忍者ブログ
How did you feel at your first kiss?
[15]  [16]  [17]  [18]  [19]  [20]  [21]  [22]  [23]  [24]  [25
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

 海堂は驚かなかった。
 乾はその事に驚いた。
 何せ今のこの体勢。
 膝枕というより、膝腹枕だろう。
 上半身を起こしている海堂の腿に乾は頭を乗せていて、薄く固い腹部に額を押し当て、張りつめた硬質なラインの腰には腕をしっかり回している。
 甘ったれの域を越えて、ただひたすらにべったりくっついているという自覚はあった。
 さすがに乾にも。
「海堂ー…」
「………どうしたんですか」
 素っ気無いような声は、しかしいつでもぎこちなく過敏だ。
 乾が呻いて初めて、海堂はそんなリアクションをした。
 小さく落ちてきた声には生返事だけして、乾は海堂のやわらかな体温を感じ入るように腹部に尚も密着する。
「先輩?」
「暑っ苦しい上に鬱陶しくて悪いな」
「言ってねえよ。んなこと」
 欠片も甘い声ではなかったけれど、海堂は乾のする事を諾々と受け入れたままだ。
「きもちいい」
「………………」
 はあ、と力の抜けたような返事が、海堂の身体から響いてくる。
 微かな羞恥心の交ざる憮然とした気配もしたが、乾がそう言えば海堂はそれを奪うような事はしない。
 あんたが何したいんだか俺にはさっぱり判らねえと言いながら、海堂は腿に乾の頭を乗せられたまま身じろぐ事はない。
 決して無意味に絡みたい訳でも、管を巻くような真似をしたい訳でもないのだが、乾は海堂を拘束しつつあれこれと呟いた。
 それに対しての海堂の返事は短く、でも必ずあった。
「珍しいな、今日の海堂は。いい加減怒鳴りつけるなり蹴り飛ばすなりすればいいのに」
「面倒なんで」
「そりゃ面倒だよな。でかい図体の男に力任せにしがみつかれて、膝の上でぐだぐだ言われてれば」
「そんなのはもう慣れてる」
「慣れてるかあ……慣れたら、後は飽きるとかだろうなあ……」
「乾先輩」
 頭に重いものが落ちてきたと思ったら。
 それはどうやら海堂の拳のようだった。
 乾に呻く隙も与えず、今度は平手で叩かれる。
 同じ場所をだ。
 容赦がない。
「しつけえんだよ」
 凄む、本気の、低い声だ。
 乾は苦笑いを海堂の腹部に埋めた。
「全くだ。俺自身でも否定しない」
「うるせえ。あんたじゃねえ。俺がだ」
 あんた今俺と他の誰かと間違えてんのかと海堂に言われて、さすがに乾は身体を起こした。
 幾ら何でも、そんな事がある筈がない。
「海堂、」
 しかし、起こしかけた乾の身体は、海堂の手で強引に戻された。
 先程拳を落とされ、平手で叩かれた後頭部を、今度は手のひらでぐいっと押さえ込まれたのだ。
 再び海堂の腿に横向きの顔を乗せた乾は、自分の髪を海堂の指先が繰り返しすいていくのを感触で知る。
「慣れたって、俺は飽きねえよ。俺がしつけえの、あんた知ってんだろ」
 ぶっきらぼうな口調で、でも海堂は落ち着いていた。
 ひどく慣れない事をしている海堂の手は、とても丁寧だった。
「暑っ苦しかろうが、鬱陶しかろうが、あんただろ」
 だったら俺は変わんねえよ、と海堂が呟く。
 海堂が言ったのはそれだけだった。
 海堂の言葉使いは時折こんな風に不思議だと乾は思う。
 好きだと言われるよりも強く、好きだと告げられたような気持ちになる。
 言葉を尽してしまいがちな乾の隣で、ぽつりと重鎮の言葉のみを置いてくる。
 それが海堂だ。
 詰め込みすぎた知識や予測や思考のせいで度々穿ちがちになったり身動きがとれなくなったりする乾の隣で、不器用なのに揺るがない、頑なそうでいてやわらかなものを持った姿でいる。
 それが海堂だ。
「何に…誰に、感謝したらいいんだろうな。お前の事は」
 ご両親か?やっぱり、などと言いながら乾は海堂の腿の上で寝返りをうった。
 仰向けになる。
 乾が見上げた先、海堂が珍しく薄く笑っている。
「自分を褒め称えればいいんじゃないっすか」
「どうして?」
「あんただけだから」
 何が、とそこの所は。
 初めから無い言葉のように抜けているのに。
 やはり海堂の言葉は、乾にはひどく不思議だった。
 好きだと言われるよりも強く、好きだと告げられたような気持ちになる。
 口移しに同じ言葉を返したら、自分の気持ちも全く同じように伝わるのだろうかと思いながら、乾は下から腕を伸ばす。
 しかし実際は。
 声を出すよりも先に、引き寄せた海堂の唇に口付けてしまったせいで。
 その試みは叶わなかった。


 叶わなかったのに。
 でも海堂は、それはきれいな笑みを乾にくれたのだけれど。
PR
 いつの間にか意識がなかったり、少しして目は開けたもののまだ寝てろって言われたり、何だかうとうととまどろんだ時間は随分長いように神尾は思っていたのだが、実際はたいした時間ではなかったようだ。
 ふ、と瞼を開けて。
 幾度目かの覚醒の時も、神尾の視界にいる跡部は変わらないままだった。
 横たわって向き合って、自分を見ている。
 ずっと、そうだ。
 そして神尾が目にする度に、跡部は同じ表情でいる。
「………ぁ…、…と…べ」
「………………」
 声が出づらくて、呼びかけてから神尾は咳払いをした。
 その振動で少しだけ身体が痛む。
 眉根を寄せて一瞬目を閉じた後、神尾は跡部をじっと見据えた。
 ぐったりうつぶせたまま顔だけ跡部の方を向いている神尾は重い腕を懸命に持ち上げる。
 跡部の髪の先に、指を寄せる。
「……のさ…ー……跡部ー……」
 跡部の髪は柔らかかった。
 さらりと神尾の指先から零れる。
 色素の薄さは角度によってきらきらと光って見える。
「おれ…さー……」
「………………」
「…テニスでも…べんきょーでも、すごいやったら、疲れるじゃん…?……それとおんなじだと思うんだけどよぅ……」
 だからさー、と神尾は力の入らない声で言った。
 だから、俺見てそういう風に落ち込まないでくんねーかなー、と呟いた。
 跡部の髪に触れながら。
 跡部は、いつもした後に神尾の事をじっと見つめてくる。
 神尾が眠っていようが、ぐったりしていようが、黙って見つめていてそこから離れない。
 その目が、跡部が、神尾にはどうも、した事を落ち込んでいるように見えてならないのだ。
「誰が落ち込むか」
 跡部は憮然と即答してくるけれど。
 神尾にはそう見えるのだ。
 本当はもっとちゃんと、自分が普段のようにしていれば。
 きっと跡部はこんな顔をしないんだろうなと神尾は思う。
 でも、跡部に抱かれるって相当とんでもない事なんだぜと、思わず当人に言いたくなるほどに、神尾の身体は跡部とすると卑猥な甘い熱で満たされる。
 終わった後から暫く動けなくなるのは、直接身体が受けた出来事が原因というより、余韻や記憶でも神尾を雁字搦めにする跡部のやり方のせいだ。
 そこのところ判ってんのかなあ、と神尾は生真面目に危惧して跡部の髪に触れていた指先で跡部の前髪をかきあげる。
「………ぁ…」
 その手が跡部の手に握りこまれ、強く引き寄せられた。
 横たわったまま、手繰りこまれる動きで抱き締められた。
「誰が落ち込むか。バカ」
 そうやって繰り返すから神尾は笑ってしまうのだ。
 そうやって拘るという事は、どうでもいい事ではないからだ。
 笑う形の神尾の唇を跡部はきついキスで塞いでくるけれど。
 のしかかってこられて、今度は神尾の前髪を跡部がかきあげてくる。
 執着するようなやみくもな手つきで何度も髪を撫でつけられる事が、ひどく神尾を安堵させた。
「………っ…ぁ…、」
 ずれた唇。
 神尾の視界にある跡部の唇は濡れていて、恐らく自分のそれも同じで。
 潤んだ気配が潜む口腔に、小さく神尾が喉を鳴らす。
「ん、……」
 すぐに塞がれて。
「………ぅ」
 探られて。
「…、っ……は、」
 開放と。
「く……、……ん」
 拘束と。
「………ぁ…と…、…べ…」
「………………」
「跡…、………跡部…、」
「呼ぶな」
「…跡部…、…」
「呼ぶなっつってんだろうが」
 荒い口調を紡ぐ唇。
 神尾の方から近づいていった。
 腕を伸ばす。
 首にしがみつく。
 神尾から跡部に口付けた後、跡部の首筋に神尾は顔を埋めた。
 耳元近くで呻き声がした。
 自分の名前だ、と神尾がそれに気づいた時には跡部の手のひらがすでに神尾の素肌を弄っていた。
「人の唆し方なんざ覚えんじゃねえよ」
「…、ァ……、…な…に…?」
「……んな事ばっかうまくなりやがって」
 ふざけんな、と悪態ごと唇にキスをぶつけられる。
 跡部の手で、的確な、濃すぎる愉悦をまた一から数えなおすように引き出されていきながら、神尾はぼんやりと、どうしてまたこの状況になっているのか不思議に思う。
 だって確か、すごく何度も、して。
 終わったんじゃなかったか。
「神尾」
 跡部が何を言って。
「………っ…ァ、」
 自分が何を言って。
 こうなっているのか。
 それを思い返そうとしても、そんな余裕など、もう欠片も与えられなかった。
 神尾は跡部の髪を握り締めて、口腔深くまで貪られるようなキスを受け止めるので、精一杯だったのだ。
 余裕のなさは不思議と跡部からも伝わってきていたので。
 神尾は安心しきって、濃い熱に撒かれた。
 湿気を過多に孕んだ空気は呼吸し辛いほどだった。
 長く振り続けている雨は時折止んで、厚い雲が頭上に蓋をしているようで一層息苦しい。
 そんな中でも、先を歩く見慣れた背中はいつものように真っ直ぐ背筋を伸ばしている。
 毛先の僅かにかかった後ろ首はすっきりと細く、尖った肩に続くラインは柔らかい素材のシャツ越しであっても硬質だ。
 少し前には汗ばんで濡れそぼっていた首筋も、湿っていた髪も、今はさらさらとかわいて見えた。
 屋外の重たいこの湿気ですら他愛ない事のように思える程、先程までの時間が、濃密に濡れすぎていたのだ。
 鳳は、宍戸の後姿を見据えて、小さく吐息を吐き出した。
 雨雲のせいと時間帯のせいとで、薄暗くなりかけているひとけのない道を宍戸を家まで送るという名目で暫く無言で歩いていきながら、それでも鳳が最初に口をひらいて言った言葉は、やはり宍戸の名前だ。
「宍戸さん」
 喉に絡むような声が出た。
 それに対して宍戸は、すぐに気安く、何だ?と問い返してくる。
 鳳は困った。
 弱った、という方が正しいのかもしれない。
「……宍戸さん、…大丈夫ですか」
 改まって、言葉を半分濁しつつ、尋ねたら尋ねたで。
 宍戸は足を止める事もなく気負いのない返事を鳳に寄こしてくるだけだ。
「あ? 何が」
 何がって。
 鳳の口調は強張るように重くなる。
「身体」
 大丈夫ですか、と繰り返すしか言葉も見つけられない。
 ああ、と宍戸は今度は合点がいった風に頷いた。
 そしてまた、至極あっさりと返すのだ。
「股関節が痛ぇ」
 何かずれてるみたいな気する、とひどく真面目に告げられた鳳は、思わず宍戸の手を取って立ち止まった。
 振り返ってくる宍戸は少し眉根を寄せていた。
 それは耐えられない苦痛というわけではなく、噛み締めているような受容範囲内の痛みのようだった。
 ずっとそんな顔をさせてしまっていたのかと思うと胸が冷たくなる。
 鳳は神妙に言った。
 頭を下げる。
「すみません」
「何が?」
「何がって……」
 ところが、鳳の心情にまるで噛みあわず、宍戸は心底不思議そうな顔で問い返してきた。
 鳳を見上げてくる眼はいつもの煌いているようにきついそれだ。
 きつくて、それでいて深い包容力のある、ひどく綺麗な眼だ。
 じっと見つめてこられて鳳は無言になった。
「…どうしたんだよ、お前」
「………………」
 宍戸の手首を握りこんでいる鳳の手元を見やる為に眼差しを一度伏せ、そこから睫毛を引き上げるようにしてまた鳳の目を覗きこんでくる宍戸の目元をつぶさに見つめ、鳳は空いた手で宍戸の右の頬を包んだ。
 小さな顔は鳳の手に容易くおさまった。
「長太郎?」
 無防備に、平素とまるで変わらない宍戸の唇を、鳳は上体を屈めて塞いだ。
 つよく、貪った。
 手首と頬とで拘束して、深く口付ける。
 合わせた唇で強引に仰のかせた宍戸は、鳳が舌を捕まえて吸うと小さな喉声を上げた。
 痛んでいるという箇所を敢えて。
 両足の狭間に割って入れた腿で軽く圧迫すると、宍戸は強く震えた。
 それなのに、キスを引き剥がしてすぐに、宍戸の唇から漏れたのは、鳳を気遣うような低い掠れ声だった。
「…………ど……した……?」
「………………」
「……長太郎?」
 宍戸の肩口に額を当てて押し黙る鳳の後ろ髪に、宍戸の指先が埋まる。
 そっと撫で付けられて鳳は唇を歪めて自嘲した。
 今だけ過剰に優しくされている訳ではない。
 宍戸は、いつもこうだ。
 呆れたような顔で、でも深く甘いものを抱えた内面で、あっさりと受け入れ甘やかす。
「お前なあ……俺を抱いてそこまでへこむってのはどういう了見だよ」
 いくら俺だって落ち込むぞ?と沈んだ声で言われて鳳は慌てて顔を上げた。
「言ってませんよ、そんなこと!」
「言ってんのと一緒だっての。そのツラ」
 ぺち、と宍戸の手の先で軽く頬を叩かれる。
 鳳が尚も同じ言葉を繰り返して言うと、宍戸は少し皮肉気に唇を歪めて笑った。
「じゃ、言ってみ。何をそう、お前はどんよりテンション下げてんだ?」
「反省と自己嫌悪してただけじゃないですか…!」
「必要あんのか、それ」
 呆れた顔で宍戸は呟く。
 鳳は宍戸の肩に縋るようにまた顔を伏せた。
「宍戸さんに、たくさん無理させたじゃないですか……」
「…へえ?」
「何ですか、その他人事みたいな相槌……」
「無理した覚えなんか俺にはねえよ。そりゃ他人事だ」
 さらりと言った宍戸は、笑っている。
 鳳は何とも言えない気分で抱き締めた身体から伝わってくる振動に感じ入った。
 慎重になれたのは最初のうちだけで、次第に追い詰められて、どうしようもなくなって、無茶をやらかしたような焦燥感が後から後から込み上げてきた。
 気持ちが等しく愛しくても、負担のかかり方は激しく違うのに。
 それを見失った自覚が鳳を激しく落ち込ませている。
「もう一回って言っときゃ良かったぜ、やっぱ」
「……宍戸さん?」
「………ったく…無駄に遠慮して損したぜ」
 素っ気無い口調でとんでもない事を言い出した宍戸を、鳳は勢いよく顔を上げて見下ろす。
「あの、……」
「アホ。あんま可愛い顔すんな」
 それこそあまりにも鮮やかに微笑まれて鳳は面食らう。
 宍戸は笑ったまま鳳の胸元に自らおさまってきた。
 しっかりと鍛えられた、それでも細すぎる程に細い肢体に鳳は両腕を回す。
 自分の腕で抱き締める事の出来る、何よりも大切なものが、きちんとここに在る。
 鳳は闇雲な安堵に、ほっと息をついていた。
 少し前の状況を思い返しても、疲労困憊しきっていた宍戸が、本当にもう一回出来たかどうかは怪しいこと極まりなかったが。
 それでも、そんな言葉をくれた相手に鳳は畳み掛けた。
「………辛いばっかじゃなかったですか? 我慢させてばっかりじゃなく……またしてもいいって思ってくれた?」
「そんなもん、見て判んなかったのか?……つーか、お前さ。それ聞きたかったんなら、さっさと聞けっての」
 びびらせんじゃねえよと毒づく宍戸を鳳は怪訝になって見下ろした。
「……宍戸さん?」
「お前に後悔丸出しにされたら、俺だって、びびったってしょうがねえだろうが」
「後悔なんかしてません!」
「あー………そりゃ…さっきので判ったけどよ…」
 ぎこちなく宍戸が目を伏せる。
 無意識らしく唇を軽く噛む仕草が、暗にさっきのキスを匂わせて、鳳は引き寄せられるようにまたそこに軽く口付けた。
 離れる時にだけ小さく音がした。
「……お前、たぶん、何かいろいろ気ィ使ってくれてんだと思うけど」
「………………」
「俺は、お前にがっつかれんの、好きなんだよ」
「ちょ………宍戸さん……」
 ぽつりと呟かれた声は断言で。
 鳳を見上げてきた眼差しは清冽で。
「どんなでも、好きだぜ。長太郎」
 何されても気持ち良いと、真っ直ぐな目で、言葉で、邪気なく続けられ、鳳は完全に落ちた。
「…………重い」
 思わず全身で覆い被さるように宍戸をきつく抱き締めると、宍戸からはそんな素っ気無い不平が返されてきたが、その声は優しく、笑いを含んでいて。
 鳳は、厳しい優しいひとをきつく抱き締め、ひたすらに。
 宍戸に対して、同じように在りたいと、願った。
 また余所見する、と笑われた。
 それに対して、まともに顔を見ていられる訳ないだろうと海堂は思い、笑う乾をきつく睨みつけたのだが、乾は目が合ったと言って機嫌がよくなった。
「………………」
 キスをする前。
 視線を向ける先も、表情の在り方も、息の仕方も、手の置き所も。
 海堂にはわからない事だらけだ。
 乾の笑みが優しくなって、ひどく大切そうに軽く唇を掠られる。
 だから、どうしたら。
 ぎこちなく海堂は、いるしかできない。
 そしてキスをされた後もそれは同じ事だ。
 乾は海堂の肩口に顔を伏せて笑った。
 辛うじて笑い声はたてないでいるものの、肩があからさまに上下している。
「………、…っ…」
「や、…駄目だ…我慢できない」
「してねえで笑ってんだろーが…っ……」
「いやいや…我慢できないっていうのはさ…」
 こっち、と言って。
 乾は海堂を抱き締めてきた。
 しっかりと背中と後頭部とを抱き込まれる。
 乾の胸元に、嘘みたいにすっぽりとおさめられて、海堂は熱を帯びる顔を自覚しつつも噛み付いた。
「あんたみたいに余裕ねーんだよ、こっちは…!」
「俺だってないよ。そんなもの」
 好きで好きで好きでと。
 低い声で淡々と、乾がやたらとそれを繰り返してくるので。
 海堂は居たたまれず、耳を塞ぎたくなった。
 抱き込まれているこの体勢では到底不可能な事だったが。
「耳でも塞ぎたそうだな。海堂」
「…っ…、……」
「そんな事しても聞こえなくならないと思うが…」
 すこぶる機嫌よく笑う乾は、腕をゆるめてきた。
 お互いの合間に少しの空間が出来る。
 乾の手のひらが海堂の両耳を覆う。
 海堂はそうされたまま乾を見返した。
「………………」
 音が。
「海堂?」
 音が、する。
 血液が流れている音だろうか。
 耳元にぴたりと宛がわれた乾の手のひらから聞こえてくる音。
 それに集中して無意識に目を閉じた海堂は、再び唇を塞がれて、赤くなった。
 ねだりでもしたかのような自身の振る舞いに気づいたからだ。
「なんか可愛い顔してたな、今」
 何考えた?と乾がからかうでもない丁寧な口調で聞いてくる。
 可愛いとか言うなと憮然としながらも、海堂は乾の音を尚もよく聞くように、その手のひらに耳元を預ける。
 それだけの所作で乾は理解したようだ。
 海堂の両耳に手のひらを宛てながら、近づいてきて囁いた。
「こうやって耳塞いだ時に聞こえてくる音って、何の音だか知ってるか。海堂」
「……血液の流れる音じゃないんですか」
「そう思われがちだけどな」
 違うんだよ、と乾は言った。
「手のひらの筋肉が収縮してる音なんだよ、これ」
 は?と思わず海堂は口にしていた。
「それって」
「疑うなよ」
 本当の話、と笑う乾に、疑った訳ではと否定しながらも、海堂は自分の耳を覆っている乾の手のひらに集中する。
「筋肉は、細長い筋線維が束になってるだろう? 筋肉っていうのは収縮する時に微量の音が出てる。それが聞こえるんだ」
「………………」
 これは乾の手のひらの筋肉が収縮している音。
 海堂は、じっと耳を傾けた。
「だからそういう顔するとな……」
「………………」
 言葉途中で、また。
 キスをされた。
 今度はもう少し深くて、長くて、重ねられたキスだ。
 聴覚を遮断され、海堂に聞こえているのは乾の音だけだった。
 海堂は唇をひらいていて、含まされた舌は、ひどく心地良かった。
 キスがほどけて乾を見つめていると、珍しく乾が視線を泳がせた。
「………本当に両極端だな。海堂は」
「………………」
 余所見か直視だ、と乾は囁き淡く苦笑いをしている。
 海堂は無言で手を持ち上げた。
 乾がしているように、海堂も。
 乾の耳元を両手の手のひらで覆う。
 乾にも聞こえているだろうか。
 海堂の手のひらの筋肉の収縮音。
 自分達の手は、同じ物を掴む、異なる手だ。
「………………」
 お互いがお互いで聞いている音、それらを生む手は、いつの間にか重ねられて。
 指を絡めて。
 繋ぎ合った両手を下に落とし、静かにまたキスをする。
 吐息も溶かしあう距離。
 合わでた手のひら。
 手のひらの音と音が重なって、互いの唇と唇が重なって、ゆっくり和いでいくのが判る。


 余所見の仕方など、判らなくなった。
 てめえには色気がない。
 跡部は以前そう言った事がある。
 言った相手は神尾だ。
 何度目かのキスになっても、まだガチガチに固まっている神尾にそう言ってやったのだが、それを聞いた神尾は突然ぱちりと目を開けて、大真面目な顔をして跡部に返してきた。
 それ俺にあったらおかしくね?
「………………」
 余計な事を思い出したと跡部は思った。
 あの時も、今も、神尾は硬直して跡部のキスを受けている。
 薄い瞼の皮膚と睫毛の先の細かな震え。
 唇を舐めて、舌先をあからさまに差し入れて、ガードが固いのか無防備なのか判らない唇のあわいを潜る。
 癖の無い、感触ばかりがとろりとした小さな舌を、愛撫のように同じ器官で弄りながら、跡部は唇を合わせ、舌先で神尾の口腔を探る。
 神尾は小さな声を細い喉からもらしている。
 身体は強張ったままで、でも内部は少しずつ柔らかくなり、濡れていっている。
 あの時も、今も、跡部が思う事は同じだ。
 ないと決めてかかって言うしかない。
 ありすぎるからむかついて仕方ない。
 煽られている自覚は最初からあった。
 おかしいのは俺かと、呆れと八つ当たりで凄むような目になって、跡部は神尾の舌を貪って口付けを深くしていく。
「ん…、っ…ん、…」
「………………」
 最近は、キスをしながら身体を撫で回している。
 それで煽ってやろうとして、結局煽りをくらっている気がしないでもないが、神尾の薄い身体のそこらじゅうを跡部は手のひらで撫でている。
 今日は、塞いだ吐息が過敏に揺れるから、腿をしつこく擦る。
 いい加減もう、びびられても、抱いちまうかと。
 跡部は考えて、唇を離す。
 互いの唇の合間に透明に撓む口液。
 濡れた神尾の唇は薄く開いていた。
「………………」
 元々跡部は、奪う事にはさほど興味が無い。
 奪うという事は、他人のものを取り上げるという事だ。
 盗み、失わせるという事だ。
 これまで跡部が欲しいと思ったものは、手に入れてきたものは、他人の持ち物であった事は一度もない。
 だから手こずるのだ。
 目の前にこの存在に。
 奪うやり方ではなく、それでも、自分だけのものにしてやるにはどうしたらいいか。
 神尾にはこうしてキスだけで、それ以上のことは、まだ何もしていないという事を。
 跡部を知る人間に聞かせてやれば、さぞや呆れたり驚いたりするであろう自分を跡部は自覚しつつ、神尾の首筋を食んだ。
 神尾はされるがままだ。
 跡部がする事に、硬直するのは毎度だが、抗われた事は殆どない。
 恐らく判ってないのだろうと跡部は思う。
 名前だけで認識している行為といったところか。
 現に今も、喉元を舐め上げてやれば声を詰まらせて震えたのに。
「…何だよ」
 視線を感じて、跡部は神尾の首筋からちらりと上目に目線をやる。
 思った通りに神尾はじっと跡部を見てきている。
 跡部が至極不機嫌に問いかけた事への神尾の返事はこうだ。
「や、………どう…やんのかと思って」
「………………」
 つくづく判っていない。
 何がというよりも、もう何もかもがだ。
「後学の為か?」
「え…?」
 取り繕うのも面倒で、跡部は不機嫌を隠さなかった。
 神尾が、こうがく?と聞き返すのを遮って、跡部は別の言葉も口にした。
「それとも比べてんのか。お前」
「くら………」
 何と!と即座に返されて。
 誰と!と言われなかっただけまだマシかと思いながらも跡部は神尾の首筋にきつく吸い付いた。
「……ッ…、…た…」
「痛くしてんだよ」
 あからさまに濃厚な、抱いたり抱かれるする身体にしかつかない痕を、何も判ってない知らない身体につけていく。
「…………あと…べ…」
「何だよ」
 耳の縁もついでに甘く噛んでやった。
 神尾が両手を伸ばしてきて、跡部は神尾に抱き締められた。
「ごめん」
「何が」
「傷つけた…?」
「馬鹿だろ。てめえ」
「う……ごめん、なさい」
 多分今の自分達の会話は、本質的なところがずれたままで交わされている。
 跡部が言った悪態の意味と、神尾が謝る言葉の意味は少しずつ違う。
 けれども。
 甘やかされてやると、不遜に神尾に抱き締められたままの跡部も。
 判らないながらも人の心情に過敏な故に、ぎこちない言葉で跡部に謝る神尾も。
 大事にしたい、なくしたくないものは同じだ。
「………………」
 お互いの手を伸ばし、お互いの力で抱きしめあう。
 唇を、幾度も、重ねる。
 唇を、幾度も、合わせる。
 今、一番必要で、有効で、効率的な。
 今、その思いを真摯に告げる為の術は。
 これなのだろう。
 我慢とも違う。
 困惑とも違う。
 今、何の過不足もなく、自分達に必要なもの。
 しているキスは、したいキスだ。
 力強く骨ばった、男っぽい手だ。
 ふと、宍戸はそう思った。
 その考えは雑談の中の雑念にはならず、宍戸の動きを、鳳の手を見る事だけに集中させた。
 途切れた言葉。
 途切れた動作。
「…宍戸さん?」
 どうかしましたかと、怪訝なだけでなくやけに慎重に声をかけてくる鳳に、宍戸は生返事で首を振る。
 着替えの動作を止め、ただ見つめた。
 ロッカーを閉めた鳳の手。
「………………」
 いつものように最後まで二人でテニスコートに居残った部活の後、部室で制服に着替えながら他愛ない話をしていたさなか、突然に宍戸は口を噤んで鳳の手を凝視しているという状況。
 鳳は声に滲ませた通りに不審だろうが、宍戸はそんなことはお構いなしだった。
 それよりも。
 鳳の手だ。
 今初めて気づいた訳でもないのに。
 ずっと知っている筈のものなのに。
 宍戸は真剣に、鳳の手を見つめた。
 骨格の硬質さと、しなやかな筋肉とが、共存している手。
 鳳は、こんな手をしていたのかと、宍戸は突然に不思議な感覚に襲われてしまった。
「………………」
 優しい丁寧な印象ばかりを伝えてくる鳳が、その手にしなやかなだけでなく、こんなにも印象的な強靭さを持ち合わせていた事。
 宍戸はこれまで知らなかった気がする。
 ひとしきり凝視して、宍戸は無造作に鳳の手首を手に取った。
「な……」
「………………」
 手に取って、尚見つめる。
 大きな手のひらと、それよりもっと長い指。
 固さや、温かさ、肌の色、爪の形。
「………あの………宍戸、さん…?」
「何だよ。……、って…何だよ、お前」
 何で顔そんな赤いんだよっ、と宍戸は咄嗟に叫んだ。
 思わずつられて宍戸も赤くなる。
 鳳は宍戸がつかまえていない方の手で口許を覆って、顔を片側に俯かせ、そして。
 判りやすく赤くなっている。
「何って……あのねえ、宍戸さん」
「…………っ……」
 肩を落として項垂れるようにしているのに、骨のしっかりした首筋の滑らかさに、宍戸はどきりとする。
 あまつさえ。
 宍戸よりも背の高い鳳が、上目にちらりと宍戸を見上げてきた眼差しや、言った言葉が殊更宍戸の動悸を激しくさせた。
「好きな人にこんな風にされたら、顔が赤くもなります…」
 臆面も何もなく、なめらかな声で囁かれ、宍戸もうろうろと視線を彷徨わせた。
 言葉が出てこない。
 鳳が生真面目に問いかけてくる。
「俺の手……何か…?」
「…や、……なんつーか…キレーな手だなあと……」
 思ったままが宍戸の口をついて出る。
「……はあ……きれい…ですか?」
 鳳はストレートな困惑で聞き返してきて、宍戸が手首を掴んでいる自らの手をまじまじ見て言った。
「結構ゴツゴツしてると思うんですが……」
「あー……まあ、お前、手でかいけどよ……」
 それでもやっぱりキレーだぜ?と宍戸が言うと。
 鳳は少し怒った目になった。
「……長太郎?」
 何でだ?と内心だけでなく実際にも首を傾げた宍戸に、鳳はひそめた声で告げてくる。
「他の人に言わないで下さいね。今みたいなこと、今みたいな目で」
「……お前にしか思わねーよ、こんなん」
 何を怒ってるんだと、宍戸にしてみれば当然の事だけ、告げてみれば。
 宍戸はロッカーに背中を押し付けられて、鳳に唇を塞がれる。
「………、ン」
 宍戸の頬を包んだ鳳の右手は優しく。
 宍戸の腰を抱いた鳳の左手は卑猥だ。
 放熱するように熱くなる。
「………長太郎…、……?」
「何ですか。……、って…本当に、何ですか、宍戸さん」
 あんな目や仕草や言葉は平気で放ってきて、と。
 宍戸は鳳に甘ったるくなじられた。
 それこそ先程の宍戸の言葉をそっくり繰り返した鳳に、宍戸も同じリアクションを返してやりたくなる。
 何って。
「……好きな奴にされたら、赤くもなんだろーがよ」
 くそ、と腹立ち紛れに言ってやる。
 凶暴に見据えて、凶暴に悪態をついてやったつもりの宍戸に、鳳はといえば、きれいであまい視線と言葉を返してきて、本当に。

 何なのだ、こいつは。
 何なのだ、この人は。

 お互いそんな事を思いながら、静かに唇を、重ねている。
 構う、という言葉を海堂は使った。
 乾は少し考えてから口をひらく。
「俺ってそんなに海堂を構ってる?」
 海堂に言われた言葉で乾は聞き返した。
 何の気もなくといった風を装いながら、その実、かなり慎重に。
 何せ海堂は、未だ手放しに乾に心中を晒す事は決してしない。
 乾にメニューを作って貰うという状況を前にして、漸く海堂は、乾に対して今のこの距離感になったのだ。
 この距離は、急いて詰めれば容易く開きをつけられる。
 乾はそんな気がしてならない。
「………………」
 例えばこんな時。
 テニスのこと以外で乾が最初から過度に言葉を並べてしまうと、海堂は即座に沈黙してしまう。
 これが桃城相手だったりすると、海堂はちゃんと、言われた言葉や感情に見合う量で返すんだがなあ、と乾は内心で嘆息している。
 その点でまだ自分などは、海堂に対して構えられる存在なのだろうと乾は考えている。
 海堂の言った、構うという言葉とは別の意味でだ。
「そうか…? 構ってるかな」
 そんな訳で極力控えめな問いかけと疑問にとどめた乾に対して、海堂はといえば、こくりと頷いた。
 それは溜息をつくような頷きだったが、困ったり弱ったりしている訳ではないようだと乾は尚も細かく海堂の様子を伺う。
「わざわざ…こんな風に俺に構うのは、…あんたくらいだ」
 一言ずつ重く呟くような言い方で。
 構う、と海堂は言うけれど。
 乾が今海堂にしている事は、多分そんなに特別なことではない筈だ。
 メニューの受け渡しがてら昼飯を一緒に食おうと誘い、天気が良いので部室の裏庭に座り込んで弁当を広げている。
 乾は正直な所機嫌がいい。
 気分がいいのだ。
 海堂といると。
 そして海堂はといえば、構うと言うくらいだから、少々この場の居心地が悪いらしかった。
 豪勢な弁当に箸をつけながら、少し眉根が寄っている。
 そんな海堂の表情を、乾は自分の顔が緩んでいる自覚は持ちつつ、盗み見ていた。
 多分海堂からは、弁当に没頭しているようにしか見えないだろうと確信しつつ。
「羨ましいならお前らもそうすればって俺は言ってるんだけどな」
「…は?」
 一呼吸後に、怪訝そうな短い声が乾に放られる。
 海堂は何に対してもストイックだ。
 何だか話し方まで。
 感情を抑えたような口調や声音で話すのが常だけれど、多分、海堂の素での話し方や声はもっと柔らかい感じなんだろうなと乾は思っている。
 弁当の中身を着々と片付けていきながら、乾は淡々と言った。
「海堂が乾にだけ懐いたー、馬鹿乾ー!……ってのはどういう理屈なんだろうな…」
「………乾先輩?」
「脅してるんじゃないよね?…なんて微笑まれて一言聞かれるよりかはマシだが」
「あの……」
 ああ、菊丸と不二がね、と付け加えた乾の視界の端。
 海堂の目が見開かれるのだ見えた。
 正面に座っていて盗み見ているっていうのもどうなの、と乾は密やかに思うが、あんまり直視すると視線逸らされるからなあと誰に言うでもない言い訳を頭の中で添えてみたりする。
 何せこの後輩は。
 海堂は。
 誰とも馴れ合わない。
 上級生には寡黙に礼儀を払うが、必要最低限の接触程度で、それは同級生に対しても下級生に対しても代わらない。
 乾の同級生たちが言うように、そんな海堂に乾は懐かれているといえば懐かれているのかもしれない。
 けれど、乾が欲しいのは、今のこの状況だけではないのだ。
「海堂は、俺だけがお前に構うって言うけどさ。……ええと、そうだな…例え話で言うと…」
 思案して呟きながら、乾は正面から海堂の目を見た。
 じっと見据えると、海堂は同じように乾を見返してくる。
「そうだ。…例えば写真を撮ろうとして。俺が撮る人って事でね」
「……はあ」
「うちのテニスコートで、テニス部全員の集合写真を撮るとする。その時に、海堂だけを大きく写すには、俺はどうしたらいいと思う?」
 別に大きく写さなくていいという低い呟きを乾は笑いで流して、つれない後輩を取り成した。
「例え話だよ」
「………………」
「それにはさ、お前の力がいると俺は思う」
「…俺…っすか」
「そう」
 あくまで写真を撮るのは俺だけど、と前置きして乾は話を続けた。
「俺が立ち止まって、カメラを構えて。離れたところで一箇所に集合させたテニス部のメンバーをフレームに入るようにレンズを覗く」
「………………」
「そうしてから、海堂にだけ、俺の方へ近づいて来てもらう」
「………………」
「海堂だけが俺に近づいて来れば、部員たちはフレームに全部おさまってるまま、海堂だけを大きく写せるだろう?」
 そういう風にさ、と乾は密やかに海堂に告げる。
「こっちおいでって、呼んだのが俺でも。海堂が近づいてきてくれたんなら、海堂だけが大きく写ってる写真が撮れるだろう。今っていうのは、つまりそういう状況なんだと俺は思う」
 乾が海堂を構っただけでは、互いの距離など縮まらない。
 海堂が応えてくれたから、他の人間とは違う距離感になったのだ。
「全体を入れる為に、一番肝心なものが小さくなるのは不条理だと思うんだよ」
「そこのところは…よく……判らないっすけど」
 その前の話は。
 何となく理解した。
 海堂は、そう言った。
 どことなく面映そうに見えるのが、何だかやけにかわいらしく思えてならない。
 乾はひっそり笑った。
 少なくとも、そう遠くはない未来には。
 全員を写すから、という大義名分など無しにして、海堂だけの写真を撮れるように。
 つまり、何かしらの理由があって、こうして向き合い昼食を共にしているのではなく、もっと単純に、もっと簡単な理由で、構うとか構われるとか、したいわけなのだ。
 乾は。
「海堂。食わないと時間なくなるぞ」
「………………」
 考えもうとしかけていた海堂を、謎かけのような会話から解いてやる。
 乾も弁当に取り掛かりながら、新緑の木陰で、ふと願う。
 そこのところも、いずれはよく、判ってくれよと。
 寡黙でガードの固い後輩の、ひどくやわらかい部分に思いを馳せて、ふと希った。
 一緒に眠る。
 そうするといつも決まって、寝つく時には赤澤にキスをされる。
 普段の観月はあまり寝つきの良い方ではないのに、甘い丁寧なやり方で優しく口付けられていると、首の辺りからじわりと温かくなって、そこからゆるく溶け込んだ熱に手足の先まで温まって、眠くなる。
 恐らくそれまでの間に散々疲れるような事をされているせいもあるのだろうが、キスの為に閉じた瞼がそのまま眠りにつながって、甘やかされる舌の感触を体感しながらいつの間にか眠ってしまっているのが常だ。
 その時だけのやり方のキス。
 眠りにつく時以外に、そのキスはされない気がする。
 ぼんやりと、観月は考えていた。
 その、不思議なキスの事、それから。
「………………」
 寝つきのよくない観月の、寝つきをよくする男は、目覚めのよくない観月の、目覚めもよくする。
 観月は目を閉じたまま、昨夜の事を考えている。
 そうしている今はもう、朝なのだと判っている。
 低血圧気味の観月は、正直な所朝は苦手だった。
 マネージャー業もこなす以上、部活では誰よりも早くコートにいる観月だが、毎朝だるく目覚めている。
 それが、赤澤と寝た翌朝だけは、目覚めまでも甘ったるいのだ。
「………………」
 赤澤は観月の髪を撫でて起こす。
 観月が覚醒し出す時、いつからそうしているのか、赤澤はその大きな手のひらで観月の髪をゆっくり撫でている。
 いつも。
 心地良さで目が覚める。
 すぐに目を開けたりは出来ないが、観月は赤澤に髪を撫でられているのを感覚で追いながら、まどろんで、目を覚ます。
 声をかけられなくても、肩を揺すられなくても、とろけるように目覚める。
 時間がさほどない時だけ、その上で、そう、こんな風に。
 手を、握られる。
「………………」
 指先を包みこむよう握り取られる。
 繋がった手と手。
 感じる体温。
 観月は目を開けた。
「はよ」
「………………」
 観月の指先に赤澤の言葉が当たる。
 指に、赤澤の唇の感触がする。
 ぎこちなく数回瞬いて、それから観月は、じっと赤澤を見た。
「寝起きも綺麗だなぁ…お前」
「………………」
 おはよう、ともう一度言った赤澤は、同じ声の調子でそんな事を軽く言って。
 それこそ朝一番によくもそんな鮮やかな笑い顔が出来るものだと観月が内心で感心するような表情で起き上がった。
 横向きで寝ていた観月の身体を滑らかな所作でうつ伏せにしてくる。
 赤澤にされるがままでいる観月は、喋るのがだるいので黙っているものの、もう目はきちんと覚めている。
 それなのに赤澤の手のひらが観月の背筋から腰にかけて、ゆっくりとやわらかな圧でマッサージのような動きをほどこしてくるから、うっかりうっとり目を閉じてしまう。
 昨晩、幾らか無理な体勢をとったりした事は事実で、それを解きほぐすかのように、赤澤は観月の薄い背から腰にかけてを擦ってくる。
 起き抜けに、冗談のように気持ちがいい。
 観月は小さく吐息を零した。
「………………」
 赤澤は毎回普通にこんな起こし方をしてくるが、こんな事が癖になってしまったらどうしたらいいのか。
 怖いような気がする。
「……も、起き…ます」
「おう」
 ずっと、なんて思ってしまいそうで。
 観月が小声で言って身体を起こそうとすると、赤澤はするりと手を引いて、観月の肩を抱くようにした。
 手助けと気づかせないような自然さで。
「………………」
 観月が上半身を起こすと、赤澤は観月の頬に軽くキスをしてベッドから下りた。
 長い髪を右手でかきあげて、シャワーしてくると言って、部屋を出て行った。
「………………」
 残された観月は、赤澤にキスされた頬を押さえるのも気恥ずかしく、曖昧にそこに宛がいかけていた手を、結局は自分の後ろ首に運んだ。
 俯いて、小刻みに早くなる心臓の音に、じんわりと頬を熱くさせる。
 赤澤がいなくなって、一人になると、こういう羞恥心が一気に膨れ上がるのだ。
 寝起きの顔色の悪さは自負している観月だったが、赤澤と眠った日の翌朝の顔色は、見なくても判っていた。
 あの男は、自分の身体に、良いのか悪いのか。
 観月はそんな事を考えた。
 それは一向に答えが出ない疑問であったが、でも、ひとつだけ判っていることがある。
 例え良くても悪くても。
 なくなったら、こまる。
 観月はその事だけは、とてもよく、判っていた。
 同じ事を何度となく繰り返すということは、基礎というか反復というか、つまりは普通ならばだんだん慣れて、どんどん上達するのが常の筈ではないのだろうか。
 それなのに、どうしてこれは、そうならないのか。
 寧ろだんだんと、どんどんと、後退していっている気がした。
 ぐったりとベッドにうつ伏せた体勢で、神尾は空ろに考えている。
「………………」
 跡部が触れたところ。
 跡部が入ってきたところ。
 跡部が濡らしたところ。
 体感はリアルで、今はそうされていないのに、まだ全てが引き続いているかの如く、神尾の四肢は時折意味もなく、びくびくと跳ね上がる。
「…………ふ…」
 息を詰めては、ほどく。
 その繰り返し。
 吸う息も、吐く息も、未だ燻る残り火のように神尾の口腔を痺れさせていた。
 おさまらない、苦しいくらいの熱の中での呼吸。
 肩が上下する。
 気道が苦しい。
 こめかみから汗が流れてくる。
 肌の上を撫でていくような汗の微かな触感にすら、神尾は細かく震え続けた。
 なんなんだよこれという泣き言めいた言葉で頭の中をいっぱいにして、唇を噛むので精一杯だった。
「………………」
 初めて跡部とした時は、経験のない甘ったるい倦怠感に疲れ果てながらも、その後じゃれるような言い争いを同じベッドにいるまま跡部と繰り交わす事が出来た筈。
 二度目の後は、どうにかして跡部の腕からもがいて抜け出そうとし、すぐさま捕まえられ、また逃げ出し、また捕まって、そんな真似が出来た筈。
 三度目の後は直後に少し気を失いはしたけれど、目が覚めた後は跡部の軽口にも言い返す事が出来た筈。
 四度目の後は、いつまでたっても呼吸が収まらずにいたものの、涙目で跡部に不平を言う事が出来た筈。
 そういう事を考えていると、すでに幾度目になっているのか判らない今の自分の状態は、いったいどういう事なのかと神尾は混乱しきっていた。
 上掛けに包まって、丸くなって、シーツの上で身体を竦ませ続けている自分はいったい。
「神尾」
「………っ、…」
 背後から腕が伸びてくる。
 身体に巻きついてくる。
 神尾は思わず泣くような声を迸らせて硬直した。
 余韻だけで半泣きだった所に、実際に触れられてしまってはもうひとたまりもない。
 跡部は至極無造作に抱き込んできたけれど。
 神尾は肩を窄ませて動けなくなる。
 頬を撫でられた。
 顎を支えられた。
 唇を辿られる。
 跡部の手に、指に、顔を触れられながら。
 神尾の身体はくるりと返された。
 寝そべったままの体勢で、跡部と正面から向き合う。
「………………」
 目が、眩しいものでも見ている時のように、ちかちかする。
 顔に在る手、繋がる視線。
 そういうものを認識する都度、神尾は肌を震わせた。
「………………」
 神尾の上にいて汗を浮かべていた跡部の肌は、もうさらさらとしている。
 抱き寄せられて知る。
 喉奥で悦楽を転がしているよう卑猥な笑み交じりの呼気を漏らしていた唇も、今はひどく涼やかに見える。
 目の前に晒されている。
「………………」
 神尾が、自分ばかりが未だにあの熱を引きずっている状態である事に居たたまれなさを覚える程に、跡部は穏やかだった。
 ベッドに横たわったまま向かい合い、神尾の髪をゆっくりと後頭部へと撫でつけてくる手のひら。
 宥められているのか煽られているのか神尾には判らなかった。
 何かを言いたい気もするが、唇が動かない。
 跡部を見つめ返していると涙で目の奥が熱くなる。
 吐息がまた潤んだ熱をはらんで唇から漏れていく。 
「………早く帰って来いっての…」
 徐に跡部が言った。
 唇の端を引き上げて、跡部は笑っている。
 神尾の髪を撫で、頬を撫で、眦を撫で、唇を撫で、笑っている。
 甘い見つめ方をされて、跡部のその眼差しに、溶けたようになって。
 手足に力が入らない。
 本当に、これではまるで骨抜きという状態だった。
 どこにも力が入らない。
 跡部に見つめられ、撫でられていると、身体はますます動かなくなった。
「………………」
 どうしよう、と思って心細く。
 早く帰って来いっていうのはどういう?と思って更に心細く。
 神尾が手足を縮めて小さく丸まると、跡部が乗りあがってきた。
「………ったく……しょうがねえな。俺がそっち行ってやるよ」
「…………と…べ……」
「ベソかいてんじゃねえよ」
 悪態をつく跡部の唇が、しかしふわりとやわらかく神尾の唇を覆った。
 やさしかった手のひらが、やらしくなって、神尾の身体を辿り出した。
「どっちが甘やかされてんだか判らねえな」
「、跡……、部…、…」
 甘いだけでなく危うさも含んできつく鋭くなった跡部の視線に晒されながら、神尾は跡部の言葉の意味を考えるけれど。
 笑みを刻んだ形の跡部の唇に濃密なキスをされてしまうと、もう。
 他所事は全て、神尾から霧散していってしまった。
 雨の降る音が聞こえる。
 本当は、もっとずっと前から響いていた音なのかもしれなかったけれど。
 宍戸の耳に届いたのは今だった。
「………………」
 ぼんやりと目を開ける。
 室内は薄暗い。
 同じベッドに寝ている男が宍戸に背を向けていた。
 横になったまま腕を伸ばして、床に落ちている上掛けを掴んでいるようだった。
 剥き出しの肩甲骨が動く。
 締まった背中が捩れて影を刻む。
「………………」
 宍戸は身じろいだ。 
 とん、と額をその背に当てる。
 少しだけ。
 本当に、少しだけ。
「……おでこもいいんですが、キスだともっと嬉しいです」
「…………阿呆」
 そんな風に低い優しい声が返された。
 宍戸は眠気や気だるさに浸ったまま呟く。
「………背中の…皮膚の器官は」
「はい…?」
「温度や圧力は判るけど、落とされた液体が水かゼリーかは判らないって話聞いた事あるけどな……」
 額と唇の差が判るくらいなら、案外敏感なんじゃねえの、と口にした宍戸に長い腕が回される。
 振り返ってきた鳳が、リネンを手にしたままそれで宍戸を包み込む。
 抱き締める。
「お前が敏感なのかもしんねーけど……」
「俺の皮膚感覚が、特別に過敏って訳じゃないと思いますよ」
 鳳は笑う。
 宍戸は包まれる。
 リネンの上に体温。
 体温の上に腕。
 腕の上に微笑の気配。
 やわらかく、幾重にも、覆われる。
「判るのは、宍戸さんが触るからですよ」
「………………」
「宍戸さんのだったら、例えば俺の背中に落ちたのが、汗なの涙なのかも判る気がする…」
「……試してみるか?」
「泣かせたくないから嫌です」
「泣いたろうが…すでに散々……」
「さっきのはいいんです」
 瞼に唇が寄せられる。
 目を閉じてそれを受けた宍戸は、更に自分を幾重にも包んでくる、甘ったるい接触や抱擁や言葉をまざまざ体感する。
 これだけ重ねられても、何故か息苦しさを覚えない。
 鳳のやり方は何なのだろう。
 それどころか、寧ろもっと欲しくなるのだから、不思議だ。
「目…覚めたの、どうしてですか」
 どこか苦しい?とゆるく抱き込まれて問われれば。
 宍戸はちいさく笑うしかない。
「雨の音がしたのと、お前の気配が離れたからだろ。そんなのは」
「……敏感って、それどっちの話ですか」
 鳳も低く笑って、雨音を聞き取った宍戸の耳を手のひらでそっと撫で、無くした分の気配を与えるように抱き締めてくる。
「………きもち、いいな…お前」
「んー……それは今言われるとちょっと複雑です」
 本当に複雑極まりない笑いで返してくる鳳に宍戸の方からも擦り寄っていく。
「お前は、いつでも、いいよ。……いつも…きもちいい」
「宍戸さんー……」
 だから、参るなあ、と泣き言めいた事を告げられて。
 それを雨音と共に聴覚に転がして、宍戸は笑んだまま目を閉じる。
「さっきも」
「や、……これ以上は真面目に勘弁してください」
 ぎゅっとかなり強い力で抱き締められたのに、少しも苦しくない。
「寝ちゃってください。今すぐに」
「…おー……」
「はい。お願いします」
 切羽詰ったような、ひどく生真面目な声に、乞われるまま。
 宍戸はあくびをひとつ零して、どうしようもなく居心地のいい束縛の中で目を閉じた。
アーカイブ
ブログ内検索
バーコード
カウンター
アクセス解析
忍者ブログ [PR]