How did you feel at your first kiss?
乾は海堂がショーケースの前で立ち止まっているのを見た時、どうしようかなと一瞬迷った。
何に対して迷ったのかというと、海堂に声をかけるかどうか。
迷った理由は海堂が何を見ているか遠目からでも判ったからだ。
そのショップのガラスケースの中に納められているのは、最近インテリアとしての需要も高まっているらしい透明標本だ。
身体の全てが透明な魚類の標本。
乾も何度かそこで足を止めて見たことがある。
「自主トレ?」
結局乾は少しの間迷ってから、静かに近づいていって海堂に声をかけた。
呼びかけに乾の方を見た海堂の黒髪は毛先が汗で湿っていた。
額にもうっすらと汗が浮かんでいる。
普段通りにかなりの距離を走ったのだろうと踏んで、乾は海堂の隣に肩を並べた。
海堂は依然目を見開いたまま乾を見上げてくる。
その後に、言葉より先に黙礼が返ってくるあたりが海堂らしいなと乾は思った。
三月に入って、だいぶ春めいた気配も出てきた。
すでに海堂はノースリーブでランニングをしている。
今日などはかなり暖かいけれども、それでも剥き出しの肩は、まだ少し目には寒々しい。
乾もまた黙ってじっと海堂を見ていると。
「乾先輩」
しばらくして呼びかけられる。
やっと乾が聞いた海堂の声音。
やわらかな唇からの硬質な呟き。
冷やしたら駄目だろ、と乾が眼差しだけで告げると、きちんと通じたようで、海堂は黙って腰に巻いていたジャージを羽織った。
着た、とでも言うように再度海堂が顔を上げて乾を見上げてくる様が可愛いと乾は思って。
海堂の背中を手のひらで軽く、ぽんと叩き、改めてショーケースに目線をやった。
「出来上がるまでに一年近くかかるのもあるらしいな」
これ、と乾が低く呟くと。
透明なんですね、と海堂も商品を見据えたまま言う。
「……そうだな。筋肉を透明化してあるんだ。その上で、硬骨は赤に、軟骨は青に染色する」
透き通って、色が付き、内部の何もかもをさらした標本だ。
ガラス瓶の中の、かつては命の在った魚は、今では生き物だった事が信じられないような存在になっている。
乾はそっと海堂を流し見た。
気づいた海堂が乾の眼差しを受け止めて、目と目が合った。
「これを見るとさ」
「………………」
「いつも俺は、海堂はどう思うかなって考えた」
「……俺…っすか…?」
「ああ。別にこの透明標本に限った話じゃないけど」
乾の日常に、海堂は、いるのだ。
実際に目の前にはいなくても。
それでも必ずいるみたいに、海堂がどう思うかを乾は日常の中で幾度となく考える。
海堂が好きそうだとか、嫌いだろうなとかも考える。
乾の思考に当たり前のように存在する、実体化していない海堂と、そんな海堂を住まわせる乾と、どちらがこの透明な標本に近いのだろう。
何もかも見えすぎて目に入らないくらいだ。
「俺も、今あんたのこと考えてたっすよ」
「ん?」
「あんただったら、これ見てどう言うかとか、何を思うかとか」
それを考えていたから。
あんたが現れてびっくりしたと海堂は薄く笑った。
たぶん乾にしか判らないくらいの、微かな、微かな、笑みだった。
消えてしまうのがもったいない。
乾はそう思ったけれど。
そういう海堂の表情は彼の顔からは消えても乾の記憶には全部残るし、これからもまた何かの拍子に見せて貰える可能性もある。
だからこの一瞬が、ほんの少しも惜しくはないのだ。
「俺ならどう思うって、海堂は思ったんだ?」
乾は思った。
海堂ならば。
これを見て、きっと、生きていたものが標本になっているという事実に対してだけではないところまで、乾では到達できない地点での、痛んだ思いを抱くのではないだろうか。
歪んだ倫理感の中で、どこまでも明るく、美しく透明なものになった魚に。
自分のように好奇心や興味ではなく、どこか痛ましさをいだくのではないだろうかと乾は思っていたので。
「……先輩は、自分に置き換えるんだろうなって思った」
「…ん?」
「自分も、こういう風にさらけ出したらどうなるんだろうとか。……うまく言えねえけど…」
充分きちんと伝わる言葉で。
しかし海堂はぎこちなく言い淀む。
「あんたは……ぜんぶ、自分に置き換えて考えるから時々心配になる」
「海堂?」
「…寂しいのとか、辛いのとか、痛いのとか。わざわざあんたが自分から、そっちに飛び込んでいく所が怖いんですよ」
海堂は真面目だった。
表情も、声も、話し方も。
乾が時々自分自身を置く、孤独ではなく孤立の領域を、海堂は知っているようだった。
何故気づかれたのかと乾は苦笑いを浮かべるけれど。
「何もあんたが、こういう存在になる事ないです」
「うん…」
「……何考えてるか時々本当に、判らないですけど。だからって無理に暴こうとは思わないから」
そんな顔しなくていいですと海堂は言った。
顔。
ショーケースに映る自分の顔に、海堂は何を見とったのかなと考えながら、乾は少しだけ海堂の指先を手に取った。
その一瞬でよかったのに。
手を繋いできたのは海堂からだった。
手を離してきたのも海堂からだった。
手に、そっと残る感触に。
乾はその場で目を閉じる。
乾は、その透き通った標本へ好奇心や興味を抱き、それに同化する。
海堂は、同じ物へ、どこか仄かな痛ましさを抱き、それに共存する。
「海堂」
「はい…?」
「明け透けになるのが怖くなってきたから」
「………………」
「すごく閉じこもりたいんだけど」
うち来ない?と乾が前方を見据えたまま問いかけると、同じく前を見たままの海堂が、最後の一言しか意味が判らねえと文句を言いながら。
少し赤い顔をほんの一瞬見せてから、背を向けて。
乾の家の方角へ、歩きだした。
何に対して迷ったのかというと、海堂に声をかけるかどうか。
迷った理由は海堂が何を見ているか遠目からでも判ったからだ。
そのショップのガラスケースの中に納められているのは、最近インテリアとしての需要も高まっているらしい透明標本だ。
身体の全てが透明な魚類の標本。
乾も何度かそこで足を止めて見たことがある。
「自主トレ?」
結局乾は少しの間迷ってから、静かに近づいていって海堂に声をかけた。
呼びかけに乾の方を見た海堂の黒髪は毛先が汗で湿っていた。
額にもうっすらと汗が浮かんでいる。
普段通りにかなりの距離を走ったのだろうと踏んで、乾は海堂の隣に肩を並べた。
海堂は依然目を見開いたまま乾を見上げてくる。
その後に、言葉より先に黙礼が返ってくるあたりが海堂らしいなと乾は思った。
三月に入って、だいぶ春めいた気配も出てきた。
すでに海堂はノースリーブでランニングをしている。
今日などはかなり暖かいけれども、それでも剥き出しの肩は、まだ少し目には寒々しい。
乾もまた黙ってじっと海堂を見ていると。
「乾先輩」
しばらくして呼びかけられる。
やっと乾が聞いた海堂の声音。
やわらかな唇からの硬質な呟き。
冷やしたら駄目だろ、と乾が眼差しだけで告げると、きちんと通じたようで、海堂は黙って腰に巻いていたジャージを羽織った。
着た、とでも言うように再度海堂が顔を上げて乾を見上げてくる様が可愛いと乾は思って。
海堂の背中を手のひらで軽く、ぽんと叩き、改めてショーケースに目線をやった。
「出来上がるまでに一年近くかかるのもあるらしいな」
これ、と乾が低く呟くと。
透明なんですね、と海堂も商品を見据えたまま言う。
「……そうだな。筋肉を透明化してあるんだ。その上で、硬骨は赤に、軟骨は青に染色する」
透き通って、色が付き、内部の何もかもをさらした標本だ。
ガラス瓶の中の、かつては命の在った魚は、今では生き物だった事が信じられないような存在になっている。
乾はそっと海堂を流し見た。
気づいた海堂が乾の眼差しを受け止めて、目と目が合った。
「これを見るとさ」
「………………」
「いつも俺は、海堂はどう思うかなって考えた」
「……俺…っすか…?」
「ああ。別にこの透明標本に限った話じゃないけど」
乾の日常に、海堂は、いるのだ。
実際に目の前にはいなくても。
それでも必ずいるみたいに、海堂がどう思うかを乾は日常の中で幾度となく考える。
海堂が好きそうだとか、嫌いだろうなとかも考える。
乾の思考に当たり前のように存在する、実体化していない海堂と、そんな海堂を住まわせる乾と、どちらがこの透明な標本に近いのだろう。
何もかも見えすぎて目に入らないくらいだ。
「俺も、今あんたのこと考えてたっすよ」
「ん?」
「あんただったら、これ見てどう言うかとか、何を思うかとか」
それを考えていたから。
あんたが現れてびっくりしたと海堂は薄く笑った。
たぶん乾にしか判らないくらいの、微かな、微かな、笑みだった。
消えてしまうのがもったいない。
乾はそう思ったけれど。
そういう海堂の表情は彼の顔からは消えても乾の記憶には全部残るし、これからもまた何かの拍子に見せて貰える可能性もある。
だからこの一瞬が、ほんの少しも惜しくはないのだ。
「俺ならどう思うって、海堂は思ったんだ?」
乾は思った。
海堂ならば。
これを見て、きっと、生きていたものが標本になっているという事実に対してだけではないところまで、乾では到達できない地点での、痛んだ思いを抱くのではないだろうか。
歪んだ倫理感の中で、どこまでも明るく、美しく透明なものになった魚に。
自分のように好奇心や興味ではなく、どこか痛ましさをいだくのではないだろうかと乾は思っていたので。
「……先輩は、自分に置き換えるんだろうなって思った」
「…ん?」
「自分も、こういう風にさらけ出したらどうなるんだろうとか。……うまく言えねえけど…」
充分きちんと伝わる言葉で。
しかし海堂はぎこちなく言い淀む。
「あんたは……ぜんぶ、自分に置き換えて考えるから時々心配になる」
「海堂?」
「…寂しいのとか、辛いのとか、痛いのとか。わざわざあんたが自分から、そっちに飛び込んでいく所が怖いんですよ」
海堂は真面目だった。
表情も、声も、話し方も。
乾が時々自分自身を置く、孤独ではなく孤立の領域を、海堂は知っているようだった。
何故気づかれたのかと乾は苦笑いを浮かべるけれど。
「何もあんたが、こういう存在になる事ないです」
「うん…」
「……何考えてるか時々本当に、判らないですけど。だからって無理に暴こうとは思わないから」
そんな顔しなくていいですと海堂は言った。
顔。
ショーケースに映る自分の顔に、海堂は何を見とったのかなと考えながら、乾は少しだけ海堂の指先を手に取った。
その一瞬でよかったのに。
手を繋いできたのは海堂からだった。
手を離してきたのも海堂からだった。
手に、そっと残る感触に。
乾はその場で目を閉じる。
乾は、その透き通った標本へ好奇心や興味を抱き、それに同化する。
海堂は、同じ物へ、どこか仄かな痛ましさを抱き、それに共存する。
「海堂」
「はい…?」
「明け透けになるのが怖くなってきたから」
「………………」
「すごく閉じこもりたいんだけど」
うち来ない?と乾が前方を見据えたまま問いかけると、同じく前を見たままの海堂が、最後の一言しか意味が判らねえと文句を言いながら。
少し赤い顔をほんの一瞬見せてから、背を向けて。
乾の家の方角へ、歩きだした。
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跡部は物凄く真面目だ。
近頃神尾はそう思うようになった。
出会った当初はそんな事思いもしなかったけれど。
跡部という男は、見た目がとにかく派手でよく目立つ。
言ってる事もやってる事も奇抜で突出している。
彼の場合、あまりにもきらびやかな容姿とその言動だから、一見するだけでは真面目という言葉とは無縁なのだが、付き合う時間が長くなるにつけ実際の所はとても真面目な男なのだと神尾にも判ってきた。
跡部は真面目だ。
その真面目さは実に多方面に渡るのだけれど。
例えば今神尾の唇をキスで塞いだ後、そっと唇を離しての至近距離で。
見ている側の心臓に悪いような整った顔で、ひどく生真面目に跡部は神尾を見据える。
強い、眼差し。
跡部は濡れた唇をひらく。
「お前、この間熱出しただろ」
「……え…?」
神尾がぼうっとなっているのは、キスを交わしたばかりの唇が、まだうまく動かないからだ。
跡部の唇と合わさって、舌で絡んで、息を混ぜた。
唇から甘苦しい熱に埋まって、塞がれたのか塞いだのか。
せきとめたのか封じ込めたのか。
粘膜に浸るように濡れて、潤んで、それでいて渇いて。
飲んで、とけて、熟れて、ゆるむ。
ねつ?とそれこそ今熱に浮かされたような状態で神尾はぼんやり言われた言葉を反芻する。
跡部は怜悧な眼差しで神尾を見据え、ゆっくりと、もう一度軽く触れ合わせるキスで唇を掠めてくる。
重なるだけの、やわらかいふんわりとした接触は甘くて、神尾は目を閉じてそれを受け止める。
首の裏側が痛いくらいに熱くなる。
そのまますっぽりと跡部の両腕に全身を抱き込まれた。
こんな風に、ずっと。
そういえば立ったままだった。
跡部の部屋に入るなり、腕を引かれて、抱きすくめられ、口づけられて。
言葉を交わすより先、性急に跡部から与えられたキスで神尾の足下はすでにおぼつかない。
しっかりと、跡部がその腕で抱きとめていてくれているけれど。
甘い香りがふわりと動く。
神尾の耳元すぐ近く。
低いなめらかな声で囁かれる。
跡部の、声だ。
神尾の思考も脳裏も、そう認識した途端震えた。
「……俺は、お前を抱くのを止めねえからな」
「………………」
「だから、それで体調崩すとか、そのへんの事はお前が自分でどうにかしろ」
俺にはどうもしてやれねえから、と。
横柄な態度で、まるで気弱にも聞こえるような言葉を、甘い声音で断言される。
突き放されているような言葉が、何故か何より強く神尾を縛り付けてくるようだった。
神尾は跡部の胸元に顔を寄せながら、ぼうっとしたまま跡部な名前を呼ぶ。
そうすると跡部の手に後ろ髪を撫でられた。
どこか耐えかねたような手つきはやはり真面目な印象で神尾はおとなしくそれを受け入れた。
判ったな、ときつく威圧的に言い含められ、返事の有無より先にまたキスがくる。
今度のは最初から深くて、強くて、濃度の濃いキスだった。
跡部に抱きしめられるまま唇が塞がれ、背筋が反って。
がっつかれているというのが一番正しいようなやり方で、執拗に舌を貪られる。
神尾の膝が危うくぶれて、そのまますぐ脇にあったソファにキスで組みしかれる。
外れる事のない唇。
とめられた呼吸。
跡部の身体が神尾に乗り上がり両肩をソファに押さえつけられながら一時もキスはやまない。
神尾は震える手を伸ばす。
跡部の肩口のシャツを掴み閉めながら、唇を塞がれたまま目を開ける。
間近に、目を閉じた跡部の目元が見えてくる。
長い真っ直ぐな睫、なだらかな瞼。
胸が詰まる。
跡部が濃い睫をゆっくりと引き上げて、目を開ける様を見届けて尚更に。
神尾は壊れそうになる。
跡部は真面目に神尾を見つめる。
真面目に神尾を抱き締めて、真面目に神尾に執着してくる。
「……具合、悪くするんじゃねえぞ」
真面目に脅して。
「いいな」
真面目に凄んで。
「神尾」
真面目に荒い、キスをする。
少しも遊ばない真剣な手で、神尾の身体を辿り、探り、中へ奥へと忍んでくる。
だめだと神尾は思っていた。
だめだ。
跡部が言ったようには出来ない。
具合が悪いとかじゃなくて。
跡部といると、熱が上がる。
くらくらする。
好きで?と自問するまでもなく、ただ好きで。
それだけだ。
膨れ上がる気持ちは何度でも何度でも神尾を内側から埋めてくるのだ。
跡部がいて、こうしていて、神尾はふつうでいられなくなる。
跡部、と呼ぼうとして動いた神尾の唇は、結局言葉にならずに震えただけだった。
跡部が好きで、壊れてしまいそうな神尾の正気を跡部は真剣に叱るけれど。
神尾にだってそんな事どうしようもないのだ。
好きだという感情は育って、終わらなくて、止めどない。
涙ぐんで、神尾は両手で跡部に縋った。
神尾が子供のようにしがみつくと少しだけ八つ当たりみたいな熱っぽい悪態をつきながらも、跡部は神尾を抱きしめてくれる。
同じ力で、同じ戸惑いで、同じ切迫感で。
「俺は、止めないからな」
「…うん……うん」
頷くだけで、嬉しいって、ちゃんと伝わるかなと不安になる神尾を跡部は強い力できちんと拘束してくれて。
「跡部…」
「泣くな、馬鹿」
涙が出る訳なんか判ってるくせに真面目に苦い呟きをこぼす跡部が好きで、神尾は安心した。
眦に唇を寄せて神尾の涙を吸い取った跡部の頭を抱え込むようにして。
なめらかな髪の感触、甘い匂い。
神尾は五感すら吸い込まれていくような跡部という存在を両腕に抱きしめて、気持ちをひらいた。
「跡部、」
「……おかしく、させるな。これ以上」
「…跡部」
欲しい、とただひたすら、願うように神尾は思う。
壊れない自分をあげるから、おかしくなる跡部を全部くれたら嬉しい。
神尾は静かに息を吸い、深く呼吸をしながら、それだけを希う。
手を、伸ばして、懇願を放った。
近頃神尾はそう思うようになった。
出会った当初はそんな事思いもしなかったけれど。
跡部という男は、見た目がとにかく派手でよく目立つ。
言ってる事もやってる事も奇抜で突出している。
彼の場合、あまりにもきらびやかな容姿とその言動だから、一見するだけでは真面目という言葉とは無縁なのだが、付き合う時間が長くなるにつけ実際の所はとても真面目な男なのだと神尾にも判ってきた。
跡部は真面目だ。
その真面目さは実に多方面に渡るのだけれど。
例えば今神尾の唇をキスで塞いだ後、そっと唇を離しての至近距離で。
見ている側の心臓に悪いような整った顔で、ひどく生真面目に跡部は神尾を見据える。
強い、眼差し。
跡部は濡れた唇をひらく。
「お前、この間熱出しただろ」
「……え…?」
神尾がぼうっとなっているのは、キスを交わしたばかりの唇が、まだうまく動かないからだ。
跡部の唇と合わさって、舌で絡んで、息を混ぜた。
唇から甘苦しい熱に埋まって、塞がれたのか塞いだのか。
せきとめたのか封じ込めたのか。
粘膜に浸るように濡れて、潤んで、それでいて渇いて。
飲んで、とけて、熟れて、ゆるむ。
ねつ?とそれこそ今熱に浮かされたような状態で神尾はぼんやり言われた言葉を反芻する。
跡部は怜悧な眼差しで神尾を見据え、ゆっくりと、もう一度軽く触れ合わせるキスで唇を掠めてくる。
重なるだけの、やわらかいふんわりとした接触は甘くて、神尾は目を閉じてそれを受け止める。
首の裏側が痛いくらいに熱くなる。
そのまますっぽりと跡部の両腕に全身を抱き込まれた。
こんな風に、ずっと。
そういえば立ったままだった。
跡部の部屋に入るなり、腕を引かれて、抱きすくめられ、口づけられて。
言葉を交わすより先、性急に跡部から与えられたキスで神尾の足下はすでにおぼつかない。
しっかりと、跡部がその腕で抱きとめていてくれているけれど。
甘い香りがふわりと動く。
神尾の耳元すぐ近く。
低いなめらかな声で囁かれる。
跡部の、声だ。
神尾の思考も脳裏も、そう認識した途端震えた。
「……俺は、お前を抱くのを止めねえからな」
「………………」
「だから、それで体調崩すとか、そのへんの事はお前が自分でどうにかしろ」
俺にはどうもしてやれねえから、と。
横柄な態度で、まるで気弱にも聞こえるような言葉を、甘い声音で断言される。
突き放されているような言葉が、何故か何より強く神尾を縛り付けてくるようだった。
神尾は跡部の胸元に顔を寄せながら、ぼうっとしたまま跡部な名前を呼ぶ。
そうすると跡部の手に後ろ髪を撫でられた。
どこか耐えかねたような手つきはやはり真面目な印象で神尾はおとなしくそれを受け入れた。
判ったな、ときつく威圧的に言い含められ、返事の有無より先にまたキスがくる。
今度のは最初から深くて、強くて、濃度の濃いキスだった。
跡部に抱きしめられるまま唇が塞がれ、背筋が反って。
がっつかれているというのが一番正しいようなやり方で、執拗に舌を貪られる。
神尾の膝が危うくぶれて、そのまますぐ脇にあったソファにキスで組みしかれる。
外れる事のない唇。
とめられた呼吸。
跡部の身体が神尾に乗り上がり両肩をソファに押さえつけられながら一時もキスはやまない。
神尾は震える手を伸ばす。
跡部の肩口のシャツを掴み閉めながら、唇を塞がれたまま目を開ける。
間近に、目を閉じた跡部の目元が見えてくる。
長い真っ直ぐな睫、なだらかな瞼。
胸が詰まる。
跡部が濃い睫をゆっくりと引き上げて、目を開ける様を見届けて尚更に。
神尾は壊れそうになる。
跡部は真面目に神尾を見つめる。
真面目に神尾を抱き締めて、真面目に神尾に執着してくる。
「……具合、悪くするんじゃねえぞ」
真面目に脅して。
「いいな」
真面目に凄んで。
「神尾」
真面目に荒い、キスをする。
少しも遊ばない真剣な手で、神尾の身体を辿り、探り、中へ奥へと忍んでくる。
だめだと神尾は思っていた。
だめだ。
跡部が言ったようには出来ない。
具合が悪いとかじゃなくて。
跡部といると、熱が上がる。
くらくらする。
好きで?と自問するまでもなく、ただ好きで。
それだけだ。
膨れ上がる気持ちは何度でも何度でも神尾を内側から埋めてくるのだ。
跡部がいて、こうしていて、神尾はふつうでいられなくなる。
跡部、と呼ぼうとして動いた神尾の唇は、結局言葉にならずに震えただけだった。
跡部が好きで、壊れてしまいそうな神尾の正気を跡部は真剣に叱るけれど。
神尾にだってそんな事どうしようもないのだ。
好きだという感情は育って、終わらなくて、止めどない。
涙ぐんで、神尾は両手で跡部に縋った。
神尾が子供のようにしがみつくと少しだけ八つ当たりみたいな熱っぽい悪態をつきながらも、跡部は神尾を抱きしめてくれる。
同じ力で、同じ戸惑いで、同じ切迫感で。
「俺は、止めないからな」
「…うん……うん」
頷くだけで、嬉しいって、ちゃんと伝わるかなと不安になる神尾を跡部は強い力できちんと拘束してくれて。
「跡部…」
「泣くな、馬鹿」
涙が出る訳なんか判ってるくせに真面目に苦い呟きをこぼす跡部が好きで、神尾は安心した。
眦に唇を寄せて神尾の涙を吸い取った跡部の頭を抱え込むようにして。
なめらかな髪の感触、甘い匂い。
神尾は五感すら吸い込まれていくような跡部という存在を両腕に抱きしめて、気持ちをひらいた。
「跡部、」
「……おかしく、させるな。これ以上」
「…跡部」
欲しい、とただひたすら、願うように神尾は思う。
壊れない自分をあげるから、おかしくなる跡部を全部くれたら嬉しい。
神尾は静かに息を吸い、深く呼吸をしながら、それだけを希う。
手を、伸ばして、懇願を放った。
鳳が自分の部屋の扉を閉めたのと訪ねてきた宍戸の腕を引き寄せたのはほぼ同時だった。
部屋の扉はきちんと閉まった。
けれども宍戸は鳳の胸元には収まらなかった。
「……宍戸さん?」
足を踏みとどまらせて距離をつくる宍戸を見下ろし、鳳が小さく呼びかける。
何か怒ってでもいるのかと訝しんだ鳳の心中を察したように。
宍戸は取り立てて怒っているような様子もない上目をくれて。
あっさりと、もう少ししてからな、とだけ言った。
「もう少しって…?」
「言ったまんま」
するりと鳳の手から腕を引き、宍戸は部屋の中に入ってコートを脱ぐ。
「あ、おい、長太郎…」
「今がいい」
「駄目だっつってんだろ!」
脱ぎかけのコートごと、宍戸の背後から両腕で彼を抱き込んだ鳳は、結構本気の体で宍戸に身を捩られて、ますます腕に力を込める。
嫌がられるのは、嫌だ。
何でだと癇癪を起こしたいような気分にもなる。
けれど、こういう時は理不尽に癇癪を起こすより、見境なく甘えまくってしまった方が、宍戸がちゃんと理由を言ってくれる事を鳳は判っていた。
「後でじゃ嫌です」
「おい、…」
「今がいい。今抱きしめたい」
「長太郎」
「何で嫌がるの。宍戸さんは」
細い身体はしなやかな手触りで鳳の腕の中にある。
やはり暫くは嫌がるみたいに身じろがれたが、それよりもっと嫌だと鳳が感情を露わに甘えたおすと、宍戸は結局折れてくれる。
力を抜いた宍戸は鳳に背中から凭れかかるようにして、後ろ手に、鳳の髪をくしゃくしゃとかきまぜた。
「……ったく。何でへこむんだよ。これくらいで」
「へこみますよ。宍戸さん嫌がるから」
「嫌がってねえよ。後でっつっただろ」
「後ではよくても、今は嫌なんでしょう」
「長太郎ー」
大真面目に鳳が意見していると、何故だかいきなり宍戸は噴き出すように笑い出し、わかったわかったと繰り返し言った。
「とにかくコートくらい普通に脱がせろよ」
「はい」
鳳は丁寧に宍戸のコートに手をかけて、半ば外れかけた右肩から先に、そっと脱がせていく。
「……脱がせてくれとは言ってねえけどな」
「俺は脱がせたいです」
コートの下に着ているセーター越しに宍戸の背後から、その肩口に唇を落とす。
「ね、宍戸さん」
「んー?」
「どうして最初に、嫌がったんですか?」
またかよと宍戸は呆れた声で返してきたけれど。
鳳は構わず、どうして?と宍戸に顔を近づけて耳元に囁く。
「やけに拘るなあ、お前。聞くの何回目だよ」
「さあ? 数えてないので判らないですけど。でも、自分の気付いてない所で、宍戸さんに嫌な思いさせてたら嫌だから」
教えてほしいです、と鳳は宍戸の頬にキスをした。
宍戸はもう、鳳が何をしても嫌がらない。
軽いキスを頬で受け止めて、宍戸は溜息をついてから口をひらいた。
「…お前が、かわいそうだって思ったからだよ」
「かわいそう? 何でですか?」
宍戸さんに拒まれる方がよっぽどかわいそうじゃないですかと矢継ぎ早に鳳が言うと、宍戸は鳳の胸元に立ったまま凭れかかって、自身の手のひらをじっと見据えていた。
「宍戸さん?」
「外、寒かったんだよ」
「え?」
「手とか、マジで冷たくなってたし。結構着こんできたけど全身冷えてたしな」
お前がかわいそうだろう、と宍戸はもう一度言った。
「家ん中にいたのに、わざわざ俺で寒い思いすることねえだろうが」
なんだろう、このひとは、と思って絶句している鳳になどまるで気付かず。
宍戸は訥々と喋っている。
「だからちょっと待てって言ってるのに、聞かねえんだからよ。お前は」
宍戸を抱き込む手に力が籠る。
不思議そうに振り返ってきた宍戸の唇を鳳は真上から封じるようにキスで奪って。
宍戸が気にしたような冷たさなど、一度も感じていない彼の手を、そっと取って握り締める。
鳳を守るみたいな真似を、普通にしてしまう宍戸の薄い身体を抱き込んで、キスの角度を変える。
唇と唇が離れた一瞬で、至近距離からお互いの視線が合う。
指を絡め合う。
唇を重ねる。
身体を寄せて、あと何が出来るだろう。
「長太郎」
宍戸の声で名前を呼ばれる。
その声を聞いて、頭の中まで沁み渡るように満足して。
「宍戸さん」
鳳が呼ぶと、宍戸もまるで鳳と同じものを感じているかのように、瞬時目を閉じて息をつく。
「宍戸さんが寒かったら、俺は温めたいです」
「何遍も言わすなよ。お前が寒い思いすんのとか、かわいそうで無理」
「……過保護すぎやしませんか」
「……どっちがだよ」
どっちもだよ、なんて結論は端から頭にない自分達だから。
暫くは、こんなどうでもいい論争を、真剣に。
キスの合間の時間を使って取り交わす。
部屋の扉はきちんと閉まった。
けれども宍戸は鳳の胸元には収まらなかった。
「……宍戸さん?」
足を踏みとどまらせて距離をつくる宍戸を見下ろし、鳳が小さく呼びかける。
何か怒ってでもいるのかと訝しんだ鳳の心中を察したように。
宍戸は取り立てて怒っているような様子もない上目をくれて。
あっさりと、もう少ししてからな、とだけ言った。
「もう少しって…?」
「言ったまんま」
するりと鳳の手から腕を引き、宍戸は部屋の中に入ってコートを脱ぐ。
「あ、おい、長太郎…」
「今がいい」
「駄目だっつってんだろ!」
脱ぎかけのコートごと、宍戸の背後から両腕で彼を抱き込んだ鳳は、結構本気の体で宍戸に身を捩られて、ますます腕に力を込める。
嫌がられるのは、嫌だ。
何でだと癇癪を起こしたいような気分にもなる。
けれど、こういう時は理不尽に癇癪を起こすより、見境なく甘えまくってしまった方が、宍戸がちゃんと理由を言ってくれる事を鳳は判っていた。
「後でじゃ嫌です」
「おい、…」
「今がいい。今抱きしめたい」
「長太郎」
「何で嫌がるの。宍戸さんは」
細い身体はしなやかな手触りで鳳の腕の中にある。
やはり暫くは嫌がるみたいに身じろがれたが、それよりもっと嫌だと鳳が感情を露わに甘えたおすと、宍戸は結局折れてくれる。
力を抜いた宍戸は鳳に背中から凭れかかるようにして、後ろ手に、鳳の髪をくしゃくしゃとかきまぜた。
「……ったく。何でへこむんだよ。これくらいで」
「へこみますよ。宍戸さん嫌がるから」
「嫌がってねえよ。後でっつっただろ」
「後ではよくても、今は嫌なんでしょう」
「長太郎ー」
大真面目に鳳が意見していると、何故だかいきなり宍戸は噴き出すように笑い出し、わかったわかったと繰り返し言った。
「とにかくコートくらい普通に脱がせろよ」
「はい」
鳳は丁寧に宍戸のコートに手をかけて、半ば外れかけた右肩から先に、そっと脱がせていく。
「……脱がせてくれとは言ってねえけどな」
「俺は脱がせたいです」
コートの下に着ているセーター越しに宍戸の背後から、その肩口に唇を落とす。
「ね、宍戸さん」
「んー?」
「どうして最初に、嫌がったんですか?」
またかよと宍戸は呆れた声で返してきたけれど。
鳳は構わず、どうして?と宍戸に顔を近づけて耳元に囁く。
「やけに拘るなあ、お前。聞くの何回目だよ」
「さあ? 数えてないので判らないですけど。でも、自分の気付いてない所で、宍戸さんに嫌な思いさせてたら嫌だから」
教えてほしいです、と鳳は宍戸の頬にキスをした。
宍戸はもう、鳳が何をしても嫌がらない。
軽いキスを頬で受け止めて、宍戸は溜息をついてから口をひらいた。
「…お前が、かわいそうだって思ったからだよ」
「かわいそう? 何でですか?」
宍戸さんに拒まれる方がよっぽどかわいそうじゃないですかと矢継ぎ早に鳳が言うと、宍戸は鳳の胸元に立ったまま凭れかかって、自身の手のひらをじっと見据えていた。
「宍戸さん?」
「外、寒かったんだよ」
「え?」
「手とか、マジで冷たくなってたし。結構着こんできたけど全身冷えてたしな」
お前がかわいそうだろう、と宍戸はもう一度言った。
「家ん中にいたのに、わざわざ俺で寒い思いすることねえだろうが」
なんだろう、このひとは、と思って絶句している鳳になどまるで気付かず。
宍戸は訥々と喋っている。
「だからちょっと待てって言ってるのに、聞かねえんだからよ。お前は」
宍戸を抱き込む手に力が籠る。
不思議そうに振り返ってきた宍戸の唇を鳳は真上から封じるようにキスで奪って。
宍戸が気にしたような冷たさなど、一度も感じていない彼の手を、そっと取って握り締める。
鳳を守るみたいな真似を、普通にしてしまう宍戸の薄い身体を抱き込んで、キスの角度を変える。
唇と唇が離れた一瞬で、至近距離からお互いの視線が合う。
指を絡め合う。
唇を重ねる。
身体を寄せて、あと何が出来るだろう。
「長太郎」
宍戸の声で名前を呼ばれる。
その声を聞いて、頭の中まで沁み渡るように満足して。
「宍戸さん」
鳳が呼ぶと、宍戸もまるで鳳と同じものを感じているかのように、瞬時目を閉じて息をつく。
「宍戸さんが寒かったら、俺は温めたいです」
「何遍も言わすなよ。お前が寒い思いすんのとか、かわいそうで無理」
「……過保護すぎやしませんか」
「……どっちがだよ」
どっちもだよ、なんて結論は端から頭にない自分達だから。
暫くは、こんなどうでもいい論争を、真剣に。
キスの合間の時間を使って取り交わす。
言葉が通じる。
それが、乾が海堂に抱いた印象だ。
もっと正確に言うと、言葉が通じて驚いたのは、通じないだろうと思う原因が、乾自身にあったからだ。
乾の話は、何故か人に通じにくい。
間違ってはいないけれど、判り辛いと言われるのが常だ。
話の途中で、話しきる前にも関わらず、もう判ったと遮られてしまうこともよくあった。
たくさん言葉を使わないと乾の言いたい事は表現できない。
でもそういう言葉がいつも膨大すぎて、それをまともに全部受け止める相手というのは、あまりいない。
もっと短く、もっと纏めて、つまり一言でいえば、などと要求されてそれに答えると、今度はどこからその結論が出たんだと首を傾げられてしまうのだ。
考えの発起から結論に至るまで、乾の思考はいつもフル回転していて。
だから経緯を全て省いて結論だけを口にすると、ひどく突飛な結論だと傍目には映るらしい。
要するに、コミュニケーションがうまくないのだ。
そういう自分自身を乾は理解していた。
饒舌で、データ重視、人への興味もあるし、探究心もある。
そんな乾をコミュニケーションが下手だと思う相手はそういない。
しかし、誰よりも乾自身がそれを自覚していた。
そして、そんな風に、見目では伝わり辛い乾と違って。
人とのコミュニケーションを、判りやすく、不得手としていたのが海堂だ。
海堂はあまり言葉を使わない。
その実、感情はとても豊かだけれど。
それをまるで表に出さないので人には全く伝わらないのだ。
ところが、そんな海堂の心情が乾にはとてもよく判った。
理由は判らない。
ただ、海堂のちょっとした仕草や表情で、乾はそれを正確に汲む事が出来た。
海堂は驚いていた。
だが驚く海堂にこそ、乾は驚かされてもいた。
海堂は一見短気なように見えて、実際はとても辛抱強かった。
乾の回りくどいようなとりとめもない話も、全て黙って聞いていて。
気難しい顔で、結局判らないなどと言いながら、乾が一番言いたかった事はきちんと受け止めていたりする。
言葉が通じる。
乾は初めて味わう感じを海堂で知る。
海堂にしてみれば不本意であるような事、例えば注意や嗜めなどを乾が口にする時でも。
海堂は乾の言葉に正しく耳を傾けた。
いつだったか、どうしても乾が指示した以上の、多少ならばまだしも一種過酷すぎるような自主トレを繰り返す海堂に
対して、それまで敢えて黙認していたオーバーワークに対し、乾が戒めた事があった。
何時間練習するかじゃない、何を、どのくらいしたのかが重要なんだと乾が告げると、海堂は目を瞠った後で、いっそあどけないくらいの表情で乾を見上げて。
こくりと頷いた後からはもう、無茶な酷使をすることはなくなった。
そういえば、乾が海堂に好きだと告げた時のリアクションも同じだったなと乾は思い出す。
「……なに、笑ってんですか」
「ん?」
両腕で乾が自分の胸元に抱き込んでいた海堂が、何か不穏なものを感じたとでも言いたげに低く呟きながら目線を上げてくる。
きつい眼差しと、それでいておとなしくされるがままでいる様子とのギャップが乾の手のひらを疼かせる。
乾は海堂の背をその手のひらで軽く撫でながら声にしない笑いを喉で響かせた。
「頷いたのが、可愛かったなあと思ってさ」
「………いい加減そういうの思い出して笑うの止めてくれませんか。乾先輩」
「やだ」
いつの、なんの、話かなんて。
一言も口にしていないのに。
お互いの考えが言葉でない形で流れ込んでいるかのように会話になってしまう。
乾が子供じみた口調で返した短い返事に、海堂は呆れたような溜息を零すだけで。
ちゃんと乾の腕の中におさまったままだ。
乾が海堂の背中を撫でていた手で、今度は海堂の後ろ髪を撫でると、海堂の肌の感触がちょっとやわらかく甘くなって、乾の胸元に顔を伏せてくる。
冬休みの間ほとんど会えなかったから、こんな風にお互いの距離が近いのが随分と久し振りで。
始業式の後、乾がそのまま自分の家に連れ帰ってきた海堂を、部屋に入ってからずっと抱き込んで話をしている。
会えないでいた間の出来事。
話したい事もたくさんあるけれど、話さなくてもいいような気もして、とりとめもなく短く言葉を交わしながら乾は海堂を抱きしめている。
海堂は乾に抱きしめられている。
「……ん? 海堂はなに笑ってんの」
「………笑ってませんよ。別に」
「笑ってるだろう明らかに」
海堂は乾の胸元に顔を伏せているので、表情などはまるで窺い知れない。
でも乾にはその気配が判ったし、海堂も否定はしないのだ。
「海堂ー…」
「…………、…や、…だって、あんた」
「何」
「やだ……って。なんだ、それ」
海堂の肩が震えている。
珍しく本気で笑っているらしい。
「なんだと言われても」
嫌だから嫌だと言ったまでだと乾が告げると、あんたも可愛いんじゃないですか、と海堂は笑いの滲む声で返してくる。
「俺に聞くなよ。そもそも俺が可愛いってのはないだろう。それから海堂もそうやって思い出し笑いしてるじゃないか」
「はいはい」
「はいはいって何だ。はいはいって」
顔は見えない。
でも伝わる。
抱きしめあって、近い距離で。
どうでもいいような事ばかり口にしながら、不思議と胸の中に溜まっていくのは会えなかった時間分の恋情だ。
足りなかったものが判る。
欲しかったものが判る。
キスがしたいなと思ったタイミングで海堂が顔を上げてきたので。
乾は笑って、ありがたく、その唇を貰った。
それが、乾が海堂に抱いた印象だ。
もっと正確に言うと、言葉が通じて驚いたのは、通じないだろうと思う原因が、乾自身にあったからだ。
乾の話は、何故か人に通じにくい。
間違ってはいないけれど、判り辛いと言われるのが常だ。
話の途中で、話しきる前にも関わらず、もう判ったと遮られてしまうこともよくあった。
たくさん言葉を使わないと乾の言いたい事は表現できない。
でもそういう言葉がいつも膨大すぎて、それをまともに全部受け止める相手というのは、あまりいない。
もっと短く、もっと纏めて、つまり一言でいえば、などと要求されてそれに答えると、今度はどこからその結論が出たんだと首を傾げられてしまうのだ。
考えの発起から結論に至るまで、乾の思考はいつもフル回転していて。
だから経緯を全て省いて結論だけを口にすると、ひどく突飛な結論だと傍目には映るらしい。
要するに、コミュニケーションがうまくないのだ。
そういう自分自身を乾は理解していた。
饒舌で、データ重視、人への興味もあるし、探究心もある。
そんな乾をコミュニケーションが下手だと思う相手はそういない。
しかし、誰よりも乾自身がそれを自覚していた。
そして、そんな風に、見目では伝わり辛い乾と違って。
人とのコミュニケーションを、判りやすく、不得手としていたのが海堂だ。
海堂はあまり言葉を使わない。
その実、感情はとても豊かだけれど。
それをまるで表に出さないので人には全く伝わらないのだ。
ところが、そんな海堂の心情が乾にはとてもよく判った。
理由は判らない。
ただ、海堂のちょっとした仕草や表情で、乾はそれを正確に汲む事が出来た。
海堂は驚いていた。
だが驚く海堂にこそ、乾は驚かされてもいた。
海堂は一見短気なように見えて、実際はとても辛抱強かった。
乾の回りくどいようなとりとめもない話も、全て黙って聞いていて。
気難しい顔で、結局判らないなどと言いながら、乾が一番言いたかった事はきちんと受け止めていたりする。
言葉が通じる。
乾は初めて味わう感じを海堂で知る。
海堂にしてみれば不本意であるような事、例えば注意や嗜めなどを乾が口にする時でも。
海堂は乾の言葉に正しく耳を傾けた。
いつだったか、どうしても乾が指示した以上の、多少ならばまだしも一種過酷すぎるような自主トレを繰り返す海堂に
対して、それまで敢えて黙認していたオーバーワークに対し、乾が戒めた事があった。
何時間練習するかじゃない、何を、どのくらいしたのかが重要なんだと乾が告げると、海堂は目を瞠った後で、いっそあどけないくらいの表情で乾を見上げて。
こくりと頷いた後からはもう、無茶な酷使をすることはなくなった。
そういえば、乾が海堂に好きだと告げた時のリアクションも同じだったなと乾は思い出す。
「……なに、笑ってんですか」
「ん?」
両腕で乾が自分の胸元に抱き込んでいた海堂が、何か不穏なものを感じたとでも言いたげに低く呟きながら目線を上げてくる。
きつい眼差しと、それでいておとなしくされるがままでいる様子とのギャップが乾の手のひらを疼かせる。
乾は海堂の背をその手のひらで軽く撫でながら声にしない笑いを喉で響かせた。
「頷いたのが、可愛かったなあと思ってさ」
「………いい加減そういうの思い出して笑うの止めてくれませんか。乾先輩」
「やだ」
いつの、なんの、話かなんて。
一言も口にしていないのに。
お互いの考えが言葉でない形で流れ込んでいるかのように会話になってしまう。
乾が子供じみた口調で返した短い返事に、海堂は呆れたような溜息を零すだけで。
ちゃんと乾の腕の中におさまったままだ。
乾が海堂の背中を撫でていた手で、今度は海堂の後ろ髪を撫でると、海堂の肌の感触がちょっとやわらかく甘くなって、乾の胸元に顔を伏せてくる。
冬休みの間ほとんど会えなかったから、こんな風にお互いの距離が近いのが随分と久し振りで。
始業式の後、乾がそのまま自分の家に連れ帰ってきた海堂を、部屋に入ってからずっと抱き込んで話をしている。
会えないでいた間の出来事。
話したい事もたくさんあるけれど、話さなくてもいいような気もして、とりとめもなく短く言葉を交わしながら乾は海堂を抱きしめている。
海堂は乾に抱きしめられている。
「……ん? 海堂はなに笑ってんの」
「………笑ってませんよ。別に」
「笑ってるだろう明らかに」
海堂は乾の胸元に顔を伏せているので、表情などはまるで窺い知れない。
でも乾にはその気配が判ったし、海堂も否定はしないのだ。
「海堂ー…」
「…………、…や、…だって、あんた」
「何」
「やだ……って。なんだ、それ」
海堂の肩が震えている。
珍しく本気で笑っているらしい。
「なんだと言われても」
嫌だから嫌だと言ったまでだと乾が告げると、あんたも可愛いんじゃないですか、と海堂は笑いの滲む声で返してくる。
「俺に聞くなよ。そもそも俺が可愛いってのはないだろう。それから海堂もそうやって思い出し笑いしてるじゃないか」
「はいはい」
「はいはいって何だ。はいはいって」
顔は見えない。
でも伝わる。
抱きしめあって、近い距離で。
どうでもいいような事ばかり口にしながら、不思議と胸の中に溜まっていくのは会えなかった時間分の恋情だ。
足りなかったものが判る。
欲しかったものが判る。
キスがしたいなと思ったタイミングで海堂が顔を上げてきたので。
乾は笑って、ありがたく、その唇を貰った。
ぼんやりしていた自覚はある。
多分跡部は何度も自分を呼んだのだろう。
神尾の耳に跡部の声が届いた時、その声音は普段より大分重たかった。
「神尾」
強く一声放たれた自分の名前に、神尾はそれで我に返ったみたいに跡部の顔を見返した。
「……ぇ…?…、ぁ」
ぎこちなく数回瞬きしながら神尾が見据えた先で、跡部は僅かに眉を顰めていた。
端正な顔立ちに浮かぶのは、憮然としたような表情。
何せこんなやり取りは今日これですでに三回目だ。
跡部の部屋にいて、二人きりで、それで三回目。
しかも今は距離も近い。
二人でソファに座っていて、肩でも抱かれそうな距離だ。
「………え…っと…、」
どうしよう、と、さすがに自分が悪いと判っているからこそ神尾が落ち着きなく身じろぐと、跡部の唇からは溜息が吐き出され、今度こそ本当にまずいと神尾は思った。
「………………」
跡部は、いい加減本気で怒るだろう。
頭のいい男なので、彼の攻撃の言葉には、まるっきり容赦がない事を神尾はよく知っていた。
思わず身構えた神尾の頭に、跡部の手が乗る。
叩かれたのではなくて、ふんわりと、やさしく手のひらは乗った。
「……跡部…?」
「………ったく。ぼけっとしやがって」
睨むように細めた目も、吐き出すような言葉も。
何故だか少しも攻撃的ではない。
それどころかむしろ、ちょっと優しい、感じがする。
「………………」
数回荒っぽく髪をかきまぜられ、でも何だかそれでは跡部の手に頭を撫でられているみたいだと神尾はどぎまぎした。
窺うような力ない目つきになってしまった神尾に、跡部は至近距離に顔を近づけて、唇の端を皮肉気に引き上げた。
「びびるくらいなら上の空になるんじゃねえよ」
「……別に、びびっては、…ない」
「へえ?」
「…………ぅ…」
ちょっと嘘ですと即座に言ってしまいそうになる神尾を、怜悧な眼差しで間近から見下ろした跡部は、左手で神尾の左肩を包み軽く引き寄せてきた。
「跡…部、?」
距離が一層縮まって、ふわっといい匂いがする。
「どうせ必要以上に気張ってんだろ。普段は」
「…普段?」
違うかよ部長?とさらりと跡部に言われて神尾は瞠目する。
何でいきなり跡部にそんなことを言われたのかと戸惑って。
「………………」
神尾は跡部に、そっと視線を向けた。
「お前、橘のこと何も話さなくなったからな」
三年引退してからなと付け加えた跡部が軽く神尾の唇を塞ぐ。
これ、キス、だよな、と思った途端。
神尾はじわりと赤くなる。
軽い接触ではあるけれど、こんな風に世間話でもするかのように会話しながらキスなんかされたのは初めてだった。
「だいたいてめえは、橘橘うるせえって俺が言ってるうちは散々好き勝手あいつの話ばっかしておいてな」
「……ぇ?…」
急に全く口に出さなくなるあたりが極端な奴だと跡部は呆れた顔をした。
「………………」
「誰が見たって、お前ら不動峰の連中は、橘がいなくなった後どうなるんだかって思うくらいの懐きっぷりだっただろうが」
「………………」
「まあ、依存しきってたわけじゃねえのは、今のお前見てりゃ判るが」
ひっくるめてお前ら全員今必死なんだろう、と跡部は言った。
神尾はびっくりしすぎて何も返せない。
「………………」
橘がいなかったら、本当に、自分達は不動峰でテニスは出来なかったかもしれない。
橘が現れたことで、本当に、自分達はどんな事でも出来た。
強い、強い人に、救われた。
誰よりも強い彼は、決して自分たちを守る人ではなく、最初から最後まで、仲間でいた人だったから。
だからこそ、橘が部活を引退した後、不動峰が橘がいないチームになったからこそ、自分達は立ち止まったり後退してはいけないのだと、誰もが強く思っていたのだ。
必死だった。
いつも自分達の視線の先にいてくれた人がいなくなって、それを寂しがる暇もないほど、神尾達は必死だった。
寂しがる暇があったら、やらなければならない事がある。
決して無理をしたり、それが辛いと思っている訳ではないけれど。
橘が引退した後、時折気持ちが寂寥感や焦燥感に乗っ取られそうになるのを振り払うので懸命になる事も時折はあった。
橘の後、神尾は部長になったが、誰が新部長だとか関係なしにテニス部員みんなで懸命になって。
「ここにいる時くらいしか呆けてらんねえんなら、まあ、仕方ねえ。許してやるよ」
ぐっと強く肩を抱かれ、神尾は素っ気なく悪態をつくような跡部の肩口に寄りかからされる。
額の辺りから頭皮に指先を潜り込まされ、髪を撫でられる。
跡部の、言ってることとやってることの温度差や甘さの違いに、神尾はくらくら目を回しそうになった。
宥めるような手で頭を撫でられながら。
身体を近づけて。
何だか、跡部にとても大事にされてるみたいな気分になる。
「……跡部…」
「お前らのチームは気に入ってる」
「………………」
何でそんなこと言うんだろうと、神尾は息を詰めた。
「悪くねえよ。理不尽な相手を力で捩じ伏せるってのも有りだろうが、そうじゃなくて、真っ向対決な所がな」
橘が転校してくるまでは、不動峰のテニス部は抑圧を通り越した暴力での腹いせのような振る舞いをする上級生と、最初から下級生の存在など眼中になかった顧問とで成り立っていた事を、跡部に話した事はあるけれど。
あまり楽しい話でもないから、神尾もそんなには詳しく伝えていない。
「それは……でも、橘さんがいてくれたからで、…」
「くさらねえで、投げ出さねえで、決着つける時まで踏ん張ってたのはお前らだろ」
「………………」
「だから俺は、お前らのチームは気に入ってる」
跡部は笑う。
からかうとか、茶化すとか、そんなでなくて、笑う。
「……アア…?」
「………………」
「お前、何泣いてんだよ?」
「…だ、…っ……だっ………」
だって跡部が、と言おうとして。
もう、神尾はそれすら言えなかった。
神尾自身びっくりするほど、いきなりすごい勢いで涙が目から出てきて、それはもう擬音で言えば、ぽろぽろとかいうレベルを超越して、とんでもない有様で。
「……っ…」
びっくりしたのだ。
すごくびっくりして、それと、あと、ものすごく嬉しくて。
思った瞬間、涙腺が勝手に崩壊した。
哀しくなんかないのに神尾はしゃくりあげて泣いた。
顔と顔を見合わせながら、跡部も呆気にとられている。
神尾の肩を抱いたまま、まじまじと神尾を見据えて、それから噴き出した。
俯いて、肩を震わせて、笑い出す。
「なん、…だよ…ぅっ…、…っぅ…、…ぇ…」
今度の笑いは明らかにからかいのそれで、神尾はそれを詰ったが、嗚咽に語尾が掠れてしまう。
跡部は跡部で低く喉で笑いを転がして、ちらりと上目に神尾を見やってまた笑う。
「……すっげえ顔」
跡部に言われなくても、神尾も判っている。
これだけ勢いよく、どばどばと出てくる涙で、顔なんかぐちゃぐちゃだ。
どれだけひどい顔をしているかなんて跡部に言われるまでもない。
それだからこそ。
「かわいい」
聞こえてきた言葉が、空耳かと思って神尾は呆けた。
あまりに場違いな言葉が神尾の耳に飛び込んできた。
ひくっと喉を詰まらせながらしゃくりあげる神尾を見据えて、跡部は意地の悪い声を、甘い笑みを刷く唇から零す。
「かわいいっつってんだよ」
「…っ、…、は…、ぁ、?…」
「泣きまくって、顔ぐちゃぐちゃで、不細工すぎて。それ以外の言葉が出ねぇ」
跡部はどうしてしまったのか。
言ってることめちゃくちゃだぞと言いたいのに神尾は言えなかった。
さっきからずっと、跡部が優しい顔ばかりする。
荒っぽい口調で、冴えた冷たいような声音で、次から次に言ってくれる言葉が神尾の脳裏に甘く染みて涙が止まらなくなる。
「てめえなあ、」
「……、っ……ぇ…っ…」
「俺が好きだって言った時に、これくらい喜んで泣きやがれ。馬鹿」
喜んでる事なんか、結局跡部には全部お見通しなのだ。
悪態をつくように告げられた言葉は、跡部の本心なのか、茶化されているだけなのか、正直神尾には判らなかったのだけれど。
しゃくりあげて、裏返った声で、神尾は連呼した。
「だ…、…っ…すき…、……好き……跡部、…、」
目元をごしごしと手の甲で拭いながら繰り返すと、その手は跡部にとられてしまって。
「おい。神尾」
「好…っ、き、だよ、…跡部、おれ」
「……泣いてねえでちゃんと目開けて見ろ。俺様はちゃんと見せてやってる」
何を?と神尾は思いながら、言われるままに、涙で見辛い視界を凝らして見る。
跡部が言うから、跡部を見たら。
また涙が出てきてしまった。
全部全部全部跡部のせいだ。
「好きか?」
俺が、と確認してくるその言い方なんか、本当に横柄なのに。
笑みを刻む唇や、断言する声音や、跡部の態度の全てが、本当にえらそうなのに。
「……っ…、ん」
好きか?と聞くから神尾は頷く。
そうすると跡部はそれはもう甘ったるく、嬉しがる顔をするから。
とても判りやすく、神尾に見せてくれるから。
自分の言葉ひとつで、これまで見たこともないような、喜んでる表情を跡部がするから。
好きだって、何度言っても、その都度その顔を見せてくれるから。
神尾は繰り返し、それを口にした。
その後、ある程度落ち着いた神尾は、自分自身のその時の状況を顧みて、羞恥で死んでしまうかもしれないと思った。
泣いて、泣いて、好きだって言って、泣いて、好きだって言って、泣いて。
何度それを繰り返したか知れない。
少々壊れかけていたと自分で自覚する神尾に、溜め込みすぎだと跡部は軽く笑い、それでいて跡部が、物凄く上機嫌な事も神尾には判ったので。
腫れぼったくなった神尾の目を見て酷いツラだと言って跡部が笑うのを、言葉で言い返すのではなく、噛みつくようなキスをする事で封じてやった。
多分跡部は何度も自分を呼んだのだろう。
神尾の耳に跡部の声が届いた時、その声音は普段より大分重たかった。
「神尾」
強く一声放たれた自分の名前に、神尾はそれで我に返ったみたいに跡部の顔を見返した。
「……ぇ…?…、ぁ」
ぎこちなく数回瞬きしながら神尾が見据えた先で、跡部は僅かに眉を顰めていた。
端正な顔立ちに浮かぶのは、憮然としたような表情。
何せこんなやり取りは今日これですでに三回目だ。
跡部の部屋にいて、二人きりで、それで三回目。
しかも今は距離も近い。
二人でソファに座っていて、肩でも抱かれそうな距離だ。
「………え…っと…、」
どうしよう、と、さすがに自分が悪いと判っているからこそ神尾が落ち着きなく身じろぐと、跡部の唇からは溜息が吐き出され、今度こそ本当にまずいと神尾は思った。
「………………」
跡部は、いい加減本気で怒るだろう。
頭のいい男なので、彼の攻撃の言葉には、まるっきり容赦がない事を神尾はよく知っていた。
思わず身構えた神尾の頭に、跡部の手が乗る。
叩かれたのではなくて、ふんわりと、やさしく手のひらは乗った。
「……跡部…?」
「………ったく。ぼけっとしやがって」
睨むように細めた目も、吐き出すような言葉も。
何故だか少しも攻撃的ではない。
それどころかむしろ、ちょっと優しい、感じがする。
「………………」
数回荒っぽく髪をかきまぜられ、でも何だかそれでは跡部の手に頭を撫でられているみたいだと神尾はどぎまぎした。
窺うような力ない目つきになってしまった神尾に、跡部は至近距離に顔を近づけて、唇の端を皮肉気に引き上げた。
「びびるくらいなら上の空になるんじゃねえよ」
「……別に、びびっては、…ない」
「へえ?」
「…………ぅ…」
ちょっと嘘ですと即座に言ってしまいそうになる神尾を、怜悧な眼差しで間近から見下ろした跡部は、左手で神尾の左肩を包み軽く引き寄せてきた。
「跡…部、?」
距離が一層縮まって、ふわっといい匂いがする。
「どうせ必要以上に気張ってんだろ。普段は」
「…普段?」
違うかよ部長?とさらりと跡部に言われて神尾は瞠目する。
何でいきなり跡部にそんなことを言われたのかと戸惑って。
「………………」
神尾は跡部に、そっと視線を向けた。
「お前、橘のこと何も話さなくなったからな」
三年引退してからなと付け加えた跡部が軽く神尾の唇を塞ぐ。
これ、キス、だよな、と思った途端。
神尾はじわりと赤くなる。
軽い接触ではあるけれど、こんな風に世間話でもするかのように会話しながらキスなんかされたのは初めてだった。
「だいたいてめえは、橘橘うるせえって俺が言ってるうちは散々好き勝手あいつの話ばっかしておいてな」
「……ぇ?…」
急に全く口に出さなくなるあたりが極端な奴だと跡部は呆れた顔をした。
「………………」
「誰が見たって、お前ら不動峰の連中は、橘がいなくなった後どうなるんだかって思うくらいの懐きっぷりだっただろうが」
「………………」
「まあ、依存しきってたわけじゃねえのは、今のお前見てりゃ判るが」
ひっくるめてお前ら全員今必死なんだろう、と跡部は言った。
神尾はびっくりしすぎて何も返せない。
「………………」
橘がいなかったら、本当に、自分達は不動峰でテニスは出来なかったかもしれない。
橘が現れたことで、本当に、自分達はどんな事でも出来た。
強い、強い人に、救われた。
誰よりも強い彼は、決して自分たちを守る人ではなく、最初から最後まで、仲間でいた人だったから。
だからこそ、橘が部活を引退した後、不動峰が橘がいないチームになったからこそ、自分達は立ち止まったり後退してはいけないのだと、誰もが強く思っていたのだ。
必死だった。
いつも自分達の視線の先にいてくれた人がいなくなって、それを寂しがる暇もないほど、神尾達は必死だった。
寂しがる暇があったら、やらなければならない事がある。
決して無理をしたり、それが辛いと思っている訳ではないけれど。
橘が引退した後、時折気持ちが寂寥感や焦燥感に乗っ取られそうになるのを振り払うので懸命になる事も時折はあった。
橘の後、神尾は部長になったが、誰が新部長だとか関係なしにテニス部員みんなで懸命になって。
「ここにいる時くらいしか呆けてらんねえんなら、まあ、仕方ねえ。許してやるよ」
ぐっと強く肩を抱かれ、神尾は素っ気なく悪態をつくような跡部の肩口に寄りかからされる。
額の辺りから頭皮に指先を潜り込まされ、髪を撫でられる。
跡部の、言ってることとやってることの温度差や甘さの違いに、神尾はくらくら目を回しそうになった。
宥めるような手で頭を撫でられながら。
身体を近づけて。
何だか、跡部にとても大事にされてるみたいな気分になる。
「……跡部…」
「お前らのチームは気に入ってる」
「………………」
何でそんなこと言うんだろうと、神尾は息を詰めた。
「悪くねえよ。理不尽な相手を力で捩じ伏せるってのも有りだろうが、そうじゃなくて、真っ向対決な所がな」
橘が転校してくるまでは、不動峰のテニス部は抑圧を通り越した暴力での腹いせのような振る舞いをする上級生と、最初から下級生の存在など眼中になかった顧問とで成り立っていた事を、跡部に話した事はあるけれど。
あまり楽しい話でもないから、神尾もそんなには詳しく伝えていない。
「それは……でも、橘さんがいてくれたからで、…」
「くさらねえで、投げ出さねえで、決着つける時まで踏ん張ってたのはお前らだろ」
「………………」
「だから俺は、お前らのチームは気に入ってる」
跡部は笑う。
からかうとか、茶化すとか、そんなでなくて、笑う。
「……アア…?」
「………………」
「お前、何泣いてんだよ?」
「…だ、…っ……だっ………」
だって跡部が、と言おうとして。
もう、神尾はそれすら言えなかった。
神尾自身びっくりするほど、いきなりすごい勢いで涙が目から出てきて、それはもう擬音で言えば、ぽろぽろとかいうレベルを超越して、とんでもない有様で。
「……っ…」
びっくりしたのだ。
すごくびっくりして、それと、あと、ものすごく嬉しくて。
思った瞬間、涙腺が勝手に崩壊した。
哀しくなんかないのに神尾はしゃくりあげて泣いた。
顔と顔を見合わせながら、跡部も呆気にとられている。
神尾の肩を抱いたまま、まじまじと神尾を見据えて、それから噴き出した。
俯いて、肩を震わせて、笑い出す。
「なん、…だよ…ぅっ…、…っぅ…、…ぇ…」
今度の笑いは明らかにからかいのそれで、神尾はそれを詰ったが、嗚咽に語尾が掠れてしまう。
跡部は跡部で低く喉で笑いを転がして、ちらりと上目に神尾を見やってまた笑う。
「……すっげえ顔」
跡部に言われなくても、神尾も判っている。
これだけ勢いよく、どばどばと出てくる涙で、顔なんかぐちゃぐちゃだ。
どれだけひどい顔をしているかなんて跡部に言われるまでもない。
それだからこそ。
「かわいい」
聞こえてきた言葉が、空耳かと思って神尾は呆けた。
あまりに場違いな言葉が神尾の耳に飛び込んできた。
ひくっと喉を詰まらせながらしゃくりあげる神尾を見据えて、跡部は意地の悪い声を、甘い笑みを刷く唇から零す。
「かわいいっつってんだよ」
「…っ、…、は…、ぁ、?…」
「泣きまくって、顔ぐちゃぐちゃで、不細工すぎて。それ以外の言葉が出ねぇ」
跡部はどうしてしまったのか。
言ってることめちゃくちゃだぞと言いたいのに神尾は言えなかった。
さっきからずっと、跡部が優しい顔ばかりする。
荒っぽい口調で、冴えた冷たいような声音で、次から次に言ってくれる言葉が神尾の脳裏に甘く染みて涙が止まらなくなる。
「てめえなあ、」
「……、っ……ぇ…っ…」
「俺が好きだって言った時に、これくらい喜んで泣きやがれ。馬鹿」
喜んでる事なんか、結局跡部には全部お見通しなのだ。
悪態をつくように告げられた言葉は、跡部の本心なのか、茶化されているだけなのか、正直神尾には判らなかったのだけれど。
しゃくりあげて、裏返った声で、神尾は連呼した。
「だ…、…っ…すき…、……好き……跡部、…、」
目元をごしごしと手の甲で拭いながら繰り返すと、その手は跡部にとられてしまって。
「おい。神尾」
「好…っ、き、だよ、…跡部、おれ」
「……泣いてねえでちゃんと目開けて見ろ。俺様はちゃんと見せてやってる」
何を?と神尾は思いながら、言われるままに、涙で見辛い視界を凝らして見る。
跡部が言うから、跡部を見たら。
また涙が出てきてしまった。
全部全部全部跡部のせいだ。
「好きか?」
俺が、と確認してくるその言い方なんか、本当に横柄なのに。
笑みを刻む唇や、断言する声音や、跡部の態度の全てが、本当にえらそうなのに。
「……っ…、ん」
好きか?と聞くから神尾は頷く。
そうすると跡部はそれはもう甘ったるく、嬉しがる顔をするから。
とても判りやすく、神尾に見せてくれるから。
自分の言葉ひとつで、これまで見たこともないような、喜んでる表情を跡部がするから。
好きだって、何度言っても、その都度その顔を見せてくれるから。
神尾は繰り返し、それを口にした。
その後、ある程度落ち着いた神尾は、自分自身のその時の状況を顧みて、羞恥で死んでしまうかもしれないと思った。
泣いて、泣いて、好きだって言って、泣いて、好きだって言って、泣いて。
何度それを繰り返したか知れない。
少々壊れかけていたと自分で自覚する神尾に、溜め込みすぎだと跡部は軽く笑い、それでいて跡部が、物凄く上機嫌な事も神尾には判ったので。
腫れぼったくなった神尾の目を見て酷いツラだと言って跡部が笑うのを、言葉で言い返すのではなく、噛みつくようなキスをする事で封じてやった。
二人でいて一緒にすることなんて、精々がテニスくらいだろうと観月は思っていた。
部長である赤澤と自分とでは。
テニスの他に共通するような趣味などなく、性格なんかはもうまるっきり正反対で、たぶんテニスがなかったらこうして同じ学校にいても口をきくことすらなかったかもしれない。
決して相手が嫌いなのではなく、お互い毛色が違いすぎて、接触すらないであろうというのが観月の了見だ。
「………………」
ルドルフの寮内の食堂で、観月は頬杖をついて夕焼け空を横目に眺めている。
まるで朝陽のような夕陽の濃さが、やけに赤澤の印象を彷彿させる。
そんな夕焼けを、きれいだと思う自分に溜息が出る。
夕闇に近くなっている空は、すでに薄暗くくすんだり、白く煙るような夜の色の空で、その上を夕焼けの色はとろりと溶け出しながら空を滴っている。
観月が食堂の窓ガラス越しにそんな空を見ていると、背後から肩に手が置かれる。
そのまま軽く引かれて。
背中に相手の身体が当たる。
それが誰だか観月にはきちんと判るし、唐突な接触に慣れつつはあるから、驚きこそしないものの。
「………なんですか」
「ん? 何見てんのかなぁって思ってさ」
気安い接触、近い距離、そんなものに馴染んでいく自分自身が観月には信じ難かった。
観月の視線を赤澤は追いかけてくる。
目線の行き先を辿って空を見て。
暫くの後、低い声でぽつりと、きれいだなあと呟いた。
囁かれるような言葉より、肩にあるままの手が些か気になる。
観月は視線を空から外さないまま返した。
「そうですね」
「あー…でも、もう時期に消えちまうな。夕焼け」
さばさばとした口調に観月は唇に笑みを刻む。
和んでというよりは、その刹那に対してだ。
「瞬間的だから綺麗なんですよ」
「そういうもんか?」
「現に、こうして綺麗でしょう?」
頬杖をついていた体勢から観月が背後を振り返ろうと仰ぎ見た先。
立ったままの赤澤の目は、すでに夕焼けではなく、観月を見下ろしていた。
真っ直ぐすぎる眼差しと、まともに眼と眼が合って。
観月は無意識に浮かべていた笑みを静かに消して息をのむ。
「確かに…」
「………………」
「一瞬なのも、綺麗だったけど」
赤澤の手のひらが、するりと観月の片頬を包む。
消えた観月の笑みを見る目をした後、赤澤が、じっと観月も見据えて生真面目に言う。
「別に瞬間的じゃなくても綺麗なもんは綺麗だけどな?」
「なに……」
赤澤が自分に対してその言葉を向けていることは観月にも判ったけれど。
何故だか、赤澤にそう言われるのが、観月は苦手だった。
他の誰が言ったとしても、笑って受け入れられるであろう言葉が、赤澤の口から放たれると、無性に逃げ出したいような気分になるのだ。
そんな訳がない。
綺麗なんかじゃない。
いつも、そう思うのだ。
目線を逸らした観月の頬から手を引いて、赤澤は黙って観月の左隣に座った。
引き出した椅子に浅く腰掛け、赤澤は観月の左肩に軽く背中を凭れかけてくる。
それでは窓にも背を向けてしまっている格好で、夕焼けなど全く見えない。
無論赤澤の視界に観月も入らない。
「………………」
赤澤に見られなくて観月がほっとするのは自分自身について。
赤澤が見ない事が、勿体ないと観月が思うのは、夕焼けについて。
相反するささやかな感情の対立は観月の胸の内に生まれる。
「………………」
夕暮れの、一番綺麗な一瞬に赤澤は興味がないようで。
それは、やはり自分とは好むものが違うのだなと観月に思わせたのだけれど。
「集中させてやるからさ」
「…はい?」
「夕焼け見るの」
好きだろ、お前、と赤澤は低い声でゆったりと告げた後。
「だから、その後は構えよ」
「……なにを…言っているのか判りませんよ。部長」
肩口にある、日に焼けた髪を見下ろしながら、観月は幾分歯切れの悪い口調で返す。
本当は。
本当のところは。
赤澤の言わんとしている事が、判っていたので。
構えって、なんだそれはと観月は憮然と赤くなる。
「判んない? そっか。じゃ、それは夕焼け消えた後説明する」
「………そんなに寄りかからないでくださいよ…!」
集中など出来るはずがないだろう。
こんな接触をしている体勢では。
羞恥を噛んだ素っ気ない観月の言い様に、赤澤は気にした風もなく、しょうがねえだろ?とのんびりと言う。
「前から抱き込んだら、お前夕焼け見えないし」
「…、抱……、離れればいいんですよ。離れれば!」
「やだ」
「やだじゃない!」
「やだー」
「なに甘えてんですか!」
観月が声を荒げると、両腕を胸の前で組んだ赤澤は、観月の左腕に凭れかかったまま笑う。
「そうそう。つまり甘えてんだよな。俺」
「赤澤、あなたねえ…!」
「だってなぁ……お前はさ、観月。人から要求されれば必ずそれ以上を返してくるから」
分析だけじゃなくて、どんなことでもさ、と笑う赤澤が。
いつの間にか観月のあれこれを掌握しているように。
「そういうのを見越して、全力で甘え倒してくるのを止めろと言ってるんだ…!」
「悪ぃ」
「笑うなっ」
「お前は怒るな」
心地よさそうに笑う赤澤を、観月もまた理解している。
懐柔の術はお互いが持っているのだ。
まるでタイプの違う自分達だけれど。
ほんの少しも、持て余すなんて事は、ないのだ。
腕と背中と。
触れあう箇所が少しだけあれば。
目線なんか合わなくても、別に平気。
言い争うような言葉ばかりを放っていても平気。
似ていなくても、同じじゃなくても、一緒にいて、嬉しいから。
それだけでもう、なにもかもが平気なのだ。
部長である赤澤と自分とでは。
テニスの他に共通するような趣味などなく、性格なんかはもうまるっきり正反対で、たぶんテニスがなかったらこうして同じ学校にいても口をきくことすらなかったかもしれない。
決して相手が嫌いなのではなく、お互い毛色が違いすぎて、接触すらないであろうというのが観月の了見だ。
「………………」
ルドルフの寮内の食堂で、観月は頬杖をついて夕焼け空を横目に眺めている。
まるで朝陽のような夕陽の濃さが、やけに赤澤の印象を彷彿させる。
そんな夕焼けを、きれいだと思う自分に溜息が出る。
夕闇に近くなっている空は、すでに薄暗くくすんだり、白く煙るような夜の色の空で、その上を夕焼けの色はとろりと溶け出しながら空を滴っている。
観月が食堂の窓ガラス越しにそんな空を見ていると、背後から肩に手が置かれる。
そのまま軽く引かれて。
背中に相手の身体が当たる。
それが誰だか観月にはきちんと判るし、唐突な接触に慣れつつはあるから、驚きこそしないものの。
「………なんですか」
「ん? 何見てんのかなぁって思ってさ」
気安い接触、近い距離、そんなものに馴染んでいく自分自身が観月には信じ難かった。
観月の視線を赤澤は追いかけてくる。
目線の行き先を辿って空を見て。
暫くの後、低い声でぽつりと、きれいだなあと呟いた。
囁かれるような言葉より、肩にあるままの手が些か気になる。
観月は視線を空から外さないまま返した。
「そうですね」
「あー…でも、もう時期に消えちまうな。夕焼け」
さばさばとした口調に観月は唇に笑みを刻む。
和んでというよりは、その刹那に対してだ。
「瞬間的だから綺麗なんですよ」
「そういうもんか?」
「現に、こうして綺麗でしょう?」
頬杖をついていた体勢から観月が背後を振り返ろうと仰ぎ見た先。
立ったままの赤澤の目は、すでに夕焼けではなく、観月を見下ろしていた。
真っ直ぐすぎる眼差しと、まともに眼と眼が合って。
観月は無意識に浮かべていた笑みを静かに消して息をのむ。
「確かに…」
「………………」
「一瞬なのも、綺麗だったけど」
赤澤の手のひらが、するりと観月の片頬を包む。
消えた観月の笑みを見る目をした後、赤澤が、じっと観月も見据えて生真面目に言う。
「別に瞬間的じゃなくても綺麗なもんは綺麗だけどな?」
「なに……」
赤澤が自分に対してその言葉を向けていることは観月にも判ったけれど。
何故だか、赤澤にそう言われるのが、観月は苦手だった。
他の誰が言ったとしても、笑って受け入れられるであろう言葉が、赤澤の口から放たれると、無性に逃げ出したいような気分になるのだ。
そんな訳がない。
綺麗なんかじゃない。
いつも、そう思うのだ。
目線を逸らした観月の頬から手を引いて、赤澤は黙って観月の左隣に座った。
引き出した椅子に浅く腰掛け、赤澤は観月の左肩に軽く背中を凭れかけてくる。
それでは窓にも背を向けてしまっている格好で、夕焼けなど全く見えない。
無論赤澤の視界に観月も入らない。
「………………」
赤澤に見られなくて観月がほっとするのは自分自身について。
赤澤が見ない事が、勿体ないと観月が思うのは、夕焼けについて。
相反するささやかな感情の対立は観月の胸の内に生まれる。
「………………」
夕暮れの、一番綺麗な一瞬に赤澤は興味がないようで。
それは、やはり自分とは好むものが違うのだなと観月に思わせたのだけれど。
「集中させてやるからさ」
「…はい?」
「夕焼け見るの」
好きだろ、お前、と赤澤は低い声でゆったりと告げた後。
「だから、その後は構えよ」
「……なにを…言っているのか判りませんよ。部長」
肩口にある、日に焼けた髪を見下ろしながら、観月は幾分歯切れの悪い口調で返す。
本当は。
本当のところは。
赤澤の言わんとしている事が、判っていたので。
構えって、なんだそれはと観月は憮然と赤くなる。
「判んない? そっか。じゃ、それは夕焼け消えた後説明する」
「………そんなに寄りかからないでくださいよ…!」
集中など出来るはずがないだろう。
こんな接触をしている体勢では。
羞恥を噛んだ素っ気ない観月の言い様に、赤澤は気にした風もなく、しょうがねえだろ?とのんびりと言う。
「前から抱き込んだら、お前夕焼け見えないし」
「…、抱……、離れればいいんですよ。離れれば!」
「やだ」
「やだじゃない!」
「やだー」
「なに甘えてんですか!」
観月が声を荒げると、両腕を胸の前で組んだ赤澤は、観月の左腕に凭れかかったまま笑う。
「そうそう。つまり甘えてんだよな。俺」
「赤澤、あなたねえ…!」
「だってなぁ……お前はさ、観月。人から要求されれば必ずそれ以上を返してくるから」
分析だけじゃなくて、どんなことでもさ、と笑う赤澤が。
いつの間にか観月のあれこれを掌握しているように。
「そういうのを見越して、全力で甘え倒してくるのを止めろと言ってるんだ…!」
「悪ぃ」
「笑うなっ」
「お前は怒るな」
心地よさそうに笑う赤澤を、観月もまた理解している。
懐柔の術はお互いが持っているのだ。
まるでタイプの違う自分達だけれど。
ほんの少しも、持て余すなんて事は、ないのだ。
腕と背中と。
触れあう箇所が少しだけあれば。
目線なんか合わなくても、別に平気。
言い争うような言葉ばかりを放っていても平気。
似ていなくても、同じじゃなくても、一緒にいて、嬉しいから。
それだけでもう、なにもかもが平気なのだ。
氷帝テニス部のレギュラー専用部室のソファでは、今日もジローが赤ん坊のような寝顔で、すかーっと眠っている。
「ジロー! お前、せめて着替えろよ!」
向日の手に肩を揺すられてもジローは何ら眠りを妨げられている様子はなく、すうすうと寝息を立てて丸まっている。
部活を終えて、一斉にメンバーが着替えを始めている中、ユニフォーム姿のまま寝入っているジローも、つい今しがたまでは起きていたのに。
ちょっと目を離した隙にいつものようにこんな状態だ。
「こいつさあ、実は魔女に呪いでもかけられてるんじゃねえの」
「眠り姫ならぬ、眠り王子って?」
向日の悪態に、忍足が笑って応えている。
「これだけ寝てる割には育たんしな」
「寝る子は育つって、あれ完全にデマだ。ガセだ」
「いっぱい試してみたんやなあ。岳人」
「てめ、…! 侑士、お気の毒さまーみたいな哀れっぽい顔すんじゃねえ!」
勇ましく怒鳴る向日と、淡々としつつも笑いを絶やさない忍足のやりとりはいつもの事だ。
日常そのままのテニス部の光景だ。
「うるせえなあ、外まで聞こえてるぞ、岳人」
部室の扉が開いて、最後の最後まで居残って練習をしていた宍戸が憮然とした顔で入ってくる。
宍戸の背後には鳳がいて、この二人はとにかく一番最初に部活にきて、一番最後までコートにいる。
それもまたいつものことだ。
「悪かったな! つーか、それでもまだ起きねえけどな、ジローは」
向日が宍戸に噛みつくようにして言い、宍戸はソファに視線を落として、ああ、と薄く笑った。
「ほんとだ。すげえな、こいつ」
ソファの背後に回り、宍戸は腰から上半身を僅かに屈めるようにしてジローの寝顔を見下ろした。
「………何やってんの。宍戸」
向日が、ぽかんとした顔で言った言葉に、周囲の視線も自然と宍戸に集まった。
宍戸はソファの裏側から僅かに身体を屈めてジローの髪を撫でている。
「…あ?」
視線に気づいた宍戸がジローから目線を上げて、何だよ、と僅かに怯んだように周囲を見回す。
宍戸といえば毒気のある言葉こそ吐かないが、口調は荒く、所作もさばさばと男っぽい。
とても今のように、寝ている友人の頭を撫でるような仕草をするタイプではないのだ。
それが今、眠るジローの頭を何度も撫でているのだから。
向日を始め周囲の人物こそ怯んでいる。
追い討ちをかけたのは宍戸が次に怒鳴ったこの言葉だ。
「長太郎はこれで起きるんだよ!」
レギュラー陣は引きまくった。
長太郎というのは、その、宍戸の背後で穏やかで人好きのする笑みを浮かべて立っている、長身の男前な後輩のことか。
判り切った事を確認したくなるのも無理ないだろうと、面々は臆面もなくそんな事を言い放った宍戸の、あっけらかんとした態度に対して断言したい気持ちでいっぱいになった。
てらいがない。
そんな当たり前のように言うなと思う面々の前で、名指しされた鳳が、顎の辺りに手をやって、僅かに首を傾け思案顔だ。
そうかと思うといきなり長い足でソファの前方に向かい、両腕で。
ひょい、と。
ジローを抱き上げた。
「な……っ、…」
何だ何だ、何なんだ、と面くらい絶叫するレギュラー陣を前にして。
鳳は暫く両腕でお姫様抱っこしたジローを見やり、その後溜息を吐きだした。
「うーん…駄目ですね…」
「駄目か」
「はい。宍戸さん。駄目です」
律儀に鳳に問いかけたのは宍戸で、二人で顔を見合わせ溜息などつきあっている。
周囲の人間のあからさまな視線に気づいたのか、鳳が顔を上げて真顔で言った。
「宍戸さんは、こうすると起きるんですけど」
抱っこされて目が覚めるとか。
それがまたお姫様抱っことか。
どういう二人だと、今更ながらに悩ましく脱力した忍足と向日を余所に、鳳は宍戸を見つめて、ねえ?と甘く同意を求めている。
特別な相手への恋愛感情を隠さない目をして、腕にはジロー。
鳳という男は判らないと忍足と向日は思わず互いの手と手を取り合ってしまう。
そもそも鳳といい宍戸といい、そんな甘ったるい起こし合い方をしているあたり似た者同士だ。
「日本人の奥ゆかしさとか、慎み深さっちゅーもんは、あいつらにはないんやろな…」
「全くだぜ侑士。これっぽっちも持ってねえぞ、あいつら」
忍足と向日が顔を合わせて言い合うのをよそに、鳳はそっとジローを元のソファに戻すと、先に着替えを始めた宍戸の隣で、この後の予定などを伺っていた。
「ねえ宍戸さん。俺、先週からサンドイッチメニューに、チーズサンドを新しく入れたお店見つけたんです。帰りに一緒に行きませんか」
「へえ。お前、そういうのよく知ってるよな」
「そうですか? でもこれは宍戸さんに言おうって、見た時思って」
「腹減ったしな。行くか」
「はい」
にこにこと笑っている鳳と、あくまでもさばさばしている宍戸に対して、忍足と向日は深い深い溜息をつくばかりだ。
「………ほえ…? ちーずさんど…?」
いきなり、むくっとジローがソファから上半身を起こす。
「おれもいくー!」
寝ぼけ眼の割に大声で言い放った言葉に、おののいたのは忍足と向日で。
おう、お前も行くか、と言った宍戸の言葉に鳳はきれいに彼の言葉を被せてきた。
「ジロー先輩、なんの夢みてるんですかねー。さ、行きましょう宍戸さん」
「え? あ、おい…ちょっと…。長太郎?」
お先に失礼しますと言った鳳は、しっかりと宍戸の手を握って鞄を肩にかけ、部室を出ていく。
半ば引きずられるようになっている宍戸は、僅かばかり戸惑いを見せつつも、結局しょうがないと言わんばかりの顔で鳳の後に続いた。
「…………ちーずさんど」
置いて行かれたジローはといえば、可哀想なくらいしょぼくれて。
忍足と向日は慌ててその両側に立った。
「わかったわかった。チーズサンドな? ジロー、食べて帰ろな。な?」
「そうそう。侑士が奢ってくれるって! よかったな、ジロー。な?」
「奢りとか言うてへんわ!」
思いっきり恨みがましい顔をする忍足に、向日は構わぬ顔で、ジローの手を引き、着替えを促している。
そんな向日の後ろに忍足はぴったりとくっついている。
「おい、岳人」
「侑士の分は俺が奢ってやるよ」
屈託のない笑顔に忍足は一瞬ぐっと黙り込んで。
思わず、といった風情で呟いていた。
「……そういう、可愛ええ顔すんなや」
「で、俺の分は侑士が奢れよな」
「結局二人分かい!」
部室の片隅。
どっちもこっちも本当に、と。
呆れかえって吐き出された日吉の呟きは、もはや誰の耳にも届かなかった。
「ジロー! お前、せめて着替えろよ!」
向日の手に肩を揺すられてもジローは何ら眠りを妨げられている様子はなく、すうすうと寝息を立てて丸まっている。
部活を終えて、一斉にメンバーが着替えを始めている中、ユニフォーム姿のまま寝入っているジローも、つい今しがたまでは起きていたのに。
ちょっと目を離した隙にいつものようにこんな状態だ。
「こいつさあ、実は魔女に呪いでもかけられてるんじゃねえの」
「眠り姫ならぬ、眠り王子って?」
向日の悪態に、忍足が笑って応えている。
「これだけ寝てる割には育たんしな」
「寝る子は育つって、あれ完全にデマだ。ガセだ」
「いっぱい試してみたんやなあ。岳人」
「てめ、…! 侑士、お気の毒さまーみたいな哀れっぽい顔すんじゃねえ!」
勇ましく怒鳴る向日と、淡々としつつも笑いを絶やさない忍足のやりとりはいつもの事だ。
日常そのままのテニス部の光景だ。
「うるせえなあ、外まで聞こえてるぞ、岳人」
部室の扉が開いて、最後の最後まで居残って練習をしていた宍戸が憮然とした顔で入ってくる。
宍戸の背後には鳳がいて、この二人はとにかく一番最初に部活にきて、一番最後までコートにいる。
それもまたいつものことだ。
「悪かったな! つーか、それでもまだ起きねえけどな、ジローは」
向日が宍戸に噛みつくようにして言い、宍戸はソファに視線を落として、ああ、と薄く笑った。
「ほんとだ。すげえな、こいつ」
ソファの背後に回り、宍戸は腰から上半身を僅かに屈めるようにしてジローの寝顔を見下ろした。
「………何やってんの。宍戸」
向日が、ぽかんとした顔で言った言葉に、周囲の視線も自然と宍戸に集まった。
宍戸はソファの裏側から僅かに身体を屈めてジローの髪を撫でている。
「…あ?」
視線に気づいた宍戸がジローから目線を上げて、何だよ、と僅かに怯んだように周囲を見回す。
宍戸といえば毒気のある言葉こそ吐かないが、口調は荒く、所作もさばさばと男っぽい。
とても今のように、寝ている友人の頭を撫でるような仕草をするタイプではないのだ。
それが今、眠るジローの頭を何度も撫でているのだから。
向日を始め周囲の人物こそ怯んでいる。
追い討ちをかけたのは宍戸が次に怒鳴ったこの言葉だ。
「長太郎はこれで起きるんだよ!」
レギュラー陣は引きまくった。
長太郎というのは、その、宍戸の背後で穏やかで人好きのする笑みを浮かべて立っている、長身の男前な後輩のことか。
判り切った事を確認したくなるのも無理ないだろうと、面々は臆面もなくそんな事を言い放った宍戸の、あっけらかんとした態度に対して断言したい気持ちでいっぱいになった。
てらいがない。
そんな当たり前のように言うなと思う面々の前で、名指しされた鳳が、顎の辺りに手をやって、僅かに首を傾け思案顔だ。
そうかと思うといきなり長い足でソファの前方に向かい、両腕で。
ひょい、と。
ジローを抱き上げた。
「な……っ、…」
何だ何だ、何なんだ、と面くらい絶叫するレギュラー陣を前にして。
鳳は暫く両腕でお姫様抱っこしたジローを見やり、その後溜息を吐きだした。
「うーん…駄目ですね…」
「駄目か」
「はい。宍戸さん。駄目です」
律儀に鳳に問いかけたのは宍戸で、二人で顔を見合わせ溜息などつきあっている。
周囲の人間のあからさまな視線に気づいたのか、鳳が顔を上げて真顔で言った。
「宍戸さんは、こうすると起きるんですけど」
抱っこされて目が覚めるとか。
それがまたお姫様抱っことか。
どういう二人だと、今更ながらに悩ましく脱力した忍足と向日を余所に、鳳は宍戸を見つめて、ねえ?と甘く同意を求めている。
特別な相手への恋愛感情を隠さない目をして、腕にはジロー。
鳳という男は判らないと忍足と向日は思わず互いの手と手を取り合ってしまう。
そもそも鳳といい宍戸といい、そんな甘ったるい起こし合い方をしているあたり似た者同士だ。
「日本人の奥ゆかしさとか、慎み深さっちゅーもんは、あいつらにはないんやろな…」
「全くだぜ侑士。これっぽっちも持ってねえぞ、あいつら」
忍足と向日が顔を合わせて言い合うのをよそに、鳳はそっとジローを元のソファに戻すと、先に着替えを始めた宍戸の隣で、この後の予定などを伺っていた。
「ねえ宍戸さん。俺、先週からサンドイッチメニューに、チーズサンドを新しく入れたお店見つけたんです。帰りに一緒に行きませんか」
「へえ。お前、そういうのよく知ってるよな」
「そうですか? でもこれは宍戸さんに言おうって、見た時思って」
「腹減ったしな。行くか」
「はい」
にこにこと笑っている鳳と、あくまでもさばさばしている宍戸に対して、忍足と向日は深い深い溜息をつくばかりだ。
「………ほえ…? ちーずさんど…?」
いきなり、むくっとジローがソファから上半身を起こす。
「おれもいくー!」
寝ぼけ眼の割に大声で言い放った言葉に、おののいたのは忍足と向日で。
おう、お前も行くか、と言った宍戸の言葉に鳳はきれいに彼の言葉を被せてきた。
「ジロー先輩、なんの夢みてるんですかねー。さ、行きましょう宍戸さん」
「え? あ、おい…ちょっと…。長太郎?」
お先に失礼しますと言った鳳は、しっかりと宍戸の手を握って鞄を肩にかけ、部室を出ていく。
半ば引きずられるようになっている宍戸は、僅かばかり戸惑いを見せつつも、結局しょうがないと言わんばかりの顔で鳳の後に続いた。
「…………ちーずさんど」
置いて行かれたジローはといえば、可哀想なくらいしょぼくれて。
忍足と向日は慌ててその両側に立った。
「わかったわかった。チーズサンドな? ジロー、食べて帰ろな。な?」
「そうそう。侑士が奢ってくれるって! よかったな、ジロー。な?」
「奢りとか言うてへんわ!」
思いっきり恨みがましい顔をする忍足に、向日は構わぬ顔で、ジローの手を引き、着替えを促している。
そんな向日の後ろに忍足はぴったりとくっついている。
「おい、岳人」
「侑士の分は俺が奢ってやるよ」
屈託のない笑顔に忍足は一瞬ぐっと黙り込んで。
思わず、といった風情で呟いていた。
「……そういう、可愛ええ顔すんなや」
「で、俺の分は侑士が奢れよな」
「結局二人分かい!」
部室の片隅。
どっちもこっちも本当に、と。
呆れかえって吐き出された日吉の呟きは、もはや誰の耳にも届かなかった。
乾がぼんやりと口にした言葉が、昨日の夢の続きが見たいなあ、だったので。
結果、海堂は乾の家に泊まることになった。
乾の昨夜の夢とやらには、海堂が出てきたとのことで。
例え自分とはいえ、夢など乞われて海堂が微妙に対抗心を燃やした結果で、そうなった。
「海堂、一緒に寝ようよ」
「………………」
当然のように自分の寝そべるベッドを叩いてきた乾に、海堂は複雑そうに眉根を寄せた。
乾の両親とも不在だという週末。
お風呂を借りて乾の部屋に戻ってきた海堂を出迎えたのは、ベッドに腹這いになって雑誌を捲っていた乾だ。
乾の目線が海堂の頭を見たのは、髪がかわいているかどうかを確認したからだろうと海堂にも判った。
「ちゃんと大人しくしてるよ。おいで」
雑誌を閉じて、乾が笑いかけてくる。
別にいちいちそういう事を言わなくていいと目線で訴えながら、海堂はベッドに近づいていく。
「はい。どうぞ?」
身体をずらして乾がベッドにスペースをつくる。
「……俺は」
「床で良いとか言わない」
「………………」
「別に寝るって言うなら、俺はベッドから海堂の布団に飛び込む予定だけど、それでもいい?」
「…あんたなあ」
呆れた海堂がいくら睨んでも堪えた風もなく、乾は海堂の腕をそっと掴んで引っ張り込んできた。
乾の胸元深く。
「………………」
少しばかり強引にされて。
海堂は乾と一緒にベッドに横たわることになる。
「ちなみに今朝はここで目が覚めた」
「………………」
朝起きた時の喪失感っていったらなかったなあ、と乾は海堂の髪を撫でながら言った。
海堂はといえば、どうしたって気まり悪いような居心地が悪いような思いで、ごそごそと身じろぐばかりだ。
これだけくっついていると、あまり動くのも相手にとっては落ち着かないのではと考えた途端。
「いいよ、ここだっていうベストポジション決まるまで好きにしてて」
笑ったような声で乾が言って、何でこう考えていることがダダ漏れなんだと思いながら、海堂は言われた言葉に従って思う存分乾言うところのベストポジションを探した。
暫くしてやっと、身体の力が抜ける場所を見つける。
結局それが乾の胸元近くに顔を寄せる位置だというのだから、何なんだろうなと海堂はひっそりと赤くなった。
乾は海堂の髪を指先に絡めるようにしながら呟いてくる。
「俺なぁ…海堂」
「………はい…?」
「最近、はっきり判ったんだが」
「………………」
「とにかく海堂と一緒にいたいんだよ」
「……乾先輩?」
乾が、何だか不思議な声で話し出すので、海堂はその体制のまま目線を上げた。
乾はメガネを外してベッドヘッドに置き、そっと海堂を見下ろしてくる。
やけにしみじみとした、落ち着いた声音で乾は言う。
「海堂といると、すっきりするんだ。…頭の中とか、感情だとかが」
「すっきり…?」
「そう。…まあ、それだけって訳でもないけどな」
いろいろね、と乾が笑い、でもその笑い方がふんわりと優しい感じだったので海堂はどぎまぎした。
「例えばなんだけど。何も手を加えてないってものが、今の世の中圧倒的に少ないだろう」
「………………」
乾の話が突拍子もなかったり、突然饒舌になるのはいつもの事なので驚かない。
海堂が促しの無言でいると、乾は話を続けた。
「いろんなものがあって、……そうだなあ、たとえば飲み物とかも。茶葉とか、果物とか、ある意味自然のものもあるにはあるけど、混ぜてみたり味付けてみたり、身体に良いとか悪いとか、美味かったり不味かったり、甘かったり苦かったり。いろいろだろう?」
「……あんたが言うかって気もしますけど」
思わず本音が出た海堂の言葉に、乾は低く笑い声を響かせた。
「そこ置いておいて。…でもさ、海堂。結局のところ、人間、水があればいい」
「………………」
「水があれば、いいんだ」
乾の腕が海堂の背中に回る。
あたたかい腕に抱きしめられて、海堂はほっとする。
理由なんかない。
無条件にだ。
乾も海堂を抱き込んで、同じように身体の力を抜いて。
海堂の耳元近くで囁いた。
「俺は、結局、海堂がいてくれたら、それでいいんだ」
「……………」
「海堂がいてくれたら、それだけでいいんだ」
艶のある低い声。
でも言い方は、すなおな小さな子供のようだった。
海堂よりも遥かに長身で、どこか達観したような雰囲気の年上の男が、海堂を抱き込んで、そんな言葉を零して。
安心したかのように、すうっと眠りに落ちていく。
乾は海堂といると異様に寝つきが良いのだと言う。
寝入り端まで海堂の事を口にして、殆ど喋りながらそのまま眠っていく乾の傍で、海堂は。
なんだろう。
そう思い、海堂は目を閉じる。
「………………」
なんだろう。
少しも嫌な感じではなく、海堂の胸は引き絞られる。
この人は。
そして自分は。
「………………」
海堂は、自分の頭上に唇を埋めるようにしたまま安らいで眠ってしまった乾に抱かれて。
しばらく考えたけれど、次第に乾の眠りの中に、自分もゆっくりと引きこまれていくような錯覚を覚える。
なめらかな水のような感覚に沈んでいく。
胸は、依然、甘苦しく引き絞られる。
それはほんの少しも、辛くなどないけれど。
「………………」
もし、今日乾のみる夢が、途中で途切れてしまっても。
明日の朝には、自分が途切れたその先を続けてやろう。
もし、海堂がこれからみる夢が、同じ経路を辿るのならば。
明日の朝には、乾がそれを続けてくれるだろう。
何も問題はなかった。
こうして一緒にいれば、それだけで。
何の問題もないことだ。
結果、海堂は乾の家に泊まることになった。
乾の昨夜の夢とやらには、海堂が出てきたとのことで。
例え自分とはいえ、夢など乞われて海堂が微妙に対抗心を燃やした結果で、そうなった。
「海堂、一緒に寝ようよ」
「………………」
当然のように自分の寝そべるベッドを叩いてきた乾に、海堂は複雑そうに眉根を寄せた。
乾の両親とも不在だという週末。
お風呂を借りて乾の部屋に戻ってきた海堂を出迎えたのは、ベッドに腹這いになって雑誌を捲っていた乾だ。
乾の目線が海堂の頭を見たのは、髪がかわいているかどうかを確認したからだろうと海堂にも判った。
「ちゃんと大人しくしてるよ。おいで」
雑誌を閉じて、乾が笑いかけてくる。
別にいちいちそういう事を言わなくていいと目線で訴えながら、海堂はベッドに近づいていく。
「はい。どうぞ?」
身体をずらして乾がベッドにスペースをつくる。
「……俺は」
「床で良いとか言わない」
「………………」
「別に寝るって言うなら、俺はベッドから海堂の布団に飛び込む予定だけど、それでもいい?」
「…あんたなあ」
呆れた海堂がいくら睨んでも堪えた風もなく、乾は海堂の腕をそっと掴んで引っ張り込んできた。
乾の胸元深く。
「………………」
少しばかり強引にされて。
海堂は乾と一緒にベッドに横たわることになる。
「ちなみに今朝はここで目が覚めた」
「………………」
朝起きた時の喪失感っていったらなかったなあ、と乾は海堂の髪を撫でながら言った。
海堂はといえば、どうしたって気まり悪いような居心地が悪いような思いで、ごそごそと身じろぐばかりだ。
これだけくっついていると、あまり動くのも相手にとっては落ち着かないのではと考えた途端。
「いいよ、ここだっていうベストポジション決まるまで好きにしてて」
笑ったような声で乾が言って、何でこう考えていることがダダ漏れなんだと思いながら、海堂は言われた言葉に従って思う存分乾言うところのベストポジションを探した。
暫くしてやっと、身体の力が抜ける場所を見つける。
結局それが乾の胸元近くに顔を寄せる位置だというのだから、何なんだろうなと海堂はひっそりと赤くなった。
乾は海堂の髪を指先に絡めるようにしながら呟いてくる。
「俺なぁ…海堂」
「………はい…?」
「最近、はっきり判ったんだが」
「………………」
「とにかく海堂と一緒にいたいんだよ」
「……乾先輩?」
乾が、何だか不思議な声で話し出すので、海堂はその体制のまま目線を上げた。
乾はメガネを外してベッドヘッドに置き、そっと海堂を見下ろしてくる。
やけにしみじみとした、落ち着いた声音で乾は言う。
「海堂といると、すっきりするんだ。…頭の中とか、感情だとかが」
「すっきり…?」
「そう。…まあ、それだけって訳でもないけどな」
いろいろね、と乾が笑い、でもその笑い方がふんわりと優しい感じだったので海堂はどぎまぎした。
「例えばなんだけど。何も手を加えてないってものが、今の世の中圧倒的に少ないだろう」
「………………」
乾の話が突拍子もなかったり、突然饒舌になるのはいつもの事なので驚かない。
海堂が促しの無言でいると、乾は話を続けた。
「いろんなものがあって、……そうだなあ、たとえば飲み物とかも。茶葉とか、果物とか、ある意味自然のものもあるにはあるけど、混ぜてみたり味付けてみたり、身体に良いとか悪いとか、美味かったり不味かったり、甘かったり苦かったり。いろいろだろう?」
「……あんたが言うかって気もしますけど」
思わず本音が出た海堂の言葉に、乾は低く笑い声を響かせた。
「そこ置いておいて。…でもさ、海堂。結局のところ、人間、水があればいい」
「………………」
「水があれば、いいんだ」
乾の腕が海堂の背中に回る。
あたたかい腕に抱きしめられて、海堂はほっとする。
理由なんかない。
無条件にだ。
乾も海堂を抱き込んで、同じように身体の力を抜いて。
海堂の耳元近くで囁いた。
「俺は、結局、海堂がいてくれたら、それでいいんだ」
「……………」
「海堂がいてくれたら、それだけでいいんだ」
艶のある低い声。
でも言い方は、すなおな小さな子供のようだった。
海堂よりも遥かに長身で、どこか達観したような雰囲気の年上の男が、海堂を抱き込んで、そんな言葉を零して。
安心したかのように、すうっと眠りに落ちていく。
乾は海堂といると異様に寝つきが良いのだと言う。
寝入り端まで海堂の事を口にして、殆ど喋りながらそのまま眠っていく乾の傍で、海堂は。
なんだろう。
そう思い、海堂は目を閉じる。
「………………」
なんだろう。
少しも嫌な感じではなく、海堂の胸は引き絞られる。
この人は。
そして自分は。
「………………」
海堂は、自分の頭上に唇を埋めるようにしたまま安らいで眠ってしまった乾に抱かれて。
しばらく考えたけれど、次第に乾の眠りの中に、自分もゆっくりと引きこまれていくような錯覚を覚える。
なめらかな水のような感覚に沈んでいく。
胸は、依然、甘苦しく引き絞られる。
それはほんの少しも、辛くなどないけれど。
「………………」
もし、今日乾のみる夢が、途中で途切れてしまっても。
明日の朝には、自分が途切れたその先を続けてやろう。
もし、海堂がこれからみる夢が、同じ経路を辿るのならば。
明日の朝には、乾がそれを続けてくれるだろう。
何も問題はなかった。
こうして一緒にいれば、それだけで。
何の問題もないことだ。
跡部の眠りはいつも比較的短い。
寝付き自体あまり良い方ではないけれど、眠りは浅いという事はなく、ただ何時に眠っても五時間ばかりで必ず目が覚める。
大抵はそうやって目が覚めた時にはそのまま起き出して一日を初めてしまう跡部なのだが、その日、明け方前に目覚めた跡部は珍しくももう少しこのまま眠ろうと考えた。
跡部の胸元近くで華奢な肩を丸めるようにして神尾が寝ていたからだ。
薄暗い室内、ベッドの上で、跡部は神尾の小さな丸い頭をぼんやりと見つめた。
「………………」
跡部と違い、神尾はとにかくよく眠る。
寝付きもいいし、夜中に起き出す事もしないし、朝は辛抱強く起こさないとなかなか起きてこない。
とりわけ昨夜のように、眠りに落ちるギリギリまで跡部が加減なしに疲労困憊させてしまえば、もう生半可な事では目など覚まさないのだ。
無意識に跡部の手が伸びて、神尾の髪を頭の形に撫でつけるように触れる。
当然それくらいでは神尾は目を覚まさない。
手のひらにあるさらさらと手触りのいい感触を感じ取りながら、跡部はそのまま閉じかけていた目を、ふと開けた。
「………………」
思い立ったのはオリオン座流星群のことで、確かそれはここ数日がピークだった筈だ。
それも明け方近くが一番よく見える。
ならばちょうど今時分かと目線だけ窓の外へ向ける。
冬物に替えたばかりのカーテンがしっかりと下りているので、外の様子は伺い知れない。
しかし、部屋から直結しているテラスに出れば夜空を見上げるのも簡単な事だ。
決断は一瞬。
跡部は極力そっと起き上がってベッドから降りた。
神尾は起きてこないと判ってはいても、身体が勝手にそう動いた。
サイドテーブルに置いてある携帯を手にとって時間を確かめれば、一番良い頃合いと思われる。
跡部はそのまま大きなガラス窓を押して開け、テラコッタの敷き詰めてあるテラスを歩いて行く。
素足で歩くのはもう、涼しいというよりは寒々しいのに近い夜明け前だ。
扉はきっちり閉めてきたから神尾が寒がることはないだろうと跡部は思い、その後ですぐ苦笑する。
いつの間に、自分はいちいち何につけても神尾の事を基準に置くようになったのかと思ったからだ。
「………………」
明け方前の東の空を見上げる。
判りやすい並びのオリオン座はよく見える。
跡部はテラスの柵に寄りかかるようにして頭上を仰ぎ見る。
いきなり最初の一つ目の流れ星が夜空を撫でるようにすべり、一瞬で消えていく。
その後も二つ目、三つ目、と流星を見つけて。
朝になってこの話をしたら、おそらく神尾は盛大に拗ねるだろうと思い、跡部は唇にまた新たな苦笑を刻んだ。
見せてやろうかとも思ったが、どうせ今跡部が起こしたところで神尾は起きっこない。
それでも明日になって話を聞けば、自分も見たかったと、さぞかし拗ねて大変だろう。
子供っぽい悪態を並べるのは想像に難くない。
「………………」
こんな風に一人で星を見上げている間、考えていることが結局神尾のことだけだというのだから、跡部は自分がおかしかった。
早くベッドに帰りたくなったのは寒さのせいでもないし、眠気がよみがえったからでもない。
そこに神尾がいるからだ。
「………………」
跡部は出てきた時と同じように、静かに室内へと戻った。
ベッドに入る。
寝そべる手前。
跡部は中途半端な体勢で動きを止めた。
神尾の目が開いている。
跡部を、見ている。
珍しいと思う反面、起こしてしまったかとも思い、跡部がそのまま神尾を抱き込んで眠りの続きに入ろうとしたのをとどめたのも神尾だった。
「………………」
神尾の唇が動いた。
読み取ろうと顔を近づけた跡部を見上げたまま、神尾は頼りない表情で、ぽつんと言った。
「……電話?」
「あ?」
問い返しながらもその短い一言で神尾が言おうとした意味は全て悟った跡部だ。
半ば寝ぼけているような相手を怒鳴りつけても仕方がないが、それでも跡部は短く舌打ちして、バァカ、と言った。
「かかってきてねえし、かけてもいねえよ」
「……そう…なのか…」
ぼんやりとした声だったけれど神尾は返事をしてきた。
当り前だろうがと跡部は少しきつく神尾を抱き込んだ。
「何時だと思ってんだ」
「……跡部、いないし」
携帯、ないし、と神尾が跡部の胸元で小さく喋る。
絡んでくるというより、途方にくれているような様子だ。
何かを疑っているというより、戸惑っているような声だ。
跡部は神尾の唇をキスで掠めた。
「何で目が覚めるんだかな。お前」
普段の寝起きの悪さでは考えられない。
でも今夜目覚めた理由が、一緒に寝ていた跡部がいない気配に気づいたからだというのなら上出来だと跡部は思った。
機嫌の良い跡部の呟きを、しかし神尾は盛大に勘違いしているようで黙り込んでいるけれど。
跡部からの抱擁でもキスでも声音でも、真意を察することも出来ない神尾に。
さてどう判らせてやるかと、跡部は神尾を抱き込みながら思案する。
仰ぎ見た夜空の流星群のように、幾つかの考えが跡部の思考を流れていくけれど。
「跡部」
擦り寄るようにしてきた神尾の所作に、結局太刀打ちできるものなどなくて。
もう一度改めて、跡部は神尾を抱き込み、口づけ、名前を囁き、そして話をする。
証拠はオリオン座流星群だという話。
寝付き自体あまり良い方ではないけれど、眠りは浅いという事はなく、ただ何時に眠っても五時間ばかりで必ず目が覚める。
大抵はそうやって目が覚めた時にはそのまま起き出して一日を初めてしまう跡部なのだが、その日、明け方前に目覚めた跡部は珍しくももう少しこのまま眠ろうと考えた。
跡部の胸元近くで華奢な肩を丸めるようにして神尾が寝ていたからだ。
薄暗い室内、ベッドの上で、跡部は神尾の小さな丸い頭をぼんやりと見つめた。
「………………」
跡部と違い、神尾はとにかくよく眠る。
寝付きもいいし、夜中に起き出す事もしないし、朝は辛抱強く起こさないとなかなか起きてこない。
とりわけ昨夜のように、眠りに落ちるギリギリまで跡部が加減なしに疲労困憊させてしまえば、もう生半可な事では目など覚まさないのだ。
無意識に跡部の手が伸びて、神尾の髪を頭の形に撫でつけるように触れる。
当然それくらいでは神尾は目を覚まさない。
手のひらにあるさらさらと手触りのいい感触を感じ取りながら、跡部はそのまま閉じかけていた目を、ふと開けた。
「………………」
思い立ったのはオリオン座流星群のことで、確かそれはここ数日がピークだった筈だ。
それも明け方近くが一番よく見える。
ならばちょうど今時分かと目線だけ窓の外へ向ける。
冬物に替えたばかりのカーテンがしっかりと下りているので、外の様子は伺い知れない。
しかし、部屋から直結しているテラスに出れば夜空を見上げるのも簡単な事だ。
決断は一瞬。
跡部は極力そっと起き上がってベッドから降りた。
神尾は起きてこないと判ってはいても、身体が勝手にそう動いた。
サイドテーブルに置いてある携帯を手にとって時間を確かめれば、一番良い頃合いと思われる。
跡部はそのまま大きなガラス窓を押して開け、テラコッタの敷き詰めてあるテラスを歩いて行く。
素足で歩くのはもう、涼しいというよりは寒々しいのに近い夜明け前だ。
扉はきっちり閉めてきたから神尾が寒がることはないだろうと跡部は思い、その後ですぐ苦笑する。
いつの間に、自分はいちいち何につけても神尾の事を基準に置くようになったのかと思ったからだ。
「………………」
明け方前の東の空を見上げる。
判りやすい並びのオリオン座はよく見える。
跡部はテラスの柵に寄りかかるようにして頭上を仰ぎ見る。
いきなり最初の一つ目の流れ星が夜空を撫でるようにすべり、一瞬で消えていく。
その後も二つ目、三つ目、と流星を見つけて。
朝になってこの話をしたら、おそらく神尾は盛大に拗ねるだろうと思い、跡部は唇にまた新たな苦笑を刻んだ。
見せてやろうかとも思ったが、どうせ今跡部が起こしたところで神尾は起きっこない。
それでも明日になって話を聞けば、自分も見たかったと、さぞかし拗ねて大変だろう。
子供っぽい悪態を並べるのは想像に難くない。
「………………」
こんな風に一人で星を見上げている間、考えていることが結局神尾のことだけだというのだから、跡部は自分がおかしかった。
早くベッドに帰りたくなったのは寒さのせいでもないし、眠気がよみがえったからでもない。
そこに神尾がいるからだ。
「………………」
跡部は出てきた時と同じように、静かに室内へと戻った。
ベッドに入る。
寝そべる手前。
跡部は中途半端な体勢で動きを止めた。
神尾の目が開いている。
跡部を、見ている。
珍しいと思う反面、起こしてしまったかとも思い、跡部がそのまま神尾を抱き込んで眠りの続きに入ろうとしたのをとどめたのも神尾だった。
「………………」
神尾の唇が動いた。
読み取ろうと顔を近づけた跡部を見上げたまま、神尾は頼りない表情で、ぽつんと言った。
「……電話?」
「あ?」
問い返しながらもその短い一言で神尾が言おうとした意味は全て悟った跡部だ。
半ば寝ぼけているような相手を怒鳴りつけても仕方がないが、それでも跡部は短く舌打ちして、バァカ、と言った。
「かかってきてねえし、かけてもいねえよ」
「……そう…なのか…」
ぼんやりとした声だったけれど神尾は返事をしてきた。
当り前だろうがと跡部は少しきつく神尾を抱き込んだ。
「何時だと思ってんだ」
「……跡部、いないし」
携帯、ないし、と神尾が跡部の胸元で小さく喋る。
絡んでくるというより、途方にくれているような様子だ。
何かを疑っているというより、戸惑っているような声だ。
跡部は神尾の唇をキスで掠めた。
「何で目が覚めるんだかな。お前」
普段の寝起きの悪さでは考えられない。
でも今夜目覚めた理由が、一緒に寝ていた跡部がいない気配に気づいたからだというのなら上出来だと跡部は思った。
機嫌の良い跡部の呟きを、しかし神尾は盛大に勘違いしているようで黙り込んでいるけれど。
跡部からの抱擁でもキスでも声音でも、真意を察することも出来ない神尾に。
さてどう判らせてやるかと、跡部は神尾を抱き込みながら思案する。
仰ぎ見た夜空の流星群のように、幾つかの考えが跡部の思考を流れていくけれど。
「跡部」
擦り寄るようにしてきた神尾の所作に、結局太刀打ちできるものなどなくて。
もう一度改めて、跡部は神尾を抱き込み、口づけ、名前を囁き、そして話をする。
証拠はオリオン座流星群だという話。
次に会う約束を、交わす回数が増えた。
乾が部活を引退して、思っていたよりも部内で一緒にいる時間が多かったのだと気づいたのは、乾もだし、海堂もだ。
学年が違うというだけで、同じ学校にいても、顔を全く合わせない日もある。
即座に動いたのは乾だった。
海堂のクラスまでやってきて、その日の放課後の約束を取り付けてから以降は、別れ際に、約束を交わすようになった。
時々は突発で誘ったり誘われたりもする。
今日は乾が、前日に、うちに来ないかと電話をかけてきたので、海堂はこうして乾の部屋で肩を並べて座っている。
テレビがついているけれど、番組はみているような見ていないような、曖昧な感じだ。
海堂は饒舌なタイプではないので、もっぱら乾が何事か話しかけ、それに答えるような形で会話は続く。
ベッドに寄り掛かるようにしながら話しているさなか、ふと乾の様子が緩んだ気がして、海堂は横を向き乾を見上げる。
「ん?」
「…や、…」
「ああ」
判った?というように、乾が微笑んで海堂の眼差しを受け止める。
不思議だけれど、こんな風に目をみたり、極短い言葉程度で、自分達は意思の疎通が出来る。
テニス部の中でも、時折驚かれたり笑われたりした事があった。
「嬉しいなあと思ってさ」
「…何がっすか?」
乾が低くなめらかな声で言い、海堂は小さくそれを問い返す。
「距離がね」
「………………」
「近くて」
気づいてる?と乾が尚やわらかく唇に笑みを刻む。
距離。
近くて当然だ、と海堂は思った。
横並びに座っている。
乾の右手は海堂の右の脇腹に回されている。
いくら乾の腕が長いと言っても、腰のあたりを抱かれるようにして座っていれば、距離も近いに決まっている。
何を改めて言うことかと海堂が乾の目を見て思えば、乾は小さく声にして笑って、海堂の髪に軽く頬を寄せるようにして言った。
「海堂さ、最初に俺にメニュー作ってくれって言いに来た時の距離、覚えてる?」
「……距離…?」
「そう。ここから、…そこくらいまであった」
乾は左手で、自分達と、前方のテレビとを順に指差した。
海堂は何とも言えない顔になる。
そんなに離れていただろうか。
「コートの中だと、まあ、ある程度距離も縮まるんだけど。外出ちゃうと、やっぱり結構距離があって。…で、そういう距離が、今、こうだからさ」
嬉しいんだよ、という言葉と一緒に。
多分頭上にキスされたようだった。
感触がした。
海堂は乾の右手の甲を軽く叩いた。
「この手のせいだろうが…」
「こればっかじゃないって」
ぐっと一層強く抱き寄せられる。
何だかもう、べったりと、くっつきすぎているとは思うけれど。
乾の手を振りほどこうとは全く思えない海堂は、大人しく力を抜いたままだ。
「この手とか、今の距離だとかを、海堂が許してくれてるせいもあるだろ?」
「………………」
「嫌なら嫌ってちゃんと言う海堂が、ここにこうしていてくれてるから俺は嬉しい。…判る?」
優しい声はやけに甘くて、海堂は少しばかり憮然となった。
返しようがないだろうがと心中でのみ呟く。
確かに、こんな至近距離で人と居る事は、海堂にとっては稀だ。
乾とだと、平気なこの距離が。
果たして他の人間だったらどうかと考えれば、多分どうしたって無理だ。
体温が判るような、匂いも判るような、ぴったりとくっついて、話しながら時折キスまで交わして。
こんなこと。
「………、うわ」
「……うわって何っすか」
「いや、だって」
ちょっと海堂の方から擦り寄るように乾の胸元に凭れかかっただけで。
物凄く濃い感情のこもった声を出されてしまって、海堂は憮然とした。
少しばかり自分の顔が赤いであろう自覚はあったので、僅かに俯き表情は隠してしまうけれど。
乾の右手が海堂の右脇腹を支えたまま、左手でも海堂の後頭部を抱き込むようにしてきて。
もうお互いの間の距離などそれで消滅してしまった。
先程までの距離間で嬉しいと笑っていた乾だ。
これならばどうなのか。
海堂がそんな思いで引き上げて伺った目線を、乾は受け止めなかった。
睫毛を伏せた眼元が間近に見え、唇を塞がれた時には海堂も目を閉じていた。
「………………」
唇と唇が合わせられると、熱が生まれる。
指先だとか、胸の奥だとか、喉の中だとか。
唇と唇が離れると、くらくらする。
どこに落ちていくのか判らない眩暈だ。
同時に。
甘い困惑で吐き出す溜息は、二人分。
心からの感情を紡ぐのは、言葉よりもそんな溜息の方が余程明確だ。
乾が部活を引退して、思っていたよりも部内で一緒にいる時間が多かったのだと気づいたのは、乾もだし、海堂もだ。
学年が違うというだけで、同じ学校にいても、顔を全く合わせない日もある。
即座に動いたのは乾だった。
海堂のクラスまでやってきて、その日の放課後の約束を取り付けてから以降は、別れ際に、約束を交わすようになった。
時々は突発で誘ったり誘われたりもする。
今日は乾が、前日に、うちに来ないかと電話をかけてきたので、海堂はこうして乾の部屋で肩を並べて座っている。
テレビがついているけれど、番組はみているような見ていないような、曖昧な感じだ。
海堂は饒舌なタイプではないので、もっぱら乾が何事か話しかけ、それに答えるような形で会話は続く。
ベッドに寄り掛かるようにしながら話しているさなか、ふと乾の様子が緩んだ気がして、海堂は横を向き乾を見上げる。
「ん?」
「…や、…」
「ああ」
判った?というように、乾が微笑んで海堂の眼差しを受け止める。
不思議だけれど、こんな風に目をみたり、極短い言葉程度で、自分達は意思の疎通が出来る。
テニス部の中でも、時折驚かれたり笑われたりした事があった。
「嬉しいなあと思ってさ」
「…何がっすか?」
乾が低くなめらかな声で言い、海堂は小さくそれを問い返す。
「距離がね」
「………………」
「近くて」
気づいてる?と乾が尚やわらかく唇に笑みを刻む。
距離。
近くて当然だ、と海堂は思った。
横並びに座っている。
乾の右手は海堂の右の脇腹に回されている。
いくら乾の腕が長いと言っても、腰のあたりを抱かれるようにして座っていれば、距離も近いに決まっている。
何を改めて言うことかと海堂が乾の目を見て思えば、乾は小さく声にして笑って、海堂の髪に軽く頬を寄せるようにして言った。
「海堂さ、最初に俺にメニュー作ってくれって言いに来た時の距離、覚えてる?」
「……距離…?」
「そう。ここから、…そこくらいまであった」
乾は左手で、自分達と、前方のテレビとを順に指差した。
海堂は何とも言えない顔になる。
そんなに離れていただろうか。
「コートの中だと、まあ、ある程度距離も縮まるんだけど。外出ちゃうと、やっぱり結構距離があって。…で、そういう距離が、今、こうだからさ」
嬉しいんだよ、という言葉と一緒に。
多分頭上にキスされたようだった。
感触がした。
海堂は乾の右手の甲を軽く叩いた。
「この手のせいだろうが…」
「こればっかじゃないって」
ぐっと一層強く抱き寄せられる。
何だかもう、べったりと、くっつきすぎているとは思うけれど。
乾の手を振りほどこうとは全く思えない海堂は、大人しく力を抜いたままだ。
「この手とか、今の距離だとかを、海堂が許してくれてるせいもあるだろ?」
「………………」
「嫌なら嫌ってちゃんと言う海堂が、ここにこうしていてくれてるから俺は嬉しい。…判る?」
優しい声はやけに甘くて、海堂は少しばかり憮然となった。
返しようがないだろうがと心中でのみ呟く。
確かに、こんな至近距離で人と居る事は、海堂にとっては稀だ。
乾とだと、平気なこの距離が。
果たして他の人間だったらどうかと考えれば、多分どうしたって無理だ。
体温が判るような、匂いも判るような、ぴったりとくっついて、話しながら時折キスまで交わして。
こんなこと。
「………、うわ」
「……うわって何っすか」
「いや、だって」
ちょっと海堂の方から擦り寄るように乾の胸元に凭れかかっただけで。
物凄く濃い感情のこもった声を出されてしまって、海堂は憮然とした。
少しばかり自分の顔が赤いであろう自覚はあったので、僅かに俯き表情は隠してしまうけれど。
乾の右手が海堂の右脇腹を支えたまま、左手でも海堂の後頭部を抱き込むようにしてきて。
もうお互いの間の距離などそれで消滅してしまった。
先程までの距離間で嬉しいと笑っていた乾だ。
これならばどうなのか。
海堂がそんな思いで引き上げて伺った目線を、乾は受け止めなかった。
睫毛を伏せた眼元が間近に見え、唇を塞がれた時には海堂も目を閉じていた。
「………………」
唇と唇が合わせられると、熱が生まれる。
指先だとか、胸の奥だとか、喉の中だとか。
唇と唇が離れると、くらくらする。
どこに落ちていくのか判らない眩暈だ。
同時に。
甘い困惑で吐き出す溜息は、二人分。
心からの感情を紡ぐのは、言葉よりもそんな溜息の方が余程明確だ。
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