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How did you feel at your first kiss?
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 うっすらと日が翳って、長い時間明るい夏の教会の中にも、影が生まれ始める。
 観月がふと手を止めて顔を上げたタイミングを見計らっていたかのように声がかかる。
「観月? 何してんだ?」
「………赤澤」
 教会の扉が開いていて、逆光に長身のシルエットが浮かび上がる。
 唐突に現れた赤澤に然して驚きもしない観月の元へ、彼は長い足で大股に歩み寄ってきた。
「何してんの。これ」
 ひょいと気安く観月の肩越しに顔を近づけてくる。
 観月の手元を覗き込むようにしてくる赤澤は、肩を越す長さの髪をゆるくゴムで括っていた。
「キャンドルの手入れです」
「手入れ? そんなのしてんのかよ」
 いつも?と間近から赤澤に見つめられ、観月は微かに眉根を寄せる。
 別に怒った訳ではない。
 赤澤相手だとどうしても時々こうなるだけだ。
 例えば近すぎるような距離だとか、真っ直ぐすぎる眼差しだとか、自分の名前を口にする時の声だとか。
 身構えるようになってしまうのは決して赤澤に対して怯んだりしているわけではなく、惑わされそうな自分自身への戒め故だ。
 そして赤澤は、観月のそういう心情を正しく判っているようだった。
 だから観月が赤澤と少し距離をとったり、眉を寄せたり、牽制するような態度を滲ませても、別段怒りもしないしからかいもしないし落ち込んだりもしない。
 今も、ん?と答えを促すように見つめてくるだけだ。
「……綺麗に燃えた方がいいでしょう」
「お前、ここ好きだもんな」
 あっさりと明るい笑顔を見せて、赤澤は観月の手元を甘く見下ろした。
「手入れって何するんだ?」
 観月は真新しいキャンドルに火をつけて見せる。
「初めて点火する時はこうして……溶けたロウがキャンドルにたまって、表面に均一に行き渡るまで燃やしておくんです。こうしておくと、次に火をつけた時に芯を中心にして、均等にロウが溶けるので芯が沈まないんですよ」
「へえ」
「芯が埋もれてしまっているものは、ロウを切り取ってやって。キャンドルの中心に芯が正しく入っていないものは、萌え方がムラになるのでスプーンの柄で修正を」
 話の途中で観月の手が赤澤の手に取られる。
 何ですかと問うより先、観月の手は赤澤の口元に運ばれていて。
 手の甲に唇を寄せられていた。
「………………」
 観月は絶句して固まった。
 唇が離れる時に微かに淡い音がする。
 赤澤は観月の手を取ったまま、ちらりと上目に視線を向けてきた。
「すごい手だと思ってさ」
「な、……」
 優しい、と低い甘い声は言いながら、再び観月の甲にキスをする。
 うやうやしさというよりは、愛おしさを訴えてくるようなかすかな接触と、赤澤の伏せた目元の印象とに観月はどっと赤くなってうろたえた。
「なに、…おかしなこと言って、…」
 手を奪い返して、胸元のシャツを掴む。
 震え出しそうで。もう片方の手でその手を覆った。
「おかしかねえよ、観月」
「………………」
「お前、その手があったら、俺なんか簡単にお前の思うままだぜ?」
 屈託なく笑う笑顔と、じっと観月を見据えてくる眼差しの深さに、言われた言葉の意味も考えあぐねてしまう。
 絶対的自信のある思考が、赤澤相手ではまるで機能しなくなる。
 だいたい思うがままになるような男でもあるまいにと観月は赤澤を睨んだ。
 赤い目元ではたいして鋭くもならない視線に違いなかったけれど。
「……疑ってるだろ、お前」
「当たり前でしょう、そんなこと、」
「あるわけない、なんて事はないんだぜ。生憎な」
 さわってみろよ、と赤澤は言った。
 いきなり何を言い出すのかと観月が唖然としていると、試してみな、とまた赤澤が笑って言う。
「お前の手が出来ること、その目で見てみな」
 軽く腕組みして、赤澤は観月を柔らかく見下ろしてくる。
 試せと言われても何をどうすればいいのかまるで判らない。
 観月は胸元にある自身の手を見下ろした。
 大きくもなく、小さくもなく。
 特別な力が宿っているとは思い難い、ただの手だ。
 今はおそらく蝋の香りが多少染み込んでいるであろう指先。
 この手で、赤澤に、何が出来るというのか。
「………………」
 教会の中は落ち着く。
 その場所で自分の心情を乱す赤澤に困惑したまま、観月はぎこちなく手を伸ばした。
 自分が触れる事で、赤澤に何かが出来るとか、ましてや意のままに出来るとか、信じた訳ではない。
 ただ観月は、じっと観月を待っている赤澤に、手を伸ばしたくなっただけだ。
「………………」
 日に焼けた顔の、かたい頬に指先が当たる。
 赤澤が微かに瞬きするように目を伏せた。
 頬を滑るようにして目元に近づけていく。
 手のひらに頬を包むように密着させる。
 あたたかい。
 手の甲から手首にかけて、赤澤の後れ毛が触れ、肌と同じように日に焼けている髪のかわいた感触が擽ったかった。
 赤澤の片頬をそっと支えるようにしている観月の手のひらに僅かに重みがかかる。
 目をあけた赤澤が、笑みにその目をゆるく細めて、気持ち良さそうに観月を見据えてきた。
 自分の手が触れているだけで、確かに、赤澤の表情はあまく和らいでいて、そんな赤澤の顔を見ているだけで、観月もどうにかなりそうになる。
「判っただろ?」
「………………」
「お前の手があれば、俺なんかお前の思うままだろ」
 納得した訳ではなかったが、観月は黙ったまま手を滑らせた。
 赤澤の頬からこめかみに指先を沈ませ、髪を撫でる。
 前髪に触れ、指先で手すさびし、するりと撫で下ろして髪を括っているゴムを解く。
 長い髪が肩先に散らばる。
 先程赤澤に、手の甲にされた事と同じ事を、観月は毛先を指にすくって、した。
 ほんの少し爪先立って、手にした髪の先に唇を寄せると、赤澤の長い腕が強く観月の背中を抱きこんでくる。
「ちょ、……っ……ここがどこか判ってるんですか…、」
 明らかに貪欲に奪われそうになる唇を寸での所で食い止める。
 赤澤の口元を覆った観月の手のひらの窪みに、笑みの形になった赤澤の唇が当たる。
 ほら見ろ、とくぐもった声がして。
 同時にそこにキスをされて観月は慌てて手を引いた。
「俺を煽るのも、その気にさせるのも、それ食い止めるのも、全部思いのままだろ」
 赤澤は両手で観月の腰を引き寄せて、しかし観月が止めたせいか唇へのキスはせずにいる。
「………………」
 観月はもう、本当に、盛大な溜息を吐き出して。
 赤澤はいつも、全ての主導権は観月にあるように振舞うけれど、結局そう見せている部分が多々あるのだと判っているから。
 せめて、表面上の体裁は保ってくれているらしい男に、あまえるような、腹のたつような複雑な気持ちで。
 観月は全てを意のままに出来ると赤澤の言う己の手を持ち上た。
 その手をどう使えばキスをさせる事が出来るのか。
 考えたのは一瞬。
 深いキスはその一瞬の後にすぐに唇にやってきた。
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 神尾が落ち着かない。
 何か言いたいのだという事は、跡部にはすぐに判ったけれど面白いから放っておいた。
「な、…跡部」
「あ?」
「……なあ」
「何だよ」
 わざと億劫そうに振り返って見てやると、それまで跡部の自室のソファに寄りかかるようにして床に座っていた神尾が居ずまいを正した。
 自分の部屋で正座をする神尾、というものを跡部は初めて見た。
「ちょっと聞きたい、んだけど」
「だから何だ」
 さっさと言え、と素っ気無く促すと。
 神尾は腿の上に乗せた手を、ぎゅっと握りこんだ。
「前から聞こう聞こうって思ってたんだけど」
 跡部はもう先を促すのにも飽きて、革張りのデスクチェアに寄りかかったまま、くるりとチェアを回転させ神尾と向き合った。
 足を組み、腕を組み、尊台に眺め下ろしやると。
 神尾は不審さに戸惑うような上目遣いで跡部を見返してきた。
「何で、跡部は、橘さんを、敵視、するんだよう」
「………てめえ」
 一言一言、何もそんなに強調して言う事があるのだろうか。
 跡部は不機嫌極まりなく神尾を睨みつけた。
 そもそも、そんなの、何でも何もない。
 そんな馬鹿な事を聞いてくるのはお前だけだと嘲りめいて神尾を見下ろすと、神尾は怯むどころか深々と溜息を吐き出した。
「も、俺、頭痛い」
「………………」
「深司も跡部みたく跡部のこと敵視してるし…」
「ああ?」
 跡部にとって余計な名前がまた出てきた。
 順番をつける気にもならない。
 その二人の名前は跡部にとって最大の鬼門だ。
 神尾の言葉遣いは時々おかしいが、跡部の頭では正しくそれも読み取ってしまう。
 跡部が伊武を気に入らないように、伊武も跡部が気に入らないのだ。
 理由は同じだろう。
「神尾。お前判ってんじゃねえのか? 伊武が何で俺をそこまで嫌うか」
「え?……や、別に深司、そんなに跡部のこと嫌いなわけじゃね…よ?」
「ここであいつの肩持つな。……ったく、つくづく腹たつ野郎だな、お前は」
 跡部は不機嫌極まりなく神尾を見下ろして。
「あいつは気に食わないんだろうよ。俺がお前を俺のもんにしたからな」
「な……なな……なに言ってんだよ跡部っ…」
 何を今更そこまで盛大に慌てる必要があるのか。
 跡部には理解しがたい。
 そもそも何故こんな事まで説明してやらなければいけないのか。
「あいつからお前をとっていった俺が、気に食わないのは当然だ」
 だから、と跡部は畳み掛けた。
「俺もそういう事だって言ってんだよ」
「え?……」
「橘も気に食わねえって言ってんだよ」
「な…んで…?……、っ…た……ッ!」
 あまりにも間の抜けた問いかけに跡部は遠慮なく神尾の片耳を引っ張ってやった。
「痛いってば…!…ちょ……跡部…っ…」
「何を聞いてたんだお前。どこまで馬鹿だ。アア?」
 凄んだくらいでは怯まない神尾は、本気で判んねえよと言い返してくる。
 どこまで、ではなく。
 どこまでも、馬鹿だ。
 跡部は諦めにも似た境地で、混乱している神尾にはっきりと言ってやった。
「お前が橘に傾倒しきってんのが俺様は気に入らねえんだよ」
「けいとう?」
「心酔してるのがだ」
「………しん…すい。……?」
 この小さな丸い頭の中での漢字変換は絶対に、継投で、浸水だ。
 そうに違いないと跡部はますます不機嫌を募らせて神尾を睨みつける。
 神尾は少しの間なにかを考える顔をしていたが、ふいに跡部の目をじっと見上げてきて。
 至極不思議そうに言った。
「深司は跡部に、俺を取られたりなんかしてないし。跡部だって橘さんに俺をとられたりなんかしてないだろ?」
「………………」
 気に入らないのおかしいだろ?と神尾は稚く跡部を見上げて首を傾げている。
 まるで判っていない神尾は、何故か時折すべてを判っているような事を言う。
 それこそ、跡部よりも正しく。
「深司といても、橘さんといても、跡部といても、俺は結局俺だよ?」
「……判ってんだよ、そんなことは」
「俺、跡部を」
 好きだよ、と神尾は言った。
 いつものように恥ずかしがるのではなく、嬉しそうに、幸せそうに、神尾は笑う。
「跡部」
 好き、と繰り返すので抱き寄せた。
 言葉に詰まるなんて信じがたい。
 跡部は憮然と、そして愕然と、神尾を胸の内に抱き込んだ。
 跡部が気に食わない橘や、伊武も、神尾は好きだろう。
 けれど、今跡部に言っている言葉にきちんとひとつだけの意味があることも判るから。
 跡部は神尾を抱き締めている。
「………………」
 小さい。
 肩が。
 細い。
 首が。
 熱い。
 身体。
「………あと…べ?」
 もぞもぞと動くのが子供っぽい。
 でも、その肢体に縋るように抱き締める腕に力を込めたのは跡部の方だ。
 一生。
 神尾にその言葉を言わせ続けるには、何をすればいいか。
 どう生きていけばいいか。
 そんな事を目まぐるしく真剣に考える自分が跡部には信じがたく、それでいて暢気な声が腕の中からすればつられて笑ってしまうのだ。
「ち、……っそく、しそ、…なん、だけどっ」
 いっそしてしまえと跡部は結構本気で考えた。
 息が詰まると感じるくらいに、自分に溺れてしまえばいい。
「あとべー…っ……、」
 それでも、じたばたもがく必死さに少し腕を緩めてやる。
 跡部が見下ろすと、神尾は顔を赤くして、髪をくしゃくしゃにして。
 少しばかり恨めしそうな視線を投げかけてくる。
「もー、お前、さぁ…、っ」
 顎を救って言いかける言葉を遮り唇を重ねると。
 ひどくびっくりしたように神尾は身体を震わせた。
 跡部の二の腕辺りのシャツを咄嗟に掴んでくる仕草が子供っぽいのに、キスを受け入れる口腔は甘く優しかった。
 存分に舌を絡めてから、唇を離して。
「俺が…何だ?」
 跡部は笑って、低く神尾に囁きかける。
 唇の端を啄ばむようにしてやると、すっかり涙目になった神尾は噛み付く気力もなくなったようで、跡部の首筋に唇を埋めておとなしくなった。
 夜中にふっと目がさめて、寝返りをうつ。
 即座に背後から腕が伸びてきて、宍戸の胸元に大きな掌があてがわれる。
「そっち向かないで」
 寂しい、と宍戸の耳元で聞こえた鳳の声は眠気にとけている。
 言ってることややっていることとのミスマッチさに、こみあげてきたのは笑いだ。
 宍戸の眠気はゆるゆると解かれてしまう。
 首の側面に唇を寄せるようにして顔を埋めてきている鳳を振り返る様に。
 宍戸は再度寝返りをうった。
「おまえ…」
「……宍戸さん」
 からかいの言葉を紡ごうとしていた宍戸は、自分の胸元に甘えるように顔を埋め直す鳳の仕草に結局何も言えなくなってしまった。
 長身の鳳だが、ベッドに横たわってしまえば、宍戸の胸元に顔を伏せる事もたやすいようだった。
 無意識に鳳の髪に手をやった宍戸は、やはり無意識にその頭を抱き込むように指先を髪に沈ませる。
 寝ぼけているにしても過敏すぎるだろう。
 夜中の宍戸の寝返りすら嫌がる年下の男をゆるく抱きしめて、自分の腕の中で和らいでいるその気配に、宍戸は眠気を払拭していく笑いを奥歯で噛み殺す。
「我慢、しなくていいのに」
「……起きてんのか、長太郎」
 宍戸がそっと腕を緩めると、顔を上げた鳳が寝具の上で身じろいで伸びあがり、宍戸の唇を浅く塞いだ。
 お互いの体温であたたまったような身体を摺り寄せて、唇を合わせて。
 小さく零れた吐息の甘さにお互い同時に瞬きする。
 睫毛も触れ合いそうな距離だ。
 落ち着いて、でも胸の中で音は鳴る。
「背中、向けられんの、やなのかよ…?」
「……いやですよ。寂しいから」
 掠れた、真摯な声。
「わかった」
 おぼえておく、と宍戸はつぶやいた。
 声にもならない声だったのに、鳳が甘えるように宍戸の頬に甘くて軽いキスをしたから、きちんとそれは届いたのだろう。
「…眠い?」
「……んー……」
 じゃまだったら、と鳳が言いかけた言葉を、可能性がない提案だから宍戸は聞かなかった。
 鳳は何かを言って、反応のない宍戸に、邪魔でないと返答されたと理解したらしい。
 鳳の両腕に、先ほどまでより、もっとしっかりと抱きしめられた。
 顔を押し付けることになった鳳の胸元からは、優しい体温の香りがした。
 宍戸よりも広い胸元と、長い腕と。
 不思議と対抗心のようなものはまるで湧いてこない。
 こうして囲われる事は心地よかった。
 乞われている事が判るからかもしれない。
 頭上に寄せられている唇の感触。
 時折宍戸の身体を寝間着越しに撫でていく手のひら。
 うとうとと、眠気を再び誘うものでもあり、何かをしっかり目覚めさせてしまうようでもある。
「苦しくない…?」
 鳳が、返事がなくても構わないというようなかすかな声で聞くので、宍戸は黙ったまま自分からも鳳にすり寄った。
 そこは心臓の真上だろうか。
 やわらかい布地に耳を寄せるような体制になると、はっきりとした鼓動が聞き取れた。
 どこか耐えかねたような所作で鳳の手が強く宍戸を抱き込んでくる。
 咄嗟の抱擁はしばらくはそのままで。
 宍戸は身体の力を抜いたまま鳳の腕の中でじっとしていた。
 しばらくののち、ふわりと抱擁の腕はほどけて。
 どこか意を決したような微かな嘆息と共に鳳が背を向けたので、宍戸は今度は滲んだような笑いを隠さなかった。
 自分に向けられた背中に腕を伸ばし、身体を寄せて、告げてやる。
「そっち向くんじゃねえよ…」
 寂しい。
 これまで、言ったことのない、言葉を言って。
 宍戸は鳳の背にしがみつく。
「……あの…ねえ…!」
 鳳は、幾分はっきりとした声をあげてすぐに宍戸の方を振り返ってきた。
 いつもより少しだけ雑な言い方で、鳳が性急に宍戸の唇をふさいでくる。
 宍戸は笑った形の唇を、自ら薄くひらいた。
「…我慢、しなくていいのによ」
 先程言われた言葉をそのままキスの合間に返した。
 宍戸が噛み殺したのは笑い。
 鳳が噛み殺そうとしていたものは。
「つーか、するな」
 下した命令。
「……宍戸さんは…本当にもう」
 年下の男は、全面降伏と顔に書いた上で、甘く宍戸を詰って。
 そして宍戸を抱き締める。
 宍戸は真夜中、眠ることよりそのことに満足して、あたたかな背中を両手で抱き締め返したのだった。
 日吉は意識してる相手しか視野に入れないね、と一年の時に笑って日吉に言ったのは鳳で。
 にこやかに言っている割にはそれは随分と明け透けな物言いで、それに対して日吉が無表情に、取り合えずお前が誰かは判ってると告げればさすがに鳳も苦笑いしていた。
 それでいてそれはありがとうと皮肉でも何でもなく言ってのけた鳳は、見た目の柔和さほどあまい相手じゃないという事が日吉にもよく判っていた。
 日吉は同学年にはたいして興味がなかったが、準レギュラーからまずは樺地が抜け、次に抜けたのはその鳳だった。
 シングルス希望の日吉からすれば、レギュラー入りしたもののダブルスだった鳳にはそれほどの関心は無く、だから彼がそれからダブルスのパートナーを変えた事に関しても取り立てて思う所は何もなかった。
 ただ何故か、鳳が最初にダブルスを組んだ相手。
 上級生の、ある男の存在だけは、何故だかひどく日吉の心情を苛立たせた。
 気づいた時にはもう、ずっと、ただ、苛ついて、その顔を見る度、声を聞く度、どうしようもなくなってしまっていた。
 きっかけなどなかったのだ。
 鳳が一年の時に言っていた言葉を使えばつまり、意識どうこうではなく、単に日吉の視野に入ってきた時から、日吉が彼を認識した瞬間からもう、手のつけようもなくなってしまっていた。
 苛々する。
 見ないように、聞かないように、同じ部活にいながら関わりあいたくないとすら思っていた。
 その相手の何がこうまで気に入らないのか、苛つくのか、彼が何かをしていても気に入らないし、何もしていなくても腹が立った。
 誰かと話していても、一人黙っていても、テニスをしていても。
 今も、こうして、試合中である日吉の視界にその姿はあって、絶え間なく日吉の神経を刺激してくる。
 その声がしている。
 苛立ちをボールにぶつけてしまいがちになりながら、日吉は、ずっと頭の中で繰り返す。
 馬鹿だ、と繰り返す。
 あの人は、馬鹿で、馬鹿で、それなのに何故滑稽にならないのだと歯噛みする。
 何故ほんの少しもみっともなくならないのか。
「滝、こっちの計測もお前やってんのかよ」
「跡部が日吉のサーブが早くなってるからとっておけって」
「んな事、てめえでやれよ」
「跡部にそれ言えるの宍戸くらいだよ…」
 何故、笑えるのか。
 何故、そんな会話が出来るのか。
 宍戸を相手に、滝は和やかに会話を続けている。
 どうしてそんな真似が出来るのか。
「………………」
 敗者切捨ての氷帝において、唯一の例外となった宍戸のレギュラー復帰は、ダブルスだった。
 滝を落とし、滝のパートナーだった鳳と組んだのが、宍戸だ。
 勝者のみがレギュラーという氷帝のシステムは日吉の好む所で、誰がレギュラー落ちしようが日吉はまるで構わなかった。
 しかし滝に関してはひどい苛立ちを覚えた。
 レギュラー落ちしてからも、まるっきり淡々としている様が気に食わない。
 レギュラー落ちが決定となった敗北の相手である宍戸とも何の変化も無く肩を並べている。
 元パートナーだったはずの鳳まで持っていかれていながら、滝は宍戸と親しく話し、鳳とも以前と変わらぬ接触をもっている。
 普通でない。
 今や滝の存在そのものが日吉に苦痛を与える程だった。
「………………」
 苛立ち紛れに打ち込んだスマッシュで試合に勝って、日吉は即座にコートを出た。
 こめかみから流れてきた汗を二の腕で拭う。
 ふわりと白いものがいきなり放られてきて、日吉は無意識にそれを手で受け止めてから、憮然とした。
「お疲れ、日吉」
「………………」
 なめらかに落ち着いた声で滝に声をかけられ、放られてきたタオルの残り香だろうか、後から清潔な甘い香りを感じ取る。
 日吉は眉根を寄せた。
 無意識に相手を睨み据える。
「それ、使ってないから…」
 日吉に投げたタオルを指差して滝は淡く笑った。
 切りそろえられた長めの髪が、肩からさらりと零れる。
 少し首を傾けるようにして、滝は笑うのだ。
 いつも。
 誰にでも。
 だからといって何故自分にまでそんな笑顔を向けるのかと日吉は憮然と滝を見つめ続けた。
 手にしているタオルなどいらなかった。
 でもそれをどうしていいのか決めかねる。
 ただ無言でいるだけの日吉の視線の先で、さすがに滝も曖昧に笑みを消していく。
 そうだ。
 どうせそんな顔をするのだから最初から自分に声などかけなければいいのだと日吉は苦く思った。
 滝は誰とでも穏やかに親しく付き合えるのだから、何も自分にまで構う事はない。
 口を開くと日吉が意識しないうちに尖った拒絶の言葉ばかりが放たれそうで、たぶんそれはしない方がいいのだと日吉にも判るから、こうして無言でいるのだから。
 さっさと消えて欲しい。
 そう思いながら日吉が滝を見据えているその場で、突如、大袈裟ともいえるほどの溜息が吐き出された。
 日吉ではなく、滝でもなかった。
「若」
 深い嘆息の後日吉を呼んだのは宍戸だった。
 日吉は舌打ちでもしたい気分で顔を背ける。
 お前なあ、と大股で歩み寄ってきた宍戸は、決して暴力まがいではないものの、手荒く日吉の胸倉を掴んで顔を近づけてくる。
 真っ直ぐな目、これが日吉は正直苦手だ。
「お前、いい加減ちゃんと自覚しねえと、そのうち取り返しつかなくなるぜ」
「………………」
 宍戸が何故か声を潜めて言った言葉の意味が、全く判らないと思いながら。
 日吉はぐっと息を飲む自分に気づく。
 どうして、まるで、図星でもつかれたかのような振る舞いを見せてしまったのかと困惑する日吉の態度をどう見たのか、宍戸はすぐに手を離してきた。
「宍戸」
「判ってる。……んな、あからさまに呆れたツラするんじゃねえよ、滝」
「呆れた顔もするよ。いきなり掴みかかるんだから」
 足早に近づいてきた滝が、戸惑ったように、けれども真摯に、宍戸の肩に手を伸ばす。
 しなやかな指が宍戸の肩に乗るのを見て、日吉はきつく眉根を寄せた。
 言葉になどしなくても、身体から噴出すような怒気はひどく判りやすかったようで、宍戸はまた溜息をつき、滝は気遣わしげに日吉を見つめてきた。
「…日吉? どうかした?」
 真面目な声だった。
 日吉は追い立てられるような切迫感を覚えながら滝を睨み据えた。
「……あんたに、呆れてんですよ」
 熱くて重い感情で放った言葉は、声ばかりがこの上なく冷え切っていた。
 滝が目を瞠る。
 その表情に日吉は目つきを尚きつくする。
「あんたが、あまりにも馬鹿で」
「若、お前な、」
 宍戸が何か言いかけるのを、滝がそっと仕草だけで遮った。
 宍戸の肩に置いた滝の手は、宍戸を制し、宥めるように、やわらかく動いた。
 どちらかといえば激情型の宍戸がそれでひくのも日吉には気に入らなかった。
 そんな所作だけのやりとりに日吉はますます声を低くする。
 言葉が止まらなくなる。
「あんた、レギュラー落ちして、よくそんな笑ってられますね。自分を蹴落として、自分のパートナーまで持っていった相手と、お気楽に笑って話なんか、よく出来ると思って呆れてるんですよ」
 一息に言い切った日吉は、まるで憎んでいる相手と対峙しているような自分の態度を、どこか他所事のようにも感じていた。
「お前なぁ…!」
 本気で声を荒げる宍戸の肩をほっそりとした指で尚もしっかりと制した滝に、日吉は何だか泣きたいような複雑な憂鬱に蝕まれていく。
 怒りや苛立ちは、長く続かなかった。
 滝から目を背けていれば、それだけでいられたかもしれなかったけれど。
 滝の表情や仕草を目の当たりにすると、何かが崩れる。
「………………」
 日吉はもう滝の顔が見られなくなり、その指先だけを見ている自分に気づいている。
 顔が見られない。
 疚しいのが自分だからだと日吉はそれだけは確かに判っていた。
 呆れるほど馬鹿なのは自分だ。
「日吉は、全部、一回でおしまい?」
 あからさまにひどい言葉をぶつけた相手は、しかしやわらかな声のまま日吉に問いかけてくる。
 滝は、きっと日吉を真っ直ぐに見ている。
 いつも、彼はそうだ。
 そんな滝と視線が合わせられないのはいつも自分の方なのだと自覚しつつ、日吉は顔を背けて歯を食いしばる。
 滝は日吉が何を言っても、ほんの少しも傷などつけられていない毅然さで言った。
「一回失敗したことは、もう二度と成功はしないって…思ってる?」
 俺はね、と滝が話し続けるのを、聞いていたい気もするし、聞きたくもない気もする。
 日吉は本当に何をどうすればいいのかまるで判らなかった。
「俺は、失敗した事は、二度目も、三度目も、何度目だって構わず、繰り返すよ」
 それが。
「間違ってしまった事は修正する。失敗した事はやりなおしてみる」
 それが。
「人がみっともないって思って見ていても、俺はそうしたくてしてる。みっともないの、嫌いじゃないんだ」
 それが、滝には出来て、日吉には出来ない事なのだ。
 突き上げてくる感情に歪んだ表情を日吉は背けるしか出来なくて。
 ましてやそれを滝は目の当たりにした訳でもないのに、ふと、気遣うようなとてもやさしい静かな声で日吉を呼んだ。
「……日吉?」
「………俺は、」
「うん……」
 頷きだけのひどく優しい声が、日吉が途切れさせた言葉の続きを促してくる。
 顔は背けていても、強がって、拒んでも、やはりどうしてもそれに縋りたくなる、そんな不思議な声だ。
 日吉は、それを振り払うようにして、吐き出した。
「あんたはそうでも、俺はそんなことは知らない。俺はどうせもう、修正なんかきかないほど間違えて、失敗してるんでね」
 今更もう、と言い掛けたところを、滝にやんわりと遮られた。
「どうせなんて言っちゃだめだよ」
「………………」
「日吉が修正したいって思うなら、そこがきちんと始まりになるから」
 間に合わない事なんてないから、と囁くように滝は言った。
 そんな事、日吉は信じてはいない。
 けれど、言ったのが滝だから、日吉は背けていた顔を、その声に縋るように、徐々に引き戻していく。
 他の誰でもない。
 彼が言うのなら。
「………………」
 本当は、顔を見たくなかった。
 暴言を吐いたのは自分だ。
 今の滝の顔を見るのが嫌だった。
 滝が今どんな表情をしているのか、身勝手極まりないが、それを見て傷つくであろう自分を日吉は知っていた。
「………………」
 しかし、日吉が陰鬱に見据えた視線の先で。
 滝は、笑っているのだ。
 見つめているうちに消えていってしまうかもしれないほど、淡い儚い笑みだったけれど。
 もう、それで、本当に日吉は、耐え切れなくなった。
 無言で近づいて、距離を縮めて、宍戸の肩にあった滝の手を強引に掴む。
 宍戸が面食らっている顔を視界の端に見た。
 次の瞬間日吉は滝の手を握ったまま彼を引きずるようにしてコートの外へ出る。
「日吉、?」
 乱暴に引っ張っている。
 掴んでいる滝の手首に、日吉の指が回る。
 何故こうしているのかなんて判らない。
 どこへ行くのかなんて、日吉自身決めていない。
 ただ足早に歩いていけば、半ば引きずられるようにしていた滝も、自らの足でついてくる。
 滝の戸惑いは触れ合っている肌と肌から伝わってきている。
 日吉は部室の裏側に回りこみ、固い外壁に滝を押さえつけた。
 衝動は、一瞬のものではなく、いつも日吉の中にあった。
 噴出す先は滝だ。
「……っ……、…ょ……、し」
「………………」
 両手首を壁に縫いとめて、角度をつけてその唇を塞ぐ。
 か細い声が拒絶なのか狼狽なのか日吉には判らなかった。
 判らないふりをした。
 一瞬硬直した滝だったが、塞いだ唇はさらさらと温かかった。
 きつく口付けても、次第にふわりと力を抜いて、丁寧に優しく受け止めてくる。
 舌で侵食すると仄かに温を上げて、ぎこちなく強張る仕草に息が詰まりそうになる。
 日吉は唇を引き剥がし、滝の肩口に顔を伏せた。
 ほっそりとした首には走るような脈と熱があることを、この至近距離で日吉は知った。
 手の中に握りこんでいる滝の手首からも同じ脈打ちが伝わってくる。
「………日吉…?」
「………………」
 滝の声は小さかった。
「…日吉、」
 小さくて、懸命な声を。
 日吉は顔を上げ、一瞥しただけで、聞き流そうとしたのだが、視線だけは外せなくなって。
 苦しさは飢餓感に似て。
「………………」
 戸惑いを露にしていながらも、滝は吐息と一緒に柔らかく力を抜いて、再び日吉が滝の肩口に顔を伏せるのを促すように、その指先を日吉の髪にすべりこませてきた。
 日吉は促されるまま、黙って滝の肩口にまた顔を埋める。
 日吉の耳元に触れたものが滝の唇のように感じたが、実際は判断しかねて。
 そのまま両腕で、滝の背中を抱きこんだ。
 抱き締めたかった。
 したいことをする、それがどこかささくれ立った日吉の心情をなだらかにした。
「………………」
 日吉は言いたい事を言った。
 それを訂正する気は無かった。
 本心だ。
 滝という存在にひどく苛立つ、それもまた本当だ。
 抱き潰すように腕に力を込めて、滝を抱き竦めながら、日吉は今度も言いたい事を言った。
 呻くように、好きだと、二度繰り返して言った。
 誰かのものかもしれない。
 誰ものものかもしれない。
 日吉は、それが堪らなく嫌だった。
 このひとが自分のものには決してならないのだと思えばいくらでも。
 いくらでも、荒んだ態度や言葉を曝け出せたけれど。
 今はまるで縋りつくように、日吉は滝の痩躯を抱き締めてしまう。
「……日吉…」
 か細い甘い声で名前を呼ばれ、ぎゅっとユニフォームの背中の辺りを滝の手に握りこまれる。
 ぴたりと重なった胸元の早い脈は、もうどちらのものかも判らない。
「………冗談…?…」
「誰に聞いてんですか」
「…ほんと?」
 冗談だったら泣くと言ってきた小さな声は。
「……もう泣いてんでしょうが」
 とっくに涙を帯びていて、日吉は憮然と言って顔を上げた。
 日吉も少し混乱していた。
 滝の顔が見たかったのだ。
 何故冗談ならば泣くと言うのか判らなかった。
 目と目を合わせる。
 涙は零れてはいなかったけれど、睫が濡れていた。
 滝は日吉を見上げるようにしてちいさく微笑むと、一気に脱力したかのように日吉の胸に顔を伏せてしまった。
 焦れったい。
 他人事ながら、他人事だからこそか、とにかく焦れったい。
 折り合いの悪そうな微妙な言い合いの後、連れ立って姿を消した二人のチームメイトを見送った宍戸は、テニスコートの脇で溜息をついた。
「心配…ですか?」
 宍戸の傍らにいつの間にかやってきていた鳳が、そっと問いかけてくる。
 宍戸がちらりと視線をやると、少し苦笑いを浮かべて鳳は宍戸を見つめている。
「心配っつーか……」
 焦れったいんだよ。
 図らずとも心の声を吐き出せば、鳳も頷いて、溜息をつき同級生の名前を口にする。
「日吉、結構複雑な所ありますからねえ……滝先輩はそういう所機微に組んでくれる人ですけど……」
「……好きな相手にああいう言い方されるのはきついよなぁ」
 そんな事を言ってから、鳳と宍戸は、お互い同時にふと黙り込む。
「………何ですか、宍戸さん」
「お前こそ何だよ。長太郎」
 牽制しあうように目線だけを合わせる二人は、今度もまた同時に顔を少し反らしてひとりごちる。
「宍戸さん、相変わらず日吉のこと気にかけてますよね」
「お前も滝の事よく判ってるよな」
 相手を責めると言うよりは、少しばかり悔しいような羨ましいような、そういう不平だ。
 何を言い合っているのかと思わなくもないが、隠し立てするよりは口に出した方がすっきりする。
「………………」
「………………」
 そうやって溜息と共に吐き出した後、またそろりと互いの視線を合わせてみれば、結局笑いで払拭出来るのだから、二人は言いたい事は言ってしまう主義だ。
「すみません。いつもいろんなところで、嫉妬ばっかりで」
「お前が言うなよな」
「だって全然俺ほどじゃないですよ、宍戸さんは」
「だってとか言うな、阿呆」
 上背のある年下の男に呆れた溜息をついた宍戸だったが、やんわりとした鳳の物言いは、無闇に構ってやりたくて堪らなくなる。
 整った顔に穏やかな笑みを浮かべるのが常の鳳が、宍戸相手に時折剥きだしの感情をさらしてくるのが正直宍戸には心地良い。
 改めていつも自分の一番近くに居る鳳を見据えながら宍戸は唇を緩めた。
「滝ってのは…すごいと思うぜ、本当に」
「宍戸さん?」
「誰に対してもさ。あいつみたいにいられるかって考えたら、多分俺には無理だ」
 滝は人との距離感がいつも絶妙だ。
 強烈な個性ではないが決して揺るがない自己を持っていて、だからレギュラー落ちする事になった宍戸とも、元ダブルスのパートナーだった鳳とも、苛ついて感情をぶつけてくるような日吉とも、最も適した距離で彼らしくあるまま接してくるし、受け止めてもくる。
 それは重鎮のような穏やかさだ。
 あの厳しい跡部もまた滝を重く置いているのが判る。
「俺も滝先輩のことすごいと思ってます」
 でも宍戸さん、と少し声音の変わった鳳の呼びかけに気づいて宍戸は首を傾ける。
「長太郎?」
「嫉妬の対象どんどん増やされて、俺は少々…」
 そんな目しないでくださいよと鳳に泣きつかれて宍戸は面食らった。
 しっかりとした骨格、長い手足の体躯で、しょげている鳳の佇まいに笑いが込み上げてくる。
 俯いて肩を震わせている宍戸の横で鳳は判りやすく不貞腐れた。
「ほら、やっぱり俺の方が分が悪いじゃないですか……」
「……分がどうこうって話じゃねえだろ」
「いいんですけどね。それは。俺の分が悪いのは元から判ってますから」
「長太郎、お前、それ威張る所じゃ、なくねえ?」
「威張りますよ。もう」
 俺は宍戸さんが好きすぎる、と生真面目に嘆かれて。
 鳳という男は、こんな事を簡単に言ってくるから、たちが悪いと宍戸は思った。
「………悪いのかよ。好きすぎると」
「うんざりされてしまうかもしれないでしょう?」
 宍戸さんに、と鳳が真剣に眉根を寄せるので。
 その複雑に危惧しているかのような面立ちに宍戸は嘆息した。
 何でも判っているようで、何にも判っていない。
 大人びているようで、やはり年下故かと思いながら。
「するかよ。こんなんで」
 うんざりなど。
 出来るような自分ではないのだ。
 どれだけ貪欲なんだと、自分にそれを気づかせた後輩を。
 宍戸は軽く睨みやった。
 うんざりなんかしない。
 もっと欲しいくらいだ。
 判っていないようだから、この際きっちり判らせておこうと宍戸は言い切った。
「足りねえくらいだけど?」
 別段挑発でも何でもなく本音で告げれば、目を瞠った鳳は、片手を後ろ首に当ててがっくりと肩を落とした。
「宍戸さんー……」
「何だよ」
「苛めですよ…それ…」
「知るか」
「知るかって……」
 もう、宍戸さんは、と鳳は嘆くような声を出したけれど。
 いつの間にか笑ってもいた。
 甘い笑みと、それだけではない目で、宍戸を見下ろしてきていた。
「日吉みたいに複雑なのと、宍戸さんみたいに明白なのと。翻弄される側は、同じかもしれないです」
 俺も滝先輩も、と鳳は言った。
「お前や滝みたいにやたらと物分りのいいヤツには、絡みたくなんだよ」
 俺も若も、と宍戸は言った。
「………………」
 相手に挑むように嘆き合う自分達。
 負ける気は無い。
 勝とうと言うよりは、負けるつもりはないといった心情で。
 乾は絵とも図形とも言えないものをノートに書き出している。
 一筆書きに、しかし適当に書いているわけではないらしい。
 海堂は怪訝に思ったり気をとられたりしながら乾の書きあげていくものを見つめていた。
 ノート一頁いっぱいにその丸い線上に規則的に突出するまた難解な形をしたもの。
「…うん?」
 黙ったまま直視してくる海堂の視線に気づいたらしい乾が、ふと手をとめて顔を上げる。
 じっと海堂を見つめ返した後に、自分の手元に目をやって、ああと声を上げ、ごめんと頭を下げてくる。
 ひどくすまなさそうに詫びてくる乾だが、彼が突然こんな風に突然忘却の彼方にいってしまったり、何かに没頭し始めてしまうことは、珍しいことではなかった。
 それに海堂が慣れてしまうくらいには、こうして一緒にいる時間も多かった。
 今も、こうして部室に二人でいる訳なのだが、乾は手元の作業に没頭しているようだったので、海堂は斜向かいの椅子に座って待っていたのだ。
 元々は乾が海堂を待っていた。
 部活が終わった後に自主トレのメニューの事で話があると乾に言われて、日課の走り込みを終えて海堂が部室に戻って来た時にはもう、部室には乾の姿しかなかった。
 何かに集中しているようだったので、海堂は着替えを済ませ、そして乾の書き込む図形を見ていた。
「本当にごめん」
「別にいいですけど…」
 特に取り繕いなどした訳でもなくあっさりと海堂は返したのだが、乾はやけに神妙に、ともすれば焦ったように謝り続けてくる。
 そういえば、こういう状況もまた常だ。
「だから、別にいいですって…そこまで謝りたおさなくても…」
「いや、勝手言って悪いが、別にいいとお前に言われるのもそれはそれで辛いものが」
「はあ…」
 口の重い海堂とは対照的に、弁の立つ乾の言葉は普段であればとても判りやすいものなのに。
 こういう時の乾は、どうも海堂にはよく分からない物言いをする。
 別にいいと自分が言う事で、何故乾が辛くなるのか海堂にはさっぱり判らなかった。
「先輩…それ、何っすか」
 言葉のうまくない海堂にはそれ以上どう言っていいか判らなかったので、ぎこちなく別の問いかけを乾に向ける。
 先程からずっと気になってもいた事。
 海堂の問いかけに、乾は広げたノートを差し出すようにして、海堂へと近づけた。
「これ?」
 頷いた海堂と真向かいの位置になる様に乾は席を横に一つずれて。
 紙面にペン先を向ける。
「フラクタルっていう図形。こういう風に…」
 丸い線上に突出したものを乾は筆記具で指し示す。
「図形の一部を、拡大して見てみると、そこが図形全体の形になってる」
 言われるまま海堂が視線を落とすと、確かに図形はそういう形をしていた。
 不規則なようで規則的見えたのはそういう訳だったからだろうか。
「……一部なのに全部っすか…」
「そう。考えながら描くと、結構はまるんだよ。複雑な図形になればなるほどね」
 気晴らし、と乾は笑った。
 海堂にしてみれば、気晴らしというよりそれでは余計に頭を使いそうだと思う。
「出来ればね、俺も、こういう形になりたいんだけどな」
「………先輩が…っすか?」
「ああ」
 薄い笑みはすぐに苦笑いに代わって、乾は小さく嘆息する。
「一見めちゃくちゃなようでも、ある一部分を見た時にそれが全体の中の一部分なんだって、ちゃんと判るような理論だとか予想だとかにしたいんだけどね…」
 なかなかねえ、と乾が溜息をついて机に顔を伏せるのを、海堂は不思議な面持ちで見つめた。
 珍しい。
 こんな風に、泣き言めいたような事を乾が言うのも、それが乾のデータベースであるという事も。
 自分などにしていい話なのだろうかと海堂は少しばかり困惑した。
 机にぐったりと顔を伏せている乾に、果たしてどう対処すればいいのかと海堂は戸惑って瞬きをするが精一杯だ。
「……極力ね、俺みたいなのは意識して全体を見るようにしないと」
 どうしてもデータにだけ固執しがちだからさ、と乾は目線だけ海堂に持ち上げて言った。
「どうもねえ…」
「………………」
「迷ってるとか、揺らいでるって訳じゃないんだが、俺のデータっていうのも…」
 何を言い出す気かと海堂は内心で唖然とする。
 まさか乾がそんな事を言い出すとは露とて思わず、海堂はもう、瞬きすらしなかった。
 海堂とて、人に、迷うなと言えるような立場ではない。
 普段は動じる事の殆どない乾でも、迷う事は、それはあるだろうと思う。
 そして多少なりとも愚痴を言いたいだけなら、その相手が自分であるという事は、それはそれで決して嫌ではなかったけれど。
「いいじゃないですか。危うくても、固執していても」
「……海堂?」
 迷ってもいいが、へこむ事ではないだろう。
 海堂はそう思って、きっぱりと言った。
「全部ひっくるめて、結局は全部、あんたにしか出来ない事だろ」
 大事な事だと海堂は思って、だからそう告げもした。
 乾は顔を上げて、じっと海堂の眼差しを見つめ返してくる。
 立ち上げた前髪の部分が乱れていたので、海堂は腕を伸ばし、そっと髪を撫でつける。
 珍しく、本当にどことなく頼りない顔をされて、海堂はすぐに手が引けなくなった。
「俺は、まだ、その見方を教えて貰わないと、乾先輩が今見ている物が見えないですけど」
「海堂」
「もしあんたが見えてないものが俺に見えたら、その時は俺が教えるから」
 乾が海堂にそうしてくれたようにだ。
「後から見返して、あんたが作った形が違ってたら、その時は書き直せばいい」
 途中で投げ出さない限り、修正は後からでも、いくらでも、出来るのだ。
 乱れた髪を直すというより、頭を撫でるような仕草になってしまった自分の手を、ぎこちなく海堂は乾の髪から離した。
「先輩、…?」
 乾の手に阻まれ、握りこまれた手首でその手は捕まってしまったけれど。
 海堂が呼びかけると、乾は左手で海堂の右手首を拘束したまま、空いた手を机について立ち上がって。
 上半身を乗り出すようにして、そして。
 ふわりとぶつけるようなキスを唇にした。
「な、……」
「ええと…ごめん、」
「……謝りながら笑うなよ…っ」
「うん、ごめんな」
 だから!と海堂が続けた言葉は再びのキスにのまれた。
 至近距離、浅いキスの後海堂の間近で乾が衒いのない顔で笑う。
「俺みたいな男に海堂をありがとう。…誰に言ったら良いのか判らないけど、そう思ったらさ」
 だから。
 そんな。
 とろけそうな顔で微笑むのは止めて欲しい。
 海堂はじわじわと滲んでくる気恥ずかしさに顔を背けるのが精々だった。
「……立ち直り早いっすよ、あんた…」
「いつまでもぐずぐず言ってると海堂に愛想つかされそうだからなぁ…」
「だから、笑うなって言ってる、…!」
 はいはい、とすこぶる機嫌のいい乾に、机越しにとうとう抱き込まれてしまって。
 海堂はいっそ噛みついてやろうかと思ったけれど、結局その唇は噛み締めて。
 乾の固い肩口に押しつけるだけにした。
 いつの間に眠ってしまっていたのか、忍足は覚醒と同時にまばたきしながら身体を起こそうとすると、小さいながらも歯切れのいい声がすぐ近くから聞こえてきた。
「まだ寝てれば」
「…岳人?」
 おう、とあっさり返答が返される。
 氷帝テニス部の団体移動の際に使うバスの中、忍足の隣に座るのはいつも向日だ。
 確認するまでもなく判っていたものの敢えて忍足が口に出したのは己の熟睡ぶりを自覚したからだ。
 眠気を覚えた記憶も無い。
 すっかり身を預けていたが、自分がもたれて眠るにはその肩は華奢すぎる。
「あー……堪忍な」
「何が?」
「重かったやろ」
「別に?」
 侑士ひとりくらい構わねえよ、と即答してきた向日は、身体も顔も、細くて小さい。
 それなのに少しも脆弱に見えないのは、きっぱりとした態度と声と目線のせいだ。
「侑士、寝てんのかよ、ちゃんと」
「……ん?」
「ぴくりともしなかったぜ」
 口調よりも雄弁に、眼差しが気遣わしく忍足を見つめてくる。
 大きな目に率直な心配が宿っていて、忍足は少し笑った。
「お言葉に甘えるわ」
「ああ」
 忍足は向日の肩に再び寄りかかる。
 小さいなあ、と思いながらもとろりと心地よく瞼がまた落ちかける。
「夢見が悪くてなぁ…昨日」
「心霊本でも読んだんだろ」
「岳人やあるまいし……」
 呟いた声はすぐに聞きつけられて、頭を拳で軽く叩かれる。
 たいして痛いわけでもなく、握った拳も小さいなぁなどと思いながら忍足は向日の肩に頭を預けたままでいる。
 怪談嫌いの向日は、悉くそれに携わるものは避けて通るのだが、たまにうっかりと目にしたり聞いてしまったりすると、その日はいつまでも眠れないらしい。
 多い時には月に七日は忍足の所へ泊まりに来る向日なので、その辺のことは忍足もよく知っていた。
 怖がりだけれど強がりでもある向日は、素直に怖いと言う事はなく、そういうときは忍足の寝床に潜り込んでくるのだ。
 そういう時はとりとめなく向日があれこれ喋り、それに忍足は頷いたり返事をしたりするのが常だが今日は逆だった。
 ぽつりぽつりと話すのが忍足で、それに向日が逐一応えてくる。
「きっつい夢みた」
「ん?」
「岳人がどっこにもおらんねん」
「はあ?」
「ずうっと探した。けど見つからんかった」
 目覚めて愕然としたで、と忍足がひとりごちると、向日は軽やかに笑い出した。
「それで侑士、今日朝イチで、俺見てあーんな変な顔したのかよ?」
「変ってなぁ……岳人」
「でも誰も、そんな事ないって言いやがるからさ。何だ、やっぱ変で良かったんじゃん」
 さりげなく凄いことを言っている自覚はあるのだろうかと忍足は微く苦笑いを浮かべた。
 人に無闇に本心を晒す事のない忍足は、自制心には自信がある。
 確かに今朝、向日の屈託の無い笑い顔を目にして、そっと内心で安心したことは事実だったが、それを人に気づかれているとは思いもしなかった。
「悲恋モノでも見たか読むかしたんじゃねえの?」
 侑士は感化されやすいからなあ、と誰にも言われた事のないような言葉を放られ、忍足は向日の肩にもたれたまま今度ははっきりと笑い出す。
「何笑ってんの、侑士」
 呆れたような声の割にどこか優しげに向日の手が忍足の髪をぐしゃぐしゃとかきませてくる。
「むかつくんだけど。夢じゃ俺いなくてベソかいてたくせに」
「どこで見てたん?」
「否定しろよ否定!」
「ほんまのことやからなあ」
 できひんわ、と言いながら、忍足は向日の手をそっと取った。
「………何だよ?」
「手、あかん?」
「……いいけど。別に」
 自分よりも小さな手と。
 指と指とを絡めて繋ぎあう。
 誰に見られても構わなかったが、そっと隠すように繋いだ手を下に下ろすと、向日の方からもきちんと握り返してきて、応えられている事を実感する。
「侑士は甘えたがりだよなぁ…」
「そんなん言われた事ないわ」
「侑士を知らないヤツは言わないだろうけどさ。知ってるヤツなら絶対言うだろ」
「氷帝中探しても岳人しかおらんわ、そんなヤツ」
 本心で告げれば、あっさりと、俺は別と返される。
「俺より侑士のこと好きなヤツなんていねえし」
「ほんま?」
「あ、なんだよ、その疑ってますーって声。当たり前だろ」
 機嫌を悪くしたように向日が忍足に貸していた肩を奪い取るように体勢を変える。
 並んで座ったまま忍足に向き直った向日だったが、繋いだ手は解かれない。
 忍足はじっと向日の目を見下ろした。
 二十センチある身長差は、座っていても差があって、今更ながらにその細い肩に凭れて眠っていた自分に驚くのだけれど。
 忍足の眼差しに、向日が息を詰めるので。
 顔を近づけて尚近くから覗き込む。
「岳人、顔赤いで」
 何でなん?とからかうでもなく笑いかけると、向日は目つきをきつくして真っ向から忍足を見返してくる。
「好きな相手の顔に見惚れて悪いかよ」
 見惚れる理由がよかった。
 忍足は額と額とが触れ合うような距離まで近づいて、悪くないというように首を左右に振った。
「……顔近い、侑士」
「見惚れて欲しいんやもん」
「もん、じゃねえだろっ」
 あのなあ、と薄赤い顔で向日がずるりと座席の背もたれから滑る。
 それを追いかけていくと、いきなり背後からどかんと背もたれを蹴り飛ばされる音がする。
 忍足は即座に無表情になって座面に片膝をつき、背後を向く。
 すぐ後ろの席の主を真正面から見据えた。
「邪魔すんなや」
「こっちの台詞だ、阿呆」
 腕組みして憮然と忍足を睨みつけているのは背後の席にいた宍戸で。
「長太郎が、目ぇ覚ましちまっただろうが」
「宍戸さん……」
 怒るポイントはそこかと忍足は呆れ、宍戸の隣にいる鳳も微妙な苦笑いを浮かべている。
 忍足は溜息混じりに鳳に目線をやった。
「鳳」
「はい、何ですか? 忍足先輩」
「そのうるさいの、ちゃんとおとなしくさせとき」
 頼むで、と言い置いて忍足は席に座り直した。
 その間も一時も離さなかった向日の手も改めて握り直す。
 うるさいってなんだとまた背後から座席を蹴られたが、まあまあと穏やかな甘い声も聞こえてきて、後ろは後ろでうまくやるだろう。
「岳人」
 盗むように一瞬だけ。
 向日の頬に唇を寄せる。
 まさかここではしないと思っていたのだろう。
 向日は固まった。
 忍足はゆっくりと笑みを深めて、彼にだけ届く声の大きさで囁く。
「眠らせてや。今日は」
 だから今日はこのまま泊まりおいで、とねだりつつもきっぱり言い切れば。
 忍足の間近で向日はぐっと息をのみ、赤い顔のまま深い溜息をついた。
「……岳人?」
「判ったよ。しょうがねえから、行ってやる」
「おおきに」
「ただし、こんなとこでしやがったペナルティはちゃんとつけるからなっ」
 空いているほうの手の拳で、先程忍足が唇を寄せた頬を、ぐいっと擦った向日は言った。
 忍足は目を瞠って、そして。
 顔を近づける。
 唇を盗む。
「……言ってる側から何でまたするんだっバカ侑士っ」
「どうせペナルティつくなら、こっちにもしとこと思って」
 本当に軽くだったけれど。
 唇もキスで掠って、忍足は笑った。
 向日は怒っていたけれど、怒鳴っているけれど、繋いだ手と手はその間も、決して解かれる事はなかった。
 忍足からも、向日からも、ずっと。 
 だからその手は離さない。
 ほんの少しも不自然さを、例えば後ろ暗いような思いだとか、違和感だとかを、観月にまるで感じさせずに赤澤は観月の身体に触れる。
 それはいつも魔法じみた赤澤の手腕だ。
 人と接触を持つことは観月にとって実はひどく難しい事だった。
 イニシアチブが自分にあるのならば幾らでも手段と方法が選べるのだが、自分では躱せない相手からの接触には身動きがとれなくなる。
 人づきあいに不慣れなのだ。
 そう見せない為に虚勢を張っている自覚もある。
 それなのに何故か赤澤相手にはそれを感じない。
 どこか戸惑うことはあっても、赤澤に見られることや言われることや触れられることを、嫌悪した事は一度たりともなかった。
 自分を抱く男を観月はいつも不思議に思うけれど。
 それが嫌だった事はない。
 抱きしめられて、抱きつくされて。
 肌を直接辿られ、体内まで深々と暴かれて。
 そんなことをされても、苦しいのは羞恥心の酷さだけで、あとは何も苦痛でなかった。
 もちろん事後しばらくは赤澤と面と向かえない観月だったが、ひとしきり後始末と身繕いをされ、丁寧に扱われた後寝かされたベッドで髪など撫でられたりすればもう、今更張るような意地もなかった。
 毎回、本当に思い返せばとんでもないようなことをされているのだが、観月の混乱は悉く赤澤に粉砕されて、すべて終わった後はただぐったりとなるだけだ。
 痛みではなく、余韻でもなく、例えようのない色濃い甘い赤澤の存在感は、観月の身体の内部や肌の表面にちかちかと瞬く欠片のように存在している。
 強かったり切なかったり濃かったり優しかったり。
 そのせいで観月はこんな風に、いつまでもぐったりと脱力する羽目になるのだ、きっと。
「観月」
 低く落ち着いた声は柔らかくて、うっかりうっとりしかける自分に観月が気づくのも、こんな時にはよくある事だった。
 観月を抱いた後の赤澤の声は、いつもよりも更に深くて優しい。
 呼ばれて、観月は数回震わせるようにして瞬かせた睫毛をゆっくりと引き上げて目をあける。
 寮のベッドはさして高さがない。
 床に片膝を立てて座り込んだ赤澤と、ベッドに横たわる観月の眼差しとは、そう大差ない。
「………………」
 目と目が合うと、赤澤は顔を近づけてきて、一瞬観月の唇を掠ってまた離れていく。
 軽い接触だ。
 観月の目前で、赤澤は。
 笑みの気配に目元や唇が緩んで尚、顔つきは男っぽいまま再度観月の唇を静かに塞ぐ。
 最中は気づけないような唇のやわらかさと、観月は幾度となく瞬くのにいつ見つめても観月を見つめている赤澤の目と。
 観月は繰り返される浅いキスの合間に掠れ声を零す。
「……何で、毎回、そう…」
「………うん?」
「嬉しくて、…たまらない、みたいな顔…」
 してるんですか、と。
 呆れと羞恥がないまぜになったまま観月が口にすると、赤澤はその笑みを衒いなく深めてきた。
 言葉よりよほど雄弁な表情を赤澤は持っている。。
「なあ、観月」
「…なんですか」
 額と額が触れ合う。
 またキスに唇が掠られる。
「お前体温低いだろ?」
「……あなたが高すぎるんですよ」
 いきなりの赤澤からの問いかけに、力なく返した観月は、伸びてきた赤澤の手に前髪をいじられながら顔を覗きこまれる。
 髪の毛一本一本にまで神経が通っているようだと、観月はありもしない事を思った。
 赤澤が触れる。
 そこに熱がともる。
 抱かれるたびに身体も脳裏も焼き尽くされると切に思う。
 それほどまでに赤澤の熱は凄まじかった。
 そんな赤澤にしてみれば、観月の体温や放熱などぬるいくらいだろうとも思う。
 そんな事を考える観月に、赤澤は曲げた指の関節で観月の頬を撫でるようにしながら言う。
「お前さ、いつでも体温低くて、肌なんざ、四六時中ひんやりしてんのに」
「………………」
「セックスの後は、足先まで熱くなってるからさ」
 そういうのが判って、嬉しいんだよ、と赤澤は続けて囁いた。
 なっ、と咄嗟に言葉を詰まらせた観月に構わず、赤澤はまた軽くキスを送ってきた。
「……お前も、よくなってんだなあとか思って、喜んでるわけ」
 そういうのが嬉しいからしまりのない顔になるわけ、とはっきりいって、観月は絶対言わないけれど、色っぽいだけの顔で言うのだ。
「赤澤、…貴方ね…ぇ…!」
 赤くなる自分をごまかすように観月が叫びかければ、ふいに観月は手を握られる。
 赤澤にしっかりと握りこまれた指先。
 熱い手。
 ベッドに横たわったまま、いったい何なのだと観月は身構えた。
 ぎゅっと赤澤の手に力が入り、赤澤はひそめた低い声をあまく煮詰めて囁いてくる。
 うっかり観月が俯いてしまったせいなのか。
 何度も繰り返し告げてくる。
「いつもは冷たい指の先まで、高い熱詰め込んで、お前がよくなってんのが嬉しいんだよ」
「……、…っ……」
「首元とかも赤くてな…」
 身体中震えているのも、身体中濡れているのも、全部いい、と赤澤は随分な事を言ってきた。
 観月はどんな顔をしていればいいのか判らなくなって絶句した。
「終わった後のお前の身体、やばいんだって、ほんと」
 すげえやられんの、見とれてんの、と臆面もなく言葉は紡がれ、握りこまれた指ごと観月の右手を赤澤の口元へと引っ張られる。
 手に口づけられる。
 怯えではなかったけれど、観月はびくりと身体を竦ませた。
「俺がどんな顔してんのか、そんなわけでだいたいの予想はつくけどな」
 なにかいけないものがとろけているような声で赤澤は観月の指先に口づけながら話し続ける。
 観月はどんどん喋れなくなる。
 何も言えなくなる。
 でも自分たちは今確かに二人きりで会話をしているのだ。
 口づけを受けていた観月の手は運ばれて、赤澤の片頬を包むよう導かれる。
「お前に惚れ直して」
「………………」
「お前にまた…はまっていく顔って訳だ」
 どうしようもなく恥ずかしい事を言っているのに、ほんのすこしもだらしなくならず、精悍なままいやらしさの濃密さだけ増してくるような相手に、いったいどういう顔で対峙すればいいのか観月にはまるで判らなかった。
 横たわっているのにくらくらと眩暈がする。
 激しく、色濃く、どうしたらいいのだ。
 手に触れている赤澤の頬。
 感触。
「綺麗な顔、するよな…観月は」
 しているのではなく、する、と赤澤は言った。
 熱の籠った嘆息と共に囁かれ、首を反らし、伸ばし、近づいてきた赤澤の唇が観月の唇に重ねられる。
 手と手は握り合って。
 でも二人、ベッドの上と、床の上。
 行為は済んでいて、身体を繋げているわけでもないのに、今日一番の甘ったるさで向き合っている。
 これは、これこそ、いつ終わるともしれない。
 もし今の自分の顔が、赤澤の言うように綺麗なものだったとしたら。
 観月は震えるような身体を持て余して唇をひらく。
 すぐさま絡んできた赤澤の舌は、入っていたのか与えられたのか。
 どちらにしろ、赤澤がいて、赤澤を見つめるから、この顔なのだ。
 この顔をするのだ、自分は。
「……貴方の、好みですか」
「好みが服着て歩いてるようなもんだ」
「服、かれこれ数時間着てませんけど」
 観月自身は自嘲してしまうような憎まれ口なのに。
 赤澤ときたら蕩けそうな顔で笑いだすのだ。
「観月」
「……なんですか」
「もう一回」
「無理です……、…って、…ちょ…っと、無理!……無理だって言って、…っ」
 じゃれつくようにのしかかってきた赤澤の手はきわどいラインを辿ってくるけれど。
 結局はその広い胸元であやすように抱きしめられる結末を観月は確信していた。
 壁の向こう側からシャワーの音がする。
 意識はきちんとあるのだが殆ど身動きがとれないでいる南はベッドの上でうつ伏せになって、その雨音にも似た水流の音をぼんやりと聞いていた。
 薄暗くなりかけている部屋。
 時間は何時だろうかと思ったが、今の南は時計を見る為の寝返りすら億劫だった。
 亜久津の部屋に来たのは何時頃だっただろうか。
「………………」
 この部屋に来る事も、少しずつ慣れてきた。
 亜久津の部屋は、初めて来た時に、あまりにも彼らしい部屋で南は驚いた。
 雑多な印象を与えるけれど、実際のところあまり物のない空間。
 ベッドの乱れが妙に婀娜めいて映るのは、南もそこを使うようになってから余計にひどくなった。
「………………」
 扉が雑に開いて。
 音と気配に亜久津が戻ってきた事を知る。
 そういえば音が止んでいる。
 タオルで髪を拭っているらしい音がして、南は彼へと視線を上げることすら未だ億劫な自分の身体を持て余す。
 石鹸の匂いがする。
 しかしそれは淡く甘いような匂いではなく、亜久津の肌の匂いと交ざってどこか艶めいて香る。
「おい」
 声が近くなって、ベッドのところまで亜久津がやってきたのを知り、南は息を詰める。
 起き上がれれば一番良いのだが、到底無理そうだ。
 まだシャワーを浴びにもいけなさそうだし、かといってぐったりとベッドに伸びていたままでもいられず、寝返りも困難な状態で南はごそごそと身じろいだ。
 降りろとは言われないから、まだベッドにいてもいいらしい。
 どうにか亜久津分のスペースを空けるべく、南は壁際に寄った。
 ギシリとベッドが軋む。
 亜久津が片膝をついてきた。
 ふわりと香りが濃くなった。
 南はそれで、ああでも、とふと思い直した。
 せっかくシャワーを浴びてきた亜久津に、まだそのままの状態の南がいては、やはりまずいだろう。
 綺麗にシャワーで痕跡を流した身体と、依然そのままでいる身体。
 起き上がれるか、立ち上がれるか、まだどうにも危うかったけれど、とにかくどうにかしようと南が思った時だ。
「てめえ、何よけてんだ」
「………え?」
 不機嫌極まりない声は呻く様に辛辣で、南が必死で持ち上げた眼差しの先で亜久津が目つきを鋭くさせている。
 普段は逆立てている髪がふわりと落ちていて、きつい顔つきとのアンバランスさが余計に亜久津を大人びて見せている。
 南が必死に壁際に寄ったのは、亜久津をよけるというよりは、彼がいられる分のスペースをつくるために詰めただけなのだが、どうにも亜久津は憮然と機嫌を悪くしている。
 どうにかベッドから降りようとしていたのもいけなかったようだ。
 亜久津はベッドに乗り上げて、長い腕で易々と南を抱き込むようにして横たわった。
 腰に腕が絡む。
 脚と脚とも絡み合う。
 裸の胸元に抱きこまれるようにされて南は硬直した。
 こんなに密着してしまったら、亜久津がシャワーを浴びた意味がないだろう。
「ちょ、…亜久津…、」
「何嫌がってんだよ。アア?」
 本気で凄まれて、正面から顎を掴まれる。
 待ってくれと思いながら南はきつい口付けを受ける事になる。
「ン、っ…、……」
「………………」
「………ゃ……っ、…」
「抵抗してんじゃ、ねえ」
 荒っぽく引き剥がされた唇をそれまで以上にまた深く塞ぎ直され、南はキスでベッドに縛り付けられる。
「ちが…、……おい、亜久津……」
 待てって、ともがいた南は懸命に言い募った。
「俺、まだ……」
「まだ、何だよ」
「汚れた、ままだってば…、…」
「どこが」
 どこがって、と南は愕然と、シャワーに洗い流されたきれいな亜久津の肌に抱きこまれながら困惑を露にする。
「お前、シャワー浴びてきたんだろ…、…っ…」
「連れていってやるって言ったろうが。嫌がったのはてめえだろ」
「立てなかったんだよ…!」
「抱いていってやるって言ったよな?」
 不機嫌な顔のまま、とんでもない事を言う亜久津を南は必死で押しのける。
「ばか、俺が抱けるわけ、…」
「俺を誰だと思ってる。馬鹿かてめえは」
「……っとにかく、…っ…こんな……、…これじゃ、シャワー浴びた意味ないだろ…っ」
「うるせえな。まだ啼かされ足りねえみたいだな…」
「……んなわけあるか…、っ」
 無感覚に近い下半身の感触は、これから少しずつ痛みのようなものを覚えるのかもしれない。
 少なくとも今は這いずって歩くしかないような有様だ。
 どれだけしたのか判っている南としては、また身体に伸ばされてきた亜久津の手の感触に茫然となるしかない。
 大きな手のひら。
 長い指。
「亜久津、…ほんと…汚れるって……」
「さっきから何をほざいてんだ、てめえは」
 眼光鋭く吐き捨てた亜久津がシャワーの湯を浴びて色濃くなった唇を舐める。
 南はくらくらと眩暈のようなものを覚えてしまう。
 身体のあらゆる箇所を密着させるかのように亜久津は南を抱き込み、首筋に唇を這わせてくる。
 汗はかわいただけで洗い流したわけでもないのに、亜久津は舌まで這わせてくる。
「………っ…、…」
 首筋を舐められ、耳をゆるく噛まれ、顔も舌や歯や唇で辿られる。
 南が小さく竦むように震えると、亜久津は舌で口腔を撫でるようなキスをしてから南を抱き締め直すようにしてきた。
「…………亜久津…」
「てめえのどこが汚れるんだ」
「…亜久津…?」
「俺が好きなように何やったって、てめえは変わらねえだろうが」
 不機嫌な顔の訳が知りたくなる。
 そんなあからさまな顔を亜久津がするのは珍しかった。
 考えるより先に南の手は亜久津に伸びた。
 そっと頭に触れると速攻で舌打ちをされたが、振り払われはしなかった。
「………………」
 シャワーを浴びたばかりの清潔な肌で躊躇いもなく抱き込まれて南は身じろぐのを止めた。
 亜久津が構わないのなら、いいのだろうと思ったからだ。
 広い背中を抱き返す。
 そっと亜久津の髪を握りこむ。
 それぞれの手で縋れば、抱擁は強くなった。
 南はそのまま目を閉じる。
「おい。寝るな」
「……んー……」
 ぼんやりと声が聞こえてきたので、ぼんやりと返す。
 南は目を開けない。
「ふざけんな。てめえ、」
 おい、と低い声で恫喝されたが南はもう抗いがたい睡魔に負けてぐずるように首を左右に振った。
 ぐうっと亜久津の喉が鳴った。
 南は両腕を亜久津に絡めたまま、凄んでくる亜久津の声と言葉を聞き、眠りの淵へと沈んでいく。
 亜久津の底冷えする凄んだ声は、南の最後の記憶が正しければ、一人おいておかれることの恨み言のような、ひどくかわいらしいものだった。
 跡部の家に来るようになって、神尾には幾つか気づいた事がある。
 たとえば。
「なあ、跡部。跡部の家ってさ、普通に家中に花とかあるのな」
 それも毎回違う種類の生花だ。
 庭にも多種多様に咲いているし、温室の中もかなりすごいことになっている事は、神尾も知っている。
 その上、家の中も、いつ来ても華美な花々で色とりどりの状態だ。
「家の中に花があるのは当然だろうが」
 神尾を連れて家の中を先を歩く跡部は前を向いたままそう言った。
 その口調は、食事にデザートがつくのは当然だという跡部の主張とそっくり同じだった。
 花は跡部によく似合う。
 だから家中花だらけの跡部の家も、神尾は跡部らしいなと納得している。
 それより実は兼ねてから神尾が不思議だったのは、甘いものなど食べなさそうな跡部が、食事で必ずケーキの類を口にすることだ。
 それは早い段階で、神尾も跡部に言ったことがある。
 今、花の事を告げたみたいにだ。
 それで返されたのが件の言葉だ。
 花も菓子も豊富にある跡部の家。
 部屋に連れて行かれ、閉じこもる様にして時間を過ごす回数も日増しに増えていく日々だ。
「そこ座っとけ」
 部屋に入るなり、跡部に顎で指し示された赤いソファ。
 横柄だなと神尾は若干膨れるが、すわり心地の良いそのソファは気に入りの場所でもある。
 神尾が置いてあったクッションを抱え込むようにしてそこに座ると、跡部はクリスタルみたいにきらきらとよく光る硝子テーブルから何かを持って神尾の前に立った。
「跡部?」
 無造作な仕草で跡部は瓶の蓋を捻って開けた。
 瓶をつかんでいる方の指の間には柄の長いシルバーのスプーンが挟まっている。
 跡部は薬品でも掬い出すようにして、瓶の中にスプーンを入れた。
「口あけろ」
「は?………ん、…っ…」
 聞き返している途中でスプーンが口の中に入ってくる。
 長い柄の先端を親指と人差し指で挟むようにして、跡部は瓶の中からすくいあげたものを餌付けさながらに神尾の口に運ぶのだ。 
 どうだ、と尊大に見下ろしてくる跡部の視線に、えらそうだなと思わなくもないが、神尾は素直に笑顔をみせた。
「うまい!」
 口の中に広がる甘味にゆるんだ表情を、眼差しで見下ろした跡部がいきなり屈んでくる。
 深い角度のついたキスだった。
「なっ…」
「ご褒美だ」
「………はぁ…っ、…?」
「てめえは頭は悪いが、味覚は悪くねえ」
「何、笑って…!……」
 果たして今したキスをか、それとも神尾が口に入れられた赤いジャムをか。
 跡部は何かを味わうように覗かせた舌で唇を舐める。
 舐め方がいやらしいんだよと神尾はどっと赤くなった。
 跡部がスプーンでもう一匙。
 ジャムをすくって神尾の唇に運んでくる。
「オペラ座の屋根でとれた蜂蜜が入ってんだよ」
「何それ…」
「うまけりゃ何でもいいがな」
 跡部がまた腰から屈んで神尾の唇を舐めとる。
 ジャムを食べたいなら自分だって直接食べればいいだろと神尾は思うのに。
 跡部は何故だか神尾の唇経由でいちいちジャムを食べている。
 ソファに座ったままもがく神尾など簡単に封じて、跡部は立ったままひとしきりジャムと神尾に戯れて。
 何が楽しいのか終始笑みを浮かべている。
 最近、跡部はよくこういう顔するよな、と神尾も気づいている。
 あからさまに神尾をからかってくる物言いはたちが悪いと思いながらも、実際の所それで神尾が不快になったことは一度もないのだ。
 へんだよな、と思わなくもないが事実だ。
 仕方がない。
「おい、これは?」
「は?」
 ジャムに飽きたのか、跡部は今度は部屋の中にあった花器から濃い色の花を一輪引き抜いた。
 それを神尾の顔にかざす。
 やはりソファに座る神尾の前に立ったままで、剣でも差し向けるかのような無駄に優美な立ち姿に、神尾は溜息を零した反動のように息を吸い込み、目を瞠る。
「え、…なんで?」
 じっと、目前の花を見据えてから神尾は跡部を見上げた。
「この花、チョコレートの匂いがする…」
 跡部は軽く笑ってからかうような目でまた神尾を見下ろした。
「嗅覚も悪くねえんだよな。頭は悪いけど」
「お前、それ言いたいだけだろ…っ」
 さっきから、というか、いつも。
 口癖のように跡部は神尾の頭が悪いと繰り返しては笑っている。
「シャーリーベイビー」
「……なに……花の名前…?」
「オンジウムな」
 どちらかが花本来の名前で、どちらかがその種類なのだろう。
 神尾にはさっぱり判らなかった。
 どうせまたすぐに馬鹿にしてくるのだろうと神尾は思ったが、跡部はそれ以上特に何を言うでもなく神尾の片頬を手のひらで包んだ。
 頬を撫でられると、びくりと身体が震える。
 神尾は跡部でそれを知った。
 そのままゆっくりと屈んでくる跡部は、今度はもう笑っていなかった。
 今日何度目かのキスで唇を塞がれる間際、神尾は小さな声で跡部を呼んだ。
「………跡部…」
「…………なんだ」
 ぴたりと動きを止めた跡部が憮然としているのが少しおかしかった。
 それで神尾は初めてキスの寸前に笑ってしまった。
 神尾の方のそのリアクションに跡部は不機嫌に眼差しをきつくして。
 どこか焦れたように神尾の唇に噛みつくようなキスをした。
 頭が悪いという、お決まりの台詞は、放たれることはなく。
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