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How did you feel at your first kiss?
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 春の雨に打たれている三色すみれを見つめているのは白と黒のコントラストが強い二つの瞳だ。
 瞬きをあまりしない海堂の眼は、色も光も鮮やかに強い。
 じっと、何を見る時でも、ただひたすらに、じっと。
 その対象を見据えている海堂の眼は、乾の胸を爽快にすく。
「……何っすか…」
「うん?」
 自ら見据える時の眼差しはあんなにも強いのに、見つめられる事には弱いのも不思議だ。
 乾の視線に気づいた海堂の気配に、逃げられそうと思って乾は、海堂が校舎の窓辺から見下ろしていた中庭にある花壇の花に視線を移した。
 雨の屋外。
 渡り廊下は少しだけ肌寒くすらあった。
「ギリシャ神話で、小さな丘の上に咲いていた純白のすみれのつぼみにキューピットの矢が外れて当たって、それで三色すみれが生まれたって記述があるな。名前がパンジーなのはフランスのパンセから。思うって意味だね。花が小首をかしげて物思いにふけっている人を連想させるから」
 一息に言うと、海堂が面食らった顔をするのがおかしかった。
 本当は、先程までの海堂こそ、パンジーのようだったと乾は思っていたが、口には出さない。
 言えば必ず、逃げられるだろう今度こそは本当に。
「今日の雨は冷たいな。夜冷え込みそうだから、今晩の夜ランは極力控えめに。……まあ、出来たら走らない方向で」
「………………」
 海堂の眼をじっと見つめて乾が言うと、目つきが悪いと名高い後輩の眼は睨み返してくる事もなく。
 珍しい瞬きを、数回忙しなく繰り返した。
 眼を伏せた事で睫毛がよく見てとれた。
 艶のある真っ直ぐな睫毛を乾がこんなに近くで見るのはここ最近になってからだ。
 自主トレのメニューを海堂に乞われるまで、こうしてメニューを渡すようになるまで、同じ部に一年以上いながらもこの距離感は存在したことがない。
 乾はデータ収集が趣味だったが、そんな乾の元へこんなにも率直にその知識を望んで欲しがってきた相手は海堂が初めてだった。
 あの海堂がね、と乾が最初に内心で思った感情には。
 驚きよりも、ひどく純度の高い感悦めいたものが色濃い。
「海堂」
「………………」
 少し屈んで顔を近づけるようにして伺うと、この近い距離感に慣れないのか、海堂が黙ったまま息を詰める。
 脅かしたい訳では無論ない。
 乾は半分に折ったプリンタ用紙を数枚、海堂に手渡して視線をはずしてやった。
「はい。これに雨の日用のメニューもついてるから」
「……乾先輩?」
「無茶はしない。判ったか?」
「………………」
 口調は変えなかったが、乾の最後の言葉に、海堂は頷いた。
 こくりと、その所作を。
 視界の端に捉えた乾は、率直に思ってしまった。
 かわいい。
 何だろう、この後輩は。
「ありがとうございました」
 低い声で言い、頭を下げる。
 バンダナを巻いていない黒髪は、その動きでさらりと動いた。
「また放課後な」
 乾の言葉に、海堂は目礼をして背を向けた。
 乾は海堂の後姿を窓辺に寄りかかったまま見送った。
「………………」
 乾は顎に手をやって。
 パンセ。
 物思う。
 自分の心情を。
「………………」
 何だろう、あの後輩は。
「…構いたい。…可愛がりたい」
 突き詰めてみて、今、乾の心中にあるのは。
 多分そのどちらかの言葉が近いと結論づける。 
 小さく呟いてみる事で納得しながらも、乾はふと、微かに笑いもした。
 何だろう、あの後輩は。
 そして。
 何だろう、今の自分は。


 物思う。
 物思う。
 今しばらくは物思う。
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 何か言われる前に、ともかく跡部より先にと神尾は口をひらいた。
 跡部の家の玄関先で、半ば叫ぶようにして神尾が口にした言葉は。
「俺が折ったんじゃないんだからな!」
 すると跡部は少し目を細めて神尾を見下ろして、そこから神尾の手にあるものに視線を移し、見りゃ判ると言った。
「……跡部?」
「ここに来るまでに何人に言われたんだ。お前」
「………三人」
 子供っぽいと自分でも思ったが、神尾は膨れた。
 盛大に膨れた。
 右手に持っている桜の枝に視線を落として、窘めるような注意を三人分思い返して憮然とする。
「いくら桜が綺麗だからって、俺は折ったりしないのによぅ…」
「判ってる」
「………………」
 溜息に混ぜて神尾が言えば、跡部は至極平然と繰り返してくるので。
 何だか急に気恥ずかしくなってきた。
 判ってる、という跡部の言葉がむやみやたらに恥ずかしく胸を擽って、うろうろと視線を彷徨わせ出した神尾に、跡部が唇の端で笑った。
 皮肉気な表情なのに、目だけがどうしようもな優しく見えたのは、いきなり跡部の顔が目前にあるからだと神尾が気づいた時にはもう。
 極軽く、唇が掠めとられていた。
「昼間の風で折れてたんだろ」
 お互いの唇と唇の合間の声はとろりと甘い味すらしそうで神尾は硬直してしまった。
 実際跡部の予測は正しい。
 昼間はひどい強風だった。
 跡部の家へ向かう道すがらに見つけた無残に折れてしまっていた桜の枝を、神尾は捨て置けず持って来たのだ。
 道中、三度の注意を受けながら。
 確かに綺麗な桜の枝だけれど、有無を言わせずに窘められてへこんだ神尾に、跡部は言うのだ
 判ってると。
「………………」
 制服姿のままの神尾と違い、跡部は首周りの広く開いたやわらかい生地の私服姿だ。
 改めて目の当たりにする剥き出しの喉やら首筋やらまで全部が綺麗で、何なんだろうこの男はと神尾は呻くしかない。
 冷たそうな顔で、艶のある声で、神尾に判っていると告げてくる、囁いてくる男。
 ジーンズのポケットに親指を引っ掛けて僅かに屈み、跡部は神尾の頬や目元を唇で掠めてくる。
 それを神尾はじっと受け止めているだけで精一杯だ。
「桜の枝まで折れたのかよ」
「…………、…っ……」
「七分咲きってとこか」
 まだ蕾があるな、と囁き神尾が持つ桜に目線を落とす、その伏せた目元を。
 真っ向から見てしまった神尾は、ぐっと息をのむ。
 泣きボクロ、長い睫毛、きつい眼差し。
 勘弁して欲しい。
 勘弁して欲しい。
 勘弁して欲しい。
 ひたすらそう繰り返して、頭がぐらぐらしてきて、足元が覚束なくなる。
「……お前のが散りそうじゃねえの」
 バァカ、と聞き慣れた低音の笑い声が神尾の耳元で聞こえたけれど。
 そういうツラを他所で絶対見せるんじゃねえと、怖いような声で凄まれ威されたけれど。
 神尾の身体は跡部の腕に、ひどく熱っぽくかき抱かれた。
「………跡部…」
 抱き締められる。
「しょうがねえから、今日は特別に許可してやるよ」
「…え…?……」
「特例だ。ベッドに上げてやる」
 なに?と神尾がぼんやり問うと、跡部は神尾が桜の枝を掴んでいる手の甲を、指先で静かに撫でるので。
 うわあ、と声にならない声で跡部の胸元に顔を伏せるしか出来ない神尾だ。
 許可って、特例って、ベッドに上げてやるって。
 そういうのは、桜に向ける言葉だろうか。
「……跡部…さぁ…」
 強風に折れてしまった桜の枝だけれど、せっかく綺麗に咲いたのだから。
 きちんと愛でてあげたいなと思って、ここまで持って来た神尾だけれど。
「………ベッドで花見…?」
「お前は俺が丁寧に散らしてやるよ」
「もー、くち、ひらくな跡部…」
 恥ずかしいよお前、と泣き言を口にした神尾に跡部は機嫌の良い笑い声を響かせて。
 いとも容易く神尾を抱え上げてくれたかと思えば、行先は桜ごと、跡部の寝室だった。
 鳳の手首に嵌っている時の印象と、こうして手にとってみた時の印象とが、随分違う。
 宍戸はしみじみ体感している。
 昨日鳳が宍戸の部屋に忘れていった腕時計は、今宍戸の手の中で、ずっしりと重い。
 鳳の手首にある時はそんな事は感じさせないのに、こうして持ってみるとその重厚感は凄かった。
 どういう事なのかと、ひどく不思議になる。
「………………」
 宍戸は普段、時刻に関しては携帯電話があればいいと思っているので、腕時計は身につけない。
 だから余計になのか、これではまるで拘束器具めいていないかとつい思ってしまう程に鳳の腕時計は重かった。
 重みを持て余しがちに手にしながら、でも普段これを身につけているのなら、忘れていってしまうのもおかしな話だと宍戸は考えた。
 違和感を覚えないのだろうか。
 これだけの存在感が、普段あるべき場所にないというのは。
「……これで三回目だぜ…長太郎の奴」
 誰に言うでもなく呟きながら、宍戸は足を早める。
 向かっているのはテニス部の、レギュラー専用部室だ。
 一時間目が始まる前に鳳と会って、この忘れ物を持ち主に渡さなければならないのだ。
 用件と待ち合わせ場所と時間は、昨夜のうちにメールをしてあった。
 宍戸と違い、普段日用品として身に着けているものなら、時計がないのはさぞや不便だろうと宍戸は思って、授業が始まる前の待ち合わせにした。
 場所が部室なのは、学年の違う宍戸と鳳が落ち合うにはそこが一番手っ取り早かったからだ。
 いつものように待ち合わせ場所には先に鳳がついている。
「長太郎」
 プロのクラブハウス並みの施設を持つ部室の外壁に鳳は鞄を肩に掛けて寄りかかっていた。
 目線を伏せている横顔は、近頃頓に大人びて、硬質で、でも宍戸が声をかけると即座に顔を上げてみせた表情は柔和だ。
 この上なく。
 その満面の笑みに宍戸はつい苦笑いしてしまった。
 すぐさま駆け寄ってくる様といい、そんなにあからさまだから忠犬とか何とか言われるんだと言うってやりたくなる。
「ありがとうございます。宍戸さん。わざわざ。あと、おはようございます」
「ん、…はよ。ま、わざわざって程でもないけどよ…」
 ほら、と手にした腕時計を宍戸が差し出すと、鳳は手のひらの上に乗せてそれを受け取った。
「………………」
 軽やかな所作で鳳はその大振りの腕時計を左手首にはめる。
 宍戸は、じっと鳳の手元をを見ていた。
「……宍戸さん?」
 どうかしましたか?と優しい気遣いの滲んだ声に、宍戸は曖昧に首を振った。
「いや? 別に。ただ、お前この間も忘れていったよな。それ」
「すみません。面倒かけて…三回目ですよね、これで」
「そんなん別にいいけどよ…」
 ただなんで腕時計を忘れていくのだろう。
 それは無論腕時計を外すからで、そして外すのはいつも、どういう時かは、宍戸も知っている。
 何となく言いよどんでしまう宍戸をどう思ったのか。
 鳳は、はめた腕時計に右手を当てて、微く苦笑を滲ませた目でそこに視線を落とす。
「はずさないと、ね…?」
「………………」
「傷、つけるから。宍戸さんに」
「………長太郎?」
 ひっそりと囁かれた言葉の意味が判りづらい。
 怪訝に眉根を寄せた宍戸に、鳳は、ますます不思議な言葉を放ってくる。
「夢中になるから。すみません」
「長太郎…意味わかんねーんだけど…」
「痛かったでしょう?」
「は?」
 何が?と真顔で問い返す宍戸の腰骨の裏側に、鳳の指先が軽く触れる。
 すぐに離れていって、すこしも濃密な気配などない接触だったのに、宍戸はびくりと身体を竦ませた。
「そこ、ね…」
「………っ……」
「後ろから、」
「…、…長太郎、…っ…」
 朝早くから、こんな場所で、鳳が何を口にし出したのか察して、宍戸は息を詰めた。
 怒鳴り声がやけに弱々しいのは実感していた。
「掴んで、支えて、動いたからこすれて、真赤に擦れてた」
「ば…、っ……」
 何を言っているのかと狼狽しながらも、すぐに思いおこす事が出来るリアルな記憶。
 組み敷かれて、うつ伏せて、片頬をシーツに埋めて、腰をきつく掴まれ、幾度も。
 幾度も。
「…………ッ、…」
 宍戸が生々しい記憶に硬直しつつも、それで気づかされた事に、ふと目を瞠る。
「………長太郎、…お前…だから腕時計はずすのか…?」
 宍戸を抱く時に、鳳は腕時計をはずすのだ。
 その事は宍戸も判っていた。
 けれど、意味合いは全く違っていたらしく、だからなのかと宍戸が問いかければ当然だというように鳳は頷いた。
「前に、腕時計はめたままして、随分痛くさせちゃいましたから…」
「……大袈裟。……っつーか、お前…さぁ…」
 痛みなどあったのかどうかすら危うい。
 それなのにあくまでも宍戸に痛みを覚えさせないようにと、鳳は腕時計をはずしていたと言う。
 宍戸はそんな鳳を見て、いつもこう思っていたのにだ。
「お前は、すげえ余裕あるよなぁって…俺は思ってた」
 思わず、ぽろっと口から出てしまった宍戸の呟きに、今度は鳳が仰天する。
「余裕…って……何ですか。それ。そんなのあるわけないじゃないですか」
「……っ…、…だってお前、こっちは最初っから訳わかんなくされてんのに、お前は平然と腕時計はずしてやがるしよ…!」
 両肩を鳳の大きな手のひらに掴まれてしまって、揺さぶりたてられそうな剣幕に、宍戸は怒鳴った。
 本当に。
 いつも思っていた。
 すぐに正気でなくなるような自分とは違い、鳳は冷静に最初に腕時計をはずすのだと。
「宍戸さん」
「…んだよっ。凄むんじゃねえよっ」
 信じらんない、と珍しく砕けきった口調で鳳に呻かれて、宍戸は怯みそうになる。
「何を考えてんですか。宍戸さんは」
「てめ……思いっきり馬鹿にしてんだろ」
「思いっきり唖然としてるんです」
 俺のどこをどう見てそんな、と鳳は言いながら宍戸を抱きこんできた。
 それこそ宍戸の背筋に鳳の腕時計が食い込んでくるくらい強く。
「長太郎、っ……おま、…ここどこだか判って…っ…」
「余裕あるって……余裕って……よりにもよって宍戸さんが俺にそれ言いますか」
「聞けよ長太郎…っ……、つーか離せバカッ」
 一気に気恥ずかしくなって怒鳴る宍戸にお構いなく、鳳は抱擁の腕の力をきつくする。
「時計痛いって…!」
「余裕だなんて思われるくらいならもう二度とはずしません」
「今の話だ今のっ」
「もー…ほんと信じらんない」
 会話になっているのかいないのか。
 呆れた鳳と怒鳴る宍戸の取り合わせだが、しかし抱き締めあったままの喧騒は、紛う事なき恋愛の密度で満ち満ちている。
 そろそろ限界だろう。
 本人が気づいていないけれど、海堂は判ってしまって手を伸ばす。
「先輩」
 オーバーワークです、と続けた言葉は。
 五回に四回は乾が海堂に向けて言う言葉だが、五回に一回は海堂が乾に向けて言う言葉だ。
「海堂?」
「………………」
 不思議そうな顔をする乾に溜息をつき、海堂は首を左右に振った。
 乾の部屋、何時間データに没頭しているつもりなのか、この男は。
 集中力の継続時間について、ついこの間は海堂を窘め諭した本人が今日はこれだ。
「………………」
 ペンは没収。
 ノートは勝手に閉じた。
 デジタル機器は電源を落とし、あからさまに物足りなさそうな顔をする乾の前で、海堂はお互いの距離を縮める。
 物足りなさを訴える両腕で、それなら自分を抱き締めろと近づいた。
「………海堂」
「………………」
 触ってみて、確かめる言い方に、そうだと返す代わりに海堂はじっとしていた。
 背中に乾の手のひらが宛がわれる。
 いつまでもいつまでも無機質な物体ばかり触っていた乾の手は、生命の感触に麻痺したかのようにぎこちない。
 それでもゆっくり海堂の背筋を撫で擦るように動く所作はたどたどしくも優しい。
「海堂」
「はい」
 噛み締めるように名前を呼ばれた。
 これはもう、しっかり認識している声だ。
 海堂が頷くと、密着感が増した。
 ぐっと背中を抱き寄せられ、海堂の身体は乾の胸元で薄くなる。
 一所に夢中になって、周囲が見えなくなってしまう似た者同士の自分達だ。
 海堂もよく乾にトレーニングのオーバーワークを窘められるが、乾のデスクワークも相当に基準外だ。
 海堂が止めなければ何時までも何時までも乾は没頭していて、限度ぎりぎりの睡眠時間や食事で毎日をまかなってしまう。
「海堂」
「………………」
「もう少し」
「……先輩?」
 もう少し何だと海堂が聞き返せないまま、長い腕は一層強く海堂を抱きこんでくる。
 いっそ苦しいくらいに強くだ。
「……何っすか…先輩」
 ぽつんと海堂が低く口にすると、乾は唸るような声を出した後、海堂と同じような言い方をした。
 低く、端的に。
「わかんない」
 そんな乾らしくもない子供っぽい言い方が。
 可愛いように思えてならない。
 こんなにも強い腕で抱き寄せてくるのに、甘えるように顔を伏せてもくる。
「先輩」
 海堂は、そんな乾の奇妙なアンバランスさに、闇雲な安堵感を覚える事があった。
 人付き合いに器用なようでいて、自己管理に長けていて、でも乾はまるで海堂のように誰にも見せないバランスの悪さ、そして脆さを持っている。
「嘘だよ。判ってる」
「………………」
 好きだ、と言う。
 だからもう少し、と言う。
 抱き締められる力が増す。
 こうしていたがる腕。
 乞うのか、請うのか。
 乾は海堂を抱き締めて、ゆるゆると溶解していく。
 戻ってくる。
 何かから、何処かから。
 乾はいつもこうして、海堂を抱き締めて、漸く。
「温かいな、お前、身体」
「………………」
 簡単にいつでも冷えてしまっている乾の手が、ゆっくりと海堂の体温で温まっていく。
 同化していく意識。
 それを体感する。
 何処かからか戻ってくる時の乾は、いつでもこうして海堂の腕の中に在る。
 取ってのついた南部鉄の黒い鍋の中身が煮えたぎっている。
 立ち上る淡い湯気越しに目を凝らせば、シチューのブラウンとクリームのホワイトがゆるくマーブルの模様を描いている。
 つやつやとしているシチューからは、深く深く、息を吸い込みたくなる匂いがしていて、神尾は目の前に置かれたその食べ物を見るなり開口一番、うわあ、と言葉を零した。
「すっげーうまそー…!」
「うまいかどうかは食ってから言え」
 感慨も抑揚も全くなく、いっそ冷淡に言い放った跡部に、神尾は臆する事無く言った。
「これ、食べていいのか?」
「食わねえなら片付ける」
「食うよ! 食います。やった。いただきまーす」
 跡部の部屋の重厚な造りのテーブルに向かい、慌ててスプーンを手にした神尾は、ぱん、と両手を合わせる。
 それからスプーンをシチューに沈めると、マーブル模様が僅かに崩れた。
 すくいあげたシチューを口に運ぼうとしたところで、跡部から声がかかる。。
 跡部は神尾のすぐ隣に座っていた。
「食う前に、よくかき混ぜろ」
「ん?」
「トランシルベニアンのシチューだ」
「…んん?」
 意味が判らないと小首を傾けた神尾に、跡部が億劫そうに舌打ちする。
 ひどく冷たい態度なのに神尾が傷つかないのは、跡部の手が神尾の手の上に重なってきたからだ。
 スプーンを握る神尾の右手に跡部も右手を重ねてくる。
 指の先まで色っぽい跡部の手は少し冷たい。
「………………」
「トランシルベニアンがどこにあるかは」
「や、わかんね」
「………ルーマニアだ。常識だろうが」
「常識かなあ…?」
「うんざりするほど馬鹿だな、てめえは」
 跡部は口が悪い。
 声音も結構冷たく聞こえる。
 でも。
「トランシルベニアン地方のシチューはサワークリームとサワーキャベツが入ってんだよ」
「あ、…この白いの生クリームじゃないんだ」
「かき混ぜてみろ」
 そう口では言いながらも、跡部は神尾の手に重ねた自身の手は離さずにいるので。
 神尾は跡部の手に右手を包まれたまま、スプーンでシチューをかきまぜた。
 二人がかりでする作業ではないのだけれど。
「……わ…!」
 かき混ぜたシチューの中で、サワーキャベツがとけていく。
「えー、なにこれ。おもしろい」
「面白いか、こんなもんが」
 いいぞ食え、と手の甲を軽く叩かれる。
 呆れた跡部の物言いといい雑な所作といい、えらそうな事この上ないが。
 所詮これが跡部なのだ。
 最近は納得してしまったなあと神尾は考えながら、今度こそシチューをすくったスプーンを口の中に入れる。
「うまーい…!」
 微かな酸味のするシチューは神尾が食べ慣れたものとは異なるものの、素直に美味しかった。
 神尾はせっせとスプーンを口に運び続ける。
 跡部の家に来ると、神尾はいつもこうしていろいろ物を食べている気がする。
 そしていつも跡部は。
「………なあ…? 跡部」
「あ?」
「………あのさ」
「何だよ。二杯目か」
「まだこんなにあるだろ!」
 そうじゃなくて!と神尾はスプーン片手に跡部を見据える。
「跡部は何でいつも食わねえの?」
 そんな話かよと眉を顰める跡部は足を広げて座っていて、立てた片膝に左肘をついている。
 その手に顎を乗せて神尾を流し見ている。
 神尾のすぐ隣で。
 距離が、とても近いのだ。
 身体の側面と側面が触れる距離。
 近い、その上、じっと神尾が食べている様を見つめてくる。
 視線を一時も外さない。
「お、…ちつかないんだけどなー…」
「よく言うぜ。食ってる時は気にもしてねえくせに」
「……う」
 いいから食えよと跡部に睨むように見つめられた。
 それで神尾は、何だかなあと思いながらもシチューに向き直った。
 そういえば跡部の家に来る度いろいろなものをご馳走になって、その都度こうして見られている気がする。
 何かを食べている所を、ずっと、じっと。
「あのよう……」
「何だ」
「……跡部、腹減らねえの?」
「減らねえな」
 本当に美味しいシチューを食べながら、逆の立場だったら耐え切れないだろうなあと神尾は思った。
「食いたくなんねえの?」
 へんなの、と思いながら言った神尾は、その直後耳を疑った。
「食いたい」
「は?」
 何だかそれってものすごく矛盾してないかと呆れた神尾だったが、跡部の指にいきなり髪を一束すくいとられて、ぎょっとする。
「食わせろよ。早く」
「…跡部?」
 シチュー?と恐る恐る横目に問いかけた神尾を、跡部はとんでもなく餓えた顔をして見つめてきた。
「そうだな」
 ほっとしたのも束の間。
「シチューで腹膨れたお前をな。早く食わせろ」
「っな……」
 獰猛な呻き声みたいに言われてしまって。
 神尾は、うぐ、と喉を詰まらせた。
 確かに跡部の部屋に来て、何かしら食べて、その後は大抵。
「俺はお前だけ食えりゃいい」
 早くしろと深い声で繰り返され、きつい目をした男のあまり表面化されない忍苦に。
 神尾の思考はさながら、先程運ばれたてだった時のトランシルベニアンシチューのようになる。
 頭の中身が煮えたぎる。
 羞恥と困惑とがマーブルの弧をえがく。
 そこをかき混ぜられてしまい、神尾の中に溶け込んでいくのは結局、跡部への恋愛感情だ。
 そしてこの後、それが溶け込んだ自分ごと。
 跡部が全部食べるらしい。
 二人になりたくないだとか、話をしたくないだとか、そう言われてしまったらもう成す術がない。
 きっかけはちょっとした意見の食い違いだった筈。
 その筈だよなあ、と今となっては迷うみたいに思えてならない。
 鳳はその自問自答で、改めて深く落ち込んでしまった。
 いつまでもこうして学校の中庭で立ち尽くしている自分も相当間が抜けている。
 ぼんやり見つめるのは、今しがた宍戸に振り払われた自分の手だ。
 何がどう、どこでこじれてしまったのか。
 数日前のささやかな言い争いは、今となっては宍戸の完全な拒絶でもって、鳳には取り繕う事すら出来ない状態だった。
 だいたいそんなに長いこと、宍戸と話もせず、顔も合わせず、気まずいままでいるなんて事、土台鳳には無理な話なのだ。
 これまでも、小さな諍いが起きる度、大抵は鳳の方から宍戸に接触を試みていた。
 それでまた言い合うにしろ、お互い神妙に謝るにしろ、何とはなしに普段通りになるにしろ、これまでならそれで状況の進展や改善が成されてきた訳なのだが。
 今回は、どうにも事態が収集されないまま拗れに拗れている。
 メール、電話、直接会う、鳳がどの行動に出ても宍戸は頑なに鳳を拒絶するのだ。
 怒っている顔で、でも傷ついている目で、どこか悔しそうに、顔を反らしてしまう。
 挙句に先程のような駄目押しの台詞まで口にされてしまって、鳳はすでにこれは普段の諍いのレベルの話ではないと思い、吐き気すらしてくる。
 宍戸の存在が取り上げられてしまうと、こうまで自分のバランスが乱れてしまうのだと再確認して、鳳はいよいよどうすればいいのかを暗澹と思い悩んだ。
 落ち込んではいるものの、だんだんと煮詰まってきている鳳は、強く自制していないと自分が何をしでかすか判らないという強迫観念にも襲われている。
 腹立ち紛れに取り返しのつかない態度や言葉を放ちたくない。
「よーう、アンニュイ色男ー。いつまで固まってんだー?」
 もうここにはいない宍戸の、去り際の頑なで強固な拒絶を思えば何度でも何度でも最下層まで気分も沈みきる。
 そんな鳳は、耳では聞こえていたものの、言われた言葉の意味を理解するのに恐ろしく時間がかかってしまった。
「……………え?」
 ひどく間の悪いテンポで鳳が横を向くと、そこには見事に呆れ顔をした上級生がいた。
「あれ…向日先輩…」
「あれー向日先輩ーじゃねーっつの。ボケてんのかお前!」
 身軽で小柄な彼はそう怒鳴ると、一瞬で鳳の近くまで来て、鳳の向こう脛を蹴り付けてくる。
「小さくて見えなかったとかほざいたら蹴る!」
「もう蹴ってるじゃないですか!」
 実際身長差はかなりある。
 鳳はそれでも上級生の攻撃を甘んじて受けるしかない。
 この先輩は時々ひどく凶暴だ。
「鳳よー。お前ら今回随分こじれてんじゃねーの?」
「……は……?」
「今更しらばっくれんな! むかつくな!」
「は、…すみません」
 手荒に、手でも殴られる。
 避けたら倍増だろうなと思い、鳳はひとしきり向日に攻撃された。
 その後、それでお前何やらかしたんだ?と向日は鳳のネクタイを引張った。
「何だかんだ言ったって、宍戸の奴はお前に甘いってのに。あんな風に拒否られるってことは、お前相当ヤバイことしたんだろ。例えば無理矢理やっ」
「宍戸さんにそんな事しませんよ…!」
 今抱える強迫観念には敢えて目を瞑って、鳳は慌てて叫んだ。
 ネクタイが引張られて首元が苦しいので、屈みこむようにして向日の目を見て言う。
「きっかけはちょっとした意見の違いというか……そんなにとんでもない事って感じじゃなかったんですよ!」
「でも宍戸、すっげえ怒ってんじゃん?」
「……なので、ちょっとした事なんて思ってるのは俺だけで、実際は俺が宍戸さんに何かすごく酷い事を言ったりやったりしたのかと思って、話を聞こうとしてるんですけど、……」
「あー…完全拒否な訳だ。…それでさっきの捨て台詞か?」
 こんな所じゃなくて、二人でいられる所で話をしようと言った鳳に。
 二人にはならない、話もしない、と言い切っていなくなった宍戸だ。
 思い返して再度どっぷりと落ち込んだ鳳の肩を、向日がたいして深刻そうでもない様子で叩いた。
「まあ、ちょっと待てよ。悩むのその後にしな。多分今頃、侑士が宍戸に探りいれてるからよ」
「……はい? 忍足先輩が…ですか?」
「そうそう。お節介侑士がさ」
 茶化す言い方をしても、こと忍足に関して他者が少しでも他意のある言い方をすれば烈火の如く怒るのもまた向日だ。
「見るに見かねてってやつらしいぜ。俺は面倒くせえって言ったんだけどな。張り込んでたわけよ、さっきまで。それで、俺はお前担当、侑士が宍戸担当で、事情を探る」
「………………」
「………あ、鳳、お前…!」
 そう聞いた瞬間の鳳の表情だけで向日は悟ったらしく、途端に憤慨して鳳を睨みつけてきた。
「嫉妬丸出しのツラしてんじゃねえよ! っつーか、侑士と宍戸が今二人でいるってだけで、そういうツラすんの、この俺に失礼じゃね?!」
「……いえ、…疑うっていうんじゃなくてですね」
 鳳は、すみませんと言ってから真摯に首を振った。
「……それで宍戸さんが、今何をどうして怒ってるのかを忍足先輩に話したら……悔しいなって思ったんです」
「………お前がいくら聞いても答えなかったのに?」
「はい」
 あーそっか、と向日は神妙に頷いた。
 確かにそうだなと頷く小さな頭を鳳は苦笑で眺め下ろす。
「しょうがねえ。まあ、そん時は慰めてやっからよ」
「……はあ……すみません」
 向日のさばさばした男っぽさに鳳は苦笑いを浮かべたまま目礼する。
「お、メール。侑士だな。………カフェテリア、よし、了解」
 携帯電話を取り出して素早くメールを確認した向日が、鳳のネクタイを引っ張って歩き出した。
「ちょ…っ……向日先輩、」
「飼い主いねえんだからしょうがねえだろ。キリキリ歩け」
「歩きますよ! 首輪じゃないんですから引張んないでください…!」
「生意気言うな!」
 何の言い争いだか判ったものではない。
 鳳は向日に半ば引きずられるようにして、校内施設であるカフェテリアに向かう。
 オープンエリアのテラス席で、忍足がひらひらと手を振っていた。
「侑士! どうだったよ? 宍戸何であんな怒ってんの?」
 矢継ぎ早に問う向日と、彼の背後にいる鳳が、二人がかりで見つめた先。
 足を組んで座っている忍足は、ゆったりと背凭れに寄りかかって、にこやかに言った。
「あかんわ。ぜんっぜん口割らへんねん」
「はあ? 何やってんだよ侑士!」
「堪忍なぁ、岳人。俺、頑張ったんやけどなー」
 憤慨する向日とは対照的に、至ってのんびりと忍足が告げるのに。
 鳳はそれはそれで安堵した。
 宍戸があそこまで気分を害している理由を、自分には告げず他の相手ならば言うという状況だけは免れたのだ。
「………………」
 忍足と向日が、ああでもないこうでもないと話し出すのを。
 同じテーブルについて、鳳はぼんやりと見つめる。
 考えている事は宍戸の事だけなので、鳳は先程の向日の時と全く同じリアクションをとる羽目になった。
「ししどのはなしー…?……なんでししどが、おーとりとはなししないか、おれしってるしー……」
「はあ?! ジロー、マジで?!」
「何や…起きたのか、ジロー?」
 テラス席の一番端のテーブルに、顔を伏せて眠っていたジローが、ゆらりと顔を上げて言った言葉に向日と忍足が反応してから、鳳は我にかえった。
「ジロー先輩……?!」
 くあ、と大きく欠伸をして、ジローは頬杖をついて鳳を流し見てきた。
 涙目だが、意識は覚醒してきているらしい。
 小さく笑っている。
「宍戸はねー、鳳とふたりきりになっちゃうと、だめなんだって」
「………駄目…というのは?」
 事と次第によってはどうともとれる言い方に、鳳は強張った面持ちで先を促す。
 ジローはまた欠伸をした。
「むかついててもー…? 鳳とふたりになって、話とかしちゃうと、宍戸は怒ってらんなくなるんだって」 
「………………」
「ふたりきりになっちゃったら、それだけでもうだめなんだって。だから嫌なんだって」
「許したくない……って事じゃないみたいやな」
「……つーか、ゲロ甘だろ。その言い草は」
 絶句する鳳にお構い無しに、忍足と向日はぼそぼそと顔をつき合わせて話をしている。
「あとねー……なんか、今みたいにまでなっちゃったら、いい加減鳳も愛想つかしてんじゃねーのって言ってた。で、もし鳳と二人きりになって、鳳から別れ話とかされたらどうすんだって言ってた」
「しませんよ!」
「……しないやろ…」
「しねーよな…」
 俺その時は慰め係って言っておいた!と宣言してから、ぱたりとジローはテーブルに顔を伏せ寝入ってしまう。。
 鳳の心中は複雑極まりない。
 ジローにはそういう事を告げている宍戸がというよりも、その宍戸の考え自体が鳳には驚愕だった。
「ジローなら許しちゃうわけ?」
 含み笑いする向日と、何の話?と首を傾げる忍足を前に、鳳は無言でいる。
「それで逃げ回ってんのかよ。宍戸もちっちぇえなー」
「岳人は男らしな」
 楽しげに笑っていた忍足が、鳳の制服の袖口を指で引張る。
「はい…?」
「宍戸。帰るみたいやで。どないする?」
 逆の手の親指で、裏門を指差す忍足に言われるままに鳳が眼差しを向けると、そこには確かに宍戸の姿が見て取れた。
「だいたいさー、鳳。お前、思いつめたような顔しすぎなんだよ。なっ、侑士」
「岳人の言う通りやで。だから宍戸もびびってんのと違うか?」
 笑ってれば人懐っこくて取っつきやすいワンコみたいなのによー、と可愛らしい事この上ない向日に言われ、鳳は勢い良く立ち上がった。
 椅子が音をたて、向日は咄嗟に忍足の腕に取り縋る。
「なん、…なんだっ?」
「…………宍戸さんを怖がらせなければいいわけですね」
「侑士、こえーよ、こいつ…」
「きれたな…鳳」
 びくつく向日と苦笑いの忍足を他所に、鳳は立ち上がったまま、すう、と息を吸い込んだ。
 目を閉じて、息を溜めて、そして。
 宍戸の名前と謝罪の言葉を口に出す。
 そのすさまじい声量に、向日と忍足は耳を塞ぎ、離れた所にいたジローは椅子から落ちた。
「なに? なに? なに?」
「……こいつに羞恥心ってもんはねえのかっ?」
「あ、…宍戸、走ってきよるで」
 顔真赤やん、と忍足が爆笑する。
「そりゃそうだろ。ごめんなさいもうしません怒んないで下さい宍戸さーん……だぜ?」
 心底から呆れて向日は頬を引き攣らせる。
 這いずってきたジローも、どうしたの鳳、と露骨に鳳を指差して不審気に忍足に問いかける。
「宍戸を怖がらせない方法で謝っとる……らしいで?」
「それで恥ずかしがらせて?」
「また怒らせんのか?」
 ジローと向日が言うように、物凄い勢いでテラス席まで走ってきた宍戸は、手もつけられない状態で、怒っている。
 怒っている、けれど。
 ない交ぜになった羞恥心や、ほっとした故の混乱も、確かに見て取れた。
 現に鳳も、宍戸に胸倉を掴まれ怒鳴られながらも、やっと正面きって向き合ってくれた宍戸に安堵する。
 背中に上級生達からの呆れた眼差しを感じないでもなかったが、鳳は激昂している大切な人を、両腕でしっかりと抱きこんだ。
 怒声は胸元にぶつかって、赤く染まっている耳元の熱を唇で感じて、鳳はもう一度そこで囁く。
 ごめんなさい、という言葉と共に。
 わだかまりを抱えた人は、鳳の腕の中に和らいで溶けた。
 抜きんでた能力を、いっそ天才という言葉が中和しようとしている。
 それが、海堂が持った不二の印象だった。
 底が見えない、事実も見えない。
 何の話の流れだったか、一緒にいた乾は生真面目に、判るよと何度も頷いた。
「天才という以外に、称する言葉がないからね、不二のテニスは。でも、そういう特殊な能力っていうのは、あまりにも強すぎると持ち主を滅ぼしかねないんだよ」
 だから強すぎて、だから枯渇してるんだ不二は、と乾は言った。
 その言葉の意味までは海堂にはよく判らなかったけれど。
 淡々とした乾の物言いに籠もる、懸念の温かさのことは今でもよく覚えている。
 ランニングを終えた海堂が、ストレッチの為に最後に立ち寄る馴染みの公園でそんな事をふと思い出したのは、そこで不二の姿を見かけたからだ。
「………………」
 公園と歩道の合間を埋めているユキヤナギに、歩道側の不二が足を止めている。
 海堂は公園内にいて、互いの間には少し距離があった。
 ユキヤナギは、やわらかな曲線を描く枝に雪の降り積もったような花を咲かせている。
 たっぷりと、零れ落ちんばかりに、白い花は開花している。
 小さな花弁のせいか、清楚な色みのせいか、あくまでも静寂な雪のように楚々とした花の合間に不二が見える。
 植物と対峙して同化するかのような無機質な印象が、乾と似ていると海堂は思った。
 不二が顔を上げる。
 撫でるように見つめられて目が合った。
「………………」
 咄嗟に海堂が目礼をすると、不二は見慣れた柔和な笑顔になった。
「海堂。自主トレかい?」
 大きな声など決して出さないのに、不二の声はあくまでもやわらかく伸びがあった。
「乾は?」
「…一人ですけど」
「じゃあそっちに行こう」
「は?…」
 そう言うと、不二は公園の中に入ってきた。
 何がじゃあなんだろうかと海堂が怪訝に思っていると、聡い年上の相手は海堂の表情で疑問を酌んだらしく、邪魔者にはなりたくないからね、と囁いてきた。
 からかわれた訳ではいようなのだが、それで海堂は、ぐっと言葉を詰まらせてしまった。
 知られているとはいえ、こういう時にどういう対応をとればいいのか。
 海堂には、まるで判らない。
 狼狽というよりも硬直でますます動けなくなる海堂の、すぐ近くまで不二がやってきて足を止めた
「………………」
 冷たい外気に、甘い匂いがふと溶ける。
 やさしい温かい香りは、不二が腕を動かしてより一層つよくなる。
「海堂、これ、ちょっと一緒に食べない?」
 軽く持ち上げた紙袋。
 海堂もよく知っている文字のロゴがプリントされている。
「タカさんがね、玉子焼き、焼いてくれたんだ。焼きたてだよ」
 甘い玉子焼きの匂い。
 ああ、と海堂は納得した。
「……おめでとうございます。誕生日」
「あれ?…ありがとう。どうして知ってるの」
「昨日乾先輩から聞いたんで…」
「ほんと乾は何から何まで」
 小さく声に出して不二が笑う。
 他にも何か言ってた?と悪戯っぽく目線で覗き込また。
「……二月二十八日生まれは、海王星により強く支配されるから…魔術的能力が強いとか…」
「乾は占い師でも生きていけそうだね」
 今度こそ本当にはっきりと笑い出した不二の言葉に、海堂も全くだと思った。
 乾の知識欲は深すぎる。
 興味のある範囲も広すぎる。
 この人はどういう大人になっていくのだろう。
 海堂はそう思い、乾は乾で。
 俺は俺のままだろうね、一生、と言っていた。
「………………」
 ふと回想に飛んだ海堂の思考を、不二の落ち着いた声がゆっくり今に戻してくる。
「タカさんちの玉子焼き美味しいよね」
「あ…、……そうっすね」
「誕生日に欲しいものある?って聞かれたから、ねだっちゃったよ。タカさんが焼いてくれるのがいいって言ったら、焼く所から見せてくれて、今僕はその帰り」
 不二が持っている紙袋を見つめてから海堂に改めてもう一度一緒に食べようよと言った。
 しかし海堂は、それなら尚更、と思った。
「海堂。あそこのベンチ行こうか」
「あの、……不二先輩」
「ん?」
「いや……それは家で食った方がいいんじゃないっすか…」
 俺まで食うのはどうかと、と控えめに告げた海堂のジャージの裾を、不二が握りこんで引張ってくる。
 海堂はその様を見下ろし焦った。
「ちょ、…」
「海堂はさ、つまみ食いって、したくならない?」  
「は?」
「玉子焼きね、焼いてるところからずーっと見ててさ。持って帰ってくる間もすごいいい匂いしててね。僕としては限界なんで、ここは先輩命令兼、誕生日プレゼントって事でつきあいなさい」
 楽しげに言う不二にそれ以上抗いようもなく、海堂は自分よりも小柄な不二に引張られて公園のベンチに座った。
 不二が膝の上で玉子焼きの経木をほどく。
 明るい黄色に焼きあがった玉子焼きから甘い出汁の香りが漂って、紙袋の中から割り箸を取り出した不二が端から一口玉子焼きを口に入れて、ふわりと笑う。
「やっぱり美味しい。………はい、海堂」
「………………」
「どうしたの、海堂?」
 小首を傾げる不二は、箸でつかまえた玉子焼きを海堂の口元にもってきて、あーん、と言っている。
 どうしたもこうしたもと海堂は固まった。
「あーん」
「………あの…不二先輩…」
「まだあったかいよ。はい、あーん」
 いや、だから、と海堂が頭の中をぐるぐるさせて強張ったままでいると、不二は微笑みながら距離を縮めてくる。
 笑っているけれど、ちょっと目が怖かった。
 上司からのお酌を断った会社員の図が咄嗟に海堂の脳裏に浮かぶ。
 ベンチで、肩が触れるくらい近くなった目上の相手から、だからといって逃げ出すわけにもいかず。
 そんな海堂の様子が、傍目には懸命に虚勢を張ってびくついているのを隠すかのように見えるらしく、不二は笑っていた。
 逃げ腰の海堂の口元に根気よく玉子焼きは翳されたまま。
 海堂は、とうとう腹をくくった。
 口をあけていくと、不二によって口の中に玉子焼きが運ばれてくる。
 玉子焼きは、ほんのりとあたたかかった。
 やさしいあまい味がした。
「どう?」
「…美味いっす」
「だよね」
 不二は自分が褒められている時よりよほど嬉しそうに微笑んで、自分と、そして海堂へと、せっせと箸を運んだ。
「や、俺はもうほんと、充分で……」
「ダーメ。癖になっちゃったよ」
「…癖?」
「そう。野良の美猫が漸く自分の手から食べ物食べてくれたみたいな感じがするなあ……こうしてると」
「の、…っ、……びね…、っ?」
 不二がいったい何を言い出したのか皆目不明のまま、しかし面食らった海堂は促されるままに不二に玉子焼きを食べさせられる。
 これのどこが誕生日プレゼントになっているのか甚だ疑問だった。
「あ、海堂」
「は…、はい?」
「占い師が来たよ。相性診断でもしてもらおうか」
 また新たな玉子焼きを不二によって運ばれた海堂が、箸の先を口に入れたまま目線をやると。
 そこにはユキヤナギ。
 風が吹いたのか舞ってばらけて散る花弁の中、実際は勢いよく走ってくる事で花弁を散らした男が猛スピードで海堂と不二の前に現れた。
 結構必死な形相に玉子焼きを口に入れたまま海堂が驚いていると、肩先に白い小花を纏わせた男、乾は頬を引き攣らせてベンチに並ぶ海堂と不二を見下ろしてくる。
「誕生日おめでとう、不二。それで聞くがこれはどういう状況だ?」
「どうもありがとう、乾。僕と海堂の相性診断でもしてもらおうかって話をしてた所だよ」
「………………」
 ごくん、と玉子焼きを飲み込んだ海堂は、二人の上級生の様子を代わる代わる見やる。
 乾も不二も見目は淡々と、淀みなく会話を始めて、言葉が一時も止まない。
「乾、公共の花を散らしすぎだよ」
「ユキヤナギの花は散りやすくて、葉はしおれやすいものだ」
「ついでに確かバラ科だよね。あの花」
「そうだ。バラ科だ」
「玉子焼きはタカさんが焼いてくれたんだよ」
「美味そうだな」
「乾も食べる? 箸はこれしかないから乾は手でいいよ」
「どうして俺は箸じゃないんだ」
「さあ…?」
 決して険悪というわけではないが、これはどうにも居たたまれない。
 固まる海堂を他所に会話を続けた上級生達だったが、海堂の態度に出ない倉皇さに気づいたせいなのか、時期にやりとりが収まっていく。
 残りの玉子焼きを経木で包みなおして紙袋に入れた不二が、立ち上がる。
「それじゃ、僕はそろそろ帰ろうかな」
 海堂ありがとうねと不二に言われたものの、海堂は何に対して礼を言われたのか判らなかった。
 寧ろ礼を言うのは自分ではないだろうかとベンチから腰を浮かせかけたところで、いきなり不二のいた場所に乾が座って腕を引かれてしまう。
「乾先輩?」
「そんなすぐ帰らなくてもいいだろう?」
「や、…帰ろうとしたわけじゃ…」
 距離が。
 距離が近い。
 不二の時とは違う狼狽に海堂が怯んでいると、また笑った不二が、手を振って公園から出ていった。
 結局は気心知れた者同士らしく、乾と不二は笑って別れていく。
 しかしその間も何故か、乾は海堂の腕を掴んだままだった。
「あの、…乾先輩」
 そして、不二がユキヤナギの花の向こう側に消えていなくなると。
 今度は腕を掴まれたまま、海堂の肩口に乾の頭が凭れかかってくる。
 乾の唇から溜息が零れる。
「ああよかった。返してもらえないかと思った」
「………あんた…何言ってんですか」
 自分の肩口にいる乾を見下ろして呆れた海堂だったが、乾の言い方が、あまりに生真面目で、子供っぽくて、要するに何だかかわいかったものだから。
 徐々に口元に苦笑が滲んでくる。
「だって海堂、俺は昨今ないくらい驚いたぞ」
「………………」
 からかうでも怒るでもなく、しみじみ言われてしまうと確かにそれも当然かもしれないと海堂は思った。
 不二に、玉子焼きを食べさせて貰っていた訳だから。
 公園のベンチで。
「ちょっと羨ましいなあ、あれ」
「……あんた、どっちの目線で言ってんですか」
「どっちも楽しそうだけど、強いて言うなら海堂に食べさせる方かな」
 互いの身体の合間で。
 ベンチの上で。
 手のひらが合わさって、指が一本ずつ絡んでいって、手をつなぐ。
 こっそりと。
 しっかりと。
「…部屋の中とかでなら、別にいいですけど」
「不二とは公の場所だったのに?」
「………俺の方問題なんで」
 焦るのと、恥ずかしいのとは違う。
 戸惑うのと、面映いのとが違うように。
 どうせそんな違いの事など乾は気づいているくせに。
 海堂は思ったが、乾は相変わらず海堂に密着したまま憂いたっぷりに呟いた。
「河村の玉子焼きかぁ……海堂じゃなかったら、絶対誰にも食べさせてないだろうな、不二は」
「……そんな事あるわけないでしょうが」
「あるって。俺には箸も使わせないんだぞ」
「あんた結局玉子焼きが食べたかったってだけの話っすか…」
「いや、玉子焼きの味は、今海堂にキスすれば判る話だからいいんだけど」
「な、………っよくねえ…!」
 やんなよ!と飛びのきかけた海堂を、繋いだ手で押しとどめて。
 乾はまるで魔法のように、海堂の唇をキスで掠めとってきた。
「…っ………」
 笑って、甘えて、尚抱き締めてくる乾の腕から。
 とうとう海堂は飛び出した。
「あ…逃げられた」
 向かう先はユキヤナギの向こう側。
 最後に聞こえた乾の声。
「………………」
 乾の腕から逃れる事は、実際問題こうして結構簡単で。
 だからこそ海堂は、それが難しくて、毎回苦労するのだ。
 逃がし方も巧い相手の、心地いい腕の中から。
 毎回逃げる方だって、いろいろ辛いのだ。
 本当はそのままでいたい時だって、逃げないといけない事もあるからだ。


 黒髪に白い小花を散らばせてユキヤナギを走り抜けた海堂は、さながら憂鬱な黒猫の如く。
 跡部の携帯から流れた電子音がある特定の相手専用に設定されたものだと知っていたから、神尾は今日はもうこれで帰ろうと思った。
 跡部の部屋の、つくづく跡部らしいと神尾が思っている派手な真紅のソファで、今まさに唇を塞がれかけていた所で。
 神尾がそのキスを避けると、跡部は露骨に眉根を寄せて、目つきを鋭くさせてきた。
 凄む声と眼差しを、神尾に遠慮無しにぶつけてくる。
「アア? 何の真似だ、てめえ」
 顔が再び近づけられて、神尾は跡部を押し返しながら言う。
「でん、わ!……電話、出ろって…!」
 けれど、憮然とした跡部は片手で神尾の後頭部を鷲掴みにしてきただけで、携帯は未だ鳴りっぱなしだ。
 跡部の長い指に髪も握り込まれて、がっちりと固定され、あくまでもまたキスの続きをされかける。
 神尾は手も足もばたつかせて暴れた。
「跡部! 鳴…ってるだろっ、電話…!」
「逃げんじゃ、ねえ」
 出ない訳にはいかない電話。
 それを神尾は知っているし、無論跡部だって判っているのに。
 電話は鳴ったままだ。
 神尾は必死に跡部を押しのけ、座っていたソファから立ち上がろうと躍起になる。
 そんな神尾を、跡部は一番手っ取り早い方法だとでも言いたげに身体ごと押さえつけてきた。
 ソファの上で神尾に馬乗りになってきたのである。
「おま、……乗んなってば! 苦しい!」
 神尾が不平を捲くし立てても全く意に介さず。
 跡部はその体勢で無理矢理神尾の唇を掠るように口付けてから、漸く腕を伸ばしてテーブルの上にあった携帯を手に取った。
 この体勢のままかよと、これはもう成す術無いと観念した神尾が。
 そんな跡部を、赤い顔で見上げつつ、あからさまな溜息を吐き出したところで相手はほんの少しも動じない。
 平然と携帯を肩口に挟んで話を始めた。
「はい。お待たせしました。何かありましたか。監督」
「………………」
 理知的な涼しい声。
 淀みない言葉遣い。
 それらと今やっている事のギャップがあまりにも激しすぎるだろうと神尾は呆れて跡部を見上げていた。
 結局キスはしてくるし。
 もうガキだ。
 ほんとガキ。
 跡部なんか、実際のところは、本当にガキ。
 でも、そう思いながらも、神尾は大人びた跡部の顔や仕草なんかを、気恥ずかしいくらいじっと見つめてしまうのだ。
 細く綺麗な前髪を額に零して、跡部が左の肩口に挟んでいた携帯を右手で持ち直す。
 仕草がいちいち色っぽい。
 人の身体の上で何やってるんだと神尾は呻くのを堪えるので精一杯だ。
「はい。その件は特に問題はないと自分は判断しましたが」
「………………」
 跡部の電話の相手は氷帝テニス部の顧問だ。
 これまでにもこういう事は幾度かあって、電話で話が済むのか、直に跡部が足を運ばなければならないのかは、今の所まだ判らないけれど。
 こうして電話の相手は判っていたのだから、話の内容だって急ぎと見当もつくのに。
 跡部も、あんな馬鹿な事をやってないで早く電話に出ればよかったのにと神尾は思わずにはいられなかった。
 神尾の上に馬乗りになって電話の相手と話をしている跡部の表情からして、結構重要そうな話だしなあと神尾が長引く電話に戸惑っていると。
「…判りました。今から学校に向かいます」
 やっぱりだった。
 跡部の返答に神尾は思う。
 神尾が最初に思った通りになったわけだ。
 まだ会って、たいして時間も経っていないけれど、今日はもう、これで帰るしかない。
 跡部は電話をきった。
「部活の事で出かけてくる」
「んー…」
 携帯を閉じて神尾の上から跡部が降りる。
 苦しいと散々口にしていたが、いなくなられると途端に神尾の腹部だか胸の中だかが、空っぽになったような気がして心もとなくなる。
「ん…、じゃ、俺も帰……」
 たぶんくしゃくしゃになっているだろう後ろ髪を適当に撫でつけながら神尾が身体を起こしかけたところで、いきなり、身支度を整えていた跡部から何かが投げられた。
 手裏剣さながらに回転しながら飛んできたものを、神尾はぎょっとして咄嗟に両手で挟んで受け止める。
「あ、…あっ…ぶね……!」
 受け止める一瞬の間をおいてから、ぶつかったらどうすんだよこれっ!と叫んだ神尾を跡部は細めた目で平然と眺め下ろして言う。
「ぶつかるタマかよ、てめえが」
 馬鹿にしているのか、そうでないのか。
 判らないちぐはぐな言葉と態度。
 神尾は飛んできたノートを両手で挟みこんで受け止めたままの体勢で、跡部に喚き散らす。
「投げるか普通! 人に向かってあんなに勢いよくノート投げるか…!?」
 着々と身支度を整えていく跡部は、神尾の言葉には無反応で、いつものことながら身勝手な事を言いつけてきた。
「一冊埋めろよ。埋めるまで帰んじゃねえ」
「はあ? ノート? 埋めるって何!」
「ほんとてめえの頭は空っぽだな」
 呆れ返った口ぶりで、しかし跡部はソファまで近づいてきて、シャツの袖の釦をとめながらまた神尾の唇をキスで掠った。
「…、ぅ」
 頭の話をしながらどうして口になんかするんだと神尾が喉を詰まらせると、跡部は冴え冴えとした目元で神尾を流し見ながら抑揚なく言った。
「不平不満があるならそれに書いておけ。今聞いてる時間はねえ」
「お前よう…お前ぇ…どうしてそうえらそうなんだよう?」
「ついでに他に言いたい事があるならそれも書け。そのノート一冊埋めるまで帰るな」
「帰るなって……帰るなって?!」
 俺ここでそんな事しなきゃなんないわけ?と叫んで神尾は額を跡部に軽く叩かれた。
「文句言ってねえでやれ。バカヤロウ」
「バ…ッ、バカとか言うか普通! 普通ドタキャンごめんなさいって謝るもんなんじゃねえの、跡部が俺に!」
「俺がお前に?」
「…………ぅ……、…跡部が、俺に、だよ…」
 どうしてこの流れで自分が叱られてるんだろうと神尾は首を傾げたくなった。
 あまりに堂々と跡部に反復されると、まるで本当に悪いのは自分みたいじゃないかと思って焦る。
「だいたい跡部がいないのに…何で俺一人でここにいなきゃなんないわけ…」
「……一冊埋めても戻ってこないなら帰っていいって言ってんだろ」
 神尾の呟きに対しては、跡部から、少しだけ歯切れの悪い返事があった。
 言ったっけか?と更に大きく首を傾げた神尾に、跡部はすぐに不遜な笑みを浮かべたけれど。
「ノート一冊埋めろとか簡単に言うけどよう、それ、どんだけ時間かかんだよ」
「俺様のどこが好きかも書いていいぜ? それならすぐに一冊埋まるだろうが」
 簡単にな、と毒のある笑みで囁かれ。
 ふざけんな!と怒鳴った神尾の唇は。
 今日三度目のキスに、やけに丁寧に塞がれてしまった。



 そうして跡部はさっさと家を出て行った。
 神尾は真紅のソファに膝を抱え込んで座っている。
 ちんまりとそこにおさまり、ノートを膝上に乗せて、シャープペンを走らせている。
 書き付ける文字と同じ言葉を口にしながら。

『跡部のばーか。人のことおいてでかけんな。ばーか。えらそーに命令とかすんな』

 一ページに一文字にしてやろうかとも考えたのだが、それだと今度はページが足りないんじゃないかと思い直した神尾は、行数を無視してどんどん書きなぐった。

『ふつうありえねー! なにさまだおまえ、人のことよんどいて、いのこり勉強みたいなことさせんな、ばかやろー』

 しかし、どうも文句というのは画数の多い字を使う事が多いものだと神尾は気づいた。
 書くのが面倒だったり漢字が自信なかったりで、やけに平仮名ばかりになると、どうも間が抜ける。
 不平不満は活字にするとやけに情けないと知ってしまった。 
 平仮名の『ばか』で埋まったページを見ると、自分で書いておきながら神尾は何だか脱力してしまう。
「くそう……どうせだったら、もうあらいざらいいろんなこと書いてやる。えっと……この間…会った…時、」
 この間会った時。
 なんで勝手に怒ったんだよ。
 書いたら余計にあの時の事を思い出してしまってムカムカする。
 跡部は時々、神尾にはさっぱり判らない理由で、勝手に不機嫌に怒り出すことがある
 跡部に言わせると、てめえも同じだという事なのらしいが。

『映画みるっていったのに、急に家帰るとか言って、お前のそういうとこほんとなおしたほうがいいと俺は思う』

 不動峰の部活の仲間達で観て面白かった映画だから、神尾は跡部とも一緒に観たいと思って誘ったのに、神尾がこの映画を観るのは二度目になると告げた途端、機嫌の悪くなった跡部に神尾は強引に連れ帰られてしまったのだ。

『いっしょにみたかったのにあとべのばーか!』

 だんだん跡部の名前も書くのが大変になってきて平仮名だ。
 ついでに言葉におこしてみると、何だかこれすごい恥ずかしいなと神尾は思ったのだが、勢いで見ない振りをした。
 とにかくこのノート一冊、全部埋めなければならないのだ。 

『背のびする時に、両手を頭の上にあげて、手をこうささせて手のひらをくっつけて、背のびすると背骨のゆがみがとれるんだって。ストレッチにもなるんだってよー』

 今日の体育の授業で教わったストレッチのこと。

『プッチンプリンの、ちょーでかいバージョン見たかー? 俺昨日あれ一人で食った! ちゃんとプッチンできるんだぜ』

 何だか日記みたいになってきたなと気づいたものの構わずに書く。
 とにかくどんどん神尾は書いた。

『なんかネタつまってきた。てゆーか、ノート一冊分書けって、すごいノルマじゃね? どんだけ書かせんだよ。ありえねー』

 言葉が堂々巡りになってきては、書いている神尾も飽きてしまう。
 一度手を止めてしまうと、余計に何も書けなくなった。
 それで仕方なく。
 しょうがねえ、と神尾は呻いて、禁断のエリアに突入することにした。
 出来たら書きたくなかった事なのでせめてもの抵抗で箇条書きにしてみた。

『あとべの好きなとこ』
『1・あとべんちにくるとうまいもんがある』
『2・家でテニスができる』
『3・えらそーだけどテニス教えてくれるとこ』
『4・むかつくけど宿題みてくれるとこ』
『5・けっこう時々はやさしい』
『6・性格悪いぶん顔と声はいい』

 これがまた何でなのか神尾には全くもって謎なのだが、23まで書けてしまった。
 こんなの本当に恥ずかしい。
 それならばもう嫌いなところも書いてやると勢い込んだものの、そっちの方は3つしか書けず神尾は赤い顔で先に進んでいくしかなかった。
 そして、書き始めからどれほどの時間が経ったのか。
 気づくと神尾は両手でノートを握り締め、おおー!と感嘆の声を上げていた。
「マジで一冊埋まった…!」
 最後のページまで書き綴ったノート。
 正直信じられなかった。
 本当に一冊埋まるとは。
「…………帰ってこないじゃんかよ」
 なんだよう、と神尾は不服を口にしたが、時計を見てみると跡部が出て行ってから二時間半近くが過ぎていた。
「いつまで人んこと自習させとく気だよ…跡部の奴」
 俺もう帰るからなと不貞腐れながらも、神尾は少し考えて。
 ノートの最後のページに書き加えた。
 今の時間と、そして。

『おつかれ。跡部』

 それで正真正銘最後の行まで埋めきって。
 そのノートを置いて神尾は帰っていった。



 翌日、跡部は不動峰に現れた。
 正確には、帰宅しようと正門を出かけていた神尾を待ち伏せしていた。
 運転手つきの跡部の家の送迎車に、神尾は無理矢理押し込められる。
「なに、…なに、すんだよ…っ!」
 こんな暴君めいた事をする輩は、跡部をおいて他にいない。
 だから驚くというよりは咎めて大声を上げた神尾の額を、跡部は件のノートで叩いてきた。 
「痛…!」
 パーンと小気味良く上がった音ほどは、たいして痛くもなかったのだけれど。
 後部座席に並ぶ跡部は、神尾の腿にノートを放って寄こしてきた。
 腕を組んで前方を見据えたまま言う。
「突っ込みどころ多すぎて、添削のしがいが有りすぎだ。無駄に睡眠時間削られたぜ」
「…え?」
 神尾が恐る恐る手元のノートのページをめくると。
 どのページも、どのページも、赤い文字でいっぱいだった。
「…………………」
 赤いペンの文字は、跡部の文字だ。
 真赤だよ、と唇だけ動かした神尾は、いったい何が書かれているのだろうかとまじまじ紙面を見つめていると、跡部が不機嫌極まりない声で凄んでくる。
「何笑ってんだ。てめえ」
「だって……だって、なんか、」
 添削している。
 答え合わせしている。
 全頁に、赤いペンで、跡部の文字。
「跡部ー……」
 なんだよもう、と。
 神尾は、読み終えてしまう事が勿体無いと、心底から思う不思議なノートを抱き締めた。
 そんな事にも跡部は腹を立てたような顔をして辛辣に言葉をぶつけてくるけれど。
 神尾の大事な大事なノートを取り上げたりするようなことはしなかったので。
 盛大に繰り広げられている二人の口喧嘩で、車内は幸福な密度で満ちる。
 気をとられて歩調が緩む、そんな店だった。
「なあ、長太郎。これ、ケーキ屋?」
 鳳の家へ向かう慣れた道で宍戸が初めて気づいた小さな店を指差して問うと、隣を歩いていた鳳が丁寧に同意する。
「はい。先週末にオープンしたんです」
 明るいクリーム色に塗られた壁面。
 細工の細かいアイアンの扉。
 ガラスの奥の店内も甘い色合いだった。
 入口にはカラフルなチョークアートの立て看板に、色とりどりの花の鉢植え。
 見るからに可愛らしい造りと、ふわりと漂う菓子の香り。
「美味しかったですよ。そうだ、買って行きましょうか」
「え? あ、おい……」
 柔らかく微笑んで、鳳はそっと宍戸の背に手を添えて。
 店の扉に逆の手を伸ばす。
 宍戸は少々躊躇した。
 あまりにもこのケーキ屋が可愛らしすぎて、足を踏み入れるのが躊躇われたのだ。
 しかも男二人、制服でか?と思えば尚更のこと。
「宍戸さんが好きそうなケーキは……」
「ちょ、……っと待て…、長太郎」
「はい?」
 カラン、と軽やかな鐘の音。
 すでに扉は鳳の手によって開かれてしまった。
「宍戸さん?」
「いや……もういい……」
 いらっしゃいませと声もかけられてしまったこの状況で、さすがに回れ右で出て行く訳にも行かない。
 宍戸は諦めた。
 腹を括るような面持ちで中へと入る。
「………………」
 そう広くはない店内だったが、外国の家のキッチンのように明るく清潔で、何もかもが可愛らしい。
 どう考えてもこれはやはり場違いだと宍戸は思ったが、よくよく見れば連れの鳳は、場違いどころかこの空間にはまりまくっていた。
「お前……こういう場所似合うよな……」
「そうですか?」
 こんなにでかいのによと恨めしく長身の後輩を睨んだ宍戸だったが、鳳は宍戸を見つめて柔らかく笑ったままだ。
 上背もあって、手足も長くて、目立つ男。
 それなのにケーキ屋で違和感がないというのもすごい話だ。
 そして、ここにきてもう一つ。
 宍戸は気づいた。
 店内にいるスタッフの、声にならない声での賑わい。
「………………」
 店内にあるガラスケースにはきらびやかなケーキの数々。
 その奥にある厨房も見えるようになっている。
 店にいるのは全て女性だった。
 厨房でケーキをつくっているメンバーは白い帽子を、ガラスケースのすぐ奥に居る女性は茶色い帽子を被っていた。
 そして、そんな彼女達の雰囲気が一斉に華やいだ訳は当然、宍戸の横に居る、この男のせいだ。
「お前、今日でここ来るの何回目?」
「開店初日と、火曜と……今日で三回目ですね。姉がすごく気に入って、毎日でも食べたいらしいんですけどね」
 一回でも充分インパクトがあるだろう。
 この男が現れたら。
 それが三回目とあっては、すでに鳳がこの店で特別な客としてインプットされていて何ら不思議ではない。
 茶色い帽子の彼女などは、ほんのり頬が染まっていて、やはりなと宍戸は思ってしまう。
 鳳は、見目は派手な部類なのに、仕草や物言いがとことん優しく柔らかい。
 全てが丁寧で存在感も甘やかだ。
「このゼリー、宍戸さん好きかもしれない。上に乗ってるミントのジュレが美味かったですよ。あとリモーネとか、焼きリンゴのタルトもアップルパイとはまたちょっと違って美味かったし」
「………………」
 相変わらず鳳の手はさりげなく宍戸の背にあって、ショーケースを見下ろしながら宍戸が好きそうなもの、という前提で話をしている。
 なめらかな声といい、エスコートじみた振る舞いといい、本当にこいつはなあ、と宍戸はこっそり溜息をつく。
 微苦笑交じりのそれに悪い意味など欠片もない。
 自分とは違う鳳のそういうところが、宍戸も好きだった。
「じゃ、その焼きリンゴのやつにする」
「あとは?」
「お前にまかせる。俺が好きそうなやつ選んでくれ」
「了解です」
 そんな言い方を宍戸がしても、鳳は嬉しそうに頷くだけだ。
 鳳にオーダーを任せている間、厨房の女性陣があからさまに動きが止まっていて、宍戸はちょっとおかしくなってしまった。
 マジでもてるんだよなあ、こいつ、と。
 横目で鳳を見やって思う。
 若干ちくりと胸にくるものもあるが、無理もないと宍戸は誰より納得してもいる。
 これからますます良い男になるんだろうなあと考えてしまうあたりが、一つとはいえ年上の思考かもしれない。
 宍戸がそんなことをつらつらと考えている間に鳳のオーダーも支払いもとうに済んでいたのだが、なかなかその先が進まない。
 あまりにもぎこちない手つきでケーキをガラスケースからトレイに移し、更に箱へと移すべく格闘している彼女は、よく見れば胸元に実習のバッチをつけている。
 焦って余計に手が動かないらしく、箱に幾つかケーキを入れた所で全てがおさまらないと気づいてやり直す、という作業を繰り返していた。
 つい宍戸がその手元を見据えてしまった事も悪循環だったのか、箱を軽く持ち上げた際に、それを机上に落として中に入っていたケーキが幾つか倒れた。
「すみません…!」
 すぐやりなおします、お待たせして、と口にした相手が殆ど涙目で、宍戸は肩で息を吐いた。
 びくっと跳ねた相手の肩先に、慌てて顔の前で軽く手を振る。
「あー……違う。苛ついてんじゃねえよ」
 鳳とは違って、宍戸の態度は概して荒くとられがちだ。
 またやっちまったかと思いながら、口調が変えられないあたり宍戸も自分でどうかと思うが、直せないものどうしようもない。
「いいよ、それで」
「え…?」
 頼りない風情ではあるが、明らかに自分よりも年上であろう女性が、心細そうに問い返してくる。
 こういう時に鳳ならきちんと優しい言葉がかけられるんだろうけどなあと思いながら、宍戸はガラスケース越しに倒れたケーキの入った箱を見やった。
 焼きリンゴのタルトの上に、ふんわりとのったクリームが一部零れているのと、キャラメルのケーキの上の飾りが落ちている。
 宍戸はガラスケースに、もう一歩近づいて、声のトーンを落とした。
「構わねえよ、それくらい」
「あの、でも」
「どうせ食うの俺達だし。形がきちんとしてるのは、ちゃんと見たからよ」
 厨房からこちらに向けられてる視線が、鳳に対してのものだけでなく、時間がかかりすぎている事を咎める気配も含まれ出している。
「失敗しなきゃうまくなんねーんだから、次ちゃんとやればいいさ」
「お客様……」
 半泣きになっている相手へ、だからといってうまい事も言えないのだから、宍戸はそっけなく告げた。
「包んじまって。それで。いいから」
 こくりと頷いた相手の目が赤くて、そこまで怯えさせていたかと宍戸の内心も複雑だった。
 もう少しどうにかならないだろうかと思うものの、どうも見た目といい態度といい、宍戸はこういう自体に陥りやすいのだ。
「お待たせしました」
「おう、どうもな」
 深々と頭を下げる相手に軽く返して、宍戸はケーキの箱を受け取って店を出る。
 代金は後で鳳の家で払おうと思い、それを言いかけた宍戸は、外に出て鳳の顔を見るなり肩を盛大に落としてしまった。
「お前ー………」
 なんつー顔してんだよと吐き捨てると、らしくもなく憮然とした面持ちの鳳もまた、深い溜息を吐き出して答えてくる。
「こんな顔にもなりますよ……」
 嫉妬深いんですよすみませんと早口に添えられて、はあ?と宍戸は首を傾げた。
「お前さ……俺が妬くならともかくさ……」
「何で宍戸さんが妬くんですか。あの子、最初から宍戸さん見て赤くなってたのに、あんな風に優しくされたらもう、絶対に宍戸さんのこと好きになった」
「は? 赤くって…そりゃお前だし! だいたいどこ見てお前、優しくとか言うか」
「あのねえ…! 宍戸さん、あなたに向けられた視線に、俺が気づかない訳ないんですけど? それにね、宍戸さんは優しいですよ。グラグラくる感じに優しくて、知ってしまうともう我慢できなくなる感じに優しいんです」
「………や、…お前の言ってること全然判んね…」
 宍戸が呆れて返しても、鳳は一向に浮上しない。
 先程まで、ケーキ屋できらきらしていた男とは思えない落ち込みっぷりに呆れつつも、宍戸は鳳の広い背中を軽く叩いた。
「お前、何かストレスたまってんじゃね? ちょうどいいから、甘いもんでも食って解消したらどうよ」
「ストレスが溜まってる時は血液が酸性になってるんで、ケーキみたいな甘い酸性の食べ物を取り込むのは逆効果なんですよ……」
 アルカリ性のものを食べないとストレス解消にはならないんです、と言った鳳に生意気だと返しながらも、しょぼくれている年下の男が可愛くない筈もない。
 宍戸はしまいに笑い出してしまう。
「じゃあ、これっぽっちも甘くない俺でも食ってストレス解消すりゃいいだろ。多分俺とかアルカリ性だ」
「宍戸さんはどこもかしこも甘いですよ!」
「ば…っ…、…んな事でけえ声で言ってんじゃねえ……!」
「宍戸さん、ケーキ! ケーキ!」
「いんだよっ、ちょっとくらい振り回したって! どうせ倒れてるんだからよっ」
 小競り合い。
 喚いて。
 構って。
 怒鳴って。
 歩いていく。
 でも鳳の家についたら。
 二人で、少し崩れたケーキを食べて。
 きっと少しは雰囲気も甘くなるだろうから、今はこれで。
 いいことにする。
 突拍子も無い話題転換は乾の専売特許だと海堂は思っている。
 無論乾の中では考えの流れがあっての言葉なのだろうけれど、乾はその流れというものを殆ど表面化させないので、海堂からするとさっぱり判らないのだ。
「心中ってさ、どうなんだろうね、あれは」
 抑揚のない物言いで結構とんでもない事を言っている年上の男を海堂は胡乱に見据えた。
 海堂の日課の夜のランニングに、いい加減身体がなまるからつき合わせてと言って同行した乾は、エスカレーター式の青春学園の三年生とはいえ、いわゆる受験生という身の上だ。
「…………したいんですか」
 乾ならば余裕だとばかり思っていたが、ひょっとして受験ストレスってやつだろうかと、海堂は出来るだけ慎重に問いかける。
 うまくない聞き方だとは思ったが仕方が無い。
 海堂は大概こういう事は苦手なのだ。
 走りこみながら話をすると、やはり息が少し乱れる。
 暗がりの中で互いの息が白く濃くなって見えた。
「いや」
 乾は海堂の生真面目な反応がおかしかったのか、笑って首を振った。
「それはない。……もし仮に俺がそんな事言ったら、海堂、即座に俺に愛想つかしそうだし」
「その前に二~三発殴るかもしんねえ……」
「男前だ」
「そういう問題じゃねえよ」
 本当に大丈夫なんだろうかと海堂はこっそりと乾を伺い見た。
 走りながらでも判った事が一つ。
 上背がある彼を見やる目線にまた角度がついてしまった気がする。
 部活を引退してからも、乾の身長はまだ伸びているのかもしれない。
「心配しないでいいよ、海堂」
「……すんなって方が無理でしょうが。そんな話して」
「ごめん」
 乾の笑い顔は明るかったので内心でほっとしながら。
 海堂は、悪態をつかずにはいられなかった。
 心配になって当たり前だ。
 こんな。
「悪かったって、海堂。ゴメンナサイ」
 笑いながら謝られたってなと海堂が目線で訴えてやっても乾の表情は変わらなかった。
「今日って、心中禁止令の発布の日なんだよ。知ってたか、海堂」
「……徳川吉宗のですか」
「そう。さすが」
 肩を並べて、走る。
 随分久しぶりで、でも何の違和感もない。
「一七二三年。心中をしたものは大罪。生き残っても死罪。心中って言葉を使うのも禁止したってやつだね」
「はあ……」
「どうなんだろうね、あれは。心中って」
 乾の言葉がまた繰り返される。
 相変わらず乾の考えている事は海堂には判らなかったけれど。
「死ぬほど好きとか、好きすぎて死にそう、とかなら判るんだけどね。海堂がいるから」
「………………」
 またとんでもないというか、どうしようもないというか。
 海堂が、ここから乾を振り切って走って帰りたくなるような事を平気で言い出した男に、海堂は相槌もうてない。
 乾はお構い無しに話を続ける。
「好きだから死んでしまおうとか、もう死ぬしかない好きだとか、そういうのも同じ感情なのかな、と」
 教科書眺めながら考えた訳だよと乾が言う。
「あんたな……」
 長く沈黙した後、海堂は呆れた。
 余計なお世話を承知で、ちゃんと普通に勉強しろよという言葉が喉まで出かかる。
 しかしそれを口にしなかったのは、それよりもっと言っておきたい事があったからだ。
「俺は、そういうのは好きじゃねえ」
 第一、と海堂は走りながらまっすぐ前を見て言った。
「そんな風にしねえよ、絶対」
 乾の事が好きで、その事がこれから先。
 どういう現実と絡むのかは、海堂にはまだ判らない。
 けれど、少なくともそんな風に、好きだから死んでしまおうだとか、もう死ぬしかないとか、そんな風にはならない。
 ならないと、海堂が決めた。
 乾の視線を感じたが、海堂は前を見て走り続けた。
「俺は、拘り方とか、のめりこみ方とかが激しいだろう?」
「俺のがしつこいっすよ」
「ディープな所まで、つい考える」
「俺はそういう事が苦手なんで、先輩がその分深く考えてくれていいです」
 冷たい夜気のなか走る。
 不思議と寒さは感じない。
「勿論心中なんかは望まないけど、どっか似たような事なのかもしれない。俺が考えてるのは」
「明らかにやばかったら反論するんで」
 好きにしていいと海堂が初めて視線を乾へと向ける。
 乾は夜空を見ていて、そして、たぶん海堂が見えていないものも見ている。
「………………」
 乾の内面は複雑だ。
 緻密にデータ収集したがるのは、いつもどこか、なにか足りないのだと訴えているようにも見えた。
 人に興味がなかったら、データなど集められない。
 でもそれでいてどこか人と距離を置こうとする所もある。
 強くて危うくて、乾のそういう所に海堂は共鳴する。
 自分達は所々似ていて、同じ物が欠けていたり、過剰に余ったりしている。
 全てがきっちりと噛み合ったりはしていないからこそ、離れたくないのだ。
「………………」
 乾の視線がふわりと海堂に降りてくる。
「末永くよろしく」
 笑う乾の物言いは淡々としていて、どこか冗談のようにも聞こえるけれど。
 了解、と真摯に呟いて海堂はピッチを上げた。
 走る、走る、スピードを上げて。
 逃げているのではない、進んでいるのだ。
 早く、早く、今よりももっと、もっと先にまで。
 行くために。
 進むために。
 先に立つのは、その時先に立てる方でいい。
 その時早く、走れる方でいい。
 走りながらお互いの指先が繋がる。
 くいとどめる為ではなく、引きずり寄せる為でもなく、どこかで確かに触れたくて繋がる。
 一瞬で、充分だ。
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