How did you feel at your first kiss?
乾は海堂がショーケースの前で立ち止まっているのを見た時、どうしようかなと一瞬迷った。
何に対して迷ったのかというと、海堂に声をかけるかどうか。
迷った理由は海堂が何を見ているか遠目からでも判ったからだ。
そのショップのガラスケースの中に納められているのは、最近インテリアとしての需要も高まっているらしい透明標本だ。
身体の全てが透明な魚類の標本。
乾も何度かそこで足を止めて見たことがある。
「自主トレ?」
結局乾は少しの間迷ってから、静かに近づいていって海堂に声をかけた。
呼びかけに乾の方を見た海堂の黒髪は毛先が汗で湿っていた。
額にもうっすらと汗が浮かんでいる。
普段通りにかなりの距離を走ったのだろうと踏んで、乾は海堂の隣に肩を並べた。
海堂は依然目を見開いたまま乾を見上げてくる。
その後に、言葉より先に黙礼が返ってくるあたりが海堂らしいなと乾は思った。
三月に入って、だいぶ春めいた気配も出てきた。
すでに海堂はノースリーブでランニングをしている。
今日などはかなり暖かいけれども、それでも剥き出しの肩は、まだ少し目には寒々しい。
乾もまた黙ってじっと海堂を見ていると。
「乾先輩」
しばらくして呼びかけられる。
やっと乾が聞いた海堂の声音。
やわらかな唇からの硬質な呟き。
冷やしたら駄目だろ、と乾が眼差しだけで告げると、きちんと通じたようで、海堂は黙って腰に巻いていたジャージを羽織った。
着た、とでも言うように再度海堂が顔を上げて乾を見上げてくる様が可愛いと乾は思って。
海堂の背中を手のひらで軽く、ぽんと叩き、改めてショーケースに目線をやった。
「出来上がるまでに一年近くかかるのもあるらしいな」
これ、と乾が低く呟くと。
透明なんですね、と海堂も商品を見据えたまま言う。
「……そうだな。筋肉を透明化してあるんだ。その上で、硬骨は赤に、軟骨は青に染色する」
透き通って、色が付き、内部の何もかもをさらした標本だ。
ガラス瓶の中の、かつては命の在った魚は、今では生き物だった事が信じられないような存在になっている。
乾はそっと海堂を流し見た。
気づいた海堂が乾の眼差しを受け止めて、目と目が合った。
「これを見るとさ」
「………………」
「いつも俺は、海堂はどう思うかなって考えた」
「……俺…っすか…?」
「ああ。別にこの透明標本に限った話じゃないけど」
乾の日常に、海堂は、いるのだ。
実際に目の前にはいなくても。
それでも必ずいるみたいに、海堂がどう思うかを乾は日常の中で幾度となく考える。
海堂が好きそうだとか、嫌いだろうなとかも考える。
乾の思考に当たり前のように存在する、実体化していない海堂と、そんな海堂を住まわせる乾と、どちらがこの透明な標本に近いのだろう。
何もかも見えすぎて目に入らないくらいだ。
「俺も、今あんたのこと考えてたっすよ」
「ん?」
「あんただったら、これ見てどう言うかとか、何を思うかとか」
それを考えていたから。
あんたが現れてびっくりしたと海堂は薄く笑った。
たぶん乾にしか判らないくらいの、微かな、微かな、笑みだった。
消えてしまうのがもったいない。
乾はそう思ったけれど。
そういう海堂の表情は彼の顔からは消えても乾の記憶には全部残るし、これからもまた何かの拍子に見せて貰える可能性もある。
だからこの一瞬が、ほんの少しも惜しくはないのだ。
「俺ならどう思うって、海堂は思ったんだ?」
乾は思った。
海堂ならば。
これを見て、きっと、生きていたものが標本になっているという事実に対してだけではないところまで、乾では到達できない地点での、痛んだ思いを抱くのではないだろうか。
歪んだ倫理感の中で、どこまでも明るく、美しく透明なものになった魚に。
自分のように好奇心や興味ではなく、どこか痛ましさをいだくのではないだろうかと乾は思っていたので。
「……先輩は、自分に置き換えるんだろうなって思った」
「…ん?」
「自分も、こういう風にさらけ出したらどうなるんだろうとか。……うまく言えねえけど…」
充分きちんと伝わる言葉で。
しかし海堂はぎこちなく言い淀む。
「あんたは……ぜんぶ、自分に置き換えて考えるから時々心配になる」
「海堂?」
「…寂しいのとか、辛いのとか、痛いのとか。わざわざあんたが自分から、そっちに飛び込んでいく所が怖いんですよ」
海堂は真面目だった。
表情も、声も、話し方も。
乾が時々自分自身を置く、孤独ではなく孤立の領域を、海堂は知っているようだった。
何故気づかれたのかと乾は苦笑いを浮かべるけれど。
「何もあんたが、こういう存在になる事ないです」
「うん…」
「……何考えてるか時々本当に、判らないですけど。だからって無理に暴こうとは思わないから」
そんな顔しなくていいですと海堂は言った。
顔。
ショーケースに映る自分の顔に、海堂は何を見とったのかなと考えながら、乾は少しだけ海堂の指先を手に取った。
その一瞬でよかったのに。
手を繋いできたのは海堂からだった。
手を離してきたのも海堂からだった。
手に、そっと残る感触に。
乾はその場で目を閉じる。
乾は、その透き通った標本へ好奇心や興味を抱き、それに同化する。
海堂は、同じ物へ、どこか仄かな痛ましさを抱き、それに共存する。
「海堂」
「はい…?」
「明け透けになるのが怖くなってきたから」
「………………」
「すごく閉じこもりたいんだけど」
うち来ない?と乾が前方を見据えたまま問いかけると、同じく前を見たままの海堂が、最後の一言しか意味が判らねえと文句を言いながら。
少し赤い顔をほんの一瞬見せてから、背を向けて。
乾の家の方角へ、歩きだした。
何に対して迷ったのかというと、海堂に声をかけるかどうか。
迷った理由は海堂が何を見ているか遠目からでも判ったからだ。
そのショップのガラスケースの中に納められているのは、最近インテリアとしての需要も高まっているらしい透明標本だ。
身体の全てが透明な魚類の標本。
乾も何度かそこで足を止めて見たことがある。
「自主トレ?」
結局乾は少しの間迷ってから、静かに近づいていって海堂に声をかけた。
呼びかけに乾の方を見た海堂の黒髪は毛先が汗で湿っていた。
額にもうっすらと汗が浮かんでいる。
普段通りにかなりの距離を走ったのだろうと踏んで、乾は海堂の隣に肩を並べた。
海堂は依然目を見開いたまま乾を見上げてくる。
その後に、言葉より先に黙礼が返ってくるあたりが海堂らしいなと乾は思った。
三月に入って、だいぶ春めいた気配も出てきた。
すでに海堂はノースリーブでランニングをしている。
今日などはかなり暖かいけれども、それでも剥き出しの肩は、まだ少し目には寒々しい。
乾もまた黙ってじっと海堂を見ていると。
「乾先輩」
しばらくして呼びかけられる。
やっと乾が聞いた海堂の声音。
やわらかな唇からの硬質な呟き。
冷やしたら駄目だろ、と乾が眼差しだけで告げると、きちんと通じたようで、海堂は黙って腰に巻いていたジャージを羽織った。
着た、とでも言うように再度海堂が顔を上げて乾を見上げてくる様が可愛いと乾は思って。
海堂の背中を手のひらで軽く、ぽんと叩き、改めてショーケースに目線をやった。
「出来上がるまでに一年近くかかるのもあるらしいな」
これ、と乾が低く呟くと。
透明なんですね、と海堂も商品を見据えたまま言う。
「……そうだな。筋肉を透明化してあるんだ。その上で、硬骨は赤に、軟骨は青に染色する」
透き通って、色が付き、内部の何もかもをさらした標本だ。
ガラス瓶の中の、かつては命の在った魚は、今では生き物だった事が信じられないような存在になっている。
乾はそっと海堂を流し見た。
気づいた海堂が乾の眼差しを受け止めて、目と目が合った。
「これを見るとさ」
「………………」
「いつも俺は、海堂はどう思うかなって考えた」
「……俺…っすか…?」
「ああ。別にこの透明標本に限った話じゃないけど」
乾の日常に、海堂は、いるのだ。
実際に目の前にはいなくても。
それでも必ずいるみたいに、海堂がどう思うかを乾は日常の中で幾度となく考える。
海堂が好きそうだとか、嫌いだろうなとかも考える。
乾の思考に当たり前のように存在する、実体化していない海堂と、そんな海堂を住まわせる乾と、どちらがこの透明な標本に近いのだろう。
何もかも見えすぎて目に入らないくらいだ。
「俺も、今あんたのこと考えてたっすよ」
「ん?」
「あんただったら、これ見てどう言うかとか、何を思うかとか」
それを考えていたから。
あんたが現れてびっくりしたと海堂は薄く笑った。
たぶん乾にしか判らないくらいの、微かな、微かな、笑みだった。
消えてしまうのがもったいない。
乾はそう思ったけれど。
そういう海堂の表情は彼の顔からは消えても乾の記憶には全部残るし、これからもまた何かの拍子に見せて貰える可能性もある。
だからこの一瞬が、ほんの少しも惜しくはないのだ。
「俺ならどう思うって、海堂は思ったんだ?」
乾は思った。
海堂ならば。
これを見て、きっと、生きていたものが標本になっているという事実に対してだけではないところまで、乾では到達できない地点での、痛んだ思いを抱くのではないだろうか。
歪んだ倫理感の中で、どこまでも明るく、美しく透明なものになった魚に。
自分のように好奇心や興味ではなく、どこか痛ましさをいだくのではないだろうかと乾は思っていたので。
「……先輩は、自分に置き換えるんだろうなって思った」
「…ん?」
「自分も、こういう風にさらけ出したらどうなるんだろうとか。……うまく言えねえけど…」
充分きちんと伝わる言葉で。
しかし海堂はぎこちなく言い淀む。
「あんたは……ぜんぶ、自分に置き換えて考えるから時々心配になる」
「海堂?」
「…寂しいのとか、辛いのとか、痛いのとか。わざわざあんたが自分から、そっちに飛び込んでいく所が怖いんですよ」
海堂は真面目だった。
表情も、声も、話し方も。
乾が時々自分自身を置く、孤独ではなく孤立の領域を、海堂は知っているようだった。
何故気づかれたのかと乾は苦笑いを浮かべるけれど。
「何もあんたが、こういう存在になる事ないです」
「うん…」
「……何考えてるか時々本当に、判らないですけど。だからって無理に暴こうとは思わないから」
そんな顔しなくていいですと海堂は言った。
顔。
ショーケースに映る自分の顔に、海堂は何を見とったのかなと考えながら、乾は少しだけ海堂の指先を手に取った。
その一瞬でよかったのに。
手を繋いできたのは海堂からだった。
手を離してきたのも海堂からだった。
手に、そっと残る感触に。
乾はその場で目を閉じる。
乾は、その透き通った標本へ好奇心や興味を抱き、それに同化する。
海堂は、同じ物へ、どこか仄かな痛ましさを抱き、それに共存する。
「海堂」
「はい…?」
「明け透けになるのが怖くなってきたから」
「………………」
「すごく閉じこもりたいんだけど」
うち来ない?と乾が前方を見据えたまま問いかけると、同じく前を見たままの海堂が、最後の一言しか意味が判らねえと文句を言いながら。
少し赤い顔をほんの一瞬見せてから、背を向けて。
乾の家の方角へ、歩きだした。
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