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How did you feel at your first kiss?
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 海堂は手紙を出した。
 手紙と言ってもそれは一枚のポストカードで、綴った文面も極めて端的なものだ。
 最初、それは長いこと。
 海堂はポストカードの紙の白さを見つめていた。
 用件は決まっているのに何も文字が書けなかったのだ。
 言葉が思い浮かばない。
 見つめすぎた紙の白さにしまいには眩暈がしそうで、海堂は一度その手紙の事を諦めかけた。
 しかし性分というべきか、きっぱり諦めるのはどうにも癪でいた折、たまたま立ち寄った近所の文具店で、黒いポストカードを目にした。
 そして白い色鉛筆、衝動的に買ったそれらで。
 あれほど滞っていた手は楽に動いた。
 日にちと、時間と、そしてその日のその時間に海堂が行くつもりでいる店の名前。
 最寄りの駅。
 走り書きの地図。
 それらを海堂は几帳面に書き綴った。
 結局文章らしきものは何も書けなかったが、それで構わない気がしていた。
 カードを返し、表書きには、彼の住所と、名前の、宛名を。
 自分の名前は書かなかった。
 多分彼は判るだろうから。
 切手も買った。
 真っ直ぐに、左隅に、蝶の絵の青い切手を貼った。
 そうして数日かけた簡素な手紙は、通学途中のポストに投函した。
 ポストへと落とした時には、かさりと小さな音がした。
 散った落ち葉を踏みしめたような音がした。
 今の季節が生んだ音を奏でて、そうして海堂は乾への手紙を出したのだった。








 三年生は、夏を経て部を引退した。
 彼らの姿を部内で見なくなって一月が過ぎた。
 最後の夏。
 海堂は自主トレでも乾といることが多かった。
 そして今も時々、自主トレを一緒にする事がある。
 これまでに、海堂が乾から教わった事は無数だ。
 部内では会わなくなったけれど、時々は一緒に走りこんだり、打ち合ったりしている。
 これから教わっていく事も多いのだろう。
 ただどこか予感めいたものではあったが、海堂はそう思っている。
 乾がこれまでに海堂にくれた淡々とした助けと、真摯な忠告と。
 見抜かれすぎてしまう事に躊躇はあるけれど、理解されている安心感に躊躇いはない。
 乾の緻密な計画や思考は、しかし決して海堂を管理する事はなかった。
 支配もしなかった。
 乾はただ、やるべきことをやり、抑えるべきところを抑えたら、あとは海堂の好きにしていいと、圧倒的な寛容さで抱擁してきたのだ。
 そして、それならば自分には何が出来るのだろうかと海堂は考える。
 乾が自分にしてくれた事の、そのうちのどれだけかでも。
 自分は返せるのだろうかと考える。
 いざ乾との一番深かった接点がなくなってから後、海堂は、そのことを考え続けていた。
 そして決めた事は、ただ予感で、ただ自分が漠然と、思っているだけではなくて。
 これからのこと。
 自分が乾に伝えたいこと。
 返したいこと。
 望んでいることを。
 示す心づもりを表したかった。
 海堂が、そんな風に思った事はこれまで一度もなかったのだ。
 誰かに自分の事を伝えようとした事がなかった。
 人は人で、自分は自分で、その考えは変わらないけれど。
 察しのいい理知的な相手に、甘えきって頼りきって、何もしないでいていい筈がない。
 今が全てで、今ばかりを見てしまう海堂に、今の後、その先行きの見方を、教えてくれたのは乾だ。
 乾が見ているものを、以前の自分であったら見ることは叶わなかった。
 共に練習して、意思を伝え交わして、ダブルスを組んだから、出来るようになった事だ。
 乾は海堂に未来の見方を教えてくれた。
 だから海堂は乾にそのことを伝えたい。














 

 河川敷、さらさらと。
 草が風に棚引く音はしても川の水は音もたてずに流れて静かだ。
 繰り返し繰り返し、水面に浸した手拭を振った河原と、この川は繋がっている。
 川と、草と、石と。
 他に何もない河原に、無造作に位置する佇まい。
 小屋だ。
 そしてガーデンファニチャー、日差しよけのパラソル。
 くすんだ白い外壁、水の匂い。
 パイプとウッドのガーデンチェアーに座って、何の変哲もないただひたすらにのどかな川の水面を海堂が見ていた。
 バンダナを外した。
 風が髪の合間を通っていく。
 軽く頭を揺すった海堂は視界の端に待ち人を見つけた。
 背の高い、男。
「海堂」
「………っす」
「よかった。居て」
 まず、そう言って乾は現れた。
 乾は私服だった。
 ジーンズから出したままの生成りのシャツの裾が川からの風にはためいていた。
 海堂も学校から一度帰宅して、着替えてランニングをしてくるだけの時間の余裕があった。
 乾の状況が判らなかったのだが、この分だと急がせた事にはならなくて済んだらしい。
 海堂は密やかにほっとした。
 乾は海堂の隣に座った。
 川が見られるように、椅子の向きはどれも同一方向なのだ。
 長い脚を持て余しがちに広げて僅かに前屈む。
 海堂を覗き込むように乾は見てきた。
「手紙な」
「………………」
「これ、字は間違いなく海堂なんだ。それは勿論判ったんだが、またどうして手紙?」
 海堂の手紙を持った手を軽く顔の前に翳し、問いかける乾はどことなく楽しそうだ。
 そして嬉しそうだ。
 海堂は低い声で言った。
「あんた、メールの返事早すぎんだよ」
「早いとまずいか?」
「余計に忙しくさせてんじゃないかって気が気じゃない」
「忙しい時は、普通返事出来ないものじゃないかな」
「忙しくて返事をするから言ってる」
 だから手紙にしたと海堂は言った。
 現に乾は、それほどまめでない海堂が稀に出したメールへのレスポンスが異様に早いのだ。
 だいたい乾という男が、暇を持て余しているという姿を海堂は見たことがない。
 それなのに、海堂が一言何かを言えばたちどころに懸かりきりになるから悪いのだ。
 手紙ならばいつ乾の元へ届いたのか時間で表す事が出来ないからそうした。
 用件をかかなかったのはわざとだ。
 文字で伝えられるのならそれこそメール一通で済む話だからだ。
「いいところだな……」
「………………」
 そして海堂にとって乾との会話が、深呼吸をするように楽な訳は、こういう所にある。
 物事を追求するのが好きなくせに、こと海堂相手だと、乾はこんな風に海堂を逃してくれるからだ。
 眼差しを一度川の向こう岸に向けてから。
 ゆっくりと乾の視線は海堂へと戻ってくる。
「一人で来るのか?」
 海堂は黙ったまま頷いた。
 誰かと来た事はない。
 ランニングのさなか偶然見つけた場所なのだ。 
 海堂は現れた店主に料理を数品オーダーした。
 乾は何の変哲もない水面をぼんやり見ている。
 退屈とは違う、寛ぐ和らいだ気配がした。 
「静かなところで、ちゃんと、メシ食って」
「…ん?」
「それで、その間くらいは」
 海堂も川の水を見据えながら呟く。
「あれこれいろいろと考えまくったりしないで、ぼーっとしてたっていいと思うんですけど」
「………………」
「ちょっとくらい、そういう時間があってもいいんじゃねえの…」
 はっきりと言葉にはし辛い。
 うまく説明は出来ない。
 ただ何となく、最近乾の様子が大分疲れているように海堂には思えていた。
 それで自分に何が出来るのか、相変わらず判らないままだけれど。
「海堂には俺が、ちょっといっぱいいっぱいに見える?」
 乾がそんな風に聞いてきたので、海堂は頷いて返した。
乾が声もなく笑みを零す。
「そっか……参ったな……」
 何故そこで乾が笑うのか海堂には判らないが、そこで運ばれてきた料理に、食べようかと乾が言ってきたので頷いた。
 トマトクリームのフェトチーネの皿と、オリーブの器。
「これオリーブか…?」
 ふっくらとつややかで、透ける翡翠の色をしたオリーブは、見目からして自分の知るオリーブとはもう明らかに違うと乾が言い、口にしてその驚愕が更に膨れ上がったらしい表情を目にした海堂も微かに笑った。
「何だこれ……うまいな、これがオリーブなら、俺が今まで食ってたのはいったい何だったんだ」
「………………」
 最初に食べた時に海堂が思ったままの言葉を乾も口にした。
「……うわ、こっちもうまい。噛むとちゃんと小麦粉の味がする」
 乾の言葉を聞きながら、海堂も同じ物を口に入れた。
 奥歯で噛み締めると歯ごたえのあるフェトチーネの、小麦粉の香りが舌にとけこんでくる。
 川の水の気配を身近に感じながら、無数の静かな音のする空間で同じ皿からパスタとオリーブを食べた。
 何を話すでもなく過ごしているのに、食べてる途中で乾が海堂を流し見て唇の端を引き上げてきた。
「……参ったな。浮かれて、ちょっと俺まずいわ」
「………………」
 どういう意味か海堂にはよく判らないのだけれど。
 乾が寛いで笑うので、それはそれでいいのだと海堂は思った。
 異変というほど大袈裟なものではなかったが、乾が普段よりも疲れているようだったのが、まるで海堂の杞憂になるように変わっていくので。
「乾先輩」
「ん…?」
「ここの店、来月いっぱいで営業一時終了して、半年休みになるんですけど…」
「ああ……立地条件の関係かな? ということは四月から十一月までの既刊限定営業なんだ」
 海堂は頷いた。
 息を吸い込む。
 必要な言葉に、必要な量だけ。
 背を伸ばした。
 そしてまっすぐ乾を見据えた。
「いろいろ、ありがとうございました。乾先輩。俺はあんたに感謝してる」
 頭を下げる。
「お…?……おいおい…海堂…?」
「続きがあるんで黙ってて下さい」
 そして海堂は頭を上げた。
 何故かひどく慌てている乾に怪訝に目を瞠りつつ、海堂は続きも口にする。
「ありがとうございました。今後もよろしくお願いします」
 真摯に告げて、深く頭を下げた後、再度顔を上げた海堂は、これまで見た事のない乾を目の当たりにした。
「おまえ、……おまえな…ぁ……焦らせるなよ!」
「何であんたが焦るんですか」
 乾の結構な剣幕に眉根を寄せる。
 海堂にしてみれば最大級に誠意を尽くして乾に感謝を告げたというのに、逆に声を荒げられたのだから堪らない。
 しかし乾が引き攣ったような真顔で叫んだ言葉が。
「三行半かと思うだろ!」
 これだったもので。
「………………」
 呆気にとられた後、海堂は吹き出した。
 俯いて肩を震わせる。
 三行半って。
 いったいどこをどう酌んだらそんな話になるのだ。
 だいたいこうも慌てた乾など海堂は初めて見た。
「………海堂。笑いすぎだ」
「………、……」
 呻くような乾の声にますます笑いが噛み殺せなくなった海堂は、こんな風に笑っている自分を不思議に思いながら、乾を見つめた。
「来年の四月は奢って下さい」
「海堂?」
「今日は俺が払います」
 だから来年は、と繰り返した海堂に。
 乾が驚きを隠せないでいる表情を浮かべる訳は、海堂にも判っていた。
 今でないこと、遠い先の他愛もない約束を、海堂がまるでねだる様に乾に告げた事は、今この瞬間が初めてなのだ。
 誰かと、いつかまだ判らない日のことを、約束する。
 海堂は今初めてそれをした。
「構わないっすか」
「よろしくお願いします」
 それこそ信じられないほど生真面目に乾が深々と頭を下げるのがおかしかった。
「今度は俺が手紙を出すか」
「……別にメールでいいっす」
「手紙、嬉しかった」
「………………」
「嬉しかったよ、手紙自体もらうのが久々だし、まして海堂からだから余計にな。受験のお守りにしようかと」
「……そういう効果あるわけねえって…」
「じゃあ宝物にしよう」
 宝物にするよと臆面もなく言い切った乾の笑顔に、気恥ずかしさと共に海堂は思う。
 来春、自分の手元に届くであろう宝物。
 気持ちは言葉に含ませる事が出来る。
 そんな言葉を運ぶ手段は幾つもある。
 でも、今の自分達と、半年後の自分達の気持ちに一番見合うのは、きっと、直接的な睦言を並べなくても。
 恋文となり、艶書となる、思いの丈の羅列だ。
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