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How did you feel at your first kiss?
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 気持ちの消し方を、教えて欲しかった。
 気持ちの消し方を、教えてくれるだろうか。
 気持ちは、彼に向いているものだけれど。
 無意識にでも自分が頼ってしまうのは、結局、彼だ。



 どこか乗り物酔いに似ていた。
 小さな違和感を自覚するなり、たちどころに深みにはまる。
 振り切れない。
 ロードワーク、日課の走りこみを欠かさない海堂だ。
 普段であれば、どうってことのない距離だ。
 この程度の走りこみで、疲労する筈がない。
 しかし、到着地点である青学のグランドのネット裏で、海堂は前屈みになって手の甲でこめかみを拭った。
 たいして汗もかいていないと判っていたが、海堂はそうしながら上体を起こし、頭上の青空に視線を逃がすようにして深く吐息を零す。
「顔色よくないな。海堂」
「………………」
 不意に言葉をかけられた。
 乾だ。
海堂は雑に首を左右に振った。
「どうした」
「……何でもねー…です」
 もう一度首を振ったにも関わらず、いつの間にか海堂の隣に立っていた乾は、海堂の顔を覗き込むように長身を屈めてきた。
 どこか具合でも悪いか?と真摯な目に問われる。
 人付き合いのうまくない自覚のある海堂にすれば、乾はひどく不思議な存在だった。
 用事などなくても相手の方から海堂に話しかけてくる人物など、そうはいない。
 乾という男がどれだけ注意深く周囲を見ているか、海堂もよく知っていた。
 だから海堂に話しかけてくるのも、別段自分だけが特別という事ではないと海堂も判っているのだが、それにしたって乾のような相手は珍しいのだ。
「海堂」
 乾は一見他人に無関心そうだが、実際のところ人に興味がなければデータなど集められないだろうと海堂も気づき始めていた。
 乾は思慮深く、同じように情深い。
 あからさまに表立つものではないけれど。
 今も、海堂がいくら素っ気無く返事をしても、気分を害した風もない。
「………………」
 海堂は重い息が詰まってしまったような喉に無意識に手をやった。
 あまり人から構われた事のない海堂は、いつも落ち着かない心情で、乾と対峙する。
 年上の男は、髪をかきあげた。
 乾のこめかみも汗で濡れていた。
 白いシャツは鎖骨のぎりぎりのラインだけ晒して、胸元に張り付いている。
「海堂。体調よくない時はちゃんと言って」
「………………」
 骨ばった手は、乾の頭から、今度は海堂へと。
 そっと近づいてきて。
 バンダナ越しに海堂の頭に、ふわりと乗せられる。
 気遣わしい眼差しが近くなる。
 こんな真似を他人からされたことがなくて海堂は固まった。
「………………」
「ここ最近、いつもそうだと思ってたんだが…」
 どこか具合でも?と再び乾に問われて、海堂は黙って首を左右に振るしかない。
 そういう心配はいらないのだと、どういう風に言えばいいのか、海堂には判らなかった。
 僅かに弾んだ息のまま、頭上の乾の手のひらをどうすることも出来ずに、ただ視線だけを逸らす。
 ここ最近といえば、海堂も思っている事がある。
 乾も、変だ。
 手は、離れない。
「海堂…?」
 今目の前にいる乾は困っていた。
 そういう顔を隠さない。
 どちらかといえば普段はあまり赤裸々に表情を晒すことがないのに、先程からずっと、そんな顔をして海堂の隣にいる。
 乾も、変だ。
 そう思ったことが口をついて出ていた。
「……先輩も、です」
「………何?」
 不思議そうに問いかけられて、海堂は目線を上げた。
「海堂?」
「…先輩も。最近変っすよ」
「変? 俺?」
 半分は八つ当たり。
 多分それだ。
 自分の感情が不安定だから、勝手に乾のせいにもしているのだろうと、海堂自身が思っている。
 でももう半分は、言葉の通り、乾も変だと確かに思っている。
 彼もまた、どこか自分と似た気配だ。
 時に思いつめ、時に気も漫ろになる。
 更にそのくせ、構う、みたいな。
 まるで、構う、みたいな。
 気にかけられる、そういうふるまいに。
 乾からのそういう接触に。
 海堂はどうしていいのか判らなくなる。
 構われる事にも慣れないし、こんな風に一人と向き合う事が、これまで海堂にはなかったからだ。
「ああ…それはな、海堂。お前の」
 海堂が思わず言ってしまったのと同様に。
 乾もそれと似た言い方で、言った。
「……俺の?」
 海堂が、問い返す。
 乾は、何だか我に返ったみたいに少しだけ動揺して。
 珍しく困ったように言いよどんだ。
「いや、……何でも…」
「………………」
「聞かなかった事に……っていうのは無しかな?」
 海堂は黙っているのに、乾はじっと海堂を見据えてきて溜息をつく。
「…無しだな。うん」
「………………」
「ただ、な…」
 とにかく乾の言葉はどれもこれも歯切れが悪かった。
 それは海堂を苛立たせるというよりは困惑させるものだった。
 乾は、何を言いたいのだろう。
 何を思っているのだろう。
 人に対して、そんな風に思ったのは初めてかもしれないと海堂も戸惑う。
 頭に乗せられている乾の手のひらが身じろいで、海堂自身もまた同様に。
「ごめん…」
「………………」
「本気で言っていいのかどうか判らない。ますますお前の具合悪くするかも」
「………………」
「海堂ー……」
 泣きつくような情けない小声に、ふと海堂は緊張をゆるめた。
 唐突に、乾のその声で気づいたからだ。
 戸惑っているのは自分だけではない。
 乾もまたそうならば、乾のように人の感情に敏感でない自分は、せめて伝える事があるだろう。
「……乾先輩」
「何?」
 気遣わしいように、それでいてどこか勢い込んで乾が促してくる。
 海堂は息を吸って、乾の目を見て言った。
「俺は……具合が悪い訳じゃないんで……すみません」
 大丈夫です、と告げると。
 そう?と少しほっとしたように乾が笑みを見せてくる。
 海堂も肩から力が抜けた。
 それでまた海堂は自覚する。
 近頃自分がかかえている違和感。
 それは決して体調不良などではなく。
「緊張…してました」
 言葉を捜すようにして、一言ずつ口にする海堂に、乾は複雑そうな顔でその言葉を反復した。
「………緊張…」
「…………っす」
 それが一番正しいと海堂は思った。
 緊張、するのだ。
 乾といると。
「それは……やっぱり、よくない意味で、だよな…?」
 ひとりごちる乾の、やけに深刻な様子に首をかしげながら、海堂は言葉を捜す。
「よくない態度して…すみません」
「いや、…原因俺でしょ。海堂のせいじゃない」
 そう言って、乾は再び考え込む。
 長身の乾の肩が何だかがっくりと落ちているようで、海堂は珍しくも自分の方から乾を覗き込むようにして呼びかける。
「あの…乾…先輩?」
 こんなことを言っていいのかどうか判らないが、今海堂が率直に思ったことは。
「………なんか…落ち込んでますか」
「そうだね……うん、…落ち込んでます」
「………………」
「………………」
 自分が緊張すると何故乾が落ち込むのか、正直海堂には判らなかった。
 海堂が乾に感じる緊張は、多分。
 殆ど唯一といってもいい、自分に構ってくる年上の男に、気持ちを引きずられて平静でいられなくなる自分にだ。
 馬鹿な事を考えそうで怖い、戒めようと思っている時点ですでにまずい。
「とりあえず、少しずつ」
「……先輩?」
 頑張るか、と真剣な顔で呟いた乾に。
 海堂の呼びかけは届いていないようだった。
 よし、と決意する乾の顔を見上げて、海堂は僅かに目を細めた。
 自覚してしまえば、認めてさえしまえば、この緊張めいた違和感は薄れるのだろう。
 判ってはいたが、海堂は、まだ。
 緊張というバリアの中で、ひっそりと息を潜める事を選んだ。
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 氷帝のラウンジは、よほどのことがない限り満席になることはない。
 それくらいに広い。
 しかし何故かいつも見知った顔は近くに集まるようになっている。
「おおーい。お前らこっち来いよ!」
 派手なアクションで手招きしている向日を、鳳と宍戸は同時に見て、それから同時に今度は互いの顔を見る。
「あの感じじゃ、ぜってー何かあるぞ…」
「…ですね。行きましょうか、宍戸さん」
 溜息をつく宍戸に、鳳がやんわりとした笑みで、肯定と促しを差し向ける。
 憂鬱そうな顔を隠しもせず、それでいて宍戸は真っ直ぐ向日のいるテーブルに向かった。
 テーブルには他にもいつもの面子が揃っていた。
「宍戸ー、お前またそれかよ」
 向日が言ったのは、宍戸の買った飲物だ。
 正確には、宍戸が買って、鳳が運んで、宍戸が椅子に座ると同時にサーブするように宍戸の前に鳳が置いたハーブティだ。
 ミントやレモングラスの特別ブレンドで、好みで入れられるように添えられた蜂蜜は、鳳が注いでいる。
 その行為まで全部ひっくるめて、向日は、また、と言ったのだ。
 宍戸はうるせえよと返しながら、隣に座った鳳に、サンキュ、と告げてからカップに口をつけて。
 自分で入れるより絶対に甘みのバランスが絶妙なのだからと、ちらりと上目に向日を見やる。
 またで悪いか。
 そう感情を込めた眼差しで。
「鳳、お前宍戸に甘すぎねー?」
「そうですか…? 寧ろセーブしてるんですが…」
 矛先を鳳に向けた向日だったが、鳳のゆるい甘い笑みは向日をも一息で脱力させたようだ。
 テーブルに崩れるように顔を伏せた様子を見て、宍戸は笑い、鳳は生真面目に声をかけている。
「大丈夫ですか? 向日先輩…」
「これっぽっちも大丈夫じゃねーよっ」
 叫んだ向日の声に目覚めたのか、同じテーブルに顔も両手も投げ出して眠っていたジローが、逆にむくりと身体を起こした。
 起き抜けに宍戸を見て、呂律のあやうい口調で驚いている。
「ぁ…ぇ……ししど…」
「よう。お目覚めか?」
 寝乱れたジローの髪を軽くかきまぜた宍戸に、それまで岳人の隣で黙ってコーヒーを飲んでいた忍足が見かねた様に苦笑を零す。
「そんな真似して。忠犬が戦闘犬になったらどないするん」
「お前の言う事は意味がわかんねえんだよ、忍足」
 きつい眼差しを差し向けられても構わずに、忍足は宍戸をよそにして心底同情的に鳳の肩を数回叩いた。
「若い時に苦労しといて、ええ男になるんやで、鳳」
「がんばります」
 あまりにも爽やかにそう返されて、忍足も向日に続いてテーブルに沈み、立ち直った相棒に慰めともつかない言葉をかけられていた。
「侑士、もうこいつら放っておこうぜ。ほんと疲れる」
「…やな」
「お前らで呼んでおいてその言い草かよ」
 呆れた宍戸の言葉に、向日が、あ!という顔をした。
「そうだ。聞きたいことがあんだよ。宍戸」
「何だよ」
「なー、お前だったらさ、好きな相手のメアドとか、携帯番号とか、どうやって聞く?」
「はあ?」
 ぐいっと顔を近づけてきた向日の問いかけに、宍戸は眉間に皺を寄せた。
 向日は気にした風もなくまくし立ててくる。
「一応クラスメイトで、そこそこ話はするけど、まあ特別親しいって訳でもないような相手。初対面とかで聞く感じとはもう違うって関係で」
「一応だとか感じだとか、まどろっこしいな。そんなもん、普通にアドレスはなんだ、番号は何番だって聞けばいいだろうが」
 宍戸のそっけなく呆れた声に、だろ?と向日は勢いこんだ。
 自分の返答に向日が怒り出すかと一瞬宍戸は思ったのだが、向日は寧ろ我が意を得たりといった表情でしきりに頷いている。
「俺もそう思うんだよ! 普通そうだよな? なのによお、侑士がさ、その子はそれが出来ないから聞いてるんだろとか何とか言いやがってさ」
 先程までは同胞とばかりに同情的だった相手を、今度は睨みつけている向日には、どうやらクラスメイトからそんな相談を受けたようだった。
 見た目は余程忍足の方がクールそうなのだが、彼は恋愛事にはああ見えて実は繊細らしい。
 向日はといえば、雰囲気は甘めの可愛らしさが目立つのだが実際はひどく男っぽいので、その恋愛相談は思いっきり人選ミスだろうと宍戸は内心で思った。
「そいつもさ、俺が教えてやろうかっつってんのに、本人から聞かないと連絡できないとか言っててよ」
 面倒くせえ!と頭を抱える向日の心情は宍戸にはよく判った。
 自分もそう思うからだ。
 そうして案の定、鳳は忍足に同意している。
 宍戸は向日相手に言った。
「連絡したいんなら直接聞くしかねえのになぁ…」
「だろ? 知らない情報聞くのに、今更も、初対面じゃないも、ねえだろって話!」
 何愚図ってんだがさっぱり判んねえ!と向日が言うのに、宍戸も同意で頷いた。
 それを聞いた忍足と鳳は、揃って溜息を吐き出している。
 対峙する二組の合間で、突然にジローが口をひらいた。
「それじゃー、携帯のー、操作をまちがってー、電話帳ぜーんぶ消しちゃったからー、手入力で入力しなおしてるんだけどとか言ってー…しらばっくれて正面きって聞けばー?」
 テーブルにいた一同は一瞬揃って口を噤む。
 全員の視線を一身に浴びて、ジローは前髪をくしゃくしゃとかきまぜながら小さくあくびをする。
 幼い顔つきの彼の台詞には、繊細組も、男らしい組も、思わず頷いた。
「………それは、結構いいんじゃね?」
「せやな。それはいけるで」
 岳人と忍足がことのほか真剣な様子で頷きあっていると、とろんとした目にうっすらと涙を溜めてジローが再び口をひらく。
 何かに気づいたように、あ、と言ってから。
「でもこれ、宍戸のアドレス聞き出す時に鳳がやったことかー……」
 仰天したのは鳳だ。
 本当に飛び上がったんじゃないだろうかと宍戸は見ていて思った。
 そんな鳳の反応に、向日がここぞとばかりにからかいの眼差しで鳳に詰め寄っていく。
「は? マジで? そうなのかよ、鳳」
「な、…ジロー先輩、何言ってるんですか…! 違いますよ! 向日先輩っ」
 そうだっけー?と欠伸をするジローの隣で、岳人が好奇心丸出しの顔で鳳を覗き込む。
「違ってて何でそんな慌ててんだよー、お前ー」
「向日先輩が何か悪い顔になってるから…!」
「あ、お前センパイに向かってそういう口きくか?」
「ちょ、…っ」
 甘い顔立ちを裏切る凶暴さで有名な向日は、にこっと笑いながら鳳のタイを手にして、含みたっぷりに目を細めている。
「……あかん。本気で怯えとるで、鳳」
 忍足が苦笑いしている隣で、宍戸は呆れ顔だ。
「かわいいねえ、鳳も。宍戸のメアドゲットするべく、あれこれ考えたわけだ」
「ですから…! 違いますって…! 俺は普通に宍戸さんに聞きましたよ。教えて下さいって」
「なの? 宍戸」
「んー…?…どうだったかな」
「ひどい、宍戸さん」
 覚えてねえなと首を傾げる宍戸に、鳳が嘆く様を見て向日は笑って喜んでいる。
「確かに、電話帳消してしまったのは本当ですけど。その前にちゃんと宍戸さんに聞いてます」
「ふぅん。へぇえ?」
「向日先輩…!」
 そうやってひとしきり構われ、からかわれまくった鳳は。
 暫くして席を立った三人の三年生から開放されるなり、テーブルに額を当てて脱力する。
「さて、と。ジローの案を教えてやりに行くかなー」
「俺は教室でねむるー」
「まだ寝るんかい!………ああ、鳳、堪忍なー」
 足取り軽い向日と、あくびを繰り返すジローと、苦笑で片手を顔の前に立てる忍足と。
 彼らが席を立ち、その場からいなくなり、宍戸は鳳と二人きりになる。
 疲れきった様にテーブルに顔を伏せている鳳の、少しだけ癖のあるやわらかな髪を宍戸は手のひらで軽くたたいた。 
「長太郎」
 ぐったりとしている鳳を見て軽く笑う宍戸の口調は楽しげで、優しげだった。
「……んな落ち込むなって」
「だって……ひどいじゃないですか。宍戸さん」
 じっと上目に見られる。
 宍戸は笑った。
「言えば良かったじゃねえか。お前がした事と、俺がした事」
 鳳は、彼が言うように、真っ正直に言ったのだ。
 まださほど親しくなる前だったが、宍戸のアドレスと電話番号を教えてくださいと丁寧に。
 それに対して宍戸は。
「人に聞く前にお前が言えって怒鳴ってよ。あれは我ながら横柄だった」
「そんな事ないです。宍戸さんは横柄なんかじゃないです」
 鳳に真剣に否定されて、宍戸は目を瞠ってから、そっと声をひそめる。
「ま、…照れかくしで怒鳴ったようなもんだからよ」
「……え?」
 あんな風に、真っ向から。
 乞われるようにお願いをされた事なんてなかったから。
「だから。照れの延長で。お前の携帯奪って、俺の携帯にかけて、すぐきって」
「それを俺にくれましたよね」
 嬉しかったんです、すごく、と鳳が顔を上げて優しく笑う。
 その時と同じ、嬉しそうで可愛い。
 宍戸は肩を竦めた。
「放り投げてな」
「ちゃんとキャッチしたでしょう?」
「受け取りざま、お前俺の隣に並んで、即効で俺に電話かけてきてな」
「早く宍戸さんに電話してみたかったんですよ」
「並んで歩いてんのに電話してるってどんなだよ」
「幸せって感じでしたねえ…」
「………アホ」
 そんなに昔の事ではない。
 でも、何故か懐かしいような面映さがある。
 そういえば、と宍戸は思った。
「思い出しついでにだけどよ…」
「何ですか?」
 宍戸はハーブティを飲みながら鳳に視線を向ける。
「お前がその後に電話帳全部消したの、あれ、わざとだろ」
 鳳が双瞳を見開く。
 純粋に驚いている顔だ。
「何で知ってるんですか」
「お前が……やけに嬉しそうだったから、かな?」
 ジローが言ったように、鳳は携帯の電話帳が全て消えてしまった後も、宍戸にアドレスを聞きに来たのだ。
 その時の鳳の表情を思い出しながら宍戸は言う。
「びっくりしました」
 全部判ってたんですねと鳳が呟いた。
 宍戸は首を左右に振った。
「んなわけあるか。わざと全消去して、それの何が嬉しいのかまで判るかよ」
「あの時はですね、……実際全部消してみたら、すごく実感したので」
「あ?」
「他には何もいらないんだなって。俺は、宍戸さんだけでいいんだなって。改めて判って。それが嬉しかったんだと思います」
 鳳は穏やかに言った。
 宍戸は一瞬絶句し、それから盛大に深々と溜息をついた。
「…お前、時々本当に突拍子もないこと言ったりやったりするんだよな……」
「ですね。自覚はしてますよ」
 常識を弁えて、堅実そうで。
 そのくせおっとりと微笑みながら誰も思いもしないような事をするのが鳳だ。
「携帯のリセットくらいならいいけどよ。そのうちお前自身のリセットとかするんじゃねーぞ?」
「もし記憶がなくなっても、宍戸さんにその都度惚れこみますよ、俺」
「それをやめろっつってんだよ」
 何度でも好きになる。
 鳳はそう言って、まさかそれを意図的に実行するわけはないだろうが。
 何分鳳は、時折宍戸の予想もつかない事をしでかしてくるから。
 一応釘をさしておくべく宍戸は口をひらく。
「もしお前が俺の事を忘れるような事があったら、俺はお前に愛想尽かすからな」
 宍戸の予測以上に、その言葉は鳳を戒めたらしかった。
 ぜったいしませんと、鳳はひどく懸命で神妙な真顔で、言った。
 絶対するな、と宍戸は眼差しで念押しをする。
 そして最後に、そんな事になったら泣き喚いてやると凄めば、もう。
「そんな事しませんってば! だから泣いたりしないでください」
 どれだけ必死なのかと思う剣幕で鳳が宍戸に詰め寄ってくるので。
 宍戸は冗談めかした本音を晒したまま笑ってやった。
 熱いことは痛いことだと知っている。
 過度の熱は観月にとってはいつでも痛みだ。
「あのさ、観月。言っていい?」
 木更津はうんざりとした顔をしていたが、観月はもっとうんざりという顔をした。
「ジャージを脱げと言われるのはいい加減聞き飽きてます。そうでないなら言いなさい」
 今日だけでいったい幾度、同じことを言われたことか。
 恐らくはまた同じ提言だろうと観月は思い、今朝方打ち出してきた個別の練習メニューが書かれた紙の束を荒く捲っていく。
 日陰などどこにもないコートで浴びる五月の直射日光は、観月にはいっそ凶器だ。
 目に見えない紫外線は、容易く観月の神経まで射し込んで。
 神経を直にひりつかせてくる。
 一番上まできっちり上げたジャージのジッパーで覆っても首元はジリジリと紫外線をつかまえている。
 ジャージで両手足の露出は殆どないにも関わらず、皮膚が痛い。
 眼球まで痛むようで無意識のうちにこの時期の観月は節目がちになる。
 眉根も寄るし、表情もきつくなる。
 いつもそうだ。
 この時期、そして夏の熱は、残酷で、遠慮がなくて、観月には苦痛でしかない。
「観月さぁ…見てるだけでこっちまで暑いんだけど」
「見なければいいでしょう」
「観月見ないでどうやって部活するの」
「指示を聞いていれば充分です」
 今日は何でも日中の最高気温は三十度を越えるらしい。
 真夏日だ。
 観月とて決して暑くない訳ではないのだ。
 ジャージをきっちりと上下着込んで尚淡々としているから、よほど暑さに強いと思われている節もあるが、観月とて暑いものは暑い。
 暑いのだが、直射日光に晒した後の日焼けの方が厄介だから、観月も耐えているのだ。
 自身の肌は熱と相性が悪い。
 日焼けは火傷の領域に近い。
 だからこそ我慢して、暑いさなかにも完全防備でいるのだから、それを傍から勝手にどうこう言われたくないと観月は思う。
 あからさまな不機嫌を隠せずにいる観月だったが、それこそ木更津も観月のそういう態度には慣れたものだ。
 観月の目つきなど気にもせずといった風情で近づいてきて、いきなり正面から観月の胸元のジャージを両手に握りこんでくる。
「………脱げ」
 何ですかと問い返そうとした観月の言葉より先に、木更津は無理矢理観月のジャージを剥ぎ取ろうとしてくる。
「冗談、…っ…、っちょっと、何勝手に…!」
 一見涼しげな顔をしている木更津を、よくよく近場で観月が見据えれば、どんよりとその目が据わっている。
 今日の暑さには、彼も相当やられてしまっているらしかった。
 観月の一喝など気にした風もなく、無理矢理にジャージを脱がそうとしてくる。
 観月が怒鳴っても睨んでも抵抗してもお構い無しだ。
 ただでさえ暑い所に無駄なとっくみあいをする気力も体力もないと、観月は即座に切れた。
 投げ飛ばす、と思って怒鳴って手を伸ばす。
「いい加減に、…っ!」
「はいはい、そこまで」
 観月が大声を張り上げ、一暴れしかけた時だ。
 あまりにも自然に、同時に唐突に、日に焼けた長い腕が観月と木更津の間に入ってきた。
 のんびりとした口調の、低い声。
「元気いーな。お前ら」
 その腕は、極自然に観月の背後から伸びてきて。
 観月の肩へとまわされる。
 後方へと引き寄せられ、観月の背中に当たるのは体温の高い広い胸元だ。
 熱い、と観月は思う。
 けれど不思議とその熱量は観月に全く不快感を与えない。
 やんわり抱き込まれていても。
 この炎天下に。
 不快でない。
「こいつの日焼けは、イコール火傷。一日背中焼けば仰向け寝禁止令が医者から出るんだからよ」
「………………」
 観月を抱き寄せてそう話すのは赤澤だ。
 木更津が、そんなことは知ってるけど、この格好は見ていて余計に暑さが増すと今度は赤澤に噛み付いている。
 赤澤は飄々と言った。
「暑いの気持ちいいだろうが」
「そんなこと言ってるのは赤澤だけだよ。赤澤は絶対、どこか南国の、異国の生まれだ」
 見た目からしてそうだと木更津が言っているのには観月も内心で同意した。
 赤澤は常夏だ。
 日に焼けた肌はどの季節にも黒く、夏になればなるほどテンションもモチベーションも上がっていく。
 誰もがぐったりする暑さであっても、気持ちよさそうに灼熱の中にいる。
 目を閉じて、空を仰いで、日差しを浴びている。
 観月とはまるで違う。
 観月には熱は痛みだが、赤澤には熱は安らぎなのだろう。
「そんなこと言ったら東京は南国かよ?」
「今日みたいな天気ならそうだよ」
「お前、結構やばいんじゃね? 目すわってるぞ。柳沢の顔でも見て落ち着いて来いよ」
 からかうような、あしらうような、一見軽くて、それでいて。
 赤澤の言動は深みがあって判りやすい。
 木更津は少し黙った後に、嘆息した。
「……そうする」
 木更津が即座に背中を向けたのを、観月は唖然と赤澤の腕の中で見送った。
 随分と簡単にとりなしてくれたものだ。
「…………赤澤」
「あ?」
「いい加減に離せ」
 溜息を吐き出しながら告げれば。
 はいよ、と赤澤はするりと腕をほどく。
 呆気ないようでいて、実際は余韻でまだ抱き込まれているような不思議な感触が観月を縛る。
 赤澤は観月の隣に並んだ。
「お前、それいつ作ったんだ?」
 上半身を僅かに屈めるようにして赤澤は観月の手元を覗き込んでくる。
 二の腕と二の腕がぶつかる。
「昨日です。プリントアウトは今朝ですが」
「サンキュ」
「僕の仕事です」
 いちいち礼なんか言うなと睨みつければ、バーカ、と身体を軽くぶつけられる。
「言うに決まってんだろうが」
「………………」
 太陽を浴びて、所々金色に見える赤澤の髪に観月は一瞬目を細める。
「いつもありがとうな」
 もしかすると。
 微笑むその表情にかもしれないが、まぶしいものを見つめるように赤澤を見る。
「だから、…何を当たり前の事を…」
「お前がいる事やする事、当たり前なんて思った事ないぜ」
「……赤澤?」
「俺がお前の隣にいるって事は、当たり前にするけどな」
 笑う赤澤と、自分との距離は、いつも。
 少しずつ、少しずつ、縮まって、気づいた時にはもう、いつも、こんなにも、近い。
 観月は赤澤を見上げる。
 赤澤は太陽を背負うようにしていて。
 何だかこわいようなあまいような言葉を放られて。
 笑みを含んで優しくなった目をした赤澤の影が落ちてくる。
 ゆっくりと自分に落ちてくる。
「暑っ苦しいだーね、そこ…! いちゃつくのもいい加減にするだーね…!」
 突如響いた声に、観月はぎくりとした。
 どこかに吸い込まれていくように、赤澤に、ぼうっとしていた自分に気づいたからだ。
 柳沢と一緒に戻ってきた木更津が、柳沢の隣で小さく笑い声を零している。
「どこまで観月至上主義なのかな。赤澤は」
 観月のために日影?と木更津が言うのに、観月は目を瞠る。
 日影。
 赤澤の影。
「………赤澤…貴方…」
 やけに距離が近いとは思ったが、観月と肩を並べている赤澤が、観月に影を落としていたことに今更ながらに気づく。
 呟くように名前を口にすると、赤澤の手の甲が、極軽く観月の頬を掠った。
 下から上に、やわらかく、一瞬だけ撫でるような接触だ。
「少し日に焼けちまったかな…」
 向けられる眼差しが心配そうだから観月は絶句する。
 このバカ澤、と心中で呻くように思い。
 みるみるうちに、少しどころでなく、盛大に。
「あらら……真っ赤だね」
 笑う木更津と。
「ちょ、…観月、熱? 普通じゃないだーね、その顔は」
 慌てる柳沢と。
「冷やしてくる。すぐ戻る」
 観月の肩を抱いた赤澤は、背後の二人にそう言い置いて歩き出す。
「赤澤、……」
 部室の脇にある水飲み場まで連れて行かれた観月は。
「………、ん…」
 盗むようなキスをされた後、水飲み場の影で赤澤の胸元に深く抱きこまれて。
 確かにそれで顔に直射日光は当たらないけれど、顔なんかますます熱くなってしまった。
「………冷えません…よ……こんなことしてたら」
 胸元に顔を埋めているから目には見えていないだろうが観月は自身の頬の熱を自覚している。
 赤澤は両腕で観月をしっかりと抱き込んだまま、不思議な返答を響かせてきた。
「俺の頭を冷やしてんだよ」
「……はい…?」
「のぼせあがってんの。お前に」
 あんな綺麗な色してみせるからよ、と赤澤が吐息を零したのが判って。
 観月はくらくらした。
「あのまま見てたらやばいけど、目逸らすだけじゃ意味ねーし」
 他の奴にも見せたくないしと、赤澤は真面目な声で告げてくる。
 お互い身動きとれなくなる。
 お互いこのままでいるしかなくなる。
 熱い、暑い、中にこのまま。
 見知った顔に次々遭遇したのは、今日が休日だからだ。
 連れ立ってストリートテニス場に行くことになり、テニスをすることになったのも、ある意味自然な流れだ。
 ただ、出来たら今日は二人のままでいたかったんだがと内心で思うのを、実際には表面には全く滲ませず、乾は手元のペットボトルを弄びながらストリートテニス場に向かっている。
 暫く無言でいたが、肩を並べて歩いている相手がいきなり小さく吹き出したので、何だ?と乾は視線を向けた。
 相手は宍戸で、笑った目で乾を流し見ている。
「乾、お前と跡部、おんなじツラしてるぜ?」
「ん?」
「邪魔すんなっつー…」
「いや、そこまでは思ってないよ」
「跡部ほど露骨じゃねえって?」
 軽く言った宍戸の手にも数本のペットボトルがある。
 自動販売機で六人分を買って来ることになり、一人で充分だと言った乾についてきたのが宍戸だ。
「俺や跡部だけじゃなく、鳳だって、そう思ってるかもしれないぞ」
「俺が楽しいって思う事あいつが邪魔するかよ」
「……お前達は相変わらずだな」
 乾は溜息のように笑って言い、宍戸は単に溜息だけをついた。
「お前んとこも、跡部んとこも、同じだろ」
「そうかな」
「じゃねえの?」
 うーん、と乾は曖昧に返答する。
「俺はちょっと大人げがなくなったような気がするんだがな」
「誰が?」
「俺が」
 へえ、と宍戸があまりにもあっさり言ったので、これは元から大人げなどないと思われていたのかと乾は苦笑してしまった。
 宍戸はそれに気づいたようで、小さく肩を竦めた。
「乾、見た目ほど達観してないよな」
「放っておいてくれ」
 そっとしておいてくれというのが本音かもしれない。
 乾が憂いだ声を出すと、宍戸は尚も言った。
「海堂部長は毎日多忙か」
「……宍戸ー…」
「神尾部長が毎日多忙で、俺様も幼児化してるからよ」
「お前は本当に容赦ないな。鳳にだけ甘いのか」
「どうかな」
 テニスボールを打ち合う音がはっきりと聞こえてくる。
 海堂と神尾は、まだ打ち合っているらしかった。
 乾と宍戸がコートから見える所にまで現れると、遠くから鳳が駆け寄ってくる。
「本当にベタ惚れされてるなぁ…宍戸」
「されてるんじゃねえよ。してんだよ」
 真顔で言った宍戸に乾は内心で完全降伏だ。
「宍戸さん、乾さん、すみませんでした。ありがとうございました。持ちますね」
 鳳が手を伸ばしてきて、ペットボトルを引き取ろうとする。
「ああ、ありがとう、鳳。あの二人の決着は?」
「まだですね」
 乾がコートに目をやって問いかけたのに応え、鳳は途中から声を潜めた。
「……跡部さんは限界かもしれません」
「不機嫌だな。確かに」
「お前とおんなじようなツラしてるだろ?」
 宍戸がからかうのを乾は流したのに、鳳はあっさりと頷いたものだから。
「鳳ー……」
「あ、すみません。乾さん」
 鳳は明るく笑って詫びてくる。
 隣で宍戸が肩を震わせていた。
「でも、乾さんの気持ち判ります。今日は仕方ないですよね」
 鳳は乾に微笑んで。
「今日、誕生日なんでしょう?」
「……どうして知ってる?」
「何かでプロフィール見たような気が。間違ってましたか?」
「いや、合ってる」
 乾と鳳の会話に、宍戸が不思議そうに乾を指差した。
「誕生日か?」
「俺は来月。今日は海堂の誕生日」
「そりゃ……邪魔したな」
 生真面目に宍戸が言うのに、乾は先程宍戸が言っていた台詞で返した。
「海堂が楽しがってる事は邪魔な事じゃないし、その邪魔もしないよ」
「乾さん、大人ですね…」
「いや、これは宍戸の受け売りだし、宍戸に言わせると俺は大概大人げないらしいぞ」
 乾は鳳の肩に片手をかけて溜息を吐く。
 三人で顔を突き合わせていると、コートのほうから神尾の怒鳴り声が聞こえてくる。
「跡部さっきから横でごちゃごちゃうるさいっ!」
「海堂相手に持久戦やる馬鹿を馬鹿と言って何が悪い。だから追いつかれてんだよ。この体力無しが」
「いつまでも人のこと体力無し体力無し言うな! 持久力強化だってやってんだよっ」
「お前の持久力強化をやってやってんのは俺様だろうが」
 ぎゃーっ!と神尾が叫んだ。
「ば…っ! 何言っ……、……ッあー…っ! きたね、…マムシ…!」
「マムシって言うんじゃねえっ。よそ見してるお前が悪いんだろうがっ」
 それでどうやらゲームは終わったらしかった。
 海堂と神尾の大声での言い争いの中に、鳳がのんびりと割って入っていく。
「二人ともお疲れ。宍戸さんと乾さんが飲物買ってきてくれたから休憩しよう」
 ネットを挟んで言い合っている神尾と海堂を宥めながらペットボトルを手渡し、それから鳳は跡部にミネラルウォーターを渡しながら、跡部の耳元で何事か囁いた。
 跡部は顎を軽く上げ、目を細め、それを聞いている。
 高等部に上がってから一層きつさの増した秀麗な顔は、そういう顔をすると一層近寄りがたい。
 整っているが故に隙のない凄んだような表情で、彼はあくまでもキングなのだと知らしめてくる。
 そんな跡部は、鳳が離れるといきなり海堂の名前を呼んだ。
 ちょっと来い、と手でも呼ぶ。
 海堂は少し眉根を寄せて、それは不機嫌というより困惑のそれだと、見ている乾にはすぐにわかった。
 跡部に呼ばれた海堂が、無意識にだろうが乾を探して目線を動かすのを見つめて、乾の目元も和らぐ。
 乾と目が合うと、海堂は困った心情をより露にしてきた。
 行っておいでというように乾が頷くと、また普段の様子にすぐに戻って。
 海堂は跡部の所へ行った。
 その間に、鳳は神尾にも跡部と告げた事と同じ事を言っていた。
「マジで? 海堂、今日誕生日?」
「そうだよ」
 鳳相手に確認した後、神尾はぱたぱたと音でもしそうな慌てた走りで乾の元へとやってきた。
 がばっと頭を下げてきた小さな丸い後頭部を、乾は不思議に見やった。
「すみませんっ」
「ん? 何が?」
「思いっきり邪魔してますよね…っ?」
 元々、乾と海堂がラケット持参でストリートテニス場に行こうとしていた所に、鳳と宍戸に出会い、立ち話などしているうちに跡部と神尾が現れて、どうせなら皆で行こうという話になったのだ。
「おい、神尾。そんな頭なんか下げなくていいから…」
「や、マジですみませんっ」
 ほんとごめんなさい、ただちに帰りますっ、と告げる神尾に乾は笑い出した。
 跡部の不機嫌に気づいていたのかいないのか、あの凍るような目には平然としていた神尾のこの恐縮っぷりが面白かったのだ。
「元々テニスをしにきた訳だから。そんな気にするな。さっきのゲームも海堂は本気だったし、楽しかったと思うぞ」
「乾さん、いい人だー!」
 頭を下げた時と同じ勢いで顔を上げた神尾が、つい見ている側がほほえましくなるような明るい表情を向けてくる。
 神尾は海堂と似ているところがあるかもしれないと乾は思った。
 虚勢ではないけれど、独特の雰囲気で最初は人を寄せ付けないけれど。
 懐に入るか入らせるかした相手には、ふいうちで邪気のないやわらかな感情を見せてくる。
「何が、いい人だー、だよ。てめえ」
「うわっ」
 乾が興味深く小さな相手を見ていると、気配もなく忍び寄ってきたらしい跡部が、神尾の背後から、低い恫喝と共に現れた。
「襟、引っ張んなよっ、跡部っ」
 冷静な態度とは裏腹に、乾との距離を離すような仕草に、乾は内心吹き出しそうになりながら、そういう跡部の気持ちも判らなくはないので敢えて何も言わなかった。
「誰彼構わず懐いてんじゃねえ」
「どうして跡部はそういう言い方するかな!」
「てめえみたいな躾のなってねえ野良猫には、教えてやんなけりゃ判らねえだろうが」
「野良猫ーっ!?」
 それこそ逆毛をたてるような反応に、乾は今度こそ遠慮なく吹き出した。
 神尾が哀れな顔を向けてくる。
「ひでぇ……乾さん……」
「いや、悪い……でも大丈夫だ神尾。俺は今、半分は跡部を笑っている」
「……乾……てめえ、いい度胸だな」
「す……げえ…、乾さん、すっげえ…! かっこいい!」
「何感動してんだ神尾!」
 神尾といる時の跡部は、跡部のままでいながらも、普段は見せない部分までも自然に出てしまうようだ。
 いつもの癖で乾は脳裏で興味深いデータを収集していく。
 言い争いか、じゃれあいか、微妙なラインで言い合う跡部と神尾を眺めている乾の横に、海堂も戻ってきた。
「どうした?」
 何か言いたげな気配を察して乾は海堂に声をかける。
 プレイ中は必ずしているバンダナを外して、黒々としたきれいな髪を春風にそよがせながら、海堂は戸惑ったような仕草で手にしていた紙片を乾に見せた。
「ん?」
「跡部さんから…貰ったんですけど」
「乗馬センター?」
 紙片はチケットのようだった。
「馬は好きか、馬には乗れるか、乗ったことがなくてもまあいけるだろ、って…」
「跡部が言った?」
「……っす」
「それでくれたの?」
 頷く海堂が端的に説明した内容は、口が重い海堂だからという事ではなく、単に跡部がそういう一方的で短い言葉でたたみかけたのだろうと察して乾は笑った。
 跡部が、動物好きの海堂の趣向を知っているのか知らないのかまでは酌めなかったが、覗き込んだチケットは海堂にとって悪いものではないだろうと思う。
 恐らく跡部は、鳳から今日が海堂の誕生日だと聞いたのだろう。
「あんたと行けって」
「俺と?」
「どのコースも使えるけど、林間抜けて、海辺を走れるコースにしろって言ってた…」
 跡部に言われた事を全て乾に伝えながら、何で俺にこれを、と海堂の顔が訝しげになっている。
 そうか、と頷いて海堂の言葉を聞いている乾は、眼差しをこっそりと跡部に向けた。
 神尾と言い合っていたが、跡部は乾の視線にすぐ気づいたようで。
 乾が唇の動きだけで礼を言うと、皮肉めいた薄い笑みを浮かべて応えてきた。
 そうしてから徐に、跡部は神尾の肩に腕を回して、コートから出て、手荷物を拾い上げる。
「行くぞ、神尾」
「は? どこに」
「ホームだ、バァカ。寄り道もいい加減にしとけ、この野良猫が」
「野良猫野良猫言うなっ」
 暴れる神尾を物ともせずに歩く跡部を、海堂が呆気に取られたように見ていた。
 そのまま二人は帰るのだろうと思って乾も彼らを黙って見送ったのだが、途中で神尾が立ち止まった。
「おーい、海堂ー!」
 神尾は海堂の名前を叫んできた。
 そして鞄の中を探り始める。
 乾と海堂は顔を見合わせて、神尾の次の行動を待つしかない。
 程なくして神尾は鞄の中からCDショップの袋を取り出し、更にその中身を取り出し、ビニール袋を破り始めた。
 どうやら買ったばかりらしいCDを取り出したと判ったのは、きらりと丸い光が日差しに反射したからだ。
 その光は次の瞬間、ストリートテニス場のコンクリートの壁に大きな虹を映した。
「………………」
「俺は八月だぜー! 覚えとけー!」
 おめでと、と神尾が大声を張り上げてCDを持っていない方の手をぶんぶんと振っている。
 虹がうねり、海堂の得意のショットの軌道と似た弧をえがく。
「………………」
 邪気のない満面の笑みで、神尾は虹を海堂に差し向けてから背中を向けた。
 跡部と一緒に歩いていく神尾の後ろ姿を、海堂が面食らった顔で見やっている。
「つまり、跡部も神尾も、海堂誕生日おめでとうって事なんだろ」
「なんで…」
 昔から海堂は人からの接触や好意に戸惑ってしまうのが常で、それは今もあまり変わっていないようだと乾は思った。
 青学の、テニス部に入ってきた時からずっと、海堂は誰とも馴れ合おうとはしなかったが、誰かしらが彼を気にかけた。
 青学の部長になって、厳しいながらも慕われている事にも、恐らく海堂は気づいていないのだろうと思った乾は、でもそれはそれで海堂らしいとも感じている。
「へえ…CDで虹が出来るんだな」
「DVDとかCDとか、表面にたくさん溝がありますからね。それを光に反射させると、ああなるんですよね? 乾さん」
「ああ、鳳の言うとおり」
 鳳と宍戸がやってきて、彼らももう手荷物を持っていた。
「帰るのか?」
「ああ。……っと、でもその前に」
 中学時代はトレードマークだったキャップを近頃はあまり被っていない宍戸は、高等部に進学してから髪がかなり伸びた。
 昔のような長髪ではないものの、額にかかる前髪をかきあげながら、傍らに立つ鳳の長身をまっすぐ見上げる。
「長太郎、今日のアレ、今ここで聴いていいか?」
「勿論です。宍戸さんの好きな時に、弾けたら嬉しいです。何かリクエストはありますか?」
 乾と海堂には判らない言葉を交わす二人が、互いしか見ていないような目をするのは昔から変わらない。
 宍戸が鳳の肩に手をかけて伸び上がり、鳳の耳元に何事か告げた。
 頷いた後、鳳は鞄の中からバイオリンケースを取り出した。
「時々ね、宍戸さんが聴きたいって言ってくれるんで。弾くんですよ」
 微笑と一緒に軽く会釈するように睫を伏せてから、鳳は海堂に視線を向けた。
「宍戸さんにリクエスト貰ったから、よかったら一曲」
 海堂と乾さんも聴いて下さいね、と言って鳳は弓をすべらせた。
「………………」
 ストリートテニス場に響いた、とても聴きなれたハッピーバースデイのメロディは、五月の空気に立ち上るようにして溶けていく。
 背の高い鳳が姿勢を正して奏でる音楽は、決して長い演奏ではなかったけれど。
 気持ちと記憶にも深く溶け込んで、優しい余韻で静かに消えた。
 鳳は宍戸と目を合わせてから優美に弓を下ろして、バイオリンをケースにしまいながら海堂に告げる。
「それじゃ、また大会で」
 乾には目礼をして、行きましょう?と宍戸に並んだ。
 鳳の手を背中に宛がわれながら歩き出した宍戸は、肩越しに乾と海堂を振り返って短く一言だけ言った。
「じゃあな」
 さっぱりとした笑顔は弦楽器の余韻にも似ている。
 慌しさなど全くない二人なのに、彼らを見送った海堂が相変わらず、寧ろますます唖然としているのに気づいて、乾は笑いながら海堂の髪をくしゃくしゃとかきまぜた。
「え、…?…」
「鳳と宍戸も、おめでとうって事だよ。海堂に」
「……だ……、…何で……」
 判っていない海堂が可愛いと思って、乾は飽きずに海堂の髪を指先ですいた。
 抗いもしない海堂の頭上にそっと唇を寄せて。
「さて。漸く二人きりだ」
「…先輩、……?」
「どうしようか。どこから誕生日の続きをしようか?」
 乾はいっそこのまま海堂を連れ帰りたくなったが、海堂は乾の予想通りに、言った。
 真っ直ぐな目で。
「テニス」
「……だよな」
 大抵のことは一人で行う海堂からの、貪欲な欲求が自分に向けられる事は良い気分だった。
 乾は海堂の手をとってコートに向かう。
「海堂。誕生日おめでとう」
「……どうも…」
 乾の言葉には、不思議そうな顔も訝しげな顔もしない。
 海堂はどこかはにかむような色を滲ませつつも、乾の言葉を、真っ直ぐに受け止めた。
「ありがとうございます」
 虹も、調べも、海堂を彩って。
 善意も、厚意も、海堂を包む。
 彼という存在をありがとうと、乾の方こそ強く深く、感謝する。
 とりつくしまがない。
 乾はそういう怒り方をする。
 声を荒げたり、手をあげたり、そういうことは決してしない。
 溜息一つ、もしくは重い沈黙で、密やかに深く内に閉じこもって怒るのだ。
「………………」
 そんな乾を海堂は放課後の中庭で見つけた。
 長い足を、片方を投げ出し、もう片方を膝で曲げて立てて、芝生に座っている。
 立てた膝に右腕を乗せ、左手に持っているノートに何事かを書き込んでいる。
 その横顔に気づいて、ああ怒ってるな、と海堂は思った。
 何にかまでは、判らないけれど。
 密やかに、そして完璧に、人を寄せ付けない気配を放っている事だけは確かだ。
 目立った訳ではなかった。
 寧ろ、乾は普段から彼自身が植物のような雰囲気を持っていて、存在を誇示してくるようなことは決してしない。
 今も緑の芝生の中に沈むように溶け込んでいて、ただ密やかに怒っているのだ。
 海堂は渡り廊下で足を止めて、暫く乾を見つめ続けた。
 もし立場が逆であるならば。
 乾は、例え海堂がどれだけ不機嫌で、腹をたてていたとしても、迷わず側に来るだろう。
 そうして海堂がどれほど突っぱねようとも、跳ねつけようとも、海堂の苛立ちなど容易く引き出し、浄化してみせるのだろう。
 自分には到底出来ないようなことを、乾はいつも容易く海堂にしてみせるのだ。
「………………」
 制服の、シャツの釦が一つ多く開いている。
 ノートに走らせているペンの動きが早くて荒い。
 見えない乾の目元も、とてもぼんやりとした風情でいるとは思えなかった。
 乾は大切な時、大事な時、肝心な時は大抵一人になる。
 誰も近寄らせず一人でああして、今は怒っている。
 海堂は、そんな乾に自分が出来ることが何もないと判るから眉根を寄せる。
 恐らくは、このまま気づかぬふりで通り過ぎてしまうことが一番良いのだろう。
 お互いにとって。
 そうすれば、自分には何も出来ることがないと沈む気持ちをこれ以上突き詰めなくてもいいし、その心中を誰にも気づかせたくない乾の思惑も荒らすことなく済むのだ。
 でも、それが、嫌だ、ひどく、嫌だ、そう思って。
 海堂は唇を引き結んで立ち止まっていた場所から一歩を踏み出す。
 海堂は乾のようには何一つ出来ないだろうけれど。
 もしかしたら気づかない振りという事が唯一自分に出来る事なのかもしれないけれど。
 海堂は、悔しいと、漠然と、思いながら。
 乾の元へと歩く。
 判っている、海堂は、乾がするようには、出来ないという事を。
 ただ、それでも、気づけなかった自分では、もうないのだから。
 海堂は、乾を見ている。
 近くにいる時は必ず。
 遠くにいても考える。
 いつも、いつも、いつもだ。
 見過ごせる相手ではなくなった。
 何もしないでいい相手ではない。
「………………」
 海堂は乾の背後から彼に近づいて行った。
 肩幅のある背中は少し丸まっている。
 その背中が、海堂の足音に気づいたようで、振り返りざま真っ直ぐに伸びていく。
 拒絶の背中、そこを目掛けて海堂は背中合わせに芝生に座った。
 ほとんどぶつかるような勢いだったのにも関わらず、揺らぎもせずに海堂を背で受け止めた乾は、己の背中に凭れているのが海堂だと、何故かすぐに気づいたようだった。
 言葉も放たなかったし、顔だって見せなかったのにだ。 
「…っと、……海堂?」
「………………」
「あれ…?…おい、…海堂?」
 振り向いてこないように体重をかけて背中に寄りかかる。
 乾は、今しがたまでの気配が嘘のようにほどけて、あれ?と繰り返している。
 海堂は応えなかった。
 乾は何度も海堂を呼んだ。
「………………」
「かーいどう」
 背中をあわせで伝わる振動。
「こっち向かんで下さい」
「え?」
 機嫌が悪い事など一目瞭然だった乾だ。
 それなのに、乾は。
 海堂には、まるで気遣わしいような態度を見せる。
 へんな人だと海堂は思って、乾の背中にもたれて目を閉じる。
「ええと……海堂?」
 乾はますます弱ったような声になった。
 何だか落ち着きなくごそごそと動いている。
 海堂は無言のまま乾の背中に寄りかかった。
 気遣わしいように惑っている広い背中に、すべて預けて。
「………………」
 機嫌の悪い乾を、見て見ぬ振りする事が出来ない。
 だからといって、彼のようにやさしい物言いで宥めたりも出来ない。
 どうしたのかと、尋ねる事すら出来ない。
 気を紛らわせるような雑談をふる事も出来ない。
 出来る事なんて何一つない。
「……海堂…どうした?」
「………………」
 何度となく振り返ろうとする乾を海堂は無言の圧力でその都度制して、無視をして。
 それでも海堂が考えることは乾のことだけだ。
 海堂にとって乾は、側にいるだけでいろいろな事を教えてくれる。
 海堂がないと決め付けている己の中の迷いや苛立ちを、一度必ず形にしてからどうすればいいのかを示唆してくれる。
 今こうして仄かな体温が浸透してくる乾の背中の温かさは、海堂にとっては明確な安心感で。
 同じものを何ひとつ返せない自分が歯がゆくなって海堂は口を噤んだ。
「……もしかして海堂、俺に怒ってる?」
「………………」
「心当たりは……あるにはあるが」
 どういう意味だ、とふと海堂は怪訝に思った。
 いきなり乾がおかしな事を言い出したから、不審に眉間に皺が寄る。
 まさか今の、海堂自身が不可解だと思うこの心中まで乾は正しく認識しているということだろうか。
「八つ当たりだけはしないようにと思ってだな……」
「………………」
「しなくても、駄目か?」
「………………」
「そういうの考えただけで腹が立つ?」
 海堂は何も喋っていない。
 それでどうして会話になっているのか、それは海堂にだって不思議だ。
 こういうことは四六時中だ。
 部内でも周囲に不思議がられている。
 何故相手のことが判るのか。
 何故って、そんなの知るか、と海堂は思って一層乾の背中に凭れかかった。
 判っているのはいつも乾で、自分は何も出来なくて。
 これでは単に自分が拗ねているだけではないだろうかと海堂もうっすら自覚せざるを得ない。
「そうは言ってもな、おい…」
 相変わらず乾は淡々と言葉を紡いでくる。
 海堂は押し黙る。
「俺だって、お前に関しては狭量すぎやしないかと思うけどな」
「………………」
「……ちょっと嫉妬心募らせただけだぞ…?」
 乾が。
 また更におかしな事を言い出した。
 振り向くなと言ったのは海堂だったが、突拍子のないその乾の言葉に海堂は振り返りそうになってしまった。
 何を言い出したのか、この男は。
「海堂が、桃城や越前と、あんなにじゃれてるから」
 いつどこで誰がだっ、と海堂は叫びそうになって、そう出来なかったのは。
 これまで海堂が一方的に寄りかかっていた乾の背中が、突如海堂へと重みをかけてきたからだ。
 乾の方から海堂の背中に凭れてきたのだ。
 それも珍しく砕けた、不貞腐れたような口ぶりで、海堂に愚痴を言いながらだ。
 珍しい。
 本当に、というかむしろ、初めてじゃないかと海堂は面食らってそれを受け止めていた。
「昼休みに、お前達見かけてさ」
「………………」
「口喧嘩だとしても、お前、確実に桃相手だと口数が多いんだよな…」
 だからそれはただの口喧嘩、それ以外の何物でもないだろうと海堂は呆れた。
「越前には時々、明らかに、いいお兄ちゃんの目してる。俺には絶対見せない顔だよ」
 言いざま溜息までつかれてしまい、またぐっと背中に体重をかけられて。
 苦しい、と思いながら。
 自分がいいお兄ちゃんでいたいのは葉末に対してだけだと海堂は尚呆れる。
 乾の思考回路がさっぱりわからない。
 何故そんな事を乾が考えるのかも。
 もしそれに、本当に海堂が気づいたとして、何故それで海堂が怒ると思うのかも。
「少し羨ましかったり悔しかったりで、嫉妬しました。悪かった。怒るなよ」
「………………」
「おーいって……海堂ー」
「………………」
「ごめん。ごめんなさい。俺が悪かった。ちゃんと謝るから」
「………………」
 乾は、口調より数倍は真面目な様子で海堂に謝っている。
 次第に海堂は呆れるのを止めて、純粋に、ただびっくりした。
 まさか、そんな事が、本当に原因だと言うのだろうか。
 乾のあの不機嫌さの。
「………………」
 背中合わせの自分達の会話。
 顔はまるで見えないけれど、乾が大人びた表情で拗ねているのはよく判って、海堂は微かに、本当に微かに、唇を笑みの形に引き上げた。
 それは意識などせずとも、乾を思うから、ただ零れる笑みだ。
 自分が笑っていることに海堂は暫くしてから気づいた。
 相変わらず背中側で乾がぶつぶつと拗ねたり謝ったりしている。
「………………」
 早く。
 そう、早く。
 早く乾が気づくといい。
 海堂は思った。
「………………」
 海堂のささやかなその笑みに。
 気づいたら、そうしたらきっと、その時に。
 もしかしたら海堂にも、乾に、してやれる事が出来るのに違い。
 そう思ったから海堂は、乾を思って笑みの形の唇のまま目を閉じた。
 跡部の家の玄関で、顔を合わせるなり、跡部がのしかかってきた。
「ぅわ、…っ」
 咄嗟に両手でそれを抱きとめ、グッとどうにか足で踏みとどまった神尾だったが、足元はかなり危なげな状態だ。
 跡部は決して大柄ではなく、その体躯は均整が取れていてしなやかだ。
 それなのにこういう風にされると神尾では受け止めるので精一杯になってしまう。
「ど、…どうした、跡部…?」
「………………」
 全身で脱力して自分の肩口に顔を伏せている跡部に、神尾は声をかける。
 背中に手をあて、ぽんぽんとそこを軽く叩きながら、跡部?と伺うように名前を呼んだ。
「ええと…、?…あの」
「……神尾」
 低い声と一緒に、ゆらりと跡部が顔を上げる。
 間近で目と目が合って、神尾は瞬いた。
「え、…?………あ、…おじゃま…します、……や、…してます、…か」
 何を、何から、どう言えばいいのか判らず。
 神尾はとりあえずそう言った。
 やけにどぎまぎとしてしまうのは、跡部の顔が近いせいだ。
 いつまでたっても神尾はそうなる。
 そうして跡部は、普段だったらそんな神尾の物言いにここぞとばかりに辛辣な言葉を多々向けてくる筈なのだが今は違った。
 今は。
 不機嫌そうな目で至近距離から見据えてきながら、呻くように、ただ一言だけ。
「………遅ぇんだよ」
「………………」
 凄むというより、それは。
 単に、拗ねているだけにしか聞こえない、そんな声だった。
「ご…ごめん…」
 思わず神尾も素直謝るしか出来なくなる、そんな声だった。
 これでも神尾はここまで最速のスピードでやってきたのだが、そんな事はとても言えそうになかった。
 跡部からの呼び出しは、いつも尊大で。
 メールでも電話でも、最終的な神尾の意思こそ尊重はするが、横柄だったりえらそうだったり強引だったりする。
 命令だったり断言だったり時には強制だったりもする。
 それが、今回は些か事情が違っていて。
 言葉ばかりはいつもと変わらなかったものの、その口調は何だか力なく、命令というよりはどこか懇願めいていた。
 だから神尾は何がどうしたのかと思って、電話をきってすぐ、あたふたと身支度をして走ってきたのだ。
 跡部の家まで。
 訪ねてくれば、跡部は案の定だった。
「どうしたんだよぅ? 跡部…」
「……見りゃ判んだろうが」
「具合悪いのか? どっか痛いとかか?」
「バカだろてめえ」
「バカって言うな!………てゆーか、てゆーかさ、跡部……ほんとどうしたんだよぅ?」
 いつもの感じで怒鳴り返したものの、ろくに言い返しもしない跡部にまた肩口に顔を埋めてこられて。
 神尾は弱ってしまった。
「………………」
 抱きとめている身体は、たとえば熱があるとか、具合が悪そうだとか、そういう事はないようだった。
 いつものように、いい匂いがする。
 いつものように、なめらかでしっかりとした感触が手のひらには在る。
 何だろう、どうしたんだろう、と。
 神尾は何か少しでも確かめられたらいいなと思って、手のひらをぺたぺたと跡部の背に這わせてみる。
 跡部?と呼びかけながら頬に時折触れてくる跡部の髪を撫でつけたりもして。
 そんな風に暫く靴も履いたまま跡部の身体を支えていると、身体を預けてきていた跡部の手が、明確な意思でもって動き出した。
 強く、抱き締められた。
 跡部の片手は神尾の腰にまわり、もう片方の手が神尾の頬を包んで、上向かされたと思った時にはもう。
 もう、唇が塞がれている。
 神尾は反射的に目を閉じた。
 跡部の舌が入ってくる。
 口の中、それを意識した途端、頭の中が濡れたような気持ちになった。
「……、……、…っん」
 跡部の舌は神尾の口腔で、神尾の舌を欲しがって動く。
 欲しがり方が貪欲で、遠慮がなくて、神尾は跡部の服を両手で握り締めるようにして震える指先で取りすがった。
 背筋が反ってしまったままでとどまっている体勢が、少し苦しかった。
「ン……っ……ん、…っ」
 噛まれた訳ではないが、そんな勢いで、また唇が深く重なる。
 今日の跡部はあまり喋らない。
 その分キスはどこかがっついていて、神尾は跡部の思うがままに蹂躙されながら、胸の中に詰め込まれてくる甘ったるいものですぐにいっぱいになってしまった。
 目尻に息苦しさから僅かな涙を浮かべれば、冗談のように整っている跡部の指先に、その雫をさらわれた。
 キスがほどけて、神尾が目を開けると、跡部は自身の親指の腹を舌で舐めていた。
「…、…ばか……なに舐めてんだ…よ…」
「涙だろ。お前の」
 赤い濡れた唇。
 笑いもしない跡部の顔には欲望の色がはっきりと見て取れた。
 神尾の顔を凝視しながら、味覚を確かめるかのように、舌で唇を舐める跡部は、卑猥すぎて神尾にはどうしたらいいのかと思う。
 涙とも言えないような微かに滲む液体をも尚欲しがって、神尾の眦に跡部は唇を寄せてくる。
 刻まれた口付けに、神尾のこめかみが熱を持って脈を打った。
「…、あ…とべ…?」
 小さく肩を竦めて再三その名で問いかければ、短いキスに唇をまた啄ばまれる。
 神尾は何となく理解した。
 今の跡部は、いつもと違う訳ではない。
 暫く会えないでいると、跡部はいつもこうだ。
 何度も口付けてくる跡部の髪を、そっと両方の手のひらに包むように握りこみ、神尾はゆっくり唇をひらく。
 すぐに熱い舌が捻じ込まれて、粘膜を蹂躙されて、膝が揺らぐ。
 ぐらぐらと世界が回る、そんな気がして神尾が身体の力を抜くなり、強い腕が巻き込むように神尾を抱き込んできて。
 跡部の手に後頭部や腰を掴んで来られて、神尾は小さく息をついて身体をその手に預けた。
 こめかみを当てている跡部の胸元からは、不思議な音がする。
 その音が徐々に神尾を乱してくる。
 今日は、あまり喋らない跡部から、何よりも雄弁に伝わってくるもの。
「…跡部」
 神尾は何だかその言葉しか出なくなってしまった自分を自覚しつつ、それでもやっぱり、そう繰り返した。
「跡部」
 頭上で跡部の舌打ちが聞こえたけれど、少しも嫌な感じがしなかったので、神尾はそのまま目を閉じていた。
 暫くして跡部に引きずられて歩き出した時にはもう、神尾には、それから後の事は全て判っていた。
 暑い寒いくらいでしか季節を体感する事のなかった宍戸だが、鳳がふとした言葉や仕草で気づかせてくれる事が増えていき、そういう自分になることが、時折ひどく不思議に思える。
 人に感化されたり影響を受ける自分だと思った事がないからだ。
 しかし鳳から伝えられてくることは、どれだけ些細な出来事であっても、宍戸の内部に必ず残る。
「桜も完全に葉っぱだけですねえ…」
「ああ」
 自主トレの仕上げに走りこんだ後、公園で軽くストレッチを済ませ、首にかけたタオルで汗を拭いながらスポーツドリンクを飲んで頭上の枝振りを見上げる。
 ほんの数週間前までは、一面薄紅の花弁でいっぱいだった樹は、今は青々と葉を茂らせている。
 鳳の言葉に宍戸もつられて目線をやって、そういえばこの樹が桜の樹だと自分は知らなかった事を思い出した。
 あまり立ち寄る事のなかったこの公園に鳳と一緒に来たのは去年の冬だ。
 草木染めで綺麗な桜色を出すには花が咲く前の樹の皮を使うらしいですよと鳳が言って、樹の幹に手を置いたから。
 吐く息の白いその季節に、その樹が桜だと知ったのだ。
 今は瑞々しい葉で覆われた枝々。
 手を翳して見上げている鳳の髪も、木漏れ日から漏れる日の光のようにきらきらしている。
 鳳の見つめ方は、何を見ていても真っ直ぐだ。
 きれいな見つめ方をする。
「………………」
 そういえばこの桜の咲く前にも、鳳は何か別の花を見上げていたと宍戸は思い出した。
 学校の近くで、確か白い花を綻ばせていた街路樹を見やって。
 木蓮とコブシの違いを口にした、その言葉。
 木蓮はずっと上を向いて咲き、コブシは途中から上を向かずに正面を向く。
 見た目のまるで同じ花が、違う花であること、咲き方を異ならせていること、その時はぼんやり聞いていたような気がしたが、その後宍戸も自然と見分けられるようになっていた。
 学校の近くにあるのは木蓮。
 斜向かいの家の庭にあるのはコブシだ。
「宍戸さん?」
「……あ?」
「何か…?」
 甘い優しい促しに、宍戸は曖昧に視線を逃がして後ろ首に手をやる。
「悪ぃ」
「何がです?」
 俺嬉しいだけです、と鳳は葉桜から宍戸へと視線を移した。
 見つめ方は、いつも以上に、きれいで。
 宍戸も結局目線を合わせなおす。
 目と目が合えば、それこそ花の綻びのように鳳が目を細めてきた。
「宍戸さん」
 手が伸びてきて。
 大きな手のひらは宍戸の後頭部を包んで、髪を撫でる。
 内緒話でもするかのような仕草で耳元近くの髪先に唇を寄せられて。
 場所を考えろと宍戸が言うより先に鳳は離れていく。
「……お前なぁ」
「すみません。宍戸さん」
「謝るなら、ちっとは悪びれろよ…!」
 一見殊勝なようでいて、その実は機嫌がよすぎて大胆すぎる振る舞いで。
 鳳は宍戸の肩を抱いて笑っている。
「俺、天気いい日に、外で宍戸さん見るの嬉しくて」
「…は?」
 肩を抱かれたまま促され、宍戸は鳳と共にそこから少し離れた所にあったベンチに腰掛けた。
 そこも桜の樹のふもと。
 ちらちらと、小さな木漏れ日が無数に頭上から零れてくる。
「太陽浴びて、どこもかしこもキラキラなんですよね…」
 ね?と肩を並べたまま見つめてこられ、うっかり宍戸の口もすべる。
「……キラキラって…バカか。お前じゃあるまいし」 
「俺…ですか?」
「……………何でもねえよ」
 あー何でもねえ!と宍戸は怒鳴った。
 鳳に何か言われるより先に大声を出しておけと言わんばかりにわめけば、鳳は屈託なく笑ってまた宍戸の髪にキスをした。
「てめ、…またかよ…っ」
「だって、綺麗で可愛い」
 甘えのたっぷり滲んだ鳳の上目を間近に見て、宍戸は、知るか!と叫んでそっぽを向いた。
 鳳の腕はベンチの背もたれの上にかかって、今にもまた宍戸の肩を抱きそうだ。
「こっち向いて欲しいです…」
「向けるかバカ!」
 自分で見ることは出来ないが、充分自覚はしている。
 こんなに赤い顔で向き合えるかと宍戸は思い、それと同時に。
 同じく見えていない鳳の表情も、その声音ひとつで判ってしまうのだ。
「俺、宍戸さんが好きなんです」
「………、…っ…てるよ…っ!」
「はい。宍戸さんは知っててくれてる。でも今、宍戸さんが知っててくれてるよりもっと好きになっちゃったから」
 今ちゃんと見て、また知ってて下さい、と鳳は言う。
 宍戸が、それ以上そっぽを向いていられなくなるような言い方をする。
「………………」
 宍戸は座ったまま、勢い良く片足を、ダンとベンチの上に乗せた。
 片足は、鳳の側の足だ。
 その勢いで顔を向ければ、曲げた膝の上にはすでに鳳の手のひらがふわりと被せられ、耳の縁をやわらかく吸い上げられた。
 瞬間首を竦めた宍戸は、羞恥と腹立ちに紛れて。
 怒声の代わりに鳳のその首筋を噛み返してやったが、それは宍戸の思いのほか、鳳にとっては腹いせとなったようだった。
「……挙句に、誘いますか」
 鳳がうっすらと赤くなった目元を細めて詰ってくるのに、宍戸は至近距離から見つめ返して、応えた。
「誘うだろ」
「宍戸さん」
「お前が好きなんだからよ」
 きらめく木漏れ日は、二人に均等に降ってきて。
 互いの目にお互いは甘く煌びやかに映っていた。
 部内一身軽な最上級生は、人に飛びつくのが癖だ。
 大概の相手は慣れもあるのかそうやって飛びついてくる菊丸の好きにさせている事が常だが、一人、近頃それを完璧にかわすようになった人物がいる。
 同じく三年の乾だ。
「もー! 乾のヤツー!」
 ぺりぺりと絆創膏の包み紙を破きながら膨れている菊丸の隣で、ダブルスのパートナーである大石は困ったように笑っていた。
「また乾に避けられて転がったのか? 英二」
「ほんと乾のヤツ最近ナマイキなんだよな!」
 どれ、貼ろうか、と大石は菊丸の手から絆創膏を取った。
 真新しい擦り傷は、アクロバテイックなプレイが多い菊丸にはよくあることだ。
 部で用意している救急箱からこの絆創膏を取ってくる際に乾と遭遇したのだろうと大石は考えて苦笑いする。
 しかし大石は敢えて何も言わず、菊丸が、こっちと言って突き出してきた頬に絆創膏を貼り付けた。
 そんな大石の代わりに、思う事は同じでも、言葉にして菊丸を諫めたのはその場にいた不二だった。
「英二、乾に飛びついたら駄目だって、この間言ったよね?」
「だって不二ー」
 青学のゴールデンペアの向かいで、不二は笑って菊丸をたしなめて、それに菊丸は尚一層の膨れっ面をする。
「恋路をあたたかくみまもってあげよう、ってその意味が判んない!」
「意味も何もそのまんまなんだけど…」
 困ったねえ?と不二は大石に笑いかけ、大石もひどく複雑そうに笑いを返す。
 そんな二人を見やって菊丸はますます頬を膨らませた。
「何で二人だけで判りあっちゃってるわけ!」
 大石のばかやろう!と菊丸に捨て台詞をされた大石は、どうして俺だけばかやろうなんだと言いながら、きちんと走っていった菊丸の後を追いかけていく。
 残された不二は口元に握った拳を宛がって、あっちもこっちも大変だ、と呟いた。




 不二が言った、あっちだかこっちだかを現すもう片方の人物は、部室にいた。
 一人、考えている。
 徐に部室の扉が外側から開き、そちらに目をやって漸く、乾は表情を変えた。
 誰よりも長い距離を走りこむランニングに幾分呼吸を弾ませた後輩がそこにいたからだ。
「……乾先輩?」
 何してんですか、と抑揚のない声にほんの少し怪訝な気配を滲ませて海堂が声をかけてくる。
 海堂はおそらく代えのバンダナとタオルを取りに来たところだろう。
 乾はその場で、救急箱を片手にしたまま海堂に笑いかけた。
「何してると思う?」
「…………わかんねえから聞いてんですけど」
「それもそうだ」
 憮然とした物言い、目つきの鋭い表情。
 それでいて海堂は律儀に言葉を返してくるのだ。
 だから乾も思うままの言葉を口にする。
「海堂の事を考えてた」
「………………」
 乾の言葉に訳が判らないとあまりにも素直に表情に出して。
 それでも。
 海堂はまたぽつりと言葉を零す。
「……救急箱持ってですか」
「そう。救急箱持って」
 右手に救急箱。
 その体勢で部室で一人ぼうっとしている様は少々奇異だ。
 それはわからなくもないけれど、と乾は思いながら部室のベンチに座った。
 脇に救急箱を置く。
「いつもありがとうな、海堂」
「……何の事ですか」
「救急箱の整理をしてくれてるだろ? 海堂がいつも」
 足りないものは補充して、期限切れのものは処分して。
 当たり前のように、普段使い慣れない人間が蓋を開けても何がどこにあるのか一目瞭然になっている、いつでも整理整頓された救急箱。
 さりげなく気を配っているのはいつも海堂だ。 
「別に、……んな大袈裟なもんじゃ…」
 戸惑って珍しく言いよどんだ海堂に、隣へ座るよう手で促せば、海堂は乾の望むままに腰を下ろしてきた。
「さっき菊丸が来たよ」
「…どこか怪我でも」
「擦り傷だよ。大丈夫」
 心配しなくても平気だと目で伝えれば、些か決まり悪そうに海堂は視線を逸らせた。
 ぶっきらぼうで、人と馴れ合う事が苦手で、それでいて軸にあるものはひどくやさしい人としての感情だ。
 海堂の、きつい印象も、やわらかな内側も、乾はひどく好きだと思う。
「救急箱の絆創膏は永遠に無くならないで、勝手に増えてるもんだと思ってるぞ、たぶん。菊丸」
「そんな事ねえよ…」
「ん?」
「………菊丸先輩に礼言われた事ある」
 へえ、と乾は目を見開いた。
 二人きりだとすこしだけ言葉数の多くなる海堂の言葉と、菊丸の言動に。
「そうか。ちゃんと判ってたか」
「…………別にどうでもいいっす」
 素っ気無く言って立ち上がった海堂に、乾は腕を伸ばした。
 手首を握りこむ。
 振り払われはしない。
 海堂の眼差しがすこし揺れていた。
「………何ですか」
「うん」
「……うんって何だよ」
「うん」
 囁くように頷いて、乾は海堂の手首を引いた。
 僅かに海堂が上体を屈めてくる。
 部室の扉が開いたのはその時だ。
「腕擦り剥いたっ。絆創膏ー!」
「……、…っ……」
「……………菊丸…お前…」
「あれ。何してんの二人とも」
 勢いよく部室に入ってきた菊丸が、開け放った扉のところで目を大きく見開いて。
 びくっと肩先を揺らした海堂と、重たい溜息を吐き出した乾の様子に不思議そうな顔をしている。
 そして次の瞬間には本当に猫さながらの俊敏さで。
「薫ちゃんっ、絆創膏ちょうだい!」
「……っ……せん…、ぱ…」
「…………海堂に飛びつくな」
「何だよ乾ー。お前じゃなけりゃいいんだろ。いいじゃん別にぃ」
 菊丸は海堂を背中側から抱き寄せるように飛びついて、海堂の肩口に顎を乗せて乾をじろりと上目に睨んでいる。
 乾の表情も憮然としていて、上級生二人の間に挟まれた海堂は硬直している。
「ともかく海堂から離れるんだ」
「やだよー。海堂は別にいいよな? 俺がくっついてたって、飛びついたって、いいよな? な?」
 甘える猫のように擦りついてこられて、海堂はかたまったまま菊丸を見て、それから無言の圧迫感を放つ乾を見て、せわしない。
「おーい、英二、ちゃんと絆創膏貼ったのか? 傷ばっか増やして本当にお前は…あんまり心配させな…、…あれ?」
「英二……だからそういう事しちゃいけないって言ってるのに…」
 心底心配そうに、開け放ったままの扉から顔を出した大石と、その横で淡い笑みを浮かべている不二までも現れて、部室内は一層賑やかになる。
「不二が言ったのは乾だろー」
「どうでもいいから海堂を早く返してくれないか。菊丸」
「乾……頼む、ちょっと落ち着いてくれ…怖いぞ、目が…」
「ねえ大石。ひょっとして英二には恋路の意味が通じてないのかなぁ?」
「………………」
 訳が判らないまま上級生達の賑やかな輪に放り込まれて、言葉にならず複雑そうな顔をするのは、たった一人の二年生だけだった。
 それぞれが違う、一人ひとりが違う、でもその中に交ざる個々の誰もが、それに違和感を覚えることはない。
 それは言葉の見つからないでいる海堂にもまた言える事で。
 その唇に戸惑い気味の、しかし笑みが刻まれるのももう直だ。
 赤澤は時折、観月を外に連れ出す。
 外というのはつまり、聖ルドルフの寮や学校やテニスコートを離れた場所だ。
 観月が忙しい時ほど強引に連れ出すので、大概最初は観月は不機嫌で。
 赤澤はそれを宥めるように笑っている。
 それでもさすがに幾度かそれを繰り返されれば、いろいろと考え事や仕事の多い観月が煮詰まる前に気分転換で連れ出されている事が判るので、観月の愚痴も変化していくようになる。
 最初のうちは、自分はこんなことをしている暇はないという文句だったのが、今では。
「………赤澤、貴方…皆が何て言ってるのか知ってますか」
「ん? 皆?」
「テニス部員達ですよ」
「あいつらが何か言ってんのか?」
 陸サーファーなどと呼ばれる事も多いらしい赤澤の見目は、日に焼けた肌と髪で、手足も長い。
 派手気味の外見と、ほんの少し意外だと人に思わせる、気安さと気さくさ。
 今も赤澤は観月の前で屈託なく笑っている。
「……初めての育児に煮詰まってる新妻に気分転換させる為に外出機会をつくる旦那」
「そりゃ甲斐性あっていいな」
 快活に笑う赤澤の衒いのなさに、例えの奇妙さを追求してくれと観月は片手で頭を抱える。
 今日赤澤につれてこられた場所は、頭上に青空がひらけているオープンエリアのテラス席。
 空中庭園さながらの景色と開放感、隣接のテーブルと距離がある所も、適度な人の集まり具合も、観月の好みにぴたりとあった場所で。
 夏場ならば遠慮したい日中の直射日光も、この時期はまだ肌にやわらかかった。
 昼飯食おうぜと誘い出された日曜日だ。
 赤澤はびっくりするほど観月の嗜好を理解している。
 リードする所はリードして、基本的には観月に主導権をとらせている所も、観月の性格を掌握しているからなのだろう。
 赤澤の隣は、寸分の違和感もなく、確かに観月に心地よかった。
 多少は作られたものであるだろうに、そんな事を観月にまるで感じさせない、赤澤の生む空気だ。
「お前のそれ美味そうな」
 ギャルソンに運ばれてきたプレートを見やって、何だっけそれ、頬杖をついて赤澤は観月に問いかける。
「エッグスベネディクト。半熟玉子とスモークベーコンとオランデーズソースのオープンサンドですよ」
 観月の説明に頷き相槌をうちながらも、赤澤はじっとプレートを見つめていて、その眼差しに観月は仕方なくと言った風に半分あげますよと呟いた。
 途端に赤澤が明るい笑い顔を見せるから、観月はひどい夏の日差しに晒されているような気分になる。
 顔が、思考が、胸が、あつい。
「サンキュ、観月。じゃあ俺のモッフルバーガーも半分やるよ」
「齧った残り半分なんていりませんよ。自分で全部食べて下さい」
 観月が、すげなくあしらっても。
 赤澤はこたえない。
 いつもの自分達だ。
「おっと、観月、ドレッシングストップ」
「はい?」
 サイドプレートのサラダにかける為に別途でやってきたドレッシングボトルを振っていた観月の手の甲に、赤澤の指先が触れる。
 手と手が重なるようになると、見慣れてはいてもつい毎回同じ事を思ってしまう。
 それは観月だけでなく赤澤も同様らしかった。
「しっかしお前ほんと色白いな」
「貴方が黒いんですよ」
「いや、お前の肌白いのは、俺のあるなし関係なくだろ」
 そんな事を言いながら、赤澤のやけに色気のある骨ばった手にそっと甲を撫でられて、観月は小さく息を飲んだが、決してそれは不快なせいではなかった。
 本当はあまり他人との接触は好きでない観月だったが、赤澤の時折の接触に戸惑う理由は多分違う理由だろう。
「観月、ドレッシングは上下に振るより、左右に振ったほうがうまいらしいぜ」
 観月の手からドレッシングボトルを取り上げて、赤澤は説明しながらボトルを振った。
「上下に振って、こう置いておくだろ。………ほら、結構すぐ二層に分かれていくけど、左右に振った場合は……」
 ドアノブを回すように、真ん中を掴んでそこを軸に左右に振ったボトルは、テーブルに置いてから結構な時間がたっても混ざったままでいる。
「…………本当ですね」
「混ざり方で同じものでも味が変わるからな」
 ほら、と赤澤は観月のサラダにドレッシングをかけた。
 大雑把なようでいて、赤澤はこういう時の些細な仕草が、不思議と堂に入っている。
 赤澤のランチプレートも運ばれてきて、それには豪快にかぶりつく様を目の前に見ながら、一見粗野なようでいて、少しも下卑て見えない不思議な男を観月は眺めた。
 フォークに刺して口に運んだサラダは美味しかった。
 ナイフとフォークでオープンサンドを切り分けて口に運ぶ自分と、片手で鷲掴んだバーガーを租借している彼と。
 見た目も、仕草も、まるで違う。
 相反するおかしな二人に見えているだろうと思いながら、観月は促されるまま赤澤と淡々と会話を交わした。
「なあ、来週からの練習試合の日程決まったのか?」
「勿論です。前に渡した仮日程そのままで決定です」
「あれかなり詰め込んでたろ? 全部おさえられたのか?」
「当然でしょう」
 赤澤が口笛を吹くので、行儀が悪いと睨みつけながら、観月は何をこの程度のことで赤澤がそんなにも感心したような顔をするのかと呆れた。
 自分達の希望も通した上での、複数校との練習試合だ。
 スケジュール調整は容易くはないが、決して難しいわけでもない。
 だいたいそれがマネージャーである観月のするべき当然の仕事だ。
 観月はナイフとフォークで切り分けたエッグスベネディクトを口に運びながら憮然と赤澤を睨み据えた。
「あれくらいのことが出来なくてマネージャーを名乗る資格なんてありませんよ」
「実際有能だよな、お前はどっちやらせても」
 赤澤は、当たり前の事をただ告げただけというような落ち着いた声で言って。
 観月が一瞬手を止めたのも見咎めずに笑う。
「ひとくちくれ。お前食ってるやつ」
「……半分あげますって言ったでしょう」
「ひとくちがいい」
 胸の前で組んだ両腕をテーブルに乗せて、ぐいっと顔を近づけてきた赤澤に観月は瞬時戸惑った。
 近くになった赤澤の長い髪からは日の香りがする。
 日に焼けた肌と、長髪と、派手作りの外見で寧ろ人懐っこく笑いかけてくる赤澤に無防備に口を開けてこられて固まってしまった。
 ひとくち、とねだって無防備に口を開けている様は、普通であれば間が抜けて見えても何らおかしくないはずだ。
 それなのに。
「………………」
 観月は複雑極まりない顔で押し黙ったまま動けない。
 赤澤は、人一倍さりげなく観月を気遣いながらも、決してそれを過剰に露出させない。
 それでいて時折、観月が叱るほど子供じみたり甘えてきたりするのだ。
 何か意図する所があるのかないのか。
 赤澤がどこまで無意識でどこまで他意があるのか、それが観月には判らない。
「観月、顎外れそ…」
 甘ったれた目で責めてきたと思えば、観月がフォークに刺して宙に浮かせていたオープンサンドに自ら食いついてくる。
「…、…っ…貴方ね…!」
「ごちそーさん」
 テーブル越しに乗り出してきて勝手に観月の使っているフォークに口に寄せた赤澤に、観月が押し殺した声で怒鳴っても、赤澤はどこ吹く風といった風情だ。
 観月を構ったり見守ったりしながら、赤澤はここにいる。
 学校や部活でない場所であっても、彼はここにいるのだ。
 自分のところに。
 観月は、それがどれだけの自分への信頼であるのかを判った上で、飄々と頭上の青空を見上げている赤澤に笑みを零す。
 溜息に織り交ぜたそれは、すぐに赤澤の知る所になって。
「………………」
 この上なく嬉しそうに赤澤が目を細めてきて、その表情だけで、観月もまるで今ここにある光が全てその表情に集められたかのような眩しいさなかに放り込まれた面持ちになる。
「観月のその顔見ると、何でも出来ちまいそうになるよ」
「……、……なに…言ってるんですか」
「お前には、そういう力もある」
 だからここにいてくれと、赤澤は低いなめらかな声で観月に言った。
 それは。
 そんなことは。
 観月こそが告げたい言葉だ。
 こんな言葉をくれる。
 こんな力をくれる。
 ここにいてほしい。
 ここにいてほしい。
 赤澤のようには言えないけれど。
 張らないでいい意地で、必要な言葉を時折躊躇う自分だけれど。
 せめて、と観月は思う。
 せめて、赤澤が。
 何でも出来てしまいそうになると言ってくれたものを、見せていようと思う。


 ここにいる。
 ここにいて。
 神尾はベッドにうつ伏せになっている。
 両手の手のひらの上に顎を乗せて肘をつき、上半身だけ僅かに持ち上げ、じいっと見つめている。
 少しだけ首を傾けて、真夜中。
 見つめているのは跡部だ。
「………………」
 隣で眠る綺麗な寝顔。
 それはいつ見ても、そうなのだけれど。
 神尾は瞬きもしないで跡部を見つめる。
 見惚れているというよりは、ちょっと、実は、笑いたい。
 神尾は今、結構本気で笑いたい。
 けれどもここまで圧倒的に綺麗な寝顔を晒されては、笑うに笑えない。
 跡部ー、と神尾は声にしないで口の中で呟いた。
「……腹出して寝るなよう…」
 面白すぎると神尾は思った。
 でも笑えない。
 面白いのと同時に、色気過多だろうこれはと心底から思うからだ。
 するりとなめらかな肌と鋭利な顔のライン、目を閉じていても跡部のきつく整った風貌は変わらない。
 そんな寝顔なのに、仰向けになっている跡部のシャツの裾は無防備に捲りあがっていて、引き締まった腹部が際どく露だ。
 直してやった方がいいのだろうかと思うものの、神尾は迂闊に手を伸ばせない。
 跡部の熟睡を妨げるのもこわいし、腹を出して寝ている様が婀娜めいているなんて、いったいどういう男なんだと感じてこわい。
 さわれない。
 確か以前は、人がいて熟睡なんか出来るかと怜悧な目をして言っていたのに。
 つきあい始めて一年近くになった今、こんなにも深い眠りで跡部は今神尾の隣に横たわっている。
 固く滑らかな腹筋は、呼吸に合わせて微かに動いて、じっと、いつまで見つめていても、飽きなくて。
 神尾は先程からずっとこの体勢だ。
 おもしろい。
 色っぽい。
 可愛らしい。
「………………」
 ここに、寝ているのは跡部だ。
 むさぼるように深い眠りへと沈んで、無防備にしている、跡部だ。
 安心、してるのかな?と、神尾は誰に問うでもなく思う。
 跡部が、安心しているのだとしたら、神尾は嬉しい。
 どうしてかなんて説明できないけれど、ただ、そういう風に思うのだ。
 ベッドの上は静かだ。
 神尾は自分の心臓の音を聞いている。
 とくとくと血液の流れを聞いている。
 目でみる跡部の腹部、その動きに自分の呼吸を合わせてみる。
 すこし、最初は苦しい気がする、ゆったりとした呼吸だった。
 跡部のリズムはゆっくりと次第に神尾のリズムになる。
 同じ速さで息をする。
 同じ深さで息をする。
 跡部の中に溺れていくような緩やかな浮遊感。
 跡部の呼吸は神尾の呼吸になって、全身を隅々まで走りぬけていくように気持ちいい。
 神尾は目を閉じて、もう身体が覚えたリズムで息を吸い、息を吐く。
 もう見なくても判る、跡部と同じやり方で。
「…………俺も行こ」
 つぶやいた。
 行こう、このまま、同じリズムで跡部のところに。
 神尾は目を開けて、同じ体勢でいて少し痺れている手を伸ばし、跡部のシャツを直してやった。
 はだけたシャツで露になっていた腹部を覆ってやった。
 跡部は起きない。
 上掛けをかけてやる。
 跡部は起きない。
 神尾は片手で頬杖をつき、ぽんぽん、ともう片方の手で跡部の額を軽くたたいた。
 跡部は起きない。
 赤ん坊寝かしつけてるみたいな手つきだな、とぼんやり神尾は考えた。
 跡部は、赤ん坊でも何でもないけれど。
 よく眠っていて、そこは可愛い、それが嬉しい、神尾はそう思うのだ。
「…………跡部…」
 実際にくっつきはしないけれど、横たわって、並んで。
 跡部と同じ呼吸をしながら神尾は身体をベッドに埋める。
 横向きに、跡部の寝顔を横顔で見据える。
 本当に熟睡だ。
「ちゃんと…連れてけよな」
 神尾は眠気にとろけた声で呟いた。
 ちゃんと自分も眠って、今跡部がいる場所に行くから、だから跡部もちゃんと連れてけ、と念じる。



 その日神尾の夢の中に跡部はいた。
 もしくは跡部の夢に神尾は忍んだ。
 どちらの中であったかは、別段問題ない。
 ただそこに跡部がいて、神尾がいて、昼間二人でふと見上げた桜と、同じ花が咲いていて。
 重ねる呼吸が同じだったから。
 目覚めはこの上なく穏やかで、ひどく安らいだものだった。
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