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How did you feel at your first kiss?
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 待ち合わせをしていた訳ではないので。
「遅刻だな。ごめん」
 この赤澤の台詞はおかしいと観月は思った。
 表情に感情がそのまま浮かんだらしく、赤澤は快活に笑う。
「悪ぃ。独り言」
「…独り言の域を越えてます」
 赤澤は地声が大きい。
 でもそれは不思議と耳障りな音ではなかった。
 低い声の響き方は、むしろ穏やかだ。
「お前が待ってたら、俺にとっては遅刻と同じだ」
「………別に待ってませんけど」
「そうだな」
 俺が見つけただけだと赤澤は言って、改めて問いかけてきた。
「用事、済んだのか?」
「ええ。思ったより電話が早く終わったので」
 このまま寮に帰ろうか、それとも。
 赤澤を待ってみようか。
 思ったのは観月で、だから赤澤を待っていたという事も事実なのだと観月にだって判っている。
 でも赤澤が、いつものようにさりげなく流してくれるので。
 結局は、自分はそれに甘えるのだ。
 観月が実家に電話をかけると言うと、察しの良い赤澤は、すでに引退している部活をのぞいてくると言って観月から離れていった。
 それでいて、このタイミングの良さで再び観月の元に戻ってくるのだ。
 これが全て計算づくの行動ならばいい。
 赤澤の場合はそうでないから困るのだ。
「寮戻るか?」
「………………」
「じゃ、ちょっと付き合え」
 観月は黙っていただけだ。
 それなのに赤澤は寮には向かわず、まるで赤澤の都合で連れまわすかのように観月を誘った。
 部屋にある筈の観月のマフラーを放ってくるあたり、どれだけ自分はこの男に見透かされているのかと、観月は溜息をついた。
 寒いと思っていたのは事実なので、観月は無言のまま白いマフラーを首に巻きつけた。
「………部はどうだったんですか」
「球出ししてたら金田に横取りされた」
「何も貴方が球出ししなくたって…」
「あいつらにも言われた」
 別にいいじゃないかよなあ?と赤澤は前髪をかきあげながら観月を振り返ってくる。
 肩を越える長髪が不思議と馴染んでいる男の表情は楽しそうだった。
「裕太が相当スタミナついてたぜ」
「試合したんですか?」
「ああ。俺の前にもゲームやってたみたいだが、全然ばててなかった」
「勝ったのは?」
「ん? どっちが勝ってもお前に叱られそうだな…」
 あくまでも飄々ととしている赤澤に、観月は同じことを二度言わせるなと視線に込めて睨めば。
 赤澤は、ひらりと片手を上げた。
「俺」
「それならいいです」
「いいのかよ?」
「その状況で負けたのなら、貴方、相当なまってますよ」
 観月は相当素気なく言い捨てたのに、赤澤は、そりゃそうかと言って大らかに笑っている。
 付き合えと言っておきながら、赤澤はどこか目的地があるという訳でもないようで。
 ただゆっくりと歩き続けながら、観月と日常話をするだけだ。
 多分赤澤は観月が家族と連絡を取り合う話の内容を、だいたい判っている筈だ。
 敢えて聞いてはこないけれど。
 それは寧ろ赤澤の懐深さの現れでもあるようだ。
「赤澤」
「何だ?」
「貴方、遠距離恋愛とか、出来なさそうですね」
 するのか?と振り返ってきた赤澤の表情が、観月が予想していなかったほど平然としていて、面喰う。
「お前となら何でも出来るんじゃないかと俺は思ってるが」
「………………」
「決定事項でも、何の問題もないぞ」
「……決定事項じゃなかったら…?」
「その場合は」
「………………」
「駄々をこねてみようかと思う」
「………………」
 先程の返事以上に、観月の予想にまるでなかった返答だった。
 観月は大きく目を見開いて赤澤を凝視した。
 この男は、何を堂々と言い切っているのか。
 駄々をこねる。
 全くもって赤澤とは不釣り合いな台詞に、ばかみたいに安堵する自分にも観月は呆れた。
 勝つためにルドルフに来た自分。
 勝てなかった自分。
 高校からの進路をどうするか、自分が揺らぐから、家族も帰って来いと言うのだろう。
 最初にこの学校に来た時のように、断固たる決意をもっていれば、自分の家族は決して反対などしない事を観月も判っているのだ。
 負けるのは悔しくて苛立たしい。
 自信が砕かれるのは恥ずかしく居たたまれない。
 それでも尚、勝ちたいと、勝てるのだと、言い切れるだけの強い自己をもう一度持って、また実行する、それが観月のこれからだ。
 全部判っている。
 全部決めている。
「どっちだって構わない」
「………………」
 赤澤は笑って、手を伸ばしてきた。
 観月の片頬を掌に包み、しっかりと目線を合わせて。
「お前が好きだから大丈夫」
「………………」
 大丈夫。
 そう言い切られて、だからこの男には敵わないんだと観月は思い知らされる。
 迷いようのない言葉に、どう返事をすればいいのか判らなくて、観月は顔を僅かに動かした。
 頬にあった赤澤の手のひらのくぼみに、唇を寄せる。
 目を閉じて、キスを、贈る。
 その手に後頭部を抱え込まれるようにして、観月は赤澤の胸に抱き締められた。



 自分の未来は自分で決めた。
 そのことで、観月はひとつだけ後悔している。
 もし自分で決めなかったら、見られたかもしれないこと。
 赤澤が駄々をこねるところも、少しは見てみたかったな、と思ったからだ。
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 最近、近所の神社がちょっとしたパワースポットとして有名になっている。
 毎年初詣に行っていた馴染みの小さな神社なだけに、ここ最近の賑わいぶりに神尾はびっくりしていた。
「やな予感はしてたんだけどよう。初詣に行ったら大行列で大変だったんだ、一月一日から」
 思い出して溜息をつく神尾は、跡部の片腕に抱き込まれている。
 今年になって初めて、跡部に会った。
 跡部の部屋に入ってから、何だかんだと接触が多くて、広い広い部屋の中で始終くっついているような状態だ。
「俺、パワースポットとか、そういうの判んないけど。恋愛運とかよくなるんだって」
「てめえには必要ねえだろ」
「何で?」
 聞いた途端頭を叩かれた。
「何すんだよ!」
 どうしてこんな甘ったるく抱き寄せてくる腕と同じ手で、無慈悲に叩いてもくるのかと、怒鳴った神尾など物ともせずに。
 綺麗な顔を見るからに不機嫌そうにさせて、跡部は神尾を睨み据えてくる。
「俺様と付き合ってて、それ以上恋愛運とやらを良くする必要がどこにある」
「……自分で言うか、そういうの…」
 それが跡部でもあるのだけれど。
 神尾ががっくりと肩を落とすと、跡部は今しがた自分が叩いた神尾の頭部に唇を埋めてくる。
 冷たい。
 優しい。
 不機嫌。
 甘い。
 訳が判らない。
「………別に恋愛運だけじゃないし。成功運とか、金運とか、そういうのにも効くって」
「ますます必要ねえだろ」
「………………」
 王様然とした風体で言い切られれば、確かにそうだけどさあ、と神尾は溜息をつくしかない。
 今更ながら、とんでもない奴だよなあと跡部を見ていて思う。
「俺は別に、そういうの目当てで行ったんじゃないんだけど」
「もしそうだったらとっくに泣かしてる」
「…泣…、………泣くか!」
「泣くだろ」
 軽い笑み混じりに、ふいうちで唇にキスされた。
 跡部の髪から、ふわっといい香りがして、くらっとくる。
 いつの間にか入り込んできた舌で口腔を探られて、神尾は咄嗟に跡部の腕に指先を縋らせた。
「…涙目じゃねえの」
「………………」
 深く絡まったキスが、するりとほどけて。
 至近距離から囁かれる。
 神尾が恨めしく睨みつけても跡部は笑うだけだ。
 ほんの少しも嫌な感じのしない、むしろ優しい笑い方だから神尾も言い返せない。
 瞼の上に跡部の唇を押しあてられて、おとなしく目を閉じてそれを受け止める。
「パワースポットなんざ、わざわざ出かけていく必要ねえよ」
「……え…?」
「いちいちそんな事しなくても、もっと簡単に出来るだろうが」
 何だかもう、べったりだ。
 くっついて。
 跡部に背後からしっかりと抱きこまれて、座り込んでいる神尾は。
 自分自身を皆、跡部に取り囲まれている。
「出来るって……パワースポットとかって、そんな簡単に作れるものか?」
「そこに行けば元気になる、楽しくなる、落ち着く、そうなればいいだけの話だろ。だったら、自分の部屋をパワースポットにしちまえば、わざわざ出かけて行かなくたって毎日部屋に戻るだけで普通に気分も上がるだろ」
 その発想はなかったと神尾はびっくりして、跡部って時々すごいなと言うと、いつも凄いんだと怒鳴られた。
「え、じゃあさ。テニスコートとかも、なるかな」
 だったらいいなと思って問えば、もうなってんじゃねえのと言って跡部が軽く笑った。
「そっかー、パワースポットって、そういう事でいいんだよな」
 そこに行けば気持ちが改まって、気分が和んで、嫌なことを払拭出来て。
 楽しくなって、元気が出て、頑張ろうって思えて。
 今よりもっと、良い事が増えていく。
「今更なこと言ってんじゃねえよ」
 跡部が呆れたような声で神尾の耳元に囁いて、腕の力を強めて抱き込んでくる。
 身包み抱きしめられて、あれ?と神尾はふいに気づいた。
 パワースポット。
 もしかして、これって、まさにそうなんじゃないだろうか。
 跡部のいる所。
 跡部という存在。
 神尾はそう思ったのに。
「俺専用だけどな」
「………………」
 身体と身体が密着する。
 あれ?と神尾は再度首を傾げた。
 それはつまり。
 もしかして、跡部にとっての自分が、そうだということなんだろうか。
 パワースポットなんて跡部には無縁そうなのに、彼はすでにそれを持っていると、その仕草で伝えてくる。
 自分がそうなのだろうか。
 本当に?と神尾はこっそりと背後を窺うように目線で振り返って。
 透きとおるような瞳の色を間近に見つけた。
 瞬きすると接触しそうなくらいに近い。
「………跡部…?」
 そっと、小さく呼びかける。
 どちらからともなく引き合うように、唇と唇が。
 かすかに、重なる。
「………………」
 やけに神妙な、丁寧なキスになってしまったのが。
 気恥ずかしかった。
 一月も十日が過ぎて、まだ初詣に行ってないと乾が言ったので、海堂は乾と一緒に、たまたま通りがかったその神社に立ち寄ることにした。
 赤い小さな鳥居を潜くぐって、ひっそりと静まる敷地の玉砂利を踏みしめて歩いてく。
 すぐ近くのテニスショップで海堂が買い物をしていたところに、偶然乾がやってきて、二人で一緒に店を出た。
 何となくそのまま他愛のない話をしながら自宅に向かって歩いていく途中で、ここの神社の前を通ったのだ。
「海堂は、初詣、一日に行ったのか?」
「……ッス」
「そうか。毎年決まった所?」
 海堂は頷いた。
 乾はまるでデータでも取っているかのように、そうか、と自己確認のような言葉を繰り返す。
 日常会話の中でも、常にあらゆる情報を集めているかのような乾に海堂ももう慣れてしまっている。
 乾は寒そうにコートの襟口を手で掴んで、少し先を歩いていく。
 その背中をまっすぐ見つめて、海堂が返す言葉はどれも端的で、むしろ愛想のない部類なのに。
 乾は和んだ優しい言葉で会話を繋げてくれた。
 言葉のうまくない、ひどく口の重い海堂から、乾は何かにつけ上手に言葉を引き出してくれる。
 必要な事しか話をしない傾向の海堂にしてみれば、当たり障りのない会話を繰り返す乾という相手は稀有な存在だった。
 不思議な人だと思う。
 人とコミュニケーションをとることが不得意な海堂にとっての、乾の存在は。
「あれがそうかな」
「………………」
 小さいけれど清潔な印象のする祠を乾が指さした。
 長身の乾は、目を伏せるようにして身長差のある海堂をそっと見つめて、促してくる。
 黙って後をついていった海堂は、祠の前で財布を広げた。
 ちょうどあるな、と思って。
 小銭を九枚集めていると、乾が不思議そうに海堂の手元を覗き込んできた。
「ん? いくら入れるんだ?」
 距離が近い。
 でも不思議と気にならない。
 海堂は間近にある乾の顔を見据えながら、手のひらに乗せた小銭を差し出してみせる。
「うちはいつもこれっすよ」 
「四十五円?」
「五円玉が九枚で四十五円。始終ご縁がありますように、って」
 物心つく頃には、母親からそう教わっていた。
 行くことが判っていれば予め用意をしていくし、突然の時は出来るだけ。
「海堂」
「はい?」
「新年早々大人げないことするけど」
「…は?」
 何だと問い返す間もなく。
 海堂の手のひらにあった五円玉九枚は乾の手に鷲掴みにされた。
 乾はすぐに代わりにというように自分の財布から百円玉を取り出し、海堂の手のひらに乗せる。
「先輩?」
「悪いけどこっちにして」
「………………」
 訳が判らない。
 怪訝に乾を見やる海堂のまなざしに何を思ったのか、乾は真面目な顔をして言った。
「縁があったら嫌だから」
「あの…?…」
「海堂に、始終ご縁があると俺は困る」
「………………」
 海堂は呆気にとられてしまって、ただただ乾を見上げるだけだ。
 乾は乾で、あくまでも、どこまでも真剣なので、海堂にはどうする事も出来ない。
 手のひらの百円硬貨と、ひとつ年上の男を交互に数回見やって。
 判りましたと、頷くが精いっぱいだ。
 よかったと囁くような声で微笑む乾の、隙のあるくだけた表情に、不意打ちで、どきりとして。
 海堂は百円硬貨を握り締めた。
 縁なんて、何も恋愛沙汰だけの話ではない筈だ。
 乾にしては随分と勝手な事を言ってきた。
 でも、海堂はそれを聞き入れてしまうのだ。
 胸の中が、ざわざわと落ち着かない。
「今年も早速、我儘言ってごめんな」
 頭上に乾の大きな手のひらが乗せられて、軽く覗き込むようにされると、どちらが我儘を言っているのかなんて判らなくなりそうだった。
 しかも頭を撫でられるなんて他人にされた事がない。
 海堂は無言になるばかりで、けれども乾はそれを気にしない。
 それは決して傍若無人にふるまっているからではなく、合わせた目線で、正確に海堂の心中を酌んでくるからだ。
 軽く数回ぽんぽんと頭をたたかれて、あくまで優しい手のひらの感触にうっかり目を閉じたほんの一瞬の隙に、唇をキスで掠られた。
 びっくりして目を開けた時にはもう、キスは終わっていた。
 咄嗟に絶句してしまったので完全に怒るタイミングを逃し、海堂が恨めしく睨んだ先で乾は機嫌よく笑った。
「さて。それじゃ、お賽銭入れて、神様に、見せつけてしまいましてすみませんとでもお詫びしようか」
「……初詣になってねえだろ!」
「今年もよろしくな。海堂」
 人の話を聞けよと言いかけて、結局海堂はそれを口にしなかった。
 実際、誰よりも海堂の話をよく聞くのは乾なのだと判っているから。
 何となく口にしそびれた。
「先輩」
「ん」
「………………」 
 呼びかけておいて言いよどむ海堂を、乾は不審がる事もない。
 再度、軽く海堂の頭を撫でてから、笑いかけてくるので。
 何となく海堂もつられてしまった。
「………………」
 溜息混じりの、本当に微かな海堂の笑みを。
 乾は丁寧に拾い上げ、彼の記憶の中にしまったのだと。
 目にした表情で、海堂は理解した。
 一緒に初詣に行きませんかと誘ってきたのは鳳だった。
 人混みが苦手な宍戸を熟知している鳳らしく、出かけたのは三箇日も明けてからの事だった。
「あけましておめでとうございます。宍戸さん」
 長身を腰からきっちりと折り曲げて、鳳が頭を下げる。
 宍戸はさすがにそこまではしないが、同じ言葉を返す。
 待ち合わせ場所で、今年もよろしくと言い合って、連れ立って歩き出す。
 しばらく歩いて、宍戸は横にいる鳳を見上げて言った。
「長太郎、お前、なんか背伸びてねえか?」
「そうですか?」
 そう言われるとそんな気も、と鳳が生真面目にコートの袖口見下ろした。
 腕じゃなくて背だよと宍戸は思っておかしくなる。
「何で笑ってるんですか」
 少し拗ねたような言い方をする、でも、少しずつ、その見た目が大人びていく鳳を、宍戸は和んだ目で見やる。
「笑ってねえだろ」
「そうですか?」
 そうかなあと僅かに首を傾ける鳳の、そういう年下らしい可愛げは変わらないなと宍戸は思った。
 数日ぶりに会っても何だかとても久しぶりだと思ってしまうのは、あまりにも毎日一緒にいた夏の印象がまだ抜けないからだろうか。
「宍戸さん、お正月って何してました?」
「ん? 別に普通。いつもの休みと変わらねえよ」
「じゃあ、走ったりとか?」
「ああ」
「誘ってくれればよかったのに」
「新年早々それかって兄貴に呆れられたんだよ。そういうもんかって思ってよ」
 つきあわせるの悪いかと思ったと続ければ、鳳は生真面目に、悪くないから来年は誘って下さいねと言った。
「もう来年の話かよ」
「おかしいですか?」
「まあ、いいけど」
 他愛のない会話をしながら、近くにある神社に向かう。
 社まで長い石段を上っていかないといけない立地なので、あまり人がいない穴場なのだ。
「いいトレーニングになりそうだな」
「ですね」
 長い階段を下から見上げてしみじみ言った宍戸は、ふと、鳳に手を握られて瞠目する。
「おい?」
「体力のない後輩を、優しい先輩が手を引っぱって連れていってくれる、というシチュエーションでどうでしょう」
「どうでしょうじゃねえよ」
 思わず笑ってしまった宍戸は、けれど鳳の手を振り払いはしなかった。
 新年から、こんな場所で、手を繋いで歩くというのはどうかとも思うけれど。
 別にわざわざ言い訳のような設定など作らなくてもいいくらいには好きなのだ。
「体力がないとかお前が言うな。どっちかって言えば、なまってんのは俺だ」
「それもないと思いますけど。でもその時は、後輩が先輩をおぶって上るって事にしましょう」
 それじゃあ行きましょう、と鳳が宍戸の手を握って階段を上り始める。
 よく仲間内でも、距離が近いと言われる自分達だ。
 意識した事はなかったが、言ってくるのが一人や二人ではないので、多分そうなのだろう。
 ダブルスを組んでいたという事だけでなく、宍戸にしてみれば鳳の存在は大きいのと同時に、当り前のようでもある。
 一緒にいる、
 近くにいる。
 それはみんな極普通の事。
 でも、こんな風に手と手を繋いでいると、何もかもが当たり前ではないのだと気づかされる。
「宍戸さん」
「……ん…?」
 そっと、囁かれた呼びかけに、宍戸の反応が少し遅れる。
 鳳の声は小さかったけれど。
 優しく、丁寧だった。
「嫌がらないでくれて、ありがとうございます」
「何が?」
「手。どうしても繋ぎたかったから」
 前を向いたまま鳳が言うのに、宍戸は一瞬呆気にとられた。
「こんな所で手なんかつなぐの嫌だって拒まれるかなって、思ってたから」
「……お前は自分に自信があるのか臆病なのか判んねえな…」
 謙虚で礼儀正しい反面、鳳は案外マイペースで強気な面も持ち合わせている。
 宍戸にしてみればどちらの鳳でも構わなかったし、手をつなぐ事くらいで礼まで言われる方がびっくりする。
「きちんと自信が持てる自分にはなりたいと思ってますよ」
「なら、俺に対しても同じように自信持てばいいだろ」
「それはかなりハードルが高い……」
「お前の今年の目標な。決定」
「宍戸さんー…」
 頼りない目で振り返ってくるのが可愛かった。
 宍戸は鳳の手を握ったまま、お前の言うことも聞いてやると笑った。
「俺の今年の目標。一個、お前が決めていいぜ。長太郎」
「好きになって下さい」
「は?」
 即答すぎて面食らう。
 宍戸の手を強く握り返し、鳳ははっきりとした声で繰り返した。
「俺を、もっと好きになって下さい」
「………それ目標じゃねえだろ」
 だいたい、そもそも、好きなのだから。
 それも、だんだん、どんどん、好きになっている。
 目標なんて言ったら、頑張らないと叶わない出来事のようだから、それは有り得ないだろうと宍戸は呆れた。
「少し自重しろって言うなら判るけどよ……」
「え?」
「や、何でもね」
 真顔で問い返してくる鳳に適当に首を振って、宍戸は思わずもらしてしまった自分の本音にじわじわと羞恥が湧き上がるのを感じた。
 本当に。
 それこそ。
 少し自重しないと、とんでもない事になりそうだ。
 些細な出来事でも、短い言葉でも、ささやかな接触でも。
 好きになるから。
「じゃ、約束です」
「……長太郎…?」
「俺は、宍戸さんに対して自信が持てるように頑張ります。宍戸さんは、俺のこと今よりもっと好きになるように、」
「……っから、頑張る必要ねえんだよ、俺はっ」
 このアホ!と吐き捨てて、宍戸は階段を駆け上がった。
 階段とはいえ、ダッシュには、それこそ自信がある。
「宍戸さんっ?」
 訳の判っていない困惑を滲ませて、鳳も慌てて追いかけてきたが、今の顔を見られたくない宍戸は尚加速した。
 こんなにも馬鹿な提案を真面目にしてくる、何も判っていない鳳なのに。
 それでも、やっぱり、もっと好きになる自分に必要なのは。
 どうしたって自重の方だろう。



 神頼み、したくなるほどに、重症だ。



 行きたいデートスポットを聞かれて、神尾は放課後一緒に帰れるだけでいいと答えた事がある。
 それを知っているのか知らないのかは判らないが、跡部は時々不動峰に現れた。
 放課後一緒に帰る為だけに、やってくる。
 学校も帰宅経路も、自分達は全く違うのにも関わらず、だ。
「………………」
 一応、おつきあいなるものを跡部としている神尾なので、正直この時間が少々擽ったかった。
 自分とは違う制服を着ている跡部の背中を見ながら、何てことのない話をして。
 ゆっくりゆっくり日暮れていく辺りの景色なんかに気づくと、通学路の見慣れた光景なのに、今がとても特別で物凄い時間のように神尾には思えるのだ。
「跡部はさー…」
「なんだよ」
「デートはここに行きたい、とかあんの?」
 神尾はこうして一緒に帰り道を歩くだけでも充分満足して、楽しかったり、嬉しかったりする。
 跡部はどうなのかな、とふと思って尋ねると、冬服の制服のブレザーをどこかブランド物のスーツのように派手に着こなした跡部が肩越しに神尾を振り返ってきた。
「南の島でクルージング」
「……っぽいなあ…」
「行くか。週末」
「………………」
 冗談。
 だったらいいのだけれど。
 多分跡部が言うそれは、冗談なんかじゃないんだろう。
 そのへんのテニスコートにでも行くみたいにあっさりと言ってのけた提案は間違いなく現実世界での話だ。
 複雑に沈黙した神尾に、跡部は唇の端を引き上げた。
「お前、パスポートは」
「持ってない」
「そうか。なら、早めに取っておけ」
 からかうでもなく、至って普通に跡部はそう言った。
 何と言っていいか判らず、結局神尾は曖昧に頷くしかなかった。
「…そういえばパスポートって、昔は本人の身長書いてあったって、今日英語の時間に聞いたんだけど、それってマジなんかな?」
「らしいな」
「身長って伸びるじゃん。意味なくない?」
「お前はそろそろそんな心配いらなくなりそうじゃねえの」
「そんなわけあるか…! 俺はこれから伸びんだよっ」
「へえ。そりゃすげえな」
「……っ…思いっきり馬鹿にしてるだろ、跡部」
 結局はいつもこんな感じなのだ。
 喧嘩じみた言い合いで、会話して、怒って、笑う。
 どちらかといえば神尾があれこれ好きな事を喋って。
 それを受けて跡部がなんだかんだと言い返す。
 一緒にいる時間はあっという間すぎて、いつもと同じ調子の会話すら、単調に思える事はない。
 あそこの曲がり角で別れないといけないな、と思って、すこしもの寂しく思いつつも、神尾はやっぱり他愛のない話をし続ける。
 たぶん、デートとか、そういうのには、まだ形を成していないような時間なんだろうけれど。
 神尾は、こうしている時間が、本当に、好きで。
 大事で。
「で、今日の英語の時間にさ、先生がランダムにカード配ったんだよ。裏返しで。それにいろんな職業が書いてあってさ、そのあと一斉にカード返して、隣の席の相手と、お互いの職業について、質問とかすんの」
「お前は何だったんだよ」
「俺? アナウンサー!」
「振り仮名ねえと漢字読めねえだろ、お前」
「むかつく!」
 何度も何度も繰り返す軽口。
 言い合いが当たり前みたいなのに、少しも嫌いになれない。
 あともう少し。
 あそこの、角で、今日はもうおしまい。
「前の時間、隣のクラスが同じ授業やってさ、深司のクラスなんだけど、深司の奴、コメディアンのカードだったんだって。それで深司、一時間ずーっとそれをぼやき続けたんだって」
「お前の話は、最後は必ずそいつの話で終わるよな」
「え。そう?」
「もしくは橘だ」
 不機嫌そうに眉根を寄せる跡部の顔を並んで歩きながら見やって、そうかなあ?と神尾は再び首を傾げた。
 そして、曲がり角だ。
「………………」
 夕焼け色の太陽がよく見える、見通しのいいこの場所までが、二人で歩ける、一緒にいられる道。
 足を止めて、でも。
 そのまま立ち止まってしまうと何だか歩き始めるのに踏ん切りが要る。
 じゃあな、と神尾はさっさと言って、それで別れるつもりだったのだが。
 いきなり。
「な、」
 腕を引かれて、極軽く。
 かすかに掠られた、唇。
「………………」
 神尾は目を見開いたまま絶句する。
 慌てたり、怒鳴ったり、出来ない。
 それは、そのキスのせいだった。
 本当に、ただ、これでもう今日は別れないといけないから、と。
 それを惜しむような短くて丁寧な、キスだったから。
 一瞬だったのに、何もかも跡部に持って行かれそうになる。
 神尾の手首から跡部の指が離れていく。
 丁寧に。
「………………」
 キスされて、離されて、帰りたくないな、と神尾は思った。
 別れを惜しむ事を跡部は隠さないから。
 跡部に惜しまれている自分が、ひどく不思議で、自分もそうなんだと改めて認識する。
「……跡部…」
「じゃあな」
 聞きたくない言葉を遮るのではなく。
 多分、最初に神尾がその言葉を口にしようと思ったのと同じ心境で、跡部も言ったのだろう。
 日暮れていく陰影の中でも尚華やかな、端正な表情に跡部がたたえているものは、もどかしげな寂寥感を覆う皮肉気な笑みだ。
 あっさりと背中を向けた跡部を、神尾は、ぼうっと見送った。
 手首が、熱い。
 唇が、寂しい。
 胸の内には熱が灯る。 
「………………」
 熱は募って、跡部へと向ける感情に、溶けていく。
 神尾はその後しばらく経って、まずは漸く赤くなってから、ぎくしゃくと、帰途についたのだった。
 大抵の事には免疫が出来ている。
 何せ同学年に跡部景吾がいるのだ。
 氷帝学園の中にあっても、多少のブルジョワでは動じなくなるくらいには、跡部という男の環境は規格外だ。
 しかし、そんな風に慣らされてはいても、宍戸にしてみれば鳳のブルジョワぶりも相当なものだった。
 押しの強いタイプではない鳳は、柔和で、目立つ行動をとるでもなく、それでいながら自然と何かを滲ませている。
 テニスをしている時は案外勝ち気でパワーもある。
 音楽が好きで、楽器は一通りこなせるらしく、調音などもよく頼まれている。
 目上に対してはもちろんのこと、女性への対応はずば抜けて丁寧で、このくらいの年齢の男性としては珍しい程のフェミニストだ。
 世界各国に足を運んだことのある跡部相手に、まったく同レベルの会話を交わすことが出来、知識量、読書量とも相当だった。
 いつも人好きのする笑みを浮かべていて、協調性に満ちている。
 それでいて一人で行動するのも好きなようで、一人では何も出来ないなんて事もない。
 多少メンタルが挫けがちだが、それは宍戸にしてみれば年下の可愛げ程度のものだった。
 むしろ、どうにかそんな弱さも克服していこうと鳳自ら努力をしているのだから、それが欠点になる訳もない。
 適度に甘さが残るのも、いっそひっくるめて長所になるだろうと宍戸は思っていた。
 鳳の世界はすでに広い。
 これからも広がっていくのだろう。
 いくらでも。
 そんな男が宍戸の手を取って、見下ろして、はにかむように甘く笑う。
「こんなに強くて綺麗なひと、初めてです」
「………………」
 何も、ものを知らない目なら良かった。
 それならば宍戸は呆れることが出来た。
 馬鹿な事を言っていると一笑することが出来た。
 でも、鳳は知らない訳ではない目でしっかりと宍戸を見つめて、心を尽くし、言葉を紡ぐ。
「……お前…さぁ」
 宍戸の言葉は歯切れが悪く立ち消える。
 鳳の右手が、宍戸の左手を包み込むようにしてくる。
 大きな手だ。
 骨ばって、温かい。
 その手を払う事なく、宍戸はただほんの少しの困惑で鳳に対峙する。
 最初に好きだと告げてきたのは鳳で、宍戸も同じ言葉も返したが、そうじゃなくて、と鳳は困った様に苦笑いした。
 ほんの数日前のことだ。
 宍戸はそれで改めて鳳の顔を見返して、ああ、と気づく事になった。
 裏表のない鳳の表情は判りやすかったのだ。
 含まれる恋愛感情まで、赤裸々で。
 だからそれを言われて宍戸が驚いたのは、まさか自分の持っている感情と同じものを、鳳もまた持っているとは思っていなかったからだ。
 宍戸には自虐癖はなかったし、己を卑下する事など特に嫌いだった。
 しかしこの時ばかりは考えた。
 何故自分なのかと。
 色々と知っている眼で、思考で、強いと、綺麗だと、好きだと鳳が言い切れる程の自分だろうかと考えた。
 そんな躊躇は鳳にも伝わったらしく、鳳は辛抱強く宍戸に判らせようと繰り返してくる。
 あれから毎日、ずっと。
「宍戸さんが好きです」
「………毎日毎日言うんじゃねえよ…」
「宍戸さんが、そんなの当然だっていうくらい、当たり前に受け止めてくれるまでは言いますよ。何度だって」 
 強気とは違う。
 でも、鳳のこういう揺らぎの無さは何なのだろう。
 当然だの当たり前だの思える訳がないだろうという言葉は、ぐっと飲み込んだ。
 宍戸は、ここ数日のこのやり取りに、自分ばかりが翻弄されているような気になって仕方がなかった。
「…長太郎」
「はい?」
 呼びかけるだけで嬉しそうに微笑む年下の男に宍戸が抱く感情は、かなり以前から宍戸の内部に存在している。
 鳳がするように、それを相手に判らせる為に、宍戸も何かをするべきなのかもしれなかったが、それはどうにも宍戸にはハードルが高すぎた。
 鳳はまるで躊躇わない。
「俺ね、宍戸さん」
「………………」
「頑張って、自分でどうにかするしかないっていう事は、すごく稀な事で、すごく大事な事だなあって思うんですよ」
 鳳の手に力が籠る。
 握られた手で熱を感じる。
「テニスも、宍戸さんも。だからね」
 好きで、ずっと、だから、すごくね。
 そんなバラバラの言葉は、ふわふわと宍戸に降ってくる。
「大事なんです」
「………テニスと同等に置けるような、そんないいもんじゃねえよ、俺は」
「宍戸さんって、奥ゆかしいですよね、そういうところ」
「……ッ…、…恐ろしいこと、さらっと言うんじゃねえ!」
 言われたこともないような言葉を真顔で告げられて、宍戸が怒鳴ると鳳は鮮やかに笑った。
「好きです。宍戸さん。おれ、頑張りますから」
「……………、…」
 宍戸が絶句するほどの、屈託のない笑顔で。
 鳳は微笑んだ。
 まずは判って貰う。
 それから好きにもなって貰いたい。
 鳳の、そんな堅実な要望に、宍戸は唖然となった。
 まずも何も。
 それからも何も。
 もう、好きだ。
 好きになど、とうに、なっている。
 けれどそれを告げようにも、告げられない程に、宍戸はくらくらと鳳の甘ったるい熱量に惑わされるばかりだった。
「大好きです」
 自分もそうだという言葉をやれないのは、全部全部お前のせいだと。
 八つ当たりじみた目で、年下の男を睨みつけるのが、今の宍戸にできる精一杯だった。
 息抜きの仕方が判らないなどと以前は真面目な顔をして言っていた男は今、すっかり気を許した体で、海堂の傍ら、惰眠を貪っている。
 長身をどうにかして丸めたような体勢で床に寝ている乾の腕は、腰を抱き込みたそうに海堂の腿の上にある。
 額は海堂の脇腹辺りに押し当てて、べったりとまではいかないが、要するに海堂にくっつけるだけくっついて乾は眠っていた。
「………………」
 かけたままでいる眼鏡が僅かにずれている。
 それをどうしようかと海堂は先程からずっと悩んでいた。
 外してやった方がいいのだろうけれど。
 そうしたら乾が目を覚ましそうな気がしたから出来ずに悩む。
 部屋の主が眠ってしまっている室内はとても静かだった。
 時折パソコンのハードから微かなモーター音だけが聞こえてくる。
 相も変わらず事細かなデータを纏めることに乾が没頭するのはいつものことで。
 乾の部屋で、個々に過ごす事も今や日常に近い。
 そうやって二人で過ごす時間が増えてきた当初には幾度か、海堂の方から見るに見かねて乾に休憩を提案した事もあった。
 その時の乾の返答が、息抜きの仕方が判らないという件の言葉だった。
 データを追っているようで、時々データに追われているようにも見える乾は大真面目にそんな事を海堂に言うので、海堂は正直返答に困ってしまった。
 息抜きの仕方など、普通は説明するような事ではない筈だ。
 そもそも乾相手に、理詰めで何かを説明するという気にも到底なれず、海堂はただ困った。
 しかしそんな海堂の困惑に、むしろ乾は、おや、と思ったようだった。
 難しく黙り込む海堂をまじまじと見つめて、ふと、気を許した柔らかい笑みを唇に浮かべた。
『海堂が、手伝ってくれる?』
 それは心底から海堂に頼りきったような、ふんわりとした声での提案だった。
 低い声に丁寧に乞われる。
 海堂はますます返事に困ったのだが、乾は乾で勝手に方法を見出したようだった。
 いわく、海堂に構って貰おうと思ったら、データ収集の中断も出来るようになった、と言うのだ。
 中断がこれまでなかなか出来なかったらしい男は、それ以降徐々に、彼の方から海堂の傍らに寄ってくるようになった。
 何となくくっついて、他愛もないことを喋ったりする。
 そのうち、海堂の傍らで乾は眠るようになった。
「………………」
 こんなことが、一人でいると出来ないのだと言う乾の言葉を、そのまま信じていいのかは海堂には判らなかったけれど。
 今こうして安心しきって寝入る様を見ていると、本当でも本当でなくても、どちらだっていいと思えた。
 甘えられているのともまた違う。
 強いて言うのなら、安心、だろう。
 乾は海堂の傍で、息抜きが出来る。
 安心が、出来る。
 それを言葉ではない方法で海堂に告げてくる。 
 海堂が乾に向ける信頼と同じやり方でだ。
 海堂は、傍らに眠る乾をじっと見下ろしながら、互いと互いの間の距離がなくなる、こんな瞬間を、また感じ取る。
 時折覚える感情は錯覚かもしれない。
 けれど実際に、距離はなくなるのだ。
 まるで同じになる、そんな感覚。
 海堂は乾の睡魔をそのまま移されたように、唐突に眠くなり、欠伸を噛んだ。
 睡魔を海堂に流し込んだかのように、乾が目を開ける。
 海堂はすでに目を閉ざしていた。
 流れて、移って、ほんの少し揺れて。
 そして静かに凪いでいく。
 どちらから伸ばしたのかと判らないお互いの手と手が合わせられて、指が浅く絡む。
 重ねた手のひらが、互いを繋げる。
 意識を手放す睡魔も、透き通るような沈黙も、純度の高い混じりけのない安寧感が育んだ。
 ほかの誰かからとは決して生まれない、そんな空気が、いっぱいに恋情を含有している事は、どちらもとうに判っている事。
 それを、どちらも未だに言葉にしていないのは、寧ろ言葉よりももっと明確に、惜しみなく、日々、手にしているからだ。
 言葉にしない、ただそれだけで。
 それはつまり秘密になるのだろうか。
 公然とそこにありつつも、眩しいように透明に煌く純度の高さで。
 彼らの秘密は誰も知られないまま、明確に、そこにある。
 確か赤澤の父親はホテルマンだった筈だ。
 ふとそれに思い当たって、観月は聞いた。
「赤澤、貴方、父親似でしょう?」
 肩先を越えたる髪をゴムで括っていた赤澤は、観月に目線を寄越してきて。
「何で知ってるんだ?」
 屈託のない顔で笑った。
 職業のイメージという訳ではないが、相手に気づかせない気遣いを極普通にしてみせるという点で、観月はそんな事を思い、赤澤に尋ねていた。
 常々口では大雑把だと言ってはいるものの、どちらかと言えばプライベート空間に他人がいることを好まない観月が、赤澤とこうして二人でいる事には慣れてきているのだから。
 多分何でもない素振りでいる赤澤が、実の所あれこれと気を回しているのではないだろうかと考えたのだ。
「何でも遺伝子のレベルを越えてるらしいぜ。外も中もそっくりなんだってさ。まあ、自分でも確かに親父似だとは思うけどな」
 観月はどっち似だ?と聞きながら、赤澤は観月を後ろから抱き寄せてきた。
 ルドルフの寮内、観月の部屋で人目はないものの。
 膝を立てて座り込んでいる赤澤と自分の背中がぴったりくっついて。
 観月は中途半端に身体を身じろがせた。
 逃げるにしては弱すぎた抵抗は、かえって赤澤の腕の中に、すっぽり身体を預けてしまうような体勢になってしまう。
「ちょっと、」
「どっち似?」
 耳元のすぐ近くで、率直な疑問を放たれる。
 赤澤の声は、普段はどちらかというと荒っぽい。
 しかし笑みを含むととろりと優しくなる。
 しっかりとした筋肉の利き腕が、観月の身体の前を通って左肩を包み、尚互いの距離を近づけさせる。
 どうしようもないような密着ぶりだ。
 正面から顔をつきあわせていないだけまだマシだったが、観月はちょっと居たたまれなかった。
 こうまでべったりと人との距離が近い事なんて、観月は赤澤で初めて知ったので。 
「母親、ですけど」
 ぎこちなく言った返事に、赤澤がまた邪気なく笑い、そのくせ真面目にこうも言う。
「そりゃ最高に美人なお袋さんだな」
「貴方ねえ、…」
 あまりに真っ当に、真顔で言われると対応に困るのだ。
 観月が呆れて言葉を途切れさせると、赤澤は観月を背後からしっかりと抱き込みながら振動だけでまた新たな笑みを伝えてくる。
「あのな? 観月」
「…何ですか」
「観月が自分で自覚してる、その数倍は実際綺麗だぞ? お前」
「………………」
 赤澤は何かにつけ観月にその言葉を寄越すので。
 軽くかわすなり慣れてしまえばいいものを、どうしても観月は赤澤からのその言葉には戸惑ってしまう。
 赤澤以外の相手からそう言われるのなら、当たり前でしょうと軽く言い返す事くらい出来るのに。
 赤澤だと駄目だった。
 多分その理由は、もう観月も判っている。
 ふと考え込んだ観月の沈黙をよんで、赤澤が観月を軽く腕の中で揺さぶってくる。
「何だよ?」
「別に…」
「何?」
 ん?と観月の肩口に、赤澤が顔を横向きに預けるようにして、観月の表情をのぞき込んでくる。
 甘ったれた仕草のようで、結局は観月の一蹴などでは全く狼狽えない赤澤の剛胆さを表してもいる。
 なつきながらも引く事はしない赤澤の促しに、観月は渋々口を開いた。
 あまり言いたくない。
 言ってしまえば、それは単に拗ねているだけのようだと、言う前から判るからだ。
「…綺麗ならば何でもいいっていうくらい、好きなように聞こえますよ」
「何が?」
 綺麗な人が、だ。
 黙り込んで答えにした観月に、赤澤は真面目な顔で観月を見やりながら、おもむろに眉を顰めた。
 怒っていると言うよりも、不本意を露わにする表情だ。
「俺は、綺麗だったから、観月に惚れた訳じゃないんだが」
「……は?」
 思わず観月も少し背後を振り返るようにして赤澤を見た。
 しかし、がっしりとした腕に抱き寄せられているから、それも侭ならず、観月は窮屈な体勢になる。
 その分お互いの距離はまた密着して。
「違うんですか」
 赤澤は何度もそれを言う。
 だいたい他に理由なんかないだろうと観月は思っていたので、心底驚いた。
 そんな観月に赤澤は溜息をついて、観月の額の少し上辺りの髪を、長い指で軽く乱してきた。
「違うって。惚れた観月が、綺麗だったんだよ」
 後付けなのだと赤澤は言う。
 観月はますます呆気にとられた。
 四六時中、綺麗だ綺麗だと口にするので、赤澤が自分に拘った理由はそこなのだろうとばかり思っていた。
「貴方、それじゃ、いったい僕の何が気に入ったんです…」
 真顔で口にした観月に、赤澤は益々唖然とした後、おいおいと弱ったような笑みを唇に浮かべた。
「色々あるだろうが、色々」
「僕にですか」
「そうだよ。何でそんな驚くんだ」
 大きな手のひらを観月の額に当てて、赤澤はゆっくりと抱き寄せてきて。
 観月はふわりと高い体温に包まれる。
「お前なら、信頼出来るってのが、まず最初」
「………赤澤、貴方ちょっとおかしいですよ。それ」
 観月は本気で眉を寄せて呟いた。
 自分がすることは命令で、それは信頼とは結びつかない。
「何がだよ」
「信頼って……何で僕を」
「するだろ、信頼」
 本当に、ただ当たり前のように赤澤は言う。
 ますます観月が面食らい混乱していると、至近距離にいるのに、おーい、と呼びかけながら赤澤は観月を強く抱き込んだ。
「お前だぞ? 当たり前だろうが」
「………だから、…それが判らないんですけど」 
「何でだ? お前だから、俺は…っつーか、俺たちは、今こうしてると思うが?」
 卑怯な手は使わない。
 使う必要がない。
 でも、それに近いような事を、命じたり、取り組ませてきたと、観月は思っている。
 テニスで勝つ為、聖ルドルフというチームを作る為。
 別に悔やんでいるわけではなかったが、そういう自分がチームメイトから信頼されていると聞くのはどうにも居心地が悪かった。
 複雑に押し黙る観月に何を感じたのか、赤澤が、それを解くように笑いかけてくる。
「俺達はみんな、好きでお前の言うこと聞いてるの、判ってるよな?」
 強制されてじゃないんだが?とからかうような声で赤澤は囁いてくる。
「どんだけスパルタなメニューでも、呆れるような強引な指示でも、それでいいと思えばやる。その時はすぐに理解出来なくても、お前の言うことは後々に充分に効力を噛みしめさせられるんだって事は学習してる。だから、まずはやるんだ」
 お前だからっていう信頼は、そういう事だと赤澤は落ち着いた口調で観月に告げて、尚きつく観月を抱き締める。
 苦しい筈なのに、観月は赤澤の腕の中に収まって、力が抜ける。
 だが、ただおとなしくしているのは気恥ずかしい面もあって、返す言葉は虚勢を張ってしまうけれど。
「……よく考えれば、貴方達、僕の言う事を素直に聞く方が少ないですね」
「そうかー?」
「そうですよ」
「観月ー」
「何ですか」
 肩越しに振り返り、きつく言い返した観月の唇に、赤澤の唇が重ねられる。
「……ッ…、」
 何で、この流れで、このタイミングで、キスなんだと、観月は赤くなって怒った。
「赤澤、…貴方ね…!」
「んー、完璧惚れ込んだ相手が、こうまで綺麗だっていうんだから、すげえよなあ」
 言葉を全く惜しまない赤澤に、観月は何だかくらくらしてきた。
 これだけ四六時中、綺麗だ綺麗だ言いながら、実は顔には後から気づいたという赤澤の言い分を叱りつけているうちに、観月も自分の言っている事の意味が次第に判らなくなってくる。
「一目惚れくらい普通にしなさいよ!」
 極めつけにこんな言葉を放った観月に、動じない赤澤は暢気に笑った。
「あ、それは普通に毎回してる」
「…は?」
「今もしてる」
 実際、ただ怒鳴っているだけの観月を、赤澤は甘い甘い目で見据えてきている。
 さながら、一目惚れの目だ。
 だからそれが口先だけの言い逃れでないことは観月にも充分伝わっているのだが。
「一目惚れは、後から繰り返すものじゃありません…!」
「そんなの誰が決めたんだよ?」
「常識でしょうが常識!」
「じゃ、俺は常識外って事で」
 喧嘩のようにじゃれあって、抱きしめられながら暴れて。
 キスの合間に言い合い。
 怒って笑って呆れて絡んで。
 何なのだ。
 赤澤といると、めちゃくちゃだ、と観月は思う。
「………また、そういう顔まで見せる」
 いつの間にか床に組み敷かれるような体勢になっていて。
 観月が赤澤を睨みつけると、赤澤は何故か何かの勝ち負けに負けたような調子で囁いて、軽く観月の唇をキスで塞いだ。
「……何かご不満ですか」
 離れた唇の合間で観月が言えば。
「いや、これっぽっちも」
「その割には、不服そうな顔をしていますが?」
「キスしてる時は、その顔ちゃんと見られないからどうしたもんかなーと思ってるだけだ」
 薄い微笑と一緒に、真剣にそんな言葉を返されて観月はますます憤慨する。
「……っ…、しなきゃいいでしょう、だったら!」
「いや、したい」
「、した…、……じゃ、見るな!」
「いや、見たい」
「……馬鹿澤っ」
「どうしたらいい?」
「知るかっ」
 自分達はいったい何を言い争っているのかと、怒りか呆れか判らないまま、頭が痛いと観月が思っていると。
 赤澤の唇が喉元に落ちてきて、観月は思わず結わえられている赤澤の髪を引っ張った。
「何してるんですか」
「うん」
「うん、って何ですか!」
 また新しくしたいことがだな、と赤澤は呟きながら、観月の首筋に唇を寄せる。
 全く落ち着きのない。
 そう思いながら、観月の心臓も落ち着きなく荒れる。
 怒りすぎて疲れた、と自分に言い訳と大義名分を与えて。
 観月は身体の力を抜いた。
 赤澤が床と観月の背中の間に手を入れてきて、寝たまま抱き寄せてくる。
 絡みつかせる腕と腕。
 密着する身体と身体。
 賑やかな言い争いはふいに止んで。
 お互いを抱きしめ合う為の静寂は、ほんの少しもこの場に不自然ではなかった。
 言葉もなく、体感するのは。
 好きになる瞬間を繰り返す。
 こういう日常の、よくある一欠片だった。
 跡部は色々普通じゃない。
 常日頃神尾が思っている事は、多分結構な人数に同意して貰える筈だと確信出来る。
 跡部は色々普通じゃない。
「神尾」
 オートロックを開けて貰って、更にその高層マンションの最上階にある跡部の部屋まで直行で向かう専用エレベーターに暗証番号を入力して上がってきた。
 跡部の部屋も普通じゃない。
 そんな部屋に入るなり、跡部が放った自分の名前、その威圧的な物言いはいつもの事で、別段不思議ではなかったのだが、そこに続く言葉は。
「お前、俺とするの嫌か」
「………は…?」
 普通じゃない。
 おかしいだろう。
 だって顔を合わせたら、まずは最初は挨拶みたいな言葉を交わすものではないのだろうか。
 神尾に背を向ける位置でパソコンに向かっていた跡部が、そこで漸く肩越しに神尾を振り返ってくる。
 神尾は身動きひとつとれなくなる。
 跡部の、怜悧な流し目と、全く感情の読めない顔。
 跡部に言われた言葉を、神尾は唖然と、ただただ脳裏で繰り返す。
 ようやく唇が僅かに動いた。
「する…?」
「………………」
「………いや…って、なにが…?」
 即座に、呆れ果てたような盛大な溜息を吐きだしたのは跡部だ。
 そんな溜息なんか自分こそ吐き出したい。
 神尾は些か憮然となったが、跡部は一層の無表情で神尾の前に立った。
 物音ひとつ立てないで、いきなり神尾の目の前に跡部は立っている。
「………………」
 普通じゃない。
 綺麗な顔。
 それは神尾も認める。
 ただ整い方に迫力がありすぎて、見惚れたりはしない。
 見惚れたりなど出来ない、と言った方が正しいかもしれない。
 跡部は、そんな隙のない美形だ。
 きつい目も、長い睫毛も、滑らかな肌も、唇の澄んだ色も、何もかも普通じゃない。
「………なん、だよう」
 本当はもう、だいたい神尾にも跡部に聞かれている事の意味は判っていたのだけれど。
 目の前の跡部の佇まいの迫力に、腰が引けるというか、決して脅えている訳ではないが、つい気持ちが怯んでしまう。
 それで気弱な問いかけをしたのだが、容赦のない男は、そんな神尾を目線だけで見下ろして。
「お前は、俺とセックスするのが嫌かって聞いて」
「っ、ぅわぁっ、ばかっ、ばか跡部っ」
 普通じゃねえっ、と神尾は今日最大の気持ちの強さで思って喚いた。
 何でそういうことを聞いてくるのだ。
 真っ向から。
 神尾は赤くなっていいのか青くなっていいのか判らなかった。
 判らなかったので取りあえず跡部の言葉をかき消す勢いで叫んだ。
 咄嗟に自分の両耳を手で塞いだ神尾に、跡部は眉根を顰めている。
 神尾はわめいた後から恥ずかしさがますます増してきて、じわじわと頬に侵食してくる熱の気配に限界を悟る。
 駄目だこういうのは、本当に、と神尾は赤い顔で思った。
 何回か、した。
 跡部と。
 数えてる訳ではないけれど、実際忘れようもないので、今のところ三回、している。
 それは別に無理やりとかではないし、興味本位ということでもないし、ちゃんと、神尾は跡部が好きで、している。
 殆どされているといった感じだが、でもともかく、あれは一人では出来ない事だから、跡部と神尾の二人で望んでしていることだ。
 何で三度もしている状態で、今になってそんな事を聞いてくるのだ、この男は、と神尾は赤い顔で跡部を見上げた。
 羞恥は一向に薄れなかったが、恥ずかしさから生まれた怒りにまかせて罵声の一つでも浴びせてやろうと思った神尾に、跡部は表情ひとつ変えずに両手を伸ばしてきた。
「からかってねえだろ。真面目に聞いてんだよ」
 静かな言い方だった。
 低い声。
 答えろよと、跡部の両手は神尾の両頬を包んで。
 思いっきり正面から向き合わされる。
「………………」
 うわあ、と神尾はその場に座り込みそうになった。
 こういう時に限って。跡部は神尾の赤い顔をからかうような言葉は一切口にしてこない。
 意地悪く笑ったりもしない。
 物凄く真剣みたいに、神尾を見据えて、その返答を待つだけなのだ。
 ほんの少しも甘い所のない目に食い入るように見下ろされて、何なんだこいつとエンドレスに頭の中で繰り返しながら、神尾は負けた
 あっさり負けた。
 結局返事をしたのだ。
「……やじゃ、ない」
 跡部の表情は少し動いた。
 完璧な無表情に近かったのが、瞳の力が強くなり、声音がほんのり和らいだ。
「嫌じゃないんだな?」
 言質を取るような物言いもどこか耳に柔らかい。
 神尾はおずおずと頷いた。
「…ない」
 何でいきなりこんな事を聞かれて、答えさせられているのだろうかと神尾が固まる間、まじまじと神尾を凝視した跡部は、それならちょっと来いと徐に神尾の腕を引いた。
「跡部?」
「判った。それなら、お前、ああいう顔するな」
「ああいうって……何の話…」
「俺が抱いてる時のお前のツラの話だよ」
「……っ…」
 何でそんなの見てんだようっ、と。
 今更かもしれないし、はっきり言ってどうしようもない事かもしれない事を、神尾は今、心底責めたくなった。
 腕を引かれて、跡部の背中を見て、連れて行かれる先が跡部の寝室だと判るから余計に身体が強張って、足がもつれそうになる。
「………跡部…」
 心細く口にした名前は小さかったのに。
 跡部は神尾を肩越しに振り返った。
 そうして囁くように言ったのだ。
 笑ってろ、と。
 笑った顔で。
 神尾は目を瞠る。
 告げられた言葉にも、見せつけられた表情にも。
「……………なん…で…」
「可愛いから」
 真顔で。
 真剣に。
 跡部が言う。
 そんなのおかしい。
 普通じゃない。
 神尾はそう思うのに、跡部は穏やかにひとりごちて。
 神尾を見つめて、長い睫を伏せるように思案しながら呟いた。
「なんでだろうな。どうしてか俺様の目にはそう見える」
 小さな声で言葉を紡ぎながら、あまりにも自然な所作で跡部は神尾の腰を抱き寄せた。
 跡部の腕に巻き込まれ、引き寄せられ、唇を、跡部からのキスで塞がれる。
 ふわりと、あまい接触だった。
 自然と目を閉じてしまうようなすごく優しいキスで、神尾は閉ざした視界の中で跡部の声だけを追う。
「お前が嫌じゃないなら俺はびびらなくて済むから」
「………………」
 不思議な言葉が聞こえた気がして、神尾が目を開けると跡部に唇を塞ぎ直された。
 ぎこちなく数回瞬いてから、神尾は再度目を閉じた。
 へんなの、と思って。
 胸が甘苦しい。
 塞がれた唇のせいだけではなくて。
 甘苦しい。
 でもそれは。
 跡部と、これまで三回したこと。
 それが、これまで以上に、とても大事な事に思えてくるから感じる出来事だと、神尾は誰に教えられるでもなく理解した。
「笑え」
 唇が重ねられる前に、吐息に撫でられるように跡部に命じられて。
 あんな時に笑える訳がないだろうと神尾は思ったのに。
 キスをした後の今は。
 何故か今は。
「………笑える訳、ないじゃん」
 笑うのだ。
 神尾は跡部の腕の中、キスを受けて、笑う。
 本当に胸の奥から滲んでくるみたいに、ゆっくりと微笑んで。
「…………緊張くらいさせろー」
 笑いながら、そんな風に文句を言った神尾に、生意気言うんじゃねえと凄んだ跡部も唇の端を引き上げる。
 お互いが同じ思いで、重ねる唇と唇。
 普通じゃない。
 普通じゃないくらい、特別だ。
 なまじ身長が高いので、鳳が人を見る時の角度というのはいつも上から相手を見下ろすようになってしまう。
 相手の目などは、正面から見るというよりも、大抵は伏し目がちになって見えている事が殆どだ。
 大概の相手への、見慣れた角度。
 けれど、そんな伏せた目元の印象に、胸の中がざわつくような、ひどくおかしな気分になる事は、鳳にしてみたらその相手限定なのだ。
 落ち着かない。
 けれどそれは馴染めないという事ではなく、むしろ目が離せない。
 一時も離れていたくないと思える。
 ざわざわと鎮まらない胸の内に、ひたひたと満ちる感情はいつも揺らされて、でも胸に詰まるその感情の甘さがなくなってしまったら、何だかもう、自分ではないような気がしている。
「長太郎?」
「………………」
 睫の先までよく見える至近距離から目線を上げてきた宍戸の呼びかけに、鳳はふと息が止まるようなその一連の仕草を全て見届けてから、小さく返す。
「はい」
「何だよ。ぼーっとして」
「…宍戸さんだなあ…って…」
「はあ?」
 あからさまに呆れかえった声と眼差しとを宍戸から向けられて、すみません、と鳳は少しだけ笑った。
 でもそれと同時に、だめだ、とも思って問いかける。
「宍戸さん。抱き締めてもいい?」
「……お前なあ…人が」
「ちょっとだけ」
「真面目に話をしてる時に」
「…ほら、抱きしめても、ちゃんと聞ける」
「……じゃあ好きにしろよ…」
 許可を取り付けるより先に、鳳が宍戸の背後からその身体を抱き込んでしまうと。
 宍戸は溜息をついて、でもちゃんと同意もくれた。
 腕の中に後ろ側から収まってくれた宍戸に、部室でこんな風に話をすること自体随分と久しぶりだと鳳は思った。
 見下ろすうなじにかかる襟足が伸びた。
 宍戸達三年生が部を引退してしまってからかなりの時間が経ってしまったような気がしていたが、こうして実際に宍戸がいる所を目の当たりにすると違和感どころか普通に気持ちが馴染んでいく。
「だからこれが若からの預かり物」
「……いいなあ…日吉」
「お前さあ、この格好で言うことかよ」
「んー…」
 部活を終えた後、部室に最後まで残ることになるのは、大抵日吉か鳳のどちらかだった。
 今日は先に帰っていった日吉が、再度部室に持ってこようとしていた何枚かのプリントを宍戸が預かって持ってきたのだ。
「顔合わせるなり、これ部室に持っていって下さいだぜ? あいつ」
 悪態をつくような口振りだったが宍戸は笑っていた。
「ま、お前がいたからだろうけどよ」
「そこは感謝してます。でも日吉って、自分の事は何でも自分でするから、そういう風に誰かに物を頼むとか普段しないんですよ。そういう面で、宍戸さんには気をゆるしてるんだなあって思うと俺は複雑な気持ちなんで………って、あの、宍戸さん俺の話聞いてます?」
 鳳が、ぐいっと宍戸の腹部を抱き込むようにして真上から見下ろすと、判りやすく小さく欠伸した宍戸は、お前だってさっき俺の話聞いてなかったろ、と言いながらゆっくりと鳳の胸元に背を凭れかけさせてきた。
「気持ちいい」
「………はあ、」
 和んだやわらかい声に鳳は言葉を詰まらせる。
 無防備に懐かれてしまって逆に鳳は固まった。
 表情はちゃんと見えないのに、何だか可愛くて可愛くてどうにかなりそうな自分を自覚して、取りあえず落ち着こうと気持ちを静める鳳をよそに、宍戸は立ったまま鳳に寄りかかっている。
「……座りますか…? 宍戸さん」
「そうすっと帰るの面倒になりそうだなー…」
「じゃあ俺のうち来ませんか」
「んー……」
 あまりいい返事ではなかったので、それは嫌なのかな?と鳳が伺い見た宍戸は。
 宍戸の身体の正面を回ってその右肩を手にくるんでいた鳳の左腕に、ぎゅっと自身の右手をかけて、僅かに首を左側に傾ける。
「後もうちょいベタベタしてからにする」
 ベタベタって。
 うわあ、と。
 鳳は思わず空を仰いでから、片側に倒れてすんなりと露わになった宍戸の右の首筋に顔を埋めた。
「お前も懐いてくるし。いいよな?」
 宍戸が笑う振動に、ああもうなんでもいいですと呻くように返しながら、鳳ももう手加減なしに、遠慮もなしに、暫しはこうしてベタベタする事に没頭する事にしたのだった。
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