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How did you feel at your first kiss?
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 朝練に向かう通学路で顔を合わせた乾に、出会い頭いきなり。
 まじまじと見つめられて、しみじみと呟かれた言葉に、海堂は脱力する。
「海堂は……いい匂いがするな……」
「………………」
 何をそんな真顔で。
 何をそんな良い声で。
 言っているのかと。
 海堂は内心でのみ言葉にする。
 なりゆき上、自然と肩を並べて歩き出してからも、乾は伸びのある滑らかな声で呟いている。
「いつもそうだが……今日は特に」
「………………」
 顎のあたりに手をやって、生真面目にそんな事を言う乾に。
 海堂は、今度ははっきりと、溜息を零した。
「………食いますか」
 そして、そう聞いた。
「うん?」
 乾はこんなに鼻のきくタイプだったのだろうかと思いながら、海堂が鞄の中から取り出したものは、今朝方母親に手渡された半透明の袋だ。
 ろうびきされたワックスペーパーで出来ているマルシェの中身は。
「うまそう」
「……どうぞ」
 口を開けて乾に差し出すと、確かにイチゴの匂いだったと乾は笑って長い指を袋の中に忍ばせてくる。
 母親に半ば無理矢理、お友達と食べなさいと持たされた時は果たしてどうしたものかと思ったのだが。
 よかったのかもしれない。
 昨夜海堂の家で焼かれたそのクッキーは、作りおきをあまりしない母親にしては珍しく大量だった。
「これうまいな。ん?……このイチゴって、もしかして生?」
「……はあ…」
 弟の葉末が好きで春になると度々海堂家で作られるイチゴのクッキーは、生のままのイチゴを刻んで入れて焼く。
 焼いている最中も、焼きあがりも、イチゴの香りが広がるので、案外身体にもしみついているのかもしれないと海堂は思った。
「先輩……もしかして、朝飯食ってないんですか」
「ちょっと昨日遅くてね」
 ぎりぎりまで寝てたと笑う乾に、海堂は再び溜息をつき、袋を押し付けた。
「お?」
「………食え。全部」
「食えってお前」
 先輩だぞ俺はと乾が笑う。
 やわらかい言い方をする乾に、いいから、と海堂は尚も強引に、その袋を押し付けた。
 言葉のうまくない自覚はあるから。
 本当は、いろいろと思う事はあるけれど、言えないまま海堂は黙って乾を見据えるだけだ。
 乾の睡眠不足の原因の中には、彼がテニス部の為にデータをまとめている時間もあるだろう。
 趣味だからねと大抵笑ってやりすごしているけれど、部の為の無償のデータベースは
、すさまじい徹底ぶりなのだ。
 海堂の視線を真っ向から受け止めて、乾は少し考える顔をして、そして。
「ありがとう。じゃ、頂くよ」
「………………」
 乾の笑い方は、いつもやわらかい。
 お母さんによろしくな、と低い声で言いながらクッキーをまた口に放り込む乾の横で、海堂は小さく頷いた。
 一見日常生活に無頓着なようでいて、あれだけ緻密な計画を練る乾だから。
 実際は、海堂が危惧するような事は何もないのかもしれない。
 眠る時間、休む時間、食べる時間、それらは必要な分ちゃんと乾に取り込まれているのだろうけれど。
 何故か、海堂には乾が気にかかるのだ。
 目が離せないような、不安定さを覚えてしまう。
 自分の思い込みに過ぎないと判っていながら、海堂はどうして自分がこんなにも乾が気にかかるのかは判らないでいた。
「さっきも言ったけど、海堂はいつもいい匂いがするんだよなぁ……」
「………は…?」
 クッキーを食べる乾と考え事にはまった海堂とで、とりたてて会話もなく歩いていた二人だったが、徐に乾が言った言葉に海堂は不審気に相手を見やった。
 乾は海堂に語りかけているのか独り言なのかよく判らない話し方で。
「昨日、渡り廊下で擦れ違ったろ」
「……乾先輩が教室移動って言ってた…?」
「そう、昼休みの後。あの時も、今時擦れ違って石鹸の香りがするってすごいことだと思ってたんだが」
「…………石鹸使って雑巾洗った後だっただけですけど…」
 あまりに廊下の水飲み場が酷い状態だったので、手を洗うついでにそこにあった雑巾で拭き、そのままにしておくのが嫌で石鹸を使って洗っただけの話だ。
「それは見てたけどさ。海堂は、そういう所、ほんといいな。ちゃんとしてて」
「……は…ぁ…」
「雑巾洗いだろうが何だろうが、海堂から石鹸の香りというのは事実な訳だし?」
「あんたの言い方……なんか……」
「ん?」
「………何でもないっす」
 口にするほうが気恥ずかしい気がして、海堂は首を振った。
「今日も朝からお前はいい匂いだし」
「……腹減ってたんだろ…あんた」
「腹の減り方にも、いろいろあるよな」
「え?……」
 乾の口調がすこし変わって、不思議に思い海堂が見上げた先で。
 乾は確かに、何か意味のあるような笑みで海堂を見下ろしてきていた。
 目が合うと、何故かまるで何かをごまかすかのように乾は手にしていたクッキーを海堂の口に入れてきた。
「…………、…」
 無意識に一口海堂がそれを咀嚼するなり今度は。
「海堂、明日誕生日だな」
 乾はそんな事を言ってきた。
 クッキーを食べさせられたいきなりの行動には驚いた海堂だったが、今度のいきなりの問いかけには別段驚く事もなく、海堂は頷いた。
 甘酸っぱいクッキーを食べてから口にする。
「乾先輩の頭ん中には、どれだけのデータが頭に入ってんですか…」
 誕生日まで全部インプットされているのかと思うと本当に驚いてしまう。
 海堂のそんな呟きに、しかし乾は深々と溜息を吐き出し、肩を落とした。
「…先輩?」
 そんな態度に驚いて、海堂が怪訝に乾の名を呼ぶと。
 乾は複雑そうに空を見上げてしまう。
「………………」
「データ収集が趣味っていうのは、こういう時に不利なんだな」
「……何の話っすか…」
「特別って事にならないんだな……参った」
「あの」
 乾は何を言っているのだろうと海堂は不審を募らせて眼差しで探るものの、少しも真意はつかめなかった。


 変な人だ。
 そう、本当に。
 海堂は思う。
 でも、変な人だから気になるのではないという事は、海堂にも薄々判ってきている。
 何よりもまず先に、ただ気になるから。
 とにかく気になるから。
 それから変だと思い、何だろうと思い、どうしたんだろうと思い。
 結局いつも、いつまでも、乾のことを気にかけている。
 乾の事ばかりを考えている。


 自分の中に、まるで封じられているかのように、ひそんでいるものは何なのだろう。
 イチゴの香りが、やけにそれを擽る気がした。
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 湯にリンゴがたくさん浮いていた。
 青リンゴと、紅リンゴ。
 あらかじめ判っている出来事ではあっても、実際目にすれば盛り上がる。
 神尾は気心知れた友人達と今まさにそういう状況に在った。
「すっげえ!」
 もっか銭湯にいる不動峰の二年のテニス部員六名。
 リンゴだリンゴと揃って湯を覗きこむ。
 銭湯に他の客の姿はまだない。
 平日の一番乗りなのだ。
 それというのも、今日の部活は落雷つきの強い雨のせいで急遽ミーティングになった為、いつもよりも帰りの時間が早かったせいだ。
 用事があると言う橘に頭を下げ、先に部室を後にしてきた二年の面々が、連れだって帰宅する時には、すでにその雨も止んでいた。
 そうして帰途につく道すがら。
 『本日リンゴ湯』の銭湯の貼り紙を見つけた神尾達は、勢いでそののれんをくぐったのである。
 貸切状態の広い浴槽。
 貼り紙にあった通りにそこにはリンゴが無数浮いている。
「うっわー、リンゴ浮いてるぜ、リンゴ!」
 賑わう六人の中で一際テンションが高いのが神尾で、一際テンションが低いのは伊武だ。
 それはどの状況でも変わらない、不動峰のいつもの光景だ。
「……リンゴ湯に入りに来たんだからリンゴが浮いてるのが当たり前だろ……リンゴ湯にミカンやイチゴが浮いてる訳ないだろ普通……いやんなるなあ、神尾って。どうして当たり前の事にそこまで喜べるんだろう。俺にはさっぱり判らない」
「だって深司、リンゴ風呂だぜー。リンゴー」
 すっげえ!と嬉々とする神尾の横で、伊武が鬱々と溜息をつき、ぼやき続ける。
 顔を引き攣らせる森、我関せずの内村、温厚に場を取り成す石田と、人数分の桶を用意している桜井。
 好き勝手しているようで、団結力は関東随一だと自他共に認める不動峰の面子だ。
 思い思いの行動を取りながらも、並んでシャワーを浴びる。
 誰よりも素早くシャワーをすませた神尾が、機嫌よく一番乗りにと湯船に向かう背には、次々と声がかかった。
「転ぶなよ、神尾」
「飛び込むなよ、神尾」
「泳ぐなよ、神尾」
「溺れるなよ、神尾」
「リンゴ食べないでよ、神尾」
 ほぼ同時に仲間達からかけられた言葉の数々全部に、しねえよ!と神尾は速攻で牙を向いた。
 どういう言い草だよと不貞腐れたものの。
「…っうわー」
 ざぶんっと音をたてて広い浴槽に沈んでしまえば、無意識に神尾の表情は緩んだ。
 湯の中は広々としていて、手足が楽に伸びる。
 心地良い湯気、ぷかりと浮いている色鮮やかなリンゴ達。
 息を大きく吸い込むと、甘酸っぱい香りがした。
 不動峰は公立校なので、他の私立校のように校内施設が充分に完備されていない。
 通常部活後にシャワーを浴びる事もない。
「快適ー…」
 それゆえに。
 今日はミーティングだけだったといえ、銭湯の湯が格別に思えた。
「きもちいー……」
 満面に笑顔を浮かべた神尾の周囲に、友人たちも次々入ってきた。
「……本当に気持ちよさそうな顔してるなぁ。神尾」
「石田。だらしない顔っていうんだよ。こういうのは」
「相変わらずキツイぜ深司は……」
「………全く」
「ま、俺達全員似たり寄ったりの顔してんじゃねえか」
 そんな風に好き好きに口を開きながらも、六人は思う存分リンゴ風呂を堪能したのだった。



 そんなリンゴ湯から、数十分後。
 神尾は全速力で走っていた。
 せっかくの、あの銭湯の余韻が。
 瞬く間に消えうせていくのを体感しながら、神尾は走っていた。
 くそうと呻いては走っていた。
 とにかく、ひたすらに、走る。
「跡部のやろう!……なんでいつもこうなんだよ…っ!」
 嫌なら行かなきゃいいのにとぼやいていた伊武の言葉がふと神尾の脳裏を掠める。
 慌てて神尾は頭を振った。
 振って、尚、走った。
 リンゴ湯を堪能した湯場から、脱衣所へと出てきた時には、すでに神尾の携帯電話はロッカーの中で鳴っていた。
 受信するなり神尾の耳に飛び込んできた低音。
 うわぁ機嫌悪ぅ、と神尾は即座に思い、頬を引き攣らせた。
 電話をかけてきたのは跡部だ。
 実に判りやすく最悪に不機嫌だった彼は、最初は、何回コールさせりゃ気が済むんだと言って怒っていたのだが。
 神尾が半ば叫ぶように今の状況を説明し返していると、携帯電話からは冷たい怒気が浸透してくるかのような沈黙が流れてきて、そしてその後に。
『……不動峰で雁首並べて風呂に入ってるだと? てめえ、今すぐそこ出て、走れ』
『は? なんで!』
『何でじゃねえ。走れ。二十分で俺の家まで来い。いいな』
『…、よくな』
『いいから、走れ』
 低く重く恫喝されて。
 電話を叩ききられて。
 神尾は腹をたてた。
 むかついて、怒り狂って、ふざけんなと絶叫しながら。
 着替えて、銭湯を出て、走っているのだ。
 友人達には当然、ぼやかれたり呆れられたりした。
 全力疾走などするものだから、銭湯のあの心地良かった余韻も何もなく、汗みずくになった。
 かくして、所要時間は二十分以内だったのかどうか、真偽の程は定かではないが、神尾は走って跡部の家に辿り着く。
 扉が開くなり、跡部は息を乱して汗をかいている神尾を尊大に見下ろし、有無を言わさず跡部家の浴室へ神尾をひきずりこんだ。
 まさに、正しく、引きずり込んだ。
 そして神尾が跡部に成された事は。

 洗われた。

 いったい何が気に食わないのか、泡まみれにされて、隅々洗われた。
 ここ最近で一番最悪の暴挙だと跡部に噛み付きながら、神尾は泡にまみれ、時々キスなどされながら。
 友人たちとはしゃいだ銭湯の余韻も、リンゴの残り香も、さっぱりとした爽快感も、あらかた跡部の手に洗い流されてしまった。
 そうして、跡部が神尾から落としてしまいたかったものは、どうやら何故か、まさにそんなものたちだったらしく。
 浴室から出てからの跡部の機嫌は寧ろよくて、神尾にはさっぱり訳が判らなかった。
 自分の肌から、髪から、身体から。
 跡部の匂いがする中で、神尾はただただ、首を捻るばかりだった。
 快晴の青空に、泳ぐ色鮮やかな魚がいる。
 強い春の風に、閃き、棚引いているその様を。
 彼はじっと見上げていた。
「こいのぼりって、目印なんだそうですね」
 肩を並べて歩きながら鳳がそう告げると、空を見上げたまま宍戸が問い返してくる。
「何の?」
「天の神様に、この家には男の子が生まれたので、この子を守って下さいっていう目印」
「……神様ってのは、女もちゃんと守ってんだろうな」
 いぶかしむ宍戸の横顔を、鳳は笑んで見つめた。
「フェミニストですね。宍戸さんは」
「アホ」
「ひどい」
 別にからかったつもりなど鳳にはない。
 けれど、こいのぼりから鳳へと視線を移してきた宍戸の一言はにべもない。
 鳳はまた笑い、吹き付けてきた強い風を浴びて目を閉じた宍戸を見つめて繰り返した。
「優しい人ですねって意味ですよ」
「アホ」
「んー…これもだめですか」
 乱れた宍戸の髪を、指先で、そっと払う。
 なめらかな額に軽く指の関節を当てて、鳳は宍戸に顔を近づけて声をひそめた。
「俺も目印にならないですかね?」
「何のだよ」
「ですから天の神様に。ここに宍戸さんがいますよー、と」
 だからこの人を守って下さいと。
「俺が目印。幸い今の所まだ背も伸びるみたいだし」
 鳳がそう続けると。
 宍戸はいかにも不服そうな目をして睨んできた。
「目印になんざならなくていい」
「だって宍戸さん、俺が守るって言ったら怒るでしょう」
 俺だって神様に任せようなんて本当は思っていないですと鳳が言えば言ったで。
 宍戸は憮然と返してくるのだ。
「当たり前だ。何でお前に守られなきゃなんねーんだよ」
「大事にしますって意味なのに」
 ひどい、と繰り返しながらも、結局鳳はまた笑った。
 こういう宍戸のことが、とても、とても好きだからだ。
「じゃあ、俺の本音を言ってしまうと……その目印っていうのもね。神様の為って訳じゃないんですよ」
「は?」
「俺は、ずうっとここにいますっていう意味ですよ」
 ね?と鳳は一瞬だけ宍戸の手を握った。
 ここに。
 一緒に。
 ずっといる。
 宍戸とずっと共にいる。
 それを知っていて欲しいのは、神様ではなく、宍戸だけでいい。
「………………」
 不思議とあどけない目の色で鳳を見つめ返してきた宍戸が、今度は、軽口でも拒絶の言葉を口にしたりはしないので。
 宍戸の方からも、一瞬、鳳の指先を握りこんできたので。
「宍戸さん」
「………とけそーなツラで笑ってんじゃねーよ…」
「宍戸さんはそんなに綺麗な顔で赤くならないで下さいよ」
「…………お前なぁ…!」
「はい」
 そっぽを向いた怒声も心地良く受け止めて、鳳は微笑んだ。
 恐らくは宍戸の言葉のまま。
 それこそ蕩けそうな顔をしているであろう自覚は持って、宍戸の耳元に囁いた。
「大好きです」
「長太郎」
「ずっとね」
 さすがにこの場でこれ以上の事はしないし出来ないけれども。
 また強く吹きつけてくる春の風で、頭上のこいのぼりが空を強く泳ぐ。
 至近距離の自分達は、共に縛られ、繋がれたような気になって風を受ける。

 幟、昇れ。
 乾といると、海堂はよく上級生に構われる。
 つまりはそれは乾の同級生からということで、最も出現率の高い相手は、海堂よりも少しだけ背が低い。
「あー! 乾が海堂にヘンなクスリ飲ませてるー!」
 放課後、途中から一緒になった乾と、海堂が部室に向かうさなか。
 遭遇した菊丸が、言うなり駆け寄ってきて、海堂の背中に飛びついてくる。
 ぐっ、と海堂は咄嗟に息を詰まらせたものの、身軽な相手のウエイトはかなり軽くて助かった。
 そのまま背中に張り付かれたが、耐えられないほど重くはないのだ。
 ただ。
「………………」
 こういう気安い接触に海堂は弱い。
 どうしたらいいのかまるで判らない。
 とりえずこの衝撃で、今しがた乾の手で口に入れられたものを海堂はろくろく噛まずに飲み込んだ。
「人聞きの悪い事を言うんじゃない。英二」
 渋い顔をした乾の事など菊丸は目に入らないというような勢いで。
「大丈夫? 海堂」
「………………」
 菊丸先輩は心配だよーと言いながら、背後から顔を覗き込んでくるその人懐っこさに。
 海堂はなかなか慣れない。
 背中にどっかりと乗りかかられたまま、呻くような曖昧な頷きを返す海堂から、強引に菊丸を引き剥がしたのは乾だった。
「何すんだよ、乾!」
「何すんだじゃない。こういうところに入ってくるか普通」
「………………」
 こういう、というのは、どういう?と海堂は怪訝に眉根を寄せた。
 海堂の疑問はすぐに乾が言葉にしてきた。
「せっかく二人でいるっていうのに、見て見ぬ振りくらいしろ。友達甲斐のない奴だな」
 乾がさらりとあまりに恥ずかしいような事を菊丸に言ったので。
 海堂は唖然と乾を見据えるだけになる。
 たまたま一緒になって、歩いて、それだけだった行動に、いきなり甘い含みをもたされた。
 海堂が飲み込んだ甘いものよりも、もっと甘い。
「うっわー、開き直っちゃってる! もー、バカ乾! 二人っきりにかこつけて、薫ちゃんに変な薬飲ませんなっ」
「海堂の口に入れたのはチョコレートだよ。変な薬なんて飲ませるわけないだろう。なあ、海堂」
「………、はあ…」
 急に話を振ってこられて、海堂は乾の流し目に怯みつつも頷いた。
「変なチョコとかじゃないだろーな!」
「英二…お前、俺のことを何だと思ってるんだ」
「マッドサイエンス!」
「……あのなあ」
 気心知れた上級生同士の会話を、海堂はこの場から立ち去る事も出来ず、戸惑いつつ足を止めて見やっている。
「海堂、ほんとにただのチョコだった?!」
「は……」
 菊丸からも勢い良く話を向けられ、頷くより先に海堂は菊丸にぎゅっと抱き締められた。
「…、…っ…」
「俺心配! いい? 海堂。乾がヤバイと思ったら、速攻逃げな!」
「………はぁ…」
 あまりの剣幕に海堂が溜息と問いかけの入り混じったような声を上げると、乾が苦笑いして即座に間に割って入ってくる。
「おいおい。頷くなよ海堂」
「や、…頷いた訳じゃないですけど…」
「頷いてよ海堂!」
「離れろよ英二」
「力ずくで離しておいてから言うか!」
 乾はまた、菊丸の言った通りに。
 強引に海堂から菊丸を引き剥がしてきた。
 そして適当な口調で鞄に手をやって。
「お前にもチョコレートをやろう。だからこれ持って帰れ」
「これから部活だろ! 帰んねーよ」
 乾は無造作に、先程海堂の口に入れてきた小さなチョコレートを、今度は菊丸の手に握らせる。
 海堂には包み紙を破いて、丁寧にひとつ、口に入れてきたそれを。
 菊丸には鞄の中から雑に無数掴み取って、押し付けていた。
「ハーシーのキスチョコじゃん。ったくもー、余計にやらしいな」
「何がだ」
「食わせてやんのがだよ」
 菊丸は乾をからかっているのに、その言葉に今更ながら羞恥にかられたのは海堂の方だった。
 何となく、別段疑問ももたないで、海堂は乾に促されるままおとなしく口をひらいてしまったが。
 よくよく考えれば、チョコレートを食べさせられる、という行動が。
 異様に気恥ずかしい事のように思えてくる。
 思わず口許を片手で覆った海堂は、その上。
 いきなり。
 乾に強く引き寄せられて、何事かと激しく混乱した。
 海堂が乾を見上げると、肩にある乾の手に、更に強く抱き寄せられる。
 その体勢で乾は菊丸に言った。
「ハーシーのそのチョコレートが、どうしてキスチョコっていうか知ってるか?」
 聞いておいて乾は、すぐに答えを口にした。
「工場で、このチョコレートが機械に落ちる時、チュッとキスの時の音がするから名付けられた。何なら聞いていくか」
「……っ…、……」
「サイテー! バカ乾っ!」
 ものすごい速さで菊丸は部室へ走って行ってしまった。
 海堂は海堂で、乾に肩から抱き寄せられたまま、赤くなって戦慄いた。
 気持ち的には、菊丸と同じ言葉を口にして、菊丸と同じように走り去りたかった。
「海堂?」
「……、…っ…」
 笑っている乾に。
 案の定。
 あのチョコレートが作られる過程の音を、たてられる。
 頬の上に。
 

 逃げ出せなかったから。
 逃げ出さなかったから。
 跡部の言葉ひとつ、動作ひとつで、神尾の気持ちはどのようにも動く。
 嬉しくもなるし、苦しくもなるし、幸せにもなるし、不安にもなる。
 跡部が、まるで自分の感情の軸になっていて。
 跡部に纏わって自分の気持ちが巡り巡っているような心もとなさをいつも神尾は持っている。
 こうしてただ一緒に歩いているだけでも感じている。
「おい」
 跡部の低い声には、幾らかの苛立ちと、幾らかの困惑と、幾らかの遊楽が交ざっている。
 その分、そのようにだけ、神尾の気持ちは揺すられる。
 跡部の家に向かう道すがら。
 いきなり跡部に肩を抱かれた。
 それで強張ってしまった神尾を、跡部は強引にそのまま抱き寄せ歩き続けながら、前方を見据えて告げてくる。
「泣かす前から泣くな」
「………………」
「俺がお前を泣かすのは家についてからだ」
「……泣…いてねえよ…」
「どうだか」
 肩をそびやかす。
 前を見たまま目を細める。
 跡部は、神尾の肩を抱いたまま。
「………、…跡…部」
 ぎこちない小声で神尾がその名を口にすれば。
 すぐに跡部の視線は神尾に向けられたのだけれど。
 それはもうあからさまに不機嫌に見下ろされて、神尾は息を詰める。
「嫌がってんじゃねえよ。生意気に」
 往来を歩きながら、跡部は神尾の肩を抱き、だからそれが、と神尾は怖く思っているのに。
 跡部は平然としている。
 寧ろ腕の力が強くなる。
「なにガチガチに固まってんだ」
「だって、お前……!」
 こんな所を友人や知り合いに見られたらどうする気なのかと、言葉にしきれないまでも、神尾は声を振り絞った。
 どうしてそんないとも簡単に、自分の肩など抱いて歩くのだ。
 跡部は。
 神尾はそう思うのに、混乱するのに、跡部は神尾を放さず、足も止めず、ただ唇を婀娜めいて歪ませた。
「肩が嫌なら腰だな。ついでに馬鹿でどうしようもないお前にキスもくれてやるよ」
 言った通りに腰を抱かれて軽くキスまで奪われる。
 ひくりと神尾の喉が引き攣った。
「な…、…っ……何、…なに考えてんだよ…っ!」
 ひどく手馴れた自然なやり方だったせいで、神尾は間の悪いような狼狽を跡部に晒す羽目になった。
「何考えてんのお前…、…っ」
「てめえのことだよ」
「……っ……、」
 当たり前の事を当たり前のように告げる跡部の言葉が、神尾の頭の中を埋め尽くす。
 否が応でも強烈な存在感で人目を集める跡部が、いったい自分相手に、こんな人目につく場所で、何を言って、何をしでかしているのかと。
 神尾が狼狽と困惑のないまぜになった悲鳴を上げても、跡部は平然としている。
 依然神尾の腰を抱き寄せたまま歩き、一度も歩を滞らせる事なく、跡部の家へと向かっているだけだ。
 そうしながら跡部が毒づいてくる言葉は、神尾が危惧しているものとはまるで次元が違った。
「………ったく……四六時中馬鹿みたいに馬鹿なお前のことをだな。この俺様の優秀な頭で考えてやってんだよ」
「……、………」
 もう少しまともに有難がれと凄まれて、神尾は歯噛みして、顔を赤くする。
「ば、……ばかばか言うなっ…!」
 精一杯の虚勢で叫んだ言葉も跡部は容易くあしらう。
「お前に言ったのは、さっきは一回だ。このバカが」
「また言った…っ」
「うるせえな…さっきみたいな半端なヤツじゃなくて、マジでその口塞ぐぞ」
「……っひ……」
 こうなってくると一切の虚勢も張れなくなって、神尾の喉が細声を上げてしまう。
 それで跡部は一転、至極機嫌良さそうに笑った。
 神尾の腰を抱き寄せたまま、歩を進めていく。
 早く。
 歩く。
 まるでひどく急いでいるかのように思える足取りで。
「……跡部…」
「何だよ」」
「だいじょうぶ…なのかよう…」
「アァ?」
 半ば引きずられるようにして歩きながら、ぽつりと零した神尾の言葉を、跡部は正確に拾い上げてくる。
 雑な問い返しのようでいて、きちんと視線を合わせてくる跡部の眼をぎこちなく見つめ返して、神尾は言葉を濁した。
「だから……こういうの…さ…」
 視線が周囲を見回してしまう。
 無意識に。
「この程度、じゃれてるようにしか見えねえだろ」
「…、見えねえよっ」
 じゃれるとか。
 ありえないだろう。
 跡部の顔立ちや雰囲気にこれ程までに不釣合いな言葉があるだろうかと神尾は唖然とする。
 だから神尾はこんなに心配しているのに。
 当の跡部は人を食ったような目で神尾を見下ろしてくるばかりだ。
「……こんなとこ見られたら…やばいんじゃねえの、跡部…」
「てめえが悪目立ちさせてんだよ」
 え?と神尾は聞き返した。
 跡部の言った事がよく判らなかったからだ。
「…跡部?」
「笑ってりゃいいだろうが」
「………………」
「そんな悲壮感たっぷりのツラしてねえで、俺に肩抱かれようが腰抱かれようが、笑ってりゃいいんだよ。てめえは」
「……俺の…せいかよう…」
「ああ。てめえのせいだ」
 皮肉っぽく笑んだ唇。
 眇めた眼差し。
 歩きながら跡部が、再び神尾に顔を近づけてきた。
「………………」
 ゆっくりと
 ゆっくりと。
 あえて歪めて見せても印象は綺麗なままの、唇や。
 不思議な色で見据えてくる瞳で。
 跡部に、摑まって、完全に、神尾は動けなくなる。
「………………」
 盗むようなキスで唇を掠られる。
 小さく唇を啄ばむだけで、跡部は離れていく。
 さっきしたキスと同じだ。
 でも、だからこそ。
「……泣くようなキスじゃねえだろ」
 同じように繰り返してくれる跡部に、神尾は心もとない不安を闇雲な勢いで覆い隠す安堵感を覚えるのだ。
「…………ばかやろ…こんなとこでするな」
 うう、と呻いて俯きかける神尾を、跡部は強引に引きずってまたスピードを上げて歩き出す。
 足早で、本当に。
 それはスピードが信条の神尾ですら懸命になってしまうほどの歩みで。
「跡部」
「お前がさせてんだ。何もかも俺に」
 何もかもというのは、こういう事なのだろうか。
 神尾は思う。
 強引な、肩や腰を抱いてくる腕。
 隠そうともしないキス。
 急くばかりの帰り道。
「………俺のせいに…すんなってば…」
「いい加減観念して腹くくれ」
「……跡部の言ってる事よく判んねえよ…」
 神尾は、ただ跡部の事が、好きなだけなのだ。
 それだけだから。
 こんな場所での密着や、キスは、こわいことだと思ってしまうのに。
「俺以外目に入らなくなれ。俺にのめりこんで、深みに嵌って、溺れちまえって言ってんだよ」
「………、なん…」
 思いのほか真顔で跡部が脅してくる。
 なんで、そんなのは、とっくじゃんかと。
 神尾は思いながら、伝わりづらい自分の恋情に、いつもいつも、手こずってばかりいる。
 でも跡部はずっと側にいるままだし。
 神尾の恋情も、消える事がないので。
 ここから、どこへでも、どこにでも、確かに道が続いているように。
 心から、どこへでも、どこにでも、好きだと思う気持ちが伸びていく。
 だからいい加減跡部だって、もっと平然としていたっていい。
 脅すみたいな言葉が、不思議と甘く聞こえるのは、どちらのせいか。
 神尾はひっそりと、そんな事を思ってもいる。
 宍戸の目覚めは概していい方だ。
 それ故に時々失敗する事がある。
 目覚めがよくて失敗というのは、本来あまりある事ではないようなのだが。
 少なくとも宍戸は、自身の目覚めのよさ故に、ここ最近幾度か失敗をしている。
「………目…覚めましたか…?」
 柔らかな声に問われた時には、すでに宍戸は八割方覚醒していた。
 ここ最近の失敗の事を思い返して、目を閉じたまま、ベッドから起き上がらずにいただけだ。
「………………」
 問いかけてきたのは鳳で、それは昨晩一緒に眠りについたのだから別段驚く事ではなかった。
 ただ呼びかけに宍戸がゆっくりと目を開けると、ひとつだけ、気配で宍戸が不思議だと思っていた事が具体化していて目に映る。
 鳳はベッドの縁に腰掛けていた。
 足は床に、上体を僅かに捻り、宍戸をそっと見下ろしてきていた。
 宍戸が目覚めた時に、鳳がそういう状態だった事はこれまで一度もない。
 大抵は、目覚めのいい宍戸が先に起きて、同じベッドリネンに包まる鳳の寝顔を見るのが常だ。
 少々無理がたたって宍戸がベッドからなかなか出られない時は、極力静かにベッドから抜け出した鳳が、甲斐甲斐しく飲み物や食べ物の準備などしてベッドに運んでくる。
 今のようにベッドの縁にただ腰掛けて、じっと宍戸を見下ろしているというのは初めての事だった。
「おはようございます。宍戸さん」
「おう……おはよ…」
 宍戸の額に鳳の手が重なる。
 前髪を撫で付ける仕草が、同時に、起き上がろうとした宍戸を制した。
「長太郎?……」
「うつ伏せになってから起き上がって下さい」
「……あ…?」
 うつ伏せ、ともう一度鳳が言う。
 何だか知らねえけど、と呻きながらも宍戸は言われた通りにした。
 寝具の中で仰向けからうつ伏せになり、肘から手のひらまでをシーツについて、うつ伏せの体勢から起き上がる。
 あ?と宍戸は同じ言葉を零した。
 それは、ここ最近宍戸がやらかした失敗とは無縁の感覚。
「………………」
「…大丈夫?」
 鳳の手のひらが宍戸の背中から腰を緩く擦ったので、宍戸は一瞬どういう顔をしていいものか悩んでしまった。
「朝起きた時に、仰向けのまま起き上がるのは、すごく腰に負担かけるそうなんで……一度うつ伏せになってから起き上がるといいって聞いたんですよ」
「………腰……なぁ…」
 唸るように宍戸が言うと、鳳は宍戸を抱き寄せてきた。
「すみません。毎回学習しなくて……」
 ええと、と言葉を濁してから。
 これでもやっぱりきついですか、と神妙に問われて。
 宍戸は苦笑いでそれを一蹴する。
「だからそれはお前が謝る事かっての。……んとに学習しねえな。長太郎」
 宍戸のここ最近の失敗というのは、目覚めのよさ故に、前日の夜の行為で酷使した腰の事を忘れ、勢いよく起き上がっては撃沈する、という一連の動作の事だ。
 その都度、鳳は慌てふためいて謝るし、宍戸は羞恥にかられながら怒鳴っている。
 鳳に抱き寄せられたまま、宍戸は素直に言った。
「今のは、すげえ楽だったわ。起き方一つで違うもんなんだな……」
 ほっと息をつく鳳に、宍戸は笑みを深めて、その背に腕を回し返した。
「お前さ、長太郎。ひょっとしてこれ言う為だけにずっと、そこに座って俺が起きるの待ってたわけ?」
 ベッドの中でもなく、外でもなく。
 ある意味、起きぬけに宍戸が身体を起こす前にと見張っているかのように。
 鳳はああしていたのだろうか。
 呆れと感心の入り混じった笑いで問いかけた宍戸に、鳳は柔和な笑みで応えてくる。
「ここに座ってると、俺もいろいろ忙しかったんで。ちょうどよかったんですよ」
「は?」
「眠ってる宍戸さんを見ていたりとか、宍戸さんのこと考えていたりとか」
「………忙しいって言わねえよそれ…」
 臆面もなく鳳が告げてきた言葉が、密着した身体から直に響いてくるようで。
 宍戸は赤くなってしまっているかもしれない顔を、鳳のパジャマの胸元に埋めた。
 更に柔らかく鳳の腕に抱き込まれて、朝っぱらから全く、と思いながらも抜け出したくない自分に一番参る。
「……お前、なんか悪戯とかしてねえだろうな」
 鳳がいつから起きていたのか知らないが、あんな体勢で自分の事を見下ろしているだけで本当に時間が潰れるのだろうかと宍戸は思って。
 何とは無しに口にした言葉を鳳はおかしそうに聞き返してきた。
「何ですか、悪戯って」
「何って。…落書きとか」
「しませんよ」
 鳳は宍戸を抱き寄せたまま笑い出す。
 振動に取り囲まれたまま、宍戸は溜息を零した。
「………お前は…健やかっつーか、何つーか……」
「それ、小学生の時に通知表に書かれた事あります」
 本当に。
 健やか、伸びやか、そういう言葉の似合う男なのだ。
 鳳は。
 そういう彼の腕の中では、宍戸もまるで虚勢が張れなくなる。
 抱き込まれてそこで甘く寛ぎきるなんて真似、自分がしているなんて事が。
 未だに宍戸自身、不思議でならない。
「それで何でわざわざ俺を欲しがんのか判んねえよ……」
 雰囲気も眼差しも心中も清々しい。
 その目で、その手で、執着するのがどうして俺かなと思って零れた言葉を、鳳はすぐに笑いを止めて、生真面目に聞き返してきた。
「……何か…夢見でも悪かったですか」
「………………」
 肩を掴まれ、身体を離される。
 あまりに真剣な鳳の表情に、宍戸は思わず真顔で返してしまった。
「お前、人の夢ん中まで見えてんのかよ」
「寝顔がちょっとだけ苦しそうに見えたから」
 そんなに改まって深刻になるような話じゃねえよと宍戸が微苦笑で告げても、鳳は何かに嵌ってしまったかのように表情を曇らせている。
「俺が何か夢で、宍戸さんに酷い事とかした…?」
「あのなあ…長太郎」
「宍戸さんが言いたくないような、どうしようもないようなこと?」
「おい」
「何言ったんですか。俺」
「長太郎」
 そんなに思いつめたようにされてしまっては、今更絶対、口に出せないではないかと宍戸は気難しい不機嫌な顔になる。
 けれど、このまま放っておいたら、この年下の男はどこまでも下降線を辿っていくのだろうという事も判る。
 いらねえ恥晒させやがってと、八つ当たり気味に宍戸はベッドに膝立ちになり、鳳の髪に両手の指先をもぐりこませる。
「宍戸さん?」
「お前は何もしてねえし、何も言ってねえよ」
 それ以前の話の夢だった。
「どこほっつき歩いてたか知らねえけど」
 夢の中だからって一人にすんな。
 宍戸は言い切ってから、鳳の唇を噛みつくようにして塞いだ。
 大概恥ずかしい事を口にしたという自覚が宍戸にはあって。
 でも、言ってしまえば絶対もっと恥ずかしい返答が鳳から返されるだろうという事も容易く想像出来たので。
 聞かない為には言わせない。
 そうする為の術は、結局。
 再度ベッドにもつれこむきっかけになっただけだった。
 唇をキスで塞ぐと、同時に目を閉じる。
 海堂の癖だ。
 乾はいつもひっそりとそれを見ていた。
 浅い、触れるだけのキスを、ゆっくりと重ねていくたび。
 その都度、海堂の睫毛は、キスが離れれば引き上がり、唇を塞げば伏せられて。
 震えて、動いて。
 そういう海堂の瞬きが乾の目にはひどく甘く映って見えた。
 寡黙で言葉数の少ない海堂の、雄弁な所作のように見えた。
 長い睫毛の先には、唇を寄せる事も可能だ。
 時折そっとキスのように睫毛を唇で掠めると、海堂は小さく息を詰める。
 ほっそりとした首筋を両手に包んで、すぐさま深く唇を塞ぎ、舌を貪る。
 乾の手のひらの中で海堂の肌が熱を持つ。
 乾が舌先で舐めている海堂の口腔も熱っぽかった。
 苦しげに逃げられそうになるとキスを深くして、それからゆっくりと柔らかに開放する。
 そんなキスを織り重ねていくと、海堂の手は乾の肩口のシャツを、ぎゅっと固く握り締めてくるようになる。 
「…、乾…先輩……」
「………ん…?」
 僅かに唇が離れた隙を狙われた海堂の呼びかけに、乾は目を伏せて問い返す。
 掠れた声は、普段の海堂の声音と違い、か細く不安気だ。
 乾がキスをほどいて間近に見下ろせば、海堂の睫毛がまた引き上がる。
 目尻が涙めいた気配をたたえていて、そこに唇を寄せてから、もう一度。
 どうした?と言葉で促すと、海堂はもどかしそうに眉根を寄せた。
 言葉が見つけられない時の表情だ。
「海堂」
「………………」
 顰められた眉間を唇を掠めて、乾はそれを海堂に教える。
 顎を指先数本で支え、唇に小さく音をたててキスをすると、唸るような呻くような声を微かに上げて、海堂は乾の胸元に顔を埋めてきた。
 乾は自分が身に纏う衣服から空気が抜ける音を聞きながら、海堂の形良い後頭部を胸元に抱え込む。
「……何怒ってるのかな。海堂は」
「あんたが笑ってるからだろ…っ」
 いつもいつもと詰る海堂の声は、乾の胸元で、直接肌に吸い込まれていくようだった。
 顔を隠してやっと海堂は言う気になったらしい。
 乾が吐息程度に問い返すのを敏感に察して、珍しく饒舌に言葉を紡ぐ。
 普段よりかは、というレベルのものではあるけれど。
「……それ、あんたの癖かもしれないですけど…! そうやって余裕かまして笑われると腹立つんだよ…!」
 怒鳴り声はやはり乾の胸元に直接響く。
 その荒い口調ほど、海堂は怒っているわけではないようだった。
 乾が黙って見下ろすと、綺麗な黒髪の毛先がかかるうなじが赤かった。
 そこにそっと指先を伸ばした乾は、びくりと震えた海堂の肌の上を指で撫でるようにしながら、余裕ねえ?と忍び笑った。
「教えてやろうな。海堂」
「………………」
「お前が見ている俺のその顔は、余裕がある笑い顔なんかじゃないぞ」
「………………」
「にやけ顔とか、しまりのない顔とか言うならまだしも」
 ちゃんと見えてるのか?と呆れた思いで笑えば。
 腹立ち紛れの所作で、握った拳を肩口にぶつけられる。
 海堂は時々こんな風に無意識にひどく幼い態度を見せてきて、それが乾には随分と気に入りだ。
「だいたいそういうことなら俺からも言わせて貰うけど」
「……、…なん……すか」
 海堂の襟足の髪を指ですくいとりながら、それこそあからさまだと自覚する笑みと共に乾は囁いた。
「キスされてる時の海堂は、色気がありすぎだと俺は思うが」
 お前の癖かもしれないけど?と。
 先程海堂に言われた言葉で、乾は返して。
 海堂が暴れ出したり逃げ出したりする前に、両腕でその身体を抱き竦める。
 しっかりと。
「……ッ…、…んな、もんある、か…!」
「そうか…海堂は見られないな」
 可哀想に。
 乾は真剣に、そう告げて、可哀想な可愛い相手を抱き締めている。
 強制だ。
 強制休憩。
 観月は机の前から、いとも強引に引き剥がされた。
 力づくというべきか、腕づくというべきか。
「ちょ、…と…っ…」
 乱暴な、と観月に怒鳴る隙すら与えずに。
 赤澤は、長い腕で観月の身体を巻き込んできた。
 背後から抱え込まれ、無理矢理赤澤ごと床に座り込まされる。
 痛みは何もないものの、これはあまりにも暴挙だ。
 観月がきつい目で背後を振り返ろうとすると、耳元で声がした。
 直接声音を吹き込むように、低く。
「十五分休憩」
 赤澤はそう言って、ぎゅっと観月を抱き寄せてきた。
「………………」
 肩口に懐かれるように顔を埋められて、観月は咄嗟に息を詰めた。
 首筋を、赤澤の長い髪が擽る。
 思いのほか強い手の力。
 でもそれはどこかおそろしく心地良く、観月を束縛している。
 うっかり流されそうになる。
 観月は背後の赤澤を睨もうと身じろぎながら口をひらいた。
「邪魔しないでくださ…、…」
「しねえよ」
「……、っ……」
「しない。休憩だって言ったろ?」
 もがく自分などいとも容易く封じてくれてと観月が恨めしく肩口にいる赤澤を見下ろせば。
 赤澤の手はやわらかく観月を抱き締め直してきた。
「プラス、俺の栄養補給タイムな」
「……なにばかなこと…言ってるんですか…」
 もっと厳しく意見しようとして、でも観月がそう出来なかった訳は、
 赤澤が観月の後ろ首に唇をそっと寄せてきたからだ。
「…………っ……」
「痕はつけねえよ」
 大丈夫、と観月の腹部に回っている赤澤の手のひらが観月を宥めるように動いたけれど。
 それ以前に、そのかすかな接触だけで。
 どれだけ観月が影響を及ぼされるかを考えない赤澤に観月は立腹する。
 判っているようで判っていない男。
 しかも、部の為に纏めなければならない練習メニューや対戦校のデータを目の前にして、よりにもよってその邪魔をするのが部長だというのはいったい何の冗談なのか。
「観月」
「………………」
 抱き込まれたまま微かに身体を揺すられた。
 なめらかな低音で名前だけを繰り返される。
 無頓着で大雑把なのに、赤澤は観月の気配に敏感だ。
 観月が少しでも煮詰まってくると、早い段階ですぐに腕を伸ばしてくる。
 判っていないようで判っている男。
 本当は。
「………………」
 素直に赤澤のその手に身を預ける事は、観月はしない。
 そんなことは観月は出来ない。
 それなのに。
 赤澤が強引を装って、いつもこうしてしまうのだ。
 観月は背中に当たる赤澤の体温に、やけっぱちになって凭れかかった。
 抱き寄せられる。
 また強く。
 感触だけではっきりとしないが、多分髪にキスをされた。
「…、赤澤」
「ん…?」
 甘ったるい密着が、じわじわと羞恥心に姿を変えて、観月へと浸透してくる。
 せめてもの救いは顔が見えないこの体勢だと観月は思って。
 しかしそれすらも、恐らくは最初から赤澤の意図した事なのだろうと思えば少々癪にもなってくる。
 裏表のない赤澤の言動は、それゆえに観月には率直過ぎて。
 いつも余裕を奪われる。
「なあ。観月のリンゴ食っていい?」
「………………」
 気楽な口調で、どうでもいいような話で。
 観月の硬直を紛らわせる空気をつくってくる赤澤に、観月はもう、抗う気力もなくおとなしく頷いていた。
 観月の実家からルドルフの寮宛てに大量に送られてきたリンゴを、誰よりもせっせと食べているのは、この赤澤だ。
 今更改めて聞くような事ではないと判っていながらも、どうぞ、と観月が言えば。
 徐に観月の目の前に、赤澤の手が持つリンゴがひとつ現れる。
「……もう持って来てるんじゃないですか」
「一緒に食おうと思ってさ」
「僕は丸齧りはしないって言ってるでしょう」
「丸じゃなけりゃいいんだろ」
 胸元に観月を抱き込んだまま、赤澤は観月の眼下で両手を使い、リンゴを二つに手で割った。
「……馬鹿力」
 果肉の割れる小気味良い音に紛れて観月が呟けば、赤澤は左手の半分を自分で食べて、右手の半分を観月の口元に近づけてきた。
 半分ならいいってものじゃないと思いながらも、結局観月も口を開ける。
「うまいよなー」
「食べるたびに、それ言ってますね…」
「マジでうまいからさ」
「……そうですか」
 率直な言葉は何度も聞いたのに、その都度心底から感嘆して言われてしまうと、聞く側の観月としても奇妙に面映くなった。
 赤澤の手からリンゴをかじりながら、観月はふと思い立つ。
「……北欧のリンゴの話って知ってます?」
「いや? どんな?」
 十五分の休憩時間。
 残りがあとどれくらいかは判らないけれど。
 このくらいの話は出来るだろうと観月は囁いた。
「北欧四カ国の人間性…といいますか。特徴を現したたとえ話です。道にリンゴが落ちていたらどうするか」
「特徴ねえ…」
「ズボンで擦って食べるのがノルウェー人。考え事をしていてリンゴに気づかないのがフィンランド人。食べたいけど気づかないふりで通り過ぎるのがスウェーデン人。拾って売るのがデンマーク人」
「まさしくお国柄ってやつだな」
「貴方はどうします」
「俺?」
「そう。貴方です」
 無論食べるのだろうなと観月は思って聞いたのだが。
 赤澤は違う答えを口にした。
「落とした奴を探すかな」
「………………」
「何か変なこと言ったか?」
「……いえ。そうですね」
 ああこの男には。
 本当に、憶測やデータなど、何の役にもたたない。
 観月は心底から、そう思った。
 食べたりせずに探すだろう。
 確かにこの男なら。
「それで観月は俺に文句を言いながらも、それにちゃんとつきあってくれて、その上しっかり落とし主を探してきそうだよな」
「………………」
 お前のそういうとこがホント好きだぜ?とあまりにもさらりと付け加えられて。
 本当に。
 何を言い出すか判ったものではない男の腕の中で、観月はリンゴを喉に詰まらせる。
 果実の破片に色まで変えさせられた観月の頬には、笑った形の赤澤の唇が。
 丁寧に、丁寧に、寄せられた。
 大概において自分の範疇外の行動をとる奴だと跡部は思っている。
 対象は、神尾アキラという生き物だ。
 一つ年下の、その割には大層なガキ、しかしそう思っていたのは最初のうち。
 今となっては、これはもう動物だと思うようになっていた。
 危害をくわえられる事はない、ガキの動物。
 今日も今日とて神尾は落ち着き無い事極まりなく、小さい身体でちょこまかしている。
 だいたい待ち合わせ場所に現れて、それで跡部を素通りした相手など、跡部は神尾以外に経験した事がない。
 ありえない振る舞いに本気で腹を立て、目を据わらせた跡部が強引に掴んだ神尾の腕は細かった。
 手に余るくらいに細かった。
 そうやって掴んだ二の腕から強く引き寄せると、うろうろと彷徨っていた神尾の目が真っ直ぐに跡部を見上げてきた。
 その時になって漸く、あ、と跡部に気づいた顔で笑う。
 嬉しいと、満面の笑みに込められたその表情は明け透けで。
 跡部は毒気を抜かれてしまった。
 そんな顔をするくらいなら何故通り過ぎたり出来るのかと甚だ疑問だ。
 舌打ちした跡部に対して、遅れてごめんな、と眉尻が下がる神尾の表情は本当に子供っぽい。
 跡部が無言で顎で指し示す仕草で促し歩き出すと、神尾は神妙についてはくるものの、また気もそぞろになってあちこち見回している。
 然して珍しい道でもないのにだ。
 跡部が視界の端でそんな様子を伺い見ていると、神尾はともかくきょろきょろと落ち着きがない。
 そのくせ時折ひどく真面目な顔で溜息などもついている。
 いったい何を珍しくもそこまで思いつめているのかと、仕方なく跡部は問いかけてみた。
 素っ気無い跡部の声に対し、返ってきた神尾の言葉はこれだ。
「俺よう、跡部。実は猫を撫でたいんだ。あ、今日中に」
 跡部には理解不能だった。
「………………」
 重ねて問いかける気力も湧かない。
 跡部は歩く足を止め、神尾を見下ろし、薄い唇を皮肉気に歪めた。
 漏らした溜息は我ながら冷徹だと思った跡部に、何故か神尾は、意味が伝わらなかったのが不思議そうな顔をしている。
「跡部?」
「………………」
「ええと、だから、猫な」
 まるで跡部にも判るようにと、神尾が言葉を噛み砕こうとしているのがまた余計に跡部を呆れさせた。
 何なんだこいつはと思う跡部に。
 猫、そのへんにいねえかなあ?と、神尾は跡部を上目に見やって首を傾けてくる。
 これはもう、ガキなのか動物なのか。
 いや実際、それよりももっとタチの悪い生き物かもしれないと、跡部は神尾の小さな顔を見下ろし内心で思う。
「猫…」
「………………」
 いたいけ。
 なんて言葉が脳裏に浮かぶような真っ直ぐな目で、神尾は跡部を無心に見つめてくる。
 今すぐにでもぐちゃぐちゃにしてやろうかなどという、跡部の心中など露とも知らない神尾は、単に跡部が訳が判らずに黙っているのだと思ったらしかった。
 あのな。と口調を変えてきた。
「俺、昨日ハッピーターン食ったんだよ。だからなんだけど」
 何がどうしてだからなのかと呆れる以前に。
「………なんだそれは」
 食えるらしいハッピーターンとやらが跡部には判らない。
 会話の出来ない自分達に不機嫌も露に聞けば、神尾は不思議そうに更に小首を傾けた。
「あれ…知らない? お菓子。甘じょっぱいやつ」
「てめえの説明でますます判らねえ」
「煎餅みたいなやつ。こう、ちょっと長い。で、透明なのでくるくるって」
「………………」
 身振り手振りまで感情豊かな神尾のボディランゲージがまた跡部には皆目検討がつかない。
 子供っぽい仕草が可愛くなくもないが。
 ともかくそういう食べ物があるらしいとだけ認識して、跡部はすごむように先を促した。
「それが何だ」
「そのハッピーターンを包んでる透明な紙に、えっと、マメ知識?…みたいなのが書いてあった」
「………………」
「猫がくしゃみをする夢を見ると、幸せになれるんだって」
 そう書いてあったんだと神尾は言って、それから眩しいばかりの明るい笑顔になって。
「俺、今日、猫がくしゃみする夢みた!」
 でもさ、と今度はすぐさま肩を落とす。
 本当に、あまりにも目まぐるしい。
 跡部は腕組みして憮然と神尾を見下ろしつつも内心で。
 この生き物を一生自分だけのものにする方法を考えてしまったりする。
「でも、もしその猫のしっぽが短かったら、幸せの後に大どんでん返し。大きな落とし穴が待ってるって、ハッピーターンの包み紙に書いてあったんだ」
 しょぼくれた華奢な肩。
 細い首。
 跡部は見下ろして、目を細める。
 この間、第一頚椎と第二頚椎のあたりにつけてやった鬱血の痕は、まだうっすらと色づいて見下ろせる。
「………………」
「それでさ、幸せの後の大どんでん返しにならない為には、夢をみたその日中に猫を探して、撫でてやるといいんだって」
 だから俺、猫を今日は一日ずうっと探してるんだけどよう、と神尾は呟いた。
 それであの落ち着きの無い態度かと、跡部は漸く納得する。
 跡部には全く持って理解できない行動だけれど。
 神尾ならば、いかにも当然といった気がした。
 さてどうしてやろうかと跡部は考える。
 猫ねえ、僅かに首を傾げた跡部の視界で、しかし神尾がいきなりまた突拍子もない事を口にしてきた。
「跡部……」
「…アア?」
「跡部って…猫っぽい…よな…?」
「何だと?」
 猫!と神尾が叫んだ。
 うるせえ、と跡部が怒鳴るより先に。
「うん。跡部、猫っぽい。…ってゆーか、猫だ!……あれ、…ってことは……」
「……おい」
「跡部を撫でておけばいいんじゃねえ?」
「てめ、…」
 言うが早いか神尾の手が伸びてきた。
 両手。
 爪先立って、くしゃくしゃと跡部の髪をかきまぜてくる。
 嬉しそうな満面の笑みと共にだ。
「あー、よかった! すっきりした!」
「………っ…、…」
 跡部が物凄い形相になったのは。
 乱された髪に対してではない。
 警戒心などまるでない指先と、無邪気な笑い顔のせいだ。
 大どんでん返しを免れたらしい神尾に、まんまとはめられて。
 それならいっそ、一生、一緒に。
 幸せというもので雁字搦めにしてやると目論む跡部は、凶悪に甘く笑みを零した。
 多分いつも口に入れているガムのせいだ。
 宍戸の唇はいつも清潔で、口腔はひんやりとしている。
 ミントの味のほんのり滲む舌は、鳳が貪る毎に熱を帯びて柔らかくなる。
 実際冷たいわけではないけれど、冴え冴えと冷えた印象の宍戸の口腔は静謐だ。
「…おい、長太郎」
「はい?」
 息を継ぐために少しだけ離れた唇と唇の合間。
 宍戸の呼びかけに鳳が丁寧に問い返すと、間近にある宍戸の怜悧な眼差しがきつくなる。
 そしていきなり言われたのは。
「もうしねえ」
「え、何で」
「何でじゃねえよ」
 止めだ止め、と胸元を宍戸の手に押しやられて、鳳は慌てながらも宍戸の背に回した腕は外さなかった。
「何か嫌なこと俺しましたか?」
 今していた事といえばキスで、自分が何か宍戸の嫌なやり方でもしたのかと鳳は危惧して宍戸を覗きこむ。
 目と目が合うと宍戸は憮然とした。
 額と額も合うと余計に酷くなった。
「宍戸さん?」
 それでも臆さず問い続ければ、不機嫌極まりない風体で宍戸は言った。
「……何か違うこと考えながらすんな」
「違う事…?」
 上の空で腹立つんだよと言った宍戸の頬に鳳は口付けた。
「…、…てめ……人の話聞いてんのかよ…」
「考え事はしてましたけど…違う事じゃないです」
「あ?」
「宍戸さんの舌はミントの味がするなあとか、口の中ひんやりしてて気持ちいいなあとか、そういうのです。考え事」
「……っ……お前…、…言うか、そういうの」
「だって」
 鳳は笑いながら宍戸を抱き締めた。
「宍戸さんがおかしなこと言うからですよ」
「悪かったなおかしくて…!」
 怒鳴り声も好きだった。
 我ながらどれだけ宍戸を好きなんだと鳳は笑ってしまう。
「宍戸さんがおかしいんじゃなくて、さっきの言葉がおかしいんですよ」
「あー、もううるせえ…っ」
「もうしないなんて言わないで。…ね?」
 傷つくからもう言わないでと、甘えたっぷりに繰り返し懇願すれば宍戸はひとしきり鳳の腕の中で暴れながらも、最後にはきちんと言葉と態度で継げてくれるのだ。
「………んな程度のことで傷つくな。アホ」
 宍戸の両手が伸びてきて。
 鳳の顔を包み、首を反らして傾けた顔が近づけられ、宍戸からのキスがくる。
「………………」
 唇を塞がれ、僅かに覗いた舌先で唇の表面を撫でられて、受身でいるキスの甘ったるさに浸ったまま、鳳は宍戸の薄い背中をゆっくりと手のひらで辿った。
 あたたかなからだ。
「……今度は何だ」
 再びの考え事を再び咎められたようで、宍戸に凄まれた鳳は。
 キスの主導権を奪い取ってひとしきり宍戸の唇を貪ってから囁いた。
「大好きで、大事で、そんな人を抱き締められて、嬉しいです」
「………可愛いじゃねえかよ。くそ」
「格好良い…じゃないんですか?」
 笑って鳳が言えば、悪態をつくようだった宍戸はますます憮然となって怒鳴ってくるのだ。
「どっからどう見ても可愛いだろお前は」
「それは俺の台詞だと思うんですけどねえ…」
「逆らってんじゃねえよ二年」
「現実見ましょうよ宍戸先輩」
 普段使わないような呼びかけで、結局じゃれあいの延長で、ひとしきりキスを交わしあう。
 可愛いのは、どっち。
 主張は平行だけれど、愛情は交差していて、そんな二人の関係性は。
 状態も変化も傾向も、相似の、直列。
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