How did you feel at your first kiss?
海堂が見ている。
盗み見るということを知らない海堂の視線は率直だ。
乾は唇に微かに笑みを刻んだ。
海堂に見られているもの。
それが自分だという事、それだけで口元の緩む自分がおかしかった。
部室の片隅で乾はベンチに座り、組んだ足の腿の上でノートに書き込みをしながら、そっと目線を海堂に向ける。
少し距離を置いて同じベンチに座っている海堂に、どうかした?と目で問いかけてやると、海堂の最初の疑問がその目を見ただけで乾には判ってしまった。
「珍しい? 俺が鉛筆使うの」
海堂が驚いたように目を見張る。
それから、海堂は顎を引くようにして小さく頷いた。
案外見られているものなんだなと乾は思って、右手を軽く持ち上げる。
乾は普段ボールペンを使う。
確かに鉛筆を持つのは久しぶりだ。
「北極グマは左利き…なんですか」
次いで、海堂はそう呟いた。
「みたいだな。確かめたのかね」
軸の黒い鉛筆には白抜きの英文で、そう書いてある。
海堂は動物好きだ。
じっとその一文に集中して、ずっと考えていたのかと思うと、それが乾には堪らなく可愛いように思えた。
それならばこれも、と乾は海堂と逆側に置いていた鞄の中から取り出したメモパッドを海堂側に置く。
「………北極グマは…黒い…」
「………………」
「半透明の毛皮が、白く見せている」
ですか?と言いたげに乾を見据えてくる海堂の視線。
訥々とした低い声での口調や、その実直な眼差しに。
乾はもう、本当に。
どうしようもなく可愛いと、しみじみ思った。
鉛筆同様に、黒地のメモパッドに白で印字された英文を読んで真剣に考え込む海堂を見やって、完全降伏したくなる程だ。
ロンドンの博物館土産という事で、いつだったか知り合いから貰ったままになっていたものを、ほんの気まぐれで使い出して良かったと、随分とささいな事でも幸せを噛み締められる自分がおかしかった。
幸せの根源にあるもの。
それはあの海堂が、テニスのこと以外で自分に目を向ける、言葉を向ける、そういうことだ。
乾は、いつの間にか自分にひどく大切で稀有な存在になっていた相手を見やりながら、きっとこの生真面目な後輩は、今晩は北極グマのことを調べたりするんだろうなと予想して微笑した。
「…………何っすか…」
「ん?」
海堂が警戒するような顔をする。
困らなくてもいいのに、と乾は結局笑みを深めてしまう。
乾が笑うと、海堂はいつもこういう顔をする。
困ったようにうろたえて、するりと逃げられそうになる。
「海堂。もうひとつあったよ。そういえば」
「………………」
「ジャンプが出来ない唯一の哺乳類はなんだと思う?」
乾は鞄の中から四角いプラスチックの鉛筆削りを取り出した。
印字されている英文を自分に向け、読み上げて質問すると。
乾の笑みひとつで逃げかけていた海堂が、気をとられてまた生真面目に考え込むのが目に甘い。
「はい。答え」
「……え、…」
ぽん、と海堂の手のひらに小さな鉛筆削りを乗せてやる。
海堂は面食らったような顔で、乾と、鉛筆削りとを見やっている。
「あの、…乾先輩…」
「あげる」
乾は笑って立ち上がった。
まだ気安いと呼ぶには程遠い関係ではあるが、多分少し前までなら。
乾が何かをあげると言っても、海堂は受け取らなかっただろう。
例え今は、答えが知りたいのだとしても、海堂は小さなその文具を、乾につき返してきたりはしない。
それどころか即座に手のひらにある鉛筆削りをじっと見下ろし、真剣な顔で答えを読み取った海堂の頭に、乾は立ち上がり様、笑って軽く手のひらを置いた。
さらさらと優しい涼しい感触がした。
ゾウはジャンプが出来ない唯一の哺乳類である。
そんなプリントがされた不思議な鉛筆削りは、それからずっと海堂のペンケースの中にある。
盗み見るということを知らない海堂の視線は率直だ。
乾は唇に微かに笑みを刻んだ。
海堂に見られているもの。
それが自分だという事、それだけで口元の緩む自分がおかしかった。
部室の片隅で乾はベンチに座り、組んだ足の腿の上でノートに書き込みをしながら、そっと目線を海堂に向ける。
少し距離を置いて同じベンチに座っている海堂に、どうかした?と目で問いかけてやると、海堂の最初の疑問がその目を見ただけで乾には判ってしまった。
「珍しい? 俺が鉛筆使うの」
海堂が驚いたように目を見張る。
それから、海堂は顎を引くようにして小さく頷いた。
案外見られているものなんだなと乾は思って、右手を軽く持ち上げる。
乾は普段ボールペンを使う。
確かに鉛筆を持つのは久しぶりだ。
「北極グマは左利き…なんですか」
次いで、海堂はそう呟いた。
「みたいだな。確かめたのかね」
軸の黒い鉛筆には白抜きの英文で、そう書いてある。
海堂は動物好きだ。
じっとその一文に集中して、ずっと考えていたのかと思うと、それが乾には堪らなく可愛いように思えた。
それならばこれも、と乾は海堂と逆側に置いていた鞄の中から取り出したメモパッドを海堂側に置く。
「………北極グマは…黒い…」
「………………」
「半透明の毛皮が、白く見せている」
ですか?と言いたげに乾を見据えてくる海堂の視線。
訥々とした低い声での口調や、その実直な眼差しに。
乾はもう、本当に。
どうしようもなく可愛いと、しみじみ思った。
鉛筆同様に、黒地のメモパッドに白で印字された英文を読んで真剣に考え込む海堂を見やって、完全降伏したくなる程だ。
ロンドンの博物館土産という事で、いつだったか知り合いから貰ったままになっていたものを、ほんの気まぐれで使い出して良かったと、随分とささいな事でも幸せを噛み締められる自分がおかしかった。
幸せの根源にあるもの。
それはあの海堂が、テニスのこと以外で自分に目を向ける、言葉を向ける、そういうことだ。
乾は、いつの間にか自分にひどく大切で稀有な存在になっていた相手を見やりながら、きっとこの生真面目な後輩は、今晩は北極グマのことを調べたりするんだろうなと予想して微笑した。
「…………何っすか…」
「ん?」
海堂が警戒するような顔をする。
困らなくてもいいのに、と乾は結局笑みを深めてしまう。
乾が笑うと、海堂はいつもこういう顔をする。
困ったようにうろたえて、するりと逃げられそうになる。
「海堂。もうひとつあったよ。そういえば」
「………………」
「ジャンプが出来ない唯一の哺乳類はなんだと思う?」
乾は鞄の中から四角いプラスチックの鉛筆削りを取り出した。
印字されている英文を自分に向け、読み上げて質問すると。
乾の笑みひとつで逃げかけていた海堂が、気をとられてまた生真面目に考え込むのが目に甘い。
「はい。答え」
「……え、…」
ぽん、と海堂の手のひらに小さな鉛筆削りを乗せてやる。
海堂は面食らったような顔で、乾と、鉛筆削りとを見やっている。
「あの、…乾先輩…」
「あげる」
乾は笑って立ち上がった。
まだ気安いと呼ぶには程遠い関係ではあるが、多分少し前までなら。
乾が何かをあげると言っても、海堂は受け取らなかっただろう。
例え今は、答えが知りたいのだとしても、海堂は小さなその文具を、乾につき返してきたりはしない。
それどころか即座に手のひらにある鉛筆削りをじっと見下ろし、真剣な顔で答えを読み取った海堂の頭に、乾は立ち上がり様、笑って軽く手のひらを置いた。
さらさらと優しい涼しい感触がした。
ゾウはジャンプが出来ない唯一の哺乳類である。
そんなプリントがされた不思議な鉛筆削りは、それからずっと海堂のペンケースの中にある。
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最近、夜暗くなるのが早いなあと思うようになった。
季節が変わっていっているという事は判っている。
でも、一日の時間は毎日二十四時間で同じ筈なのに。
何だかこれでは一緒にいられる時間だけが短くなったような気がしてならない。
神尾は窓辺に手をついて、日の暮れた空をぼんやり見上げて考えた。
言いたくない言葉を言った後は気が重くなる。
そろそろ帰ると告げた神尾に。
ああ、と頷いた後、何かを考える顔をして。
跡部は、ちょっと待てと言いおいて、この部屋、彼の自室を出ていった。
「神尾」
戻ってきた跡部の手にはマフラーがあった。
名前を呼ばれて振り返った神尾に、跡部はその手を軽く持ち上げて、顎も少し上げて、目を細めた。
「来いよ」
貸してやる、結んでやる、と言った跡部は、神尾がすぐに反応しないのを見て取ると、顎で促してきた。
「可愛くしてやるよ」
来い、と尊大に笑みを浮かべられて言われた言葉に神尾は堪らず赤くなった。
「…、可愛く、ってなんだよ…っ」
「マフラーのひとつやふたつで、てめえの顔が変わる訳もねえけどな」
平然と言い捨てた跡部だったが、神尾の元まで近づいてくると、折り曲げた指の関節で神尾の首筋を軽く逆撫でした。
「………っ、…」
「そろそろ制服の上にもう一枚着てくるか、マフラー巻いてくるかして来い」
ほっせぇ首、と呟いて。
肩を竦め、目を細める跡部を。
恨めしく上目に睨んだ神尾だったが、跡部はゆったりと唇の端を引き上げて癖のある笑みを浮かべて素知らぬ態度だ。
あからさまに神尾をからかっているような、人をくった目をしているくせに。
跡部の手つきは、丁寧だった。
見るからに上質そうなマフラーを、ふわりと神尾の首に巻きつける。
やわらかい。
かるい。
そしてあたたかい。
「………………」
なめらかな手の動きでマフラーを神尾の首に二巻きし、喉の下辺りで所作のシンプルさには不似合いな程、凝った結びを手際よく作る。
跡部の手つきを見下ろしていた神尾は、ふと跡部が屈みこんできたのに気づいて顔を上げた。
「………ぇ……」
唇をやわらかく塞がれる。
神尾は小さく息をのむ。
濡れた微かな音。
ゆっくりと跡部の唇は離れていった。
「………………」
思わず後を追うように、神尾の目線も意識も跡部についていってしまいそうになった。
「………………」
「マフラーのあるなし関係ねえよ。お前は」
「……あ…と……べ…?」
「どうしたって可愛くてしょうがねえ」
いきなり言われた。
腹立つ、なんて憮然とした言葉も言われた。
神尾は息が詰まってしまった。
胸も詰まってしまった。
この男は俺の事を殺す気だ。
きっと。
そんな事を思って固まった。
ありえないだろ、可愛いとか、ありえないだろ。
「………何硬直してやがるんだ。てめえは」
「え、……」
溜息を吐き出した跡部が、指先まで完璧に整っている手で神尾の片頬を包んだ。
左の頬を跡部の片手に覆われながら、神尾はまた、跡部からの口付けを受ける。
キスというのは唇でするのだな、という。
当たり前の事を教え込まされるように、跡部は神尾の唇を繰り返し繰り返し塞いだ。
「…ぁ、……跡部…、…」
「………………」
「…、んっ……、…、っ…」
軽く啄ばまれて、きつく塞がれて。
微かに掠られて、ふかく奪われて。
もう帰るのに、どうしてそんなにいろいろのキスをするのだと、神尾は自分の頬を支えている跡部の腕に指先を縋らせる。
キスが漸く止まって初めて。
神尾は、泣き言のように言った。
「も…、…マフラーいらない…」
「……ああ?」
熱い、と涙目で跡部を睨みつけると。
珍しく跡部が狼狽したような顔をした。
「そりゃ………まあ、よかったんじゃねえの? 帰り道寒くねえだろ」
すぐに無理矢理、いつもの皮肉気な顔をしたけれど。
あまり長くは持たなかったようで。
負けてやる、と結局呻いて跡部は、覆いかぶさるようにして神尾を抱きしめてきた。
「………車を出させる」
「………………」
「もう少しいろ」
そんなの。
神尾は、嬉しいだけだ。
ただ、嬉しいだけだ。
ありえないだろ、嬉しいとか、ありえないだろ。
跡部に抱きしめられながら、神尾は息も絶え絶えになって、そう思った。
季節が変わっていっているという事は判っている。
でも、一日の時間は毎日二十四時間で同じ筈なのに。
何だかこれでは一緒にいられる時間だけが短くなったような気がしてならない。
神尾は窓辺に手をついて、日の暮れた空をぼんやり見上げて考えた。
言いたくない言葉を言った後は気が重くなる。
そろそろ帰ると告げた神尾に。
ああ、と頷いた後、何かを考える顔をして。
跡部は、ちょっと待てと言いおいて、この部屋、彼の自室を出ていった。
「神尾」
戻ってきた跡部の手にはマフラーがあった。
名前を呼ばれて振り返った神尾に、跡部はその手を軽く持ち上げて、顎も少し上げて、目を細めた。
「来いよ」
貸してやる、結んでやる、と言った跡部は、神尾がすぐに反応しないのを見て取ると、顎で促してきた。
「可愛くしてやるよ」
来い、と尊大に笑みを浮かべられて言われた言葉に神尾は堪らず赤くなった。
「…、可愛く、ってなんだよ…っ」
「マフラーのひとつやふたつで、てめえの顔が変わる訳もねえけどな」
平然と言い捨てた跡部だったが、神尾の元まで近づいてくると、折り曲げた指の関節で神尾の首筋を軽く逆撫でした。
「………っ、…」
「そろそろ制服の上にもう一枚着てくるか、マフラー巻いてくるかして来い」
ほっせぇ首、と呟いて。
肩を竦め、目を細める跡部を。
恨めしく上目に睨んだ神尾だったが、跡部はゆったりと唇の端を引き上げて癖のある笑みを浮かべて素知らぬ態度だ。
あからさまに神尾をからかっているような、人をくった目をしているくせに。
跡部の手つきは、丁寧だった。
見るからに上質そうなマフラーを、ふわりと神尾の首に巻きつける。
やわらかい。
かるい。
そしてあたたかい。
「………………」
なめらかな手の動きでマフラーを神尾の首に二巻きし、喉の下辺りで所作のシンプルさには不似合いな程、凝った結びを手際よく作る。
跡部の手つきを見下ろしていた神尾は、ふと跡部が屈みこんできたのに気づいて顔を上げた。
「………ぇ……」
唇をやわらかく塞がれる。
神尾は小さく息をのむ。
濡れた微かな音。
ゆっくりと跡部の唇は離れていった。
「………………」
思わず後を追うように、神尾の目線も意識も跡部についていってしまいそうになった。
「………………」
「マフラーのあるなし関係ねえよ。お前は」
「……あ…と……べ…?」
「どうしたって可愛くてしょうがねえ」
いきなり言われた。
腹立つ、なんて憮然とした言葉も言われた。
神尾は息が詰まってしまった。
胸も詰まってしまった。
この男は俺の事を殺す気だ。
きっと。
そんな事を思って固まった。
ありえないだろ、可愛いとか、ありえないだろ。
「………何硬直してやがるんだ。てめえは」
「え、……」
溜息を吐き出した跡部が、指先まで完璧に整っている手で神尾の片頬を包んだ。
左の頬を跡部の片手に覆われながら、神尾はまた、跡部からの口付けを受ける。
キスというのは唇でするのだな、という。
当たり前の事を教え込まされるように、跡部は神尾の唇を繰り返し繰り返し塞いだ。
「…ぁ、……跡部…、…」
「………………」
「…、んっ……、…、っ…」
軽く啄ばまれて、きつく塞がれて。
微かに掠られて、ふかく奪われて。
もう帰るのに、どうしてそんなにいろいろのキスをするのだと、神尾は自分の頬を支えている跡部の腕に指先を縋らせる。
キスが漸く止まって初めて。
神尾は、泣き言のように言った。
「も…、…マフラーいらない…」
「……ああ?」
熱い、と涙目で跡部を睨みつけると。
珍しく跡部が狼狽したような顔をした。
「そりゃ………まあ、よかったんじゃねえの? 帰り道寒くねえだろ」
すぐに無理矢理、いつもの皮肉気な顔をしたけれど。
あまり長くは持たなかったようで。
負けてやる、と結局呻いて跡部は、覆いかぶさるようにして神尾を抱きしめてきた。
「………車を出させる」
「………………」
「もう少しいろ」
そんなの。
神尾は、嬉しいだけだ。
ただ、嬉しいだけだ。
ありえないだろ、嬉しいとか、ありえないだろ。
跡部に抱きしめられながら、神尾は息も絶え絶えになって、そう思った。
ベッドに寝て、同じ毛布の中にいて。
鳳の胸元へ擦り寄るようにして収まってきた薄い背中を抱き止めながら、秋だなあと鳳は思った。
「寒い…? 宍戸さん。暖房つける?」
「………いい。十一月なったばっかだろ、まだ…」
「でも寒いんでしょう?」
眠たげな宍戸の口調や、細めた切れ長の目元は、彼を知らない人からすれば不機嫌にしか思えないものなのかもしれない。
鳳からすれば、眠そうだと感じるだけのことだ。
ついでにいえば、可愛いとも思う。
寒がりの宍戸からすれば、ここ数日の気温の変化や雨交じりの空気は、すでに肌寒いもののようで。
鳳の胸元に宍戸自らすっぽりとおさまって、尖った肩を丸めるようにしている仕草や染入るような体温こそが鳳に季節の移ろいを感じさせた。
丁寧に抱き込んで、鳳は、ほっと息をつく。
「……長太郎…?」
あれほどまでに眠そうだった宍戸が鳳の溜息の気配を敏感に感じて不思議がっているのを、鳳は笑った形の唇で口付ける事で応えた。
やわらかく重ねるだけのキスをゆっくりと離すと、きつい眦に熱と睫で微かな陰影を落とした宍戸が閉ざしていた瞼を静かに引き上げていく。
「なんか嬉しくて。……それで、秋だなあと思っただけです」
「……お前…そんなに秋が好きだったか?」
「俺が好きなのは宍戸さん。秋じゃないです」
知ってるでしょう?と鳳が宍戸に笑いかけると、宍戸が少しばかり憮然となって、噛み付いてきた。
たいして痛くもないが、耳と顎の先の中ほど辺りを噛まれて、鳳は笑って一層深く宍戸を抱き込んだ。
「噛まれて喜んでんじゃねーよ。アホ……」
呆れきった声の宍戸が、それでも彼が噛んだ箇所の上に、そっと唇を寄せてくるから。
鳳はその口付けを、幾分擽ったく受け止めた。
「宍戸さんは、秋になったなあって思うのはどういう時?」
「あ…?………んなの、寒くなってきたって思った時だよ」
「俺は宍戸さんが、俺が抱き寄せるより先にここに収まってきてくれた時です」
さっきみたいに、こういう風にね、と鳳は毛布の中で宍戸の背中を抱き寄せる。
暴れるかな、と鳳は思ったけれど。
宍戸は動かなかった。
毒づくように独りごちただけだ。
それも鳳の耳には、ただ甘いだけだ。
「……ったく…俺で季節を感じんな……」
「冬になったなあって思うのは、脱がせる上着が三着をこえた時ですね」
毛布の中。
乱暴な足にいきなり向こう脛を蹴られた。
「もう……噛み付いたり蹴っ飛ばしたり、宍戸さんはー……」
「うるせぇ…っ、機嫌よさそうなツラしてんじゃねえよっ」
暴れる四肢を、押さえ込むのではなく包み込んでしまって、鳳は宍戸のこめかみに唇を寄せる。
「宍戸さんが、冬の間中ぐるぐる巻きにしてるマフラーをはずして、きれいな首…見せてくれると、春になったなあと実感しますし…」
「………お前目くさってるだろ…」
「何で宍戸さんはいっつもそうやって謙遜ばかりするんですかねえ……」
微笑んで、それでも真剣に首を傾げる鳳に、宍戸は盛大な溜息をくれて。
俺は寝る、と一言呻いて、鳳の胸元に額を押し当て、目を瞑った。
「………………」
無論それを邪魔するつもりはない鳳は、暫しそんな宍戸を見下ろして。
やわらかい髪をそっと小さな頭の形に沿って撫でつけながら、穏やかにひそめた声で囁いた。
「夏は、宍戸さんが嬉しくてたまらないって顔するから、判ります」
夏が一番好きなのだと、あの鮮やかな笑顔で、教えてくれるから。
ああ夏なんだな、と鳳は思うのだ。
秋を感じながら、夏を思い出して。
どの季節にも、無論今にも、こうして腕の中に宍戸がいる現状を、鳳はどれほど幸福かと充分判っているのに。
「長太郎」
「はい?」
「夏はこじつけだろ。お前」
「何でですか。本当にそうですよ」
「お前が傍にいりゃ、年中そんなツラだろ俺は」
「………………」
あくび交じりにそんな言葉だけ置いて、宍戸は。
すう、と眠ってしまった。
「………ちょ……っと……これは……」
ひどいなあ、と鳳は本気で嘆いて。
幸福が甘く胸を攻撃してくるすさまじい衝撃と、ひとり、戦う。
鳳の胸元へ擦り寄るようにして収まってきた薄い背中を抱き止めながら、秋だなあと鳳は思った。
「寒い…? 宍戸さん。暖房つける?」
「………いい。十一月なったばっかだろ、まだ…」
「でも寒いんでしょう?」
眠たげな宍戸の口調や、細めた切れ長の目元は、彼を知らない人からすれば不機嫌にしか思えないものなのかもしれない。
鳳からすれば、眠そうだと感じるだけのことだ。
ついでにいえば、可愛いとも思う。
寒がりの宍戸からすれば、ここ数日の気温の変化や雨交じりの空気は、すでに肌寒いもののようで。
鳳の胸元に宍戸自らすっぽりとおさまって、尖った肩を丸めるようにしている仕草や染入るような体温こそが鳳に季節の移ろいを感じさせた。
丁寧に抱き込んで、鳳は、ほっと息をつく。
「……長太郎…?」
あれほどまでに眠そうだった宍戸が鳳の溜息の気配を敏感に感じて不思議がっているのを、鳳は笑った形の唇で口付ける事で応えた。
やわらかく重ねるだけのキスをゆっくりと離すと、きつい眦に熱と睫で微かな陰影を落とした宍戸が閉ざしていた瞼を静かに引き上げていく。
「なんか嬉しくて。……それで、秋だなあと思っただけです」
「……お前…そんなに秋が好きだったか?」
「俺が好きなのは宍戸さん。秋じゃないです」
知ってるでしょう?と鳳が宍戸に笑いかけると、宍戸が少しばかり憮然となって、噛み付いてきた。
たいして痛くもないが、耳と顎の先の中ほど辺りを噛まれて、鳳は笑って一層深く宍戸を抱き込んだ。
「噛まれて喜んでんじゃねーよ。アホ……」
呆れきった声の宍戸が、それでも彼が噛んだ箇所の上に、そっと唇を寄せてくるから。
鳳はその口付けを、幾分擽ったく受け止めた。
「宍戸さんは、秋になったなあって思うのはどういう時?」
「あ…?………んなの、寒くなってきたって思った時だよ」
「俺は宍戸さんが、俺が抱き寄せるより先にここに収まってきてくれた時です」
さっきみたいに、こういう風にね、と鳳は毛布の中で宍戸の背中を抱き寄せる。
暴れるかな、と鳳は思ったけれど。
宍戸は動かなかった。
毒づくように独りごちただけだ。
それも鳳の耳には、ただ甘いだけだ。
「……ったく…俺で季節を感じんな……」
「冬になったなあって思うのは、脱がせる上着が三着をこえた時ですね」
毛布の中。
乱暴な足にいきなり向こう脛を蹴られた。
「もう……噛み付いたり蹴っ飛ばしたり、宍戸さんはー……」
「うるせぇ…っ、機嫌よさそうなツラしてんじゃねえよっ」
暴れる四肢を、押さえ込むのではなく包み込んでしまって、鳳は宍戸のこめかみに唇を寄せる。
「宍戸さんが、冬の間中ぐるぐる巻きにしてるマフラーをはずして、きれいな首…見せてくれると、春になったなあと実感しますし…」
「………お前目くさってるだろ…」
「何で宍戸さんはいっつもそうやって謙遜ばかりするんですかねえ……」
微笑んで、それでも真剣に首を傾げる鳳に、宍戸は盛大な溜息をくれて。
俺は寝る、と一言呻いて、鳳の胸元に額を押し当て、目を瞑った。
「………………」
無論それを邪魔するつもりはない鳳は、暫しそんな宍戸を見下ろして。
やわらかい髪をそっと小さな頭の形に沿って撫でつけながら、穏やかにひそめた声で囁いた。
「夏は、宍戸さんが嬉しくてたまらないって顔するから、判ります」
夏が一番好きなのだと、あの鮮やかな笑顔で、教えてくれるから。
ああ夏なんだな、と鳳は思うのだ。
秋を感じながら、夏を思い出して。
どの季節にも、無論今にも、こうして腕の中に宍戸がいる現状を、鳳はどれほど幸福かと充分判っているのに。
「長太郎」
「はい?」
「夏はこじつけだろ。お前」
「何でですか。本当にそうですよ」
「お前が傍にいりゃ、年中そんなツラだろ俺は」
「………………」
あくび交じりにそんな言葉だけ置いて、宍戸は。
すう、と眠ってしまった。
「………ちょ……っと……これは……」
ひどいなあ、と鳳は本気で嘆いて。
幸福が甘く胸を攻撃してくるすさまじい衝撃と、ひとり、戦う。
小さな小さな白い花が咲いていて、小さな小さな薄皮の丸い実を生らせている。
まだ薄緑色の実は時期に掠れた茶色に変わる。
「フウセンカズラか」
「………………」
自主トレでよく利用する公園の片隅で、ジャージ姿の乾が視線を流す。
乾の隣で、首にかけたタオルで額の汗を拭っていた海堂は視線を移す。
二人、同じ物を見つめて、それから互いへと目を向けた。
「…………乾先輩?」
目が合うといきなり乾の手が伸びてきて、海堂のこめかみから顎へと伝い落ちる汗を、その指先が捕まえた。
生真面目に海堂の汗で濡れた自身の指先を見つめる乾の表情に、海堂は少し首を傾けて問う。
乾が、花を見つけた時と同じ眼差しで、自身の指先を見つめているからだ。
海堂の汗を、乾の瞳は、優しげに、やわらかに、そして気をとられている目で見つめている。
問いかけにも返答はなく、海堂は複雑に沈黙したまま首にかけていたタオルの端で乾の指先を拭ってしまう。
「ひどいな」
宝物でも奪われたみたいに苦笑いする乾を軽く睨んで、海堂は群生しているフウセンカズラに視線を逃がした。
「種が」
「…うん?」
「これの」
種。
たどたどしい、言葉のうまくない自分から、どうして乾はいつも言葉を引き出すのだろうと海堂は不思議に思った。
「種?」
低い声。
あまり抑揚をつけない、淡々とした物言い。
乾のそんな相槌に、海堂は尚も言葉を返すのだ。
「……ッス。……形、知ってます…?」
「一つの実の中に三つずつ種が入ってるって形は理解してるが……そういう話ではなく?」
「………………」
海堂は、淡く枯れ色に近づいていっている実をひとつ、片手で軽く取り崩した。
それを乗せたままの手のひらを乾に差し出す。
乾の骨ばった手が海堂の手のひらの上に翳され、指先が種を転がす。
「へえ…」
「………………」
「全部になのか?」
一粒一粒に。
フウセンカズラの実にはハートのマークが刻まれている。
黒い種に白いハートだ。
乾の指先が摘まんだ種にも当然のこと。
「これは知らなかったな」
「……俺は花の名前を知らなかった」
海堂が知っていたのは種の模様だけだ。
乾は花の名前だけだと言う。
「海堂」
「………………」
呼ばれて顔を上げるなり。
唇に、キスをされた。
ふいうちの事に目を瞠れば、乾はすぐに離れていって。
「……な……、?」
「お前と居たい」
「…乾先輩?」
「お前が、要る」
「………………」
「そんな事ばかり考えてるんだ。俺は」
静かな声はとても落ち着いて聞こえて、海堂は、乾の言葉を正しいアクセントで受け入れた。
そして、何をそんな当たり前の事、と思った。
居たいのも、要るのも、そんなことは自分こそがだ。
じっと乾を見上げた海堂の後頭部に、乾の手のひらが宛がわれて。
乾の肩口に軽く押さえつけられるようにして、海堂は抱き締められた。
「俺は外側の事しか判らないから」
「………………」
「内側の事を知っている海堂に固執する」
「乾先輩」
海堂の方からも、乾の背中側から回した手で乾の肩を抱き返す。
請うような事を言わなくてもいいのだと、伝わるだろうか。
固執というならば、いっそ自分の方がどれだけ。
「………………」
乾を抱き締めたことで、海堂の手のひらからは三粒の種が零れ落ちていった。
小さな黒い種の、小さな白いハートは、自分達の抱擁でばらけて、口付けで散らばって、そうしてこの場所に、また根付いて花を咲かすだろう。
約束のように。
知っている事が違うというなら。
知らない事が違うというなら。
それがどれほどの安堵であるのか、自分達はちゃんと知っている。
まだ薄緑色の実は時期に掠れた茶色に変わる。
「フウセンカズラか」
「………………」
自主トレでよく利用する公園の片隅で、ジャージ姿の乾が視線を流す。
乾の隣で、首にかけたタオルで額の汗を拭っていた海堂は視線を移す。
二人、同じ物を見つめて、それから互いへと目を向けた。
「…………乾先輩?」
目が合うといきなり乾の手が伸びてきて、海堂のこめかみから顎へと伝い落ちる汗を、その指先が捕まえた。
生真面目に海堂の汗で濡れた自身の指先を見つめる乾の表情に、海堂は少し首を傾けて問う。
乾が、花を見つけた時と同じ眼差しで、自身の指先を見つめているからだ。
海堂の汗を、乾の瞳は、優しげに、やわらかに、そして気をとられている目で見つめている。
問いかけにも返答はなく、海堂は複雑に沈黙したまま首にかけていたタオルの端で乾の指先を拭ってしまう。
「ひどいな」
宝物でも奪われたみたいに苦笑いする乾を軽く睨んで、海堂は群生しているフウセンカズラに視線を逃がした。
「種が」
「…うん?」
「これの」
種。
たどたどしい、言葉のうまくない自分から、どうして乾はいつも言葉を引き出すのだろうと海堂は不思議に思った。
「種?」
低い声。
あまり抑揚をつけない、淡々とした物言い。
乾のそんな相槌に、海堂は尚も言葉を返すのだ。
「……ッス。……形、知ってます…?」
「一つの実の中に三つずつ種が入ってるって形は理解してるが……そういう話ではなく?」
「………………」
海堂は、淡く枯れ色に近づいていっている実をひとつ、片手で軽く取り崩した。
それを乗せたままの手のひらを乾に差し出す。
乾の骨ばった手が海堂の手のひらの上に翳され、指先が種を転がす。
「へえ…」
「………………」
「全部になのか?」
一粒一粒に。
フウセンカズラの実にはハートのマークが刻まれている。
黒い種に白いハートだ。
乾の指先が摘まんだ種にも当然のこと。
「これは知らなかったな」
「……俺は花の名前を知らなかった」
海堂が知っていたのは種の模様だけだ。
乾は花の名前だけだと言う。
「海堂」
「………………」
呼ばれて顔を上げるなり。
唇に、キスをされた。
ふいうちの事に目を瞠れば、乾はすぐに離れていって。
「……な……、?」
「お前と居たい」
「…乾先輩?」
「お前が、要る」
「………………」
「そんな事ばかり考えてるんだ。俺は」
静かな声はとても落ち着いて聞こえて、海堂は、乾の言葉を正しいアクセントで受け入れた。
そして、何をそんな当たり前の事、と思った。
居たいのも、要るのも、そんなことは自分こそがだ。
じっと乾を見上げた海堂の後頭部に、乾の手のひらが宛がわれて。
乾の肩口に軽く押さえつけられるようにして、海堂は抱き締められた。
「俺は外側の事しか判らないから」
「………………」
「内側の事を知っている海堂に固執する」
「乾先輩」
海堂の方からも、乾の背中側から回した手で乾の肩を抱き返す。
請うような事を言わなくてもいいのだと、伝わるだろうか。
固執というならば、いっそ自分の方がどれだけ。
「………………」
乾を抱き締めたことで、海堂の手のひらからは三粒の種が零れ落ちていった。
小さな黒い種の、小さな白いハートは、自分達の抱擁でばらけて、口付けで散らばって、そうしてこの場所に、また根付いて花を咲かすだろう。
約束のように。
知っている事が違うというなら。
知らない事が違うというなら。
それがどれほどの安堵であるのか、自分達はちゃんと知っている。
コートに風の流れは全く無い。
熱気は重く、湿気をたっぷり含み、不快な暑さがたちこめている。
「…あー…?…なんだよ、宍戸のヤツ」
向日が肩口でこめかみを拭いながら忍足のユニフォームの裾を摘まんで軽く引張る。
うん?と背後の向日を振り返った後、宍戸を流し見た忍足は、めずらしぃな、と呟いた。
部活中、コートの外に、宍戸は座り込んでいた。
フェンスに寄りかかるでもなく、やけに中途半端な体勢だ。
「座ってんじゃ、ねー…よ…」
向日の悪態も力ない。
相当この暑さにやられてしまっているのは明白で、忍足は明るい髪の色をした小さな頭にタオルをかけてやりながら改めて宍戸を見やって言う。
「ヤバイんちゃうかな。あれは」
「あ?」
「宍戸。全然汗かいてないやろ。唇カサカサやで。熱中症かもな…」
「こっからで、よく見えんなー…侑士」
「ダテやもん」
「知ってるっつーの」
淡々と話しながら忍足の手は甲斐甲斐しく向日の顔や首筋をタオルで拭っている。
向日はされるに任せていたが、宍戸を見やって、ヤバイじゃんと呟くなり歩き出した。
忍足は微苦笑で向日の後をついていく。
行く先は当然座り込んでいる宍戸の元へだ。
「宍戸」
伸びやかな向日の声にもその背は何も反応しない。
「宍戸ー!」
てめえシカトかよ!と毒づきながらもどこか焦ったように向日の歩調が早まる。
「おい!」
宍戸のすぐ脇で足を止めた向日が怒鳴ると、気だるそうに漸く宍戸は顔を上げた。
目元があからさまに赤く熱を帯びて見えるのに、顔にも手足にも、汗などまるで浮かべていない。
眼差しも普段のきつさがまるでない。
「…おい?」
大丈夫かよ?と向日の口調が思わず弱々しくなった時だ。
三人の三年生がいるその場に現れた鳳が、手にしていたジグボトルの中身を宍戸の頭上にぶちまけた。
飲んでた液体を無造作に宍戸に浴びせかける鳳を、向日は愕然と見上げた。
見上げて、それから。
なんなんだこいつ、と強く目線で訴えた先にいるのは忍足で。
忍足は向日の隣で、喉奥で笑いを転がして肩を震わせる。
「あの…?」
そんな向日と忍足の様子に気づいた鳳が、不思議そうに首を傾げてきた。
「何か…?」
「何か、って、お前…なぁ…」
眉根を寄せて怒鳴るに怒鳴れないといった呆れ顔をする向日の肩に腕を回し、一通り笑いつくしたらしい忍足が俯かせていた顔を上げる。
「水かけんのが一番やな。確かにな」
「侑士?」
「熱中症」
見てみ、と忍足が指差した先に向日が目線を下ろすと。
それまで、普段とは明らかに異なる緩慢とした気配だった宍戸が、短くなった髪を揺らして首を振っていた。
浴びた水が毛先から飛び散る。
生き返った、と向日が愕然と呟き、それを聞いた忍足がまた笑う。
「鳳ぃ…お前…やたらとワイルドな時あるよな…」
「そう…ですか?」
不思議そうに向日を見た鳳だったが、宍戸が頭上を仰ぎ、向日と忍足と鳳とを見上げてきたのに気づき、視線を再び宍戸へ戻す。
宍戸は、掠れた声で鳳の名前を呼んだ。
「はい。宍戸さん」
何ですか?と丁寧に問い返した鳳だけを今度は見上げ、宍戸が軽く口をひらく。
水、とやはり掠れた声で言いながら、舌先を僅かに覗かせ、飲みたいという意思表示を仕草で示す。
しかし、鳳を見つめ、仰のいて唇を開き、あまつさえ舌先すら見せて水を飲みたがる宍戸の所作に鳳は硬直したかのようにかたまった。
「し、……」
「……鳳…」
「不憫な…」
宍戸の名前も呼びきれずにいる鳳に、向日と忍足はこの時ばかりは心底から言ってやる。
普段硬質な印象の強い宍戸が、とろりと緩んだような隙を生むようになったのは、多分にこの年下の男の影響が強い。
でも、だからといって、それら全てを鳳が平然と受け入れたり流したりはとても出来ないでいるようだ。
「俺達は退散してやるぜ。後は適当に自力で頑張れな」
「ちょ、…向日先輩、待、」
「鍛錬やで。鳳」
きばりや、と言って忍足は、鳳が思わず泣きつこうとしていた相手を自らの腕に囲いこみその場を後にする。
「宍戸やべーな。あれ。無駄にエロかった…」
「それ以上言うたら、ヤキモチやくで…?」
だいたいそんなの岳人のが、と言いかけた所で。
忍足はスナップのきいた手首の動きで向日に頭を叩かれる。
じゃれあって、騒いで、離れていく。
そんな上級生達の姿を、残された鳳には、気にする余裕など到底無かった。
汗で濡れていく毎、艶やかに、息をふきかえされるような様。
それは寝具のある場で、鳳の目に繰り返し映ってきたものであったのだが、こんな部活中のテニスコートで見せられたらひとたまりもなかった。
翌日も宍戸は朝からだるそうにしていた。
しかしそれは前日の熱中症の名残などではない。
「長太郎。お前、いい加減そうやってチラチラこっち見て気にすんのヤメロ」
「…そう言われましても」
通学路を肩を並べて歩く。
呆れ顔の宍戸に、鳳は神妙だ。
一見したところ不機嫌そうな宍戸だったが、肩を落としている鳳の様子に仕方ねえなと苦笑いして気配を緩めてくる。
「こっちの気分はいいんだから、水さすんじゃねーよ」
「宍戸さん…」
鳳の無茶を、宍戸は諾々と、寧ろ好ましいように受け入れるのだ。
互いの視線が絡み、第三者が非常に割り込み辛い気配を漂わせている中、果敢にもそこに割って入ってきた男が、穏やかな声で言葉をかけてくる。
「おはよう。宍戸、鳳」
「おう」
「滝先輩。おはようございます」
「でね…さっそくなんだけど」
困ったような笑みを浮かべている滝に、鳳と宍戸は顔を見合わせた。
そして、個々に滝を見やって尋ねる。
「さっそく…というのは…?」
「何だよ滝」
「…あのね。鳳」
「……はい?」
「逃げろとは言わないけど…うまいこと今日は……ううん、暫く、隠れてた方がいいよ」
何の話だよと宍戸が怪訝に問えば、滝は長い髪を右手で右耳にかけながら曖昧に笑みを浮かべた。
「ん、……跡部が…怒り狂ってるから…」
「跡部?」
跡部が何だよと、憮然と宍戸が口にすると、滝はふんわりと苦笑いした。
「鳳が、飲んでた水を宍戸にぶっかけたって聞いたらしくて。昨日のこと」
「………………」
「それが何だよ」
滝の言葉で粗方察した鳳が複雑に焦る中、宍戸だけは訳が判らないという顔をしていた。
そんな二人を交互に見やりながら、ごめんねと滝は溜息をつく。
「跡部って、時々激情しちゃって手がつけられなくなるんだよね…」
説明しようとしたんだけど、と続けた滝の様子で、鳳はだいたいの事を理解してしまった。
恐らく跡部の怒りの矛先は正しく自分であることも悟った。
宍戸はさっぱり意味が判らないようで、そういう当人同士が意識していない跡部と宍戸の繋がりが、鳳には少し苦い。
宍戸に知られたら間違いなく一喝される考え方だ。
「滝で駄目なら仕方ないって」
「ジローは全く興味ないみたいやで」
「うわ、ひでー!」
突如話に加わってきた忍足と向日が賑やかしに笑う隙、滝は鳳にこっそり告げた。
「跡部、神尾君と喧嘩してるらしくてね」
「……はあ…」
それは、と明言する事を濁した鳳を、忍足と向日が両脇から肩に手を回しアドバイスとも冷やかしともつかぬ事を囁いてきた。
「また喧嘩かいって感じやけどな。別に、ちぃともめずらしくないけどな」
「ま、そういうわけだから、鳳、お前、自分で自分の身は守れよ。それか宍戸に守ってもらえ」
「宍戸を盾にすれば、跡部も多少は攻撃の手をゆるめるやろ」
「しませんよそんなこと!」
「何騒いでんだ、お前ら…」
不機嫌そうに仲間たちの織り成す喧騒を眺めながら、それでも宍戸は、鳳の表情を見て、そっけないような言葉と心底心配そうなまなざしとを向けるのだ。
「どうしたよ…? 長太郎。妙な顔して」
「いいえ…」
大丈夫です、と鳳は宍戸に笑いかけた。
行きましょう?と言いながら、薄い宍戸の背を軽く手のひらで促し歩き出す。
背後から、頑張れよと何だか適当な応援を受けながら、鳳は跡部の顔を思い浮かべて決意の笑みを唇に刻む。
大事にしない訳が、ないだろう。
こんなに特別な、この人のこと。
そう告げれば絶対、そんな事は判っていると、あの秀麗な顔を歪めて吐き捨てるであろう跡部の表情は、鳳の予測にもひどくリアルなものだった。
熱気は重く、湿気をたっぷり含み、不快な暑さがたちこめている。
「…あー…?…なんだよ、宍戸のヤツ」
向日が肩口でこめかみを拭いながら忍足のユニフォームの裾を摘まんで軽く引張る。
うん?と背後の向日を振り返った後、宍戸を流し見た忍足は、めずらしぃな、と呟いた。
部活中、コートの外に、宍戸は座り込んでいた。
フェンスに寄りかかるでもなく、やけに中途半端な体勢だ。
「座ってんじゃ、ねー…よ…」
向日の悪態も力ない。
相当この暑さにやられてしまっているのは明白で、忍足は明るい髪の色をした小さな頭にタオルをかけてやりながら改めて宍戸を見やって言う。
「ヤバイんちゃうかな。あれは」
「あ?」
「宍戸。全然汗かいてないやろ。唇カサカサやで。熱中症かもな…」
「こっからで、よく見えんなー…侑士」
「ダテやもん」
「知ってるっつーの」
淡々と話しながら忍足の手は甲斐甲斐しく向日の顔や首筋をタオルで拭っている。
向日はされるに任せていたが、宍戸を見やって、ヤバイじゃんと呟くなり歩き出した。
忍足は微苦笑で向日の後をついていく。
行く先は当然座り込んでいる宍戸の元へだ。
「宍戸」
伸びやかな向日の声にもその背は何も反応しない。
「宍戸ー!」
てめえシカトかよ!と毒づきながらもどこか焦ったように向日の歩調が早まる。
「おい!」
宍戸のすぐ脇で足を止めた向日が怒鳴ると、気だるそうに漸く宍戸は顔を上げた。
目元があからさまに赤く熱を帯びて見えるのに、顔にも手足にも、汗などまるで浮かべていない。
眼差しも普段のきつさがまるでない。
「…おい?」
大丈夫かよ?と向日の口調が思わず弱々しくなった時だ。
三人の三年生がいるその場に現れた鳳が、手にしていたジグボトルの中身を宍戸の頭上にぶちまけた。
飲んでた液体を無造作に宍戸に浴びせかける鳳を、向日は愕然と見上げた。
見上げて、それから。
なんなんだこいつ、と強く目線で訴えた先にいるのは忍足で。
忍足は向日の隣で、喉奥で笑いを転がして肩を震わせる。
「あの…?」
そんな向日と忍足の様子に気づいた鳳が、不思議そうに首を傾げてきた。
「何か…?」
「何か、って、お前…なぁ…」
眉根を寄せて怒鳴るに怒鳴れないといった呆れ顔をする向日の肩に腕を回し、一通り笑いつくしたらしい忍足が俯かせていた顔を上げる。
「水かけんのが一番やな。確かにな」
「侑士?」
「熱中症」
見てみ、と忍足が指差した先に向日が目線を下ろすと。
それまで、普段とは明らかに異なる緩慢とした気配だった宍戸が、短くなった髪を揺らして首を振っていた。
浴びた水が毛先から飛び散る。
生き返った、と向日が愕然と呟き、それを聞いた忍足がまた笑う。
「鳳ぃ…お前…やたらとワイルドな時あるよな…」
「そう…ですか?」
不思議そうに向日を見た鳳だったが、宍戸が頭上を仰ぎ、向日と忍足と鳳とを見上げてきたのに気づき、視線を再び宍戸へ戻す。
宍戸は、掠れた声で鳳の名前を呼んだ。
「はい。宍戸さん」
何ですか?と丁寧に問い返した鳳だけを今度は見上げ、宍戸が軽く口をひらく。
水、とやはり掠れた声で言いながら、舌先を僅かに覗かせ、飲みたいという意思表示を仕草で示す。
しかし、鳳を見つめ、仰のいて唇を開き、あまつさえ舌先すら見せて水を飲みたがる宍戸の所作に鳳は硬直したかのようにかたまった。
「し、……」
「……鳳…」
「不憫な…」
宍戸の名前も呼びきれずにいる鳳に、向日と忍足はこの時ばかりは心底から言ってやる。
普段硬質な印象の強い宍戸が、とろりと緩んだような隙を生むようになったのは、多分にこの年下の男の影響が強い。
でも、だからといって、それら全てを鳳が平然と受け入れたり流したりはとても出来ないでいるようだ。
「俺達は退散してやるぜ。後は適当に自力で頑張れな」
「ちょ、…向日先輩、待、」
「鍛錬やで。鳳」
きばりや、と言って忍足は、鳳が思わず泣きつこうとしていた相手を自らの腕に囲いこみその場を後にする。
「宍戸やべーな。あれ。無駄にエロかった…」
「それ以上言うたら、ヤキモチやくで…?」
だいたいそんなの岳人のが、と言いかけた所で。
忍足はスナップのきいた手首の動きで向日に頭を叩かれる。
じゃれあって、騒いで、離れていく。
そんな上級生達の姿を、残された鳳には、気にする余裕など到底無かった。
汗で濡れていく毎、艶やかに、息をふきかえされるような様。
それは寝具のある場で、鳳の目に繰り返し映ってきたものであったのだが、こんな部活中のテニスコートで見せられたらひとたまりもなかった。
翌日も宍戸は朝からだるそうにしていた。
しかしそれは前日の熱中症の名残などではない。
「長太郎。お前、いい加減そうやってチラチラこっち見て気にすんのヤメロ」
「…そう言われましても」
通学路を肩を並べて歩く。
呆れ顔の宍戸に、鳳は神妙だ。
一見したところ不機嫌そうな宍戸だったが、肩を落としている鳳の様子に仕方ねえなと苦笑いして気配を緩めてくる。
「こっちの気分はいいんだから、水さすんじゃねーよ」
「宍戸さん…」
鳳の無茶を、宍戸は諾々と、寧ろ好ましいように受け入れるのだ。
互いの視線が絡み、第三者が非常に割り込み辛い気配を漂わせている中、果敢にもそこに割って入ってきた男が、穏やかな声で言葉をかけてくる。
「おはよう。宍戸、鳳」
「おう」
「滝先輩。おはようございます」
「でね…さっそくなんだけど」
困ったような笑みを浮かべている滝に、鳳と宍戸は顔を見合わせた。
そして、個々に滝を見やって尋ねる。
「さっそく…というのは…?」
「何だよ滝」
「…あのね。鳳」
「……はい?」
「逃げろとは言わないけど…うまいこと今日は……ううん、暫く、隠れてた方がいいよ」
何の話だよと宍戸が怪訝に問えば、滝は長い髪を右手で右耳にかけながら曖昧に笑みを浮かべた。
「ん、……跡部が…怒り狂ってるから…」
「跡部?」
跡部が何だよと、憮然と宍戸が口にすると、滝はふんわりと苦笑いした。
「鳳が、飲んでた水を宍戸にぶっかけたって聞いたらしくて。昨日のこと」
「………………」
「それが何だよ」
滝の言葉で粗方察した鳳が複雑に焦る中、宍戸だけは訳が判らないという顔をしていた。
そんな二人を交互に見やりながら、ごめんねと滝は溜息をつく。
「跡部って、時々激情しちゃって手がつけられなくなるんだよね…」
説明しようとしたんだけど、と続けた滝の様子で、鳳はだいたいの事を理解してしまった。
恐らく跡部の怒りの矛先は正しく自分であることも悟った。
宍戸はさっぱり意味が判らないようで、そういう当人同士が意識していない跡部と宍戸の繋がりが、鳳には少し苦い。
宍戸に知られたら間違いなく一喝される考え方だ。
「滝で駄目なら仕方ないって」
「ジローは全く興味ないみたいやで」
「うわ、ひでー!」
突如話に加わってきた忍足と向日が賑やかしに笑う隙、滝は鳳にこっそり告げた。
「跡部、神尾君と喧嘩してるらしくてね」
「……はあ…」
それは、と明言する事を濁した鳳を、忍足と向日が両脇から肩に手を回しアドバイスとも冷やかしともつかぬ事を囁いてきた。
「また喧嘩かいって感じやけどな。別に、ちぃともめずらしくないけどな」
「ま、そういうわけだから、鳳、お前、自分で自分の身は守れよ。それか宍戸に守ってもらえ」
「宍戸を盾にすれば、跡部も多少は攻撃の手をゆるめるやろ」
「しませんよそんなこと!」
「何騒いでんだ、お前ら…」
不機嫌そうに仲間たちの織り成す喧騒を眺めながら、それでも宍戸は、鳳の表情を見て、そっけないような言葉と心底心配そうなまなざしとを向けるのだ。
「どうしたよ…? 長太郎。妙な顔して」
「いいえ…」
大丈夫です、と鳳は宍戸に笑いかけた。
行きましょう?と言いながら、薄い宍戸の背を軽く手のひらで促し歩き出す。
背後から、頑張れよと何だか適当な応援を受けながら、鳳は跡部の顔を思い浮かべて決意の笑みを唇に刻む。
大事にしない訳が、ないだろう。
こんなに特別な、この人のこと。
そう告げれば絶対、そんな事は判っていると、あの秀麗な顔を歪めて吐き捨てるであろう跡部の表情は、鳳の予測にもひどくリアルなものだった。
丁寧なキスがゆっくりと離れていく。
神尾が目を閉じたまま小さく息をつこうとすると、不意打ちに跡部から再びのキスされて、思わず目を見開き至近距離から目線が合ってしまう。
「何が欲しい」
「……え……?…」
一言の、前と後とに。
跡部は尚も軽く神尾の唇を掠った。
神尾には、跡部の声は、抑揚がないのに、甘い音に聞こえる。
「…なに…?」
「それは俺が聞いてる」
きつい目を細めて、また端的に跡部は言った。
冷たい表情と見る人は多いと思う。
でも今の神尾にはそうは思えなくて、微かに笑んだ。
その唇を跡部がまた塞ぐ。
丁寧に。
「ン…、……」
「誕生日だろうが。何が欲しいんだ」
「……俺…の…?」
お前以外に誰がいると不機嫌に首筋を食まれて神尾は跡部の後頭部を両手で抱きかかえるようにしながら笑った。
少し不機嫌で、少し不本意で、少し焦れていて、少し拗ねているような跡部を抱き締めて、神尾はすぐに答える。
「いらない」
何もいらない、と神尾がきっぱり言うと、跡部は神尾の両手首を手のひらに包んで壁に押し付けてきた。
憮然と、そしてどこか困ったような顔をしている跡部が近づいてくる。
丁寧なキスは、丁寧すぎてどんどん深くなる。
舌を舌で弄られて、神尾は小さく喉声を漏らした。
目を閉じても、神尾は跡部の事を考えている。
跡部は神尾が何も欲しがらない時、いつもああいう顔をする。
物でも、行動でも、望まれないと不安にでも駆られるのか、乱暴な困惑を露にしてくる。
こういう時の跡部の不機嫌は、決して嫌ではなかった。
痛む手首ときついキスとに撒かれながら、神尾は、どういう風に言ったらきちんと跡部に伝わるかな、と考える。
止まないようなキスのさなかに何度も何度も考えた。
「…あと…べ……跡…、…部」
聞いて、と念じてキスされながら神尾が跡部の名前を呼ぶと、舌がもつれるような小声でも跡部は正しく拾ってくれる。
拘束の手首はそのままだったけれど、神尾は跡部を見上げて、濡れた唇に微かな笑みを浮かべた。
「新しくは、いらない」
「………………」
「誕生日…、…俺…新しいものは何もいらないから」
とらないでくれたらいいよ、と神尾は小さく呟いた。
何をだ、と跡部が顔を近づけてくるから、困ったけれど。
とても、とても困ったけれど。
赤くなる頬を自覚しながら、それでも。
じっと跡部を見据えて言葉にする。
「跡部が……俺から、跡部を、とらないでくれたら…それだけでいい…よ…」
「お前……誰にそれ言ってんだ」
「……だから跡部に言ってんの」
プレゼントはそういうのがいい、と。
続けるや否や。
神尾の羞恥心など慮る事などまるでしない跡部が神尾の唇を塞ぐ。
身体を弄る。
「ぇ…、……ちょ…っ……、と、…跡部…?……跡部?」
「お前みたいな馬鹿、見たことねえ」
苛立った鋭い語気で罵られて。
甘ったるい抱擁とがっつくキスに縛られて。
神尾は思う。
くれるのか。
くれないのか。
跡部は、神尾が欲しいプレゼントを。
どうしても神尾は聞いてみたい事なのに、どうしても跡部は言わせてくれないようだった。
神尾が目を閉じたまま小さく息をつこうとすると、不意打ちに跡部から再びのキスされて、思わず目を見開き至近距離から目線が合ってしまう。
「何が欲しい」
「……え……?…」
一言の、前と後とに。
跡部は尚も軽く神尾の唇を掠った。
神尾には、跡部の声は、抑揚がないのに、甘い音に聞こえる。
「…なに…?」
「それは俺が聞いてる」
きつい目を細めて、また端的に跡部は言った。
冷たい表情と見る人は多いと思う。
でも今の神尾にはそうは思えなくて、微かに笑んだ。
その唇を跡部がまた塞ぐ。
丁寧に。
「ン…、……」
「誕生日だろうが。何が欲しいんだ」
「……俺…の…?」
お前以外に誰がいると不機嫌に首筋を食まれて神尾は跡部の後頭部を両手で抱きかかえるようにしながら笑った。
少し不機嫌で、少し不本意で、少し焦れていて、少し拗ねているような跡部を抱き締めて、神尾はすぐに答える。
「いらない」
何もいらない、と神尾がきっぱり言うと、跡部は神尾の両手首を手のひらに包んで壁に押し付けてきた。
憮然と、そしてどこか困ったような顔をしている跡部が近づいてくる。
丁寧なキスは、丁寧すぎてどんどん深くなる。
舌を舌で弄られて、神尾は小さく喉声を漏らした。
目を閉じても、神尾は跡部の事を考えている。
跡部は神尾が何も欲しがらない時、いつもああいう顔をする。
物でも、行動でも、望まれないと不安にでも駆られるのか、乱暴な困惑を露にしてくる。
こういう時の跡部の不機嫌は、決して嫌ではなかった。
痛む手首ときついキスとに撒かれながら、神尾は、どういう風に言ったらきちんと跡部に伝わるかな、と考える。
止まないようなキスのさなかに何度も何度も考えた。
「…あと…べ……跡…、…部」
聞いて、と念じてキスされながら神尾が跡部の名前を呼ぶと、舌がもつれるような小声でも跡部は正しく拾ってくれる。
拘束の手首はそのままだったけれど、神尾は跡部を見上げて、濡れた唇に微かな笑みを浮かべた。
「新しくは、いらない」
「………………」
「誕生日…、…俺…新しいものは何もいらないから」
とらないでくれたらいいよ、と神尾は小さく呟いた。
何をだ、と跡部が顔を近づけてくるから、困ったけれど。
とても、とても困ったけれど。
赤くなる頬を自覚しながら、それでも。
じっと跡部を見据えて言葉にする。
「跡部が……俺から、跡部を、とらないでくれたら…それだけでいい…よ…」
「お前……誰にそれ言ってんだ」
「……だから跡部に言ってんの」
プレゼントはそういうのがいい、と。
続けるや否や。
神尾の羞恥心など慮る事などまるでしない跡部が神尾の唇を塞ぐ。
身体を弄る。
「ぇ…、……ちょ…っ……、と、…跡部…?……跡部?」
「お前みたいな馬鹿、見たことねえ」
苛立った鋭い語気で罵られて。
甘ったるい抱擁とがっつくキスに縛られて。
神尾は思う。
くれるのか。
くれないのか。
跡部は、神尾が欲しいプレゼントを。
どうしても神尾は聞いてみたい事なのに、どうしても跡部は言わせてくれないようだった。
置いてあるのではない。
忘れられているのだ。
海堂は溜息をつく。
「乾先輩」
ノート、と困惑気味にそれを差し出し海堂が告げると、部室から出ようとしていた乾は足を止めて振り返り、唇に苦笑を刻んだ。
「それ忘れるようじゃ、どうかしてるな」
「…そうは言ってねえ」
「ありがとう。海堂」
「………………」
収集しているデータを書きつけたノートを、乾がどこかに置き忘れて帰るなど通常ではありえない。
海堂は困ったような苛立つような気分になった。
「ん…? 大丈夫だよ。疲れてるわけじゃないから」
海堂の手からノートを受け取って、乾はそっと囁いた。
薄く笑んでいる乾の表情を間近から見上げて、海堂は再び溜息混じりに乾と共に部室を出て、カギを閉める。
今日も部室を出るのは自分達が最後だ。
大石から預っている鍵を制服のポケットに入れて、海堂は乾の隣を歩いた。
「乾先輩」
「何だ?」
「今度の試合…立海のD2、どう予測してるんすか」
「蓮二と切原」
なめらかな低音は気負い無く、しかし断言した。
海堂がちらりと伺ってみても、乾の表情に変化はない。
「どうした…? 海堂」
「………………」
寧ろ海堂の視線に気づいて乾は表情を動かした。
「シングルスじゃなく…」
「うん?」
ダブルスで、と海堂が言った所で。
ああ、と乾は全てを理解した顔で頷いた。
「何か俺が、ものすごく考え込んでると…海堂は思ってる?」
「…別に」
そんなんじゃなねえ、と海堂は、自身でも歯切れの悪い事を自覚しつつ呻いた。
ただ。
海堂は、乾が紛れもないシングルスプレイヤーだということを知っている。
立海の柳とダブルスを組んでいた乾が、どういう経緯でそのコンビを解消したのかも聞いている。
その人もまた、乾がシングルスプレイヤーである事を確信していて、それ故に黙って姿を消したのなら。
再び互いが対戦する場がダブルスの試合であるという事は、柳にとっても乾にとってもどれだけの意味を持つ事になるのか。
その場で乾とダブルスを組んでいる相手が自分であるという事が、どういう事であるのか。
海堂は、ふと、途方にくれる気持ちになったのだ。
「………………」
暗い道を、肩を並べて歩く自分達が、ダブルスであるという事が。
今更ながらに重い焦燥感を海堂に知らしめる。
次の試合で、自分達がダブルスであるという事が決まってから。
短い期間ながらもこれまで以上に二人でいる時間が増えた中で、例えば今のように、何よりも大切なデータ帳を置き忘れる乾の様子などを目の当たりにすれば尚更だ。
しかし、それ故に、そういう考え事に捕らわれかけていた海堂は、いきなり乾に手を握られてひどく驚いた。
「な、……」
「努力するっていう事を、教えてくれたよ。お前の手が」
「………………」
「頑張るっていう事を、俺は海堂を見ていて、初めてちゃんと理解したんだ」
自分のかたい手のひらを、もっとかたい乾の手のひらが擦るようにしてくるのを海堂は見開いた目で見下ろした。
「言葉自体が、どこかありきたりすぎて、俺はよく判ってなかった。頑張るとか、努力するとか」
乾は微笑んでいるようだった。
声がやわらかかった。
海堂は伏せた目線を上げられなかったけれど、それが判った。
「俺の言葉やデータで、動く海堂を見ていて。強くなっていくのを見ていて。俺は初めて自分を省みられた気がしたんだ」
「乾先輩…?」
「正直、誰かとダブルスを組む事はもうないだろうと思ったりもしてた」
「………………」
「お前だけだ。どうにかしてでもって、ダブルスに固執したのはな」
握られている手に力がこもり、海堂は顔を上げた。
乾は海堂を見ていた。
「俺はお前の事を、何だか見せびらかしたいような気分なんだ」
笑って言うその表情は明るかった。
乾は楽しげにそう告げて、海堂の手を離し、代わりに軽く肩を抱いてきた。
「蓮二とダブルスで試合をするなら尚更だ」
勝ちたいんだと笑いながらも強く乾が言う。
海堂は唇に微かな笑みを浮かべ、言いようのない感情に、目を伏せる。
「…勝ちたいとか言うな」
「海堂」
「絶対に勝つ」
一瞬だけ、微かにだけ。
海堂は乾の腕に身体を預けた。
それから乾の腕からするりと抜け出した。
「走って帰るっス」
「おいおい…」
オーバーワーク、と呟く乾の口調と、どこか名残惜しげに宙に浮いた手の動きがおかしくて、海堂は笑みを浮かべながら背を向けた。
振り返りながらも流し見た乾が、すっきりとした目で苦笑いしているので、海堂は遠慮なく全力で走り出した。
勝ちたい、でもない。
勝とう、でもない。
勝つ、のだから。
忘れられているのだ。
海堂は溜息をつく。
「乾先輩」
ノート、と困惑気味にそれを差し出し海堂が告げると、部室から出ようとしていた乾は足を止めて振り返り、唇に苦笑を刻んだ。
「それ忘れるようじゃ、どうかしてるな」
「…そうは言ってねえ」
「ありがとう。海堂」
「………………」
収集しているデータを書きつけたノートを、乾がどこかに置き忘れて帰るなど通常ではありえない。
海堂は困ったような苛立つような気分になった。
「ん…? 大丈夫だよ。疲れてるわけじゃないから」
海堂の手からノートを受け取って、乾はそっと囁いた。
薄く笑んでいる乾の表情を間近から見上げて、海堂は再び溜息混じりに乾と共に部室を出て、カギを閉める。
今日も部室を出るのは自分達が最後だ。
大石から預っている鍵を制服のポケットに入れて、海堂は乾の隣を歩いた。
「乾先輩」
「何だ?」
「今度の試合…立海のD2、どう予測してるんすか」
「蓮二と切原」
なめらかな低音は気負い無く、しかし断言した。
海堂がちらりと伺ってみても、乾の表情に変化はない。
「どうした…? 海堂」
「………………」
寧ろ海堂の視線に気づいて乾は表情を動かした。
「シングルスじゃなく…」
「うん?」
ダブルスで、と海堂が言った所で。
ああ、と乾は全てを理解した顔で頷いた。
「何か俺が、ものすごく考え込んでると…海堂は思ってる?」
「…別に」
そんなんじゃなねえ、と海堂は、自身でも歯切れの悪い事を自覚しつつ呻いた。
ただ。
海堂は、乾が紛れもないシングルスプレイヤーだということを知っている。
立海の柳とダブルスを組んでいた乾が、どういう経緯でそのコンビを解消したのかも聞いている。
その人もまた、乾がシングルスプレイヤーである事を確信していて、それ故に黙って姿を消したのなら。
再び互いが対戦する場がダブルスの試合であるという事は、柳にとっても乾にとってもどれだけの意味を持つ事になるのか。
その場で乾とダブルスを組んでいる相手が自分であるという事が、どういう事であるのか。
海堂は、ふと、途方にくれる気持ちになったのだ。
「………………」
暗い道を、肩を並べて歩く自分達が、ダブルスであるという事が。
今更ながらに重い焦燥感を海堂に知らしめる。
次の試合で、自分達がダブルスであるという事が決まってから。
短い期間ながらもこれまで以上に二人でいる時間が増えた中で、例えば今のように、何よりも大切なデータ帳を置き忘れる乾の様子などを目の当たりにすれば尚更だ。
しかし、それ故に、そういう考え事に捕らわれかけていた海堂は、いきなり乾に手を握られてひどく驚いた。
「な、……」
「努力するっていう事を、教えてくれたよ。お前の手が」
「………………」
「頑張るっていう事を、俺は海堂を見ていて、初めてちゃんと理解したんだ」
自分のかたい手のひらを、もっとかたい乾の手のひらが擦るようにしてくるのを海堂は見開いた目で見下ろした。
「言葉自体が、どこかありきたりすぎて、俺はよく判ってなかった。頑張るとか、努力するとか」
乾は微笑んでいるようだった。
声がやわらかかった。
海堂は伏せた目線を上げられなかったけれど、それが判った。
「俺の言葉やデータで、動く海堂を見ていて。強くなっていくのを見ていて。俺は初めて自分を省みられた気がしたんだ」
「乾先輩…?」
「正直、誰かとダブルスを組む事はもうないだろうと思ったりもしてた」
「………………」
「お前だけだ。どうにかしてでもって、ダブルスに固執したのはな」
握られている手に力がこもり、海堂は顔を上げた。
乾は海堂を見ていた。
「俺はお前の事を、何だか見せびらかしたいような気分なんだ」
笑って言うその表情は明るかった。
乾は楽しげにそう告げて、海堂の手を離し、代わりに軽く肩を抱いてきた。
「蓮二とダブルスで試合をするなら尚更だ」
勝ちたいんだと笑いながらも強く乾が言う。
海堂は唇に微かな笑みを浮かべ、言いようのない感情に、目を伏せる。
「…勝ちたいとか言うな」
「海堂」
「絶対に勝つ」
一瞬だけ、微かにだけ。
海堂は乾の腕に身体を預けた。
それから乾の腕からするりと抜け出した。
「走って帰るっス」
「おいおい…」
オーバーワーク、と呟く乾の口調と、どこか名残惜しげに宙に浮いた手の動きがおかしくて、海堂は笑みを浮かべながら背を向けた。
振り返りながらも流し見た乾が、すっきりとした目で苦笑いしているので、海堂は遠慮なく全力で走り出した。
勝ちたい、でもない。
勝とう、でもない。
勝つ、のだから。
跡部の家の庭には噴水がある。
西洋式の言わずもがなゴージャス極まりない代物だ。
どこか美術館とか公園だとかにあってしかるべきだろうという、桁違いに大掛かりな噴水。
日も暮れて、薄闇の中、神尾は跡部と共にそこににいる。
「うわ…」
吹き上げる水力がいきなり強くなった。
中央の水飛沫が、夜空に高く高く突き上げていく。
神尾は見上げて、思わず声を上げた。
それと同時に、すぐさま後ろ髪を掴まれもした。
跡部に。
乱暴に。
「……っ…、て…! 痛い、って、跡部…!」
結構本気の力だ。
横暴な仕草に神尾が抗議を口にしたのも束の間。
跡部は低い声で吐き捨ててきた。
「なに余所見してやがる。神尾の分際で」
「あーっ、何だよその言い方!」
「うるせえ」
綺麗な顔を露骨に不機嫌に歪ませて、跡部は神尾の髪を手に握りこんだまま、きつく神尾に口付けてきた。
有無も言わせず。
ただきつく。
つよく、ふかく。
「…っ、…ぅ、」
今し方。
唇と唇が触れる寸前に、噴水に気をとられてしまったのは確かに神尾だったが。
その事を咎める以上のやり方で卑猥に口付けられてしまって、神尾は身体から芯がなくなっていく不安定さで、跡部からのがっつくようなキスを受けとめる。
跡部が怒る理由も判らなくはなかったが、でも。
ここまで怒んなくてもいいじゃん、と神尾は思った。
しかも、その濃密なキスに、もう充分追い詰められていたのに。
更にあからさまに舌と舌とを絡められ、濡れた粘膜を啜られた時にはもう、神尾は涙目になっていた。
「……、…、ャ…」
離れた唇から、濡れたものが零れる。
喉まで伝っていく。
跡部はその流れを追って、舌先を神尾の肌の上で動かした。
「……ふ……、…」
神尾は軽く仰け反って、跡部の肩口のシャツを両手で握りこむ。
跡部はすぐに戻ってきた。
「てめえが余所見なんざするからだ」
辛辣に咎めた割には、跡部の手は不意に優しくなった。
神尾の髪を掴み締めるのを止めて、神尾の後頭部をゆるく撫で付けてくるように動いた。
強引に塞がれていた唇を、一度、やわらかく塞ぎなおした後。
跡部の唇は、神尾の下唇と上唇を順に含んでくる。
唇を啄ばまれて、結局神尾はくたくたと跡部の胸元に顔を埋めた。
噴水の縁に腰掛けている自分達。
こんなにも近くにある水の音が、とても遠くの方から聞こえてくるようだった。
「噴水……見ただけなのに…よぅ…」
焚きつけられて。
煽られて。
どうしたらいいのだ。
こんなで。
「………………」
神尾の半泣きの抗議を、跡部はいかにも機嫌良さそうに聞いている。
「構いやしねえだろ」
お前に欲しがらせんのは俺の趣味だ、と耳元でとんでもなくいやらしい声が告げてくる。
神尾は真っ赤になって唸った。
「そういうこと言うなっ」
「ああ? 何が不満だ」
「…、言うなっ、ばかっ」
神尾がどう怒鳴ろうとも、跡部は薄笑いで神尾の身体を手のひらで撫で、耳の縁に口付けて、頬を寄せてくる。
全身で、手加減無く、そそのかしてくる跡部に。
神尾は乱れてしまいそうな息を噛み殺しながら、跡部にしがみつき、抗議する。
「欲しがれよ。もっと」
「…っ、だ…から…そういうこと言うなってば!」
「いいじゃねえか。俺が手に入るんなら」
「自分で言うかそういう事っ」
「てめえが一向に言わねえから俺が言ってやってんだよ」
欲しがれ、と跡部は神尾に何度も告げる。
今だけでなく、今までも幾度となく、そう告げてきた。
足りない、足りない、とまるで訴えているかのように何度も。
跡部がどうしてそうも貪欲に自分から引き出したがるのか、神尾には不思議でならなかったのだけれど。
「……俺が、跡部の事どう好きかなんて…全部知ってるくせによぅ…」
言わせんなよなあと眉尻を下げる神尾を、跡部はしなやかな腕できつく抱き込んでくる。
「知らねえな」
「………………」
「俺は知らない」
笑っているのに、熱っぽい声で。
ぞんざいな言い方なのに、まるで切に祈るように。
跡部は言うのだ。
「俺を欲しがれよ」
「……もっと…?」
「もっと。…ずっとな」
どうしようもないようなキスで縛られる。
夜の噴水の、淡い水飛沫が身体に当たる。
降ってくるものを身に浴びて、抱き締めあって、外から濡れて、口付けあって、中からも濡れて。
もっと、も。
ずっと、も。
叶えるよ、と神尾は思う。
望む跡部の背中に回す手に力を込めると、何かにひどく枯渇している男が、やわらかに吐息したのが判って、神尾はほっとした。
西洋式の言わずもがなゴージャス極まりない代物だ。
どこか美術館とか公園だとかにあってしかるべきだろうという、桁違いに大掛かりな噴水。
日も暮れて、薄闇の中、神尾は跡部と共にそこににいる。
「うわ…」
吹き上げる水力がいきなり強くなった。
中央の水飛沫が、夜空に高く高く突き上げていく。
神尾は見上げて、思わず声を上げた。
それと同時に、すぐさま後ろ髪を掴まれもした。
跡部に。
乱暴に。
「……っ…、て…! 痛い、って、跡部…!」
結構本気の力だ。
横暴な仕草に神尾が抗議を口にしたのも束の間。
跡部は低い声で吐き捨ててきた。
「なに余所見してやがる。神尾の分際で」
「あーっ、何だよその言い方!」
「うるせえ」
綺麗な顔を露骨に不機嫌に歪ませて、跡部は神尾の髪を手に握りこんだまま、きつく神尾に口付けてきた。
有無も言わせず。
ただきつく。
つよく、ふかく。
「…っ、…ぅ、」
今し方。
唇と唇が触れる寸前に、噴水に気をとられてしまったのは確かに神尾だったが。
その事を咎める以上のやり方で卑猥に口付けられてしまって、神尾は身体から芯がなくなっていく不安定さで、跡部からのがっつくようなキスを受けとめる。
跡部が怒る理由も判らなくはなかったが、でも。
ここまで怒んなくてもいいじゃん、と神尾は思った。
しかも、その濃密なキスに、もう充分追い詰められていたのに。
更にあからさまに舌と舌とを絡められ、濡れた粘膜を啜られた時にはもう、神尾は涙目になっていた。
「……、…、ャ…」
離れた唇から、濡れたものが零れる。
喉まで伝っていく。
跡部はその流れを追って、舌先を神尾の肌の上で動かした。
「……ふ……、…」
神尾は軽く仰け反って、跡部の肩口のシャツを両手で握りこむ。
跡部はすぐに戻ってきた。
「てめえが余所見なんざするからだ」
辛辣に咎めた割には、跡部の手は不意に優しくなった。
神尾の髪を掴み締めるのを止めて、神尾の後頭部をゆるく撫で付けてくるように動いた。
強引に塞がれていた唇を、一度、やわらかく塞ぎなおした後。
跡部の唇は、神尾の下唇と上唇を順に含んでくる。
唇を啄ばまれて、結局神尾はくたくたと跡部の胸元に顔を埋めた。
噴水の縁に腰掛けている自分達。
こんなにも近くにある水の音が、とても遠くの方から聞こえてくるようだった。
「噴水……見ただけなのに…よぅ…」
焚きつけられて。
煽られて。
どうしたらいいのだ。
こんなで。
「………………」
神尾の半泣きの抗議を、跡部はいかにも機嫌良さそうに聞いている。
「構いやしねえだろ」
お前に欲しがらせんのは俺の趣味だ、と耳元でとんでもなくいやらしい声が告げてくる。
神尾は真っ赤になって唸った。
「そういうこと言うなっ」
「ああ? 何が不満だ」
「…、言うなっ、ばかっ」
神尾がどう怒鳴ろうとも、跡部は薄笑いで神尾の身体を手のひらで撫で、耳の縁に口付けて、頬を寄せてくる。
全身で、手加減無く、そそのかしてくる跡部に。
神尾は乱れてしまいそうな息を噛み殺しながら、跡部にしがみつき、抗議する。
「欲しがれよ。もっと」
「…っ、だ…から…そういうこと言うなってば!」
「いいじゃねえか。俺が手に入るんなら」
「自分で言うかそういう事っ」
「てめえが一向に言わねえから俺が言ってやってんだよ」
欲しがれ、と跡部は神尾に何度も告げる。
今だけでなく、今までも幾度となく、そう告げてきた。
足りない、足りない、とまるで訴えているかのように何度も。
跡部がどうしてそうも貪欲に自分から引き出したがるのか、神尾には不思議でならなかったのだけれど。
「……俺が、跡部の事どう好きかなんて…全部知ってるくせによぅ…」
言わせんなよなあと眉尻を下げる神尾を、跡部はしなやかな腕できつく抱き込んでくる。
「知らねえな」
「………………」
「俺は知らない」
笑っているのに、熱っぽい声で。
ぞんざいな言い方なのに、まるで切に祈るように。
跡部は言うのだ。
「俺を欲しがれよ」
「……もっと…?」
「もっと。…ずっとな」
どうしようもないようなキスで縛られる。
夜の噴水の、淡い水飛沫が身体に当たる。
降ってくるものを身に浴びて、抱き締めあって、外から濡れて、口付けあって、中からも濡れて。
もっと、も。
ずっと、も。
叶えるよ、と神尾は思う。
望む跡部の背中に回す手に力を込めると、何かにひどく枯渇している男が、やわらかに吐息したのが判って、神尾はほっとした。
宍戸とダブルスを組んで、初めて勝った試合の時だ。
笑顔で飛びついてきた宍戸を受け止めて、鳳は、うわ、と驚いた。
軽い。
かなりの勢いをつけて鳳に飛びついてきたのに、宍戸の肢体は鳳の手の中で、ふわりと浮き上がっているかのように軽かった。
確かに自らの手で受け止めているのに、今本当に、自分の腕の中にこの人がいるのかと危ぶんでしまう程。
宍戸が細身だということは無論鳳も判っていたのだけれど、見た目のしなやかな機敏さは寧ろ硬質なイメージばかりを増長させていて、よもや宍戸が自分の手に、こんなにも甘く軽やかだったとは、鳳はその時まで知らなかったのだ。
鳳が抱きとめた相手からの、惜しみのない明るい笑顔と、歯切れの良い声が自分の名前を呼んでくるのと。
宍戸の存在はテニスコートの中で、鳳に、勝利を喜ぶ感情よりも更に色濃く、浸透してきたのだ。
この人が好きなのだと自覚して。
その身体を受け止めるのではなく、抱き締めてしまいたいのだと躊躇ったあの日はそう遠い昔の出来事ではなかった。
今も感じている、この暑い夏の中に、同じ季節の中で続いている話だ。
「おい」
「……はい?」
鳳の返事は少し遅れた。
自分を呼ぶ声は宍戸のものなのに。
あまりの暑さにお互い会話らしい会話はしていなかったものの、鳳は回想に引きずられていて、反応が遅れた。
それを咎めているのか、宍戸の声は少し不機嫌そうだった。
目を合わせると、宍戸の眼差しがきつくなった。
「お前、よそであんまりそういうツラすんなよ」
宍戸は、そんな事を言った。
言われた言葉がよく判らず、何の事だろうかと鳳は僅かに首を傾げて宍戸を見下ろす。
「あの…どこかおかしいですか? 俺」
「………………」
「宍戸さん?」
「……なんだよ、くそ、真面目に聞いてくんじゃねえよ」
宍戸が珍しい言い方をした。
何だか拗ねているような声だなと鳳は思った。
そんな宍戸は初めてだった。
そして、聞いてくるなと宍戸が言うなら聞かないと言いたいところだったが、鳳はそうもいかなかった。
「だって宍戸さん怒ってるでしょう? 気になります」
俺なにかしましたかと口にしながら、鳳は、おそらくは上の空を窘められたのだろうと見当はついていた。
鳳は、あの日のコートの情景を思い出していた。
つまりは宍戸の事を考えていたのだが、それを伝えていいものかどうか判らなかった。
「お前な……」
宍戸は震えていた。
あ、怒ってる、と鳳が思った通りに。
「好きだとか、人にコクった途端に、忘却の彼方にいくってのはどういう了見だ!」
「……あ……はい。すみません」
確かに最もな話だ。
鳳は慌てて頭を下げた。
最もどころか、酷い話だ。
好きだと告げた途端にこれでは。
鳳が神妙に目線で伺った先、宍戸がふと眉根を寄せる。
「おい。…長太郎? お前まさか…熱中症か何かじゃねえだろうな」
口調は荒っぽいながらも、大丈夫かと生真面目に心配されて鳳は慌てて首を左右に振った。
「いえ、全然、何ともないです」
「………そうか? こんだけ暑けりゃ多少おかしくなんのも無理ないと思うけど」
「おかしいって宍戸さん……」
まさか自分のした告白など。
全く本気でなど聞いていないのだろうかと鳳は一層慌てた。
これだけの暑さ。
うんざりする猛暑。
でもだからって、暑さ故の気の迷いなどにされてしまったら堪らない。
鳳が宍戸に告げた好きだという言葉は。
半ば自然と溢れてしまった言葉ではあるけれど。
欠片も気の迷いなどではないからだ。
「宍戸さん」
「、…あのな」
「……、…はい?」
ぎこちなく遮られ、ぎこちなく聞き返す。
汗が、身体を伝う。
「俺な、……多分、お前は覚えてねえだろうけど…」
「………………」
「初めて忍足と岳人に試合で勝った時、驚いた事があって…」
目の前の宍戸から言われた言葉に鳳は目を見開いた。
「何…ですか?」
「あいつらに勝ってよ、そん時、俺、お前に飛びついたんだけどな」
「………………」
「お前、すっげえ簡単に俺んこと受け止めて、抱き上げて、それで何か、……俺が初めて見る顔してて。お前」
何かを。
恐らくはあの時を。
思い出す顔をして、それから宍戸は、じっと鳳を見上げてきた。
「それ見た時に、俺は、お前の事が好きなんだって判った」
「……宍戸さん。ええと…それは…返事?」
我ながら歯切れの悪い、格好のつかない言い方だと鳳自身思っていて。
案の定宍戸はうっすら顔を赤くして怒鳴ってきたけれど。
それは鳳が思っていたような言葉とは違っていた。
「返事だとか、どうとか、俺がもったいぶってるみたいな空気作るんじゃねーよ。アホ…!」
宍戸に胸倉を掴まれて、怒鳴られた。
鳳は面食らった後、ぎらぎらした黒い瞳に下から睨みつけられながら、暑さを体感している身体に更なる熱さが籠もるのを知る。
それはほんの少しも不快でない熱だった。
「宍戸さん」
「俺は…!………普通に、お前の良い先輩でいようと思ったんだ」
「良い先輩です。昔も、今も、これからも」
それから、と鳳は続けた。
自分の胸倉を掴んでいる年上のひとの、薄い背中に手のひらをそっと宛がう。
「普通に、恋人でもいて下さい」
「………………」
「俺は、宍戸さんを、何度も、何度も、好きになるから。あの時気づいたみたいに、今でも、これからも」
「…あの時?」
不思議そうな顔をする宍戸に鳳は柔らかく笑った。
「宍戸さんが、俺が初めて見る顔をしていて」
「………………」
「俺が、宍戸さんが初めて見る顔をしていた時です」
「長太郎…、…」
通じただろうか。
こういう言い方で。
通じたようだ。
こういう言い方で。
「宍戸さん」
「………、ん」
鳳の手は宍戸を抱き締めて。
宍戸の手は鳳を抱き返して。
暑さも、熱さも、尋常でなく高まって、抱き締めあう中。
息苦しさなど、どこにもなかった。
寧ろ、呼吸のしやすい場所を、心地の良い場所を、見つけた気持ちで抱き締めあった
。
熱に溶けて安らいだだけだった。
笑顔で飛びついてきた宍戸を受け止めて、鳳は、うわ、と驚いた。
軽い。
かなりの勢いをつけて鳳に飛びついてきたのに、宍戸の肢体は鳳の手の中で、ふわりと浮き上がっているかのように軽かった。
確かに自らの手で受け止めているのに、今本当に、自分の腕の中にこの人がいるのかと危ぶんでしまう程。
宍戸が細身だということは無論鳳も判っていたのだけれど、見た目のしなやかな機敏さは寧ろ硬質なイメージばかりを増長させていて、よもや宍戸が自分の手に、こんなにも甘く軽やかだったとは、鳳はその時まで知らなかったのだ。
鳳が抱きとめた相手からの、惜しみのない明るい笑顔と、歯切れの良い声が自分の名前を呼んでくるのと。
宍戸の存在はテニスコートの中で、鳳に、勝利を喜ぶ感情よりも更に色濃く、浸透してきたのだ。
この人が好きなのだと自覚して。
その身体を受け止めるのではなく、抱き締めてしまいたいのだと躊躇ったあの日はそう遠い昔の出来事ではなかった。
今も感じている、この暑い夏の中に、同じ季節の中で続いている話だ。
「おい」
「……はい?」
鳳の返事は少し遅れた。
自分を呼ぶ声は宍戸のものなのに。
あまりの暑さにお互い会話らしい会話はしていなかったものの、鳳は回想に引きずられていて、反応が遅れた。
それを咎めているのか、宍戸の声は少し不機嫌そうだった。
目を合わせると、宍戸の眼差しがきつくなった。
「お前、よそであんまりそういうツラすんなよ」
宍戸は、そんな事を言った。
言われた言葉がよく判らず、何の事だろうかと鳳は僅かに首を傾げて宍戸を見下ろす。
「あの…どこかおかしいですか? 俺」
「………………」
「宍戸さん?」
「……なんだよ、くそ、真面目に聞いてくんじゃねえよ」
宍戸が珍しい言い方をした。
何だか拗ねているような声だなと鳳は思った。
そんな宍戸は初めてだった。
そして、聞いてくるなと宍戸が言うなら聞かないと言いたいところだったが、鳳はそうもいかなかった。
「だって宍戸さん怒ってるでしょう? 気になります」
俺なにかしましたかと口にしながら、鳳は、おそらくは上の空を窘められたのだろうと見当はついていた。
鳳は、あの日のコートの情景を思い出していた。
つまりは宍戸の事を考えていたのだが、それを伝えていいものかどうか判らなかった。
「お前な……」
宍戸は震えていた。
あ、怒ってる、と鳳が思った通りに。
「好きだとか、人にコクった途端に、忘却の彼方にいくってのはどういう了見だ!」
「……あ……はい。すみません」
確かに最もな話だ。
鳳は慌てて頭を下げた。
最もどころか、酷い話だ。
好きだと告げた途端にこれでは。
鳳が神妙に目線で伺った先、宍戸がふと眉根を寄せる。
「おい。…長太郎? お前まさか…熱中症か何かじゃねえだろうな」
口調は荒っぽいながらも、大丈夫かと生真面目に心配されて鳳は慌てて首を左右に振った。
「いえ、全然、何ともないです」
「………そうか? こんだけ暑けりゃ多少おかしくなんのも無理ないと思うけど」
「おかしいって宍戸さん……」
まさか自分のした告白など。
全く本気でなど聞いていないのだろうかと鳳は一層慌てた。
これだけの暑さ。
うんざりする猛暑。
でもだからって、暑さ故の気の迷いなどにされてしまったら堪らない。
鳳が宍戸に告げた好きだという言葉は。
半ば自然と溢れてしまった言葉ではあるけれど。
欠片も気の迷いなどではないからだ。
「宍戸さん」
「、…あのな」
「……、…はい?」
ぎこちなく遮られ、ぎこちなく聞き返す。
汗が、身体を伝う。
「俺な、……多分、お前は覚えてねえだろうけど…」
「………………」
「初めて忍足と岳人に試合で勝った時、驚いた事があって…」
目の前の宍戸から言われた言葉に鳳は目を見開いた。
「何…ですか?」
「あいつらに勝ってよ、そん時、俺、お前に飛びついたんだけどな」
「………………」
「お前、すっげえ簡単に俺んこと受け止めて、抱き上げて、それで何か、……俺が初めて見る顔してて。お前」
何かを。
恐らくはあの時を。
思い出す顔をして、それから宍戸は、じっと鳳を見上げてきた。
「それ見た時に、俺は、お前の事が好きなんだって判った」
「……宍戸さん。ええと…それは…返事?」
我ながら歯切れの悪い、格好のつかない言い方だと鳳自身思っていて。
案の定宍戸はうっすら顔を赤くして怒鳴ってきたけれど。
それは鳳が思っていたような言葉とは違っていた。
「返事だとか、どうとか、俺がもったいぶってるみたいな空気作るんじゃねーよ。アホ…!」
宍戸に胸倉を掴まれて、怒鳴られた。
鳳は面食らった後、ぎらぎらした黒い瞳に下から睨みつけられながら、暑さを体感している身体に更なる熱さが籠もるのを知る。
それはほんの少しも不快でない熱だった。
「宍戸さん」
「俺は…!………普通に、お前の良い先輩でいようと思ったんだ」
「良い先輩です。昔も、今も、これからも」
それから、と鳳は続けた。
自分の胸倉を掴んでいる年上のひとの、薄い背中に手のひらをそっと宛がう。
「普通に、恋人でもいて下さい」
「………………」
「俺は、宍戸さんを、何度も、何度も、好きになるから。あの時気づいたみたいに、今でも、これからも」
「…あの時?」
不思議そうな顔をする宍戸に鳳は柔らかく笑った。
「宍戸さんが、俺が初めて見る顔をしていて」
「………………」
「俺が、宍戸さんが初めて見る顔をしていた時です」
「長太郎…、…」
通じただろうか。
こういう言い方で。
通じたようだ。
こういう言い方で。
「宍戸さん」
「………、ん」
鳳の手は宍戸を抱き締めて。
宍戸の手は鳳を抱き返して。
暑さも、熱さも、尋常でなく高まって、抱き締めあう中。
息苦しさなど、どこにもなかった。
寧ろ、呼吸のしやすい場所を、心地の良い場所を、見つけた気持ちで抱き締めあった
。
熱に溶けて安らいだだけだった。
日に焼けた腕が、ふわりと赤澤の頭上にあげられ、その手が観月を呼んでいる。
ルドルフ寮の食堂だ。
観月はそれを見止めると前髪をかきあげて大きな溜息を吐き出した。
「観月」
来いよと滑らかな低音に尚も促され、不承不承近づいていく。
座れよと仕草で観月を促す赤澤の手にはスプーンが握られている。
骨ばった手は無駄な色気がある。
観月はそんな事を思ってしまった自分に歯噛みして、苦い顔で赤澤の向かいの席に座った。
「貴方……柳沢達とカレー食べてきたんじゃないんですか」
「食ってきたぜ。ルーには何にも入ってないカレーでさ。揚げた夏野菜を、自分の好みでトッピングしてってやつ」
すげえ美味かったと笑う表情は屈託無くも大人っぽい。
「観月も誘ったのに断られたって、木更津言ってたぜ?」
「……貴方の誕生日でしょう。僕が行ってどうするんです」
「にやける俺でも見てからかいたかったんじゃねえの?」
「…………どっちがですか」
思わず呟いてしまった観月の言葉を、赤澤は聞き逃したのか敢えて流したのか、何も言わなかった。
目の前にあるカレーをスプーンで口に運び、一口食べるなり赤澤は首を反らして食堂の調理場に向かって叫んだだけだ。
「おばちゃーん、このカレー、すっげえ美味いよ」
おかわりある?と続けた赤澤に、調理場から顔を出した馴染みの女性が、どんどん食べなと笑って答えるのを観月は見やって再び野溜息だ。
「外でカレー食べてきて、ここでもまたカレーですか」
いくら今日が赤澤の誕生日で。
いくら彼が無類のカレー好きだからと言って。
これはどうなのだろうか。
観月のそんな思惑をよそに、赤澤は目の前で豪快にカレーを食べている。
観月はまじまじと赤澤を見やった。
「昨日は裕太君のお宅でカボチャカレー食べてきたでしょう」
「ああ。実家に邪魔してまではさすがに悪いなあとは思ったけどな。あいつどうしてもって譲んなくてよ。俺カボチャカレーってのは初めて食ったけど美味かったぜ」
「裕太君、お姉さんがいますよね」
「あー、いたいた。青学の不二にそっくりの姉貴な」
「美人だったでしょう」
「お前ほどじゃないけど、まあそうだな」
「………ばかでしょう…貴方…!」
観月が思わず本気で怒鳴ると、赤澤は笑って空になった皿を持ち、立ち上がった。
そして二杯目も大盛りのカレーを手にして戻ってくると、観月は怒りを持続する気力もなく脱力した。
「…………まだ食べるんですか…」
「お前も食わない?」
「だから貴方の誕生日でしょう」
二杯目をよそってもらう際の赤澤と調理場との短いやりとりは、観月の耳にも届いていた。
親ほど年の離れた相手に、ありがとうと丁寧な笑顔と気さくな言葉で礼を言って、軽く会話を交わす赤澤は、寮の関係者や教師陣の覚えもめでたい。
「まだたくさんあるって言ってたぜ」
「そうですか…」
本当に、いったいどれだけカレーが好きなのか。
観月が適当な返事と一緒にそういう眼差しを向けてやると、赤澤はラフなのに粗野に見えない不思議な食べ方でカレーを口に運びながら上目になった。
観月と視線を合わせてくる。
「……何ですか」
「俺、カレーが好きだって言ってるだろ?」
「知ってますよ。だとしても、いくら好きだからって、ちょっと普通じゃないですけどね」
「だからさ。それだよ」
何がそれだ。
不遜に眼差しで告げた観月に、赤澤は言った。
「好きって自分で公言してるんだからよ」
「………………」
「そうまで言うなら、これくらいが普通だろ」
赤澤の言い方はさらさらとしていながらも何か深い意味があるような響きで。
観月は怪訝に小首を傾ける。
「……普通って領域じゃ、全然、全く、ないと思いますが」
「そうか?」
赤澤はのんびりと観月の目を見つめて、その目を更にゆっくりと細める。
「けど俺は、何でもかんでも好き好き言ってる訳じゃねえからさ」
「…赤澤?」
「好きだって。口に出して、何度だって、言うようなものは、俺にしてみれば全部特別だ」
お前はそれ知ってんだろ?と潜めたような声で言ってこられて。
観月は瞬間よく意味が判らず困惑した。
そんな観月を見て赤澤が小さく笑んだ。
「知ってんだろ」
な?と唇の端に笑みを浮かべた赤澤が、カレーを食べる手を止めて、スプーンを持っていない方の手を伸ばし、観月の髪の先に一瞬だけ触れた。
「………………」
好きだ、と赤澤が公言して憚らないもの。
例えばそれは、カレー。
それから、テニス。
ルドルフ。
そして。
「俺の好きっていうのは、そういう事だ」
「……幾ら食べたってカレーは飽きないって話ですか」
ひとけのない夏休み中の寮の食堂で。
生徒は自分達だけしかいなくて。
でもだからって、どことなく濃密になりそうな気配がしなくもないこんな状況を。
観月は過度に反応しないよう、当たり障りのない口調で遮った。
敢えてここでカレーの話だろうと言い切った観月に、赤澤は逆らうでもなく、そうそうと頷いてくる。
しかし、そうやって頷きはしたのだが、その後で、赤澤は、こうも言ったのだ。
「お前以上に好きなものなんか俺にはないけどな」
俺の、カレーのレベルで、普通の領域じゃないなんて言ってんなと声なく笑う赤澤に、観月は思わず、ぐっと息を飲んだ。
そういう。
好きなものに対する固執という話を聞き、赤澤が観月に執着している事を仄めかされて。
観月が感じるものは、歓喜でも羞恥でもない。
きっぱりと断言してしまえる、迷いのない赤澤の強さの原因は、きっと。
「……赤澤、貴方。絶対に僕が」
「ん?」
「貴方を…嫌いにならないって知ってるから、そんなに強気なんでしょう」
甘く見られて、全く、と観月は苦く言った。
自ら結局ぶり返してしまった話題にも、察しのよすぎる自身の思考にも、観月は呆れていたのだ。
ついでに言えば、普段はあまり吐露したくない心情を、何故か今あっさりと口にしてしまった事にも観月は呆れている。
でも、観月がこういうような事を言ってしまって。
それで付け上がるような男なら、いっそ良かったのだ。
「あのな、観月。俺はお前を甘く見てるんじゃない。決めてるだけだ」
「………………」
「お前の事は諦めない」
「………………」
「そう俺は決めた」
静かな声で告げてくるような男だから。
おかしくされるのだ。
唇を引き結んだ観月に、赤澤は何を思ったのか、ふとその表情を緩めた。
「もし振ろうとしても、往生際相当悪いぞ。俺は」
「…、…振りませんよ!」
「あ…、マジ?」
「…………っ…、」
思わずの勢いで言ってしまった観月は、赤澤の表情を目にして、真っ赤になった。
「怒るなよー、観月」
「うるさい…! 喜ぶな、バカ…!」
「無理だろ、それは」
本当に。
とろりと甘く喜ばれてしまって。
微笑まれてしまって。
言葉の出なくなってしまった観月の頬を、赤澤の指が軽く擦った。
「俺はお前を諦めない」
「………………」
「もしこれから先、何かしらの事があったとしても。観月と二度と会えないような事には、絶対にしない」
笑ったまま、でも少しもふざけた所のない言い方とやり方とで、赤澤が観月に伝えてくる言葉。
「トラブルなり、問題点なり、障害なりあったとして。でもそこで、そういう事をクリアする努力は絶対に惜しまない」
そんな風に甘い表情で誓われてしまって、観月はどうしていいのか判らなくなってしまった。
振り切ることも、ごまかすことも、はぐらかすことも出来ない。
聞いていられない。
でも決して、聞きたくない訳ではないのだ。
「お前がこれから先のいつかに、ひょっとして俺の為なんて理由で離れようとしても、俺は絶対に頷かないし」
「………………」
「お前が心変わりする気なんか絶対に起こさせないようにしてやるって。思ってんだよ」
いつもな、と。
少しだけ危なく放ってこられた赤澤の心情に。
怖そうな、物騒な、そんな欠片に擽られて、観月はとうとう、最も自分らしくないと思われる姿を晒して、口を開いた。
逃げだと思われても今は構わなかった。
真っ向から、返す言葉が見つからない。
「カレー食べながら言う台詞ですか……!」
観月が真っ赤になって震えて怒鳴った言葉に、赤澤は低い声を甘く転がして笑った。
「怒ってていいけど、席は立つなよ」
顔見せてと甘ったれてこられて、どぎまぎとする自分が一番最悪だ。
観月が赤澤を叱りつける事で中断させてしまった話を、赤澤はだからといって捨てたりも隠したりもしない。
いつでも彼はそれを持っていて、いつでもそれを実行するのだろう。
これからもずっと。
「あ、おい…立つなって」
観月は足元に置いていた紙袋を手にとって、立ち上がった。
上から赤澤を見下ろす。
精悍な顔立ちを随分とあからさまに、判りやすく拗ねさせている男の顔を見据えて、観月は紙袋をテーブルに置いた。
「…ん? 何…これ、くれんの?」
視線だけで尊大に頷けば、赤澤は観月が恥ずかしくなるような甘ったるい笑顔になってその紙袋の中を覗きこむ。
「え……すげ、もしかしてこれ」
「………………」
透明なガラスの保存瓶。
赤澤の大きな手がやすやす掴んで持ち上げたその瓶の中身は、数日前から仕込んであった。
「お前が作ったとか…?」
「当たり前でしょう」
観月が言えば、赤澤はそれは盛大に驚いた顔をした。
「福神漬けって作れんの? つーか、何で出来てんの」
「あれだけ食べてて知らないんですか」
呆れた、と観月が呟く間も。
赤澤は保存瓶を嬉々として見つめている。
「大根、茄子、白瓜、蓮根、鉈豆、紫蘇の実、生姜。七種類の野菜を、塩漬して細く刻んでから、塩抜き、圧縮、そして砂糖や醤油などの調味液に漬けこん………聞いてるんですか。赤澤」
「観月。食っていい?」
「………好きにどうぞ」
あまりにも判りやすく赤澤が喜ぶので、観月はもう呆れてそう言うしかなかった。
食べてはその都度に、美味いとひたすらに繰り返す赤澤を。
観月は面映くあしらいながら。
人生で。
一番最初に覚えて、実行した料理が福神漬けだなんて。
これはもう、赤澤が相手だからに他ならないと思った。
心変わりする気なんか絶対に起こさせないようにしてやるなんて。
そう思って、企んで、根回ししているなんて。
そんなのは自分の方の台詞だと思った。
たかだかカレーの話だが。
そんなにも好きだと赤澤が言うのなら。
必需品の付け合わせからして、手中に収めてやる。
幸い、そういう手管は赤澤よりも自分の方が長けていると観月は思っている。
無意識にしてのける赤澤に、負けっぱなしになるつもりはなかった。
「赤澤」
「…ん?」
「カレー、三杯目を、食べてもいいですけど」
寮の部屋に戻るべく赤澤に背中を向けかけながら、観月は赤澤を流し見て言った。
「その後に、部屋で食べるカレーよりも好きなものの余地は残しておきなさい」
少しでも残したら二度と食べさせない。
そう言った観月は、流し見た赤澤の面立ちの、最後の最後に浮かんだ表情を目にして、至極満足した。
ルドルフ寮の食堂だ。
観月はそれを見止めると前髪をかきあげて大きな溜息を吐き出した。
「観月」
来いよと滑らかな低音に尚も促され、不承不承近づいていく。
座れよと仕草で観月を促す赤澤の手にはスプーンが握られている。
骨ばった手は無駄な色気がある。
観月はそんな事を思ってしまった自分に歯噛みして、苦い顔で赤澤の向かいの席に座った。
「貴方……柳沢達とカレー食べてきたんじゃないんですか」
「食ってきたぜ。ルーには何にも入ってないカレーでさ。揚げた夏野菜を、自分の好みでトッピングしてってやつ」
すげえ美味かったと笑う表情は屈託無くも大人っぽい。
「観月も誘ったのに断られたって、木更津言ってたぜ?」
「……貴方の誕生日でしょう。僕が行ってどうするんです」
「にやける俺でも見てからかいたかったんじゃねえの?」
「…………どっちがですか」
思わず呟いてしまった観月の言葉を、赤澤は聞き逃したのか敢えて流したのか、何も言わなかった。
目の前にあるカレーをスプーンで口に運び、一口食べるなり赤澤は首を反らして食堂の調理場に向かって叫んだだけだ。
「おばちゃーん、このカレー、すっげえ美味いよ」
おかわりある?と続けた赤澤に、調理場から顔を出した馴染みの女性が、どんどん食べなと笑って答えるのを観月は見やって再び野溜息だ。
「外でカレー食べてきて、ここでもまたカレーですか」
いくら今日が赤澤の誕生日で。
いくら彼が無類のカレー好きだからと言って。
これはどうなのだろうか。
観月のそんな思惑をよそに、赤澤は目の前で豪快にカレーを食べている。
観月はまじまじと赤澤を見やった。
「昨日は裕太君のお宅でカボチャカレー食べてきたでしょう」
「ああ。実家に邪魔してまではさすがに悪いなあとは思ったけどな。あいつどうしてもって譲んなくてよ。俺カボチャカレーってのは初めて食ったけど美味かったぜ」
「裕太君、お姉さんがいますよね」
「あー、いたいた。青学の不二にそっくりの姉貴な」
「美人だったでしょう」
「お前ほどじゃないけど、まあそうだな」
「………ばかでしょう…貴方…!」
観月が思わず本気で怒鳴ると、赤澤は笑って空になった皿を持ち、立ち上がった。
そして二杯目も大盛りのカレーを手にして戻ってくると、観月は怒りを持続する気力もなく脱力した。
「…………まだ食べるんですか…」
「お前も食わない?」
「だから貴方の誕生日でしょう」
二杯目をよそってもらう際の赤澤と調理場との短いやりとりは、観月の耳にも届いていた。
親ほど年の離れた相手に、ありがとうと丁寧な笑顔と気さくな言葉で礼を言って、軽く会話を交わす赤澤は、寮の関係者や教師陣の覚えもめでたい。
「まだたくさんあるって言ってたぜ」
「そうですか…」
本当に、いったいどれだけカレーが好きなのか。
観月が適当な返事と一緒にそういう眼差しを向けてやると、赤澤はラフなのに粗野に見えない不思議な食べ方でカレーを口に運びながら上目になった。
観月と視線を合わせてくる。
「……何ですか」
「俺、カレーが好きだって言ってるだろ?」
「知ってますよ。だとしても、いくら好きだからって、ちょっと普通じゃないですけどね」
「だからさ。それだよ」
何がそれだ。
不遜に眼差しで告げた観月に、赤澤は言った。
「好きって自分で公言してるんだからよ」
「………………」
「そうまで言うなら、これくらいが普通だろ」
赤澤の言い方はさらさらとしていながらも何か深い意味があるような響きで。
観月は怪訝に小首を傾ける。
「……普通って領域じゃ、全然、全く、ないと思いますが」
「そうか?」
赤澤はのんびりと観月の目を見つめて、その目を更にゆっくりと細める。
「けど俺は、何でもかんでも好き好き言ってる訳じゃねえからさ」
「…赤澤?」
「好きだって。口に出して、何度だって、言うようなものは、俺にしてみれば全部特別だ」
お前はそれ知ってんだろ?と潜めたような声で言ってこられて。
観月は瞬間よく意味が判らず困惑した。
そんな観月を見て赤澤が小さく笑んだ。
「知ってんだろ」
な?と唇の端に笑みを浮かべた赤澤が、カレーを食べる手を止めて、スプーンを持っていない方の手を伸ばし、観月の髪の先に一瞬だけ触れた。
「………………」
好きだ、と赤澤が公言して憚らないもの。
例えばそれは、カレー。
それから、テニス。
ルドルフ。
そして。
「俺の好きっていうのは、そういう事だ」
「……幾ら食べたってカレーは飽きないって話ですか」
ひとけのない夏休み中の寮の食堂で。
生徒は自分達だけしかいなくて。
でもだからって、どことなく濃密になりそうな気配がしなくもないこんな状況を。
観月は過度に反応しないよう、当たり障りのない口調で遮った。
敢えてここでカレーの話だろうと言い切った観月に、赤澤は逆らうでもなく、そうそうと頷いてくる。
しかし、そうやって頷きはしたのだが、その後で、赤澤は、こうも言ったのだ。
「お前以上に好きなものなんか俺にはないけどな」
俺の、カレーのレベルで、普通の領域じゃないなんて言ってんなと声なく笑う赤澤に、観月は思わず、ぐっと息を飲んだ。
そういう。
好きなものに対する固執という話を聞き、赤澤が観月に執着している事を仄めかされて。
観月が感じるものは、歓喜でも羞恥でもない。
きっぱりと断言してしまえる、迷いのない赤澤の強さの原因は、きっと。
「……赤澤、貴方。絶対に僕が」
「ん?」
「貴方を…嫌いにならないって知ってるから、そんなに強気なんでしょう」
甘く見られて、全く、と観月は苦く言った。
自ら結局ぶり返してしまった話題にも、察しのよすぎる自身の思考にも、観月は呆れていたのだ。
ついでに言えば、普段はあまり吐露したくない心情を、何故か今あっさりと口にしてしまった事にも観月は呆れている。
でも、観月がこういうような事を言ってしまって。
それで付け上がるような男なら、いっそ良かったのだ。
「あのな、観月。俺はお前を甘く見てるんじゃない。決めてるだけだ」
「………………」
「お前の事は諦めない」
「………………」
「そう俺は決めた」
静かな声で告げてくるような男だから。
おかしくされるのだ。
唇を引き結んだ観月に、赤澤は何を思ったのか、ふとその表情を緩めた。
「もし振ろうとしても、往生際相当悪いぞ。俺は」
「…、…振りませんよ!」
「あ…、マジ?」
「…………っ…、」
思わずの勢いで言ってしまった観月は、赤澤の表情を目にして、真っ赤になった。
「怒るなよー、観月」
「うるさい…! 喜ぶな、バカ…!」
「無理だろ、それは」
本当に。
とろりと甘く喜ばれてしまって。
微笑まれてしまって。
言葉の出なくなってしまった観月の頬を、赤澤の指が軽く擦った。
「俺はお前を諦めない」
「………………」
「もしこれから先、何かしらの事があったとしても。観月と二度と会えないような事には、絶対にしない」
笑ったまま、でも少しもふざけた所のない言い方とやり方とで、赤澤が観月に伝えてくる言葉。
「トラブルなり、問題点なり、障害なりあったとして。でもそこで、そういう事をクリアする努力は絶対に惜しまない」
そんな風に甘い表情で誓われてしまって、観月はどうしていいのか判らなくなってしまった。
振り切ることも、ごまかすことも、はぐらかすことも出来ない。
聞いていられない。
でも決して、聞きたくない訳ではないのだ。
「お前がこれから先のいつかに、ひょっとして俺の為なんて理由で離れようとしても、俺は絶対に頷かないし」
「………………」
「お前が心変わりする気なんか絶対に起こさせないようにしてやるって。思ってんだよ」
いつもな、と。
少しだけ危なく放ってこられた赤澤の心情に。
怖そうな、物騒な、そんな欠片に擽られて、観月はとうとう、最も自分らしくないと思われる姿を晒して、口を開いた。
逃げだと思われても今は構わなかった。
真っ向から、返す言葉が見つからない。
「カレー食べながら言う台詞ですか……!」
観月が真っ赤になって震えて怒鳴った言葉に、赤澤は低い声を甘く転がして笑った。
「怒ってていいけど、席は立つなよ」
顔見せてと甘ったれてこられて、どぎまぎとする自分が一番最悪だ。
観月が赤澤を叱りつける事で中断させてしまった話を、赤澤はだからといって捨てたりも隠したりもしない。
いつでも彼はそれを持っていて、いつでもそれを実行するのだろう。
これからもずっと。
「あ、おい…立つなって」
観月は足元に置いていた紙袋を手にとって、立ち上がった。
上から赤澤を見下ろす。
精悍な顔立ちを随分とあからさまに、判りやすく拗ねさせている男の顔を見据えて、観月は紙袋をテーブルに置いた。
「…ん? 何…これ、くれんの?」
視線だけで尊大に頷けば、赤澤は観月が恥ずかしくなるような甘ったるい笑顔になってその紙袋の中を覗きこむ。
「え……すげ、もしかしてこれ」
「………………」
透明なガラスの保存瓶。
赤澤の大きな手がやすやす掴んで持ち上げたその瓶の中身は、数日前から仕込んであった。
「お前が作ったとか…?」
「当たり前でしょう」
観月が言えば、赤澤はそれは盛大に驚いた顔をした。
「福神漬けって作れんの? つーか、何で出来てんの」
「あれだけ食べてて知らないんですか」
呆れた、と観月が呟く間も。
赤澤は保存瓶を嬉々として見つめている。
「大根、茄子、白瓜、蓮根、鉈豆、紫蘇の実、生姜。七種類の野菜を、塩漬して細く刻んでから、塩抜き、圧縮、そして砂糖や醤油などの調味液に漬けこん………聞いてるんですか。赤澤」
「観月。食っていい?」
「………好きにどうぞ」
あまりにも判りやすく赤澤が喜ぶので、観月はもう呆れてそう言うしかなかった。
食べてはその都度に、美味いとひたすらに繰り返す赤澤を。
観月は面映くあしらいながら。
人生で。
一番最初に覚えて、実行した料理が福神漬けだなんて。
これはもう、赤澤が相手だからに他ならないと思った。
心変わりする気なんか絶対に起こさせないようにしてやるなんて。
そう思って、企んで、根回ししているなんて。
そんなのは自分の方の台詞だと思った。
たかだかカレーの話だが。
そんなにも好きだと赤澤が言うのなら。
必需品の付け合わせからして、手中に収めてやる。
幸い、そういう手管は赤澤よりも自分の方が長けていると観月は思っている。
無意識にしてのける赤澤に、負けっぱなしになるつもりはなかった。
「赤澤」
「…ん?」
「カレー、三杯目を、食べてもいいですけど」
寮の部屋に戻るべく赤澤に背中を向けかけながら、観月は赤澤を流し見て言った。
「その後に、部屋で食べるカレーよりも好きなものの余地は残しておきなさい」
少しでも残したら二度と食べさせない。
そう言った観月は、流し見た赤澤の面立ちの、最後の最後に浮かんだ表情を目にして、至極満足した。
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