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How did you feel at your first kiss?
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 宍戸は思わず居住いを正して床に座り直し、暫し沈黙した後、頭を下げた。
「あー………何つーか……すまん」
 ごめん、と続けてから、ちらりと目線を上げて。
 伺ったのは正面にいる鳳の様子だ。
「……長太郎?」
 宍戸が呼べば目と目が合う。
 ごめんと宍戸が再度口にすると、鳳は普段の彼らしくもない中途半端な態度で、はあ、とだけ呟き口を噤んでしまう。
 一度はかちあった視線がそのまま余所に流されてしまって、鳳の眼差しは宍戸を見ないまま複雑な色で淀んだ。
「………………」
 本気でまずったなと、宍戸は途方にくれる。
 はっきり言って、鳳が宍戸に対してこういうリアクションをとったことはこれまで一度もなかった。
 あまり言いたくないが、宍戸から見たところ、鳳はまるで、うんざりしているように、見える。
 宍戸に対して。
「………………」
 そんな事を思えば、うっかり傷つきそうになってしまって、宍戸は、これはもう、本気で、徹底的に、謝るしかないと悟った。
 ほんの少し前まで、宍戸は、この鳳の部屋から自分の家へと帰ろうとしていたのだけれど。
 もはやそれどころではない。
 掴んでいたバッグのショルダーから手を放し、きっちりと鳳の正面で、両腿に手をおいて、悪かったと頭を下げる。
 どこから、どう、言ったものかと。
 思案しながら、そもそも自分が謝るのも変な話なのだが、どうやら鳳は怒ってしまったので、ここは謝るしかないのだろうと、そんな風に色々。
 宍戸なりにきちんと考えているつもりで、実際にはまるで纏まらない思考で。
 やけっぱちになってはいないが、謝るというこの行為が、どことなく宍戸には理不尽な気はしている。
 何だこの状況はと首をかしげるのが半分。
 そして残りのもう半分は、これまでに見たことのない鳳の態度に内心びくついている自分を宍戸が自覚しているからだ。
 鳳の態度ひとつでこんなに落ち着かない気分になることを思い知らされて、宍戸は複雑な気分だった。
「………………」
 鳳は、いつもはやわらかな笑みを浮かべている唇を引き結んで、何だか遠い眼をして。
 宍戸を目の前にしているのに、明らかに何か別の事に気を取られている風情だ。
 再度上目にそんな鳳の様子を窺いながら、宍戸は元より言葉のうまくない自分自身を知っているからよけい、しどろもどろになる。
「長太郎…」
「……はあ…」
「………や、……ごめん…」
「…はあ」
「ええと…な……いや、俺は、そんなたいした事じゃねえって思…」
「はあ!?」
 鳳の発する相槌の言葉はどれも同じで、でも含む意味合いがまるで違う。
 最後のそれは鳳の唇から放たれたとはとても思えないような荒っぽさで、宍戸は、びくんと背筋を伸ばした。
 やばい。
 こいつ、怖ぇ。
 宍戸が頬を引きつらせていると、鳳が胡乱な眼差しで宍戸を直視してくるので、辺りの空気が張り詰める。
 日頃から、笑みにとろけるような優しい顔立ちの、王子様然とした鳳ばかり見てきているので、穏やかで従順な可愛い後輩である彼の変貌に宍戸はすっかりのまれてしまった。
「たいしたことない、ですか」
 眇めた眼元で見据えられ、鳳の零す溜息の荒さに、宍戸は明らかに自分の発言がよくなかったようだと思いながらも、その鳳に迫力負けして、つい泣き言を言ってしまう。
「……昨日が誕生日だったってだけだろうがよ…」
「だけ!?」
 うわあ、と宍戸は無意識に少し後ずさってしまった。
 物凄い勢いで、鳳が宍戸の言葉に噛みついてくる。
 やわらかな色の眼を宍戸がこれまで見たことのないような強さできつく引絞って、あんたねえ、と本当に珍しい荒れた口調で膝立ちに宍戸に詰め寄りながら、鳳は途中で口を噤んだ。
「………………」
「………………」
「……長太郎…?…」
 宍戸の戸惑いがちな呼びかけに、怖いくらいの無表情だった鳳は顔を背けて溜息を吐きだし、節くれ立ってもすんなりと長い指の片手を額に押し当て、座り込んでしまう。
 ひやりとしたのは宍戸だ。
 まだ宍戸に対して怒鳴るなり何なりしてくれればいい。
 でもこんな風に、中途半端に投げ捨てられると、不安が胸を巣食って落ち着かない。
 宍戸はぎこちなく手を伸ばす。
 鳳の頭に、そっと手をおいて、やわらかい髪を遠慮がちに撫でて。
 ごめんな?と囁くように告げると。
 鳳の腕が伸びてきた。
 腰を抱かれるようにして引き寄せられる。
 宍戸は膝立ちのまま、胸元にある鳳の頭上に唇を落とし、繰り返し告げた。
「…ごめん」
「……八つ当たりしてるのこっちなんですけど」
 謝らないでよと、いつもより子供っぽい言い方で鳳が呟いてくる。
 宍戸の胸元に顔を寄せる仕草は通常よりも幼いようで、しかし宍戸の背と腰を抱く手は大きく強かった。
「八つ当たりって、お前……」
「昨日が宍戸さんの誕生日だったこと、俺が知らないのは俺のせいでしょう?」
「いや、お前のせいってことねえだろ…」
 宍戸は本気で首をかしげてしまう。
 特に意味があって言ったわけではない一言で、ここまで鳳が怒ったり落ち込んだりする訳が、宍戸には正直、よく判らない。
 たまたま何の話の流れだったか、帰り際の宍戸が、昨日が誕生日だったことをもらした途端、鳳は激変したのだ。
 それまではいつもの通り、あまいやさしい笑みを浮かべていたのにだ。
「昨日が俺の誕生日だったら……何か、まずいか」
「まずいかって……宍戸さん。あなたねえ…」
「何でそれで、お前が落ち込んだり、怒ったり、するんだよ」
 本音で言えば、その程度のことで鳳からあんな態度をとられること自体が、宍戸には予想以上にこたえた。
 びくついた自分に気づかれたくない気持ちも確かにあったが、鳳の頭を抱き込む宍戸の腕からは、心細さが滲んでしまったようで、責めるつもりの言葉まで頼りなく揺れる。
「……アホ。…そんな事くらいで怒んな、ばか」
「そんな事じゃないから怒るのに……」
 しっかりと意見だけはしてきたものの、鳳は宍戸の口調に気づいてか、手のひらで宥めるように宍戸の背筋をゆっくりと撫でた。
 思わずぎゅっと鳳の頭を抱き込む腕に力を込めた宍戸の背中を、鳳はやわらかく幾度も擦り、ごめんなさい、と静かに囁いてくる。
「……さっきも言いましたけど、八つ当たりだからね…俺の。ごめんね、宍戸さん」
 哀しくならないでね、と低い声で告げられ、なるかと悪態をつく気にもなれない。
 実際なったのだから。
 どうしようもなく。
「八つ当たりの意味が判らねえよ…」
「ん…?……宍戸さんの誕生日、知らないで終わらせちゃった俺が馬鹿なんですけど。…でも、宍戸さんも、どうしてなんにも言ってくれなかったのっていう意味ですけど…」
「俺が? 何を?」
「いろいろ。……ねだるんでも、命令するんでも、甘えるんでも、いいじゃないですか。誕生日なんだから。俺に何かしろって、宍戸さんはこれっぽっちも思ってくれなかったのかなって。拗ねたんです」
「……拗ねたとか自分で言うなよ」
 思わず小さく噴き出してしまった宍戸は、先の鳳と同じことを思う。
 哀しくならないでいい。
 そんなことで。
「言いますよ。……あー…駄目だ、やっぱショックだ」
「………………」
 宍戸の胸元で、ぶつぶつと呟き、鳳はまた暗く沈んでいく。
 そんな鳳の髪を、宍戸はそっと手のひらで撫でた。
「来年」
「…はい?」
「じゃあ、来年は何かしてくれ」
「来年どころじゃないですから」
「……ん?」
「これからは、もうずっと」
「俺の誕生日?」
 宍戸は笑って問いかける。
 鳳が宍戸の胸元から顔を上げて。
 真っ直ぐな目で宍戸を見つめてくるので、鳳の唇に、宍戸は唇を重ねた。
 唇と唇が触れあった瞬間、ふわりと体内に熱が滲む。
「ずっとか……」
「…なんですか宍戸さんは。もう。そんなにきれいに笑って」
 悔しそうに笑ってみせる鳳に、相変わらず馬鹿な事を言うと思いながらも。
 そう言われて嬉しいのだと、伝われと。
 宍戸は願った。
 来年はと言った宍戸の言葉を容易く否定して、当たり前のようにこれからはもうずっとと鳳が言った事。
 嬉しいと、伝われと、口づける。
「……帰したく、ないな…」
 唇と唇の合間で、吐息に混ざって漏らされた鳳の言葉に。
「お前が俺を、帰そうなんて思ってたって事の方が驚きだ」
 この状態で、と宍戸が笑うと、鳳は少しばかり苦しそうに顔を歪めて、宍戸を身ぐるみ両腕で抱き込んで、引きずり込んで、床に組み敷いてくる。
「………降参」
 宍戸の耳元に鳳の呻き声。
「ま、当然」
 笑み交じりに当然だと返したのは、殆ど虚勢のようなものだ。
 だってもう、宍戸は知ってしまったから。
「長太郎」
「…はい?」
 呼びかけただけだと言うように、あとはもう何も告げず、宍戸は鳳の背中に手を回した。
 広く、固い背中を抱き込んで、つかまえていようと思う。
 これから、もう、ずっと。
 こうしてつかまえていよう。
 無くしたら辛い、怖い、哀しい。
 そんな背中を、でもこうして抱き込んでいれば。
 確かにはっきりとした幸せを、手に出来ると知ったので。
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 体感する熱気、日差し。
 肌を刺すような刺激、反応する汗や呼気。
 屋外の夏の直中にいた自分達は、今は二人、部屋の中にいる。
 そこで神尾は跡部に強く抱き締められる。
 神尾の背骨にそって、一気に上から下まで、力の抜けていく感触が生まれる。
 そのまま座り込んでしまいそうになるのを辛うじて押しとどめたのは、神尾の必死な意思の為か、それとも跡部の強い腕のせいだったのか。
 神尾の腰に巻きつく跡部の腕の力が強くなる。
 身体が密着して、悲鳴のように心臓が鳴る。
 抱き締められただけなのに。
 それだけなのに。
 そう幾度自分自身に言い聞かせても、神尾の気持ちはもう、乱れて、乱れて、苦しくて。
 跡部、と動いた筈の神尾の唇は。
 けれど声を発する事は出来なかった。
 跡部の部屋の扉に、神尾は背を押さえつけられたまま、黙ったままの跡部に唇を塞がれる。
 抱き締められた時よりもひどく、足場を見失うような心許無さで神尾は身体を震わせた。
「何びびってんだ」
「……って、な……ぃ…」
 僅かに離れた唇。
 囁かれた言葉。
 少しばかり不機嫌そうに、跡部は神尾を睨みつけてきて。
 首筋の側面に唇を這わされる。
 神尾は真っ赤になった。
「……あと…、……」
「………………」
「跡部……、…っ…」
 そのままきつく肌を吸われて語尾が掠れる。
 頭の中も身体の表面も、熱で、濡れそうになる。
 神尾は跡部の肩の辺りのシャツを両手で握り締め、扉と跡部の間で、何だか自分がひどく小さくなってしまったような錯覚を覚える。
 身体は消えそうなのに、意識は濃くなるばかりだ。
「家帰ったら抱くって言ったよな」
 ひそめた跡部の低い声は、神尾の首筋から直接振動してきて、神尾は必死になって頷いた。
「…………った、けど…、…」
 けど、と神尾がぎこちなく繰り返すと跡部の手のひらがあからさまに神尾の太腿を撫でまわしてきた。
「…っ…、…」
 怯えた訳でも痛かった訳でもないが、神尾は息をのんで身体を竦ませる。
「……掴めちまうじゃねえか…」
「ぇ…、?……な…に…?」
 太腿の側面を辿る跡部の手のひらに神尾の意識は攪拌されて、か細い声しか、出なくなる。
「…跡部……」
「嫌かよ」
 感情の読めない跡部の声で喉元を擽られて、神尾は、びくりと仰け反った。
「…、っ…跡部は、…いいよぅ…っ……」
「アァ?」
「でも、…でもさ、俺…っ…」
 跡部が神尾の肌に寄せていた唇を離し、代わりに手を伸ばしてきて、神尾の前髪をかきあげた。
 身体を寄せたまま正面から目と目が合って、神尾は熱に浮かされたように跡部の色薄い目を見つめた。
「俺はよくてお前の何が駄目だ」
 不機嫌ではないようだけれど。
 ひどく怪訝そうに跡部が聞いてくる。
 神尾は肩で息をした。
 呼吸が乱れているのは自分だけだと、神尾はこめかみから汗が落ちるのを感じながら思う。
「神尾」
「…跡部、は、っ…いいにおい、する」
「ア?」
 ますます不審そうになる跡部に、神尾は溜息をつくように言った。
「なんで、こんな暑いのに……」
 同じように外にいて。
 同じようにここまできて。
 これだけ身体を近づけて。
 キスをして。
 神尾は熱で濡れたようになるのに、跡部はひんやりと澄んだ香りをまとって神尾を拘束する。
「なに言ってんだか判らねえよ」
「だから…っ」
 距離がなくなるくらい近づいて。
 抱き締められて。
 汗に濡れても、さらりと甘い香りのする跡部を、神尾はここにきて漸く、両手で押しやる事が出来た。
「シャワー、貸して。浴びてくるから、待っててって…、…」
 語尾が上ずったのは、いきなりシャツの裾から入り込んできた跡部の手のひらに脇腹を撫で擦られたからだ。
 唇を荒く塞がれて、舌がとられて、濡れて。
「冗談もいい加減にしとけ」
「なん…、……」
 殺す気か、とものすごく物騒で、ものすごく神尾に理解不能な呻き声が聞こえて、神尾はぎこちなく跡部の背中に腕を回す。
「跡…部……」
 唇が何度も何度も塞がれる。
 くらくらする。
 熱い、と涙目になって神尾は跡部の唇を受け止める。
 汗で濡れた神尾の肌に、跡部はお構いなしに指や唇を宛てがって、平気で。
「…ちょ…っと、……跡…部……ゃ、…」
「……今のお前の匂いなんざ、普段より幾らか甘ったるい程度だろうが」
 言いながら首筋を舐められて、神尾は竦み上がった。
「も、…っ……ど…して、そういうこと言う…っ…」
「てめえもだろうが」
「……え…?…」
 詰るような跡部の言葉に神尾は戸惑った。
「俺…?……なに…?」
「今の俺に、待て、だ?」
「……っ……、ちょ、っ、…なに…、っ…、」
「どういう思考回路してんだ、てめえは」
 何かをかなぐり捨てたような言い方で跡部に呻かれて、神尾は訳の判らないまま荒く服を脱がされる。
 何だか余裕のないような急いた手つきだった。
 もう一度同じ事を。
 シャワーを浴びると、待っていてと、神尾が口にしたら。
 音をたてて切れてしまいそうな勢いの跡部だ。
「跡部ー……」
 困ってしまって力なく跡部の名前を呼ぶ神尾に、ちらりと跡部は上目を寄こしてきて。
 唇の端は引き上げているけれど、少しも笑ってない目で神尾を見つめて、脅す。
「言葉、考えて喋れよ?」
「………ぅ…、…?…」
 神経を焦がすような擬音を跡部はその声で神尾に囁いてきて。
「………に、されていいんならシャワー行って来いよ」
「や、……い…です、…シャワー、いい…っ……」
 思わず涙目で神尾は首を左右にうち振ってしまう。
 跡部は満足そうに喉奥で笑ってみせて。
 そんな跡部の表情にますますやられて。
 神尾はぐったりと跡部の腕の中にしな垂れかかった。
 そこではやっぱり、涼やかないい匂いがしていて。
 跡部の両腕に包み込まれて神尾も何だか、もういいかという気になった。
 夏だから、跡部だから、だからもういい。
 汗だくでも、何でも、このままで、いい。
 夏場の校舎は、場所によっては屋外のように暑かったり、木陰のようにひんやりとしていたりする。
 室内であるのに不思議とどこか森のような空間の集まりだ。
 廊下に沿ったガラス窓から差し込む夏の日差しの眩しさに、さながら渡り廊下は温室じみていると、そこを歩く宍戸は思った。
 温室ならばこの暑さも納得できるというものだ。
 思わず漏らした溜息にも、熱気がこもっているようだった。
 宍戸が自然と足早になっていた渡り廊下を抜けきって、ふと歩調を緩めた所で。
 人目を盗むようにして。
「宍戸さん」
 何だと尋ねるまでもない。
 誰だと確かめるまでもない。
 突然現れた相手に突然かけられた呼びかけでありながら、宍戸は少しも不審に思わなかった。
 だだ、本来は違う場所で待ち合わせをしている筈の相手が何故かここにいる事だけはすこし不思議だった。
「………………」
 扉が開いた教室は音楽室に隣接する楽器教材が多々置いてある音楽準備室だ。
 そこから姿を現した相手に、伸びてきた手に、宍戸はふわりと肩を抱かれる。
 そうやって宍戸をふいに抱き寄せたのは鳳だ。
 長い両腕で宍戸を囲う鳳に導かれるまま、宍戸は教室の中へと入り込む。
 驚きこそしなかったものの、面食らった宍戸は鳳のされるままだ。
 音楽準備室の中は適度に冷えていた。
「………長太郎…?」
 肩を包む大きな手のひら。
 教室の中では本格的に抱き込まれて、互いの距離が近くなる。
 宍戸がこめかみを押し当てている鳳の胸元は広かった。
「宍戸さん」
 ぎゅっと鳳の腕に力が入る。
 時折音楽教師から調音など頼まれているらしい鳳からするとここは慣れた部屋なのかもしれないが、宍戸には不慣れでどうも落ち着かない場所だ。
 いきなりこんな風に連れ込まれればそれは尚更の事。
 しかしこんな風に身ぐるみしっかり抱き締められてしまえば、宍戸の視界や意識を埋めるものは鳳の存在だけになる。
「なん、…だよ…?」
 近すぎる距離と、まるで自分を全て包み込むかのような鳳の身体の大きさに、宍戸はひっそりと戸惑う。
 抱き締められているのだと再認識させられる。
 あたたかい身体。
 かたい胸元と、大きな手のひら。
 抗えないのは逆らえないからではなくて、そうしたくないからか。
「長太郎……?」
 宍戸自身が驚くような細い声しか出てこない。
 鳳は何も言わないので、宍戸は腕を伸ばして鳳の背中辺りの制服を手に握りこんだ。
 咎めた訳ではなかったのだけれど。
「もう少し」
「………………」
 ね?と、そそのかす甘えるような声と一緒に、宍戸の髪に軽く押し当てられたのは多分鳳の唇だ。
 鳳は宍戸に対して従順なくらい優しいけれど、こういう時は絶対に引かない事も知っている。
 宍戸も別段この状況が嫌だった訳ではないので。
 鳳の言葉を否定しなかった。
「別に、いいけどよ…」
「じゃあ、少しじゃなくて、…たくさんがいいです」
「おいー……」
 また鳳の手に力が込められる。
 痛いとか、きついとかじゃなくて、丁寧に丁寧に執着されているような抱擁は、いっそ甘ったるくて眩暈がする。
 背筋が反って、すこし苦しい。
 でも、離れたくない、離されたくない、鳳はそんな不思議な抱き方をする。
「…どうしたんだよ、長太郎」
「いつもと違いますか?」
「や、………違わねえけど」
 今がすごくおかしな状況という訳ではない。
 鳳は時々こんな風に宍戸に接してくる。
 やさしく笑っているけれど、絶対に宍戸を逃がさない両腕で拘束して。
 丁重な手つきで触れてくるけれど、宍戸を全部奪い取る力の強さで。
「宍戸さん」
「………………」」
「おなか…すきました?」
「……別に」
 学年も違うし、いつもそうしているのではないのだが、たまに一緒に昼食の時間を過ごす。
 今日もそうだった。
 確か中庭で待ち合わせていたはずなのに。
 何故か今、自分たちは途中の教室の中で息をひそめている。
 確かに今しがたまで覚えていたはずの空腹感は、何だか今、胸に詰められた感情ですっかり薄れてしまった。
「あと少し」
「……たくさんじゃねえのかよ」
「あんまり我儘言うと」
「…怒りゃしねえよ」
 先手を打った宍戸に淡く苦笑いの気配を湛えて鳳が優しい声を出す。
「怒られるのはいいんですけど、嫌われるのは嫌だなって思って」
 そっと腕がほどけて、屈んできた鳳が宍戸の唇をキスでそっと掠る。
 額と額とを静かに合わせるようにして、目を閉じている鳳の睫毛は、至近距離で見るとびっくりするほど長い。
 目を開けていると可愛いのに。
 目を閉じている時の面立ちはその印象が真逆だ。
 ふと宍戸はそんなことを考える。
 こうして目を閉じていると、鳳の表情は、急激に大人びて見える。
 宍戸は目を開けたまま、自分から鳳の唇に口づける。
 一度目は軽く。
 二度目は長く。
 浅く、深く。
 キスをすると、鳳の手が、すくいあげるように宍戸の背と腰を抱く。
 委ねて安心できるくらい力強い手だ。
 塞ぎ返された鳳からの深い口付けに応えながら、宍戸は舌の触れあうあまい感触に力が抜けていく。
 離れたキスの合間で零れたお互いの吐息は、混ざって、小さく、とろけた。
 目を閉じた宍戸の目元に宛がった手のひらで、鳳は宍戸の前髪を後頭部へ撫でつけながら呟くようにして言った。
「目を開けているときれいなのに」
「………………」
「目を閉じてると、可愛い」
 頬に軽いキスで触れられる。
 鳳が言った事は、先程宍戸が思った事と正反対だ。
 手をつないで、指先が絡んで、お互いの距離は近くて、感触を追うのは唇で。
 足りなかったんだな、と気づいたのは、お互いある程度満ち足りてからだ。
 ほっと息をついて、ひとしきり絡ませたキスを終わらせる。
 終わらせる事が出来た。
「宍戸さん…」
「…、ん…」
 こういうことは、さすがに屋外では出来ない。
 だから鳳はここにいて。
 だから宍戸もここにいる。
「……やっぱ…腹減った」
 宍戸の呟きに、鳳は笑って、俺も、と頷いた。
「急いで行きましょうか」
 食堂まだ間に合いますね、と鳳が骨ばった手首にある腕時計の文字盤に目線を当てて囁いた。
 何となく。
 そう、何となくだ。
 つられて鳳の手首に目をやった宍戸は、鳳のその手をとって、指の中ほど、関節の上に唇を寄せる。
 鳳が息をのんだのは気配で伝わって、宍戸は唇をそこに寄せたまま、笑った上目で鳳を見やる。
 唸るとも溜息ともつかない鳳の複雑な吐息で、宍戸の胸の内は埋まるけれど。
「腹減った。長太郎」
 そこまでは埋まらない。
「判ってます。…邪魔してるの、宍戸さんでしょう」
 もう、と鳳が唇から心底呆れたような声を洩らすので。
 うっかり昼食を食べはぐる事になる前にと、宍戸は先に立って教室を出る。
 廊下に出ると、相変わらず渡り廊下は温室さながらの日当たりの良さで、でもそこから走りだして突っ切った中庭は、夏の外気に強い風が混ざって心地よかった。
 鳳は、突然走りだした宍戸の隣に、きちんと並んでいる。
 走って、二人で。
 それでも決して振り払われない抱擁の余韻は、夏の熱とは異なる熱で、互いを裡から焼いている。
 夏とか恋とかどれもが鮮やかで強いから。
 抗う気もなく存分に、さらされていたくて、どうしようもないだけだ。
 乾の両手が背後から海堂の腹部に回される。
「………………」
 乾の手のひらの下にあると、何だか自分の身体がひどく薄っぺらなものになったように錯覚する。
 海堂がそんな事を思って視線を乾の手に落としていると、乾がほっと安心したような吐息を零したのが気配で判った。
 この時の安心というのは、リラックスしたという意味ではなくて、安堵のそれだ。
「乾先輩?」
「……ん」
 嫌がられないでよかった、と耳元で低く告げられた言葉。
 海堂は呆れて溜息をつく。
 どういうレベルで安堵しているのだと思うのが半分。
 もう半分は、嫌がってはいないけれど、その後の提言に続いた。
「部室っすよ」
「だな。…ああ、もう誰もいないよ」
「見りゃ判るっす」
「鍵はかけたよ?」
「……かけりゃいいってもんじゃねえよ。……だいたい、いつかけたんですか」
 さっき、と幼い子供のような応えを口にして、乾は海堂の肩口に額を当ててくる。
 長身の、年上の男に。
 これは、甘えられているらしいと海堂は察して、今度は小さな溜息をつく。
 自分の腹部に回っている、大きな手の、甲の部分を極軽くはたく。
「どうして後ろからなんですか。先輩?」
「んー……悪あがき」
「何の」
「格好悪いのは、承知でやってます」
 でもちょっとだけでも悪あがきね、と乾は囁いた。
 低く響く大人びた声で子供っぽい事を言うアンバランスさ。
 相変わらず顔が見えない。
 海堂が不服に思っているのは伝わっていないようだ。
「………………」
 乾は時々、こんな風に、ひとり、へこたれる。
 落ち込んだり暗くなるのではなくて、そういう時は、やたらと海堂に懐いてくるのだ。
 構われたがるというか。
 内心、弟の行動と似てるなあと海堂は思いながら。
 その相手が乾であるので、ただお兄ちゃんでもいられない。
 これだけで察する事も出来ないので。
 口のうまくない海堂は、そのままでいるしかない。
 夏のさなかに酔狂な態勢だ。
「海堂」
「…はい?」
 乾が口をひらかないと、自分たちの会話は進展しない。
 こんな時でもそうかと思うと、海堂は少しおかしかった。
「例えば、目標を作るとするだろう?」
「…はあ」
「その目標とした所に、なかなか……というか、一向に辿り着けない場合だ。そういう時の忍耐の仕方というか、続け方というか。どうして俺のやり方はいつも100%で完成しないのかとか」
 乾の低い呟きは、尚も淡々と続く。
 海堂は生真面目に耳を傾けている反面、今更ながらに乾の胸元に閉じ込められているかのように背後から抱き締められている体勢の甘ったるさに面映ゆくなる。
 なめらかな低音は、泣き言すらも甘く響かせてきて、ふしぎなひとだと海堂は背後の男を思った。
 こんな風に、誰かにぐずぐず言われたら一喝して終わりにするのが海堂の常なのに、乾にこうされるとそれが出来なくなる。
 海堂はふと立ったまま背後の乾の胸元にもたれかかるようにした。
 乾の淀みなく続いていた言葉が、ふっつりと途切れる。
「……海堂?」
「あんた、目標高いからな…」
「ん…? まあ、高望しがちなところはある、かな?」
 海堂とかね、と。
 囁きと一緒に後頭部に唇を押し当てられた。
 言われた言葉にも仕草にも少し狼狽えて、海堂は、違うと首を振った。
「俺は関係ねえよ」
「あるよ」
 俺は一番真剣だ、とからかうでもない声音で言われてますます海堂は気恥かしくなる。
 振り切るように幾分荒っぽく海堂は言った。
「あんたのデータの話してんでしょうが…!」
「まあ、そうなんだけどな」
「完成するかしないかは結果の話じゃないんですか」
「…うん?」
「だから…100%で完成するかしないかより、目標が100%で作ってあるなら、俺はそれでいいと…」
 んん?と乾に伸しかかられるように背後から顔を覗きこまれる。
 海堂が、説明がうまくないことくらい誰よりも知っているのは乾なのだから。
 そういう促しは止めて欲しいと海堂は心底から思った。
「あー…なるほど…」
「……先輩?」
 そうかと思えば。
 目と目を合わせた途端これだ。
 乾は不器用で口下手の海堂の真意など容易く汲み取って。
「そうだよな…」
「………………」
「目標が最初から50%なら、どう頑張ったって80%の完成になる事はないけど」
「………………」
「目標が100%なら、その完成にはならないけど、80%で出来上がる事はあるよな」
 本当に容易く。
 汲み取って。
 言葉にしてくる。
 海堂は頭上の乾を流し見ながら呟いた。
「……最終的には、あんたはちゃんと、100%にしてくるっすよ」
「海堂にそんなこと言われたら何がなんでもそうしないとな」
 乾が薄く笑った。
 腕に少し力を入れてきて。
 海堂の背中は乾の胸元と密着する。
「先輩、」
 今度の接触は、どうもこれまでとは幾分意味合いが違う。
 海堂が戸惑って身体を捩ろうとしたものの、それは中途半端に叶わず。
「…っ……、……」
 僅かに捩れた反動を使って、乾が海堂の唇を盗んでくる。
 掠る程度の、キスだ。
「な、…っ……」
「復活しました」
「は?…ちょ、…どこ触…っ……」
 機嫌のいい艶っぽい笑みを耳元に零され、両腕での拘束が甘く狭まって、海堂がうろたえればうろたえるほど。
 乾は笑いを深めて、海堂と密着して。
「あっれー。なにいちゃいちゃしてんの? 二人して」
 突如飛び込んできた明るい声に、海堂は飛び上がり、乾は溜息をつく。
 バーン、と音をたてて部室の扉を開けて。
 夏の夕暮れの気配と共に、素早く侵入してきた菊丸は、ひょいと乾と海堂の前に現れる。
「あんた、鍵かけたって言ってなかったかっ?」
「……まさか今頃戻ってくる奴がいるとは…」
「忘れものだよん」
 指を二本立てて笑った菊丸は、乾の腕に囚われたままの海堂の頭を、軽くぽんぽんと叩いて。
「海堂」
「……っ……」
「乾に鍵かけたって言われても、信用しちゃダメだぞ!」
「な、……菊丸先輩…、……」
 菊丸の手つきは、何故かいつの間にか、いいこいいこと海堂の頭を撫でて。
「逃がしてあげるね。海堂」
「おい、英二……」
「知らなーい」
 乾の咎める声などお構いなしに、菊丸はあっさりと海堂を引っ張って。
 硬直している海堂を見つめて、なんかもう、いたいけすぎで俺心配、と言った。
 菊丸の言った言葉の意味が海堂にはよく判らなかったけれど。
「……どうしてお前はそうやって俺を虐げるんだ…」
「判ってて聞くからなー。乾は」
「大事にしてるよ。ちゃんと。見てればそれくらい判るだろう」
「えー。無体してるようにしか見えなかったけどー?」
「少しくらい甘えたっていいだろう!」
「気持ち悪いよ乾!」
 鬱々と溜息を吐き出す乾も、海堂には判らない。
 上級生二人のやり取りに、怪訝に立ち尽くすのが精一杯だ。
 痺れるような、熱の余韻。
 流れ込んできた外気に触発されたのか、今更ながらに。
 今の今まで乾に抱きこまれていた自身の身体に籠る熱を感じとって、海堂は極めて彼らしくないことに。
 じりじりと後ずさると荷物を掴んで、一言叫んで部室を飛び出た。
「お先失礼します…、っ」
 海堂の背後で聞こえてきた声は。
「やーい、逃げられたー」
 大笑いする菊丸の声と。
「お前のせいだろう! お前の!」
 全くもって普段の彼らしくもない、乾の声だった。
 跡部の家は大金持ちだ。
 だから例えば跡部の家で見たものの価格や、起こった出来事のスケールに、腰が抜けそうになると神尾が思った事も度々ある。
 けれども、それより何より。
 神尾を一番驚かせるのはいつも跡部自身だ。
「ほらよ」
「……ふ……わ…ー……」
「気の抜けるような声出すんじゃねえよ」
 眉を顰めて毒づく跡部が、テーブルの上に置いたもの。
 神尾の手の届く位置に置かれたカップからはコーヒーのいい香りがして、ふわふわのスチームがふちいっぱいまで注がれて、その上に描かれているのは薔薇の花だ。
「すっげー…! 何でこんなこと出来んの? 跡部」
「出来ねえわけねえだろ」
 神尾の感動など気にも留めずに、跡部は再び水差しを手にもう一つのカップにミルクを注ぎ入れる。
 ミルクの流れを微妙に操ってエスプレッソの上に注ぐことをフリープアというのは、今しがたテレビで言っていた事だ。
 泡の上にまた、細いスティックで手際よくデザインを描いていく跡部を前に、神尾は再び大きく息を吐き出した。
 たまたまだったのだ。
 跡部の部屋で見ていたテレビでバリスタの世界選手権の映像が流されて、数々のラテアートに神尾がびっくりしたり感動したりしていたら、跡部が呆れたようにそんなに気に入ったのなら作ってやると言いだした。
 キッチンに連れてこられて、そうしたら神尾の目の前で恐ろしいほど優雅な所作で跡部が用意した道具でカフェラテを淹れた。
「跡部って、ほんとなんでも出来んのなー」
「今更判り切ったこと言うな」
 こういうの、よくやんの?と神尾が聞くと、馬鹿かと跡部は神尾を睨んできた。
「俺様が自分でわざわざ淹れるわけねえだろ」
「え。じゃあ今初めてやったのか?」
「お前がガキ並に感動してうるせえからな」
 泣きボクロのある側から怜悧な流し目を寄こされて、思わず神尾はどぎまぎする。
「寄こせ」
「え?」
「こっちのが出来がいい」
 カップを取り換えるよう促された神尾がテーブルに視線を落とすと、ロゼッタのラテアートが施されたカフェラテのカップを跡部は持って行き、代わりに滑らせてきた方を見つめた神尾は、ぽかんと口を開けた後、じわじわと顔を赤くした。
「ちょ、……これ…」
「いい出来だろ?」
 神尾の向かい側の席についた跡部が、片肘をついた手のひらの上に頬を乗せ、にやりと唇で笑う。
 跡部が淹れた二杯目のカフェラテには、片目が長い髪で覆われたデフォルメされた人の顔のイラストと、誕生日を祝う英文でのメッセージが描かれている。
 今日は確かに、神尾の誕生日だ。
 こういうのは、なんだか恥ずかしくて、擽ったくて、嬉しくて嬉しくて、どうしたらいいのか。
「飲めよ」
「…ぅー」
「何だよ」
 跡部と向かい合いながら神尾は唸った。
「飲めねえよう…」
「猫舌だからな、お前」
「…そういうんじゃなくて」
「ガキはゆっくり飲めばいいだろ」
 跡部は綺麗な指でカップを掴み、睫毛を伏せてカフェラテに口をつける。
 口は悪いし、素っ気ないようであるのに。
 そんな跡部の中には、むしろ神尾には太刀打ちできないような甘ったるい態度も潜んでいるのだ。
「………………」
 もったいないっていう言葉の意味が目の前の男に通じるだろうか。
 おずおずとカップに手を伸ばし、何だかもう気恥かしいような嬉しくてたまらないような、ふわふわとした気分でラテアートを見つめていた神尾は、ふと何かの気配に気づいて顔を上げた。
「なに、見てんだよう…」
 気配を感じて当然だ。
 ものすごい、見られている。
 跡部に。
「見ちゃ悪いかよ」
 別に悪くはない筈なのだけれど。
 長い睫毛を軽く伏せられても尚、強く澄んだ眼の力は強くて、神尾はうまく説明出来ずにうろたえる。
「……なんか、落ち着かないんだよう」
「だから見ちゃ悪いのか」
「………だから、…だからさあ…悪いとかじゃなくてさあ…落ち着かないんだってば…」
「うるせえ。知るか」
 睨むような目をして跡部は立ち上がり、ガラスの天板に手をついて。
 近付いてきて。
 神尾の唇を掠ってくる。
 ほろ苦いような香りと一緒に、やわらかなキスが一瞬。
「…、…ん」
 神尾の目前まで迫っていたきつい目付きからするとびっくりしてしまうくらい丁寧に。
 跡部の指先は神尾の頬を支え、そこがじわりと神尾は熱くなる。
「慣れねえのな。お前は」
「………慣れるわけないだろ…っ…」
 目を閉じたまま泣き言混じりに神尾が怒鳴ると、跡部は笑い出して、神尾の頬を支えたままこめかみにも唇を落としてきて。
 さらさらと神尾の肌に触れた感触は、跡部の髪だ。
「なあ」
「…………に…?…」
「飽きんなよ」
「……は…?」
 神尾は思わず目を開けた。
「…ま、ちっとも慣れねえくらいだから、そっちの心配はまだいいか」
「跡部ぇ…?」
 ひとりごちる跡部の言葉が、全くもって神尾には理解不能だった。
 慣れろとか、飽きるなとか、跡部の言う事は本当にもう、めちゃくちゃだ。
「おら、いい加減冷めたぜ。お子様向けだ」
 跡部が唇に笑みを浮かべたままそっと神尾から離れていく。
 目線で促されたカフェラテに救いを求めるように、神尾はキスを引きずる唇で、熱いままの頬で。
 半分涙目に。
 今日の為のメッセージを飲み干した。
 部屋の外は暑い。
 部屋の中は冷えている。
 夏だからだ。
 お互いに黙って服を脱いだり脱がされたりしている時に、ふと赤澤が、呟くように言った。
「お前、身体冷たいな」
「………………」
 言うなり硬い手のひらが観月を抱き寄せてきて。
 赤澤の両腕に身ぐるみ抱き締められる。
 観月はされるままだったけれど、いきなりにはリアクションしがたい言葉を紡がれた事にも、中途半端な体制で抱き込まれてしまったことにも躊躇して口を噤んだままでいる。
「………………」
 観月を包む腕は熱い。
 硬くて、強靭だけれど、感触は優しかった。
 抱く意味合いを異ならせた腕だったけれど、観月に対する熱量は冷めないままだと判るので、観月は抱き寄せられた赤澤の胸元で目を閉じる。
 釦を外しただけで、まだ羽織っている状態のシャツ越しにも、赤澤の胸元からはくっきりとした体温で熱を感じる。
 先に上着を剥がれてしまっている観月としては、自分の身体が冷たいという事で、改めてお互いの体温の違いを感じ取っていたのだが、赤澤が行為を中断したまま一向に動かないので。
 上目にちらりと赤澤を睨み据えた。
「ん…?」
「……、…っ」
 赤澤は観月に問い返しながら唇を奪う。
 観月はちいさく喉声を上げて目を瞑る。
 キスは短かった。
 赤澤は観月の眼尻に唇を寄せながら、観月の肩に回していた腕で丁寧に抱き寄せ直してきた。
 剥き出しの観月の二の腕をそっと手のひらで撫でさすって、ベッドサイドのリモコンを逆の手に取ると部屋のクーラーを消した。
 そもそもそれは、後輩の練習につきあって、午後はずっと外にいたらしい赤澤がつけた冷房だったのに。
「……なんで消すんですか」
 聞くまでもなく、赤澤とは逆に今日は室内にこもってデータ分析に取り組んでいた観月の、冷房に冷え切った身体のせいだということは判っていたけれど。
 観月ばかりを優先するような赤澤の態度が時々観月の反発心を煽る。
「後でまたつけるさ」
「今暑いんでしょう、貴方」
「この後の方が熱いだろ?」
「……途中で止めておいてよく言いますね」
「止めねえよ。中断だ」
 欲求を隠さない声で囁かれ、耳元に唇を寄せられ、微笑まれる。
 観月は赤澤の腕の中でくらりと眩暈めいたものを覚える。
 ベッドの縁に腰かけて、赤澤の腕に包まれ凭れていると、冷えた肌とは別の所から身体が熱を持っていく。
 赤澤は観月の頭上や首筋に唇を落としながら、指同士を絡めるように手と手を重ねた。
 何だか半裸の状態で、ただ手を繋いで身体を寄せている状態の方がよほど気恥かしい。
「観月」
「……なんですか」
「赤いのかわいいな」
「は…?」
 なにが、と顔を上げかけた観月は耳の縁を赤澤の唇に食まれてびくりと身体を竦ませた。
「あと、ほら。手も、指の先だけ赤い」
「………っ……」
 指を絡めあった手を軽く持ち上げられ、耳とは違い観月の目に入る位置で赤く色づいた先端を浅く赤澤の唇に含まれる。
 すこし濡れた粘膜の感触が観月の爪の上をすべる。
「…っ……、……」
「あー…目赤くされんのはちょっと心臓に悪いけどな」
 真顔でそんな事を言いながら、赤澤は観月の瞼にもキスを落とす。
 ちいさな灯火を撒き散らすのは止めてほしい。
 観月は心底からそう思った。
 自分がこんなに発火しやすいなんて知らなかった。
「も、やだ」
「…ん?」
「あつい、」
 なじるような言い方で。
 ほんの少しもかわいいはずなんかないのに。
 言い方までかわいくしないでくれと赤澤にのしかかられてしまう。
「………………」
 広い背中を抱き返して。
 放熱しているような赤澤の高い体温を吸い込むように観月は手に力を込める。
 観月に浸透してくる赤澤の存在は、冷えた肌に熱を与えるように、異なるものでありながらも異物ではない。
「もう、…」
「観月」
「…いいでしょう、もう…っ」
 今の自分の身体の、どこに冷たい箇所があるというのか。
 観月が声を振り絞って、気持ちも振り絞って、いい加減にしてくれと訴えれば。
 餓えたようなキスが、きつく、観月の唇を塞いだ。
 赤澤の長い髪が首筋をくすぐる。
 擽ったさよりも、ちりちりと肌を煽られる刺激が怖くて、観月は赤澤の髪を覚束ない手で頭の形に撫でつけるようにしながら、深みを欲しがる舌を迎え入れ、唇をひらいた。
「……っ…、…ぅ…」
「………………」
「ん…、っ…、…、」
 キスは熱かった。
 舌が蕩けそうになる。
 絡めても絡めても足りない。
 そう訴えるようなやり方で。
「……っふ…、…ぁ…」
「観月」
 ほどかれたばかりの唇を赤澤の親指の腹が辿る。
 おそらくそこが、今、どこよりも赤いのだろう。
 無意識に薄くひらいた唇で、観月が赤澤の親指を浅く含み、目を閉じると。
 すぐにこれまでの数倍の勢いで、唇が塞がれ、赤澤の両腕に観月の背筋は浮くほど抱き竦められた。
 強い腕を、その力強さを、乱暴だと観月が思うことはなかった。
 観月は寧ろほっとして、力を抜く。
 互いの身体の間で熱が溶けて汗が生まれる。
 濡れあう事は嫌じゃない。
 頭の中が痺れるような熱さが、じんわりと思考に食い込んでくる。
 考えの纏まらない脳裏、それもやはり、観月に少しも不快を感じさせない。
 普段とは、まるで違う。
 汗で濡れて、熱が溢れて。
「赤澤…、……」
 浮かされたような呼びかけを聞きつけて、赤澤が観月の肌に唇と舌とを這わせながら低く言う。
「……クーラーつけるか?」
「…、っ…いいかげん、…に…」
「…観月?」
「よそみばっか、しないで下さい…!」
「よそみ?」
 冷たいだ熱いだと、手を止められるのはもううんざりだ。
 責めながらどこか泣き声混じりの観月の言葉に、赤澤は笑いもせず、怒りもしなかった。
 ただひどく生真面目に、荒いだ吐息を零しながら観月の唇を塞いで。
「お前しか見てない」
 そう一言だけ。


 あとはもう、お互い様。
 肌に若干の痛みを感じるくらいのきつい日差しを、宍戸は顰めた目で仰ぎ見た。
「どうしたの。宍戸?」
「あ?」
「そんな凶暴な顔して」
「悪かったな凶暴で。元々だっつの」
 おっとりと話しかけてきた滝を、宍戸は頭上を見た目そのままで見据えたが、滝は穏やかに笑って、冗談だってばと僅かに首を傾けた。
 肩からさらりと零れた長めの髪が、夏の光を小さく弾く。
 屋外にいると取り分けに目立つ滝の髪の目を向けて、宍戸は言った。
「きれいな髪だよなあ…」
 足を止め、手を伸ばし、指先に掬った滝の髪を見つめて宍戸が呟くと、宍戸に言われるとは思わなかったと滝は一層にこやかに笑った。
「どういう意味だよ」
「長い髪、綺麗だったから」
 今はもう短い宍戸の髪だけれど。
 ついこの間まではかなりの長さがあった。
「あれは傷んでただろ」
「そんなことなかったよ?」
「本人がそうだって言ってんだからそうなんだよ」
「謙遜するね」
「してねえよ」
 言葉を交わしながら二人で並んで歩いて、向かう先はテニスコートだ。
 レギュラー復帰をかけて宍戸は滝と戦い、滝の代わりに正レギュラーに返り咲いたのだが、不思議とお互いの間に軋轢は生まれなかった。
 全力でやって負けたんだから宍戸の方が強いって事だ、と滝は溜息のように言って、負けた悔しさを隠しはしなかったけれど、でも笑ってもいた。
 たおやかといった風情の滝だが、負けん気は強いのだ。
 それでいて達観した所もある。
 宍戸のレギュラー復帰に関して、準レギュラーを中心に一部で快く思われていないことは宍戸も知っていたが、宍戸と入れ替わる事になった当の滝が何も変わらずこうして宍戸の隣で笑っているので、結局宍戸に何か進言してくるような輩は出てこなかった。
「滝」
「なに?」
 言いたいことがあって呼びかけた訳ではなかったから、宍戸にはそれ以上言葉がない。
「……なんでもねー…」
「へんなの。宍戸」
「悪かったな…」
「暑いのにやられちゃった?」
「いかれてるみたいに言うんじゃねえよ」
「はいはい」
 宍戸の指先から、するりと滝の髪が零れていく。
 行こう、と歩き出した滝の少し後に宍戸はついていく。
 風が出てきた。
 背後から、背中を押すように。
「強いね、風」
 うなじに押さえつけるようにして、滝が髪に手をやりながら振り返ってくる。
 ああ、と宍戸は言いかけて。
 その時吹いた突風に、被っていたキャップを飛ばされた。
 勢いよく、高く、キャップは風に乗って。
 飛んで。
 その行方を目で追って。
「………………」
 短く舌打ちして宍戸が走り出そうとしたのを滝がやんわりと止める。
「大丈夫じゃない?」
 何が、と言いかけた宍戸を制して、滝がほっそりとした腕を持ち上げて、ほら、とすこし遠くを指さした。
 その先にあったのは、跳躍した長身のシルエットだ。
 風に舞い上がった宍戸のキャップに手を伸ばし、太陽を背負うようにして飛んだその存在感はひどく眩しかった。
 細めた眼で宍戸は見据える。
 長い腕で宍戸のキャップをキャッチしたその影は、顔など見えなくても誰なのかすぐに判った。
「宍戸さん」
 キャップを持って、前方から走り寄ってきた後輩に、宍戸はまだ眩しいように目を細めた。
「すごいね、鳳。あれ届いちゃうんだ」
「滝さん」
 お疲れ様です、と二人の上級生に頭を下げてから、鳳は滝に向かう。
「身長くらいしか取り柄ないんで。こういう時は頑張ります」
「またなに言ってるんだろうね、鳳は」
「だってあとは、ほら、あれでしょう? 俺の特徴って言ったら、ノーコンとか」
「そうだね。他にもノーコンとか、ノーコンとか」
「…滝さーん」
「情けない顔しない。鳳が自分で言ったんだろ?」
 屈託なく笑う滝が、なあ?と宍戸に話を振ってくる。
 何となくぼんやりしていた宍戸は、不意打ちの呼びかけに我にかえって、二人の視線を受け止めて。
 曖昧に言葉を濁した。
「宍戸さん。はい」
 風に飛ばされたキャップを受け止めた鳳が、それを宍戸にそっと差し出してきた。
「…サンキュ」
「いいえ。風、強いですね」
 鳳の、すこし癖のあるやわらかそうな髪が風に吹かれる。
 目元にかかる前髪を鳳はかきあげて、そのままうなじで後ろ髪を押さえつける。
 滝がしていたのと同じ仕草だな、と宍戸はまたぼんやりと考えた。
 鳳の手からキャップを受け取って、ツバを後ろにして被りなおすと、宍戸は少しだけ痛む胸を誤魔化すように走り出した。
「宍戸?」
「先行ってるな」
 滝が驚いたように呼びかけてきたのを、笑いかけ追い越して。
 鳳も僅かに目を瞠っている様を視界の隅にとらえる。
 ダブルスを組んでいた、鳳と、滝を、見ていると近頃宍戸は胸の内がざわざわと落ち着かない。
 宍戸はレギュラー復帰にあたって、滝を落としただけでなく、ダブルスのパートナーだった鳳までも取ったようなものだ。
 宍戸自身が選んで、決断した。
 そのことを悔いている訳ではなかったけれど。
 ある意味、状況が変わっても関係には変化のないような鳳と滝の間に宍戸は立てない。
 どことなく、似ているものを持っている二人の間に宍戸は立てない。
「………………」
 鳳とダブルスを組むことに。
 鳳のパートナーであるということに。
 臆したのではないのだ。
 宍戸があの場にいられない理由は、テニスには関係がなかったから。
「………………」
 宍戸は左の胸の上、制服のシャツを手のひらに握りしめる。
 気持ちは、そんな事では握りつぶせないと判っていたけれど。
 きつく、指先に力を込めるしか宍戸には出来ない。
 ここまで臆病になる自分が信じ難かった。
 好きになった相手が。
 優しい顔で、友人に微笑む姿が。
 それが何故、こんなにも胸を痛ませるのか。
「……らしくねえよなぁ……激ダサ…」
 ぽつんと漏れたつぶやきは。
 宍戸自身呆れるくらいに力なかった。



 突然先に行ってしまった宍戸に面食らいながらも、すぐに滝は鳳の異変に気づいてひっそりと苦笑いを浮かべた。
「……滝さん」
 力ない声。
 しょうがないなと滝は背の高い後輩を見上げて促してやる。
「なに?」
「俺、やっぱり高望みですかね…」
「なんのこと?」
 知っててしらばっくれるのやめてくださいよと鳳がますます肩を落とすのを、滝は流し見て。
 唇の笑みを苦いまま深めた。
「高望みでも何でも、好きになっちゃったんなら頑張るしかないんじゃないの?」
 別段滝は、この後輩の恋を高望みと思っている訳ではないのだけれど、当の本人はそう決めつけている節がある。
「頑張りますよ、勿論」
「鳳のそういう前向きなところ、すごくいいなと俺は思うけど?」
「はあ……ありがとうございます」
 気の抜けた声に、とうとう滝は噴き出してしまった。
「俺じゃなくて、宍戸がどう思ってるかが肝心、ってとこか」
「や、別に滝さんの意見がどうでもいい訳ではないですが」
「はいはい。でも実際は、宍戸の意見が知りたい鳳君?」
「……いじめるの止めて下さい」
 へこんでんですから、と広い肩をがっくりと落とす鳳に、悪いと思いながらも滝は笑いを零してしまう。
「コートの外ではまだいろいろ課題がありそうだね。確かに」
「俺……ガツガツしすぎてます…?」
 気をつけてるんですけど、どうも、と頭を抱え込む勢いの鳳の背中を軽く叩いて、滝は実は宍戸の本音もうっすら気づいているので言葉を選んで話す羽目になる。
 うっかり滝が、双方の心情を勝手に相手に漏らしてしまう訳にはいかないだろうと思うので。
「何だか今のも微妙に俺、逃げられた気がするんですけど……」
「確かに」
「滝さん…!」
「ごめんごめん」
 真顔で頭を抱え込んでいる鳳の背中を滝は軽く叩いて促した。
「ま、とにかく早く部活に行こうか」
 鳳も、宍戸も。
 かわいいね、と滝は内心で思い、そうして浮かべているその笑みこそが、何よりも甘く滝を縁取っていた。
「がんばろうね。鳳」
「滝さん?」
「色々と翻弄されちゃうのは鳳だけじゃないんだよってこと」
「え?」
 なかなかすぐにはうまくいかないことばかりだけれど。
 好きなひとがいる。
 だから頑張りたいのだ。
 それはきっと誰もが思うこと。
 日曜日の昼時、海堂は自宅の庭でホースを手にしている。
 先端から吹き出る水で、隅々まで濡らしていく。
 庭の水捲きは嫌いではなかった。
 植物や土は、かわいているより充分な水分で潤っている方がいい。
 そして、梅雨明けして一層厳しくなった暑い日差しの中、存分に水を撒き散らす作業は海堂の気持ち的にも幾許かの清涼を感じる。
「………………」
 緑という緑へ、土という土へ。
 水を与える。
 植物は濡れると色が濃くなる。
 土壌もひっそりと潤んで、水を含んだ外気は匂いも変える。 
 頭上の晴れ渡った空は、青い空と白い雲とのコントラストがくっきりとしていて、眩しいくらいの太陽の光に差し向けるよう、空へと散水を差し向けても、水は弧をえがいて庭へと舞い降りてくる。
 水の音。
 水の匂い。
 それよりも尚強い夏の気配。
 もういっそ自分もこの水を浴びてしまいたいくらいに日差しは強くて、気温も高くなっていく。
 水捲きが済んだら走りに行こうと海堂は思っていたのだが、何とはなしに切り上げるのが勿体ないような気分になって、庭へ水分を与え続けていた。
 隅々へ、かわいた場所を残さぬように、海堂は無心で水を捲いていたので、ふいに呼ばれた自分の名前にすぐに反応できなかった。
「海堂」
「………………」
 水の沁み込みのように、その声は海堂に入ってきて、それを認識して、海堂は潤む。
 ホースを手にしたまま家の外へと目を向けると、垣根を越す長身の乾が立っていた。
 着ている白いシャツが太陽の光を反射させる。
「おはよう」
「……もう昼っすよ」
 そんな言葉を返しながらも、おはようございますと、海堂も言った。
 乾が歩いてきたらしい方角と時間帯から推測して。
「…図書館帰りっすか」
「ん。暑いなぁ、今日」
 暑いと言いながら、乾はあまりだれた様子を見せないのが常だ。
 吹いた風にはためくシャツが日差しを反射して一層白さを増して、いっそ乾の周辺だけが涼しげにさえ見える。
 海堂は少し目を細めるようにして乾を見詰めた。
 背が高いのに威圧感のない乾は、水分を得た緑越しに、そこに溶け込むように穏やかだ。
 一緒にいて、気づまりを感じたことのない相手は、寧ろ海堂の呼吸を楽にしてくれる。
 海堂の中にある過剰なものを、乾はそっと指摘して見せたり、解き放ってくれたり、海堂に息の抜き方を教えてくれて、それでいて無条件に海堂を信頼する態度も惜しまない不思議な相手だ。
 特別な誰かというものを海堂は乾で知った。
 海堂がそんな事を考えて見つめ続けていた乾が、海堂と同じ分だけの視線を、海堂へ寄こしてきた事に。
 言われるまで海堂は気付かなかった。
「見惚れてた」
「………はい…?」
「実はだいぶ前から。水撒きしてるところ」
「……水…撒きたいんっすか」
「そっちじゃなくてさ」
 乾は笑って、首を振る。
「海堂をだよ」
 好きだなあと思って、と。
 そっと囁くような声で乾に付け足される。
 夏の日差しの下、緑に縁どられて笑う乾の言葉に海堂は息を詰まらせる。
 手元から散水ホースがするりと落ちて、海堂の足元を濡らすのも気にならなかった。
 乾は大人びた表情にはにかんだような笑みを浮かべて、そっと海堂の足元を指で指し示してくる。
「……とめた方がいいんじゃないか?」
「あ…、…」
「驚かせたか?…ごめんな」
「…、…別に…」
 海堂は慌てて蛇口を捻って水を止める。
 ハーフパンツにサンダル履きの足元の濡れ具合は然して気にならなかった。
 むしろ本音は頭から水をかけたいくらいに濡れてしまいたいくらいだった。
 顔が熱い。
「海堂」
「……なん…っすか」
「熱い」
「…ったりまえでしょうが。夏なんだから」
「そっちじゃなくて」
「……は?」
「熱い」
 熱出そう、なんて乾が言うので海堂はぎょっとして顔を上げる。
 具合でも悪いのかと思って見据えれば、乾が小さく海堂を手招きしてくるので。
 思わず促されるまま海堂は乾へ近づいていって。
「あんた、熱って…」
「ん」
 伸ばされてきた長い腕。
 緑の葉の隙間。
 夏の日差しと、僅かな木陰。
 唇を掠られる。
「な、……」
「………………」
 離れ際にもう一度唇の端にもキスを寄せられて。
 本来ならば、場所と行動を咎めるべきなのに、海堂はそう出来ずに何だか熱に浮かされたようになってしまう。
「先輩……」
「……我慢がさ…出来ないというか」
 そんな他人事のような言葉を口にしながら、乾は海堂の後ろ髪を大きな手で静かに撫でた。
「髪、…すこし熱いな」
「………………」
 家の中に入った方がいいかもな、などと冷静な言葉を言っているのに。
 そんな乾が海堂を離さない。
「……先輩」
 海堂は唸るような声で乾を呼んだ。
「うん?」
「いいから、早く…玄関から入ってきて下さい」
 これではいつまでも炎天下の下、ここでふたり立ち尽くす事になる。
 もう、くらくらと、甘ったるいめまいもして。
 海堂の幾分荒っぽい声に、乾は少し目を瞠り、含み笑いを響かせてきた。
「これはこれで密会っぽくていいかと思うんだが」
「…そのうち、ぶっ倒れるっつってんだよ!」
「優しいなぁ…海堂は」
「あんたじゃねえ…!」
「おじゃまします」
 小さく音をたてて海堂の頬に口づけて。
 乾は背中を向けた。
 海堂は頬に手の甲を押し当てて固まった。
 玄関のチャイムの音がなるまで、そこに立ち尽くした。
 横柄だ横暴だ自分勝手だ我儘だ何様だと散々に人の事を言ってくれるが、それはお互い様ではないだろうかと跡部は苦い顔で神尾を見て思う。
 日曜日。
 跡部は朝から自室にいて、神尾は午前中部活に行っていて。
 跡部が終わり次第来いと神尾を家に呼び、不動峰のジャージ姿で神尾は跡部の部屋に入ってきた。
 やってくるなり手首をとって引き寄せると、抗うでもなく神尾は跡部の胸元に収まる。
 しかし、跡部が口づけを落とす手前で。
 じっと。
「………………」
 跡部を直視してきた神尾に、目ぐらいつぶれと跡部が眉根を寄せた隙のことだ。
 今まさに唇と唇が触れ合おうとしているキスの雰囲気など、呆気なく払拭する言い様で神尾は言ったのだ。
「跡部。どっかいこうか」
「…あ?」
 この状況で言い出す言葉だとは到底思えない。
 跡部が凄むような声を出しても神尾はけろりとしていて、キスの寸前のこの体勢で、勝手に首を傾げている。
「どこがいいかな。そうだなー……、ん。そうだ。海にしよ。海。泳ぐのにはまだ早いけど、ぼーっとしに行こう。弁当持ってこ」
「神尾」
「弁当…うーん…俺つくったことないけど、うん、たぶんどうにかなるぜ」
「おい」
「買うんじゃ雰囲気出ないからなあ。がんばるぜ、俺。あ、台所貸してくれな。跡部」
「てめえ」
 人の話を全く聞かないこの身勝手さは何だ。
 跡部は唖然となりつつ、元来鋭い目つきを尚更にきつくして神尾を睨みつける。
 どうしてこの状況でそういう話になるのか。
 跡部には全く持って理解不能だ。
 キスはどこにいったのだ。
 一瞬キスされるのが嫌なのかと思ってもみたが、半ば跡部に覆い被されているようなこの状態で、取りあえず神尾はにこにこと笑っている。
 怒鳴るのは簡単だが、そうするには拍子抜けする程、神尾の笑顔に邪気はない。
 むしろ神尾は、やけに甘い目で、跡部をじっと見つめてきている。
 跡部の胸元に両方の手のひらを当てて、そのしぐさは拒むというより甘えているように見えなくもない。
「海行こ?」
「…ああ?」
「約束をしておくと、駄目じゃん? 予定にしちゃったり、目的があったりすると、跡部またいろいろ考えるじゃん」
「お前が言ってる事の意味がさっぱりわかんねえよ」
 呆れながらも困惑するなんて真似、跡部は神尾相手以外にした事がない。
 皆目見当のつかないことを言い出す神尾に、不思議と腹はたたないが、どうしてせっかくこうして会ったばかりで外に出かけて行かないといけないのか、それが跡部にはまるで理解できなかった。
 ついでに言えば、約束をする事や目的がある事、跡部が考えるという事が何故駄目なのかそちらも甚だ意味が不明だ。
 神尾は跡部の胸元で小さく笑う。
「だからさー。気分転換?」
「あ?」
「気晴らしっていうか、ぼーっとしに行こうぜってこと」
 な?と軽く首を傾ける神尾は跡部を真面目に見上げてくる。
「跡部、今、結構忙しいんだろ?」
「………………」
「そういうの、跡部はちゃんと片付けられるだろうけどさ。でも、俺はちょっと心配だし…」
 最後、語尾が少し小さくなって。
 神尾は僅かに俯いて。
 照れくさくなってきたのか、神尾は何事かぼそぼそと俯いて言っている。
「………………」
 それで跡部は、意識しない笑みを唇に刻む。
 ここまでくれば、そういう事かと気づく。
 神尾の思考。
 まさか神尾が感じ取る程疲れた顔をしていたとは思っていないが、それでも見透かされたのは事実だ。
 ゆっくり休めと言うのではなく、こういう誘い方をするのも神尾らしいと跡部は思う。
 ここ最近、緻密なスケジュールで、考えて、動いて。
 突発な気晴らしなどした覚えがない。
「おい」
 跡部は神尾の顎に手をやって、上を向かせた。
「お前と会うのは、別にスケジュールだなんて思ってねえからな?」
「………ぅ…?…」
 びっくりしたような顔をした後、神尾は、はにかむように笑った。
 嬉しそうな顔をすると、途端に子供っぽくなる表情に、跡部は顔を近づけていく。
「………………」
 ちいさく音をたてて唇を啄んで、跡部は至近距離で言った。
「…海じゃ出来ねえだろ?」
「………た…たぶん」
「多分かよ」
 跡部は笑った。
 機嫌よく、声にして、笑って。
 横柄でも、横暴でも、自分勝手でも、我儘でも、何様でも。
 構わないし、構わないだろう?と思う。
 宍戸の髪は、ずっと長かった。
 そういえば宍戸も意識しないうちから髪を長く伸ばしていて、特にそうしている理由はなかったし、長い髪に宍戸自身取り立てて思い入れがあった訳でもない。
 けれども以前、宍戸がレギュラー復帰の為の特訓につき合わせていた後輩の鳳が、真顔で宍戸に、綺麗な髪ですねと言ってきた事があって。
 正直そんな事を面と向かって言われた事のなかった宍戸は内心驚いて、どう返していいものか判らなかったから。
 笑いだけを返したのだ。
 それで鳳は、その長い髪が宍戸にとって自慢の髪だという風に認識したらしかった。
 そんな宍戸の長髪も、今はばっさりと短くなっている。
 宍戸が自らの手で髪を切り落とした時、鳳は随分驚いていたけれど。
 たいしたことではないと、宍戸はあの時も今も、思っている。
 寧ろすっきりした。
 色々な意味で。
 今、宍戸はレギュラーに復帰している。
 それは宍戸が試合に勝ったから叶った事ではなく、結果として監督に提言した跡部の言葉や、こうしてあの時からずっと宍戸の傍にいる鳳の存在があったからだ。
「帰るか、長太郎」
「はい」
 ダブルスを組むことになって、一緒にいる時間はますます増えた。
 部活を終えた後の自主トレも、帰り道も、一緒にいる。
 後輩だけれど体躯は宍戸よりも鳳の方が余程大きい。
 背が高くて、手も大きくて、それでいてものやわらかな温和な雰囲気で人に威圧感を与えない鳳は、宍戸の隣で、そっと目線と言葉を落としてくる。
「あの、宍戸さん」
「んー?」
 まだ夕暮れには時間がある。
 日増しに明るい時間が長くなっていて、辺りは少しだけぼんやりと日が霞む程度だ。
 やけに生真面目な顔をしている鳳を仰ぎ見ながら、何だよ、と宍戸は先を促した。
 鳳は、じっと宍戸を見つめてきて、目を伏せる。
 睫毛が、長い。
「今度、一度、宍戸さんのおうちにお邪魔してもいいですか?」
 何を改まった風情で言うのかと思えば、鳳はそんな事を言った。
 宍戸は怪訝な顔をする。
「好きな時に来ればいいだろ」
 別に今これからだって宍戸は構わないのだ。
 そんな思いで告げた言葉に、鳳が、ほっと肩で息をつく。
「はい、…じゃあ、皆さんのご都合のいい時に…」
「皆さんって何だ」
 宍戸はますます訳が判らなくなる。
 鳳が何を言っているのかといぶかしんでいると、ですから、と鳳は本当に大真面目に言った。
 足を止めて、真っ直ぐな目で宍戸を見つめて。
「ご家族の皆さんにお詫びをしないと…」
「…はあ?」
「宍戸さんを、こんなに傷だらけにして」
 鳳の眼差しが撫でたのは宍戸の傷だ。
 実際、それは宍戸の身体のあちこちにある。
 鳳が打ったサーブでついた痣や傷で、今鳳がうっすらと痛ましげな目で見つめているのは、耳元に程近い左頬の微かな擦り傷の痕だ。
 宍戸はわざとその傷を見せるように首を傾け、下から横柄に鳳を睨み据える。
「なに言ってんの。お前」
 これくらいで、とそういう意味合いで宍戸は言ったのだが、鳳は遠慮がちな手を慎重に宍戸の頬に伸ばしてきて、指先でするりと痕を辿って、尚痛ましそうな顔をした。
 宍戸は呆れた。
 盛大な溜息をついて鳳を睨んで。
「お前なあ…そういうくだらねえこと言ってると、」
「くだらなくなんかないですよ…!」
「…っ、…怒鳴んな耳元で!」
 いきなり至近距離から怒鳴られて、宍戸は眉根を寄せて言い返す。
 テニスコートにいる時以外で鳳が大きな声を出すことは殆どない。
 珍しい上に、本当に耳元近くで叫ばれて、宍戸は憤慨した。
 すぐに鳳はごめんなさいと謝り倒してくるから、本当に真剣に、すまなさそうに言ってくるから。
 いつまでも怒ってもいられなくなる。
 仕方ねえなあ、と宍戸は苦笑いして、右の親指の腹で、左頬の傷跡を軽く擦った。
「これは、くだらなくねえよ」
「…え?」
「これごと、今の俺だからな」
 傷跡も。
 屈辱や、喪失も。
 誰に負けて、誰に勝って、気づかされて、悔やんで、傷つけて。
 そういったことのどれもを、宍戸は持ったままここにいる。
 自分のしてきたこと全てが正しいとは思っていない。
 正しくないと判っていても、あがいて縋った自分の、無様さも自覚した上で、宍戸はそのどれもを捨てたいと思わなかった。
 多分、以前の自分であったら、放り投げていただろう出来事も全て。
「それにな、長太郎」
「……はい?」
「お前がくれたのは、傷じゃねえよ」
「え…?」
 鳳が目を瞠って問い返してくるその表情に、宍戸は小さく笑みを零す。
 穏やかで人当たりが良いのに、優柔不断の欠片もない鳳の自我は、見目の印象を裏切るくらいに真っ当に強い。
 誰に対しても誠実で、目上には従順で、でもだからといって鳳は譲らない部分には決して妥協を見せない。
 一緒にいる時間が増えて、時々宍戸がびっくりするくらい包容力のある懐を見せてくる鳳が、今は宍戸の言葉に戸惑ったような頼りない顔をしてくるのが無性に可愛かった。
「お前は俺にくれた」
 傷どころか、もっと。
「…俺、ですか?」
「ああ」
 くれたよ、と宍戸が笑いかけると。
 鳳が目を細めるように宍戸を見返してくる。
「長太郎。お前、いろよ」
 願いを込めるように、宍戸は言った。
 鳳は、鳳という存在を、宍戸にくれた。
 だから、いろよ、と宍戸は願うのだ。
 ここに。
 これからも。
「いろ」
 命じるような言葉なのに。
 宍戸が言うと、鳳は。
 その甘く整った顔に、ゆっくりと優しい綺麗な笑みを浮かべて。
 はい、と丁寧に頷いた。
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