How did you feel at your first kiss?
日吉は意識してる相手しか視野に入れないね、と一年の時に笑って日吉に言ったのは鳳で。
にこやかに言っている割にはそれは随分と明け透けな物言いで、それに対して日吉が無表情に、取り合えずお前が誰かは判ってると告げればさすがに鳳も苦笑いしていた。
それでいてそれはありがとうと皮肉でも何でもなく言ってのけた鳳は、見た目の柔和さほどあまい相手じゃないという事が日吉にもよく判っていた。
日吉は同学年にはたいして興味がなかったが、準レギュラーからまずは樺地が抜け、次に抜けたのはその鳳だった。
シングルス希望の日吉からすれば、レギュラー入りしたもののダブルスだった鳳にはそれほどの関心は無く、だから彼がそれからダブルスのパートナーを変えた事に関しても取り立てて思う所は何もなかった。
ただ何故か、鳳が最初にダブルスを組んだ相手。
上級生の、ある男の存在だけは、何故だかひどく日吉の心情を苛立たせた。
気づいた時にはもう、ずっと、ただ、苛ついて、その顔を見る度、声を聞く度、どうしようもなくなってしまっていた。
きっかけなどなかったのだ。
鳳が一年の時に言っていた言葉を使えばつまり、意識どうこうではなく、単に日吉の視野に入ってきた時から、日吉が彼を認識した瞬間からもう、手のつけようもなくなってしまっていた。
苛々する。
見ないように、聞かないように、同じ部活にいながら関わりあいたくないとすら思っていた。
その相手の何がこうまで気に入らないのか、苛つくのか、彼が何かをしていても気に入らないし、何もしていなくても腹が立った。
誰かと話していても、一人黙っていても、テニスをしていても。
今も、こうして、試合中である日吉の視界にその姿はあって、絶え間なく日吉の神経を刺激してくる。
その声がしている。
苛立ちをボールにぶつけてしまいがちになりながら、日吉は、ずっと頭の中で繰り返す。
馬鹿だ、と繰り返す。
あの人は、馬鹿で、馬鹿で、それなのに何故滑稽にならないのだと歯噛みする。
何故ほんの少しもみっともなくならないのか。
「滝、こっちの計測もお前やってんのかよ」
「跡部が日吉のサーブが早くなってるからとっておけって」
「んな事、てめえでやれよ」
「跡部にそれ言えるの宍戸くらいだよ…」
何故、笑えるのか。
何故、そんな会話が出来るのか。
宍戸を相手に、滝は和やかに会話を続けている。
どうしてそんな真似が出来るのか。
「………………」
敗者切捨ての氷帝において、唯一の例外となった宍戸のレギュラー復帰は、ダブルスだった。
滝を落とし、滝のパートナーだった鳳と組んだのが、宍戸だ。
勝者のみがレギュラーという氷帝のシステムは日吉の好む所で、誰がレギュラー落ちしようが日吉はまるで構わなかった。
しかし滝に関してはひどい苛立ちを覚えた。
レギュラー落ちしてからも、まるっきり淡々としている様が気に食わない。
レギュラー落ちが決定となった敗北の相手である宍戸とも何の変化も無く肩を並べている。
元パートナーだったはずの鳳まで持っていかれていながら、滝は宍戸と親しく話し、鳳とも以前と変わらぬ接触をもっている。
普通でない。
今や滝の存在そのものが日吉に苦痛を与える程だった。
「………………」
苛立ち紛れに打ち込んだスマッシュで試合に勝って、日吉は即座にコートを出た。
こめかみから流れてきた汗を二の腕で拭う。
ふわりと白いものがいきなり放られてきて、日吉は無意識にそれを手で受け止めてから、憮然とした。
「お疲れ、日吉」
「………………」
なめらかに落ち着いた声で滝に声をかけられ、放られてきたタオルの残り香だろうか、後から清潔な甘い香りを感じ取る。
日吉は眉根を寄せた。
無意識に相手を睨み据える。
「それ、使ってないから…」
日吉に投げたタオルを指差して滝は淡く笑った。
切りそろえられた長めの髪が、肩からさらりと零れる。
少し首を傾けるようにして、滝は笑うのだ。
いつも。
誰にでも。
だからといって何故自分にまでそんな笑顔を向けるのかと日吉は憮然と滝を見つめ続けた。
手にしているタオルなどいらなかった。
でもそれをどうしていいのか決めかねる。
ただ無言でいるだけの日吉の視線の先で、さすがに滝も曖昧に笑みを消していく。
そうだ。
どうせそんな顔をするのだから最初から自分に声などかけなければいいのだと日吉は苦く思った。
滝は誰とでも穏やかに親しく付き合えるのだから、何も自分にまで構う事はない。
口を開くと日吉が意識しないうちに尖った拒絶の言葉ばかりが放たれそうで、たぶんそれはしない方がいいのだと日吉にも判るから、こうして無言でいるのだから。
さっさと消えて欲しい。
そう思いながら日吉が滝を見据えているその場で、突如、大袈裟ともいえるほどの溜息が吐き出された。
日吉ではなく、滝でもなかった。
「若」
深い嘆息の後日吉を呼んだのは宍戸だった。
日吉は舌打ちでもしたい気分で顔を背ける。
お前なあ、と大股で歩み寄ってきた宍戸は、決して暴力まがいではないものの、手荒く日吉の胸倉を掴んで顔を近づけてくる。
真っ直ぐな目、これが日吉は正直苦手だ。
「お前、いい加減ちゃんと自覚しねえと、そのうち取り返しつかなくなるぜ」
「………………」
宍戸が何故か声を潜めて言った言葉の意味が、全く判らないと思いながら。
日吉はぐっと息を飲む自分に気づく。
どうして、まるで、図星でもつかれたかのような振る舞いを見せてしまったのかと困惑する日吉の態度をどう見たのか、宍戸はすぐに手を離してきた。
「宍戸」
「判ってる。……んな、あからさまに呆れたツラするんじゃねえよ、滝」
「呆れた顔もするよ。いきなり掴みかかるんだから」
足早に近づいてきた滝が、戸惑ったように、けれども真摯に、宍戸の肩に手を伸ばす。
しなやかな指が宍戸の肩に乗るのを見て、日吉はきつく眉根を寄せた。
言葉になどしなくても、身体から噴出すような怒気はひどく判りやすかったようで、宍戸はまた溜息をつき、滝は気遣わしげに日吉を見つめてきた。
「…日吉? どうかした?」
真面目な声だった。
日吉は追い立てられるような切迫感を覚えながら滝を睨み据えた。
「……あんたに、呆れてんですよ」
熱くて重い感情で放った言葉は、声ばかりがこの上なく冷え切っていた。
滝が目を瞠る。
その表情に日吉は目つきを尚きつくする。
「あんたが、あまりにも馬鹿で」
「若、お前な、」
宍戸が何か言いかけるのを、滝がそっと仕草だけで遮った。
宍戸の肩に置いた滝の手は、宍戸を制し、宥めるように、やわらかく動いた。
どちらかといえば激情型の宍戸がそれでひくのも日吉には気に入らなかった。
そんな所作だけのやりとりに日吉はますます声を低くする。
言葉が止まらなくなる。
「あんた、レギュラー落ちして、よくそんな笑ってられますね。自分を蹴落として、自分のパートナーまで持っていった相手と、お気楽に笑って話なんか、よく出来ると思って呆れてるんですよ」
一息に言い切った日吉は、まるで憎んでいる相手と対峙しているような自分の態度を、どこか他所事のようにも感じていた。
「お前なぁ…!」
本気で声を荒げる宍戸の肩をほっそりとした指で尚もしっかりと制した滝に、日吉は何だか泣きたいような複雑な憂鬱に蝕まれていく。
怒りや苛立ちは、長く続かなかった。
滝から目を背けていれば、それだけでいられたかもしれなかったけれど。
滝の表情や仕草を目の当たりにすると、何かが崩れる。
「………………」
日吉はもう滝の顔が見られなくなり、その指先だけを見ている自分に気づいている。
顔が見られない。
疚しいのが自分だからだと日吉はそれだけは確かに判っていた。
呆れるほど馬鹿なのは自分だ。
「日吉は、全部、一回でおしまい?」
あからさまにひどい言葉をぶつけた相手は、しかしやわらかな声のまま日吉に問いかけてくる。
滝は、きっと日吉を真っ直ぐに見ている。
いつも、彼はそうだ。
そんな滝と視線が合わせられないのはいつも自分の方なのだと自覚しつつ、日吉は顔を背けて歯を食いしばる。
滝は日吉が何を言っても、ほんの少しも傷などつけられていない毅然さで言った。
「一回失敗したことは、もう二度と成功はしないって…思ってる?」
俺はね、と滝が話し続けるのを、聞いていたい気もするし、聞きたくもない気もする。
日吉は本当に何をどうすればいいのかまるで判らなかった。
「俺は、失敗した事は、二度目も、三度目も、何度目だって構わず、繰り返すよ」
それが。
「間違ってしまった事は修正する。失敗した事はやりなおしてみる」
それが。
「人がみっともないって思って見ていても、俺はそうしたくてしてる。みっともないの、嫌いじゃないんだ」
それが、滝には出来て、日吉には出来ない事なのだ。
突き上げてくる感情に歪んだ表情を日吉は背けるしか出来なくて。
ましてやそれを滝は目の当たりにした訳でもないのに、ふと、気遣うようなとてもやさしい静かな声で日吉を呼んだ。
「……日吉?」
「………俺は、」
「うん……」
頷きだけのひどく優しい声が、日吉が途切れさせた言葉の続きを促してくる。
顔は背けていても、強がって、拒んでも、やはりどうしてもそれに縋りたくなる、そんな不思議な声だ。
日吉は、それを振り払うようにして、吐き出した。
「あんたはそうでも、俺はそんなことは知らない。俺はどうせもう、修正なんかきかないほど間違えて、失敗してるんでね」
今更もう、と言い掛けたところを、滝にやんわりと遮られた。
「どうせなんて言っちゃだめだよ」
「………………」
「日吉が修正したいって思うなら、そこがきちんと始まりになるから」
間に合わない事なんてないから、と囁くように滝は言った。
そんな事、日吉は信じてはいない。
けれど、言ったのが滝だから、日吉は背けていた顔を、その声に縋るように、徐々に引き戻していく。
他の誰でもない。
彼が言うのなら。
「………………」
本当は、顔を見たくなかった。
暴言を吐いたのは自分だ。
今の滝の顔を見るのが嫌だった。
滝が今どんな表情をしているのか、身勝手極まりないが、それを見て傷つくであろう自分を日吉は知っていた。
「………………」
しかし、日吉が陰鬱に見据えた視線の先で。
滝は、笑っているのだ。
見つめているうちに消えていってしまうかもしれないほど、淡い儚い笑みだったけれど。
もう、それで、本当に日吉は、耐え切れなくなった。
無言で近づいて、距離を縮めて、宍戸の肩にあった滝の手を強引に掴む。
宍戸が面食らっている顔を視界の端に見た。
次の瞬間日吉は滝の手を握ったまま彼を引きずるようにしてコートの外へ出る。
「日吉、?」
乱暴に引っ張っている。
掴んでいる滝の手首に、日吉の指が回る。
何故こうしているのかなんて判らない。
どこへ行くのかなんて、日吉自身決めていない。
ただ足早に歩いていけば、半ば引きずられるようにしていた滝も、自らの足でついてくる。
滝の戸惑いは触れ合っている肌と肌から伝わってきている。
日吉は部室の裏側に回りこみ、固い外壁に滝を押さえつけた。
衝動は、一瞬のものではなく、いつも日吉の中にあった。
噴出す先は滝だ。
「……っ……、…ょ……、し」
「………………」
両手首を壁に縫いとめて、角度をつけてその唇を塞ぐ。
か細い声が拒絶なのか狼狽なのか日吉には判らなかった。
判らないふりをした。
一瞬硬直した滝だったが、塞いだ唇はさらさらと温かかった。
きつく口付けても、次第にふわりと力を抜いて、丁寧に優しく受け止めてくる。
舌で侵食すると仄かに温を上げて、ぎこちなく強張る仕草に息が詰まりそうになる。
日吉は唇を引き剥がし、滝の肩口に顔を伏せた。
ほっそりとした首には走るような脈と熱があることを、この至近距離で日吉は知った。
手の中に握りこんでいる滝の手首からも同じ脈打ちが伝わってくる。
「………日吉…?」
「………………」
滝の声は小さかった。
「…日吉、」
小さくて、懸命な声を。
日吉は顔を上げ、一瞥しただけで、聞き流そうとしたのだが、視線だけは外せなくなって。
苦しさは飢餓感に似て。
「………………」
戸惑いを露にしていながらも、滝は吐息と一緒に柔らかく力を抜いて、再び日吉が滝の肩口に顔を伏せるのを促すように、その指先を日吉の髪にすべりこませてきた。
日吉は促されるまま、黙って滝の肩口にまた顔を埋める。
日吉の耳元に触れたものが滝の唇のように感じたが、実際は判断しかねて。
そのまま両腕で、滝の背中を抱きこんだ。
抱き締めたかった。
したいことをする、それがどこかささくれ立った日吉の心情をなだらかにした。
「………………」
日吉は言いたい事を言った。
それを訂正する気は無かった。
本心だ。
滝という存在にひどく苛立つ、それもまた本当だ。
抱き潰すように腕に力を込めて、滝を抱き竦めながら、日吉は今度も言いたい事を言った。
呻くように、好きだと、二度繰り返して言った。
誰かのものかもしれない。
誰ものものかもしれない。
日吉は、それが堪らなく嫌だった。
このひとが自分のものには決してならないのだと思えばいくらでも。
いくらでも、荒んだ態度や言葉を曝け出せたけれど。
今はまるで縋りつくように、日吉は滝の痩躯を抱き締めてしまう。
「……日吉…」
か細い甘い声で名前を呼ばれ、ぎゅっとユニフォームの背中の辺りを滝の手に握りこまれる。
ぴたりと重なった胸元の早い脈は、もうどちらのものかも判らない。
「………冗談…?…」
「誰に聞いてんですか」
「…ほんと?」
冗談だったら泣くと言ってきた小さな声は。
「……もう泣いてんでしょうが」
とっくに涙を帯びていて、日吉は憮然と言って顔を上げた。
日吉も少し混乱していた。
滝の顔が見たかったのだ。
何故冗談ならば泣くと言うのか判らなかった。
目と目を合わせる。
涙は零れてはいなかったけれど、睫が濡れていた。
滝は日吉を見上げるようにしてちいさく微笑むと、一気に脱力したかのように日吉の胸に顔を伏せてしまった。
にこやかに言っている割にはそれは随分と明け透けな物言いで、それに対して日吉が無表情に、取り合えずお前が誰かは判ってると告げればさすがに鳳も苦笑いしていた。
それでいてそれはありがとうと皮肉でも何でもなく言ってのけた鳳は、見た目の柔和さほどあまい相手じゃないという事が日吉にもよく判っていた。
日吉は同学年にはたいして興味がなかったが、準レギュラーからまずは樺地が抜け、次に抜けたのはその鳳だった。
シングルス希望の日吉からすれば、レギュラー入りしたもののダブルスだった鳳にはそれほどの関心は無く、だから彼がそれからダブルスのパートナーを変えた事に関しても取り立てて思う所は何もなかった。
ただ何故か、鳳が最初にダブルスを組んだ相手。
上級生の、ある男の存在だけは、何故だかひどく日吉の心情を苛立たせた。
気づいた時にはもう、ずっと、ただ、苛ついて、その顔を見る度、声を聞く度、どうしようもなくなってしまっていた。
きっかけなどなかったのだ。
鳳が一年の時に言っていた言葉を使えばつまり、意識どうこうではなく、単に日吉の視野に入ってきた時から、日吉が彼を認識した瞬間からもう、手のつけようもなくなってしまっていた。
苛々する。
見ないように、聞かないように、同じ部活にいながら関わりあいたくないとすら思っていた。
その相手の何がこうまで気に入らないのか、苛つくのか、彼が何かをしていても気に入らないし、何もしていなくても腹が立った。
誰かと話していても、一人黙っていても、テニスをしていても。
今も、こうして、試合中である日吉の視界にその姿はあって、絶え間なく日吉の神経を刺激してくる。
その声がしている。
苛立ちをボールにぶつけてしまいがちになりながら、日吉は、ずっと頭の中で繰り返す。
馬鹿だ、と繰り返す。
あの人は、馬鹿で、馬鹿で、それなのに何故滑稽にならないのだと歯噛みする。
何故ほんの少しもみっともなくならないのか。
「滝、こっちの計測もお前やってんのかよ」
「跡部が日吉のサーブが早くなってるからとっておけって」
「んな事、てめえでやれよ」
「跡部にそれ言えるの宍戸くらいだよ…」
何故、笑えるのか。
何故、そんな会話が出来るのか。
宍戸を相手に、滝は和やかに会話を続けている。
どうしてそんな真似が出来るのか。
「………………」
敗者切捨ての氷帝において、唯一の例外となった宍戸のレギュラー復帰は、ダブルスだった。
滝を落とし、滝のパートナーだった鳳と組んだのが、宍戸だ。
勝者のみがレギュラーという氷帝のシステムは日吉の好む所で、誰がレギュラー落ちしようが日吉はまるで構わなかった。
しかし滝に関してはひどい苛立ちを覚えた。
レギュラー落ちしてからも、まるっきり淡々としている様が気に食わない。
レギュラー落ちが決定となった敗北の相手である宍戸とも何の変化も無く肩を並べている。
元パートナーだったはずの鳳まで持っていかれていながら、滝は宍戸と親しく話し、鳳とも以前と変わらぬ接触をもっている。
普通でない。
今や滝の存在そのものが日吉に苦痛を与える程だった。
「………………」
苛立ち紛れに打ち込んだスマッシュで試合に勝って、日吉は即座にコートを出た。
こめかみから流れてきた汗を二の腕で拭う。
ふわりと白いものがいきなり放られてきて、日吉は無意識にそれを手で受け止めてから、憮然とした。
「お疲れ、日吉」
「………………」
なめらかに落ち着いた声で滝に声をかけられ、放られてきたタオルの残り香だろうか、後から清潔な甘い香りを感じ取る。
日吉は眉根を寄せた。
無意識に相手を睨み据える。
「それ、使ってないから…」
日吉に投げたタオルを指差して滝は淡く笑った。
切りそろえられた長めの髪が、肩からさらりと零れる。
少し首を傾けるようにして、滝は笑うのだ。
いつも。
誰にでも。
だからといって何故自分にまでそんな笑顔を向けるのかと日吉は憮然と滝を見つめ続けた。
手にしているタオルなどいらなかった。
でもそれをどうしていいのか決めかねる。
ただ無言でいるだけの日吉の視線の先で、さすがに滝も曖昧に笑みを消していく。
そうだ。
どうせそんな顔をするのだから最初から自分に声などかけなければいいのだと日吉は苦く思った。
滝は誰とでも穏やかに親しく付き合えるのだから、何も自分にまで構う事はない。
口を開くと日吉が意識しないうちに尖った拒絶の言葉ばかりが放たれそうで、たぶんそれはしない方がいいのだと日吉にも判るから、こうして無言でいるのだから。
さっさと消えて欲しい。
そう思いながら日吉が滝を見据えているその場で、突如、大袈裟ともいえるほどの溜息が吐き出された。
日吉ではなく、滝でもなかった。
「若」
深い嘆息の後日吉を呼んだのは宍戸だった。
日吉は舌打ちでもしたい気分で顔を背ける。
お前なあ、と大股で歩み寄ってきた宍戸は、決して暴力まがいではないものの、手荒く日吉の胸倉を掴んで顔を近づけてくる。
真っ直ぐな目、これが日吉は正直苦手だ。
「お前、いい加減ちゃんと自覚しねえと、そのうち取り返しつかなくなるぜ」
「………………」
宍戸が何故か声を潜めて言った言葉の意味が、全く判らないと思いながら。
日吉はぐっと息を飲む自分に気づく。
どうして、まるで、図星でもつかれたかのような振る舞いを見せてしまったのかと困惑する日吉の態度をどう見たのか、宍戸はすぐに手を離してきた。
「宍戸」
「判ってる。……んな、あからさまに呆れたツラするんじゃねえよ、滝」
「呆れた顔もするよ。いきなり掴みかかるんだから」
足早に近づいてきた滝が、戸惑ったように、けれども真摯に、宍戸の肩に手を伸ばす。
しなやかな指が宍戸の肩に乗るのを見て、日吉はきつく眉根を寄せた。
言葉になどしなくても、身体から噴出すような怒気はひどく判りやすかったようで、宍戸はまた溜息をつき、滝は気遣わしげに日吉を見つめてきた。
「…日吉? どうかした?」
真面目な声だった。
日吉は追い立てられるような切迫感を覚えながら滝を睨み据えた。
「……あんたに、呆れてんですよ」
熱くて重い感情で放った言葉は、声ばかりがこの上なく冷え切っていた。
滝が目を瞠る。
その表情に日吉は目つきを尚きつくする。
「あんたが、あまりにも馬鹿で」
「若、お前な、」
宍戸が何か言いかけるのを、滝がそっと仕草だけで遮った。
宍戸の肩に置いた滝の手は、宍戸を制し、宥めるように、やわらかく動いた。
どちらかといえば激情型の宍戸がそれでひくのも日吉には気に入らなかった。
そんな所作だけのやりとりに日吉はますます声を低くする。
言葉が止まらなくなる。
「あんた、レギュラー落ちして、よくそんな笑ってられますね。自分を蹴落として、自分のパートナーまで持っていった相手と、お気楽に笑って話なんか、よく出来ると思って呆れてるんですよ」
一息に言い切った日吉は、まるで憎んでいる相手と対峙しているような自分の態度を、どこか他所事のようにも感じていた。
「お前なぁ…!」
本気で声を荒げる宍戸の肩をほっそりとした指で尚もしっかりと制した滝に、日吉は何だか泣きたいような複雑な憂鬱に蝕まれていく。
怒りや苛立ちは、長く続かなかった。
滝から目を背けていれば、それだけでいられたかもしれなかったけれど。
滝の表情や仕草を目の当たりにすると、何かが崩れる。
「………………」
日吉はもう滝の顔が見られなくなり、その指先だけを見ている自分に気づいている。
顔が見られない。
疚しいのが自分だからだと日吉はそれだけは確かに判っていた。
呆れるほど馬鹿なのは自分だ。
「日吉は、全部、一回でおしまい?」
あからさまにひどい言葉をぶつけた相手は、しかしやわらかな声のまま日吉に問いかけてくる。
滝は、きっと日吉を真っ直ぐに見ている。
いつも、彼はそうだ。
そんな滝と視線が合わせられないのはいつも自分の方なのだと自覚しつつ、日吉は顔を背けて歯を食いしばる。
滝は日吉が何を言っても、ほんの少しも傷などつけられていない毅然さで言った。
「一回失敗したことは、もう二度と成功はしないって…思ってる?」
俺はね、と滝が話し続けるのを、聞いていたい気もするし、聞きたくもない気もする。
日吉は本当に何をどうすればいいのかまるで判らなかった。
「俺は、失敗した事は、二度目も、三度目も、何度目だって構わず、繰り返すよ」
それが。
「間違ってしまった事は修正する。失敗した事はやりなおしてみる」
それが。
「人がみっともないって思って見ていても、俺はそうしたくてしてる。みっともないの、嫌いじゃないんだ」
それが、滝には出来て、日吉には出来ない事なのだ。
突き上げてくる感情に歪んだ表情を日吉は背けるしか出来なくて。
ましてやそれを滝は目の当たりにした訳でもないのに、ふと、気遣うようなとてもやさしい静かな声で日吉を呼んだ。
「……日吉?」
「………俺は、」
「うん……」
頷きだけのひどく優しい声が、日吉が途切れさせた言葉の続きを促してくる。
顔は背けていても、強がって、拒んでも、やはりどうしてもそれに縋りたくなる、そんな不思議な声だ。
日吉は、それを振り払うようにして、吐き出した。
「あんたはそうでも、俺はそんなことは知らない。俺はどうせもう、修正なんかきかないほど間違えて、失敗してるんでね」
今更もう、と言い掛けたところを、滝にやんわりと遮られた。
「どうせなんて言っちゃだめだよ」
「………………」
「日吉が修正したいって思うなら、そこがきちんと始まりになるから」
間に合わない事なんてないから、と囁くように滝は言った。
そんな事、日吉は信じてはいない。
けれど、言ったのが滝だから、日吉は背けていた顔を、その声に縋るように、徐々に引き戻していく。
他の誰でもない。
彼が言うのなら。
「………………」
本当は、顔を見たくなかった。
暴言を吐いたのは自分だ。
今の滝の顔を見るのが嫌だった。
滝が今どんな表情をしているのか、身勝手極まりないが、それを見て傷つくであろう自分を日吉は知っていた。
「………………」
しかし、日吉が陰鬱に見据えた視線の先で。
滝は、笑っているのだ。
見つめているうちに消えていってしまうかもしれないほど、淡い儚い笑みだったけれど。
もう、それで、本当に日吉は、耐え切れなくなった。
無言で近づいて、距離を縮めて、宍戸の肩にあった滝の手を強引に掴む。
宍戸が面食らっている顔を視界の端に見た。
次の瞬間日吉は滝の手を握ったまま彼を引きずるようにしてコートの外へ出る。
「日吉、?」
乱暴に引っ張っている。
掴んでいる滝の手首に、日吉の指が回る。
何故こうしているのかなんて判らない。
どこへ行くのかなんて、日吉自身決めていない。
ただ足早に歩いていけば、半ば引きずられるようにしていた滝も、自らの足でついてくる。
滝の戸惑いは触れ合っている肌と肌から伝わってきている。
日吉は部室の裏側に回りこみ、固い外壁に滝を押さえつけた。
衝動は、一瞬のものではなく、いつも日吉の中にあった。
噴出す先は滝だ。
「……っ……、…ょ……、し」
「………………」
両手首を壁に縫いとめて、角度をつけてその唇を塞ぐ。
か細い声が拒絶なのか狼狽なのか日吉には判らなかった。
判らないふりをした。
一瞬硬直した滝だったが、塞いだ唇はさらさらと温かかった。
きつく口付けても、次第にふわりと力を抜いて、丁寧に優しく受け止めてくる。
舌で侵食すると仄かに温を上げて、ぎこちなく強張る仕草に息が詰まりそうになる。
日吉は唇を引き剥がし、滝の肩口に顔を伏せた。
ほっそりとした首には走るような脈と熱があることを、この至近距離で日吉は知った。
手の中に握りこんでいる滝の手首からも同じ脈打ちが伝わってくる。
「………日吉…?」
「………………」
滝の声は小さかった。
「…日吉、」
小さくて、懸命な声を。
日吉は顔を上げ、一瞥しただけで、聞き流そうとしたのだが、視線だけは外せなくなって。
苦しさは飢餓感に似て。
「………………」
戸惑いを露にしていながらも、滝は吐息と一緒に柔らかく力を抜いて、再び日吉が滝の肩口に顔を伏せるのを促すように、その指先を日吉の髪にすべりこませてきた。
日吉は促されるまま、黙って滝の肩口にまた顔を埋める。
日吉の耳元に触れたものが滝の唇のように感じたが、実際は判断しかねて。
そのまま両腕で、滝の背中を抱きこんだ。
抱き締めたかった。
したいことをする、それがどこかささくれ立った日吉の心情をなだらかにした。
「………………」
日吉は言いたい事を言った。
それを訂正する気は無かった。
本心だ。
滝という存在にひどく苛立つ、それもまた本当だ。
抱き潰すように腕に力を込めて、滝を抱き竦めながら、日吉は今度も言いたい事を言った。
呻くように、好きだと、二度繰り返して言った。
誰かのものかもしれない。
誰ものものかもしれない。
日吉は、それが堪らなく嫌だった。
このひとが自分のものには決してならないのだと思えばいくらでも。
いくらでも、荒んだ態度や言葉を曝け出せたけれど。
今はまるで縋りつくように、日吉は滝の痩躯を抱き締めてしまう。
「……日吉…」
か細い甘い声で名前を呼ばれ、ぎゅっとユニフォームの背中の辺りを滝の手に握りこまれる。
ぴたりと重なった胸元の早い脈は、もうどちらのものかも判らない。
「………冗談…?…」
「誰に聞いてんですか」
「…ほんと?」
冗談だったら泣くと言ってきた小さな声は。
「……もう泣いてんでしょうが」
とっくに涙を帯びていて、日吉は憮然と言って顔を上げた。
日吉も少し混乱していた。
滝の顔が見たかったのだ。
何故冗談ならば泣くと言うのか判らなかった。
目と目を合わせる。
涙は零れてはいなかったけれど、睫が濡れていた。
滝は日吉を見上げるようにしてちいさく微笑むと、一気に脱力したかのように日吉の胸に顔を伏せてしまった。
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