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How did you feel at your first kiss?
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 跡部と会えないでいる時は、まるで自分達には何の繋がりも関係もないかのような、完璧な隔たりがお互いの間に出来る気がする。
 顔を見ないのは勿論、声も聞かないし、噂も耳にしないし、電話やメールもないし、跡部と自分とは、本当は、全くかかわりのない関係だと思えてならなくなる。
 そういう時、跡部のことを好きな自分が、ふと、どうしようもなく怖くなる。
 一方的なこの執着が。
 あの怜悧な眼差しに一瞥されることもなく、そうやって無関心ならばまだいいくらいで、ひょっとすると侮蔑されそうな気すらして。
 いつもいつも怖かった。
 それが一日のことであっても。
 一週間のことであっても。
 同じことだった。
 一日が一生みたいに感じる。
 跡部からの連絡がなくなると、その瞬間から始まる、一生のような不安。
 そして跡部からの連絡がくると、その瞬間から始まる、絶望のような不安。
 跡部が、どういう顔で、何を思って、現れるのか。
 それは会えないでいる間の怯えよりも遥かに。
 遥かに強く、神尾を緊縛した。




 何度もこういうことを繰り返している。
 久しぶりに跡部と会うといつも、自分は跡部が怖くて、跡部はそれを見て不機嫌になる。
 冷たくなる。
 最初のキスに身体が竦む。
 するとキスは乱暴になる。
 逃げかけて、捕まって、目が合って、逸らして。
 跡部の舌打ちと、自分の震える呼吸と。
 会話もろくろくないまま組み敷かれ、性急に身体を繋げられて、泣いて。
 泣いて。
「…っ、ゃ、」
「…………………」
「ふ………っ……ぇ……」
 温みながら零れていくような音のする所を、どんどん深くやってこられて、先のない所に突き入れられ、拓かれ形をつくられていく、そんな生々しさに泣きじゃくるしかなくなる。
 泣けば泣いただけ跡部は機嫌を悪くして。
 自分はぐちゃぐちゃな顔を尚も晒すのだ。
「……っ………く……ぅ…っ…、っ、ぅ…」
 顔。
 隠したい。
 いやだ、と思って動かそうとする手はもうろくに動かない。
 それでも跡部はそんな神尾の両手首をきつく握りこんで、束縛して固定する。
 顔の両脇に押さえつけられ、跡部の腰の力で神尾の両足は淫らに押し開かれる。
「…っぁっ…、っ、ぁ、っ」
 押し込まれるたびに声が出て、泣き声というより嬌声じみた甘ったるさに何度も唇を噛むのに。
 結局どうしようもなくなって、しゃくりあげて子供みたいに泣いた。
「…………てめえ……」
「っゃ………ャ、…だ……ゃ、ぁ…ー……っ……」
「……毎回毎回…たかだか二日三日で、リセットされやがって…」
「………ふ……ぁ…っ…ん、……ん…、…っん」
 泣いているばかりだった。
 怖がるばかりだった。
 そんな時が確かにあった。
 跡部に手荒に抱かれているうち、少しずつそういったものが薄らいでくる。
 怒っていても、蔑まれているわけではない。
 痛くされても、憎まれているわけではない。
「………あとべ……」
 やっと口から放った名前に、神尾は崩れていく。
「あとべ………」
 自分を抱き締めている。
 突き上げてくる。
 悪態をついて。
 きつい言葉を吐いて。
 髪を掴み締められて。
 唇をめちゃめちゃに貪られる。
「…あとべ……、…っ……」
 自由になった手を、跡部の首の裏側に絡めた。
 ぎゅっとしがみつくと、もっと強く背中を抱かれた。
「ふざけやがって……っ…!」
 何考えてんだてめえと低く剣呑とした声で吐き捨てられ、正気が吹き飛ぶような激しさで卑猥に抉られた。
「ぅぁ……、っ、…ん、…ン、っ、…あと…べ……っ…」
 会えないことが不安なわけではないのだ。
 会わないでいると、それまでのことがみんな空虚な空言だったかのような気になって。
 それがどうしても、どうしようもなく、怖い。
「毎回毎回、全部なかったことにしやがって……」
 何度逃げれば気が済むんだと跡部に荒く言葉を投げつけられ、首筋を噛まれた。
 逃げたことなんかない。
 逃げようと思った事だってない。
 神尾は、ただ。
「…………あとべ……」
 離れている時間の後の。
 最初の跡部の視線が。
 最初の跡部の言葉が。
 いつも、いつも。
 怖いと思うくらいに。
 恋しいだけだ。
 焦がれているだけだ。




 いつでも跡部を望んでいて、いつでも初めて跡部の目に触れる、脆弱で剥き出しの感情が神尾の中にあるだけだ。

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 夜這いしてくるなら、どうせならもう少し色っぽく出来ないのかと、跡部は浅い眠りから覚醒させられながら眉を顰める。
 今日は神尾を自宅に泊めた。
 ただし別々に寝ている。
 寝室には二人で入ったのだ。
 ところが口付けの合間で始まったどうでもいいような事がきっかけの言い争いは、次第に睦言で誤魔化す事も出来なくなっていって。
 元来気の長い性格ではない跡部は、寝室に神尾を一人残して、自分はリビングに向かった。
 五十畳のそのスペースにある四つのソファのうちの一つに身体を投げ出して。
 不機嫌に舌打ちして跡部は目を閉じる。
 顔の近くまで引き上げたブランケットにもぐりこんでやろうかと思うくらい。
 やけに月明かりが眩しい夜だった。
 きつい月光を遮断するように双瞳を閉ざす跡部の表情はそれだけで冷たく怜悧で、こんな剣呑とした気配の跡部に好き好んで近寄ってくる者など、氷帝の中にだっていない。
 機嫌を損ね、腹をたてている跡部に対する普通の対応は、遠巻きに見るのがせいぜいだろうに。
 わざわざこの懐に、もぐりこんでくるのだからこれは相当の馬鹿だ。
「………………」
 細い手足。
 体温が高い。
 匂いのない軽い身体。
 それがブランケットの中に入ってくる。
 ベッドに比べて格段に狭いソファの上、必然と互いの肢体は密着するが、その接触に色気は欠片も感じ取れない。
 幼児が親の布団に入ってくるようなものだ。
「…………あとべ」
「…………………」
 力ない小声で呼ばれても、返事なんかしてやるかと跡部は冷たい視線を差し向けただけだ。
「…………………」
 神尾と目が合って。
 すぐさま舌打ちした跡部の表情に、神尾がびくりと肩を震わせる。
 よほど冷たい顔にでもなっているんだろうと、急激に潤んでいく神尾の瞳に知らされた跡部は、きつい目をしたまま神尾の肩を手で包んで震える唇に口付ける。
 二人で横になるには狭すぎるソファで、それでも身体を横たえて。
 ぎこちなく強張っている舌を軽く含みとってやると跡部の手のひらの中で神尾の肩が痙攣した。
 ちょっと仲たがいしただけで、瞳を真っ赤にして、こんな風にもぐりこんでくるからみんな神尾が悪い。
 きつい月明かりで青白く晒されるもの全てが、無防備すぎて苛立った。
 跡部は噛むように神尾の舌を貪りながら、ブランケットを蹴って、その代わりに神尾を身体の上に引き上げた。
「……跡部、……」
「…………………」
 言葉では応えてやらないまま見つめていると、ぱたぱたと落ちる音が聞こえてくるみたいな泣き方で神尾は涙を零した。
「あとべ………」
「…………………」
 色気のまるでない、てんで幼児の仕草で泣くだけで、口にするのは名前だけ、両手で縋るようにしてしがみついてくる、それだけの神尾に。
 結局跡部は暴力的に煽られて、慣れない痛まされ方をする心情に歯噛みさせられ、単純なのに思うようにならない苛立ちで、執着する。
「…………………」
 手のひらで頬を、指先で目元を。
 同時に拭うように神尾の顔に伸ばされた跡部の手の中に。
 すっぽりとおさまるほど小さい神尾の顔は、涙で濡れて月明かりに照らされる。
「…………………」
 これが綺麗で、これが可愛いのだと、跡部がこれまで持ち得なかったそれらの感情は、もう神尾に対してだけしか使われない。
 それを言ってしまう方が神尾は信用しないと判っているから、跡部はもう何も言わない。
 両手で抱き締めて。
 相手の首筋に顔を埋めた事など。
 跡部は神尾以外にした事がない。
「…あとべ」
 自分に縋りついてくる腕の懸命さに。
 必死さに。
 気持ち良さげに目を閉じる跡部の表情は、神尾ですらも知らないもの。
 良くても悪くても感情が高ぶってしまえば泣き出す神尾ともつれ合うように四肢を絡ませあいながら跡部はソファから床に身体を落とした。
 神尾の服を剥ぎ取ってしまって、全裸に月光を浴びることになった華奢な体躯を、跡部は無言で拓いていった。
 しずかに動いた。
 ゆるく混ぜた。
 重めの、でもやわらかい、不思議な抵抗感の中を、互いの区別がつかなくなるように混ぜた。
 ほとばしるような声を導かないようにえぐり、神尾の唇から上ずった息遣いだけが零れるように揺する。
 声になる手前。
 息だけで喘ぐような神尾は、ひどく辛そうにも、ひどくよさそうにも見えた。
 喉をひらききって、あまくかすかな声交じりの呼吸を引き出し、潤んだ目から涙が零れ落ちないように跡部は神尾と身体を繋げた。
 跡部の動きに沿って、ひっきりなしに神尾の瞳の中でゆらぎ続ける涙は、月明りを反射させ見たこともないように光っていた。
「………跡部…、…」
「……………………」
 声でなく息を交ぜあって口付け合い、静かに繰り返した分すぐにはとまらない愉悦は本当に長くて。
 神尾は随分泣いた。
 跡部が随分泣かせた。



 そこには確かに誘惑が存在していた。
 どれがそうだったかではなく、月夜の青白いあかりが照らしていたもの全てが。



 全てが。
 誘惑。

 宍戸にとって最悪だったのは、準レギュラーの二年生達がしていた噂話そのものではなく、その直後に自分の目で見た光景だった。


『鳳の奴、この間転入してきた子とうまくやってんだって?』
『ああ、すごいらしいぜ。転入初日に、鳳の方から声かけたらしいから』
『珍しくね? あいつ女共から優しい優しいって言われまくってるけど、今まで自分からはそういう事しないタイプだったじゃん』
『だからマジなんだろ。最近なんかもう、しょっちゅう二人で話してるとこ見るぜ』
『転入生って、黒髪のロングヘアの子?』
『そうそう。スタイルめちゃくちゃよくって、見た目かなり気ぃ強そうなんだけど、鳳と話してる時は結構可愛い』
『……あー……てゆーかさぁ、あの子、………似てね?』
『あー……宍戸先輩にだろ? 俺も思った』
『マジ似てる。結構背あるし二人で並んでると、あれ?って思った事何度もあるぜ』
『スカートはいてんのにな』
『まあ、ある意味、鳳の好みは徹底してるって事だな』


 こんな話を偶然聞かされた時は、何言ってんだこいつらと思っただけだった。
 朝練の後、正レギュラー用の部室を最後に出た宍戸は、別室のレギュラー以外の部員の部室前でそんな話をしている後輩達に呆れ返った視線を指し向けた。
 話の後半に、自分の名前が出てきて。
 よほど、馬鹿言ってんじゃねえと割って入ろうかと思ったが、結局馬鹿らしいと思って素通りした。
 そんな宍戸に気付いたらしく、後輩達の噂話は水を打ったように、ぴたりと止まった。
 つくづく馬鹿らしい。
 その時宍戸はそう思ったのだが。
 教室に戻る途中、渦中の二人と思しき男女を見つけてしまったのだから、どうしようもない。
 最悪だった。
「………………」
 何となく、すぐに。 ああ、あの子がそうかと判ってしまった。
 そういえば珍しく朝練の後、鳳はすぐさま部室を出ていった。
 宍戸に声をかけないというのが更に珍しくて。
 さすがに宍戸も微量の違和感を感じていた。
 その直後にあの噂話を聞き、そして。
 申し合わせたように遭遇だ。
「………………」
 あまりいい気分ではなかった。
 怒りと違う苛立ちが重く胸の内を占める。
 自分の心中がうまくつかめない。
 ひどく慣れない心もとなさがあった。
 咄嗟に宍戸は中庭にいた男女から視線を外し、彼らに気付かないで先を行く振りをした。
 その時に宍戸の視界を掠めた鳳が。
 その時の、宍戸の最悪な心情にトドメをさした。
 鳳は宍戸に気付いたようだった。
 恐らく、その気配がしたから間違いない。
 その彼が取った行動は咄嗟に強く狼狽えて。
 まるで宍戸から隠すように、その少女に手を伸ばし、自分の背後に置いたのだ。
 致命的だ。
 宍戸は重い溜息と共にそう思った。




 好きだと言われた。
 テニスをした。
 キスもした。
 ダブルスを組んだ。
 好きだと言われた。
 一緒に帰った。
 笑顔だった。
 試合をした。
 真剣だった。
 抱き寄せられた。
 すぐに離れた。
 尊敬してますと言われた。
 好きですと囁かれた。
 無茶しないで下さいと心配された。
 メールがきた。
 目を逸らされた。
 おはようございますと言われた。
 何も話さなかった。


 どれも普通のことで。
 どれも特別なことではなくて。
 どれも意味はない在り来たりのこと。
 それだけだったのかもしれない。
 そういうことだったのかもしれない。




 怒りに挿げ替える事も出来ず、心に留めずに流す事も出来ず、宍戸は鬱々と考えた。
 鳳の事はどうでもいい相手ではないから、言い様のない淀みはいつまでも晴れない。
 多分これが嫉妬心だという事は宍戸も認めていて。
 しかし、少なくとも宍戸がこれまで生きてきて一度も体験した事のない嫉妬心というものは、こうなっては強く燃やしてもどうしようもないものだと宍戸は知っているから。
 これは、宍戸の中で無くしてしまうしかないものだと判っているから。
 腹はたたなかった。
 でも持て余した。
 それが結局、宍戸が鳳と距離を置くという行動になって現れた。
 ただなまじ宍戸が怒っている様子もなく、ただひどく冷静なものだから。
 鳳と宍戸の間に微妙に出来た溝に気付いた者達も。
 どうしようもなかった。
 何やってんだお前らと、とうとう跡部に睨まれても。
 宍戸は苦笑するだけだった。
 あの跡部の追求ですら、そこで完全に断ち切ってしまう威力の、苦い笑みだった。






 一見波が立つ事無く、静寂のまま数日が過ぎた。
「宍戸さん。話があるんです」
「なんだ?」
 裏門にいた鳳の方を見ながら実際は目線を合わせず答えた宍戸の声には、別段棘も気落ちもない。
 こんな風に返せるようになったのかと宍戸自身が関心した程だ。
 ただ、どこか悪あがきのように、鳳の顔は直視できなかった。
 ここの所ずっとこんな感じだ。
「話があるんです」
「だから何だよ?」
 今日は部活のない日で、する事もなく。
 宍戸は授業が終わってすぐに校舎を出てきたのだが、鳳はいつからそうしていたのか、門扉に寄りかかって宍戸を待っていたようだった。
「黙られたら判んねーけど…?」
「…………………」
「……、…っ…ィ…」
 鳳の指に、手を握りつぶされそうになった。
 加減なく手の甲を握り込まれた宍戸がさすがに顔を上げ、真っ向から鳳を見上げた。
「お前、……!」
 眉を顰めた宍戸に、鳳が強張ったような顔をする。
「…………すみません」
「ま……いいけどよ」
 パッと鳳に放された手は、冗談でなく痺れている。
 宍戸は溜息をついた。
「宍戸さん」
「だから何だよ?」
「……待って。逃げないで」
「逃げてねーよ」
 逃げてねーだろと畳み掛けて宍戸が繰り返すと、違うと言って鳳はやけに必死な目をする。
「俺から」
「………………」
 離れていかないで、とどこか探るような慎重な声音で囁かれた。
 まるで逃げ場を無くしているかのように、鳳が宍戸との距離を詰めてくる。
「………おい…」
「どうしてそういう顔するんですか」
「そういう…って……」
「俺の事もうどうでもいいって目で見てる」
「………………」
 宍戸が静かに息を飲む。
「違うって言ってくれないんですか」
「長太郎、」
 金属の門扉が背中にぶつかる。
 鳳が宍戸の身体を拘束するように鉄柱を握り締め長身を屈めてくる。
 落ちてこようとしているのは唇で、まさかこんな所でそんなという気持ちと。
 それ以前に、と思う気持ちで宍戸は咄嗟に鳳の制服を片手で握り締めた。
 そのまま肘を伸ばし、腕を突っ張らせる。
「…………バ、…」
「……するな、ですか」
 聞いた事のないような鳳の声に、宍戸は、ざっくりと傷ついた。
 鳳の制服を掴み締めた手が、馬鹿みたいに震えてぶれた。
「………俺にも…まだ、するのか」
「…………宍戸さん?」
 呻くような掠れ声は独り言の域であるのに。
 鳳は的確に拾って、やはり強張るような小さな声を出した。
「俺にもって何です」
「………………」
「宍戸さん」
「………何でもねーよ」
「宍戸さん」
「何でもねーよ。もういいや」
 ひどく疲れたような気になって宍戸は呟いた。
 諦めるように吐き出した言葉に、鳳は過剰すぎるような反応をした。
「もういいって俺の事ですか」
「………………」
「俺はよくない」
 ガシャンと大きな音が宍戸の頭の裏側でした。
 門扉を両手で握り締めた鳳が、激情にかられるように激しく門を揺すったせいだった。
「いきなり距離とられて」
「………………」
「俺の事どうでもよくなったみたいな扱いされて」
 そんな低く切羽詰ったような鳳の声を聞くのは初めてで、宍戸は吐息を零す。
 それをまるで呆れた嘆息と見てとったような鳳は、一層手加減鳴く宍戸に踏み込んできた。
「あなたが俺を鬱陶しくなってるとしても」
 何言い出すんだこの馬鹿はと宍戸は目を閉じる。
「キスなんか二度とさせたくなくなったとしても」
 だってそんなのする方が傷つくだろうがと。
 声には出さずに頭の中だけで宍戸は告げる。
「……宍戸さんがそうやって泣くくらいでも」
 誰が。
 泣くか。
「宍戸さん」
「………………」
 誰が。
 閉じた瞼の中にあるものになんか気付くのか。
 誰が。
 その在り処を知っているかのように、唇を瞼の上に押し当ててくるというのか。
「誰が。逃がすとでも思ってるんですか……!」
 誰が。
 この振り絞るような声を。
「………、…」
 突き放そうとした側から力づくで抱き込まれた。
 もがいたまま抱き竦められた。
 それでも全力で鳳を引き剥がそうと両腕に力を込めて突き放した筈の男が。
「…………ッ…、…」
 初めて聞いた舌打ちと共に、宍戸の身体をそれ以上の力で背後の門扉に拘束する。
 したたかに背に金属が打ち付けられた痛みと、鳳の手の中で握り潰されそうにされている両肩の痛みは同じくらい酷かった。
「………宍戸さんが、本気で嫌がってるって、ちゃんと判ってます」
「……っ……」
 でも、と鳳は低く吐き捨てた。
「逃がさない」
「……………」
 宍戸にだって判った。
 鳳がどれだけ本気でいるか。
 判るから余計に。
 身体中が冷たくなる。
 全身から力が抜ける。
 震えが止まらない。
「宍戸さん」
 力任せに抱き竦められる。
 背中をかき抱かれる。
 宍戸はもう何の抵抗もしない。
 もう何も出来ない。
 唇を塞がれても、無抵抗だった。
「………、………ですか……っ…」
 奪い取ったのと同じ激しさで離れた唇の合間で、鳳の悲しく痛ましいような声がしたが、それもどこか神経を素通りしていくだけのようにしか宍戸には思えなかった。






 明らかに鳳と宍戸の関係が不自然なのは誰の目にも容易い事で、そのくせ個々で見てみれば二人はそれまでとあまり変わりなく日常を送っているようにも見えた。
 そういう客観的な意見を、他意なく毒もなく言える稀有な仲間はコイツくらいだろうなと宍戸は思った。
「喧嘩なの? 亮ちゃん」
「リョーちゃんは止めろ」
 いい加減聞き慣れたけれどと思いながら、宍戸はジローの癖毛に手をやって、軽く自分から引き剥がした。
 懲りずにジローは一層抱きつくように宍戸へ腕を伸ばしてくる。
 ぎゅっとしがみつかれて宍戸は諦めた。
「はい。ムースポッキー」
 いらないと言うより先に口に押し込まれて宍戸は溜息をつく。
「ジロー」
「あんまり飯食ってないね。亮ちゃん」
「…食ってるよ」
「ちょっと詰まったから嘘だし」
 昼休み、宍戸がジローにつれて来られたのはジローお気に入りの昼寝スポットだとかで、日当たりがよくてうまく死角に入っている低木の下だ。
 一緒に昼寝しようという誘い文句の通りに、ジローは木陰で宍戸の肩に凭れるように目を閉じた。
「鳳、相変わらず亮ちゃんと似た子と一緒にいるの、よく見かける」
 「………………」
 全然楽しそうじゃないけど、と目を閉じたままのジローの口から続いた言葉に宍戸はリアクションが取れない。
 それを聞いて、痛くて辛いような気もするし、どこか安堵に似て納得しているような自分もいる。
「亮ちゃんも寝よ」
「………………」
 そうやって促されるまま。
 宍戸は樹の幹に寄りかかり、足を投げ出したまま目を閉じてみた。
 肩口にあるジローのやわらかい髪が少し擽ったかった。
「どういう噂流れてるか聞いとく?」
「………ああ」
 宍戸がぽつりと答えると、どうやらジローはひどく驚いたようだった。
「うっそ。なんで? マジで?」
「お前が聞いたんだろ」
「そだけどさ。いつもの亮ちゃんなら絶対興味ないって言うじゃん」
「じゃあ、いつもの俺じゃないんだろ」
 自棄でも何でもなく、寧ろ冷静に宍戸は言った。
 自分でもよく判らないのだ。
 自分からだけでなく、鳳からも避けられるようになっている、ここ数日間の出来事に至っては尚更。
「んーとねえ……殆どは彼女絡みの話だよ」
「へえ…」
「………………」
「続きは?」
「……忘れちゃった」
 何だそりゃと宍戸は笑った。
「…俺、鳳のこと嫌いになった」
「嘘つけ」
「本当だし」
 こんなにこんなに亮ちゃんのこと傷つけた、とそう言って。
 ジローは宍戸の手を握った。
 宍戸が目を開けて横目で伺うと、目を瞑ったままジローは泣いていた。
「…あー…よしよし」
 何で俺が慰めてんだと、宍戸は半分おかしくなって笑った。
 あとの半分はつられて泣きそうになって困った。






 噂というのは増長するもので、結局その日の放課後の部活中にはもう、宍戸の耳にもそれは届くようになっていた。
 二百名近くも部員がいれば、その同じ部内の二人に纏わる噂など簡単に広まる。
 人数が多い上に、一握りのレギュラー陣に関する話ならば尚更の事だ。
 あれだけ親密だった鳳と宍戸が仲違いを起こしているのは、宍戸によく似た鳳の彼女を巡ってのことらしいというのがその噂の大半で。
 普段が温厚で従順な分、鳳の方を責めるよりは、宍戸の方に非があると言う内容の方が多かった。
 浮ついた雰囲気を跡部が一喝してからは大分マシになったが、その日の部活が終わればまた堰をきったかのようにその話題で持ちきりになるのは火を見るより明らかだった。
「宍戸。来い」
「………………」
 部活が終わるなり跡部に呼びつけられた宍戸は、頭を揺すって飛ばした汗が少し目に染みて、顰めた目元で跡部を見据えた。
 機嫌の良い声でないのは明白で、レギュラー陣の中からも無言の注目が二人に集まる。
「………………」
 宍戸は頷き、すでに背を向けている跡部の後に続いた。
 レギュラー専用の部室にはロッカー室以外にも部屋がある。
 跡部は普段ミーティングに使う一室に入り、いつもの定位置である椅子に座った。
 背後にはプロジェクター用のスクリーンがある。
「………………」
「なんだよ跡部」
 組んだ両手の指を口元に押し当てて、剣呑と睨みつけてくる跡部に宍戸は溜息混じりに言った。
 すると跡部も溜息をついた。
「肩どうした」
「………………」
 予想していたのとは少しばかり違う事を聞かれ、宍戸は微苦笑する。
 跡部は他人のメンタルの甘さにフォローを入れるような男ではない。
 いっそ気が楽だった。
「痛みはねえよ」
「そうでなけりゃ、やらせねえよ」
 見せてみろと顎で促され、宍戸は珍しく反発する気も起きず、言われるまま汗だくのウェアを脱いだ。
 その下に、いつもは着ないアンダーシャツがあって。
 それも脱いで自分の肩越しに、宍戸は自身の背面へと視線をやる。
 跡部が立ち上がって回り込み、無造作に宍戸の背中を見た。
「…………ちょ…、…おい、」
 舌打ちした跡部がいきなり隣のロッカー室へ飛び出ていって宍戸はぎょっとする。
「跡部、」
 つられて自らも部屋の外へと足を踏み出した宍戸は、鳳の胸倉を掴んでいる跡部に唖然とする。
「何の真似だ。お前」
 あいつをぶっ潰す気なのかと鳳を低く恫喝する跡部は相当腹をたてているようで、言うだけ言うと手荒に鳳を突き放した。
 他のレギュラー陣の姿はなかった。
 跡部はまるで、鳳だけがそこにいると、知っていたかのようだった。
 張り詰めた緊張感の中。
 何か声を発するのが憚られるような静寂の中。
 されるがままだった鳳の目線が動く。
 跡部から宍戸へと移ってくる。
「………………」
 ほんの数日ぶりかにまともに目線を合わせたような気になった。
 鳳は宍戸を見て、ミーティングルームで上着を脱いでいるとは思わなかったのか、大きく目を見張った。
「………………」
 宍戸も動けなくなり、ただ鳳を見返すだけだ。
「あいつの背中、お前だろ。鳳」
「背中…?」
 馬鹿、と宍戸が跡部に向けて叫ぶ前に。
 鳳が宍戸の元へ足早に歩み寄ってきた。
 跡部は後は勝手にしろと言い捨てて出て行った。
「………………」
 そうしているうちにもう。
 鳳は強張った顔で宍戸の前に立っていた。
 まるで躊躇うように。
 どこかぎこちなく、鳳は腕を伸ばしてきて。
「………………」
 宍戸の肩を掴んだ。
 そのまま引かれ、宍戸の右肩が鳳のジャージの胸元に当たる。
 自分の頭上で鳳に見られているのを感じて宍戸は息を詰めた。
 それよりもっとはっきりと、鳳が息を飲んだ気配が伝わってくる。
「………、…」
「………………」
 実際そこに痛みがないのは本当で。
 だからこそあまりの派手な痣に驚いたのは宍戸自身だった。
 宍戸の背中、肩甲骨に。
 千切られた羽跡のように青い痣を。
 生々しい血の色のように赤い痣を。
 残したそれは、鳳に裏門の門扉に背を打ち付けられた時の名残だ。
「………宍戸さん」
「……見た目だけ無駄に派手なだけだ」
 鳳の声音があまりに胸に痛くて、宍戸は力ない声で、言葉を選ぶ。
 鳳の、そんな声が聞きたいんじゃない。
 生真面目で、気の良い、真摯で、優しい男だから。
 誰より、宍戸につく傷を気にする男だったから。
 こんなもので責める気はなかった。
「………………」
 そっと鳳の胸を押し返す。
 鳳が、よりにもよって自分に似た相手を選んだ事を、今でもどう、受け止めていいのか判らないけれど。
 鳳が宍戸を切り捨てられないなら。
 宍戸から。
 今まで創ってしまったお互いのこの関係を、単なる友人であるように、戻す方法がある筈で。
 本当は、もっとうまく。
 もっと自然に。
「………………」
 でもはっきりと。
 言葉で終わりにするのは宍戸だって怖かった。
 宍戸の方が、怖かったのだ。
「……宍戸さん」
「………………」
 鳳の胸元に当てていた手のひらを逆に握り込まれる。
 震えるような長い指の感触に宍戸が顔を上げるより先に、宍戸は鳳によってミーティングルームに押し込まれた。
 鳳は後ろ手で施錠し、その音と同時に、密室で膝をついた。
 宍戸の前に。
「………長…太郎、?」
 震えているような両手が宍戸の腰を抱きこんで、薄い腹部に額を押し当て、しがみつくような強い力を込めてきた。
 そんな鳳の、色素の薄い髪の色合いを腹部に落とし見て。
 宍戸は掠れた声で呼びかける。
 自分の前で膝をついて、こうべを垂れて、逃げられたくないと懇願する力で縋りついてくる鳳を。
 問いたい思いがあると思ったが、思う側から言葉にならず、宍戸はただ愕然と見下ろした。
「…………、だ…」
「………………」
「好きだ……!」
 慟哭のように鳳は呻き、言葉を迸らせる。
「もう、絶対あんな真似しないから…!」
「長太郎…?」
「乱暴な事しない。あなたに、あんな傷つけたり、力づくで言うこと聞かせようとしたり、しない。脅したりも、しないから……だから」
 切願してくる鳳の震えは泣いているのかと危ぶむ程で、宍戸はその広い背中に手を置いた。
「…………っ……」
 乱暴をされた覚えはない。
 傷つけられた覚えも、力づくで言う事を聞かされそうになった覚えも、脅された覚えも、ない。
 何を言っているのかと怪訝に思う宍戸の唇から、しかし漏れた言葉は。
 自分自身、まるで予測していなかった、結局は限界まで追い詰められていた宍戸の心情の脆さを吐露するような言葉だった。
「………お前が…捨てたくせに」
「…………宍戸さ…?…」
「俺を、お前が…捨てたくせに」
 それなのに、何言って、と。
 もう声にならず、唇の形だけで言う。
 ただ相手を責めるだけの言葉。
 結局これだったのかと宍戸は思った。
 平気な振りをし続けた自分が、絶対に言いたくなくて、絶対に隠したかった、本当の事。
「宍戸さん…」
 何言ってるんですか、と鳳もまた、声にならない声で同じことを口にする。
 膝をついたまま顔を上げた鳳の頬に、宍戸は水滴を落とした。
 宍戸の目から零れたそれは、鳳の頬を伝って、気化した。
「…………、」
「……っ………ン…」
 宍戸からのそれを頬に受けた鳳の目が、きつく眇められ。
 宍戸は引きずりおろされるように頭を下からかき抱かれた。
 唇が合わせられる。
 舌が強く絡まる。
 互いの髪を握り締め、頭部を抱き込んで、尚口付けあった。
 生々しく呼吸が乱れ、唇が滲むように濡れた。
 ギリギリまで口付けを引き伸ばす。
 息も、もう儘ならなくなるまでキスだけをずっと。
「……どうしてそんな、」
「…………っ…、……」
 そう言いかけ、すぐに、言葉だけを使うのがもどかしいように、鳳が、ふっつりと声を途切れさせる。
 苛立ったように立ち上がり、鳳は大きなミーティング用テーブルの上に宍戸の身体を倒した。
 着衣を乱しながら、キスを繰り返しながら、その合間で鳳は宍戸への問いかけの続きを口にする。
「捨てたって何です」
「……、…ァ…」
「宍戸さん」
 鳳の荒い息にくらくらして、煽られて同じようない気遣いになっている自分にも眩暈がする。
 宍戸はもう、ただどうしようもなく鳳にがっつかれている自身の身体を、体感しながら全て鳳の目の前に晒すしか出来なくなる。
「…、…女…、…」
「…………女?」
 喉を噛まれる。
 痛みよりも鋭く、確かな甘みでもって脳裏に突き刺さってくる刺激に、宍戸は肩を喘がせる。
「つきあ……て……る、だ……ろ……」
 だから、と声を振り絞った宍戸に、鳳が全てかき消すように矢継ぎ早に言う。
「女? 付き合う? 誰がですか」
「……おまえに…決ま、…」
「宍戸さんが好きなんですよ俺は…!」
 一層耐えかねたような声で怒鳴られ、胸元に噛みつくように吸い付かれ、勢いのまま下肢を露にされる。
 こんな場所でまさかと宍戸が思っているうちに、鳳は自身の長い指を二本、宍戸の目の前で口に含んだ。
「…………ッ…」
 こんな荒いだ、雄めいた鳳を宍戸は知らない。
 そのまま、鳳のその指に。
 深く体内を抉られ、宍戸は声を詰まらせた。
 音でもしそうに押し込まれた節のある長い指の。
 生々しい感触に、何度も何度も腰が震えた。
「く……ぅ…っ…、…っ」
 我慢できない痛みではなかったが、激情につられるようにして眦に滲んだ宍戸の涙を唇で吸い取り、鳳は深々と埋めた指で宍戸の内部を探り出す。
「……っは…、…ァ…、っ」
「酷い事…してばっかりだけど…」
「…ぅ……、ぅ……っ…ふ、ぁ、」
 目元に、こめかみに、唇の端に、頬に。
 降るようなキスが繰り返される。
「宍戸さんが好きで、…好きで、…もう本当に、それだけなんだ。…俺は…」
「………長…太郎……?…」
 熱の迸るような囁きも浴びせかけられて、宍戸は必死に、切れ切れになる息をかき集めた。
「付き合ってるって……もしかして髪が長い子?」
「………、…」
「昔の宍戸さんに似てる子の事?」
 鳳の口調は、ふと思い当たった事を口にしながらも、合点がいったというよりは一層苦しげなものになっていく。
 それならどうして判らないんですかと。
 鳳は宍戸の唇にキスを繰り返しながら呻いた。
「髪の長かった頃の宍戸さんと、まるで同じ髪型にして」
「………ぁ、っァ」
「転入してきてから殆ど毎日テニス部の練習見にきてて。……それで、どうして? 彼女が宍戸さんの事を好きなのは、すぐ判る事じゃないですか」
 それでそうして俺となんて考えるんですと鳳は力を入れながら宍戸の体内から指先を引き出してきた。
「……ひ…っ…ぁ」
「…彼女が、転入してくる前から宍戸さんの事を知っていて。大会で見かけて、同じ髪型にするくらい宍戸さんの事を好きで。そういう事が、俺にはすぐに判ったから」
 だから、と鳳は宍戸の髪を撫で付けるようにかきあげた。
 そのまま手のひらの中に宍戸の顔を封じ込めるように包んで。
 耐えかねたような声で鳳は吐き出す。
「あなたに近づけたくなかった」
「………………」
「会わせたくなかった」
「長太郎……」
「それしか考えてない…!」
 ぶつけられた鳳の嫉妬は。
 宍戸に、存分に、甘かった。
「………………」
 鳳が不安になる要素が、いったいどこにあるのか。
 宍戸にはさっぱり判らなかったけれど。
「……まぎらわし…んだよ…オマエ…」
 泣き笑いの顔で言ってやれば。
 鳳は笑いもせず、餓えた男の顔で、好きだと繰り返し言った。
 何度も何度も繰り返し言った。
 そうやって浴びせかけられる言葉に打たれて、宍戸は鳳の背を抱き寄せる。
「……………宍戸さん…」
「……ッァ…、っ…ぅ」
 ぐいっと身体の中を強く通されたものの刺激に宍戸は仰け反った。
 鳳の腰が宍戸を深く拓いてくる。
「く……ん…、っ、…ぁ…っぁ…」
 宍戸の両足はテーブルの縁からは落ちているが、床につく事は無かった。
 すんなりと伸びた腿から痙攣を繰り返し、爪先が宙で跳ね上がる。
 両足の挟間には鳳の腰を挟んでいて、テーブルへと押し戻されるように幾度も突き上げられた。
「…っぁ…ア、…っ…」
「……宍戸さん」
「ぅ……、…っ、ン、っ…」
「離れないで…」
 こんなんで。
 いったいどうやって離れるのか。
 どうやれば、いったいどこが、どこから、離れられるというのか。
 宍戸は鳳の首にしがみついた。
 ここの声が外に漏れないのは知っているが、この後自分がどうなるのか判らなくてきつく唇を噛む。
 そんな宍戸を鳳の声が駄目にする。
「……好きだ」
「………、ふ、っ…ぁ、っ」
「宍戸さん」
「…、ぅ、ァ、っ、」
 耳の縁を噛むようにされながら、溶け出しそうな熱い息と言葉がぶつかってくる。
 身体のそこらじゅうで、爆ぜた感触がした。
「……………、…!…」
 開ききった咽喉から迸らせた筈の声は完全なる無声。
 大きく目を見開いている筈の宍戸の視界には、何も見えていなかった。






 何度も髪を撫でられているうち、次第、正常な呼吸を思い出していくように。
 宍戸は身体を弛緩させていった。
 睫毛もひどく重たいような気分で瞬けば、漸くお互いの視線が絡まった。
「宍戸さん」
「……………」
 それもつかの間、鳳の長い腕に、宍戸はきつく抱き締められる。
 鳳の胸に抱きこまれ、再び宍戸の視界は暗くなる。
 先程と違うのはそれでも宍戸に意識があることで。
 宍戸は無意識にだるい腕を持ち上げ鳳の髪へと指先を沈ませた。
「……どこか辛くは…?」
 真摯に気遣う鳳の声に宍戸は首を振る。
「いや……」
「すみませんでした。無茶…しました」
 痛ましげに触れてくる鳳の指先が辿っているのは宍戸の背中の跡である。
 しかし気がかりは何もそこだけではないようで。
 苦渋の滲む鳳の声に宍戸は本心から言った。
「……たいしたことねーって…」
 ふうっと息を吐いて、宍戸は自分の肩口に顔を埋めていた鳳の顔を上げさせた。
 視線が噛み合うと鳳の双瞳が引き絞られる。
「………宍戸さん」
「……もうそういう顔すんなって」
 もういいなんて二度と言わねえよと鳳へと囁くように宍戸は口にした。
 これが鳳を激情させる言葉だったことは二度と忘れない。
 傷つけ、追い詰める言葉だという事を。
 そしてもう二度と言わない。
「………お前さ…本当に彼女とお前が付き合ってるっていう噂知らなかったのか」
「知りませんそんな事」
 怒っているように真剣に鳳は言った。
 宍戸でさえ耳にしたあれだけの噂を、まさか当の鳳がまるで知らないでいたという事には正直宍戸も驚いたが。
「彼女は……俺の事も知ってたから。そういう意味で気安く話してたけど、言ってるのは皆あなたのことで」
「…………………」
「初めて見た時に、彼女が宍戸さんの事を好きなのは俺にはすぐに判ったし。…それでも、確かめたい気持ちもあって、最初に話しかけたのは確かに俺ですけど。あれだけ宍戸さんの話しかしてないのに付き合ってるなんて噂がたってるなんて思いもしなかった」
「長太郎…」 
「テニスにも詳しかったし。ミーハーな所がなくて、本当に、ちゃんと、宍戸さんが好きだって。そういうのを聞いて、絶対に宍戸さんと接点持たせたくないって思ったんです」
「…………………」
「俺は……宍戸さんの事しか考えてない。どうしても、あなたをとられたくない。それだけだ」
「………馬鹿か。誰が俺を取るってんだ」
 鳳は微かに笑って首を横に振る。
「宍戸さん」
「………………」
 丁寧で優しいやり方で抱き締められ、二人でほっと息をついくような瞬間を共有してから。
「……そういや……着替え…」
「宍戸さんは出ないで」
 俺が悪いんですからと宍戸を宥めるような声で鳳は微苦笑する。
「俺が取ってきます。ここにいて下さい」
 扉を開ければすぐにロッカー室だ。
 暴走を認めているのは何も鳳だけではない。
 宍戸も相当な羞恥心を抱えながら、扉の向こう側の事を考えると頭が痛かった。
「でもよ…長太郎」
 どうせなら一緒に、と腹をくくった宍戸に軽くキスをして。
 ここにいて下さいと鳳は言った。
「見られたくないんです」
「………いつもさんざ見てるだろうが」
 ほぼ毎日ここで着替えをしているのだから今更な話だと宍戸は思うが、鳳は譲らなかった。
 もう一度両腕で抱き締められ、宍戸はミーティングルームに残される。
「………………」
 鳳の背を見送り、宍戸は椅子に座ったまま件のテーブルを気恥ずかしいとも気まずいともつかない思い出見つめた。
 鳳の行動はつくづく紛らわしいものだった。
 それと同時に、結局事がここまでこじれた原因は、やはり自分の抱えた嫉妬心のせいでもあると宍戸は認めない訳にいかなかった。
「………激ダサ」
 溜息と共に吐き出す。
 良いけど。
 どうでも、ではなくて。
 それでも。
「……それでもいいさ」
 それだけ、好きだった。
 鳳のように言葉を尽くして伝える事は出来ないけれど。
 不慣れで不恰好な嫉妬を、誤魔化さずにそうと認めてしまえるくらいに、宍戸だって好きだった。
 一つ年下の、あの男の事が。
「宍戸さん」
「……………」
 扉が開いて、戻ってきた鳳の顔に一瞬眩しいように目を細め、宍戸は深く息をつく。
「……なんか言われたか」
「いえ…誰もいません。代わりにこれ」
 鳳に手渡された紙片を受け取った宍戸は、そこに書かれている文字を目で追って、思わず口にもし、ゆるやかに日常へと戻っていくのを感じた。
「部屋は隅々まで完璧に片付けておけ」
「……部長の字ですね」
 赤くなるしかないような気持ちでお互いを見つめた。
「あの。宍戸さん。裏に」
「…裏?」
「はい。ジロー先輩の字かと思うんですが、それはどういう?」
 言われるまま宍戸は紙片を裏返した。
 書かれていたのは更に短い一文だった。
 確かにジローの字で。
「………………俺の涙を返せー!……か」
 呟いて、宍戸は、笑う。
 ゆっくりと。






 制服に着替えて、部室の掃除をした。
 荷物を持って、肩を並べて帰途につく。
 どれくらいぶりだろうかと、何度なく鳳を振り仰ぐ宍戸を、同じ回数、鳳もじっと見つめてくる。
 何度も目が合って。
 言葉を交わす訳ではないけれど、その都度甘く胸が詰まった。
 いつも別れる道で。
 いつものように気楽に手が振れなくて。
 それどころか宍戸の手は鳳の手に包まれ指先に熱のこもった口付けを受けていた。
「………………」
 長い睫毛を伏せて宍戸の手に口づける鳳を見上げながら、もう少しだけ一緒にいたいと宍戸も思う。
「長太郎。コンビニ付き合え」
 ムースポッキーをあるだけ全部買う。
 友人のあの時の涙の代償に見合うだけ。




 この男と。

 鳳長太郎が、時々青い顔をしている。
 突然動きを止めて、何か痛みに耐えているようなきつい顔をして、そのくせ人から気遣われる言葉にはやんわりと首を振り、大丈夫です、とだけ言った。
 それ以上は何をどう聞いても何でもありませんと柔和な笑顔にかわされる。
 笑顔を浮かべている分、判る相手には尚の事それが痛々しい。
 絶対何もない訳がないと判るから余計にだ。
「おい宍戸! あいつ、やべーぞ! 鳳!」
「………………」
 放課後、校舎の渡り廊下で突然小柄な向日岳人に胸倉つかまれ詰め寄られ、宍戸はうんざりと溜息をついた。
 猪突猛進。
 見目が可愛らしい分、向日のこの勢いは強烈だ。
「明らかにどっかおかしいけどなあ、俺らが聞いたとこでは何にも言わへん」
 お前がどうにかしてやらなと眼鏡を中指で押し上げて、忍足もしたり顔で提言してくる。
「………あーうるせーなもう…」
「うっわー…! 聞いたか侑士! この横暴者の言い草!」
「ああ、しっかりと」
「宍戸サイテー! お前にあんだけ懐いてる後輩にそういうこと言う?」
「………っぐ、……どっちが最低だ…! おい、勢いで首絞めてんじゃねえ!」
 宍戸は向日の手を無理矢理胸倉から外して、くしゃくしゃになっているであろう制服のシャツの前合わせの釦をいくつか外した。
 渡り廊下の窓辺に寄りかかり、距離をおいた友人達を睨みつける。
「全く毎日毎日どいつもこいつも……」
 何で俺が責められなきゃなんねーんだよと毒づく宍戸に、氷帝のダブルス1は揃って声を上げた。
「鳳の事はお前だろう」
「…………訳わかんね……」
 実際、ここの所宍戸が鳳の事でこのような言われ方をされる日が続いている。
 原因はてめえかと、はなからそう決めてかかってきた跡部とは、昨日盛大な言い争いをしたばかりだ。
「あのよ……あいつがお前らや友人連中に心配させないように気を使って隠そうとしてる事を持ってるとしたら、それをこの俺に言うと思うか?」
「うっわ…! 何なんだそれ…! どういうこと?!」
 騒ぐ向日に細い眉を顰めながら宍戸は続けて言った。
 今の鳳の異変は、誰がどう言おうと宍戸が原因ではないし、寧ろ他の誰よりも宍戸にだけは隠したがっている鳳の気配を気付かない連中ではない筈だ。
「あいつが今おかしいの、俺が原因じゃねーし。どっちかっていうと俺には尚更隠したいんだろ。お前らが聞いたって言わないくらいなら」
「だから、お前になら言うかもしれへんで?」
「あいつは甘えただけど、俺に泣き付くような真似はしねーよ。寧ろ隠すだろ、俺には絶対な」
 だいたい鳳をどうにかしてやれと人から言われるのは腑に落ちない。
 あいつをどうにかしてやると決めるのは自分だ。
 そう続けた宍戸に忍足が真顔で言った。
「…はー…氷帝で岳人の次に男前やな宍戸」
 そんな事を言いながら可愛くてたまらないという目で向日を見る忍足の言葉にいよいよ宍戸は脱力する。
「岳人。もうほっとこな。多分大丈夫や」
「そっか? 侑士が言うならそうなんだろうな。よし、判ったぜ」
 散れ、という様に宍戸の手が空を払い、二人を促す。
 疲れきった表情の宍戸になどもうお構いなしで、忍足と向日は背を向けて肩を並べて歩いて行った。
「………ったく…」
 どっと疲労感が募る。
 宍戸は小さく吐き捨てて、二年の校舎へと足を向けた。
 元々そのつもりでここを歩いていたわけだ。
 今日は部活がない。
 今日が最適だ。
 そう思っていた宍戸はどうも妙な茶々が入ったような気がして、不機嫌な顔のまま校舎を移り階段を上る。
 踊り場は壁いっぱいにとられた大きな窓から差し込む光でひどく眩しかった。
 目を瞑り、片手を翳して前方を振り仰いだ宍戸は、そこに見慣れた男を見つける。
「…………………」
 普段ならば、どこで会ってたとしても、宍戸に気付かない筈のない相手。
 今は階段の手すりに手を当てたまま、踊り場で、自身の足元を見下ろすようにしてじっとしている相手。
「…………………」
 宍戸は眩しい視界の中から徐々に姿がはっきり見えてきた後輩に静かに近寄った。
「長太郎」
「……、…宍戸さん?……あれ、どうしたんですか?」
 宍戸の呼びかけにすごい勢いで顔を上げた鳳は、宍戸を見て綻ぶように笑った。
 長い手足を持った長身でありながらも、人に全く威圧感を与えないやわらかな所作で。
 鳳は姿勢を正して宍戸を見つめてくる。
「…………………」
「………あれ…宍戸さん怒ってる…」
「…………………」
「俺の…せいですね? その顔は。俺何かしましか?」
 その顔ってどんな顔だよと宍戸は内心思ったが、鳳の読みは全くもって正しいので。
 憮然と鳳を見据える。
 鳳は徐々に慌ててくる。
「すみません宍戸さん」
「………訳も判ってないで謝んじゃねーよ」
「はい、だから訳が判らない事をまず謝りたくて」
「……お前なあ…」
「すみません」
 茶化すでもなく鳳は頭を下げてきた。
 その時に視線だけは伺うように宍戸へと残すから。
 どこの子犬の上目遣いだと宍戸は溜息をつく。
「そういう顔すんなよ……またお前、俺の犬扱いされんぞ」
「いいんですって。それは別に」
 鳳が笑って言う。
「宍戸さんが好きです」
「…………………」
「だから犬でも何でもいいです。……ああ、でもみんなちょっと誤解してますよね」
「誤解?」
「犬は犬でもですね……ペットじゃなくて、俺は番犬になりたいです。宍戸さんの」
「…………………」
 人懐っこくて、でも宍戸には別格な程懐いてきた鳳は、伸ばした両手で宍戸の頬を軽く包んだ。
「長太郎?」
「…日に透けて、綺麗で」
 はあ?と宍戸は呆れ返って鳳を睨みつけた。
 どっちがだよと言い捨てもしたが、鳳がそれを聞いた風はない。
「…………………」
 日の光に溶けそうな淡い髪の下から。
 蜂蜜を煮詰めたような茶色の目で。
 見つめられて。
 頬に宛がわれている大きな手のひら。
 胸元が広くなって、大きくなって、抱き込まれると感触に異変を感じるくらいに、急激に。
 近頃ひどく大人びてきた年下の男を宍戸は見上げて告げる。
「長太郎」
「はい」
「お前、成長痛、相当激しいんじゃねーの」
「…………………」
「しらばっくれたら蹴り落とすぞ」
「怖いなあ……宍戸さん……」
 やんわり苦笑した鳳は、しかし宍戸が考えていたのとは違って、あっさり認めた。
 実はそうなんですと宍戸を見つめて苦笑いを深めた。
「………随分簡単に認めたな。隠しまくってたのに」
「出来れば隠したいですけど。でも宍戸さんに嘘はつけないし」
 宍戸は鳳の足に目線をやった。
 大丈夫です、と鳳の指先が宍戸の頬を軽く滑る。
「どうして判ったんですか」
「お前があんな顔して四六時中固まってたからに決まってんだろ」
「いえ…そうじゃなくて…成長痛だってどうして?」
「…ああ。俺にも覚えがあったからよ」
 宍戸の最初の過度な成長期は、小学校の高学年に上がるや否やの頃だった。
 いきなり身長が伸びた。
 それと同時に毎夜両足を酷く鈍く疼かせた成長痛がやってきた。
 病気ではないと判ってはいても、時には医者に行かざるを得ない程で、いつまでこんな事が続くのかと内心怯んだこともあった。
 宍戸の成長痛は、そうやって数ヶ月宍戸を痛ませたが、気付くと無くなっていたというほど引き際は呆気なかった。
 あれっきりどうも身長が止まっている気がする。
「………何してんだ長太郎」
 足の側面を鳳の手に軽く撫で上げられ、欲の滲まない所作と判るだけに突っぱねる事も出来ず宍戸は怪訝に鳳を見やる。
「痛かったですよね…」
「……そりゃお前だろ」
 もう今はそこには無い、かつて痛みのあった場所を、鳳が宥めるように手を宛がう。
 その痛ましい表情に。
 逆に、今鳳が感じている痛みが判るような気がして宍戸は鳳の胸元に額を当てた。
「………、宍戸さん…?」
「何か気がまぎれるような事とかねーの?」
「いいですか?」
「何がだよ」
「抱き締めても?」
 言い終わるなり、鳳の両手が宍戸の背中にまわった。
 加減した手で、しかし深く抱きこまれて。
 宍戸は身包み鳳の腕の中に閉じ込められる。
「………こんなんで楽になれんのか」
「充分です」
「嘘つけよ」
 溜息をつきながら、宍戸は自分の方から鳳に擦り寄った。
 身体を全部密着させる。
「………宍戸、さ…?…」
 困惑の入り混じる鳳の声に宍戸は見えない場所で笑う。
「もう一度言ってみな」
「………………」
「本当にただこれだけで紛れんのか?」
「……気持ちの問題なんですって」
 力の抜けた低い声。
 つけ込むのも、そそのかすのも、そう難しい事ではないと宍戸は思う。
「言えよ。長太郎。本当にもう痛くないのか?」
「宍戸さん」
 焦れたように、鳳の腕に初めて本気の力がこもる。
 痛いくらい抱き締められて、宍戸は穏やかに言った。
「最初からそれくらいしんどそうな声出してりゃ俺だってこんな真似しねーよ」
 俺の前で作り笑いすんな阿呆、と素っ気無く告げて。
 そして宍戸は小さな声でひとりごちる。
「………ったく……まだでかくなんのかよお前」
「親にも言われました」
 くすりと小さく笑った鳳の吐息が首の側面にかかって、宍戸は苦しい体勢から腕を伸ばす。
 鳳の髪をかきあげる。
 抱き締められたままで。
「夜、結構辛くて寝れないんだろ? 俺もそうだった」
「………すみません」
「今度のそのすみませんの理由は何だ」
「宍戸さんに、俺の事で何か気にかけさたりするような事、何もないと良いと思って」
「よくわかんねーな…お前はホント…」
 宍戸は鳳の腕の中で吐息を零しながら尋ねる。
「全部無くはしてはやれないけど、せめて誤魔化してやろうか?」
「………………」
「言ってる意味判んねーか?」
「いえ、判ります……でも本当に……こうしてるだけでも痛み忘れますよ」
「これだけでいいのか」
 普段どうでもいい事は甘え上手なくせに肝心な時はこれかと宍戸が思っていると、違います、と鳳が笑ったのが振動で伝わってきた。
「意味はちゃんと判ります。誤魔化しにきて下さい。これから俺の家に」
「…………………」
「本当はもう一日中、骨だか肉だか痛いままで……気が紛れなくて寝れないのも、情けないけど本当。だから宍戸さんが来てくれたら嬉しいです」
 宍戸はちょっと前まで自分が思っていた事を、粗方撤回したい欲求にかられる。
 肝心な時に甘えられない男どころか、肝心な時には一切の加減も無く甘えてくる男だったらしい。
 一つ年下のこの男は。
「でも今こうしているのでも、ちゃんと楽になってます…」
「そーかい……」
「今いる宍戸さんは、昼用の宍戸さんだから」
「………………」
「夜用の宍戸さんも貰っていいですか」
 しまいに宍戸は笑い出す。
「薬は大概一日三回だろ」
 掠めるように鳳の唇にキスをして。
 宍戸はするりと鳳の腕から離れた。
 名残を惜しんで差し伸べられた鳳の指先に軽く触れてやる。
 指先だけ微かに触れ合わせて。
「鞄取りに戻る」
「はい」
「三年の昇降口で待ってる」
「はい」
 鳳は笑っていた。
 やわらかい笑みだ。
 まだ身の内に痛みがあっても、宍戸がいることで宥めらた穏やかさで、やわらかく、笑んでいた。




 指先が離れる。
 背を向けあう。
 指切りをといた後のような、約束の温みが。
 胸の内から気持ちを揺らす。

 早々に収集のつかなくなってしまった大量のチョコレートは、各々管理しろと顧問から配られる恒例の紙袋の中に各自で収めた。
 ブライダル用とおぼしきマチの広い無地の手提げ袋がチョコレートでいっぱいになって、氷帝学園テニス部のレギュラー用の部室に無造作に置かれている。
 今年のバレンタインデーは土曜日だった。
 学校は休みだが部活はあるので、部室がチョコレート置き場になるのは例年通りの光景である。
 すでに部を引退している三年生も、この日ばかりは部室で顔を合わせる事になった。
「しっかしさー、不思議だと思わね?」
「何や?岳人」
「チョコレート。袋に名前書いてなくてもさ、どの袋が誰のかだいたい判るじゃん」
 向日岳人と忍足侑士のダブルスコンビはチョコレートの詰まった幾つもの袋を横目にして言った。
「桁違いに量多いの抜きにしたって、跡部宛てのって無駄にキラキラして目立つじゃん。箱からして、ピカーンって。いちいち眩しいいんだよ反射して。それが一個や十個じゃないんだから」
「ええとこの高級チョコレートしかないしな」
「そうそう。しかもありゃ貴金属なのか?指輪?チョコと一緒についてる箱とかがまた眩しいだろ」
「オモチャで溢れてんのはジローか?」
「そう。ジローの。チョコよりオモチャのが多いんだ。あと枕とかさ。嵩張って仕方ねえの。それに比べて俺のは何でこうコンビニチックなチョコばっかなんだろうな?チロルチョコの数なら俺きっと氷帝ナンバーワンだよな」
「かわええやん」
 片手の手のひらに頬を乗せ忍足が笑うのを、向日は少しだけ赤くなって押しやった。
「………ナンバーワンっていえば、……ある意味鳳なんだけどさ」
「うん?」
「あいつのチョコレート。ほぼ100%手作り」
「つまりほぼ100%本命ってことかいな」
「そういうこと」
 まあわかるけど、と二人は顔を見合わせて大きく頷き合う。
 数でなら間違いなく氷帝トップは跡部だが、本命度でいうなら鳳はその上をいくかもしれない。
 とにかく学年に関係なく、人当たりがよくて優しくて、礼儀正しく親切で愛想がいい。
「…………でもあいつ」
「……うん」
「鳳、なんか泣きそうじゃね?」
「せやな。あれ時期に泣くで」
「……………侑士。どうにかしてやれよ」
「どうにか言われても」
 氷帝テニス部レギュラー用部室は、設備同様、広さも自慢である。
 同じ部室内でありながら、忍足と向日の会話が聞こえない程度の距離にいる鳳長太郎の、しかし表情は、そこからでも充分見てとることが出来て。
 二人はどうにも困ってしまった。
「気の毒になあ…」
「鳳、今日誕生日やのになあ…」
「……しかたねえ!俺がちょっと行って、宍戸に一言、」
「やめとき。岳人。あれ邪魔したら敵さん二人になるで?」
「………うう…、…だよなあ……」
 二人がこっそり盗み見た先には、元部長の跡部景吾と、引退後からはまた髪を伸ばしているらしい宍戸亮が、一見すると友好的には到底見えない顔で向かい合っている。
 宍戸が手にしたノートに視線をやった跡部が呆れた身振りをしていて。
 それに宍戸が怒っているらしいので。
「……宍戸の奴、またきっと二軍の奴らから、なんか頼まれたんだぜ」
 宍戸は現役時代、一度だけレギュラー落ちした事があった。
 僅かの間ではあったが二軍にいて、その時に。
 宍戸は二軍の部員達に桁外れに懐かれ慕われた。
 目つきも言葉遣いも悪かったが、実は宍戸はひどく面倒見が良い。
 二軍でもくさることなく誰よりも練習していたし、言葉は荒いが的確なアドバイスをすることもあって、最初こそ敬遠されていたようだったが瞬く間に一軍にいた時以上の信頼を集めていた。
 氷帝には副部長は存在しないのだが、恐らく当時の宍戸のポジションは、他校でいうならば副部長だったのだろう。
 数百人のテニス部員を束ねる絶対的カリスマである跡部相手にも宍戸はまるで構わない所があったから、そういう面でも揉め事やら相談事やらは宍戸を経由する事が多かった。
 呆れたり怒ったりしながら、一応全ての事に耳を傾け行動する宍戸は、それまでは寧ろ距離をおいていたような跡部と、必然的に会話する機会が増えていた。
 けれどもその事が、今鳳の表情をかすかに歪ませている原因というわけではなかった。
 忍足と向日が言うように。
 鳳は、跡部と話す宍戸を見て、いわゆる泣きそうに見える顔をしているわけではないのだ。
 全ての原因は、宍戸の行動、それのみにあった。







 大人っぽくなった。
 鳳は、最初宍戸がひどく痩せた気がして心配したのだが、よくよく見つめれば怜悧になったのだ。
 切れ長の目も、細い顎も、真直ぐな首も。
 ひどく綺麗だと思った。
 ほんの少し会っていなかった間に伸びた黒髪は、見慣れぬ長さで額とうなじにかかっている。
 長いか短いかしか知らなかったから。
 伸びかけの髪から覗いて見える宍戸から目が離せなくなって。
 鳳は少し弱った。
「………………」
 一見怒ったような顔で跡部と話している宍戸が、実はその表情ほど不機嫌なわけではないという事は判るのに。
 今宍戸が考えている事が鳳にはつかまえられない。
 氷帝の高等部へのエスカレーター進学とはいえ、三年の宍戸は多忙で、思うように会えないでいた一ヶ月近く。
 それでも電話やメールは交わしていて、その時には全く考える事もなかったこの焦燥感。
 きつい目で甘く笑う、荒い言葉で優しく宥める、そんな宍戸は、今、跡部と何事か話しながらチョコレートを食べている。
 バレンタインに、宍戸が貰ったであろうチョコレート。
 初めは気にするようなことではないと思っていた。
 ミントガムが手放せない宍戸は、割合にジャンクフード好きなのだ。
 甘いものも好んで食べる。
 だから貰ったチョコレートを食べる事にたいした意味はないと、鳳は思おうとして、思い切れず、深みにはまっていく自身の後ろ暗い感情をどんどん持て余していく。
 あれはどういう意味なんだろうかと溜息がもれそうで。
 それを噛み殺すので手一杯になっている。
「…………………」
 なにも意味なんかない。
 ただ宍戸は、貰った自分のチョコレートを食べているだけ。
 そして鳳は、それを見ているのが苦痛なだけ。
 嫌なだけ。
「…………………」
 きちんと食べるんですね、チョコレート、と宍戸の唇ばかり見つめて鳳は思った。
 何だかひどく卑屈な気分になってくる。
 氷帝に入学してから、バレンタインに出回る大量のチョコレートには、いい加減見慣れた感がある。
 テニス部には、とにかく一人桁外れな量を貰う跡部を筆頭に、尋常な数ではないチョコレートが集まるのだ。
 そのあまりの大量さに、どこか感覚がずれてきてしまって。
 山と積まれたチョコレートに込められている意味など、まるで考えられなくなってしまう。
 その筈なのに。
「…………………」
 宍戸がああやって無造作にチョコレートを口に運んでいるのを見ていると、急激に。
 ただのチョコレートが、バレンタインに女の子から宍戸に送られたチョコレート、に変わっていって。
 それを食べている宍戸に、鳳は無闇やたらな焦燥感が募ってきてどうしようもなくなった。
 どうして食べるの。
 俺の前で?と鳳はとうとう溜息を零した。
「…………………」
 久々に部室で宍戸と顔を合わせて、この後一緒に帰ることになっている。
 跡部との話が終わるのを待っている鳳は、次第に自分でもどうしようもなく煮詰まってきてしまって、普段殆ど体験することのない苛々が募って自分自身を持て余す。
 会えないでいた時の方が、まだマシだなんて考えるまでなってしまって。
 宍戸の事が、好きとか大事だとか思う以上に、何か酷い言葉をぶつけてしまいそうで歯を食いしばる。
 腹が立つというよりは、泣きたいような気分だった。
 そんな自分が嫌だと鳳は思った。
 今日は誕生日で、ひとつ歳を重ねた筈なのに。
 完璧に子供還りしてしまったかのような自分の幼稚な独占欲に、鳳はとうとう宍戸から目を逸らせた。
 そうするしかなく、机に顔を伏せてしまった。







 気づかせたいなら叩けばいいのに、へんに優しい癖のある手は、鳳の後ろ髪をそっと撫でてきた。
「長太郎。待たせたな」
「…………………」
 顔をあげた鳳は、寝ていたつもりはない筈なのにと、いつの間にか二人きりになっていた部室に気づいて僅かに戸惑った。
「………先輩達は?」
「帰った。悪かったな、長いこと」
 顔を机に伏せて悶々と苛立っている間に、跡部も忍足も向日も居なくなっていた。
 鳳の髪に触れていた宍戸の指が動いて、空気も動いて、甘いチョコレートの匂いが後からついてくる。
「…………………」
 目つきがきつくなってしまったのを鳳は自覚していた。
 それをそのまま宍戸に向けている事も。
 宍戸が微かに目を見張る。
「長太郎」
「…………………」
 鳳が宍戸の事を強い視線で直視しても、宍戸は驚きはしないし、怒りもしない。
 優しいことも言わないし、不安がったりもしない。
 問いかけなのか呼びかけなのか、それとも諌めの声なのか、区別出来ない声音で名を呼んでくるだけだ。
「………女の子から貰ったチョコレート、食べるんですね。俺の前で」
 みっともないと鳳自身が思うくらいの口調は、ひどく嫌な言い方で耳にこびりついて聞こえた。
 久しぶりに顔を合わせて、それなのに。
 こんなこと言いたくない。
 鳳は、いい加減泣きたい気になった。
「長太郎」
「…………………」
「チョコレート味。食いたくねえの」
「…………………」
 え?と声にはならなかった鳳の問いかけを拾うように、宍戸は机に片手をついて、鳳に顔を近づけてくる。
 薄い唇から甘い匂いの吐息が鳳の名前を包んで零れてくる。
 バレンタインだから、チョコレート。
「…………………」
 鳳の唇を掠めただけの接触。
 閉じないままの真直ぐな宍戸の視線の中に、自分に向けられた優しげな和らぎを見つけて、鳳は息を詰めた。
 手が伸びた。
 両腕で、力づくで、抱き締めていた。
 縋りつくように。
「…………………」
 立ち上がった反動で後ろ側に蹴りだしてしまった椅子が倒れて大きな音をたてる。
 でもそんなこともどうでもよくて、鳳は宍戸の薄い背中を更に引き込んで、食いしばる歯を解いて言った。
「…………頭、どうにかなるかと思った……!」
 叫びと呻きの入り混じったような声が出た。
「……………バァカ」
 大袈裟な奴だなと続いた宍戸の声は掠れていて、多分自分の抱擁のせいと判ってはいたが鳳は手の力を緩めてやれない。
「宍戸さん………」
「…ん、………まあ……悪かったよ…一応」
「…………え…?」
 思ってもみなかった事を言われた気がして問い返した鳳のうなじに宍戸の片手が宛がわれる。
 髪の生え際から差し込まれた指が、鳳の後ろ髪を掴む仕草の甘さに四肢を束縛する腕の力が一層強まる。
「宍戸さん…?」
「………お前に、あんな顔させる気はなかったって言ってる」
 誕生日なのにとおおよそ普段の宍戸のイメージからは予想もつかない事を言われて鳳は身体を固まらせてしまう。
「宍戸さん…」
「……うまくは…出来ねえよ。…お前が俺にするみたいには、出来ねえけど」
「…………………」
 宍戸から鳳の背へと、今度は両腕が一度に伸ばされ、抱き締められた。
「…………………」
 胸にぴったりと収まって、しかしその薄くて軽い、でも強くて確かなものの方から抱き締められてもいる。
 宍戸の両手が鳳の首にやわらかく絡んでくる。
 鳳の胸元に治まるように身体を寄せているその身体を、こんなにも強く抱き締めている筈が、全て守られ逆に抱き締められていると思わせるような、甘く幸せな感触の大切な人が鳳の腕の中にあった。
「宍戸さん」
 語尾は舌と一緒に直接宍戸の口腔に含ませた。
 重ね合わせた唇に深い角度がついて、擦り寄っては拓かせた熱っぽい粘膜はチョコレートの味がする。
 からめた舌ごと、もう本当にその柔らかさを飲み込みたくなるような気でむさぼって。
 がっついた息もなすりつけて、甘みを放つ舌を執拗に奪った。
 宍戸の舌から甘みを感じるたび、ゆっくり頭の中が溶けていく。
「…………く………ん」
 宍戸の両手が鳳の制服をつかんでくる。
 胸元を、正面から。
 震えている。
 苦しいのかもしれない。
 それでも鳳は宍戸の唇に固執した。
「………ん………ぅ……っ…ん、」
「…………………」
「ふ………ぁ…っ………」
 両手で小さな頭を抱え込んで口づけて、胸元にあった宍戸の指が痙攣じみて震えて、もがいて。
「………っ…ン…」
 一息に落ちた。
「………………宍戸さん…」
「……は……、……ぁ……」
 頬に唇をすべらせて、てのひらの中の小さな後頭部を丁寧に指先で包み直す。
「宍戸さん」
「…………、ん……だよ……」
「ほんとにチョコレート味……」
 おいしかったと吐息で伝えると、宍戸は眦の赤くなった綺麗な目できつく睨んできた。
 鋭い視線が真直ぐに宛がわれて。
 悪態か罵倒のひとつでもつかれるかと、それすらも甘ったるい気分で笑んで待ち受ける鳳に、宍戸は濡れそぼった唇を動かして囁いてくる。
「この程度で満足かよ…」
「………我慢してるんです。煽らないで」
 何の準備も無く、ましてこんな場所で出来るわけもない行為を、本当は自分がどうしようもなく望んでいると判っているから。
 一月以上触れていなかった身体に、すでにキスが暴走しかけていることも判っているから。
 鳳は苦笑いで誤魔化すように、再度唇を合わせた。
「……………、……」
 すると今度は宍戸の方からゆるく唇がほどかれる。
 抗える筈もなく、鳳はそこに舌を差し入れた。
 普段ミントの香りのする冷たい口腔が、今日は甘い匂いであたためられている。
 荒いでいく呼吸が生々しくなってくるがどうしようもなかった。
 息がきれるほど口付けあって、舌がからみあうごとに湿った音がたち、息が上擦って声のようになる。
「…………宍戸さん……」
「………ん………、……ぃ……」
 微かに頷かれただけで加速した欲情に歯を食いしばるようにした鳳の隙をさらうように宍戸は膝をついた。
 ベルトに宍戸の手がかかって鳳は思い出したかのように躊躇する。
「……ちょ、……宍戸さ…何して」
「………黙ってろ、ばか……」
 仕草が荒っぽくて、凶暴な目で睨み上げてきたけれど、通された口腔は濡れそぼって潤んでいた。
「…………、……」
「………ン……っ……」
 闇雲に突き上がってくる刺激に鳳は息を詰めて机に片手をついた。
 膝立ちになっている宍戸は前合わせを外して少し押し下げただけの鳳の制服の生地に顔を埋めて睫毛を伏せた。
 ず、と奥まで通されて、鳳はまた言葉を飲んだ。
 吸い付いてくる粘膜の柔らかさに、宍戸の唇の中激しく形が変わる。
「…っぅ…、…ッ…………」
「宍戸さん………、」
「…………く……ふ…、っ、」
「……ごめんなさい……苦し…?…ですか?…やっぱり止めま…」
「ん、………ん…」
 そのままで首を微かに横に振った宍戸の唇は小さくて。
 手ひどく押し広げその口いっぱいに埋まってしまうのもいい加減にしないと、とは思っている。
「………っ……ぅ…」
「……………、……」
 喉に突き当たるまでひどくして、と思っているけれど。
 見下ろしている宍戸の表情にどうしようもなく煽られて、鳳は引くに引けなくなっていた。
「宍戸さん……」
 そっと宍戸の後頭部を撫でると、その熱っぽい所作に安堵したように宍戸が目を瞑るのが堪らなかった。
 指先で摘まめてしまう細い顎を撫でて、見ている以上に触れてみれば、そんなに小さな唇を押し広げてしまっているのが信じがたくもなってくる。
「…、ん…、…っ……、ん、…、っん」
「宍戸さん…、…」
「………っ……く……ん………っ…」
「ね、………あの………宍戸さ……」
「……………、…ぅ…、…っ、」
「……それ……止めてください……もちませんから……」
「……っ…ん…っ…っ…ぅ………」
「宍戸さん…、」
「ぃ……、…っ………」
「………駄目ですよ…」
 すきまなく押し広げてしまっている宍戸の唇から、次第に含みきれなくて零れ落ちていく口液がしとどに滴り落ちて宍戸のシャツを濡らしている。
「ほんとに、………ね、宍戸さ……」
 宍戸のしようとしていることは鳳にも判っている。
 いい加減どうしようもなくなっているのは事実だったが、だからこそせめてこのままということだけは避けたい。
「…………出来ませんってば……そんなこと」
「…、………は…、っ…」
「………ッ…、…」
 熱い息と一緒に宍戸の唇から抜き出され、鳳が安堵と苦痛の入り混じった熱っぽい吐息を零す。
「誕生日…だろ……」
 掠れた宍戸の声に視線を落とす。
「それくらい…言えよ……」
「…、……っ………」
 飲め、くらい、と途切れ途切れに言いながら再び絡みついてきた舌の感触にも言葉にも腰が震えて鳳は完全に理性を奪い取られてしまった。
「……ッ、ぅ、ン…っ………」
「………………、………」
 最初のを飲み下された喉の音が生々しく耳について。
 鳳は、二度、三度、と続け様に宍戸の喉を直接それで穿った。
「……………ふ……、…っ…」
 鳳が腰を引く。
 繋がっていた箇所が離れても、滴り落ちるものは何もなかった。
 全て宍戸の中に流れ落ちていった。
「宍戸さ、………」
 ぐったりと息を吐き出した宍戸の肩を抱きながら鳳も膝をついた。
 ひどく無理をさせたような気がして鳳が伺うように宍戸を覗き込むと、宍戸は視線を逸らせ赤くなって何事か毒づいた。
「………気持ち悪く…ない?…大丈夫ですか? 苦しいとかは…?」
「……バーカ………だいじょ…ぶに…きまってんだろ…」
 伸びかけの前髪をかきあげながら、鳳はあいた左手で宍戸の肩を抱いた。
 右手が宍戸の前髪から頬に移る。
 包みこむ。
 横向きで、鳳は真っ赤になっている宍戸の唇を塞いだ。
「………長太郎……」
 苦しくないようにしたキスの合間に呼びかけられて、鳳はすぐに唇を離した。
「宍戸さん?…なに…?…」
「これ以上は……」
「……はい」
 判ってますと鳳が苦笑して頷くと、何故か宍戸は怒ったような顔をした。
 したくないとは言ってないだろうがと凄まれて、一瞬聞き違いかと鳳が呆気にとられているうちに。
 宍戸はきつい目で睨み上げてきながらも、鳳の胸元に凭れかかるように身体を預けてきた。
「へたに手出されるほうがきついんだよ……」
「…………………」
 残りは全部持って帰って食え。
 つまみ食いすんな。
 鋭くも、掠れた甘めの声で宍戸は鳳にそう言いつけた。
「…………………」
 つまみ食いの一言で済ませてしまうにはあまりにあれは濃厚すぎると鳳は思ったが。
 まだチョコレートの匂いのする宍戸の指先に軽く口づけながら、はい、と従順に頷いた。







 鳳の部屋、ベッドの上で、チョコレートの山どころではない濃密な甘さで感情を煮詰めあった後。
「………宍戸さん。ホワイトデーは何味の俺でお返しすればいいですか?」
 うとうとと眠たげな宍戸を抱き締めながら、鳳はその耳元で囁いた言葉で宍戸から手荒な肘打ちを食らわされた。
 そうとはいえ。
 胸の内いっぱいに注がれた甘みある感情が無くなってしまうような事はない。

 背が高くておっとりしていて、笑顔はやわらかくて物言いも丁寧で。
 人懐っこいけれども、礼儀正しい。
 尊敬してます、大好きです、とそれはもう殆ど盲目的に懐かれて懐かれて。
 たまに邪険してみても、腹をたてるでもなく根気強く後をついてきた。
 もっとそっけなくあしらってみれば流石に傷ついたような顔をして落ち込んで。
 その落ち込みぶりがまたすごいから、結局いつも最後には、甘やかして、機嫌をとってやりたくなる。
 それが日常のことだった。
 多分、そのうち、こうなる予感もあったから。
 宍戸は驚きはしなかったが、それにしたって。
 鳳からのキスを宍戸が拒まずに受けた後、あの鳳が、ここまで暴走するとは。
 宍戸にとって、それはまるで予想外のことだった。




 学年の違う宍戸と鳳が、その日はそれぞれ4時間目が自習になって、他のクラスが授業中の静かな校内で顔を付き合わせることになったのは、単純に偶然だった。
 部員ですらも昼休みには立ち寄らないテニス部の部室に宍戸を誘った鳳が、何か言いたい事がありそうだという事には宍戸も気づいていたのだが、それが言いたいのではなくしたいキスだったということに、された宍戸は驚いて。
 それでも、もう鳳が、本当に耐え切れなくなって欲しがっているキスだと判るから、鳳をあやすような気持ちで唇をひらいたのは宍戸からだった。
 いいんですか?と僅かに離れた唇の合間で鳳が熱っぽい息で聞くのに、いいんだよと不機嫌に鳳の舌を含んだのも宍戸だった。
 宍戸が鳳の舌を食むと、鳳の手にきつく腰を抱きこまれた。
 強い力で鳳の手は宍戸の腰に絡まり、正面から密着させられた互いの下腹部の上ずる熱っぽさに宍戸は初めて状況の生々しさに息を詰めた。
 まさかなと思っていると、鳳は宍戸を壁に押し付けて、制服のシャツを無造作に捲りあげてきた。
 まさかだった。
 頭を突っ込まれる勢いに宍戸が怯んでいると、しかし鳳は乱暴ではなく固執する熱心さで宍戸に触れ出した。
 触れられた所から、広範囲に滲みだしてくる刺激の周りがひどく早かった。
 宍戸は途切れ途切れの息の合間に、余裕のない声を小さく上げ続ける。
 それが何をされているから零れてしまう声なのか、判らなくなるのも早かった。
「宍戸さんの汗って苦いけど……ここはこんなに甘いね」
 胸をあからさまに舐めあげられて、宍戸は片手で額と目元を押さえ込んで歯を食いしばる。
「……ぅ…」
 細かくひっきりなしに震えている宍戸の腕を宥めるように撫でて、鳳は舌ですくいあげたものに今度は深く吸い付いてくる。
「………っひ」
 子供みたいに貪欲で、一つ下の後輩の欲求の全てが自分の身体に向けられていることに、触れられ続けても、まだ慣れない。
 意識ばかりがとろとろと溶けて、身体はどんどん過敏になる。
「…………長…太郎…、…っ…ゃ…、…め…、…」
「あ、………」
 何かに気づいたような鳳の小さな声に、聞く前から何かしらの予感めいたものが沸き起こって。
 宍戸は怯えて身体をもがかせた。
「、っ………」
「……すっげ……やーらかかったのに……」
「……………ッ…、っ…ぅ…っ」
「宍戸さん……少しだけ噛むね…」
「…、……っぁう…」
「………真っ赤だ………こっちもね。痛くしないから…」
「…ぁ…ぅ、っ…」
 両方に鳳の指がかかって、執着を増す唇が飽きもせず交互にそこに被さってくる。
「ぁ…っ…あ……ぁっ……ぁ…」
「………ん? 宍戸さん?」
「……ひぁ…」
「やだ…?…泣いちゃってるね……俺のこと怖い?」
「お前…、……こんな……」
 上半身だけでこんなになる自分がおかしいのか、それともしている鳳がよほど何か特別なやり方をしているのか、宍戸はふらつく足を必死に踏みしめながら鳳の後ろ髪をつかんだ。
「ど……で…覚え……、っ……」
「……どこって」
 鳳は吐息で苦笑いする。
「…俺ね、宍戸さん。ずーっと考えてたんだよ」
「………それ……やめ…、ろ…っ、」
 小さな一点に指も舌も一度に宛がわれた上、指先で固定されて吸い付かれ、宍戸の膝ががくんと砕けた。
 鳳がそれを宍戸の胸元を押さえてくいとどめるから、宍戸の喉はたちどころに細い悲鳴で震えあがった。
 指で、唇で、縫い止められる。
「ひ、……っ……、…っ…ぁ…」
「どこかで誰かに習ったりとか、してないから。ずっと、宍戸さんにしたいこと、いろいろ考えてて」
「……、ぁ、…、…ぁ、っ…、」
「だから、すごい嬉しい……」
 深く唇を塞がれて、宍戸は鳳の肩をつかんだ。 唇を探られながら、とりすがるように強くしがみ付くと、鳳は宍戸の耳元に何度も何度も囁いた。
「すっごい嬉しいです」
「……長太…郎、…?…っ…、ぅ、く……」
「逃げないで…」
 ください、と。
 上目に見られて。
 甘える目、必死な目。
 見慣れている表情に追い詰められた。
「………っぁ、ぅ…」
 鳳の手に足の狭間を握り込まれ、率直すぎるその刺激を振り払えなくなった。
 大きな手のひらに、そこのかたちをかえるようにひっきりなしに触れられて、引き出されたそばから零れてしまうものが自分を伝って部室の床にも落ちようとする。
「ん…ぁ、っゃ、…ぁ…」
 即座に膝をついたのは鳳で、彼の唇に体温を上げているそれを吸い込まれてしまって、加減もなく、くまなく、潤んだ口腔で愛撫される。
「…く…、…ん、…っ」
 鳳の宍戸に向けてくる執着はますます強まるばかりで。
 膝まづいて熱心に舌を使ってくるその表情を見下ろし宍戸はかぶりを振った。
「………長…太、郎……っ…」
「、はい…?」
「も……いい、…っ、も、ゃ…っめ」
「……この後は……宍戸さん…きついだけなんだよ。だから、もう少しね…」
「…もぉ、いいって、…言っ、てんだろ……っ」
「だからね……宍戸さん……」
 困ったような声は下から聞こえてくるばかりで、宍戸はどうしたって鳳がそこから離れないので、結局片手で鳳の肩を押し出し、もう片方の手は鳳の口腔に濡らされた自分に触れ、とにかくその唇から引き剥がす。
 どこから奪い返したのかを物語るような状態のものに自ら触れて、神経が焼ききれそうになっている宍戸は、それを至近距離から見ることになった鳳の息を飲む音を聞いて。
「…………ッ……」
 それまで背にあった壁に、今度は正面から手のひらやこめかみを押さえつけられた。
 腰が浮き上がりそうなほど強く後ろに引かれる。
 宍戸で濡れた鳳の指が、これから鳳が行こうとする道行きを宍戸に知らしめる。
 いつその指を退かされたのか宍戸には判らなかった。
 もの凄い圧迫感に声を詰まらせる。
 少しづつ、でも強く、のみこませようと押し込まれてくるものに、宍戸の両目からは音を立てて涙が落ちた。
「…………苦しいよね…」
「ゥ……、……っ…く」
「……ごめんなさい。判ってた…けど」
 深々とまで行き着いて。
 初めて鳳が口をひらいた。
 耳に直接吹き込まれるように囁かれ、宍戸はかたく閉じた目から尚も涙を落としながら声を振り絞った。
「ごちゃごちゃうるせ…っ……!…」
「…宍戸さん、?」
「べらべら、…余計なこと、くっちゃベる…なら…、今しろ、馬鹿…ッ…」
 そうすれば大丈夫なんだよと宍戸は自分でも何を言っているのか判らないようなことを口走っていた。
 焼切れそうな刺激は強すぎて怖い。
 涙がとまらなくなりそうで怒鳴った。
「…………大好きです。宍戸さん」
「……も……と…」
 宍戸の身体が鳳に大きく突き上げられた。
「ぃ、っ、……、…っ…馬鹿、野郎……ッ…そ、…ちじゃね……、…っ…」
「ひどいなあ」
「…っあ…っぁ…っ…」
「大好き。………大好き。宍戸さん。俺も、もっと欲しい」
「だ、…か…ら、……っ…ち……じゃ、…ね………っ…ァ、っ」
「うん……宍戸さん……」
「……や………も……ちょ…っ……」
 歯の付け根も合わないように、立て続けに強く揺すられた。
 突き上げてくるものに耐え切れず押し出される嬌声は、壁になすりつけられた。
「っ…ぁ…っ」
「宍戸さん」
「も、…や、く……、っ…」
「なんか、も……凄くて…勿体無い……」
「……………る…せ……、…っ…、…ぃ…っ、…っぁ」
 鳳があんまり可愛げに暴走して無茶をし尽くすから、自分の許容範囲を遥かに超えたその状況に、殆ど意識を飛ばしながら宍戸は怒鳴ったり言いつけたり促したりしていて。
 最後はもう何も出来ずに、鳳の暴挙ともいえるような行動に宍戸も溺れきった。







 部員数数百人を誇る氷帝中テニス部の部室は、クラブハウス並みに立派なものだった。
 しかし決して防音加工が施されているわけではないので、例えば外から、部室の壁にぴったり耳を寄せようものなら、多少大きめの声であれば聞き取ることも充分可能だった。
 そこまであからさまではないけれど。
 しかし、部室の外側から寄りかかるようにして、壁に背中を当て座り込んでいるものが数名横に並んでいた。
「…………誰か止めろよ……」
 膝を抱え込んで座る岳人が、ぼそっと呟く。
 こころなしか顔色が青かった。
「言ってる自分がしいや。岳人」
「……っ、だ、だいたい元々侑士が、鳳を煽ったからああなったんだろッ。髪切ってから宍戸が、今までみたいに女受けだけじゃなくて男受けもよくなってるとかなんとか!余計な事言って煽って!おまけにいよいよ今日あたりなんか起きるぞって、ここに集合かけたのも侑士じゃないか!」
「……お前らまでうるせえっての。耐えられないならジロー見習って寝ときゃいいだろ」
「ジローを見習って寝ろって普通それって無理じゃん?! 何だよ滝、何ひとりで余裕かましてんだよ!」
「誰が余裕だっての。こんな濃いーの聞かされて」
 滝ががっくりと肩を落として言う。
 部室の外には3年生を中心とした氷帝中のテニス部員達が声をひそめつつ言い争っていた。
「…………もう面倒だから跡部を早く連れてきちゃえよ。なんで跡部呼ばなかったんだよ忍足」
「呼びに行ったけどおらんかったよ」
「もー樺地見張りにおいてって俺達帰ろうよー」
「樺地粗末にすると景ちゃんにしばかられるでぇ?」
 そんな風に。
 頭を抱えたり、笑うしかなかったり、眠るしかなかったり。
 テンションが上がったり、達観するしかなかったり、やたら怒りっぽくなってしまったり。
 そんな見張り達を実は大勢従えていると、知らないままの二人は今は静かになった部室内で少々甘口の可愛らしげな言い争いを繰り広げているのだった。







 氷帝中に、跡部部隊以外の部隊が発生してしまった、とある日の出来事である。
 跡部部隊は自主的に跡部に魂捧げていますが、今ここで生まれた部隊は、衝撃に無理矢理魂を抜かれてしまい、燃え尽きた哀れな被害者達が、発足せざるを得なかった闇部隊と化していた。
 鳳長太郎には四つの顔がある。
 一日四つの顔を使い分けている。
 部活の最中の鳳は、部内の上級生達に、宍戸の奴に弱みでも握られてるのか?!と真面目に危惧されるほど宍戸に従順、絶対服従を貫いている。
 宍戸はもう何度となく、鳳を苛めるなっ、この鬼っ、悪魔っと散々な事を部内で言われていた。
 鳳という男は、上背があって性格もテニスの腕もよかった。
 2年でレギュラーだが驕る事も威張ることもなく飄々として、誰からも妬まれたり悪く言われたりする事がなかった。
 200名はいる氷帝のテニス部員の中で、どの学年からもうけのいい、人の良さが滲み出ているようなところがあって。
 よって誰もが、樺地に荷物持ちをさせる跡部には言わない文句を、宍戸には集中砲火させた。
 跡部部長はちょっといろいろ特殊な人なので比べる対象にはしにくいのだが、とにかく例えば荷物持ちという同じ行動を宍戸が鳳にさせようものなら、人間ここまで罵られなくてもという領域まで宍戸を罵倒する氷帝テニス部員達である。
 跡部は命じてやらせているが、宍戸は何も言っていない。
 それなのにだ。
 鳳が勝手に、荷物持ちます、それも持ちます、あれもこれもといそいそとついてくるだけだというのに、鬼め悪魔めと宍戸は散々な言われようである。
 必然的に宍戸は不機嫌になり、そんな彼を気遣ってか鳳はますます甲斐甲斐しくなった。
 部活の間中こんな調子で、仮に宍戸が腹立ちにまかせて鳳を邪険にしたり、つれない態度をとれば。
 そして鳳が、ちょっと寂しそうな素振りなんか見せ始めようものなら。
 可哀想に可哀想に可哀想になっ、と宍戸は再び部員達からの集中攻撃を浴びる羽目になる。
 そういうことになった日には、ほとほと呆れて、ともかく疲れて、宍戸は部活を終えて帰途につく。
 家に帰るなり自主トレするなり遊びに出たりする。
 その時に、鳳が一緒の確立は結構高い。
 学校を離れても、何故か一つ年下の鳳といることが少なくなくて、そういう時に、鳳の二つ目の顔が現れる。
 宍戸と二人きりになると、今度はもう。
 どれだけ宍戸に嫌がろうが怒ろうが、鳳はべったりと甘えて甘えて甘え倒してくる。
 コートでは大切な先輩、大切なダブルスのパートナー、という従順さを全開させる鳳は、一旦学校を離れると、宍戸への態度がいきなり大切な恋人仕様になるのだ。
 実際そうなのだから仕方ないが、宍戸にしてみれば切り替えスイッチが入ったかのように変貌されるのに、なかなかついていけない。
 年下のくせに甘ったるく優しくなって、何でも言うこと聞きますよと綺麗で甘い笑顔を見せる。
 そこまでならばいいのだ。
 微妙な気恥ずかしさはあるが、宍戸は跡部ほどではないけれど俺様気質なので、かしずかれるのははっきり言って気分がいい。
 何をどう言っても、大概宍戸の言う事を聞く鳳の事は、元々気に入っているわけだし。
 とにかくその後に、三人目の鳳さえ現れなければ。
 あの鳳さえいなければ、と宍戸が何度歯噛みしたかしれない。
 三人目の鳳は、キスでスイッチが入る。
 宍戸にキスすると、言葉使いこそ丁寧なままだったが、欲情剥きだしで宍戸を抱き竦めてくるのである。
 服を脱がせて、身体中まさぐって、宍戸が泣き出すまで容赦なくその身体を貪ってくる。
「…………て…め……っ…も、離……っ、…」
「宍戸さん…………」
 うつぶせた宍戸の背後から、のしかかるように宍戸を抱きしめている鳳は震えている宍戸の腰を強く掴み締めながら、その中で。
「………ッ…ぅっ…ぅ……、く……、ぅ…っ……」
 溜められていくものが頭の中まで濃密に埋めていくようで、食いしばった歯からも漏れる切羽詰った自分の声に宍戸はきつく目を閉じた。
「……宍戸さん…?」
「…………っ……る…せ」
「なんにも言ってないです」
 かすかに笑いを含んだ吐息が耳に触れる。
 熱くて。
 自分一人ではないのだと安心するけれど。
「宍戸さん、時間がね……」
「……、……から…も……離……せ…、て……」
「……いえ……あのね、急げば二回出来るんですけど、時間かけてゆっくり一回で…… していいですか?」
「ふざけ……、……っ……ン、ッ」
 顎を掴まれて首を捻られ、唇を塞がれた。
 言葉の語尾は鳳の舌にとられてしまった。
「ん……っ…」
 滑らかな指に喉を辿られながら口づけられて、宍戸は震えながら声をくぐもらせた。
 鳳の家の者が夕刻過ぎまで全員出払っているというので連れて来られたのだが、鳳に抱きしめられ続けてどれくらい経ったのか、宍戸は朦朧とした頭での考え事が出来なくなっていた。
 体内からまた圧迫されていくのが判って、細い喉声を迸らせる。
「…ひ………ぁ」
「………位置代えます」
「………ッン…」
 鳳は動かないのに、宍戸だけぐるりと身体の向きを代えさせられて、折りたたむように曲げさせられた膝を、鳳の肢体を両足の間に挟み込んでから伸ばすことを許される。
「……く………ぅ…っ…ん…っ」
「宍戸さん」
 体内をかきまわされて、どうしようもなくなってしまって。
 身体を痙攣させながら零れてしまったものに鳳は指先を沈ませて、濡れた宍戸の腹部をゆっくりと撫でる。
「………っ……ゃ……」
「……泣かないで? 宍戸さん」
「ャ…………見……」
 目元を覆う腕を鳳にとられそうになって宍戸は身体を捩って抗ったが、結局優しく強い力に引き剥がされてしまう。
 腹立ちまぎれに宍戸が涙目で睨みつけた鳳は、嬉しくてと囁いて微笑んでいる。
「…………………」
 好きだと繰り返し繰り返し告げてくる鳳は、それをなかなか口には出せない宍戸にとっては、羨ましいような悔しいような曖昧な感情を抱かせた。
「……長太郎…」
「はい」
 丁寧に応えて、鳳は宍戸の唇に、更に丁寧にキスをした。
 高い体温で温まった鳳の胸にかかるクロスが宍戸の鎖骨にもチェーンをやんわり弛ませて落ちてくる。
「………これ……今だけ外していいか…」
「……え…?…構いませんけど……」
 チェーンを指先ですくって宍戸が嗄れた声で言うと、少しだけ不思議そうに鳳は首を傾けた。
「……あ、…痛くしちゃいましたか?」
 擦ったりとかしたかと途端に口調を改めた鳳に、違うからと宍戸は首を振って。
 外せ、と命じる。
 すぐに首からそれを外した鳳は、ベッドヘッドにクロス置いた。
「…………宍戸さん?」
「………………」
 宍戸は腕を伸ばした。
 鳳の首に取りすがるようにしながら、上半身を起こす。
「……っ、」
「宍戸さん? なに? どうしたんですか?」
 無理な体勢に眉根を寄せた宍戸に慌てて、鳳がそれでも、浮いた宍戸の背中に手のひらを当ててきた。
 それだけで大分楽になって、宍戸は鳳が面食らっているうち、かなり強引に体勢を変えた。
 鳳をベッドに押し倒して。
 その上にのって。
「…………ッん…ぅ」
「………、……宍戸…さ……?」
 納まりがよくなって、それはつまり宍戸が、鳳を含んだまま完全に彼の上に座り込んだ事になる。
 下から膨張して圧迫される充足感に、宍戸は唇を噛んで喉を反らせた。
「ん…っ…ぅ……ん、っ……」
「え…?……ちょ……、…」
「…ぅ…ぁ、」
 硬い腹部に手を当てて、身体を浮かせる。
 意思を持って動かせるのは引き抜く時だけで、真上からはもう何一つ出来なくなって、宍戸はただ落ちた。
「ひ……っ…、…く……」
「……、……ッ…」
 がくん、と身体がぶれて、宍戸の上体が倒れそうになる寸前、鳳の手が両方で宍戸の腰を掴んだ。
 宍戸の上半身はしなって傾いだが、鳳の手に起点を定められて崩れることはなかった。
 濡れそぼって熱い息を吐きながら、宍戸が潤んだ目で見下ろせば、鳳が余裕のない顔で宍戸を凝視していた。
「…………………」
 その表情に満足して宍戸がうっすら笑うと、鳳は一層切羽詰ったような顔になる。
「俺ゆっくりって言いましたよね……」
「……お前はゆっくりしてりゃ…い……だろ…」
 無茶かとも思ったが、今度は鳳の腹部に手をつかず、宍戸は膝で身体を支えてそれから遠ざかっていく。
「……ン……ん………ッ」
「…、……………」
 骨盤が砕けそうな強さで鳳に鷲掴みにされた骨が軋むようだったが、だから余計に一度目以上に、宍戸は何を危惧することなく身体を落とした。
「……ッァ…あ…、…っ、…、ァ…」
 身体中に突き刺さるように広がっていくものが、痛みなのか快楽なのか判断しかねる強烈さで。
 眦から切れめなく流れ落ちていく涙は宍戸の喉を落ちて胸元まで伝っていく。
「………きつかったらもう動かないで……俺がやるから…」
「う…るせ……っ………いいならおとなしくしてろ……っ…」
 そんな風に言われたら動けないじゃないですかと言った殊勝な言葉に満足して、宍戸は涙を落としながら笑った。
 急いで二回でも、ゆっくり一回でも、ない。
「………なんか…も、…すごすぎ……」
「……………………」
 急いで一回。
 いきつかせて、いきついて。
 鳳の身体の上で脱力した宍戸は、自分を抱きしめてくる鳳もまた、暴れるような鼓動を響かせているのに合わせて、そのまま目を閉じた。
 10分程度のその時間。
 宍戸が眠っていたのか気を失っていたのかは、宍戸本人にも鳳にも、判らなかった。




 睡魔なり自失なりで意識を無くした宍戸が、目覚めてからはもう、ゴメンナサイゴメンナサイと頭を下げては宍戸の身の回りの世話をする、四人目の鳳がそこにいた。

 口論が、思いの他、激しくなってしまった。


 普段から憮然としている事の多い宍戸亮の顔つきが、不機嫌を通り越して怒りを含んで。
 普段おっとりしている鳳長太郎の顔つきが、躊躇を通り越して苛立ちを含む。
 日も落ちたテニスコートの中で、二人しかいないのだから一発触発の彼らを止める者は誰もいない。
「もう打たない? お前に指図される筋合いはねえんだよ。さっさとやれ。バカ」
「いい加減にしてください。レギュラー復帰したのに、試合前に怪我でもしたらどうするんですか」
「怪我ぁ? するかそんなもん。さっさと打てっての!」
 打球に対する反応時間を極限まで短縮する為、ラケットを持たずに鳳の200km/h近いサーブを受け続ける特訓は、何も今日初めてすることではない。
 数週間、毎晩繰り返してきた。
 そして今日、氷帝において敗者には有り得なかった筈の、レギュラー復帰も果たして。
 その日の夜だ。
 宍戸はこうして暗がりのコートで鳳と言い争っている。
 始めてすぐに、数本のサーブを打ったか打たないかで、鳳は止めようと言い出して。
 あとは宍戸がどう怒鳴りつけても、もうサーブを打とうとしない。
 昨日までは渋りながらも従順だった後輩の抵抗に、宍戸の腹立ちは瞬く間に高まってしまった。
「長太郎!」
「………もう止めて欲しいんです。宍戸さん傷だらけじゃないですか」
「今更なに言ってんだ。お前」
「その身体の傷、全部俺がつけたんですよ……」
 痛ましそうに眉をゆがめて見つめてくる鳳の表情に、宍戸は深々と溜息をついた。
「それがどうした」
「もう宍戸さんはカウンターライジングをマスターしてる。それなのに、まだするんですか?こんなこと」
「当たり前だ。完成度は100%じゃない」
「お願いですから止めましょう。もう」
「お前には指図されないって言ってんだろうが!」
 ネット越しに言い争っているうちエスカレートして。
 距離が縮まって、宍戸の手が鳳の胸倉を掴み締める。
 自分よりも背の高い後輩の胸元を締め上げて、下から睨み上げて。
 けれど宍戸がどう怒鳴りつけても、鳳は言うことを聞きやしなかった。




 コート中に響き渡る荒いだ声。
 宍戸のきつい罵声が、突然に止む。
 テニスコートが静寂で満ちる。
 突然、そして暫くの間の沈黙。




 静かだった。
 ひどく。
 静かだ。




 低い声が沈黙を破る。
 静寂に滲むように鳳の声がした。
「……宍戸さん。いつもミントの匂いがしますね……」
「………ミントガム食ってんだから当たり前だろ………だいたい匂いっつーか、それ味だろ」
「………ですね。ミント味、です」
「……………あのな……お前、なんで今俺にキスなんかした」
「したくて。……ごめんなさい。嫌でした?」
 生真面目に会話してしまった。
 宍戸は訳が判らなくて、とりあえずそうするしかなかったのだ。
 覆いかぶさるようにキスされて。
 言い争っていた相手にいきなり。
 鳳が普段からしているクロスのペンダントトップが、ひたりと宍戸の喉に触れた。
 喉に冷たい封印。
 唇は温かかった。
 キスだった。
 紛れも無く、ネットを挟んでテニスコートでしたことは。
「……………だって宍戸さん罵詈雑言つくすから………… 好きな人に怒鳴られるの、しんどいです」
「お前な、」
「黙らせたかったし、特訓も止めさせたかったし、………ずっと、すごく好きだし。宍戸さんのこと」
 ひっそりと告げてくる後輩の、どことなく力ない気配に宍戸は深い溜息をついた。
 我慢出来なくなってて、と後輩に囁かれ、なんだかくらくらしてきた。
 しかも逃げられるとでも思っているのか、鳳の手に、宍戸は利き手をきつく握りこまれていた。
「長太郎」
「……やです」
「泣きそうな顔すんな。そんなデカイ図体してみっともねえ」
「宍戸さんに嫌われたらマジで泣く」
「半ベソで脅すなバカ」
 でも振りほどけないほど強い手の力。
 触れるだけだったけれど、我慢が出来なくなったみたいにひどく熱っぽかった口づけ方。
 背の高い、広い胸の、後輩。
「………………ったく。しょうがねえな」
「宍戸さん……」
「黙らせよう止めさせようで咄嗟にやっちまった事なら、しょうがねえ。俺もお前にやっちまったしな」
「………なんのことです…?」
 怪訝に問い返されて、宍戸はおとなしく手を握られながら嘆息する。
「この髪だよ」
「…宍戸さんの髪?」
「お前が俺の代わりにレギュラー落ちるなんざ、めちゃくちゃなこと言い出すから。焦るわ腹立つわ困ったわで、お前を黙らせて止めさせる方法が俺もあれ以外浮かばなかったしよ」
「宍戸さんの髪、切らせちゃったの俺が原因だったんですか?!」
 鳳が、宍戸が髪を切った事に異様に固執していたのが判っていただけにそのことを言う気は全くなかったのだが。
 あれと同じかと思えば、宍戸は、何だか突然されたこのキスにも対応できる気がしたのだ。
「バーカ。鋏持ってたんだから、最初から髪は切るつもりだったさ」
「………宍戸さん」
「ただお前が予想もしなかったこと言い出すから、慌てちまってとんでもない切り方しちまったけどな」
 ここまでしなくてもよかったかと、毛先の見えなくなった髪を指先でつまんで宍戸はぼやいた。
「……、っ……おい」
 話をしているというのに、いきなり頭を抱き込まれる。
 後輩のくせしてそう易々と先輩を抱きこむんじゃねえと思ったが、そうされることが気持ち良いと知ってしまって宍戸は溜息を吐き出した。
 それを鳳はどう受け取ったのか、どこか必死な声が宍戸の耳に触れた。
「………俺、……黙らせたいとか、止めさせたいとかって、それが理由なのは、本当はほんの少しで。正直言うと」
「……………………」
「宍戸さん」
「……………そんなに好きか?俺が」
 はい、と耳元で躊躇わない声がして。
 遠慮がちに、でもひどく熱っぽくかき抱かれる。
 感情が伝染してくる。
 強く抱きしめられていって、宍戸の唇に鳳のクロスが当たる。
 押さえつけられる。
 キスをする。
 クロスに。
「………気持ち悪かったり……します…?」
「いや………お前のことは気に入ってるしな」
「厭とかじゃ……?」
「別に」
 今までわざわざ恋愛感情を気にしたことがない相手なだけに、意識させられたらそれは案外するりとはまって、宍戸はあっさり納得した。
 何事にもスピードが信条の宍戸は、新しく捕まえた感情を怪訝に思うことはしなかった。
「おい。長太郎」
「はい」
「明日、髪切りに行くの付き合え」
「…………まだ切るんですか?」
「こんなザンバラなまんまで試合に行かせる気か。お前」
 ついでにお前も切れよと言いつけると、はい、と鳳はおとなしく返事をする。
 そうして名残おしそうに腕を緩めていくから、宍戸は鳳を可愛いなどと思ってしまった。


 もう一度キスしたかったら、サーブ100本と引き換えに俺からしてやろうかとそそのかしたら、容赦のない100本が浴びせられて腹が立ち、そしてそのうちおかしくなって、宍戸は鳳のサーブ100本を、最初は怒って最後は笑って、全てその手で受け止めた。

 宍戸がレギュラー落ちして、鳳と一緒に特訓をするようになって。
 その日初めて、鳳の家に泊まった。
 借りた風呂から戻ってきてすぐに、待ち構えていたかのように鳳が怪我の手当てをさせて欲しいと言ってきた。
 ここ数日、幾度と無く鳳とやりとりを交わした話題。
 自分がいつもと同じようにそんな事は必要ないとそれを強く拒んでいると、突然鳳に怒鳴られた。
 そんな事は初めてだった。
 咄嗟に面食らった自分に鳳は詰め寄ってきて肩をつかまれる。
 何もかも本気で大丈夫だなんて言わないでくださいと、言った怒声は大きかったが、しかし同時にあまりにも痛ましげな目で見据えられてしまえば反抗心も湧かなくて。
 鳳を、ただ見つめるしか出来なくなる。
 こんな風に怒鳴られたのは初めてだった。
 こんな顔の鳳を見るのも。
「宍戸さんは逃げない人だけど、傷つかない人じゃないんです」
「…長太郎?」
「頑張れる人だけど、何が起きても辛くない人じゃない。宍戸さんは時々そういう所をすごく間違えてます」
 睨みつけるように見据えられ、本気で怒った鳳に傷んだ二の腕を強く握り込まれて、思わず眉を寄せたけれど。
 苦しげな溜息を吐き出したのは寧ろ鳳の方だ。
 そのままお互い黙り込んで、見詰め合うだけになる。
 いつもならば穏やかに微笑む鳳の激昂に。
 向けられた言葉に。
 気持ちのどこかが揺すられる。
 言葉を返せない自分に、鳳は無言のまま、徐に動いた。
 彼の部屋に置いてあった小さな円柱のキャンドルに手を伸ばした。
 そしてそれに火をつける。
 白いキャンドルは炎を灯して、何かとてもいい香りがした。
 そして鳳は部屋の電気を消した。
「………………」
 暗いそれはまるで今の自分のおかれている状況と同じだ。
「ねえ、宍戸さん」
 闇に滲むキャンドルの灯りのような声だ。
「キャンドルの炎、綺麗だと思いませんか」
「………………」
 鳳の手元、ただそこだけが。
 闇の中で暖かな色を滲ませ明るい。
「宍戸さんみたいじゃないですか」
「…俺?」
「宍戸さんは、何でキャンドルの灯りがこんなに綺麗かって、考えた事ありますか?」
 僅かな光に照らされた鳳の目が真っ直ぐに自分を見つめてくる。
「例えばここにもし宝石があったとしても…暗闇の中ではダイヤは光れない。でもキャンドルは、暗闇でこそ光れます。自分の力で、灯り続けて光るんです。こんな暗闇の中でも」
 低く落ち着いた、真摯な声だった。
 キャンドルの炎に、鳳が身に着けているクロスが鈍く反射する。
「でもね、宍戸さん。そういうキャンドルであっても、息でも吹きかけられれば簡単に炎が消える事もある。水に投げ込まれたら、乾くまでの間は勿論火だって灯らない。どうなっても平気だなんて、そんな訳絶対になんかないんだ」
 だから判っていて、と鳳は言った。
 まるで懇願するように。
「消されても、何度でも。またあかりを灯して、自分自身の力で輝ける。だからこそ、何をされても平気だなんて、そういう過信だけはしないで下さい」
「………………」
 薄暗がりの中、鳳の声は真剣で、そして優しかった。
 揺れるキャンドルの炎と、鳳のクロスを見ながら貰った言葉に、少しだけ泣いてしまいそうになる。
「手当て、させてくれますか?」
 キャンドルの炎の灯りだけしかない部屋で。
 漸く、いつも見慣れた微笑と、優しい声とに。
 自分が静かに頷けば。
 抱き締められた。
 鳳に。



 一瞬より長く、永遠より短く。
 今時分はいろいろな花が咲く。
 梅が咲いて、椿が咲いて、桜が咲いて、躑躅が咲いて、薔薇の季節がやってくる。
 心の花は季節を問わない。
 人の心の移ろいやすさを喩えた言葉でもあり、人の心の美しさを喩えた言葉でもあり、その花は心の中に咲くらしい。
 移ろいやすいから美しいのか、美しいから移ろいやすいのか、どんな色で、どんな形で、咲いているのかも知れない心の花は、自分の中にもあるのだろうか。
 彼の中にもあるのだろうか。
 移ろうならば咲かなくていい。
 どれだけ美しくても咲かなくていい。
 美しくなんてなくていいから。
 咲かせたくない。
 移ろいたくないし、移ろわせたくもないから。





 自分を抱いて、よかったのだろうか、この男は。
「………………」
 海堂は寝具に横たわったまま、そればかりを噛み締めるようにして考えていた。
 向き合って同じように身を横たえている乾は、深く静かに、寝入ったままだ。
 見慣れない乾の寝顔が海堂の胸に詰まる。
 苦しい思いは不快なせいではなく、ただ恋情が濃すぎるせいだ。
 自分の情の強さを海堂は判っている。
 だから極力、ひとりでいたかった。
 乾はそれを知ってか知らずか、ただ一人彼の方から、海堂の最も近くに近づいてきた男だった。
 部内の仲間だとか、ダブルスのパートナーだとか、名前をつけられる関係に収まっても尚、まだ乾は何かを望む顔で海堂の側にいた。
 それが何なのか、乾が言葉で海堂に告げたのは、乾が部活を引退してからだった。
 好きだという言葉を口にする。
 幾度も、そしてその度に、乾はひどく慎重で。
 聞けば必ず、逃げられたくないからだと言った。
 逃げる訳がない。
 海堂はその都度思ったが、口に出しはしなかった。
 何かを押し殺すようにして、そのくせ渇望するかの如く自分を欲しがってくる乾が見慣れなくて。
 時折姿をみせるあからさまな執着が、乾から自分へと向けられる事が訳も無く嬉しくて。
 多分乾が考えている以上に、とっくに、海堂は乾を好きだった。
 何を言われても、何をされても。
 仮に乾の感情が自分の感情と違っていたとしても、海堂は乾を好きだった。
 抱き締められる事にも、キスをされる事にも、抵抗を覚えた事はなかった。
 乱暴にではなく、しかし耐えかねたような拘束の強さで組み敷かれ、身体に大きな手のひらを宛がわれた時も、海堂は乾を好きなまま、ただ、微かな不安だけを抱いていた。
 乾は高等部に上がっていて、初めて組んだダブルスから一年が経っていた。
 その時間をかけた。
 そして今日、こうなったけれど。
 乾は海堂を、抱いたのだけれど。
「………………」
 乾は、よかったのだろうか。
 海堂は繰り返し繰り返しそれを考えた。
 時間も、手間暇もかけて、普通に出来る筈の事を普通に出来ない自分でして。
 慎重に、大事に、されてきたこれまでの時間に見合う程の事だったのかどうか。
 乾の耳に届いた声は。
 乾の手が触れた肌は。
 乾の唇が食んだ熱は。
 それで、よかったのだろうか。
 自分で、本当に、よかったのだろうか。
「………………」
 ねっとりとした熱を帯びた液体で身体の奥深くを濡らされて、つかみしめられた乾の手のひらに自分も零して、あの解放の瞬間から海堂の意識はない。
 せめて直後の乾の顔だけは見ておきたかった。
 もし仮に、心が移ろっていくさなかの表情であっても、せめて見ておいたのならば、今ここでこんなにも不安にかられることはなかったのだ。
 横向きに寝そべったまま、海堂は乾の寝顔を見つめ続けた。
 取り縋った肩が毛布から出て剥き出しになっている。
 固い、熱い、皮膚だった。
 恐らくは自分もそうだ。
 あんなに気遣う事もなかったのに、乾は、ずっと優しかった。「………ん…」
「………………」
 身じろぐ肢体。
 乾の喉から微かな声が漏れる。
 目を覚ますのかもしれない。
 目を閉じてしまおうと海堂は思った。
 怖いのではない。
 不安なのだ。
「………海堂、…?…」
「………………」
 でも瞳を閉ざした拍子に、零れた。
 涙が、何故なのか。
「海堂」
「………………」
 眠った振りは容易く失敗して、ぎょっとしたような乾の声と共に目元に大きな手のひらが宛がわれて、海堂は結局双瞳を開けた。
 また流れていく。
 何で自分は泣くのかと自問したくなった。
「海堂? どこか辛い?」
 乾は半ば飛び起きるようにして上半身を起こし、海堂の目元を拭いながら切羽詰った声で言った。
 上半身を屈めて覗き込んでくるのを、海堂は懸命に見つめ返す。
 焦燥に駆られ、傷んでいるように眉根が寄せられている乾を海堂は掠れ声で呼んだ。
「先輩…」
「………………」
 海堂の言葉の続きを、乾は海堂が見た事のない表情で待っている。
 どうしてそんな、荒っぽい目で。
 見つめてくるのだろうか。
 どうしてそんな、怖がるように。
 自分の言葉を待つのだろうか。
 不安なのは自分の問いかけではなく、乾の返答の方だ。
 海堂はそう思う。
「……また…」
「………………」
「………しますか……さっきみたいなの…次も」
 もう、一度でいいと思われたのか、そうでないのか。
 乾の答えは、海堂が知りたい事を、教えてくれるはずだった。
 自分を抱いて乾はよかったのかどうか。
 享楽の話だけではない。
 快楽の話だけならば、確かに開放はしたのだ。
 お互いに。
「………、…っ……先輩……?」
 おもむろに乾の手が海堂の二の腕を掴んだ。
 骨に直接指が食い込んできたのかと思わせる、尋常でない力でだ。
 それも両方の二の腕をだ。
 海堂はベッドに押し付けられた。
 明確な痛みに海堂が歯を食いしばる。
 その唇に、乾の唇が重なってきた。
「……ン…っ…、……」
「………失敗したな…俺は…」
 唇の合間の乾の言葉に、海堂の胸が冷たく凍える。
 失敗、なのだろうか。
 乾にとって、やはり、自分とのこの行為は。
「…ぅ……、……っ…」
 口付けは、何故か一層強くなった。
 舌を、貪られる。
 合間で漏れる熱を帯びた呼気がどちらのものなのか判らない。
「怖かった?」
「………、ぇ…?……」
 息が継げずに苦しくて、朦朧となった海堂の耳に乾の声だけが届いた。
 意味が、よく判らなかった。
「嫌だったか? 辛かったか?」
「……な……に……、…」
「ごめんな。自覚はある。でもな」
 二の腕に更に強い力で乾の指先が沈んでくる。
 逃げ出す相手を束縛するかのような力だ。
 それはおかしいだろうと、海堂は微かに眉根を寄せて思う。
「海堂」
 そんな追い詰められた顔で。
「無理だ」
 ひそめた凶暴さで。
「好きだ」
 キスの深さ、強さ、そこから滲むこれまでの比ではない恋情。
「逃がしてはやれない。抱かないでもいられない」
 そんな事、望んだ事もない。
「先…、……」
「海堂」
 海堂が伝えたい言葉を、まるで怯えて封じるかのように、乾の口付けが執拗になる。
 固いその背を宥めて撫でてやりたいのに、海堂の腕は凄まじい力で固定されている。
 もどかしさは、しかし海堂の心情を甘く浸していった。
 この凶暴な執着は、美しいものではない。
 花も咲かない荒蕪地にも似ている。
 だからこそ移ろわない力強さを知って、海堂の唇が物言いたげに動く。
 乾が、深いキスを僅かに解く。
「………海堂…?」
 至近距離に、乱れた呼気が溶ける。
「嬉しいです」
「……え…?」
 次もあって、と。
 海堂の唇が、花開くように綻んだ。





 唇色の花が咲いた。


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