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How did you feel at your first kiss?
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 毎年美しく必ず咲くけれど、誰のものにもならずに呆気なくも完璧に散ってしまうから。
 一時だけの花に、皆固執するのかもしれない。
 事細かに手をかけることもなく、相手はただ、人が見上げるばかりの花だ。
 まだ開花の萌しのまるでない桜の木の下、観月はぼんやりと、空とその枝先を見上げて思う。
「お前がそうしてると、もう咲いてるように見えるな」
 低い声に、花などない木に花が咲いているように見えると言われて、意味を計りかねる。
 赤澤はゆっくりと観月の佇む近くまで歩み寄ってきた。
「観月が見てるっていうのは、それくらいの効力があるって気がするんだよな」
「訳のわからないこと言わないでください……」
 桜の樹を見上げ、観月の事を語る。
 むやみやたらに甘い優しい声を出されて、観月はぎこちなく目線をずらした。
 どうしてこう赤澤は、さらりと流れる穏やかな声で、観月には理解のし辛い事ばかり言うのか。
 ささいな言葉も赤澤から向けられると観月は身動きが取れなくなる。
「花が咲けば、ここらじゅうまたすごい人なんだろうな」
 木の幹に手をかけて、赤澤がなめらかな低音で一人ごちる。
 観月が困惑すれば、すぐに察して会話を流すのだ。
 いつも、この男は。
 観月は内心歯噛みするような思いで、この辺りの、今はまだ枯れ木も同然の桜並木に視線を流す。
 蕾一つ綻んでいないから、その状態の桜を気に留める者など誰もいない。
 それを思えば桜が人の目を集める期間など花が開く一時だけの事だ。
 盛りの頃の賑わいが、どの花よりも華やかな分、その落差が激しく思える。
「………赤澤、貴方、桜は好きですか」
「ああ。……観月はあんまり好きじゃないみたいだな」
 綺麗な花というより、哀しい花だと、観月は考えてしまうのだ。
 桜の花。
 人々が盛り上がれば盛り上がるほど、綺麗だと花に傾倒すればするほど、妙に物悲しく思えてならない。
 そういう感情を抱く観月に何故か赤澤は気づいているようで、観月は複雑だった。
 彼が自分を判ってしまえる理由は何なのだろう。
 彼が自分のことを判ってしまえる、その理由は。
「……桜が嫌いな訳ではないです」
「あー…、どっちかっていうと、桜にお前が同調しちまう感じだな」
「………………」
 簡単に言ってのけた言葉のストレートさは観月に戸惑いを覚えさせる。
 違和感ではなく、あくまでも困惑だ。
 赤澤という存在が、観月に度々こういった感情を呼び起こさせる。
「桜は……」
「ん?」
 言葉を探りながら。
 感情を突き詰めていく。
 観月が普段しないことを、赤澤といるとしなければならなくなる。
 計算や、情報では、役に立たないこと。
 それらがあれば答えを導き出す事はたやすいのに、それらがないから、答えまでの過程を手探りしなければならないのだ。
「綺麗に咲いている時だけは、特別扱いされるほどに持て囃されるのに。花が咲いていない間は、誰も見向きもしないじゃないですか…」
「そういうとこあるな、確かに」
 花が咲いている時と咲いていない時とであまりに格差のある反応を受ける桜は。
 結果を出した時と出せない時とで存在価値すら危ぶまれそうな自分と似ている。
 だから好きじゃないのかもしれない。
 ふと、そんな事に観月は気づいた。
 花を結ばない桜を愛でる人間はいないだろう。
 そんな事は当たり前だ。
 少しも理不尽なんかじゃない。
「でもな、観月」
 それなのにこの男は、何故そんな優しい目で花のない桜を見上げるのか。
 結果の出せない自分を見つめるのか。
 そんな風に微笑んで。
「花が咲いていない時の桜の方が大事だって人もいるぜ?」
「……はい?」
 こめかみの辺りに折り曲げた指の関節を押し当てて、赤澤が珍しく気難しそうな表情で何かを思い出そうとしている。
 彼の傍らで観月はそれを窺った。
「あー、……草木染めだ」
「草木染め、ですか?」
「そう。綺麗な桜色を出すには、花が咲く前の樹の皮を使うんだって聞いたことがある」
 花が咲かなくたって、誰も見向きもしない何てことはないのだと、赤澤は言いきった。
 それは桜の話だろう。
 でも、それだけでもないのだろう。
「第一、花だけが桜じゃないだろ。幹も枝も、花が咲いてない状態ひっくるめて、全部で桜なんだから」
「………………」
 大きな手を樹の幹に宛がって、見上げて。
 赤澤が口にした言葉が、どれだけ今の観月の感情に浸透してくるか。
 赤澤は何も、気づいていないかもしれない。
 でも、それは大した問題ではないのだ。
「赤澤」
 呼びかければこちらを向いて。
 その後の言葉が続かなくても。
 気にした風もなく笑っている赤澤の存在そのものを、あるがままで観月も受諾できるから。
 ふ、と花びら程度の吐息を零して観月は呟いた。
「……さっきまでよりも、好きですよ」
 桜の話。
 でも本当は桜だけじゃなくて。
 けれどそれは言葉にしなかった。
「咲いたら、花、見にくるか」
「花見の混雑には辟易するので遠慮します」
「校内の桜くらいならいいだろ?」
「まあ。それくらいなら。そうですね。考えておきます」
 いつの間にか並んで歩き出していて、当たり前みたいに言葉を交わして。
 本当にささいなこの程度の約束に、嬉しそうに笑っている男を横目に。
 ふと。
 そんな赤澤から流れ込んできたみたいに観月もまた、自分も同じ笑みを浮かべている事に気付かされる。
 同じ空間で、同じ感情を分かち合う。
 笑みはどちらかだけのものではない。
 もう、自分達で、共有しているもの。
 桜が早く、咲けばいい。
 多分観月は初めてそんな事を考えた。
 桜は咲いていいのだ。
 咲ける、そのタイミングで、ただ咲けばいい。


 花、開け。
 念じてか、祈ってか。
 咲いていいのだと知ったから、花開け。
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 単独行動が多いという自覚は、勿論ある。
 でも海堂は、そんな自分よりも実はもっと単独行動が多いと思っている相手がいた。
 何故かあまり孤立が目立たないけれど。
 その相手、乾は一人で行動する事がとにかく多い。
 付き合いが悪い訳ではないようなのだが、ふと気づくと、その場にいないという事が、よくあった。
 秘密主義者なのだ。
 そんな乾が今、おいでおいでと手招きしている。
 乾が顔と手を出しているのは化学準備室だ。
 海堂は、乾が自分を呼んでいると判ってはいたが、それでもつい辺りを見回すようにして乾に笑われる。
「そうそう。俺は海堂を呼んでる」
「………………」
「おいで、海堂」
「………………」
 何でそんな所にいるのか。
 何で自分を呼ぶのか。
 何で。
 疑問は多々ありつつ、それでも海堂は言われるまま乾の所へと向かう。
 何ですかと乾に問うより先に、手首を軽く握りこまれて、するりと室内に入れられた。
「先輩」
 返事のように頬にキスをされて海堂は絶句した。
 背後で扉はすでに閉められていたけれど、校内でこういう事をされたのは初めてだった。
「一発殴られるかもとは思ってたんだが、ありがとうな海堂」
 のんきに笑う乾に海堂は溜息をついた。
「……あんたを殴ったことなんかねえよ」
「コートの中で胸倉つかまれて怒鳴られた事はあるけどな」
「状況考えりゃ当然でしょうが!」
「判ってる。感謝してるんだ」
 言葉にかぶせて、今度は唇にキスが落とされてきた。
 海堂は目を伏せて、それを素直に受け止める。
 不思議と、今度はそうするのが自然な気がしたからだ。
「……つくづくよく出来た奴だよな、海堂は」
「あんた以外にそんなこと言う奴誰もいねえよ」
 乾の大きな手のひらが背中に回ってくる。
 抱き寄せられて、長身の乾の腕の中に囲われる。
 海堂は溜息混じりに呟いた。
「……何でこんな時間に、こんなとこにいるんですか」
「ちょっと考え事しようかなと思ってさ」
「なら、…」
「待った待った。帰ろうとしない」
 ぎゅっと抱き寄せられてしまって、挙句背後で施錠の音を聞いてしまって、海堂は乾の胸元で微妙に赤くなった。
 随分と子供じみた引き留め方をしてくれたものだと思う。
 それこそ突き飛ばすなり怒るなりするのは簡単だが、結局海堂もこの状況に甘んじてしまうのだ。
「海堂を抱き締めてる方が良い」
「……はあ…」
 生返事になってしまうのは、返しようがないくらいに乾の声が真剣で、甘いからだ。
「カーテン、開いてます…」
「あっち側から見える角度じゃないから大丈夫」
「………………」
 透明なガラス窓の向こうが気がかりで進言した海堂に、乾は子供っぽいような口調で呟いた。
「完全に外と遮断するとまずいだろう。心情的に」
「何が?」
「俺が。暴走したら海堂困るだろ」
「別に……」
「殴ってでも止められる?」
「殴る殴るって、あんたさっきからなあ、」
「海堂にそれだけのことさせるかもっていう自覚があるから言ってるだけだよ」
 乾の両手が海堂の腰まで降りてきて。
 密着していた胸元が空いた。
 海堂は呆れを込めて乾を睨み上げる。
 それでも。
 近づいてきた乾に対して、唇をひらいたのは海堂の意志だ。
 くぐってきた舌を口腔に招き入れて、舌を使われる濃いキスをひとしきり受け入れる。
 キスで潤みきった唇を丁寧に愛撫されるようなやり方で、静かに唇と唇の接触は止む。
「海堂、早く高等部おいで」
「一年経てば普通にいきます」
 一年かあ、と乾ががっくりと肩を落とすのが海堂には不思議だった。
 中等部と高等部とに別れたって、足りない分は学校の外で会えばいいだろう。
 別に困らないだろうと思うのに。
 乾には案外ダメージが大きいようだった。
 それが海堂には不思議だった。
「考え事って、そういう事っすか」
「ん?……んー……、ん」
「返事の意味が判らねえ……」
「うん」
 幾分はっきりとした返答と共に、ふいをつくように乾が海堂の額に小さく音をたててキスをしてきて。
 甘ったるいやり方にいろいろな事が有耶無耶になってしまう。
 ただ何となく、海堂の中に。
 落ち込む乾を甘やかしたいような奇妙な感じが残った。
「乾先輩」
 海堂は腕を伸ばして乾の頭をそっと抱え込むように引き寄せた。
「………………」
 乾は少し驚いた顔をしていて。
 しかし海堂の腕に逆らわない。
「海堂」
 低い声が鎖骨のあたりにぶつかる。
 海堂がそこに乾を引き寄せたからだ。
「……ものすごく……ご褒美を貰ってるような感じなんだが…」
 海堂は返事をしなかった。
 実際どうなのか判らなかったからだ。
 単純に。
 率直に。
 今したいことをしただけだから。
 そう思いを込めた手で抱き締める。
 特別な、ひと。
 乾の手に腰を抱かれて、お互いがお互いの思いを込めた手で繋ぎ止める。
 特別な、ひと。
 繋がる、絡まる、結びつける。
 それは幾つもあったっていい。
 もしどこか一つが緩んでも、他がある。
 解けた個所を直している間も大丈夫だ。
 卒業くらいで離れようもないことは。
 こうしていれば判るだろう。
 卒業式のだいぶ前に春一番は吹いたのに、式が間近になっても、暖かい春にはなかなかならない。
 正門を出るなり冷たい風が強く吹き付けてきて宍戸は首を竦めた。
「入りますか?」
 躊躇いもなく制服の上着の片側をひらく鳳がどこまで本気か知らないが、この寒い中する格好ではないと宍戸は手荒に鳳のブレザーの釦をとめた。
「閉めとけ、アホ」
「宍戸さん寒そう」
「寒ぃよ!」
 八つ当たりじみた返答だったのに、痛ましそうな顔をして鳳は宍戸の腕を引き寄せてきた。
「………長太郎、お前まさか、俺におぶってけってんじゃねえだろうな」
 宍戸とて実際にそう思った訳ではない。
 背中にぴったりとくっついた鳳に、しっかりと抱き込まれている体勢ではあるけれど。
「そうですねえ…それ、俺がしてもいいですか?」
「全力阻止!」
 宍戸の即答に鳳は笑って腕に力を込めてきた。
 のんびりとした笑いの余韻が宍戸の背中越しにも伝わってくる。
「あったかいですね、宍戸さん」
 温かいのは確かにそうなので宍戸も否定はしなかった。
 溜息はついたが甘んじていると。
「てめえら……氷帝の真ん前で何やってやがる」
 低い怒声がして、鳳と宍戸は同じタイミングで振り返った。
「……んだよ、跡部か」
「アア?」
 吐き捨てた宍戸に、剣呑と矛先を向ける跡部、そんな彼らを仲裁するように鳳が宍戸へは抱擁を強め跡部へは目礼する。
「お疲れ様です」
「鳳」
「はい」
「そういう所は宍戸に似なくていい」
 ふてぶてしくなりやがってと跡部が吐き出した。
 鳳は笑みをたたえたままだったが、どういう意味だと宍戸が声を荒げた。
「ふてぶてしいとか、てめえに言われたくねえんだよ、てめえに!」
「うるせえなァ」
「あ、宍戸さん、駄目ですよ、喧嘩したら!」
 宍戸の瞬発的な動きをしっかりと封じ込めている鳳が、ね?と宍戸の目を覗き込んでくる。
 自分の身体の前に回された鳳の腕に指先を沈ませて宍戸が暴れても束縛は解けない。
 そんな一連の様を見て跡部はうんざりだと言いたげに派手に嘆息した。
「離れる気はこれっぽっちもねえんだな、てめえら」
「はい」
「はあ?」
 とっとと帰れ!と跡部に恫喝される。
 さすがに宍戸も鳳も顔を顰める程の冷たい怒声だった。
「……気が短けえなあ、お前」
「それ、宍戸さんが言いますか」
「…お前も何気に言うよな、長太郎」
「すみません」
 まず宍戸に言って、それから鳳は跡部にも視線を向けて、引き止めちゃってすみません、と続けた。
「樺地もいないし……何か約束あったんじゃないですか?」
「そういやお前、最近帰り早いよな。車も使ってねえし」
「………………」
 二人の問いかけに対して、跡部は珍しくあからさまに不機嫌に黙りこんだ。
 そして、ほんの少しだけ何かを思案する顔をして。
「鳳、ちょっと来い」
 顎で促して鳳だけを呼んだ。
「はい」
 返事をしながらも不思議そうに鳳が見詰めたのは宍戸だった。
 宍戸は宍戸で、はあ?と眉根を寄せている。
「いいか。鳳。宍戸には言うんじゃねえぞ」
「てめえ、それ、本人目の前にして言うことかっ?」
「ああ、怒らないで宍戸さん。ちょっとだけ待ってて下さいね。ね?」
 とにかくいちいちむかつくんだと呻きながら、宍戸は自分の視界の範囲で、こそこそと話している跡部と鳳を睨んでやった。
 かといって、強引に入っていく気はないので、結局冷たい風の吹く中立ち尽くす羽目になる。
 多分会話は一言二言だったのだろう。
 鳳はすぐに宍戸の元へ戻ってきた。
 跡部はもう別の方向へと背中を向けて歩き出していた。
「で?」
「……聞きますよね、当然」
 促した宍戸に、鳳が苦笑いする。
 でもその後に、悔しいなあと鳳がつぶやいた意味が宍戸にはよく判らなかった。
「何が?」
「結局俺、橋渡しみたいで」
「橋渡しって何だよ」
「跡部さんが俺だけ呼んだのって、俺に話せば宍戸さんにもちゃんと伝わるからでしょう? そういう意味で。二人の橋渡しみたいじゃないですか。俺」
「気味悪いこと言ってんじゃねえよ、長太郎。だいたい俺の耳にも入れたいなら、あいつが普通に俺に言えばいいだろうが」
 照れくさかったのかなあ、と鳳が一人ごちるので、宍戸はますます憮然となった。
「だから気味悪いこと言うなっての……」
「とりあえず歩きながら」
 宍戸の腰をそっと促した鳳の手のひらに従って、二人で歩きながら話した。
「おつきあいしてる人、いるんだそうですよ」
「は? 跡部?」
「はい。だから忙しいみたいです。相手は判りませんけど」
 どんな人でしょうねと付け足した鳳の声に被さって宍戸がしみじみと言った。
「……よく了承したな、神尾」
「…え? ええ?……神尾君って…不動峰の?」
「ああ」
 何で相手知ってるんですか!と鳳が仰天したのを宍戸が怪訝に流し見る。
「そんなの見てりゃ判るだろうが」
「判りませんよ!」
「あいつが自分から構いにいくなんて普通しねえだろ。興味がありゃ絡みもするだろうが、二度目なんかねえし」
「はあ……」
「それを跡部の奴、自分からああも構ってりゃ、バレバレだっての」
 寧ろお前は何で気づいてないんだとでも言いたげな宍戸の口調に、鳳は複雑極まりない表情になる。
「何だよ、長太郎。そんなツラして」
「……橋渡しより複雑で」
 衒いも何もなく、がっくりと鳳に肩を落とされて宍戸は面食らった。
 やわらかい鳳の髪に手を伸ばして、その表情を覗き込む。
「おーい、長太郎? どうした?」
「言い合いばっかしてても、ちゃんと二人が通じ合ってるの目の当たりにして、へこんでるだけです」
「……お前、よく次から次へと、そう気味悪いこと言えるな」
「うわあ……駄目だ、本気で落ち込んできた……」
 ほんの少し前まで、余裕たっぷりに微笑んで宍戸を抱きこんでいた男とは到底思えない消沈ぶりだった。
 そういう鳳の可愛げは、宍戸にしてみればほんの少しも悪印象ではないけれど。
「お前の落ち込みのツボが全く判んねえけどよ」
 宍戸は鳳の髪をくしゃくしゃと撫でて。
 じっと、鳳の目を覗き込んで。
「何だかんだとあの野郎に、お前が特別扱いされてるの見てたのも、俺だってあんまり気分いいもんじゃねえんだけど?」
「宍戸さん…?」
「落ち込む暇あったら、放ったらかしにした分フォローしろよ」
 行先どっちだと、不敵に笑った宍戸に、鳳の返事は。
「……っから、のしかかんじゃねえよ! 体格差考えろ、長太郎!」
「ああもう、大好きです、ほんと」
「笑ってんじゃねえ! 浮き沈み激しすぎんだろ、お前は!」
 確かに体格差はあるけれど。
 宍戸は自分に覆いかぶさるようにしてくる長身の男の背をしっかりと抱きとめて。
 怒鳴ってはいるけれど、怒ってはいない。
「うち、行きましょう」
「判った。……判ったから、決めたんなら、とっとと歩け!」
 なんだかもう。
 数週間前の春一番よりも、けたたましい気がしてならないが。
 二人で、騒いで、進んで、行く先は。
 明るい春へと続く道だ。
 ふれると、びくりと身体を竦ませるから、極力軽く至極丁寧に唇を寄せるのに、やはり神尾の肌は判りやすく竦んだ。
「………………」
 何だよ、と跡部は睨むように流した目線だけで神尾に問いかける。
 右手で神尾の左側の首筋を包み、反対側の首筋に寄せていた唇は触れ合わせたまま。
 微かに上昇したような体温は唇の薄い皮膚にはむしろリアルで、跡部はもう一度、神尾の首筋に口づけて目を閉じた。
「……跡部ー…」
「…脈早すぎるだろ、お前」
「だってよう…」
 神尾の細い首筋へのキスが跡部は気に入っていて、なまじ唇へ口づけてはまずいかもしれないという時は大概そこに唇を寄せる。
 そうすると別れ際のキスや、人目を忍んでのキスは、必然的に神尾の首筋へ送ることになる。
 どれだけ繰り返してもキスの度に何かしらの反応を返してくる神尾は、唇の時より余程心音を乱して、跡部の肩口のシャツを握り締めてきた。
 しがみついていないと駄目なのだというような結構な力で。
 跡部は唇の端を引き上げて、結局神尾の唇もキスで塞いだ。
 ぼうっとしているような神尾の唇を舌でくぐるのは簡単で、両手で小ぶりの頭を抱え込むようにしながら跡部は長くキスを続けた。
 唇を離す瞬間まで丁寧に、がっつかなくても満足出来るまで繰り返したキスで、跡部も熱っぽい吐息をこぼしたくらいだから神尾などはもうぐったりと跡部に身体を預けてしまっていた。
「お前、首、好きな」
「……知らねーし…」
 かけらも強がりにもなっていない神尾の声は途方にくれているようだった。
 跡部もからかうつもりで言ったわけではないので、そこは流した。
 指先だと過敏な状態の肌には辛そうだから、手のひらで包みこむように神尾の首筋に手を当てて、肩に触れているような頼りない細さを労わって撫でさする。
 触れればやはり神尾の肌は硬直したが、跡部が繰り返し撫でていると、やがてふっと力を抜いた。
「………首とか、…ふつうあんまり触られたりしないし…」
「触らせる訳ねえだろ」
「……ぅ…、…それに、…キスとか、そういうとこにするとか知らないし…!」
「もう俺で覚えただろうが」
 見下ろした先。
 俯いている神尾の耳の縁が赤い。
 唐突にひどく焦れた気になって、跡部は神尾を抱き込んだ。
 互いの間の隙間がなくなる。
 華奢な身体は、跡部の腕が力を込めれば込めた分だけ、尚薄くなってお互いの距離を無くす。
 跡部は舌うちした。
 これだから。
「…………なに…?…」
「ああ?」
「機嫌…悪いだろ、…だから」
 くぐもった神尾の声の戸惑いは露で。
 跡部は神尾の見えない場所で苦笑いするしかない。
「悪ぃよ。てめえが容赦ねえからな」
「俺…?……が、なに…?」
 翻弄させられる。
 執着する。
 ただ一人のそういう存在が、跡部の見えるところにあって、手を伸ばせばつかまえられるところにあって、でも、それは人だから。
 ものではないから。
 勝手に拘束するのは難しく、安心しきるには遠い。
「神尾」
「………ん…?」
「お前、手抜くんじゃねえぞ」
「え?……テニス?」
「違う」
 自分はもう決めている。
 拘束することや、安心しきることがないと、判っている。
 手放す気がないなら相応の行動が必要だと、知っている。
 だから絶対に、一生、手なんか抜かない。
 言葉は惜しまないし、躊躇するような選択肢もない。
「跡部?」
「俺から手引くような真似は絶対させねえっつってんだよ」
 お前なんか全力で一生俺様に惚れてりゃいいんだと。
 神尾の首筋に噛みつくようにしながら跡部は言った。
「…………は、?」
 ひどく間の抜けた声の後を追って。
 神尾の体温が、音でもたてたかのように一気に急上昇した。
「なん…、……なんの話してんの、跡部…、てゆーか、なんで、そういうの知って…!」
 今更も今更な、その反応は何だと思えば。
 跡部は笑い出すしかない。
 己の放った脅すような言葉は、神尾にとっては誇張でも何でもなく、単なる事実でしかないということを、ここまで判りやすく伝えてこられてしまっては、もう。
 跡部に対して全く手など抜いていない神尾を認めるしかない。
 全力で惚れているのがお互いさまで、どちらもそれが今この一瞬だけの事ではなく、これから先に続いていくものだと自覚している。
 それならばもう、難しい事でも遠い事でもないのだろう。
 今ここにある感情も。
 腕の中にいる存在も。
 間違いなくずっと、自分達の、ものだ。
 とても頭が良いのに、普通に考えれば判りそうな事を、まるで考えていないというような行動をとる事がある。
 ひとつ年上の男、乾貞治だ。
 今も海堂の視線の先で、乾は不可解な状態に格闘している。
 鞄を持って、データ帳を持って、その紙面を読みながら、尚且つ。
「………………」
 三年の昇降口で一人謎な動きをしている乾に気づいた海堂は、しばらく足を止めてその場で乾を観察してから、そっと近づいて行った。
 見慣れた背中に向かう。
 間近に行っても相変わらず乾はおかしな動きを続けている。
「………先輩」
「うん?」
 乾のほとんど背後まで近寄ってから、ぼそっと低く海堂が呼びかけると、乾は、肩越しに海堂を振り返ってきた。
 海堂を見止めて、すぐに乾は小さく笑みを浮かべる。
 代わりに海堂は溜息混じりに言った。
「乾先輩……その荷物持ったままコート着るのはどう考えても無理っすよ…」
「そうか?」
 そうかも何もない。
 両手を完璧に塞いだまま袖を通すこと自体無理だろう。
 しかも、乾は横着というか無頓着というか、更にノートに書き付けた文字を見ながらそれをしようとしている。
 海堂はもう一度溜息をついてから、腕を伸ばして乾の鞄を手に取った。
 データ帳はどうしても今読みたいようなのでそのままにして、代わりに手が空いた方の乾の腕にコートの袖が楽に通るよう、背後から手助けする。
 乾にコートを着せるように手を貸してから、海堂は鞄を乾に返す。
 代わりにデータ帳を手にして、乾が見えるよう広げてやりながらもう一方の腕も袖に通してやる。
「すごいな、なかなか着れなかったのに」
「……別にすごくなんかねえよ…あんたが横着しすぎなんです」
「ありがとな、海堂」
「………いえ」
 率直に礼を言われて幾分海堂は決まりが悪い。
 それじゃ、と目礼して立ち去ろうとすると、おいおいおいという乾の声が被さってきた。
「それはないだろう」
「はい?」
「一緒に帰ろう」
 なぜか手を取られている。
 骨ばった乾の手に、しっかりと包み込まれるようにしている自分の手を海堂はまじまじ見降ろし、眉根を寄せた。
「あの、」
「一緒に帰ろう?」
「………、はあ…」
 軽く首を傾け、笑いかけてこられる。
 するりと手は解かれて、でも互いの距離は近いまま。
 ほんの少し甘えの滲むような乾の誘いに、海堂は結局頷いた。
 ぎこちない海堂の同意に、しかし乾は充分満足したようだった。
 乾はあれほど視線を外す事すらしなかったデータ帳をあっさりと閉じて鞄にしまった。
「……別にいいっすよ。見てたって」
「いや、もったいない」
「………先輩…?」
 いったい何がもったいないのかが、海堂にはさっぱり判らない。
 訝しむ海堂をじっと見つめて、乾はくしゃくしゃと海堂の髪をかきまぜた。
 乾は時折こうして海堂の頭を撫でる事がある。
 それは海堂にしてみれば、びっくりするくらい優しい手つきで。
 いつもされるがままになる。
 落ち着く。
 安心する。
 軽く目を閉じてそれを受け止めていると、前髪をかきあげられた。
 額に乾の手のひらが宛がわれる。
 さらりとした手のひらは温かかった。
「冷たい」
「……あんたの手が熱いんです」
 乾が呟いて、海堂の額から手のひらをずらし、頬を包んでくる。
 長い指先に耳の縁を構われる。
「先輩、そういうところ動物っぽいっすね……」
 さわって確かめるような手つき。
「そうか? どちらかというと海堂の方がそれっぽいけど」
 海堂の頬に手を合わせたまま、乾が笑みを含んだ目で海堂を見下ろしてくる。
「人慣れしていない時は、うっかり手なんか伸ばしたら即座に噛みつかれそうだったのにな」
「別に噛みついたりしてねえ」
「雰囲気だよ、雰囲気」
「あんた、全然平気だったじゃないですか」
「噛みつかれても、別に良かったからね」
 少しだけ過去を反芻するような声を出されて、海堂は、じっと乾を見据えた。
「そうなんですか?」
「ああ。別に手懐けたいとかいう訳じゃなかったしね」
 俺がもっと近くに寄りたくなっただけ、と乾は低くなめらかな声で囁いた。
 そういうのは判る、と海堂はひっそりと思う。
 今よりもっと、近くに在りたくて、近づいていく感じ。
「………やっぱり、乾先輩の方が、動物っぽい…」
「結局はお互い様って事かな?」
 乾がまた、海堂の髪をくしゃくしゃとかきまぜるように撫でる。
 穏やかに笑いながら。
 海堂はそれに抗わない。
 けれど乾を上目で睨みつける。
 それは、たいして凄みのある眼差しではないということは、充分承知の上。



 直観と本能で悟るか、相手に触れて理解をするか。
 確かめ方は、いつもその二つ。
 お互いがお互いで確かめて、そして手にした感情は。
 二人で分け合う、恋愛感情という代物だった。
 聖ルドルフのテニス部内で、実しやかに言われている。
 赤澤吉朗は観月はじめに底抜けに甘い。
 べたべたに甘やかすというより、あくまでも観月至上主義というのが身に沁み込んでいるかのような信頼ぶりなのだという。
 観月にしてみれば、一方的に自分が赤澤に甘やかされているかのような言い方をされているならば即座に全力で否定するのだが、そのあたり付き合いの長いテニス部員達は心得ていて、心酔だとか傾倒だとか信用だとかいう言葉を使われて評されてしまうので、結局そういった発言は放置に至っている。
 もう一人の当事者である赤澤は、感情の振り幅が激しいながらもそれを自分で処理出来てしまえるタイプなので、周囲から言われる言葉に惑わされたり狼狽えたりすることは皆無に等しい。
 観月に甘いと言われても、そうだなあと呑気に笑っているだけだ。
 そんな赤澤が、もっか観月の目の前で物凄い怒った顔をしている。
 怒りの矛先は観月に他ならない。
「おま、……お前なあ…!」
 屋外であっても、びりびりと空気が震えるような重たい怒声だ。
 珍しい。
 快活な物言いの赤澤が言葉を詰まらせるのも、荒っぽい声で観月を怒鳴りつけるのも。
 観月は、そんな赤澤を見上げて眉根を寄せた。
「何ですか」
「何ですかじゃないだろう!」
 更に輪のかかった大声で一喝され、観月はますます不機嫌に表情を歪めた。
 うるさいのは嫌いだ。
 目線に込めて赤澤を睨みつける。
「何やってんだよ、お前はっ」
 自分の肩に伸びてきた赤澤の手を拒むように観月が僅かに身を引くと、怒っているくせに赤澤は微かな躊躇で観月の様子を慎重に伺ってくる。
「………………」
 舌打ち。
 珍しい。
 観月がそんな事を思いながら見据えた赤澤は、物凄い派手な溜息をつくと、一度は止めたその腕で。
 今度は一切の躊躇もなく、観月の背中に手をまわし強く抱き込んできた。
「………………」
 馬鹿野郎と耳元近くで呻かれる。
 互いの身体の間では観月の本が押し挟まれている。
 ルドルフの敷地内、寮までたいした距離がある訳でもなかったが、観月は誘惑に負けたのだ。
 買ってきた本を、すぐにでも読みたくなって。
 外出した格好のままベンチに座って本を読み、夢中になって、結果時間が過ぎていたらしい。
 半ば近くまで読み進めたところで観月は赤澤に怒鳴られたのだ。
 赤澤は見ただけで観月の状況を全て悟ったようだった。
 最初は、目と目が合っただけなのだ。
 観月が誌面からほんの少しずらした視線と。
 大分離れた所から観月に気づいた赤澤の視線と。
 交錯したのは一瞬。
 でも、赤澤は怒って、観月はそれに気づいた。
 説明など何もしていないのに、視線が合っただけでこれだ。
「………………」
 観月は赤澤の腕の中で、小さく溜息をつく。
 本くらい好きな時に読ませろと内心で毒づけば、まるでそれを直接聞きつけたかのように赤澤が言った。
「本くらい部屋の中で読めばいいだろう」
「………早く読みたかったんですよ」
「我慢するにしたって、ここまで来てれば、部屋まで五分もかからないだろうが」
「その五分が惜しいんです」
 片腕ではあったが、しっかりと赤澤に抱き締められているので。
 観月の声は幾分くぐもった。
 赤澤は観月の背中に当てていた手のひらをすべらせて、観月の後頭部を支え荒っぽく嘆息する。
「こんなに身体冷やしてやることかよ」
「別に寒くありませんけど」
「お前を見つけた時の俺の心臓くらい冷えてんだろうが」
「どっちにしたって大袈裟な…」
 赤澤がそんな事を言うから、外気の冷たさに、いきなり気づかされたような気になるのだ。
 観月は赤澤の腕の中で、そんな事を思った。
「…本…買ってきたばかりなんですけど…?」
「本より自分の心配しろ」
 憮然と告げられて、観月も同じような口調で赤澤に返してやった。
「僕の出番なんかありませんよ。貴方が勝手に心配するから」
「こんなになるまで身体冷やさせてるようじゃ、それも全然足りてねえよ」
 言っている傍から、ああもう、と唸るように呟いて、赤澤は一層強く観月を抱き締めてくる。
 赤澤の熱いくらいの体温で、やっと温かみを覚えるような気になる観月は、そのまま立ち上がるように促される。
 観月は逆らわなかった。
 赤澤は観月のカバンを持ち、本を持ち、そして別の方の手で観月の肩を抱き、歩き始める。
 観月はやっぱり逆らわなかった。
 強引な、と上目に赤澤を睨みつつも、この程度の事で真剣に自分を心配する赤澤の本気の度合いも判るから。
「………赤澤」
「何だ」
「……そこまで真剣に焦った顔しないで下さい」
「知るか。責任持てねえよ、自分の顔の事まで」
 赤澤の長い髪は、決して彼の表情を隠しはしない。
 歩きながらとはいえ、観月が間近から横目に見る赤澤は憮然としていた。
「紅茶入れて行く」
 先に行ってろと寮に入るなり赤澤に言われて、観月は即答した。
「いりません」
「寒いんだろうが」
 寒ければ勿論。
 例え寒くなくても、外出先から戻れば、紅茶を入れて飲むのは観月の習慣だ。
 熟知している赤澤の提案を即座に否定した観月に、赤澤は生真面目に怪訝な顔を向けてくる。
 観月はその視線を受け止めなかった。
「…寒いですよ」
 そっぽを向くように赤澤から顔を背けて、小さな声で告げる。
「だから」
 このまま。
 そうでなければ。
 もし、今自分の肩を抱いている赤澤の腕がここでほどけたら。
 そこから、たちどころに、冷たくなっていってしまうのだと、判れ。
「紅茶は、いりません」
 だからこのまま、離れないで閉じこもってしまいたいのだと、判れ。
「……観月ぃ…」
 大らかだが察しもいい男は、きちんと観月の心情を汲み取ったようだった。
 今日はつくづく、赤澤の珍しい声を聞く日だと観月は含み笑う。
 表情は全く見えなかったけれど。
 観月の肩を抱く赤澤の手に力が入って、このまま二人で部屋に戻るべく歩き出す彼の声音に潜む完全降服に似た響きに充分満足して。 
 観月は、ふわりと、失っていた体温を自らの力でも取り返した。
 多分自分達は似たタイプではない。
 寧ろ性格は真逆かもしれない。
「長太郎、どこ行くんだよ?」
「どこにしましょうか」
「しましょうかって……行先決めてないのか、お前」
 駅のホームでのんびりと微笑む鳳は、大概において大らかだ。
 宍戸はどちらかといえば感情直結型で、口調も荒っぽい。
 宍戸の方が年上だという事を差し引いても、鳳は宍戸に従順で、宍戸は鳳に割合好きな事を言っている気がする。
「あ、宍戸さん。電車来た。乗りましょう」
「別に乗り遅れねえよ!」
 何で手握ってんだと宍戸が呆れて、鳳は子供っぽいんだが大人っぽいんだか判らない笑みで宍戸の手を取ったまま電車に乗り込む。
 マイペースなのは鳳で、案外型通りなのは自分かもしれないと宍戸は思う。
 そんな風にやっぱりあんまり似ていないのに。
 一緒にいて、ほんの少しも違和感を覚えない。
 二百人もいるテニス部の中で、かなりイレギュラー的にダブルスを組むことになって、いつの間にか一番近い関係になった。
 気が合うという一言では片付けられないほど、お互いといることがあまりにも当たり前だった。
「………………」
 相変わらず自分の手を取ったまま先を歩く鳳の背中を宍戸はじっと見つめて考える。
 長身の後輩は、それでいて普段、人に威圧感を与える事は全くないが、こうして見れば広い背中は骨格がしっかりとしている。
 思わず見ている側の力の抜けるような柔らかい笑みを浮かべたり、年下らしい可愛げで頼りなさを見せる事もあるけれど、多少強引な所もあるにはあるのだ。
 そして、そんな鳳に手を引かれておとなしく彼の後ろを歩いている自分も、宍戸にしてみれば他では絶対にしない真似だという自覚がある。
 一緒にいたいからと誘われるまま、ついていく。
 決まっていない行き先に向けて、電車に乗って、二人で。
「宍戸さん、どっち向きで座るのが好きですか?」
 しばらく車両を歩き、左側の座席に手をかけて鳳が立ち止まって聞いてきた。
 車両の座席は対面式になっている。
 電車の中はすいていて、四人掛けのその座席を二人で使っても何の問題もないようだった。
「そりゃ進行方向向いてる方が」 
「じゃ、こっちですね」
 エスコートでもするかのような鳳に自然に促され、宍戸は腰をおろした。
 窓際の席。
 その真向かいに鳳が座る。
「……って、お前そっちでいいのかよ」
 当たり前みたいに宍戸を優先する鳳に問えば。
「俺は宍戸さんの顔見られればいいんで」
 何となく予想の範疇内の即答が返されて、宍戸は横様に、足で鳳の靴の辺りを蹴る。
 加減はしたけれど、蹴られた鳳はいつもの柔らかい笑みを浮かべて平然としているばかりだ。
 呆れていた宍戸の方が気恥ずかしくなるような甘ったるい笑い顔に、それ以上言いようもない。
 宍戸は誤魔化すように窓の外に流れる景色に視線をやった。
 鳳がゆっくりと違う事を話し出す。
「鉄道って左側通行じゃないですか」
「………あ?」
「だから、進行方向左側の窓際に座ると景色がいいんです」
「あー……確かにな…」
 普段あまり出向かない方角に向かう、乗りなれていない沿線。
 窓の外の景色は次第に住居地や雑踏から離れていく。
 窓辺の縁に肘をついた手で頬杖して、宍戸は少しずつ変化していく景色を横目に同意した。
「代わるか? 席」
 ちらりと鳳に目線を向けて問いかけると、鳳は僅かに首を傾けるようにして笑みを深めた。
 綺麗な顔してんなあ、と今更ながらな事を宍戸は考える。
「後ろ向きの景色もいいんですよ」
「そうか?」
「前向きだと前方がよく見えるけど、無意識にずっと視線を動かす事になるから疲れる事もあるんだそうで」
 疲れたら代わりますね、としっかり付け足して話す鳳の、優しげで穏やかな声に宍戸は耳をすます。
「後ろ向きだと、去っていく景色をずっと見ていられるから、これはこれで楽しいんです」
 ふうん、と宍戸は相槌をうって、その流れで普段だったら絶対言わないような言葉を、ついでにぽろりと零してしまった。
「お前は結局景色と俺とどっちを見てんだよ」
 不貞腐れたような声が出てしまったのが我ながら頭が痛いと、宍戸はすぐに後悔したのに。
 鳳は驚くでもなく、慌てるでもなく、しっかりとした熱量の宿る甘い目で宍戸を見つめて、笑みを深めた。
「視線を動かさないで、ずっと見ていられるので。こっち側座らせて貰って、俺、すごく得してますね」
 結局のところ、景色なんか見ていない目で見つめられて、宍戸は頭が痛い。
 何でここで赤くなる。
 自分が。
 そう思い、とにかくひたすら、頭が痛い。
 車窓の景色は、冬の終わりの青空だった。
 実は跡部を怖いと思った事は一度もない。
 神尾はよく跡部と喧嘩をするので怒鳴られる事も多いが、怖いと思った事はなかった。
 整いすぎる程に整った顔の跡部に冷めた目でもって睨まれれば多少は怯むけれど、それが怖くて堪らないという訳ではない。
「お前、最近目つけられてるらしいな」
「……ん?」
 聞く者が聞けば震え上がるだろう冷えきった跡部の声で唐突にそう言われた神尾は、ただ首を傾げた。
 歩きながら真横にいる跡部を見上げる。
「目?」
 何?と重ねて聞くと。
 跡部の鋭い流し目で見下ろされ、神尾は一層首を傾ける。
 言われている言葉の意味は判らなかったが、跡部が結構本気で機嫌が悪いという事はただちに理解する。
 静かに深く怒っている跡部に対して。
 どうしたものかと、神尾は逡巡する。
「………………」
 放課後、約束もなく唐突に跡部が不動峰までやってきたので何かしら理由があるのだろうと、思ってはいたけれど。
 氷帝の制服姿の跡部を上目に見たまま、神尾は取りあえず言われた言葉の意味をもう一度考えた。
 目をつけられてるって、どういう事だろうか。
 テニス部の上級生に絡まれて暴力を受けていたのは、もう去年のことだ。
 今更跡部がその時の事を聞いている訳もないだろうし、最近で思い当たる事は何もない。
 何だろう困ったなと神尾は眉根を寄せて、あれこれ記憶を探っては、懸命に考え込んだ。
「……てめえ」
 唸るような跡部の声に、神尾は僅かに息をのむ。
 怖いというより、跡部が本気なのが一層判って、ますます困ってしまったからだ。
「えっと、…悪い。全然、なんにも思い当たらねえんだけど……」
 何の話?と出来るだけそっと神尾は切り出したのに、跡部の手に制服の首元を掴み締められる。
「ちょ、…跡部、?」
 神尾は穏便に聞いているのに、どうして普段は冷静な跡部がこう出るのか。
 それこそ傍目には他校生同士の喧嘩にしか見えないだろうと神尾は胸倉を掴まれながら瞬きを繰り返す。
 すうっと怜悧な目を細めて跡部は言った。
「お前、野郎に毎日声かけられてるんだってな」
「……は?」
「お前がオヤジに目つけられてるだ何だと、どうして俺様があのボヤキから聞かされなきゃならねえんだ? アア?」
「ボヤキ? え、深司?」
 言葉を飾らない神尾の親友は、跡部に対しても当然のように辛辣だ。
 跡部は跡部で、妙に伊武を敵対視している。
 そんな二人がいつ話なんかしたんだろうか、それも自分の事を?と神尾は怪訝に思って問いかけるのに、跡部は全くそれに対しての返事をしない。
 仕方がないので神尾は話を進める。
「オヤジって何? 俺知らないぜ?」
「ほとんど毎日、同じ場所で声かけられて知らねえ訳あるか!」
「や、マジ知らないし!」
 ぐいぐいと首元を絞められて、神尾も喚くが跡部はもっと大きな声を出す。
「テニスしようだ、音楽は何聴いてんだ、めちゃめちゃ目つけられて声かけられまくってて、とぼけてんじゃねえよ!」
「は? 何それ、ナンパか」
「それ以外に他の何だってんだ!」 
 きいん、と耳鳴りがするほど至近距離で跡部に怒鳴られた。
 神尾は思いっきり顔を顰めて、その一方で、ああそういえば、と思い当たる事があった。
 そういえば。
 伊武にも聞かれた。
 今跡部が言ったような内容の事。
 神尾は通学時間は大抵音楽を聴いているので、あまり周辺の音を聞いてない。
 リズムに乗って走っている事も多いので、ほとんど自分だけの世界にいる。
 だから伊武に、あの男の人知り合い?と聞かれても何のことだかさっぱり判らなかった。
 テニスしようと声をかけられてただろと言われても記憶にないし、何の音楽を聴いているのかって聞かれてただろと言われても覚えがない。
 首を傾げれば呆れかえった溜息と馴染みのボヤキで延々愚痴られた。
 その親友がぼやくだけぼやいた後に、漸く教えてくれた。
 どうもここのところ神尾は、下校時間に一人の男に、そんな風に声をかけられているらしかった。
 神尾は全くもってその相手を認識していないので、伊武からはボヤキを通り越した辛辣な言葉を浴びせかけられたのだ。
「あー、……判った、跡部」
 経緯は判らないが、ともかくその話を伊武は跡部にしたのだろう。
 そして跡部は怒っている。
 ものすごく。
「跡部」
 神尾は胸元のシャツを跡部に掴まれたまま、両腕を伸ばした。
 跡部の髪に指先を埋めて。
「えっと、心配、かけてごめん」
「………………」
 ぴたりと跡部が口を噤む。
 きつい目元の鋭さは緩まないまま、不機嫌極まりない表情で神尾を見下ろす跡部の頭を固定するように両手で捉まえて、神尾はゆっくりと繰り返した。
「心配かけてごめんな」
「………………」
 自分より十センチ上にある跡部の目をじっと見上げて。
「何か、そういう奴がいるらしいけど、俺別に、直接被害被ってたりしてないし。話とかもしてないぜ? どういう奴かもあんまり記憶にないし。だから大丈夫」
「………………」
 跡部のことだ。
 神尾がそう言ったところで、心配なんざしてねえと一喝してくるかと思っていたのだが。
 仏頂面のまま、跡部は黙って神尾の言葉を聞いている。
 きちんと聞いてくれている。
「これからもちゃんと気をつけるぜ!」
 だから神尾は笑って跡部にそう告げた。
 跡部は神尾を見据えた後、重たく吐き出すように言った。
「………そうしろ」
「うん」
「絶対ついていくんじゃねえ」
「うん」
「話しかけられても口きくな、相手の話も聞くな、足止めんな」
「ん。約束するぜ!」
 神尾は跡部に胸倉を掴まれたまま。
 跡部の頭を抱きこむように手を伸ばしてもいて。
 憮然とした様子の跡部の言葉に逐一頷き、笑った。
 こういう時に真剣に怒られるのは少しだけ擽ったい。
 でも、何だか自然と笑みが浮かんでくるのだ。
「へらへら笑ってんじゃねえよ」
 跡部の手に頭をはたかれたけれど、たいして痛くなかった。
 神尾が跡部の髪から手を離すと、物足りなさそうに不機嫌な顔をする跡部がいて、神尾はやっぱり笑ってしまう。
「跡部、一緒に帰ろうぜ!」
「もう帰ってんだろうが、バアカ」
 歩き出しを促すように、一瞬だけ跡部の腕に肩を抱かれる。
 その手つきはとても丁寧で、跡部の手のひらの感触の余韻は、静かに甘く神尾の意識に沈んだ。
 乾の部屋の壁には落書きが幾つもある。
 幼時のいたずら書きならばまだしも、それは身長184cmの男が書いた謎の記号や文章だ。
「あんた、何で壁にメモするんですか」
 その壁を前にして海堂が問えば、乾は機嫌のよさそうな笑みを浮かべて、全く違う問いかけを放ってくる。
「海堂はノートをボールペンでとるよな。どうして?」
 どうしてそんな事を聞くのかも、どうしてそんな事を知っているのかも不思議で。
 だいたい会話になってないだろうこれじゃと呆れながらも、海堂は溜息混じりに低く答えた。
「……書き直しが出来ないから」
 きちんと板書をしようとすると、そればかりに集中してしまう。
 ちょっとしたバランスが気になって書き直しをするという無駄が多い気がして、いっそ一々書き直しのきかない方法でノートをとるようになったのだ。
 そういう経緯の説明など一切省いた短い返答だったのに。
 乾は全部酌んで、また笑みを浮かべた。
「多少見た目が悪くなっても、中身がきちんとしている方がいい。それと一緒ってこと」
「………いや、全然違うと思いますけど」
「同じだよ。形式より内容って事だろう?」
 それは、まあ、そうなのだが。
 海堂は曖昧に頷き、どのみち乾相手に言葉で勝てる筈もないから、それ以上続けようがない。
 そんな状態でいる所に、いきなり乾に頭を撫でられて、海堂はどきりとする。
「……あ、驚かせた…?」
「………別に」
 乾の手のひらは、まだ海堂の頭上に載せられたままだ。
 驚いてなどいないと否定した事は、ほとんど強がりに近いという事を、海堂も自覚している。
 乾の部屋に来たのは初めてではないのだけれど。
 こんな風に、頭に手のひらを乗せられることも。
 和んだ笑みを浮かべる眼で覗きこまれることも。
 どれもこれも、初めてじゃない。
 でも。
 固まった海堂を、乾は両腕で抱き込んできた。
 丁寧に抱きとられる。
 海堂は立ち尽くし、ますます硬直するのだが、何だか乾が安心したみたいな息を吐き出したので、そっと首を傾ける。
「先輩…?」
「良かった。逃げられなかった」
「………逃げたこと、ねえ…」
 怯むような声になってしまうけれど。
 海堂は乾から逃げた事はないし、逃げようと思った事もない。
「ああ、そうだな」
「………………」
 抱き締め合ったまま。
 立ったまま。
 お互いの顔も見えないで、それでもお互いにだけ向ける言葉を口にして。
 抱き締め合うという、この距離感はあまりにも近い。
 近すぎる、でも、ほんの少しもそれは苦痛に思えない。
「海堂」
「何っすか……」
「メモを書くのは壁じゃなくて紙にっていうのは、一般常識かな?」
「そりゃそうで…」
「じゃあ、これは?」
 ここまできっぱりと言葉を遮られても腹が立たないのが不思議だ。
 海堂は溜息のように思う。
 急いているかのような乾の心情が、何故か海堂には自分のことのように理解ができる。
 こうやって、抱き締め合っているからだろうか。
「俺は今海堂をすごく抱き締めたかったからこうしてるけど、本当は常識的に考えると他に」
「多少順序が違うくらいいいっす」
 今度は海堂が乾の言葉を遮った。
 乾も苛立ちはしなかったようだ。
 海堂の断言に、乾も乾で不機嫌になる気配など微塵もないように海堂を窺ってくる。
「あんたが、時々普通じゃないことするってのは、判ってるんで」
「俺にとっては、別に全部普通のことだと思ってるんだが?」
 海堂は乾の胸元で抱き込まれたまま目を閉じる。
「俺も、そう思って、こうしてますけど…」
 乾に抱き締められる。
 これまでにも何度か。
 そうされながら、ゆっくりと、少しずつ、乾の説明を聞いている。
「しっかりつかまえておいて言わないといけない気がして、先に手が出たんだよ」
「………何か言う気配があまりないように感じますが」
「心の準備がいるだろう」
 どっちのだよと思って、海堂は思わず笑った。
 声にはしなかったけれど、振動で乾にも伝わったようだ。
「笑うな」
 不貞腐れたような子供っぽい口調が珍しかった。
「お前な、拒絶された時の俺のダメージを少しは想像してみろ」
 だから何でそれを自分に言うんだと思って、海堂はますます笑いが止まらなくなる。
「あの、乾先輩」
「何?」
「俺が、言いますけど。それなら」
 言っても言わなくても同じだと、思わなくもない。
 抱き締めて、抱き締められて、それで安心したり、ドキドキしたり。
 笑って、話をして、こんな風でいる自分達だから、言葉が少しくらい足りなくても今更な気がする。
「無し。それは無し」
 けれど乾は勢い込んで否定してくる。
「何でですか」
「言うより聞く方がグダグダになる」
 あまりに大真面目に意見されたので。
 海堂は、判りましたと呟いて、乾の背中に片腕を回した。
 まだどこか笑いが滲んでいる呼吸を整えて、乾の胸元に顔を埋める。
「先輩の、好きなようにで、いいっス」
「………肝心なこと言う前から、こんなに良い思いして大丈夫か、俺」
 相変わらず真面目な声で、相変わらずどこかひとごとのような摩訶不思議な言葉を使う乾を、海堂は近頃ではあまり不思議に思わなくなった。
 それが乾で、そんな彼の傍にいる事がとても心地いいと思うのが、自分だからだ。


 順番が狂っていたって、それはたいした問題ではない。
 言葉以上の力で、すでに理解しているから。
 一番最初にあるべきでいて、一番最後になってしまった言葉。
 もし形になれば、それは単に。
 その時、言えて、聞けて、とても嬉しいと、そう思うだけの出来事だ。
 鳳と喧嘩をしたら、機嫌だけでなく体調まで悪くなってしまった。
 激ダサ、と口にした自分の声も妙に頼りなくて宍戸は鬱々とする。
 朝からずっと寒気がするのは、今日の気温が低いせいばかりではないようで、放課後になったら寒気というより、もはや悪寒でくらくらした。
 頭が痛い。
 気持ちが悪い。
 あとはもう帰るだけなのに、ここにきて一気に動けなくなった。
 宍戸は廊下の片隅にしゃがみこんで、床材の冷たさに身震いする。
 冷暖房完備の氷帝学園の校内においてはあるまじき寒さに、宍戸は立てた膝に額を押し当てて目眩を噛み砕こうと必死になっていた。
 身体の遠くの方から兆しがある吐き気にもうんざりする。
「………何でそんなになるまで無理するの」
「………………」
 額の上あたりに、宛がわれた手のひらは滝のものだ。
 色気のある声は頭痛の酷い宍戸を全く苦しめない。
 いつも穏やかな友人のものだった。
 ひんやりとした指に頭を撫でられていると、少しだけ気分がはれる。
 しかし、溜息と一緒に滝が吐き出した言葉を宍戸は即座に否定した。
「鳳、呼ぶよ」
「呼ぶな」
 滝が、そう言いだしそうな予感はあったから。
 すぐに否定したのに、駄目、と滝はにべもない。 
「立ち上がれない宍戸を運ぶのは、俺じゃちょっと難しいよ」
「運ばなくていい…」
「駄目」
「もう行っていい」
「出来るわけないだろう、そんなこと」
 滝の声は優しかったが、嫌だと宍戸は首を振り続けた。
「どうしたの。宍戸」
 半分は怒って、半分は心配そうに。
 滝が宍戸の正面にしゃがみ込んだ。
「そんなに具合悪いのに、何で、これ以上無理しようとするわけ? 全然平気じゃないって、自分で判ってるだろ?」
「………………」
「鳳以外だったらいいの?」
 そうだけど。
 頷けない。
 押し黙る宍戸の、下を向いたままの頭上に手をおいて、滝は宥めるように髪を撫でてくる。
「…鳳は嫌なの?」
 少しだけ聞き方を変えてきた滝に、宍戸は漸く頷いた。
「どうして?」
 黙り続ける事もすでに億劫だった。
 宍戸は力ない声で答える。
「……喧嘩してるから。あいつは呼ぶな」
「喧嘩って…」
 珍しく滝が、呆れを露にして宍戸を叱った。
「あのね。こういう時に、意地張ってる場合じゃないだろ」
「………嫌だ」
「宍戸」
 嫌だ、と宍戸は繰り返して、これではまるで駄々をこねる子供のようだと思ったけれど。
「……あいつ、頭下げてでも謝り倒して連れて帰るに決まってるから、やだ」
 宍戸の頭を撫でていた滝の手が止まる。
 ん?と小さな自己確認のような声がして。
「…鳳が謝ったら、宍戸は嫌だってこと? つまり宍戸が悪い?」
「だよ…」
「………………」
「当分許さなくて良いって俺は言ってんのに、あの、ばか」
 すぐ許す。
 悪くもないのに謝って。
 彼の方から折れて。
 ここ数日ずっとそうだった。
 だからその上でこんな、具合が悪い自分なんかと接触したら、鳳は絶対に何もかもひっくるめて自分が悪いということにするのだ。
 絶対。
 それが、どうしてもどうしても、いやだ。
「そっか…」
「………………」
 しみじみと頷いてはくれる。
 でも滝は、どうしようかなあと片手に持った携帯を見て溜息をつく。
「そうは言ってもねえ…」
「ぜったい、やだ、」
「……そんな子供みたいな言い方、普段の宍戸だったらしないよねえ………そんなに具合悪いのに、どうしようか…」
 宍戸の頭に手のひらを乗せて、そっと頭を撫でながら滝が呟くのに、突然別の声が被さってくる。
「もう遅ぇ」
 歯切れの良い、強い声。
 滝は立ち上がって振り返り、宍戸はのろのろと顔を上げた。
 小さな身体。
 けれどそうとは見せない力強さで、向日は腰の両脇に手を当てて、二人の前に立っている。
「岳人」
「滝、お前、宍戸を甘やかしすぎ」
「……かなあ…?」
「かなあ、じゃねえよ。甘いんだよ、お前は!」
 苦笑いする滝に厳しく言いやってから、向日は宍戸を睨み下ろした。
「今更ぐだぐだ言ったって遅ぇ! 侑士が鳳に電話したぜ」
「……、…あ?」
 向日が立てた親指で自身の背後を、指差す。
 そちらからゆっくり歩いてくるのは忍足だ。
「お前が来ないなら宍戸は俺か跡部が姫抱っこして帰るって。侑士に言えって言ったら言った」
 さっき電話で、と向日は言い、携帯を手にした忍足は苦笑いでそんな向日の横に並んだ。
「あの調子じゃ、直に血相変えて飛んでくるやろ。鳳」
「てめ……何考えてんだ…」
 宍戸が低い声で向日と忍足を睨んで呟けば。
「侑士もそう言ったな」
 向日はけろりと口にして、滝が、あーあーと声を上げて笑う。
「岳人…忍足、結構デリケートなんだから。そんなこと言わせて、可哀想に」
「せやろー? 俺傷ついてんねんで」
「よくオッケーしたね。忍足も」
「そう言わんと、家出した時に、俺んとこにはもう来ぃへん言うんやで、この子」
「あらら」
 ひどいわとがっくりと肩を落とす忍足と、それは心配だよねえと慰める滝と。
「別に俺が運んでやりゃいいんだけどよ。侑士や跡部の名前出す方が、鳳すっ飛んでくるだろうからな」
「………なに言ってんだか判んねえよ」
 自分よりも十四センチも低い身長で、でも向日だったらやってのけるかもしれない。
 宍戸は悪寒の中で悪態をつくのが精一杯だった。
 寒気がするのに。
 頭が痛いのに。
 具合が悪くて、もう立ち上がる気力もないのに。
 そんな自分の周辺で、友人たちは賑やかしのように騒いでいる。
 でも本当は、きちんと心配をされていることも判るので。
 いつまでも意地を張っていたら駄目なのかもしれないと、宍戸は膝を抱え込むように項垂れた。
 視界がぐるぐる回る。
 喧嘩。
 そう、喧嘩。
 喧嘩の原因は、何だったか。
 思い出そうにも、だんだんと訳が判らなくなってくる。
 怒ったのは自分だったのか、鳳だったのか、はたして自分は何が嫌で頑なに鳳を避けたいのか。
 改めて、色々と、考えようとして、どんどん訳が判らなくなってしまう。
「ん? マジでやばそうだな、こいつ」
「うわ………ちょっ…宍戸、…?」
「おー、王子様の到着や」
 向日が眉を寄せ、滝が慌てて、忍足が呑気に言う。
 廊下の遠くの方から、走ってくる男の気配。
 顔を俯かせていても判る、その足音。
「宍戸さん? 宍戸さん、大丈夫ですか?」
「………………」
 気遣わしい声が聞こえる。
 肩に手がかかる。
 駄目だ、もう。
「し、……!…」
「………………」
 宍戸は鳳の胸元に身体を預けた。
 しっかりと受け止めてきた腕の強い感触に、手放しにそれこそ甘えるように顔を伏せて。
「……ごめん…なあ……長太郎…」
「だからその話は……、…ああもう、とりあえず!」
 病院行きましょうと鳳は宍戸の身体を包み込むようにして。
 やってのけたらしい。
 お姫様抱っこ。
 浮遊感にまたぐらりと眩暈がして、宍戸はそのまま鳳の胸元に顔を埋めた。
 たぶん、熱が出てきた。
 原因は体調不良によるものなのか、久しぶりに感じる鳳の気配によるものなのか、あやうい。
「だから、お前は、許さなくて……、…いい…」
「いい加減いつまでも我儘言わないっ!」
 鳳の怒声に、おおーっと三年生達は言って手を叩く。
「おお。大人になったんやなあ、鳳」
「鳳、よく言った!」
「鳳が宍戸を怒鳴れるとはねえ……やるねえ…」
「ああもう先輩達退いてください!」
 大人というよりは、心配しすぎて訳が判らなくなっているのに近い。
 鳳の狼狽は、宍戸の知る由ではなかったのだけれど。
「あと頼むね。鳳」
「じゃーなー」
「頑張りや」
 気ままな事を口々に言って、去っていく同級生達の声も、宍戸の耳には届いていなかったけれど。



 優しい、強い腕に支えられていて。
 真摯に気遣われるこの腕に、今は頼っていいのだと判ったから。
 宍戸はゆっくり安堵して、何もかも無抵抗に、鳳の腕の中で意識を手放したのだった。
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