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How did you feel at your first kiss?
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 宍戸にとって最悪だったのは、準レギュラーの二年生達がしていた噂話そのものではなく、その直後に自分の目で見た光景だった。


『鳳の奴、この間転入してきた子とうまくやってんだって?』
『ああ、すごいらしいぜ。転入初日に、鳳の方から声かけたらしいから』
『珍しくね? あいつ女共から優しい優しいって言われまくってるけど、今まで自分からはそういう事しないタイプだったじゃん』
『だからマジなんだろ。最近なんかもう、しょっちゅう二人で話してるとこ見るぜ』
『転入生って、黒髪のロングヘアの子?』
『そうそう。スタイルめちゃくちゃよくって、見た目かなり気ぃ強そうなんだけど、鳳と話してる時は結構可愛い』
『……あー……てゆーかさぁ、あの子、………似てね?』
『あー……宍戸先輩にだろ? 俺も思った』
『マジ似てる。結構背あるし二人で並んでると、あれ?って思った事何度もあるぜ』
『スカートはいてんのにな』
『まあ、ある意味、鳳の好みは徹底してるって事だな』


 こんな話を偶然聞かされた時は、何言ってんだこいつらと思っただけだった。
 朝練の後、正レギュラー用の部室を最後に出た宍戸は、別室のレギュラー以外の部員の部室前でそんな話をしている後輩達に呆れ返った視線を指し向けた。
 話の後半に、自分の名前が出てきて。
 よほど、馬鹿言ってんじゃねえと割って入ろうかと思ったが、結局馬鹿らしいと思って素通りした。
 そんな宍戸に気付いたらしく、後輩達の噂話は水を打ったように、ぴたりと止まった。
 つくづく馬鹿らしい。
 その時宍戸はそう思ったのだが。
 教室に戻る途中、渦中の二人と思しき男女を見つけてしまったのだから、どうしようもない。
 最悪だった。
「………………」
 何となく、すぐに。 ああ、あの子がそうかと判ってしまった。
 そういえば珍しく朝練の後、鳳はすぐさま部室を出ていった。
 宍戸に声をかけないというのが更に珍しくて。
 さすがに宍戸も微量の違和感を感じていた。
 その直後にあの噂話を聞き、そして。
 申し合わせたように遭遇だ。
「………………」
 あまりいい気分ではなかった。
 怒りと違う苛立ちが重く胸の内を占める。
 自分の心中がうまくつかめない。
 ひどく慣れない心もとなさがあった。
 咄嗟に宍戸は中庭にいた男女から視線を外し、彼らに気付かないで先を行く振りをした。
 その時に宍戸の視界を掠めた鳳が。
 その時の、宍戸の最悪な心情にトドメをさした。
 鳳は宍戸に気付いたようだった。
 恐らく、その気配がしたから間違いない。
 その彼が取った行動は咄嗟に強く狼狽えて。
 まるで宍戸から隠すように、その少女に手を伸ばし、自分の背後に置いたのだ。
 致命的だ。
 宍戸は重い溜息と共にそう思った。




 好きだと言われた。
 テニスをした。
 キスもした。
 ダブルスを組んだ。
 好きだと言われた。
 一緒に帰った。
 笑顔だった。
 試合をした。
 真剣だった。
 抱き寄せられた。
 すぐに離れた。
 尊敬してますと言われた。
 好きですと囁かれた。
 無茶しないで下さいと心配された。
 メールがきた。
 目を逸らされた。
 おはようございますと言われた。
 何も話さなかった。


 どれも普通のことで。
 どれも特別なことではなくて。
 どれも意味はない在り来たりのこと。
 それだけだったのかもしれない。
 そういうことだったのかもしれない。




 怒りに挿げ替える事も出来ず、心に留めずに流す事も出来ず、宍戸は鬱々と考えた。
 鳳の事はどうでもいい相手ではないから、言い様のない淀みはいつまでも晴れない。
 多分これが嫉妬心だという事は宍戸も認めていて。
 しかし、少なくとも宍戸がこれまで生きてきて一度も体験した事のない嫉妬心というものは、こうなっては強く燃やしてもどうしようもないものだと宍戸は知っているから。
 これは、宍戸の中で無くしてしまうしかないものだと判っているから。
 腹はたたなかった。
 でも持て余した。
 それが結局、宍戸が鳳と距離を置くという行動になって現れた。
 ただなまじ宍戸が怒っている様子もなく、ただひどく冷静なものだから。
 鳳と宍戸の間に微妙に出来た溝に気付いた者達も。
 どうしようもなかった。
 何やってんだお前らと、とうとう跡部に睨まれても。
 宍戸は苦笑するだけだった。
 あの跡部の追求ですら、そこで完全に断ち切ってしまう威力の、苦い笑みだった。






 一見波が立つ事無く、静寂のまま数日が過ぎた。
「宍戸さん。話があるんです」
「なんだ?」
 裏門にいた鳳の方を見ながら実際は目線を合わせず答えた宍戸の声には、別段棘も気落ちもない。
 こんな風に返せるようになったのかと宍戸自身が関心した程だ。
 ただ、どこか悪あがきのように、鳳の顔は直視できなかった。
 ここの所ずっとこんな感じだ。
「話があるんです」
「だから何だよ?」
 今日は部活のない日で、する事もなく。
 宍戸は授業が終わってすぐに校舎を出てきたのだが、鳳はいつからそうしていたのか、門扉に寄りかかって宍戸を待っていたようだった。
「黙られたら判んねーけど…?」
「…………………」
「……、…っ…ィ…」
 鳳の指に、手を握りつぶされそうになった。
 加減なく手の甲を握り込まれた宍戸がさすがに顔を上げ、真っ向から鳳を見上げた。
「お前、……!」
 眉を顰めた宍戸に、鳳が強張ったような顔をする。
「…………すみません」
「ま……いいけどよ」
 パッと鳳に放された手は、冗談でなく痺れている。
 宍戸は溜息をついた。
「宍戸さん」
「だから何だよ?」
「……待って。逃げないで」
「逃げてねーよ」
 逃げてねーだろと畳み掛けて宍戸が繰り返すと、違うと言って鳳はやけに必死な目をする。
「俺から」
「………………」
 離れていかないで、とどこか探るような慎重な声音で囁かれた。
 まるで逃げ場を無くしているかのように、鳳が宍戸との距離を詰めてくる。
「………おい…」
「どうしてそういう顔するんですか」
「そういう…って……」
「俺の事もうどうでもいいって目で見てる」
「………………」
 宍戸が静かに息を飲む。
「違うって言ってくれないんですか」
「長太郎、」
 金属の門扉が背中にぶつかる。
 鳳が宍戸の身体を拘束するように鉄柱を握り締め長身を屈めてくる。
 落ちてこようとしているのは唇で、まさかこんな所でそんなという気持ちと。
 それ以前に、と思う気持ちで宍戸は咄嗟に鳳の制服を片手で握り締めた。
 そのまま肘を伸ばし、腕を突っ張らせる。
「…………バ、…」
「……するな、ですか」
 聞いた事のないような鳳の声に、宍戸は、ざっくりと傷ついた。
 鳳の制服を掴み締めた手が、馬鹿みたいに震えてぶれた。
「………俺にも…まだ、するのか」
「…………宍戸さん?」
 呻くような掠れ声は独り言の域であるのに。
 鳳は的確に拾って、やはり強張るような小さな声を出した。
「俺にもって何です」
「………………」
「宍戸さん」
「………何でもねーよ」
「宍戸さん」
「何でもねーよ。もういいや」
 ひどく疲れたような気になって宍戸は呟いた。
 諦めるように吐き出した言葉に、鳳は過剰すぎるような反応をした。
「もういいって俺の事ですか」
「………………」
「俺はよくない」
 ガシャンと大きな音が宍戸の頭の裏側でした。
 門扉を両手で握り締めた鳳が、激情にかられるように激しく門を揺すったせいだった。
「いきなり距離とられて」
「………………」
「俺の事どうでもよくなったみたいな扱いされて」
 そんな低く切羽詰ったような鳳の声を聞くのは初めてで、宍戸は吐息を零す。
 それをまるで呆れた嘆息と見てとったような鳳は、一層手加減鳴く宍戸に踏み込んできた。
「あなたが俺を鬱陶しくなってるとしても」
 何言い出すんだこの馬鹿はと宍戸は目を閉じる。
「キスなんか二度とさせたくなくなったとしても」
 だってそんなのする方が傷つくだろうがと。
 声には出さずに頭の中だけで宍戸は告げる。
「……宍戸さんがそうやって泣くくらいでも」
 誰が。
 泣くか。
「宍戸さん」
「………………」
 誰が。
 閉じた瞼の中にあるものになんか気付くのか。
 誰が。
 その在り処を知っているかのように、唇を瞼の上に押し当ててくるというのか。
「誰が。逃がすとでも思ってるんですか……!」
 誰が。
 この振り絞るような声を。
「………、…」
 突き放そうとした側から力づくで抱き込まれた。
 もがいたまま抱き竦められた。
 それでも全力で鳳を引き剥がそうと両腕に力を込めて突き放した筈の男が。
「…………ッ…、…」
 初めて聞いた舌打ちと共に、宍戸の身体をそれ以上の力で背後の門扉に拘束する。
 したたかに背に金属が打ち付けられた痛みと、鳳の手の中で握り潰されそうにされている両肩の痛みは同じくらい酷かった。
「………宍戸さんが、本気で嫌がってるって、ちゃんと判ってます」
「……っ……」
 でも、と鳳は低く吐き捨てた。
「逃がさない」
「……………」
 宍戸にだって判った。
 鳳がどれだけ本気でいるか。
 判るから余計に。
 身体中が冷たくなる。
 全身から力が抜ける。
 震えが止まらない。
「宍戸さん」
 力任せに抱き竦められる。
 背中をかき抱かれる。
 宍戸はもう何の抵抗もしない。
 もう何も出来ない。
 唇を塞がれても、無抵抗だった。
「………、………ですか……っ…」
 奪い取ったのと同じ激しさで離れた唇の合間で、鳳の悲しく痛ましいような声がしたが、それもどこか神経を素通りしていくだけのようにしか宍戸には思えなかった。






 明らかに鳳と宍戸の関係が不自然なのは誰の目にも容易い事で、そのくせ個々で見てみれば二人はそれまでとあまり変わりなく日常を送っているようにも見えた。
 そういう客観的な意見を、他意なく毒もなく言える稀有な仲間はコイツくらいだろうなと宍戸は思った。
「喧嘩なの? 亮ちゃん」
「リョーちゃんは止めろ」
 いい加減聞き慣れたけれどと思いながら、宍戸はジローの癖毛に手をやって、軽く自分から引き剥がした。
 懲りずにジローは一層抱きつくように宍戸へ腕を伸ばしてくる。
 ぎゅっとしがみつかれて宍戸は諦めた。
「はい。ムースポッキー」
 いらないと言うより先に口に押し込まれて宍戸は溜息をつく。
「ジロー」
「あんまり飯食ってないね。亮ちゃん」
「…食ってるよ」
「ちょっと詰まったから嘘だし」
 昼休み、宍戸がジローにつれて来られたのはジローお気に入りの昼寝スポットだとかで、日当たりがよくてうまく死角に入っている低木の下だ。
 一緒に昼寝しようという誘い文句の通りに、ジローは木陰で宍戸の肩に凭れるように目を閉じた。
「鳳、相変わらず亮ちゃんと似た子と一緒にいるの、よく見かける」
 「………………」
 全然楽しそうじゃないけど、と目を閉じたままのジローの口から続いた言葉に宍戸はリアクションが取れない。
 それを聞いて、痛くて辛いような気もするし、どこか安堵に似て納得しているような自分もいる。
「亮ちゃんも寝よ」
「………………」
 そうやって促されるまま。
 宍戸は樹の幹に寄りかかり、足を投げ出したまま目を閉じてみた。
 肩口にあるジローのやわらかい髪が少し擽ったかった。
「どういう噂流れてるか聞いとく?」
「………ああ」
 宍戸がぽつりと答えると、どうやらジローはひどく驚いたようだった。
「うっそ。なんで? マジで?」
「お前が聞いたんだろ」
「そだけどさ。いつもの亮ちゃんなら絶対興味ないって言うじゃん」
「じゃあ、いつもの俺じゃないんだろ」
 自棄でも何でもなく、寧ろ冷静に宍戸は言った。
 自分でもよく判らないのだ。
 自分からだけでなく、鳳からも避けられるようになっている、ここ数日間の出来事に至っては尚更。
「んーとねえ……殆どは彼女絡みの話だよ」
「へえ…」
「………………」
「続きは?」
「……忘れちゃった」
 何だそりゃと宍戸は笑った。
「…俺、鳳のこと嫌いになった」
「嘘つけ」
「本当だし」
 こんなにこんなに亮ちゃんのこと傷つけた、とそう言って。
 ジローは宍戸の手を握った。
 宍戸が目を開けて横目で伺うと、目を瞑ったままジローは泣いていた。
「…あー…よしよし」
 何で俺が慰めてんだと、宍戸は半分おかしくなって笑った。
 あとの半分はつられて泣きそうになって困った。






 噂というのは増長するもので、結局その日の放課後の部活中にはもう、宍戸の耳にもそれは届くようになっていた。
 二百名近くも部員がいれば、その同じ部内の二人に纏わる噂など簡単に広まる。
 人数が多い上に、一握りのレギュラー陣に関する話ならば尚更の事だ。
 あれだけ親密だった鳳と宍戸が仲違いを起こしているのは、宍戸によく似た鳳の彼女を巡ってのことらしいというのがその噂の大半で。
 普段が温厚で従順な分、鳳の方を責めるよりは、宍戸の方に非があると言う内容の方が多かった。
 浮ついた雰囲気を跡部が一喝してからは大分マシになったが、その日の部活が終わればまた堰をきったかのようにその話題で持ちきりになるのは火を見るより明らかだった。
「宍戸。来い」
「………………」
 部活が終わるなり跡部に呼びつけられた宍戸は、頭を揺すって飛ばした汗が少し目に染みて、顰めた目元で跡部を見据えた。
 機嫌の良い声でないのは明白で、レギュラー陣の中からも無言の注目が二人に集まる。
「………………」
 宍戸は頷き、すでに背を向けている跡部の後に続いた。
 レギュラー専用の部室にはロッカー室以外にも部屋がある。
 跡部は普段ミーティングに使う一室に入り、いつもの定位置である椅子に座った。
 背後にはプロジェクター用のスクリーンがある。
「………………」
「なんだよ跡部」
 組んだ両手の指を口元に押し当てて、剣呑と睨みつけてくる跡部に宍戸は溜息混じりに言った。
 すると跡部も溜息をついた。
「肩どうした」
「………………」
 予想していたのとは少しばかり違う事を聞かれ、宍戸は微苦笑する。
 跡部は他人のメンタルの甘さにフォローを入れるような男ではない。
 いっそ気が楽だった。
「痛みはねえよ」
「そうでなけりゃ、やらせねえよ」
 見せてみろと顎で促され、宍戸は珍しく反発する気も起きず、言われるまま汗だくのウェアを脱いだ。
 その下に、いつもは着ないアンダーシャツがあって。
 それも脱いで自分の肩越しに、宍戸は自身の背面へと視線をやる。
 跡部が立ち上がって回り込み、無造作に宍戸の背中を見た。
「…………ちょ…、…おい、」
 舌打ちした跡部がいきなり隣のロッカー室へ飛び出ていって宍戸はぎょっとする。
「跡部、」
 つられて自らも部屋の外へと足を踏み出した宍戸は、鳳の胸倉を掴んでいる跡部に唖然とする。
「何の真似だ。お前」
 あいつをぶっ潰す気なのかと鳳を低く恫喝する跡部は相当腹をたてているようで、言うだけ言うと手荒に鳳を突き放した。
 他のレギュラー陣の姿はなかった。
 跡部はまるで、鳳だけがそこにいると、知っていたかのようだった。
 張り詰めた緊張感の中。
 何か声を発するのが憚られるような静寂の中。
 されるがままだった鳳の目線が動く。
 跡部から宍戸へと移ってくる。
「………………」
 ほんの数日ぶりかにまともに目線を合わせたような気になった。
 鳳は宍戸を見て、ミーティングルームで上着を脱いでいるとは思わなかったのか、大きく目を見張った。
「………………」
 宍戸も動けなくなり、ただ鳳を見返すだけだ。
「あいつの背中、お前だろ。鳳」
「背中…?」
 馬鹿、と宍戸が跡部に向けて叫ぶ前に。
 鳳が宍戸の元へ足早に歩み寄ってきた。
 跡部は後は勝手にしろと言い捨てて出て行った。
「………………」
 そうしているうちにもう。
 鳳は強張った顔で宍戸の前に立っていた。
 まるで躊躇うように。
 どこかぎこちなく、鳳は腕を伸ばしてきて。
「………………」
 宍戸の肩を掴んだ。
 そのまま引かれ、宍戸の右肩が鳳のジャージの胸元に当たる。
 自分の頭上で鳳に見られているのを感じて宍戸は息を詰めた。
 それよりもっとはっきりと、鳳が息を飲んだ気配が伝わってくる。
「………、…」
「………………」
 実際そこに痛みがないのは本当で。
 だからこそあまりの派手な痣に驚いたのは宍戸自身だった。
 宍戸の背中、肩甲骨に。
 千切られた羽跡のように青い痣を。
 生々しい血の色のように赤い痣を。
 残したそれは、鳳に裏門の門扉に背を打ち付けられた時の名残だ。
「………宍戸さん」
「……見た目だけ無駄に派手なだけだ」
 鳳の声音があまりに胸に痛くて、宍戸は力ない声で、言葉を選ぶ。
 鳳の、そんな声が聞きたいんじゃない。
 生真面目で、気の良い、真摯で、優しい男だから。
 誰より、宍戸につく傷を気にする男だったから。
 こんなもので責める気はなかった。
「………………」
 そっと鳳の胸を押し返す。
 鳳が、よりにもよって自分に似た相手を選んだ事を、今でもどう、受け止めていいのか判らないけれど。
 鳳が宍戸を切り捨てられないなら。
 宍戸から。
 今まで創ってしまったお互いのこの関係を、単なる友人であるように、戻す方法がある筈で。
 本当は、もっとうまく。
 もっと自然に。
「………………」
 でもはっきりと。
 言葉で終わりにするのは宍戸だって怖かった。
 宍戸の方が、怖かったのだ。
「……宍戸さん」
「………………」
 鳳の胸元に当てていた手のひらを逆に握り込まれる。
 震えるような長い指の感触に宍戸が顔を上げるより先に、宍戸は鳳によってミーティングルームに押し込まれた。
 鳳は後ろ手で施錠し、その音と同時に、密室で膝をついた。
 宍戸の前に。
「………長…太郎、?」
 震えているような両手が宍戸の腰を抱きこんで、薄い腹部に額を押し当て、しがみつくような強い力を込めてきた。
 そんな鳳の、色素の薄い髪の色合いを腹部に落とし見て。
 宍戸は掠れた声で呼びかける。
 自分の前で膝をついて、こうべを垂れて、逃げられたくないと懇願する力で縋りついてくる鳳を。
 問いたい思いがあると思ったが、思う側から言葉にならず、宍戸はただ愕然と見下ろした。
「…………、だ…」
「………………」
「好きだ……!」
 慟哭のように鳳は呻き、言葉を迸らせる。
「もう、絶対あんな真似しないから…!」
「長太郎…?」
「乱暴な事しない。あなたに、あんな傷つけたり、力づくで言うこと聞かせようとしたり、しない。脅したりも、しないから……だから」
 切願してくる鳳の震えは泣いているのかと危ぶむ程で、宍戸はその広い背中に手を置いた。
「…………っ……」
 乱暴をされた覚えはない。
 傷つけられた覚えも、力づくで言う事を聞かされそうになった覚えも、脅された覚えも、ない。
 何を言っているのかと怪訝に思う宍戸の唇から、しかし漏れた言葉は。
 自分自身、まるで予測していなかった、結局は限界まで追い詰められていた宍戸の心情の脆さを吐露するような言葉だった。
「………お前が…捨てたくせに」
「…………宍戸さ…?…」
「俺を、お前が…捨てたくせに」
 それなのに、何言って、と。
 もう声にならず、唇の形だけで言う。
 ただ相手を責めるだけの言葉。
 結局これだったのかと宍戸は思った。
 平気な振りをし続けた自分が、絶対に言いたくなくて、絶対に隠したかった、本当の事。
「宍戸さん…」
 何言ってるんですか、と鳳もまた、声にならない声で同じことを口にする。
 膝をついたまま顔を上げた鳳の頬に、宍戸は水滴を落とした。
 宍戸の目から零れたそれは、鳳の頬を伝って、気化した。
「…………、」
「……っ………ン…」
 宍戸からのそれを頬に受けた鳳の目が、きつく眇められ。
 宍戸は引きずりおろされるように頭を下からかき抱かれた。
 唇が合わせられる。
 舌が強く絡まる。
 互いの髪を握り締め、頭部を抱き込んで、尚口付けあった。
 生々しく呼吸が乱れ、唇が滲むように濡れた。
 ギリギリまで口付けを引き伸ばす。
 息も、もう儘ならなくなるまでキスだけをずっと。
「……どうしてそんな、」
「…………っ…、……」
 そう言いかけ、すぐに、言葉だけを使うのがもどかしいように、鳳が、ふっつりと声を途切れさせる。
 苛立ったように立ち上がり、鳳は大きなミーティング用テーブルの上に宍戸の身体を倒した。
 着衣を乱しながら、キスを繰り返しながら、その合間で鳳は宍戸への問いかけの続きを口にする。
「捨てたって何です」
「……、…ァ…」
「宍戸さん」
 鳳の荒い息にくらくらして、煽られて同じようない気遣いになっている自分にも眩暈がする。
 宍戸はもう、ただどうしようもなく鳳にがっつかれている自身の身体を、体感しながら全て鳳の目の前に晒すしか出来なくなる。
「…、…女…、…」
「…………女?」
 喉を噛まれる。
 痛みよりも鋭く、確かな甘みでもって脳裏に突き刺さってくる刺激に、宍戸は肩を喘がせる。
「つきあ……て……る、だ……ろ……」
 だから、と声を振り絞った宍戸に、鳳が全てかき消すように矢継ぎ早に言う。
「女? 付き合う? 誰がですか」
「……おまえに…決ま、…」
「宍戸さんが好きなんですよ俺は…!」
 一層耐えかねたような声で怒鳴られ、胸元に噛みつくように吸い付かれ、勢いのまま下肢を露にされる。
 こんな場所でまさかと宍戸が思っているうちに、鳳は自身の長い指を二本、宍戸の目の前で口に含んだ。
「…………ッ…」
 こんな荒いだ、雄めいた鳳を宍戸は知らない。
 そのまま、鳳のその指に。
 深く体内を抉られ、宍戸は声を詰まらせた。
 音でもしそうに押し込まれた節のある長い指の。
 生々しい感触に、何度も何度も腰が震えた。
「く……ぅ…っ…、…っ」
 我慢できない痛みではなかったが、激情につられるようにして眦に滲んだ宍戸の涙を唇で吸い取り、鳳は深々と埋めた指で宍戸の内部を探り出す。
「……っは…、…ァ…、っ」
「酷い事…してばっかりだけど…」
「…ぅ……、ぅ……っ…ふ、ぁ、」
 目元に、こめかみに、唇の端に、頬に。
 降るようなキスが繰り返される。
「宍戸さんが好きで、…好きで、…もう本当に、それだけなんだ。…俺は…」
「………長…太郎……?…」
 熱の迸るような囁きも浴びせかけられて、宍戸は必死に、切れ切れになる息をかき集めた。
「付き合ってるって……もしかして髪が長い子?」
「………、…」
「昔の宍戸さんに似てる子の事?」
 鳳の口調は、ふと思い当たった事を口にしながらも、合点がいったというよりは一層苦しげなものになっていく。
 それならどうして判らないんですかと。
 鳳は宍戸の唇にキスを繰り返しながら呻いた。
「髪の長かった頃の宍戸さんと、まるで同じ髪型にして」
「………ぁ、っァ」
「転入してきてから殆ど毎日テニス部の練習見にきてて。……それで、どうして? 彼女が宍戸さんの事を好きなのは、すぐ判る事じゃないですか」
 それでそうして俺となんて考えるんですと鳳は力を入れながら宍戸の体内から指先を引き出してきた。
「……ひ…っ…ぁ」
「…彼女が、転入してくる前から宍戸さんの事を知っていて。大会で見かけて、同じ髪型にするくらい宍戸さんの事を好きで。そういう事が、俺にはすぐに判ったから」
 だから、と鳳は宍戸の髪を撫で付けるようにかきあげた。
 そのまま手のひらの中に宍戸の顔を封じ込めるように包んで。
 耐えかねたような声で鳳は吐き出す。
「あなたに近づけたくなかった」
「………………」
「会わせたくなかった」
「長太郎……」
「それしか考えてない…!」
 ぶつけられた鳳の嫉妬は。
 宍戸に、存分に、甘かった。
「………………」
 鳳が不安になる要素が、いったいどこにあるのか。
 宍戸にはさっぱり判らなかったけれど。
「……まぎらわし…んだよ…オマエ…」
 泣き笑いの顔で言ってやれば。
 鳳は笑いもせず、餓えた男の顔で、好きだと繰り返し言った。
 何度も何度も繰り返し言った。
 そうやって浴びせかけられる言葉に打たれて、宍戸は鳳の背を抱き寄せる。
「……………宍戸さん…」
「……ッァ…、っ…ぅ」
 ぐいっと身体の中を強く通されたものの刺激に宍戸は仰け反った。
 鳳の腰が宍戸を深く拓いてくる。
「く……ん…、っ、…ぁ…っぁ…」
 宍戸の両足はテーブルの縁からは落ちているが、床につく事は無かった。
 すんなりと伸びた腿から痙攣を繰り返し、爪先が宙で跳ね上がる。
 両足の挟間には鳳の腰を挟んでいて、テーブルへと押し戻されるように幾度も突き上げられた。
「…っぁ…ア、…っ…」
「……宍戸さん」
「ぅ……、…っ、ン、っ…」
「離れないで…」
 こんなんで。
 いったいどうやって離れるのか。
 どうやれば、いったいどこが、どこから、離れられるというのか。
 宍戸は鳳の首にしがみついた。
 ここの声が外に漏れないのは知っているが、この後自分がどうなるのか判らなくてきつく唇を噛む。
 そんな宍戸を鳳の声が駄目にする。
「……好きだ」
「………、ふ、っ…ぁ、っ」
「宍戸さん」
「…、ぅ、ァ、っ、」
 耳の縁を噛むようにされながら、溶け出しそうな熱い息と言葉がぶつかってくる。
 身体のそこらじゅうで、爆ぜた感触がした。
「……………、…!…」
 開ききった咽喉から迸らせた筈の声は完全なる無声。
 大きく目を見開いている筈の宍戸の視界には、何も見えていなかった。






 何度も髪を撫でられているうち、次第、正常な呼吸を思い出していくように。
 宍戸は身体を弛緩させていった。
 睫毛もひどく重たいような気分で瞬けば、漸くお互いの視線が絡まった。
「宍戸さん」
「……………」
 それもつかの間、鳳の長い腕に、宍戸はきつく抱き締められる。
 鳳の胸に抱きこまれ、再び宍戸の視界は暗くなる。
 先程と違うのはそれでも宍戸に意識があることで。
 宍戸は無意識にだるい腕を持ち上げ鳳の髪へと指先を沈ませた。
「……どこか辛くは…?」
 真摯に気遣う鳳の声に宍戸は首を振る。
「いや……」
「すみませんでした。無茶…しました」
 痛ましげに触れてくる鳳の指先が辿っているのは宍戸の背中の跡である。
 しかし気がかりは何もそこだけではないようで。
 苦渋の滲む鳳の声に宍戸は本心から言った。
「……たいしたことねーって…」
 ふうっと息を吐いて、宍戸は自分の肩口に顔を埋めていた鳳の顔を上げさせた。
 視線が噛み合うと鳳の双瞳が引き絞られる。
「………宍戸さん」
「……もうそういう顔すんなって」
 もういいなんて二度と言わねえよと鳳へと囁くように宍戸は口にした。
 これが鳳を激情させる言葉だったことは二度と忘れない。
 傷つけ、追い詰める言葉だという事を。
 そしてもう二度と言わない。
「………お前さ…本当に彼女とお前が付き合ってるっていう噂知らなかったのか」
「知りませんそんな事」
 怒っているように真剣に鳳は言った。
 宍戸でさえ耳にしたあれだけの噂を、まさか当の鳳がまるで知らないでいたという事には正直宍戸も驚いたが。
「彼女は……俺の事も知ってたから。そういう意味で気安く話してたけど、言ってるのは皆あなたのことで」
「…………………」
「初めて見た時に、彼女が宍戸さんの事を好きなのは俺にはすぐに判ったし。…それでも、確かめたい気持ちもあって、最初に話しかけたのは確かに俺ですけど。あれだけ宍戸さんの話しかしてないのに付き合ってるなんて噂がたってるなんて思いもしなかった」
「長太郎…」 
「テニスにも詳しかったし。ミーハーな所がなくて、本当に、ちゃんと、宍戸さんが好きだって。そういうのを聞いて、絶対に宍戸さんと接点持たせたくないって思ったんです」
「…………………」
「俺は……宍戸さんの事しか考えてない。どうしても、あなたをとられたくない。それだけだ」
「………馬鹿か。誰が俺を取るってんだ」
 鳳は微かに笑って首を横に振る。
「宍戸さん」
「………………」
 丁寧で優しいやり方で抱き締められ、二人でほっと息をついくような瞬間を共有してから。
「……そういや……着替え…」
「宍戸さんは出ないで」
 俺が悪いんですからと宍戸を宥めるような声で鳳は微苦笑する。
「俺が取ってきます。ここにいて下さい」
 扉を開ければすぐにロッカー室だ。
 暴走を認めているのは何も鳳だけではない。
 宍戸も相当な羞恥心を抱えながら、扉の向こう側の事を考えると頭が痛かった。
「でもよ…長太郎」
 どうせなら一緒に、と腹をくくった宍戸に軽くキスをして。
 ここにいて下さいと鳳は言った。
「見られたくないんです」
「………いつもさんざ見てるだろうが」
 ほぼ毎日ここで着替えをしているのだから今更な話だと宍戸は思うが、鳳は譲らなかった。
 もう一度両腕で抱き締められ、宍戸はミーティングルームに残される。
「………………」
 鳳の背を見送り、宍戸は椅子に座ったまま件のテーブルを気恥ずかしいとも気まずいともつかない思い出見つめた。
 鳳の行動はつくづく紛らわしいものだった。
 それと同時に、結局事がここまでこじれた原因は、やはり自分の抱えた嫉妬心のせいでもあると宍戸は認めない訳にいかなかった。
「………激ダサ」
 溜息と共に吐き出す。
 良いけど。
 どうでも、ではなくて。
 それでも。
「……それでもいいさ」
 それだけ、好きだった。
 鳳のように言葉を尽くして伝える事は出来ないけれど。
 不慣れで不恰好な嫉妬を、誤魔化さずにそうと認めてしまえるくらいに、宍戸だって好きだった。
 一つ年下の、あの男の事が。
「宍戸さん」
「……………」
 扉が開いて、戻ってきた鳳の顔に一瞬眩しいように目を細め、宍戸は深く息をつく。
「……なんか言われたか」
「いえ…誰もいません。代わりにこれ」
 鳳に手渡された紙片を受け取った宍戸は、そこに書かれている文字を目で追って、思わず口にもし、ゆるやかに日常へと戻っていくのを感じた。
「部屋は隅々まで完璧に片付けておけ」
「……部長の字ですね」
 赤くなるしかないような気持ちでお互いを見つめた。
「あの。宍戸さん。裏に」
「…裏?」
「はい。ジロー先輩の字かと思うんですが、それはどういう?」
 言われるまま宍戸は紙片を裏返した。
 書かれていたのは更に短い一文だった。
 確かにジローの字で。
「………………俺の涙を返せー!……か」
 呟いて、宍戸は、笑う。
 ゆっくりと。






 制服に着替えて、部室の掃除をした。
 荷物を持って、肩を並べて帰途につく。
 どれくらいぶりだろうかと、何度なく鳳を振り仰ぐ宍戸を、同じ回数、鳳もじっと見つめてくる。
 何度も目が合って。
 言葉を交わす訳ではないけれど、その都度甘く胸が詰まった。
 いつも別れる道で。
 いつものように気楽に手が振れなくて。
 それどころか宍戸の手は鳳の手に包まれ指先に熱のこもった口付けを受けていた。
「………………」
 長い睫毛を伏せて宍戸の手に口づける鳳を見上げながら、もう少しだけ一緒にいたいと宍戸も思う。
「長太郎。コンビニ付き合え」
 ムースポッキーをあるだけ全部買う。
 友人のあの時の涙の代償に見合うだけ。




 この男と。

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