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How did you feel at your first kiss?
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 とりたてて目立つところなんてない奴だと思っていたいから。
 跡部は神尾を直視したくなかった。
 見据えていると、余計な事ばかりが目に付いた。
 接触すればするほどもどかしく何かが気にかかった。
 神尾の言葉に、行動に、身体に、強く固執し始める自分自身を、いっそ呆れて。
 跡部は身の内に沸き上がる苛立ちは大概直接神尾ヘとぶつけた。
 責めるのではなく、詰る方法で。
 飢餓感を嘲笑で塗りこめて。
 今日も神尾が跡部の部屋の扉を開けるなり言った。
「あの女とストリートテニス場にいたんだってな」
 跡部の方から神尾を自宅に呼びつけるが、迎えに出た事は殆どなかった。
 何度そうしても神尾は遠慮がちに跡部の部屋の扉を開ける。
 最初の頃は想像も出来なかったような、顔で。
「……あの女? ストリートテニス場って…俺?」
 ぎこちなく室内に入って来ながら、そっとこちらを伺ってくるような神尾の声音や目線が。
 跡部の苛立ちを増幅させる。
「しらばっくれてもいいが」
「…ぇ…? なに…」
 制服のタイを粗雑に外しながら跡部は神尾に近づいた。
 尖った肩がびくりと竦むのを目の端に捉え、跡部は静かに目を細めた。
「度越して付け上がってやがると」
「……跡部…、…っ…?」
 神尾の額に手を当てて、そのまま閉じた扉に強くその身体を押し付けた跡部は、片手の中に顔の半分が隠せてしまってるのではないかというような神尾の小さな顔を見下ろして。
 その耳元に抑揚のない声を吹き込んだ。
「………、……」
 あからさまな言葉に神尾の身体が強張るのを感じる。
 構わず跡部は、神尾の耳の縁を、ゆっくりと噛んだ。
「…………っ…ぅ…、」
 か細い喉声に煽られた分、強く歯を立ててしまったらしく、神尾の震えが酷くなる。
 顔を背けて、激しく戦慄いている首筋に跡部が指先を滑らせると、泣き声交じりの声が上がった。
「ャ…、……ッ……」
 わざと露骨に身体中を撫で上げていくと、神尾は両手を突っ張らせて跡部を押しのけようとした。
 その都度きつく跡部は神尾の耳の縁を噛んだ。
「………っぁ…」
「………………」
 痛々しいように赤く染まった神尾の耳を跡部が舌で舐め上げると、神尾はその場に崩れ落ちた。
 座り込んでしまった神尾をそのまま床に押さえつけ、跡部は随分と即物的だと自嘲しながら神尾の服を剥ぎ取っていく。
 体重をかけて乗り上げ、膝で神尾の脇腹を固定する。
 こういう風に力で押さえつけられるのを神尾はひどく嫌がって。
 今も少し濡れた目が、物言いたげに跡部を睨み上げていた。
「なん…で……こう、…いう…!」
「お前が嫌がるから」
 判っていてやっているのだ。
 跡部は相手を屈服させる容赦のなさで、神尾を押さえつけ、身体を暴いていく。
 神尾は本気で嫌がって、跡部の下から逃れようと肢体をもがかせた。
 力づくでそれを阻み、跡部は快感にも屈服しろと唆すように、あからさまな口での愛撫を神尾の足を抱え込み繰り返した。
 高めの声が荒い呼吸に掠れて、涙に熔けて、跡部の神経を焼くような声になる。
「…やめ…、…ァ、っ、…っャ…ぁ…」
「嫌なんだろ? だからやるんだよ」
「…………ん…で……?…」
「本気で腹たってくるからそういうツラするな」
「………っ……ぅ…」
 唇を封じるようにきつく口付けながら、跡部は力で神尾の身体を拓いていった。
 握り締めて床に押し付けた神尾の手首も。
 口腔で苦しげに震えている舌も。
 縛り上げるように拘束したまま。
 こうやって。
 全てを無理矢理にでも束縛していても。
 神尾が逃げていくような喪失感は跡部の胸から消え失せない。
 圧倒的な力で奪っても。
 細やかで綺麗なものは指の隙間から零れていくようで。
 ほんの少しも、跡部に安堵感を与えはしないのだ。



 こんなことばかりを。
 繰り返して。



 熱っぽくなっている神尾の耳の縁に、跡部が指先で触れると。
 床に横たわっていた神尾は前髪を握り締めて肩を丸め、身体を小さく縮めた。
「………………」
 そんな神尾が本当に小さく見えて。
 跡部は壁に寄りかかり、神尾の耳に触れながら渇いた声で言った。
「こっちもお前も男だから」
「………………」
「本気で抵抗されたら俺だって力で好き勝手は出来ねえ」
「………………」
 言い訳で口にした訳ではなかった。
「それが頭にあるから本気で腹たった時は、俺は手加減なんてしねえよ」
 手加減なんかして、その隙に反撃をくらうかもしれねえし、と不遜に跡部は吐き捨てる。
「……なまじ逃げ足は速ぇしな」
「…………俺が…」
 泣きじゃくった挙句の神尾の声は掠れていてひどく小さかった。
「結局本気で、抵抗なんかしてないいって言いたいんだな……」
「………………」
 疲れきった声と言葉。
「俺が…もし本気で抵抗してたら、跡部だって無理矢理何とかなんて出来ないってことだよな……」
 跡部が触れている神尾の耳の熱からは想像難いほどの、小さく強張った声だった。
 跡部は思わず神尾から手を離す。
 震えがちな神尾の声は聞き様によっては自虐的な言葉を紡いだ。
「…そうだよ。俺は、嫌だって口では言ってても、本気で抵抗なんか……」
「止せ」
「跡部にされるんなら、どんなことだって、たぶん、」
「……止せって言ってんだろうが!」
 そんなことを言わせたい訳ではないのだ。
 ましてや、神尾にそんな事を言わせて。
 どんな顔を、させているのか。
 身体を起こした神尾を、強引に抱き竦めてそれを制そうとした跡部は。
 そうしてみれば実際。
 自分が、まるで縋りつくように。
 神尾に腕を伸ばし、その身体を抱き締めていることに気付いていた。
 両腕が、神尾を尚も締め付けるように、強くなる。
「泣くな」
「…………っ…」
「もうしない」
「…………いい」
 嗄れた声は、しかし確かにこの時、きっぱりと否定の意を唱えた。
「していい……」
 神尾の腕が跡部の背に回る。
「何してもいい」
「……………」
 跡部は息を飲む。
 神尾はぽつりと短い言葉を零すようにして続けた。
「この間、夜、杏ちゃんとストテニ場行ったけど」
「………………」
「それは橘さんと不二さんの試合を止める為だぜ…?」
「……橘と不二?」
「ん」
 喋るのもまだどこか辛そうな神尾の声は、跡部のささくれ立った部分をそっとならすように優しげだった。
 それだけだ、と神尾は跡部に告げた。
「跡部。それから」
「………………」
「本当に、何しても、いいよ。俺は平気」

 好きだよ跡部、と。

 神尾は、小さな、小さな声で言った。
「………………」
 初めての、神尾の言葉だった。


 聞いた跡部は、まるでどこかが痛いように、端正なその顔を歪めたけれど。
 その表情は神尾の肩口に埋められ、もう誰の目にも触れない。
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 乾のミスだと言って、小さく笑ったのは不二だった。
 本当だ!全くだ!とそこに便乗して大笑いを始めたのが菊丸。
 控えめな苦笑いをしたのが大石。
 完全なる無表情だったのが手塚である。
 昼休みに廊下で偶然顔を合わせたテニス部の四人のレギュラー陣。
 彼らがもっか恰好のネタにしているのは、校内に響き渡る呼び出し放送の。
 その声の主と、内容についてだった。
『繰り返します。二年七組。海堂…薫』
「うっわーエロイ!エロエロ!」
 地団駄を踏みながら爆笑する発狂寸前の菊丸の横で、不二が軽やかに笑う。
「うーん…すごいね。乾の本気声」
「本気声って不二……」
「あれ。大石には判らない?」
「……いや。お前達の言いたいことは判るさ。判るんだが」
「無駄にエロイ!エロエロボイスの垂れ流しだにゃー乾!」
「……………英二」
 右の不二に慌て、左の菊丸にもっと慌て、大石は実に忙しい。
『至急テニス部部室に』
「何故乾が海堂を部室に呼んでいる?」
「何故って手塚…」
 とうとう正面の手塚にも慌て、大石はいよいよ限界が近い。
 胃を押さえる仕草に哀れを感じたのか、不二と菊丸は怪訝がる手塚の両サイドを固めた。
「馬鹿だよにゃー乾は!俺たちが集まってる時に、こんな放送かけちゃってさー」
 もう言い訳きかにゃーい!と菊丸は手塚の真横でケラケラ笑う。
「タカさんは今職員室だしね。乾が完璧に私用で海堂を呼んだって事は、周知の事実になっちゃったってわけだ」
「不二。だから何故乾は海堂を呼ん」
「ねえ手塚。乾が本気を出すとああいう声になるんだね」
「本気を出す?」
 なんだそれはと聞く手塚をあっさりスルーして、不二は菊丸ときらびやかに盛り上がり始めた。
「なんかあんな声流しちゃってさ、ここいらの空気、ピンクくない?」
「うん。ピンクか紫かって感じだよね。英二」
「薫の前のタメがまたエロイ!」
「聞いてるこっちが恥ずかしい」
「ラブい! ラブすぎ乾! 海堂のこと全校生徒の前で口説いてるようなもんじゃんか!」
「乾らしいよねえ…」
「ねー?」
 続く二人の会話に、意味が判らないんだが?と生真面目な矛先を手塚から向けられた大石は、きりきりと痛む胃に引きつりながらも手塚を嗜めるように肩に手を置く。
「気に、気にするな手塚」
『海堂薫』
「…うっわー!三度目いった!」
「切な気だねえ…乾…。放送部さしおいて美声披露しちゃって」
「超エロボイス…!俺駄目…なんかもーこれ聞いてると死ぬ…!」
「大石。乾は何回海堂を呼ぶ気」
「手塚。それは勿論来るまでじゃない?」
「……そうなのか?不二」
「たぶんね」
 でも大丈夫、ほらみんな見てご覧、と不二の指先がすっと持ち上がり、廊下の奥を指し示す。
 つられて全員が視線をそこに差し向ければ。
 そこに見えているのはまさに今放送で呼び出しをかけられている海堂薫だった。
 こちらに向かって走ってくる。
「やあ海堂」
 彼が急いでいるのは誰の目にも明らかで。
 しかし部の上級生が四人も揃っていれば、根が真面目な海堂がそこを素通り出来る筈がない。
 まして声をかけたのは不二である。
「………っす…」
 走っていた足を止めて、海堂は目礼してきた。
 部活の時とは違い、バンダナをしていない黒髪の襟足が首筋からさらりと零れる。
「海堂ー。えらいなー部室まで走ってくの?」
 じゃれつくような菊丸に背中から覆い被さられて海堂はぎこちなく身じろいだ。
「あの、菊丸先輩…」
「こら英二。海堂が困ってるじゃないか」
「ほーい」
 大石が嗜めるとあっさり手を引いた菊丸だったが、完全に悪戯っ子の表情で、ぐいっと海堂に顔を近づける。
「全校放送で口説かれてる気分は?」
「…くど、?」
「もー照れないのー薫ちゃん!」
 可愛いなあ!と菊丸に再度飛び掛られ、頭でも背中でも、かい繰り回されて。
 海堂は、かといってそんな菊丸を振り払うに振り払えずされるがままだった。
「英二!」
「だって大石ー。乾がさー」
「大胆というか、策士というか、ある意味なんとも衒いがない男だよ。乾は」
「どうも俺には未だにお前達の話が判らないんだが」
 海堂そっちのけで賑やかになっていく三年生達をよそに、海堂は溜息を噛み殺しながらなるべくさりげなく菊丸の腕から逃れた。
「……じゃ、悪いんですけど俺行くんで」
「なんだよー。乾ばっかじゃなくて、海堂もラブラブなんじゃん!」
 そんな急ぐ事ないだろう?と絡み出した菊丸に。
 海堂は急ぎますと生真面目に言った。
「早いところ行かないとやばいっすから」
「ヤバイって何が?」
 海堂は、少し言葉を考えるような沈黙の後。
「……乾先輩…相当具合悪そうだから」
「乾が?」
 何で?どうして?と菊丸が言えば、さっきの放送の声でわかりませんかと寧ろ不思議そうに海堂が返してくる。
「………………」
 三年生達は思わず顔を見合わせた。
 はっきり言って乾のあの放送の声は。
 海堂の名前を繰り返した、菊丸言うところエロボイスでしかないという認識である。
「…………じゃ、すみません」
「……ああ」
「……おう」
「……じゃあにゃー」
「……いってらっしゃい」
 走り出した海堂の背が、あっという間に小さくなっていくのを、三年生達は思わず揃って手を振り見送るのだった。

 そしてその日乾は。

 午後の授業を受けず、部活も休み、見事に早退をした。
 何とはなしに三年生から、尊敬の念のこもった眼差しを、一身に浴びる海堂薫であった。
 実に判りやすく、とても喉が痛かった。
「………風邪か…」
 宍戸は溜息をつく。
 頭痛は我慢できない程ではないのだが、喉の痛みはどうにもいただけなかった。
 しかも、大層な風邪をひいてしまいそうな妙な予感があって、宍戸は今日の部活は休むことにした。
 普段なら無理をしてでもテニスだけはする宍戸だから、昼休みに跡部にその旨を伝えると、跡部は器用に片眉を跳ね上げて言った。
「………俺にうつる前にとっとと帰れ、か」
 跡部の尊大な言い草を思い出して宍戸は苦笑いする。
 普段なら腹もたつのだが、如何せん体調が悪いらしく怒る元気がない。
 別れ際跡部は宍戸に向かって何かを投げて寄こした。
 受け止めたプラスチック容器は、ルルスプラッシュ。
 ジェルタイプの喉の痛みと腫れ止め薬だった。
 気遣われた事を思うより。
 随分都合よく跡部がこんなものを持っているという事は。
 うつすなと言いながら、ひょっとしてこれは、跡部の風邪をうつされたんだろうかと宍戸は憂いだ顔になる。
 しかしここ数日、跡部が風邪をひいていた気配は感じなかったから、要するにひき始めの対処が肝心という事だろう。
 下駄箱で靴に履き替え校舎を出ると、ここ数日でめっきりと涼しくなってきた風に吹かれた。
「宍戸さん!」
 風に乗るように。
 その声はよく聞こえた。
 宍戸が振り返ると、中庭からこちらへ向かって走ってくる鳳は、まだかなり宍戸から離れた所にいる。
 しかしそこからあっという間に宍戸の目の前にやってきたこのスピードは、まさに全力疾走に違いなかった。
「宍戸さん。具合悪いって聞きましたけど…大丈夫なんですか?」
「ああ。今はたいしたことねーんだけど、何か嫌な予感がするから今日は帰る。悪いな長太郎」
 じゃあな、と手を上げて歩き出そうとした宍戸は。
 上げた手を鳳の手に包まれた。
「………おい」
 人はいないのだが、だからといって。
 宍戸は少し眉を顰めて、長身の鳳を見上げる。
 大人びた身体の、柔和な表情。
 鳳は、じっと宍戸を見つめてくる。
「送ります」
「……………」
「……って言ったら怒りますね。宍戸さん」
「おう。判ってんなら放せ」
 言われる気はしていたから宍戸は笑った。
「別に熱はないし気にすんな。おとなしく帰って、今日はさっさと寝る」
「……………」
 鳳もまた、宍戸にそう言われるのが判っていたように、微かに笑った。
 宍戸のそれとは違い、だいぶ苦い笑い方だったが。
「…じゃあ宍戸さん。せめて」
「………、…おい」
 鳳の視線が一瞬で周囲に巡らされたのが判って、宍戸は息を詰める。
 まさか、とか。
 やめろ、とか。
 言う隙は欠片も与えず、宍戸の首の裏側に鳳の両手の指がかかる。
 左右の手の指を互い違いに組ませた手で宍戸の首を包み、仰のかせ、案の定塞がれたのは唇だった。
「ン、………」
「……………」
「…………、…ぅ」
 咄嗟に宍戸が出来たのは。
 鳳のジャージの裾を掴んだくらいで。
 押しのけようとしても、それくらいではびくともしない。
「…っ、ん、」
 優しくて真摯で実直な年下の男は、宍戸の顔をはっきりと力で固定して、何度も何度も何度もキスをした。
 優しいキスを、幾重にも幾重にも重ねてきた。
 ちいさく弾むような音とか、清潔な唇のくれる熱心な接触とか。
 繰り返されて、宍戸は声を詰まらせる。
「……せめて…うつして」
「…俺の熱まで上げさせてどうすんだお前…っ…」
 微かに唇が離れた隙間で同時に口にした言葉。
「え、あ、すみません」
「…………アホ」
 生真面目に狼狽える鳳が。
 でも結局宍戸は可愛くて。
 悪態をつきながら、一度だけ、宍戸の方から伸び上がって口付けた。
「宍戸さ、」
「帰る!」
 冗談でなく熱まで出てきたかもしれないと宍戸は思った。

 顔が熱い。
 完璧に整っている跡部の指が、時々、彼のこめかみから頭部をかなり強い力で鷲摑みにしている仕草が目に付いて、神尾は言った。
「跡部、ひょっとして頭痛いのか?」
「………………」
 振り返ってきた跡部は。
 何だか嫌そうな顔で神尾を見た。
「さっきから何回かそうやってるけど」
 構わずに神尾が跡部の手の所作を指摘すると、今度は睨まれた。
 しかし神尾は気にしない。
 跡部のベッドに寄りかかるようにして床に座り込み、立てた膝を抱え込みながら尚も問いかける。
「なあ跡部」
「………黙ってろ」
 偏頭痛だと吐き捨てて跡部は再び机に向かった。
 再開されたタイピングの音は、早くて淀みない。
 それは生徒会の書類らしく、神尾が跡部の部屋に来てから「ちょっと待ってろ」と言われてもう四十分が経過している。
 退屈は退屈だったが、決してそればかりではなく、神尾は四つん這いで跡部に近寄っていった。
「なーあ?」
 手を伸ばし、くいっと跡部のシャツの裾を引っ張ると、相当凶悪な顔で跡部は神尾を振り返り、睨み下ろした。
「俺の言葉が理解出来ねえのかお前は」
「ちっさい声で喋ってるだろ」
 軽く小首を傾げるようにして応え、神尾は跡部のシャツをまた引っ張った。
「跡部。ちょっと休憩しろよ」
「てめえ…何のために人が、さっさとこいつを終わらせようとしてるのか判ってねえのか」
「でも俺心配だぜ。跡部」
「………………」
 跡部が何だか言葉に詰まったように黙ったので、神尾もぽろりと零れた自分の言葉に後々気恥ずかしい思いをすることになった。
「……あのさ、俺、マッサージとか出来るぜ」
 首とか頭とかを解してやると楽になる頭痛もあるのだと懸命に言い募ると、跡部が椅子に座ったまま、くるりと振り返ってきた。
「お前は頭痛なんかしねえだろうが」
「深司がよくなる」
「それでお前がマッサージしてやんのかよ」
「うまいって言われるぜ。俺」
「気にいらねえ」
「は? 何で?」
 パーン、と音だけはやけに大きく頭を叩かれ神尾は眉を顰めた。
「痛い!」
「………………」
 でもその後で。
 一度は叩いた神尾の頭を、撫でて、髪を梳き出した跡部の手は。
 優しすぎて涙ぐみたくなるくらい甘い仕草だった。
 神尾が上向いて目を閉じて。
 頭を撫でられ、髪を梳かれていると。
 何の小動物だと苦笑い交じりに跡部に言われた。
「下手なマッサージで俺の頭痛を悪化させやがったら……」
「………………」
 今夜ベッドの中で起こる事を暗示され、ひどく怖いような台詞を耳元で跡部に囁かれたが。
 不思議と感覚が麻痺して怖く聞こえず、神尾は、いいよとだけ言った。
「跡部。ここ寝て」
 自分の膝を軽く叩いて、神尾は跡部を呼んだ。
 跡部は椅子から立って神尾の首筋に食らいつくようなキスをしてから神尾の膝を枕にして横たわる。
「身体は横じゃなくて縦な。…うん。そう」
 正座から足だけ崩した体勢で、閉じて合わさった神尾の両腿の狭間に跡部の頭が納まるように促す。
 跡部の頭上は神尾の腹部にあたって。
 神尾は跡部のその頭に、近場にあったスポーツタオルをふわりと被せた。
 そして、タオル越しに、肩と、首と、頭を揉み込んでいく。
 神尾の膝を枕にして、跡部は両足を投げ出し上向きに寝ている。
「…………うまいなお前」
「……そうか?」
 ぽつりと跡部が言った。
 神尾は筋肉の硬さとは異なる跡部の身体の強張りに、何だか可哀想になってくる。
 それくらい凝り固まっていて。
 頭痛も確かに起こるだろうと気の毒になってくる。
 タオル越しに頭や額、髪の生え際や眼窩の周りを丁寧に指圧していくと、跡部が溜息をついたのが指先に伝わってくる。
「…跡部?」
「眠っちまいそうだからもういい」
「眠っていいよ…」
「……ふざけんな……何の為に書類を家に持ち帰ってまで…」
 神尾を家の前で延々待たせない為に、跡部は帰ってきたのだ。
 四十分間は、放っておかれた訳では決してない。
 せめて神尾の目の届く所で、少しでも早く、全てを片付けて、それから。
「…………………」
 全部を言葉にはしないけれど。
 跡部のそういう心情が、神尾にもちゃんと判っているから。
「……キスとかしたら眠るか?」
「それはお前だろ」
 抱かれた後の習慣というか、慣例というか。
 神尾の条件反射に似た習性を跡部に口にされて。
 かすかに赤くなった神尾はむっとしたまま、上体を屈めていった。
 タオルで跡部の目元を覆ってしまっているからちょうどいい。
 上唇に、下唇を。
 下唇に、上唇を。
 慣れない合わせ方で跡部にキスを落とす。
 何度も何度も何度も。
 唇を重ねる。

 跡部は眠ってしまった。

 キスをしながら跡部が眠るなんていう体験は初めてで。
 神尾もすこぶる気分が良かった。
 乾の機嫌があまりよくないようだと、口付けられながら海堂は思った。
 舌が貪られる。
 深く、というより。
 強く。
「…っ……、…」
 海堂はうっすらと目を開ける。
 乾の表情は近すぎて見えない。
 普段ならあやすように呼吸の時間をくれる乾が、舌を絡めとったままキスを解かない。
「ン……ッ…」
「………………」
「……ぅ……」
 乾の硬い指が、ひっきりなしに海堂の胸元をさまよっている。
 時折痛みを覚える箇所があって、海堂は乾に絡めとられたままの舌を震わせる。
 たいした事のない筈の打撲は。
 乾の唇と指とでここまで追い詰められ、胸の内でがなるような鼓動を繰り返していた。
「………海堂」
「…、……っ……」
 どれくらいぶりにか唇が離れ、海堂は肩で息をした。
 頭がふらつく。
 仰向けに寝ているのに眩暈がした。
 試合の後だってこんな風にはならない。
 唇がひりついて、口腔はひどく熱いのに、乾に奪われ続けた舌は痺れるようになって感覚が危うかった。
「………ツ…、…っ……」
 乾の大きな手のひらで胸元を押さえ込まれ、海堂ははっきりと呻いた。
 二日前の些細なトラブルで打撲した胸は、ここまで痛んではいなかった筈なのに。
 乾に触れられて、思い出したかのように疼き出す。
「お前に、こんなものを残した相手は?」
「…………………」
「海堂」
 抑揚のない乾の声が聞き取り辛く、海堂は空ろな目を向けただけだった。
 正直、海堂の打撲の跡を見て、乾がこんな風になるとは思っていなかったのだ。
 驚くかもしれない。
 少しは怒るかもしれない。
 海堂の認識はその程度だった。
 まさか乾がこんなに静かに怒って、手加減のない不機嫌をありのままぶつけてくるとは考えていなかった。
「……………」
 何なんだこれ、と。
 また胸の上で。
 乾の手のひらに押し込まれて自覚する痛み。
 その聞き慣れないきつい問いかけにも雁字搦めにされて、海堂は眉を寄せたまま首を左右に振った。
 うまく言えそうになかった。
「……………」
「海堂。俺にも、我慢出来る事と出来ない事があるんだよ」
「………………」
「お前を……こう、した相手」
 眼鏡のない乾からの視線に撫でられた胸元が熱くなる。
 海堂は息を飲んで。
「…………、…先…輩、」
「庇っても結果は同じだ」
「……庇ってなんか…ね…よ」
「同じだよ。海堂」
 冷たいくらいに激怒している乾が、怖い訳ではない。
 でも。
「………………」
 海堂は震えるように手を伸ばした。
 乾の首に両腕を絡めるようにしがみつく。
「……いやでも全国大会行けばいる……」
「どこの中学だ」
「………六里ヶ丘とか…」
「ああ。取材班のいる中学だ」
 尚更都合が良いと乾は低く言い、海堂の唇に噛み付くような荒いキスをした。
「お前に怖がられても」
「……誰が怖がるんですか」
 海堂は気配の鋭くなっている乾の髪に指先を沈ませた。
 乾からの、きつい口づけを受けながら、舌をあけ渡す。
 痛いくらいに奪われる舌。
「………………」
 海堂は全身から力を抜いた。
 滅多にない乾の不機嫌の取り込み方を覚えたい。

 それすらも、欲しい。
 音楽室の扉の硝子窓越しに目が合った。
 鳳は微笑して扉を開けて廊下に出て行く。
「宍戸さん」
「おう」
 細い首の襟足にかかるくらいまでは伸びた髪に手を当てて、宍戸は立ち止まっていた。
 通り過ぎずに足を止めてくれていただけで嬉しい。
「何してんだ? 昼休みにこんなとこで」
「監督に頼まれて調律を…」
 背後のピアノを親指で指し示すようにした鳳に。
 宍戸が、ああ、道理でなと頷いた。
「何がですか?」
「お前がやけに楽しそうだから」
「楽しいですよ。でもそれはピアノのせいじゃなくて宍戸さんのせいですけど?」
 鳳は思わずまじまじと宍戸を見つめてそう言った。
 私物とはメーカーの違う、他国製のピアノ。
 貴重な機種でもあるそのピアノに触れるのは確かに楽しいが、宍戸とは、とても比べられるような対象にはない。
 心底からの鳳の台詞のせいなのか、宍戸は肩を落とすようにして溜息をついた。
「宍戸さん」
 しかし別段怒っているわけではないようで。
 鳳が呼ぶと、宍戸は羞恥にうっすら濡れたような目で、鳳のことを見上げてきた。
「……オマエなあ…」
「はい」
「…………ハイじゃねーだろうが…」
 ひとりごちる宍戸を見つめて笑みを深め、宍戸さんは?と鳳は尋ねた。
「もう昼は食べ終わったんですよね? どこかに行くところですか」
「昼寝。ちょっと寝不足なんだよ」
 家の外で昨夜喧嘩があって、警察来たり何なりで、と眉を顰めて小さく欠伸をする宍戸を、鳳は音楽室の中へするりと引き込んだ。
「長太郎?」
「じゃあ子守唄か何か弾きますから」
「おい…?」
 防音設備の完璧な音楽室の扉は、他の教室の扉とは造りがまるで違う。
 格子窓のように四角く切り取られた硝子部分にも内側から目隠しのカバーを引き下ろし、鍵をかければもう完璧な密室だ。
 鳳はグランドピアノに向かう。
「宍戸さん」
 ここね、と足を開いて座った鳳がスペースの空いた座面の上を軽く叩く。
「膝に乗れってか?」
「それもいいですけど、さすがに鍵盤見えないから、こう…ね」
「………………」
 宍戸の腕を引き、鳳は背後から宍戸を抱きこむようにして、椅子に二人掛けした。
 ピアノに向かい、子供に演奏の補助してやるように、腕を伸ばす。
「寄りかかっちゃって下さい。宍戸さん」
「……弾きにくくねえの。こんな体勢でよ」
「平気です」
 宍戸は落ち着かないように身じろいで、鳳を振り仰いで尋ねてくる。
 しかし鍛えられた上でも尚且つほっそりとしている宍戸の身体は、鳳の胸元にはびっくりするほど簡単におさまってしまっている。
 邪魔どころか、羽のように軽い。
「ここで聴くとまた音が違いますから……」
「……まあ…確かに一生かかったって俺がピアノを弾く事はないだろうから。ここで聴く事もないんだろうけどよ」
「もっと寄りかかっていいですよ。ソファか何かと思って」
 くすりと、宍戸は笑ったようだった。
「贅沢な話だな」
「俺の方がです」
 心の底からそう思って告げる。
「まだ途中だったんじゃないのか」
「調律ですか? ちょうど終わった所だったんです」
 それで試しに何を弾こうかと考えていた所で、宍戸と目が合ったのだ。
「………んー…」
 じゃあ、と宍戸が呟いて。
 ゆっくりと力の抜けていく身体が、鳳の胸元へと深く凭れかかってくる。
 柔らかい黒髪が鳳の肩口に埋まる。
 宍戸のこめかみに唇で触れてから、鳳は静かにピアノを奏でた。
 タイスの瞑想曲。
 宍戸の真直ぐで長い睫毛が静かに伏せられていく。
 なめらかな白い瞼が瞳を隠す。
 胸元に宍戸を寄りかからせて爪弾く音は、鳳自身が驚くほどに甘かった。
 こんな音を出した事が今まで一度でもあっただろうかとふと思う。
「…………………」
 すう、と静かに宍戸の呼吸が、深い深い所へと落ちていく。
 微かでささやかな変化にも全て合わせるように。
 鳳は指先で鍵盤を弾き奏でる音を、宍戸の呼吸や脈拍と同調させるようにつないだ。
 導かれるようにして眠っていく宍戸を、鳳は見下ろして。
 きれいな寝顔に微笑んだ。

 予鈴のチャイムが鳴るまでの間、鳳の演奏するピアノの調べは宍戸を眠らせた。
 鳳が手を止め、音が止んだ瞬間に。
 宍戸は目を開け、鳳は屈みこんでその唇を塞ぐ。
 すこし窮屈な角度で重なったキスが終わった瞬間の音は。
 ピアノの最後の音と、どこか似ていた。
 またたく間に世界が変わる。
 目が覚めてそこに跡部がいると未だにぎょっとする。
 今なんかもそうだ。
「………………」
 あったかくて気持ち良い温みの中で、まだ外暗いなあとぼんやり思いながら神尾が目を開けると。
 いきなり跡部の顔が間近にあった。
 その上いつからそうしているのか神尾には全く見当がつかないが、跡部の手に頬の辺りを撫でられていたりしたから神尾は本当にびっくりした。
 寝そべったまま自分を見据える跡部の顔が、凄まじく格好良くて凄まじくおっかないから、もう尚更だ。
 寝起きの跡部は顔はとびきり不機嫌だけれど、仕草はとびきり優しい。
 今だって神尾を睨むような顔をしているが、飽きる事無く頬や髪を撫でつけられている手は甘い。
 顔とやってる事とが物凄いギャップなので、結局神尾は心臓だけを大きく響かせ、硬直して、されるがままでいるしかない。
「おい」
「……なに…」
 薄暗がりの中、じっと互いを見つめて交わす今日最初の言葉。
 ひとしきり神尾の頬や髪をいじりたおしてから、跡部は一層きつく神尾を睨むみたいに目を細めた。
「お前ウインクできねえだろ」
「……は?」
「両目瞑っちまうタイプだ。典型的不器用」
「………んなこと何で判んだよ」
「見りゃ判る。触ってても判った」
「何でそんなんで判んだよ」
「判るから判るんだよ」
 いいからやってみせなと跡部が不遜に言い放つ。
 頭から決めてかかられると思い切り反発したくなる。
 神尾はムッとなって跡部を睨みつける。
 まだ大分眠くて、多分たいした迫力にもなっていないと自分で判る。
「やってみろって」
 完全にからかっている意地の悪い声だ。
 笑い方もえらそうで。
 それなのに神尾の前髪を払って両目を露にさせた跡部の指先だけはいやになるくらい優しかった。
「………………」
 やりゃーいいんだろうとやけっぱちで。
 神尾は片目を瞑る。
 片目のつもりで瞑ったが、結局いつものように両目が閉じてしまって視界は闇になる。
「………………」
 闇の中で唇に。
 ふわりとかぶさるものがある。
 あさく触れて。
 あまく痺れて。
 それが離れてから、震えるように神尾が目を開けたら。
 少し上体を起こすようにしていた跡部が、神尾へとまた屈んでくる所だった。
「……もう一回してみな」
「………ん」
「お前、一生ウインク出来なくていいぜ」
「………………」
 練習するならいくらでもつきあってやるがと跡部が唇の合間で言った。
 神尾はウインクのつもりで、でも出来てしまう暗闇の中。
 重なるさらさらとした唇の優しい感触に思わず手を伸ばす。
 神尾の手に触れたのは跡部の髪で。
 それをゆるく握りこみながら、神尾は忍んできた跡部の舌をゆっくりのんだ。
 跡部がソフトクリームを舐めるところなんて見た事がない。
 棒アイスを齧ったり、カップのアイスを木のスプーンですくって食べているのも、当然見た事がない。
 でも神尾が跡部の家に行くようになって。
 跡部の家の夕食をたまに一緒に食べるようになると。
 どうやら跡部も家ではアイスを食べるのだという事を知るようになる。
 跡部の家では食後に必ずデザートがつくのだ。
「デザートのない食事は食事じゃねえだろ」
 そんな風に跡部は言うのだ。
 そうして、神尾が跡部の家に行って食事をすると、必ず最後に一緒にデザートを食べる。
 やたらと大きな皿の中央に、何だか宝石みたいに果物とかケーキとかが盛り付けられて。
 それを先の平べったいやけにキラキラ光る銀色のスプーンで食べる。
 アイスクリームって言ったら、それはグラスアラヴァニーユだって言いなおされた。
 シャーベットって言ったらソルベだって言われた。
 かき氷って言ったらグラニテだって言われる。
 どれも甘くて美味しくてやたら綺麗で、もう名前なんか何でもいいかと思うから、神尾は喧嘩はしない。
 跡部の家のデザートは、何だかやたらとキラキラしてる。
 神尾はそれが気に入っていた。
 アイスには必ずソースをかけて食べる。
 それも毎日違う。
 チョコレートだったり、マンゴーだったり、イチゴだったり、キャラメルだったり。
 花の香りのするものだったり、少し苦くて、でもアイスにかけると不思議と美味しく感じるものだったり。
 神尾がそういうアイスの食べ方を気に入ったのが判ったのか、跡部は神尾が遊びに行くと、食事をしない日でもアイスだけは用意しておいてくれるようになった。
 跡部の家のアイスは気持ちが良い。
 食べると、頭の中がふわふわになる。
 甘くて、冷たくて、熱くなって、眠たくなる。
「…………アキラ。それクスリ一服盛られてるのと一緒」
 呆れ返って言われた言葉の意味が神尾にはよく判らなかった。
「アイスクリームで酔わされて、その後あの人に何されてんの」
「酔わされてなんていねーって。食ってんのアイスだぜ?」
「かかってんのリキュールでしょ」
「なんだそれ? かかってんのってチョコとかキャラメルとかイチゴとか、」
「の、リキュール。でしょ」
 神尾は無知だし。
 跡部さんはつけ込むし。
 伊武はそうぼやいて、それからぼやいて、更にぼやいて、ひたすらぼやいた。
「だいたいアキラは正月の甘酒でも、おかずの漬物でも、酔っちゃえるくらい酒弱いのに。酔っ払いのおじさんが近くにいても酔うし、予防接種の注射前のアルコール消毒だって、毎回あやしいっていうのに」
 なんで気付かないのかなあ、信じられないよなあ、と憂鬱そうに繰り返す親友の綺麗な横顔を見ながら。
「え…、…でも…なんか跡部……」
 呟いた言葉は呆気なくスルーされたけれど、神尾は何だかいろいろ思い出して顔を少し赤くする。
 優しいのだ。
 そういう時。
 跡部の家のアイスを食べた後の、ふわふわで、くらくらで、熱くて眠たくてとろとろする神尾に跡部が。
 額を触られたり、後ろ向きに抱きかかえられて座ったり、髪を撫でられたり。
 距離が近くて。
 いつもよりずっとくっついていて。
 触られて。
 いつもよりそっとあちこちを。
 こっち向けって言われて、ずっと顔を見続けて。
 もっと欲しいかって言われて、アイスを食べさせて貰ったり。
 きっと覚えてねえなって言われて、何か嬉しい言葉をいっぱいいっぱい言われたり。
 確かにアイスにかかっている綺麗な色のソースは日に日に量が増えていっている気もするし、食えって言ってアイスを勧める時の跡部の顔はちょっとなんだか悪巧みでもしてそうな悪い笑い方をするけれど。
 それでも跡部は綺麗だし。
 それでもアイスは美味しいし。
 それでも。
 その後の時間は、いつもいつも気持ちが良いから。
「今日も部活終わったら跡部さん家に行くの?」
「……え、……うん」
 不健全だなあ伊武が溜息をつく。
 不健全なのかなあと神尾は赤くなる。
 アイスクリームを二人で食べるという話なんですが。
 部活のメンバーで電車やバスなどの乗物に乗る時、乾は仲間達と少し離れたところで、座ったり立ったりしていることが多い。
 仲間の目の届く距離だけれど、大抵少し離れた所に彼は居て、データ整理をするか眠るかしている。
 そんな乾が最近、空席や空間を見つけては、一人でなく。
 手を取ったり。
 背を引き寄せたり。
 名前をそっと呼ぶ事で。
 海堂の事も、そこへ一緒に連れて行くようになった。
 二人で、集団から離れるようになった。
 時々仲間内からからかうような冷やかしの声がかかる。
 そういうものに全く慣れていない海堂が固まってしまうのを見て、乾は大抵軽く笑う。
 気にするなと低い声で穏やかに言い、躊躇する海堂を連れ出していく。
 どうして自分を連れてくるのかと海堂は乾に時々聞いた。
『一緒にいたい』
 耳元で、低い声が、大抵は、そう言った。
 時々内容が変わった。
『多少くっついていても不自然じゃないシチュエーションだから、海堂を側に置いておきたい』
『見せびらかしたいのもあるかな』
 乾からの、特別な扱い。
 それは海堂にとってひどく気恥ずかしいものなのに、少しも嫌なことじゃなかった。
 海堂は今日も乾に聞いていた。
 何度そうされても不思議なままの、二人きりになる理由。
 そして今日の乾からの言葉は、海堂が初めて聞いたものだった。
「海堂、電車やバスで座ると、だいたい眠るだろ。これが可愛くて」
「………………」
 隣同士で腰掛けて数分。
 実際もう、うとうとしかけていた。
 乾の手に上手に促されて、いつの間にか乾の肩を借りていた。
 囁かれても、気持ち良いばかりで。
 何だか髪に、触られたりもしているようだけれど。
 どうでもよかった。
 心地よかった。
「海堂見てたら眠くなってきた」
 俺にも肩貸して、と。
 笑みの気配と共に乾から海堂へと凭れてきた重み。
 ひどく近い距離。
 揺れる車内。
 同じ呼吸で目を閉じたまま、何もかもがとろけるように、自然で優しい。
 中学校の美術の授業のデッサンが裸体モデルだなんて、氷帝はいかれていると神尾は思う。
 いくら金持ちの私立校だからって。
「……………今日のモデルはじっとしとらん奴だなあ…」
 ぼやく不動峰の美術教師を、神尾は教壇の上に置かれた椅子に座って睨みつけた。
 うちなんかこれだぞっ、と神尾は叫び出しそうになる。
 出席簿順に当番が回ってきて、毎週授業開始からの十分がデッサンタイム。
 今日の当番は神尾だった。
 昨日、跡部とこの話をしていた。
 ついでに聞いた氷帝の美術デッサンの話も思い出して、神尾はムカムカする。
 裸体モデルって、まさか生徒が順番にやるのかと言ったら、馬鹿かと呆れられた。
 だってうちはそういうシステムなんだと言い返したのをきっかけに、何となく跡部の機嫌が悪くなって。
 神尾は神尾で、跡部のこの目が、いわゆるその裸体モデルの女性を見つめて、デッサン画を描くのかと思ったら気分が悪くて。
 いつもの小競り合いが始まった。
 そうしてそこからいつもの言い争いを経て、今日になって、自分達はいつものように喧嘩をしたままだ。
「………………涙目になるほどじっとしてるのが苦痛か神尾」
 お前は全くしょうがないなと、パンチとアフロ、どっちつかずの爆発頭の教師は言った。
「伊武。神尾と代われ」
 教師の指名が成されるや否や伊武が勢い良くぼやき出した。
「神尾と代われ?……どうしていつもアキラのフォローはオレがしなくちゃいけないんだよ。オレは出席番号一番で、とっくにモデルは済んでるのに。だいたいああいう晒し者みたいな真似、本来オレはしたくないんだよね。一度やれば充分だよ。何のために生徒が何人もいるんだよ。オレが二度もやる必要なんかないよね。うん。そうだよ。オレはモデルなんかしなくたっていいよ」
 聞こえるか聞こえないかの声のトーンなのに、女子席からたちまち声が上がった。
「えー、そんなこと言わないで伊武君!」
「そうだよー。伊武君ってすっごく描き易いもん。二度だって何度だっていいよ」
「綺麗だし、絶対動かないし」
 悪かったな綺麗じゃなくて!と女子ゾーンに言い返す神尾に、男子ゾーンから慰めともからかいともつかない声が飛ぶ。
「大丈夫だ神尾! 安心しろ! お前は綺麗じゃないが可愛いから!」
「そうそう涙目のアキラちゃんもなかなかだから!」
「その目だって一つで良いから描きやすいしな!」
 たちまちざわめく教室内に、美術教師の大声が響いた。
「判った判った! 神尾、どんなにじっとしてるのが嫌なら、何してたっていいからあと十分だけそこに座ってろ! 伊武はもう口閉じろ! それから今日の神尾に関しては、もうどんなポーズでもいいから全員好きに描け!」
 収集が、これで一応ついたのかつかないのか。
 とりあえず神尾はムカムカしながら跡部の事を考え、伊武は溜息と共に口を噤み、クラスメイト達は一部の悪ふざけを含み思い思いの神尾を描いた。


 その日の放課後、いつもは一緒に帰る伊武が、何だか今日は気配がするからと。
 神尾には少々意味不明なぼやきでもって先に帰ってしまったので、神尾は一人で帰途につく事になった。
 MDからの音楽で頭をいっぱいにしたいのに、どうしてもそこに跡部の声とか顔とかが浮かんできて落ち着かない。
 俯きがちにどんどん足早に歩いていったらぶつかった。
 硬くて、何かしっかりとした、揺るがないもの。
 額を押さえて神尾が顔を上げたら、それは跡部だった。
「な……………」
「………………」
 見るからに不機嫌そうな跡部は、無言のまま神尾の腕を掴んだ。
「おい、…っ……」
 別に痛いと言う程ではないけれど。
「………跡部?」
「お前なんかモデルにしたって」
「……はあ?」
 何不機嫌そうな顔してんだと、神尾は跡部を見上げた。
 たかだか美術の授業の話。
 跡部が、不動峰という学校のシステムを馬鹿にしてるのか、神尾自身の事を馬鹿にしてるのか。
 どちらにしろ結構どうでもいい事で態度を悪くしてるよな、と。
 神尾は毒気が抜かれたように、そう思った。
「普通の中学校はそういうもんなんだよ。お前らみたいな金持ち校と一緒にすんな。中学生に裸体モデルでデッサンとらせる学校の方が普通ありえねーよ」
「…………石膏像だ。バァカ」
「………へ?……人間じゃねーの?」
「それこそそんな中学校がどこにあるんだ。馬鹿」
 この天然、と頭を叩かれる。
「…ぃ…ってぇ…!……」
「行くぞ」
「………え? どこに」
 ぐいっと腕を引っ張られた。
「ついてこない気か」
「………睨むなよ」
 聞いてる事には答えないで、勝手な事を言って。
 何となくおかしくなって神尾は笑ってしまった。 
 跡部はどんどん先に行く。
 逆らわずについていく神尾は、黙っているのもつまらなくて、今日の美術の時間の話をした。
 椅子に座ってじっとしているのが苦痛だった事。
 モデルとして、女子は友人を支持して、男子は神尾へフォローなのかどうなのかよく判らない事を言っていたこと。
 教師が、今日の神尾だけは好きなポーズで描いていいと言ったので、悪ふざけをした一部の連中にグラビアモデルみたいなポーズのデッサンを描かれたこと。
 制服なんか当然着てなくて、それこそヌードモデルみたいな絵だったこと。
「……、跡部、っ?」
 跡部の部屋につくなり、それまで無言のままだった跡部に、ベッドに放り出された。
 普段よりも乱暴に制服を脱がされ、上顎から喉まで侵入しそうに、深く舌を含まされたキスをされた。
 跡部の悪態も、神尾には何が何だか判らない。
 驚いているけれど、怖い訳ではないので、神尾は性急な跡部にされるがまま、抱かれてしまった。


 翌週の美術の時間、神尾はクロッキー帳を開いて叫んだ。 
「ドッペルゲンガー!」
 俺が俺を描いてる!と言った神尾に、隣にいた伊武がうんざりした眼差しを向けてきた。
「うるさい…神尾…」
「深司深司!見てみろよこれ!」
「……………」
 広げられたクロッキー帳に目を落とす。
 神尾は「すっげー!」と感動し、伊武は「ああやだ、もうやだ、こんな露骨な絵」とぼやいた。
 神尾のクロッキー帳の最終ページには、神尾が描かれていた。
 驚くほど丹精なデッサン画。
 顔を横にしてうつぶせに寝ている神尾の目は閉じられていて、口元近くに指先を軽く握りこんだ手があった。
 肩は剥き出しで、身体の下にはドレープの流動線も見事なシーツ。
 髪の、少し湿った感じまでひどくリアルだ。
「……………」
 誰がどこでどういう状況でこの絵を描いたのか。
 簡単に判ってしまった伊武は、ドッペルゲンガー!と騒いでいる神尾を横目に深々と溜息をついたのだった。
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