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How did you feel at your first kiss?
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 そういやあいつ蹴り飛ばしやがった。





 意識は覚醒しつつも、起き上がれない。
 一向に勝てない睡魔に雁字搦めにされたまま、宍戸は眉根を寄せた。
 身体を横たえ寝ている寝具からは宍戸がよく知っている冷えた香りが滲んでいた。
 否が応でも明確にあの男を思い出す香り。
 あの野郎。
 手加減も無しに蹴り飛ばしやがってと、宍戸はもう一度頭の中で悪態をついた。
 確か、そうだ、背中の辺りを容赦なく足蹴にされて。
 寝るならベッドで寝ろと怒鳴られた気がする。





 昨晩宍戸は跡部の家に来ていた。
 全国大会が終わり、夏の余韻は依然引きずったまま始まった二学期。
 三年は正式に部活を引退した。
 好きな時に好きなだけテニスをしていた身体には引退は酷な話だ。
 かといって新体制になっている部に早々顔を出す訳にもいかず、三年は概ねフラストレーションを溜めていた。
 それで昨日の金曜日、いよいよ辛抱のきかなくなっていた三年の正レギュラーだった面々は、家に広いコートを持つ跡部の元へと集まっていた。
 突然の来訪を受けた跡部は、心底からうんざりとした顔をしていたが、誰一人追い返されたりはしなかった。
 総当りのトーナメント戦から始まって、結局一人勝ちする跡部に腹をたて、幾度でもゲームを挑むのはいつでも宍戸だった。
 昨日もそうやって散々にゲームを繰り返して、一緒に来ていた忍足や向日、ジローや滝は笑い出して見学し始め、エンドレスに繰り返される試合にいい加減呆れて、結局宍戸を一人残して先に帰ってしまった。
 跡部と宍戸が試合を止めたのは、いい加減暗くなってからだった。
 全身汗だくで、帰る前にシャワーくらい浴びていけと跡部に促され、先に汗を流した宍戸はそれでも一応跡部がシャワーを浴びて出てくるまでは待っていようと思ったのだ。
 黙って帰るのも何だしと、とにかく広いリビングで、ソファに寄りかかっているうちに。
 久々に満足するまで打てたテニスのせいなのか、猛烈な睡魔が襲ってきたところまでは宍戸も覚えている。
 そこから後の記憶は断片的だ。
 宍戸が聞いた気がする跡部の声は怒鳴り声。
 よりにもよって足でぞんざいに背を蹴られ、ベッドまで行かされた。
 しかし、跡部という男は、あれでいて案外面倒見は良いのだ。
 口は悪いし態度もでかいし、辛辣な言葉や相手を見下す目なんかさせたら誰も太刀打ち出来ない程にはまる男だが、あまり物事を面倒くさがる事をしない。
 口では面倒だふざけるななどと言いながら、行動は早くて、そしてまめだ。
 そんなことをうつらうつら宍戸が考えていると、寝室の扉が開く音がした。
「おい、宍戸。起きろ」
 宍戸の耳に聞こえてきた声は、やはり跡部のものだった。
 しかし目を開けるのは、まだ億劫だった。
 返事をしない宍戸が、半分覚醒していることは気づいているようで、跡部の不機嫌な声は大きくなった。
「いつまで人のベッド占領してやがる」
「………るせ……」
「アア?」
 もう少し寝かせろと宍戸は不機嫌に呻いた。
 身じろぐと、跡部に蹴られた背中が今も痛い気がする。
 寝かせ方も手荒かったが、起こし方も最悪だ。
「宍戸」
「……てめ……昨日は力任せに……」
 しやがって、と宍戸が背中と腰の狭間あたりに手をやって再度呻くと、同じ箇所を昨夜と同様に跡部に蹴り上げられた。
「…………ってえな…!」
「起きろ」
 凄まじく剣呑と吐き捨てられた。
 これは相当に不機嫌だ。
 宍戸は渋々両腕をついて起き上がった。
 本当に最悪極まりない起こされ方だと思ったのも束の間、宍戸の身体の中も外も一気に凍るような声が宍戸の耳に届いた。
「どういう事です」
「…………え……?…」
 宍戸がよく知っている声。
 跡部のものではない声。
 しかしその声音は普段とは違い、酷く固くてきつかった。
「長太郎……?」
 ベッドの上で上体を起こした宍戸が見やった先、ドアの所に居た鳳は甘い面立ちを鋭く沈ませて立っていて、ベッド脇にいた跡部はぞんざいな態度で嘆息していた。
「救いようのない馬鹿だな。お前は」
「な…、……てめ……」
 しらけきった口調の跡部は宍戸を眼差しだけであしらって、それどころじゃねえだろと声にはせずに唇の形だけで言った。
 今更ながらに宍戸もそれで、はっと我にかえる。
「おい? 長太郎……」
「………………」
 見た事もない鳳の暗い眼に瞬時たじろいで宍戸が何か言い募ろうとするのを跡部の声が遮った。
「よそでやれ」
 冷淡な声は普段の跡部のもので、しかし機嫌がよくないのは誰の耳にも明らかだった。
「俺はこれから用事がある。ここでお前らに、もめられてんのは迷惑だ」
「……跡部さん」
「何だ。鳳」
 跡部の不機嫌に欠片も怯まず、ドア前で鳳がきつい眼差しのまま自身の背後に視線を流す仕草をとった。
 跡部が眉根を寄せてその方向を見る。
 鳳が僅かに身体をずらし、跡部の双瞳が見開かれた。
「お前…いつから…」
「玄関先で一緒になったので」
 答えたのは鳳だった。
 鳳の背後にいたのは神尾だ。
「神尾」
「………………」
 鳳と宍戸に告げた言葉の通り、跡部のこれからの用事というのは神尾の訪問であったのだが、まさかすでにここに居たとは思ってもいなかった跡部が呼びかけても神尾は返事をしなかった。
 黙ったまま、神尾は跡部と一瞬だけ目線を合わせた後、ふとその眼差しを伏せてしまう。
 それが酷く癪にさわった。
 跡部はきつく神尾を睨み据えた。
「おい。お前」
 鳳どころではない。
 まさか神尾までもあらぬ誤解をしているのかと、跡部は剣呑と神尾に近づき手を伸ばす。
 しかし跡部の手は神尾に触れる事はなかった。
 神尾が拒絶も露に身体を引いたからだ。
「……おい」
「帰る…な。俺」
「待てよ」
 どういうことだと跡部の気配に冷たい怒気が満ちる。
 誤解をよぶ光景ではあるかもしれないが、だからってこんなにも簡単に鵜呑みにして、傷ついた顔なんかしてみせることはないだろうと跡部の怒りは増した。
 鳳の肩を手荒に押しやって跡部は部屋の外に出る。
 すでに背を向けかけていた神尾の腕を掴み取る。
 感情がそのまま手に力にこもっているのは跡部も自覚できた。
 神尾は明らかに痛みを感じている顔をしていた。
 それでも力を緩めずに掴んだ二の腕を壁に押し付ける。
「帰るだと?」
「………………」
 帰す訳ないだろうと言葉に込めて跡部がきつく睨み据えた先、神尾は眼差しを伏せたままで何も答えない。
 今日は、特に何処かに行くという話をしていた訳ではなかった。
 昨晩、とりあえず一度家に来いと言った跡部に、電話越しの神尾の声は明るかった。
 それがどうして今そんな顔をするのかと跡部の機嫌は最悪に悪くなる。
「神尾」
「………………」
「お前が今何考えてるかは気分悪くて口にも出したくないがな」
 細い顎を正面から掴み取るようにして、跡部は神尾の顔を無理矢理上げさせた。
「そんな真似、俺がする訳ないだろうが!」
 跡部にしてみれば何もかもがありえない事だ。
 神尾以外に興味が向く事も、よりにもよって対象が宍戸という事も、鳳と宍戸の間に無駄な波風をたてる気もない事も。
 全てがありえないことなのに、簡単に惑う輩が一人ならずとも二人もいるのが理解し難かった。
「…………ってる……」
「………………」
 神尾の声は小さかった。
 跡部の一喝に怯えているわけではないらしかった。
「……判ってるけど……今日は帰る」
「判ってねえだろ…っ」
 神尾の肩を握り潰す力で掴んで、跡部は再度壁に強く押し付けた。
 ここで傷ついた顔をする神尾が跡部には許せない。
 強張った華奢な身体を一層壁に追い詰めて、距離を縮める。
 頑なに目線を合わせようとしない神尾に苛立つ跡部の背で、寝室の方からも何か怒鳴り声らしきものが響いてくる。
 それに意識を向けた跡部の一瞬の隙をぬって、神尾が跡部の腕の中からするりと抜け出していく。
「おい、……っ…」
「ごめん」
 ふざけるなと怒鳴りつけながら後を追おうとした跡部を、鳳が追い越していった。
「長太郎、待てって……!」
 その後を当然宍戸も追って出てきて、叫ぶ声は強かったが、どことなく頼りない目をしている。
 こういう宍戸を放っておくこと自体、通常の鳳からすると考えられない。
「長太郎!」
 苛立った宍戸の呼びかけに、神尾と同じく玄関に向かっていた鳳が足を止める。
「宍戸さんは平気ですか」
 振り返り、おもむろに。
 鳳はこの上なく低い声で言った。
「例えば俺が」
 そこで言葉を切った鳳は、恐らくそれを口に出したくはないようだった。
 しかし声に出さなくても鳳の言葉は宍戸に届き、宍戸は酷く痛いような顔をした。
 鳳はそれ以上何も言わず、跡部の家を出て行った。
 そして、鳳が連れていったのか、神尾がついていったのか、一緒に神尾の姿もいなくなる。
 残された宍戸と跡部は暫し無言だった。
 どれくらいしてからか、沈黙の重さに押しつぶされる間際に。
「跡部」
 先に口をひらいたのは、片手を頭にやって俯いていた宍戸で。
 低い声が、悪いと続けて呟かれた。
「………………」
 跡部は手の付けようもなく落ち込んでいる宍戸の頭を軽く叩き、同じ言葉の代わりにした。
 誤解を生む状況だという事は確かかもしれない。
 しかし疑われるような相手かと思い、それで全てを払拭出来るのは跡部と宍戸だけで、おそらくは一つ年下のそれぞれの恋人達はそうは思わなかったのだろう。
 怒るべき所なのか落ち込むべき所なのか、正直今の彼らにもそれはあやふやになってしまっていた。







 翌日の月曜日の放課後、宍戸は不動峰を訪れていた。
 正門前で宍戸が待っていたのは無論神尾だ。
 校舎から出てきた神尾は宍戸に気づいて小さく息を飲んだが、次の瞬間大慌てで駆け寄ってきた。
「ちょ…っ…あの、宍戸さん、止めて下さい」
「悪かった! 物凄く嫌な思いさせて、ごめんな。神尾」
 いつも真っ直ぐに伸びている背を腰から曲げて、頭を下げる宍戸の背に神尾は手を伸ばす。
「ほんと、そんなのよしてくださいって……!」
「ごめん!」
 潔く、プライドの高い人だというのは神尾も知っていた。
 そんな宍戸が他校の正門前で下級生に頭を下げている。
 混乱をきたす神尾の横で、伊武があからさまな溜息をついている。
「どこか場所かえて話したら? 俺は帰るから」
「あ、深司…」
「目立つから」
 ものすごく、とうんざり吐き捨てられて、神尾は遠ざかっていく親友の背を茫然と見つめる。
「深司……!」
「………裏のファミレス改装工事終わってたよ。二階にボックス席出来てたから、込み入った話するのにいいんじゃないの」
 その後は、なんで俺がこんな事までぼやきながら、もう伊武は振り返ってこなかった。
 神尾は、それでさすがにいつまでもこのままでいる訳にもいかず、謝罪したままの宍戸を懸命に促してファミレスへと向かった。
 伊武に勧められた学校近くのファミレスは、確かについこの間まで改装工事中だったが今は真新しくきれいになって営業中だった。
 そしてそこで神尾と宍戸はもう一人の人物と合流する事になった。
 もう一人の人物というのは、ランニング中で、その場をちょうど通りかかった青学の二年、海堂薫だ。
 海堂は見知った他校生二人に気付くと足を止め、暫く無言でいた後、何とも複雑な顔をした。
 何だよとそれには半ば自棄気味に神尾が突っかかっていくと、海堂は逆に落ち着いて、どうかしたのかとぎこちなく聞き返してくる。
 その生真面目な危惧に、言葉の返しようも無く、何となく三人でファミレスに足を踏み入れる事になったのだ。
 元々口数の少ない海堂は黙っているので、宍戸と神尾が話を始める。
 改めて謝罪で宍戸が口火をきった。
「本当悪かった。ごめんな。神尾」
「だからそれ止めて下さいって……!」
 ボックス席に座っても、テーブルに額がつくほどに宍戸はきっちりと頭を下げた。
「跡部と、どうこうなるなんて事は絶対にない。でも俺が無神経だった。ほんとごめん。悪かった」
「いえ、あの、…ほんと止めて下さい。謝るの。もういいんです。俺が勝手に落ち込んだだけで……」
「まだもめてんだろ?」
「……跡部が怒ってるのは俺に対してだけですから……宍戸さんとこは?」
「ん………まあ…俺が悪い訳だから」
 段々と二人して歯切れが悪くなってくる。
 沈んで言葉を交わす宍戸と神尾を、海堂は尚も黙ったまま見やっていた。
 話が続くにつれ、海堂にも大概の事情が理解できる。
 ひとしきり押し黙ったまま二人の話を聞いていた海堂が、腕組みしたまま徐に口をひらいたのは、宍戸と神尾の会話が一段落ついた時だった。
 一瞬の静寂の後に。
「身に覚えのない事で疑われて、腹立てられて、引くんですか!」
 まず宍戸に向かって海堂は言い、それから神尾に向かっても言った。
「お前、それはお前の方が怒る状態だろうが!」
 宍戸と神尾は面食らってしまった。
 物凄く怒っている。
 海堂が。
「おい……海堂…」
「それで二人でお互い謝ってるってのはどうなんすか」
「あのよぅ…海堂……」
「お前らが悪いのかよ? 違うだろ」
 元来迫力のある男なのだ。
 それが、そうしてきつい目をして凄むと一層の迫力となって海堂の印象をきつくした。
 それにしてもまさか彼がそんな風に怒るとは思いもしていなかった宍戸と神尾は、怯んだ表情でお互いを見やってしまう。
 尚も苛立たしさを隠さない海堂に、宍戸がそっと割って入った。
「いや…俺達の方はな…実際俺が悪いんだからよ」
「勝手に疑われてですか」
 普段目上相手に敬意は払う海堂だ。
 しかし宍戸を見据える目は恐ろしくきつく、弱ったなと宍戸は呻いた。
「…俺も最初はそう思ったけど……あいつが言ったんだよ」
「鳳が何言ったんすか」
「逆で考えてみろって……で、逆で考えたら、マジで嫌だったんだよ」
 例えば鳳のベッドから宍戸がよく知った相手が寝乱れたような姿で出てきたり、誤解を招くような言葉を口にしたりしたら、宍戸だって気分が悪い。
 嫉妬だって、きっとする。
 寧ろ絶対だ。
 だから俺が悪いと宍戸は言って、もう一度神尾にも、ごめんなと視線を向けた。
「お前、もっと俺を怒っていいのになぁ…」
「え。どうしてですか……」
 神尾が驚いた顔をするのを、海堂は呆れた声で見て言った。
「普通その状況じゃお前だって腹立つだろうがよ。それが怒りもしないで何しょぼくれてやがるんだ」
「………あんな…跡部が怒るとは思わなかったんだよぅ…」
「だから何でそれで相手が怒るんだよ。逆ギレか!」
 いつもの神尾であるならば。
 海堂にそんなにも頭ごなしに怒鳴りつけられれば、当然同じ剣幕で反論するに決まっている。
 しかし今、神尾はすっかり傷心していて、海堂にちらりと上目遣いを向けてから小さくなった声で歯切れ悪く言葉を紡ぐ。
「昨日……電話かかってきて……」
「…で?」
「お前は俺を疑ってばっかだって、跡部言ったんだよ……」
「………………」
「昔も、今も、そればっかだって。勝手に疑って、勝手に諦めて、そればっかだって。 ………跡部のこと、俺、またそうやって傷つけた。だから落ち込んでんだよ…」
 あの跡部が相手だ。
 だからこそ、そんなやりとりの背景に見えるものがある。
「………………」
 海堂にしてみれば、宍戸と神尾の言っている事も判らなくはない。
 判らなくはないが、だからといってやはり納得はしきれない。
「……長太郎も相当腹立ててるからよ…」
「跡部、本気で怒ってたから、どうしようもねえもん……」
 謝りようもないと揃って口にした二人に、再度の海堂の一喝がとぶ。
「だから謝んのは向こうからだろうが…っ!」
 荒く憤る海堂の、思いもしなかった面倒見のよさを宍戸と神尾はその後実感する。
 その日からの一週間、なんだかんだと気にかけてくる海堂と、事態が何ら代わらない宍戸と神尾は、気晴らしのストリートテニス場で、放課後ちょくちょくと顔をあわせる事になったのだ。







 跡部の自宅で始まった、一連の発端は日曜日の事。
 宍戸と神尾と海堂が顔を合わせたのが月曜日の事。
 そしてその週の金曜日になっても、状況は変わらないままだった。
 鳳と、そして跡部は、静かに深く立腹したままだったのだ。
 恋人と学校が同じ宍戸は、週の半ばを過ぎる頃には鳳と連絡を取ろうとはしなくなった。
 恋人と学校が異なる神尾は、電話なりメールなりでどうにか跡部と連絡を取ろうとしていたが、跡部がそれを全て流してしまっている。
 それでいて鳳も跡部も少しも気分が晴れた様子はなかった。
 悪循環に、益々機嫌の悪いままだ。
 そんな二人が金曜日の放課後、学校を出る時間が同じになった。
 お互いに一人。
 しばらく無言で歩いたが、微かな溜息と共に鳳がつぶやきだした。
「頭ごなしに勘ぐるような真似したのは、悪いと思ってるんです。俺も」
「………………」
「疑ったりしたら、宍戸さんが傷つくってことも判ってました」
「それでも我慢できなかったかよ」
 跡部が冷めた声で言うと、鳳は溜息に苦笑を含ませた。
「……ですね。すみません」
「俺に謝っても意味ねえだろ」
 冷徹な応えをする跡部に、鳳は、それでもこうして自分の話は聞いてくれているのにどうして肝心の相手の話には跡部も耳を貸そうとしないのか複雑な笑みで思った。
「何笑ってやがる」
「…神尾君は、ちゃんと直に跡部さんに話そうとしてるじゃないですか」
 暗に、神尾を無視し続ける跡部をたしなめる鳳の口ぶりに跡部は凶悪な顔になったが、鳳は怯むでもなく微苦笑をたたえたままだ。
「ほっとけ。こっちのことは」
「………俺も最初は相当腹立ってたんですけどね…」
「………………」
「でも、やっぱり宍戸さんが側にいてくれる方がいいです」
「………宍戸に言え」
「ですね。……一方的に腹立てて、結局寂しくなって、今更恥ずかしいもみっともないもないから………謝ってきます」
 そう言いきれて、そう行動してしまえる鳳の屈強さを跡部も認めている。
 途中まで一緒に行きますか?と鳳は前を見据えたまま言って、跡部は舌打ちで拒否した。
「誰が行くか」
 鳳が跡部をどこに行かせようとしているのかは跡部にも伝わっている。
「好きな人のこと疑うのは悪い事だと思いますけど……実際目の当たりにすると傷つきますよ……」
「てめえの話だろ」
「たぶん同じです」
 神尾君もと含みをもたされては、今度は跡部も無言だった。
 鳳と跡部はそれきり黙った。
 肩を並べて正門を出る。
「ああ、ちょうどいい」
 呼びかけはあくまでも、あまりにも、さりげなく。
 聞き流してしまえる程度にも関わらず、鳳と跡部は足を止めた。
「………………」
「………………」
 正門脇で彼らを待受けていたらしい、上背のある男の特徴的な雰囲気は、そうそう流せない。
「久しぶり。跡部、鳳」
「…乾さん」
「お前が氷帝まで何の用だ」
 鳳と跡部にゆったりと近づいてくる青学の乾は、一見その表情は柔和に見えた。
 しかし鳳と跡部は、明らかに何かを感じていた。
 何とも得体の知れない違和感だ。
「海堂の友人の彼氏の話らしいんだけどな」
 いきなり、そんな風に乾は切り出してきた。
 足を止めずに近づいてくるので、鳳と跡部は自然と正門の逆側の壁に追いやられる。
 逆光になった乾は、跡部と鳳を見据えて、おもむろに眼鏡を外した。
「………………」
「………………」
 その目は、全く笑っていなかった。
 尋常でない迫力で爛々としている。
「身に覚えのない事で相手からキレられた子と」
「………………」
「誤解されるような事しておいて、その相手から逆ギレされた子といるらしくてね」
「………………」
 ふう、と溜息を零しながら、乾は尚ももう一歩、鳳と跡部に詰め寄った。
「それに海堂が激怒してね。この一週間、俺に全然構ってくれないんだよ。どう思う、跡部、鳳」
 これは。
 確実に。
 誰よりも、強く、激しく、激怒している男が、ここにいる。
 何をされるか判らない。
 純粋な恐怖というよりも、得体の知れない空恐ろしさが、雰囲気で伝わってくる。
 荒く前髪をかきあげた跡部と、首の後ろに手をやって俯いた鳳は、一瞬の間に、そう判断した。
 言葉は無用だろう。
 むしろ今必要なのは、無駄な言葉よりも確実な行動だ。
 跡部と鳳は乾を避けて、それぞれの目的の場所へと一気に走り出した。
「………………」
 別々の方向に向かって走り出した二人の背中を見やって、乾は軽く溜息をつく。
 そのまま氷帝の正門脇の壁に寄りかかり、携帯電話を制服のポケットから取り出した。
 呼び出し音は三回で電話は繋がった。
 乾の表情が甘くなる。
「海堂? 俺。例の件だけどね……もう大丈夫だと思うよ」
「……どういう事っすか?」
 怪訝な問いかけの声は低く心地良く乾の耳に届いた。
 気持ち良さそうに乾は目を閉じる。
「ん、…まぁ…うまくいったかな、と」
「何したんですか。先輩」
「いや? とりたてて……ちょっと突っついただけだよ」
「……はあ…」
「だからさ、海堂。そろそろ俺を、構って欲しいんだけど」
「…な…、……」
「………ね?…寂しくて、俺結構ヤバイから」
 電話越しに、乾は丁寧にそう告げた。
 海堂が息を飲んだ気配が伝わってくる。
「海堂?」
「………、んな素振り見せた事もないくせして」
「我慢してるんだよ」
「………………」
「会いに行っても?」
「………俺が行く。今何処っすか」
「うん。今ね」
 乾は手放しの甘い笑みを唇に刻んだ。
 そして電話の向こう側にいる海堂に、自分の居場所を告げたのだった。







 ストリートテニス場にいた海堂が、着信のあった電話に出ている間に。
 一ゲーム終えた宍戸と神尾が、コートから揃って出てきた。
「判りました。氷帝の前っすね」
 海堂が、そう言って電話を切ったので。
 宍戸と神尾は揃って目を見開き、顔を合わせた。
「海堂?……お前今氷帝って言わなかったか?」
 宍戸の問いかけに海堂は頷いて、テニスバッグを肩にかけた。
「用事出来たんで帰ります」
「用事って……氷帝にか?」
 神尾も怪訝にしていたが海堂は構わず、指先で宍戸と神尾のバッグを指差した。
「そういや随分長く鳴ってたっすよ。携帯」
「…え?」
「あ、…」
 言ってる側から再び、二つのメロディが鳴り響く。
 着信音で相手が判るらしく、固まってしまった二人を海堂は流し見ながら背を向けた。
 その口元に微かな笑みを浮かべた海堂は、乾が今いるという氷帝に走って向かう。
 電話で今いる場所を鳳に尋ねられた宍戸は、ストリートテニス場で鳳が現れるのを待つ。
 今すぐ俺の家に来いと跡部に呼びつけられた神尾は、リズムに乗れないながらも跡部の家へと走っていった。







 ほんの少し前まで、ボールを打ち返す音が反響しあっていたコートが、今はひどく静かだ。
 宍戸は一人残ったストリートテニス場で、壁に寄りかかって立っていた。
 手には携帯電話。
 どれくらいぶりかに聞いた鳳の声から、彼がどんな心情でいるのか、宍戸には全く酌めなかった。
 こうしていると、先程の電話も自分の都合のいい空想ではなかったのかと思える程だ。
 重苦しく胸がつかえて溜息も出てこない。
「宍戸さん」
「………………」
 少しして、鳳が姿を表した時も。
 宍戸を襲ったのは安堵ではなく、強烈な緊張感だけだった。
 鳳の息は乱れていて、走ってきたのが判った。
 その表情はやはり固い。
 静かに宍戸に近づいてくる。
 宍戸は咄嗟に逃げ出したくなった。
 しかし背後は壁で、ただびくりと身を竦ませただけのようになってしまった。
「………………」
 鳳が端整な顔を僅かに歪めた。
 長い腕が伸びてきて、二の腕を掴まれた。
「宍戸さん」
 手の甲に筋が浮いている。
 宍戸は伏せた目で鳳の甲を見つめながら、鳳は相当力を入れているのかもしれないと思った。
 自分の体感では判らなかった。
「俺、これ以上、宍戸さんと」
「………………」
 電話で声を聞いた時から、どうなるかは予感があった。
 鳳がここまで怒った事はこれまで一度もなかったし、こんなに諍いが長引いた事もなかったからだ。
 関わりたくないような面倒な物事であっても済し崩しにせず、最後の通牒をきちんと示す鳳の誠実さは、優しくて残酷だ。
 宍戸は泣き出したいような気もしたし、笑い出したいような気もしたが、実際の面持ちは強張ったまま目を伏せいるしか出来なかった。
「会えないでいるの、嫌です」
「………………」
 何か違和感のある言葉が耳に届いた気がする。
 宍戸が視線を上げるより先に鳳のもう片方の手も宍戸の二の腕を掴んだ。
「宍戸さんは、あれは違うんだって事、ちゃんと説明してくれようとしていたのに。俺が一方的に腹立てても謝ってくれようとしてたのに。そういうの全部突っぱねて、俺は勝手に怒ってて」
「………………」
「疑って、宍戸さんを傷つけたのは俺なのに……拒絶しておきながら寂しくなって、辛くなって、謝りたいって思う自分がどれだけ勝手な人間かって判ってる」
 宍戸さんの言葉は聞こうとしなかったくせに、ごめんなさい、と呻くような鳳の声がした。
 宍戸が漸く目線を上げた先、何かに耐えるような目をした鳳が、何度も、何度も、繰り返して言った。
「ごめん。ごめんなさい。宍戸さん。傷つけてごめん」
「………………」
「ごめん。好きなんです。どうしても、宍戸さんが好きで、なのに酷い事してごめん」
 ごめんなさいと、ただひたすらに繰り返される。
 それを聞きながら、宍戸は、ずるりと足元から崩れ落ちた。
「宍戸さ、……っ……?…」
「………………」
 背中で壁を一気に伝って、茫然と座り込んでしまう。
 鳳がひどい慌て方で膝をついて後を追ってきた。
 両方の二の腕は鳳の手の中にあるまま、宍戸は力なくしゃがみ込み、胸に埋まってつかえていた冷たい淀みをか細い溜息で零した。
「宍戸さん?」
 食い入るような懸命さで鳳に名を呼ばれ、伺われる。
「…………かと、……おも…った……」
 え?と低い声に促されて、宍戸は茫然と呟いた。
「……別れ話……されるんだとばっかり……思った…」
「な、……何言ってるんですか……!」
 猛烈な安堵にしゃがみこむしか出来なくなる。
 どれだけの緊張感で現状を保っていたのかと、宍戸自身、思い知らされた。
 身体に力が入らない。
「宍戸さん…!」
 鳳の剣幕も相当なものだったが、宍戸は自分の事で手一杯だった。
 幾分雑に掴まれた両腕から身体を揺すられる。
 宍戸は鳳の胸元に額をあてて、小さく息をつく。
 それしか出来ない。
 あとはもう何も出来ない。
「………………」
 とてつもない力で抱き締められた。
 後ろ髪を掴み締めるような手で頭ごとかき抱かれ、鳳の腕の中に閉じ込められる。
 宍戸は喘ぐような呼気で、目を閉じた。
「………長太郎……」
 名前を呼べるようになるまで随分時間がかかって、鳳はその時間をずっと宍戸を抱き締める事で待っていた。
「長太郎……」
「……別れ話なんて覚悟しないでください…」
 頼むから、と苦しげな鳳に懇願される。
「俺が悪い。ごめんなさい。でもお願いだから……」
 怯えきった凶暴さで抱き締められる力が強まっていく。
「そんなこと考えたりしないで。宍戸さん」
「…………長太郎…」
「好きで、好きで、……宍戸さんと一緒にいられなかったら、おかしくなるの俺なんですから……」
「お前だけじゃねえよ……そんなん……」
 ごめんな、と宍戸は漸く鳳本人に言えた言葉を繰り返した。
「ごめん。傷つけて、ごめん」
 抱き締め返す。
 同じ力で。
 大切なものに触れられる、それがどれだけ特別な事かと、今更のように実感した。
 少しも離れていたくなかった。
 後から後から沸き出てくるような安寧の甘さに、浸る余裕もない。
 ただ、今は抱き締めあうしか出来なかった。
 キスする為の寸前の距離すら惜しくて、宍戸と鳳は抱き締めあったまま、動けずにいた。






 跡部の家の前で、神尾は動けずにいた。
 跡部に呼び出されたものの、走ってここまで辿りついたものの、中に入っていけない。
 散々躊躇して、混乱して、このまま逃げ帰ってしまおうかと弱気な考えも神尾の脳裏に浮かんだ時だった。
 跡部が凄まじい怒声を張り上げて家の中から出てきた。
「てめえ、いい加減にしやがれッ!」
「………っ…」
 尋常でない声に、思わず神尾が身体を竦める。
「いつまでそこでそうしてる気だ!」
 本気で怒っている跡部は、神尾の服を鷲掴みにして家の中に引きずり込んできた。
「……、……ちょ…」
 あまりに手荒に引きずられ、挙句リビングのソファに向かって半ば投げつけられて神尾はぎょっとした。
 ここまで乱暴な所作を跡部がとったことはこれまで一度もない。
 流石に怯んで神尾がソファの上で身じろぐと、跡部があからさまな舌打ちをした。
「残念だったな。呼ばれちまって」
「……え…?」
「電話一本か、メール一件かで、済ませたかったんだろうが」
「…………な…に…?」
 困惑も露に神尾が問いかけても跡部は返事をしなかった。
 神尾が座りなおしたソファの座面に片膝を乗り上げてくる。
 跡部の両手が喧嘩腰に胸倉を掴み上げるような所作で、神尾の胸元のシャツを掴んで引き上げてくる。
「お前のメールや電話に出る訳ねえだろ」
「………………」
「お前の口から別れ話なんざな。こっちは聞く気ねえんだよ」
 気分悪ぃ、と荒く吐き捨てた跡部を神尾は唖然と見上げた。
「え……あ……」
 別れ話って。
 神尾は愕然とした。
 いつどこでそんな話になったのだ。
 神尾はただ、跡部を疑ったりするような態度をとった事を謝りたかっただけだ。
 だから電話とメールを繰り返したのに、跡部は電話をとらないし、しまいには着信拒否するし、メールは放っておかれたまま。
「跡…部…?」
「お前がどれだけ傷ついたか知らねえが、だからってそんなふざけた真似俺が許すと思ってんのか」
「………………」
 跡部は、神尾が別れ話を切り出すと思っていたのだろうか。
 だから神尾からのコンタクトを全て拒絶していたのだろうか。
 神尾の脳裏に浮かんでくる幾つかの予想は、どれも突拍子もない。
 無茶苦茶で、身勝手で。
「…………てめ…え…」
「………………」
 跡部に胸元を締め上げられながら、上向いて、神尾は目の端から涙を零す。
 跡部が綺麗な顔を露骨に歪める。
 跡部、と神尾は胸の内で、何度もその名を呼んだ。
 別れ話なんてする訳ない。
 一週間前にこの家の寝室で見た光景はショックだったし。
 その日の晩の跡部の電話で、跡部を傷つけた事を知って落ち込んだし。
 その後全ての電話もメールもシカトされて、哀しくもなったが。
 別れ話なんて、全く、する気なかった。
 それなのに、跡部はずっと、それを考えていたのだろうか。
「…………跡部……」
「……聞きたくねえって言ってんだろうが…、っ…」
 歯軋りの隙間から零れ出たような低い声。
 神尾の胸元は一層締め付けられた。
 跡部が顔を近づけてくる。
 唇に、噛み千切られる勢いでキスがぶつかる。
「ン……っ…、……」
 舌を無茶苦茶に奪われた。
 神尾は両手を伸ばした。
 跡部の後ろ首に両手を回す。
「………………」
「……ぁ……と…べ…」
「………………」
「跡……部……」
 しがみつく。
 すがりつく。
 離れてしまった唇と唇が嫌で、キスをねだるように神尾は仰のいた。
「……ごめん…な…」
 神尾の手の中で、跡部の首が強張った。
 違うと宥めるように神尾が跡部の肌を指で辿る。
「疑うみたいな事して……ごめんな……跡部のこと傷つけて、ごめんな…?」
「………………」
「俺、謝りたかったんだ。ずっと」
 跡部に、と呟きながら。
 神尾は跡部に取り縋った。
 身じろぎもしなかった跡部が、動いた。
 振り解かれるのかと思って、神尾が跡部の首筋から手を浮かせると、跡部から抱き締め返されて、そのままソファに組み敷かれた。
「………………」
 神尾は、自分の肩口に顔を埋めた跡部を眼差しで見下ろした。
 顔を上げてこない跡部の柔らかい髪ごと、そっとその頭を両手で包み込む。
 舌打ちと、荒っぽいキスとで、跡部は浮上してきた。
「………っ…ん……」
 唇をひとしきり貪られた後、跡部は吐き捨てた。
「勝手に誤解したてめえが全て悪いんだからな」
「………………」
 不遜に言い放つ跡部に、不思議と神尾は全く腹も立たなかった。
 海堂あたりが聞いたら、また激怒するに違いない。
 ほんの少しも、絶対に、謝らない跡部だけれど。
 勝手に誤解した方が悪いというなら、それはまさにそのまま跡部に返せる言葉だったので、神尾も黙っていた。
 別れ話とか、何でまた、どうして思いついたりするのかが謎。
 手荒に衣服を脱がされていきながら、神尾の思うそんな謎も、いつしか欲望の勢いに飲まれ掻き消えた。






 海堂を後ろから抱き込んで座った乾は、きれいな襟足に唇を寄せて呟いた。
「また携帯気にしてる……」
「……あ……すみません。…でも…」
 海堂の腹部に回した手に力を込めて、乾は一層身体を密着させた。
「大丈夫。ちゃんと仲直りしてるから」
 氷帝の前で待ち合わせて、乾の家に向かう間、久々に乾と海堂は他愛ない話を長く交わした。
 乾の部屋に入ってからは、お互いとの距離が一際縮まった。
「先輩……鳳と跡部さんに何言ったんすか?」
「その質問、今日もう何度目かなぁ…」
「あんたが答えないからだろ…っ」
 いい加減はぐらかすなと海堂が言うと、乾は首を左右に振って笑った。
「はぐらかしてるつもりはないよ」
「………充分そう見えるんですけど」
「海堂を返してってお願いしただけ」
「はあ?」
「それだけだよ」
 乾は海堂をゆるく抱き込んで、顎を支えて少し窮屈な角度でキスを落としてきた。
 おとなしくそれを受け止めながら、海堂は訳が判らなかった。
 あれだけこじれた風だった状況が、何故そんな言葉で収まるのか。
 しかも何故自分の名前がそこに出るのか。
「乾先輩…、……」
「しー……」
 キスの狭間で。
 尚も尋ねた海堂に、乾は立てた人差し指を口元にやって微笑した。
「その続きは後で」
「………………」
 何故こんなにも乾は機嫌がいいのだろうか。
 疑問はやはり増える一方だった海堂だが、乾の熱っぽい手と眼差しと唇とに絡めとられては、そこで成す術がなくなった。






 身動きのとれない恋人達が無数。
 それはそれで幸せであるという。

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