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How did you feel at your first kiss?
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 桜を散らした強い風に髪を乱される。
 伸びかけの髪は、昨年の春頃の長さにはまだ到底及ばないが、それでも目元や項をくすぐる程には伸びた。
 強い風の瞬間目を閉じた宍戸が、視界を遮る桜の花びらに手を翳しながらゆっくりと目を開けていくと、隣に並んで歩いていた男の姿が視界から消えていた。
「…長太郎?」
 呼びかけて振り返れば、背後で立ち止まっていた鳳が、離れた所で同じように桜と風に吹かれながら澄んだ目を細めて宍戸を見つめてきていた。
 淡い花の色に溶け込むような色素の薄い瞳に、痛みのような光をひとしずく落としている。
「来いよ」
「………………」
 手のひらを上向きにして片手を差し伸べると、鳳は長い足でほんの二歩、それだけでお互いの距離はすぐに縮まった。
「どうしたよ?」
「……うまく説明出来ない、です」
 鳳は苦笑いを浮かべていた。
 宍戸と肩を並べ、歩き出しながら、少し憂いだ眼を宍戸に向けてくる。
「高等部の制服に違和感ってやつ?」
 まあ俺もまだ慣れねえけど、と宍戸は呟いて首元に手をやった。
 この春からの真新しい制服。
 その肌触りや着心地は、氷帝の拘りの素材で作られていているものであるのに、どうにもまだ慣れない面もあり、宍戸はカッターシャツの前釦をひとつ外した。
 窮屈というわけではないのだが、まだ新しい物のせいだろうか。
 こうしてふたつ釦を外してなんとなくほっと息をつく。
「宍戸さん」
「あ?」
「学校にいる間は、そういうふうに釦外さないで下さいね」
 今は、いいですけど、と些か歯切れの悪い鳳に進言される。
 宍戸は溜息をついた。
「上の奴らみたいなこと言うんじゃねえよ。お前」
「……言われたんですか?」
「あー…、まあ、」
 宍戸自身も自覚している事なのだが、口調の荒さや目つきの悪さのせいで、宍戸は環境が変わると大概身の回りが騒がしくなるのだ。
 それは教師や上級生からの苦言や呼び出しが主で、そこに面識のない同級生からのものも時折加わる。
 宍戸は別段喧嘩っ早い訳ではないのだが、見目はどうにもその類と思われやすいのだ。
 テニスがあるから無駄に揉め事など起こしたくないというのに、いろいろと面倒事が多くて仕方ない。
「目つきが悪いのもガラが悪いのも、元からだっつーの」
「宍戸さん」
「何だよ?」
「俺、今までにも言ったと思うんですけど」
 まだ背が伸びるのか、一つ年下の鳳を見上げる角度にまた差がついて。
 宍戸は眉根を少し寄せて更に問い返す。
「何だよ」
「そういうのはみんな、宍戸さんに興味があるからだって事、ちゃんと判ってて」
「何だそれ?」
 やさしい話し方をする甘い声が、沈みつつ強い響きで断言する。
 宍戸は風と桜に手を翳しながら鳳を見上げた。
 鳳は宍戸を見下ろしてきていたので、目と目が合って。
 自然と同時に足が止まる。
「綺麗なんです。宍戸さんは。だからみんな、宍戸さんの事が気にかかる」
「……あのなぁ」
 何を真顔で言うのかと宍戸が溜息をついても鳳は憮然としたまま真剣な目で言った。
「強い人は綺麗なんだって、宍戸さんで知るからだと思う。俺もそうだから」
「長太郎、お前な…」
 そんなこと思うのはお前くらいだと混ぜ返しても、普段従順な後輩が頑として首を縦に振らなかった。
 結局そんな埒の明かない会話は鳳の家につくまで続いて。
 今日は鳳の家に寄る約束で待ち合わせをして帰ってきたわけだから、宍戸もそのまま鳳の後についたのだが。
 部屋に入るなり、壁に背中を押さえつけられ唇を塞がれた。
 無理強いするような強引さでは決してなかったが、キスは最初から深かった。
「………、……」
 指が、震える。
 鳳の肩に取り縋っている自分の指先が震えているのを、宍戸は見ずとも感じていた。
 深いキスは深いまま長く続いた。
 何もかも封じ込めるように強く塞がれて、粘膜を舌で探られて。
 ひくりと震えた身体を抱きしめられる。
 膝が不安定に揺らぎ、それを支えるように宍戸の後ろ首を鷲づかみにしてくる鳳の手のひらの大きさに、宍戸は少し戸惑う。
 こんなに大きな手のひらだっただろうか。
 唇を貪られるだけ貪られて散り際の桜の花びらのように意識が乱れる。
「…長太郎、……」
 貪婪なキスは宍戸の言葉も乱していて、誰よりも口にする事の慣れている筈の名前が紡ぎきれない。
 日常のあらゆる行動が穏やかな鳳の、彼自身が制御しきれないというような酷く余裕のない様子は、ほんの少しも宍戸を不安にはさせなかった。
 飽く事無くキスを繰り返され、それはこの部屋に入ってからずっと。
 一時も止む事無く、壁に追い詰められて、座り込んでもされていたキスは。
 宍戸に恋情を詰め込んでくるだけだ。
 宍戸は貪欲に受け止め続けているだけだ。
「……宍戸さん」
 濡れた唇から吐き出される、少し掠れた声。
 宍戸は呼吸を弾ませながら鳳の髪を後頭部に向けて丁寧に撫で付けた。
「宍戸、…さん……」
「…………、…ん」
 正面からまた噛み付くように唇を啄ばまれて、宍戸は自ら薄く唇をひらいて鳳の舌を迎え入れながら、鳳の髪をそっと撫で付けた。
 宍戸が氷帝の高等部に上がってから、鳳は少しだけ荒いでいる。
 ほんの少し態度に滲むそれは、乱暴ではなく焦燥だ。
 首筋を噛まれるように口づけてこられて、宍戸は自分からそこを与えるように喉元を鳳に差し出しながら、柔らかい髪を撫で続けた。
 こういう鳳に触れていると不思議な感情が生まれる。
 多分自身の仕草は彼を宥めているようであるだろうけれど。
 宍戸の本心は、自分らしくもないと思いながらも、別のところにあった。
 自分の甘えを、宍戸は自覚していた。
「……長太郎、お前…」
「………………」
「お前が、俺との事で、…起きたら一番嫌な事って何だよ…?」
「………そんなこと口に出すのも嫌です」
 鳳が放った言葉は、やはりいつになく余裕がない。
 春は、そんなに不安だろうか。
 宍戸は、自分はいつも不安だと内心で思いながら、腕の中で鳳を甘やかす素振りで、結局は自分が甘えていると知っている。
 一緒にいられる時間が減ること、環境が変わること、おそらくそんな事よりもっと、怖いことがお互いにある。
 鳳は、別れることが一番嫌なのだろう。
 宍戸もそれは嫌で、でも、それよりもっと嫌な事もある。
 だから鳳の頭を抱きかかえるようにして告げるのだ。
「俺は、お前が俺の事で後悔する事だよ」
「…宍戸さん?」
「お前が俺に飽きたり、嫌いになったりするほうが、まだいい」
 それだって決して望んでなどいないけれど。
「宍戸さん、何言ってるんですか」
 見たこともないほど不機嫌に、そして狼狽もした鳳を抱き寄せて。
「俺は、それよりお前が、これまで俺といた事や、した事を後悔したら、それが一番怖い」
 これまでを、今を、これからを、後悔されたくない。
 願いはそれだけだ。
「……何言ってるんですか、宍戸さん」
「………………」
「何でそんな有り得ない事、そんな顔して言うの?」
 鳳の声が苦しそうに聞こえて、宍戸は伏せていた目線を上げた。
 至近距離から見詰め合って、そっと尋ねる。
「……有り得ないのか?」
「当たり前でしょう…!」
「じゃあ、本当に、当たり前にしてくれ」
「宍戸さん」
「俺は、怖いから」
 怖いと。
 怖い物などなにもないと考えていたそれまでの自分とはまるで違うことを、伝える。
 たった一人にだけ思う事を。
「………宍戸さ、…」
「………………」
 今度は宍戸の方から、その唇を塞ぐ。
 壁から背を離し、鳳の唇を塞いだままのしかかるように鳳の上になる。
 鳳の上半身は動きに添って倒れ、床に仰向けになった。
 その体勢でひらりと、何かが宍戸の髪からか肩からか落ちる。
 それは桜の花びらが一枚。
「………………」
 宍戸は見下ろした。
 鳳は見上げた。
 桜。
 その薄い色の花びらを浴びていた時の宍戸を見ていた同じ目で、鳳は僅かに目を細め下から腕が伸ばされ。
 宍戸は鳳の胸元に抱き寄せられる。
 身体と身体が密着して、声は鼓動のように伝わってくる。
「俺がもし、宍戸さんのことで後悔するとしたら……それは俺が一番嫌な事を、阻止できなかった自分にだから」
「……長太郎…」
「ぜんぶ、必ず、当たり前です。宍戸さん。だからそんなこと怖がらないで」
「長太郎…」
 はっきりとした言葉で断言されて、それは宍戸が慣れ親しんだ優しい鳳の声音をより深く、強くしていた。
 宍戸はこの場所で息をつく。
「………お前が嫌で、怖いと思うような事、俺がするわけねえだろ…」
「宍戸さん…」
「だからお前も、考えなくていい。そういうの」
 身体を浮かせて、唇を重ねる。
 角度を変えてキスをして、贈り、贈られる、行き来するキスで身体を寄せて。
 紛れ込んだ一枚の桜の花びらが、今どこにあるのかは、判らなくなっていた。
 小さな不安も、恐らくはその程度のものであるように。
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 足音、体温、彼の気配。
 空気の密度が変わったようにも思える身に覚えのある変化に、海堂はもうそこに誰がいるのか判った上で振り返った。
 そうして瞬間息をのむ。
 いきなりの距離の近さ。
 おはよう、と顔を近づけて囁いてきた相手の、上半身を屈めているその角度に、ふと、背が伸びたんだな、とも気づく。
 真新しい制服に包まれた体躯は、まだ成長するようだ。
 海堂が目礼を返すと、極自然に海堂と肩を並べて歩きだした乾は、この春、高等部に進学した。
「桜、咲いたなぁ」
「………そうっすね」
 のんびりとした物言いをする低い声に同意すれば、ただそれだけのことで、乾に笑みで甘く煮詰めたような目で見つめられる。
「花見した? 海堂は」
「……人混み嫌いなんで」
「俺も」
「………あんた、そういうの気にしなさそうだけどな」
 いつもは苦労する事も多い、取り立てて意味のないような言葉がするりと唇から零れ、会話が紡がれていく。
 それは取り立てる事のない普通の出来事なのかもしれなかったが、海堂にしてみれば、今となってもやはりそれは不思議で特別な事だった。
 乾だけが海堂から言葉を引き出すのだ。
「人が話してたり、してたりする事に、どうしても意識がいくんだよなぁ…」
 そういう事なら言っている意味も判ると海堂は納得した。
 乾は集中型で没頭型だが、一度に多方面から物事をとらえられる分、そして時間をひどく惜しむ性質の分、何もしないでいるとか何も考えないでいるという事が難しいようだった。
「桜は好きなんだよ。どうせだったら誰もいないような所で静かに見たいもんだけど、まあ無理だろうなそれも」
「………………」
 ふ、と零された溜息を見つめ上げて、目があって。
 何だろう。
 この男の近くは、こんなにも気持ちが澄む。
「…あれ。もしかして無理じゃない?」
「………………」
 目と目を合わせただけで心情を汲まれて、海堂は淡く苦笑いした。
「朝は人いない」
「走ってる時?」
「………っす」
 慣れた早朝ランニング、地元から少し離れた所の桜並木を走り抜けるのは海堂も好きだった。
「七時くらいか?」
「…六時」
「相変わらずだなあ海堂は」
 低く笑い声を響かせて、乾は頭上を仰ぎ見た。
「………………」
 反らされた喉もとの隆起に目をやって、目を閉じた乾の和らいだ表情を見て、海堂の唇は動いていた。
「………行きますか」
「ん?」
「桜。……朝」
 誰かを誘う。
 それだけの事が海堂にとってどれだけ特別な事か。
 判っているのは、誰よりも、乾だ。
「いいの?」
 艶のこもった低い声は嬉しげで、海堂が驚くほどに密やかに赤裸々だ。
「ひとりじめでなくなっても、いい?」
「……そんな風に考えた事はなかったですけど。あんたこそ…誰もいない訳じゃない桜でもいいのかよ」
「海堂がいるよりも良いことなんて俺にはないよ」
 淡々とした声で、とんでもない事を言って、乾は海堂を絶句させる。
 優しい眼差しで、信じられない事を告げて、乾は海堂を戸惑わせる。
 中指で眼鏡の軽く引き上げて、乾は唇の形もやわらかく笑いに引き上げて。
「嬉しい」
 何の衒いもなく、取り繕いもなく、大人びた風貌で、いっそ邪気なく微笑むのだ。
 海堂の気持ちを未経験に揺らし、心音を乱し、何かが溶ける、何かがほどける、乾が全て、そうしてくる。
 自分の知らない、判らないことだらけだけれど。
 与えてくるのが乾だというだけで、海堂は安心した。
 意固地で頑なで融通のきかない自分の中にも、ひょっとするとやわらかいものがひそんでいるのかもしれない。
 それをきっと、乾は取り出してくるのだろう。
 これからどうなるのか判らない、そんな自分にも、不安はまるでなかった。
 何につけ、神尾は跡部に怒られたり呆れられたり馬鹿にされたりするのだ。
 何で、これだけの事を言われたりされたりして嫌いにならないのか、自分自身が不思議でならない。
 今だって。
「……っ……、ぅ…」
「………………」
 今だって、あれ、何だっけ?と、神尾はぼうっとした頭の中で迷った。
 思えば考え事などとても出来ない状況にある神尾は、どんどん濃密さを増してくる接触に、せいぜい息を詰まらせているのが精一杯だった。
 強引で甘ったるいキスは随分長い。
 何だか思い出せないのだけれど、今しがたまで散々に毒舌をふるっていた、その口と同じ口だとは到底思えないほど。
 キスは、神尾がじわじわと赤くなり、次第に目を潤ませて、思考も麻痺していく程に。
 強くて、深くて、濃くて、丁寧で。
 そう、丁寧で、丁寧で、本当に丁寧で。
 何だかもう、ずっと、ずっと、こんな状況だ。
 強引だったものがいつの間にかすごく優しくなっていて、ふんわりと唇を覆い、やさしくあまい舌が神尾の口腔を撫でていく。
 神尾の右肩をかるく包んでいる跡部の左手も温かい。
 あれ、何か、すごく、やさしくないか、と神尾が戸惑った時だ。
 唇が離され、跡部の声が間近から聞こえてきた。
「………瞬きするな。擽ってえんだよ」
「…、え……?…」
 当たる、と至近距離で跡部が片目をすがめている。
 そちら側の頬に、神尾の睫毛が当たると言われているらしかった。
 その口調に、ほんの少し、キスをする前の跡部を思い出す。
 どういえば、何か、やけに絡んでくるみたいなこと言い出したんだよな、と神尾が跡部の言動を思い返していると、跡部は結局神尾に返事もさせず、また。
「…、ん」
 角度をつけて、唇を重ねてきた。
 啄み、深く塞がれ、離れて、ひらかれて。
 何かされる度、神尾は小さく息を詰まらせて震えた。
 跡部の指先が神尾の髪をいじり、舌が舌をくすぐり、とろりと呼吸が交ざる。
 泣きたい訳ではないのに目がじわっと潤んできて、神尾がどうしたらいいのか判らなくなった瞬間をさらうように跡部が両手で神尾を抱き締めてきた。
「…………ふ…っ、…ぅ」
「神尾」
 すっぽりと全身を包むように抱き締められ、髪に口づけられる。
「小さくなってんじゃねえよ」
 笑い交じりにからかわれて耳を唇で辿られて。
 跡部の指摘通り身体を竦ませてしまっていた神尾は、抱き締められるまま、ぎこちなく身じろいだ。
「震えんな。体温上げんな。エロい声出すな」
「…、し…てな…、」
 からかっているのか怒っているのか、つかみづらい声で跡部が矢継ぎ早に言う。
 どうリアクションしていいのかまるで判らず、神尾は戸惑ってしまう。
 服の上から跡部に身体を撫で回されて、足元がふらついた。
「ちょ、……っ…、ゃ、…っ、ッ」
「するなっつーことばっかしやがるな、てめえは…」
「ん…っ……、…く……」
 足の間に強引に跡部の片足が入れられ、腰を鷲掴みにされる。
 それと同時に耳のすぐ下を舐められて、吸われて、神尾はびくびくと震えながら跡部の背中のシャツに取り縋る。
「っ…ゃ……ぁ……」
「………っとに、よぉ…」
 むかつく、と。
 本当に怒っているのか、本当にからかっているだけなのか、判別しがたい口調で吐き捨てた跡部が、手酷く腿で神尾の両足の狭間を押し上げ、神尾の両手首を部屋の壁に押し付け、唇をきつく貪ってくる。
 やっぱり、こうして。
 跡部は怒ったり呆れたり馬鹿にしてきたり、するのに。
 神尾はそうされながら、何故か、甘ったるいおかしな感情を詰め込まれている気分になる。
 唾液が撓むようなやり方でキスが終わって、神尾が朦朧と跡部のことを考えていると、跡部も、何だか似たような事を言い出した。
「お前の頭の中身があまりにも空っぽすぎて、詰め込んでも詰め込んでも、欠片も理解しねえのが本当に腹立つんだよ」
 凄むような目と、口調と。
 怖くはないけれど、戸惑って、神尾は少しだけ瞳を潤ませる。
 泣いた訳ではなく、それこそキスがあまりにも凄すぎたのだ。
「気づけってのが、無理だな。てめえには」
 その空っぽの頭でも理解できるように言ってやる、と尊大に宣言されて。
 神尾は初めて、言うなれば告白のようなもの、を跡部から浴びせかけられた。
「あとべ、じゅんばん、ヘン…くない…?」
 何だかもう、する事はしてるし。
 キスだけじゃなくて、全部、冬にはもうあらゆることを跡部にされまくっているのに。
 春になって、桜も咲きそうな今時分になって、今、それ言う?と神尾はキスで切れ切れの息の下、言って、笑った。
 でも、ずっと、跡部もそうだったら嬉しいかも、と神尾は思っていたので。
 言われたら、嬉しかったので。
「俺も、ずうっと、好きだったけど?」
 そう言ってやったら、跡部は。
 神尾の初めて見る跡部になった。
 神尾の初めて知る跡部になった。
 桜の季節の話だ。
 出迎えに出てきた鳳に、宍戸は右腕を突き出した。
 右手に持っているのは家から持ってきたエコバッグで中にはいっぱいに詰め込んだ蜜柑が入っている。
「土産」
「ありがとうございます!」
「ただの蜜柑だぜ? 大袈裟だなぁ…お前」
 鳳の満面の笑みは宍戸が面食らう程で、溜息混じりに言った宍戸に鳳は尚も笑う。
「大袈裟だなんて事ないですよ。宍戸さんからの頂き物ですから」
「そうかよ。ちょうど俺が家でて来る時に、田舎から宅配で届いたんだよ。親がお前んとこ持ってけってうるさくてよ」
「よろしく伝えて下さいね。本当に。ありがとうございます」
「だから大袈裟だっつーの」
 宍戸がいくら口調を素っ気無くしても、鳳の笑顔は変わらない。
 促されるまま、宍戸はエコバッグを受け取った鳳の後について彼の部屋に行く。
 相変わらず広い家だ。
 さすがにこれだけ訪れていれば迷うことはないけれど。
 扉を開けた鳳のすぐ後ろから、宍戸も鳳の部屋に最初の一歩を踏み入れて。
 まず聞かれる。
「何か飲みますか?」
「いや、いいよ」
「キスはしてもいいですか」
「……口調も変えないで何言ってんだお前は」
 部屋に入るなりそれだ。
 正式にはそれが理由ではないけれど、宍戸は呆れ混じりに溜息をつく。
 本当に鳳に言いたい事は。
「嫌っつった事ねえだろ」
 言うなり鳳は宍戸の肩に手を置いて屈んできた。
 最初から薄くひらいた唇が、高い位置から近づいてきて。
 重なる寸前、宍戸も唇をひらいた。
「………………」
 舌と舌とが触れる。
 やわらかい器官が密着して、お互い触れ合っているのは唇と舌だけなのに、ひどく近くに在る気がする。
 キスの長さは一呼吸分だ。
 小さく濡れた音でキスはほどけた。
「………、……ふ…」
「宍戸さん」
「……んだよ…」
 それでも乱れてしまう呼吸を誤魔化したくて、宍戸の口ぶりは愛想のないものだったにも関わらず。
 鳳は甘い視線を向けてきて、もう一度短く宍戸に口付けてきた。
 啄ばむ仕草で唇と、頬とに。
 それから肩に置いていた手で丁寧に宍戸の背中を抱き締めてから、名残惜しげに宍戸の首筋にも唇を寄せた。
「おいー……」
「痕はつけてない、です」
 我慢してます、と笑み交じりの鳳の宣言に。
 それでも口付けしやすいようにとでもいうような動きで自らの首筋を与えてしまう宍戸は鳳の髪を咎めるように軽くかきまぜた。
「月曜日の一時間目から体育って、宍戸さんのクラスの時間割ってすごいですよね」
「お前日曜日の度に、ほんとそれ言い続けたな」
「高等部行っても、宍戸さんの時間割下さいね」
「まだ当分先の話だろ」
「はい。だから予約ってことで」
「お前以外に欲しがる奴なんざいねえよ」
「いてもあげないで」
 肩越しにゆったりと笑んでみせて、鳳は宍戸の腕を引いた。
 家の中で手を繋いで歩くというのもどこか不思議な感触だ。
 それがこの馴染んだ手でもだ。
「………………」
 宍戸は鳳に促されるまま部屋の中央のラグマットの上に腰を下ろす。
 硝子のローテーブルの上に鳳は宍戸が手渡した蜜柑の入ったバッグを置いた。
 そして宍戸の向かい側に鳳も座り、中から蜜柑を数個取り出す。
 宍戸は鳳のその手を自らの手で止めた。
「宍戸さん?」
「食うんだろ」
「ええ……そのつもりで取りましたけど……あの?」
 不思議そうに首を僅かに傾けている鳳に構わず、宍戸は彼の手にあった二つの蜜柑を奪い取る。
 皮を剥く。
 果実へと差し込んだ親指と、人差し指とで。
 花びらのように蜜柑の皮をひらいていく宍戸の手元を鳳はじっと見つめていた。
 宍戸は皮を剥きながら言う。
「沁みるだろーが」
「え?」
「蜜柑だよ」
 手ぇ切れてんだろうが、と宍戸が軽く顎で指し示して初めて鳳は自らの手を見下ろした。
 その様子に宍戸は皮から引き剥がした丸い果実を更に一房ずつばらしていきながら呆れる。
「なんだよ。お前。気づいてなかったのか?」
「気づきませんよ、この程度の………宍戸さんはどうしてこんな小さい切り傷に気づくんですか」
 こんなですよ!と鳳が突きつけてきた人差し指は、骨ばっていてもすらりと長く、その指先にあるのは小さかろうが何だろうが紛う事なき切り傷だ。
 何を言ってるんだこいつはと宍戸は鳳を見つめ返して即答する。
「んなの、見りゃ判んだろ」
「………宍戸さんー…」
「お前、蜜柑って、まだ剥くのか皮」
 これでいいよな、と指先に摘んだ一房を鳳の口に入れる。
 でもそうやって口を封じられたせいか、尚更じっと鳳に見据えて来られて。
 宍戸は面倒くせえなあとぼやきながらも手元の蜜柑の皮を更に一つずつ剥いていく。
「宍戸さん」
「やってる。もう少し待ってろっての」
 もう、そうじゃなくて、と溜息とも詰りとも取れる一言を零した鳳が、テーブルの向こう側から身を乗り出してくる。
 手元に落ちた影に宍戸が視線を上げたのと唇が塞がれたのとは同時だった。
「………………」
 蜜柑の味がした。
 舌が、奪われる。
 音も、する。
 角度が変わって、粘膜が密着して。
「宍戸さん」
 キスがほどけて、宍戸はゆっくり瞬きする。
 両頬を包んでいる鳳の手のひらの片方に自ら顔を預けてから、宍戸は鳳の人差し指に唇を寄せた。
「沁みても知らねえぞ?」
 唇を笑みの形に引き上げて言った宍戸は、鳳に何だか呻くような声で名前を呼ばれた。
 テーブルを押しのけるようにした鳳に幾分乱暴に組み敷かれる。
 沁みても知らないとは言ったものの、鳳のその指を決して濡らさせたりはしないよう心に決めてから、宍戸は自身の喉元に口付けてきている鳳の頭にそっと手を伸ばした。
 昼休み、乾はふらふらと部室に現れた。
 案の定だと部室で彼を迎え入れた海堂は思う。
 長身を幾分丸まった猫背で普段よりも少しだけ小さくして、それでもゆったりと和んだ笑顔で乾は近寄ってきて、海堂の隣に座った。
「待たせた?」
 ごめんな、と低い声で囁き乾は海堂の顔を覗きこむようにした。
 部室の長椅子は充分ゆとりがあるのに、互いの距離は随分と近い。
 海堂は乾と目線を合わせて、小さく首を左右に振る。
 そっか、と乾は笑った。
 乾は何だかいつもさりげなくて優しい笑い方をする。
「………………」
 以前は、乾はもっと、せっかちというか、マイペースな男だと、海堂は思っていた。
 知識欲旺盛で、独自の行動をとるから、そう見えていた。
 乾の言動は突拍子がないと感じていた海堂だったが、次第に海堂にも、乾の慎重で丁寧な部分が判るようになってきた。
 そういう乾が海堂に深い理解と強い信頼をくれるから、海堂は随分と気持ちが楽になる。
 今も、昼休みに部室でという唐突な海堂の呼び出しに、乾はおそらく不思議に感じているだろうけれどもいきなりそれを尋ねてきたりはしない。
 海堂の隣でしっかりと目線を合わせての笑みを浮かべた後は、ふっと気配を散らせてくれる。
 それは海堂の一呼吸分だ。
「呼び出してすみません」
「いいや? こっちこそ」
「…は?」
「機嫌よすぎて悪いね」
「………何っすか…それ」
「言葉のままだよ」
 確かに機嫌の良さそうな、やさしいやわらかな口調だ。
 自分といると乾は時々こんな風になる。
 それが判ってしまって海堂はほんの少し戸惑って。
 でも、多分他の誰にもしない行動を、それで乾にはとってしまうのだ。
 海堂は乾の肘あたりの制服に指を伸ばす。
 きゅっと握りこんで軽く引くと、おや?というように乾が海堂の手を見下ろした。
「……ん?」
「呼び出したのは…」
「うん」
「ちゃんと起こすんで」
「海堂?」
「少し、寝た方がいいです……あんた」
 びっくりしたように海堂を見つめてくる乾の腕を、海堂は視線をずらして引っ張った。
 少々無理矢理に。
 乾は逆らわなかった。
 すべて海堂がしたようになる。
 乾は仰向けで海堂の腿の上に頭を乗せ、突如変わった体勢のバランスをとるように長い足を片方膝から折り曲げて長椅子の上に乗せ、もう片方を床についたまま海堂を見上げてきた。
 骨ばった大きな手の片方は腹部の上に乗っていて、逆の手は長椅子の上から少しはみ出るように伸ばされていた。
 頭だけ海堂の腿の上に、四肢は脱力して投げ出されていて。
「………………」
「気づくと俺はこんな風にすごく役得な体勢なわけだが……」
 それこそ嬉しそうな笑みをひとつ唇に湛えて、乾はゆったりと海堂の膝枕の上で最後の力を抜いてきた。
 海堂は黙って乾の眼鏡をとった。
 慎重にそれをテーブルの上に置き、右の手のひらで乾の目元をそっと覆った。
 昼間のあかりを遮る為。
 それから、疲れている目は手のひらで包むように覆ってやれば体温の蒸気で温められると聞いたからだ。
 じんわりと目が温まるのか、暫くすると乾の唇からちいさく吐息が零れた。
 海堂も微かに息をもらし、囁いた。
「寝たら起きれないかもしれないから、寝ないでいるっていうの、止めた方がいいっすよ……先輩」
「そうだなあ」
 また、ちゃんと、寝てない。
 それが今朝海堂が乾を見て最初に感じた事。
 だから昼休みにこうして呼び出した。
「それから、寝て起きてもどうせ眠いなら寝なくても一緒だっていうのも…」
「うん」
「変っすよ」
「うん」
 乾の目元を手のひらで覆って。
 腿を枕代わりにして。
 目覚ましのアラームの代わりもする。
 それくらいしか出来ないけれど。
 本当はもっと上手に、何か出来ることは他にあるかもしれないけれど。
 今の海堂にはこれが精一杯だ。
 今朝、乾と最初に会った時からずっと海堂は考えていて、結局出来るのはこれくらいのことだけれど。
「海堂」
「……はい?」
「じゃ、お言葉に甘えて」
 乾の唇の端が笑みの形に引きあがる。
 海堂はそれを眺め下ろして、見えていない相手に頷きだけで返した。
 乾はちゃんと判ってくれて。
「………あー……そういえば、朝弱い人でも効果的に目覚める方法ってさ…」
「……喋ってないで寝て下さい。昼休みそんなに時間ねえんだから…」
 呆れ混じりに海堂が言えば、乾はふわふわと笑いながら、最後にこれだけとどことなく眠気の滲んで蕩けたような低音で言った。
「目を覚まして、起きたらすぐにできる楽しみを、何かひとつ用意しておくことだって言うよな」
「楽しみ……っすか…」
「そう。……例えば、甘いものが好きなら、プリンでもケーキでも、起きたら食べられるってものを用意しておく。聴きたい音楽があればそれを用意しておく。そういうの。ご褒美みたいな感じかな」
 確かに、その心理はよく判る。
 海堂が、早起きが然して苦痛でないのは、日課の早朝ランニングがあるからだ。
 走るのが好きで、その為の起床時間を厭うことはなかった。
 海堂が黙って聞いていると、乾はまたあのやわらかな笑みを零して小声で言う。
「目を覚ました時に最初に見るのが海堂で」
「………………」
「その海堂に起こしてもらえるかと思うと、起きるのが楽しみだ」
「………………」
 それは聞いた側から消えていくような、小さくささやかな声音だったけれど。
 海堂の胸に、すうっと忍んで、微かな熱を放って、そこに定着する。
 気持ちの住処に定着する。
「………………」
 寝入っていく男を腿に乗せ、目元を丁寧に覆い、海堂は空いた手を、乾の腹部の上、そこに乗せている手の上に重ねた。
 跡部はうっすら目を開けた。
 間近に見えるのは神尾の瞼の薄い皮膚の色と、上の空の気配だ。
 上の空。
 構っている相手からそんな態度をとられれば、普通は腹がたつだけだが、よりにもよって、と跡部は眉根を寄せた。
 むかつくはむかつくのだが、単純にただ腹をたてている訳ではない自覚もしつつ跡部は目つきをきつくする。
「…おい」
「………、……ふ…」
 キスを強引に止め、唇を引き剥がすと、跡部がソファに組み敷いて貪っていた唇からは細い熱い息が漏れた。
 至近距離から見下ろせば、閉ざされていた瞼が開いて、瞬きする震える睫の下でその目は潤んでいた。
 赤くなっている頬を多少手荒に指先で擦ってやって、跡部は不機嫌に凄んだ。
「本当にてめえは俺を苛つかせるのだけはうまいな」
「…え…?………」
 必要以上にきつくなってしまった物言いは跡部の本心を隠す虚勢にすぎなかったのだが、潤んだ目の神尾はひどく不安げに跡部を見上げてきた。
「ごめ、……」
「………………」
 そんな顔をするくらいならキスのさなかに上の空になどならなければいいものをと跡部は嘆息した。
 跡部の溜息に神尾が小さく竦む。
 つながっていた視線が神尾の方から解かれそうになって、跡部は逃げかける小さな顔を片手で包んでもう一度口付けた。
 残り火の再燃のように、飢えに微かな火がついて。
 舌で深く口腔を貪ると神尾の子供っぽい手が懸命に跡部のシャツを掴んで取り縋ってくる。
 不器用な手つきだ。
 でも、それを感じている跡部のキスも、多分神尾のそれと同じようなものだった。
 不器用に自分達はいつも手探りだ。
 お互いの事には、いつもこうしてたどたどしくなる。
 ひとしきり黙ってキスを交わしてから、跡部は引き千切るようにして唇を離し、神尾の喉元に顔を埋めた。
「……跡部…?」
 だからそういう心細げな声を出すくらいならな、と跡部は憮然として。
 しかし、黙っていても神尾に通じる訳ではないので、投げやりに言ってやった。
「他のこと考えてんじゃねえよ。生意気に」
「え?……や、…そ…ゆーんじゃなく…」
 跡部の肩あたりのシャツをぎゅっと両手で握りこんだまま、神尾が慌てた声を出す。
 ちがうちがうと言い募る懸命さに少しばかり跡部の気も晴れた。
 むかつくだけならまだいい。
 キスをしているさなかに気も漫ろにされて、それがただ純粋に嫌なのだからどうしようもないと、跡部は自嘲を決して見せずに嘆息する。
 黙ったまま神尾の喉元に顔を伏せていると、どうやら神尾には荒い声を放って怒鳴るより、よほどこういう態度の方が堪えるのだと跡部は知った。
「跡部。違うってば」
「………………」
「跡部ー。なーってば」
 せいぜい戸惑えばいい。
 跡部が答えないでいると、案の定と言うべきか、神尾は跡部を両腕で抱き締めるようにしておろおろし出した。
「な、跡部、…なぁ、ごめんってば…」
「………………」
 ぎゅうっと。
 しがみつかれているんだか抱き締められているんだか判らない感触に包まれて、跡部は完全に脱力した。
 薄い身体に体重をかけても、神尾は苦しがるよりも、相変わらず慌てているままだ。
 細いけれどもしっかりとした腕で跡部の背中を抱く神尾は、生意気にも跡部の背中を宥めるように叩いたりして、さすったりもして、むやみやたらに一生懸命だ。
「違うんだよう。数字がさ、四がさ、不思議だなーって思ってただけなんだって」
 突然神尾が言い出した言葉の意味が、跡部にはまるで判らなかった。
 無言でいる跡部に神尾は尚も必死だ。
「増やして読むとさ、し、なんだけど、減らして読むと、よん、じゃん」
「……ああ?」
「な、不思議だろ?」
「…………お前の頭の中がな」
「へ?」
 跡部はゆらりと頭を持ち上げる。
 上げた視線で剣呑と神尾を見据えると、神尾がぱちりと音でもしそうに瞬きした。
「…跡部?」
「てめえは、そんなくだらねえこと考えてやがんのか…!」
 キスのさなかにと跡部が怒鳴ると、神尾は一気に赤くなった。
 あ、とか、う、とか、声にならない形で唇が動いている。
 どうして今更これくらいでそこまで赤くなれるのか。
 跡部には理解不能だ。
「だ…、…跡部が、…!」
 あまつさえここで人のせいにされる筋合いもない。
「俺が何だ」
 憮然と跡部は促した。
 明晰な頭脳を持つ跡部でも、神尾の考えそうな事というのは案外予想がつかない。
 そんなくだらない事に気をとられるようなキスをした覚えもないがと跡部は不機嫌に神尾を睨みつけた。
「俺が、何だ」
 言葉を区切って睨みつけてやると、神尾はちょっと涙目になった。
 普段から仮に跡部が怒鳴ろうが不機嫌になろうがまるで怯まない神尾だ。
 その涙目は羞恥からきているものらしかった。
「俺、もう帰るって、四回目、だぞ。言ったの」
「………ああ?」
 跡部は怪訝に眉をひそめた。
 案の定神尾が更に訳の判らない事を言い出したのだ。
「四回も、もう帰るって、言ってんのに」
「………………」
「お前、そのたんび、…キス、とか…するし…!」
「……とかって何だ。それ言うなら、しか、だろうが」
 キスしかしてねえだろと毒づくと、神尾は拳を握って、その手の甲を口元に押し当ててますます赤く茹だった。
「だ…っ、…から! あと、十秒…だけって、そしたら、今度こそ帰るんだって、数えてたら、…そしたら、よんが、あれ?って…!」
「神尾。…お前な」
「そしたら、四がさ…!」
 四が!と叫ぶ神尾に跡部は頭を抱えたくなった。
 数々の事実にだ。
「………………」
 四回も阻止したのか自分はと、無意識の己の行動を突きつけられ。
 神尾はそんな赤い顔をして、そういえばキスを抗う素振りはなく、どうやらやめなければならないキスをとめられなくて、小さなタイムリミットでずるずると先延ばしにしていたと。
 そう神尾は言っているらしい。
 四が!と相変わらず色気も何もない言葉を叫ぶ神尾の姿に煽られる自分もどうかしていると跡部は思いながらも。
 神尾の両手首をソファに押さえつけた。
「……跡…、…部…?」
「………帰るって、十回言えたら、帰してやる」
 あと六回な、と吐息程度に囁いて跡部は神尾の唇を塞ぐ。
 神尾の手首に力をかけて、咄嗟に少しだけもがいた神尾の動きを遮った。
 ひとしきり貪って、小さな喉声が幾分苦しげになったので僅かに唇をずらしてやると、濡れたような呼気を吐き出して神尾が跡部を涙目で睨む。
「言…え…ね、じゃん……っ…、なんにも、これじゃ」
 赤い顔で抗議してくる神尾の顔を、跡部は満足気に眺め下ろして、濡れた唇を啄ばんでからまた舌を挿入させる。
「んん、…、……っ…」
「言えなきゃこのまんまだからな。お前」
「…っ……門限…、あん…だよ…」
 知ってて何で意地悪ばっかするんだよと切れ切れに神尾に叫ばれて、跡部は楽しくて仕方がなかった。
 そこまで話せるならば、さっさとあと六回。
 帰ると言えばいいものを。
 そう思うと楽しくて仕方がなかったのだ。



 十回に。
 到達しないと帰れない神尾は「し」と読むだろう回数を、跡部は心のうちで「よん」と読むのだ。
 逆からのカウントダウンは、ラスト一回をおそらくひどく名残惜しく思うからだ。
 宍戸のココアに勝手に角砂糖を放り入れた男は、不遜な笑みで宍戸を見下ろしてきた。
「テメェ……跡部、何の真似だ」
 瞬間は呆然と、すぐに目つきも口調も荒く宍戸は跡部を睨みつけた。
 放課後のサロンは混雑のピークを過ぎて人影も疎らだ。
 一見険悪そうな雰囲気にも人目は然程集まらない。
「へこんだ時は、普段飲まないような甘い飲物をオーダー。お前の行動パターンは変わんねえな」
「………………」
 整いすぎて怖いとまでいわれている顔に冷笑を浮かべ、跡部は宍戸の向かいの席に勝手に腰を下ろした。
 宍戸が学食で買ってきてこのサロンまで持ってきたココアは、まだ湯気をたちのぼらせたまま手付かずだった。
 勝手に人の行動パターンをよむ跡部自身にも腹が立ったが、よりにもよってと宍戸はココアのカップを見据えて呻いた。
「ココアに砂糖入れんじゃねえよ!」
「今月から甘みを減らさせた」
「あ?」
「ココアというからには、相応のカカオの味を前面に出せっつったんだよ。砂糖味のココアなんざ飲めるか」
「お前の好みでクレームつけてんじゃねえよ」
 跡部の言い草に呆れた宍戸は、しかしある意味跡部ならそれくらいは普通にするだろうと思い、憮然とした面持ちでカップに手を伸ばした。
 スプーンでひとまわししてから口をつけて、ひとくち飲んで。
「………………」
「どうよ? ワンパターン行動のお前の好みの味だろ」
「……うるせえよ」
 しっかりとしたカカオの濃い香り。
 跡部が勝手に放り込んできた角砂糖の分で、確かにちょうどいい、今宍戸が飲みたかった味がする。
 向かい合って座って同じような目の高さになっても、跡部は見下ろすような目をしてみせる。
 尊大で、そして。
 相変わらず濃やかに状況を理解している男だ。
 宍戸がひっそりと溜息をもらすと、跡部は腕組みをして椅子に寄りかかった。
「随分長引いてるじゃねえの」
「……知らねえよ」
 完全な個人主義のくせに、跡部は時々個々に直接手を差し伸べるような行動を起こす。
 本当に時々。
 ささいな事では口を出してこない男だから、いい加減目に余るのかもしれない。
 そう思うと宍戸も反発し辛くなる。
「放ってあるのか? それとも修正も効かねえのか?」
「さあな……」
 答えるなり宍戸は向こう脛をテーブルの下で蹴られた。
「痛ぇだろ!」
「知るか!」
 怒鳴りあって、口を噤んで。
 沈黙の後、結局宍戸は溜息だ。
 不機嫌そうな跡部もまた、席を立ちはしない。
「いい加減鬱陶しいんだよ。お前ら」
「悪かったな、鬱陶しくて」
「普段無駄にベタベタしやがってるから鬱陶しさが倍増すんだよ」
「別にベタベタなんざしてねえし」
 ただ。
 ここ数日は、確かに。
「……確かに、自分でも鬱陶しいとは思ってんだよ」
「鳳がか?」
「アホ。何で長太郎がだ」
「庇うくらいなら揉め事なんざ起こすな。バァカ」
 辛辣で遠慮ない物言いの跡部に、結局本人は不本意だろうが、心配をされている訳だ。
 宍戸は次第に反発する気もなくなって、ココアを一口ずつ飲みながら心情を吐露する。
「鬱陶しいのは俺だ。…ダセェ」
「痴話喧嘩だろうが。どうせ」
 跡部は腕を組んだまま唇の端を引き上げた。
「見当違いの嫉妬でもして、精々言わなくていい事でも言ったんだろ」
「……最初は」
「それでさすがに言われた方もきれて、派手に言い争ったまま険悪ムードって?」
「どこで見てたんだ、お前」
「見るまでもねえだろ」
 呆れた溜息を吐き出し跡部は説教じみた口調で宍戸に言った。
「鳳が、よそに目いく訳ねえだろ。俺様にはさっぱり判らねえが、お前以外に何の興味もねえようだしな。あいつは」
「あー…、…跡部。いっこ訂正しとくわ」
「ああ?」
 長く続きそうな話を遮って、宍戸はカップに口をつけながら、ちらりと上目に跡部を見やった。
「お前の予想はだいたい合ってっけど、逆だ」
「逆?」
 不審げに眉根を寄せた跡部に、宍戸は歯切れ悪く伝える。
「見当違いの……ってのが長太郎で。…きれたのが俺だ」
 秀麗な面立ちをあからさまに歪めた跡部に、宍戸は尚も告げる。
「……で、お前だ」
「俺だ?」
 頭のいい男は、一瞬怪訝そうにしたものの、すぐに全部を理解したらしい。
 宍戸の目の前で心底うんざりとした顔で怒り出した。
「俺とお前で何を考えるんだあの馬鹿は」
「俺だってそう言った」
 でも、判ってない、と鳳は宍戸の前で呻いたのだ。
 恋愛感情の話だけじゃないんです、と言って宍戸の肩を握りつぶしそうに強く掴んで、叫んだ。
「お前の言う通りだよな、跡部…」
「宍戸?」
「俺が、よそに目いくわけない。あいつ以外に何の興味もない」
 少しずつ冷めてきた甘い飲物を飲みながら、宍戸はぼんやりと呟いて。
 思い返せば、今こうして何日も口がきけなくなるくらい、あの時何を言い合ったのかと不思議になる。
「……ったく、どいつもこいつも」
「…跡部?」
 ふと耳に届いた呻き声に宍戸は顔を上げた。
 跡部が、取り繕った表情ではなく、判りやすい明け透けな顔で前髪をかきあげて嘆息している。
「人を勝手に当て馬にしやがって」
 不機嫌極まりないその様子に、宍戸も気をとられてしまう。
「跡部…お前」
「クソ生意気な二年ばっかじゃねえかよ」
「長太郎は生意気じゃねえだろ」
「この期に及んでまだ庇いたてするのかお前は」
 心底呆れた目を跡部から向けられて、さすがに宍戸も気恥ずかしく押し黙ってしまった。
 無意識のうちにだが、どれだけ揉めているさなかであっても、やはり鳳の事であれば宍戸は聞き流せないのだ。
「日吉の野郎も、勝手に人を当て馬にしやがるわ…」
「若?…って、もしかして、滝と、お前?」
 芯の強さと清楚な佇まいが共存している同級生、滝を名前で呼ぶのは跡部だけだ。
 しかしそれだけが原因ではないのだろう。
 宍戸は、自分と鳳との諍いで跡部の存在が出てきたときには判らなかった事が不意に見えてきて、納得した。
 跡部という男は、特別だ。
 力があり、存在感があり、一見暴君のようでいながら自らが認めた相手を大事にする時の懐の深さ。
 確かに恋愛感情があるかないかという話だけではない何かが跡部という男にはある。
「呆れて物も言えねえよ、ガキ共には」
「跡部……お前も、何つーか……大変だな」
「てめえが言うな」
 本気で嫌そうに吐き捨てた跡部は徐に席を立った。
「俺様はこの世で一番馬鹿な二年んとこに行くが。お前はどうするんだ、宍戸」
「ん、謝ってくるわ。長太郎に」
「バカ、謝らせろ。何でお前が謝るんだ」
「あいつが怒ってるからだよ。跡部も、あんまり神尾いじめんなよ」
「うるせえ」
 不貞腐れた言い方をする跡部が目新しく、宍戸は少し笑って立ち上がった。
 その名前の前だと、跡部も普段とは違う表情をみせる。
 テーブルを挟んで対峙した跡部に宍戸は駄目押しで言ってやった。
「神尾によろしくな」
「神尾神尾うるせえんだよ。宍戸、言っとくがてめえ必要以上にあいつに構うんじゃねえぞ」
「……お前も馬鹿だよなぁ」
「ああ?」
 掴みかかってきそうな跡部を笑いながらあしらって、じゃあなと後ろ手で宍戸は手を振った。
 じゃあな、と跡部からも返事がかえってくる。
 そしてお互い、向かうのだ。
 自分の足で、自分の意思で、一番行きたい場所、一番会いたい相手の元へ。
 真夜中の、部外者の、侵入者。
 暗がりの中の気配に観月は呆れを露に溜息をついた。
「……何してるんですか」
 布団の中から呻いた観月に、長身の男は足音ひとつ立てずにベッドに近づいてきた。
「全然びびらねえな、観月」
「………………」
 笑いの混じった密やかな低い声。
 びびるわけないでしょうと観月は内心で思う。
 この男の気配が判らないわけがない。
「何をしに来たんですか、こんな時間に」
 幾ら観月の一人部屋とはいえ、寮にこんな時間に忍んでくるなんて尋常でない。
 赤澤は決して品行方正ではないが、派手な見目とは多少ギャップを感じる大らかで人好きのする性格は、生徒からも教師からも人気と信頼がある。
 そんな赤澤であっても、深夜の寮の無断侵入が見つかれば、それ相応の処分が下されるだろう。
 観月は眉根を寄せて目をきつくしたまま、少しずつ慣れてきた目に映る赤澤を見上げ、睨んだ。
「赤澤、貴方」
「夜這い」
「………は?」
「だから、何しに来たかって言うから。夜這いに来た」
 ぎしりとベッドが軋む。
 ベッドの端に腰掛けた赤澤が、上半身を僅かに捻って屈んでくる。
 観月の顔を覗き込むように近づいてきて。
「………………」
 大きな手のひらが観月の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「寮のボイラー完全故障だって?」
「………………」
 何で俺を呼ばねえの?と赤澤はひそめた低音にほんの少し笑みを交ぜて至近距離から観月を見つめてくる。
「なんで…」
 赤澤の言ったものとは違う意味合いで何でと聞き返した観月に、赤澤は唇の端を一層引き上げた。
「柳沢からメールがきた。寮の暖房全滅、今晩から雪が降ってこの冬一番の冷え込み、観月が凍るってな」
「寮長が不法侵入そそのかしてどうするんですか…」
「入り口からの手引きは木更津だったぜ」
「………全く」
 友人達の素行に呆れ、そんなメールでここまでやってきてしまうこの男にも呆れ、観月は口元近くまで引き上げた上掛けの中で溜息をつく。
 今日には業者を呼ぶといってはいたが、暖房の一切が故障した寮内は、冷えきっている。
 本格的に冷え込む前にと、早めの就寝が通達されていたが、正直身ぐるみ布団に包まっていても底冷えするような寒さはあまりごまかせなかった。
 観月の体温は元々平均以下なのだ。
 その上、山形の出身なら寒さには強いだろうと言われがちだが、寒い場所ほど防寒対策はきちんとされている。
 東京の方がよほど無防備で寒いと感じる。
 以前観月がそう言った事も、恐らく覚えているのだろう。
 柳沢も木更津も、そしてこの赤澤も。
「顔まで冷てえな…」
 額に触れた大きな手。
 眦に寄せられた唇。
 その温かな気配に、うっかり気持ちが緩んだ隙に。
 赤澤がするりとベッドにもぐりこんできた。
「ちょ、…」
 長い腕が観月をくるみこむ。
 丁寧に深く抱き込まれ、観月はうっすらと体温を上げた。
 赤澤は温かかった。
 長い髪だけが、ほんの少し冷たい。
 それでもこうして抱き締められれば、それすらどうしようもなく心地よかった。
 胸と胸が合うほど身体が重なり、パジャマ姿の観月がふんわりと温かさを感じる赤澤のやわらかな着衣に、観月はふと目を瞠る。
「貴方、まさかその格好のまま…」
「ん?…どこか冷たいか?」
「違います」
 逆だと観月は赤澤の肩口から顔を上げた。
 夜目を凝らせば、赤澤の上着は白いクルーネックのセーター一枚で、イージーパンツもこうして足を絡ませるようにしていても少しも冷たく感じない。
 ジッパーなどの冷たい金具はひとつもない。
 服を着たままベッドに入ってこられ、抱き締められても、違和感のまるでない感触がするばかりだ。
 やわらかな素材の軽装。
「コートはそこに放ってある」
 その言葉にコートは着てきたのだと判って安心したものの、おそらく赤澤ならば全て考慮した上での服なのだろう。
 そこまでするかと思うが。
 そこまでするのだ赤澤は。
「あとどこか寒いとこは?」
「………………」
 ぴったりと抱き締められて。
 触れる箇所は肌であっても服でもあっても温かいものばかりで。
 気持ちもよく、想いも温められて、観月は暗い室内であるから、もういっそいいかという気分で言った。
「中」
「…ん?」
「中が寒い」
 随分な言い方だと観月自身頭を抱えたくなったが、赤澤は長い指で観月の顎を包んで仰のかせ、すぐに唇をキスで塞いできた。
 重なった唇の形は笑っていなくて観月は少し安堵した。
 舌が入れられて、のしかかられて、濡れた粘膜の音が静かな室内に密やかに響く。
「……、ン…、…」
「……………」
「ふ……っ…ぁ……」
 角度が変えられ、吐息が絡んで、観月も赤澤の後ろ首に手を伸ばす。
 唇がまた深く重なり、生まれた熱が四肢に走って頭の中にも熱が溜まる。
「…観月」
「……っ……、……」
 長いキスの終わりに囁かれた声で、観月はぐったりと寝具に落ちた。
 終わった後でもまだとろけそうな甘ったるい余韻を残すキスは、爪の下まで痺れるような熱を詰め込んできた。
 赤澤は殊更丁寧に観月を抱き締めなおして、再び並んで横たわった。
 毛布と布団を観月の肩にかけ直してくれた手が、そのまま観月の背を抱いてくる。
「風が出てきたな…」
「………………」
 頬に軽く口付けられながら囁かれて。
 寝ていいぞという風に背中を軽く叩かれる。
 催眠効果でもありそうな低い声と、寝かしつけるような手の一定の動きと、温まった身体と。
 赤澤に言われるままに、今すぐにでも眠りに落ちてしまえそうな意識に、観月は逆らった。
 何も言わずに、じっと上目に赤澤を見つめる。
「どうした? 眠れないか?」
「………………」
「観月?」
 赤澤の胸に観月は顔を伏せた。
 額を押し当てた胸元は、本当に心地よかったけれど。
「……眠ったら帰るんでしょう」
 だから眠らないと、これでは暗に言っているようなものだ。
 多分自分はすでに睡魔に半ば引きずられているのだと観月は思う。
 そうでなければ、こんな甘ったれた事を言う筈がない。
 普段とは違う自分に、きっと赤澤も何かからかう類の言葉を言ってくるのだろうと観月は思ったが、赤澤の生真面目な声はそういう言葉を紡がなかった。
「お前が眠っても、俺が帰れないようにすればいいだろう…?」
 からかいでもなく、提案でもなく、そそのかすのでもなく、ねだるのもでもない。
 それは不思議な口調だった。
「観月にしがみつかれてたら、俺からは絶対に引き剥がせないぜ…?」
 ほんの少しの甘えの滲んだ優しい声だった。
 観月は黙って赤澤の背中に腕を回して目を閉じた。
 腕の中の感触は、完全降伏の無防備さだ。
 恐らく観月を抱き返す赤澤の手のひらも同じものを感じている筈だ。


 安心した。


 温かさと同じくらいにそれを感じて、観月はそのまま眠りについた。
 耳をすませても寝息は全く聞こえない。
 目で凝視してみても顔には全く変化がなく、横向きで寝ている為に上向きになっている右肩の微かな上下の動きで、どうにか呼吸の様子が認められる。
 海堂の寝方は静かだ。
 寝返りもろくにうたない。
 静かに寝入って、静かに寝続けて、静かに目覚める。
「………………」
 乾は若干窮屈なベッドの中で、海堂を見ていた。
 前髪が滑り落ち、なめらかな額が露になっている。
 顔のすぐ近くで手のひらを上向きにして置いてある左手の指先の丸まり具合が赤ん坊のように稚い。
 不思議な子だなあと乾は思う。
 何もかも、とてもきちんとした子だ。
 傍にいてずっと見ていたくなる。
 何もかも、それでいて不器用な子だ。
 一人でまっすぐ立っていて、とてもストイックで、それだから気にかかる。
 構いたい、なんて欲求が自分の中にあるなんて事は。
 乾は海堂がいなければ恐らく気づかなかった。
 海堂の方からトレーニングのメニューのことで声をかけられた時は、乾は正直驚いた。
 さすがの乾もまるで予想だにしていなかったのだ。
 そしてそれからの乾は、海堂に、あれではまるでただただ夢中だったとばかりに傾倒して、メニューをつくり、体調を診て、ダブルスを組み、一緒に自主トレをした。
 実際に不二からは、乾は海堂に夢中だねと言われて笑われてもいる。
 海堂に関しては、乾は今すぐ全部を知りたいという欲求よりも、そうしてしまうことが勿体無いと思う気持ちの方が強かった。
 今、乾の目の前にいる存在は、乾にとってひどく勿体無い幸福のようであったから。
「………………」
 乾が見つめる先、海堂が微かにみじろいだ。
 折り曲げられた左手の指先がちいさく動く。
 乾は爪先に唇を寄せた。
 つややかな爪の表面が、するりと乾の唇を撫でる。
 生まれたてのようなかわいらしい動きの指先が、乾の唇の感触で大人びる。
「……目が覚めた?」
「…………乾…先輩…」
「ああ」
 もう一度海堂の指の関節に唇を寄せて、乾は海堂の隣に横たわったまま手を伸ばす。
 髪に触れると、海堂は一瞬目を閉じて、乾の手をそのまま受け入れた。
 ふと乾の脳裏にある記憶の中の海堂と、今目の前にいる海堂の表情とが重なった。
「………………」
 慎重に探り、慎重に穿つものの、幾許かの我慢をさせている自覚はあって、いつもその身体を貪りながら乾は海堂の反応を一つの取りこぼしもないよう、じっと見据えていた。
 だから今日、どちらかといえば息を詰めて、辛いばかりではないものの濃すぎる感覚を必死になって受け止めている海堂が、不意にうろたえたような顔をした事に乾はすぐに気づいた。
 海堂の困惑は次第に深まって、乾がその身を穿つ度、わななきだす唇や、滲んできた涙がひどく潤ませた目が、何に覚えているのかに気づいて、乾の飢餓感を急激に煽り立ててきた。
 声も出せない様子の海堂は、声より雄弁に体感しているものを身体で示していて、その困惑ごと抱き締めて、拓いた身体を揺さぶると、海堂は乾が初めて見る顔で泣き出した。
 辛そう、だとか。
 可哀想、だとか。
 そういう泣き顔ではなかった。
 あれはむしろ。
「きれいな顔してた」
 すごく、ね、と乾は海堂にゆったりと囁く。
 折り曲げた指の関節で、海堂の頬を辿る。
 思い出す目をした事が海堂にも正しく伝わったようで、お互い顔を合わせて横たわったまま、海堂が息を飲んだ。
 怯えた後に、途方にくれたように一瞬だけ頼りなくなった目元が、ぼうっと赤く染まっていくのが判る。
「、ふざけ…」
「て、ない。本気」
 本当、と乾は生真面目に呟く。
 手の甲で海堂の頬をするりと逆撫でする。
「本当に。本気の話」
 乾は繰り返した。
 本当に、そうなのだ。
「………………」
 海堂は長い眠りから目覚めた訳ではない。
 時間にしたら、今の眠りなどほんの十分程度の事だった。
 海堂は最後の最後で、乾を一層の恋情の坩堝に叩き込むようなすさまじくきれいな顔を見せて、いって。
「海堂」
「………………」
 骨張った手で海堂の頬を撫でる。
 乾が記憶を思い浮かべて、そして今こうして言っている言葉を、海堂は少し怖い様子で息をつめて受け止めている。
 濃すぎるかな、と乾自身も思ったけれど、視線も言葉も止められない。
 睫を伏せて、布団にもぐるよう俯く海堂を、乾はやわらかく抱き込んだ。
「先輩…、…」
「かわいくて、どうしようね」
「な、ん……」
「俺はこんなにお前が好きで、どうなっていくんだろうな…」
 乾を包んで甘く複雑にうねった海堂の感触に。
 乾で高まって、乾でいった、あの一連の表情に。
 今乾の腕の中で羞恥に駆られ、強張っている戸惑いに。
 困惑のきつい眼差しに。
 全部に。
 どうしようね、と困るどころかただ甘く凪いだ気持ちで問いかける。
 両手でそっと抱き寄せて、両足は絡ませあうように近づいて。
 赤く色づく海堂のあちこちに、乾は唇を寄せた。
「また、見たい」
「………っ…、…先…輩」
「海堂の。ああいうの、また見たい」
 海堂の首筋に唇を押し当てたまま乾が強請れば、海堂は戦慄きながら乾の頭を両腕で抱き寄せてきた。
 きれいな首筋を、肌を、惜しみなく自ら与えるが如く乾の頭を抱き寄せてくるぎこちない仕草だけで堪らなかった。
 乾は身体を起こすのと同時に唇を塞いで海堂を組み敷いて。
 口づけながら両手で海堂の肌を辿った。
 撫でて、愛しんで、擦って、包んで。
 海堂は熱をはらんだ呼吸を切なげに乱して、散らして、乾の頭をずっと、そっと、抱き込んでいた。
 言葉をあまり使わない海堂だけれど。
 躊躇いのない手はいつでも乾に惜しみない。 
 跡部は口が悪い。
 上品で綺麗な顔をしているのに、ちょっとびっくりするくらい口が悪い。
 神尾相手だと取り分けにだ。
「今年は雪がいっぱい降るよなあ」
「何浮かれてんだお前。見苦しい」
 言葉と一緒に冷たい目線も向けられる。
 最初のうちは神尾もいちいち腹をたてたり傷ついたりしていたが近頃ではすっかり慣れた。
「何で今年って、いっつも週末に雪降るんだろうな?」
「知るか」
 面倒くさそうに言い放つ跡部は彼の机で紙の束を捲っている。
 生徒会か部活絡みの事なのだろう。
 ものすごいスピードで紙面に目を滑らせ、捲っている。
「雪積もってさー、まだ誰も足跡つけてないとこ一番乗りするの好きなんだ。俺」
「ガキ」
「そういうの気持ちいいじゃん? 雪もまだ真っ白で綺麗だし」
 跡部の家の紅茶は綺麗な色をしていて香りもいい。
 カップの縁に口をつけ、飲んだ後に、ほっと息をつきたくなる紅茶だ。
 そういえばこのカップも、以前に高そうで割っちゃったら怖いからそれがちょっと嫌だと言ったら、てめえしか使わねえよと跡部に吐き捨てられた代物だ。
 割りたきゃ割れと言った口で、その時はそれ相応の躾もさせてもらうがなと睨まれたりもした。
「学校はさー、すぐ踏み荒らされちまうんだよな。近所の公園とかもそう。俺、ここんとこ一番乗り出来てないんだよなー。つまんねーなー」
「お前のスピードレベルじゃその程度だろ」
「五十mなら俺絶対跡部より早いぜ!」
「頭も身体も、中身が空だからな。お前は」
「むかつく…!」
 神尾が声を荒げて跡部を睨みつけると、跡部は凄まじく不機嫌な顔で、神尾に詰め寄ってきていた。
「こっちの台詞だ。いい加減黙れ。うるせえ」
 ぐいっと手首を引っ張られて、神尾は床に組み敷かれた。
 乱暴だったのに、少しも痛くない。
 背中にはふわふわのラグがあるからだ。
 普通に布団に寝ているみたいに快適だ。
「………………」
「いつまでも、お前の中身のない話につき合わされてる俺の身にもなってみろ」
「……な、っ……ほんと跡部ってむかつく…!」
 いい加減慣れたとさっきは思った神尾だったが、やはりなかなかそこまではまだ達観できない。
 ムッとして跡部を睨みあげると、だいたい神尾を呼んでおきながら放っておいたのは跡部のくせにと反発心が擡げてくる。
 跡部は冷めた目で神尾を見下ろしながら、神尾の服に手をかけた。
 無造作に服を脱がされていく。
 神尾は一気に赤くなった。
 それを見て跡部が唇の端を引き上げる。
「永遠処女か。お前は」
「しょ、……っ……」
 ギャーッと叫びたくなるのを必死で堪える神尾を見下ろし跡部は肩を震わせて笑い出す。
 声には出さないけれど、笑いながら身体を探ってくる跡部は本当に最低だと神尾は内心で喚きまくった。
 言葉にしてもよかったが、うっかり変な声が出てきそうになっているからそれもちょっと怖い。
「うちの庭なんざ、雪が積もった後に足跡ついた事ねえよ」
「……え…?…、……」
 鎖骨の窪みを舐められながらだったので、神尾は小さく震えながら跡部の言葉を聞き返し、なんとなく跡部の言う言葉を理解した。
 跡部の家は広い。
 庭も広い。
 神尾を馬鹿にするだけあって、雪が降っても跡部がこの家の庭で遊ぶなんて事はまずしないだろう。
「いー……な…ー…」
 思わず口から出た呟きを跡部がきつい目を向けて聞き返してくる。
「ああ?」
「そっか……まっさらなんだ……雪、降っても…跡部のとこ…って…」
 それも、いつも。
 勿体無い、と思った神尾に跡部が徐に言った。
「来たきゃ来ればいいだろう」
「跡部?」
「そんなに雪で遊びたいなら、頭の悪い野良猫の一匹くらい情けで遊ばせてやる」
「俺のことかよそれ…!」
「自覚あるだけお前も少しは脳味噌あるんだな」
「跡部ー!」
 神尾が叫んだ言葉を、跡部の唇が塞いできた。
 何か、すごいキスで塞いできた。
 神尾の顔は真っ赤になって、頭の中は真っ白になった。



 そういえばそんな話をしたなと神尾が思い出したのは、それから数日後の週末。
 今日は朝練もないしと、気持ちのいい惰眠をむさぼっていた日曜日の午前中、神尾の携帯が鳴り出したのだ。
 眠いまま手探りで通話ボタンを押し、ベッドの中で携帯に耳を当てれば、そこから神尾に聞こえてきたものは、世の中を氷の世界にしてしまいそうなほど不機嫌極まりない跡部の声だった。
 寝ぼけ眼の神尾には、どうして雪が降った後に寝ている事をそこまで跡部に罵られなければならないのかさっぱり判らなかったが。
 言われて知った窓の外の銀世界、それから足跡ひとつついていないという跡部の家の庭の話に、数日前の出来事を思い出してベッドから飛び起きた。
「今から行く!」
「もう来るな」
「えー、いいじゃんかよ! 行く」
 来るなとうんざりとした口調で言いながら、跡部は最後には、野良猫の一匹くらい目を瞑ってやるとか、野良猫らしく裏門から入って来いとか言って、電話をきった。
 神尾は即座に身支度を整えて、シザーバッグに携帯や財布などを適当に入れてベルトに引っ掛け、家を出た。
 ところどころ雪かきの済んでいる歩道を走って跡部の家へと向かった。
 夜じゅう降ったのだろう。
 雪は結構積もっていて、晴天の日差しを受けてキラキラしている。
 跡部は神尾を野良猫扱いで、裏門から入って来いと言っていた。
 幾分不貞腐れながら、神尾は跡部の家の裏口に回ると、門扉の所に跡部が立っていた。
「跡部!」
 おはようと神尾は言ったのに跡部は返事もしないで顎で神尾を中へと促した。
「朝っぱから、ほんっとえらそう。跡部って」
「えらいんだよ。学習能力が、本当にねえな。お前は」
 鷹揚に言った跡部の横を膨れてすり抜けて、神尾は敷地に足を踏み入れる。
 神尾の表情は一気に笑顔になった。
 本当に、何のあともついていない一面の雪景色だ。
 人の足跡も、車の通った後も、雪かきの後もない。
 さくさくと、神尾が踏みしめた足跡だけがつく。
「すっげーきれー!」
 何の木かは知らないが、複雑で繊細な枝ぶりの上にも雪は積もって、日の光を受けて反射している。
 ベンチも、外灯も、眩しい白い雪で覆われている。
 一歩一歩足に感じる真新しい雪の感触。
 見渡す先はなだらかな雪景色で、振り返る先は自らの歩いた後だけだ。
 神尾は思う存分歩き回り、時に走り、結構置くまで進んでから、ばふっと雪に倒れこんだ。
 転がりまわる。
「これやってみたかったんだよなー」
 積もった新しい雪と、広いスペースがなければ、そうは出来ない。
 ひとしきり、寧ろ思う存分、神尾は降り積もった雪を堪能した。
 大の字になって青空を見上げて、雪に埋もれる。
 そのまま伸びをするように仰ぎ見た視界に、神尾は腕を組んで立っている跡部の姿を映して、どきりとした。
「………………」
 てっきり家の中に入っているのだとばかり神尾は思っていた。
 跡部は神尾と違って雪ではしゃいだりはしないだろうし、ただ立っている事もしないだろう。
 だからおそらく家の中に戻って、温かい紅茶でも飲んで自分のしたい事をしているのだろうと神尾は思っていた。
 しかし跡部はずっとその場に立っていたようだ。
 いったい何をしているんだろうかと考えて、神尾はちょっと思い当たった出来事に、どぎまぎした。
 まさか、とは思うけれど。
 まさかただ見ていたのだろうか。
 跡部は、神尾を。
「………………」
 こうやって雪に寝転んでいると、さすがに少しずつ身体が冷たくなってきて。
 まだ幾分名残惜しいと思いながらも神尾は起き上がった。
 全身雪まみれになっている。
 神尾は両手足の雪を軽く払って、再び周辺を歩き回った。
 踏んでない所がなくなるまで。
 実際はそんな事は到底無理なくらい広い敷地内で、神尾が延々歩き回っている間、時折神尾が伺い見た跡部は、黙って神尾を見ているようだった。
「……跡部って」
 わかんね、と神尾は小さく口にする。
 辛辣で、意地悪で、神尾の事を馬鹿にしてばかりで。
 でも。
 それでいて、神尾の言う言葉を無視したりしない。
 いつも、どんな事だって受け止めて返事をくれる。
 からっかたり、呆れたりしているくせに、神尾が言ったことを絶対に忘れない。
「雪も…覚えてたんだ…跡部」
 何だか妙にくすぐったい気分だった。
 神尾は跡部に背を向けてその場にしゃがみこんだ。
「…………変な奴だよな、跡部って」
 ぽつんと呟いて、神尾は赤くなっているであろう両頬を自分の手でぺちんと叩いた。
 何で自分は赤くなってるんだろう、こんなに。
「………………」
 神尾は膝を抱え込むようにしゃがみ、俯いて。
 暫く考えてから、腰のシザーバッグを開けた。
 確か入っていた筈、と内蔵のチャックを引く。
 そしてそこからマジックを取り出し、庭の植え込みに手を伸ばし、寒椿の葉を一枚失敬する。
 つやつやとした葉にマジックで文字を書き、それを手元の雪で包んで丸める。
 そしてもうひとつ、もう少し小さめの雪玉をつくり、重ねれば。
 両手でそっとつつむように持つ程度の大きさの雪だるまができあがる。
「………………」
 神尾はそれを持って跡部の元へと向かった。
 雪を踏み鳴らす。
 近づいていく。
「跡部」
 コートは雪まみれ、髪の先から僅かに水滴を零す神尾を見て、跡部は呆れたと言う様に溜息をついた。
 跡部のそんな表情は、神尾が手渡したものを見て更にあからさまになる。
「ガキだガキだと思っちゃいたけどここまでかよ」
「やる」
「ああ?」
 神尾は、自分が作った雪だるまを、跡部に突きつけた。
 伸ばした両手の手のひらの上、ちょこんと乗っている小さな雪だるまは顔も手もない。
「捨ててもいいよ!」
 神尾は強引に跡部の手に雪だるまを押し付けて跡部に手を振った。
「今日は帰る。ありがとな、跡部」
 ああ?と眉根を寄せた跡部の顔が不機嫌なわけは、押し付けられた雪だるまのせいか、心行くまで一人遊びつくしてさっさと帰る神尾のせいか。
 全く関係ないかもしれないし、その両方のせいかもしれない。
 神尾は跡部を追い越し、走り出してから。
 もう一度跡部を振り返って手を振った。
 勿論跡部が手を振り返す筈がない。
 ただ、とりあえず。
 その時はまだ、跡部の手の上に雪だるまは乗っていた。



 椿の葉に神尾が書いた小さな文字、短い言葉。
『また来たい』
 さながらタイムカプセルでも埋めたような気持ちで。
 雪だるまに閉じ込めた神尾の率直な感情は、でも誰の目に触れることもないだろう。
 それでいいと神尾は思う。
 跡部に気づかれない、自分の本音はささやかだけれども心の底からあのとき思った感情だ。
 跡部の手に、小さな雪だるま。
 そのミスマッチを思い浮かべて、神尾は少し笑ってしまった。
 全然似合わない、違和感のありすぎる組み合わせだが、とりあえず神尾の目の前では神尾がつくった雪だるまを捨てなかった跡部は。
 すごく辛辣だったり、冷たかったりするけど。
 とても素っ気無かったりするけれど。
 そうでいながら優しい所もあるのだ。
 すごく。
 とても。


 翌週の週末も、
神尾はまた、先週同様跡部に電話で厳しく怒鳴られ目覚めた。
 だから今日は一週間に一度の朝寝坊が出来る日で。
 それをしかもどうしてまた怒鳴られて目覚めなければならないのかと神尾は不可思議に思いながら、跡部に呼びつけられ、逆らえず、慣れた道を走っている。
 自分で行っておいて何まだ寝てやがるんだとかなんとか。
 跡部は言っていた。
 今日は別段約束もしていないし。
 雪だって一昨日までは降っていたけれど、昨日からは晴天だ。
 訳が判らないまま辿り着いた跡部の家で、神尾は、信じられないものを見た。
 神尾が椿の葉に書いた手紙。
 それが、跡部の部屋から直結のバルコニーの手すりの上にあったのだ。
 雪だるまは、何故か跡部の部屋の中、机に座った位置からよく見える位置にいたらしい。
 あの日からずっと、いたらしい。
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