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How did you feel at your first kiss?
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 桜を散らした強い風に髪を乱される。
 伸びかけの髪は、昨年の春頃の長さにはまだ到底及ばないが、それでも目元や項をくすぐる程には伸びた。
 強い風の瞬間目を閉じた宍戸が、視界を遮る桜の花びらに手を翳しながらゆっくりと目を開けていくと、隣に並んで歩いていた男の姿が視界から消えていた。
「…長太郎?」
 呼びかけて振り返れば、背後で立ち止まっていた鳳が、離れた所で同じように桜と風に吹かれながら澄んだ目を細めて宍戸を見つめてきていた。
 淡い花の色に溶け込むような色素の薄い瞳に、痛みのような光をひとしずく落としている。
「来いよ」
「………………」
 手のひらを上向きにして片手を差し伸べると、鳳は長い足でほんの二歩、それだけでお互いの距離はすぐに縮まった。
「どうしたよ?」
「……うまく説明出来ない、です」
 鳳は苦笑いを浮かべていた。
 宍戸と肩を並べ、歩き出しながら、少し憂いだ眼を宍戸に向けてくる。
「高等部の制服に違和感ってやつ?」
 まあ俺もまだ慣れねえけど、と宍戸は呟いて首元に手をやった。
 この春からの真新しい制服。
 その肌触りや着心地は、氷帝の拘りの素材で作られていているものであるのに、どうにもまだ慣れない面もあり、宍戸はカッターシャツの前釦をひとつ外した。
 窮屈というわけではないのだが、まだ新しい物のせいだろうか。
 こうしてふたつ釦を外してなんとなくほっと息をつく。
「宍戸さん」
「あ?」
「学校にいる間は、そういうふうに釦外さないで下さいね」
 今は、いいですけど、と些か歯切れの悪い鳳に進言される。
 宍戸は溜息をついた。
「上の奴らみたいなこと言うんじゃねえよ。お前」
「……言われたんですか?」
「あー…、まあ、」
 宍戸自身も自覚している事なのだが、口調の荒さや目つきの悪さのせいで、宍戸は環境が変わると大概身の回りが騒がしくなるのだ。
 それは教師や上級生からの苦言や呼び出しが主で、そこに面識のない同級生からのものも時折加わる。
 宍戸は別段喧嘩っ早い訳ではないのだが、見目はどうにもその類と思われやすいのだ。
 テニスがあるから無駄に揉め事など起こしたくないというのに、いろいろと面倒事が多くて仕方ない。
「目つきが悪いのもガラが悪いのも、元からだっつーの」
「宍戸さん」
「何だよ?」
「俺、今までにも言ったと思うんですけど」
 まだ背が伸びるのか、一つ年下の鳳を見上げる角度にまた差がついて。
 宍戸は眉根を少し寄せて更に問い返す。
「何だよ」
「そういうのはみんな、宍戸さんに興味があるからだって事、ちゃんと判ってて」
「何だそれ?」
 やさしい話し方をする甘い声が、沈みつつ強い響きで断言する。
 宍戸は風と桜に手を翳しながら鳳を見上げた。
 鳳は宍戸を見下ろしてきていたので、目と目が合って。
 自然と同時に足が止まる。
「綺麗なんです。宍戸さんは。だからみんな、宍戸さんの事が気にかかる」
「……あのなぁ」
 何を真顔で言うのかと宍戸が溜息をついても鳳は憮然としたまま真剣な目で言った。
「強い人は綺麗なんだって、宍戸さんで知るからだと思う。俺もそうだから」
「長太郎、お前な…」
 そんなこと思うのはお前くらいだと混ぜ返しても、普段従順な後輩が頑として首を縦に振らなかった。
 結局そんな埒の明かない会話は鳳の家につくまで続いて。
 今日は鳳の家に寄る約束で待ち合わせをして帰ってきたわけだから、宍戸もそのまま鳳の後についたのだが。
 部屋に入るなり、壁に背中を押さえつけられ唇を塞がれた。
 無理強いするような強引さでは決してなかったが、キスは最初から深かった。
「………、……」
 指が、震える。
 鳳の肩に取り縋っている自分の指先が震えているのを、宍戸は見ずとも感じていた。
 深いキスは深いまま長く続いた。
 何もかも封じ込めるように強く塞がれて、粘膜を舌で探られて。
 ひくりと震えた身体を抱きしめられる。
 膝が不安定に揺らぎ、それを支えるように宍戸の後ろ首を鷲づかみにしてくる鳳の手のひらの大きさに、宍戸は少し戸惑う。
 こんなに大きな手のひらだっただろうか。
 唇を貪られるだけ貪られて散り際の桜の花びらのように意識が乱れる。
「…長太郎、……」
 貪婪なキスは宍戸の言葉も乱していて、誰よりも口にする事の慣れている筈の名前が紡ぎきれない。
 日常のあらゆる行動が穏やかな鳳の、彼自身が制御しきれないというような酷く余裕のない様子は、ほんの少しも宍戸を不安にはさせなかった。
 飽く事無くキスを繰り返され、それはこの部屋に入ってからずっと。
 一時も止む事無く、壁に追い詰められて、座り込んでもされていたキスは。
 宍戸に恋情を詰め込んでくるだけだ。
 宍戸は貪欲に受け止め続けているだけだ。
「……宍戸さん」
 濡れた唇から吐き出される、少し掠れた声。
 宍戸は呼吸を弾ませながら鳳の髪を後頭部に向けて丁寧に撫で付けた。
「宍戸、…さん……」
「…………、…ん」
 正面からまた噛み付くように唇を啄ばまれて、宍戸は自ら薄く唇をひらいて鳳の舌を迎え入れながら、鳳の髪をそっと撫で付けた。
 宍戸が氷帝の高等部に上がってから、鳳は少しだけ荒いでいる。
 ほんの少し態度に滲むそれは、乱暴ではなく焦燥だ。
 首筋を噛まれるように口づけてこられて、宍戸は自分からそこを与えるように喉元を鳳に差し出しながら、柔らかい髪を撫で続けた。
 こういう鳳に触れていると不思議な感情が生まれる。
 多分自身の仕草は彼を宥めているようであるだろうけれど。
 宍戸の本心は、自分らしくもないと思いながらも、別のところにあった。
 自分の甘えを、宍戸は自覚していた。
「……長太郎、お前…」
「………………」
「お前が、俺との事で、…起きたら一番嫌な事って何だよ…?」
「………そんなこと口に出すのも嫌です」
 鳳が放った言葉は、やはりいつになく余裕がない。
 春は、そんなに不安だろうか。
 宍戸は、自分はいつも不安だと内心で思いながら、腕の中で鳳を甘やかす素振りで、結局は自分が甘えていると知っている。
 一緒にいられる時間が減ること、環境が変わること、おそらくそんな事よりもっと、怖いことがお互いにある。
 鳳は、別れることが一番嫌なのだろう。
 宍戸もそれは嫌で、でも、それよりもっと嫌な事もある。
 だから鳳の頭を抱きかかえるようにして告げるのだ。
「俺は、お前が俺の事で後悔する事だよ」
「…宍戸さん?」
「お前が俺に飽きたり、嫌いになったりするほうが、まだいい」
 それだって決して望んでなどいないけれど。
「宍戸さん、何言ってるんですか」
 見たこともないほど不機嫌に、そして狼狽もした鳳を抱き寄せて。
「俺は、それよりお前が、これまで俺といた事や、した事を後悔したら、それが一番怖い」
 これまでを、今を、これからを、後悔されたくない。
 願いはそれだけだ。
「……何言ってるんですか、宍戸さん」
「………………」
「何でそんな有り得ない事、そんな顔して言うの?」
 鳳の声が苦しそうに聞こえて、宍戸は伏せていた目線を上げた。
 至近距離から見詰め合って、そっと尋ねる。
「……有り得ないのか?」
「当たり前でしょう…!」
「じゃあ、本当に、当たり前にしてくれ」
「宍戸さん」
「俺は、怖いから」
 怖いと。
 怖い物などなにもないと考えていたそれまでの自分とはまるで違うことを、伝える。
 たった一人にだけ思う事を。
「………宍戸さ、…」
「………………」
 今度は宍戸の方から、その唇を塞ぐ。
 壁から背を離し、鳳の唇を塞いだままのしかかるように鳳の上になる。
 鳳の上半身は動きに添って倒れ、床に仰向けになった。
 その体勢でひらりと、何かが宍戸の髪からか肩からか落ちる。
 それは桜の花びらが一枚。
「………………」
 宍戸は見下ろした。
 鳳は見上げた。
 桜。
 その薄い色の花びらを浴びていた時の宍戸を見ていた同じ目で、鳳は僅かに目を細め下から腕が伸ばされ。
 宍戸は鳳の胸元に抱き寄せられる。
 身体と身体が密着して、声は鼓動のように伝わってくる。
「俺がもし、宍戸さんのことで後悔するとしたら……それは俺が一番嫌な事を、阻止できなかった自分にだから」
「……長太郎…」
「ぜんぶ、必ず、当たり前です。宍戸さん。だからそんなこと怖がらないで」
「長太郎…」
 はっきりとした言葉で断言されて、それは宍戸が慣れ親しんだ優しい鳳の声音をより深く、強くしていた。
 宍戸はこの場所で息をつく。
「………お前が嫌で、怖いと思うような事、俺がするわけねえだろ…」
「宍戸さん…」
「だからお前も、考えなくていい。そういうの」
 身体を浮かせて、唇を重ねる。
 角度を変えてキスをして、贈り、贈られる、行き来するキスで身体を寄せて。
 紛れ込んだ一枚の桜の花びらが、今どこにあるのかは、判らなくなっていた。
 小さな不安も、恐らくはその程度のものであるように。
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 出迎えに出てきた鳳に、宍戸は右腕を突き出した。
 右手に持っているのは家から持ってきたエコバッグで中にはいっぱいに詰め込んだ蜜柑が入っている。
「土産」
「ありがとうございます!」
「ただの蜜柑だぜ? 大袈裟だなぁ…お前」
 鳳の満面の笑みは宍戸が面食らう程で、溜息混じりに言った宍戸に鳳は尚も笑う。
「大袈裟だなんて事ないですよ。宍戸さんからの頂き物ですから」
「そうかよ。ちょうど俺が家でて来る時に、田舎から宅配で届いたんだよ。親がお前んとこ持ってけってうるさくてよ」
「よろしく伝えて下さいね。本当に。ありがとうございます」
「だから大袈裟だっつーの」
 宍戸がいくら口調を素っ気無くしても、鳳の笑顔は変わらない。
 促されるまま、宍戸はエコバッグを受け取った鳳の後について彼の部屋に行く。
 相変わらず広い家だ。
 さすがにこれだけ訪れていれば迷うことはないけれど。
 扉を開けた鳳のすぐ後ろから、宍戸も鳳の部屋に最初の一歩を踏み入れて。
 まず聞かれる。
「何か飲みますか?」
「いや、いいよ」
「キスはしてもいいですか」
「……口調も変えないで何言ってんだお前は」
 部屋に入るなりそれだ。
 正式にはそれが理由ではないけれど、宍戸は呆れ混じりに溜息をつく。
 本当に鳳に言いたい事は。
「嫌っつった事ねえだろ」
 言うなり鳳は宍戸の肩に手を置いて屈んできた。
 最初から薄くひらいた唇が、高い位置から近づいてきて。
 重なる寸前、宍戸も唇をひらいた。
「………………」
 舌と舌とが触れる。
 やわらかい器官が密着して、お互い触れ合っているのは唇と舌だけなのに、ひどく近くに在る気がする。
 キスの長さは一呼吸分だ。
 小さく濡れた音でキスはほどけた。
「………、……ふ…」
「宍戸さん」
「……んだよ…」
 それでも乱れてしまう呼吸を誤魔化したくて、宍戸の口ぶりは愛想のないものだったにも関わらず。
 鳳は甘い視線を向けてきて、もう一度短く宍戸に口付けてきた。
 啄ばむ仕草で唇と、頬とに。
 それから肩に置いていた手で丁寧に宍戸の背中を抱き締めてから、名残惜しげに宍戸の首筋にも唇を寄せた。
「おいー……」
「痕はつけてない、です」
 我慢してます、と笑み交じりの鳳の宣言に。
 それでも口付けしやすいようにとでもいうような動きで自らの首筋を与えてしまう宍戸は鳳の髪を咎めるように軽くかきまぜた。
「月曜日の一時間目から体育って、宍戸さんのクラスの時間割ってすごいですよね」
「お前日曜日の度に、ほんとそれ言い続けたな」
「高等部行っても、宍戸さんの時間割下さいね」
「まだ当分先の話だろ」
「はい。だから予約ってことで」
「お前以外に欲しがる奴なんざいねえよ」
「いてもあげないで」
 肩越しにゆったりと笑んでみせて、鳳は宍戸の腕を引いた。
 家の中で手を繋いで歩くというのもどこか不思議な感触だ。
 それがこの馴染んだ手でもだ。
「………………」
 宍戸は鳳に促されるまま部屋の中央のラグマットの上に腰を下ろす。
 硝子のローテーブルの上に鳳は宍戸が手渡した蜜柑の入ったバッグを置いた。
 そして宍戸の向かい側に鳳も座り、中から蜜柑を数個取り出す。
 宍戸は鳳のその手を自らの手で止めた。
「宍戸さん?」
「食うんだろ」
「ええ……そのつもりで取りましたけど……あの?」
 不思議そうに首を僅かに傾けている鳳に構わず、宍戸は彼の手にあった二つの蜜柑を奪い取る。
 皮を剥く。
 果実へと差し込んだ親指と、人差し指とで。
 花びらのように蜜柑の皮をひらいていく宍戸の手元を鳳はじっと見つめていた。
 宍戸は皮を剥きながら言う。
「沁みるだろーが」
「え?」
「蜜柑だよ」
 手ぇ切れてんだろうが、と宍戸が軽く顎で指し示して初めて鳳は自らの手を見下ろした。
 その様子に宍戸は皮から引き剥がした丸い果実を更に一房ずつばらしていきながら呆れる。
「なんだよ。お前。気づいてなかったのか?」
「気づきませんよ、この程度の………宍戸さんはどうしてこんな小さい切り傷に気づくんですか」
 こんなですよ!と鳳が突きつけてきた人差し指は、骨ばっていてもすらりと長く、その指先にあるのは小さかろうが何だろうが紛う事なき切り傷だ。
 何を言ってるんだこいつはと宍戸は鳳を見つめ返して即答する。
「んなの、見りゃ判んだろ」
「………宍戸さんー…」
「お前、蜜柑って、まだ剥くのか皮」
 これでいいよな、と指先に摘んだ一房を鳳の口に入れる。
 でもそうやって口を封じられたせいか、尚更じっと鳳に見据えて来られて。
 宍戸は面倒くせえなあとぼやきながらも手元の蜜柑の皮を更に一つずつ剥いていく。
「宍戸さん」
「やってる。もう少し待ってろっての」
 もう、そうじゃなくて、と溜息とも詰りとも取れる一言を零した鳳が、テーブルの向こう側から身を乗り出してくる。
 手元に落ちた影に宍戸が視線を上げたのと唇が塞がれたのとは同時だった。
「………………」
 蜜柑の味がした。
 舌が、奪われる。
 音も、する。
 角度が変わって、粘膜が密着して。
「宍戸さん」
 キスがほどけて、宍戸はゆっくり瞬きする。
 両頬を包んでいる鳳の手のひらの片方に自ら顔を預けてから、宍戸は鳳の人差し指に唇を寄せた。
「沁みても知らねえぞ?」
 唇を笑みの形に引き上げて言った宍戸は、鳳に何だか呻くような声で名前を呼ばれた。
 テーブルを押しのけるようにした鳳に幾分乱暴に組み敷かれる。
 沁みても知らないとは言ったものの、鳳のその指を決して濡らさせたりはしないよう心に決めてから、宍戸は自身の喉元に口付けてきている鳳の頭にそっと手を伸ばした。
 宍戸のココアに勝手に角砂糖を放り入れた男は、不遜な笑みで宍戸を見下ろしてきた。
「テメェ……跡部、何の真似だ」
 瞬間は呆然と、すぐに目つきも口調も荒く宍戸は跡部を睨みつけた。
 放課後のサロンは混雑のピークを過ぎて人影も疎らだ。
 一見険悪そうな雰囲気にも人目は然程集まらない。
「へこんだ時は、普段飲まないような甘い飲物をオーダー。お前の行動パターンは変わんねえな」
「………………」
 整いすぎて怖いとまでいわれている顔に冷笑を浮かべ、跡部は宍戸の向かいの席に勝手に腰を下ろした。
 宍戸が学食で買ってきてこのサロンまで持ってきたココアは、まだ湯気をたちのぼらせたまま手付かずだった。
 勝手に人の行動パターンをよむ跡部自身にも腹が立ったが、よりにもよってと宍戸はココアのカップを見据えて呻いた。
「ココアに砂糖入れんじゃねえよ!」
「今月から甘みを減らさせた」
「あ?」
「ココアというからには、相応のカカオの味を前面に出せっつったんだよ。砂糖味のココアなんざ飲めるか」
「お前の好みでクレームつけてんじゃねえよ」
 跡部の言い草に呆れた宍戸は、しかしある意味跡部ならそれくらいは普通にするだろうと思い、憮然とした面持ちでカップに手を伸ばした。
 スプーンでひとまわししてから口をつけて、ひとくち飲んで。
「………………」
「どうよ? ワンパターン行動のお前の好みの味だろ」
「……うるせえよ」
 しっかりとしたカカオの濃い香り。
 跡部が勝手に放り込んできた角砂糖の分で、確かにちょうどいい、今宍戸が飲みたかった味がする。
 向かい合って座って同じような目の高さになっても、跡部は見下ろすような目をしてみせる。
 尊大で、そして。
 相変わらず濃やかに状況を理解している男だ。
 宍戸がひっそりと溜息をもらすと、跡部は腕組みをして椅子に寄りかかった。
「随分長引いてるじゃねえの」
「……知らねえよ」
 完全な個人主義のくせに、跡部は時々個々に直接手を差し伸べるような行動を起こす。
 本当に時々。
 ささいな事では口を出してこない男だから、いい加減目に余るのかもしれない。
 そう思うと宍戸も反発し辛くなる。
「放ってあるのか? それとも修正も効かねえのか?」
「さあな……」
 答えるなり宍戸は向こう脛をテーブルの下で蹴られた。
「痛ぇだろ!」
「知るか!」
 怒鳴りあって、口を噤んで。
 沈黙の後、結局宍戸は溜息だ。
 不機嫌そうな跡部もまた、席を立ちはしない。
「いい加減鬱陶しいんだよ。お前ら」
「悪かったな、鬱陶しくて」
「普段無駄にベタベタしやがってるから鬱陶しさが倍増すんだよ」
「別にベタベタなんざしてねえし」
 ただ。
 ここ数日は、確かに。
「……確かに、自分でも鬱陶しいとは思ってんだよ」
「鳳がか?」
「アホ。何で長太郎がだ」
「庇うくらいなら揉め事なんざ起こすな。バァカ」
 辛辣で遠慮ない物言いの跡部に、結局本人は不本意だろうが、心配をされている訳だ。
 宍戸は次第に反発する気もなくなって、ココアを一口ずつ飲みながら心情を吐露する。
「鬱陶しいのは俺だ。…ダセェ」
「痴話喧嘩だろうが。どうせ」
 跡部は腕を組んだまま唇の端を引き上げた。
「見当違いの嫉妬でもして、精々言わなくていい事でも言ったんだろ」
「……最初は」
「それでさすがに言われた方もきれて、派手に言い争ったまま険悪ムードって?」
「どこで見てたんだ、お前」
「見るまでもねえだろ」
 呆れた溜息を吐き出し跡部は説教じみた口調で宍戸に言った。
「鳳が、よそに目いく訳ねえだろ。俺様にはさっぱり判らねえが、お前以外に何の興味もねえようだしな。あいつは」
「あー…、…跡部。いっこ訂正しとくわ」
「ああ?」
 長く続きそうな話を遮って、宍戸はカップに口をつけながら、ちらりと上目に跡部を見やった。
「お前の予想はだいたい合ってっけど、逆だ」
「逆?」
 不審げに眉根を寄せた跡部に、宍戸は歯切れ悪く伝える。
「見当違いの……ってのが長太郎で。…きれたのが俺だ」
 秀麗な面立ちをあからさまに歪めた跡部に、宍戸は尚も告げる。
「……で、お前だ」
「俺だ?」
 頭のいい男は、一瞬怪訝そうにしたものの、すぐに全部を理解したらしい。
 宍戸の目の前で心底うんざりとした顔で怒り出した。
「俺とお前で何を考えるんだあの馬鹿は」
「俺だってそう言った」
 でも、判ってない、と鳳は宍戸の前で呻いたのだ。
 恋愛感情の話だけじゃないんです、と言って宍戸の肩を握りつぶしそうに強く掴んで、叫んだ。
「お前の言う通りだよな、跡部…」
「宍戸?」
「俺が、よそに目いくわけない。あいつ以外に何の興味もない」
 少しずつ冷めてきた甘い飲物を飲みながら、宍戸はぼんやりと呟いて。
 思い返せば、今こうして何日も口がきけなくなるくらい、あの時何を言い合ったのかと不思議になる。
「……ったく、どいつもこいつも」
「…跡部?」
 ふと耳に届いた呻き声に宍戸は顔を上げた。
 跡部が、取り繕った表情ではなく、判りやすい明け透けな顔で前髪をかきあげて嘆息している。
「人を勝手に当て馬にしやがって」
 不機嫌極まりないその様子に、宍戸も気をとられてしまう。
「跡部…お前」
「クソ生意気な二年ばっかじゃねえかよ」
「長太郎は生意気じゃねえだろ」
「この期に及んでまだ庇いたてするのかお前は」
 心底呆れた目を跡部から向けられて、さすがに宍戸も気恥ずかしく押し黙ってしまった。
 無意識のうちにだが、どれだけ揉めているさなかであっても、やはり鳳の事であれば宍戸は聞き流せないのだ。
「日吉の野郎も、勝手に人を当て馬にしやがるわ…」
「若?…って、もしかして、滝と、お前?」
 芯の強さと清楚な佇まいが共存している同級生、滝を名前で呼ぶのは跡部だけだ。
 しかしそれだけが原因ではないのだろう。
 宍戸は、自分と鳳との諍いで跡部の存在が出てきたときには判らなかった事が不意に見えてきて、納得した。
 跡部という男は、特別だ。
 力があり、存在感があり、一見暴君のようでいながら自らが認めた相手を大事にする時の懐の深さ。
 確かに恋愛感情があるかないかという話だけではない何かが跡部という男にはある。
「呆れて物も言えねえよ、ガキ共には」
「跡部……お前も、何つーか……大変だな」
「てめえが言うな」
 本気で嫌そうに吐き捨てた跡部は徐に席を立った。
「俺様はこの世で一番馬鹿な二年んとこに行くが。お前はどうするんだ、宍戸」
「ん、謝ってくるわ。長太郎に」
「バカ、謝らせろ。何でお前が謝るんだ」
「あいつが怒ってるからだよ。跡部も、あんまり神尾いじめんなよ」
「うるせえ」
 不貞腐れた言い方をする跡部が目新しく、宍戸は少し笑って立ち上がった。
 その名前の前だと、跡部も普段とは違う表情をみせる。
 テーブルを挟んで対峙した跡部に宍戸は駄目押しで言ってやった。
「神尾によろしくな」
「神尾神尾うるせえんだよ。宍戸、言っとくがてめえ必要以上にあいつに構うんじゃねえぞ」
「……お前も馬鹿だよなぁ」
「ああ?」
 掴みかかってきそうな跡部を笑いながらあしらって、じゃあなと後ろ手で宍戸は手を振った。
 じゃあな、と跡部からも返事がかえってくる。
 そしてお互い、向かうのだ。
 自分の足で、自分の意思で、一番行きたい場所、一番会いたい相手の元へ。
 道路の小さな水溜りに薄氷が張っている。
 板状の結晶のような繊細な煌めきは、頭上の月をぼんやりと映していた。
 凍る月。
 伏せた目線でこの寒さの証を眺めている宍戸は、両手をコートのポケットに入れ、人待ち顔だ。
 宍戸の待ち人は、人を待たせる事をしない。
 待ち合わせ場所には必ず先にいる。
 だからたまには先に来て待っていてやるかと宍戸は思ったのだ。
 正直寒いのは苦手な宍戸だったが、それくらい今日は構わない気がした。
「、…え?……何で、…ちょ…っ……宍戸さん!」
 門扉から勢い良く飛び出してきた鳳は、宍戸を見つけるなり言葉にならない言葉を口にしながら血相を変えた。
 柔和で端整な面立ちに、あまりにも判りやすく驚きを浮かべ、走りよってくる。
 宍戸が佇んでいたのは鳳の家の前だった。
 呼び出しのメールには、よく自主トレで使う公園でと宍戸は書いた。
 鳳はいつものように先に来るだろうから、時間を見計らって不意打ちを狙ってみたのだ。
「どうしてここに…、…え?……どうしたんですか、? 公園じゃなかったんですか?」
「そんな慌てんなって。たまには俺のが先に待ってようかと思っただけだ」
「こんなに冷たくなっちゃってるじゃないですか…!」
 鳳の両手が宍戸の両頬を包み込むようにしてくる。
 手袋をしていない鳳の手。
 でも温かかった。
「………………」
 宍戸が人好きの猫のような仕草で、片側の手に軽く頬を摺り寄せてやると、鳳は言葉はおろか息すらも詰まらせたような喉声をあげた。
「……、宍戸…さ…?」
 本気で驚愕している顔も、何かの欲求を飲み込んだようなぎくりとした気配も、おかしくて。
 宍戸は小さく笑った。
 頬を摺り寄せた鳳の右手を、宍戸は左手で取って、掬い取るようにした指先に唇を寄せる。
「明日の予行な」
「…っ…、…明日…?」
「誕生日だろ? 長太郎」
 軽く爪先立って。
 宍戸は鳳の片頬にも唇を寄せた。
「宍戸さん」
「……んだよ、練習くらいさせろ」
 宍戸が手にとっている右手はそのままに、鳳は左手で深く宍戸の背を抱きこんできた。
 きつく力が込められて、背筋が反る。
「長太郎?」
 そういえば冷たくなっていると鳳は言っていた。
 冷たい自分の身体を抱き締めていては鳳も寒いばかりだろうと思って軽く身を捩ると、一瞬だけれども強いキスで唇を塞がれた。
「、…、ン…」
 そのまま抱き締められる。
「……さむく…ないのかよ?」
「どっちがですか」
 もどかしそうな手で後ろ髪を撫でられる。
 怒っている訳ではないようなのだが、鳳は普段よりも物腰が荒い。
「心臓止まりましたよ、確実に」
「大袈裟な奴だな…」
「何が大袈裟ですか。宍戸さん、いつからいたんですか? もしかしてさっきのメール、ここで打ってたとか言いませんよね?」
「言う。………って、…んな怒んなよ」
 宍戸は笑って鳳の喉元にも口づけた。
「………宍戸さん」
「もう一回聞いておこうかと思ってよ、誕生日」
 何か欲しいものあるかと宍戸が鳳に聞いたのは先週のことだ。
「宍戸さん即答で却下したじゃないですか」
 少し拗ねたような言い方に宍戸は苦笑いを浮かべた。
 だってあれは。
「……俺って何なんだよ、俺って」
「何って。俺の欲しいものですけど」
 宍戸さんはものじゃないですけどね、と丁寧に抱き締められて、髪に埋められたのは恐らく鳳の唇だ。
 宍戸は鳳の胸の中でその感触に感じ入る。
 何だか身体のあちこちがじんわりと温かくなってきた気がする。
「お前の好きなだけ取れば良いだろうが。だいたいお前のもんじゃねえ俺が、俺のどこかにあるか?」
「………だから心臓止まらせないで下さいってば」
 唸るように鳳が言う。
 宍戸は笑って鳳の腕から離れた。
「お前のだ」
 身体を離して。
 宍戸は鳳に笑いかけた。
「誕生日だからっていうんじゃない。いつでも、お前のだよ。全部な」
 今度こそ、ものすごい力で。
 抱き締められる。
 抱き竦められる。
 鳳の両腕は宍戸の身体を反らせ骨を軋ませる程の力で、きつく、きつく宍戸を抱き締める。
 宍戸の笑みは唇の形だけ残して、あとはひっそりとした囁きに溶けた。
「……だからよ、長太郎。誕生日は違うもんねだれよ」
「すみません。俺、今、明日のことなんか考えられないです」
「ん…?」
「今目の前の宍戸さんのことしか考えられない」
 真摯な低い声にくらりとめまいがして。
 今度はもう、笑むだけのことも出来なくなって。
 宍戸は鳳の頭を抱き締める。
 手の中に柔らかな髪。
 切羽詰ったような声を耳に吹き込まれて、想いを詰め込まれて。
「好きにしろ」
 静かに浮かされたように応えるなり。
 かぶりつくようなキスはすぐに宍戸の唇を覆った。
 深い角度のついた、貪欲なキスだった。
「…………っ…、」
 宍戸は、明日の事が知りたい。
 けれど鳳は、明日の事などどうでもいいというようにキスをする。
 引きずられる。
 同化する。
 確かにもう、今の事だけで全てよくなる気になった。
「長太郎…」
 キスの合間に名前を呼んで、色素の薄いきれいな瞳を間近から見つめた。
 宍戸の方からもキスを贈り返し、お互いの唇と唇の合間に生まれる白い吐息に目を眇める。
 明日の事より今。
 鳳にこうまできっぱりと欲しがられては宍戸もひとたまりもないのだ。
「明日の事は…また明日な」
「はい」
 頷いた鳳の微笑は、薄氷を反射した月光よりも密やかな甘さで煌いた。
 真っ暗な部屋の電気をつけて、床に置いてあって呼び出し音が鳴り響いている携帯電話を、宍戸は億劫な手で拾い上げた。
 開いて着信ボタンを押すか押さないかで、くらりと視界がまわる。
「宍戸さん、すみません。今大丈夫ですか?」
「おう…」
 答えながらその場に座り込んでしまった宍戸は、恐らく呼び出しの長さを気遣っているであろう鳳の丁寧な口調に表情を緩めた。
「忙しいようだったらかけなおしますけど、」
 しかし鳳の方は言いかけた言葉の途中で一瞬口を噤み、宍戸の一言の応えの中に、何かを察したようだった。
「宍戸さん、あの、今ひょっとして」
「………………」
「どこか具合悪いんじゃないですか」
 少し慌てたようなかたい声に、宍戸は唇に笑みを浮かべる。
 濡れた髪の先から落ちてくる雫を払う気力もなく、首筋や頬が少しずつ濡れる。
 ぼうっとする思考の中、鳳の声だけがはっきりとしていた。
 過敏というか、過剰というか。
 鳳は宍戸絡みの出来事に対して見落としというものをしない。
 苦しい呼気をそっと逃がしながら、宍戸はそんな鳳の声だけで、実際格段に気分がよくなったように思う。
「ちょっと、宍戸さん。今お家に家族の方誰かいますか」
 人のよさが滲み出るような声は尚一層慌てていって、聞いておきながら返事を待たないという鳳らしからぬ言動に続いていく。
「誰もいないなら俺行きます。今、家ですよね?……宍戸さん? ね、ちょっと、本当に大丈夫なんですか? 聞こえてますか?」
「……お前、それ…慌てすぎだろ…長太郎…」
 落ち着けって、と宍戸は笑んで言ったのだが、声音の力なさに鳳はますます焦ったようだった。
「宍戸さん」
「長太郎。いいからとにかく落ち着け」
 な?と受話器に気だるい声で囁きかけた宍戸の耳に、普段あまり聞きなれない僅かに荒れた声が届く。
「落ち着いてなんかいられますか…!」
「………………」
 怒鳴られて。
 嬉しいような気分になる自分に、宍戸は内心呆れた。
 呆れたけれど。
「でも…」
「え? 宍戸さん?」
「しょうがねえ…よな…」
「何がですか?」
「嬉しいし…」
「ちょっと、宍戸さん…!」
 どうしたんですか、本当に大丈夫なんですか、と取り乱しかける鳳の真摯な困惑に、宍戸は素直に言った。
 さすがにここまで心配されると後ろめたくなってきてしまった。
「悪ぃ……のぼせてるだけだから気にすんな」
「………は?……のぼせて…?」
「ああ。風呂。今出たとこで…よ…」
「…………宍戸さん…」
 たっぷりとした沈黙の後の呻くような鳳の一声に、宍戸は苦笑いでもう一度謝った。
「……悪かったって…だから、何でもねえよ。そんな心配すんなって」
「あのねえ。…何でもなくないでしょう。しますよ。風呂でのぼせたんだって、心配」
 鳳はてっきり呆れるか笑うかすると宍戸は思っていたのだが、ほんの少しだけ怒った風に、それでもこれまで以上に真剣に、鳳は宍戸を気遣ってきた。
「水飲みましたか?」
「おう…」
「ちゃんと服着てる? 熱いからって、裸のままだとか、バスタオルに包まってるだけだとか、してないですよね? 髪も拭いてある?」
「……母親かよ。お前は」
 宍戸は笑いながら、滑舌の少しあまくなった口調で逐一返事をする。
「ジャージ着てる。髪は……ああ、…髪は、ちょっと濡れたまんまだけどよ…」
「風邪ひきますよ…! ちゃんと拭いて。タオル近くにありますか? なかったら取りに行ける? のぼせてるって…そんな声出して、宍戸さん今家のどこでどうしてるんですか」
 俺本当にすぐ行きますよ、と鳳は言った。
 真剣に。
 髪だけ拭きに、本当に来るかもしれない。
 この男。
 宍戸はそう考えて、首にかけていたタオルを片手で掴み、だるい仕草で適当に濡れ髪を拭いた。
「今拭いてる」
 それから?とからかうように尋ねると、鳳は生真面目に心配に心配を重ねた。
「吐き気とかしない? 眩暈は?」
「両方ない」
「辛かったら横になって」
「あー……」
 鳳の言葉に従って、宍戸は自室の床に横たわった。
 吐き気はしないが多少眩暈はしていて、でもそれも徐々におさまっていくのが判る。
「もう電話きりますから、ゆっくり休んで」
「………んな真似しやがったら、もう一回風呂入ってやる」
 何て言い草。
 宍戸自身、少々虚ろな思考でそう思ったが、鳳もそれには盛大に唖然となったようだ。
「宍戸…さん。あのねえ…」
 床に横たわって身体を丸めながら、宍戸は目を閉じて、耳から聞こえてくる鳳の声だけに意識を寄せる。
「きりたきゃきれ」
「きるわけないでしょう……そんなこと言われて」
 本当にもうこれ以上心配させないでくださいよと鳳に憮然と懇願されて、宍戸は声を殺して笑う。
「お風呂で本読んだんでしょう? 宍戸さん」
「そう」
「歴史小説とか読むからのぼせるんですよ? 読むなら区切りいいところでちゃんと読むの止めて下さい」
「やだ」
「中断が嫌なら短編小説にして下さい。せめて」
「持ってねー」
「明日持っていきます。だからそれにして」
 どちらが年上か判ったものではない。
 だるさに任せて返す宍戸の短い返答は、適当なものというよりは甘えでしかなく。
 小言めいた鳳の言葉にも、優しい余韻が残るだけだ。
 どうでもいいような事を、ただ話し続ける。
 声を伝え、声を受け取り、ただそれだけで。
 


 心情が、深くなる。
 感情が、濃くなる、
 表情が、甘くなる。
 恋情が、近くなる。


 言葉や名前や会話を、どれだけ繰り返しても。
 ひとつひとつが意味のないようなものであったとしても。
 何も、何一つ、無駄にはならない。
 交し合い、繋げていくのが、二人の間でだからだ。
 だから抱く想いが、深く、濃く、甘く、近く、募っていって。
 何にも、何一つにも、意味がある。
 一緒に歩く時、鳳は大概、宍戸の斜め後方にいる。
 いつでもつかず離れずの距離感で、睫を伏せるようにして、宍戸を見つめ続けて鳳は歩く。
 背後からの、そして頭上からの。
 注がれる眼差しの熱っぽさ。
 宍戸によく馴染んだそれが、今はない。
 宍戸は自分よりも先を行く鳳の背中に、小さく溜息をついた。
 幾度目かのため息だったが、唇には微かな笑みが浮かんでいた。
「長太郎」
 返事はない。
 先程からずっとそうだ。
 宍戸が呼べば、普段ならばどこからでも即座に気づいてやってくる鳳が、宍戸の呼びかけに振り向きもせず無言を貫いている。
 それはいっそ、冷たいような態度の筈なのに。
 宍戸はただ困ったように笑ってしまうだけだ。
「長太郎」
 名前を繰り返し声にして呼んで。
 冷たい空気に呼気が白く広がる。
 宍戸が見据えた先の、鳳の広い背中。
 コートを着ていない制服越しの骨格は、一見細身のようでいて、手で手繰り寄せれば広くて硬くて、大人びた手触りだという事を宍戸は知っている。
 しがみつくだけでは足りず、両手で必死に縋りついても、抱き締めきれているのか宍戸が時々不安になるような鳳の背中だ。
 宍戸は感触を思い浮かべながら、両方の手の指を手のひらに握りこんだ。
 手袋をしていない指先は、寒さで軋んで少しばかり痛んだ。
 宍戸は鳳の後ろをついて歩きながら少しだけ歩を早めて、片方の手をまっすぐに伸ばす。
 鳳の制服の上着の裾から僅かに見えているセーターの端を、親指の腹と人差し指の第一関節の横の部分で、そっと挟む。
 微かに引っ張って。
 宍戸は鳳の頑なに振り向かない背中に囁きかける。
「俺はお前の背中も好きだから、別にこのまんまでも構わねえけどさ…」
「………………」
 綺麗に整った後姿。
 物言いたげな気配が一層強まるその背中に、宍戸は静かに手のひらを宛がった。
 寒さのせいなのか、または全く別の理由があるのか。
 僅かに強張る背を、手のひらでゆっくりと擦った。
 鳳の背後から、数回。
「………………」
 鳳の足が完全に止まった。
 宍戸も立ち止まった。
 鳳の背に宍戸は右手を重ねながら、額も、とん、と押し当てる。
「宍戸さん」
「…ん?」
 やっと呼ばれた名前。
 胸が詰まる。
 耳で聞く声と、鳳の背中から、振動で伝わってくる声と。
 胸が熱くなる。
「宍戸さん」
 押し殺したような声音に、鳳の複雑な心中が詰め込まれている。
 鳳がどれだけ必死に、どうにかしようとしていたのか。
 宍戸にはちゃんと全部伝わって。
 鳳の背に額を寄せたまま宍戸は目を閉じて、言われた言葉に、頷いていく。
「…嫉妬してもいい?」
「好きにしろよ」
 当り散らさないように。
 荒い感情を殺そうとして、己の中でどうにか消化しようとして、結局出来ずにいたらしい。
 鳳の声は真剣だった。
 嫉妬の必要など何もないのに、いったい鳳が何をそんなにも苛まれているのか宍戸には不思議で。
 けれど鳳は、宍戸の受諾に小さく息をついて低く言った。
「じゃ、します」
「…構わねえけどさ。お前が嫉妬するようなことなんか、何もねえだろ?」
「あります」
 髪、さわられてた、と鳳は重い声で言った。
 憮然としたもの珍しい言い方だったが、子供じみた口調ではなかった。
 滾るような焦燥感の篭もった、声だ。
 宍戸は鳳の背中で苦笑いする。
「髪くらい、じゃねえの? 普通」
 言っている側から、嘘だ、と宍戸は思っている。
 自分だって嫌だ。
 この男の髪に誰かが触れている所を見るのは。
 鳳と待ち合わせていた裏門で、先についていた宍戸は、すれ違って通り過ぎていく同級生に気まぐれに髪を触られて、笑いながらもぞんざいにその手を払いのけたところまで、鳳はちゃんと見ていた筈なのに。
 それでも嫌だったか、と宍戸に思わせる鳳の態度だったから、少しも腹もたたなかったし、哀しくもなかった。
 ごめんな、と思っているけれど、これは言っても仕方のないことだ。
 それは宍戸も鳳も判っている。
 好きすぎて、勝手に苦しいことを増やしている自分たちを、無理に甘やかすのは問題だ。
「髪くらい…じゃないです」
「………ん」
「……本当は、髪くらい、だって判ってますけど」
 言ってる側からなのはお互い様だ。
 判っているのもお互い様だ。
「………………」
 鳳が自身の肩越しに振り返ってきた。
 流し見で見下ろされて、宍戸はやっと合った目線に熱のこもった吐息を零す。
 複雑に、怒っていて、苦しがっていて、悔やんでいて、甘えてたがっている鳳の目を見上げ、自分もきっと同じ顔をしているんだろうと宍戸は思った。
「嫉妬してるままでも、いい?」
 宍戸は頷いた。
 そう問いかけてきた鳳が淡く微笑む。
 振り返ってきた鳳に、一瞬だけきつく抱きすくめられ、二の腕を掴れる。
 普段の鳳とは違う力の強さで引っ張られ、見慣れぬ背中を目で追いながら、一秒でもいい、はやく。
 はやく、と宍戸は願った。
「宍戸さん」
 前を向いたまま、鳳が呼ぶ。
「もっと、好きになっても?」
 冬の空気のように、澄んで張り詰めた声。
 耐え切れないように、問われた。
 宍戸の腕に鳳の指がきつく食い込む。
「宍戸さんを、もっと好きになってもいいですか」
 苦しがっている鳳に、宍戸は微笑した。
「………余力残してんじゃねえよ」
 悪態交じりに呻いた宍戸のきつい呟きが。
 一秒でもいい、はやく、という宍戸の願いを、叶える。
 そして鳳の枯渇をも、潤す。
 宥恕。
 手紙が売られている。
 古びたエアメールが、どういう経路で今この場にあるのかは宍戸にはまるで思いもつかないけれど。
 たくさんの手紙は雑多に文房具店の片隅で売られていた。
「エンタイアですね…」
 宍戸は何の気もなしにその一角を見ていただけなのに、隣にいた鳳は丁寧にその視線を拾い上げ、そんな事を言った。
 言葉にしなくても会話になっていたりする、こういうことはよくあることだ。
 お前って俺のことずっと見てんのかよ?と、以前に宍戸が言った時。
 鳳はひどく率直に、こくりと頷いて笑っていた。
 当たり前みたいに、いつも、ずっと、傍にいて。
 当たり前みたいに、とても、大事に、してきて。
 でもそんな鳳を。
 当たり前にしてしまえない宍戸を、鳳はより一層の当たり前で身包みにしてくる。
 宍戸に対して丁寧で優しいものは、眼差しも、言葉も、鳳からの何もかもだ。
「……エンタイアって何だ?」
 宍戸の問いかけに、鳳は唇に優しい笑みを刻んで、ブリキのボックスの中から一通のエアメールを取った。
 空いた方の手は宍戸の背中にそっと宛がわれる。
 エアメールの表書きを宍戸に見せて、鳳は丁寧に言った。
「郵便で配達された古い手紙のことです。古切手の収集家がいるようにエンタイアにも収集家がいるんで、……こういう風に売られてる」
 宛名に目線を落として読み取っている鳳の目元を、宍戸は見上げた。
 伏せる睫の濃く真っ直ぐな影と、ラインの鋭くなった頬や喉元に、ひとつ下の鳳が日に日に大人びていくのを目の当たりにさせられて。
 宍戸は秋口からいろいろと複雑だ。
 邪気なく、ただひたすらに宍戸に懐いてきていた鳳が、少しずつ、少しずつ、優しく穏やかなまま違う熱をためていくのが判るからだ。
 それを、まるで乞うように、貪欲に、欲しがる自分がいるからだ。
「………………」
「これだと…差出人は、フィンランドの……ああ、多分軍人の人ですね」
 宍戸が、じっと鳳を見上げている視線をゆったりと受け入れたまま。
 鳳は長い指で古びた手紙の切手を指し示す。
 オレンジ色の切手にはフィンランドと書かれていて、その上から黒字で異国の文字がプリントされている。
 戦時中に軍人が使えるように配られたものだと思います、と鳳は言って。
 宍戸の直視に気づいたように、ふと首を微かに傾げる。
「宍戸さん?」
「……家族に宛てたのかもな」
 宍戸は、自身の心の揺れを悟られないよう、曖昧に逃げた。
 吐息のように宍戸が返した応えに、鳳は今度は微かに屈んできて 少し考える顔をして宍戸を見つめてくる。
 なおも宍戸は視線を逃がしたまま、小さく呟いた。
「恋人にとかかもな…」
「………読んでみます? 中」
「いや。いい。昔のでも、外国人のでも、人の手紙は見ようって気にならねえよ」
 これらの手紙、一通一通が。
 どんな思いで書かれて。
 どんな経緯でここにあるのか。
 それは判らなくても、そこに込められる意味合いがあるという事は判る。
 思いの篭らない手紙などないだろう。
 感情を文字にして、筆記具で書き認めて、閉じ込めるよう封緘し、時間を使って運ばれて、届けられて、形となって残る思い。
「宍戸さん」
 考え込むような宍戸の背中にあった鳳の手のひらに、ぐっと一瞬力が入る。
 宍戸は淡く苦笑した。
 不安がるような鳳の気配に、軽く首を左右に振った。
「………そうだよな…」
「宍戸さん?」
「手紙ってのは……人の手で運ばれるもんだよな。普通」
 独り言じみた呟きを口にして、宍戸は鳳を見上げた。
 手紙の話を、した。
「お前に渡してくれって、うちの学年の奴に、手紙頼まれたんだけどな。今日」
「え……?」
「手紙は自分で渡せよって簡単に断っちまったのを、…少し反省してる」
 年下の男にラブレターを書いて、渡すのに。
 どれほどの勇気がいるのかに目を瞑るようにして、宍戸はそれを拒んできた。
 その瞬間に噛んだ苦さは、ラブレターの橋渡しなどガラではないという隠れ蓑の中に潜む個人的感情のせいだ。
 ただ、そうしたくなかっただけだという、ひどく単純な自分自身の感情のせいだ。
 宍戸は、同じクラスの彼女の手にあった見えないものの詰まった手紙がどうしても手に取れなかった。
 触れられなかった。
 運べなかった。
 鳳には、自分は、出来ない。
 届けてやれない手紙。
 でも、手紙というものは、元来人の手で運ばれていくものなのだと、エンタイアの山を目にして宍戸は思い、微かな溜息と共に一層の苦味を味わった。
 自分は、一生無理だろう。
 鳳の為の誰かからの手紙は運べない。
「………………」
 物憂げに、物思う、そんな宍戸は気づかなかった。
 その時に。
 この瞬間に。
 あれは違ったのかと、鳳の唇からもれた、安堵の吐息。
 深い嘆息。
 宍戸と、女生徒と、そして二人の間にあった手紙。
 それを見てしまっていた鳳が、宍戸の呟きに一時の不安を払拭させた、安堵の深い吐息に、まるで。
 まるで宍戸は気づかなかった。
 ベッドに寝て、同じ毛布の中にいて。
 鳳の胸元へ擦り寄るようにして収まってきた薄い背中を抱き止めながら、秋だなあと鳳は思った。
「寒い…? 宍戸さん。暖房つける?」
「………いい。十一月なったばっかだろ、まだ…」
「でも寒いんでしょう?」
 眠たげな宍戸の口調や、細めた切れ長の目元は、彼を知らない人からすれば不機嫌にしか思えないものなのかもしれない。
 鳳からすれば、眠そうだと感じるだけのことだ。
 ついでにいえば、可愛いとも思う。
 寒がりの宍戸からすれば、ここ数日の気温の変化や雨交じりの空気は、すでに肌寒いもののようで。
 鳳の胸元に宍戸自らすっぽりとおさまって、尖った肩を丸めるようにしている仕草や染入るような体温こそが鳳に季節の移ろいを感じさせた。
 丁寧に抱き込んで、鳳は、ほっと息をつく。
「……長太郎…?」
 あれほどまでに眠そうだった宍戸が鳳の溜息の気配を敏感に感じて不思議がっているのを、鳳は笑った形の唇で口付ける事で応えた。
 やわらかく重ねるだけのキスをゆっくりと離すと、きつい眦に熱と睫で微かな陰影を落とした宍戸が閉ざしていた瞼を静かに引き上げていく。
「なんか嬉しくて。……それで、秋だなあと思っただけです」
「……お前…そんなに秋が好きだったか?」
「俺が好きなのは宍戸さん。秋じゃないです」
 知ってるでしょう?と鳳が宍戸に笑いかけると、宍戸が少しばかり憮然となって、噛み付いてきた。
 たいして痛くもないが、耳と顎の先の中ほど辺りを噛まれて、鳳は笑って一層深く宍戸を抱き込んだ。
「噛まれて喜んでんじゃねーよ。アホ……」
 呆れきった声の宍戸が、それでも彼が噛んだ箇所の上に、そっと唇を寄せてくるから。
 鳳はその口付けを、幾分擽ったく受け止めた。
「宍戸さんは、秋になったなあって思うのはどういう時?」
「あ…?………んなの、寒くなってきたって思った時だよ」
「俺は宍戸さんが、俺が抱き寄せるより先にここに収まってきてくれた時です」
 さっきみたいに、こういう風にね、と鳳は毛布の中で宍戸の背中を抱き寄せる。
 暴れるかな、と鳳は思ったけれど。
 宍戸は動かなかった。
 毒づくように独りごちただけだ。
 それも鳳の耳には、ただ甘いだけだ。
「……ったく…俺で季節を感じんな……」
「冬になったなあって思うのは、脱がせる上着が三着をこえた時ですね」
 毛布の中。
 乱暴な足にいきなり向こう脛を蹴られた。
「もう……噛み付いたり蹴っ飛ばしたり、宍戸さんはー……」
「うるせぇ…っ、機嫌よさそうなツラしてんじゃねえよっ」
 暴れる四肢を、押さえ込むのではなく包み込んでしまって、鳳は宍戸のこめかみに唇を寄せる。
「宍戸さんが、冬の間中ぐるぐる巻きにしてるマフラーをはずして、きれいな首…見せてくれると、春になったなあと実感しますし…」
「………お前目くさってるだろ…」
「何で宍戸さんはいっつもそうやって謙遜ばかりするんですかねえ……」
 微笑んで、それでも真剣に首を傾げる鳳に、宍戸は盛大な溜息をくれて。
 俺は寝る、と一言呻いて、鳳の胸元に額を押し当て、目を瞑った。
「………………」
 無論それを邪魔するつもりはない鳳は、暫しそんな宍戸を見下ろして。
 やわらかい髪をそっと小さな頭の形に沿って撫でつけながら、穏やかにひそめた声で囁いた。
「夏は、宍戸さんが嬉しくてたまらないって顔するから、判ります」
 夏が一番好きなのだと、あの鮮やかな笑顔で、教えてくれるから。
 ああ夏なんだな、と鳳は思うのだ。
 秋を感じながら、夏を思い出して。
 どの季節にも、無論今にも、こうして腕の中に宍戸がいる現状を、鳳はどれほど幸福かと充分判っているのに。
「長太郎」
「はい?」
「夏はこじつけだろ。お前」
「何でですか。本当にそうですよ」
「お前が傍にいりゃ、年中そんなツラだろ俺は」
「………………」
 あくび交じりにそんな言葉だけ置いて、宍戸は。
 すう、と眠ってしまった。
「………ちょ……っと……これは……」
 ひどいなあ、と鳳は本気で嘆いて。
 幸福が甘く胸を攻撃してくるすさまじい衝撃と、ひとり、戦う。
 コートに風の流れは全く無い。
 熱気は重く、湿気をたっぷり含み、不快な暑さがたちこめている。
「…あー…?…なんだよ、宍戸のヤツ」
 向日が肩口でこめかみを拭いながら忍足のユニフォームの裾を摘まんで軽く引張る。
 うん?と背後の向日を振り返った後、宍戸を流し見た忍足は、めずらしぃな、と呟いた。
 部活中、コートの外に、宍戸は座り込んでいた。
 フェンスに寄りかかるでもなく、やけに中途半端な体勢だ。
「座ってんじゃ、ねー…よ…」
 向日の悪態も力ない。
 相当この暑さにやられてしまっているのは明白で、忍足は明るい髪の色をした小さな頭にタオルをかけてやりながら改めて宍戸を見やって言う。
「ヤバイんちゃうかな。あれは」
「あ?」
「宍戸。全然汗かいてないやろ。唇カサカサやで。熱中症かもな…」
「こっからで、よく見えんなー…侑士」
「ダテやもん」
「知ってるっつーの」
 淡々と話しながら忍足の手は甲斐甲斐しく向日の顔や首筋をタオルで拭っている。
 向日はされるに任せていたが、宍戸を見やって、ヤバイじゃんと呟くなり歩き出した。
 忍足は微苦笑で向日の後をついていく。
 行く先は当然座り込んでいる宍戸の元へだ。
「宍戸」
 伸びやかな向日の声にもその背は何も反応しない。
「宍戸ー!」
 てめえシカトかよ!と毒づきながらもどこか焦ったように向日の歩調が早まる。
「おい!」
 宍戸のすぐ脇で足を止めた向日が怒鳴ると、気だるそうに漸く宍戸は顔を上げた。
 目元があからさまに赤く熱を帯びて見えるのに、顔にも手足にも、汗などまるで浮かべていない。
 眼差しも普段のきつさがまるでない。
「…おい?」
 大丈夫かよ?と向日の口調が思わず弱々しくなった時だ。
 三人の三年生がいるその場に現れた鳳が、手にしていたジグボトルの中身を宍戸の頭上にぶちまけた。
 飲んでた液体を無造作に宍戸に浴びせかける鳳を、向日は愕然と見上げた。
 見上げて、それから。
 なんなんだこいつ、と強く目線で訴えた先にいるのは忍足で。
 忍足は向日の隣で、喉奥で笑いを転がして肩を震わせる。
「あの…?」
 そんな向日と忍足の様子に気づいた鳳が、不思議そうに首を傾げてきた。
「何か…?」
「何か、って、お前…なぁ…」
 眉根を寄せて怒鳴るに怒鳴れないといった呆れ顔をする向日の肩に腕を回し、一通り笑いつくしたらしい忍足が俯かせていた顔を上げる。
「水かけんのが一番やな。確かにな」
「侑士?」
「熱中症」
 見てみ、と忍足が指差した先に向日が目線を下ろすと。
 それまで、普段とは明らかに異なる緩慢とした気配だった宍戸が、短くなった髪を揺らして首を振っていた。
 浴びた水が毛先から飛び散る。
 生き返った、と向日が愕然と呟き、それを聞いた忍足がまた笑う。
「鳳ぃ…お前…やたらとワイルドな時あるよな…」
「そう…ですか?」
 不思議そうに向日を見た鳳だったが、宍戸が頭上を仰ぎ、向日と忍足と鳳とを見上げてきたのに気づき、視線を再び宍戸へ戻す。
 宍戸は、掠れた声で鳳の名前を呼んだ。
「はい。宍戸さん」
 何ですか?と丁寧に問い返した鳳だけを今度は見上げ、宍戸が軽く口をひらく。
 水、とやはり掠れた声で言いながら、舌先を僅かに覗かせ、飲みたいという意思表示を仕草で示す。
 しかし、鳳を見つめ、仰のいて唇を開き、あまつさえ舌先すら見せて水を飲みたがる宍戸の所作に鳳は硬直したかのようにかたまった。
「し、……」
「……鳳…」
「不憫な…」
 宍戸の名前も呼びきれずにいる鳳に、向日と忍足はこの時ばかりは心底から言ってやる。
 普段硬質な印象の強い宍戸が、とろりと緩んだような隙を生むようになったのは、多分にこの年下の男の影響が強い。
 でも、だからといって、それら全てを鳳が平然と受け入れたり流したりはとても出来ないでいるようだ。
「俺達は退散してやるぜ。後は適当に自力で頑張れな」
「ちょ、…向日先輩、待、」
「鍛錬やで。鳳」
 きばりや、と言って忍足は、鳳が思わず泣きつこうとしていた相手を自らの腕に囲いこみその場を後にする。
「宍戸やべーな。あれ。無駄にエロかった…」
「それ以上言うたら、ヤキモチやくで…?」
 だいたいそんなの岳人のが、と言いかけた所で。
 忍足はスナップのきいた手首の動きで向日に頭を叩かれる。
 じゃれあって、騒いで、離れていく。
 そんな上級生達の姿を、残された鳳には、気にする余裕など到底無かった。


 汗で濡れていく毎、艶やかに、息をふきかえされるような様。
 それは寝具のある場で、鳳の目に繰り返し映ってきたものであったのだが、こんな部活中のテニスコートで見せられたらひとたまりもなかった。


 翌日も宍戸は朝からだるそうにしていた。
 しかしそれは前日の熱中症の名残などではない。
「長太郎。お前、いい加減そうやってチラチラこっち見て気にすんのヤメロ」
「…そう言われましても」
 通学路を肩を並べて歩く。
 呆れ顔の宍戸に、鳳は神妙だ。
 一見したところ不機嫌そうな宍戸だったが、肩を落としている鳳の様子に仕方ねえなと苦笑いして気配を緩めてくる。
「こっちの気分はいいんだから、水さすんじゃねーよ」
「宍戸さん…」
 鳳の無茶を、宍戸は諾々と、寧ろ好ましいように受け入れるのだ。
 互いの視線が絡み、第三者が非常に割り込み辛い気配を漂わせている中、果敢にもそこに割って入ってきた男が、穏やかな声で言葉をかけてくる。
「おはよう。宍戸、鳳」
「おう」
「滝先輩。おはようございます」
「でね…さっそくなんだけど」
 困ったような笑みを浮かべている滝に、鳳と宍戸は顔を見合わせた。
 そして、個々に滝を見やって尋ねる。
「さっそく…というのは…?」
「何だよ滝」
「…あのね。鳳」
「……はい?」
「逃げろとは言わないけど…うまいこと今日は……ううん、暫く、隠れてた方がいいよ」
 何の話だよと宍戸が怪訝に問えば、滝は長い髪を右手で右耳にかけながら曖昧に笑みを浮かべた。
「ん、……跡部が…怒り狂ってるから…」
「跡部?」
 跡部が何だよと、憮然と宍戸が口にすると、滝はふんわりと苦笑いした。
「鳳が、飲んでた水を宍戸にぶっかけたって聞いたらしくて。昨日のこと」
「………………」
「それが何だよ」
 滝の言葉で粗方察した鳳が複雑に焦る中、宍戸だけは訳が判らないという顔をしていた。
 そんな二人を交互に見やりながら、ごめんねと滝は溜息をつく。
「跡部って、時々激情しちゃって手がつけられなくなるんだよね…」
 説明しようとしたんだけど、と続けた滝の様子で、鳳はだいたいの事を理解してしまった。
 恐らく跡部の怒りの矛先は正しく自分であることも悟った。
 宍戸はさっぱり意味が判らないようで、そういう当人同士が意識していない跡部と宍戸の繋がりが、鳳には少し苦い。
 宍戸に知られたら間違いなく一喝される考え方だ。
「滝で駄目なら仕方ないって」
「ジローは全く興味ないみたいやで」
「うわ、ひでー!」
 突如話に加わってきた忍足と向日が賑やかしに笑う隙、滝は鳳にこっそり告げた。
「跡部、神尾君と喧嘩してるらしくてね」
「……はあ…」
 それは、と明言する事を濁した鳳を、忍足と向日が両脇から肩に手を回しアドバイスとも冷やかしともつかぬ事を囁いてきた。
「また喧嘩かいって感じやけどな。別に、ちぃともめずらしくないけどな」
「ま、そういうわけだから、鳳、お前、自分で自分の身は守れよ。それか宍戸に守ってもらえ」
「宍戸を盾にすれば、跡部も多少は攻撃の手をゆるめるやろ」
「しませんよそんなこと!」
「何騒いでんだ、お前ら…」
 不機嫌そうに仲間たちの織り成す喧騒を眺めながら、それでも宍戸は、鳳の表情を見て、そっけないような言葉と心底心配そうなまなざしとを向けるのだ。
「どうしたよ…? 長太郎。妙な顔して」
「いいえ…」
 大丈夫です、と鳳は宍戸に笑いかけた。
 行きましょう?と言いながら、薄い宍戸の背を軽く手のひらで促し歩き出す。
 背後から、頑張れよと何だか適当な応援を受けながら、鳳は跡部の顔を思い浮かべて決意の笑みを唇に刻む。


 大事にしない訳が、ないだろう。
 こんなに特別な、この人のこと。


 そう告げれば絶対、そんな事は判っていると、あの秀麗な顔を歪めて吐き捨てるであろう跡部の表情は、鳳の予測にもひどくリアルなものだった。
 宍戸とダブルスを組んで、初めて勝った試合の時だ。
 笑顔で飛びついてきた宍戸を受け止めて、鳳は、うわ、と驚いた。
 軽い。
 かなりの勢いをつけて鳳に飛びついてきたのに、宍戸の肢体は鳳の手の中で、ふわりと浮き上がっているかのように軽かった。
 確かに自らの手で受け止めているのに、今本当に、自分の腕の中にこの人がいるのかと危ぶんでしまう程。
 宍戸が細身だということは無論鳳も判っていたのだけれど、見た目のしなやかな機敏さは寧ろ硬質なイメージばかりを増長させていて、よもや宍戸が自分の手に、こんなにも甘く軽やかだったとは、鳳はその時まで知らなかったのだ。
 鳳が抱きとめた相手からの、惜しみのない明るい笑顔と、歯切れの良い声が自分の名前を呼んでくるのと。
 宍戸の存在はテニスコートの中で、鳳に、勝利を喜ぶ感情よりも更に色濃く、浸透してきたのだ。
 この人が好きなのだと自覚して。
 その身体を受け止めるのではなく、抱き締めてしまいたいのだと躊躇ったあの日はそう遠い昔の出来事ではなかった。
 今も感じている、この暑い夏の中に、同じ季節の中で続いている話だ。
「おい」
「……はい?」
 鳳の返事は少し遅れた。
 自分を呼ぶ声は宍戸のものなのに。
 あまりの暑さにお互い会話らしい会話はしていなかったものの、鳳は回想に引きずられていて、反応が遅れた。
 それを咎めているのか、宍戸の声は少し不機嫌そうだった。
 目を合わせると、宍戸の眼差しがきつくなった。
「お前、よそであんまりそういうツラすんなよ」
 宍戸は、そんな事を言った。
 言われた言葉がよく判らず、何の事だろうかと鳳は僅かに首を傾げて宍戸を見下ろす。
「あの…どこかおかしいですか? 俺」
「………………」
「宍戸さん?」
「……なんだよ、くそ、真面目に聞いてくんじゃねえよ」
 宍戸が珍しい言い方をした。
 何だか拗ねているような声だなと鳳は思った。
 そんな宍戸は初めてだった。
 そして、聞いてくるなと宍戸が言うなら聞かないと言いたいところだったが、鳳はそうもいかなかった。
「だって宍戸さん怒ってるでしょう? 気になります」
 俺なにかしましたかと口にしながら、鳳は、おそらくは上の空を窘められたのだろうと見当はついていた。
 鳳は、あの日のコートの情景を思い出していた。
 つまりは宍戸の事を考えていたのだが、それを伝えていいものかどうか判らなかった。
「お前な……」
 宍戸は震えていた。
 あ、怒ってる、と鳳が思った通りに。
「好きだとか、人にコクった途端に、忘却の彼方にいくってのはどういう了見だ!」
「……あ……はい。すみません」
 確かに最もな話だ。
 鳳は慌てて頭を下げた。
 最もどころか、酷い話だ。
 好きだと告げた途端にこれでは。
 鳳が神妙に目線で伺った先、宍戸がふと眉根を寄せる。
「おい。…長太郎? お前まさか…熱中症か何かじゃねえだろうな」
 口調は荒っぽいながらも、大丈夫かと生真面目に心配されて鳳は慌てて首を左右に振った。
「いえ、全然、何ともないです」
「………そうか? こんだけ暑けりゃ多少おかしくなんのも無理ないと思うけど」
「おかしいって宍戸さん……」
 まさか自分のした告白など。
 全く本気でなど聞いていないのだろうかと鳳は一層慌てた。
 これだけの暑さ。
 うんざりする猛暑。
 でもだからって、暑さ故の気の迷いなどにされてしまったら堪らない。
 鳳が宍戸に告げた好きだという言葉は。
 半ば自然と溢れてしまった言葉ではあるけれど。
 欠片も気の迷いなどではないからだ。
「宍戸さん」
「、…あのな」
「……、…はい?」
 ぎこちなく遮られ、ぎこちなく聞き返す。
 汗が、身体を伝う。
「俺な、……多分、お前は覚えてねえだろうけど…」
「………………」
「初めて忍足と岳人に試合で勝った時、驚いた事があって…」
 目の前の宍戸から言われた言葉に鳳は目を見開いた。
「何…ですか?」
「あいつらに勝ってよ、そん時、俺、お前に飛びついたんだけどな」
「………………」
「お前、すっげえ簡単に俺んこと受け止めて、抱き上げて、それで何か、……俺が初めて見る顔してて。お前」
 何かを。
 恐らくはあの時を。
 思い出す顔をして、それから宍戸は、じっと鳳を見上げてきた。
「それ見た時に、俺は、お前の事が好きなんだって判った」
「……宍戸さん。ええと…それは…返事?」
 我ながら歯切れの悪い、格好のつかない言い方だと鳳自身思っていて。
 案の定宍戸はうっすら顔を赤くして怒鳴ってきたけれど。
 それは鳳が思っていたような言葉とは違っていた。
「返事だとか、どうとか、俺がもったいぶってるみたいな空気作るんじゃねーよ。アホ…!」
 宍戸に胸倉を掴まれて、怒鳴られた。
 鳳は面食らった後、ぎらぎらした黒い瞳に下から睨みつけられながら、暑さを体感している身体に更なる熱さが籠もるのを知る。
 それはほんの少しも不快でない熱だった。
「宍戸さん」
「俺は…!………普通に、お前の良い先輩でいようと思ったんだ」
「良い先輩です。昔も、今も、これからも」
 それから、と鳳は続けた。
 自分の胸倉を掴んでいる年上のひとの、薄い背中に手のひらをそっと宛がう。
「普通に、恋人でもいて下さい」
「………………」
「俺は、宍戸さんを、何度も、何度も、好きになるから。あの時気づいたみたいに、今でも、これからも」
「…あの時?」
 不思議そうな顔をする宍戸に鳳は柔らかく笑った。
「宍戸さんが、俺が初めて見る顔をしていて」
「………………」
「俺が、宍戸さんが初めて見る顔をしていた時です」
「長太郎…、…」
 通じただろうか。
 こういう言い方で。
 通じたようだ。
 こういう言い方で。
「宍戸さん」
「………、ん」
 鳳の手は宍戸を抱き締めて。
 宍戸の手は鳳を抱き返して。
 暑さも、熱さも、尋常でなく高まって、抱き締めあう中。
 息苦しさなど、どこにもなかった。
 寧ろ、呼吸のしやすい場所を、心地の良い場所を、見つけた気持ちで抱き締めあった

 熱に溶けて安らいだだけだった。
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