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How did you feel at your first kiss?
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 そういやあいつ蹴り飛ばしやがった。





 意識は覚醒しつつも、起き上がれない。
 一向に勝てない睡魔に雁字搦めにされたまま、宍戸は眉根を寄せた。
 身体を横たえ寝ている寝具からは宍戸がよく知っている冷えた香りが滲んでいた。
 否が応でも明確にあの男を思い出す香り。
 あの野郎。
 手加減も無しに蹴り飛ばしやがってと、宍戸はもう一度頭の中で悪態をついた。
 確か、そうだ、背中の辺りを容赦なく足蹴にされて。
 寝るならベッドで寝ろと怒鳴られた気がする。





 昨晩宍戸は跡部の家に来ていた。
 全国大会が終わり、夏の余韻は依然引きずったまま始まった二学期。
 三年は正式に部活を引退した。
 好きな時に好きなだけテニスをしていた身体には引退は酷な話だ。
 かといって新体制になっている部に早々顔を出す訳にもいかず、三年は概ねフラストレーションを溜めていた。
 それで昨日の金曜日、いよいよ辛抱のきかなくなっていた三年の正レギュラーだった面々は、家に広いコートを持つ跡部の元へと集まっていた。
 突然の来訪を受けた跡部は、心底からうんざりとした顔をしていたが、誰一人追い返されたりはしなかった。
 総当りのトーナメント戦から始まって、結局一人勝ちする跡部に腹をたて、幾度でもゲームを挑むのはいつでも宍戸だった。
 昨日もそうやって散々にゲームを繰り返して、一緒に来ていた忍足や向日、ジローや滝は笑い出して見学し始め、エンドレスに繰り返される試合にいい加減呆れて、結局宍戸を一人残して先に帰ってしまった。
 跡部と宍戸が試合を止めたのは、いい加減暗くなってからだった。
 全身汗だくで、帰る前にシャワーくらい浴びていけと跡部に促され、先に汗を流した宍戸はそれでも一応跡部がシャワーを浴びて出てくるまでは待っていようと思ったのだ。
 黙って帰るのも何だしと、とにかく広いリビングで、ソファに寄りかかっているうちに。
 久々に満足するまで打てたテニスのせいなのか、猛烈な睡魔が襲ってきたところまでは宍戸も覚えている。
 そこから後の記憶は断片的だ。
 宍戸が聞いた気がする跡部の声は怒鳴り声。
 よりにもよって足でぞんざいに背を蹴られ、ベッドまで行かされた。
 しかし、跡部という男は、あれでいて案外面倒見は良いのだ。
 口は悪いし態度もでかいし、辛辣な言葉や相手を見下す目なんかさせたら誰も太刀打ち出来ない程にはまる男だが、あまり物事を面倒くさがる事をしない。
 口では面倒だふざけるななどと言いながら、行動は早くて、そしてまめだ。
 そんなことをうつらうつら宍戸が考えていると、寝室の扉が開く音がした。
「おい、宍戸。起きろ」
 宍戸の耳に聞こえてきた声は、やはり跡部のものだった。
 しかし目を開けるのは、まだ億劫だった。
 返事をしない宍戸が、半分覚醒していることは気づいているようで、跡部の不機嫌な声は大きくなった。
「いつまで人のベッド占領してやがる」
「………るせ……」
「アア?」
 もう少し寝かせろと宍戸は不機嫌に呻いた。
 身じろぐと、跡部に蹴られた背中が今も痛い気がする。
 寝かせ方も手荒かったが、起こし方も最悪だ。
「宍戸」
「……てめ……昨日は力任せに……」
 しやがって、と宍戸が背中と腰の狭間あたりに手をやって再度呻くと、同じ箇所を昨夜と同様に跡部に蹴り上げられた。
「…………ってえな…!」
「起きろ」
 凄まじく剣呑と吐き捨てられた。
 これは相当に不機嫌だ。
 宍戸は渋々両腕をついて起き上がった。
 本当に最悪極まりない起こされ方だと思ったのも束の間、宍戸の身体の中も外も一気に凍るような声が宍戸の耳に届いた。
「どういう事です」
「…………え……?…」
 宍戸がよく知っている声。
 跡部のものではない声。
 しかしその声音は普段とは違い、酷く固くてきつかった。
「長太郎……?」
 ベッドの上で上体を起こした宍戸が見やった先、ドアの所に居た鳳は甘い面立ちを鋭く沈ませて立っていて、ベッド脇にいた跡部はぞんざいな態度で嘆息していた。
「救いようのない馬鹿だな。お前は」
「な…、……てめ……」
 しらけきった口調の跡部は宍戸を眼差しだけであしらって、それどころじゃねえだろと声にはせずに唇の形だけで言った。
 今更ながらに宍戸もそれで、はっと我にかえる。
「おい? 長太郎……」
「………………」
 見た事もない鳳の暗い眼に瞬時たじろいで宍戸が何か言い募ろうとするのを跡部の声が遮った。
「よそでやれ」
 冷淡な声は普段の跡部のもので、しかし機嫌がよくないのは誰の耳にも明らかだった。
「俺はこれから用事がある。ここでお前らに、もめられてんのは迷惑だ」
「……跡部さん」
「何だ。鳳」
 跡部の不機嫌に欠片も怯まず、ドア前で鳳がきつい眼差しのまま自身の背後に視線を流す仕草をとった。
 跡部が眉根を寄せてその方向を見る。
 鳳が僅かに身体をずらし、跡部の双瞳が見開かれた。
「お前…いつから…」
「玄関先で一緒になったので」
 答えたのは鳳だった。
 鳳の背後にいたのは神尾だ。
「神尾」
「………………」
 鳳と宍戸に告げた言葉の通り、跡部のこれからの用事というのは神尾の訪問であったのだが、まさかすでにここに居たとは思ってもいなかった跡部が呼びかけても神尾は返事をしなかった。
 黙ったまま、神尾は跡部と一瞬だけ目線を合わせた後、ふとその眼差しを伏せてしまう。
 それが酷く癪にさわった。
 跡部はきつく神尾を睨み据えた。
「おい。お前」
 鳳どころではない。
 まさか神尾までもあらぬ誤解をしているのかと、跡部は剣呑と神尾に近づき手を伸ばす。
 しかし跡部の手は神尾に触れる事はなかった。
 神尾が拒絶も露に身体を引いたからだ。
「……おい」
「帰る…な。俺」
「待てよ」
 どういうことだと跡部の気配に冷たい怒気が満ちる。
 誤解をよぶ光景ではあるかもしれないが、だからってこんなにも簡単に鵜呑みにして、傷ついた顔なんかしてみせることはないだろうと跡部の怒りは増した。
 鳳の肩を手荒に押しやって跡部は部屋の外に出る。
 すでに背を向けかけていた神尾の腕を掴み取る。
 感情がそのまま手に力にこもっているのは跡部も自覚できた。
 神尾は明らかに痛みを感じている顔をしていた。
 それでも力を緩めずに掴んだ二の腕を壁に押し付ける。
「帰るだと?」
「………………」
 帰す訳ないだろうと言葉に込めて跡部がきつく睨み据えた先、神尾は眼差しを伏せたままで何も答えない。
 今日は、特に何処かに行くという話をしていた訳ではなかった。
 昨晩、とりあえず一度家に来いと言った跡部に、電話越しの神尾の声は明るかった。
 それがどうして今そんな顔をするのかと跡部の機嫌は最悪に悪くなる。
「神尾」
「………………」
「お前が今何考えてるかは気分悪くて口にも出したくないがな」
 細い顎を正面から掴み取るようにして、跡部は神尾の顔を無理矢理上げさせた。
「そんな真似、俺がする訳ないだろうが!」
 跡部にしてみれば何もかもがありえない事だ。
 神尾以外に興味が向く事も、よりにもよって対象が宍戸という事も、鳳と宍戸の間に無駄な波風をたてる気もない事も。
 全てがありえないことなのに、簡単に惑う輩が一人ならずとも二人もいるのが理解し難かった。
「…………ってる……」
「………………」
 神尾の声は小さかった。
 跡部の一喝に怯えているわけではないらしかった。
「……判ってるけど……今日は帰る」
「判ってねえだろ…っ」
 神尾の肩を握り潰す力で掴んで、跡部は再度壁に強く押し付けた。
 ここで傷ついた顔をする神尾が跡部には許せない。
 強張った華奢な身体を一層壁に追い詰めて、距離を縮める。
 頑なに目線を合わせようとしない神尾に苛立つ跡部の背で、寝室の方からも何か怒鳴り声らしきものが響いてくる。
 それに意識を向けた跡部の一瞬の隙をぬって、神尾が跡部の腕の中からするりと抜け出していく。
「おい、……っ…」
「ごめん」
 ふざけるなと怒鳴りつけながら後を追おうとした跡部を、鳳が追い越していった。
「長太郎、待てって……!」
 その後を当然宍戸も追って出てきて、叫ぶ声は強かったが、どことなく頼りない目をしている。
 こういう宍戸を放っておくこと自体、通常の鳳からすると考えられない。
「長太郎!」
 苛立った宍戸の呼びかけに、神尾と同じく玄関に向かっていた鳳が足を止める。
「宍戸さんは平気ですか」
 振り返り、おもむろに。
 鳳はこの上なく低い声で言った。
「例えば俺が」
 そこで言葉を切った鳳は、恐らくそれを口に出したくはないようだった。
 しかし声に出さなくても鳳の言葉は宍戸に届き、宍戸は酷く痛いような顔をした。
 鳳はそれ以上何も言わず、跡部の家を出て行った。
 そして、鳳が連れていったのか、神尾がついていったのか、一緒に神尾の姿もいなくなる。
 残された宍戸と跡部は暫し無言だった。
 どれくらいしてからか、沈黙の重さに押しつぶされる間際に。
「跡部」
 先に口をひらいたのは、片手を頭にやって俯いていた宍戸で。
 低い声が、悪いと続けて呟かれた。
「………………」
 跡部は手の付けようもなく落ち込んでいる宍戸の頭を軽く叩き、同じ言葉の代わりにした。
 誤解を生む状況だという事は確かかもしれない。
 しかし疑われるような相手かと思い、それで全てを払拭出来るのは跡部と宍戸だけで、おそらくは一つ年下のそれぞれの恋人達はそうは思わなかったのだろう。
 怒るべき所なのか落ち込むべき所なのか、正直今の彼らにもそれはあやふやになってしまっていた。







 翌日の月曜日の放課後、宍戸は不動峰を訪れていた。
 正門前で宍戸が待っていたのは無論神尾だ。
 校舎から出てきた神尾は宍戸に気づいて小さく息を飲んだが、次の瞬間大慌てで駆け寄ってきた。
「ちょ…っ…あの、宍戸さん、止めて下さい」
「悪かった! 物凄く嫌な思いさせて、ごめんな。神尾」
 いつも真っ直ぐに伸びている背を腰から曲げて、頭を下げる宍戸の背に神尾は手を伸ばす。
「ほんと、そんなのよしてくださいって……!」
「ごめん!」
 潔く、プライドの高い人だというのは神尾も知っていた。
 そんな宍戸が他校の正門前で下級生に頭を下げている。
 混乱をきたす神尾の横で、伊武があからさまな溜息をついている。
「どこか場所かえて話したら? 俺は帰るから」
「あ、深司…」
「目立つから」
 ものすごく、とうんざり吐き捨てられて、神尾は遠ざかっていく親友の背を茫然と見つめる。
「深司……!」
「………裏のファミレス改装工事終わってたよ。二階にボックス席出来てたから、込み入った話するのにいいんじゃないの」
 その後は、なんで俺がこんな事までぼやきながら、もう伊武は振り返ってこなかった。
 神尾は、それでさすがにいつまでもこのままでいる訳にもいかず、謝罪したままの宍戸を懸命に促してファミレスへと向かった。
 伊武に勧められた学校近くのファミレスは、確かについこの間まで改装工事中だったが今は真新しくきれいになって営業中だった。
 そしてそこで神尾と宍戸はもう一人の人物と合流する事になった。
 もう一人の人物というのは、ランニング中で、その場をちょうど通りかかった青学の二年、海堂薫だ。
 海堂は見知った他校生二人に気付くと足を止め、暫く無言でいた後、何とも複雑な顔をした。
 何だよとそれには半ば自棄気味に神尾が突っかかっていくと、海堂は逆に落ち着いて、どうかしたのかとぎこちなく聞き返してくる。
 その生真面目な危惧に、言葉の返しようも無く、何となく三人でファミレスに足を踏み入れる事になったのだ。
 元々口数の少ない海堂は黙っているので、宍戸と神尾が話を始める。
 改めて謝罪で宍戸が口火をきった。
「本当悪かった。ごめんな。神尾」
「だからそれ止めて下さいって……!」
 ボックス席に座っても、テーブルに額がつくほどに宍戸はきっちりと頭を下げた。
「跡部と、どうこうなるなんて事は絶対にない。でも俺が無神経だった。ほんとごめん。悪かった」
「いえ、あの、…ほんと止めて下さい。謝るの。もういいんです。俺が勝手に落ち込んだだけで……」
「まだもめてんだろ?」
「……跡部が怒ってるのは俺に対してだけですから……宍戸さんとこは?」
「ん………まあ…俺が悪い訳だから」
 段々と二人して歯切れが悪くなってくる。
 沈んで言葉を交わす宍戸と神尾を、海堂は尚も黙ったまま見やっていた。
 話が続くにつれ、海堂にも大概の事情が理解できる。
 ひとしきり押し黙ったまま二人の話を聞いていた海堂が、腕組みしたまま徐に口をひらいたのは、宍戸と神尾の会話が一段落ついた時だった。
 一瞬の静寂の後に。
「身に覚えのない事で疑われて、腹立てられて、引くんですか!」
 まず宍戸に向かって海堂は言い、それから神尾に向かっても言った。
「お前、それはお前の方が怒る状態だろうが!」
 宍戸と神尾は面食らってしまった。
 物凄く怒っている。
 海堂が。
「おい……海堂…」
「それで二人でお互い謝ってるってのはどうなんすか」
「あのよぅ…海堂……」
「お前らが悪いのかよ? 違うだろ」
 元来迫力のある男なのだ。
 それが、そうしてきつい目をして凄むと一層の迫力となって海堂の印象をきつくした。
 それにしてもまさか彼がそんな風に怒るとは思いもしていなかった宍戸と神尾は、怯んだ表情でお互いを見やってしまう。
 尚も苛立たしさを隠さない海堂に、宍戸がそっと割って入った。
「いや…俺達の方はな…実際俺が悪いんだからよ」
「勝手に疑われてですか」
 普段目上相手に敬意は払う海堂だ。
 しかし宍戸を見据える目は恐ろしくきつく、弱ったなと宍戸は呻いた。
「…俺も最初はそう思ったけど……あいつが言ったんだよ」
「鳳が何言ったんすか」
「逆で考えてみろって……で、逆で考えたら、マジで嫌だったんだよ」
 例えば鳳のベッドから宍戸がよく知った相手が寝乱れたような姿で出てきたり、誤解を招くような言葉を口にしたりしたら、宍戸だって気分が悪い。
 嫉妬だって、きっとする。
 寧ろ絶対だ。
 だから俺が悪いと宍戸は言って、もう一度神尾にも、ごめんなと視線を向けた。
「お前、もっと俺を怒っていいのになぁ…」
「え。どうしてですか……」
 神尾が驚いた顔をするのを、海堂は呆れた声で見て言った。
「普通その状況じゃお前だって腹立つだろうがよ。それが怒りもしないで何しょぼくれてやがるんだ」
「………あんな…跡部が怒るとは思わなかったんだよぅ…」
「だから何でそれで相手が怒るんだよ。逆ギレか!」
 いつもの神尾であるならば。
 海堂にそんなにも頭ごなしに怒鳴りつけられれば、当然同じ剣幕で反論するに決まっている。
 しかし今、神尾はすっかり傷心していて、海堂にちらりと上目遣いを向けてから小さくなった声で歯切れ悪く言葉を紡ぐ。
「昨日……電話かかってきて……」
「…で?」
「お前は俺を疑ってばっかだって、跡部言ったんだよ……」
「………………」
「昔も、今も、そればっかだって。勝手に疑って、勝手に諦めて、そればっかだって。 ………跡部のこと、俺、またそうやって傷つけた。だから落ち込んでんだよ…」
 あの跡部が相手だ。
 だからこそ、そんなやりとりの背景に見えるものがある。
「………………」
 海堂にしてみれば、宍戸と神尾の言っている事も判らなくはない。
 判らなくはないが、だからといってやはり納得はしきれない。
「……長太郎も相当腹立ててるからよ…」
「跡部、本気で怒ってたから、どうしようもねえもん……」
 謝りようもないと揃って口にした二人に、再度の海堂の一喝がとぶ。
「だから謝んのは向こうからだろうが…っ!」
 荒く憤る海堂の、思いもしなかった面倒見のよさを宍戸と神尾はその後実感する。
 その日からの一週間、なんだかんだと気にかけてくる海堂と、事態が何ら代わらない宍戸と神尾は、気晴らしのストリートテニス場で、放課後ちょくちょくと顔をあわせる事になったのだ。







 跡部の自宅で始まった、一連の発端は日曜日の事。
 宍戸と神尾と海堂が顔を合わせたのが月曜日の事。
 そしてその週の金曜日になっても、状況は変わらないままだった。
 鳳と、そして跡部は、静かに深く立腹したままだったのだ。
 恋人と学校が同じ宍戸は、週の半ばを過ぎる頃には鳳と連絡を取ろうとはしなくなった。
 恋人と学校が異なる神尾は、電話なりメールなりでどうにか跡部と連絡を取ろうとしていたが、跡部がそれを全て流してしまっている。
 それでいて鳳も跡部も少しも気分が晴れた様子はなかった。
 悪循環に、益々機嫌の悪いままだ。
 そんな二人が金曜日の放課後、学校を出る時間が同じになった。
 お互いに一人。
 しばらく無言で歩いたが、微かな溜息と共に鳳がつぶやきだした。
「頭ごなしに勘ぐるような真似したのは、悪いと思ってるんです。俺も」
「………………」
「疑ったりしたら、宍戸さんが傷つくってことも判ってました」
「それでも我慢できなかったかよ」
 跡部が冷めた声で言うと、鳳は溜息に苦笑を含ませた。
「……ですね。すみません」
「俺に謝っても意味ねえだろ」
 冷徹な応えをする跡部に、鳳は、それでもこうして自分の話は聞いてくれているのにどうして肝心の相手の話には跡部も耳を貸そうとしないのか複雑な笑みで思った。
「何笑ってやがる」
「…神尾君は、ちゃんと直に跡部さんに話そうとしてるじゃないですか」
 暗に、神尾を無視し続ける跡部をたしなめる鳳の口ぶりに跡部は凶悪な顔になったが、鳳は怯むでもなく微苦笑をたたえたままだ。
「ほっとけ。こっちのことは」
「………俺も最初は相当腹立ってたんですけどね…」
「………………」
「でも、やっぱり宍戸さんが側にいてくれる方がいいです」
「………宍戸に言え」
「ですね。……一方的に腹立てて、結局寂しくなって、今更恥ずかしいもみっともないもないから………謝ってきます」
 そう言いきれて、そう行動してしまえる鳳の屈強さを跡部も認めている。
 途中まで一緒に行きますか?と鳳は前を見据えたまま言って、跡部は舌打ちで拒否した。
「誰が行くか」
 鳳が跡部をどこに行かせようとしているのかは跡部にも伝わっている。
「好きな人のこと疑うのは悪い事だと思いますけど……実際目の当たりにすると傷つきますよ……」
「てめえの話だろ」
「たぶん同じです」
 神尾君もと含みをもたされては、今度は跡部も無言だった。
 鳳と跡部はそれきり黙った。
 肩を並べて正門を出る。
「ああ、ちょうどいい」
 呼びかけはあくまでも、あまりにも、さりげなく。
 聞き流してしまえる程度にも関わらず、鳳と跡部は足を止めた。
「………………」
「………………」
 正門脇で彼らを待受けていたらしい、上背のある男の特徴的な雰囲気は、そうそう流せない。
「久しぶり。跡部、鳳」
「…乾さん」
「お前が氷帝まで何の用だ」
 鳳と跡部にゆったりと近づいてくる青学の乾は、一見その表情は柔和に見えた。
 しかし鳳と跡部は、明らかに何かを感じていた。
 何とも得体の知れない違和感だ。
「海堂の友人の彼氏の話らしいんだけどな」
 いきなり、そんな風に乾は切り出してきた。
 足を止めずに近づいてくるので、鳳と跡部は自然と正門の逆側の壁に追いやられる。
 逆光になった乾は、跡部と鳳を見据えて、おもむろに眼鏡を外した。
「………………」
「………………」
 その目は、全く笑っていなかった。
 尋常でない迫力で爛々としている。
「身に覚えのない事で相手からキレられた子と」
「………………」
「誤解されるような事しておいて、その相手から逆ギレされた子といるらしくてね」
「………………」
 ふう、と溜息を零しながら、乾は尚ももう一歩、鳳と跡部に詰め寄った。
「それに海堂が激怒してね。この一週間、俺に全然構ってくれないんだよ。どう思う、跡部、鳳」
 これは。
 確実に。
 誰よりも、強く、激しく、激怒している男が、ここにいる。
 何をされるか判らない。
 純粋な恐怖というよりも、得体の知れない空恐ろしさが、雰囲気で伝わってくる。
 荒く前髪をかきあげた跡部と、首の後ろに手をやって俯いた鳳は、一瞬の間に、そう判断した。
 言葉は無用だろう。
 むしろ今必要なのは、無駄な言葉よりも確実な行動だ。
 跡部と鳳は乾を避けて、それぞれの目的の場所へと一気に走り出した。
「………………」
 別々の方向に向かって走り出した二人の背中を見やって、乾は軽く溜息をつく。
 そのまま氷帝の正門脇の壁に寄りかかり、携帯電話を制服のポケットから取り出した。
 呼び出し音は三回で電話は繋がった。
 乾の表情が甘くなる。
「海堂? 俺。例の件だけどね……もう大丈夫だと思うよ」
「……どういう事っすか?」
 怪訝な問いかけの声は低く心地良く乾の耳に届いた。
 気持ち良さそうに乾は目を閉じる。
「ん、…まぁ…うまくいったかな、と」
「何したんですか。先輩」
「いや? とりたてて……ちょっと突っついただけだよ」
「……はあ…」
「だからさ、海堂。そろそろ俺を、構って欲しいんだけど」
「…な…、……」
「………ね?…寂しくて、俺結構ヤバイから」
 電話越しに、乾は丁寧にそう告げた。
 海堂が息を飲んだ気配が伝わってくる。
「海堂?」
「………、んな素振り見せた事もないくせして」
「我慢してるんだよ」
「………………」
「会いに行っても?」
「………俺が行く。今何処っすか」
「うん。今ね」
 乾は手放しの甘い笑みを唇に刻んだ。
 そして電話の向こう側にいる海堂に、自分の居場所を告げたのだった。







 ストリートテニス場にいた海堂が、着信のあった電話に出ている間に。
 一ゲーム終えた宍戸と神尾が、コートから揃って出てきた。
「判りました。氷帝の前っすね」
 海堂が、そう言って電話を切ったので。
 宍戸と神尾は揃って目を見開き、顔を合わせた。
「海堂?……お前今氷帝って言わなかったか?」
 宍戸の問いかけに海堂は頷いて、テニスバッグを肩にかけた。
「用事出来たんで帰ります」
「用事って……氷帝にか?」
 神尾も怪訝にしていたが海堂は構わず、指先で宍戸と神尾のバッグを指差した。
「そういや随分長く鳴ってたっすよ。携帯」
「…え?」
「あ、…」
 言ってる側から再び、二つのメロディが鳴り響く。
 着信音で相手が判るらしく、固まってしまった二人を海堂は流し見ながら背を向けた。
 その口元に微かな笑みを浮かべた海堂は、乾が今いるという氷帝に走って向かう。
 電話で今いる場所を鳳に尋ねられた宍戸は、ストリートテニス場で鳳が現れるのを待つ。
 今すぐ俺の家に来いと跡部に呼びつけられた神尾は、リズムに乗れないながらも跡部の家へと走っていった。







 ほんの少し前まで、ボールを打ち返す音が反響しあっていたコートが、今はひどく静かだ。
 宍戸は一人残ったストリートテニス場で、壁に寄りかかって立っていた。
 手には携帯電話。
 どれくらいぶりかに聞いた鳳の声から、彼がどんな心情でいるのか、宍戸には全く酌めなかった。
 こうしていると、先程の電話も自分の都合のいい空想ではなかったのかと思える程だ。
 重苦しく胸がつかえて溜息も出てこない。
「宍戸さん」
「………………」
 少しして、鳳が姿を表した時も。
 宍戸を襲ったのは安堵ではなく、強烈な緊張感だけだった。
 鳳の息は乱れていて、走ってきたのが判った。
 その表情はやはり固い。
 静かに宍戸に近づいてくる。
 宍戸は咄嗟に逃げ出したくなった。
 しかし背後は壁で、ただびくりと身を竦ませただけのようになってしまった。
「………………」
 鳳が端整な顔を僅かに歪めた。
 長い腕が伸びてきて、二の腕を掴まれた。
「宍戸さん」
 手の甲に筋が浮いている。
 宍戸は伏せた目で鳳の甲を見つめながら、鳳は相当力を入れているのかもしれないと思った。
 自分の体感では判らなかった。
「俺、これ以上、宍戸さんと」
「………………」
 電話で声を聞いた時から、どうなるかは予感があった。
 鳳がここまで怒った事はこれまで一度もなかったし、こんなに諍いが長引いた事もなかったからだ。
 関わりたくないような面倒な物事であっても済し崩しにせず、最後の通牒をきちんと示す鳳の誠実さは、優しくて残酷だ。
 宍戸は泣き出したいような気もしたし、笑い出したいような気もしたが、実際の面持ちは強張ったまま目を伏せいるしか出来なかった。
「会えないでいるの、嫌です」
「………………」
 何か違和感のある言葉が耳に届いた気がする。
 宍戸が視線を上げるより先に鳳のもう片方の手も宍戸の二の腕を掴んだ。
「宍戸さんは、あれは違うんだって事、ちゃんと説明してくれようとしていたのに。俺が一方的に腹立てても謝ってくれようとしてたのに。そういうの全部突っぱねて、俺は勝手に怒ってて」
「………………」
「疑って、宍戸さんを傷つけたのは俺なのに……拒絶しておきながら寂しくなって、辛くなって、謝りたいって思う自分がどれだけ勝手な人間かって判ってる」
 宍戸さんの言葉は聞こうとしなかったくせに、ごめんなさい、と呻くような鳳の声がした。
 宍戸が漸く目線を上げた先、何かに耐えるような目をした鳳が、何度も、何度も、繰り返して言った。
「ごめん。ごめんなさい。宍戸さん。傷つけてごめん」
「………………」
「ごめん。好きなんです。どうしても、宍戸さんが好きで、なのに酷い事してごめん」
 ごめんなさいと、ただひたすらに繰り返される。
 それを聞きながら、宍戸は、ずるりと足元から崩れ落ちた。
「宍戸さ、……っ……?…」
「………………」
 背中で壁を一気に伝って、茫然と座り込んでしまう。
 鳳がひどい慌て方で膝をついて後を追ってきた。
 両方の二の腕は鳳の手の中にあるまま、宍戸は力なくしゃがみ込み、胸に埋まってつかえていた冷たい淀みをか細い溜息で零した。
「宍戸さん?」
 食い入るような懸命さで鳳に名を呼ばれ、伺われる。
「…………かと、……おも…った……」
 え?と低い声に促されて、宍戸は茫然と呟いた。
「……別れ話……されるんだとばっかり……思った…」
「な、……何言ってるんですか……!」
 猛烈な安堵にしゃがみこむしか出来なくなる。
 どれだけの緊張感で現状を保っていたのかと、宍戸自身、思い知らされた。
 身体に力が入らない。
「宍戸さん…!」
 鳳の剣幕も相当なものだったが、宍戸は自分の事で手一杯だった。
 幾分雑に掴まれた両腕から身体を揺すられる。
 宍戸は鳳の胸元に額をあてて、小さく息をつく。
 それしか出来ない。
 あとはもう何も出来ない。
「………………」
 とてつもない力で抱き締められた。
 後ろ髪を掴み締めるような手で頭ごとかき抱かれ、鳳の腕の中に閉じ込められる。
 宍戸は喘ぐような呼気で、目を閉じた。
「………長太郎……」
 名前を呼べるようになるまで随分時間がかかって、鳳はその時間をずっと宍戸を抱き締める事で待っていた。
「長太郎……」
「……別れ話なんて覚悟しないでください…」
 頼むから、と苦しげな鳳に懇願される。
「俺が悪い。ごめんなさい。でもお願いだから……」
 怯えきった凶暴さで抱き締められる力が強まっていく。
「そんなこと考えたりしないで。宍戸さん」
「…………長太郎…」
「好きで、好きで、……宍戸さんと一緒にいられなかったら、おかしくなるの俺なんですから……」
「お前だけじゃねえよ……そんなん……」
 ごめんな、と宍戸は漸く鳳本人に言えた言葉を繰り返した。
「ごめん。傷つけて、ごめん」
 抱き締め返す。
 同じ力で。
 大切なものに触れられる、それがどれだけ特別な事かと、今更のように実感した。
 少しも離れていたくなかった。
 後から後から沸き出てくるような安寧の甘さに、浸る余裕もない。
 ただ、今は抱き締めあうしか出来なかった。
 キスする為の寸前の距離すら惜しくて、宍戸と鳳は抱き締めあったまま、動けずにいた。






 跡部の家の前で、神尾は動けずにいた。
 跡部に呼び出されたものの、走ってここまで辿りついたものの、中に入っていけない。
 散々躊躇して、混乱して、このまま逃げ帰ってしまおうかと弱気な考えも神尾の脳裏に浮かんだ時だった。
 跡部が凄まじい怒声を張り上げて家の中から出てきた。
「てめえ、いい加減にしやがれッ!」
「………っ…」
 尋常でない声に、思わず神尾が身体を竦める。
「いつまでそこでそうしてる気だ!」
 本気で怒っている跡部は、神尾の服を鷲掴みにして家の中に引きずり込んできた。
「……、……ちょ…」
 あまりに手荒に引きずられ、挙句リビングのソファに向かって半ば投げつけられて神尾はぎょっとした。
 ここまで乱暴な所作を跡部がとったことはこれまで一度もない。
 流石に怯んで神尾がソファの上で身じろぐと、跡部があからさまな舌打ちをした。
「残念だったな。呼ばれちまって」
「……え…?」
「電話一本か、メール一件かで、済ませたかったんだろうが」
「…………な…に…?」
 困惑も露に神尾が問いかけても跡部は返事をしなかった。
 神尾が座りなおしたソファの座面に片膝を乗り上げてくる。
 跡部の両手が喧嘩腰に胸倉を掴み上げるような所作で、神尾の胸元のシャツを掴んで引き上げてくる。
「お前のメールや電話に出る訳ねえだろ」
「………………」
「お前の口から別れ話なんざな。こっちは聞く気ねえんだよ」
 気分悪ぃ、と荒く吐き捨てた跡部を神尾は唖然と見上げた。
「え……あ……」
 別れ話って。
 神尾は愕然とした。
 いつどこでそんな話になったのだ。
 神尾はただ、跡部を疑ったりするような態度をとった事を謝りたかっただけだ。
 だから電話とメールを繰り返したのに、跡部は電話をとらないし、しまいには着信拒否するし、メールは放っておかれたまま。
「跡…部…?」
「お前がどれだけ傷ついたか知らねえが、だからってそんなふざけた真似俺が許すと思ってんのか」
「………………」
 跡部は、神尾が別れ話を切り出すと思っていたのだろうか。
 だから神尾からのコンタクトを全て拒絶していたのだろうか。
 神尾の脳裏に浮かんでくる幾つかの予想は、どれも突拍子もない。
 無茶苦茶で、身勝手で。
「…………てめ…え…」
「………………」
 跡部に胸元を締め上げられながら、上向いて、神尾は目の端から涙を零す。
 跡部が綺麗な顔を露骨に歪める。
 跡部、と神尾は胸の内で、何度もその名を呼んだ。
 別れ話なんてする訳ない。
 一週間前にこの家の寝室で見た光景はショックだったし。
 その日の晩の跡部の電話で、跡部を傷つけた事を知って落ち込んだし。
 その後全ての電話もメールもシカトされて、哀しくもなったが。
 別れ話なんて、全く、する気なかった。
 それなのに、跡部はずっと、それを考えていたのだろうか。
「…………跡部……」
「……聞きたくねえって言ってんだろうが…、っ…」
 歯軋りの隙間から零れ出たような低い声。
 神尾の胸元は一層締め付けられた。
 跡部が顔を近づけてくる。
 唇に、噛み千切られる勢いでキスがぶつかる。
「ン……っ…、……」
 舌を無茶苦茶に奪われた。
 神尾は両手を伸ばした。
 跡部の後ろ首に両手を回す。
「………………」
「……ぁ……と…べ…」
「………………」
「跡……部……」
 しがみつく。
 すがりつく。
 離れてしまった唇と唇が嫌で、キスをねだるように神尾は仰のいた。
「……ごめん…な…」
 神尾の手の中で、跡部の首が強張った。
 違うと宥めるように神尾が跡部の肌を指で辿る。
「疑うみたいな事して……ごめんな……跡部のこと傷つけて、ごめんな…?」
「………………」
「俺、謝りたかったんだ。ずっと」
 跡部に、と呟きながら。
 神尾は跡部に取り縋った。
 身じろぎもしなかった跡部が、動いた。
 振り解かれるのかと思って、神尾が跡部の首筋から手を浮かせると、跡部から抱き締め返されて、そのままソファに組み敷かれた。
「………………」
 神尾は、自分の肩口に顔を埋めた跡部を眼差しで見下ろした。
 顔を上げてこない跡部の柔らかい髪ごと、そっとその頭を両手で包み込む。
 舌打ちと、荒っぽいキスとで、跡部は浮上してきた。
「………っ…ん……」
 唇をひとしきり貪られた後、跡部は吐き捨てた。
「勝手に誤解したてめえが全て悪いんだからな」
「………………」
 不遜に言い放つ跡部に、不思議と神尾は全く腹も立たなかった。
 海堂あたりが聞いたら、また激怒するに違いない。
 ほんの少しも、絶対に、謝らない跡部だけれど。
 勝手に誤解した方が悪いというなら、それはまさにそのまま跡部に返せる言葉だったので、神尾も黙っていた。
 別れ話とか、何でまた、どうして思いついたりするのかが謎。
 手荒に衣服を脱がされていきながら、神尾の思うそんな謎も、いつしか欲望の勢いに飲まれ掻き消えた。






 海堂を後ろから抱き込んで座った乾は、きれいな襟足に唇を寄せて呟いた。
「また携帯気にしてる……」
「……あ……すみません。…でも…」
 海堂の腹部に回した手に力を込めて、乾は一層身体を密着させた。
「大丈夫。ちゃんと仲直りしてるから」
 氷帝の前で待ち合わせて、乾の家に向かう間、久々に乾と海堂は他愛ない話を長く交わした。
 乾の部屋に入ってからは、お互いとの距離が一際縮まった。
「先輩……鳳と跡部さんに何言ったんすか?」
「その質問、今日もう何度目かなぁ…」
「あんたが答えないからだろ…っ」
 いい加減はぐらかすなと海堂が言うと、乾は首を左右に振って笑った。
「はぐらかしてるつもりはないよ」
「………充分そう見えるんですけど」
「海堂を返してってお願いしただけ」
「はあ?」
「それだけだよ」
 乾は海堂をゆるく抱き込んで、顎を支えて少し窮屈な角度でキスを落としてきた。
 おとなしくそれを受け止めながら、海堂は訳が判らなかった。
 あれだけこじれた風だった状況が、何故そんな言葉で収まるのか。
 しかも何故自分の名前がそこに出るのか。
「乾先輩…、……」
「しー……」
 キスの狭間で。
 尚も尋ねた海堂に、乾は立てた人差し指を口元にやって微笑した。
「その続きは後で」
「………………」
 何故こんなにも乾は機嫌がいいのだろうか。
 疑問はやはり増える一方だった海堂だが、乾の熱っぽい手と眼差しと唇とに絡めとられては、そこで成す術がなくなった。






 身動きのとれない恋人達が無数。
 それはそれで幸せであるという。

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 時々こういう事がある。
 外出先で、何故か彼らは顔を合わせる事になるのだ。
 彼らは六人。
 そして三人組でもある。
 偶然なのか必然なのか不思議と遭遇してしまうのだ。
 今日は、オープンしたばかりの屋内テニスコート場の出入り口付近で。
 元プロ選手や現役の選手達が数名、オープニングイベントに参加し、広大なコートも開放するとあって、人の入りはかなりのものだった。
 そんな中でも不思議と行き当たる。
 出会えてしまうことは幸か不幸か。





 冬の冷気が音をたてている。
 風の吹き付ける甲高い音は冬の音色だ。
「来いっつってんだよ」
「やだ」
 取るに足らない口喧嘩はいつものこと。
 故に仏頂面をしている氷帝の跡部と不動峰の神尾は、お互いの距離が開き、そっぽを向きあいながらも一応は一緒に出てきているのだ。
「寒いんだろうが」
「それは跡部だろ。跡部が来りゃいいじゃん」
「俺は寒くねえんだよ」
「俺だって寒くない」
「震えてんだろうが」
「…跡部だってそうだろ」
 目線を合わせなくてもお互いの状況は判っている。
 しかし妥協するなり歩み寄るなりするには、まだもう少し時間がかかりそうな二人、そんな彼らから少し離れた所で、青学の乾と海堂は同じ寒空を見上げ冷気を浴び、身を竦ませている。
「海堂。もう少し近くに来ない?」
「………何でマフラーするなりもう一枚着てくるなりしないんですか」
「海堂といる時は熱上がるからこれくらいでちょうどいいかと思ったんだよ」
「………………」
 乾は微笑し、剥き出しの首筋の裏側に手をやって海堂を眼差しで見下ろす。
 海堂は言葉を詰まらせて眉根を寄せたが、息をのんだ様は乾の目には稚く映った。
 僅かに俯いてしまった海堂が、そのくせ乾の言葉に沿うべく、もう少し近づこうかどうしようかと、躊躇している気配がまたあからさまだったから尚更だ。
 近づきそうで近づかない微妙な距離に、甘い気配を一層煮詰めていく乾と海堂から更に少し離れた所で。
 全く衒いなくお互いの距離の縮めているのが氷帝の二人、鳳と宍戸だった。
「宍戸さん。もっとこっちに来て下さい」
「これ以上どうやって近くに行くんだよ」
「寒くないですか?」
「ねえよ。お前は?」
「あったかいです。宍戸さんは?」
「あったかいけどな。もう少し離れろよ。歩きにくい」
 腰を抱くような至近距離で、鳳と宍戸は歩き出す。
 彼らはまず乾と海堂に気づき、声をかける。
「乾と海堂じゃねえか」
 やあ、と目線を向けた乾とは対照的に、海堂は詰めかけていた乾との距離を飛びのくように広げて後ずさる。
 何だ?と宍戸が首を傾げるのに乾は微苦笑して首を振る。
「なんでもないよ。ちょっと驚いたんだよな? 海堂」
「………、……」
「……海堂飛び退かせるほど俺は凶悪か?」
 宍戸が複雑そうに傍らの鳳を見上げると、鳳はとんでもありませんと真顔で言った。
「宍戸さんはいつでも綺麗です」
「会話になってねえよ。長太郎」
 溜息をついて宍戸は海堂に向き直った。
「よく判んねえけど、驚かしたんなら悪かった」
「や、…違……すみません」
 海堂が口ごもった後、珍しくも慌てたように頭を下げる。
「あれ。宍戸さん。あっちには跡部先輩がいますよ」
「不動峰の神尾と一緒のようだ」
 鳳と乾はそう言うなりそれぞれの恋人を促して、実に判りやすく気まずい雰囲気を醸し出している跡部と神尾の元へと歩み寄る。
「おい。なんだよいきなり」
「乾先輩?」
 鳳に腰を抱かれた宍戸と、乾に肩を抱かれた海堂は面食らう。
「人助けだと思って。ね? 宍戸さん」
「はあ?」
「そういう事だ。海堂」
「…意味わかんねえっすよ」
 そうやって突如現れた四人を目にした跡部の形相は手加減も気遣いもなく歪む。
「てめえら……」
「跡部先輩達もいらしたんですね」
「久しぶりだな。跡部。神尾」
 不機嫌極まりない跡部の目は、呪い殺すような凄まじさで鳳と乾を睨みつけている。
 神尾はさすがに上級生の乾と宍戸には目礼を、同級生の鳳と海堂には気まずそうな顔を見せた。
 訳が判らず連れてこられた感のある宍戸と海堂も最初こそ弱り顔をしていたのだが。
「寒い寒くないって、ガキみてえな言い争いしてんじゃねえよ。お前ら」
 平然と火に油を注ぐような物言いで宍戸が跡部に言い捨てる。
 跡部と神尾の言い争いは彼らに近づいて行くつれ、無論宍戸の耳にも届いていた訳なので。
「宍戸……キサマ……」
「寒いに決まってんだろ。今日氷点下なんだぜ? 寒けりゃ寒いでくっついてりゃいいだろうが」
「ですよね。宍戸さん。いつでも言って下さいね。あっためます」
「だから俺はもうあったかいんだよ。もう少し離れろってさっき言ったよな? 長太郎。歩きにくいんだよ」
 怒りながらも鳳の手は払わずに、宍戸は腰を抱かれている。
 跡部の鋭い視線を受け止めたまま、宍戸は跡部達へ呆れ返った表情を崩さず晒している。
 そして片やの青学の二人組みもまた。
「そうやって背中丸めてると目立つっすよ……あんた背高いんだから」
「やー……どうにも寒くてねえ……」
 溜息を吐き出した海堂は、自分の鞄の中から使い捨てのカイロを取り出した。
「ちょっと後ろ向いて下さい」
「ん?」
「手入れますよ」
 乾のコートの裾を捲って、一枚だけ着ているらしい乾のネルの上着の背中側にカイロを貼る。
 暫くしてカイロが温まってくると、乾は思わずといった風に呟いた。
「……結構あったかいな」
「首に近いくらい上側に貼るのがコツです」
「へえ……」
「マフラー、巻いてください」
「え? いいよ、それは海堂のだし…」
「いいから巻けって言ってんです。先輩」
「………はい。…じゃ、ありがたく」
 ものすごくきつい目で乾を睨みすえながらも、甲斐甲斐しいこと極まりない海堂は、乾が自分で行ったマフラーの巻き方にも嘆息して、屈んでくださいと口にした。
 そうして僅かに屈ませた乾からマフラーを一旦外し、海堂は再び、慣れた手つきでそれを巻き直していく。
「………………」
 四人が四人全員に作為的なものを感じる訳ではないのだが、跡部の不機嫌はいい加減ピークを迎えかけていた。
 これだけ甘ったるい光景を無理矢理見せ付けられてはそれも当然と言えた。
 いつまでも言い争ってなどいないで、さっさと跡部も温まってしまえばいい。
 乾と鳳はそんな思惑も込めて、そろそろ立ち去ろうとお互いの恋人を促し歩き出す。
 背を向けた四人の背後で、中断されていた跡部と神尾の言い争いが突然に再開されて、それは彼らに苦笑を呼んだのだが。
「だいたい昨日俺が寒いって言ったのは、跡部が俺にいつまでも服着せなかったからだろ…っ」
「熱いって泣きじゃくってたじゃねえかよ。お前」
「泣いてないっ」
「嘘つけ馬鹿」
 四人の苦笑いは、跡部と神尾の言い争いの原因の、濃厚すぎるその内容に。
 力なく消え、居たたまれなく、その場から立ち去る歩を早めさせたのだった。
 11時50分のことだった。
「不動峰の神尾君に、青学の海堂君」
 そういう風に氷帝の鳳に呼ばれた二人は、鳳を見てからお互いを見て驚いた。
「うわ、マムシ!」
「……リズム…!」
 神尾と海堂は、とても近くに、寧ろ隣にいたお互いに、今の今まで気づかなかった。
「あれ、ひょっとして二人は気づいてなかったの?」
「……………」
「……………」
 長身の鳳がおっとり微笑んだ。
 それぞれ学校の違う同級生。
 今は私服姿で、場所は待ち合わせ場所としてメジャーな大型公園の噴水前だった。
「バンダナしてねーから判んなかったんだよ!」
「てめーこそいつもの黒ジャージじゃないから判らねえよ!」
「顔は同じだよ?」
「……………」
「……………」
 邪気のない鳳の不思議そうな言い方には反発し辛くて、神尾と海堂はそこで口を噤んだ。
 違う中学校に通っていて、しかしテニス部所属という共通点がある三人は、友人ではないが見知らぬ他人でもない。
 大会が行われればよく顔を見合わせる。
「二人とも待ち合わせ?」
「……………」
「……………」
 鳳の人懐っこい問いかけに、神尾と海堂は更に固まった。
 鳳の言うように、二人はまさに待ち合わせをしている。
 この状況ならば誰でも判る事かもしれなかったが、それに続いた鳳の言葉は神尾と海堂の心臓を握り込んだものだった。
「神尾君は跡部部長と?」
「………っ…」
「……なんでてめえが氷帝の跡部さんと……」
「う、……うるせぇ…っ」
 笑みを浮かべる鳳、赤くなる神尾、怪訝な海堂、再び赤くなる神尾、と規則正しく彼らは変化した。
「海堂君は乾さんと?」
「…………、…」
「……休みの日までつるむほど仲良いのかよ」
「……う…るせーんだよ…!」
 神尾と海堂だけ役割を交代して、先ほどと同じリアクションがもう一度繰り返される。
「俺は宍戸さんと待ち合わせ」
 聞いてねえ!と息のあった応えを、神尾と海堂は鳳に向けて同時に叫んだ。






 同学年、テニス部、人待ち、待ち合わせの場所。
 彼ら三人の偶然同じであった出来事は、ここまでだった。
「……待ち合わせ時間が十二時半?」
 お前どれだけ早く来てんだと海堂は鳳を唖然と見上げた。
 鳳は鳳で、きつい海堂の目つきにも何ら怯まず、少しでも早く会えるならそうしたいからと言って微笑むばかりである。
 広場にある大きな時計が、正午を知らせて鐘を鳴らす。
「海堂君の待ち合わせ時間か。………ええと、神尾君…」
「下手な慰めなんかかけやがったら」
「……………」
「……、…っ…そーゆー顔で、じっと見んなマムシ…っ!」
 十一時半の待ち合わせだという神尾は。
 両脇をかためる鳳と海堂からの視線を振り払うように激しく怒鳴り散らした。
 三十分の待ちぼうけをくらわされてもまだ待っている自分だけが馬鹿みたいじゃねえかとか。
 どうせ俺はお前らとは違うとか。
 思っている事全部を口に出してしまって喚く神尾に、さすがにからかいの言葉を向けるような性格はしていない鳳と海堂は。
 とりあえず神尾の待ち人だけでも早く現れてくれないだろうかと祈った。
 しかし事は得てして一番避けたい方法で起きるもので。
 十二時十五分。
 噴水前に三人の三年生が、揃って姿を現した。
「長太郎。お前何時に来たんだよ」
「今ですよ。宍戸さん」
「嘘つけ。アホ。お前なぁ、何度言や判るんだ? 夏場とかだったら脱水症状起こす場合だってあるんだからよ。無駄に早く来んなっての」
 トレードマークのキャップを後ろ向きに被った宍戸が、待ち合わせ時間の十五分前に現れて鳳を叱る。
「ごめん、海堂…! 待たせた…!」
「………気にしてないっすよ」
「いや、怒っていいって。怒る所だから。ほんとすまない。家を出る時間が遅すぎた」
 普段が落ち着き払っている分、真剣に謝って慌てている様子がかわいいようにも見えるなどと海堂に思わせている乾は、待ち合わせ時間の十五分後に現れてしきりに頭を下げている。
「なに喚いてんだ神尾。道路まで聞こえてるぜ。お前の馬鹿っぽい声」
「……、…っ…馬鹿だと? 最初にそれか?! ここまで人待たせておいて、詫びの言葉も無しか?!」
「お前が俺を待つのは当然だろうが。お前は俺が来るまで待ってりゃいいんだよ」
 ゆったり歩いてきて、たっぷり悪態をついて、すっごく偉そうな立ち居振る舞いの跡部は、待ち合わせ時間の四十五分後に現れて、慌てるどころか謝るどころか寧ろ神尾に説教している。
「判ったか? 長太郎」
「悪かった! 海堂」
「うるせえよ。神尾」
 三者三様に上げた声が重なって。
 ここで初めて。
 三人の三年生は、お互いの存在に気づいたようだった。
「……何だ? お前ら…」
「……おや。これはまた」
「……………」
 目を見開いた宍戸、眼鏡を押し上げた乾、不機嫌に押し黙る跡部。
 三竦みになった彼ら三年生に、二年生の三人も加わり、合計六人が。
 明るい日差しを反射させて眩く水滴を散らす噴水前で、対面と相成った。
 その場に生まれた沈黙は一瞬の事で、真っ先にそれを打ち破ったのは宍戸だった。
「跡部。お前遅刻したんならちゃんと謝れよ。なに偉そうにしてんだ」
「ああ? 誰に物言ってんだ宍戸」
「お前だ跡部」
 宍戸の言う事は正論は正論なのだが、聞いて凄む跡部は相当恐ろしい形相をしている。
 それに対して宍戸はまるで構っていないようだったが、焦ったのは神尾だ。
「え? あの、…」
「神尾。お前どれだけ待ったんだ?」
「……え…、…」
 あまり話をしたことのない他校の上級生に名前を呼ばれ、真正面から目線を合わされて。
 神尾は言葉を詰まらせる。
 あの跡部を相手に、あんな物言いをする人間を見たことがなかったから驚いたのもあるし。
 他人のことなんかどうでもよさそうな感じのする宍戸の、思いも寄らない気さくな口調に驚いたせいもある。
「………気安くそれを呼ぶな」
 跡部が一層不機嫌になっていく。
 宍戸に向けてそう言った後、跡部は神尾の事もきつく睨み据えた。
「てめえもそういうツラするんじゃねえよ」
「……は?」
「なに神尾睨んでやがんだかな。……ったく」
 呆れた宍戸が、次に矛先を向けたのは海堂にだった。
「よう、海堂」
「……ッス」
 一度試合をした事があるせいだけでなく、基本的に海堂は目上には礼儀正しい。
 宍戸に呼ばれて目礼した海堂に、宍戸は問いかけてくる。
「神尾はどれだけこの俺様の事を待ってたんだ?」
「…………四十五分ッス」
「サイアクだな、跡部」
「ふざけんな。てめえには関係ねえんだよ」
「サイアク」
 口が悪い上に、不機嫌な跡部相手でも何ら物怖じしない宍戸の態度を、つい海堂もまじまじと見つめてしまった。
 海堂にとって、特に拘りのある試合の対戦相手だった宍戸へは、どことなく不思議な感情を持っていた。
「……なあ鳳」
「はい? 何ですか? 乾さん」
「宍戸は何故君に聞かないで海堂に聞く?」
 乾が海堂の横顔を流し見て複雑そうに呟くのに、鳳は笑みを深めた。
「俺が答えると部長の怒りの矛先が俺にも向くからだと思います。他校の海堂君にはそんなことしませんから。跡部部長も」
「なるほど? 君を庇うわけだ。宍戸は」
「優しい人ですよね」
「……のろけないでくれるか。鳳」
「すみません」
 そんな快活に、爽やかに謝られてもねえ、と乾は嘆息する。
 そうしながら、集中力のある海堂の注意が、そろそろ宍戸から戻ってきたかを伺う為に、乾はそっと海堂を盗み見る。
 すると、しっかりと、目が合った。
「…海堂?」
「……………」
 感情が表情に出にくい海堂だけれど。
 乾にはそのあたりの詳細も判るから。
 今海堂が考えているであろう事を察知して、乾は唇に笑みを刻んだ。
「海堂が宍戸に見惚れてるから、俺があぶれて鳳と話し込む事になったんだけどな」
「……、…っ…」
 見惚れてって何だという目。
 海堂の感情の何を見透かしてそういう事を言うのかと身構える目。
 乾には海堂の瞳に宿る感情がつぶさによく判った。
 海堂に近づいていって、そっと笑みを零す。
「遅れてごめんな。海堂」
「……さっき聞いたっす」
「うん。でも本当に悪かったと思ってるから」
 早く二人きりになるにはどうするのがいいかな?と乾は海堂にだけ聞こえるように囁いた。
 無表情だった海堂に、乾だけが知る、気をゆるしてくだけた表情が一瞬浮かぶ。
 乾の言葉に、呆れたようでもあり、はにかんだようでもある。
「走るか。ここから一緒に」
 真顔で、わざと恥ずかしい方法を提案してみた乾も、結局楽しんでいるのだ。
 ただ、ほんのり滲むような雰囲気の甘さを堪能するには、周囲の賑やかさがかなり邪魔ではあるが。
「神尾。お前どういうつもりで、あんなツラして宍戸の奴なんか見やがんだ?」
「訳わかんねーこと言うなよさっきから!」
「訳わかんねーのはお前だ。馬鹿」
「勝手に何不機嫌になってんだよ! 人のこと四十五分も待たせておいて、普通怒るの俺だろ! もー、絶対、待ってなんかやらねえからな! 一分でも遅れたら俺は帰る! てゆーかもう今日も帰る! 跡部のバカヤロウ!」
 はっきり言ってうるさい二人だった。
 公共の場で迷惑極まりない。
 正確には叫んでいるのは神尾一人なのだが、この直後、うるさい以上に傍迷惑な行動に出たのが跡部だったので、二人まとめての迷惑行為に他ならない。
「……なっ、……な、……なに、…」
 いきなり。
 跡部に抱き締められた神尾は、一転。
 それまでの剣幕とは逆に、今度は声も出せなくなってしまったようで、口をぱくぱくさせていた。
 顔は、ちなみに真っ赤だった。
「…………っ………な…、……跡、…」
「押さえとかねえと走って逃げんだろうが」
 押さえているとかいうレベルだろうか。
 甚だあやしいこと極まりない。
 衒いのない、と言い切ってしまうのも気恥ずかしい程の抱き竦めっぷりは、白昼堂々の公園で繰り広げられる行為としては犯罪に近いのではと思ってしまうくらいだった。
「バ、………ちょ…っ……離せ…!」
 気の毒にもますます真っ赤になっていく神尾の顔を、角度的に正面から見ている乾と海堂は、見ない振りをしてやるのがせめてもの親切だろうかと、さりげなく彼らに背を向けた。
 神尾は周囲を気にしつつも、そんな青学の二人の細やかな気遣いには意識を向ける事が出来ないようで、すでにもう半ベソで跡部に抱き締められていた。
 跡部も。
 恐らくは半分面白がっての嫌がらせなんだろうけれど、神尾の薄い背をかき抱く腕の熱っぽさに垣間見えるのは、大概本気な欲だけである。
「宍戸さん?」
「ん?」
「いえ…何か楽しそうだから」
 鳳が、そっと呼びかけた宍戸は。
 賑やかだったり秘めやかだったりする二組の恋人同士を見つめて、呆れているのかと思いきや、何だか優しい顔をしていた。
 それに気づいて声をかけた鳳にも、宍戸は笑みを向けた。
「ああ……可愛いもんだと思ってな」
 二人とも、と優しげに見守るような眼差しに、鳳は上半身を屈めた。
 宍戸の耳元に囁けるように。
「綺麗で」
「……あ?」
「優しくて格好良くて、憧れて」
「……………」
「そういう俺の全部の初めての人が宍戸さん」
 可愛いのなんて、宍戸さんでしょう?と鳳が告げれば、宍戸は神尾よりは控えめに、海堂よりは判りやすく、その表情に含羞を帯びさせた。






 三者三様の、二人きりの世界。
 それらはたまたま公園前を通りかかった青学の菊丸と不二の声が敷地内に響くまでは、甘ったるく繰り広げられていた光景だった。
「そこの六人ー。トリプルデート中ー?」
「グループ交際なんて可愛いね」
 菊丸と不二、彼らの言葉に。
 六人はその場に一斉に固まり、沈黙した。
 そして次の瞬間。
 それぞれが、それぞれの三方向に、全力で走り出していった。
 散らばった三組の恋人達の、その後の過ごし方は、当事者以外誰も知らない。

 酷い、酷い、酷い男だと、最初から判っていたのに、知っているのに、その都度いちいち全部に傷つく自分が馬鹿だ。




 精一杯の虚勢を張った神尾が、跡部と喧嘩をする事なんて、しょっちゅうで。
 お互いが本気になるとそれは結構な騒動で、かなりの剣幕の、喧嘩になる。
 でもそうやってどれだけ喧嘩をしても。
 腹をたてるのはお互い様でも。
 傷ついているのはきっと、自分の方だけだと神尾は思っている。
 本当は、喧嘩なんかしないで、優しくしたり、優しくされたり、したいだなんて馬鹿な事を考えているのも自分だけだと判っている。
 そんな神尾だから、跡部との言い争いを繰り返す毎に、自分自身の虚勢が少しずつ少しずつ壊れていっている事にもちゃんと気づいていた。
 弁のたつ跡部に、言い負かされないように。
 跡部に勝てるものなんて何もないと、自分で本当は判っている神尾だから。
 気ばかり張り詰めていく一方だ。
 感情が不安定で、だから不必要な、過剰な言葉や態度を、時々跡部に全部ぶつけてしまいそうになる事が神尾にはひどく怖かった。
 もし跡部に告げたらそれでもう何もかもがおしまいになってしまうと理解している言葉や行動があって。
 それをぶつけたら、単なるいつもの喧嘩では済まなくなるような。
 全部が終わってしまうような。
 もう跡部との関係の全てが断ち切れる、爆弾みたいな言動。
 恐らく跡部はあっさりと、それならもう会うのも口きくのも金輪際止めると簡単に返してくるだろうきっかけの言葉が、放ちたくもないくせに神尾の中には幾つもあった。
 幾つもそれらは生まれては神尾の胸に全て溜まっていった。
 何でそんな言葉が自分の中に増えていくのか、神尾には訳が判らなかった。
 本当は、跡部と言い争いなんかしたくない。
 本当に、跡部と別れたりなんかしたくない。
 それなのに。
 多分もうそろそろ危ういと察してはいたものの、とうとうそのうちの一つが、その日。
 神尾の唇から零れ落ちてしまった。
「もう二度と会わねえよ!」
 そう叫んだ瞬間、神尾はぎくりと身体を強張らせ、心中は冷たく凝ったが。
 呆れ返ったような跡部の表情を見てしまい、一気にその胸は煮えたぎった。
 言ってしまったらそれが現実になってしまう、神尾の中の禁忌の言葉のうちの一つを。
 跡部が拾って即座に肯定してきた方が、まだいっそ、ここまで感情が激高することはなかったように感じた。
 跡部の表情を見て、神尾は思い知らされてしまった。
 この言葉は。
 神尾には絶対に言えない、言う訳がないと、跡部は知っていたのだという事。
 二度と会わないなんて真似、神尾に出来る訳がない事。
 跡部は知っているのだ。
 だから。
 跡部はそんな顔で今、神尾を見据えて何も言わない。
「…………、…っ……」
 神尾は奥歯を噛み締めた。
 悔しかった。
 酷く、悔しかった。
 跡部を睨んで神尾は唇を噛み締めた。
 どうして自分ばかりがこんなにも惨めなんだと、涙も冷たく、凝った。
 跡部の部屋で始まった今日の言い争いのきっかけが何だったかも、今の神尾には思い出せなかった。
 ただ、跡部の口にした最後の台詞だけが、神尾の虚勢の全てを崩して壊してしまったのだ。
『別に俺はお前じゃなくても抱ける』
 跡部はそう言った。
 そんなこと、知っていたけど。
 でも、言われたくなかった。
 その前には確か、些細ないつもの口喧嘩をしていて。
 お前は俺の玩具だと、跡部は言った。
 続け様のその二言で。
 だから神尾は、判りたくもないのに。
 ああ判ったよ!と叫んで。
 それでも尚平然と、騒ぐんなら出てけとうんざりと跡部が言ったから、もう二度と会わないと言い放ったのだ。
「………………」
 瞬時呆れ返った顔をした跡部は、今も神尾が睨み据えるのを真っ向から受けとめているだけだ。
 沈黙の中、跡部が僅かに目を細めた。
 跡部の顔は、その他は完全な無表情だった。
「……好きにすりゃいいだろ」
「………………」
 そして、やはりこんなにも簡単なのだ。
 傷つくのも、やはり自分の方だけなのだ。






 オモチャか、と神尾は電車の窓ガラスに映っている自分の顔を見ながら考えていた。
 跡部の家を出て自分の家へと、ただぼんやりと足を動かし移動している。
 あの後からのことは記憶に不鮮明で、気づくと神尾は電車に乗って窓の外を見つめていた。
 我に返った神尾が、止まっていた思考で考え出すのは、やはり跡部のことだった。
 最初から、跡部が自分を何故構ったのかといえば。
 それは毛色の違った自分への物珍しさが機縁だという事を、神尾も察していたから。
 そういう物珍しさがなくなったら、まあ、飽きるんだろうな、と。
 神尾だって前々から判っていた。
 考えてもみなかったような言葉を言われた訳ではないので、決してショックで死にそうに感じていたりはしない。
 何だか今日のこと全てが、なるべくしてなった事だったのだろうと、寧ろひどく冷静に理解している自分がいる。
 そのくせ、もう必要ないと跡部の口から言われる事だけは怖くて。
 そう言われてしまう事だけが、ひどく怖くて。
 神尾は衝動的に、自分から、本当ならば一番言いたくない言葉を発していた。
「………………」
 最寄り駅で電車を降り、ただ規則的に身体を動かすだけで、帰途につく。
 別に泣いたりはしない。
 泣きたい訳でもない。
 早く家に帰って、一人になって。
 多分すぐに眠れると神尾は思った。
 何だか頭の中がぼんやりする。
 早く、一人に、そう思って。
 辿りついた自宅の扉の鍵を開け、ノブに手を伸ばした神尾の身体は、次の瞬間、物凄い力で後ろ側に引かれた。
「………、っ」
 足元を滑らせたかと思った神尾は、自身の背がぶつかったものが、地面でも壁でもない事にすぐに気づいた。
 でもそれが何かは咄嗟に判らず、息を飲んで、背後を恐る恐る仰ぎ見た。
「ど、………」
 神尾の二の腕を痛いくらいに握りこみ、そこに居たのは跡部だった。
 眩暈でもしたかのように動けなくなって、神尾はそのままの体勢で愕然となる。
 どうして。
 跡部がここに居るのか。
 どうしての意味があまりにたくさんあって。
 神尾は途絶えてしまった言葉の続きを口に出せない。
 ただ判るのは、跡部がここにいる理由は何もないという事だけだ。
 だから。
 怯えや嫌悪がない代わりに、神尾はただ驚愕だけを湛えた表情になる。
 跡部に睨み下ろされて。
 沈黙を破って問われた跡部の言葉の意味も判らなかった。
「どういうつもりで出てったんだ。お前」
「……どういう…って…」
「………………」
 声を荒げたりしない分、跡部の口調は冷え切っている。
「言葉だけなら売り言葉に買い言葉かって多少大目に見てやってもいいが、実際出てくってのはどういう腹積りかって聞いてんだよ」
 掴まれていた二の腕が一層きつく握り込まれて、神尾は眉根を寄せた。
「…………跡部こそどういうつもりでここにいるんだよ」
 神尾自身びっくりするくらい強張った声が出た。
 でもそうやって言葉にしてしまうと、さっきまでの無気力めいた感情は全て吹き飛び、神尾の内部に強い感情が満ちてくる。
 酷い衝動だった。
「俺の好きにしろって跡部が言ったんだから、俺はもうお前と会わねえの! だからだろ! 文句ないだろっ。帰れ馬鹿っ!」
「ふざけるなッ!」
 物凄い怒声に、神尾は思わず、ぐっと息をのんだ。
 それまで平然としていた跡部が、今まで神尾が聞いた事もないような声で神尾を怒鳴りつけてきた。
「認めねえんだよ、んなこと!」
 更に二の腕をきつく掴まれて、骨に直接食い込んでくるかのような跡部の指が痛くて。
 有無を言わせない厳しい怒鳴り声が痛くて。
 自分達の、いろいろな意味での力関係の差にが痛くて。
 神尾は、ぼろぼろと涙を零した。
 少し前までは、泣こうなんて全く、思わなかった筈なのに。
 跡部を睨み据えたまま、今は、涙が止まらなくなってしまった。
「………ふざけんな……」
 また、跡部は同じ言葉を口にしたけれど。
 先程の時とは全く違う、随分と投げやりで力ない声だった。
 苦々しい舌打ちは神尾の耳にも届いたけれど。
 跡部の表情は、もう見えなかった。
 神尾の視界は涙で歪んでいるばかりだ。
「人の話の途中でお前が馬鹿な事言うからだろうが」
「話、なんか……っ…」
「してただろ。さっき言っただろうが。別に俺は、お前じゃなくても抱けるって」
「………、…っ…」
 神尾がつかまえられる跡部は、耳で聞こえてくるその声だけなのに。
 低い跡部の声が告げた言葉は、今日、神尾をざっくりと切りつけたその酷い言葉だった。
「………バカ、…やろ…っ」
 そんなこと改めて、二度も、何度も、聞きたくなんかない。
 それなのに、どうしてそんなことを、また、わざわざ口に出すのかと、神尾は空いた手で涙を流すばかりの目元を荒く拭った。
 跡部と比べれば、自分は馬鹿かもしれないけど。
 でも。
 一言を、一度だけでも、言われれば。
 それで全てが判る事だってある。
 もうあれ以上、跡部の口から何も聞きたくなかった神尾の思惑など歯牙にもかけず、追いかけてきてまで、その続きを言おうとする跡部は。
 神尾が跡部の事を、ただ好きでいるだけの事も、これからは決して許そうとしていないのかと、神尾はそういう風に考えるしかない。
「………俺も…」
 上擦った声に涙は完全に浸透してきていて。
 震えて、掠れて、最後の最後までみっともない。
 神尾は必死で、声を振り絞った。
「早く……別の相手…見つければいいのか」
 跡部みたいに、と涙と一緒に神尾が零せば、跡部の腕の拘束が僅かに緩んだ。
「何、…」
「…追いかけてきてまでして、そんな顔して、最後まで言うくらいなら……俺が、早く、そうすれば……いいんだろ。跡部は」
 神尾の持っている跡部に由来するもの全てを、跡部は壊してから、その上で自分を放り出したいのだ。
 こんな駄目押しをするくらい、本気で。
「………………」
 今なら跡部の手から逃れられる。
 ここまできても、やはり、最終通告は聞きたくない。
 神尾は跡部の手から、掴まれていた自分の腕を取り返し、このまま家の中に入ろうと、再びドアノブへと指先を伸ばした。
 その時だ。
 神尾の背後で、何かが聞こえた。
 何かが。
「………………」
 酷く痛いものの気配、実態のないそれが、強い衝撃を与えるように周囲の空気をビリビリと張り詰めさせた。
 思わず振り返ってしまった神尾は、それが、跡部の声であった事を知る。
「…、ぁ……と…べ…?」
 誰がそんな話をしてる、と。
 跡部が発した怒声であったと。
 神尾は無理矢理跡部に肩を掴まれ、握り潰されそうな力の強さに誘発されるようにして、その言葉を理解した。
「……全然意味判んねえのかッ?」
「………ッ…、」
 ドアに強かに背を打ちつけられて、物凄い音がして、今更ながらに神尾は家人や近所が気になった。
 その一方で、ああそういえば、と神尾はぼんやり思い当たる。
 今日は家に誰もいないから、自分も跡部の家に出かけて行ったのだったとか。
 どうでもいいような事を思い返したりもしながら、神尾は跡部の剣幕を茫然と目の当たりにする。
「誰が、いつ、お前に俺じゃない男と付き合えって言った……!」
 胸倉を掴まれて、頭ごなしに自分を怒鳴りつけてくる跡部が、どれだけ本気で怒っているかが神尾には判るから。
「………なんで……」
 そんな風に怒るんだと、神尾は声を詰まらせて泣いた。
 しゃくりあげて、嗚咽交じりに跡部を詰った神尾は。
 跡部に胸倉をつかまれたまま、跡部の顔を見返した。
「……、…ん…で……怒、…ん…だよっ」 
 歯噛みする音まで聞こえそうな距離まで、顔を近づけてきた跡部は神尾の胸元を鷲掴みにしたまま呻くような声で言った。
「誰だって抱けるのに、お前だけしか抱きたくない。お前以外抱く気がない。人をそこまではまらせておいて今更何ほざいてんだてめえは…っ!」
「…………ぇ…?」
 神尾の身体から、全ての力が一気に抜けた。
 そうして思考能力もまた、それと一緒に完全に止まってしまったのだった。






 あのままその場に座り込んでしまった神尾を、何だか跡部も急に我に返ったような顔をして見下ろして。
 今更といえば本当に今更だったのだが、周囲を気にするように跡部は視線を動かした。
 神尾の自宅前で、そこの家の子供が男に恫喝されて泣きまくっているのだから、見ようによっては即刻騒ぎになっても何らおかしくない。
 ただ幸い、そういった目に晒されてはいなかったようで。
 それを一瞬で確認し終えた跡部は、深い溜息をついた。
 そして荒く前髪を握り締めると、座り込んだ神尾を厳しく見下ろしてきた。
 家に誰かいるのかと聞いてきた跡部に、神尾は首を左右に振るのが精一杯だった。
 跡部に引きずり上げられるようにして、神尾は自宅の中に入った。
 自分のテリトリーのはずなのに、神尾はもう何も出来なくて、跡部に手を引かれるようにして自室に向かう。
 唖然としたままの神尾をどう見ているのか、跡部は、機嫌は決して良くなさそうなのだが、どこか仕方なさそうな顔をしてもいた。
 神尾をベッドの縁に座らせると、その正面に立って尊大に見下ろしてくる。
「俺にすれば、オモチャってのは最大級の賛辞だ。バァカ」
 そしてこう行ったのである。
「………は?」
「俺はつまんねえもんでなんかで遊ばねえんだよ。一生もんでなけりゃ、自分から何をしてでも手に入れる気なんかない。このバカ」
「……、…バカバカってさっきから…!」
 つい挑発にのるように返してしまったものの、未だ神尾には事情がよくのみこめていなかった。
 あんなに。
 あんなに、ショックを受けたのに。
 酷い、本当に酷い事を言われたのに。
 この男に。
「………………」
 跡部を見上げて、でも、今神尾が感じるのは。
 さっき聞いたあの言葉の続きと、跡部が自分を追いかけてきてくれたのだという現実だけだ。
 重い二つのそれで、手一杯だった。
「お前は俺の玩具だ。お前で一生遊んでやる」
「………………」
 跡部の言葉は、あの時とまるで同じ筈なのに。
 どうして今は、あの時とまるで違う風に聞こえるのかと、神尾が放心状態で見上げる先、跡部が眉を寄せたのが判った。
「………ったく…」
「………………」
「一生、お前だけって事だよ。こう言や判るのか」
「え……?…」
「思考回路単純なくせして、俺の言う事だけ無駄に穿ってんじゃねえよ」
 舌打ちして。
 乱暴に髪をかきまぜられて。
 でも膝をついてきた跡部に両肩を掴まれ、重なった唇は。
 掠った程度なのに、ひどく熱かった。
 神尾が半ば硬直してそのキスを受けると。
「不満か」
「………………」
 唇と唇の合間で囁かれ、神尾は訳もなく首を左右に打ち振りそうになってしまう。
 実際は、あまりに目まぐるしい展開に、未だついていけずに。
 ただ跡部を見つめるので精一杯だった。
「………跡部のオモチャって……」
「何だ」
「いつでも、いらなくなったら捨てるもの…って意味じゃないの?」
 どこかぼんやりとしてしまう中、それでもこれだけは聞きたくて問えば、跡部は茶化すでもなく、怖いくらい真剣な顔で言った。
「一生手放さねえって意味だって言ってんだろうが」
 他の奴のものになるなんて事は一生ないから腹くくれと、神尾の首筋に跡部の言葉と歯とが沈んでくる。
「いつまでびびってんだ」
「………ってなんかない、けど」
「けど? 何だ」
「………………」
 目線が同じ高さになった跡部に睨み付けられ、神尾は、だってこんなにも簡単に収拾をつけられてしまっていいものかと、言葉を詰まらせる。
 自分が壊れそうなくらい傷ついた言葉を。
 今はこんな、まるで甘い独占欲のように聞けている自分が信じられない。
 そういう感情から神尾は言いよどんだのだが、跡部は憮然と詰め寄ってきた。
 自分自身の感情がうまく言えずに押し黙る神尾を、真っ向から直視してきながら、ふと跡部の気配が変わったのが神尾にも判った。
 わざとらしくではなく吐き出した溜息の、思いもしない困惑の気配に神尾は戸惑った。
「……いい加減、機嫌直せっての」
「………………」
「おい?」
「なんで…?……」
「調子狂うからに決まってんだろ」
 ついでにそういう困ったようなツラはするなと跡部が素っ気無く言って。
 神尾の唇を噛んでくる。
 それが、キスかと判ったのは跡部の舌に甘く絡め取られた自分の舌を神尾が自覚した時だ。
 キスのやり方はあくまで甘ったるくて、優しげな手に頭を抱え込まれるようにして、やんわりと舌を噛まれるともう。
「……気持ちよさそうなツラ」
 笑う吐息に煽られて、間近から見つめてくる跡部の眼差しの強さにも駄目になって。
 潤みきった眼で神尾が睨むようにすれば、一層跡部は笑い出す。
 笑って、笑って、しまいに黙って。
 そうして結局毒づいた。
「………てめえは」
「………………」
「なんなんだよ。そのツラは」
「………………」
 瞳がきつくなって。
 呻くみたいにして。
「………ん…、…っ…」
 乱暴に、抱き込まれて。 
 めちゃくちゃに深いキスで塞がれて。
 閉じ込められて。
「……ァ………、」
「………………」
 力づくのキスなのに、痛いのが嬉しいなんて相当おかしい。
「………………」
 嫌なのではなく、深すぎるキスが苦しいから神尾は腕は突っぱねるのに。
 何だか傷ついたように苛ついて、一層手荒に神尾を抱きこんでくる跡部に、神尾はひっそりと安堵感を覚えた。
 無くさないで済んだ男。
 同じ言葉を、全く違う意味で理解してしまう自分達だけれど。
「…、跡部…は……」
「………何だ」
 キスをされたままベッドに組敷かれた神尾が、噛み合わせを変える為に外れた唇の合間で声にならないような声で問いかけた言葉を、決して流さずに拾い上げられて。
「オモチャって……俺で、…どうやって遊ぶんだよ……?」
「決まったやり方がある訳ねえだろ」
「…そ……なの…か…?」
「いいのか?」
「なに?…」
 問いかけに問いかけで返されたら判らない。
 戸惑う神尾に、跡部は薄く笑った。
「お前で。今、遊んで」
「………………」
 オモチャなんて。
 最初に聞いた時は、ざっくり傷ついた。
 酷い、怖い、言葉だったのに。
「…………跡部……あそびたい?」
「ああ」
 目を細めるようにして、見据えてきて。
 お前で、あそびたいと。
 睨むように笑みを浮かべる跡部の表情に、何だかもう、何をされてもいいような気に神尾はなった。
「俺が、楽しいと思う事が少ないんだよ」
「………………」
「だから、遊んで楽しいものを見つけたら、そういう事には真剣なんだ。テニス見つけた時と同じだ。お前は」
 跡部が言うから。
「知ってて下手な勘違いしてんじゃねえよ」
 遊びたいなんてお前にしか思わないと駄目押しされるから。
 神尾は息を飲み、その唇を、跡部に塞がれる。
 焦れて、餓えたような、荒い口付けに。
 ゆるやかに喘がされていきながら、神尾は跡部を見つめ続けた。
「……俺が一生言わない言葉、平気で口にしておいて…」
「………、ぇ…?」
「二度と会わないとか、二度と言うんじゃねえぞ」
 吐き捨てるような苛立った声は一瞬だったけれど。
 跡部にしては珍しい、急いたような手に服を剥がされていきながら、神尾は何だかどうしようもなくなってしまった。
「………神尾?」
 跡部が神尾にしたのよりも数段雑に、自身の服を脱いでいる中。
 神尾は上体を起こし、跡部の下腹部に顔を近づけていく。
 言われたからではなく神尾がそれをしようとすると、跡部は少し笑った。
 でもそれは面白がっているのではなく、珍しく何かを誤魔化すような曖昧な笑い方だった。
 神尾は身体を屈めて、跡部の足の狭間に唇を寄せる。
 舌を差し伸べるより先に、口腔に直に、ゆっくりとそれを含み取っていって。
 口の中で脈打つものの存在感にびくりと肩を震わせた。
「………ン、っ…」
「………………」
「…っ…、ふ……ぅ……」
 すぐさま喉を突かれるように、のびあがってきたもの。
 神尾の舌に乗る重みに、たちまち狭いその場所は埋められた。
 粘膜をすきまなく触れ合わせたまま、奥まったところから先の方へと神尾が舌を這い上がらせていくと、神尾の口の中で更なる急な角度がついて、ぐっと喉までそれで押し上げられた。
「………、ぅ」
「……お前のが、いいっていうようなツラしてんじゃねえよ」
「………、……と……べ…?」
 からかって笑う事に失敗したみたいな顔で跡部は神尾を見下ろしてくる。
 笑みに歪み損ねた跡部の口元は、熱のはらんだ息を繰り返す事で濡れているように見えた。
 神尾は跡部のそんな口元を見上げたまま、再び唇を開き、口腔にそれを通していく。 たいした事をしていないのに、神尾の舌の行く先で、跡部のそれは熱を増し、形を変える。 本格的に含みきれなくなって、神尾は横ざま跡部を唇で食んで舌で撫で擦る。
 頭が跡部の手に抱え込まれて、でもその手は神尾をそこに押し付けるのではなくそこから引き剥がす為に動いた。
「…………ぇ……、…?…」
 口腔の粘膜を一息にこすられる刺激に身体を震わせている神尾は、幾分手荒にベッドに押さえつけられた。
 神尾に乗りあがった跡部は神尾を見下ろし、ほんの一時も神尾から視線を外さなかった。
 潤みきっている神尾の口の中に跡部は指を差し入れてきて、すくいとるような動きでそこをかき回される。
 もっていかれた唾液をまとった指の行方は神尾にも判っていたけれど。
 でも実際下肢からその指で身体をくぐられて、神尾は喉を詰まらせた。
「ン…っ…、……ッん…、…ぅ…、ん、」
 苦しさもある。
 でもそれよりも。
 余すところなく晒されている跡部の表情を見上げていれば堪らなくなってしまって、神尾は体内に送り込まれているものを受け入れようと身体の力を抜いてそこに意識を集中する。
 抵抗感に少しずつ逆らいながら、最後にはとうとう滑り落ちるみたいにして。
 深みまで束ねた二本の指が通されたと、神尾が気づいたのはその時だ。
「……っぁっ」
「………神尾?」
「ん、…………へ……き…、…っ……、っ、ぁ」
 全部判っている跡部の指に、狙われて擦られ、押し込まれた所から全身に拡散していく刺激の強さと甘さとに、神尾は大きく身体を震わせた。
 それを幾度も幾度も繰り返されると、神尾は時期に首を激しく左右に振ってもがき出した。
 一から数え直すように、執拗にされ出したのに気づいたからだ。
「……も、………だい…じょうぶ…、だ…から……っ…」
「…………んなわけあるか」
「だ…って、…も……、これ、…」
 もがいた時に膝の内側で偶然掠めた跡部の熱から感じ取った焦燥感を、見て見ぬ振りする事も出来ずに。
 先程口で感じ取った時よりも、更に追い詰められている気配がする。
 焦れているのが自分だけではないと判ったから。
 欲望を隠さずに、それでも慎重に神尾の身体をならす跡部に、神尾は何度も、訴えた。
 跡部の後ろ首に取り縋って、せがむような拙い言葉を繰り返した神尾に、跡部は何か毒づくような言葉を吐いて、指を引き抜いた。
 息を吸い込むような悲鳴をあげた神尾が、次には完全に息も止めてしまった勢いで。
 跡部は神尾の身体を押し上げるようにして拓いてきた。
 一息で、全部を埋めてきた。
「ッ…、…ぅ、…、ぁ、ッ…」
「おい……」
「……っ…、…く」
「きついか」
 燃えるような熱い吐息が耳を貸掠る。
 声にもならない声で、気管支を痛めるような呼吸を繰り返す神尾は、自分の涙で視界が溺れて、跡部に縋り付いているしかない。
 何を尋ねられているのかも判らないままの神尾に、跡部の荒い声が吹き込まれる。
「今、なか、凄いんだよ。お前」
「…、ッ……ァ…」
 辛いか、と額を手のひらで撫でられる。
「ちが………」
「……神尾」
「…ち……が…っ…ぁ…ァ…っ」
 それ以上言われずとも、判っている。
 自分の身体の中が、どう動いているか。
 跡部に絡みつくように、しがみつくように、してしまうこと。
 自分の身体のしている事なのに神尾の意思などは存在しないかのように、複雑で卑猥な動きで跡部にひっきりなしに絡み付いている。
「ぃ、……っ……」
「……………」
「ャ…、…ぃ…っ…ぁ…ぁ、ァ…」
「神尾」
「……ゃ……怖……、…なか、…も…、跡部……っ……」
「馬鹿野郎……そんな声で呼ぶな」
「跡…部…、…ァ…っあ、っ、」
「……、……神尾」
 そんな声というならば、跡部の声こそそうだろうと、神尾は浮かされたようになって考える。
 明らかに、自分で快感を得ている事が判る、甘く乱れた息遣いが交ざる声音。
「…ぃ…っ……ャ、…、ッ、ぁ、…っ」
「神尾」
「ン、…っん、…、っ、ン……」
 囁かれれば囁かれるほど駄目になってしまう。
 深々と埋められたまま、律動を与えずにとどまっているものに、自分の方から絡んでいってしまう。
「うご、く…、ぅ…、……ャ、ぁ、…こわ……、なか、…っ」
「………、…おい…」
「跡部…っ…、…ァぁ、ぅ」
 いきなり凄い勢いで引き出されたものが、最初の時よりもっと手荒く、神尾の奥深くまで埋まってくる。
「…っ、ぃ、…」
「……やり方変えて欲しかったら、その声俺に聞かせるな、」
 跡部の口調は神尾を責めるばかりで、それは理不尽な事なのかもしれなかったけれど。
 余裕を無くしたような跡部の声は、神尾の感情を甘く揺さぶるばかりだ。
「ァ、……、…っ、ア、…」
 自分でも判らない身体の遠くの方。
 目にする事も出来ない深みで、息づき脈打っているものは、すでに神尾の行き止まりにぶつかっていて、とどまっていて、それなのに。
「………ひぁ…っ…」
 それでも尚、強く、押し込まれて。
 壊れたように涙が零れて、神尾は胸を大きく喘がせた。
「……っ……ひ…、ぅ……、…っ」
 痙攣じみて震える両足できつく跡部の胴を挟み込み、呼吸も詰まらせた神尾に、跡部も熱を吐くような息を零した。
「…………てめ…ぇ…、な……!」
「…っく、…、ぅ…、…っん、…ん…っ」
 身体の内部でもきつく跡部に縋りつくような蠕動が生まれて、跡部が言葉を乱し、神尾は仰け反って上擦った声を上げる。
 もう今度こそ、自分の身体の内部が何をしているのか神尾にはまるで判らなくなる。
 跡部が走るように動き出して、体内が甘苦しく摩擦されていく刺激に、神尾は泣きじゃくった。
「ャ…、…ぃ…、…っ…ゃ、っ……あと…、…」
 もう訳が判らなくなって、どうする事も出来なくなって、身勝手に自分だけがきざはしを駆け上がっていくのが、神尾は怖くて怖くて堪らなかった。
「……も、…っ…、…ぉ…」
 跡部に取り縋る事も出来なくなる。
 四肢を投げ出した神尾は、跡部の手に砕かれそうに強く握り込まれた腰骨と、深みを抉られているその箇所だけが身体の軸で。
 何だかもう、自分の身体の一部はすでに熔けてしまって、跡部の身体と一緒に交ざってしまっているのかもしれないと神尾は思った。
 回らぬ舌でそれを訴えれば、跡部の動きがまた強く早くなる。
「っん、っぅ、ぁ、…ッ、っあ」
「どっちが引きずり込んでんだよ…、…」
「…っ…ぁぅ」
「………溶かそうとしてんのはお前の方だろうが」
「…………っゃ、…ぃ、………っ……、く」
「、神尾」
「ァ…、っ、ア」
 動かない身体がもどかしくて泣けば、縛りつけられるように跡部の腕に抱き締められた。
「………ぁ…、…、……っ…ァ…」
 跡部に抱き竦められてやっと、神尾はバラバラになっていたあらゆる箇所の快楽を一所に集められたような気になる。
 外側からも内側からも身体が濡れる。
 痙攣する神尾の身体を抱き締める腕から、跡部は少しも力を加減しようとはしなかった。
 痛みを覚えるくらいのきつい抱擁の中、到達感は長くて、続いたままで、神尾はまた新たに咽び泣き出す。
 怖いくらい収まらない。
 涙声で口に出来るのは跡部の名前だけだった。
「…、………跡…、…あと…べ……怖…、終わ…れな…、…」
「…………神尾…」
 同じだからいい、と乱れた息の低い声に耳元を濡らされて、お互いに苦しいくらいの息遣いのまま、解けないでいる身体を揺らし、揺らされる。
 指の先まで、未だひたひたと熱い悦楽は埋められていて。
 唇を幾度も角度を変えて重ね合いながら、ゆるい律動で再開された動きが、体内の熱い液体のようなそれらを揺らして、波のように止め処ない濃密さを煮詰めていく。
 濡れきって怖いくらいの粘膜をゆっくりと休みなく行き来され、神尾はもう何の取り繕いもなく跡部の下で啜り泣いた。
「…っ…ぁ、っ、ん、…っ跡…部……」
「…………ああ」
「………、き……だよ…、…」
「……神尾」
「…………、な、…?…俺、……ぜったい、…こわれな…、から……」
 だから。
「…すきに、…なに…し……ても、……だいじょ、ぶ……だから」
 だから。
 それに続ける言葉は、神尾にとっては、願い事のような言葉。
 でもそれは、跡部にとっては、決まり事のような言葉だったらしかった。
「……一生だって言っただろうが」
「………っ……ん、っ」
 だから。
 跡部が、だから、とそれに続けようとしている言葉は。
 跡部にとっては願い事で、神尾にとっては決まり事だ。
「逃げるな」
 両手の指、全部をからめて。
 手を繋いで。
 唇を合わせる。
 繋げられる箇所は、全て繋げる。
 同じだから、重ねられるものもあるけれど。
 違うから、組み合わせられるものもある。
 ひとつになる、一緒にある、その手法は幾つもある。




 願い事も、決まり事と噛み合えば、最強の現実になると思われる。


 初めてっていうのは、免罪符になる。
 でもそのあと何度もというのは。
 果たして相手はどう思うだろうか。






 跡部に乱暴に扱われる事も少なくないけれど、神尾は別にそれは構わない。
 乱暴といっても殴られたりすることはなくて。
 それはただ、神尾が今まで人からされたことのないことを、されるというだけの話。
 息が全く出来なくなるくらい、長く唇を塞がれたり。
 肌を吸われて、それが後々まで、痛かったり。
 身体を拓かれたり、中を抉られたり、抱きすくめられたり、そういうのもかなり痛くて。
 でも、そういう風に痛いのに、それが嫌じゃない。
 傷になっても、跡がついても、体液の色を見ても、嫌じゃなくて。
 寧ろそんなことは平気だった。
 自分が男で良かった。
 大抵の事でも結構平気だ。
 でも、男だからこそ、いつまでたってもこうなのかもしれない。
「神尾」
「………………」
 本当は判ってる。
 跡部は乱暴なんかじゃない。
 酷い事なんて何もしない。
 やり方は同じなのだ。
 跡部が乱暴したみたいになってしまうのは、相手が自分だからだ。
「………………」
 背後からの呼びかけに応えず、神尾はそっと毛布を口元まで引き寄せる。
 もし。
 ほんの少しでも。
 跡部にとって。
 セックスが、よかったとして。
「神尾」
 ほんの少しでも、いいと、跡部が思ったとしても。
「………………」
 終わった後が毎回毎回これでは、いい加減跡部だってうんざりすると思う。
「…俺、眠いから、もう寝るな」
 最初から今日は跡部の家に泊まっていく事になっていたから、神尾は嗄れた声を毛布でくぐもらせて誤魔化し、跡部に背を向けたまま身体を丸めた。
 今まで気付かなかった雨音がふいに耳に聞こえてくる。
 今日は珍しくストリートテニスをしようという話だったのだが、それも雨で止めざるを得なく、早めに跡部の家に来た。
 シャワーを浴びて、食事をして、部屋に戻るなりの軽いキスから始まった、もう何度目にもなる行為。
 終わった後だが、眠るにはまだ大分早い時間だった。
 それでも神尾がそのまま眠ってしまうのは殆ど習慣となっているような事だから。
 神尾を巣食う自己嫌悪と不安の冷たさに、跡部が気付かないうちにと、目を閉じる。
 かたく。
「神尾」
「………寝るから離せよ…」
「………………」
 振り向かせようとしてくるのを、眠さを訴える事で拒んだ神尾だったが、毛布越しでも判る感触に思わず小さな悲鳴のような声を上げる。
「……………抱き締めんなってば……!」
「どこが痛む」
「………………」
 毛布ごと身包み抱き込まれて。
 背後からの跡部の手が、熱でも診るように額に触れてきて。
 神尾は身体を強張らせる。
 どこも痛くなんかない。
 その思いだけで口を噤んでいると、跡部の苦い声が耳からだけでなく振動でも神尾へと伝わってきた。
「お前が隠すと俺はまた次も同じことするぞ」
「……いいよ」
「よくねえよ」
「別にどこも痛くない」
「ふざけんな馬鹿」
 本気で怒っている声に神尾が身体を竦めた一瞬で、跡部は神尾が身体に巻きつけていた毛布を剥ぎ取った。
 勢いで身体も反転されて、跡部の視線にあらいざらい晒される。
 予測はしていたようで跡部は驚きはしなかったけれど、その端整な顔立ちが歪んでいくのを見て取って、神尾は本当に、今更でもいいから何もかも隠して、跡部の目に触れないようにしたかった。
 時間が経つ毎に、体内から零れて足を伝ってきていたものや、本当の傷口のように色味が変化してしまう肌の跡。
 泣き出したら興奮が冷めても止まらない涙や、噛み締めすぎて切れているらしい唇の感触。
「神尾」
「違うんだって…これは…っ」
 いつもいつも。
 好きな相手としているのに、不必要な傷ばかりついて。
 そんなものなど残さずに、きれいに、跡部に、抱かれる事の出来る相手はいっぱいいるのに。
「………、……っ…」
 いつも、自分は、こんな風になるけれど。
 でも跡部が好きだし、跡部としたいし、本当は自分だって、終わった後に何でもないように平気な顔で笑っていたい。
 動けないとか。
 声が嗄れるとか。
 傷がつくとか。
 涙が止まらないとか。
 そんな自分じゃなくて。
「……神尾」
「ゃ、…」
 いつもいつもこんなで、自分で本当に嫌になる。
 だから神尾は両腕を突っ張るのに、跡部は執拗に神尾を抱きこんでくる。
 もう何度もしているのに。
 初めてならまだしも、どうしてこんなに何度もしても、その度いつもこうなるのか。
 誰だって、そんな相手とするのは面倒になってくると思う。
 跡部だって、そうだ。
「…………っ…、」
 結局小競り合いに負けて、跡部に抱き締めらた神尾は。
 重い溜息や苛立ちを隠さない跡部に、しゃくりあげた。
「………んなにびびらなくたっていいだろうが!」
「……っ…てな…、ぃ…!」
「乱暴なら乱暴だってちゃんと言いやがれ。馬鹿」
「………じゃ…な…っ」
 本当に、本当は、跡部は乱暴なんかじゃない。
 跡部は全然、そんなことない。
 時々意地悪だったりするけれど、そうした分、あとで必ず、まるでかしずくように、丁寧に触れてきてくれるのを知っている。
 軽い、浅い、キスで宥めてくれるのも。
 熱を帯びた声で名前を囁いてくれるのも。
 みんな跡部だ。
「それなら何で隠す」
「……隠す…って…何を?」
「隠してやがるだろうが」
 唇を舌で辿られ、労るような手のひらで腰を撫でられる。
 神尾は、ぐっと息を飲んだ。
 睫毛も触れそうな至近距離にいる跡部に、まるで、絡むような声が自然と神尾の口から零れる。
「……だって、面倒だろ」
「ああ面倒だ」
 即答された跡部の言葉に神尾はもう二度と立ち直れないんじゃないかと思うほど一気に落ち込んだ。
 しかしそれは一瞬のことだった。
「どうして俺には判りやすく出来ないんだ。お前」
「………俺判りにくいのか?」
 単純だと、跡部に何度その毒舌をふるわれたか判らないくらいなのに。
 まさかその跡部に判りにくいなんていわれるとは思わなくて。
 神尾は心底驚いて跡部の目を見た。
 跡部は、それは横柄に神尾の問いかけに頷いた。
「俺が全能力出しても酌んで酌めない心情ばっかだろうが。お前には」
「そんな事ない」
「お前が隠した事は、どれ一つ、俺には見つけられない」
「そんなに幾つもない」
 一つしかない。
 難しくなんか、ない。
「跡部…しょっちゅう言ってるじゃんよう……単純だって…俺に」
 簡単なんだよ、と神尾は呟き、じっと跡部を見上げた。
「跡部が好きなんだ」
「………………」
「跡部と、するのも好きで」
「…おい」
「でも、した後、俺はいつも、いつまでも、こんなで」
「神尾」
「もっとちゃんと出来る子は、いっぱい、いっぱい、いるだろうけど、でもしたいし、好きだし、俺、跡部」
「……、黙れ。てめえはもう」
 何言い出すんだと跡部は吐き捨てるように言って、神尾を両腕で抱き締めてきた。
 そして、まるで呻くように、神尾の耳に囁いた。
「そんな事そんな顔で言って、俺に何をどう答えろっていう気だ」
「もう一回」
「……………」
「させろって」
「………てめえ…」
 跡部に言われた事がない。
 何度もしているけれど。
 同じ日に、二度というのはされた事がない。
 跡部が神尾を気遣っているからだという事も判るし、実際神尾の身体は一回で毎回ここまで疲労困憊で傷もつく。
 でも、何度でもしたいこの気持ちを、それではどうすればいいのか神尾には判らなかった。
 早くそう出来たらいいのにと、思うからこそ神尾はいつまで経っても慣れない頑なな自分の身体が恨めしかった。
「………跡、」
 思い切って、今日は口にしてみた言葉を跡部はどう思ったのか。
 僅かな怯え交じりに問いかけた神尾の唇は、深いキスで塞がれた。
 強い舌が性急に神尾の口腔を動き、すきまなく噛み合わせた筈の互いの唇の合わせ目から、唾液が零れる。
 溺れるように喉を喘がせながら。
 溺れている人間が助けを求めるように腕を頭上に持ち上げ、縋るよすがを跡部に見つける。
 指通りの良い髪を震える指でつかみ絞めたら、痛いくらいにきつく舌を奪われた。
「…っ…ぁ…ぅ…ん」
「………、……」
 跡部が息を乱すくらいのキスは、解かれた途端、神尾を喘がせる。
 痺れた舌先が口腔で泳いで、とろとろと零れ出てくる口液に身体も幾度となく跳ね上がる。
 跡部、と目の前にいる男の名前を呼びたいだけなのに、もうそれも出来なくて。
 潤んでくる視界の中で必死でその姿を見上げていると、ゆっくりと綺麗な顔が近づいてくる。
「もう一回」
「………………」
「いいか。抱いて」
 呻くような声に神尾は全身を震わせた。
 させろって言えばいいのにと泣き笑いのような顔をした神尾の頬を包んだ手を、頭皮へと潜らせていきながら、跡部は食い入るような激しい目をして繰り返す。
「お前を抱いていいか」
「……俺…言ってるだろ」
「いい加減おかしくなりそうだ」
 どこか懇願にも似た跡部の言葉はこの上なく荒っぽくて、神尾の神経を完全に麻痺させた。
 して、と動いた神尾の唇は。
 かぶりつくような口付けにすぐさま覆われた。




 酔ったように激しく浮かされて、熱く惑わされて、本当にもうとんでもないような事まで、したりされたりしてしまったような気がする。
 大きな枕を抱え込むようにしてうつ伏せた神尾の後頭部を、跡部が飽きる様子もなく撫で付けてくるのに任せて。
 我慢させてごめんと今までの跡部に謝りたくなるような抱かれ方だったと、神尾がぐったりしたままそう言うと。
 跡部は尊大に唇の端を引き上げて、それなら俺はその台詞を今さっきまでのお前に言わなきゃならねえなと言った。


 謝ることなんて何もない。


 そう知ったのだから、身体の痛みは報酬なのかもしれなかった。

 初めてしたのが自分の誕生日で、別れたのが相手の誕生日。
 二ヶ月も経たないうちの出来事だけれど、改めて考えたら短いどころかそんなにもったのかと思って神尾は少し驚いた。
 最終通告をしてきたのは当然跡部からだった。
 初めから、跡部は今日が最後の日、最後のセックスと決めていたようだった。
 でも何かが気に障ったみたいで、結局最後のセックスの最中に、ベッドの上で、神尾を突き放して、放り出して、終わりにしてしまった。
 今まで抱かれていた身体に服が投げられて、跡部の家から追い出されて、神尾は身体も気持もぐちゃぐちゃで、早く家に帰りたくて、走った。
 走った、つもりだったけど。
 実際はおぼつかない足取りでふらふら歩いてるだけ。
 暗闇の中、赤信号が眩しすぎて、目にしみて、泣いているだけだ。




 自分達が恋人みたいに付き合いだしたのはとても奇妙なことだけれど、あっさり別れるのはとても自然なことのように思えた。
 自分達は全然違う。
 同じことなんて、性別と、テニスをしていること以外何もない。
 顔をあわせるから見知っているというだけの関係から始まって。
 口をきくようになっても、跡部が神尾に言うのは冷たいからかいばかりで、神尾はそれに応戦しての憎まれ口だけしか口にしない。
 跡部と話した後の神尾は、いつも、苛々したり、ムッとしたり、悔しかったり、切なかったりした。
 我慢出来ない程ではないけれど。
 どうせならもう少し普通に話が出来ればいいのにと、ふと思って哀しくなる自分が怖かった。
 変だと思った。
 だからそれ以上考えないようにしていたのだ。
 八月の終わり、神尾の誕生日に突然跡部は「抱いてやる」と言って現れた。
 その時に、怖いだけじゃなくて、驚いただけじゃなくて、不安になっただけじゃなくて、神尾の心の一部に生まれたのは、跡部への恋愛感情だった。
 好き、と自覚した気持ちは瞬く間に神尾の気持ちの全部になって、跡部になら何をされてもいいと思ったのだ。
 つれていかれた跡部の部屋で、唇を塞がれて、口の中を舌で舐められながら、体中触られた。
 服を脱がされて、足を広げられて、見られたり撫でられたり吸われたりして、恥ずかしくてたくさん泣いて、ひどく痛いこともいっぱいされたけれど。
 終わった後にずっと抱き締めてくれていたから、何も言われなくても嬉しかった。
 腕があたたかだったから、髪を撫でてくれたから、涙が出た。
 愚図るみたいに延々泣いていたら、ぎゅっと一層強く抱き締めて、頭の中がふわふわするようなキスをいくつもくれた。
 跡部とするセックスがすごく好きだと思ったのは、終わった後の跡部がすごく優しかったからだ。
 優しいっていうのは言葉で伝わってくるものだと思っていたから。
 言葉なんかなくても優しいと判る、全部が終わった後の跡部の仕草が好きで好きでどうしようもなかった。
 セックスの最中は神尾が本気で泣くほど恥ずかしい事や怖い事を平気で言ったりやったりするのに。
 終わった後も泣いていると、ほんの少しだけ弱ったような顔で笑ってずっと抱き締めてくれた。
 最近はそこにからかうような言葉が交じるようになっていたけれど、それでも跡部は優しかった。
 最後の日だった今日には。
 そんな時間はなかったけれど。
 突き放されたのは突然。
 でもそう思っているのは自分だけに違いなかった。






   跡部は話し言葉も書き言葉も命令調だ。
 初めて跡部からのメールを見た時、神尾は思わず笑ってしまった。
 口調そのものの文面だったからだ。
 10月4日、跡部の誕生日に神尾の携帯に届いたメールも、一言で言えば「祝え」といった内容だ。
 神尾が跡部の家に行くと、珍しく跡部自身がドアを開けて、いきなり腰を抱きこまれて口付けられた。
 ドアは半開きのままだ。
 焦って跡部の肩に手を置いたら、上半身が反るくらい腰を引き寄せられて舌が絡まった。
「………っ…ん」
「…………………」
「ん……んっ……ん」
 喉が甘ったるく詰まって、呻いて、とられた舌が跡部のそれとからまって、からまって、顔が熱くなっていく。
「……ん、ん…っ………ぁ……とべ」
「………欲しいんならもっとくっついてこい」
 からかって笑っている声。
 もうこれ以上どうやってくっつけばいいのか判らないくらい身体は密着しているのにそんなことを言われて、神尾は半ベソで、両手で跡部に縋りついた。
「ゃ……っ……跡部……」
 しがみついて縋った跡部からは、いい匂いがする。
 いつも決まったその香りを吸い込むと、即座に足にきた。
「……、……っと」
「……跡部…ー……」
「伸ばして呼ぶな」
 力抜けると呆れた溜息を零して跡部は神尾を抱き上げてきた。
「………わ…、……」
「心底馬鹿だな。お前は。毎回毎回いちいち焦りやがって」
 そうは言われても、横抱きにされる不安定さと気恥ずかしさに慣れるはずがない。
「…跡部…、…っ……靴、…靴…っ」
「ベッドに寝かせる前に脱がしてやる。じっとしてろ。足ばたつかせるな。落とすぞ」
「……………………」
 それは困るとぎゅうっと跡部の首に縋りついたら、低く笑う振動が伝わってきた。
 とにかく広い跡部の部屋に辿りついて、ベッドの縁に下ろされる。
 足をつかないように浮かせていると、跡部が膝をついてきた。
「跡部……っ?」
「オラ、足寄こせ」
「……う……」
 おずおず差し出した片足から靴をはずし、逆の足からもぬがせると、跡部はもう笑っていなかった。
 ベッドに乗り上げてきながら神尾を押し倒し、キスで深くそこに埋めてくる。
 服の上から胸元を辿ってくる跡部の手のひらに、もう震えが込み上げてきた。
「………………ぅ…っ…」
「………………」
「……っん、っ、ん」
 唇を塞がれたまま、跡部の両手が胸の上にのる。
 包みこむように卑猥に押し込まれ、心臓が毀れそうになる。
「く………ふ…、っ……っ……」
 神尾の両足の狭間にある跡部の腿が、押し上げるようにして圧迫してくるのにも耐え切れなくなって神尾はびくびくと全身を痙攣させた。
 始まったばかりなのに、もう一刻も早く終わらせて欲しいような気持ちでいっぱいになる。
 もう待てない、もたない、我慢出来ない。
「ん、…ゃ……ぁ…」
 キスが解けてもれる声は、半泣きだった。
 無言の跡部に次々衣服を剥ぎ取られ、多少神尾がもがこうが暴れようが構わず、跡部は神尾を全裸にする。
 腕からも足からも衣類を引き抜かれて神尾はベッドの上で身体を丸めた。
「……………っ……」
 その側から腕を引かれたり足を開かされる事になるのは毎度の経験で判っているのだがそれでも跡部の視線にさらされたまま大人しく身体を投げ出していることが神尾には出来ないのだ。
 それに最近跡部は神尾は全裸にするけれど、彼自身は服を着たまますることがよくあった。
 途中で脱ぐにしても、最初に自分だけ裸にされて、見られて、されるのが、神尾には恥ずかしくてどうしようもないのに。
「…………っぁ」
 両足を抱え込まれて、引きずり寄せられた。
 跡部の唇に含まれる。
 痛いような衝撃に身体が竦んだ。
「ぃ……っ…、ぁっ…っぁぅ、」
 いきなりこうされる時、跡部に容赦はなくて、神尾は我慢出来ない声をひっきりなしに上げさせられる。
 歯を食いしばったり唇をかんだり手に噛み付いたりして凌ごうとするのに、結局うまくいかなくて。
 こんな変な声をあげっぱなしになるのが恥ずかしくて泣いてしまう。
 温んだ口に吸いつけられ、舌を宛がわれて歯で掠められ、腰が発火しそうに煮詰まった。
 嗚咽も交ざってしまって、ますます声は止まらなくなって、跡部の舌に擦り上げられるたび身体が軸から震えた。
「っぁ、…ん…、んっ…ぁ、っ…」
 どろどろになっていくのは錯覚なんかじゃない。
 それなのに跡部の唇はずっとそこで神尾を食んでいて、どうしてそんな、と回らぬ頭で思ってもがけば身体が反転した。
 跡部の口から抜かれてうつぶせにされて、がくがくと痙攣するばかりの腰を手繰り寄せられる。
「…、跡…部……」
 振り向くことも儘ならない。
 腕で支えていることも出来ない身体に、跡部が覆いかぶさるようにして近づいてくる。
「………神尾」
「……ひ……っ」
 名前を囁かれただけで跳ね上がる身体。
 耳に唇が当たって、耳の縁を含まれると思っただけで駄目になってしまった。
「ゃ……跡部…、……跡部……っ………ぁ、ぁ…っ」
 考えていた以上の卑猥さで耳を唇にいたぶられながら跡部の身体が押し込まれてくる。
「っぅ…ぅ……っ…ぁぅ…っ……ひ、っ」
「神尾……」
「……ぃ……ん…っ」
 顔を押し付けたシーツに全部の指先で取り縋って、背後から自分を拓いてくるものに耐えて、耐えて、耐えられなくて、零し続けた。
 声も涙も汗も欲望も。
 ただ止め処なく。
「……っあ…ぁ……っあ…ぅ」
 跡部の片手が崩れてばかりの神尾の下半身を支えるように下腹部に回される。
 もう片方の手が熱いもので埋まりきって限界が近くて辛がっているそこを包む。
 深く埋まった跡部がうねるようにゆるく動き出し、恐ろしく器用な指が神尾を苛み始めた。
「…跡、……っ……ぅ…っ…く、ぅ」
 舌みたいに濡れていたり柔らかくはないけれど、乾いて硬い指や手のひらはひっきりなしに動いて、締め付けたり解したり摩擦させたり揉み込んだりする。
 神尾の体内にいる跡部はゆっくり動いていて、むしろ跡部の手の動きの方が何倍か激しくて、促されるまま快楽だけがそこから引き出されていく。
「……、…っぁ……と……べ……」
「……………………」
「ひ……ぁ…っ…」
 跡部が、熱の滴る神尾のそれに絡めていた手を唐突に離した。
 迸る寸前まで甘く煮詰まったものが放り出されて、悲鳴じみた声で怯える神尾に、畳み掛けるように跡部は動き出した。
「ぅぁ…っ………あ、っ、ぁ、」
 両手で神尾の腰を固定した跡部は、本気で抉り込んでくる。
 神尾は背後を振り返ろうとして、とてもそんな事が出来る状態でない事を思い知らされた。
 身体が激しく揺さぶられて首がすわらない。
 振り回される動きに自分の汗が普通出ない経路で肌を伝う感触に身震いがひどくなる。
 ぶつかるような動きでもまだ足りないというように突き上げてこられて神尾は混乱した。
「っ、っ……ぁ、っ、ぅ」
 重く熱く苦しくなるばかりのそこに跡部の手や唇がない。
 でもこのままもっていかれそうな程、身体は限界に近かった。
 ベッドに突っ伏して、腰だけ高く支えられ、だからそこが跡部の身体どころかシーツに擦りつけられることもない。
 完全に宙に浮いたような不確かな状態で、しかしもう体内から全身を揺さぶられて、どうしようもなかった。
 こみあげてくるものを、どうしたらいいのか判らない。
「跡部……っ……ゃ、…跡……っ……こわ……」
「…………………」
「…、…ゃ…ぁ…あっ…」
 突き上げられるままに零れだした。
 止まらなくて、でも一瞬で終わる衝動でもなかった。
「ひ……ぁ…」
 何にも包まれないまま限界まで蓄えた熱を吐き出していくのは、おそろしく長く続いた。
 跡部が動くたびに止まらなくなってしまう。
 神尾はもう自分の身体がどうなっているのかも判らない。
「…ぁ……っ……ぁ…ぁ、ん…っ…ぁ」
 跡部に突き上げられればその分だけ、貪婪にそれを受けとめて、吐き出し続ける自分の身体が怖くて仕方なかった。
 泣きじゃくっては、長いそれからまだ終われずにいる神尾の困惑に。
 跡部は神尾に深く身体を埋め込んだまま、動きを緩める。
「……神尾?…」
「………や……っ……!……」
 変なのは言われなくてもわかっている。
 だから言わないでと必死で思ったのに、跡部は未だ長引く感覚に吐き出し続けているそれを手に包んできた。
 直接そこに刺激がないままいきついて、開放と呼ぶのも躊躇われるほど長く零し続ける自分の身体を跡部に知られて神尾はしゃくりあげて泣いた。
「…ゃ…、………」
「………………」
「…………や、……だ…、…こわい……っ」
「神尾」」
「なんにも…ないとこで…いくの………怖…っ…」
 心もとなさに押し潰されそうになって、苦しい呼吸をこらして、うわ言めいて神尾が口にした途端、身体の中から引き抜かれた。
 跡部がいなくなる。
 痙攣が止まらなかった。
「………っ…、」
「……帰れ」
「……、……っ…ぁ……と…べ……?…」
「二度と来るな」
 なんで?と回らぬ頭で思う間もなく、ましてや口にするまでもなく、跡部はベッドから降りてしまう。
 床に落とした神尾の服を拾い上げ、無造作に投げて寄こした。
 やっと見上げた跡部は、冷たい横顔しか神尾に向けていなかった。
 急にそんな顔になったのか、今日最初からそういう顔をしていたのか、神尾にはもう判らなかった。
 泣き濡れた目で見上げた跡部が怒っている事は理解した。
 神尾に酷く苛立っている事も。
 跡部がもう自分を見ようともしない事を。
「あとべ………」
 か細く呼びかけると、切り捨てるようなきつい目で一瞥され、神尾は息を詰める。
 跡部の双眼に浮かぶものは嫌悪だった。






 投げつけられた服を纏って、神尾は暗闇の中、跡部の家を出た。
 頭の中をぐるぐるといろいろな事が回っていた。
 自分の身体がひどく汚く思えた。
 たくさん考えた。
 跡部の事をたくさん。
 考える側から涙が出るから小さな子供みたいにしゃくりあげて泣いた。
 最初は、自分が何かしたから急に跡部が怒ったのだろうかと考えた。
 セックスがどういうものかなんて、神尾は跡部しか知らないので判らないが、跡部が呆れるようないやらしいことを自分はしてしまったのだと思った。
 触られもしないでいきつづけて、跡部のベッドもぐちゃぐちゃにして。
 そんなの普通じゃない。
 自分はきっとおかしい。
 それから、本当は、もうずっと、そろそろこういうことを自分にするのも潮時だと跡部が思っていたのかもしれないと考えた。
 最近二人になるとすぐ抱かれることが多くて。
 跡部は服を着たまま、神尾ばかりが脱がされて始められる事が殆どで。
 跡部は、してくれていただけだったのかもしれない。
 そう考えたらもう、跡部が最初から今日でおしまいにするつもりだったのだろうと神尾は思った。
 ここ二ヶ月足らず、浮かれるように幸せで、楽しくて、嬉しくて。
 きっと自分だけが気づいていなかったのだ。
 飽きるまでの間遊んで。
「…………跡部……っ……」
 遊んで、終わって、それなのに馬鹿みたいに自分だけ判ってなくて。
 汚いうえにみっともなくてどうしようもなくなった。
 いなくなっちゃいたいと思った。
 もう跡部がいなくなったのだから、自分が敢えていなくなる必要もないのに自分がいること自体が悪いことだと思えてならなかった。
 止まらない涙も、先程までの自分の身体を思い起こさせて不快で、神尾は目元を強く擦っては、そこからまた溢れてくる涙に咳き込んだ。
 吐きそう、と口を押さえてしゃがみこむ。
 実際には涙がますます零れてきただけだった。
 どうしようと唖然となっても神尾の真っ赤になった目からは涙が止まらず、今は体液という体液が厭わしく、神尾は瞳とは対照的に青い顔色でふらふらと公園らしき敷地に足を踏み入れた。
 暗がりの中でだいぶ不確かだったのだが、確かにそこは公園のようだった。
 水飲み場に近寄って、水を出す。
 静かな敷地内に、ばしゃばしゃと水音が響いた。
 蛇口の下に頭を突っ込むと、予想外に冷たい水が肌を打ってくる。
「……っ…、…」
 水に濡れたところから、ぞくっと寒気が湧き上がってきた。
 泣き続けて重くなっている瞼にだけは、その冷水が心地よかった。
 考えもなしに水を浴びてしまって、拭くものもないまま濡れた神尾は、もうそれ以上の気力もなくすぐ近くにあった公園のベンチに座り込んだ。
 髪が冷たく張り付いてくる。
 濡れてないところも、濡れているところも、冷たく、寒かった。
 風邪、ひくかなあ、と考えて。
 今そんなことを考える自分を神尾は呆れ半分、感心半分で自嘲する。
 泣きすぎて壊れたかなと思う。
 まだ不規則にしゃくりあげてしまう。
 身体がついていかなくて苦しいだけだった。
 でもまだ泣こうとする自分を持て余していると。
「……、っ……?……」
 上着のポケットに入っている携帯が震えだした。
 跡部の家に入る前にマナーモードに変えてあったままだった。
 メロディもなく震え続ける携帯。
「…………………」
 今は誰からの電話も、とる気がなかった。
 部活の仲間でも、クラスの友達でも、親でも、誰でも。
 話なんか出来ない。
 携帯は、まだ着信を知らせている。
 神尾のわき腹あたりを震わせ続ける。
 なにか、家族にあったのだろうかと、神尾はふと不安になった。
 いくらなんでも鳴りすぎだ。
 こんなに長いこと。
「…………………」
 おそるおそるポケットから携帯を取り出して。
 背面ディスプレイに目をやってぎょっとする。
「………なん……、…」
 跡部。
 ディスプレイにあるのはその文字だ。
「……なんで…?」
 神尾は困惑して、上ずった声をもらしていた。
 なんで、どうして、跡部が電話をかけてくるのか。
 こんなに。
 こんなに。
 長いこと。
「……………………」
 跡部は割合に気が短い。
 普段から、出ない電話を何コールも呼び続けたりしない。
 神尾はどうすることも出来ない携帯電話を手にしたまま、性懲りもなく目が潤んでくるのを感じていた。
 怖くて。
 叫びだしそうになるのを堪えて、堪えきれなくなって、身体を竦ませた。
 ぼたぼたと落ちた涙が携帯を濡らす。
 涙で壊れるのではと思う。
 携帯も、自分も。
「……………………」
 通話ボタンに指を伸ばす自分を、同じ自分が止めろと止めている。
 どうしたらいいのか判らない。
 頭の中がおかしくなりそうだった。
「……………………」
 泣きながら、震える指で、神尾が通話ボタンを押すには、長い時間がかかった。
 これで最後の言葉を聞けば、消えてなくなれる気がした。
 そう思って漸く指が動いた。
「家か」
「……………………」
 跡部の声は荒れていた。
 息も、語気も、言葉そのものも。
「今どこかって聞いてんだよっ!」
 思っていたものとまるで違う言葉に。
 声が出ない神尾に跡部の怒声がぶつけられた。
「神尾!」
「……………………」
 本当は何か言おうと思った。
 けれど神尾の口から零れたのは泣き声だった。
 悲痛に歪んで、掠れて、みっともないだけの泣き声。
 神尾は電話を切った。
「ふ…、…ぇ……っ………」
 自分から零れるものは何もかもいやらしくて、あさましくて、跡部に聞かせたり見せたりなんかもう出来ない。
 肩を跳ね上がらせて泣きじゃくって、目を覆う手に握り締めた携帯も、限界を訴える気持ちも身体も、みんなこのまま壊れるから、だから、と神尾は何かに許しを請うように目を閉じる。
 何かにではない。
 跡部にだ。
「……神尾…、……!…」
「………………っ…」
 声のするほうに反射的に顔を向けた神尾は、もうすでにぐしゃぐしゃになっている顔を更に歪めた。
 次々流れる涙を見て、公園に駆け込んで来たらしい跡部は瞬時大きく息を詰めた。
 神尾が立ち上がって走り出そうとしたのに気づくと、すぐさま我に返ったように。
 跡部は神尾の腕を引っ手繰った。
「や…っ……!……」
「……逃げるなっ!」
「…やー…ぁ…ー…っ…!」
 強引に抱き込まれてしまって神尾は跡部の腕の中で激しく抗った。
 何がどうなっているのか判らないこともあったし、それから、それでもやっぱり、跡部が好きで。
 辛い事を言われるのが怖くて。
 冷たい目で見られるのも。
 突き放されるのも。
 捨てられるのも。
 終わりにされるのも。
 本当は全部全部全部怖い。
「……てめえが比べるようなこと言ったからだろうがッ!」
 跡部の怒声は凄まじくて、神尾はビクッと全身を竦ませた。
 縛り付けられるように抱き竦められた。
 苦しくて。
「………跡部……ぇ……」
 自分から触れられないもどかしさに神尾が泣けば、それ以上の力で抱き締められた。
「……くそ、…なんでこんな冷えて……」
「跡部…、…離し…」
「誰が離すか」
「だ……って……跡部が……」
 帰れって。
 二度と来るなって。
 いった、ともつれる舌で告げれば砕かれそうにまた抱き締められる。
「だからてめえが……!…」
「……おれ……へんなんだろ…? おかしいんだろ?……きたないんだよな…?」
「な…………」
 跡部が絶句するところなんて想像も出来なかった。
 実際されてみてもまだ信じられない。
「…………さわられてないのに……、ずっと、ずっと……ぃ…ったり、へん……って……わか、……でも…っ」
「誰がへんだのなんだの言った? お前だろうがっ…なんにもないとこでいくのが怖いって泣きやがったのは」
「…だ……って、跡部…さわってくれなか……っ…………」
 神尾は泣きながら跡部の背中にしがみついた。
「おれ……跡部…しか……」
 知らないのに、と掠れた語尾をそれでもきちんと聞き取って、跡部は舌打ちした。
「……………判ってる」
「じゃ、……なん………で?………いつも跡部の…手、とか……おなかとか…ある…のに…さっきは、だから、おれ」
「………判ってる!」
 勝手に想像して、現実とごっちゃになって、きれただけだと跡部が自棄気味に怒鳴った。
「あっさり出ていきやがって……!」
「…………………」
「追いかけてきてもみつからねえ。電話には出ねえ」
「………出た……よ」
「その前の電話だ!」
 あの前があったのかと神尾は驚いた。
 恐らく盛大に泣いていて気づかなかったのに違いない。
 こっそり着信履歴を見てみたかったが、この状況ではとても叶いそうになかった。
「……あとべ…」
「人の誕生日にてめえは……!」
 だって跡部が追い出した、とは思っても口には出さない。
 神尾は、跡部の胸元に顔を埋めて背中に回した手でぎゅっとしがみつくだけだ。
 今だけ。
 今なら。
 聞いてもいいのだろうか。
「跡部………最近、服…脱がないでするのなんで……?…」
 跡部の舌打ちと一緒に今度こそもう本当に息もできないくらいきつく抱き締められた。
「……そんな余裕奪うくらいのことやってる自覚ねえのかよ」
 そう聞こえて、すぐに身体が離された。
 跡部が着ていたジャケットを脱いで神尾に着せて、肩を抱き寄せてくる。
「行くぞ」
「……………跡部のうち?」
「他にどこに行く」
「いい…の…?…」
「謝ってやるって言ってんだ! 黙ってついて来いバカ」
 いつものように怒鳴られて、神尾は肩を上下させて涙を零した。
「……謝んなくて…いい…よう…」
 謝らなくてなんか、いいから。
「あとべと……したいよぅ……」
「……ッ…、……てめ…」
 ぐっと言葉だか息だかを詰まらせた跡部の気配に泣きながら顔を上げた神尾は、跡部に肩を抱かれたまま。
 押し当てられた唇を下から受け止めた。
「………ん……」
「…………………」
「ん…………っん」
「……させてくれって言ってやるから黙ってついてこい」
 聞いたことのない言葉が聞こえてくる。
 神尾はもうあまり考えられずに囁いて応えた。
「なんでもする………」
 跡部がして欲しいこと、なんでも。
「…………違うだろ…てめえ……」
「なんでも……するから」
 して、と爪先立ちで伸び上がって、神尾は跡部の唇を舌でそっと舐めた。
 何か毒づくように跡部が熱っぽい言葉を口にして、やみくもに抱き締められた後、引きずられた。
 ものすごい早さで歩く跡部の背中を見ながら、もつれる足元の覚束なさよりも安堵が勝った。
 それと、もどかしさによる苦しさと。




 冷たくなった神尾の身体を気にしてか、跡部の家に戻るなり、浴室に直行し、跡部に抱き取られたまま神尾は全身をシャワーで温められた。
 高い位置にあるフックにかけたシャワーヘッドからの湯を浴びながら。
 跡部が髪を撫でつけてくれる。
 頬を包んで、やわらかいキスを繰り返してくれる。
 神尾は殆ど衝動で座り込みそうになってしまう。
 そのまま跡部の下腹部に唇を寄せようとしたのを、跡部に遮られた。
 膝をついたのは跡部で、熱く濡れた舌をそこに搦めてきたのも跡部で、ふらつく神尾の下半身を両手で支えながら、全部飲んだのも跡部だった。
「………あとべ…」
「もうなんにもないとこでいかせねえよ」
 卑猥に唇を舐めとりながら立ち上がった跡部は、よく見慣れた傍若無人な顔で笑って言った。
「まだ泣けんのか。神尾」
 呆れ果てた言葉に俯けば、泣いて出た分入れといてやると、体液交換みたいなことを平気で言うから。
 神尾は全身真っ赤になって跡部に嫌というほど苛められた。




  流した涙の分、与えられたのは。
 跡部からのそれと、甘いリンゴの味のシードル。
 お子様にはちょうどいいとだろうと、微量のアルコールを含んだシードルのスイートを口移しされて終えた10月4日。
 神尾がこれまでで一番たくさん泣いたこの日が、跡部の誕生日だった。

 好きな曲でも、この状況で聴き続けるのは辛い。
 いよいよ我慢できなくなって、神尾はベッドに寝たまま手探りでその音の根源である携帯電話を探した。
 あんまりにも眠すぎて、目も開けられない。
「うー……っ…」
「ううんじゃねえよ。バァカ」
「………ぅぁ?……だれ?」
 舌がもつれる。
 自分でもどうやったのか、とにかく電話に出る事は出来たようで。
 神尾は眠いあまりに泣きそうになって言った。
「だれだよう。ねむいんだよう……」
「…………甘ったれた声出すなバカ」
 ああ怒ってる。
 怒ってるけど、で、これ誰だ。
「…………………」
「だれぇ?………」
「判んねーとか言うか。てめえ」
「………………イタ電なら、切るかんなー…………、もーかけてくんなー…よー……」
 朦朧となって呟きながら健やかな眠りに戻ろうとした神尾の鼓膜は、次の瞬間ビリビリと激しく震えて酷く痛んだ。
「いつまでも寝ぼけてんじゃねえッ!」
「……っ…っ…っ…、!」
 ベッドの上でもんどりうった神尾は、当然のようにそこから転げ落ち、床にばったりと倒れ落ちた。
「いたい………」
 打ち付けてしまった額を押さえて泣き声をあげると、容赦なく続けられていた罵声がふと途切れた。
「……何やってんだお前」
「何ってよう、ベッド、ベッドから落ち、て、………あれ? 跡部……?」
「遅い!」
 いよいよ手加減無しに怒鳴られて、神尾は漸く正気づいた。
「なん、……なん…っ…、なんでお前が俺に電話かけてくるんだよ…っ?」
「文句あんのか」
「なんの用だよっ……」
 目に見えない相手に身構えて、神尾は完全に覚醒した。
 条件反射といっていい。
 別に怯えているわけではないが、どうも跡部とは相性が悪いみたいで、いつもこんな風になる。
 特に最近の跡部はおかしい。
 何だかやたらと神尾の視界に入ってくる。
 違う中学校の、学年だってひとつ上。
 唯一の接点のテニスだって、最初のうちは神尾の存在すらシカトしていたのに、最近では、そこまで言うかっていうくらい神尾を構いたおしてくるのだ。
 よく顔を見るようにもなったし。
 そのくせバカにされたり怒鳴られたりばかりで。
 訳が判らなかった。
「…………あああ、なんだよ、まだ六時じゃんかっ。何て時間に電話してくんだよっ」
 部活あるからそんなに不規則な生活はしていないが、だからといって貴重な夏休みももうすぐ終わってしまう。
 今日はその部活もない日だから、存分に朝寝坊をするつもりだった神尾は目覚まし時計を見て叫んだ。
「こんな朝早くから、いったい何…っ」
「十四歳祝いに抱いてやる」
「………………」
 冷たく澄んだ声で跡部はそう言った。




 今日は神尾の誕生日だった。




 いったいぜんたいなにがどうしてこういうことになったのかと、神尾はずっと半泣きだった。
 涙こそないものの目元は赤く潤んで、早朝の電話をかけてきた跡部に引きずられるようにして歩いている。
「離せってば……っ……手、痛い…っ」
 跡部はよりにもよって神尾の家の前から電話してきていた。
 今すぐ出てこないと玄関のチャイムを連打で鳴らすと言われて。
 ここはやはり親を気にして神尾は飛び出していった。
 なんでジャージ着てくるわけ、と冷たい一声を跡部に浴びせかけられた神尾は、一番近くにあったからだという答えもろくろく言わせてもらえず跡部にいきなり手を握られてぎょっと竦み上がった。
 手。
 手、握られた。
 驚愕の神尾を連れてそのまま跡部は歩き出す。
 スピードが身上の神尾が引きずられていく速さでだ。
「どこ?……どこ行くんだよ?」
「お前がジャージなんか着てくるからホテル使えないじゃねえか。バカ」
「ホテル? なんでホテル?」
 神尾が半ベソで尚も問えば、跡部は呆れきった溜息を吐き出して神尾を振り返った。
「抱いてやるって言ったろうが。ぐちゃぐちゃ言ってないでついて来い」
「……だ、……だい……」
 現実味のまるでわかないことなのに、酷く怖くもあって神尾は青くなった。
 足を踏ん張って、このまま行くのを嫌がると、跡部はたちどころに凄い形相になった。
「なに嫌がってんだぁ?」
 不機嫌が冷たく凍ったきつい目と声とに、神尾は首を振って繋がれた手を解こうとする。
「…ゃ、……だも……っ……」
「ああ?」
「帰る……!」
「帰すわけないだろーが。バカかお前」
 お前今日誕生日なんだろうと横柄に見下されて神尾は意味が判らない。
 8月26日。
 確かに今日は神尾の誕生日だったが、だからそれでどうして跡部に抱かれる事になるのかが判らない。
「抱くって……抱くって……?」
「俺様がしてやるって言ってんだよ。十四歳祝いに抱いてやる。何遍言わすんだ」
 死ぬほどいい思いさせてやる。
 跡部は言った。
 もう誰ともしたくなくなるようなのやってやる。
 そうも言った。
 神尾が半ベソのまま怖いのと呆気にとられたのとで晒した表情に、しまいには有り難がれバカと怒鳴られた。
「そんなのしたくない…っ」
 どうして跡部とそんなことしなければならないのか、神尾にはまるで判らなかった。
 どうしようもなく跡部が怖くなってきた。
「そんなの? したくないだと? したこともないくせに何断言してんだ?」
「じゃ、跡部はあんのかよ……っ…?」
 精一杯の虚勢で神尾が言葉をぶつければ、呆れ果てた跡部は、あるに決まってんだろと即座に言い捨てた。
「……………………」
「……、……てめ……」
 ぼろっと涙が落ちた神尾の前で、跡部が声を荒げてきた。
 少し慌てたような、今度は冷たくない声。
 でも神尾は何が何だか判らないけれど酷いショックを受けたままで、唇を噛み締めた。
 ぽたぽたと涙が地面に落ちていく。
「おい。神尾」
「俺…しない……」
 跡部となんかとしない。
 下を向いて、涙を落としながら、震える声で神尾は言った。
「絶対しない……っ」
 してみたいからやらせろとかだったらまだよかった。
 神尾は自分がとてもおかしなことを考えているような気がしたが、どうにもそれしか思いつかない。
 したことあるのにどうして自分を抱くとか言うんだと泣いた。
 頭の中にあるのはそれだけ。
 道のど真ん中で何でこんなことになってるんだと後ずさろうとするのを悉く跡部に阻まれた。
「……神尾のくせして初物好きか?」
 荒い舌打ちと一緒に吐き捨てられた言葉の意味も判らないまま神尾は跡部につかまれている手を取り返そうと躍起になった。
「いらない。跡部なんかいらない…!」
「………てめえ」
「誰か別の奴とすればいいだろ……っ…」
「俺がお前にしてやるって言ってんだろうが」
「やだ」
「なんで」
「なんででも…っ……」
 もう一度舌打ちが聞こえた。
 いきなり、あれほどびくともしなかった跡部の手が神尾の手を放り出すようにしてほどけて。
 開放された。
 でも逃げ出せはしなかった。
 走り去ろうとした神尾は、またすぐ捕まった。
 今度は跡部の両腕で、縛りつけられるように抱きしめられて。
「誕生日なんだろ」
「……っ……、……」
「十四祝いに、頭おかしくなるようなやつ、やってやる。誰にもしたことないくらい優しくかきまわしてやる。お前の初めてを俺が貰ってやるって言ってんだ。何が不満だ」
「………ゃ……だ…ぁ…」
 まだもっと怖いことを言われて、嗚咽まで零れてくるけれど、神尾は何故か跡部のシャツをぎゅっと握り締めている自分に気づく。
 まるで必死に縋りついているみたいで。
 跡部に。
「やだやだ言ってんじゃねえよ」
 不機嫌な声で言われて首の裏側が痛くなる。
「……ッ……、た…」
 噛まれたらしかった。
 そのあと濡れてて柔らかい感触がして、神尾は本能で赤くなる。
「…………白い」
「………ぅ………」
「無駄にエロイんだよお前は」
「…、……んで……怒んだ…よう……」
「べそべそ泣くなって言ってんだろ」
「…ぃ…ってない」
「うるせえ」
 唸るような言葉と一緒に跡部が身体を離してきて、ちょっとさみしいと思ってしまった神尾は、その後にはもう跡部に抱え込まれるようにしてキスされていた。
「……ぅん」
「クソ………声もかよ」
「…………ふ、…ぁ………」
 仕方も知らなかったけれど、され方だって知らない。
 跡部の手に腰を抱きこまれるのもだいぶやらしくて、それがいやではなくて、神尾はくらくらと眩暈を起こした。
「お前馬鹿だからな。覚えも悪そうだし、無駄にエロイときたらこれから先行き大抵予想がつく」
 早いうちに手つけとかなきゃ危なくてしょうがないとキスの合間に苦々しく言われても、神尾はとろりとした目で跡部を見るのがせいぜいだった。
 唇が痺れて、息が震えて、恥ずかしくってまた泣いたら、跡部が何だか信じられないくらい優しく抱きしめてきた。
「………あとべ?」
「…………くそったれっ」
 何だか跡部らしくない悪態と一緒に強く強く抱き締められて、神尾は跡部の首筋にしがみついた。
 てっきり引き剥がされると思っていたのにそうされなくて。
「家に持ち帰るなんざ初めてだ」
「跡部………」
 神尾の肩を抱いて歩き出した跡部に再び引きずられながら、神尾はやっぱりいったいぜんたいなにがどうしてこういうことになったのか判らなくて。
 でもいいやと思った。
 思わざるを得なかった。
 この横柄で暴君で冷たくて辛辣な跡部のことを。
 実は好きなのだと気づいてしまった。
 これから何をされるのか知らないけれど、一緒にいたい。




 跡部を好きになって、神尾は十四歳になった。

 不動峰が立海大に負けた試合、その内容が。
 跡部にはひどく気に入らないもののようだった。
 ビデオ見たけどな、と冷たい声で切り出してきた跡部に、神尾を呼びつけられた。
 あの試合での自分の不甲斐なさはきりなく神尾の心を巣食っていたから、正直今跡部に会うのは辛かった。
 まだ神尾自身、自分の感情に制御がきかないから。
 何か致命的な間違いを起こすような取り乱し方を自分がしてしまうのではないかと、神尾はそれが怖かった。
「…泣け」
「……っ……ぁ………ぅ」
 身体の深いところで、ぐいっと揺すられて、喉が鳴る。
「ひ……ぁ…っ……」
 跡部は相当不機嫌で、最初から乱暴で。
 だから却っていつもみたいには泣けなかった。
 いつもは。
 跡部に触れられると神尾は壊れたように泣く事が大半で。
 感情が高まっただけでも泣いたし、跡部に抱かれて痛くてもよくても泣いた。
「泣けって言ってんだろ」
「…ゃ……、……ぃ…ャ……、っ、ぁ…ぅ、っン」
 もう先なんかないのに、それでも強く強く押し込まれてきて喉が戦慄く。
「……ッん」
 呼びつけられたこの部屋で。
 顔を合わせるなり跡部が言った台詞で神尾は涙も凍えたのだと思う。
『何だよあの試合』
 吐き捨てるような跡部の声と表情が、判ってはいても神尾をボロボロにした。
「神尾」
「……ひ…」
「…………無理矢理泣かせろって?」
「……、……、……っ………ぁっ…ぁ…っ」
 身体の中がどうなっているのかと怯えながら、神尾は跡部の刻む無茶な律動を全部飲み込んで顔を強張らせた。
 苛つく跡部の剣呑とした気配に刺されて、顔を背けて唇を噛む。
「お前が……」
「……ァ……く……ぅ…っ…ん…っ…」
「今どれだけ辛いか判ってる」
「ゃ………、ぅ、…跡…部……っ…」
 苦く呻くような跡部の声が、神尾の中の何かをほぐす。
 何かをとかす。
「俺にだけ見せてたツラじゃねーのかよ」
「………ぇ…?……、…ぁ……と、べ?」
「ああ?」
 凄んでガラの悪い声なのに、綺麗な顔は少しも下品にならない。
 神尾は溺れた水中で外の世界を探るように喘いだ。
「おい。聞いてんのか」
 噛みつかれ、貪られるキスに延々唇を塞がれた後、神尾は小さく息をつぎながらしゃくりあげて泣き出した。
「俺じゃなくても、ぐちゃぐちゃに泣いたそんなツラを見せんのかお前は」
「……ふ……っ…ぅ…っ、ぁ…」
「くそったれ………あんなビデオ、全部、」
「…………ん…ッ」
 舌をねじ込まれるキスで。
 跡部の言葉はそこで途切れる。
 神尾の口腔に舌と一緒に埋め込まれる。
「……っ……ン、」
 跡部の悋気の意味を知って神尾は涙が止まらなくなる。
 そんな自分がバカみたいだと思うけれど。
 本当に。
「あとべ……」
「いいか。二度と泣くな」
「……………」
「俺のいない所であんなツラ二度とさらすな」
 優しくない。
 言葉だって仕草だって。
 跡部は。
「……………」
 でも神尾に。
 一番優しい。
 今の跡部は、神尾に一番。
 優しい。
「試合が終わった後でも負けたくなかった」
 負けた後も、負けたくないままだった。
 その気持ちだけが強すぎて、だから悔しいとか哀しいとかそういう意味でなく、あんなに泣いたのだ。
 跡部が神尾の前髪を荒くかきあげ、額から頭部へと強く撫で付けながら、こめかみに口付けてくる。
「………………」
 跡部の喉に口付け返して、神尾は身体の中でも跡部を抱き締める。
 そうすることで背筋を這い上がって、脳天まで突き上がってきた刺激に。
 泣き声が咽び泣きへと繋がっていく。
 跡部が息を詰めて畳み込んでくる。
 立て続けの揺さぶりに振り回されるようにしながら神尾は涙に濡れそぼった目で跡部を探した。
「跡…部…、…っ…」
「……、…ッ…」
 目が合うなり跡部の端正な顔が快感に歪むのを目の当たりにして。
 神尾は自分の涙が。
 跡部にとって何らかの意味がある事を知る。
 見飽きているんだろうとばかり思っていたのに。
 跡部の前で神尾は泣いてばかりいたから。
 それなのに、見飽きてないだけでなく、神尾の涙さえ束縛するような暴君の言葉を。
 嬉しいと思った。
 神尾は。
「…………………」
 そうして、そう思って零れたこの涙は。
 純度の高い、跡部の為だけの涙だった。

 神尾の情緒がひどく不安定になっているのは、この場に橘がいないせいなのかもしれない。
 それを思うと跡部も決して気分が良い訳ではない。
 そうかといって、平静を保てず苛つく神尾を放っておけばいいと思った所で、それも出来ず。
 わざわざ人目を盗んで呼び出すような真似をしている自分が、跡部には我ながら理解しがたかった。
 人目があろうがなかろうが。
 ジュニア選抜の合宿中だろうが何だろうが。
 からかうように神尾に構って、彼を煽って、そのフラストレーションを発散させてやる事だって幾らだって可能だろうに、ポジティブな神尾ならば幾らだって苛めてやれるがネガティブな神尾には奇妙な庇護欲がそそられて、跡部自身溜息混じりに呆れた言葉を放るだけの自分が苦々しい。
「三年も部長もいないで参加している以上、他校の奴ら以上に個人責任が重いんだぞ。お前らは。それが判っててあのザマか?」
 食堂で、神尾が立海大の切原と殴り合いの喧嘩をした日の夜。
 自主トレらしく、ジャージ姿で一人で合宿所を出ようとしていた神尾を、跡部は合宿所のひとけのない一室に連れ込んだ。
 何分人もこない部屋だから、物も何も置かれていない空き室だ。
 電気もつけず、窓からの月明かりだけで顔を合わせる。
「………何だよここ」
「誰も来ねーよ」
「何でそんなこと判るんだよ」
 跡部が目線で呼んで顎で促した神尾は、後をついてはきたものの、気配はささくれ立って荒い。
 大方、食堂での一件を発散させようとしていた所を邪魔されて、不機嫌の極地にいるのだろうと跡部は察した。
「この合宿所は俺の家の持ち物だ」
「………………」
 跡部を睨み、不機嫌を隠しもせずにいる神尾だったが、跡部が言った最後の言葉で、おし黙った。
 舌打ちじみた溜息を吐き出している。
 背けられた神尾の横顔に、跡部も剣呑と吐息をついた。
「神尾」
「……判ってる」
「そうは見えねーな」
「判ってる!」
 苛立った言葉を神尾からぶつけてこられても、跡部は不思議と腹がたたなかった。
 やっと神尾が跡部を見た。
 月明かりは割合に明るく、神尾の細い首筋が、青白く跡部の目に滲みこんだ。
「アレが、何をどこまで考えての行動だって?」
「うるせー! 俺の事までえらそうに口出すな!」
「目にあまるんだよ」
 言い捨てる。
 神尾がぐっと息を飲んだ。
「…………、…」
「別に俺は個人的にお前にちょっかい出してるんじゃねーよ」
 淡々と跡部は低い声で言う。
 神尾の双瞳が、ふと、月光を反射させるように揺らいだ。
 泣くらしい。
 泣く理由によっては、ただじゃおかないと跡部も神尾を睨み据えた。
「あれは、ただの、俺個人の喧嘩!」
「……………………」
「不動峰って学校がどうとか、橘さんや三年生がいないからとか、そういうのは全然関係ねえんだよっ。俺がガキで、あからさまな挑発もろくにあしらえなくて、我慢出来なくなって、手出して、騒ぎ起こしただけの、……っ…」
 本気で激高して、真剣に怒鳴っている神尾は、痛々しかった。
 跡部は両腕を伸ばす。
 叫んでいるままの身体に。
「……そうじゃねえだろ」
「…………っ…」
 強引に抱き込んだ身体は薄かった。
 暴れられたが、跡部が本気を出せば容易くこうして封じ込められる。
 まるで熱を放っていそうな見目の激しさだったが、こうして抱き締めてしまえば、神尾の身体は跡部の手の中で、硬く、冷たく、か細かった。
「お前が不動峰だからだ」
「…、………っ…」
 抱きすくめたまま跡部は言った。
「暴力に意味なんざ何もないって事をお前らは誰よりも知っているし、お前らがそれを知ってるって事を、俺は知ってる。だから騒ぐな」
「…………ん…だよ……」
 ぐしゃっと何かを握り潰したかのように、神尾の声と涙が崩れて零れた。
 跡部は神尾の背を擦る。
 仕草があまり優しくならないように。
「おい。今日の自主トレは止めとけ」
「……………嫌だ」
「腹立ちまぎれに発散させようたって、怪我するのがオチだ。忘れてるなら教えてやるが、お前は、バカ、なんだからな。二つの事を同時に出来ない単細胞なんだから、走るならいつもみたいに何にも考えないでへらへら笑って走るのだけにしとけ」
「あ…っ、…跡部っ、てめ……っ…」
 神尾が激しく暴れだして、跡部は微かに笑った。
 ちらりと見下ろせば、神尾の首筋が赤かった。
「…………五分でお前をめちゃくちゃにしてやるよ」
「な…、……?…」
「怪我させずにな」
 跡部は片手で神尾の後頭部を鷲掴みにした。
 楽に指に包めるほど、神尾のそれは丸く小さい。
 食いつくように唇を塞いだ。
「…ン……ッ…………ん…っ」
「……………………」
 もがく神尾を跡部は全身を使って窓辺に追い詰める。
 細い両足の狭間に跡部は脚を割り入れて、腿でそれを押し上げた。
「……ひゃ…、…っ……」
「………五秒でこれか? ん?」
「ャ………、……だ……、」
 神尾の耳元近くの髪の生え際に唇を押し当てて、跡部はそこを吸い上げながら低い声に笑みを交ぜる。
 ジャージの上着の裾から左手を差し入れて、神尾の薄い胸に伸ばした指先に頼りなく触れたものを痛ませないように撫でさする。
 頃合を見計らってそれをそっと押し潰すと神尾は跡部の肩に辛うじて取り縋りながら頼りない声をあげた。
「……、…ふ…っ…ぁ…、」
「神尾」
「……ぁ……っ……ャ…跡…部…、…」
 普段はひどく痛がるからしないのだが、ジャージの上からなら大丈夫だろうと跡部は神尾の胸元に歯を立てる。
「ゃぁっ…ゃ、っ、ぁ………」
 びくびくと神尾の肢体が跳ねて、跡部の頭を胸元に抱きかかえるようして腕が回される。
 跡部はそのまま膝をついてしまった。
「……跡……部……、…?…」
 神尾の腕からするりと逃げて、跡部は神尾のジャージの下履きを少し押し下げた。
「え…?……ちょ、…っ………」
「他の奴らが集まってくるような声は出すなよ」
 からかいながら跡部は上目に神尾を見上げた。
 神尾の赤い顔は不安そうで、片目だけ見えている瞳から涙が零れ落ちそうだと思ったら、本当にそれが跡部の頬にぽつんと落ちてきた。
「………外野が集まってきても、お前がいくまでは続けたままだからな」
「ひ………ぁ………っ……」
 多分に本気で脅すように告げてから、跡部はわざと啜り上げるような音をさせてそれを銜え込んだ。
「ん…っ…、ん、っ……ゃ、跡部…、」
「……………………」
「………ぁ…、…も…」
 震えている神尾の両足を跡部は両手で掴み取って、無理矢理立たせたまま舌をつかった。
 神尾は窓辺に殆ど身を預けるようにして寄りかかりながら、切れ切れに甘い息を降り零している。
 しゃくりあげて泣くような神尾の声を聞きながら、跡部は粘膜で神尾を締め上げた。
「も…、……ゃ……、…っ…ぁ」
 吸い上げてやりながら跡部が両手を神尾の腿から外すと、すぐに神尾が崩れ落ちてきた。
 低く笑いながら抱きとめてやる。
 小柄な身体はぐったりとなって跡部の胸におさまった。
「本当に五分でめちゃくちゃになっちまったな」
「………っ…、……」
「まだ憂さは晴れねえか? うん?」
「…………る…せー……」
 ばか、と甘く舌足らずな声で詰られて。
 神尾がジャージの袖口で荒っぽく跡部の唇を拭ってくる。
 それを笑って受け止めた跡部は、立ち上がる前に最後にもう一度だけ神尾を抱き締めた。
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