日の逆側からは忍足が体重をかけるようにして寄ってくる。
「なんや、えらい水くさいなぁ、宍戸」
 お祝いくらい用意したるのにとすました顔で言われて宍戸はますます牙を剥く。
「マジで鬱陶しいんだよお前らは!」
 面倒くせえと右にも左にも怒鳴りながら、宍戸は声を張り上げる。
「昨日長太郎とファミレスで飯食って帰って、夜ちょっと一緒に走って、帰ってから風呂入って、眠る前に電話して、今朝自主連して、昼飯一緒して、そういうサイクルって意味だ、アホ」
「……どれだけ一緒にいんだよ、お前ら」
「俺と岳人の慎み深さを少しは見習えや。なあ、岳人」
「ほんとだぜ! なあ、侑士」
 宍戸は当たり前のように言っているが、本当にいったいどれだけ、と忍足と向日はがっくりと肩を落とした。
 そのペースとサイクルなら、確かに波長も似かよるだろう。
 宍戸の腹がすけば鳳も腹をすかせているだろう。
 睡眠時間や練習時間もほとんど同じ二人だろう。
 もうやだこいつら、としおしおとくっついている忍足と向日を横目に、お前らに言われたくないと宍戸は言ったのだが、そのまんま返すと素気無くかわされた。
「帰ろうぜ侑士」
「せやな。ほら、鳳がいるで、岳人。これ以上ダメージ受ける前に、俺ら帰ろな」
 宍戸を振り返りもせず歩きだした二人は、正門脇に立っていた鳳の丁寧で快活な挨拶も素通りして学校を出て行った。
「…悪ぃ、待たせたな」
「いいえ、全然。それより、あの…忍足先輩と向日先輩、どうかしたんですか?」
 どっと疲れが出たような気分で、宍戸は鳳に対峙して告げる。
 丁重に首を振った鳳は、不思議そうに去って行った上級生の背中を見やっていた。
 端正で優しい表情に、宍戸は、ふ、と苦笑を零して鳳を見上げる。
「長太郎」
「はい」
 すぐに鳳の眼差しは宍戸へと戻る。
 長身の鳳からの視線は、宍戸を見下ろしても、尊大さを欠片も含まない。
 やわらかく真摯な目で、じっと見つめてくる。
「お前、今すごい腹減ってねえ?」
「え。ひょっとして何か聞こえましたか」
 生真面目に腹部に手をあてがう鳳に、宍戸は笑った。
 手の甲で鳳の腹を軽く撫でるように叩いて、宍戸は歩き出す。
「聞こえねえけど。俺もすっげえ腹減った」
「チーズサンド買って、どこか外で食べましょうか」
「お前それじゃ足りねえだろ」
 宍戸と肩を並べた鳳が、でも、と困ったように笑った目で見降ろしてくる。
「ファミレスとかの味だと、宍戸さんにはちょっと重いんじゃ」
「あー、昨日は食いすぎた」
 宍戸は基本的に好き嫌いはあまりない。
 食べる量も、見た目が細い分、むしろよく食べると言われる部類だ。
 しかし好みを言えば、比較的あっさりとした味付けが好きなのだ。
 だからどうしてもジャンクフードやファミレスの類は、いつものペースで量を多く食べた後から、胃に負担がくる。
「昨日帰る時割引券貰ったよな。いいよ、あれで」
「じゃあ、もし宍戸さんが食べすぎたとか、苦しくなったら、俺がおぶって帰ります」
「うん」
「………………」
 鳳が判りやすく驚いて黙ってしまったので、宍戸は少々赤くなって鳳を睨みあげた。
「お前な。ひくなら言うなよ」
「ひいてませんよ!」
 なんなら今すぐと背中を向けてくるので、宍戸の不機嫌も続かない。
「アホ。何の罰ゲームだよ」
「罰じゃなくて俺からしたら寧ろ御褒美ですけど」
 宍戸は歩きながら笑って、少しだけ鳳の方に身体を預けるように近づいた。
「肩抱かれて歩く方が楽だった」
 昨日の、薄暗い帰り道での距離と同じくらい。
 近づいて。
 歩いて。
 昨日、ファミレスを出てから苦しいと連発する宍戸を、丁寧に支えるようにして肩に回された鳳の腕の感触を宍戸は思い返す。
「背負われんのも悪くなさそうだけどよ」
「何でもやります」
 そんな風に言われちゃったらもう、と鳳は笑った。
「ほんと、もう何でも」
「じゃ、ファミレス行くか」
「宍戸さんおなかいっぱいになっても、俺、なんか無理にでも食べさせちゃいそうだな…」
 気を付けよう、と自身に言い聞かせるよう神妙に呟く鳳を見やって、宍戸はしみじみとつぶやいた。
「可愛いな、お前」
 どっちがですかぁ、と即座に鳳は情けないような大声で言い返してきたのだが、宍戸の心情はそれで覆される事はなく、むしろ更なる確信で、再び同じ言葉を繰り返す事となった。
 自分の呼吸も相当に荒かったのだけれど、海堂は聴覚に届いた乾の呼気の違和感に、うっすらと眉根を寄せた。
 汗か涙か判らない液体で視界が霞むようになっている中、目を凝らして海堂は乾を見据える。
 海堂の身体を組み敷いて、顎の先から汗を落とした乾も、目元が沁みるのかわずかに目を眇めていた。
 長く深く繋げていた身体は、解けたばかりで。
 眼鏡を外した乾の裸眼は、今しがたまでの欲情を、まだしっかりと灯したままで。
 うっかりそれを確認してしまった海堂の呼びかけは海堂自身が思っていた以上に掠れた。
「………先…輩…、…」
「……ん…?」
 問い返しながら乾は海堂の唇を軽くキスで塞いだ。
 海堂もその一瞬は目を閉じて。
 余韻のせいなのかかすめる程度のキスにも身の内から震えが起こるのに、そっと耐える。
 乾の手が海堂の髪を撫でる。
 ただ海堂を、宥めたり甘やかしたりするものではなく、乾がまるで触れずにはいられないような手つきで荒く髪を撫でるので、海堂の余波は尚揺らされた。
「…海堂……」
 耳元近くで聞こえた声と、息遣い。
 やっぱりかと海堂は思った。
「……先輩、…あんた……」
「何だ…?」
「………もしかして…、風邪…、…っぽいんじゃ…ないんですか」
「え?」
 どこかぼんやりと、不思議そうに聞き返した後。
 乾は同じ言葉を、その次には笑いながら口にした。
「ええ?……切り替え早いな、お前」
「……切り替え…?」
 すぐには普通の会話なんか出来ないようにしたいもんだけど?と悪戯っぽく笑う乾は、海堂の内部の燻るような余波には気づかないのだろうか。
 笑いながら軽く咳込んだ広い背中を、海堂は腹立ちと羞恥とでない交ぜになったまま憮然と拳で軽く殴る。
「ごめんごめん」
 よしよし、と余計な事を言って乾は海堂を抱き込んで横たわる。
 ますます腹が立って海堂は抗ってもがきながらも、乾の長い腕に巻き込まれてしまうと。
 けだるい身体はその態勢から心地よさしか認識しなくなる。
 海堂は上目に乾を睨みあげた。
 こういう時はたいしてきつい眼差しにならないことを知っていたけれど。
「息、に…音、混ざってる…」
「んー…?」
「……喉…、痛いんじゃないっすか…」
「俺の声、嗄れてる?」
 乾は少しだけ腕をゆるめてきて、海堂を片腕で抱き寄せたまま覗き込むようにしてくる。
 そうやって聞いたくせに、海堂が何か答えるより先、乾はまた勝手にひとりごちた。
「海堂の名前、呼びすぎたかな…」
「…っ…………、…ッ」
 からかうならまだいい。
 真顔で言うからこの男は、と海堂は乾を睨んで唸るような喉声を洩らす。
 たぶん顔は赤いだろう。
 目元が熱い。
「それで嗄れたかな」
「………んなわけ、あるか…っ」
 だいたいさっきの乾の咳だって、笑って噎せたものではない。
 明らかに風邪のひき始めだろう。
「熱は」
 海堂が右手を持ち上げて乾の額に当てようとすると、それを乾に阻まれる。
 海堂の手は乾の手に握りこまれてしまって、しかしそれは乾の抗いではないようだった。
 とらえられた手の指先に乾は笑った形の唇を押しあてる。
「今は熱いに決まってるだろ」
 触っても意味ないよと再び海堂を抱きしめてくる。
 汗の浮かんだ肌と肌とを重ねあっても、何の違和感もない相手だけれど。
 乾が風邪っぽいのであれば、いつまでもこうしていていいわけがない。
 海堂は腕を突っぱねて乾の胸元を押しやろうとする。
「……どうして嫌がるかな、海堂」
「機嫌悪い顔すんな…」
「無理だな。実際機嫌が悪い」
 開き直るな!と海堂が思わず怒鳴ると、ちゅ、とやけにかわいらしい音をたててまた唇にキスされる。
 心なしか乾の唇は熱っぽい気がした。
 こんな恰好のままでいては、ひき始めどころか本格的に風邪をこじらせかねない。
 海堂とて、はっきりいえば乾が心配なだけだ。
 問題がないのなら、このままだらだらと怠惰な時間を送る事に別段異論もないのだ。
「確かに俺は今、機嫌は少し悪いけど、海堂が俺を心配してくれるのは嬉しいんだよ」
「……乾先輩…?」
「仕方ない。今日はここで諦めよう」
 海堂が寝込んだら大変だと軽い口調の割には真剣な顔で言って。
 乾はシャワー浴びて着替えてくる、とベッドから降りた。
「…大丈夫ですか?」
 別に乾がふらついている訳ではなかったが、海堂も身を起こす。
「ついていきますか」
「いちゃいちゃしきれず消化不良の先輩を煽る行為は慎んだ方がいいぞ」
「あんたな…」
 真面目な顔で茶化した事を言うのは止めてほしい。
 海堂ががっくりと脱力すると、乾は先にごめんな、と海堂の頭に手を置いて、シャワーを浴びに部屋を出て行った。
 残された海堂はベッドに倒れるように横たわった。
「………………」
 乾の息が乱れが、どういう類のものなのか聞き分けられる自分というものがどこか不思議で、海堂は四肢を投げ出して目を閉じる。
 乾は認める言葉は口にしなかったが、同時に否定もしなかったので、おそらく風邪の予兆の自覚があるのだろう。
 海堂は目は閉じていたが、乾の事を考えるのに忙しくてまどろむ間もないまま時間をやり過ごす。
 シャワーを浴びて服を着た乾が戻ってきて、頭を撫でてきたのでゆっくりと目を開ける。
 長身の乾が立ったままなので、寝具に横たわった体制で見上げるとひどく距離がある気がする。
 海堂は乾を見つめたまま、ベッドを下りた。
「シャワー、借ります」
「ああ。タオルと着替えは出しておいた」
 けど、と乾が続けたので、海堂はそっと首を傾げた。
「……けど、何ですか」
「着替え、いらないか? もう今日は帰る?」
 泊まりに来いとあれだけ言い続けた相手に言う事かと海堂は呆れた。
 一見無表情の乾が、そんな事を言いながらものすごくへこんでいるのが判るから余計だ。
「先輩。具合は」
「具合?…ああ、…海堂の言った通りだな…喉が多少」
「あとは?」
「んー、…それくらい。あと、ちょっと熱っぽいかも?」
「聞くなよ」
「確かに」
 のんびりと乾が笑ってみせるから、さほどひどい状況ではないらしい。
 海堂は注意深く乾を見つめてそう理解して。
 年上だけれど時折とてつもなく自分の事に無頓着になる相手を見上げて言いつける。
「俺、シャワー浴びてくるんで。戻ってきた時に、あんたが薬飲んで、おとなしくベッドの中にいたら泊まっていきます」
「本当?」
「何びっくりしたような顔してんですか」
 正直な話、ちょくちょく小さな風邪をひくのは専ら乾だ。
 海堂が体調を崩す事はほとんどない。
 海堂が呆れた風に言った時にはもう、乾は部屋の中の引出しをあちこちあさりはじめていた。
 薬を探しているらしい。
「………………」
 海堂は黙って乾に背を向けて、部屋を出る。
 シャワーは、少し長めに浴びていようと思う。
 あの調子では風邪薬が見つかるまでに少々時間がかかりそうだ。
 そして、この後、ベッドに入っておとなしくして待っているであろう乾の想像をすると。
 海堂は何だか必死に薬を探していた今の乾の様子と思い重ねてしまって、浴室に向かう途中、滲んできた笑いを奥歯で噛み殺すのに苦労した。
 頭のいい人なので、全て判っているのだろう。
 赤也は柳の横顔を直視しながら思う。
 この人は、全部判っている。
 自分に、どういう目で見られているか、どう思われているのか、何もかも判った上で、何も変わらずにここにいる。
 部活を終えて、約束などしている訳でもないが、柳が帰らないので赤也も部室に残った。
 二人きりで、会話らしい会話もないまま、今赤也がここにいる事に何の不思議もないように部誌に文字を書き綴っている。
「柳さん」
 赤也が呼びかけると、柳はペンを持つ手をとめて切れ長の目で視線を流してくる。
 見ていると、苦しい。
 赤也は緊張に似た思いを抱いて仏頂面になる。
「………………」
 きっと彼はいつも同じやり方で自分を見つめている。
 それが時には優しそうだったり、時には冷たそうだったり見えるのは。
 恐らく自分の心情故なのだろうと赤也は考えた。
 優しそうに見えるときは、そうして欲しくて。
 冷たそうに見えるときは、やましくて。
「赤也」
 焦れて、二度目の呼びかけをするより先。
 柳が落ち着いた声で返事を口にする。
 柳は乱れない。
 側に置く後輩が、彼をどういう目で見ていても、どう思っていても。
 それが赤也には悔しかった。
 柳を動揺させる事が出来るくらい、もっと自分が強くて、もっと自分が大人であったらよかったのに。
 その思考はいつも赤也の胸の内を巣食っている。
「赤也?」
 色とか、熱とか、影とか、匂いとか。
 そういうものをまるで感じさせない人。
 こんなに近くで、肩を並べていてもだ。
 清楚で、強くて、大人だ。
 柳は。
「柳さん」
「どうした」
 食い入るように、どれだけ見据えても動じない。
 激情したり、しない人。
 感情を決して剥き出しにはしない人。
 そのくせ近寄りがたい雰囲気で気安く名前を呼び、厳しそうなテリトリーを容易く明け渡してきたりする。
 ひとつ年上の人は、もっと年齢差があるかのように、いつもいつも大人びていて。
 判らなくて、知りたくて、気づかせたくて、躍起になった。
 気になって、気になって、仕方がなかった。
 最初からずっと。
 今でもずっと。
 同じレギュラーという立場に立てば何かがもっとすっきりするのだと赤也は思っていたけれど、それは叶わなかった。
「俺、あんたが好きだ」
 重い声で言った。
 実際息苦しかった。
 赤也は柳を睨みつけるようにして告げた。
 柳は驚いた素振りは勿論、目を見開くでもなく、身じろぐでもなく、ただ少しだけ首を傾けた。
 真っ直ぐに切りそろえられた毛先が微かに揺れた。
 赤也はペンを持っている柳の手を、手首の下辺りで、上から机に押さえつけた。
 そんなことをしなくても柳はきちんと赤也の顔を見て話をしているし、逃げ出す素振りもないのに。
 まるで懇願するかのように力が入る。
 柳の背は自分よりも高いのに、華奢な手首の感触に驚きながら、赤也は柳を見据えた。
「どうしたんだ? 急に」
 はぐらかすでもない。
 けれども残酷なほど冷静な声で問われて、赤也は首を左右に振った。
 歯痒さは、きっと柳には判らない。
 伝え方を赤也は知らない。
 急になんかじゃない、でもいつからかなんてもう覚えていない。
「わかんない。あんたが好きだ」
 だから赤也は強く言った。
 焦がれる衝動のまま言い切った。
 ひどく大切なものを希う時、この言葉を口にする時、急いたような感情と、神経が焼き切れそうな衝動が込み上げる。
 それが自分だけだとしても。
 赤也は柳のようにはいられなかった。
「判らない?」
 ほんのりと笑み混じりに柳が繰り返す。
 咎める言い方ではなかったが赤也は即座に含められた意味を否定した。
「あんたのことが好きかどうか判らないんじゃない。あんたのことが好きだって事しか判らない」
「………………」
 さらりと。
 また柳の髪が揺れる。
 涼しげな目元にその毛先がかかって、白い首筋がなめらかに傾く。
 喉が詰まる。
 息が詰まる。
 柳は赤也の体内に熱を住まわせ、それを冷静な態度で煽って、赤也ばかりを追い詰めて。
 それがほんの少しも嫌ではなかったけれど、どうしたらいいのだと赤也は途方にくれる。
「赤也」
「……何っすか」
 返事に間が空いたのは、柳の腕を押さえている赤也の手に。
 手の甲に。
 柳が空いている左手の手のひらをそっと乗せてきたからだ。
 長い指。
 付け根から指先まで真っ直ぐで、爪はきれいな自然の色で仄紅い。
「初めてお前と試合した時の事を覚えているか?」
 引き剥がされるのかと思った手はそのまま。
 柳が落ち着いた声でそんな事を聞いてきて、赤也は憮然とした。
「忘れるわけないっしょ。部長と副部長と柳さん、あれだけ最低な負け方を一日に三回もしたの初めてっすよ」
 忘れるわけがないと判っていて聞くことも、自分の言葉をはぐらかして違う話をすることも、どちらもずるいと赤也は思うのに。
 それを責める気になれないのは、重なった手が赤也の気持ちをあまりにも心地よく包むからだ。
「すごい目で睨みつけていたものな。赤也は」
「…当然。あんな血反吐吐くくらい悔しい思いしたんですから」
「あの時からだな。お前を好きなのは」
「…は?」
 さらさらと、一瞬の後にはもう遠くに流れていってしまっている水の流れのように柳が平然と放った言葉に赤也は呆気にとられる。
 今、何と言ったのか、この人。
 そんな呆然とした赤也な顔を見つめて、柳が薄い唇で綺麗な弧をえがく。
「すぐに気づいた精市には、随分からかわれた。…過去形ではないな。今もだから」
「は…?」
 いつまでも間の抜けた顔などしていたくはない。
 しかし、あまりにも突拍子もない事を言われて赤也はばかみたいに問い返すしかできなくなる。
 ひんやりとした柳の手に力が入る。
 まるで先程の赤也のように、逃げられることを阻むような手の力で。
「やな、…」
「知らなかったのか、赤也は」
「全然判んないっすよ…! あんた…!」
 赤也の怒鳴り声に柳は笑みを深めて、するりと手を引いた。
 赤也の手の下からも自身の右手を引き抜き、部誌を閉じる。
 動けない赤也をよそに帰る気配をみせて柳は立ち上がって。
「俺はお前より先にお前を好きになった」
 覚えておくといい、と柳は片手で赤也の髪を軽くかきまぜた。
 頭を撫でられ、そんな仕草を赤也は呆然と受け入れるしかない。
「柳さ…、…?」
「お前がどれだけ俺を好きだと言っても、好きでいる時間は、一生俺の方が長い」
 お前の負けだ、赤也。
 そんな言葉を言い置いて柳は鞄を手に部室を出て行った。
 赤也は永遠の敗北をつきつけられたまま。
 恋に落ちたどころではない、恋に沈められて、また新たに別の意味での完全敗北を味わわされた。


 一生、勝てない。
 神尾もいろいろ考えたのだ。
 日がな一日考え続けてみたのだけれど、答えはなかなか出てこなかった。
 そうこうしているうちに、その日にちはどんどん差し迫ってきてしまい、神尾は、これはもう自分の頭の中だけでは駄目だと思い、腹をくくった。
 出来ることなら、聞きたくはなかったのだけれど。
「…跡部」
 もう本人に頼るしかなかった。
「アア?」
 何だよ、と尊大な眼で神尾を見下ろしてくる跡部は、ソファに深く腰掛けている。
 神尾はそんな跡部の足元で、同じソファによりかかるようにしながら床に座っていた。
 跡部の部屋での、お互いの定位置みたいなものだ。
 神尾は肩越しに跡部を見上げた。
 ちょっと他に類をみない美形は、何故かガラが悪くてそのくせノーブルだ。
「誕生日、なんか…ある?」
「どういう聞き方だよ」
 意味が判らねえと眉根を寄せる跡部の誕生日は今週の土曜日だ。
 あと三日。
 もうタイムリミットも差し迫っている。
 神尾は弱りきって跡部の目を見返した。
「や、…だってよう……誕生日だしさ、なにかしたいんだけど、欲しいものとか言われても、多分それって、俺に買えるようなものじゃないだろ?」
 跡部の家も、身につけているものも、とにかく何もかもが、桁違いのものばかりだ。
「それなら、…物とか駄目なら、何かして欲しい事…とかになるんだろうけど…」
 跡部は一瞬目を瞠り、それから小さく笑った。
「なら、そう言えよ」
「……っ、…跡部何言い出すか判んないからおっかないじゃんか!」
 いろいろな意味でおっかない。
 神尾は真剣にそう思って叫んだ。
 優しい所もあるけれど、元来跡部はいじめっ子体質だ。
 それを言ったら、おまえは完璧ないじめられっ子体質だと笑うような相手だ。
 何でもするなんて言ったら下僕扱いでこき使われるか、羞恥心をいたぶられるかに違いない。
 迂闊に何でもしますなんて言えっこない。
 でも、それでは跡部の誕生日プレゼントをめぐる神尾の思考はそこで途絶えてしまう。
 他に何かいい方法はないかと考えに考えたが、どうにもならなくなってしまったのだ。
「神尾」
「…え?」
「お前、ここの所、ずっとそれ考えてたのかよ?」
「……うん…」
「へえ」
 跡部の笑みが変わった。
 からかうようなものから、何だか優しい感じに。
 そしてひとりごちるように言った。
「そういう事なら許してやってもいいか」
「何?」
「お前が上の空で、むかついてたんでな」
「……ぁ」
 だから最初の呼びかけに、跡部は不遜な声や顔を見せたのだろうか。
 上の空と言われれば確かにそうだったかもしれない。
 神尾が、悪かったなあと思っていると、頭上に跡部の掌が乗った。
「…跡部?」
「それなら、買わなくていい俺の欲しいものをくれ」
「……え?」
「お前に寄こせと俺は言うが、絶対に怖がらせない」
 だからそれにしろと跡部は言った。
 神尾は言われた言葉を頭の中で反芻したのだけれど。
 それ、というのが何なのかが判らない。
「それ……って、なに?」
 跡部の手はいつの間にか神尾の頭を撫でるような動きを見せていて、それにどこか気恥ずかしくなりながら、神尾は小声で尋ねた。
 跡部の返事はすぐにかえってきたけれど、それは答えではなかった。
「当日教えてやるよ」
「………………」
 跡部が甘く笑うので。
 神尾はそれ以上は聞けぬまま。
 こうなってしまえばもう、頷くしかなくなった。





 そして土曜日、跡部の誕生日だ。
 神尾が跡部の元を訪れると、いつものソファにつれていかれ、いつもとは逆の位置に座らされた。
 神尾はソファに。
 そして跡部は神尾の足元に膝をついた。
 普段とは異なり跡部を見下ろす体制に神尾がぎこちなく身じろいでいると、跡部の両手が伸ばされてきた。
 両頬を跡部の手に包まれ、顔を固定されてしまう。
 欲しいのはお前だけだ、と跡部は言った。
 いきなりだったので、いったい何を追われているのか、神尾にはすぐには判らなかった。
 同じ言葉を繰り返されて、真っ直ぐな視線で見据えられて、やっと。
 神尾は跡部が何を口にしたのか、言われた言葉が意味をもって頭に届いた気がした。
 急激に普段感じないような耳元や首の裏側まで焼けるように熱くなった。
 おそらく目で見ても、跡部の掌の中にも、神尾の熱は全て伝わってしまっただろう。
 けれど跡部はそれを指摘する事無く、真剣に今跡部の欲しいものが何かを神尾に伝えてくる。
 横柄な言い方じゃなくて。
 命令でも、からかいでもなくて。
 跡部はすごく真面目な顔で神尾に言ったのだ。
 これまで、そっと重ねるようなキスは何回かしていた。
 初めてキスをした時、心臓が潰れる、と神尾は思って、そしてそれは決して大袈裟な比喩ではなかったのだ。
 実際唇が触れあっただけでも、物凄い勢いで血液を送りこまれるような衝撃に胸は苦しくなり、その後どうしていればいいのかまるで判らなくて神尾は混乱した。
 跡部は多分神尾の心中に気づいていたのだろう。
 あっさりとそれまでの話にまた戻ったり、しばらく黙って抱き込んでくれていたりするのが常だった。
 キスの後の跡部はいつでも優しかったので、やっと近頃は、神尾も跡部の唇を受け止められるようになってきていた。
 相変わらず多少はうろたえるようなことはあったが、それでもそのまま気を失うんじゃないかと思う酷い緊張感だけは和らいだ。
 その矢先、というべきか、それだからこそ、というべきか。
 用意はしなくていい、今そのままでいい、欲しいのはお前だけだと、なめらかな低音で繰り返され、まるで請われるようにかき口説かれている神尾は、足元にかしづくようにしている跡部に両頬を包まれたまま視線を逸らす事すら出来ない。
 でも最後に、頷いて、跡部の元に倒れこむように抱きついていったのは、神尾の方からだった。
 欲しいものはお前だけだと、そう跡部が繰り返すから。
 奪う事もきっと跡部には容易いだろうに、最後まで望まれてしまったから。
 跡部への誕生日プレゼントは、きちんと、神尾から跡部へ渡す物になった。





 その後初めて連れて行かれた跡部の寝室で、神尾は跡部に組み敷かれ、長い時間をかけて抱かれた。
 怖がらせないと跡部が言った通り。
 それはすごく、何だか、まるで大事に、されているみたいなやり方だった。
 それは確かなのだけれど。
 神尾は混乱した。
 跡部に何かされる度、何度も何度も錯乱した。
 その都度、跡部は必ず動きを止めてくれた。
 言葉を発する事はあまりなく、でもなだめるようなキスや、また一から数えなおすようなやり方や、より一層優しい手つきに変えてくれたりする事で、神尾の困惑を無視する事は決してしなかった。
 幾度も行為を中断させたのは神尾で、こうして跡部に抱かれている自分がどうしたっておかしいのだと、神尾が気づいてしまってからは、余計にそれが酷くなった。
 跡部がどれだけ丁重に神尾を扱ったのかが神尾自身で判っていただけに、神尾にはどうしようもない事ながら結局は己の反応に激しく自己嫌悪に陥ってしまった。
 ものすごい時間をかけて、漸く事が済んだ時には、神尾は安堵感よりも泣きたいような感情を覚える程だった。
「…は……っ、ぅ…ぁ…」
「…、………く…」
「ん……っ……」
 ぞく、と背筋が浮いたような気がしたのは、熱い息を吐き出した跡部が神尾の上に落ちてきたからだ。
 深々と埋め込まれたものはまだ神尾の中に在って、神尾の首筋で呼吸を整えるような跡部を無意識に両手で抱きとめるようにして固い背中を抱き返しながら、神尾はとうとう泣き出した。
 泣き声をあげるのではなく、ただ眦から涙が零れるのが止まらなくなってしまった。
「…神尾?」
「………っ…ふ、…ぇ…」
「何だよ…おい、どこかきついのかよ?」
 乱れた息をついていた跡部が掠れた声で低く問いかけてくる。
 身体を離そうとしてくるのを嫌がって、神尾は両手で跡部の背中にしがみついた。
「おい」
「……、…っ……」
「神尾。……何、泣いてんだよ」
 跡部の声は低くきつかった。
 反射的にまた涙が出てきてしまい、神尾は慌ててかぶりを振った。
「神尾」
「ちが、……ごめ…、…っ」
 跡部を怒らせたい訳ではなかったし、神尾も辛かったり嫌だったりして泣いている訳ではないのだ。
 ただ、もうどうしよう、どうしたらいいんだろうと、困惑して、それで涙が出てきてしまうのだ。
 説明しようとしても、何か喋ろうとすると呼吸は嗚咽めいて震えてしまった。
 それを耳元間近で聞くことになった跡部は、神尾の背中を抱き返してきて言った。
「いい。ちょっと黙ってろ」
「………、っ……跡、部…、…」
「……こう…してんのは嫌じゃねえんだな…?」
 お互いの目も見えない体制のまま。
 神尾は頷いた。
 ぎゅっと腕に力を込める。
 跡部が苦々しい声で聞いてくるのも、神尾は正直怖かったのだけれど。
 やっぱり、と思ってしまうと、ますます気持は乱れてきてどうしようもなくなる。
「…ごめん、な……ごめん、…跡部」
「………何がだ」
「俺……」
「………………」
「なんで、なんにも…、できな…いん…、だ…ろ…」
 ちゃんとできなくて。
 跡部はすごく優しくしてくれて。
 でも神尾は、何をされても過剰に身体を竦ませて、時間ばかりでなく手間暇も延々かけさせて、果たして本当にこんな事が誕生日のプレゼントになっているのは甚だあやしかった。
 跡部は欲しいと言ってくれたけれど、跡部にとってこれが本当に望んだものだったのだろうかと神尾は思い、その答えは多分、と察するに余りある。
 涙に湿った声で、そんな事を神尾がまとまりなく口にしていると、跡部は黙ってそれに聞き入った上で、言った。
「おい、お前なに言ってんだ?」
 苛つくなり怒鳴ってくるなりするかと思った跡部は、神尾の予想を裏切り、そういった事は口にしなかった。
 ただ、不審気に呟いたのと同時に、それどころか。
「………っひ……ぁ…っ」
「…悪ぃ」
 体内で膨れ上がった圧迫感に神尾が仰け反ると、跡部は舌打ち交じりに短く詫びて、神尾の中からそれを引き抜いた。
 びくびくと震えた神尾の両腕からは力が抜け、跡部にしがみつくこともできなくなる。
 ベッドの上で小さな痙攣じみた衝動に襲われている神尾の額に跡部の掌が当てられる。
「……ぁ…」
「神尾」
 唇をキスで塞がれる。
 跡部の唇の感触に、涙が絡んで重たくなった睫毛を引き上げて、神尾は恐る恐る跡部の表情を探った。
「あのなあ、…神尾」
 汗に濡れた前髪を自らの手でかきあげながら、跡部は何だかひどく珍しい顔をして言い淀んだ。
「お前な、…」
「……跡部…」
 何を言われるのか判らず、神尾はしどけなくベッドの上で身体を曝して跡部の目を見つめた。
 跡部は怒ってはいないようだった。
 もしかしたら呆れてはいるかもしれない。
 そう思って神尾が眉根を寄せると、ちょん、とそこにも軽く口づけてから跡部は色気に掠れた声で少しだけ悪態をついた。
「…出来てねえわけあるか」
「跡部……?…」
 あー、と普段の跡部らしくもなく言葉を探している様子を見上げながら、神尾は小さく息を詰める。
「……お前な、…敏感すぎんだよ」
「………………」
「お前はな……あー…感じやすいだけだっつってんだよ」
「………は…?」
 ものすごい事を言われた気がする。
 神尾は唖然と跡部を見つめた。
「……………は?……え…?」
 跡部は、ほんの少しもからかうような態度をとらなかった。
 生真面目に、慎重に言うからますます訳が判らなくなってしまった。
 それはいったい、どういう事なのか。
 困惑を深めていくばかりの神尾の胸元に跡部の掌が宛がわれる。
「…、……っ…」
 ごく軽く撫でさすられながら、唇と唇とが重なり、きゅっと舌先を吸われる。
 びくりと竦み上がった神尾の身体の硬直を解くよう、こういう事だろ、と跡部が神尾の耳元で囁いて。
 その声音にも反応するよう、神尾はきつく目を閉じて眦に涙を滲ませる。
「からかってるんじゃねえよ……聞け」
 掠れた声が命令なのか懇願なのか悩む言い方をしてくるので神尾は瞬きを繰り返しながら目を開けていく。
「……れは、…わか…ってる…けど……」
「こういうのは、出来てないとは言わねえよ…」
「………っで…も…」
 神尾は終始この調子だったのだ。
 跡部は何度も手を止めた。
「…俺……、」
 本当にこんなんで跡部はよかったのかと、結局聞きたいのはそれだけの神尾が眼差しを向けると、跡部は何故か目線を合わせず逸らした。
 見たことも聞いたこともない、まるで自虐的な溜息を微かについてから跡部は神尾を見下ろし囁いた。
「大事に抱いてやりゃ、…よくなれたんだよ。お前も」
「………………」
 いや、そんなのは、と神尾は狼狽した。
 大事にされていた。
 そんなのは充分すぎるくらいだ。
 よくなったのかならなかったのかは。
 それこそ全てを暴くその眼で見ていて全部判っただろうにと。
 神尾は跡部から次々と放られてくる言葉に煮えそうになる頭の中で抵抗するのが精いっぱいだ。
 わななく唇からは言葉は何も出てこない。
「おい、神尾」
「………………」
 やけにきつい目で跡部に射るように見つめられ、呼びかけられ、神尾が問い返すよりも先に。
「もう一回やるぞ」
「……、…は?」
 両手首をシーツに押し付けられ唇を貪られた。
 目を見開いたまま跡部からの深いキスを受け止めた神尾は息苦しさにもがく一歩手前で解放されて、尚面食らう。
「あと、…っ………ぇ?……え…」
 キスは濃厚だったけれど、改めて胸元に這わされた跡部の両方の掌は本当に丁寧に神尾の肌を撫で摩った。
 ひく、と身体を慄かせながら神尾は浅く息を継ぐ。
「……跡…部…、?」
「これで金輪際もうやらねえって言われんのは御免だ」
「言…、っ」
 言わないと叫ぶのは叫ぶので異様に恥ずかしい。
 神尾がぐっと言葉を飲んだのをどう捉えたのか、跡部は怜悧な眼をすうっと細めて、やっぱりなという顔をした。
 どうしてそん顔をするのか神尾には判らなかった。
 もうやらないなんて言わないと、今言うのが気恥ずかしいだけで、別に神尾はほんの少しも嫌でなんかなかったのだ。
 跡部はどうだったのだろう、跡部はあれでよかったのかな、と。
 神尾が気にしていたのはそれだけだ。
 それなのに、どうも自分たちは噛み合っていない気がする。
 今も、自分を見据える跡部の目つきが鋭すぎて、さすがに神尾もちょっと怖かった。
 怯んで逃げかけた神尾の身体に再度のしかかるようにして、跡部が神尾を拘束してくる。
「跡部……」
「さっきほどはがっつかねえよ」
「…え?」
 少しは落ち着いた、大事にしてやるから、と跡部が裏手で神尾の頬を撫でて低く言う。
 声にか言葉にか仕草にか。
 たぶんそれ全部にだろう。
 神尾は、どっと赤くなった。
 大事になんて、充分された。
 している間に、中断する度に、跡部がひどくきつい顔をしていたのは、神尾の言動が悪かったせいではなく、跡部の言葉を使うなら、がっついていたからなのだろうか。
 そしてそれを抑制しようとしていてくれたのだろうか。
 言いようのない感情に巻き込まれそうになる。
 おとなしくなった神尾に、しかし跡部は慎重だった。
「………………」
 跡部の掌が、そっと神尾の首の側面にかかる。
 指先が耳の縁と唇の端に当たり、神尾は小さく息をのんだ。
 丁寧に顔を支えられたまま、ゆっくりと近づいてきた跡部に唇を塞がれる。
 ふんわりと覆われた唇は心地よさにゆるんで、そこに跡部が舌を入れてきた。
「………、ん」
 脳が痺れたような気がして神尾は息を詰めた。
 跡部の舌は甘い音をたて神尾の口腔を舐めた。
 小さく幾度となく竦みながら、神尾は跡部からのキスを受ける。
 キスがほどけると唇の表面を舐められて、またキスが欲しくなる。
 散々に唇を甘やかされて、詰めていた息はとろとろと溶かされて神尾はぼんやりと跡部を見つめた。
「……大丈夫だろ?」
 濡れた唇を引き上げて跡部が囁いてくる。
 こく、と神尾が頷くともう一度優しい丁寧なキスをしてから、跡部はその唇で神尾の身体を辿り始めた。
 一度目だって充分すぎるほどに丁寧だったのに、跡部は更に、先程はあまり構わなかった神尾の箇所も一つずつ拾い上げるようにしてきた。
 耳の裏側や手首の内側や脇腹。
 やり方がどう違っているのかは神尾には判らなかったけれど。
 跡部が自虐的に言う程、別人のようには思えなかったけれど。
 ひっきりなしに自分の唇が上ずった呼気をもらすのが神尾にはどうしようもなく恥ずかしかった。
「…あ……とべ………」
「何だ…?」
「おれ…も……」
 なにか、したほうがいい?と。
 問いかけというよりは確認を求めるように神尾が言うと、跡部は面食らったような顔を見せた後、笑った。
「今日はいい」
「…え…?」
 一度目も、今も。
 そういえば自分は跡部に何もしていないと神尾は思い当って。
 それでいい訳ないと今更ながらに思った神尾の膝頭に唇を寄せながら、跡部は神尾の両足の狭間に肩を入れてきた。
 いくら二度目だからとはいえ、さすがにこの体制は身体が竦んで、神尾は上半身を起こすようにして懸命に言い募った。
「でも、…っ…俺、なんにも、」
「さっきはそれで出来ただろうが」
 今もこのまますぐにいけるぜ、と機嫌のよさそうな声がしたのはそこまでだった。
 すぐにと言いながらそうすることはなく、跡部は神尾のそれに舌を絡めるようにしてきた。
 温んだ熱の中に吸い込まれていくような愛撫は正気を保っていられなくなる。
 神尾が激しくかぶりを振って身体を捩ると、両足に挟み込んだ跡部を内腿で締め付けてしまい、そのことで煽られる羞恥でますますじっとしていられなくなった。
 何でそんなところを、そんな風に跡部がするんだと、しゃくりあげるようにしながらやめてほしいと告げている神尾の声は次第に啜り泣きに飲まれて嬌声でしかなくなった。
 いつの間にか神尾の手は跡部の手に握られていて、すべての指を絡ませる甘ったるい繋がれ方をされていた。
 指先に力が入ると本当に優しく握り返されてきて、それに縋るようにしながらおかしくなりそうな舐められ方をされた。
「……っひ…ぅ……、…っ」
「さっきより泣くか、お前」
 戻ってきた跡部に間近から見下ろされながら呟かれ、神尾はそうじゃなくてと首を左右に打ち振りながら嗚咽を零す。
「だ……って、…っ、俺…ばっか…」
「バァカ…」
 ふ、と笑み交じりの吐息が当たって神尾が目を開けると、跡部が神尾の顎を支えるようにして頬に口づけてきた。
「……跡…部…?」
「…ま、…お前も少しずつ気づくだろうから…今はそう思ってろ」
「え……?」
「懇願してでも欲しいものはお前だけだ」
 こんな時に真顔でそんな事を言わないで欲しい。
 神尾はそう思ったけれど、跡部の言葉にふとある事を思い出して。
 泣き濡れた自分の目元を、ぐいと手で擦ってから告げた。
「跡部」
「ああ?」
「たんじょうび。おめでとう」
 跡部は大きく目を見開いて、そうして時期に、溜息を大きく一つ。
「……こういう状況で、そんなツラ見せて言うんじゃねえよ」
 何だか今しがた神尾が思ったのと同じような事を口にしてから、跡部はふいに零れるような鮮やかな笑みを浮かべた。
 神尾がどきりととしていると、跡部は丁寧で甘いキスを神尾の唇にくれて、それから後はもう。
 神尾の体感する世界を、濃くて甘いだけの世界に変えてしまった。




 本当にこれが誕生日プレゼントになったのかと、やはり神尾は最後の最後まで、怪訝に思ったのだけれど。
 それをもう一度だけ問おうと神尾が思う相手は今、神尾の胸元でぐっすりと眠っている。
 跡部が綺麗な顔をしている事は神尾は充分知っているけれど。
 ただ綺麗なだけではない、何だか甘く安らいだ見たこともない顔で眠っているから。
 神尾の方こそ、ひどく大切なものを手にしているような気持ちで、跡部の寝顔をずっと見つめていた。
 図書室のソファで本を読んでいる柳生の肩に、仁王が寄りかかっている。
 柳生は随分長い時間本を読んでいて、その間に何回か自分の肩口の仁王を見やった。
 彼は大抵目を閉じていて、時々は開いていた目が合って。
 終始おとなしくしているものの、この場所でこの距離の近さはどうだろうかと柳生は思う。
 言ったところで聞く相手でもないし、寧ろ第三者の人目があるときは必要以上近づいてこない仁王なので、こういう時はつい柳生も大目にみてしまう。
 膝下の長い足を持て余すように膝を立てて大きく開いている格好は行儀が悪いと思うが、それも注意しそびれたまま図書室は徐々に夕暮れに侵食されていく。
「仁王君」
 随分と読み終えるのに時間がかかったのう、と仁王は目を閉じたまま柳生の肩に一層懐いてくる。
「まだですよ。静かにしていてくれるのは有難いですが、そんなにべったりされるとどうも…」
「嫌か?」
 語尾に被せるように思いのほか強い声で問われ、そうでなく、と柳生は首を左右に振った。
「時間が経てば経つほど本よりも仁王君のことが気になってくるじゃないですか」
「そりゃぁええ」
 もうけもんじゃ、と仁王が両目を開け、唇を引き上げる。
 含みのある笑い方にも慣れている。
 しかし、ずるりと背中がソファの背もたれから滑った事には辟易と、柳生は眉根を寄せた。
 本を落とさないよう手近のテーブルに置いてから、中途半端な体勢でのしかかってきた仁王を下から睨みつける。
「仁王君」
「柳生は怒ると色気が増すのう」
「そんな腐った事言うのは仁王君だけです」
「当たり前じゃ。他の奴らにはこんな事は言わせんよ」
 零れるように笑うと毒を振りまくような独特な男。
 窘めるように、柳生は片手で仁王の胸元を押しやった。
「いい加減離れて下さい。ここは図書室ですよ」
「柳生」
「……仁王君。拗ねても可愛くない」
 わざとらしく膨らませた白い頬を指先を揃えた右手で軽く叩き、でもそのまま仁王が顔を近づけてくるので、結局柳生の右手は受けるキスを支えるためのものになる。
「柳生はかわいか」
「………そういう事は言わなくていいです」
 小さく音がして唇と唇が離れてすぐ。
 至近距離でそう言われ、囁きと一緒に熱っぽい吐息が触れてくる。
 体温の低い仁王の息とは思えないその熱はうつされる。
「柳生」
「………………」
 頬と、目尻と。
 唇で掠られて。
「色気のあるとこも、可愛いとこもあるけん、柳生は完璧じゃの…」
「何度でも言いますが、そんな事を考えるのは仁王君くらいですよ」
 色気とか、可愛いとか。
 柳生にしてみれば、仁王の方だと思う。
 飄々とした風情といい、怜悧な顔つきといい、くどい気配などどこにもないのに、近づくと彼はいつも濃密な色気を振りまいてくる。
 ペテン師などと言われるだけに、本気も冗談も真剣に言う男だけれど。
 柳生は、何故か自分に向けられる仁王の言葉に軽薄さを感じたことはなかった。
「柳生の一番エロイところは、舌触りのええとこかのう…」
「……、ん」
 これまでの戯れるようなキスではなく、ぐっと息まで塞ぐような深い角度で唇が塞がれる。
 仁王は本格的にのしかかってきて、柳生はソファに完全に組み敷かれた。
「…っ………ふ、…ぁ…」
「柳生…」
 唇が離れるなり、とろりと濡れている口腔を自覚させられ、寸前まで潤んで絡んでいた舌と舌が熱を持つ。
 舌を味わうような仁王のやり方こそが、卑猥でなくて何であるのかと柳生は眼鏡越しに目を細める。
「……外さんの?」
 眼鏡に手を伸ばしてこられ、柳生はかぶりを振った。
 眼鏡を外すと完全に仁王はする気になるとと判っているから、柳生は仁王の身体の下から逃げる。
 つれないだとか冷たいだとか仁王は言っていたが、無理矢理柳生を押さえつけたりはしなかった。
「……家に行ってもまだその気のままならば…構いませんよ」
 それでつい、譲歩案のようなことを柳生は言ってしまうのだ。
 乱れた髪に手ぐしを入れている柳生を、仁王はしげしげと見やっていて。
 ソファに仰向けに寝そべるようにしながら肘で上半身を起き上がらせた体勢のまま、爆笑した。
 失礼なと柳生が睨みつけると、仁王は突如飛び起きるように立ち上がって、柳生の肩を抱いた。
 軽く唇を合わせてから。
「……っ……なんで走るんですかっ」
 急な加速に引っ張られて、図書室を飛び出す。
 柳生はあまり見た事のない走る仁王の背中に面食らいながらも後につく。
 急がなければ落ち着いてしまうような欲求ならば、何も無理してまでしたがることはないだろうと柳生は思い、仁王に告げもしたのだけれど。
 機嫌のいい仁王は一言、柳生に言った。
「お前さんは、ほんとに頭が悪いのう」
「誰に言ってるんですか!」
「柳生は大馬鹿じゃ」
 足止めた場所ですぐに始めるなんて脅しのような宣言で駄目押しだ。
 迂闊に足も止められない。
 全力疾走していくしかない。
 やると言ったら絶対にやるのだ、仁王は。
 柳生は仁王に腕を引かれたまま走り、一方的なのは癪だから、ラストスパートは自分がこの腕を引いて走りきってやろうと考えた。
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