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 いい靴をはいていると、その靴がお気に入りの場所にいざなう。


 それは鳳の父親の口癖だった。
 異国の地では、昔ながらにそう言い伝えられているという。
 鳳が氷帝学園の中等部に進学すると、オーダーメイドで靴をあしらえてくれた父親に、鳳はどうせすぐに履けなくなってしまうかもしれないのにと内心で思った。
 成長期の兆しを自覚していたからだ。
 しかし、その靴を履いて出向いた入学式で。
 鳳は、父親の言葉を借りるなら、その靴にまさに、いざなわれたのだ。
 葉桜の葉擦れの音。
 長い髪が風に流れ、制服姿で立っていた人。
 テニスコートに。


 出会えた人が、そこにいた。


「……、…おい……!…長太郎!」
 歯切れの良い大声に名を呼ばれ、鳳は目を見張った。
「……宍戸さん」
「………ったく……宍戸さん、じゃねーだろーが……!」
 回想の中にいた人と同一人物でありながら、もうあの長い髪は今の彼にはない。
 しかし、その代わりに、あの時とは違って、今は鳳の名前を口にする彼がいる。
「………………」
 宍戸を見下ろす角度が、また大きくなった気がする。
 顎の尖った小さな顔に指を伸ばしたい衝動を抑えるのもいつものこと。
 きつい眼差しに見惚れて、清冽な声に気を取られて、宍戸が居心地悪そうな顔をするまで無言で見つめてしまうのも。
 自覚はしているのだが、どうにも制御しきれない。
「おい」
 宍戸に、ぐっと胸倉を掴まれて、鳳は僅かに前のめりになる。
 ひどくなめらかな宍戸の肌が鳳の視界を埋めて、これだけ近づいても綺麗なままだなんていったいどういう人なんだろうと鳳は思った。
「長太郎」
「はい」
「お前」
 軽く首を反らせる様にして。
 宍戸が鳳の耳元に唇を近づけてきた。
 その気配と、囁かれるような声に、鳳は思わず息を詰める。
 そのうえ、言われた言葉が。
「俺が欲しいだろ?」
「………、…え?」
「え?じゃねーっての…! 物欲しそうな顔で散々人のこと見ておいて間抜けな返事すんな!」
「物欲しそ…って……宍戸さん……!」
 さすがに鳳は慌てた。
 隠していたつもりの気持ちなのだ。
 それをこれほどあっさりと言い当てられては溜まらない。
 しかし。
「違うのか?」
 真直ぐな目線で問いかけられれば、鳳の出来る事はひとつだけしかない。
「違いません」
 至極真面目に首を振り、否定するだけだ。
 その返答に宍戸は満足したらしかった。
 軽く笑った。
「…………………」
 至近距離から与えられたその表情は、鳳の目には甘すぎるほど甘く映った。
 痛いような思いで目を眇めた鳳に、更に顔を近づけ。
 宍戸はひそめた声で言った。
「お前のものになってやる」
「……、…宍戸さん…?」
「聞こえなかったのか? もう一度言うか?」
「あの、………」
「お前のものになってやる」
 だから、と宍戸の拳が。
 幾分手荒に、鳳の胸を、どん、と叩く。
 互いの距離がそれで離れた。
「試合に集中しろアホ!」
「な、………」
 そう、試合中なのだ。
 部内の練習試合だが、確かに今は試合中。
「ちょ……冗談……なんですか? 今の?」
「ああもう、うるせ。さっさと打てっ」
「宍戸さんっ」
「そういうツラすんな! それからフォルトになるたんびに俺の顔を伺うな!」
「宍戸さんってば…!」
 鳳が構わず詰め寄ると、宍戸はラケットを持っていないほうの手を額に当てて、何事か嘆くような声で呟いた。
「………んだよ。すっきりするんじゃねえのか普通」
「……はい?」
「お前がぐだぐだ考えてること解決してやったろうが。もういいから、とにかく試合に集中しろっての」
 あっちのダブルスがうるせーだろ、とうんざりした様子で宍戸が言うまで、鳳は相手コートから投げられるブーイングに気付かなかった。
「この…っ……そこの…にわかダブルスー! いい加減真面目にやれっ!」
「岳人……今日ばかりはその気持ち、俺にも痛いほど判るで……」
「おう、お前も言ってやれ侑士! 罵っていい! 俺が許す! あの新米バカップルダブルス!!」
 地団駄踏んでは飛び上がって怒っている向日と、大仰に嘆き憂いでいる忍足の、氷帝ダブルス1の有様に。
 殆ど同調しているかのような態度の宍戸に、冷たくあしらわれるようにして鳳はサーブの構えを取る。
 先程の出来事は何だったんだろうか、夢か幻だったんだろうかと、意気消沈する鳳の耳に、宍戸の小さな声が届く。
 小さくて、ぶっきらぼうな声。
「…おい。後でちゃんと言えよ」
「何をですか?」
 思わず宍戸を振り返った鳳は、そこに、初めて見るような表情の宍戸を見つける。
「宍戸さん?」
「好きって言え!」
 はしょるな、そういうの!と不機嫌そうに言った宍戸の、薄赤い目元にくらくらして。
 鳳は黙り込んだ。
 返事もそこそこにサーブを打つ。
 このばかぢからぁっ!とまたも激高した向日の声が聞こえた気もしたが、ひとまずこの時の鳳は。
 一刻も早く試合を終わらせるべく、向日が後に名づけた殺人サーブを、連打していくだけであった。
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 胸がつぶれる。
「好きで……壊しそう」
 こんな言葉だとか。
「宍戸さん」
 こんな声だとか。
「………ばー…か……壊れそうなツラしてんのどっちだよ」
「………………」
 こんな目で見られて。
「……宍戸さん」
「………………」
 こんな男を覚えてしまって。
 自分がこれからどうなっていくのかと、宍戸は胸をつぶされる。
 手を伸ばし、鳳の頬に指先を這わす。
「好きか。……俺が」
「好きです」
「………それなら平気だろ。びびんな…」
 そう言いながらも、もうどうにかなりそうなくらいの心音は、宍戸のもので。
「………………」
 鳳は、飢えた目をしてはいるけれど。
 焦れた吐息を零しもしているけれど。
 でもそれは、余裕がない性急さよりも、暴走を食い止める荒さで、宍戸を組み敷いている。
「腰、こんなに細くて……」
「………、るせ」
「脚も…綺麗」
「長太郎」
「めちゃくちゃに…」
「………………」
「…………するかもしれない」
 鳳の目線で刷かれた箇所が痺れるようにひりついた。
 実際手で辿られた皮膚は燃えるように熱を持つ。
 宍戸はバラバラになりそうな自分の体と感覚と感情を掻き集めて告げた。
「………見たいぜ…?…俺は」
「………………」
「そうなるお前……」
「……宍戸さん…」
「見せろよ」
 たまには暴走しろって、と。
 それでも踏みとどまる鳳の腿の側面を手で撫で上げる。
「………、…」
 詰めた息が宍戸の耳に熱く届いた。
 溜まらずに吐き出された鳳の吐息に当てられながら、宍戸は両方の膝を鳳の手に鷲掴みにされる。
 力でひらかれて、暴かれて。
 シーツに押さえつけられ左右に割られた脚の狭間に重い腰が沈んでくる。
「……、…長…太郎……、…っぁ」
「………宍戸さん」
「ァ…っ……」
「………………」
「………ぅ…、…っ…く、…ぅ」
 腰を進めてくる鳳の身体に、両手でも、両足でも縋って。
 それでも。
「宍戸さん、」
 こんなものを埋められて。
 迸る嬌声ではとても追いつかないと宍戸はかぶりを振って鳳の首に取り縋る。
「…っ……、ぃ…、…」
「……、…………」
「……ン………ッぁ、ァ……」
「…………も……ヤバイ…」
「ぅ…、…っ…ぁ…っ…」
「宍戸さん」
 かぶりついてきて。
 むさぼられるキス。
 息も奪われて、突き上げられる身体。
「………ッ……っ、…、」
 欲情を溢れ出させる鳳の、常ならぬ強引さが宍戸をめちゃくちゃにしていった。
 もう考えられることは、ひとつ。


 好きで、壊れそう。
 氷帝学園の敷地内に、この時期、三色に染まる空間がある。
 樹齢数百年の、カエデとイチョウの大樹がそれぞれ一本ずつ、抜けるような青空に向かって伸びている。
 その二つの木の狭間から頭上を見上げると、カエデの真紅と、イチョウの黄金、空の淡青がいっぺんに視界に飛び込んでくるのだ。
 その絶景を眺められる特等席であるベンチを巡る争奪戦はなかなかに凄まじい。
 取り分け、二本の大樹の間にあるアンティーク調のアイアンベンチは、様々な言い伝えが実しやかに囁かれている恋人達のベンチとして、あまりにも有名だった。
 氷帝の生徒なら誰でも知っている。
「…………………」
 宍戸はそのベンチに一人で座っている男の姿に気付いた時、思わず足を止めた。
 目を瞠り、そして不機嫌になる。
「…………………」
 ベンチに背を凭れかけさせ、頭上を見上げているのは、宍戸をここに呼んだ鳳だ。
 交互に静かに折り重なるように。
 ひらり、ひらり、と。
 ひどくゆったりと落ちてくる赤と黄の葉を、端整な顔で見上げ、そこにいる氷帝の生徒達からの視線に全く頓着していない後輩の姿に。
 宍戸は嘆息する。
「…宍戸さん」
「…………………」
 その上、宍戸に気付いて。
 紅葉して降ってくる葉の中から、柔和で甘い笑顔を浮かべた鳳に、宍戸は背を向けようとし、敢え無く失敗した。
「宍戸さん!」
 こっちに来て下さい、とあくまでやわらかくよく通る声に促され、宍戸はもう、どうしろっていうんだと眉根を寄せるしかない。
 カップル限定のベンチだそこは。
 宍戸ですら知っている。
「宍戸さん」
「…………………」
 鳳は、宍戸がそこに行くまで呼ぶ気らしかった。
「…………ありえねえだろ……」
 思わず宍戸の口をついて出たのはそんな言葉だ。
 どれだけ注目を浴びてるのか、鳳は判っているのかと肩越しに宍戸が睨み据えた先。
 そこに居たのは。
 振り返った宍戸に対して、嬉しげに微笑んだ男の顔だった。
「……、……っ……」
 何事か低く悪態をついて。
 宍戸は荒く鳳の元へ歩み寄った。
 足元で落ち葉を踏みしめる秋の音がした。
「綺麗ですよ」
「…………………」
 どうぞ、と言うように手が伸ばされ、ベンチに座らされそうになって。
 宍戸はぶっきらぼうに逆らった。
「出来るかアホ…!」
「どうして?」
 綺麗ですから、と尚も促してくる鳳の顔を見下ろしながら、宍戸は舌打ちする。
「オマエなぁ……」
「はい?」
「このベンチがどういうベンチだか知らねえのかよ?」
「たくさん謂れがあるみたいですね。ここで告白するとうまくいくとか、二人で一緒にここに座るとこの先ずっと付き合っていけるとか」
「………知ってんならこんな真似すんな」
「知ってるから」
 鳳が、やんわりと宍戸の言葉を遮った。
「だから宍戸さんを待ってました」
「………………」
「座っては…貰えないですか…?……」
「……っ…、…くそ……」
 この馬鹿っ、と毒づき、吐き捨てて。
 宍戸は、座った。
 半ば自棄気味に、どっかり腰を下ろし、腹はたつし羞恥は募るし、どうしてこんな真似しなけりゃならないんだと胸の前で両腕を組んで鳳を横目で睨みつける。
 いったい周りからどういう目で見られているのかを考えると、ほとほと空恐ろしい。
 だからその分も鳳を睨み据える事に全力を注ぐ宍戸を、長身で温厚な後輩は、細めた目で見返し微笑するだけだ。
 壮烈な面立ちに甘い表情をのせる独特の存在感で、鳳は宍戸しか見ていない。
 気にしていない。
 いっそ宍戸が呆れるほどに鮮やかに。
「………………」
 もう好きにしてくれと宍戸も腹をくくった。
 振り仰いだ秋の青い空。
 両側から侵食し合うようにその青を埋める赤と黄の葉の色。
 イチョウはくるりと回転しながら落ちてくる。
 カエデはふわりと地上に被さるように落ちてくる。
 それを下から見上げる様は確かに絶景だった。
「綺麗ですね」
「………ああ……」
「宍戸さんがですよ…」
「…、ふざけんなアホ…ッ…!」
 もうほんとばか。
 脱力する宍戸は、がっくりと肩を落とした。
 もうどこまで聞かれてるか知らないが、とんだバカップルじゃねえかと、宍戸は鳳を横目で睨みつけた。
「勿論紅葉も綺麗だし」
「………ああ、そーかい」
「来年は一緒に見るの難しいかもしれないから」
「………………」
 宍戸が高等部に上がる来年は。
 鳳の言うように、ここで二人で紅葉を見る事は難しいに違いない。
 ふう、と宍戸は溜息を吐き出した。
「綺麗なものとか、楽しいこととか。しんどいこととか、苦しいこととか」
「………………」
「俺は全部、宍戸さんと一緒に、見たりしたりしたいです」
 本当は。
 全部一緒だなんて無理な話だと。
 宍戸は勿論、鳳だって判っているに違いない。
 それでも、それならせめて、一つでも多く、と。
 そう願う事は出来るのだ。
 十を望んで努力した人間は、八を手に入れる事が出来るけれど。
 五を望んで努力をしても、決して八を手に入れることは出来ない筈だから。
 最初に全部を、と望めば。
 全部に近い数を手に入れられるかもしれない。
「………おい。まさか来月クリスマスも、どこかベタな所で何かしでかす気じゃねえだろうな」
「だめですか」
 至極あっさりとそう言って、鳳は遠慮がちに微笑む。
「いやですか?」
 でもその後すぐに、こんな風に囁くのはずるい。
 伺うような感じはなくて、でもすごく優しくて、少し気落ちして。
 宍戸が一瞬息を詰め、鳳はそこにやんわりと切り込んできた。
「初日の出も一緒に見たいです」
「………どうしてそう浮くようなとこばっかり行きたがんだよ。オマエ」
 カップルしかいねえようなとこ、と宍戸が憂鬱そうに言えば、鳳は即答する。
「浮きませんよ」
「…………………」
「どうして浮くんですか」
 嗜め、言い聞かせるような口調が甘くて、宍戸はゆっくり赤くなる。
「…………………」
 だめだこいつ。
 そう思って。
「宍戸さん」
「………別に男同士で、クリスマスやら初日の出やらでもいいんだろうけどよ……お前が」
「俺が?」
「…………………」
「何ですか?」
「…………んでもねえよ…っ…」
 お前が、の続きの言葉を宍戸は飲み込んだ。
 どうせ言っても鳳には判るまい。

 少しずつ大人びてくる綺麗な男。
 穏やかで、優しい、その態度で。
 決して流されず、諦めもせず、真摯に宍戸だけを見つめてくる、そんな鳳と居ると。
 宍戸も、気持ちを無駄に揺らがすのは止めようという気になった。
 卑屈になったり、やましく思う事はない。
 自分達が手にしているのは、あくまでも、互いへの幸い多い恋愛感情だ。
 気付かない振りをするべきだと判っていて声をかけた。
「眠れない? 宍戸さん」
「………………」
「どうしたの?」
 理由なんか、とうに知っていて尋ねた。
 嫌な夢でも?と囁きながら腕を伸ばした。
 同じベッドにいる宍戸を、鳳は、もっと自分の方へと抱き寄せる。
「………………」
 横たわったまま肩を抱き寄せると、手にひどくか細く感じた宍戸の身体は温かかった。
 髪の匂いが甘い。
 氷帝の特別枠での全国大会出場が決まった日だから、眠れない事を指摘してしまうのは、あまり趣味の良い話ではないと鳳は判っている。
 それでも。
 本当はいつだって、こじ開けてでも、宍戸の心情を知りたい欲求が鳳の中にはあって。
 飢餓するように欲して。
 鳳は、部活が終わった後、宍戸を連れ帰った。
 無理を通して泊まっていかせた。
「………………」
 短くなっても柔らかい黒髪に頬を寄せて、黙って宍戸の背を抱きこんでいた鳳の耳に、漸く宍戸の声が届く。
 静かな、微かに苦笑めいたものの交じる声だった。
「いいぜ。そんな気使わなくて」
「使ってません」
 多分宍戸は、どういう経緯でもいいからと、全国大会への出場を望んだ今。
 それでも考えるであろうあれこれを、この肢体の中に抱えている。
 それは鳳にも判っていて、しかし、高揚にか、懸念にか、寝付けずにいる宍戸を、気遣ってこうしているわけではないのだと、苦笑いを浮かべるのは寧ろ鳳の方だった。
「そう言う所が優しいんだよ。お前は」
「優しくなんかありません……」
 ひどいですよ、と全て判るように身体を宍戸に密着させて抱き締め直した。
「…………さっき……したよな」
「しました」
「………二回、したよな?」
「二回しましたね」
 じゃあなんでこれ、ともつれるような声を吸い取るように鳳は宍戸の唇に口付けた。
 躊躇ってもがく指を、全部の自分の指でからめとって手を繋ぐ。
「俺も、もう眠れない」
「…………………」
 宍戸の腿に放熱する自分を密着させながら、鳳は宍戸を組み敷いた。
 小さく息を飲んで震えた宍戸のTシャツを毛布の中でたくし上げる。
 見えない素肌に手を這わせると宍戸の唇が物言いた気に動いた。
「……っ…ん…」
 噛み付くようなキスを首筋に繰り返すと、宍戸の指が鳳の指と組み合ったまま震えた。
 鳳の手の甲、指の付け根に。
 宍戸の指先が食い込む。
「…ァ、…っ…ッ」
「いい匂い……」
「………ッ、…ん、っ」
 剥き出しの首筋に唇を滑らせながら宍戸の脇腹を膝の側面で擦り上げると、鳳の正気も飛ぶような濡れた溜息で宍戸が息を詰めた。
「宍戸さん…」
「……………ぁ…、……ぅ…」
 手の中であやすように触れたのは一瞬で。
 痛ませないように加減をしながらも、手のひらで繰り返し力を加えて、宍戸の声を引き出して。
 熱い吐息を零す苦しげな唇に口付けを幾重にも重ね、宍戸が先をよめないうちに深くその身体を拓いていった。
「ぅ……、…っ……く、…ン…」
 それもやはり毛布の中で、宍戸は両目を見開いたまま顎を反らせて衝動に喉を震わせている。
 鳳は、ゆっくりと、深くまで進み、両手で宍戸の頭を抱え込むように唇も同じだけ深く重ねた。
「……、…ッ……、っ、ッ…」
「………日吉の事いつから名前で呼んでました? 宍戸さん」
「…ぇ……?…な…、…っァ…」
 鳳の手は宍戸の顔を固定しながら指先で耳の縁も辿っていて、体感するものに呑まれてか、言葉を聞き取りづらい為にか、宍戸が混乱したような声をもらして息を乱す。
「ね、…宍戸さん…」
「……ァ……、っア、…な…に…、…っ…ァ…」
 身体を繋げたまま、宍戸の上半身をシーツに押し付けるようにうつ伏せさせて、鳳は宍戸の耳を唇に吸い込みながら細い腰から揺さぶり上げた。
「…ャ…、…ッ……あ…っ…ァ」
「若、って……」
「……ン……ぅ…、…っ…」
 うつ伏せになったものの自らの腕で身体を支える余裕もまるでない宍戸に、鳳は覆い被さり、肩を抱き込み囁きながら繰り返し身の内を奪う。
 耳朶に直接囁かれる言葉にも宍戸は崩れていって、だから鳳も何が何でも答えを聞きたい訳ではなく、次第に問いかけは止めていった。
 代わりに背後から、宍戸の身体を突き上げては引きずりおろし、宍戸に触れていた手では濃すぎる愛撫を執拗に与えた。
「長…太郎…、…」
「………はい…」
 肩越しに振り仰いできた宍戸の濡れた眼差しに、辛いですか、と鳳は口にする。
「も、……っ………」
 宍戸はそれだけ言うのが精一杯だったようで、きつく目を閉じると、鳳に揺さぶられたまま身体を痙攣させた。
 枕に最後の声を埋める宍戸の細いうなじに、鳳は口付けた。
 震えの一層酷くなった宍戸の首の裏側に強く印した真紅の跡を、間近に見下ろし、鳳は。
 きっかけは些細な事でしかないものから生まれる、この焦燥感や、飢餓感、独占欲が。
 せめてこれ以上宍戸を傷つけることのないように。
 これがせめて見極めの見張り線であるように。
 祈るように、口付け続けた。

 鳳の感情が宍戸の項に紅く在る。
 レギュラー落ちが言い渡された時の宍戸は平静だった。
 動じた様子はまるでなく、かといって無気力だとか、投げやりだったという感じもない。
 真直ぐ前を向いて、準レギュラーのコートへ向かっていった。
 そうやって向けられた背中は。
 それでも鳳の目には痛ましかった。
 その感情は、同情ではなく同調に近かった。
 自分のもののように、宍戸の心情は、鳳の感情を伝わってくる。
 宍戸は悔しさを、吐き出せないのではなく、今は、吐き出さないでいると鳳には思えた。
 何の為にそうしているのかは、すぐに。
 その日の夕刻過ぎに、鳳の知るところになった。
 練習を終えて、宍戸に声をかけられた。
 宍戸の後について鳳が向かった先は、ナイター設備が整っているのも関わらず、その時は暗がりのままのテニスコートだった。
 ネットを挟んで、コートに対峙した宍戸の表情はきつかった。
 だからこそ、話し出すきっかけを鳳の方からそっと口にした。
 その時、鳳は微笑んでさえいたのだが。
 宍戸の話を聞いていく過程で、その表情は一変した。
「、そんな話呑めるわけないでしょう…!」
 鳳の怒声の珍しさにか、宍戸は一瞬、やけに幼い表情をした。
 片首をかすかに傾げた。
 それでもすぐに宍戸の面立ちは引き締められたが、見慣れないそんな仕草は、いつまでも鳳の脳裏に強い印象を残した。
 消えない故に治まるものも治まらず、鳳は宍戸の言葉に畳み掛けて返答する。
 しかし宍戸も引きはしなかった。
「宍戸さん」
「呑んで貰う」  
「スカッドをラケットを持っていない宍戸さんに向かって打てって言うんですか?」
「そうだ」
「そんな真似が俺に出来る訳、」
「俺は負けたままで終わりたくない」
 次第に強くなる鳳の口調を遮って、きっぱりと宍戸は言った。
「このままでいたくない」
「宍戸さん」
「俺は勝ちたい」
「…待って下さい。宍戸さん」
「何もしないでいるなんて耐えられない」
「だからって……!」
 何で、と言った鳳の言葉は途中で掠れた。
 何でそんな方法で、と鳳は問いたかった。
 しかし宍戸は続くのは違う言葉だと思ったらしく、ネット越しに鳳との距離を僅かに詰めてきた。
「何でお前かって?」
 悲壮な面持ちの鳳に、宍戸はかすかに笑みを見せた。
 ネットを握り締めている宍戸の指が、震えて見えた。
「頭下げてでも、今の俺が頼みたいのはお前だけだ」
「……、…止め…」
 宍戸に、本当に、頭を下げかけられて、鳳は慌てた。
 思わず手を伸ばし、宍戸の肩を掴んでそれを止めさせる。
「止めてください。そんな真似」
 どうしてそんな事までと。
 叫び出したい衝動で、胸が痞える。
 宍戸の肩を掴んだ鳳の手に無意識の強い力が籠もり、宍戸が眉根を寄せた。
 それすらもう目に入らず、鳳は、胸でも喉でも、そこで息苦しく痞え出したものを振り払いたくて吐き出した。
「俺が、宍戸さんを好きだってこと、知ってますよね」
 尊敬だけでなく。
 先輩というだけでなく。
「……だからですか」
 それなら、俺なら、何でも言う事聞くと思ったんですか、と言った声は。
 鳳自身がびっくりするほど冷たかった。
「だからなんですか? 宍戸さん」
 ひどく残酷で自虐的な気分になった。
 鳳は宍戸の肩を掴む手に自分の意思で更に力を込める。
 自分が悔しいのか寂しいのか判らず、歯を食いしばったまま鳳は、宍戸を睨み据え、そこで息をのむ。
「………………」 
 暗がりで見つめた宍戸の怜悧な眼差しに、涙が浮かんでいく。
 ゆっくりと。
「………………」
 その事が、彼自身、どうしようもなく悔しいようで。
 絶対に涙を零すまいとして目を見開いているせいなのか、瞳の中で潤みながら揺らいでいく涙の様すらつぶさに見てとれた。
「………どうして…」
「………………」
「泣いたりするんですか…」
 愕然とした問いかけの言葉が駄目押ししたかのように、零れそうで零れないでいた震える雫が、とうとうその瞳の中から落下する。
 糸のように細く落ちていった涙はあまりにも綺麗すぎて。
 涙を湛えても、そして零しても、鳳を睨みつけてくるような宍戸の目のきつさはそのままで。
 泣いていても強い、その屈強な痛々しさに、胸が潰される。
「……宍戸さん」
「…………お前も…」
「…俺…? 何ですか?」
「お前も………だから…なのか?」
 涙の絡みついた睫毛が伏せられ、そんな一度の瞬きからですら、もう鳳は目が離せない。
「宍戸さん?………」
「俺が…お前を好きなの判ってて」
「…………え…?」
「知ってて、そういう…」
 泣かせたのは、自分なのかと。
 鳳は今更のように宍戸の顔を見て思った。
 何か叫び出してしまいそうな衝動が冷たく身体を突き抜けて、咄嗟にネット越しに宍戸の身体を抱き寄せる。
 抗いはせずに鳳の胸におさまった宍戸の身体は薄く感じた。
 痩せたのだと、間近に見下ろした首筋の細さに知る。
「お前に、俺の言う事全部きかせようなんて、思った事なんか、一度もねえよ……!」
「宍戸さん。ごめん……!」
 無理矢理に存在しもしない傲慢さをでっち上げたような己の言葉に鳳は今更のように気付いて、宍戸の身体を抱き込んだ。
 左手で宍戸の頭をかき抱き、右手で背中を引き込む。
 それでも足りなくて、唇を宍戸の髪に埋めて鳳は繰り返した。
「すみませんでした。勝手なこと言いました」
「…………………」
「傷つけたくなんかなかった……ごめん、宍戸さん、本当に」
「…………、アホ……!…」
 ぎゅっと背中のシャツが宍戸の手に握り込まれたのが判って、鳳はもう一度腕の中の身体を抱き締め直す。
 鳳は、今自分が宍戸にしたい事は何なのか、漸く判った気がした。
 今の宍戸に鳳がしたい事は、一つだけ。
 協力、したいだけだ。
「……俺を泣かせるなんて趣味悪ぃんだよお前……!」
「宍戸さん。ごめんね………」
 最初から、ちゃんと言えば良かったのだ。
「宍戸さんが好きです」
 宍戸の両肩に手をおいたまま身体を離して、鳳は宍戸を見つめた。
「俺に、手伝わせてくれますか?」
「…………………」
 強くなりたい人。
 負けたら、負けたままでいたくない人。
 だからまっすぐ前を見て、準レギュラーに交ざったあの背中を。
 自分は確かに見ていた筈なのにと。
 鳳は宍戸の目元を親指の付け根でそっと拭う。
「俺を選んでくれて、ありがとうございます」
 鳳の手にされるがまま、涙を拭われる時だけ目を閉じた宍戸も、静かに鳳を見つめた。
「…………………」
 交し合うものは、視線だけでも充分だった。
 それでもどこか引き合うように、額と額とを重ねて、一時。
 鳳と宍戸は、凪ぐような静けさを、暗がりのテニスコートで共有したのだった。
 例えば過度に金銭を使われたり、四六時中食べ物を奢られたりすることを、宍戸は本気で嫌う。
「俺は何か物を見て、いいなと思うとただ宍戸さんにあげたくなるだけなんですけどね……」
「時々やりすぎんだよ」
 鳳に渡される物を、簡単に受け取ったものの、それが後から本当にびっくりするような値段だったりする事を知った経験は一度や二度ではないのだ。
「食事に誘うのも、もっと一緒にいたいだけですし」
「じゃあ馬鹿高い所で食う必要ねえだろ」
 おっとりと苦笑いを浮かべる鳳をきつい眼差しで見上げて、宍戸は胸の前で腕を組む。
「それで? 今日は何なんだよ」
 土曜の今日は、学校は休みだが部活はあった。
 全てのメニューを済ませて、解散となった途端。
 宍戸は鳳に、そっと腕を取られた。
 人目を忍んだ微かな接触。
 鳳の腕はすぐに離れていった。
 しかしやわらかく微笑している後輩は、あからさまに物言いたげで。
 宍戸は深い溜息を吐き出しながら、大概の事を察した。
 常に邪気なく宍戸に接してくる鳳だったが、時折こんな風に、誘いを断られる事を恐れるような気弱な態度をとる。
 それに宍戸は弱かった。
「宍戸さん。ミルク鶏食べにいきませんか」
「………ミルク鶏?」
「はい」
 水の代わりにミルクを飲ませて育てた鶏だと鳳は説明した。
「普通の鶏とは味が違うそうですよ。タンパク質も特に豊富で、スポーツする人には最適なんだとか」
「へえ……」
「……食べてみませんか」
「…………………」
 微笑んでいるけれど、もし断ったら地の果てまで落ち込んで沈んでいきそうだなと宍戸は鳳を見て思う。
 ここのところ断ってばかりだったしな、と宍戸は心中でのみ呟き。
 頷いた。
「いいぜ」
「本当ですか?」
「疑ってんじゃねえよ」
「すみません」
 そう言った鳳の笑い顔が。
 純粋に明るくて。
 宍戸もつられて薄く笑み、ついてくるように片手で鳳を促して歩き出した。
 部室に行くまでの僅かな時間で、今晩の約束を交わす。
「車出すとか言うなよ」
「判ってます。電車に乗って歩いて行く方が、宍戸さんと一緒にいる時間が長いからそうします」
「………アホ」
 こんなに従順で。
 こんなに可愛いのに。
 そのくせどんどんと大人びていく身体つきや表情が。
 近頃の鳳を危うく目立たせる。
 最近キスの仕方も濃厚だよなあと。
 考えて、宍戸は。
「え、あれ…?…宍戸さん…首、真っ赤ですけど…どうかしましたか?!」
「………うるせ……」
 何考えてんだと羞恥に焼かれそうな宍戸にお構い無しに。
 鳳は至ってマイペースに宍戸を心配し、慌てていた。
 それは夕方に、再度待ち合わせをしてからも変わらず。
 風邪を心配しているようで、鳳は、彼自身が巻いていたマフラーを外して宍戸の首にかけるという真似まで往来でやってのけた。
 本当に、最近激しくも甘く悪目立ちするこの年下の男をどうしたものかと。
 宍戸はあちこちから向けられてくる密やかな注目を自覚しながら悩むのだった。


 悩みながらも、ミルク鶏は美味だった。
 宍戸の気に入った。
 食事を済ませた帰り際。
 盗むような鳳からのキスが宍戸に苦かったのは、食事の最後に鳳が食べたパセリのせいのようだった。
「パセリは結婚の約束を表すんですよ。知ってました?」
 そう言って見るからに苦そうなつけあわせのパセリを齧った鳳は。
 その苦い唇で。
 今。

 少し長く、宍戸の唇を塞いだ。
 実に判りやすく、とても喉が痛かった。
「………風邪か…」
 宍戸は溜息をつく。
 頭痛は我慢できない程ではないのだが、喉の痛みはどうにもいただけなかった。
 しかも、大層な風邪をひいてしまいそうな妙な予感があって、宍戸は今日の部活は休むことにした。
 普段なら無理をしてでもテニスだけはする宍戸だから、昼休みに跡部にその旨を伝えると、跡部は器用に片眉を跳ね上げて言った。
「………俺にうつる前にとっとと帰れ、か」
 跡部の尊大な言い草を思い出して宍戸は苦笑いする。
 普段なら腹もたつのだが、如何せん体調が悪いらしく怒る元気がない。
 別れ際跡部は宍戸に向かって何かを投げて寄こした。
 受け止めたプラスチック容器は、ルルスプラッシュ。
 ジェルタイプの喉の痛みと腫れ止め薬だった。
 気遣われた事を思うより。
 随分都合よく跡部がこんなものを持っているという事は。
 うつすなと言いながら、ひょっとしてこれは、跡部の風邪をうつされたんだろうかと宍戸は憂いだ顔になる。
 しかしここ数日、跡部が風邪をひいていた気配は感じなかったから、要するにひき始めの対処が肝心という事だろう。
 下駄箱で靴に履き替え校舎を出ると、ここ数日でめっきりと涼しくなってきた風に吹かれた。
「宍戸さん!」
 風に乗るように。
 その声はよく聞こえた。
 宍戸が振り返ると、中庭からこちらへ向かって走ってくる鳳は、まだかなり宍戸から離れた所にいる。
 しかしそこからあっという間に宍戸の目の前にやってきたこのスピードは、まさに全力疾走に違いなかった。
「宍戸さん。具合悪いって聞きましたけど…大丈夫なんですか?」
「ああ。今はたいしたことねーんだけど、何か嫌な予感がするから今日は帰る。悪いな長太郎」
 じゃあな、と手を上げて歩き出そうとした宍戸は。
 上げた手を鳳の手に包まれた。
「………おい」
 人はいないのだが、だからといって。
 宍戸は少し眉を顰めて、長身の鳳を見上げる。
 大人びた身体の、柔和な表情。
 鳳は、じっと宍戸を見つめてくる。
「送ります」
「……………」
「……って言ったら怒りますね。宍戸さん」
「おう。判ってんなら放せ」
 言われる気はしていたから宍戸は笑った。
「別に熱はないし気にすんな。おとなしく帰って、今日はさっさと寝る」
「……………」
 鳳もまた、宍戸にそう言われるのが判っていたように、微かに笑った。
 宍戸のそれとは違い、だいぶ苦い笑い方だったが。
「…じゃあ宍戸さん。せめて」
「………、…おい」
 鳳の視線が一瞬で周囲に巡らされたのが判って、宍戸は息を詰める。
 まさか、とか。
 やめろ、とか。
 言う隙は欠片も与えず、宍戸の首の裏側に鳳の両手の指がかかる。
 左右の手の指を互い違いに組ませた手で宍戸の首を包み、仰のかせ、案の定塞がれたのは唇だった。
「ン、………」
「……………」
「…………、…ぅ」
 咄嗟に宍戸が出来たのは。
 鳳のジャージの裾を掴んだくらいで。
 押しのけようとしても、それくらいではびくともしない。
「…っ、ん、」
 優しくて真摯で実直な年下の男は、宍戸の顔をはっきりと力で固定して、何度も何度も何度もキスをした。
 優しいキスを、幾重にも幾重にも重ねてきた。
 ちいさく弾むような音とか、清潔な唇のくれる熱心な接触とか。
 繰り返されて、宍戸は声を詰まらせる。
「……せめて…うつして」
「…俺の熱まで上げさせてどうすんだお前…っ…」
 微かに唇が離れた隙間で同時に口にした言葉。
「え、あ、すみません」
「…………アホ」
 生真面目に狼狽える鳳が。
 でも結局宍戸は可愛くて。
 悪態をつきながら、一度だけ、宍戸の方から伸び上がって口付けた。
「宍戸さ、」
「帰る!」
 冗談でなく熱まで出てきたかもしれないと宍戸は思った。

 顔が熱い。
 音楽室の扉の硝子窓越しに目が合った。
 鳳は微笑して扉を開けて廊下に出て行く。
「宍戸さん」
「おう」
 細い首の襟足にかかるくらいまでは伸びた髪に手を当てて、宍戸は立ち止まっていた。
 通り過ぎずに足を止めてくれていただけで嬉しい。
「何してんだ? 昼休みにこんなとこで」
「監督に頼まれて調律を…」
 背後のピアノを親指で指し示すようにした鳳に。
 宍戸が、ああ、道理でなと頷いた。
「何がですか?」
「お前がやけに楽しそうだから」
「楽しいですよ。でもそれはピアノのせいじゃなくて宍戸さんのせいですけど?」
 鳳は思わずまじまじと宍戸を見つめてそう言った。
 私物とはメーカーの違う、他国製のピアノ。
 貴重な機種でもあるそのピアノに触れるのは確かに楽しいが、宍戸とは、とても比べられるような対象にはない。
 心底からの鳳の台詞のせいなのか、宍戸は肩を落とすようにして溜息をついた。
「宍戸さん」
 しかし別段怒っているわけではないようで。
 鳳が呼ぶと、宍戸は羞恥にうっすら濡れたような目で、鳳のことを見上げてきた。
「……オマエなあ…」
「はい」
「…………ハイじゃねーだろうが…」
 ひとりごちる宍戸を見つめて笑みを深め、宍戸さんは?と鳳は尋ねた。
「もう昼は食べ終わったんですよね? どこかに行くところですか」
「昼寝。ちょっと寝不足なんだよ」
 家の外で昨夜喧嘩があって、警察来たり何なりで、と眉を顰めて小さく欠伸をする宍戸を、鳳は音楽室の中へするりと引き込んだ。
「長太郎?」
「じゃあ子守唄か何か弾きますから」
「おい…?」
 防音設備の完璧な音楽室の扉は、他の教室の扉とは造りがまるで違う。
 格子窓のように四角く切り取られた硝子部分にも内側から目隠しのカバーを引き下ろし、鍵をかければもう完璧な密室だ。
 鳳はグランドピアノに向かう。
「宍戸さん」
 ここね、と足を開いて座った鳳がスペースの空いた座面の上を軽く叩く。
「膝に乗れってか?」
「それもいいですけど、さすがに鍵盤見えないから、こう…ね」
「………………」
 宍戸の腕を引き、鳳は背後から宍戸を抱きこむようにして、椅子に二人掛けした。
 ピアノに向かい、子供に演奏の補助してやるように、腕を伸ばす。
「寄りかかっちゃって下さい。宍戸さん」
「……弾きにくくねえの。こんな体勢でよ」
「平気です」
 宍戸は落ち着かないように身じろいで、鳳を振り仰いで尋ねてくる。
 しかし鍛えられた上でも尚且つほっそりとしている宍戸の身体は、鳳の胸元にはびっくりするほど簡単におさまってしまっている。
 邪魔どころか、羽のように軽い。
「ここで聴くとまた音が違いますから……」
「……まあ…確かに一生かかったって俺がピアノを弾く事はないだろうから。ここで聴く事もないんだろうけどよ」
「もっと寄りかかっていいですよ。ソファか何かと思って」
 くすりと、宍戸は笑ったようだった。
「贅沢な話だな」
「俺の方がです」
 心の底からそう思って告げる。
「まだ途中だったんじゃないのか」
「調律ですか? ちょうど終わった所だったんです」
 それで試しに何を弾こうかと考えていた所で、宍戸と目が合ったのだ。
「………んー…」
 じゃあ、と宍戸が呟いて。
 ゆっくりと力の抜けていく身体が、鳳の胸元へと深く凭れかかってくる。
 柔らかい黒髪が鳳の肩口に埋まる。
 宍戸のこめかみに唇で触れてから、鳳は静かにピアノを奏でた。
 タイスの瞑想曲。
 宍戸の真直ぐで長い睫毛が静かに伏せられていく。
 なめらかな白い瞼が瞳を隠す。
 胸元に宍戸を寄りかからせて爪弾く音は、鳳自身が驚くほどに甘かった。
 こんな音を出した事が今まで一度でもあっただろうかとふと思う。
「…………………」
 すう、と静かに宍戸の呼吸が、深い深い所へと落ちていく。
 微かでささやかな変化にも全て合わせるように。
 鳳は指先で鍵盤を弾き奏でる音を、宍戸の呼吸や脈拍と同調させるようにつないだ。
 導かれるようにして眠っていく宍戸を、鳳は見下ろして。
 きれいな寝顔に微笑んだ。

 予鈴のチャイムが鳴るまでの間、鳳の演奏するピアノの調べは宍戸を眠らせた。
 鳳が手を止め、音が止んだ瞬間に。
 宍戸は目を開け、鳳は屈みこんでその唇を塞ぐ。
 すこし窮屈な角度で重なったキスが終わった瞬間の音は。
 ピアノの最後の音と、どこか似ていた。
 宍戸が名前を呼ばれて振り向くと、向日が上下にぴょこぴょこ跳ねながら恐ろしく早いスピードでこっちに向かって走ってくる。
 向日の器用なダッシュを目の当たりにし、いつものことながら宍戸は溜息をついた。
 全ての力を前方に向けた方が疲れも少ないに違いない。
「おはよー宍戸ー! 飴食う? てゆーか食え。お前の好きなミントだぞ!」
 あっという間に目の前に立った向日に押し切られるように宍戸は口に飴を入れられた。
「自分で食うっての…!」
「宍戸、口ちっちぇー……飴一個で中いっぱいじゃん!」
 指入れんなっ!とはっきりしない発音で喋らざるを得ないのは、向日の指が邪魔するからだ。
「おおー舌やわらかい!」
「気持ち悪い事ぬかすな!」
「あ、侑士ー! 聞いて聞いてー、宍戸の舌すっごいやわらかいの! でもって口ん中せまくってー」
 どういう言い草だと宍戸は不機嫌な顔で、向日と、彼が駆け寄った忍足とを見やる。
「………目笑ってねえよ。忍足の奴」
 向日の話を聞きながら宍戸を見てくる忍足の目は相当きつい。
 呆れて相手にしてられないと宍戸はさっさと部室に向かう。
「宍戸さん。おはようございます」
「ああ、」
 相手を判っているうえで気楽に振り返って応えた宍戸は背後にいた鳳の顔を見て。
 お前もかと脱力する。
「………長太郎」
「………………」
 目は笑っていないのに唇の端は綺麗に引き上げている後輩の表情に宍戸はあからさまな溜息を吐き出した。
「宍戸さん」
「何だよ」
 腕をとられた。
 引っ張られ、少し歩かされる。
「………………」
 学園の敷地内は豊富な植物に恵まれている。
 高樹齢の樹木も少なくなくて、そのうちの一本に宍戸は背中を押し当てられた。
 宍戸の二の腕に指を回しきる鳳の手は大きくて、加減した力で宍戸をつかみとってくる。
 少しずつ色を変え始めた葉影で、影を差し込ませた鳳の表情は危うい。
「おい。遅れると跡部がうるせーぞ」
「……他の人の話しないで」
「他の人ってな……あの何様の話だろうが」
「でもイヤです」
 断言と一緒に鳳は苦く笑んだ。
 彼自身がそれを無茶な理屈だと判って口にしているので、その表情は危なっかしくて仕方が無い。
 宍戸にしてみれば、叱り付けるほうがよほど簡単なのに。
 無性に甘やかしてやりたくてどうしようもなくなる厄介な目だ。
「宍戸さんの口の中とか舌とかの話を他の男から聞くのもイヤです」
「……おいおい…向日だぜ? 勘弁しろって」
「誰だと嫌で、誰なら良い、なんていう話じゃないんです」
「長太郎」
 相当な我儘だが、この後輩は決して宍戸の嫌う言葉や態度は使わない。
 だからたまにこんな風に駄々をこねられても、傷つけあうような喧嘩にはならいことが判っている。
「俺だって今日まだ触れてないのに……その飴はずっと宍戸さんの舌にあるんですよね」
「………お前…飴にまでかよ」
 宍戸は噴き出した。
 笑ったまま、憮然としている鳳に頬を包まれ、近づいてくる顔に目を細める。
「…持ってけ。アホ」
 宍戸から唇をひらくと、耐えかねたような鳳のキスで唇を塞がれた。
「………ん…」
 葉擦れの音がする。
 秋風は、まだ物寂しさよりもひどく暑かった夏の余韻を消すだけの快さで吹き付けてくる。
 鳳の舌は宍戸の口腔から飴を取っていかなかった。
「……………ぅ…」
 宍戸の口の中に入っている飴を、鳳は差し入れた舌で舐めて転がす。
「…っ………」
 薄く目を開けた宍戸は、自分の口の中で飴を舐めている鳳の、長い睫毛を間近に見て再び目を閉じた。
 ひどく生々しいことをしかけてくるくせに、鳳の整った清廉な顔に少しばかり腹が立って、意趣返しというように鳳の腕から抜け出る。
 普段逃げた事がないから、たまにこういう振る舞いをすると鳳には覿面によく効いた。
「…………、……」
 もどかしさと欲の滲む鳳の表情に気が晴れた側から、結局宍戸はそんな鳳を慰めてやりたくなるのだからどうしようもない。
「行くぞ。長太郎」
 放課後下駄箱で待ってろよとぶっきらぼうに付け加える。
 鳳はなだらかに微笑んだ。
「はい。宍戸さん」
 その表情につられて笑い、宍戸はもう見失いそうに小さくなっている飴の欠片に歯をたてた。
 パキンと音にならない音をたて、飴は形をなくしたが。
 キスの余韻までもが消失することはなかった。
 閉めきっている窓の外側から、叩きつけるような雨跡が見てとれて、宍戸は溜息をついた。
「さすがにこの天気じゃ明日は屋外コート使えねーな…」
 夕方から雨脚が強くなり、テレビでは今年二十一個目の台風情勢を伝えている。
「神様も宍戸さんの誕生日、お祝いしてくれてるみたいですね」
「ああ? この台風が祝いかよ?」
「はい」
 しなやかな腕が背後から伸びてきて、窓辺にいる宍戸は自分を抱き締める鳳の胸に凭れかかるようにしながら毒づいた。
「物騒な祝いだな」
「そんな事ないです。宍戸さんが自主練に出る時間もこうしていられるし」
「……お前もどうせ一緒だろうが」
「俺は宍戸さんのお家に止めて貰えるし」
「こんだけ降ってりゃ、」
 仰向くように仰け反った宍戸は、鳳の指に顎を支えられ普段と向きの逆なキスを受け止める。
「…………、ん…」
「誕生日おめでとうございます」
「………何度目だよ…それ…」
「何度でも。宍戸さん」
 おめでとうという言葉を封じ込めるようにキスが繰り返されて。
 宍戸の耳に聞こえていた雨音や車が走行する時の飛沫の音が薄れていく。
 不安定な角度から舌を探られる物慣れないキスにじっくりと追い詰められて。
 宍戸は、何だか神様に礼を言ってもいいような気になった。
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