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How did you feel at your first kiss?
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 道路の小さな水溜りに薄氷が張っている。
 板状の結晶のような繊細な煌めきは、頭上の月をぼんやりと映していた。
 凍る月。
 伏せた目線でこの寒さの証を眺めている宍戸は、両手をコートのポケットに入れ、人待ち顔だ。
 宍戸の待ち人は、人を待たせる事をしない。
 待ち合わせ場所には必ず先にいる。
 だからたまには先に来て待っていてやるかと宍戸は思ったのだ。
 正直寒いのは苦手な宍戸だったが、それくらい今日は構わない気がした。
「、…え?……何で、…ちょ…っ……宍戸さん!」
 門扉から勢い良く飛び出してきた鳳は、宍戸を見つけるなり言葉にならない言葉を口にしながら血相を変えた。
 柔和で端整な面立ちに、あまりにも判りやすく驚きを浮かべ、走りよってくる。
 宍戸が佇んでいたのは鳳の家の前だった。
 呼び出しのメールには、よく自主トレで使う公園でと宍戸は書いた。
 鳳はいつものように先に来るだろうから、時間を見計らって不意打ちを狙ってみたのだ。
「どうしてここに…、…え?……どうしたんですか、? 公園じゃなかったんですか?」
「そんな慌てんなって。たまには俺のが先に待ってようかと思っただけだ」
「こんなに冷たくなっちゃってるじゃないですか…!」
 鳳の両手が宍戸の両頬を包み込むようにしてくる。
 手袋をしていない鳳の手。
 でも温かかった。
「………………」
 宍戸が人好きの猫のような仕草で、片側の手に軽く頬を摺り寄せてやると、鳳は言葉はおろか息すらも詰まらせたような喉声をあげた。
「……、宍戸…さ…?」
 本気で驚愕している顔も、何かの欲求を飲み込んだようなぎくりとした気配も、おかしくて。
 宍戸は小さく笑った。
 頬を摺り寄せた鳳の右手を、宍戸は左手で取って、掬い取るようにした指先に唇を寄せる。
「明日の予行な」
「…っ…、…明日…?」
「誕生日だろ? 長太郎」
 軽く爪先立って。
 宍戸は鳳の片頬にも唇を寄せた。
「宍戸さん」
「……んだよ、練習くらいさせろ」
 宍戸が手にとっている右手はそのままに、鳳は左手で深く宍戸の背を抱きこんできた。
 きつく力が込められて、背筋が反る。
「長太郎?」
 そういえば冷たくなっていると鳳は言っていた。
 冷たい自分の身体を抱き締めていては鳳も寒いばかりだろうと思って軽く身を捩ると、一瞬だけれども強いキスで唇を塞がれた。
「、…、ン…」
 そのまま抱き締められる。
「……さむく…ないのかよ?」
「どっちがですか」
 もどかしそうな手で後ろ髪を撫でられる。
 怒っている訳ではないようなのだが、鳳は普段よりも物腰が荒い。
「心臓止まりましたよ、確実に」
「大袈裟な奴だな…」
「何が大袈裟ですか。宍戸さん、いつからいたんですか? もしかしてさっきのメール、ここで打ってたとか言いませんよね?」
「言う。………って、…んな怒んなよ」
 宍戸は笑って鳳の喉元にも口づけた。
「………宍戸さん」
「もう一回聞いておこうかと思ってよ、誕生日」
 何か欲しいものあるかと宍戸が鳳に聞いたのは先週のことだ。
「宍戸さん即答で却下したじゃないですか」
 少し拗ねたような言い方に宍戸は苦笑いを浮かべた。
 だってあれは。
「……俺って何なんだよ、俺って」
「何って。俺の欲しいものですけど」
 宍戸さんはものじゃないですけどね、と丁寧に抱き締められて、髪に埋められたのは恐らく鳳の唇だ。
 宍戸は鳳の胸の中でその感触に感じ入る。
 何だか身体のあちこちがじんわりと温かくなってきた気がする。
「お前の好きなだけ取れば良いだろうが。だいたいお前のもんじゃねえ俺が、俺のどこかにあるか?」
「………だから心臓止まらせないで下さいってば」
 唸るように鳳が言う。
 宍戸は笑って鳳の腕から離れた。
「お前のだ」
 身体を離して。
 宍戸は鳳に笑いかけた。
「誕生日だからっていうんじゃない。いつでも、お前のだよ。全部な」
 今度こそ、ものすごい力で。
 抱き締められる。
 抱き竦められる。
 鳳の両腕は宍戸の身体を反らせ骨を軋ませる程の力で、きつく、きつく宍戸を抱き締める。
 宍戸の笑みは唇の形だけ残して、あとはひっそりとした囁きに溶けた。
「……だからよ、長太郎。誕生日は違うもんねだれよ」
「すみません。俺、今、明日のことなんか考えられないです」
「ん…?」
「今目の前の宍戸さんのことしか考えられない」
 真摯な低い声にくらりとめまいがして。
 今度はもう、笑むだけのことも出来なくなって。
 宍戸は鳳の頭を抱き締める。
 手の中に柔らかな髪。
 切羽詰ったような声を耳に吹き込まれて、想いを詰め込まれて。
「好きにしろ」
 静かに浮かされたように応えるなり。
 かぶりつくようなキスはすぐに宍戸の唇を覆った。
 深い角度のついた、貪欲なキスだった。
「…………っ…、」
 宍戸は、明日の事が知りたい。
 けれど鳳は、明日の事などどうでもいいというようにキスをする。
 引きずられる。
 同化する。
 確かにもう、今の事だけで全てよくなる気になった。
「長太郎…」
 キスの合間に名前を呼んで、色素の薄いきれいな瞳を間近から見つめた。
 宍戸の方からもキスを贈り返し、お互いの唇と唇の合間に生まれる白い吐息に目を眇める。
 明日の事より今。
 鳳にこうまできっぱりと欲しがられては宍戸もひとたまりもないのだ。
「明日の事は…また明日な」
「はい」
 頷いた鳳の微笑は、薄氷を反射した月光よりも密やかな甘さで煌いた。
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 真っ暗な部屋の電気をつけて、床に置いてあって呼び出し音が鳴り響いている携帯電話を、宍戸は億劫な手で拾い上げた。
 開いて着信ボタンを押すか押さないかで、くらりと視界がまわる。
「宍戸さん、すみません。今大丈夫ですか?」
「おう…」
 答えながらその場に座り込んでしまった宍戸は、恐らく呼び出しの長さを気遣っているであろう鳳の丁寧な口調に表情を緩めた。
「忙しいようだったらかけなおしますけど、」
 しかし鳳の方は言いかけた言葉の途中で一瞬口を噤み、宍戸の一言の応えの中に、何かを察したようだった。
「宍戸さん、あの、今ひょっとして」
「………………」
「どこか具合悪いんじゃないですか」
 少し慌てたようなかたい声に、宍戸は唇に笑みを浮かべる。
 濡れた髪の先から落ちてくる雫を払う気力もなく、首筋や頬が少しずつ濡れる。
 ぼうっとする思考の中、鳳の声だけがはっきりとしていた。
 過敏というか、過剰というか。
 鳳は宍戸絡みの出来事に対して見落としというものをしない。
 苦しい呼気をそっと逃がしながら、宍戸はそんな鳳の声だけで、実際格段に気分がよくなったように思う。
「ちょっと、宍戸さん。今お家に家族の方誰かいますか」
 人のよさが滲み出るような声は尚一層慌てていって、聞いておきながら返事を待たないという鳳らしからぬ言動に続いていく。
「誰もいないなら俺行きます。今、家ですよね?……宍戸さん? ね、ちょっと、本当に大丈夫なんですか? 聞こえてますか?」
「……お前、それ…慌てすぎだろ…長太郎…」
 落ち着けって、と宍戸は笑んで言ったのだが、声音の力なさに鳳はますます焦ったようだった。
「宍戸さん」
「長太郎。いいからとにかく落ち着け」
 な?と受話器に気だるい声で囁きかけた宍戸の耳に、普段あまり聞きなれない僅かに荒れた声が届く。
「落ち着いてなんかいられますか…!」
「………………」
 怒鳴られて。
 嬉しいような気分になる自分に、宍戸は内心呆れた。
 呆れたけれど。
「でも…」
「え? 宍戸さん?」
「しょうがねえ…よな…」
「何がですか?」
「嬉しいし…」
「ちょっと、宍戸さん…!」
 どうしたんですか、本当に大丈夫なんですか、と取り乱しかける鳳の真摯な困惑に、宍戸は素直に言った。
 さすがにここまで心配されると後ろめたくなってきてしまった。
「悪ぃ……のぼせてるだけだから気にすんな」
「………は?……のぼせて…?」
「ああ。風呂。今出たとこで…よ…」
「…………宍戸さん…」
 たっぷりとした沈黙の後の呻くような鳳の一声に、宍戸は苦笑いでもう一度謝った。
「……悪かったって…だから、何でもねえよ。そんな心配すんなって」
「あのねえ。…何でもなくないでしょう。しますよ。風呂でのぼせたんだって、心配」
 鳳はてっきり呆れるか笑うかすると宍戸は思っていたのだが、ほんの少しだけ怒った風に、それでもこれまで以上に真剣に、鳳は宍戸を気遣ってきた。
「水飲みましたか?」
「おう…」
「ちゃんと服着てる? 熱いからって、裸のままだとか、バスタオルに包まってるだけだとか、してないですよね? 髪も拭いてある?」
「……母親かよ。お前は」
 宍戸は笑いながら、滑舌の少しあまくなった口調で逐一返事をする。
「ジャージ着てる。髪は……ああ、…髪は、ちょっと濡れたまんまだけどよ…」
「風邪ひきますよ…! ちゃんと拭いて。タオル近くにありますか? なかったら取りに行ける? のぼせてるって…そんな声出して、宍戸さん今家のどこでどうしてるんですか」
 俺本当にすぐ行きますよ、と鳳は言った。
 真剣に。
 髪だけ拭きに、本当に来るかもしれない。
 この男。
 宍戸はそう考えて、首にかけていたタオルを片手で掴み、だるい仕草で適当に濡れ髪を拭いた。
「今拭いてる」
 それから?とからかうように尋ねると、鳳は生真面目に心配に心配を重ねた。
「吐き気とかしない? 眩暈は?」
「両方ない」
「辛かったら横になって」
「あー……」
 鳳の言葉に従って、宍戸は自室の床に横たわった。
 吐き気はしないが多少眩暈はしていて、でもそれも徐々におさまっていくのが判る。
「もう電話きりますから、ゆっくり休んで」
「………んな真似しやがったら、もう一回風呂入ってやる」
 何て言い草。
 宍戸自身、少々虚ろな思考でそう思ったが、鳳もそれには盛大に唖然となったようだ。
「宍戸…さん。あのねえ…」
 床に横たわって身体を丸めながら、宍戸は目を閉じて、耳から聞こえてくる鳳の声だけに意識を寄せる。
「きりたきゃきれ」
「きるわけないでしょう……そんなこと言われて」
 本当にもうこれ以上心配させないでくださいよと鳳に憮然と懇願されて、宍戸は声を殺して笑う。
「お風呂で本読んだんでしょう? 宍戸さん」
「そう」
「歴史小説とか読むからのぼせるんですよ? 読むなら区切りいいところでちゃんと読むの止めて下さい」
「やだ」
「中断が嫌なら短編小説にして下さい。せめて」
「持ってねー」
「明日持っていきます。だからそれにして」
 どちらが年上か判ったものではない。
 だるさに任せて返す宍戸の短い返答は、適当なものというよりは甘えでしかなく。
 小言めいた鳳の言葉にも、優しい余韻が残るだけだ。
 どうでもいいような事を、ただ話し続ける。
 声を伝え、声を受け取り、ただそれだけで。
 


 心情が、深くなる。
 感情が、濃くなる、
 表情が、甘くなる。
 恋情が、近くなる。


 言葉や名前や会話を、どれだけ繰り返しても。
 ひとつひとつが意味のないようなものであったとしても。
 何も、何一つ、無駄にはならない。
 交し合い、繋げていくのが、二人の間でだからだ。
 だから抱く想いが、深く、濃く、甘く、近く、募っていって。
 何にも、何一つにも、意味がある。
 かわいいなあと思う。
 乾は、つい笑みを零した。
 前方から歩いてくるよく似た面立ちの兄弟は、色違いのマフラーを巻いていた。
「……いいなあ」
「やんねえからな。葉末は」
 一月の天気の悪い寒空の下、偶然対面した相手に、乾が最初に零した呟きに。
 乾の後輩は、いかにも判りやすい表情で乾を牽制してきた。
 多分に真剣な顔でそんな事を言って、海堂は自身の背後に連れていた弟を隠してしまった。
 そういう本気の威嚇と、本気の心配。
 言葉も仕草も本当にかわいい。
 乾は頷いて笑った。
「確かに葉末君みたいな弟がいたらいいけど、海堂みたいなお兄ちゃんっていうのも、すごくいいと思ってさ。海堂見てると」
「……………こんなでかい弟いらねえ」
 普段口の重い海堂は、それでも去年の夏にダブルスを組んでから、乾相手に少しずつ言葉数が多くなった。
 乾が部活を引退した後も、自主トレを時々一緒にしたり、直接テニスをしなくても一緒にいる時間が出来た。
 そういう、つまりは恋人を。
 そんなに真剣に睨みつけるのはどうかと思うよ?と。
 乾は海堂の耳元で笑み混じりにひっそりと告げた。
「乾さん」
 恐らく海堂は怒鳴るか何かしたかったのだろうけれど。
 ぐっと息をのんだ海堂が何か言うよりも先、海堂の背後に隠されていた葉末が、顔を出してきた。
 海堂の腕と胴の間から律儀にぺこりと頭を下げてから、これもまた兄弟ゆずりのかわいげのある威嚇で乾をじいっと見上げてくる。
 乾は一層笑みを深めて首を左右に振った。
「とらないとらない。お兄ちゃんとらないから。葉末くん。そんな両方から睨まなくても」
 本当に仲良いね、と乾は左手で葉末の頭を撫で、右手の指の関節で海堂の頬を撫でた。
 葉末は擽ったそうに首を竦め、海堂は息を詰めて緊張しつつ、その目元がうっすらと赤くなる。
「別に俺は、海堂のお兄ちゃん役とか、葉末くんの弟役とかでもいいよ」
「……もう似たようなもんだろ…」
 海堂が呆れた風に言う声に被って、葉末がしみじみと言う。
「わあ、ぼく弟が欲しかったんです」
 きらきらとした葉末の表情に、一瞬の沈黙の後、乾は笑い出し、海堂は唖然として、顔を見合わせた。
 葉末はそんな二人を見上げて、冗談ですと言う様に、にこにこと笑った。
「乾さんに兄さんはあげられませんけど、これはあげられます」
 よかったらどうぞ、と葉末は海堂の背後から出てきて、胸の所で腕に抱えていた紙袋を乾へと差し出した。
 ひょいと乾が中を覗き込むと、微かに湯気のたつ焼芋がゴロゴロと入っていた。
「いっぱいおまけしてもらったんです」
「美人のお兄ちゃんと、かわいい弟の兄弟だからだね。…じゃ、ひとついただこう」
 ごちそうさま、と乾は紙袋の中から焼き芋をひとつ手に取った。
 思いのほか手は冷えていたらしく、じわりと熱が浸透してくる。
「……あんた、何でそんな薄着なんですか」
 溜息混じりに海堂は首に巻いていた白いマフラーを外す。
 両手でふわりと乾の首にかけて丁寧に巻きつけていく。
「おい、海堂」
「プリンタのインクでもきれたんですか?」
「……何で判るんだ」
「あんたの行く先にある店考えて。何となくっす」
 呆れた風情で吐息を零し、海堂は微かに笑った。
 人に気づかれる事の少ない微量の笑みが、乾には判るし、それがこの上なく目に甘い。
 手には焼き芋があるせいもあり、乾は海堂の動きをとどめる事はできなかった。
 ただ、海堂の首から自身の首から移されてきたマフラーは、手の中の食べ物同様に染入るように温かかった。
「海堂。これ」
「次会った時でいいです」
「いや、それは勿論だけど。これじゃ今寒いだろう、お前が」
「別に」
「別にってお前…」
「……寒くなくなったんだよっ」
 あれ?と乾は首を傾げた。
 ひそめた声だったけれど、海堂は実際に肌を温かそうな色にして、怒鳴っていた。
「行くぞ。葉末」
「はい。乾さん、さようなら。またうちに遊びにきてくださいね」
 乾に向き直ってしっかりと挨拶をする葉末の手から紙袋を受け取って、海堂はあっさりと背を向け歩き出した。
「………………」
 そんないきなりの別れ方。
 しかし、それがこわいくらい幸せな別れ方で、乾は海堂の手で巻かれたマフラーに口元を埋めて、ぽつりと呟いた。
 目は真っ直ぐに恋人の後姿を見つめている。
「……うなじまで真っ赤だよ…お前」
 誰に告げるでもなく放たれた乾の言葉は、今ここにある日常という真実だ。
 寒いと、痛いところが増える。
 ぎゅうっと眉根を寄せて唇を歪ませる神尾に、跡部は容赦ない。
「肉を食え。ビタミンを取れ。馬鹿の一つ覚えじゃあるまいし野菜ばっか食ってりゃいいわけねえだろうが」
 何なんだこれは、と言い放った跡部に、神尾は乱暴に手を引かれた。
 跡部の眼下に晒された神尾の指先は、ささくれが悪化して爪の際にところどころ血が滲んでいる。
 関節の上の皮膚は横一文字にうっすらと切れている。
 神尾自身、何というか、荒れた手だなあとは思っているのだ。
 跡部の手から自身のその荒れた手を取り替えそうとするのだが、跡部の指は神尾の手首に食い込んで外れない。
「寒いとさぁ…なんか、こうなんだよぅ…」
 今年はやけに酷い気もするけれど。
 膨れた神尾に、跡部は視線をきつくしてくる。
「手は濡れたら拭け。放っておくな。何なんだこれは」
 跡部は再び同じ言葉を毒づいて、神尾の手首を掴んだまま、ぐいぐいと神尾を引きずって歩き出した。
 玄関のポーチから跡部の部屋へと強引に引っ張られていきながら、神尾は頭ごなしの物言いだとか振る舞いだとかに対して、跡部に文句を言おうとした。
 言おうとしたのだが。
 案外に跡部に気遣われているのが判ってしまって、どうにも面映く、悪態もつき辛くなってしまった。
 神尾の荒れたり切れたりしている皮膚には触れないように。
 跡部がしているのが判ったからだ。
「…跡部?」
 跡部の部屋に連れこまれると、神尾はソファに座るよう仕草で促された。
 部屋と扉続きになっている専用の浴室へと一度姿を消した跡部は、暫くすると、歯医者にありそうな、それでいて比もなく高価そうなスタンド式の陶器の洗面ボウルを引いてきた。
 湯気がたっている。
 キャスターのついた洗面ボウルのスタンドは、神尾の前で止まった。
 跡部は肘から九十度に曲げた左手に、ふんわりとした白地に金の刺繍がされているタオルをかけていて、無造作に両腕のシャツの袖口をまくった。
「貸せ」
「……は?」
「は?じゃねえ。手だよ。貸せ」
 顎を持ち上げて、神尾を見下ろしてくる尊大な眼差しに。
 神尾はつくづく、跡部だなあと思ってしまう。
 でも時々、態度と言葉と行動が、噛み合わなくなるのもまた跡部だ。
 手?と首を傾げて神尾は跡部の目を見上げる。
 冴え冴えとした目元には、いっそ億劫な気配を漂わせていて。
 けれど跡部の所作は甲斐甲斐しかった。
 跡部は右手で、どこから出したのかロイヤルブルーの小さな小瓶のキャップを開けて、洗面ボウルに数滴その中身を垂らした。
 跡部の手に上着の袖をまくられながら、神尾は思わずボウルの中を覗き込んで深く息を吸った。
「なんか、すごく、いー…においするなぁ…」
 何それ?と神尾が好奇心で尋ねても、跡部の返事はなかった。
「………、っ…、わ」
 軽く湯をかきまぜてから、跡部の手は強引に神尾のそれぞれの両手首を掴み、香りのする湯の中に沈めてきた。
 ピリッとした感触は、少し熱めの湯のせいか、塞がっている切り傷に滲みたせいか。
 小さく首を竦めた神尾の様子を見ながら、跡部の手のひらが神尾の手首をくるんだ所から指先に向けてゆっくりと滑っていく。
 湯の中で、手首から小指の先。
 薬指の先、中指の先、人差し指の先、親指の先。
 指を、一本ずつ、ひどく丁寧に包んで、適度な指圧が加えられる。
 それから跡部の親指の腹が、ゆっくりと。
 神尾の手の甲をマッサージするように辿った。
 うっかりうっとりと心地よく、神尾は揺らぐ湯の中で跡部の手に撫でられている自身の両手をぼうっと見据えた。
「…滲みんのか?」
「え? ううん。全然」
 ちらりと跡部が視線を向けてきたので、神尾は大慌てで首を左右に振った。
 不遜な目つきとは裏腹に、跡部の手はどうしようもなく丁寧だった。
「………………」
 手、とける。
 迂闊に神尾はそんな事を思ったくらいにだ。
「何で涙目なんだよ」
「………ぇ…?」
 聞いておきながら、結局跡部には全部判っているに違いなかった。
 薄い唇の端が、僅かに卑猥に持ち上がった。
 神尾は、じわっと熱を帯びた顔を自覚しながらも、そのまま黙って跡部を睨みつける。
 こういう顔をする時の跡部に怯んだら負けだ。
 怯んだり狼狽したりしてみせたら、跡部はここぞとばかりに神尾が全く太刀打ちできないやり方をとってくる。
 だから気丈に。
 神尾は懸命に跡部を見据えたのだが、跡部の笑みはゆっくりと深くなっていって。
 笑ったままの形の唇が、いきなり神尾の眦に押し付けられてきた。
 思わず神尾が首を竦めると、跡部ははっきりと声にして笑って、神尾の両手を湯から引き出し即座にタオルで包みこんだ。
 ふかふかとしたタオル越しに、神尾の濡れた手は跡部によって拭かれていく。
 ほかほかと指先まで温かくて、神尾は跡部の成すがままだ。
 じっと跡部を見上げている神尾に、跡部は二度ほどその体勢のまま屈み込んできて、唇に浅く口付けてきた。
 右に傾いたキスと、左に傾いたキスと。
 そして、跡部は丁重に神尾の手を拭ってから、神尾の隣に腰を下ろした。
 ソファに肩を並べて座る。
 肩先が触れ合う距離には、むしろほっとして。
 神尾は跡部によって、温められほぐされた自分の手をそっと見下ろした。
「終わりじゃねえよ」
「は?」
 馬鹿、と再び手首を握りこまれ、神尾は戸惑った。
 二度目のキスが、あまりに。
 微かだったけれど、長くて。
 うまく頭が働かない。
 開放されて、ぼんやりしてしまった神尾に、跡部は洗面ボウルを載せたアイアン台の下のほうの棚板から、銀色のチューブを手に取った。
 それを一度自身の手のひらに出してから、両手を使って神尾の手に片方ずつ刷り込んでいく。
 濃厚な質感だったクリームは、すぐに水のようにさらさらとやわらかくなって肌に浸透していく。
 手のひらを合わせたり、指を絡めたり。
 爪をなぞり、骨と骨の間をたどる。
 それはひどく心地よかったのだけれど。
「………………」
 一瞬、ちくりと神尾の胸が痛む。
 跡部は慣れた手つきで、神尾が初めて感じる事をしてくるから。
 以前は他の誰かにも。
 跡部がしたことなのかなと思うと、痛かったのだけれど。
「うちの奴らが見たら間違いなく腰抜かす」
「……跡部?」
「この俺様にこんな真似させる身の程知らずはてめえくらいだ」
 全く、と毒づきながら。
 怜悧な目を細めるようにして神尾の手を見下ろしながら。
 跡部の手つきはあくまでも優しかった。
「………………」
 クリームを塗り込められているのか、ただ手と手を絡めているのか。
 神尾には次第に判らなくなってきた。
 されるに任せて神尾は跡部の顔や絡む互いの手を見ていると、啄ばむように途中幾度かキスを盗まれた。
「お前、手だけどうしてこんなに乾燥してやがんだよ」
「…………手…?」
「他はこんなでよ」
 ふ、と跡部の笑み交じりの呼気が神尾の唇に当たる。
 また少し長く唇を塞がれていた後のことだ。
 他とか、こんなとか、意味する箇所の状況を示唆されて。
 至近距離での微笑が艶めいていて。
 神尾はくたくたと跡部の胸元に顔を伏せていってしまう。
 跡部は機嫌良さ気に笑い声をたてて神尾の背中を抱きこんできた。
「おい」
「……な…に…?」
「大事にしてやるから、めちゃくちゃにさせろ」
「………なんだよそれ…」
 神尾は赤くなりながらも、噴き出してしまった。
 どういう言い草だよと思って笑っていると、跡部の身体がのしかかってきて、ソファに組み敷かれた。
 跡部を見上げる。
 やさしい花の匂いがする。
 ゆっくりと、深く、唇を塞がれた。
 神尾の両手は無意識のうちに跡部の首の裏側に絡んでいた。
 確か、手だけがとても温かかったのに。
 いつの間にかその熱は全身の、外にも内にも侵食してきている。
 温かなキスが止んでも。
 その熱が鎮まる事はなかった。
 その熱は高まるばかりだった。
 一緒に歩く時、鳳は大概、宍戸の斜め後方にいる。
 いつでもつかず離れずの距離感で、睫を伏せるようにして、宍戸を見つめ続けて鳳は歩く。
 背後からの、そして頭上からの。
 注がれる眼差しの熱っぽさ。
 宍戸によく馴染んだそれが、今はない。
 宍戸は自分よりも先を行く鳳の背中に、小さく溜息をついた。
 幾度目かのため息だったが、唇には微かな笑みが浮かんでいた。
「長太郎」
 返事はない。
 先程からずっとそうだ。
 宍戸が呼べば、普段ならばどこからでも即座に気づいてやってくる鳳が、宍戸の呼びかけに振り向きもせず無言を貫いている。
 それはいっそ、冷たいような態度の筈なのに。
 宍戸はただ困ったように笑ってしまうだけだ。
「長太郎」
 名前を繰り返し声にして呼んで。
 冷たい空気に呼気が白く広がる。
 宍戸が見据えた先の、鳳の広い背中。
 コートを着ていない制服越しの骨格は、一見細身のようでいて、手で手繰り寄せれば広くて硬くて、大人びた手触りだという事を宍戸は知っている。
 しがみつくだけでは足りず、両手で必死に縋りついても、抱き締めきれているのか宍戸が時々不安になるような鳳の背中だ。
 宍戸は感触を思い浮かべながら、両方の手の指を手のひらに握りこんだ。
 手袋をしていない指先は、寒さで軋んで少しばかり痛んだ。
 宍戸は鳳の後ろをついて歩きながら少しだけ歩を早めて、片方の手をまっすぐに伸ばす。
 鳳の制服の上着の裾から僅かに見えているセーターの端を、親指の腹と人差し指の第一関節の横の部分で、そっと挟む。
 微かに引っ張って。
 宍戸は鳳の頑なに振り向かない背中に囁きかける。
「俺はお前の背中も好きだから、別にこのまんまでも構わねえけどさ…」
「………………」
 綺麗に整った後姿。
 物言いたげな気配が一層強まるその背中に、宍戸は静かに手のひらを宛がった。
 寒さのせいなのか、または全く別の理由があるのか。
 僅かに強張る背を、手のひらでゆっくりと擦った。
 鳳の背後から、数回。
「………………」
 鳳の足が完全に止まった。
 宍戸も立ち止まった。
 鳳の背に宍戸は右手を重ねながら、額も、とん、と押し当てる。
「宍戸さん」
「…ん?」
 やっと呼ばれた名前。
 胸が詰まる。
 耳で聞く声と、鳳の背中から、振動で伝わってくる声と。
 胸が熱くなる。
「宍戸さん」
 押し殺したような声音に、鳳の複雑な心中が詰め込まれている。
 鳳がどれだけ必死に、どうにかしようとしていたのか。
 宍戸にはちゃんと全部伝わって。
 鳳の背に額を寄せたまま宍戸は目を閉じて、言われた言葉に、頷いていく。
「…嫉妬してもいい?」
「好きにしろよ」
 当り散らさないように。
 荒い感情を殺そうとして、己の中でどうにか消化しようとして、結局出来ずにいたらしい。
 鳳の声は真剣だった。
 嫉妬の必要など何もないのに、いったい鳳が何をそんなにも苛まれているのか宍戸には不思議で。
 けれど鳳は、宍戸の受諾に小さく息をついて低く言った。
「じゃ、します」
「…構わねえけどさ。お前が嫉妬するようなことなんか、何もねえだろ?」
「あります」
 髪、さわられてた、と鳳は重い声で言った。
 憮然としたもの珍しい言い方だったが、子供じみた口調ではなかった。
 滾るような焦燥感の篭もった、声だ。
 宍戸は鳳の背中で苦笑いする。
「髪くらい、じゃねえの? 普通」
 言っている側から、嘘だ、と宍戸は思っている。
 自分だって嫌だ。
 この男の髪に誰かが触れている所を見るのは。
 鳳と待ち合わせていた裏門で、先についていた宍戸は、すれ違って通り過ぎていく同級生に気まぐれに髪を触られて、笑いながらもぞんざいにその手を払いのけたところまで、鳳はちゃんと見ていた筈なのに。
 それでも嫌だったか、と宍戸に思わせる鳳の態度だったから、少しも腹もたたなかったし、哀しくもなかった。
 ごめんな、と思っているけれど、これは言っても仕方のないことだ。
 それは宍戸も鳳も判っている。
 好きすぎて、勝手に苦しいことを増やしている自分たちを、無理に甘やかすのは問題だ。
「髪くらい…じゃないです」
「………ん」
「……本当は、髪くらい、だって判ってますけど」
 言ってる側からなのはお互い様だ。
 判っているのもお互い様だ。
「………………」
 鳳が自身の肩越しに振り返ってきた。
 流し見で見下ろされて、宍戸はやっと合った目線に熱のこもった吐息を零す。
 複雑に、怒っていて、苦しがっていて、悔やんでいて、甘えてたがっている鳳の目を見上げ、自分もきっと同じ顔をしているんだろうと宍戸は思った。
「嫉妬してるままでも、いい?」
 宍戸は頷いた。
 そう問いかけてきた鳳が淡く微笑む。
 振り返ってきた鳳に、一瞬だけきつく抱きすくめられ、二の腕を掴れる。
 普段の鳳とは違う力の強さで引っ張られ、見慣れぬ背中を目で追いながら、一秒でもいい、はやく。
 はやく、と宍戸は願った。
「宍戸さん」
 前を向いたまま、鳳が呼ぶ。
「もっと、好きになっても?」
 冬の空気のように、澄んで張り詰めた声。
 耐え切れないように、問われた。
 宍戸の腕に鳳の指がきつく食い込む。
「宍戸さんを、もっと好きになってもいいですか」
 苦しがっている鳳に、宍戸は微笑した。
「………余力残してんじゃねえよ」
 悪態交じりに呻いた宍戸のきつい呟きが。
 一秒でもいい、はやく、という宍戸の願いを、叶える。
 そして鳳の枯渇をも、潤す。
 宥恕。
 校内の渡り廊下を歩く海堂は、通路の窓ガラスの鳴る音に足を止めた。
 音のした方向に視線を向けると、結露に僅かに煙った窓越しに、見知った姿を見つけて。
 目を見開き、少し考え、歩み寄る。
 中庭側から、中指の第二関節で窓ガラスを軽くノックしてきた相手は上級生だ。
 海堂が窓を開けようと手をかけると、その相手、乾は唇を笑みの形に引き上げて首を左右に振った。
「………………」
 制された海堂が戸惑って眉根を寄せると、乾は人差し指で窓ガラスに文字を書いてきた。
『元気?』
「………………」
 海堂の方から見てそう読めるのだから、乾は文字を逆向きで書いている筈なのに、その所作は滑らかだった。
 わざわざ文字にして聞かれる意味が判らず、海堂は怪訝に窓越しの乾を見やった。
 海堂が無言で再度窓枠に手を伸ばすと、乾は笑って更に手早く文字を綴った。
『寒いからあけない』
「………………」
 乾は外にいる訳だから、どうやら海堂を気遣っての事らしい。
 別に寒いくらいが何だと海堂は内心呆れたが、乾が最初に書いた『元気?』の文字を丸で囲って僅かに首を傾けてくる。
「………ッス…」
 聞こえないと判っていても小さく声にしてしまいながら、海堂は頷いた。
 内側からの膜のような窓の結露と違い、外側から乾が指でなぞる文字は、あまりはっきりとは残らない。
 耳で聞く音の余韻のように、目の前の文字が消えていく。
『それならよかった』
『今日部活ないよな?』
『これから雨降るらしい。カサ持ってきてる?』
 次々に書かれていく文字に、頷いたり、首を振ったりしながら。
 海堂はもどかしさを覚えてしまう。
 別に答えに困るような事は聞かれていない。
 僅かな所作だけで意思は伝えられる。
 でも、もどかしい。
 ひどく、もどかしいのだ。
「………………」
 言葉のうまくない、口の重い自分に。
 こんなにも話したいと思わせる乾が、海堂には不思議だった。
 端的な意思表示には、こんな風に、言葉がいらない事もあるけれど。
 それでも言葉で伝えたい、海堂にとって乾はいつでもそういう相手だった。
『一緒に帰りたいけど、予定あるか』
「……、………」
 そして海堂は、その文字に、問いかけに、憮然とした。
 漢字を、よくもそんな早いスピードで逆向きから書けるものだと驚くのが半分。
 文字を、あまりにも率直な言葉で綴られて気恥ずかしいのが半分。
「………………」
 リアクションを示さない海堂に、乾は。
 返事、とでも言うように。
 立てた人差し指で、ちょんちょんと窓ガラスを指差してくる。
 返事を書けと、催促されて。
 頼むから、と海堂は今更のように羞恥にかられて歯噛みした。
 いったい。
 何をやっているのだ自分達は。
 じわじわと侵食してくる羞恥心に居たたまれなくなる。
 窓を開けて、顔を合わせて、言葉にして。
 そうすれば別に、たいしたことでもなんでもない筈だ。
 それが、こんな風なやりとりにしてしまうと。
 そう気付いてしまえばあまりにも。
「………………」
 海堂が顔を俯かせ、後ろ髪を握り締めて。
 もう強行に窓を開けてしまおうかと考えると、乾はそれを察したようなタイミングで。
 尚も楽しそうに笑みを深め、まるで、しょうがないなあとでも言いたげに素早く人差し指を動かした。
『YES , NO』
「………………」
『どっちかに丸つけて?』
 笑う乾は、海堂をからかっているのではない。
 単に、海堂からこの状況下での文字での返事が欲しくて堪らないだけなのだ。
 海堂にもそれは判った。
 窓ガラスを間に隔てて、声に出す会話の出来ない状態で、意思のやりとりがしたいだけ。
 愛しいと気持ちの満ちた目で見つめられ、微笑まれては、海堂も意地を張るのと羞恥に打ち勝つとのではどちらが得策か迷う余裕も失って。
 殆ど無意識に、それでいて震えるようなぎこちない指で、丸を。
 外側から乾が書いたYESの文字を、海堂は内側から、丸で囲んだ。



 とても、声が、聞きたい。
 そう、強く、思ったまま。
 冷たい窓ガラスをなぞった筈の人差し指の先が、いつまでもいつまでも。
 熱がたまったようになって、温かい。
 十二月になってまだ数分。
 深夜のコンビニで、南は亜久津に会った。
 同じ学校の同じ学年にいながらも、久しぶりだと感じ入る。
 部活も同じだった時期もあるのだけれど。
 私服姿で会った事は、そういえばなかったなと南は思った。
「………………」
 亜久津は南を見とめても、声もかけないし、表情も変えない。
 洗いざらしで、かわかしたままになっているらしい亜久津の髪は、通常とは違い、逆立てられる事無くふわりと下ろされていた。
 色素の薄い髪は結構長い。
 重そうな革のジャケットの下はタンクトップしか見えず、それではジャケットの意味もなく、むしろ寒いのではないかと思いながら。
 南は亜久津を見据えた。
 コンビニを出て行こうとしている南と、入ってくる亜久津。
 扉のところで出くわして、目線が合っても、会話はない。
 すれ違い様、南が扉から手を離さずに。
 亜久津が通るまでそこを開けて支えていても、亜久津の視線はもう南から完全に通過していた。
「………………」
 南は黙って肩越しに亜久津の背を見つめ、扉がゆっくりと閉まっていくのを見届けた。



 受験勉強の合間の、数分足らずの息抜きのつもりで自宅から一番近いコンビニにやってきた。
 南が手に持つコンビニの袋の中身は、夜食の焼きサケハラミのおにぎりがひとつと、缶コーヒーが一本。
 缶コーヒーは、陳列棚から手にとった時からぬるかった。
 まだ充分温まっていなかったのだろう。
 思い出したように南がビニールの手提げ袋から取り出した時には、すでにひやりとした触感だった。
「てめえ、」
「………………」
 頭上から剣呑とした声が降ってくる。
 コンビニ前の注駐車スペースで、車輪止めに腰を下ろしていた南は顔を上げて、小さく笑んだ。
 酷くきつい目で、亜久津は南は見下ろしていた。
 舌打ちと同時に長い腕が乱雑に南に伸びてきて、胸倉を掴まれ一息に引き上げられる。
 寒さに手足がかたまっていて、無防備なまま引きずり上げられたせいで南の首元はきつく絞まった。
 僅かに繭を顰めた南に、亜久津は手を緩めなかった。
 そのまま殴りかかってくるような目で冷たく睨みつけてくる。
「何の真似だ」
 今ここにいる事を低い恫喝で責められて、南は小さく溜息を零す。
 亜久津の言葉は問いかけているようで、実際は違う。
 南の答えなど必要としていない。
「気味悪い事するな」
 亜久津に手荒に突き飛ばされる。
 予想は出来ていたので南は数歩よろけただけで踏みとどまった。
 そのまま背を向けようとする亜久津の目を、じっと見つめて。
 多分今自分がどんな顔をして亜久津を見ているか、南は判って、尚も見つめて。
「………何だ、その目」
「………………」
 ギリ、と鈍い音がした。
 亜久津が歯を食いしばったのだ。
 肉の削げた頬の動きで見て取れた。
「おい」
「………うん」
「トチ狂ってんじゃねえよ」
 うん、ともう一度南は頷いた。
 そうだよ、とも伝える意味で。
 亜久津の表情が僅かに動いた。
 勝手な待ち伏せを責めていた目が別の光をたたえて細められる。
 気がついた。
 亜久津も、今気がついた。
 こんな目で見られたら誰だって判るだろう。
 こんな目をする人間が、何を考えているかなんて。
「南」
 名前。
 呼ばれたの久しぶりだなあ、と思いながら。
 南は一瞬目を閉じた。
 冷気が身体を包む。
 こんなに寒いのに。
 目を開けて見据えれば、亜久津の眼差しも、あんなに冷たいのに。
「そうだよ」
 見たままだ。
 そのままだ。
 偶然、久しぶりに、会えでもしたら、そのまま帰れない。
 黙って待ってしまう。
 こんな所にしゃがみこんででも。
 隠していたことなど、簡単に気づかれる。
「………そうだよ…俺は…ずっと、長いこと。お前にも、他の誰にも知られないで、好きだったんだ」
「………………」
「お前に、今こうやって気付かれても、うろたえないくらいには長い間」
 隠したかったけれど。
 ばれてしまっても、いいかな、とも思っていた。
 随分長いこと話も出来なかったから。
 目も合わなかったから。
 コンビニからの、帰り道を。
 ほんの少しの時間でいいから、一緒にいたかったから。
 好きだったから。
「………………」
 亜久津の双瞳はぎらついた。
 物凄い目で南を睨みつけてきた。
 気にくわねえ、と吐き捨てられて。
 これは殴られるなと南は思った。
「ん、…まぁ…そうだよな、普通」
 気味悪がるのが、普通だ。
 苦笑いで目を伏せた南は、後ろ髪を加減のない手で鷲掴みにされ、力任せに仰のかされた。
 痛みに顔を歪めるより先、凄まじい声で怒鳴られた。
「ふざけんな…ッ」
「あく、…」
 人に死ぬ気で諦めさせておいてと続け様に恫喝のように吐き捨てられる。
 その言葉に目を瞠った南は、次の瞬間、闇雲な抱擁と口づけとに縛られる。
「…、ッ…、ぅ」
「………、………」
 噛み付かれるように塞がれた唇、獰猛で執拗な舌。
 髪も、肩も、亜久津の手に握り潰されんばかりに掴み締められている。
 それほど身長差がある訳ではないのに、南は爪先立ちになるほど引きずり上げられて抱きしめられた。
 口付けられた。
「っ…、……亜久…津、?……な、…っ…ン、」
「うるせえ」
 乱暴なのではなく、余裕のない手に抱かれて。
 コンビニの片隅、死角になるスペースで壁に押さえつけられ、唇を貪られる。
 両手首を硬いコンクリートの壁に縫いとめられ、あからさまに貪婪なやり方で唇を奪われ続け、隙間などない筈の合間から、ぬるく唾液が流れていく。
 膝が震え、何度も崩れかけ、その都度容赦のない獰猛なキスで食い止められた。
 身体を縛る荒い力は、暴力ではなく執着だ。
 だから南は抱き締め返した。
 革越しの、広い背中を。
 強く。



 寒い夜。
 暗い夜。
 偶然に、耐え切れず、手に掴んだものは。
 手にすることはないと、諦めていた星の欠片のようなもの。
 星を砕いて、半分ずつを、手に入れた。
 例えば、聞き取れなかった言葉の聞き返し方。
 電話の切り方。
 雑談の終わらせ方。
 キスの始め方。
 繋げた身体の離し方。
 乾のやり方は、いつも特別で、いつも普通で、優しく流れていく。
 海堂は乾にされた事、言われた事を、思い出すことは出来るけれど。
 乾がいつも必要以上に誇示してはこないから、海堂はゆっくりと、考えたり受け入れたり不思議に思ったりする事が出来る。
 乾の言動は独特だと言われているらしい。
 海堂も最初はそう思った。
 でもゆっくりと、ずっと、傍にいて。
 深いところが判ってくる。
 乾独自の、言葉の言い回しや、物事の突き詰め方、フットワーク、興味の対象。
 自己が確立していて、むやみやたらと感化されることはないようでいて、でも決して頑なではない。
 個人主義に思われがちだが、誰よりも、人の異変や変化に敏感だ。
 何でも好きなようにしているようでいて、実際は自分の事などは平気で後回しにしたりする。
 乾の深いところを知っていく。
 それと同時に、海堂も乾に深いところを知られていく。
 人に見せなかったような自分を、見せられるし、見せたりもする。
「……かーいどう」
「………………」
 ベッドから降りようとしていた海堂は、背後からの乾の腕でいとも簡単に毛布へと引き戻されてしまう。
 巻きついてくる両腕でしっかりと抱え込まれて、でもその腕の力は無理矢理というよりは手放しの甘えでしかない。
「どこ行くの」
「………喉かわいたんで…」
 離せと言うのは簡単だ。
 でも海堂は自身の腹部に回されている乾の手を軽く叩いてその言葉の代わりにした。
 離されたくないのだと、ひっそりと思う。
「……離したくないなあ…」
「………………」
 海堂の心中をそっくり奪って乾の主観にすりかえたような言葉。
 低い声で艶めいてねだられて、海堂は小さく肩を竦めた。
 海堂よりも背の高い乾だったが、ベッドの中でこうして横たわっていると、身長差というものはなくなってしまう。
 それでもこうして背後からすっぽりと肢体を包まれてしまうと、乾の身長が自分よりも高いということを思い知らされる。
 海堂は背後から年上の男に甘えてこられて、その腕の中に封じ込められて、吐息をこぼす。
 呆れてでもなく、諦めてでもなく。
 あいしていて、その束縛を。
「海堂」
 うなじに、肩口に、唇を寄せられる。
「……時間が来たら、帰んのはあんただろうが…」
 海堂の部屋で。
 今はこうして二人きりでいるけれど。
 あとどれだけかしたら、然程多くはない時間が過ぎたら、乾は帰っていく。
 学年がひとつ違うという事は、それだけで日常生活の中に接点が少ない。
 圧倒的に。
 乾が部活を引退してからは尚の事で。
 毎日、ひどく渇望している気がする。
 一緒にいられれば、満たされすぎて、今度はこうして甘ったるくなるばかりだ。
「海堂」
「…はい?」
 首筋に唇が押し当てられて、海堂は目を閉じて返事をした。
 ただ抱きしめあったり、睦みあったり、話をしたり。
 そういう事は、平素にいきなりするとなると、なかなかできない。
 海堂が身構えてしまうのだ。
 しかし、こんな風に事後に。
 脱力している時ならば、海堂にも必要以上の身構えがなくなった。
 乾は当然判っているのだろう。
 した後の、海堂への構い方は。
 優しいという一言では、到底くくれない程で。
 甘やかし方も、甘え方も、手加減がない。
「七年後…っていうのは、これは、計算間違いだな、やっぱり」
「先輩?……」
 いきなり何の話だと肩越しに乾を振り返ろうとした海堂の唇は。窮屈な体勢のまま浅いキスで塞がれた。
 唇と唇とが離れる時に、小さく音がした。
「………………」
「五年後にしよう。二年早めて」
「………何の話っすか…」
「俺が大学を出る時じゃなく、海堂が大学に入る時で」
 海堂の困惑などお構いなしに乾は話を進めていく。
 乾は時々、七年後、の話をする。
 何かにつけ、七年後を語る。
 どうやら七年後というのは乾が大学を卒業する年らしい。
 海堂は自分の背後で、しがみつくようにして抱きしめてくる乾が、ぶつぶつと呟く言葉に淡く微笑した。
 海堂のいる所に帰りたい。
 まるっきりプロポーズのような言葉を、乾は将来の展望への、志望動機のようにしてよく口にした。
 淡々と、浮ついた所などまるで見せず、堅実に計画しているらしい。
「乾先輩」
「何だ、海堂?」
「大事な話をする時はちゃんと正面からにして下さい」
 乾が考えている事であっても、乾だけの話ではないのだ。
 予定を変更するというのなら、ちゃんと、自分の顔を見て、目を見て、自分にも話をしろと海堂は言った。
 乾は迷う風に少し笑って、海堂を抱き込む腕に力を込めてきた。
 ぴったりと背中に密着する体温。
 背後から耳の縁に唇が寄せられる。
「…………何やってんですか。人の話聞いて…」
「今正面から海堂のこと見たら、もう一回手を出しそうなんだが」
「……百まで数えて、それまでに終わるんならいいっすよ」
 海堂はあくまで時間を気にして言ったのだが、乾は身体を震わせて笑い出した。
 海堂は抱きしめられたままだから、それが全部伝わってくる。
「………何馬鹿笑いしてんですか。あんた」
「や、…想像したらあまりに可愛くて」
「可愛いわけあるか…!」
「可愛いだろ。普通に考えて」
 何がどうしたのか、ツボにはまったように乾は笑ったままになる。
 海堂は憮然となって、だがしかし。
 笑うだけ笑った乾が、次第に笑いがおさめていって、ふうっと最後に息を整えるように吐息を零した後。
 生真面目な声で囁いた言葉に、縛り付けられて。
 泣き言めいた言葉をもらす羽目になった。
「可愛い」
「………うるせぇよ、先輩」
 背中側から海堂の頬にあてがわれていた乾の手のひら、その親指の付け根辺りに。
 図らずとも口付けのように唇が当たり、海堂が漏らした悪態が、そこに擦り付けられる。
 そうして乾の手のひらは、海堂が咎めたせいなのか、もう言葉にはせずに。
 声に出さずにそれを伝えるように。
 海堂の顔を丁寧に、丁寧に撫でた。
 ありえない。
 それは当事者も、部外者も、思っていること。
 ありえない。
 誰もがその光景に目を留めて、一度は咄嗟にそこから顔を背けてしまってから。
 恐る恐る、事実を確かめるべく、視線を引き戻してしまうような。
 そんな光景が駅のホームのベンチを中心にして繰り広げられている。
 惑う人々の視線の先では、氷帝学園の派手な制服を着た派手な顔の男が、足を広げてベンチに座っている。
 肘から曲げた両腕を背もたれに乗せて、秀麗な目元を一見不機嫌そうに鋭くさせている。
 色素の薄い髪や瞳は、儚さよりも鋭利さを際立たせ、そんな彼の上質の生地と裁縫で仕立てられた制服にくるまれた腿の上。
 小さな丸い頭が乗っている。
 そちらは学ランに包まれている細い四肢だ。
 くったりとなっている。
 王様のような男に膝枕をしてもらい朽ち果てている青白い顔の男、それが神尾だ。 
 ベンチに横柄に、同時に優雅に、寄りかかって座り、細めた視線で己の膝の上の物体を容赦なく見据え、低くなめらかな声を浴びせかけている男、それが跡部だ。
「虚弱児」
「…………ぅー…」
 神尾の呻き声に跡部は唇を歪めて笑った。
「てめえが普段山のように食ってやがるのは、実際は何だったんだ。何の餌だ。そのへんの雑草か」
「ほーれんそう…だよう……」
「あれだけの量のほうれん草食ってて貧血なんざおこすか。馬鹿野郎」
「………貧血…じゃ、ねー、もん」
「ふざけんな。顔色ねえじゃねえか」
 跡部は言って、神尾の黒髪をぞんざいに弄りながら、その指先を頬や額にまで滑らせる。
 冷たい肌しやがってと跡部が指先に感じたままを告げてくると、神尾が肩をすぼめるようにして、一層丸くなる。
 跡部の膝の上で。
「…………のりものよい、だもんよぅ…」
 耳をすまさなければ聞こえない程の小声に、跡部は皮肉気に唇の端を引き上げた。
「混んでる電車に乗れるのか、ほんとに大丈夫なのかって、俺様にえらそうにほざいてた奴が、結局乗り物酔いねえ?」
 うぅ、と神尾は再三呻いた。
 跡部の言葉は次々と容赦ない。
 ただ、言っている事は辛辣そうでいて、実際のところは。
 跡部はどことなく、むしろ機嫌が良い。
 腹をたてた跡部は喋らなくなる。
 不機嫌な跡部は表情すら動かさない。
 それを知っている神尾からすると、今の跡部は機嫌が良いと判るのだ。
 今日の放課後、跡部から神尾に電話がきた。
 今どこにいて何をしているのかを聞かれた神尾が、グリップテープを買いに数駅離れた駅まで出ると告げると、どういう気まぐれか跡部も行くと言い出した。
 気まぐれというのは、神尾に付き合うことではなく、跡部が電車に乗るということだ。
 神尾は驚いた。
 何せ跡部の交通手段といったら、普通なら、自家の運転手つきの送迎車のみだ。
 そんな跡部が、神尾と共に電車に乗ると言う。
 驚いてから、神尾は疑わしく心配をした。
 曰く、本当に大丈夫なのかと。
 その沿線は学校が多いので、学生を中心に電車はほぼ毎日混みあっている。
 駅前で待ち合わせて、顔を合わせてから何度も何度も、大丈夫なのかと神尾は繰り返した。
 跡部は判りやすく憮然としていたが、実際車内の混雑を目にした時は、うんざりと嘆息していたのを神尾もしっかりと見ていた。
 そんな風にして二人で乗り込んだ電車。
 数駅の距離を行き、下車して目的地の駅につくなり、よろよろとホームのベンチに倒れこんだのは何故か神尾だった。
 神尾驚いたが、跡部も珍しく呆けた顔で暫し神尾を見下ろし、その後はもう。
 跡部は容赦なく神尾に雑言を放り、ベンチに踏ん反り返って、そして膝上に神尾の頭を乗せていた。
「跡部…ぇ……なんか、ちゅうもくが…、痛いんだけど…」
「アア?」
「……視線が…ちくちくする……」
「は、…この程度が気になるとはな。お前、普段どれだけ人に注目された経験がねえんだよ」
「……跡部と一緒にすんなよなぁ…」
 跡部の左の手のひらは、ずっと、神尾の頭に乗せられている。
 指先が髪をすいたり頬を撫でたり耳をいじったりする。
 ベンチに横柄に寄りかかっている姿や、怜悧で綺麗な顔や、皮肉気でよどみない言葉の羅列。
 そんな跡部に惹きつけられている視線や感情は、偶然間近で一緒に感じている神尾からしてみると、強すぎて落ち着かない。
 こういう注目に慣れているあたりが跡部は普通じゃないと思うのだ。
「言っておくがな、神尾」
「………ぇ?」
「今この状況が、世の中の注目を浴びてるっていうならな。お前も原因担ってるってことだからな」
「…………んなこと言ったって…よぅ…」
 まだ気持ち悪い。
 頭の中がぐるぐる回っていて、呼吸がどうしても浅くなる。
 目の前の暗さや、チカチカと点滅した視野はどうにか収まったものの、なかなか起き上がれないのだ。
 確かに、これでは。
 跡部の心配ばかりしていて自分がこれでは。
 情けないこと極まりないと神尾も思っているのだが。
 実際問題、乗り物酔いをして、人酔いをして、神尾は未だ跡部の腿を枕にしている状態だ。
「息苦しいの、だめなんだよう……閉じ込められんのとか…さぁ…」
 跡部とは違う理由だが、神尾にしたって、満員電車や人ごみはあまり得意ではない。
 風が感じられないからだ。
 自分の足で走れないからだ。
 息苦しさや閉塞感には、すぐに我慢が出来なくなる。
「よく言うぜ…」
 吐き捨てられて神尾は怪訝に跡部の名前を呼んだ。
「………跡部…?」
「四六時中されてんだろうが」
「……は…?」
 俺にだよ、と跡部が更に言った気がして。
 神尾はのろのろと目線を上げた。
 四六時中、跡部にされていること。
 自分が息苦しくなるくらい。
 自分の事を、跡部が閉じ込めているという事なのだろうか。
 神尾は跡部にいわれた言葉を不思議に思い、考える。
 だって跡部は、そんなことしない。
 四六時中とか、閉じ込めるとか、ありえないだろう。
 それこそ。
「俺は……跡部は……いっつも、よゆうだなーって。思うぜ」
「てめえは頭いかれてるからな」
 判んねえんだろうよ、と跡部は尚も言う。
 いっそ辛辣に。
 少しも腹はたたなかったが、神尾にはさっぱり意味が判らなかった。
 跡部の左手がおもむろに神尾の髪をぐしゃぐしゃにする。
「ちょ、……」
「お前なんざな、神尾」
「………跡部……?…」
「少しでも目離せば、その隙に他所事に気をとられてるわ、学習はしねえわ、気づけばどっかにすっ飛んで行ってて姿は見えねえわ」
「…跡部ぇ…?」
「てめえの逃げ足の速さにだけは、こっちも相当必死でいるんだよ」
 そうやって、跡部はどんどん変なことを言う。
 おかしなことばかり言う。
 変だろ、それ。
 だから神尾は思った。
 だからふらふらする中、首を捻って、真上にいる跡部の目を、じっと見上げた。
「な、……跡部、」
 まだひたすらに言い募ろうとしている跡部を強引に止める。
 跡部が眉根を寄せた顔と見上げる。
「何だ」
 そして問う。
「俺…逃げたことあるか?」
「………………」
「跡部から、逃げたこと…あるか?」
「…ねえよ」
 そうだよ。
 ないよ。
 そんなこと、したことない。
 そんなこと、跡部だって判っているのに、だったら何でだ、と神尾は跡部を睨んだ。
「………………」
 跡部は神尾があまり見慣れない表情をしていた。
 いつもと変わりないようのしてみせることに、失敗したかのような。
 神尾の知らない顔をしていた。
 どこか、少しだけ、頼りないような。
 そんな事を思ってしまって、神尾は。
 う、と息を詰めた。
 たちどころに、狼狽と腹立ちとが混ざってきて、神尾は出来得る限りで語気荒く言った。
「ないだろ。……ないじゃんかよ!」
「ねえよ」
「じゃ、変なこと言うなよな……!」
 ないと跡部は言っているのに。
 それなのに、跡部は。
 何故か、からかうでもなく、あしらうでもなく、神尾を強く見下ろしたまま真面目な顔で言い切った。
 懇願か、命令か。
 神尾の思いもしなかった言葉。
「これまではない。だから、これからも逃げるな」
「………………」
「判ったのか。神尾」
 いつもみたいに、意地悪く笑うとか。
 有無を言わせない横暴な言い方をするとか。
 すれば、まだ、いいのに。
 神尾は驚いた。
 しみじみと。
「………逃げねえよ」
「………………」
「……なんだよ。なんなんだよ……跡部って……跡部って、」
 ばかだったんだなあ、と。
 考えるより先に神尾の口から零れてしまった。
 さすがに跡部は目を細めて剣呑と神尾を睨んできたけれど。
「アア? てめえ、今何言った」
「……ばか跡部」
 けれども神尾はお構いなしに、信じらんねー、と跡部の膝の上で目を瞑る。
 凄む跡部に呆気にとられながら、具合が悪いのに託けて。
 実際は、こんな場所で甘えたりしがみついたり出来るわけがないから、気持ちだけでそうして、跡部の膝の上で、顔を伏せる、目を閉じる、肩を窄ませる。
 跡部の手が神尾の頭を撫でた。
 親指が伸ばされてきて、神尾の唇を、キスするように掠った。
「………よけい、くらくら、してきた…、」
 本当に、横になっているのに、ぐらりと世界がまわる。
 唇の形だけ動かしたような神尾の呟きを、跡部は正確に拾い上げた。
 今度は、少し笑っていた。
「落ち着くまでこうしてりゃいいだろ」
「……落ち着かねえもん。全然」
 乗り物酔いの名残。
 人からの注目。
 跡部の手。
 落ち着かない。
 しかもその上、跡部がひどくドキドキさせるからだ。
「それならずっとこうしてればいい」
「…………すっごい見られてると思うんだけど…」
「見られる事の何が問題なのか俺にはさっぱり判らねえな」
 ばか跡部、と思わず呻いた神尾の唇を、跡部は親指の腹で、一際強く、擦った。
 きついキスくらい、強く。
 手紙が売られている。
 古びたエアメールが、どういう経路で今この場にあるのかは宍戸にはまるで思いもつかないけれど。
 たくさんの手紙は雑多に文房具店の片隅で売られていた。
「エンタイアですね…」
 宍戸は何の気もなしにその一角を見ていただけなのに、隣にいた鳳は丁寧にその視線を拾い上げ、そんな事を言った。
 言葉にしなくても会話になっていたりする、こういうことはよくあることだ。
 お前って俺のことずっと見てんのかよ?と、以前に宍戸が言った時。
 鳳はひどく率直に、こくりと頷いて笑っていた。
 当たり前みたいに、いつも、ずっと、傍にいて。
 当たり前みたいに、とても、大事に、してきて。
 でもそんな鳳を。
 当たり前にしてしまえない宍戸を、鳳はより一層の当たり前で身包みにしてくる。
 宍戸に対して丁寧で優しいものは、眼差しも、言葉も、鳳からの何もかもだ。
「……エンタイアって何だ?」
 宍戸の問いかけに、鳳は唇に優しい笑みを刻んで、ブリキのボックスの中から一通のエアメールを取った。
 空いた方の手は宍戸の背中にそっと宛がわれる。
 エアメールの表書きを宍戸に見せて、鳳は丁寧に言った。
「郵便で配達された古い手紙のことです。古切手の収集家がいるようにエンタイアにも収集家がいるんで、……こういう風に売られてる」
 宛名に目線を落として読み取っている鳳の目元を、宍戸は見上げた。
 伏せる睫の濃く真っ直ぐな影と、ラインの鋭くなった頬や喉元に、ひとつ下の鳳が日に日に大人びていくのを目の当たりにさせられて。
 宍戸は秋口からいろいろと複雑だ。
 邪気なく、ただひたすらに宍戸に懐いてきていた鳳が、少しずつ、少しずつ、優しく穏やかなまま違う熱をためていくのが判るからだ。
 それを、まるで乞うように、貪欲に、欲しがる自分がいるからだ。
「………………」
「これだと…差出人は、フィンランドの……ああ、多分軍人の人ですね」
 宍戸が、じっと鳳を見上げている視線をゆったりと受け入れたまま。
 鳳は長い指で古びた手紙の切手を指し示す。
 オレンジ色の切手にはフィンランドと書かれていて、その上から黒字で異国の文字がプリントされている。
 戦時中に軍人が使えるように配られたものだと思います、と鳳は言って。
 宍戸の直視に気づいたように、ふと首を微かに傾げる。
「宍戸さん?」
「……家族に宛てたのかもな」
 宍戸は、自身の心の揺れを悟られないよう、曖昧に逃げた。
 吐息のように宍戸が返した応えに、鳳は今度は微かに屈んできて 少し考える顔をして宍戸を見つめてくる。
 なおも宍戸は視線を逃がしたまま、小さく呟いた。
「恋人にとかかもな…」
「………読んでみます? 中」
「いや。いい。昔のでも、外国人のでも、人の手紙は見ようって気にならねえよ」
 これらの手紙、一通一通が。
 どんな思いで書かれて。
 どんな経緯でここにあるのか。
 それは判らなくても、そこに込められる意味合いがあるという事は判る。
 思いの篭らない手紙などないだろう。
 感情を文字にして、筆記具で書き認めて、閉じ込めるよう封緘し、時間を使って運ばれて、届けられて、形となって残る思い。
「宍戸さん」
 考え込むような宍戸の背中にあった鳳の手のひらに、ぐっと一瞬力が入る。
 宍戸は淡く苦笑した。
 不安がるような鳳の気配に、軽く首を左右に振った。
「………そうだよな…」
「宍戸さん?」
「手紙ってのは……人の手で運ばれるもんだよな。普通」
 独り言じみた呟きを口にして、宍戸は鳳を見上げた。
 手紙の話を、した。
「お前に渡してくれって、うちの学年の奴に、手紙頼まれたんだけどな。今日」
「え……?」
「手紙は自分で渡せよって簡単に断っちまったのを、…少し反省してる」
 年下の男にラブレターを書いて、渡すのに。
 どれほどの勇気がいるのかに目を瞑るようにして、宍戸はそれを拒んできた。
 その瞬間に噛んだ苦さは、ラブレターの橋渡しなどガラではないという隠れ蓑の中に潜む個人的感情のせいだ。
 ただ、そうしたくなかっただけだという、ひどく単純な自分自身の感情のせいだ。
 宍戸は、同じクラスの彼女の手にあった見えないものの詰まった手紙がどうしても手に取れなかった。
 触れられなかった。
 運べなかった。
 鳳には、自分は、出来ない。
 届けてやれない手紙。
 でも、手紙というものは、元来人の手で運ばれていくものなのだと、エンタイアの山を目にして宍戸は思い、微かな溜息と共に一層の苦味を味わった。
 自分は、一生無理だろう。
 鳳の為の誰かからの手紙は運べない。
「………………」
 物憂げに、物思う、そんな宍戸は気づかなかった。
 その時に。
 この瞬間に。
 あれは違ったのかと、鳳の唇からもれた、安堵の吐息。
 深い嘆息。
 宍戸と、女生徒と、そして二人の間にあった手紙。
 それを見てしまっていた鳳が、宍戸の呟きに一時の不安を払拭させた、安堵の深い吐息に、まるで。
 まるで宍戸は気づかなかった。
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