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How did you feel at your first kiss?
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 会いたい時に、彼はいつもそっと一人でいる。
 今日もそうだ。
 温厚で気さくで普段は人といる事が多い河村が、不二が彼を目で探す時にはいつも一人でいる。
「タカさん」
 意識をしている訳ではないのだけれど、彼の名前を呼ぶ時、自分の声は穏やかになる。
 誰に言われるでもなく不二はそれを自覚していた。
 部室でレギュラージャージを丁寧に畳んでいた河村が振り返ってきて、目と目が合えば尚更だ。
「不二」
 名前を呼ばれる。
 笑顔を向けられる時の、この安心感はなんだろうと考えながら、不二も微笑み返して彼に近づいていく。
「どうした? 忘れ物かい?」
「うん。そう」
 部活の後、早々に帰り支度を済ませて一度は部室を出た不二が再び現れた事を河村は穏やかな会話で受け入れてくる。
「珍しいね。不二が忘れ物なんて」
「うん」
「何忘れたんだい?」
「タカさん」
「え?」 
 制服を着た背中に、こつんと額を押し当てる。
 不二はそれでひどくほっとした。
「え、……え…?」
 一方河村はといえば、言葉にもならないような声で、しどろもどろになって盛大に慌てていたが。
 不二がじっとしていると、暫くの後おさまって。
 ええと、と言葉を探すように肩越しに振り返ってくる。
「ふーじ?」
「………もう離れないと駄目?」
 もう少しこのままじゃ駄目かなと小さな声で問うと、河村は違うよと言った。
「そうじゃないよ。そうじゃなくて、こっち」
「………………」
 くるりと身体を反転させられて。
 広い胸に正面からすっぽりとおさめてくれて。
 無骨だけれど丁寧で優しい手のひらが不二の背中をぽんぽんと叩いてきてくれる。
 甘やかすような手つきは決して慣れたものではない。
 でもそれがよけいに優しく感じて不二はおとなしくその場で目を瞑る。
「少し、疲れた…?」
「………………」
「不二は頑張りすぎるから」
「…そんなことないよ」
「そうかな…? もう少し楽にしてていいのにって俺は思ってるんだけど…」
 ゆるく囲われたまま、河村の声にだけ耳を傾ける。
 疲れたとは思っていないけれど、こうされているのは気持ちが良くて、それで河村の所に来たのだという事は不二も判っていた。
 河村は不二が言われた事のないような事を言ってきたが、何故だろう、言われて力が抜ける。
「………………」
 親しい友人はたくさんいる。
 大切だと思う家族もいる。
 信頼している人も、競い合いたい人も、仲間もいる。
 でも、誰の前での見せないでいる自分を、何故かいつも曝け出してしまうのは、実直な彼の前だけだ。
 不二はそう思って、固い胸元に顔を伏せている。
「タカさん」
「なんだい?」
 呼びかけたきり黙りこんでも、河村は責めたりしないし無理に問いかけてきたりもしない。
 宥めるだけでなく励ます手のひらで、繰り返し背中をあやすように叩かれて、それだけで不二は充分だった。
「………………」
 いつでもどこか自分自身の感情はぼんやりとしていて。
 時折一切の執着心を無くして全て投げ置いてしまいそうな自覚がある。
 それでもいいとどこかで思っている自分がいる。
 いつも穏やかでいるという事は、裏を返せば何も拘る事がないという事でもある。
 不二はそういう自分を更に一歩引いた自分で見つめていて。
 執着のなさが投げやりに全てを放棄しかねない自分がいるという事が、いつもうっすらとした自己嫌悪になっている。
 誰にも気づかせた事はないけれど、きっと河村は知っている。
「不二」
「……ん…?」
 ぎゅっと抱き寄せられて、びっくりした。
 少しも嫌な感じではなく、ただ驚いて。
 なに?と小さく問いかけると、ゆっくりと抱擁はとかれて。
 河村は笑っていた。
「不二、よかったら今日うちで寿司食わない?」
「え?」
「今日は夜、座敷に注文入っててさ、今日の夕食は一人で勝手に食えって言われてるんだ」
 まだ時間あるから、俺なにか握るよ、と河村が言うのに不二は首を傾げた。
「…手伝わなくていいの、タカさん」
「今日はいいんだって。同業者の組合の集まりらしくてさ、親父のヤツ、自分一人で充分だって思わせたいみたいだよ」
「引き抜きされちゃ困るって思ってるんじゃないのかな、お父さん…」
 ふ、と笑いが自然に零れて、それに後から気づいて。
 不二は河村から笑みをそっと分けて貰ったような気分になる。
「ね、タカさん…それだったら、うちに来ない…?」
「え?」
「泊まって、いかない?」
 返答を考えるかと思っていた河村は、すぐに頷いてきて、お邪魔しますと軽く頭を下げた。
 普段ならば河村は必要以上に気をつかうのだけれど。
 恐らく今日の不二に何か思うところがあるのか、即答してきた。
 実際不二はそれにほっとした。
「うちの家族、タカさん来るとテンション上がっちゃうけど、ごめんね」
「や、俺なんかにいつもすごい気をつかってもらっちゃって、悪いなって思ってるよ」
 苦笑いで不二が伝えた言葉に、河村は恐縮したように手を振った。
「なんか、じゃないよ」
「不二?」
「タカさんがいてくれて、僕は本当に」
 続く言葉に、詰まったのは。
 気持ちに見合う言葉が見つからなかったからだ。
 けれど、見上げた眼差しに気持ちを詰め込めば河村はきちんとそれを受け取ってくれる。
 ほんの少し照れたようなはにかんだ笑顔で、ありがとうと呟いてくれる。
「…ありがとう、タカさん」
 そう言えばいいんだ、と。
 気づかせてくれた相手に。
 ありがとう。
 不二も告げた。
 いつも、いつも、そう、思っていることを、ひとことで、これだけで、口にするだけで、こんなにも伝えられるのだと教わって。
「ありがとう。タカさん」
「こっちこそ。……うん。良かった、不二」
「え…?」
 河村の手が、そっと不二の頬を撫でて。
 ほっとしたように笑う河村の表情で、自身の表情の移り変わりを不二も知る。
 側にいてくれるだけで、こんなにも、こんなにも嬉しい。
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 夏を前にして、しきりに雨が降る。
 毎日毎日雨が降る。
 雨が止んでいる事を、珍しいと言ってしまうような毎日だ。
 多少の雨ならば、日課であるロードワークは欠かさずこなす海堂であったが、それにしたって雨はよく降った。
 今日も短い時間内に急激に降った雨に丁度走り始めた矢先で遭遇してしまい、濡れたままの身体を冷やす訳にも行かず、途中で切り上げる事になった。
 そもそも部活も雨に中断されたのだ。
 近頃なかなか思うようにテニスも走りこみも出来ず、中途半端なフラストレーションばかりが堪って仕方が無い。
 早めに終わってしまった部活の分と、帰宅してから雨が止むのを見計らって出かけたのにまたこの有様だ。
 家では母親が同じような憂い顔で溜息をついていた。
「乾燥機、買った方がいいのかしら……でもやっぱりお洗濯物はお日様に干したいわよね…」
 家事が大好きな母親にとってこの雨は、走り足らずに溜息ばかりが出る海堂と同じくらい憂鬱なもののようだった。
 コインランドリーから帰ってきたばかりらしい母親だったが、濡れている海堂にタオルを渡すと特に何も言わずに笑顔を浮かべる。
「早く着替えないと。洗い物はいつもの所ね。あ、レギュラージャージも出しておいてね。練習でも降られたんでしょう?」
 練習着には充分予備がある。
 ロードワークに出る前に部屋に吊るしておいたジャージも、少しばかり濡れただけだ。
 でもこの母親の事だから、自分の洗濯物だけの為にまたコインランドリーに行きかねないと海堂は思って、着替えを済ませた後、出かけてくると言って、自らコインランドリーに向かったのだった。
 


 家から駅とは逆方向に二十分ばかり歩いた所に銭湯があって、そこに併設されているコインランドリーは、近頃改装を済ませたばかりだ。
 真新しく広くなったが、あまり利用客は増えないらしい。
 海堂も本当に時折出向く程度の場所だが、殆ど利用客を見かけない。
 雨がまだ結構降っているから、尚更今日は無人だろうと思っていた海堂は、遠巻きに先客がいるのを見かけて、その後姿に目を瞠った。
 白いシャツを着た広い背中は、顔が見えなくても海堂には誰なのかすぐに判る。
 引き戸の扉をカラカラと音を立てて横に引くと、ひとりその中にいた男は振り返りもせず言った。
「やあ、海堂」
 見もしないでいきなり言うので、海堂はぎょっとした。
 入り口で一瞬硬直すると、ごめんごめんと笑いながら、その男、乾が振り返ってくる。
「映ってた」
「………………」
 簡易のスチール椅子に座っていた乾は、正面の乾燥機を指差す。
 海堂が目線をやると確かに乾燥機の透明な扉には出入り口が映っていた。
「海堂も洗濯か」
「……っす」
 頷いて、海堂は洗濯機に持ってきた練習着とレギュラージャージを入れる。
 洗剤は慣れたものの方がよくて、自宅から持ってきた。
 スイッチを押し、動き出すのを確認してから海堂が振り返ると、乾はぼんやりと海堂を見ていたようだった。
 手が空けば必ず開いている彼のデータ帳も今は手元になく、珍しいなと海堂は思った。
「海堂、宿題か何か持ってきた?」
「……はあ…」
 何で判るのかと海堂は曖昧に返事をして、どうぞ、と手で促されたので乾の隣の椅子を引き出して座った。
「時間無駄にしないからね。海堂は」
「………それはあんたでしょうが」
 今日はいつものノートないんですかと続けると、乾は珍しいだろうと何故か威張って笑った。
「威張る所っすか」
「まあね。たまには、ぼーっとしようかと思ってさ。わざと置いてきてみたんだけど、どうにも落ち着かなくてな。さっきから」
 そういう事なら自分は邪魔じゃないかと海堂は思ったのだが、乾はゆったりと微笑んで頬杖をつき、海堂に顔を近づけてくる。
「理数系だと嬉しいけど。何持ってきた?」
「……何で嬉しいんですか。……そうですけど」
「何でも聞いてくれって自信持って言えるからさ」
 二の腕が触れるような距離は随分近くないかと海堂は思うのだが、乾は何だか機嫌がいいようで、やわらかく笑ってばかりいる。
「…………聞いていいんすか」
「勿論」
 持ってきたものは苦手科目の物理なだけに、海堂としても本音を言えば乾の存在は有難かった。
 低く問うと、あっさり頷いて。
 どれ?と乾が海堂の鞄に目線をやる。
 取り出した教科書の、付箋をつけておいた頁を広げて海堂は乾に差し出した。
 苦手な事でも敬遠しない分、不得手なものほど海堂はどうしようもない所まで追求してしまう性分だ。
 海堂自身、自分のそういう頑固で執拗で融通のきかない所に時折辟易するが、乾はとにかく辛抱強いというか、寧ろ海堂と似ている部分を持ち合わせているのか、決して手を抜かない。
 乾の教え方は、それがどんな事であっても、海堂が完全に納得するまで続けられた。
 この時も、海堂が授業で躓いた所を、どこが判らなくて何が疑問なのか、重い口で伝える説明を乾は全て聞き終えてから、解釈を始めた。
 こんな風に自分の決してうまくない言葉を、最後まできちんと、そして必ず正確に酌む相手は、乾くらいだろうと海堂は思っている。
 乾は何でもないことのように海堂の側にいるけれど、その都度海堂はいろいろな事を考えている。
「ほら、解けた」
「………………」
 ぽん、と気安い所作で乾の手のひらが海堂の頭上に乗る。
 頭を撫でられるようなそんな仕草を、幼い頃に家族くらいにしかされた事のない海堂は、戸惑いと面映さで複雑に受け止める。
 乾の手は、まだ海堂の頭上にあるままで、何だか手すさびに髪を撫でられているような感触がする。
「……先輩…?」
「ん?……駄目だね、バンダナないと。抑制きかなくて」
 やけに甘い指先に髪をすくわれる。
 近い距離で乾の顔を見て海堂がかたまっていると、洗濯機からアラーム音が鳴り響いた。
「……、…先輩の…じゃ」
「そうだな。俺、レギュラージャージとTシャツ二枚なんだけど、海堂は?」
「同じ…ですけど」
「じゃ、乾燥機一緒に使おう。いい?」
「……はあ」
 特別異論もないので、海堂は頷いた。
「海堂の洗濯があがるまで…あと二問いけるな。今のと同じ要領で、これと、これ」
 教科書の結構先を捲られて、海堂は珍しく弱った心情を露にする。
「……まだそこまでやってないですけど。授業」
「解けるから。やって」
「………………」
 乾はこういう所が海堂に手馴れているというか、状況を見極めていけると思った時は高すぎるくらいのハードルを課すのだ。
 甘やかされない事は海堂には心地よかったし、乾のそういう手腕に信頼を寄せてもいる。
 さすがにテニスとは違って苦手意識があるから唸るものの、あっさりと促されては挑むしかない。
 そうして二度目のアラーム音が鳴り響く頃には、海堂は過剰な程甘い乾の手に、頭を撫でられているのだった。



 海堂の宿題は終わり、お互いの洗濯も終わり、二人分の衣類が入った乾燥機がぐるぐると回る。
 向かい合うでもなく横に並んで座りながら、乾と海堂はあまり喋らなかった。
 それが不思議と気詰まりではなく、寧ろ安心するような静寂になる。
 窓をたたく雨音が微かに聞こえる。
 乾燥機のモーター音がする。
 粉石鹸の匂い。
 少し人工的だけれど、それがかわいていく匂い。
 乾燥機の中で回転している二人分の衣服。
 とりわけ判りやすく青学のレギュラージャージがもつれあい、絡まりあうようにして回っている。
「何か、いやらしく見えない?」
「は?」
「あれ」
 黙って、それこそ当初の彼の目的だったように。
 ぼんやりとしていた乾がふいに口をひらいて海堂に話しかけてくる。
 あれ、と言いながら乾燥機を指差す乾に海堂は首を傾げた。
 乾は寛ぎきった様子で笑う。
「俺のと、海堂のと。一緒に絡まってて」
「……あんたな…ぁ」
 それのどこがと言いきろうとして。
 乾の声と、表情と、指差された自分達のレギュラージャージの絡まりあいに。
 どこがだなんて、言い切れなく、なって。
 海堂は息を詰めた後、乾を睨みつけた。
 乾は平然と海堂の眼差しを受け止めて、笑みを深める。
「あっちはあっちで仲良く絡んでるから」
「……こっちはこっちで、なんて言い出すんじゃねえぞ」
「海堂みたいに俺の考えてる事よむ奴はいないよな」
「あんたのその顔見たら誰だってわか、…」
 盗まれた。
 奪われた。
 掠め取られた、唇。
「……、…っ……」
 離れてすぐ、咄嗟に握った拳の手の甲を口元に当てた海堂は、ふいうちにやられて真っ赤になっているであろう自分の顔色を自覚せざるを得なかった。
 乾は再び海堂の頭を撫でるように手を置いて、乾の方に向けていた海堂の手のひらにも唇を寄せて。
 あっちが終わるまで、こっちもね、と海堂の耳元に囁いた。
 窓が窓の形に繰り返し繰り返し光る。
 外からの一瞬ごとの強い閃光に、宍戸が目線を向けると、ゆるく絡みあっていた舌を相手からきつく吸われた。
 小さく喉を詰まらせて、宍戸はうっすらと眉根を寄せる。
 キスはすぐにやわらかくほどけた。
「お前なぁ……」
「雷なんかに気をとられるからですよ」
 吐息が混ざり合うような至近距離。
 宍戸が咎めるように言葉を漏らすと、鳳は端正な顔に判りやすい不満をたたえて負けじと返してくる。
 そういうあからさまな表情は珍しい。
 宍戸が軽く首を傾けて、じっと鳳を見つめると、鳳は複雑そうに溜息をつく。
 宍戸の両頬は鳳の掌の中だ。
「……そんな顔しないで下さいよ」
「顔なんかそうそう変わるかよ」
 何言ってんのお前と宍戸は呆れながら、再度窓の外が光り、あまり間を置かずに轟くような音が聞こえてくるのに意識を向ける。
「すげえな、雷」
「またそうやって……」
 鳳の肩越しに先へと向ける宍戸の視線が鳳は嫌らしかった。
 腰を抱き込まれるようにされて、身体が反転させられ、宍戸は窓辺に背中を押しあてられた。
 鳳が長身を屈めるようにして宍戸の唇をふさいでくる。
「………、…ン…」
 唇でおされて顎が僅かに上がる。
 大きな掌が宍戸の片頬からすべってきて、仰のいた首を包んでくる。
 かたい掌だったが、さらさらと温かくもある。
 宍戸の首など片手で軽く包み込むようにしながら、キスが深まる間も、雷の鳴る音が響き、窓の外の空は光り続けているのだろう。
 直視出来なくとも目の開いてしまう宍戸の双瞳に映る鳳は、しかし雷などほんの一時も見ることはしなかった。
「………………」
 濃く長い睫が引き上げられて、あまいやさしい眼差しをする鳳が見据えているのは宍戸の事だけだ。
 撫でられるように見つめられると宍戸の足元は覚束なくなっていく。
 キスされて立っていられなくなるなんて真似は心底避けたい宍戸だったが、鳳はそういうキスを繰り返すのだ。
 宍戸の背後で窓ガラスに打ち付けるように降る雨音が激しくなる。
 暴れるような雨音よりも、胸の中から打ってくる心音のほうがよほど酷い。
 ますます足元はぐらついて、咄嗟に縋ろうにも身体の両脇に下ろした宍戸の両腕はうまく持ち上がらなかった。
 座り込むよりはましかと思って、宍戸は両手を鳳の腰の裏に絡める。
 その所作が鳳の何かを煽ったらしく、キスがもっと深くなる。
 身体が密着して、宍戸もなんとなく自身の手の在り方が危ないかなとは思ったが後の祭りだ。
 鳳の腰を自ら抱き寄せているのか、そこに縋っているのか、宍戸が判らなくなるほどに執拗に鳳はキスをしかけた。
 息苦しさより先に、ぐらりとめまいのようなものを宍戸が感じた時、ようやく濡れたキスは互いの唇に口液を細く撓ませて解けた。
 熱っぽい溜息をついたのはお互いにだ。
「長太郎……」
 痺れるような唇で宍戸が鳳の名前を呼ぶと、鳳が額と額とを合わせるように顔を近づけてきた。
 色素の薄いやわらかな光彩を放つ瞳を間近に見ながら宍戸は言った。
「…飢えさせてねえだろ」
「……はい?」
「お前に、そんな飢えてるみたいな目、させるようなこと俺してるかよ?」
 心外だと憮然と睨みつけた宍戸を、鳳は面食らったような顔で見下ろしていた。
 宍戸は鳳の腰をゆるく抱きよせて、合わせた額の感触を感じ入るように一瞬目を閉ざす。
「全部、やってるだろ」
 何が足りないんだと宍戸が囁くと、鳳はなんだかほっとしたような吐息を零した。
「長太郎」
「………判ってくれてるんだなあと思って」
「判ってなんかねえよ。何が足りないで、そういう目で俺を見るんだ、お前は」
 鳳は微笑んでいた。
 宍戸は怒っているのにだ。
 決して喧嘩になりようもない言い合いだけれど。
「宍戸さんは呆れるだろうけど、ずっと宍戸さんと会いたかったから、会えるとこうなっちゃうんですよ。俺」
「あのな……昨日も普通に会っただろうが」
「半日も時間があけば、俺にとったら、それはずっとです」
 額と額を重ねて、囁き合うように言葉を交わす。
 鳳の両手は宍戸の頭を支えるようにしていて、会話の合間に時折唇を啄ばまれる。
 小さく浅いキスなのに、それがまた鳳の飢えを宍戸に気付かせる。
「雷…気になるの?」
「………拗ねた言い方すんな。アホ」
 でけえ図体して、と宍戸は呆れながらも、宍戸の方からも軽いキスを送り返す。
 激しい閃光、雷鳴、もちろん気になるけれども。
 鳳と比べる対象ではないだろう。
 それくらい判っていそうなものだと宍戸は思うけれど、鳳は雷相手に宍戸の意識が向くことに対して張り合ってくる。
 しょうがねえなと思いながらも宍戸は鳳へとキスを繰り返す。
 いつの間にかそれらのキスは宍戸から鳳に与えるようなものになっていて、全て丁寧に受けている鳳が宍戸を抱き寄せたまま低く囁く。
「宍戸さん」
「…ん、?」
「宍戸さん……宍戸さん…」
 濃密なキスより余程腰砕けになりそうな甘い掠れ声で名前を繰り返される。
 宍戸は返事も出来なくなる。
 キスの合間の鳳の声なのか、声の合間のキスなのか、判らなくなる。
「足りてないんじゃないんです…」
「……、……ぇ……?」
「宍戸さんがくれるもので、俺の中の足りていない部分はきちんと足りるようになって」
 首筋に唇を埋められる。
 かすかに癖のある鳳の髪が喉元に触れ、耐えかねたように肌を吸われる。
 痕がつけられていく過程が随分と長い時間のように感じた。
「………っ…、は…、……」
 肌の上から鳳の唇が離れる。
 そこに何かいけないものを植え付けられでもしたかのように、宍戸は熱っぽく吐息した。
 無意識に、痕をつけられたであろう右の首筋に左手の指先を宛がって鳳を見上げると、やみくもな力で抱きすくめられる。
「長太郎…?……」
「飢えるって、もっとって事ですよ……」
「……なん…、……っぁ…」
 抱きしめ覆い被さる様にしてきた鳳に、宍戸は首の裏側にも口づけられた。
 背骨に繋がる骨の上にもまた痕が残るほどのキスをされる。
「宍戸さんが足りてない場所が最初っからあるんじゃなくて。全部足りてる上で、俺はまだ欲しくなる」
「………長太郎…」
「宍戸さんが俺にくれているものは、全部貰ってます」
 でももっと欲しい。
 鳳にきつく抱き竦められたまま告げられた言葉は、雷の比ではなく宍戸の神経を貫いて焼いた。
 そちらかといえば遠慮がちなほど思慮深い鳳が、すべてかなぐり捨てるようにして欲してくるから。
 宍戸は、ぜんぶ、ぜんぶ、鳳の好きにさせてやりたくなるのだ。
「……早く……どうにでもしてくれ」
「………宍戸さん…?」
「これ以上お前の声聞いてるとどうにかなりそうだ」
 泣き言というような全面降伏ではない、
 唆すような余裕もない。
 ありのままを告げた宍戸の言葉は、しかし鳳の事もどうにかしてしまったようだ。



 雷は、まだ激しい。
 雨も、強く降った。
 恋はそれを上回る。
 海堂は少し俯いている。
 睫が動いて、視線だけが持ち上がって。
 じっと上目に見つめる眼差しに対峙しているのは乾だ。
「駄目」
「………………」
「とにかく、駄目」
 ほぼ無表情に答えている乾を横目に、彼らから少し離れた所で含み笑いを堪えきれず吹き出してしまっている菊丸は、隣にいる不二のジャージの裾を引っ張った。
「不二、不二、なー、あれ。あれ見て」
 言われる前にすでにその光景には気づいていたらしく、不二は視線を一瞬二人に向けてから、菊丸に微笑んだ。
 菊丸は不二の肩に手をかけて、尚身体を震わせて笑い続ける。
「すごいなー。珍しーなー。乾のヤツ」
「それこそ、すごい顔してるけどね」
「心を鬼にしてってやつ?」
「あんなに動揺してる乾は初めて見るね」
「俺もー」 
 彼らの嬉々とした視線に、普段の乾であればすでに気づいていただろうけれど。
 今ばかりは、乾は完全に目の前の相手に粗方の感情も感覚ももっていかれてしまっている。
 同級生達の指摘通り、乾は今とても必死だ。
 それなのに相手は容赦なかった。
 寡黙な海堂は、乾の答えを頭の中で反芻して、尚いろいろ考えた上で、ぽつりと言った。
「………駄目…っすか?」
「う、…」
「どうしても…」
 駄目っすか、と海堂が真剣な眼で乾を見て言った。
 眼光が鋭く、とかく目つきがきついと言われている海堂だったが、いい加減誰よりも彼を見ている乾の目には、どこかしょんぼりとしている様子もはっきりと感じ取れて。
 すんなりと伸びた首筋が僅かに傾けられ、真っ直ぐに見上げてこられるのに乾はとうとうがっくりと肩を落とした。。
「おま、……お前な…それはずるい」
「………ずるい」
「そうだろう? それはずるいだろう。俺の分が悪すぎる」
 乾はもう誰の目から見ても必死だ。
 一人訳が判っていないのは、当事者の海堂だけだ。
 乾にずるいと言われて、ますます真剣な顔であれこれ考え出した海堂の様子は、戸惑いも露で、それでいて一生懸命で。
 遠巻きに様子を伺っていた不二は微笑を深め、菊丸は至極羨ましそうな顔をした。
「海堂もなかなか罪作りだね」
「いいなー、乾。いいなー…」
「ものすごく本気でしょう、英二」
「本気も本気! 海堂可愛いなー」
 じたばたと動き回る菊丸の肩に、不二が手を置いて、声をひそめて問いかける。
「ね、英二。あれ、どうなると思う?」
「乾が負けて、結局海堂が言ってる通りに、練習メニューを増やす!……不二は?」
「んー、逆?」
「え、何で?」
「乾はベストなメニューを海堂に渡してる。海堂に無理させて負担かけさせるような事はしないでしょ」
「ものっすごい流されかけてるけど?」
「戦ってるねえ…」
 面白い、と不二は口元に握った拳を当てて、肩を震わせていた。
「じゃあさじゃあさ、不二、帰りのアイス賭けようぜ」
「いいよー」
 そこまで賑やかに話題にされていても尚。
 乾は全く不二と菊丸に気づかないままだった。
 彼らが言うように、戦いのさなかなのだ。
「乾先輩」
 必要があって呼びかける時以外に、海堂が人の名前を口にすることはあまりない。
 これだけ面と向かっている体勢で、見据えられ、名前を呼ばれると、正直、理知的な部分がごっそり抜け落ちそうな気分になる。
「海堂…」
 お願いします勘弁して下さいと頭を下げたくなりながら乾は海堂の両肩に手を乗せた。
「…乾先輩?」
 海堂の肩は手のひらの中におさめてしまうと見目よりかなり華奢だ。
「もう少し我慢して」
 海堂に言っているのか自分に言い聞かせているのか判らないなと乾は思ってしまう。
「きちんと、作っていこう」
 テニスをする、強くなる為の身体。
 それから。
 まだ海堂は知らない乾の心情、それを告げる為の過程、告げられても海堂が危ぶんだり混乱したりしないで、それが本当の事なのだと聞けるだけの心と関係を。
 無理にするのは乾の本意ではない。
 最短で辿りつきたいから、横着も無理もしない。
 乾はそう思っている。
「………判りました。すみません。勝手言いました」
「いや、……それは全然。ぐらつく俺が悪い…」
「は?…先輩?」
 よくよく考えた上での言葉だったのだろう。
 海堂は、気分を害した風でも、自棄気味なようでもなく、真摯に謝ってきた。
 それに対してつい乾も本音がもれて、海堂を怪訝にさせる。
「どうか…したんすか…」
 不器用ながらも真剣に乾の顔を覗き込んでこようとする海堂のぎこちない気遣いに、乾は撃沈しかけるというものだ。
 海堂という存在が可愛くてならない。
 自覚したらそれは余計にひどくなった気がしてならない。
 死ぬ気で頑張ろう。
 思わず本気でそんな事を決意してしまう乾だ。
 跡部が迎えに来た。
 別に今日は何の約束もしていない。
 神尾が学校から帰る途中に携帯に電話がかかってきて、今どこだと跡部が言うので場所を答えたら、十分待ってろと言うなり通話がきれた。
 跡部はいつもそうなので神尾は別段気にせず待っていたら、跡部の家の車が現れて。
 それに乗せられるのもいつもの事だったが、今日は跡部が降りると車は走っていってしまった。
 氷帝の制服姿の跡部は神尾の前に立ち、言った。
 送ってやる、と。
「………………」
 これって、何かちょっとおかしくないか。
 神尾は思ったが、跡部が神尾の家に向かう方向で歩き出すので一先ず跡部の隣に並んで神尾も歩いた。
 そもそも跡部に送られる、ということは。
 これまでにも幾度か神尾は体験していたが、それは大抵跡部の家から神尾の家までだったし、手段は跡部の家の車を使っての事だ。
 突然現れて、車も返して、ただ送るだけというのは初めてのことだった。
 跡部が自分に何か用事があるのかと最初神尾は思ったのだが、取り合えず跡部は何も言わない。
 神尾は歩きながら今日学校で会った事などを話し、跡部はいつものように頷くだけだったり呆れたりからかった時折少しだけ笑ったりした。
 別に跡部の様子がおかしいという事もない。
 先週の日曜日に会った時も、今も、跡部は跡部だ。
「………………」
 神尾が話しながらそっと見続ける跡部の横顔は、泣きボクロに長い睫の影が落ちている。
 つまり跡部が伏し目がちになっているという事だ。
 彼は決して下を向くことをしない男だから、伏せられる目元の意味は何だろう。
 神尾がじっと見つめれば跡部は怜悧な眼差しを真っ直ぐ神尾へと向けてくるけれど。
「何だ」
「…ん?」
「いきなり黙って何だって聞いてんだよ」
「あ…ー…」
 特別に重要な話をしていたわけでもない。
 どうでもいい話、と括られて当たり前の神尾の日常の話だったのに、跡部はどことなく不満そうだった。
「あのさ、跡部」
「ああ?」
「今さ、……送って…くれてるんだよな?」
「最初にそう言ったろうが」
 出来の悪い頭だなと眉を顰める跡部にさすがに些かむっとしつつ、神尾は跡部の制服のシャツの裾を掴んだ。
「俺、寄り道、したい」
「………………」
 跡部が微かに目を細めて、神尾の顔と、シャツを掴んでいる神尾の手とを滑るように見やる。
 跡部はどうするのかと目線で聞くように見つめると、どこにだよ、と跡部はあっさりと同意するように言った。
「寄り道も付き合ってくれんの」
「だからどこに行くんだよ」
「どこでもいい」
「…ああ?」
 今はどこでもいい。
 神尾が告げると跡部は珍しく判りやすく怪訝な顔になった。
 取り合えず神尾は、寄り道というか、遠回りがしたいだけなので、面食らっているような跡部のシャツを引っ張って家とは違う方向に歩き出す。
 遠回り、というのも。
 遠回し、な言い分だなと神尾が思ったのは。
 肩越しに見た、自分の後をついてくるような跡部の存在があったからだ。
 跡部のシャツから指先をするりと解いて、小さく言う。
「一緒に、もう少し、跡部といたいだけだから…場所はどこでもいいや」
 伺うようなつもりはなかったが、身長差があるから仕方ない。
 神尾が軽く上目になって跡部に告げると、跡部は軽く目を見開いていた。
 何だか今日の跡部の表情は判りやすい。
 その事が不思議で神尾は問いかけてしまう。
「跡部?」
「……俺がもう全部理解している事を、お前はまだ何も理解出来なくて」
「なに?」
「俺が言わない事を、お前は言うんだな」
 言えない事を言えるのかもしれねえけどな、と跡部は呟き、よく判らないと神尾が困っていると。
 そんな神尾の様子に跡部は肩から息を抜くように笑った。
 少し皮肉気に引き上げられた唇は、いつもの跡部だ。
「跡部?」
 跡部の手が伸びてきて、神尾の手首を包み、するりと指先までやわらかく握りこむようにしてくる。
 最後に跡部の親指と人差し指に挟まれた神尾の小指は、爪先まで撫でられるようにされて、びくっと震えるのだけれど。
「俺が言えるようになるまで我慢して待ってろ」
「……何言ってるかさっぱりわかんねーよう…?」
 どうしてそんな綺麗な顔で笑っているのかも。
 どうして全く解読が出来ない言葉を放ってくるのかも。
 神尾は判らないと言っているのに、何故か跡部は楽しげだった。
 決して泣かせたい訳ではないけれど、宍戸の涙を見ると、鳳は、焦るよりもほっとする。
 何故かはよく判らなかったけれど。
 自分のそんな心境が、随分と身勝手だとも思うのだけれど。
「……辛い?」
 鳳は両手で宍戸の頭を抱え込むようにして、宍戸を組み敷いている。
 食い入るように見下ろす先で、宍戸は浅く息を継ぎながら涙の絡んだ睫を震わせている。
「宍戸さん」
 眦に溜まった、ひとしずく。
 宍戸の涙は雫の形がくずれない。
 涙も、汗も、綺麗な球体のまま肌の上にあって、それがいつも鳳を堪らない気持ちにさせた。
 宍戸が身の内から滲ませるものは、どれもこれも鳳の目に不思議な煌きを放つ。
 涙や汗もそうで、その他に、笑みだったり、強さだったり、優しさだったり、無数だ。
「………………」
 鳳は宍戸の唇をそっと塞いだ。
 声にならずに震えている呼気を吸い取るようにして、口付けながら宍戸の髪を撫で付ける。
 熱い息すら目に見えずとも煌いて、すでに押し込んでいるものが煽られるように尚一層宍戸へと沈む。
「……、…っ……ひ、」
 衝撃はよほど凄まじかったらしく、宍戸は打たれたように身体を跳ね上がらせ、反動でキスが解けた。
 まるい雫で零れた涙は、こめかみに幾筋も流れていく。
 鳳は涙に手を伸ばす。
 ひっきりなしに溢れる涙に、指と唇とを一緒に寄せると、舌に飢餓感を煽るような宍戸の涙の味が移り、指先は熱く涙が沁みた。
 至近距離で宍戸と目が合う。
 宍戸は潤みきった黒々とした目で鳳を見ながら、何故だか笑った。
「も、………おまえ…」
「………宍戸さん…?…」
「…人…、が……泣くたび…安心したよう、な……ツラしやがって……」
「え………」
 滑舌のとてつもなくあまくなった声で、それでも澄んだ声で。
 宍戸が言って、笑った事に、鳳は驚いた。
 悪趣味だと思われて当然の事実を、何故宍戸がそんな表情を浮かべて言うのか。
 鳳が言葉に詰まるのを泣き濡れた目で見上げてきた宍戸は、片腕を持ち上げて鳳の髪を耳の上あたりで撫でた。
「俺が…安心…してるから……だろ…?……」
「宍戸さん……」
「……だから…泣いてるって…知って、る…から、おまえ…」
 そういう顔、するんだよな、と言った掠れた小さな声は優しかった。
 宍戸は睫を震わせて、瞬いて、また涙を零しながら乱れた息をして、そして。
 目を閉じ、安堵している和らいだ顔を鳳の眼下に晒す。
「………………」
 宍戸は辛い時には泣かない。
 辛い時には、絶対にだ。
 鳳は知っている。
 それは、単に宍戸が強いからという事ではなく、宍戸は、辛い時や哀しい時には、泣くより先にする事があると考える事を知っているからだ。
 宍戸が泣く。
 それは、宍戸が、ただ彼のまま、その瞬間に安らいでいるという事だ。
「宍戸さ……」
 だから、なのか、と。
 鳳は知ってはいたけれども自分だけでは判らなかった心情を宍戸に教わり、本当に、この腕の中にいる彼がどれほどに大事なのか思い知らされ、抱き締める。
「………っ……ん」
 あえかな、か細い声が自分の肩口に当たる。
 鳳は宍戸を両腕で抱き締めながら、その身体を揺らした。
「長太郎…、……」
「……はい…」
 鳳が、動くと。
 宍戸は、息をのむ。
 腰を引くと、微かに啼く。
 体温を上げる。
 かぶりをふる。
 宍戸の目に、涙は。
 溢れて、零れて、止まらなくて。
 それでも鳳と目が合うたび、宍戸は笑んだ。
 宍戸が安心している。
 鳳は安堵する。
 つながって、揺れて、身体の中がなだらかに組み合わさっていくのが判る。



 ずっと、ずっと、泣かれた。
 もっと、もっと、泣いていて欲しくなる。
 あげたいもの、貰いたいもの、望まれたいもの、それらを手にするのには、さほどたくさんの言葉を使わなくてもいい。
 たくさんの時間を使わなくてもいい。
 今、その時にだけで充分。
 確実に、手の中に、それがあるから、いいのだと。
 だからもう好きなだけ泣かせたかった。
 乾のノートは秘密のノートだが、書き方にいろいろと癖があるので、恐らく他人が見ても理解の難しい代物だ。
 特にプレイを見ながらデータを取る時は、紙面にあまり目線を落とさないので、字は歪んだり重なったりして、乾本人ですら時折文面の判別に苦しむ事がある。
「乾先輩」
「なんだい、越前」
 データ収集中でも声をかけられれば返す。
 涼しい顔で五感をフル稼動させるから、マシンだとかロボット扱いされる事があるのだ。
「海堂先輩って、猫みたいっすね」
「…ああ?」
「乾先輩にしか懐かないんっすか?」
 わざわざ越前が声をかけてくるくらいだ。
 何の話かと思えばこれかと乾はきりのいいところでデータを取るのを止めた。
 珍しい、と口笛が吹かれる。
「越前」
「そんなにっこり笑って怒んないで下さいよ」
 おっかないなあと言いながらも笑っている小さな一年は、恐らく先程の乾と海堂の会話を聞いていたのだろう。
 会話と言っても、海堂は一言も喋っていない。
 彼は寡黙なのだ。
 データをとりつつ乾は少し離れたところにいる海堂に気づいて、彼を呼んだ。
 海堂、おいで、と手招きすると、海堂は黙って近づいてきた。
 今日の海堂の様子を見ていて思いついたトレーニング方法を書き付けた頁をノートから破って、はい、と手渡した。
 やってごらんと乾が言うと海堂の両手で受け取って頷いていた。
 バンダナ越しに形のいい小さな頭に手を置いて、乾は海堂を見送った、それだけの事なのだが。
 それで懐いているなんて言われてしまうのだから、海堂の一匹狼ぶりも相当だ。
 しかし乾にしてみれば、ちょっと尋常でなく海堂はかわいいと思う。
 とても気に入っている海堂を、意味は違うとしてもやはり気に入っている相手というのはすぐに判る。
 例えばこのルーキーだ。
「別に怒っちゃいないよ」
「そうっすか? 牽制されてるっぽいんですけど?」
 あきらかにからかう笑みで、この一年は、生意気というよりは豪胆だと乾は思う。
「構いたくなりません? ああいうひと」
「あげないよ」
「とりゃしませんよ」
 いらないし、とキャップのつばを少し引き下げ、呆れた風に言ってすぐ。
 また目線を上目に上げてくる。
「乾先輩、海堂先輩が懐いてくるように何か仕組んだんですか」
「人聞きの悪いこと言うなぁ越前」
 実際そのての問いかけは同級生からも時折向けられる。
 乾は涼しい顔であしらいながら、やはりそういう風に見られるのかと内心複雑だ。
「俺も、多分ああいうひと、構うのうまいっすよ?」
 猫っぽいから、慣れてるしね。
 越前の言い方に、乾は呟くように応えた。
「確かにな。実際海堂も、お前を気にかけてるからな」
 お兄ちゃんだからなあと、こればっかりは自分に向けられることのない部分かと嘆息する。
 海堂には弟がいる。
 それを知った時、なるほどな、と乾は思ったのだ。
 雰囲気がきつく、人を寄せ付けないような海堂だが、随分とその内面はやわらかい。
 時折見かける光景で、例えば小動物や子供に差し向ける手などは、いつも、ぎこちなくも優しいものだ。
「お兄ちゃん。懐きたそうに見えるぞ?」
「別にそういう訳じゃないですけど」
「でも考えてみたら悪い想像でもないだろう?」
「……やですよ。あんなおっかない兄貴なんか」
「優しいぞ。海堂は」
「………あんた、のろけてんの?」
「そうだね」
 乾は機嫌よく笑った。
 自分自身の感情には、もう気づいている。
 ただどうしようもなく、たったひとりが気にかかるのだ。
 越前は呆れたような溜息をついて、あっそ、と言い捨てて退散していった。
 まだ、のろけというほど、海堂と深く関わっている訳ではないので。
 これ以上話すとなれば、単に乾の片恋話だったのだが、あいにくそれは言葉にされることはなく、乾の胸のうちにあるだけだった。
 


 その頃海堂はといえば、コート裏の木陰で、乾から貰ったノートの紙片に目を通していたのだが。
 時折過剰にスキンシップの激しくなる上級生につかまり、かたまっていた。
「かーいどう。何してんのー?」
「……別に、…何も…」
 背中から、全身でのしかかられて。
 ごろごろと喉を鳴らす猫のようにくっついてくる菊丸に、海堂は動揺する。
 普段から、同級生や下級生はおろか、目上の相手でも、海堂にむやみに構ってくるような者はいないのに。
 雰囲気がきつい、目つきが悪い、近寄りがたい、怖い。
 そんな評価が常なだけに、こんな風にされると海堂はどうしていいのか全く持って判らないのだ。
「海堂は、お日様の匂いがするねえ」
「………は…ぁ…」
「んー。きもちいー」
「あの、…菊丸…先輩…」
 癖のある毛先が当たって頬がくすぐったい。
 ぐりぐりと額を肩口に押し付けてこられ、その気配は海堂が好きな小動物そのもので、邪険にもし辛かった。
 つい目で大石の姿を探してしまいながら海堂が小さく首を竦めると、普段はどちらかといえば幼いような話し方をする菊丸が、海堂の耳元できっぱりと言った。
「なあ、海堂。恋の悩みは俺にしなよね」
「……は…?」
 一瞬何を言われたのか判らなかった。
 海堂が問い返すと、首に絡まっている菊丸の腕に、ぎゅっと力が入る。
「海堂が頼りにしてるのは乾かもしれないけどさ。そんな相手への恋の悩みとかはさ、俺! な? 俺にしよ?」
「こ、……」
 いきなり何を言われたのか。
 頭はさっぱり理解しなかったが、それでも恋という言葉と、あの男の名前だけが、海堂の思考にするりと入ってきた。
 硬直した海堂の頭を荒っぽく撫でてくる菊丸にされるがまま、揺さぶられて。
「海堂が、頑張り方が判らないかもっていうの、恋の悩みくらいじゃん」
 俺だって海堂のこと構いたいー、乾ばっかずるいー、と耳元で泣きまねをされて海堂は一層混乱した。
 菊丸の言っている事は判らない事だらけなのに。
 ひとつだけ、どうしてそれを知っているんだと取り乱しそうになる出来事が含まれていて。
「ほいっ、海堂」
「……え……」
「ゆびきり!」
 強引に小指をとられてゆびきりされて。
 じゃあねー!と走り去っていく菊丸を見送ることもできないまま。
 海堂は地面に両手をつき、がっくりとうなだれる。
 俯かせた顔が赤いことは、誰の目にもふれていない。
 部活が始まる前に確認しておきたい事がいくつか出来て、観月は腕時計で昼休みの残り時間を確かめて立ち上がる。
 テニス部の部室を出て、校舎に戻り、向かった先は赤澤のいる教室だ。
 昼休み、赤澤がどこにいるかは判らないが、何となく教室だろうと観月が踏んだ通りに。
 赤澤は窓際の席に座っていた。
 彼の周囲には数名の生徒がいたが、観月が扉から中を窺ったのとほぼ同時に目と目が合った。
「観月」
 そう口にしたかと思えばもう、赤澤は観月に所にやってきていた。
 教室の扉の上部に左手を伸ばし、観月を見下ろしてくる。
「お前、メシ食ったのか? 食堂来なかったろ」
「食べました。やることがあったので部室で食べたんです」
 自身の長身を影にするようにして、赤澤がそっと右手の指先で観月の頬を撫でてくる。
 観月が睨むと、赤澤は見えてない、と告げるように首を左右に軽く振った。
「………部活の前に確認しておきたい事があるんですが」
 今時間は、と観月が問いかけた時にはもう、背中をたたくついでのような自然な所作で肩を抱かれていて。
 赤澤に促され歩き出していた。
「赤澤、なに、」
「給湯室で話しようぜ」
「何でわざわざそんな所で!」
「いいから。来いよ」
「よくありません。命令しないで下さい」
 憮然として赤澤の手を振りはらおうとした観月に、赤澤は歩きながら視線だけ向けてきて。
 やわらかい光の目で観月を見据えてひそめた声で囁いた。
「お前に命令はしないよ」
「………………」
「一緒にいてくれ」
 お願いならいいか?と甘く笑う。
 観月は絶句して、そのまま赤澤に連れて行かれてしまった。
 給湯室。
 各階にあるものの、はっきり言ってここを生徒が使う事は殆どない。
「………何でこんなところで……」
「ん? お湯が出るだろ」
「……お湯?」
 赤澤が腕まくりをして、給湯室においてあったプラスチックの大きな容器を蛇口からの水で軽く流した。
 何か洗い物でもした時にでも伏せておく為のものなのか、それでいて出番はないらしく真新しいそれに、赤澤は給湯器のお湯を張った。
 それから何故か観月の袖口も釦を外して捲くっていく。
「ちょっと、赤澤……」
「確認って何だ? 時間ないんだろ?」
「え?……ああ……今日から新しく始めるメニューの…」
 言いかけて観月が途中で言葉を切ったのは。
 今度もまたいきなり、赤澤に両手を握られ、引っ張られたからだ。
「な、……」
「何?」
「それはこっちの台詞です…!」
 赤澤の手に取られた観月の右手と左手は、プラスチックの容器に沈められた。
 赤澤と手を繋いだまま。
 湯の温度は少し熱い。
 観月は微かに眉根を寄せて怒鳴ったが、赤澤はのんびりと湯の中で観月と手を繋いでいる。
「手浴?」
「何で僕に聞くんですかっ」
「頭。痛いんだろ?」
「………………」
 ん?と軽く首を横に倒して赤澤は低い声で問いかけてくる。
 本当にどこから見てもいかにも大雑把そうな男なのに、赤澤は誰よりも人を見ている。
 観月の事にも、真っ先に、どれだけ些細な事であっても気づくのは赤澤だ。
「痛みには体内水分のバランスが関わってるってお前言ってたろ。頭痛とか、肩こりとか」
「それは……言いましたけど…」
「手っ取り早く全身があったまるらしいぜ?」
 赤澤は観月の手を湯から引き出し、蛇口の下に促して、流水に晒す。
「お湯に三分、水道水で十秒。これを五回くらい繰り返せばいいんだってよ」
 話しながら出来るだろ?と赤澤は言った。
 再度湯に沈められてから、赤澤の手は観月から離れていったけれど、湯と水とを行き来させる時は赤澤が手を伸ばしてきた。
 手浴のおかげなのか、赤澤の言動のせいなのか、異様に血流が促進されている気がする。
 観月は気難しくゆがめていた顔に熱の色を射し、とても黙っていられる状況ではないため、確認事項を矢継ぎ早に口にしていたものの。
 正直な所。
 もう、何が何だか判らなかった。
 その後の記憶が、どうにもなかった。


 放課後のテニスコートで、生え抜き組と補強組との合同練習のさなか、明らかに思惑ありげに近づいてくる人物が二人。
 観月は眉を顰める。
「観月ー、今日の昼休み、給湯室に密会カップルがいたらしいんだけどー」
「誰だか知ってるだーね?」
 にやにやと笑っているルドルフのダブルスコンビを手加減なく睨みつけ、観月は怒鳴った。
「知りませんっ」
 両側からまとわりついてくる彼らを押しやりながら、観月はそもそもの根源であるコートの中にいる男を見やって内心でうらみつらみを繰り返す。
 長い腕のストローク。
 気持ちよさそうにラリーを続けている赤澤に、観月は思うだけの悪態をついている。
 昼休みからずっと。
 しかし、あれから、確かに。
 ここ最近観月を悩ませていた頭の鈍い痛みは。
 優しく、優しく、霧散して。
 もう今はどこにも、存在していない。
 そもそも最初から怒りに任せて食って掛かったくらいだから、神尾は別段、跡部を怖いと思ったことはない。
 跡部が年上で、他校生で、どれだけ有名な相手だったとしてもだ。
 それは今も変わらない。
 怖いとは、思わない。
 状況によるけど、と。
 内心で思ってしまうくらいの逃げ場は実のところあるのだが。
「………てめえ」
 跡部は神尾を見据えて凄んだ。
 低い声もだが、眼が、とにかくその眼が、恐ろしい程に鋭い。
 お互い全裸で、今の今まで跡部に抱かれていた訳なのだが。
 優しい余韻など欠片もない。
 神尾は固まった。
「口開けろ」
「やだ」
 口は動いた。
 拒絶すると跡部の眼が、すうっと細められて。
 光が引き絞られてきつくなる。
 凶暴だ。
 むしろ、狂暴に近い。
 神尾は息を飲んだ。
「開けろって言ってんだよ」
「…………ぅ。…ゃ、だ」
 声も出なくなってきた。
 しかし断固として神尾が拒めば、神尾を組み敷いた体勢で、跡部は手を伸ばしてきた。
 神尾の口元に。
「………………」
 右手が神尾の顎を固定して。
 親指で下唇を引き下げられる。
 冴え冴えとした眼が、神尾の下唇の内側を撫でるように見て。
 そして。
 至近距離から、跡部は神尾が痛いと思うくらいのきつい視線で睨みつけてきた。
「噛むなっつったよな。俺は」
 顔をぎりぎりまで近づけてきた跡部は、囁くような声で言った。
 声は、決して大きくない。
 しかし。
「唇、噛むな、っつったよな? ああ?」
 おっかない。
 これは、本気で、おっかない。
 神尾は再び、ぐっと息を詰める。
 眦が、音でもしそうにきりきりと釣り上がっている。
 整いすぎた顔は、怒ると、凄みで余計怜悧になる。
 逃げようもないこの体勢で、神尾は跡部のきつい顔を見続ける。
「………………」
 確かに噛むなと跡部は言って、神尾は噛んだ、訳なのだが。
 噛まずにはいられなかった神尾の心中だって、跡部は充分判っている筈なのだ。
 本当は、噛むなと繰り返した跡部の心中を神尾が判っているように。
 でも、それでもどうにもならなかったのだから。
 仕方ないだろうと神尾は思うが、跡部は思わないらしかった。
「………………」
 不機嫌に跡部は唇を寄せてきた。
 神尾の唇にではなく、耳の少し下辺りの皮膚を、噛む様に、して。
「………ッ、……」
 実際竦むほど痛かったわけではないから、充分に跡部に加減をされた甘噛みだったのだろう。
 脈が一気に速くなった。
 首筋が湯につけられたように熱くなった。
「……と…べ…」
 どうしていいのか判らない手で、神尾は跡部の肩に指先で縋る。
 首が熱い。
 皮膚一枚の話ではなく、血まで煮えたように熱い。
「そういう傷をつけるな」
「………跡部…、…?」
「そんなもんつけたくて抱いてるんじゃねえんだよ」
「………………」
 実際跡部は、多少が口調が荒くても、行動が手荒になっても、決して、絶対、神尾を傷つけたりはしない。
 それは絶対にしない。
 不思議だけれど、跡部はいつも好き勝手に神尾にふるまうけれど、その事が神尾の何かを傷つける事はない。
 いつでも。
 今も。
「人がめちゃくちゃ可愛がってやってるもんにな、勝手に傷つけんじゃねえよ、バァカ」
 辛辣に言ってよこしながら、跡部は神尾の唇を塞いでくる。
 息をきつく奪われて。
 苦しいけれど。
 痛むことはない。
 どこも。
 なにも。
「……っ…、……ぅ」
 自分で噛み切って作ってしまった傷からうっすらと血が滲み、神尾の眉根が寄ると跡部はやわらかく唇を吸いなおしてきた。
 吐息が互いの唇から零れて、擽られるような感触に息が乱れる。
「ん、………ん…」
 ゆっくりと重ね直される唇。
 舌先に甘く擽られて、ひくりと震えた神尾の身体に、跡部が一層体重をかけてのしかかってくる。
「神尾」
「……に…、…?」
 唇が、頭の中が、痺れる。
「二度やりやがったら、」
「………ぇ…?………っ、ぅ…」
 跡部は何かを言いながら、神尾の唇をキスで塞ぎ、手のひらを滑らせてくる。
 何か、脅されるような事を言われた気がした。
 よく、判らなかった、けれど。
「ん……、ぁ…っ、…」
 名前を、呼びたかったけれど。
 噛むな、ということだろうか。
 神尾はずっと、口腔に跡部の舌を与えられていて。
 何も、何も、喋れなかった。
 寝返り、というほどのものではなかった。
 宍戸のほんの僅かな身じろぎは、鳳の腕の中だけのこと。
「目…覚めちゃいました…?」
「………………」
 やわらかな声は低く甘く、宍戸はゆっくり瞬いて、自分をそっと囲う長い腕に擦り寄る。
 薄暗い部屋、ベッドの上。
 まだ目が慣れない。
「………………」
 寝かしつけるような優しい手のひらに背中を撫でられる。
 もう少し。
 もう、少し。
 近づいた。
「宍戸さん」
 ひらいた腕。
 ひろげた胸。
 抱きとめて、受け止めて、鳳の囁きと一緒に唇が頭上に寄せられる感触がした。
「まだ…早いよ…時間」
 眠っていいよと抱き締められる。
 睡魔を濃密にする声だ。
 鳳は、では何故そうしているのか。
 喋っているのか。
 宍戸を抱き締めて、背中を撫でて、いるのか。
「眠っていいよ」
 繰り返される囁きに、瞼はとろりと閉ざされたまま開けられない。
 けれども、もっと、いろいろと、欲しくて。
 声とか、抱擁とか、言葉とか、体温とか、匂いとか。
 もっと近くに、もっと深いところに、もっと濃く、浸りたくて。
 宍戸はこめかみを鳳の胸元に微かに摺り寄せる。
 鳳の大きな手のひらが、ぐっと宍戸の背を抱きこんでくる。
 唇を、掠られた。
 鳳の、唇で。
 一瞬、それで思考が蕩けて、沈んで、奥深く。
「宍戸さん……」
 吐息が唇にふれる。
 まだ近くにいる。
 宍戸は目を閉じたまま、微かに唇をひらく。
 零れた微かな呼気を拾ってくれた唇が、すぐに柔らかく吸い付いてきて、宍戸は、こくりと喉を鳴らした。
 唇は、離れて。
 また近寄って。
 重なって、こすれて、離れて、たわんで。
 与えられる小さなキスが散らばってしまわないように唇で受け止めて、宍戸はうっすらと目を開けていく。
 間近で、鳳は唇に笑みを浮かべていた。
 ごめんね?と笑って。
 起こしちゃいましたねと目を伏せて。
 唇を啄ばまれた。
「………長…太郎…」
「……はい……」
 頬と、顎と。
 鳳は宍戸にキスをする。
 睫と、瞼と。
 キスをする。
 宍戸はまた自分から唇をひらき、だるいような腕を持ち上げて鳳の後ろ首に絡めた。
 布ずれの音がした。
 鳳が宍戸を組み敷くように抱き込んできたからだ。
 角度のついた、深いキスで塞がれる。
 首筋を固い手のひらに逆撫でされて、耳の縁を指先に微かに辿られ、宍戸は小さく息を弾ませ身体を竦ませる。
 両頬を鳳の手に包まれて、至近距離から幾度となく角度を変えてキスされる。
 足と足とが絡んでいる。
 腰や、胸が重なって。
 鈍くまどろんでいた身体に浸透してくる、互いからの熱や重みや感触。
 痺れるように、身体を走っていく、その経路は血管なのか神経なのか。
 感情の流れる路だ。
「……そっと見るってことも出来なくて、…ごめんね…宍戸さん」
「…………長太郎……」
 鳳に見られていて。
 見つめられていて。
 気づかずに眠り続けていることの方がいやだと、宍戸は思って。
 判って自分が目覚めたのなら、それが嬉しいのだと、キスに応えて、伝われと願って。
 舌が、ふれあい、気持ちが、緩んで、潤んで。
「…………、…っ…」
 喉元から手を這わされ、足を辿られ、撫でられる。
 宍戸が欲しいものは次々と与えられ、愛して、眠るように、身体が吸い込んで。
 欲して、温まる。
 好きだと、蕩けた口調で告げていた。
 寝ながら言わないでと、鳳は笑ったけれど。
 同じ気持ちで彼からもまた返して貰ったから。
 宍戸は眠りに、深く、口付けごと沈んで。
 沈んで。


 キスごと溺れていった先に眠りの続きが待っていた。
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