How did you feel at your first kiss?
酷い、酷い、酷い男だと、最初から判っていたのに、知っているのに、その都度いちいち全部に傷つく自分が馬鹿だ。
精一杯の虚勢を張った神尾が、跡部と喧嘩をする事なんて、しょっちゅうで。
お互いが本気になるとそれは結構な騒動で、かなりの剣幕の、喧嘩になる。
でもそうやってどれだけ喧嘩をしても。
腹をたてるのはお互い様でも。
傷ついているのはきっと、自分の方だけだと神尾は思っている。
本当は、喧嘩なんかしないで、優しくしたり、優しくされたり、したいだなんて馬鹿な事を考えているのも自分だけだと判っている。
そんな神尾だから、跡部との言い争いを繰り返す毎に、自分自身の虚勢が少しずつ少しずつ壊れていっている事にもちゃんと気づいていた。
弁のたつ跡部に、言い負かされないように。
跡部に勝てるものなんて何もないと、自分で本当は判っている神尾だから。
気ばかり張り詰めていく一方だ。
感情が不安定で、だから不必要な、過剰な言葉や態度を、時々跡部に全部ぶつけてしまいそうになる事が神尾にはひどく怖かった。
もし跡部に告げたらそれでもう何もかもがおしまいになってしまうと理解している言葉や行動があって。
それをぶつけたら、単なるいつもの喧嘩では済まなくなるような。
全部が終わってしまうような。
もう跡部との関係の全てが断ち切れる、爆弾みたいな言動。
恐らく跡部はあっさりと、それならもう会うのも口きくのも金輪際止めると簡単に返してくるだろうきっかけの言葉が、放ちたくもないくせに神尾の中には幾つもあった。
幾つもそれらは生まれては神尾の胸に全て溜まっていった。
何でそんな言葉が自分の中に増えていくのか、神尾には訳が判らなかった。
本当は、跡部と言い争いなんかしたくない。
本当に、跡部と別れたりなんかしたくない。
それなのに。
多分もうそろそろ危ういと察してはいたものの、とうとうそのうちの一つが、その日。
神尾の唇から零れ落ちてしまった。
「もう二度と会わねえよ!」
そう叫んだ瞬間、神尾はぎくりと身体を強張らせ、心中は冷たく凝ったが。
呆れ返ったような跡部の表情を見てしまい、一気にその胸は煮えたぎった。
言ってしまったらそれが現実になってしまう、神尾の中の禁忌の言葉のうちの一つを。
跡部が拾って即座に肯定してきた方が、まだいっそ、ここまで感情が激高することはなかったように感じた。
跡部の表情を見て、神尾は思い知らされてしまった。
この言葉は。
神尾には絶対に言えない、言う訳がないと、跡部は知っていたのだという事。
二度と会わないなんて真似、神尾に出来る訳がない事。
跡部は知っているのだ。
だから。
跡部はそんな顔で今、神尾を見据えて何も言わない。
「…………、…っ……」
神尾は奥歯を噛み締めた。
悔しかった。
酷く、悔しかった。
跡部を睨んで神尾は唇を噛み締めた。
どうして自分ばかりがこんなにも惨めなんだと、涙も冷たく、凝った。
跡部の部屋で始まった今日の言い争いのきっかけが何だったかも、今の神尾には思い出せなかった。
ただ、跡部の口にした最後の台詞だけが、神尾の虚勢の全てを崩して壊してしまったのだ。
『別に俺はお前じゃなくても抱ける』
跡部はそう言った。
そんなこと、知っていたけど。
でも、言われたくなかった。
その前には確か、些細ないつもの口喧嘩をしていて。
お前は俺の玩具だと、跡部は言った。
続け様のその二言で。
だから神尾は、判りたくもないのに。
ああ判ったよ!と叫んで。
それでも尚平然と、騒ぐんなら出てけとうんざりと跡部が言ったから、もう二度と会わないと言い放ったのだ。
「………………」
瞬時呆れ返った顔をした跡部は、今も神尾が睨み据えるのを真っ向から受けとめているだけだ。
沈黙の中、跡部が僅かに目を細めた。
跡部の顔は、その他は完全な無表情だった。
「……好きにすりゃいいだろ」
「………………」
そして、やはりこんなにも簡単なのだ。
傷つくのも、やはり自分の方だけなのだ。
オモチャか、と神尾は電車の窓ガラスに映っている自分の顔を見ながら考えていた。
跡部の家を出て自分の家へと、ただぼんやりと足を動かし移動している。
あの後からのことは記憶に不鮮明で、気づくと神尾は電車に乗って窓の外を見つめていた。
我に返った神尾が、止まっていた思考で考え出すのは、やはり跡部のことだった。
最初から、跡部が自分を何故構ったのかといえば。
それは毛色の違った自分への物珍しさが機縁だという事を、神尾も察していたから。
そういう物珍しさがなくなったら、まあ、飽きるんだろうな、と。
神尾だって前々から判っていた。
考えてもみなかったような言葉を言われた訳ではないので、決してショックで死にそうに感じていたりはしない。
何だか今日のこと全てが、なるべくしてなった事だったのだろうと、寧ろひどく冷静に理解している自分がいる。
そのくせ、もう必要ないと跡部の口から言われる事だけは怖くて。
そう言われてしまう事だけが、ひどく怖くて。
神尾は衝動的に、自分から、本当ならば一番言いたくない言葉を発していた。
「………………」
最寄り駅で電車を降り、ただ規則的に身体を動かすだけで、帰途につく。
別に泣いたりはしない。
泣きたい訳でもない。
早く家に帰って、一人になって。
多分すぐに眠れると神尾は思った。
何だか頭の中がぼんやりする。
早く、一人に、そう思って。
辿りついた自宅の扉の鍵を開け、ノブに手を伸ばした神尾の身体は、次の瞬間、物凄い力で後ろ側に引かれた。
「………、っ」
足元を滑らせたかと思った神尾は、自身の背がぶつかったものが、地面でも壁でもない事にすぐに気づいた。
でもそれが何かは咄嗟に判らず、息を飲んで、背後を恐る恐る仰ぎ見た。
「ど、………」
神尾の二の腕を痛いくらいに握りこみ、そこに居たのは跡部だった。
眩暈でもしたかのように動けなくなって、神尾はそのままの体勢で愕然となる。
どうして。
跡部がここに居るのか。
どうしての意味があまりにたくさんあって。
神尾は途絶えてしまった言葉の続きを口に出せない。
ただ判るのは、跡部がここにいる理由は何もないという事だけだ。
だから。
怯えや嫌悪がない代わりに、神尾はただ驚愕だけを湛えた表情になる。
跡部に睨み下ろされて。
沈黙を破って問われた跡部の言葉の意味も判らなかった。
「どういうつもりで出てったんだ。お前」
「……どういう…って…」
「………………」
声を荒げたりしない分、跡部の口調は冷え切っている。
「言葉だけなら売り言葉に買い言葉かって多少大目に見てやってもいいが、実際出てくってのはどういう腹積りかって聞いてんだよ」
掴まれていた二の腕が一層きつく握り込まれて、神尾は眉根を寄せた。
「…………跡部こそどういうつもりでここにいるんだよ」
神尾自身びっくりするくらい強張った声が出た。
でもそうやって言葉にしてしまうと、さっきまでの無気力めいた感情は全て吹き飛び、神尾の内部に強い感情が満ちてくる。
酷い衝動だった。
「俺の好きにしろって跡部が言ったんだから、俺はもうお前と会わねえの! だからだろ! 文句ないだろっ。帰れ馬鹿っ!」
「ふざけるなッ!」
物凄い怒声に、神尾は思わず、ぐっと息をのんだ。
それまで平然としていた跡部が、今まで神尾が聞いた事もないような声で神尾を怒鳴りつけてきた。
「認めねえんだよ、んなこと!」
更に二の腕をきつく掴まれて、骨に直接食い込んでくるかのような跡部の指が痛くて。
有無を言わせない厳しい怒鳴り声が痛くて。
自分達の、いろいろな意味での力関係の差にが痛くて。
神尾は、ぼろぼろと涙を零した。
少し前までは、泣こうなんて全く、思わなかった筈なのに。
跡部を睨み据えたまま、今は、涙が止まらなくなってしまった。
「………ふざけんな……」
また、跡部は同じ言葉を口にしたけれど。
先程の時とは全く違う、随分と投げやりで力ない声だった。
苦々しい舌打ちは神尾の耳にも届いたけれど。
跡部の表情は、もう見えなかった。
神尾の視界は涙で歪んでいるばかりだ。
「人の話の途中でお前が馬鹿な事言うからだろうが」
「話、なんか……っ…」
「してただろ。さっき言っただろうが。別に俺は、お前じゃなくても抱けるって」
「………、…っ…」
神尾がつかまえられる跡部は、耳で聞こえてくるその声だけなのに。
低い跡部の声が告げた言葉は、今日、神尾をざっくりと切りつけたその酷い言葉だった。
「………バカ、…やろ…っ」
そんなこと改めて、二度も、何度も、聞きたくなんかない。
それなのに、どうしてそんなことを、また、わざわざ口に出すのかと、神尾は空いた手で涙を流すばかりの目元を荒く拭った。
跡部と比べれば、自分は馬鹿かもしれないけど。
でも。
一言を、一度だけでも、言われれば。
それで全てが判る事だってある。
もうあれ以上、跡部の口から何も聞きたくなかった神尾の思惑など歯牙にもかけず、追いかけてきてまで、その続きを言おうとする跡部は。
神尾が跡部の事を、ただ好きでいるだけの事も、これからは決して許そうとしていないのかと、神尾はそういう風に考えるしかない。
「………俺も…」
上擦った声に涙は完全に浸透してきていて。
震えて、掠れて、最後の最後までみっともない。
神尾は必死で、声を振り絞った。
「早く……別の相手…見つければいいのか」
跡部みたいに、と涙と一緒に神尾が零せば、跡部の腕の拘束が僅かに緩んだ。
「何、…」
「…追いかけてきてまでして、そんな顔して、最後まで言うくらいなら……俺が、早く、そうすれば……いいんだろ。跡部は」
神尾の持っている跡部に由来するもの全てを、跡部は壊してから、その上で自分を放り出したいのだ。
こんな駄目押しをするくらい、本気で。
「………………」
今なら跡部の手から逃れられる。
ここまできても、やはり、最終通告は聞きたくない。
神尾は跡部の手から、掴まれていた自分の腕を取り返し、このまま家の中に入ろうと、再びドアノブへと指先を伸ばした。
その時だ。
神尾の背後で、何かが聞こえた。
何かが。
「………………」
酷く痛いものの気配、実態のないそれが、強い衝撃を与えるように周囲の空気をビリビリと張り詰めさせた。
思わず振り返ってしまった神尾は、それが、跡部の声であった事を知る。
「…、ぁ……と…べ…?」
誰がそんな話をしてる、と。
跡部が発した怒声であったと。
神尾は無理矢理跡部に肩を掴まれ、握り潰されそうな力の強さに誘発されるようにして、その言葉を理解した。
「……全然意味判んねえのかッ?」
「………ッ…、」
ドアに強かに背を打ちつけられて、物凄い音がして、今更ながらに神尾は家人や近所が気になった。
その一方で、ああそういえば、と神尾はぼんやり思い当たる。
今日は家に誰もいないから、自分も跡部の家に出かけて行ったのだったとか。
どうでもいいような事を思い返したりもしながら、神尾は跡部の剣幕を茫然と目の当たりにする。
「誰が、いつ、お前に俺じゃない男と付き合えって言った……!」
胸倉を掴まれて、頭ごなしに自分を怒鳴りつけてくる跡部が、どれだけ本気で怒っているかが神尾には判るから。
「………なんで……」
そんな風に怒るんだと、神尾は声を詰まらせて泣いた。
しゃくりあげて、嗚咽交じりに跡部を詰った神尾は。
跡部に胸倉をつかまれたまま、跡部の顔を見返した。
「……、…ん…で……怒、…ん…だよっ」
歯噛みする音まで聞こえそうな距離まで、顔を近づけてきた跡部は神尾の胸元を鷲掴みにしたまま呻くような声で言った。
「誰だって抱けるのに、お前だけしか抱きたくない。お前以外抱く気がない。人をそこまではまらせておいて今更何ほざいてんだてめえは…っ!」
「…………ぇ…?」
神尾の身体から、全ての力が一気に抜けた。
そうして思考能力もまた、それと一緒に完全に止まってしまったのだった。
あのままその場に座り込んでしまった神尾を、何だか跡部も急に我に返ったような顔をして見下ろして。
今更といえば本当に今更だったのだが、周囲を気にするように跡部は視線を動かした。
神尾の自宅前で、そこの家の子供が男に恫喝されて泣きまくっているのだから、見ようによっては即刻騒ぎになっても何らおかしくない。
ただ幸い、そういった目に晒されてはいなかったようで。
それを一瞬で確認し終えた跡部は、深い溜息をついた。
そして荒く前髪を握り締めると、座り込んだ神尾を厳しく見下ろしてきた。
家に誰かいるのかと聞いてきた跡部に、神尾は首を左右に振るのが精一杯だった。
跡部に引きずり上げられるようにして、神尾は自宅の中に入った。
自分のテリトリーのはずなのに、神尾はもう何も出来なくて、跡部に手を引かれるようにして自室に向かう。
唖然としたままの神尾をどう見ているのか、跡部は、機嫌は決して良くなさそうなのだが、どこか仕方なさそうな顔をしてもいた。
神尾をベッドの縁に座らせると、その正面に立って尊大に見下ろしてくる。
「俺にすれば、オモチャってのは最大級の賛辞だ。バァカ」
そしてこう行ったのである。
「………は?」
「俺はつまんねえもんでなんかで遊ばねえんだよ。一生もんでなけりゃ、自分から何をしてでも手に入れる気なんかない。このバカ」
「……、…バカバカってさっきから…!」
つい挑発にのるように返してしまったものの、未だ神尾には事情がよくのみこめていなかった。
あんなに。
あんなに、ショックを受けたのに。
酷い、本当に酷い事を言われたのに。
この男に。
「………………」
跡部を見上げて、でも、今神尾が感じるのは。
さっき聞いたあの言葉の続きと、跡部が自分を追いかけてきてくれたのだという現実だけだ。
重い二つのそれで、手一杯だった。
「お前は俺の玩具だ。お前で一生遊んでやる」
「………………」
跡部の言葉は、あの時とまるで同じ筈なのに。
どうして今は、あの時とまるで違う風に聞こえるのかと、神尾が放心状態で見上げる先、跡部が眉を寄せたのが判った。
「………ったく…」
「………………」
「一生、お前だけって事だよ。こう言や判るのか」
「え……?…」
「思考回路単純なくせして、俺の言う事だけ無駄に穿ってんじゃねえよ」
舌打ちして。
乱暴に髪をかきまぜられて。
でも膝をついてきた跡部に両肩を掴まれ、重なった唇は。
掠った程度なのに、ひどく熱かった。
神尾が半ば硬直してそのキスを受けると。
「不満か」
「………………」
唇と唇の合間で囁かれ、神尾は訳もなく首を左右に打ち振りそうになってしまう。
実際は、あまりに目まぐるしい展開に、未だついていけずに。
ただ跡部を見つめるので精一杯だった。
「………跡部のオモチャって……」
「何だ」
「いつでも、いらなくなったら捨てるもの…って意味じゃないの?」
どこかぼんやりとしてしまう中、それでもこれだけは聞きたくて問えば、跡部は茶化すでもなく、怖いくらい真剣な顔で言った。
「一生手放さねえって意味だって言ってんだろうが」
他の奴のものになるなんて事は一生ないから腹くくれと、神尾の首筋に跡部の言葉と歯とが沈んでくる。
「いつまでびびってんだ」
「………ってなんかない、けど」
「けど? 何だ」
「………………」
目線が同じ高さになった跡部に睨み付けられ、神尾は、だってこんなにも簡単に収拾をつけられてしまっていいものかと、言葉を詰まらせる。
自分が壊れそうなくらい傷ついた言葉を。
今はこんな、まるで甘い独占欲のように聞けている自分が信じられない。
そういう感情から神尾は言いよどんだのだが、跡部は憮然と詰め寄ってきた。
自分自身の感情がうまく言えずに押し黙る神尾を、真っ向から直視してきながら、ふと跡部の気配が変わったのが神尾にも判った。
わざとらしくではなく吐き出した溜息の、思いもしない困惑の気配に神尾は戸惑った。
「……いい加減、機嫌直せっての」
「………………」
「おい?」
「なんで…?……」
「調子狂うからに決まってんだろ」
ついでにそういう困ったようなツラはするなと跡部が素っ気無く言って。
神尾の唇を噛んでくる。
それが、キスかと判ったのは跡部の舌に甘く絡め取られた自分の舌を神尾が自覚した時だ。
キスのやり方はあくまで甘ったるくて、優しげな手に頭を抱え込まれるようにして、やんわりと舌を噛まれるともう。
「……気持ちよさそうなツラ」
笑う吐息に煽られて、間近から見つめてくる跡部の眼差しの強さにも駄目になって。
潤みきった眼で神尾が睨むようにすれば、一層跡部は笑い出す。
笑って、笑って、しまいに黙って。
そうして結局毒づいた。
「………てめえは」
「………………」
「なんなんだよ。そのツラは」
「………………」
瞳がきつくなって。
呻くみたいにして。
「………ん…、…っ…」
乱暴に、抱き込まれて。
めちゃくちゃに深いキスで塞がれて。
閉じ込められて。
「……ァ………、」
「………………」
力づくのキスなのに、痛いのが嬉しいなんて相当おかしい。
「………………」
嫌なのではなく、深すぎるキスが苦しいから神尾は腕は突っぱねるのに。
何だか傷ついたように苛ついて、一層手荒に神尾を抱きこんでくる跡部に、神尾はひっそりと安堵感を覚えた。
無くさないで済んだ男。
同じ言葉を、全く違う意味で理解してしまう自分達だけれど。
「…、跡部…は……」
「………何だ」
キスをされたままベッドに組敷かれた神尾が、噛み合わせを変える為に外れた唇の合間で声にならないような声で問いかけた言葉を、決して流さずに拾い上げられて。
「オモチャって……俺で、…どうやって遊ぶんだよ……?」
「決まったやり方がある訳ねえだろ」
「…そ……なの…か…?」
「いいのか?」
「なに?…」
問いかけに問いかけで返されたら判らない。
戸惑う神尾に、跡部は薄く笑った。
「お前で。今、遊んで」
「………………」
オモチャなんて。
最初に聞いた時は、ざっくり傷ついた。
酷い、怖い、言葉だったのに。
「…………跡部……あそびたい?」
「ああ」
目を細めるようにして、見据えてきて。
お前で、あそびたいと。
睨むように笑みを浮かべる跡部の表情に、何だかもう、何をされてもいいような気に神尾はなった。
「俺が、楽しいと思う事が少ないんだよ」
「………………」
「だから、遊んで楽しいものを見つけたら、そういう事には真剣なんだ。テニス見つけた時と同じだ。お前は」
跡部が言うから。
「知ってて下手な勘違いしてんじゃねえよ」
遊びたいなんてお前にしか思わないと駄目押しされるから。
神尾は息を飲み、その唇を、跡部に塞がれる。
焦れて、餓えたような、荒い口付けに。
ゆるやかに喘がされていきながら、神尾は跡部を見つめ続けた。
「……俺が一生言わない言葉、平気で口にしておいて…」
「………、ぇ…?」
「二度と会わないとか、二度と言うんじゃねえぞ」
吐き捨てるような苛立った声は一瞬だったけれど。
跡部にしては珍しい、急いたような手に服を剥がされていきながら、神尾は何だかどうしようもなくなってしまった。
「………神尾?」
跡部が神尾にしたのよりも数段雑に、自身の服を脱いでいる中。
神尾は上体を起こし、跡部の下腹部に顔を近づけていく。
言われたからではなく神尾がそれをしようとすると、跡部は少し笑った。
でもそれは面白がっているのではなく、珍しく何かを誤魔化すような曖昧な笑い方だった。
神尾は身体を屈めて、跡部の足の狭間に唇を寄せる。
舌を差し伸べるより先に、口腔に直に、ゆっくりとそれを含み取っていって。
口の中で脈打つものの存在感にびくりと肩を震わせた。
「………ン、っ…」
「………………」
「…っ…、ふ……ぅ……」
すぐさま喉を突かれるように、のびあがってきたもの。
神尾の舌に乗る重みに、たちまち狭いその場所は埋められた。
粘膜をすきまなく触れ合わせたまま、奥まったところから先の方へと神尾が舌を這い上がらせていくと、神尾の口の中で更なる急な角度がついて、ぐっと喉までそれで押し上げられた。
「………、ぅ」
「……お前のが、いいっていうようなツラしてんじゃねえよ」
「………、……と……べ…?」
からかって笑う事に失敗したみたいな顔で跡部は神尾を見下ろしてくる。
笑みに歪み損ねた跡部の口元は、熱のはらんだ息を繰り返す事で濡れているように見えた。
神尾は跡部のそんな口元を見上げたまま、再び唇を開き、口腔にそれを通していく。 たいした事をしていないのに、神尾の舌の行く先で、跡部のそれは熱を増し、形を変える。 本格的に含みきれなくなって、神尾は横ざま跡部を唇で食んで舌で撫で擦る。
頭が跡部の手に抱え込まれて、でもその手は神尾をそこに押し付けるのではなくそこから引き剥がす為に動いた。
「…………ぇ……、…?…」
口腔の粘膜を一息にこすられる刺激に身体を震わせている神尾は、幾分手荒にベッドに押さえつけられた。
神尾に乗りあがった跡部は神尾を見下ろし、ほんの一時も神尾から視線を外さなかった。
潤みきっている神尾の口の中に跡部は指を差し入れてきて、すくいとるような動きでそこをかき回される。
もっていかれた唾液をまとった指の行方は神尾にも判っていたけれど。
でも実際下肢からその指で身体をくぐられて、神尾は喉を詰まらせた。
「ン…っ…、……ッん…、…ぅ…、ん、」
苦しさもある。
でもそれよりも。
余すところなく晒されている跡部の表情を見上げていれば堪らなくなってしまって、神尾は体内に送り込まれているものを受け入れようと身体の力を抜いてそこに意識を集中する。
抵抗感に少しずつ逆らいながら、最後にはとうとう滑り落ちるみたいにして。
深みまで束ねた二本の指が通されたと、神尾が気づいたのはその時だ。
「……っぁっ」
「………神尾?」
「ん、…………へ……き…、…っ……、っ、ぁ」
全部判っている跡部の指に、狙われて擦られ、押し込まれた所から全身に拡散していく刺激の強さと甘さとに、神尾は大きく身体を震わせた。
それを幾度も幾度も繰り返されると、神尾は時期に首を激しく左右に振ってもがき出した。
一から数え直すように、執拗にされ出したのに気づいたからだ。
「……も、………だい…じょうぶ…、だ…から……っ…」
「…………んなわけあるか」
「だ…って、…も……、これ、…」
もがいた時に膝の内側で偶然掠めた跡部の熱から感じ取った焦燥感を、見て見ぬ振りする事も出来ずに。
先程口で感じ取った時よりも、更に追い詰められている気配がする。
焦れているのが自分だけではないと判ったから。
欲望を隠さずに、それでも慎重に神尾の身体をならす跡部に、神尾は何度も、訴えた。
跡部の後ろ首に取り縋って、せがむような拙い言葉を繰り返した神尾に、跡部は何か毒づくような言葉を吐いて、指を引き抜いた。
息を吸い込むような悲鳴をあげた神尾が、次には完全に息も止めてしまった勢いで。
跡部は神尾の身体を押し上げるようにして拓いてきた。
一息で、全部を埋めてきた。
「ッ…、…ぅ、…、ぁ、ッ…」
「おい……」
「……っ…、…く」
「きついか」
燃えるような熱い吐息が耳を貸掠る。
声にもならない声で、気管支を痛めるような呼吸を繰り返す神尾は、自分の涙で視界が溺れて、跡部に縋り付いているしかない。
何を尋ねられているのかも判らないままの神尾に、跡部の荒い声が吹き込まれる。
「今、なか、凄いんだよ。お前」
「…、ッ……ァ…」
辛いか、と額を手のひらで撫でられる。
「ちが………」
「……神尾」
「…ち……が…っ…ぁ…ァ…っ」
それ以上言われずとも、判っている。
自分の身体の中が、どう動いているか。
跡部に絡みつくように、しがみつくように、してしまうこと。
自分の身体のしている事なのに神尾の意思などは存在しないかのように、複雑で卑猥な動きで跡部にひっきりなしに絡み付いている。
「ぃ、……っ……」
「……………」
「ャ…、…ぃ…っ…ぁ…ぁ、ァ…」
「神尾」
「……ゃ……怖……、…なか、…も…、跡部……っ……」
「馬鹿野郎……そんな声で呼ぶな」
「跡…部…、…ァ…っあ、っ、」
「……、……神尾」
そんな声というならば、跡部の声こそそうだろうと、神尾は浮かされたようになって考える。
明らかに、自分で快感を得ている事が判る、甘く乱れた息遣いが交ざる声音。
「…ぃ…っ……ャ、…、ッ、ぁ、…っ」
「神尾」
「ン、…っん、…、っ、ン……」
囁かれれば囁かれるほど駄目になってしまう。
深々と埋められたまま、律動を与えずにとどまっているものに、自分の方から絡んでいってしまう。
「うご、く…、ぅ…、……ャ、ぁ、…こわ……、なか、…っ」
「………、…おい…」
「跡部…っ…、…ァぁ、ぅ」
いきなり凄い勢いで引き出されたものが、最初の時よりもっと手荒く、神尾の奥深くまで埋まってくる。
「…っ、ぃ、…」
「……やり方変えて欲しかったら、その声俺に聞かせるな、」
跡部の口調は神尾を責めるばかりで、それは理不尽な事なのかもしれなかったけれど。
余裕を無くしたような跡部の声は、神尾の感情を甘く揺さぶるばかりだ。
「ァ、……、…っ、ア、…」
自分でも判らない身体の遠くの方。
目にする事も出来ない深みで、息づき脈打っているものは、すでに神尾の行き止まりにぶつかっていて、とどまっていて、それなのに。
「………ひぁ…っ…」
それでも尚、強く、押し込まれて。
壊れたように涙が零れて、神尾は胸を大きく喘がせた。
「……っ……ひ…、ぅ……、…っ」
痙攣じみて震える両足できつく跡部の胴を挟み込み、呼吸も詰まらせた神尾に、跡部も熱を吐くような息を零した。
「…………てめ…ぇ…、な……!」
「…っく、…、ぅ…、…っん、…ん…っ」
身体の内部でもきつく跡部に縋りつくような蠕動が生まれて、跡部が言葉を乱し、神尾は仰け反って上擦った声を上げる。
もう今度こそ、自分の身体の内部が何をしているのか神尾にはまるで判らなくなる。
跡部が走るように動き出して、体内が甘苦しく摩擦されていく刺激に、神尾は泣きじゃくった。
「ャ…、…ぃ…、…っ…ゃ、っ……あと…、…」
もう訳が判らなくなって、どうする事も出来なくなって、身勝手に自分だけがきざはしを駆け上がっていくのが、神尾は怖くて怖くて堪らなかった。
「……も、…っ…、…ぉ…」
跡部に取り縋る事も出来なくなる。
四肢を投げ出した神尾は、跡部の手に砕かれそうに強く握り込まれた腰骨と、深みを抉られているその箇所だけが身体の軸で。
何だかもう、自分の身体の一部はすでに熔けてしまって、跡部の身体と一緒に交ざってしまっているのかもしれないと神尾は思った。
回らぬ舌でそれを訴えれば、跡部の動きがまた強く早くなる。
「っん、っぅ、ぁ、…ッ、っあ」
「どっちが引きずり込んでんだよ…、…」
「…っ…ぁぅ」
「………溶かそうとしてんのはお前の方だろうが」
「…………っゃ、…ぃ、………っ……、く」
「、神尾」
「ァ…、っ、ア」
動かない身体がもどかしくて泣けば、縛りつけられるように跡部の腕に抱き締められた。
「………ぁ…、…、……っ…ァ…」
跡部に抱き竦められてやっと、神尾はバラバラになっていたあらゆる箇所の快楽を一所に集められたような気になる。
外側からも内側からも身体が濡れる。
痙攣する神尾の身体を抱き締める腕から、跡部は少しも力を加減しようとはしなかった。
痛みを覚えるくらいのきつい抱擁の中、到達感は長くて、続いたままで、神尾はまた新たに咽び泣き出す。
怖いくらい収まらない。
涙声で口に出来るのは跡部の名前だけだった。
「…、………跡…、…あと…べ……怖…、終わ…れな…、…」
「…………神尾…」
同じだからいい、と乱れた息の低い声に耳元を濡らされて、お互いに苦しいくらいの息遣いのまま、解けないでいる身体を揺らし、揺らされる。
指の先まで、未だひたひたと熱い悦楽は埋められていて。
唇を幾度も角度を変えて重ね合いながら、ゆるい律動で再開された動きが、体内の熱い液体のようなそれらを揺らして、波のように止め処ない濃密さを煮詰めていく。
濡れきって怖いくらいの粘膜をゆっくりと休みなく行き来され、神尾はもう何の取り繕いもなく跡部の下で啜り泣いた。
「…っ…ぁ、っ、ん、…っ跡…部……」
「…………ああ」
「………、き……だよ…、…」
「……神尾」
「…………、な、…?…俺、……ぜったい、…こわれな…、から……」
だから。
「…すきに、…なに…し……ても、……だいじょ、ぶ……だから」
だから。
それに続ける言葉は、神尾にとっては、願い事のような言葉。
でもそれは、跡部にとっては、決まり事のような言葉だったらしかった。
「……一生だって言っただろうが」
「………っ……ん、っ」
だから。
跡部が、だから、とそれに続けようとしている言葉は。
跡部にとっては願い事で、神尾にとっては決まり事だ。
「逃げるな」
両手の指、全部をからめて。
手を繋いで。
唇を合わせる。
繋げられる箇所は、全て繋げる。
同じだから、重ねられるものもあるけれど。
違うから、組み合わせられるものもある。
ひとつになる、一緒にある、その手法は幾つもある。
願い事も、決まり事と噛み合えば、最強の現実になると思われる。
精一杯の虚勢を張った神尾が、跡部と喧嘩をする事なんて、しょっちゅうで。
お互いが本気になるとそれは結構な騒動で、かなりの剣幕の、喧嘩になる。
でもそうやってどれだけ喧嘩をしても。
腹をたてるのはお互い様でも。
傷ついているのはきっと、自分の方だけだと神尾は思っている。
本当は、喧嘩なんかしないで、優しくしたり、優しくされたり、したいだなんて馬鹿な事を考えているのも自分だけだと判っている。
そんな神尾だから、跡部との言い争いを繰り返す毎に、自分自身の虚勢が少しずつ少しずつ壊れていっている事にもちゃんと気づいていた。
弁のたつ跡部に、言い負かされないように。
跡部に勝てるものなんて何もないと、自分で本当は判っている神尾だから。
気ばかり張り詰めていく一方だ。
感情が不安定で、だから不必要な、過剰な言葉や態度を、時々跡部に全部ぶつけてしまいそうになる事が神尾にはひどく怖かった。
もし跡部に告げたらそれでもう何もかもがおしまいになってしまうと理解している言葉や行動があって。
それをぶつけたら、単なるいつもの喧嘩では済まなくなるような。
全部が終わってしまうような。
もう跡部との関係の全てが断ち切れる、爆弾みたいな言動。
恐らく跡部はあっさりと、それならもう会うのも口きくのも金輪際止めると簡単に返してくるだろうきっかけの言葉が、放ちたくもないくせに神尾の中には幾つもあった。
幾つもそれらは生まれては神尾の胸に全て溜まっていった。
何でそんな言葉が自分の中に増えていくのか、神尾には訳が判らなかった。
本当は、跡部と言い争いなんかしたくない。
本当に、跡部と別れたりなんかしたくない。
それなのに。
多分もうそろそろ危ういと察してはいたものの、とうとうそのうちの一つが、その日。
神尾の唇から零れ落ちてしまった。
「もう二度と会わねえよ!」
そう叫んだ瞬間、神尾はぎくりと身体を強張らせ、心中は冷たく凝ったが。
呆れ返ったような跡部の表情を見てしまい、一気にその胸は煮えたぎった。
言ってしまったらそれが現実になってしまう、神尾の中の禁忌の言葉のうちの一つを。
跡部が拾って即座に肯定してきた方が、まだいっそ、ここまで感情が激高することはなかったように感じた。
跡部の表情を見て、神尾は思い知らされてしまった。
この言葉は。
神尾には絶対に言えない、言う訳がないと、跡部は知っていたのだという事。
二度と会わないなんて真似、神尾に出来る訳がない事。
跡部は知っているのだ。
だから。
跡部はそんな顔で今、神尾を見据えて何も言わない。
「…………、…っ……」
神尾は奥歯を噛み締めた。
悔しかった。
酷く、悔しかった。
跡部を睨んで神尾は唇を噛み締めた。
どうして自分ばかりがこんなにも惨めなんだと、涙も冷たく、凝った。
跡部の部屋で始まった今日の言い争いのきっかけが何だったかも、今の神尾には思い出せなかった。
ただ、跡部の口にした最後の台詞だけが、神尾の虚勢の全てを崩して壊してしまったのだ。
『別に俺はお前じゃなくても抱ける』
跡部はそう言った。
そんなこと、知っていたけど。
でも、言われたくなかった。
その前には確か、些細ないつもの口喧嘩をしていて。
お前は俺の玩具だと、跡部は言った。
続け様のその二言で。
だから神尾は、判りたくもないのに。
ああ判ったよ!と叫んで。
それでも尚平然と、騒ぐんなら出てけとうんざりと跡部が言ったから、もう二度と会わないと言い放ったのだ。
「………………」
瞬時呆れ返った顔をした跡部は、今も神尾が睨み据えるのを真っ向から受けとめているだけだ。
沈黙の中、跡部が僅かに目を細めた。
跡部の顔は、その他は完全な無表情だった。
「……好きにすりゃいいだろ」
「………………」
そして、やはりこんなにも簡単なのだ。
傷つくのも、やはり自分の方だけなのだ。
オモチャか、と神尾は電車の窓ガラスに映っている自分の顔を見ながら考えていた。
跡部の家を出て自分の家へと、ただぼんやりと足を動かし移動している。
あの後からのことは記憶に不鮮明で、気づくと神尾は電車に乗って窓の外を見つめていた。
我に返った神尾が、止まっていた思考で考え出すのは、やはり跡部のことだった。
最初から、跡部が自分を何故構ったのかといえば。
それは毛色の違った自分への物珍しさが機縁だという事を、神尾も察していたから。
そういう物珍しさがなくなったら、まあ、飽きるんだろうな、と。
神尾だって前々から判っていた。
考えてもみなかったような言葉を言われた訳ではないので、決してショックで死にそうに感じていたりはしない。
何だか今日のこと全てが、なるべくしてなった事だったのだろうと、寧ろひどく冷静に理解している自分がいる。
そのくせ、もう必要ないと跡部の口から言われる事だけは怖くて。
そう言われてしまう事だけが、ひどく怖くて。
神尾は衝動的に、自分から、本当ならば一番言いたくない言葉を発していた。
「………………」
最寄り駅で電車を降り、ただ規則的に身体を動かすだけで、帰途につく。
別に泣いたりはしない。
泣きたい訳でもない。
早く家に帰って、一人になって。
多分すぐに眠れると神尾は思った。
何だか頭の中がぼんやりする。
早く、一人に、そう思って。
辿りついた自宅の扉の鍵を開け、ノブに手を伸ばした神尾の身体は、次の瞬間、物凄い力で後ろ側に引かれた。
「………、っ」
足元を滑らせたかと思った神尾は、自身の背がぶつかったものが、地面でも壁でもない事にすぐに気づいた。
でもそれが何かは咄嗟に判らず、息を飲んで、背後を恐る恐る仰ぎ見た。
「ど、………」
神尾の二の腕を痛いくらいに握りこみ、そこに居たのは跡部だった。
眩暈でもしたかのように動けなくなって、神尾はそのままの体勢で愕然となる。
どうして。
跡部がここに居るのか。
どうしての意味があまりにたくさんあって。
神尾は途絶えてしまった言葉の続きを口に出せない。
ただ判るのは、跡部がここにいる理由は何もないという事だけだ。
だから。
怯えや嫌悪がない代わりに、神尾はただ驚愕だけを湛えた表情になる。
跡部に睨み下ろされて。
沈黙を破って問われた跡部の言葉の意味も判らなかった。
「どういうつもりで出てったんだ。お前」
「……どういう…って…」
「………………」
声を荒げたりしない分、跡部の口調は冷え切っている。
「言葉だけなら売り言葉に買い言葉かって多少大目に見てやってもいいが、実際出てくってのはどういう腹積りかって聞いてんだよ」
掴まれていた二の腕が一層きつく握り込まれて、神尾は眉根を寄せた。
「…………跡部こそどういうつもりでここにいるんだよ」
神尾自身びっくりするくらい強張った声が出た。
でもそうやって言葉にしてしまうと、さっきまでの無気力めいた感情は全て吹き飛び、神尾の内部に強い感情が満ちてくる。
酷い衝動だった。
「俺の好きにしろって跡部が言ったんだから、俺はもうお前と会わねえの! だからだろ! 文句ないだろっ。帰れ馬鹿っ!」
「ふざけるなッ!」
物凄い怒声に、神尾は思わず、ぐっと息をのんだ。
それまで平然としていた跡部が、今まで神尾が聞いた事もないような声で神尾を怒鳴りつけてきた。
「認めねえんだよ、んなこと!」
更に二の腕をきつく掴まれて、骨に直接食い込んでくるかのような跡部の指が痛くて。
有無を言わせない厳しい怒鳴り声が痛くて。
自分達の、いろいろな意味での力関係の差にが痛くて。
神尾は、ぼろぼろと涙を零した。
少し前までは、泣こうなんて全く、思わなかった筈なのに。
跡部を睨み据えたまま、今は、涙が止まらなくなってしまった。
「………ふざけんな……」
また、跡部は同じ言葉を口にしたけれど。
先程の時とは全く違う、随分と投げやりで力ない声だった。
苦々しい舌打ちは神尾の耳にも届いたけれど。
跡部の表情は、もう見えなかった。
神尾の視界は涙で歪んでいるばかりだ。
「人の話の途中でお前が馬鹿な事言うからだろうが」
「話、なんか……っ…」
「してただろ。さっき言っただろうが。別に俺は、お前じゃなくても抱けるって」
「………、…っ…」
神尾がつかまえられる跡部は、耳で聞こえてくるその声だけなのに。
低い跡部の声が告げた言葉は、今日、神尾をざっくりと切りつけたその酷い言葉だった。
「………バカ、…やろ…っ」
そんなこと改めて、二度も、何度も、聞きたくなんかない。
それなのに、どうしてそんなことを、また、わざわざ口に出すのかと、神尾は空いた手で涙を流すばかりの目元を荒く拭った。
跡部と比べれば、自分は馬鹿かもしれないけど。
でも。
一言を、一度だけでも、言われれば。
それで全てが判る事だってある。
もうあれ以上、跡部の口から何も聞きたくなかった神尾の思惑など歯牙にもかけず、追いかけてきてまで、その続きを言おうとする跡部は。
神尾が跡部の事を、ただ好きでいるだけの事も、これからは決して許そうとしていないのかと、神尾はそういう風に考えるしかない。
「………俺も…」
上擦った声に涙は完全に浸透してきていて。
震えて、掠れて、最後の最後までみっともない。
神尾は必死で、声を振り絞った。
「早く……別の相手…見つければいいのか」
跡部みたいに、と涙と一緒に神尾が零せば、跡部の腕の拘束が僅かに緩んだ。
「何、…」
「…追いかけてきてまでして、そんな顔して、最後まで言うくらいなら……俺が、早く、そうすれば……いいんだろ。跡部は」
神尾の持っている跡部に由来するもの全てを、跡部は壊してから、その上で自分を放り出したいのだ。
こんな駄目押しをするくらい、本気で。
「………………」
今なら跡部の手から逃れられる。
ここまできても、やはり、最終通告は聞きたくない。
神尾は跡部の手から、掴まれていた自分の腕を取り返し、このまま家の中に入ろうと、再びドアノブへと指先を伸ばした。
その時だ。
神尾の背後で、何かが聞こえた。
何かが。
「………………」
酷く痛いものの気配、実態のないそれが、強い衝撃を与えるように周囲の空気をビリビリと張り詰めさせた。
思わず振り返ってしまった神尾は、それが、跡部の声であった事を知る。
「…、ぁ……と…べ…?」
誰がそんな話をしてる、と。
跡部が発した怒声であったと。
神尾は無理矢理跡部に肩を掴まれ、握り潰されそうな力の強さに誘発されるようにして、その言葉を理解した。
「……全然意味判んねえのかッ?」
「………ッ…、」
ドアに強かに背を打ちつけられて、物凄い音がして、今更ながらに神尾は家人や近所が気になった。
その一方で、ああそういえば、と神尾はぼんやり思い当たる。
今日は家に誰もいないから、自分も跡部の家に出かけて行ったのだったとか。
どうでもいいような事を思い返したりもしながら、神尾は跡部の剣幕を茫然と目の当たりにする。
「誰が、いつ、お前に俺じゃない男と付き合えって言った……!」
胸倉を掴まれて、頭ごなしに自分を怒鳴りつけてくる跡部が、どれだけ本気で怒っているかが神尾には判るから。
「………なんで……」
そんな風に怒るんだと、神尾は声を詰まらせて泣いた。
しゃくりあげて、嗚咽交じりに跡部を詰った神尾は。
跡部に胸倉をつかまれたまま、跡部の顔を見返した。
「……、…ん…で……怒、…ん…だよっ」
歯噛みする音まで聞こえそうな距離まで、顔を近づけてきた跡部は神尾の胸元を鷲掴みにしたまま呻くような声で言った。
「誰だって抱けるのに、お前だけしか抱きたくない。お前以外抱く気がない。人をそこまではまらせておいて今更何ほざいてんだてめえは…っ!」
「…………ぇ…?」
神尾の身体から、全ての力が一気に抜けた。
そうして思考能力もまた、それと一緒に完全に止まってしまったのだった。
あのままその場に座り込んでしまった神尾を、何だか跡部も急に我に返ったような顔をして見下ろして。
今更といえば本当に今更だったのだが、周囲を気にするように跡部は視線を動かした。
神尾の自宅前で、そこの家の子供が男に恫喝されて泣きまくっているのだから、見ようによっては即刻騒ぎになっても何らおかしくない。
ただ幸い、そういった目に晒されてはいなかったようで。
それを一瞬で確認し終えた跡部は、深い溜息をついた。
そして荒く前髪を握り締めると、座り込んだ神尾を厳しく見下ろしてきた。
家に誰かいるのかと聞いてきた跡部に、神尾は首を左右に振るのが精一杯だった。
跡部に引きずり上げられるようにして、神尾は自宅の中に入った。
自分のテリトリーのはずなのに、神尾はもう何も出来なくて、跡部に手を引かれるようにして自室に向かう。
唖然としたままの神尾をどう見ているのか、跡部は、機嫌は決して良くなさそうなのだが、どこか仕方なさそうな顔をしてもいた。
神尾をベッドの縁に座らせると、その正面に立って尊大に見下ろしてくる。
「俺にすれば、オモチャってのは最大級の賛辞だ。バァカ」
そしてこう行ったのである。
「………は?」
「俺はつまんねえもんでなんかで遊ばねえんだよ。一生もんでなけりゃ、自分から何をしてでも手に入れる気なんかない。このバカ」
「……、…バカバカってさっきから…!」
つい挑発にのるように返してしまったものの、未だ神尾には事情がよくのみこめていなかった。
あんなに。
あんなに、ショックを受けたのに。
酷い、本当に酷い事を言われたのに。
この男に。
「………………」
跡部を見上げて、でも、今神尾が感じるのは。
さっき聞いたあの言葉の続きと、跡部が自分を追いかけてきてくれたのだという現実だけだ。
重い二つのそれで、手一杯だった。
「お前は俺の玩具だ。お前で一生遊んでやる」
「………………」
跡部の言葉は、あの時とまるで同じ筈なのに。
どうして今は、あの時とまるで違う風に聞こえるのかと、神尾が放心状態で見上げる先、跡部が眉を寄せたのが判った。
「………ったく…」
「………………」
「一生、お前だけって事だよ。こう言や判るのか」
「え……?…」
「思考回路単純なくせして、俺の言う事だけ無駄に穿ってんじゃねえよ」
舌打ちして。
乱暴に髪をかきまぜられて。
でも膝をついてきた跡部に両肩を掴まれ、重なった唇は。
掠った程度なのに、ひどく熱かった。
神尾が半ば硬直してそのキスを受けると。
「不満か」
「………………」
唇と唇の合間で囁かれ、神尾は訳もなく首を左右に打ち振りそうになってしまう。
実際は、あまりに目まぐるしい展開に、未だついていけずに。
ただ跡部を見つめるので精一杯だった。
「………跡部のオモチャって……」
「何だ」
「いつでも、いらなくなったら捨てるもの…って意味じゃないの?」
どこかぼんやりとしてしまう中、それでもこれだけは聞きたくて問えば、跡部は茶化すでもなく、怖いくらい真剣な顔で言った。
「一生手放さねえって意味だって言ってんだろうが」
他の奴のものになるなんて事は一生ないから腹くくれと、神尾の首筋に跡部の言葉と歯とが沈んでくる。
「いつまでびびってんだ」
「………ってなんかない、けど」
「けど? 何だ」
「………………」
目線が同じ高さになった跡部に睨み付けられ、神尾は、だってこんなにも簡単に収拾をつけられてしまっていいものかと、言葉を詰まらせる。
自分が壊れそうなくらい傷ついた言葉を。
今はこんな、まるで甘い独占欲のように聞けている自分が信じられない。
そういう感情から神尾は言いよどんだのだが、跡部は憮然と詰め寄ってきた。
自分自身の感情がうまく言えずに押し黙る神尾を、真っ向から直視してきながら、ふと跡部の気配が変わったのが神尾にも判った。
わざとらしくではなく吐き出した溜息の、思いもしない困惑の気配に神尾は戸惑った。
「……いい加減、機嫌直せっての」
「………………」
「おい?」
「なんで…?……」
「調子狂うからに決まってんだろ」
ついでにそういう困ったようなツラはするなと跡部が素っ気無く言って。
神尾の唇を噛んでくる。
それが、キスかと判ったのは跡部の舌に甘く絡め取られた自分の舌を神尾が自覚した時だ。
キスのやり方はあくまで甘ったるくて、優しげな手に頭を抱え込まれるようにして、やんわりと舌を噛まれるともう。
「……気持ちよさそうなツラ」
笑う吐息に煽られて、間近から見つめてくる跡部の眼差しの強さにも駄目になって。
潤みきった眼で神尾が睨むようにすれば、一層跡部は笑い出す。
笑って、笑って、しまいに黙って。
そうして結局毒づいた。
「………てめえは」
「………………」
「なんなんだよ。そのツラは」
「………………」
瞳がきつくなって。
呻くみたいにして。
「………ん…、…っ…」
乱暴に、抱き込まれて。
めちゃくちゃに深いキスで塞がれて。
閉じ込められて。
「……ァ………、」
「………………」
力づくのキスなのに、痛いのが嬉しいなんて相当おかしい。
「………………」
嫌なのではなく、深すぎるキスが苦しいから神尾は腕は突っぱねるのに。
何だか傷ついたように苛ついて、一層手荒に神尾を抱きこんでくる跡部に、神尾はひっそりと安堵感を覚えた。
無くさないで済んだ男。
同じ言葉を、全く違う意味で理解してしまう自分達だけれど。
「…、跡部…は……」
「………何だ」
キスをされたままベッドに組敷かれた神尾が、噛み合わせを変える為に外れた唇の合間で声にならないような声で問いかけた言葉を、決して流さずに拾い上げられて。
「オモチャって……俺で、…どうやって遊ぶんだよ……?」
「決まったやり方がある訳ねえだろ」
「…そ……なの…か…?」
「いいのか?」
「なに?…」
問いかけに問いかけで返されたら判らない。
戸惑う神尾に、跡部は薄く笑った。
「お前で。今、遊んで」
「………………」
オモチャなんて。
最初に聞いた時は、ざっくり傷ついた。
酷い、怖い、言葉だったのに。
「…………跡部……あそびたい?」
「ああ」
目を細めるようにして、見据えてきて。
お前で、あそびたいと。
睨むように笑みを浮かべる跡部の表情に、何だかもう、何をされてもいいような気に神尾はなった。
「俺が、楽しいと思う事が少ないんだよ」
「………………」
「だから、遊んで楽しいものを見つけたら、そういう事には真剣なんだ。テニス見つけた時と同じだ。お前は」
跡部が言うから。
「知ってて下手な勘違いしてんじゃねえよ」
遊びたいなんてお前にしか思わないと駄目押しされるから。
神尾は息を飲み、その唇を、跡部に塞がれる。
焦れて、餓えたような、荒い口付けに。
ゆるやかに喘がされていきながら、神尾は跡部を見つめ続けた。
「……俺が一生言わない言葉、平気で口にしておいて…」
「………、ぇ…?」
「二度と会わないとか、二度と言うんじゃねえぞ」
吐き捨てるような苛立った声は一瞬だったけれど。
跡部にしては珍しい、急いたような手に服を剥がされていきながら、神尾は何だかどうしようもなくなってしまった。
「………神尾?」
跡部が神尾にしたのよりも数段雑に、自身の服を脱いでいる中。
神尾は上体を起こし、跡部の下腹部に顔を近づけていく。
言われたからではなく神尾がそれをしようとすると、跡部は少し笑った。
でもそれは面白がっているのではなく、珍しく何かを誤魔化すような曖昧な笑い方だった。
神尾は身体を屈めて、跡部の足の狭間に唇を寄せる。
舌を差し伸べるより先に、口腔に直に、ゆっくりとそれを含み取っていって。
口の中で脈打つものの存在感にびくりと肩を震わせた。
「………ン、っ…」
「………………」
「…っ…、ふ……ぅ……」
すぐさま喉を突かれるように、のびあがってきたもの。
神尾の舌に乗る重みに、たちまち狭いその場所は埋められた。
粘膜をすきまなく触れ合わせたまま、奥まったところから先の方へと神尾が舌を這い上がらせていくと、神尾の口の中で更なる急な角度がついて、ぐっと喉までそれで押し上げられた。
「………、ぅ」
「……お前のが、いいっていうようなツラしてんじゃねえよ」
「………、……と……べ…?」
からかって笑う事に失敗したみたいな顔で跡部は神尾を見下ろしてくる。
笑みに歪み損ねた跡部の口元は、熱のはらんだ息を繰り返す事で濡れているように見えた。
神尾は跡部のそんな口元を見上げたまま、再び唇を開き、口腔にそれを通していく。 たいした事をしていないのに、神尾の舌の行く先で、跡部のそれは熱を増し、形を変える。 本格的に含みきれなくなって、神尾は横ざま跡部を唇で食んで舌で撫で擦る。
頭が跡部の手に抱え込まれて、でもその手は神尾をそこに押し付けるのではなくそこから引き剥がす為に動いた。
「…………ぇ……、…?…」
口腔の粘膜を一息にこすられる刺激に身体を震わせている神尾は、幾分手荒にベッドに押さえつけられた。
神尾に乗りあがった跡部は神尾を見下ろし、ほんの一時も神尾から視線を外さなかった。
潤みきっている神尾の口の中に跡部は指を差し入れてきて、すくいとるような動きでそこをかき回される。
もっていかれた唾液をまとった指の行方は神尾にも判っていたけれど。
でも実際下肢からその指で身体をくぐられて、神尾は喉を詰まらせた。
「ン…っ…、……ッん…、…ぅ…、ん、」
苦しさもある。
でもそれよりも。
余すところなく晒されている跡部の表情を見上げていれば堪らなくなってしまって、神尾は体内に送り込まれているものを受け入れようと身体の力を抜いてそこに意識を集中する。
抵抗感に少しずつ逆らいながら、最後にはとうとう滑り落ちるみたいにして。
深みまで束ねた二本の指が通されたと、神尾が気づいたのはその時だ。
「……っぁっ」
「………神尾?」
「ん、…………へ……き…、…っ……、っ、ぁ」
全部判っている跡部の指に、狙われて擦られ、押し込まれた所から全身に拡散していく刺激の強さと甘さとに、神尾は大きく身体を震わせた。
それを幾度も幾度も繰り返されると、神尾は時期に首を激しく左右に振ってもがき出した。
一から数え直すように、執拗にされ出したのに気づいたからだ。
「……も、………だい…じょうぶ…、だ…から……っ…」
「…………んなわけあるか」
「だ…って、…も……、これ、…」
もがいた時に膝の内側で偶然掠めた跡部の熱から感じ取った焦燥感を、見て見ぬ振りする事も出来ずに。
先程口で感じ取った時よりも、更に追い詰められている気配がする。
焦れているのが自分だけではないと判ったから。
欲望を隠さずに、それでも慎重に神尾の身体をならす跡部に、神尾は何度も、訴えた。
跡部の後ろ首に取り縋って、せがむような拙い言葉を繰り返した神尾に、跡部は何か毒づくような言葉を吐いて、指を引き抜いた。
息を吸い込むような悲鳴をあげた神尾が、次には完全に息も止めてしまった勢いで。
跡部は神尾の身体を押し上げるようにして拓いてきた。
一息で、全部を埋めてきた。
「ッ…、…ぅ、…、ぁ、ッ…」
「おい……」
「……っ…、…く」
「きついか」
燃えるような熱い吐息が耳を貸掠る。
声にもならない声で、気管支を痛めるような呼吸を繰り返す神尾は、自分の涙で視界が溺れて、跡部に縋り付いているしかない。
何を尋ねられているのかも判らないままの神尾に、跡部の荒い声が吹き込まれる。
「今、なか、凄いんだよ。お前」
「…、ッ……ァ…」
辛いか、と額を手のひらで撫でられる。
「ちが………」
「……神尾」
「…ち……が…っ…ぁ…ァ…っ」
それ以上言われずとも、判っている。
自分の身体の中が、どう動いているか。
跡部に絡みつくように、しがみつくように、してしまうこと。
自分の身体のしている事なのに神尾の意思などは存在しないかのように、複雑で卑猥な動きで跡部にひっきりなしに絡み付いている。
「ぃ、……っ……」
「……………」
「ャ…、…ぃ…っ…ぁ…ぁ、ァ…」
「神尾」
「……ゃ……怖……、…なか、…も…、跡部……っ……」
「馬鹿野郎……そんな声で呼ぶな」
「跡…部…、…ァ…っあ、っ、」
「……、……神尾」
そんな声というならば、跡部の声こそそうだろうと、神尾は浮かされたようになって考える。
明らかに、自分で快感を得ている事が判る、甘く乱れた息遣いが交ざる声音。
「…ぃ…っ……ャ、…、ッ、ぁ、…っ」
「神尾」
「ン、…っん、…、っ、ン……」
囁かれれば囁かれるほど駄目になってしまう。
深々と埋められたまま、律動を与えずにとどまっているものに、自分の方から絡んでいってしまう。
「うご、く…、ぅ…、……ャ、ぁ、…こわ……、なか、…っ」
「………、…おい…」
「跡部…っ…、…ァぁ、ぅ」
いきなり凄い勢いで引き出されたものが、最初の時よりもっと手荒く、神尾の奥深くまで埋まってくる。
「…っ、ぃ、…」
「……やり方変えて欲しかったら、その声俺に聞かせるな、」
跡部の口調は神尾を責めるばかりで、それは理不尽な事なのかもしれなかったけれど。
余裕を無くしたような跡部の声は、神尾の感情を甘く揺さぶるばかりだ。
「ァ、……、…っ、ア、…」
自分でも判らない身体の遠くの方。
目にする事も出来ない深みで、息づき脈打っているものは、すでに神尾の行き止まりにぶつかっていて、とどまっていて、それなのに。
「………ひぁ…っ…」
それでも尚、強く、押し込まれて。
壊れたように涙が零れて、神尾は胸を大きく喘がせた。
「……っ……ひ…、ぅ……、…っ」
痙攣じみて震える両足できつく跡部の胴を挟み込み、呼吸も詰まらせた神尾に、跡部も熱を吐くような息を零した。
「…………てめ…ぇ…、な……!」
「…っく、…、ぅ…、…っん、…ん…っ」
身体の内部でもきつく跡部に縋りつくような蠕動が生まれて、跡部が言葉を乱し、神尾は仰け反って上擦った声を上げる。
もう今度こそ、自分の身体の内部が何をしているのか神尾にはまるで判らなくなる。
跡部が走るように動き出して、体内が甘苦しく摩擦されていく刺激に、神尾は泣きじゃくった。
「ャ…、…ぃ…、…っ…ゃ、っ……あと…、…」
もう訳が判らなくなって、どうする事も出来なくなって、身勝手に自分だけがきざはしを駆け上がっていくのが、神尾は怖くて怖くて堪らなかった。
「……も、…っ…、…ぉ…」
跡部に取り縋る事も出来なくなる。
四肢を投げ出した神尾は、跡部の手に砕かれそうに強く握り込まれた腰骨と、深みを抉られているその箇所だけが身体の軸で。
何だかもう、自分の身体の一部はすでに熔けてしまって、跡部の身体と一緒に交ざってしまっているのかもしれないと神尾は思った。
回らぬ舌でそれを訴えれば、跡部の動きがまた強く早くなる。
「っん、っぅ、ぁ、…ッ、っあ」
「どっちが引きずり込んでんだよ…、…」
「…っ…ぁぅ」
「………溶かそうとしてんのはお前の方だろうが」
「…………っゃ、…ぃ、………っ……、く」
「、神尾」
「ァ…、っ、ア」
動かない身体がもどかしくて泣けば、縛りつけられるように跡部の腕に抱き締められた。
「………ぁ…、…、……っ…ァ…」
跡部に抱き竦められてやっと、神尾はバラバラになっていたあらゆる箇所の快楽を一所に集められたような気になる。
外側からも内側からも身体が濡れる。
痙攣する神尾の身体を抱き締める腕から、跡部は少しも力を加減しようとはしなかった。
痛みを覚えるくらいのきつい抱擁の中、到達感は長くて、続いたままで、神尾はまた新たに咽び泣き出す。
怖いくらい収まらない。
涙声で口に出来るのは跡部の名前だけだった。
「…、………跡…、…あと…べ……怖…、終わ…れな…、…」
「…………神尾…」
同じだからいい、と乱れた息の低い声に耳元を濡らされて、お互いに苦しいくらいの息遣いのまま、解けないでいる身体を揺らし、揺らされる。
指の先まで、未だひたひたと熱い悦楽は埋められていて。
唇を幾度も角度を変えて重ね合いながら、ゆるい律動で再開された動きが、体内の熱い液体のようなそれらを揺らして、波のように止め処ない濃密さを煮詰めていく。
濡れきって怖いくらいの粘膜をゆっくりと休みなく行き来され、神尾はもう何の取り繕いもなく跡部の下で啜り泣いた。
「…っ…ぁ、っ、ん、…っ跡…部……」
「…………ああ」
「………、き……だよ…、…」
「……神尾」
「…………、な、…?…俺、……ぜったい、…こわれな…、から……」
だから。
「…すきに、…なに…し……ても、……だいじょ、ぶ……だから」
だから。
それに続ける言葉は、神尾にとっては、願い事のような言葉。
でもそれは、跡部にとっては、決まり事のような言葉だったらしかった。
「……一生だって言っただろうが」
「………っ……ん、っ」
だから。
跡部が、だから、とそれに続けようとしている言葉は。
跡部にとっては願い事で、神尾にとっては決まり事だ。
「逃げるな」
両手の指、全部をからめて。
手を繋いで。
唇を合わせる。
繋げられる箇所は、全て繋げる。
同じだから、重ねられるものもあるけれど。
違うから、組み合わせられるものもある。
ひとつになる、一緒にある、その手法は幾つもある。
願い事も、決まり事と噛み合えば、最強の現実になると思われる。
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