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How did you feel at your first kiss?
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 もしも、ほんの少しでも。
 本当に、本当にほんの少しであっても、普段と違う態度を見せられたら、相手を蹴り飛ばしてでもここから逃げ出してやろうと観月は思っていた。
 自分の上にいる男。
 自分を組み敷いているこの男が、怖い訳じゃない。
 これから始まろうとしている行為が、不安な訳でもない。
「観月」
 少し荒れた声は、しかし急かさずに、穏やかに観月の名前を呼んでくる。
 赤澤の声。
 それがもし、今のこの場だからだと作られたような甘さだったら、絶対蹴り飛ばしているのにと観月は歯噛みした。
 確かに甘く、この上なく優しい赤澤の声。
 それは腹が立つくらい、本当に、普段通りの声だった。
 いつだって、赤澤は観月の名前を口にする時、こういう声を出す。
「………………」
 赤澤が近づいてくる。
 彼の手のひらが観月の頬を撫でてくる。
 観月は目を閉じた。
 距離が近くとも、恐怖や緊張は、まるでない。
 この空気は通常の自分達のものだ。
 髪に、唇が寄せられる。
 仰向けに寝ている観月の肩を、赤澤がもう片方の手のひらに包んで、そっと撫で下ろしていく、そんな仕草も。
 全部。
 全部、全部。
 特別なものではなく、いつもの赤澤の手つきだった。
 当たり前の普段と何ら変わりない自分達。
「………………」
 ここにきて漸く、観月は赤澤に過剰に気を使われたり、勝手に心配されていない事が判って、ほっと息をついた。
 細く息を吐く。
 そういう意味では、もしかすると、観月も緊張していたのかもしれない。
 意識していたのは自分の方だったかと、あまり認めたくないような事を素直に認めて、観月はそれまでずっと閉じていた目をひらいた。
 それと殆ど同時に、ここ最近で習い覚えたキスが、唇に落ちてくる。
 目を開けたまま受け止めた観月は、間近に見えた赤澤の睫毛の長さにどきりとした。
 そんな事、これまで気にした事なんかなかったのに。
「………………」
 唇はふんわりと重なって、離れないまま角度が変わる。
 ゆっくりと隙間を埋められていくように、キスで唇が塞がれ、互いが密着していく。
 テニスをしている時の赤澤からすると信じられないくらい繊細で丁寧な行動だけれど。
 今この時だからと特別にやり方を変えている訳ではない事を観月はもう知っているので、腕を持ち上げて、指先を赤澤の髪の中へと埋めた。
 片手では心もとなくて、もう一方の手も。
 両手で、赤澤の頭部をかき抱くようにして自分から唇をひらくと、赤澤の舌を含まされた。
 熱さと生々しさとを同時に感じて、身体が震える。
 赤澤には普段と違う何か特別なような態度を決してとられたくなかったのに、そんな観月自身がいつもとは違う事ばかりをしてしまっている。
 赤澤を抱き寄せる事も、自ら唇をひらく事も、キスに震える事も。
 今頃になって観月は目の奥が熱くなってくるのを感じた。
 それが羞恥なのか、興奮なのか、不安なのか、動揺なのか。
 何故か観月には判らなかった。
 判らないキスの続きが、そこから先の出来事が、ひどく特別な事になっていくのかもしれないと、急に気づいて観月は狼狽する。
「観月」
 解かれたキスの後。
 はっきりとした声に呼びかけられ、意識するより先に、ぎくりと観月は身体を竦ませた。
 ここまできて怖気づいた訳ではないが、今、自分が明らかな躊躇を覚えたのは事実だったからだ。
 そんな自分に赤澤が何を言い出すのか正直見当もつかず、観月はこの上なく頼りない気持ちで赤澤を見上げた。
「………………」
 見上げた赤澤の表情は、やはり普段と何も変わらない。
 目が合うと、いつものように、彼は笑って。
 それから赤澤は、甘えるように観月の肩口に顔を埋めてきた。
 唇に笑みを刻んだまま、本当に、甘えるみたいに擦り寄ってくる。
 観月はちょっと驚いた。
 こういう赤澤は、初めてかもしれない。
「……赤澤…、?」
 まだ彼の髪へと埋めていた指先で、無意識に、観月は赤澤の頭を抱き寄せるようにした。
 赤澤からの接触は、全く躊躇われず、何だか全部を、自分に預けてきたかのように観月には思えた。
 観月は少し赤くなった。
 今の、この赤澤を抱きとめている自分の腕。
 まるで恋人に対する包容力だと思うと、自分はいったいいつの間に、こんなにも赤澤を好きになったのかと息をのむ。
「観月ー……」
「………なんですか」
「好きだ」
「………………」
 知ってます、と内心で応えて、観月は赤澤の頭を両手で大切に抱き締めた。
 好きになればいいのだ。
 もっと好きになって、ずっとこうやって甘えて、自分に溺れればいい。
 まるで願うみたいにそう思う。
 こんな欲求が自分の中にあった事を、観月は今日、初めて知った。
「………だったら」
 好きと応える代わりに。
 観月は赤澤を抱き締めながら、命じる。
「早く貴方のものにしなさい」
 この恋のために、とにかく早く。
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 耳馴染みの良い穏やかな話声が、ふと止んだ。
 海堂が顔を上げたその時にはもう、びっくりするくらい近くに乾がいた。
 真っ正面から掠ってくるようなキスが唇に当たる。
 目を見開いたままそれを受け入れ、それからひとつ、大きく瞬いて。
 海堂は固まった。
 一つの机を挟んで向かい合い、ノートに描かれたフォーメーションを頭に入れながら、打ち合わせしていた内容が。
 急激にどこか遠くへ飛んでいった。
 今のは、何だろう。
 無意識に触って確かめそうになる本能で。、少しだけ海堂の指先は跳ねた。
 乾が、ちょっと何かを確かめるように、海堂の目を覗き込んでくる。
 至近距離で、目と目がはっきりと合うと、ふうっと何かが戻ってきたような感覚がした。
 息を吸い込んで、また目を瞠り、再度海堂は硬直する。
 遅れて強くなる鼓動が少し苦しかった。
「………先輩」
「うん?」
 低い呼びかけに、もっと低い声で、短く返される。
 途端に続きの言葉が見つからなくなって、海堂は途方に暮れた。
 そんな海堂の心情は赤裸々だったようで、乾が大きな手のひらで海堂の後頭部を包み込むようにしながら、額と額とを重ねてきた。
「…うん、……ごめん」
 いきなりで、と囁いた乾の口調が。
 殊の外、力ない。
 何でそんな声を出すんだと、海堂は身じろぎ一つしないまま思い、呟く。
「………データ…っすか…」
「何?」
「……だから…これ」
 たぶん。
 今したのは。
 キスだ。
 乾が言うように、本当に、いきなりの、それはキスだった。
 一体何の役に立つのかなどとは見当もつかないが、乾のした事だ。
 欲しかったものはデータかと海堂は問いかけ、そしてそれに対して乾の返答はと言えば。
「……お前は、俺をどんな奴だと思ってんの」
 曖昧な苦笑いとも、誤魔化した憤慨ともつかない、ますます力の抜けた声で乾は溜息みたいにそう口にした。
 海堂の後頭部から後ろ首をへと手のひらを這わせ、その大きな手のひらで、海堂のうなじを掴むように固定して、今度は角度をつけたキスをしかけてくる。
 座っている椅子の上で身体が滑って、微かに軋んだ金属音と、視界の端のずれた風景に、ここが教室だという事を今更のように思い知らされる。
 意識がよそに向いた事を悟ったらしい乾がキスをきつくしてきて、正直海堂は目が回った。
 くらくらなんてかわいいものではなくて、視野はぐらぐらと、大きく回る。
 座っているのに足場を見失ったような面持ちで、海堂が咄嗟に指先を縋らせたのは机の上にあった乾の腕のシャツだった。
 まるでしがみつくように、その布地を手繰り寄せ、握り込む。
 慣れない粘着音がする。
 それもその筈で、キスが解けると細く唾液が撓んだ。
「したくて、いよいよ、我慢が出来なくなったのか、…とは考えないのか?」
「………………」
 え? と問い返したつもりだった海堂の口からは、実際何の言葉も発せられなかった。
 唇を、乾の指の腹にゆっくりと辿られても、やはり言葉は出てこない。
「データなんか、どうでもいいんだ」
「………………」
 乾の言葉とは思えないような言葉。
 それが、乾の声で、聞こえてくる。
「どうでもいい。どうでもよくなる。………何なんだろうな、本当に」
 テニスの事を語る時の乾の口調に迷いが滲むことなど決してないのに。
 どうして今、こんなにも揺れた声を出すのだろう。
 海堂と同じような、途方に暮れた戸惑いを見せるのだろう。
 それに気づいた海堂から、硬直が、緩やかに解けていく。
 そして、まるでその代わりだとでも言うように、何処かに嵌まっていくような乾に、海堂は慌てて指先で取り縋る。
 今度は、自分が頼る縁を探す為ではなく、乾をここへ引きとめておく為に。
「どうでもよくねえだろ…」
「よくなるんだよ。海堂にかかると」
「……俺のせいっスか」
 何ですかそれ、と呆れた溜息を零した唇に、また不意打ちで乾の唇が重ねられる。
 三度目か、と思った途端、何故だか急激に海堂はキスを自覚した。
 だから。
 なんでこんな事になってるんだと、今更も今更のタイミングで目元を赤くしながら乾を睨みつける。
 お、と乾が小さな声を出した。
「………さすがに海堂に睨みつけられると少し正気になるな」
 少し笑みも含んで。
 乾が取り戻し始めた微かな余裕の欠片に、海堂は殊更視線をきつくした。
 派手な音を立てて椅子を背後に押し出し、立ち上がった。
「うわ、ちょ…っ…待った…!」
「知るかっ!」
 本気で慌てる乾を置いて、さっさとその場から離れるべく、海堂は鞄を持って教室を出る。
「海堂、お前、ちゃんと告白くらいさせろ……!」
 何やら背後で乾が叫んでいたが、乾の見せた余裕の素振りに対して、それを聞いてやらないという腹いせに出た海堂が、足を止める事はなかったのだった。
 気配に振り返った途端、今まさに自分に対して飛びかかってこようとしている相手を目にして、海堂が覚えたものは危機感ではなかった。
「おっはよう! 海堂!」
「……、…おはようございます、」
 身体ごとぶつかってくるかのように背中にどすんとのしかかられる。
 流石に若干足元を揺らがせたものの海堂は持ちこたえて、どうにか朝の挨拶だけは返した。
 誰に対しても人懐っこい上級生は、そのまま海堂の背中にぴったりくっついて、制服越しに体温で暖をとっているようだった。
「んんー、海堂温かいにゃー」
「………………」
 二月も今日で終わるが、まだまだ外気は冷たくて寒い。
 菊丸が言うように、確かにこうしてくっついていると、海堂の背中も温かった。
 ごろごろと喉でも鳴らしそうな勢いで、にこにこと笑って、ぐりぐりと肩口に額を押し当ててくる菊丸を、海堂は振りほどけないでいる。
 温かさが惜しいからという訳ではなく、相手が上級生だからという訳でもない。
 正直な所、どう対応していいのか海堂には判らなかったからだ。
 ここまで衒いなく、人に懐かれたり接触された事がないので。
 どうすればいいのかまるで判らない。
 加えて、無類の動物好きである海堂にとっては、猫さながらの菊丸の言動は無下に出来ない気にさせられる。
 背中にほぼ同身長である菊丸を背負ったまま通学路で立ち往生するしかなくなる。
 近くに在ると、菊丸からはいつも歯磨き粉のミントの香りがする。
「………菊丸先輩」
「ん?」
「遅刻するっス…」
「あはは、それは困る」 
 困ると言いつつ、菊丸は海堂から離れない。
 それこそ猫のような大きな目で、肩口からじっと自分を見つめてくる菊丸に、海堂は息を詰める。 
「海堂ってさー」
 海堂の緊張など恐らく全く気にもしないで、菊丸はのんびりと言った。
「なんかいっつもいい匂いするねー」
「……は…?」
「なんだろなー、これ。んー……?…洗濯したてみたいな、アイロンがけの後みたいな。なんだろ。な、海堂はどう思う?」
「………はあ…」
 会話になっているのかいないのか。
 海堂が悩んでいると、やわらかい声が割って入ってきた。
「英二。海堂が困ってるよ」
「あ、不二だ。おはよ!」
「おはよう。海堂も、おはよう」
「………おはよう、ございます」
 愛想のない海堂の声にも、不二は笑みを深くして。
 菊丸の背中を、ぽんと手のひらで叩いた。
「さっき大石がコンビニでプリン二つ買ってたよ」
 今日発売のアレ、と不二が言うと、菊丸が跳びはねるように海堂の背中から離れた。
「イチゴとチョコレートのやつ!」 
「そう。ピンクペッパーが隠し味の。英二が前に、発売されたら絶対食べたいって言ってたからね。大石の事だから、覚えてたんじゃない?」
「もー、大石、大っ好き!」
 そう言うが早いか。
 菊丸は走り出して、あっという間に、その背中は見えなくなった。
「元気だよねえ、英二」
「………」
 笑う不二の隣で、海堂は曖昧に頷きつつも、内心ではしみじみそれに同意する。
 突然現れた菊丸がいなくなって、今度は不二と二人になって。
 実のところ人見知りの激しい海堂は、これはこれでまた緊張めいて押し黙る。
 そういった海堂の性質を熟知している上級生達は、菊丸にしろ不二にしろ、気にした風はなかったが。
 しかし今日は普段とは違い、海堂の方から不二に呼びかける。
「………不二先輩」
 海堂からの呼びかけに、珍しく不二の表情が判りやすくびっくりして。
「ん?」
 それでもすぐに、続きを話しかけやすくする柔らかい雰囲気で、不二が問い返してくる。
 海堂は少し視線をさまよわせて、息を整えるように吐き出した後、鞄の中からコンビニの袋を取り出して不二に差し出した。
「あれ、海堂も、あのプリン買ったんだ」
「……ビターチョコレートの、方っス」
 今日新発売のラインナップの、もう片方。
 こちらの隠し味は唐辛子だ。
「………こっちの方がいいって、不二先輩言ってたんで」
「え、……これ、僕に?」
 不二が大きく目を見開いて、本当に驚いた顔をするので。
 海堂はどういう態度をとっていいものかと真面目に悩んで、ただ無言で頷いた。
 不二と菊丸と大石が、雑誌に載っていた今春に向けてのコンビニの新スイーツの記事を見ていた場所に、たまたま海堂も居合わせたのだ。
 辛いもの好きのせいか、僕はこっちがいいな、と不二が言っていた方のプリン。
 それが一つだけ入っているコンビニの袋を、不二が海堂の手から受け取った。
 らしくもなく緊張していたのか、肩から力が抜けたのを海堂は自覚した。
 おめでとうございます、と海堂は低く呟いた。
 誕生日、とも小さく付け加える。
「うわ……嬉しいな…」
 思わず零れたような不二の声に、海堂は決まり悪いような落ち着きのなさを覚える。
「………いや、別に、」
 プリン一つだけですけどと言いよどむ海堂に、不二は首を振った。
「ううん、だけなんて事ないよ。本当に嬉しい。ありがとう、海堂」
「……や、…ですから、そんな大層な………」
 海堂の困惑をよそに、不二が、いっそ感動でもしているかのような顔をする。
 そしてそれが決して上辺だけのものではなくて、本心からの表情だと、海堂にも判るので。
 海堂としてはますます、どうしていればいいのか判らなくなる。
「あの、………遅刻…するんで……」
「あ、そうだね。うん、行こう」
 不二は相変わらず両手の上にコンビニの袋を乗せ、笑顔でそれを見つめている。
 慣れない事をしたという自覚がある上に、隣でずっとそんな様子を見せられて海堂の居た堪れなさはピークに達する。
 先程の菊丸さながらに、ここから走り去るのは問題の行為になるだろうか。
「ねえ、海堂」
 少々気もそぞろになっていた海堂は、不二からの呼びかけにぎこちなく視線を返した。
 あ、と海堂が思ったのは、そうして見おろした不二の表情が、少し意味ありげな笑みに変化していたからだ。
 不二がこういう表情をする時は、海堂にとってあまり心臓によくないような言葉が投下される。
「乾に自慢してもいい?」
「………は?」
「海堂に、誕生日おめでとうって言って貰って、プレゼント貰ったんだよって。言ってもいい?」
「プレゼントって……、そんな大袈裟な」
 海堂の言葉を遮って、不二がちょっと悪い目をする。
「言ったら絶対、乾にものすごく羨ましがられるね。…うん。もしかしたら、とんでもなく悔しがられるかな?」
「あの、…」
「ひょっとしたら半狂乱になるかも。うわあ、からかい甲斐があるなあ…」
「不二先輩…、…?」
 楽しくなってきたなあ、と。
 いったいどこまでが本気か判らない表情で不二が笑い、海堂は隣で頬を引き攣らせた。
「大丈夫大丈夫、ちゃんと手加減してからかってくるから」
「………………」
 大丈夫って何がだとか。
 手加減って何だとか。
 海堂にも言いたい事は色々あったが、こういうモードの時の不二に海堂が何かを言える訳がなかった。
「もし昼休みか放課後にでも、乾が海堂に泣きついてきたら慰めてやって?」
 ちょっと鬱陶しいかもしれないけど、と不二が悪戯っぽく付け加える。
 本当に今更ながら、そのからかいというのが、何を、どこまでするつもりなのかと。
 不二を見返して海堂は絶句する。
「ありがとね、海堂」
 コンビニの袋を目の高さまで持ち上げて、そう言って。
 不二は足取りも軽く歩き出す。
 その少し後を黙ってついていきながら。
 二月二十九日。
 果たして今日がどんな日になるのかと、海堂はひっそりと頭を悩ませるのだった。
 正直よくぞここまでと思うくらいに、鳳の性質は真直ぐで、健やかだ。
 人当たりもすこぶる良く、更にそれが上辺だけという感じがまるでしない。
 物腰が丁寧で、目上への礼儀もきちんとしている。
 だからといって生真面目一辺倒という事もないし、主体性がないという訳でもない。
 言う事は言って、やる事はやって、協調性はあるけれど自分のペースもきちんと確立している。
 雰囲気の柔らかさに紛れているが、鳳と言う男の豪胆さは相当なものだと宍戸は思っている。
 今日も、それをまざまざと思い知った。
 学校からの帰り道、鳳の家に寄る約束をしていた宍戸は、途中で鳳にコンビニに誘われた。
 何か買うものがあるんだろうくらいにしか思っていなかった宍戸は、鳳の手に肩を抱かれて促された時、初めての違和感を覚えた。
 周囲の人間に、お前達はスキンシップ過多だとよく言われるくらいなので。
 肩を抱かれる事くらいは、至って普通の出来事だった。
 だが、鳳の手が、少しばかり強引で。
 それに宍戸は少し不審気になる。
「長太郎?」
「宍戸さん、チョコ買って下さい。俺に」
「はあ?」
 そう言って、鳳が宍戸を連れてきたのは、普段よりも大分きらびやかな、お菓子売り場のラックの前だった。
 そこにあるのはラッピングされたチョコレートの数々で、そして今日はバレンタインデーだ。
 すでにそのラックの前にいた数人の女性達が、ちょっと怯んだように身体を引くのを目に、宍戸は溜息をつく。
 それはそうだろう。
 突然に、男子中学生が二人で、よりにもよっての日に、よりにもよっての場所に、陣取ってきたのだから。
「長太郎……お前な……」
「俺、今日誕生日なんです」
 そんなこと知ってるよと宍戸は言葉にする気力もなく、ただ内心で呟く。
 相変わらず宍戸の肩を抱いたまま、にこっと笑う鳳の笑顔は甘い。
 身体も気持ちも引き気味であったであろう女性達が、即座に、ちょっとうっとりした目になるのも明らかに判るくらいだ。
「だから俺、チョコレートが欲しいです」
「………………」
 この甘え上手め、と宍戸は二度目の溜め息と共に呆れた。
 誕生日プレゼントにしろ、バレンタインのチョコレートにしろ、絶対に、これっぽっちも困ってなさそうな男が。
 敢えてねだる言葉を紡ぐ。
 この場にいる名も知らぬ女性達が、今すぐにでもそれらを買って鳳に差し出してきそうだなと宍戸は思い、自分達に集まる視線の気配に少々の居た堪れなさを感じる。
 いっそ罰ゲームか何かとでも思っていてくれればいい。
 だがそれも無理な提案かもしれない。
 何だろう、鳳の、本気の眼差しは。
 ある意味真面目な頼み事である事を隠さない。
 そして、思いつきや形ばかりの望みであるとも思わせない。
「宍戸さん」
「………………」
 駄目押しに。
 無理かな、というニュアンスの、少し気落ちした眼で覗きこまれてしまって宍戸は落ちた。
 傍目には、不貞腐れているようにしか見えないだろうけれど。
 無言でラックからチョコレートを一つ取る。
 華やかにラッピングされたものではなく、日常、普通に置いてある板チョコを一枚。
 それだけの事なのに。
 年下の男が、それはもう幸せそうに笑みを浮かべて見せるので。
 宍戸はレジに足を向けながら、並んで歩く鳳の右肩の上に、自身の右手を乗せる。
 少し身体を捻るようにして伸び上がり、耳元近くで声をひそめた。
「ついでに食べさせてやるよ」
「………………」
 間近で見た、瞠られた目と、驚いた顔が、可愛かったから。
 宍戸は満足して、今日の主役の頭を無造作に撫でてやった。
 跡部から甘い匂いがした。
 アルコールのような、ちょっとくらっとするけれど、甘い匂い。
 何だろう?と神尾は机に向かっている跡部の背後に近づいて行って、跡部の肩越しに、ひょいと彼の手元を覗き込んだ。
「あと五分で終わる」
 待ってろ、と振り返りもしないくせに、思いのほか強い声で言った跡部に、神尾は笑ってしまう。
 跡部の俺様っぷりは相変わらずだが、最近神尾には、跡部の命令にも色々な種類がある事が判ってきた。
 今のは、跡部なりの、けん制なのだ。
 本当に、本当に、ほんの少しだけれど、だから帰るなというニュアンスが込められている事が判るので、神尾は取り敢えず帰るつもりはないという事を態度で表した。
 跡部の背中におぶさるように貼りついて。
 書き物をしている跡部の邪魔になるならすぐに離れようと思ったが、器用な男はそのまま変わらずにペンを走らせている。
 跡部が先程から書いているのはプライベートな手紙のようなのだが、何せ英語で書かれているので、どうせ見ても判らないしと神尾もそのままの体勢でいることにした。
 紙面をペンが走る音だけがする。
 相変わらず跡部からは甘い匂いがする。
 こうしてくっついていると、はっきりと判る香りに、今日はバレンタインデーだから、たぶんチョコレートの匂いかな、と神尾は思った。
 毎年、とんでもない量のチョコレートを跡部は貰うらしい。
 神尾は学校も学年も違うし、それは跡部のチームメイトから聞いただけの話なのだが、聞かされていなくても、そのとんでもなさぶりは容易く想像することが出来た。
 跡部の家に呼ばれ、部活を済ませてからやってきた神尾は、正直な所、今日はあまりここに来たくなかったなと思っていた。
 跡部にチョコレートを渡しにくる女の子達と鉢合わせするんじゃないかと思って身構えていたのもある。
 きっと家中チョコレートだらけで、そういう、跡部の事を好きで、それで集まったチョコレートに囲まれるのもどうかと思った。
 しかし、神尾の予想に反して、跡部の家に来客はないし、目につく所にチョコレートも見えなかった。
 跡部は神尾を部屋に招き入れて、ちょっと長いキスをしてから、少し待っていろと神尾をソファに座らせた。
 それからずっと手紙を書いている。
「神尾」
「ん?」
「五分経った途端、離れんじゃねえぞ」
 凄むような言葉の割に、跡部の声がかなり優しかったので、急に神尾は気恥ずかしくなってくる。
「それはわかんない」
「アア?」
「………わかんない」
 何かくらくらする。
 甘い匂いがするから。
 神尾がぼんやりとした言葉を紡いで跡部の肩口に顔を伏せると、頭上に跡部の手のひらが置かれた感触がする。
「てめえ、まさか匂いだけで酔ってんじゃねえだろうな」
「……、ん…?」
 無造作に髪をかきまぜられる感触が気持ち良い。
 羞恥が溶かされていくようで、神尾は自分からも、跡部に抱きつく手に力を込める。
「デ・アトラメンティスのワインインク。バローロベースの」
「……眠たくなるような名前だなぁ…」
「寝かせるか、バカ」
 そういえば紙面に綴られた文字は、ワインレッドの色をしていた。
 その後も跡部の説明は続いて、それが水を一滴も使わずに、インク剤と純粋なワインだけを混ぜて作られたインクだと知る。
 神尾がぼんやりと相槌を打っていると、急激にペンの走る音が速くなり、またあのくらっとする香りが強くなる。
「ガキくせえな、本当にお前は」
 そしてペンを置く音。
 跡部の身体が椅子に座ったまま反転し、ふりほどかれたと感じたのは一瞬、すぐに頭を抱え込まれるように支えられ、今日二回目のキスで唇を塞がれる。
「いらねえのか?」
「……なに…?……」
「俺様からのチョコレートだよ」
 思いもしなかった言葉に、ぱちりと神尾は目を開けた。
「え?」
 跡部?と神尾が呟くと。
 そうだよ、と尊大に跡部が頷く。
「俺に? 跡部がくれんの?」
 その発想はなかった。
 神尾は心底驚いた。
「ラブレター付きだ。有難さも倍増だろうが。死ぬ気で訳せよ」
 跡部が立てた親指で、今まで書いていたあの手紙を指し示す。
「えー、俺が英語苦手なの知ってんだろ。何で日本語で書かねえんだよう」
「あれはドイツ語だ、バーカ」
「余計悪いだろっ」
 いつもの言い争い、何ら変わらぬ自分達。
 そんな中での、今日だけのスペシャルは。
 チョコレートとラブレター。
 乾はたくさんチョコレートを持っている。
 普段から鞄の中に結構な数のチョコレートが入っているのだ。
 データ収集癖のある彼が言うには、チョコレートの原料であるカカオの成分は色々と利点が多いそうで、以前海堂もその話を幾度となく聞いたのだが、要するに身体や頭に良いんだなくらいの認識として残っていた。
 何せ乾にかかると、ポリフェノールの効能やら、カカオマスの含有量が五十%ならどう、七十%ならこう、ととてもお菓子の類の蘊蓄を聞いているとは思えない事態になるからだ。
 いっそ薬かサプリメントの一貫という気になってくる。
 そんなチョコレートの他にも、ガムや飴なども乾は持ち歩いていて、確かブドウ糖の塊やらナッツ類なども常備していた筈だ。
 そういう事を海堂が知ったのは、乾とダブルスを組むようになってからだった。
 一緒にトレーニングをしたり、戦術の解説などを受けたりしている時に、乾がちょくちょくそれらを海堂にくれたので。
 その時々に一番効果のあるものを、いつもの蘊蓄と一緒に手渡されるので、海堂も乾からチョコレートやガムや飴などを貰って食べる事には慣れきっていた。
「はい、海堂」
「………………」
 だが流石にこんな風に。
 直接口に運ばれた事は、なかったのに。
 つい条件反射のように、名前を呼ばれて顔を上げた海堂は、その時すでに口元に近づけられていたチョコレートをそのまま乾の指先から口に入れてしまった。
 乾の指の先が唇に少し当たって、受け入れてしまってから海堂は目を瞠った。
 いつものチョコレートだけれど。
 何となく、今日がバレンタインデーで。
 乾に呼ばれた待ち合わせ場所の正門前で、出会い頭に食べさせられてしまうと、意味合いが特別なもののように思えてしまう。
 そんな自分の思考回路に少々落ち込んで、海堂は会釈で礼を告げ、チョコレートを咀嚼した。
「………………」
 このタイミングで食べる事に、どういう意味があるんだろうと、怪訝に思ったのがどうやら表情に明け透けに出てしまっていたようだ。
 乾が小さく笑って、自身も薄いアルミ箔を剥いたチョコレートを口に入れて海堂を見下ろす。
「特別に用意って訳じゃないけどな。バレンタインチョコレートってやつだ」
「………はあ…」
「ん?」
「いや……何であんたが俺に何ですか」
「海堂が俺の好きな子だから」
 もう口の中で溶けてなくなってしまっているチョコレートを、詰まらせたような気分で、海堂は、ぐっと息を飲んだ。
 乾は相変わらず真意の掴めない飄々とした表情で海堂の背中を大きな手のひらで軽く擦った。
「バレンタインデー当日に、学校の正門前でチョコレートを食べさせて、この程度のリアクションで済んだんだから、やっぱり計画っていうのは重要だな」
「………計画って、あんた」
 まさか、と海堂は眉を顰めた。
 まさか、乾が普段からチョコレートを常備して、それを何かにつけ海堂に与えていた、昨年の初夏からの日常は。
 今日の日の為の前振りだとでも言うのだろうか。
 まさかと言いつつ、海堂はすでにそれを確信してしまった。
 確かに、チョコレートにおけるこれまでの日常の積み重ねがあったから。
 バレンタインデーに乾からチョコレートを食べさせられたこんな事態にも、然して抵抗感を覚えなかった。
「………乾先輩」
「何だ、海堂?」
「……あんた……どれだけ先まで、計画っての、立ててるんですか」
「海堂に関してはねえ……」
 長期計画だよ、と流し目を寄越してくる乾を、ちらりと上目で見返して海堂は複雑に口を噤む。
 海堂には、到底見越せないくらい先の先まで。
 きっと乾は見ているのだろう。
「俺は、今の事しか判んねえよ……」
「いいんだよ、それで。今の積み重ねが、過去になるし未来になるんだから」
 海堂が堅実で俺はすごく助かってる、と告げてきた乾の言葉の意味が。
 やはり海堂にはよく判らなかったけれど。
「………どうもッス」
「うん?」
「チョコレート」
 眉間に皺を寄せたまま海堂は言ったのに、それは嬉しそうに乾が笑うので。
 海堂もまた、乾と同様。
 これでいいんだな、と思ったのだった。
 何か考えてるなあ、と鳳は思った。
 宍戸の表情とか、気配とか、そういったものでそれを感じ取る。
 そして、その何かを考えているらしい宍戸は、先程からずっと、何故か鳳を直視してきている。
「何ですか? 宍戸さん。そんなにじっと見て」
 てっきり、見てねえよと荒く返されるだろうと思って、半ばわざとそんな聞き方をした鳳だったが、宍戸は否定もしないで、うーんと唸るような声を出しただけだった。
「……宍戸さん…?」
 放課後立ち寄った宍戸の部屋だ。
 テーブルを挟んで向き合って座っていた宍戸が、曖昧な声を出しながら四つん這いで、のそのそと鳳の所までやってくる。
 ちらりと上目を放ってこられて、切れ長のきつめの瞳の綺麗な鋭さに、鳳がうっかり見惚れている隙に。
 宍戸が鳳の腿に頭を乗せて、ごろりと横になってきた。
「………………」
 こういう所が、本当に猫っぽい。
 鳳はちょっとだけ飼い猫の事を考えつつ、それでも宍戸の方からこんな事をされた事がないので、どうしたものかと固まってしまった。
 背筋も思わず伸びる。
 それで身体に力が入ってしまったようで、腿の上を宍戸の手に軽く叩かれた。
「かたい」
「あ、すみません」
 枕代わりにしているのだから寝心地が悪くなったのかと思って鳳は咄嗟に謝った。
「謝るとこかよ」
 宍戸はと言えば何故だか笑って、そのまま仰向けになってきた。
 少し伸びかけの前髪はその動きで額から零れて、笑みの気配の残る瞳が真っすぐに鳳を見上げてくる。
 膝の上に宍戸がいるという、あまり物慣れない角度での彼の表情に、鳳はやはり見惚れた。
 何かにつけ、鳳は宍戸を見ていると、綺麗だなと思う。
 言えば宍戸は毎回本気で呆れてくるので、あまり口には出せないけれど。
 それに、鳳が宍戸に見惚れるのは、綺麗だと思う事だけが理由ではなかった。
「………んー…」
「どうしたんですか、さっきから。唸ってばかりで」
 こんなに一緒にいるのに。
 見惚れるくらい、いつも新しい印象の表情を宍戸は浮かべる。
 膝枕。
 初めてだよな、と鳳はそれも改めて胸の内で思った。
 宍戸の方が年上という事もあるせいか、どちらかと言えば相手に甘えるのは鳳の方で。
 宍戸から、こんな風にくっついてくる事は珍しい。
 髪とか触っても逃げないかな、と少しだけ危惧しながら鳳は手を伸ばした。
 指先で、髪に触れると。
 受け止めるその瞬間だけ宍戸は目を閉じた。
 それだけの仕草がとても可愛いと、閉じられたなめらかな瞼がとても綺麗だと、鳳は思った。
 自分の膝の上で寛いでいる宍戸は見ていると少し鼓動が速くなる気がした。
「どこか体調悪かったり…?」
「いーや」
 もう少し明確に鳳が宍戸の髪を撫でてみても、宍戸は嫌がらなかった。
 指通りのいい黒髪をそのまますき続ける。
「長太郎」
「はい」
「自分でやっといて何だけどよ」
「…はい?」
「俺じゃねえとこ見ててくんねえかな」
「……何ですかそれ」
 少しだけ気難しげに提案されたから、いったい何を言われるのかと思えば。
 思わず鳳は噴き出してしまった。
 それこそ今になって、宍戸の首筋がうっすら赤いのも見えてしまって。
 それもこれも何でだろうと思いながら鳳は宍戸の髪を撫で続ける。
「知らねえよ、俺だって」
 ふてくされたように宍戸が話す先を、鳳は相槌や言葉で促していく。
「でも俺、ものっすごい今嬉しいんですけど」
「……言われなくてもそりゃ判る」
「ダダ漏れ?」
「そう」
「そっか…」
 自分の機嫌が上り調子な事を自覚しつつ、鳳は宍戸の髪や頬を指先で撫でる。
 自然と緩んでしまう表情で鳳が宍戸をじっと見下ろしていると、宍戸がごろりと身体の向きを変えるように寝がえりを打ってしまった。
「あれ……宍戸さん?」
「………あれって何だ、あれってのは」
「顔見えない……」
 しょぼくれた声出すなと素気なく言った宍戸の首筋に、鳳は上体を倒して唇を寄せる。
「……、……っ…てめ」
 鳳は笑いながら、宍戸を抱き込むようにして、自分もごろりと床に横になった。
 本気の抵抗ではなかったけれど宍戸が逃れようともがくので、両腕でその抵抗ごと宍戸を抱き込んだ。
 単にじゃれあっているようなものだが、宍戸は色々恥ずかしいようで。
 やっぱり寝がえりを打って後ろを向いてしまう。
 仕方がないので鳳は、結局宍戸の背後から、べったり甘えて貼りついた。
 宍戸は怒鳴るのを止めて、何事かぶつぶつと呟き出した。
 よくよく鳳が聞いてみればそれは。
「……ったく、激ダサ………どうせ気まぐれで、らしくもなく擦り寄ってくるとか思ってんだろ、お前」
「思ってないですよ。気まぐれだって俺は嬉しいし」
 表情ははっきり見えないけれど、察するのは気配で充分だった。
 自嘲めいた呟きを零す宍戸へ、鳳が本心からそう告げれば、無防備な首筋がまた薄紅くなった。
 鳳は、宍戸のすんなりとした後ろ首に額を押し当てた。
「宍戸さんは、いつも優しくて、俺をいっぱい甘やかしてくれるので。たまには俺も、そういう風に宍戸さんに出来たらいいなって思うだけです」
「………別に優しくなんかしてねえよ」
 そのつもりがなくてあんなに優しいなら、そうしようと思った時の宍戸はいったいどれだけ自分を甘やかすつもりなのだろうと鳳はしみじみ考えた。
 考えたけれど、とても想像が追い付かない。
 鳳の両腕には、おさまりが、良すぎるほどに良い、甘い感触が在って、それはこの状況下に一人で考え事に没頭する事がどれだけ不粋かという事を嫌という程教えてくれている。
「…………何となく、くっつきたくなったんだよ。今日は」
 相変わらずどこか憮然とした言い方で宍戸が言うので、鳳はくっつくどころではない力を入れた腕で、宍戸を背後から抱き締めた。
 二人でごろごろと、体温を同じに混ぜ合わせるようにしながらくっついて、言葉を交わして、寝っ転がっているだけ。
 そんな日常がどれだけ贅沢か、きちんと二人で、心得ている。
「宍戸さん。一個聞いてもいいですか?」
「……何」
「その、何となく、くっつきたくなったのって、いつからですか?」
「あー……今日の昼休みくらい…」
 鳳の予想なんかよりも、もっとずっと前からという宍戸の返答は。
 照れるでもなく、不貞腐れるでもなく、至極あっさりとした口調で告げてこられて。
 鳳は、浮かれたり喜んだりの結局そんな状態で、宍戸を抱き締める手を強くするばかり。
 宍戸はそんな鳳を丸ごと受け入れて、ひたすら甘やかしてくれるばかり。
 互いの間で時間は、甘くゆるく流れていくばかりだった。

 日曜日に他校との練習試合に赴いた屋外のテニスコートで、海堂は自動販売機を前に、立ち竦んでいる。
 乾は少し離れた所からそんな海堂に気づいたので、暫し様子を黙って窺っていた。
 何せ海堂は、どこか人慣れしない野生の猫のような所があるので。
 いきなり声をかけると逃げられる確率が結構高い。
 乾が気配を殺して見据える先で、たっぷりと数分。
 海堂はその場に立ち尽くしていた。
 手にしたものを、ただじっと見下ろしている。
 どうやらそれは自動販売機から取り出した缶ジュースのようだった。
「………………」
 あれくらい気がかりな事があるのなら、いっそ声をかけても大丈夫だろうと、乾は歩き出した。
 海堂は乾に全く気付いていないようなので、近くまで寄って静かに呼びかける。
「海堂」
「……、……乾先輩…」
 小さく反応する様は、やはり、びっくりして毛を逆立てる仔猫のようだ。
 言えば当人に絶対怒鳴られるので乾は勿論口にはしないけれど。
 代わりに、乾は海堂の手元に視線を落として、淡々と言った。
「間違えた?」
「………………」
 海堂が手にしていたのは炭酸飲料だ。
 彼がその類の飲み物を自分からは選ばない事を乾は知っている。
 ああそれでか、と乾は粗方の合点がいった。
 海堂が随分と長い事立ち尽くしていた訳。
 彼は迷っているのだろう。
 かわいいな、と思う。
 思うだけに留めて、乾は後押しの言葉を放った。
「それなら越前にやるといい」
 まるで今思いついた提案みたいに乾は口にしたが、実際海堂の頭にはその選択肢がすでにあるという事を判った上での助言だ。
 青学のルーキーは、事ある毎にその炭酸飲料を飲んでいる。
 相当好物のようだと、データ収集癖のある乾だけでなく、海堂もきちんと知っているのだ。
 ただ、海堂の性格上、越前にジュース一本渡す事が、相当ハードルの高い行為だという事も乾は理解しているので。
 何というか。
 微笑ましいというか。
 やはりどうしたってかわいいなあと思う気持ちが脇でてきてしまうので、乾は懸命にそれが表面化しないよう努め、わざと無表情を取り繕った。
 そんな乾に、突如海堂が。
「うん?」
「………………」
 手を伸ばしてきたかと思うと、掴んだ缶ジュースを、乾の胸元近くに、ぐいっと押し当ててきた。
 きつい目元をそうして伏せると、海堂の睫毛の長さが際立った。
 そのままそっぽを向くような仕草も。
 普段海堂が滅多にしない分、どこか幼く乾の目には映った。
「どうした?」
 からかうつもりはなかったし、海堂の意図している所は充分理解していた乾だったけれど。
 無言で自分に押しつけられる缶ジュースと、うまく言葉に出来ない海堂がますますかわいいものだから、つい笑ってしまう。
 海堂が機嫌を悪くする前にと、乾は右手で缶ジュースを受け取り、左手を海堂のバンダナ越しに頭の上に乗せて、そっと海堂の目線を拾い上げた。
「俺が渡してくればいいか?」
「………………」
 年上の自分を使いだてする事は気が引けるようで、海堂は不機嫌にはならなかった。
 困ったように、普段は鋭い眼光を乾に遠慮がちに乾へと向けてくるだけだ。
「………………」
 思えば、こういう風に海堂に使われるなんて事。
 少し前だったら有り得なかったはずだ。
 そう思えば寧ろ感慨深い。
 海堂は大抵単独行動をとっていたし、部内の上級生相手には、礼儀を払いつつも彼の方から接触してくる事など皆無だったからだ。
 トレーニングメニューを考えたり、一緒に自主トレをするようになったり、自分に対して少しずつほどけてくる海堂から乾は目が離せなくて時々困る。
 自分が、まるで執着しているかのように海堂に拘ってしまう、その自覚があるからだ。
「一番上手なやり方で渡してくるから心配しなくていいよ」
「………………」
 越前の好きなジュース。
 それを海堂から越前へ。
 手渡しの仲介役は乾だ。
 内面のやわらかみを必要以上に硬質な態度でひた隠す海堂が、あの生意気なスーパールーキー相手に、後々なるべく困らないようにしてあげようと、乾は笑みを浮かべた。
「……先輩」
「ん?」
 物言いたげな海堂の目が、じっと自分を見上げてくる。
 それだけのことが、どうしてこんなに、浮かれる程嬉しいんだろうかと、乾は唇の端を引き上げる。
 はっきりいって、海堂どころか。
 こんな有様では自分の方こそが、越前の、格好のからかいのネタになるだろうと、乾は思う。
 恐らく乾の予想通り、越前は、海堂に傾倒する乾を見抜いて、また何か鋭い言葉を放ってくるのだろう。
「それもいいか」
「………はい?」
「いや。それじゃ、また後でな」
 行ってくるよと、乾は缶ジュースを持っていない方の手を海堂の肩にかけた。
 しっかりと鍛えてあるしなやかな肌の感触は、それでいて乾の手のひらには、ひどく甘い余韻を残す。
 不思議な、不思議な、存在だった。
 乾にとっての海堂は。
 まるで考えの纏まらない、でもその纏まらなさに、もう少し浸っていようと乾は考えている。


 多分、そう遠くはない未来、自分の感情は全て明け透けに、そして判りやすく単純に、纏まるであろう予感がする。


 だから今は、あともう少しだけ。
 訳の判らなさに足掻くのだ。

 キスをほどいた後、神尾は少し考えた。
 これでいいわけないよなと真剣に首を傾げる。
 不満というか、言うなれば不審に思う。
 そういった感情は、そのまま神尾の表情に浮かんでいたようで、跡部が眉をひそめて神尾の頬を手のひらで擦るようにしてきた。
「何だ? お前、このツラ」
 素気ない言葉、呆れた口調。
 怜悧な目は睨むようで、でも、跡部の手がやわらかく神尾の頬を包み直してくるその触れかたはひどく優しかった。
 猫の顔でも撫でるみたいにされて、神尾は首を竦める。
 だらりとソファに寄りかかっている跡部と向き合って、神尾はソファについていた右膝を降ろした。
 神尾の手は、まだ跡部の両肩の上に乗っている。
「……あのさ」
「アア?」
 ソファに座っている分、跡部の方が神尾よりも視線の位置が低い。
 それでも神尾は俯きがちにしながら上目で窺うように跡部を見やって、少しだけ唇を尖らせ、不平を口にした。
「これ、おかしくね?」
「何が」
「……や、…おかしいって言うか、………跡部さぁ…もうちょっと真面目に」
 言われ方が気に食わなかったのか、言葉の途中で跡部の手が神尾の髪をぐしゃぐしゃにしてくる。
 雑な手つきに咄嗟に怒って逃れようとする神尾が、跡部の肩の上に置いたまま突っ張った腕の手首辺りに。
 跡部が軽く頭を凭れかけさせてくる。
 ラインのきつい輪郭に跡部の髪がふわりとかかって、こちらの息が詰まるような流し目で見つめて来られて、神尾は、うわあと咄嗟に視線をよそに逃がした。
 こういう表情をする跡部には引きずられる。
 引きずり込まれる。
「俺様にどうしろって?」
「………………」
 どうしろって、だからもう少し真面目に、とよそを向いたまま言いかけて。
 結局神尾は止めた。
 正直、神尾も判っていたので。
 跡部がふざけている訳ではないという事。
 ただ、それでも、これではおかしいと思う。
「………っていうかさ、あのさ、……これじゃ、同じじゃん」
「だから何が」
「だから…っ」
 あくまで冷静な跡部に、神尾は跡部の肩を掴んだまま声を大きくした。
「好きだって言って、抱き締めて、キスして、これじゃ、こういうんじゃ、普段とおんなじじゃん!」
「それが何だ」
「それが何だじゃないだろっ。跡部、今日、誕生日なんだから、もっとちゃんと…! なんかあんだろ、なんか…! こんな、普通のことじゃくて…!」
 繰り返すが、今日は、跡部の誕生日なのだ。
 跡部はとにかく何でも持ってる男なので、誕生日にあげるプレゼントなんて神尾は到底思いつかない。
 だから跡部に直接聞いた。
 何かしてほしいこととか、ある?
 そう聞いた神尾に跡部がねだったのは、家に来い、泊まって行け、好きだって言え、抱き締めろ、それでキスしろ、そんな命令みたいな出来事。
 たいして考えるでもなく言われたそれらが、神尾の不審の原因だ。
 言う通りにしたはしたけど。
 こんなこと、普段だって普通にしている。
 当たり前みたいに、とまではさすがにいかないが、好きだなあって思ったら神尾は跡部に好きだって言うし。
 自分から抱きついたり、跡部の抱擁に彼を抱き締め返したりもするし、神尾の方からキスすることだってある。
 だから、そういう事じゃなくて。
 せっかく誕生日なのだから、もっと何かあるだろうと神尾は思うのだ。
 跡部が言うなら、多少ハードルの高い事でも頑張ってみようかなんて思っての提案だったのに、どうして跡部が欲してくるものが、当たり前になりつつある自分達の日常の行動ばかりなのか。
「神尾」
「え、?………、っわ」
 跡部の肩に置いていた腕を引かれた。
 神尾は再びソファに膝をつくようにして、跡部の胸元に抱き込まれる。
「俺はこれが当たり前だなんて思った事ねえよ」
「……え…?」
 跡部の胸元から、声が直接響いてくる。
 髪を撫でつけるように後頭部を撫でられて、神尾は視線を上げて跡部を見上げた。
 どの角度から見ても隙のない綺麗な顔だ。
 そんな跡部が何か不思議な事を神尾に言う。
「お前がここに来るのも、泊まっていくのも。俺を好きだって言うのも、俺を抱き締めるのも、キスすんのも、俺は特別なことだと思ってるから、今日もそうしろって言った」
「………………」
 普段から、きつい事ばっかり言って、口は悪いし、態度もえらそうだし。
 甘いところなんて無いに等しい、そんな跡部が言うから、神尾は何だかくらくらしてくる。
「俺が……跡部のこと好きなのとか、…跡部には当たり前のことじゃないの…?」
 そう言ってんだろうがと憮然とした跡部に低く言われて、噛みつくようにキスされた。
 深く角度のついたキスはきつくて、でも、口腔を探ってきた舌は甘くてやわらかかった。
 神尾はゆっくり目を閉じながら両手を伸ばす。
 跡部の後ろ髪に指先を潜り込ませて、ゆるく髪をかきまぜ、縋りつく。
 それでキスがまたなめらかに深くなった。
「………………」
 跡部の誕生日なのに、まるで自分がとてもいいもののように思えてくる。
 こんなんでいいのかな?と神尾はやはり思うのだけれど。
 自分を抱き締める跡部の手つきの甘さに、それもうやむやになっていった。
「跡部、誕生日おめでと」
 酔っ払ったような気分でキスの合間に神尾が告げると、跡部が少し笑ったのが判る。
 すぐに再開されたキスで合わせた跡部の唇が、笑みの形を、していたので。
 それを同じく唇で感じとって、神尾もまた、自然と微笑んだ。
 宍戸の家にやってきた鳳は、家人が誰もいないにも関わらず礼儀正しく挨拶をして入ってきた。
 それはいつもの事で、相変わらず律儀な奴だと宍戸は思いながら、鳳を先に自分の部屋に向かわせた。
 こう暑くては何か冷たいものを持って行きたかったし、鳳には先に空調のスイッチも押しておいて欲しかったのだ。
 宍戸が冷蔵庫からレモンサイダーと烏龍茶のペットボトルを取り出して、大振りのグラスを二個持って部屋に行くと、空調のききはじめた室内で、鳳が背筋を伸ばして座っている。
「長太郎、お前どっち飲む?」
「烏龍茶いただきます」
「了解」
 宍戸は鳳のグラスに烏龍茶を、自分のグラスにはレモンサイダーを注いだ。
 暦の上では立秋をとっくに過ぎているけれど、そんなもの何の関係ないのだと思わせるほどに毎日暑い。
 お互い殆ど一気にグラスの中身を飲み干してしまう。
 二杯目を注いで、漸く一息ついた頃だ。
 それまで、背筋をまっすぐ伸ばしていた後輩が、じっと自分を見つめてくるのに宍戸は気づいた。
 座っていたって宍戸よりも遙かに上背がある鳳からの視線が、そんな殆ど上目に近い状態になるなんて、通常ならば有り得ない。
 あーあー、と宍戸は内心で思った。
 これではまるで、思いっきりお預け中の犬ではないか。
 聞きわけは良いけれど、甘え方も半端のない、そんな感じの。
「………………」
 しょうがねえな、と宍戸は手のひらを上向きにした右手の指で、鳳を呼んでみた。
 そんな仕草だけの呼びかけに、鳳はすぐさま寄ってきて。
 ぎゅっと宍戸を抱き締める。
 そのまま鳳の身体がずるずると下降していくので、これは相当だと宍戸は悟った。
 何せあの礼儀正しい鳳が、今ではベッドに寄りかかって座る宍戸の腹部に顔を埋めて、その両手でがっちりと宍戸を拘束したまま、寝そべってしまっているのだ。
 べったりと自分に張り付いてきている鳳の、少しだけ癖のある髪を宍戸が軽く叩くように撫でてやると、尚甘えるように擦り寄ってくる。
 特に落ち込んでいたり苛々している感じはしなかったが、何となく鳳の様子で、多分こんな事だろうと踏んでいた宍戸は、つい笑ってしまった。
「甘ったれ」
 くしゃくしゃと鳳の髪を両手でかきまぜる。
 宍戸の腿の上に頭を乗せている鳳は、全く嫌がる様子がない。
 どうしたよ、と宍戸が軽く言えば、鳳もまた同じくらいの気安い口調で返事をした。
「昨日から、うちの猫が冷たいんですよ」
「へえ? それで代わりに俺を構いにきたのか?………っつーか、これじゃお前が構われにきたみてえだけどな。長太郎」
 宍戸にしてみればどっちだっていいので、飽きずに鳳の髪を手遊びに弄りながら、膝の上で鳳を甘やかす。
「……逆はあっても、それはないです」
 鳳が溜息混じりに言って、それまで伏せていた顔を仰向けに返してきた。
「俺が冷たくしたり、お前に構わねえ時は、猫に構われにいくって事か? 逆ってのは」
「逃げられますけど」
「代わりにするからだろ。アホ」
 可哀想な事すんな、と宍戸が前髪の流れた鳳の額を、ぺちりと手で叩く。
「訂正もう一つ」
「ん?」
 鳳は自分の額を軽く叩いた宍戸の手を、丁寧に自分の手に取って。
 指先に唇を寄せて言った。
「俺、宍戸さんに冷たくされたこと、ないですよ」
「………俺もそんな覚えはねえけどさ」
 嬉しそうに鳳が笑う。
 やわらかな笑みで、宍戸の膝枕で、すっかり寛ぎきって。
 こんな鳳の姿を知っているのは宍戸しかいない。
 指先だけでは飽き足らずに、宍戸の手のひらに唇を埋める鳳を見下ろして、こうまでべったりされてもまるっきり嫌にならないのだから不思議だと宍戸は思った。
 こいつだけ特別なんだろうなあ、と一つ年下の男の顔を見下ろす。
「ま、……お前が満足するまで今日は居れば?」
「嬉しいな」
 宍戸さん優しいし、気持ちいいし、と鳳は目を閉じる。
 どこか幼い感じと、並はずれた大人っぽさとが共存する鳳の表情は、とても不思議で。
「………………」
 ばかだなと宍戸は内心で、ひっそりと思う。
 ここまで態度に出して甘える事が出来るんだったら、言葉にだって出せばいいのだ。
 うまくいかない事、悩んでいる事、戸惑っている事、吐き出してしまえばいいのに。
「………………」
 三年生が引退して、氷帝テニス部の新体制がスタートした。
 部長は日吉になったけれど、副部長の存在しない氷帝学園のテニス部において、鳳は恐らく存在しないその役目を担っているのだろう。
 数百人の部員を纏めていく事は生半可なことでは出来ない。
 ましてや先代部長があの跡部とあっては、その後を継ぐ者達のプレッシャーは強いだろう。
「……目開けたら止めるからな」
 鳳はもう寝ているかもしれないと思ったが、一応宍戸はそう言い置いた。
 そして上体を屈めていって、鳳の眦に唇を寄せる。
 キスを一つ落とす。
「…駄目ですか? 今、目開けたら」
「開けたら止める。二度言わせんな」
 拗ねたような鳳の口調がおかしかったが、宍戸はわざとぶっきらぼうに即答してやった。
 ちぇ、と鳳にしては相当珍しい子供じみた声が聞こえてくるから尚更だ。
「レモンサイダーと烏龍茶混ぜたら、たぶんうまくねえよな…ぁ?」
「それはまずはやってみないと」
 言いつけをしっかりと守って、目を閉じたまま仰向けになって宍戸の膝に寝ている鳳の唇に。
 わかったよ、と宍戸は苦笑いの形の唇を、そっと押し当てた。
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