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How did you feel at your first kiss?
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 乾の部屋の壁には落書きが幾つもある。
 幼時のいたずら書きならばまだしも、それは身長184cmの男が書いた謎の記号や文章だ。
「あんた、何で壁にメモするんですか」
 その壁を前にして海堂が問えば、乾は機嫌のよさそうな笑みを浮かべて、全く違う問いかけを放ってくる。
「海堂はノートをボールペンでとるよな。どうして?」
 どうしてそんな事を聞くのかも、どうしてそんな事を知っているのかも不思議で。
 だいたい会話になってないだろうこれじゃと呆れながらも、海堂は溜息混じりに低く答えた。
「……書き直しが出来ないから」
 きちんと板書をしようとすると、そればかりに集中してしまう。
 ちょっとしたバランスが気になって書き直しをするという無駄が多い気がして、いっそ一々書き直しのきかない方法でノートをとるようになったのだ。
 そういう経緯の説明など一切省いた短い返答だったのに。
 乾は全部酌んで、また笑みを浮かべた。
「多少見た目が悪くなっても、中身がきちんとしている方がいい。それと一緒ってこと」
「………いや、全然違うと思いますけど」
「同じだよ。形式より内容って事だろう?」
 それは、まあ、そうなのだが。
 海堂は曖昧に頷き、どのみち乾相手に言葉で勝てる筈もないから、それ以上続けようがない。
 そんな状態でいる所に、いきなり乾に頭を撫でられて、海堂はどきりとする。
「……あ、驚かせた…?」
「………別に」
 乾の手のひらは、まだ海堂の頭上に載せられたままだ。
 驚いてなどいないと否定した事は、ほとんど強がりに近いという事を、海堂も自覚している。
 乾の部屋に来たのは初めてではないのだけれど。
 こんな風に、頭に手のひらを乗せられることも。
 和んだ笑みを浮かべる眼で覗きこまれることも。
 どれもこれも、初めてじゃない。
 でも。
 固まった海堂を、乾は両腕で抱き込んできた。
 丁寧に抱きとられる。
 海堂は立ち尽くし、ますます硬直するのだが、何だか乾が安心したみたいな息を吐き出したので、そっと首を傾ける。
「先輩…?」
「良かった。逃げられなかった」
「………逃げたこと、ねえ…」
 怯むような声になってしまうけれど。
 海堂は乾から逃げた事はないし、逃げようと思った事もない。
「ああ、そうだな」
「………………」
 抱き締め合ったまま。
 立ったまま。
 お互いの顔も見えないで、それでもお互いにだけ向ける言葉を口にして。
 抱き締め合うという、この距離感はあまりにも近い。
 近すぎる、でも、ほんの少しもそれは苦痛に思えない。
「海堂」
「何っすか……」
「メモを書くのは壁じゃなくて紙にっていうのは、一般常識かな?」
「そりゃそうで…」
「じゃあ、これは?」
 ここまできっぱりと言葉を遮られても腹が立たないのが不思議だ。
 海堂は溜息のように思う。
 急いているかのような乾の心情が、何故か海堂には自分のことのように理解ができる。
 こうやって、抱き締め合っているからだろうか。
「俺は今海堂をすごく抱き締めたかったからこうしてるけど、本当は常識的に考えると他に」
「多少順序が違うくらいいいっす」
 今度は海堂が乾の言葉を遮った。
 乾も苛立ちはしなかったようだ。
 海堂の断言に、乾も乾で不機嫌になる気配など微塵もないように海堂を窺ってくる。
「あんたが、時々普通じゃないことするってのは、判ってるんで」
「俺にとっては、別に全部普通のことだと思ってるんだが?」
 海堂は乾の胸元で抱き込まれたまま目を閉じる。
「俺も、そう思って、こうしてますけど…」
 乾に抱き締められる。
 これまでにも何度か。
 そうされながら、ゆっくりと、少しずつ、乾の説明を聞いている。
「しっかりつかまえておいて言わないといけない気がして、先に手が出たんだよ」
「………何か言う気配があまりないように感じますが」
「心の準備がいるだろう」
 どっちのだよと思って、海堂は思わず笑った。
 声にはしなかったけれど、振動で乾にも伝わったようだ。
「笑うな」
 不貞腐れたような子供っぽい口調が珍しかった。
「お前な、拒絶された時の俺のダメージを少しは想像してみろ」
 だから何でそれを自分に言うんだと思って、海堂はますます笑いが止まらなくなる。
「あの、乾先輩」
「何?」
「俺が、言いますけど。それなら」
 言っても言わなくても同じだと、思わなくもない。
 抱き締めて、抱き締められて、それで安心したり、ドキドキしたり。
 笑って、話をして、こんな風でいる自分達だから、言葉が少しくらい足りなくても今更な気がする。
「無し。それは無し」
 けれど乾は勢い込んで否定してくる。
「何でですか」
「言うより聞く方がグダグダになる」
 あまりに大真面目に意見されたので。
 海堂は、判りましたと呟いて、乾の背中に片腕を回した。
 まだどこか笑いが滲んでいる呼吸を整えて、乾の胸元に顔を埋める。
「先輩の、好きなようにで、いいっス」
「………肝心なこと言う前から、こんなに良い思いして大丈夫か、俺」
 相変わらず真面目な声で、相変わらずどこかひとごとのような摩訶不思議な言葉を使う乾を、海堂は近頃ではあまり不思議に思わなくなった。
 それが乾で、そんな彼の傍にいる事がとても心地いいと思うのが、自分だからだ。


 順番が狂っていたって、それはたいした問題ではない。
 言葉以上の力で、すでに理解しているから。
 一番最初にあるべきでいて、一番最後になってしまった言葉。
 もし形になれば、それは単に。
 その時、言えて、聞けて、とても嬉しいと、そう思うだけの出来事だ。
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