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How did you feel at your first kiss?
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 氷帝学園の敷地内に、この時期、三色に染まる空間がある。
 樹齢数百年の、カエデとイチョウの大樹がそれぞれ一本ずつ、抜けるような青空に向かって伸びている。
 その二つの木の狭間から頭上を見上げると、カエデの真紅と、イチョウの黄金、空の淡青がいっぺんに視界に飛び込んでくるのだ。
 その絶景を眺められる特等席であるベンチを巡る争奪戦はなかなかに凄まじい。
 取り分け、二本の大樹の間にあるアンティーク調のアイアンベンチは、様々な言い伝えが実しやかに囁かれている恋人達のベンチとして、あまりにも有名だった。
 氷帝の生徒なら誰でも知っている。
「…………………」
 宍戸はそのベンチに一人で座っている男の姿に気付いた時、思わず足を止めた。
 目を瞠り、そして不機嫌になる。
「…………………」
 ベンチに背を凭れかけさせ、頭上を見上げているのは、宍戸をここに呼んだ鳳だ。
 交互に静かに折り重なるように。
 ひらり、ひらり、と。
 ひどくゆったりと落ちてくる赤と黄の葉を、端整な顔で見上げ、そこにいる氷帝の生徒達からの視線に全く頓着していない後輩の姿に。
 宍戸は嘆息する。
「…宍戸さん」
「…………………」
 その上、宍戸に気付いて。
 紅葉して降ってくる葉の中から、柔和で甘い笑顔を浮かべた鳳に、宍戸は背を向けようとし、敢え無く失敗した。
「宍戸さん!」
 こっちに来て下さい、とあくまでやわらかくよく通る声に促され、宍戸はもう、どうしろっていうんだと眉根を寄せるしかない。
 カップル限定のベンチだそこは。
 宍戸ですら知っている。
「宍戸さん」
「…………………」
 鳳は、宍戸がそこに行くまで呼ぶ気らしかった。
「…………ありえねえだろ……」
 思わず宍戸の口をついて出たのはそんな言葉だ。
 どれだけ注目を浴びてるのか、鳳は判っているのかと肩越しに宍戸が睨み据えた先。
 そこに居たのは。
 振り返った宍戸に対して、嬉しげに微笑んだ男の顔だった。
「……、……っ……」
 何事か低く悪態をついて。
 宍戸は荒く鳳の元へ歩み寄った。
 足元で落ち葉を踏みしめる秋の音がした。
「綺麗ですよ」
「…………………」
 どうぞ、と言うように手が伸ばされ、ベンチに座らされそうになって。
 宍戸はぶっきらぼうに逆らった。
「出来るかアホ…!」
「どうして?」
 綺麗ですから、と尚も促してくる鳳の顔を見下ろしながら、宍戸は舌打ちする。
「オマエなぁ……」
「はい?」
「このベンチがどういうベンチだか知らねえのかよ?」
「たくさん謂れがあるみたいですね。ここで告白するとうまくいくとか、二人で一緒にここに座るとこの先ずっと付き合っていけるとか」
「………知ってんならこんな真似すんな」
「知ってるから」
 鳳が、やんわりと宍戸の言葉を遮った。
「だから宍戸さんを待ってました」
「………………」
「座っては…貰えないですか…?……」
「……っ…、…くそ……」
 この馬鹿っ、と毒づき、吐き捨てて。
 宍戸は、座った。
 半ば自棄気味に、どっかり腰を下ろし、腹はたつし羞恥は募るし、どうしてこんな真似しなけりゃならないんだと胸の前で両腕を組んで鳳を横目で睨みつける。
 いったい周りからどういう目で見られているのかを考えると、ほとほと空恐ろしい。
 だからその分も鳳を睨み据える事に全力を注ぐ宍戸を、長身で温厚な後輩は、細めた目で見返し微笑するだけだ。
 壮烈な面立ちに甘い表情をのせる独特の存在感で、鳳は宍戸しか見ていない。
 気にしていない。
 いっそ宍戸が呆れるほどに鮮やかに。
「………………」
 もう好きにしてくれと宍戸も腹をくくった。
 振り仰いだ秋の青い空。
 両側から侵食し合うようにその青を埋める赤と黄の葉の色。
 イチョウはくるりと回転しながら落ちてくる。
 カエデはふわりと地上に被さるように落ちてくる。
 それを下から見上げる様は確かに絶景だった。
「綺麗ですね」
「………ああ……」
「宍戸さんがですよ…」
「…、ふざけんなアホ…ッ…!」
 もうほんとばか。
 脱力する宍戸は、がっくりと肩を落とした。
 もうどこまで聞かれてるか知らないが、とんだバカップルじゃねえかと、宍戸は鳳を横目で睨みつけた。
「勿論紅葉も綺麗だし」
「………ああ、そーかい」
「来年は一緒に見るの難しいかもしれないから」
「………………」
 宍戸が高等部に上がる来年は。
 鳳の言うように、ここで二人で紅葉を見る事は難しいに違いない。
 ふう、と宍戸は溜息を吐き出した。
「綺麗なものとか、楽しいこととか。しんどいこととか、苦しいこととか」
「………………」
「俺は全部、宍戸さんと一緒に、見たりしたりしたいです」
 本当は。
 全部一緒だなんて無理な話だと。
 宍戸は勿論、鳳だって判っているに違いない。
 それでも、それならせめて、一つでも多く、と。
 そう願う事は出来るのだ。
 十を望んで努力した人間は、八を手に入れる事が出来るけれど。
 五を望んで努力をしても、決して八を手に入れることは出来ない筈だから。
 最初に全部を、と望めば。
 全部に近い数を手に入れられるかもしれない。
「………おい。まさか来月クリスマスも、どこかベタな所で何かしでかす気じゃねえだろうな」
「だめですか」
 至極あっさりとそう言って、鳳は遠慮がちに微笑む。
「いやですか?」
 でもその後すぐに、こんな風に囁くのはずるい。
 伺うような感じはなくて、でもすごく優しくて、少し気落ちして。
 宍戸が一瞬息を詰め、鳳はそこにやんわりと切り込んできた。
「初日の出も一緒に見たいです」
「………どうしてそう浮くようなとこばっかり行きたがんだよ。オマエ」
 カップルしかいねえようなとこ、と宍戸が憂鬱そうに言えば、鳳は即答する。
「浮きませんよ」
「…………………」
「どうして浮くんですか」
 嗜め、言い聞かせるような口調が甘くて、宍戸はゆっくり赤くなる。
「…………………」
 だめだこいつ。
 そう思って。
「宍戸さん」
「………別に男同士で、クリスマスやら初日の出やらでもいいんだろうけどよ……お前が」
「俺が?」
「…………………」
「何ですか?」
「…………んでもねえよ…っ…」
 お前が、の続きの言葉を宍戸は飲み込んだ。
 どうせ言っても鳳には判るまい。

 少しずつ大人びてくる綺麗な男。
 穏やかで、優しい、その態度で。
 決して流されず、諦めもせず、真摯に宍戸だけを見つめてくる、そんな鳳と居ると。
 宍戸も、気持ちを無駄に揺らがすのは止めようという気になった。
 卑屈になったり、やましく思う事はない。
 自分達が手にしているのは、あくまでも、互いへの幸い多い恋愛感情だ。
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 跡部は外で会う時の方が、余裕がある気がする。
 神尾が時々跡部の家に行くと、跡部はあまり外では見せない顔をする。
 それが素なのかもしれないけれど。
 その少し疲れたような、大人びた気配が未経験の感情で神尾を雁字搦めにする。
「神尾」
「………なに?」
 広いベッドで声がする。
 跡部を探す。
 まだ元に戻らない呼吸が邪魔をしているのか、散々に泣いた眼球が疲労しているのか、神尾は実際はこんなにも近くにいた跡部を、すぐに見つめてやれなかった。
 跡部の手が神尾の髪に乱暴に押し入ってきたから漸く、同じように身体を投げ出し、顔だけ向けてきている跡部を見つけた。
「………………」
 神尾を貪るだけ貪った跡部はテニスをした後のように汗で額を濡らしていて、怖いようなきつい目で神尾を見ていた。
「………………」
 神尾は身じろぐ事すら大儀な身体を、息を詰めて動かした。
 ベッドに腕をつき、跡部に必死で近づいていく。
 感覚は真綿のように軽いのに、実際は碌に動かない重い腰をひきずるようにして、横たわったままで跡部と向き合うような角度まで身体をずらす。
 跡部は食い入るような目でずっと神尾を見ていた。
「………………」
 八つ当たりとか、鬱憤晴らしとか、そういうものではなかったと神尾は思う。
 今日の跡部に、ちょっと容赦がなかったのは。
 嫌だと言うと一層動きがきつくなって、だからもう無理だと何度も告げたのに、神尾は跡部に神経のひとつひとつを潰されるようにして長い時間抱かれていた。
 外で待ち合わせた時は、跡部は相変わらず、どこか人をくったような笑みを唇にたたえていたのに。
 この部屋の扉を閉めてからだ。
 もう跡部は笑わなかった。
 伸びてきた腕。
 噛み付くようなキス。
 引き千切る勢いで服が剥ぎ取られ、伸し掛かってきた屈強な肢体。
「………………」
 最近やっと身体が慣れてきたように思っていたけど、全然だったんだなあと、神尾は跡部を見つめながらぼんやりと思った。
 心臓の音が、聞いたこともないような速さで乱れて。
 喉の奥の方から声が出っぱなしになる感じだとか、身体を普段動かさない方向に押さえられたり捻られたり広げられたりするのとか。
 今こうして、半ば放心した状態でなければ、とても思い返せないことばかりだ。
「神尾」
「………………」
 両手首をシーツに真上から押し付けられ、跡部が神尾を組み敷いてくる。
 正直、もうどうやったって、するのは無理だ。
 神尾はいきなりの跡部の行動に息をのんだが、されるままでいる以外に、今出来る事は何もなかった。
「………………」
 怒っているわけでも、不機嫌なだけでも、ないようだった。
 跡部の炯眼は、ひたすら鋭く、神尾だけを見つめてくる。
 その目を見ていて、なんとなく、神尾には判った気がした。
「………………」
 跡部が、神尾の片足を手で掴む。
 腿の裏側に手のひらを宛て、神尾の胸に密着させるように押さえつける。
 現れたふくらはぎに唇を宛て、跡部は神尾の目を貪婪に見据えた。
「一生縛ってやる」
「………………」
「もし俺から逃げ出したら」
「……ばかだなあ…跡部は…」
 やっぱりそうだった。
 神尾はもうどこにも力の入らない身体を投げ出したまま、跡部に、そっと言う。
「お前から逃げたいって思ってる奴相手にじゃなきゃ、それ、脅し文句になんねーじゃん……」
「………………」
「それが脅し文句になる相手じゃないじゃん。俺」
 跡部って、ばか、と力の入らない声で呟く。
 試すなら判りやすくすればいいのに。
 試されてると、もし自分が気付かなかったら、どうする気なのかと。
 神尾は内心で毒づいた。
 でも半面で、自分が絶対に気付くと判っているから、神尾はへたをすると一方的にダメージを受けているのかもしれない跡部のきつい表情をじっと見上げた。
「跡部がするなら、どんなことでもいいや。俺」
 何をされてもいいなんて笑っちゃうけど、と告げて実際笑ってみせれば。
 跡部は神尾の足から手を離した。
「………………」
 無理だと思いながらも、跡部がしたいなら自分もそうなるかも、と思って晒していた身体を跡部の腕に抱き締められる。
 互いから擦り寄るような抱擁で、位置がずれ、神尾の胸元に跡部の頭がくる。
 神尾は両腕で、ゆるく跡部の頭を抱いた。
 甘えてよと言って、素直に甘えてくるような相手ではないから。
 甘えられている事に気付かない振りで、こうして抱き締める。
「…………おい。身体」
「……気持ちいい…」
「馬鹿野郎」
「うん」
 跡部の髪が胸元にある。
 響いてくる声ごとゆるく抱き込んで、神尾は微笑んだ。


 跡部がここにいてくれるから、気持ち良い。
 一生縛ってやるなんて言葉、嬉しいだけだ。
 乾という男は実際相当に上背があるのに、全く圧迫感がない。
 どこか無機質な気配の持ち主で、話し始めれば饒舌なのだが沈黙し続けるのも決して苦痛ではないらしく、四六時中何かしらの考え事をし、それに没頭し始めると植物みたいに気配が消える。
 そんな乾の側が、海堂には不思議と心地良かった。
 乾の周囲はとても呼吸のしやすい、落ち着いた密度に満ちている。
「………………」
 部活が終わり、部室で制服に着替えながら、海堂はこっそりと背後の乾を伺った。
 乾は先ほどからずっと、ノートに何かしらを書きつけている。
 一時も手を休める事なく、中断もしない。
 海堂が部室に入ってきた時、すでにもう他の者の姿はなく、着替えを済ませた乾が一人でいた。
 その時から、今までずっと、沈黙が続いている。
 だがそれは海堂にとって少しも苦痛ではなかった。
 静かな沈黙だった。
 ただ海堂は、この後どうしようかを考えて、少しだけ悩んでいる。
 何となく乾を待っていたいような。
 自分の中にそんな物慣れない気持ちがあることを、海堂は認めていて。
 でも、いざそうしようと決めてしまうには、最後の踏ん切りがつかなくて。
 基本的に単独行動しかとれない海堂には、誰かを、そのすぐ側で待つという経験がなかった。
 どうしようかと思い悩む分、つい行動が遅くなる。
 シャツの釦を下からとめていきながら、海堂は、何の理由もなく自分がここにいられる時間のカウントダウンを自らでしているような気分になる。
「………………」
 最後のゼロを唱えるように。
 シャツの一番上の釦を海堂がとめ、溜息をついた時だった。
「計算通り」
「………………」
「同時だな」
 乾の声だ。
 振り返った海堂の視線の先。
 乾は、ぱたんと音をさせてノートを閉じた。
「……乾先輩?」
「海堂の着替えと、俺のデータ整理が終わるのは、俺の予想通り同時刻」
 そう言って。
 乾は、唇の端を引き上げる。
「……俺に気付いてたんですか?」
 乾の眉が器用に跳ね上がる。
「当たり前だろ海堂。俺がお前に気付かない訳あるか」
「………目はノートを直視。手は一度も止まらない」
「そうしないと同時に終わるのは無理そうだったしね。第一、目や手がどうでも、感情は全部海堂に向いてるから」
「…………………」
 何の衒いもない。
 乾はそんな事を言って、立ち上がり、海堂の元へと近づいてきた。
 海堂は、緊張とは違う何かで、居住まいを正すような心持になる。
 乾を見上げた。
「…………………」
「……海堂」
「………、……」
 背の高い乾が、僅かに上体だけ屈めるようにして、海堂にゆっくりと顔を近づけてくる。
 乾の声は、海堂の耳元のすぐ近くに直接ぶつかってきた。
 咄嗟に息を詰めた海堂の耳に、直に触れそうな至近距離で。
 乾は海堂の名前を繰り返した。
 海堂の背中がロッカーに当たる。
 まるで追い詰められているような体勢で、乾に名前を呼ばれる。
「海堂」
「…………………」
 視界いっぱいに、あるのは乾の身体で。
 自分と同じ制服のシャツ。
 普段は無機質な乾の気配が、熱量をいきなり増したように海堂には思えた。
 自分の耳元にいる乾の声に、海堂は幾度目か、息をのむ。
「………海堂、なんか…熱っぽい?」
「……、…………」
 判っていてそんな事を言っているのなら、もう罵詈雑言尽くしてやろうと海堂は思った。
 しかし乾の声は真摯でそれも疑えない。
 どっちがだと心中でのみ海堂は毒づいた。
「………っ……、」
 すると突然首筋に、差し伸べられてきた乾の指先が当たって。
 海堂は身を竦ませる。
 渇いた大きな手のひら。
 それが海堂の体温を確かめるように、首の脇に潜りこんできて、包まれて。
 海堂は乾のその手首に、取り縋るようにして指先を食い込ませた。
 それと同時に乾が覆い被さるようにして海堂の唇を塞いできた。
「…………、ん」
 熱を確かめる乾の手の中で、海堂の動脈は走るように震えた。
 乾の手首に、更にきつく海堂が指を縋らせれば、乾のキスがまた一層強くなる。
「ン…、…っ………」
 キスの歯止めがきかなくなる。
 言葉も交わせなくなる。
 誰もいなくなった部室で、ただ唇を合わせることしか出来なくなる。
 例えば息を零すとか、例えば相手の身体に触れるとか、例えば相手の舌と絡まりあうとか。
 何かしらのリアクションごとに、キスが追い詰められて深くなる。
「……………、ァ」
「………………」
「ぅ………」
 唇が離れると、海堂の唇は零れるものに濡れた。
 こくん、と海堂の喉が鳴り、それでも唇から伝ったものを、乾の指が拭った。
「………熱上がってるのは俺だな」
 乾の、ひそめた低い声の甘さが。
 海堂へとみるみるうちに侵食してきて。
 海堂は浅い呼吸を繰り返すばかりだった。
 乾の胸に抱きこまれて。
 沈黙する自分達。
 そこから、切望するように背をかき抱かれるのが堪らなかった。
 今こうしている乾は、普段の乾とは違う。
 その身に備えている従容とした雰囲気を削ぎ落とし、繰り返し繰り返し、海堂の名前を囁きながら口付けてくる熱量の高さには、海堂の躊躇も熔かされた。
「海堂…」
 そう呼ばれるまま、浮かされたような目で海堂は乾を見上げる。
「………………」
 互いに灯ったこの熱を。
 ゆっくり宥めあうよう心を決める。
 互いが互いへと伸ばした腕で。
 背中を抱き寄せ、身体を寄せる。

 この先よりも、今はこのキスがしたい。
 呼吸のように、このキスをしていたい。
 気付かない振りをするべきだと判っていて声をかけた。
「眠れない? 宍戸さん」
「………………」
「どうしたの?」
 理由なんか、とうに知っていて尋ねた。
 嫌な夢でも?と囁きながら腕を伸ばした。
 同じベッドにいる宍戸を、鳳は、もっと自分の方へと抱き寄せる。
「………………」
 横たわったまま肩を抱き寄せると、手にひどくか細く感じた宍戸の身体は温かかった。
 髪の匂いが甘い。
 氷帝の特別枠での全国大会出場が決まった日だから、眠れない事を指摘してしまうのは、あまり趣味の良い話ではないと鳳は判っている。
 それでも。
 本当はいつだって、こじ開けてでも、宍戸の心情を知りたい欲求が鳳の中にはあって。
 飢餓するように欲して。
 鳳は、部活が終わった後、宍戸を連れ帰った。
 無理を通して泊まっていかせた。
「………………」
 短くなっても柔らかい黒髪に頬を寄せて、黙って宍戸の背を抱きこんでいた鳳の耳に、漸く宍戸の声が届く。
 静かな、微かに苦笑めいたものの交じる声だった。
「いいぜ。そんな気使わなくて」
「使ってません」
 多分宍戸は、どういう経緯でもいいからと、全国大会への出場を望んだ今。
 それでも考えるであろうあれこれを、この肢体の中に抱えている。
 それは鳳にも判っていて、しかし、高揚にか、懸念にか、寝付けずにいる宍戸を、気遣ってこうしているわけではないのだと、苦笑いを浮かべるのは寧ろ鳳の方だった。
「そう言う所が優しいんだよ。お前は」
「優しくなんかありません……」
 ひどいですよ、と全て判るように身体を宍戸に密着させて抱き締め直した。
「…………さっき……したよな」
「しました」
「………二回、したよな?」
「二回しましたね」
 じゃあなんでこれ、ともつれるような声を吸い取るように鳳は宍戸の唇に口付けた。
 躊躇ってもがく指を、全部の自分の指でからめとって手を繋ぐ。
「俺も、もう眠れない」
「…………………」
 宍戸の腿に放熱する自分を密着させながら、鳳は宍戸を組み敷いた。
 小さく息を飲んで震えた宍戸のTシャツを毛布の中でたくし上げる。
 見えない素肌に手を這わせると宍戸の唇が物言いた気に動いた。
「……っ…ん…」
 噛み付くようなキスを首筋に繰り返すと、宍戸の指が鳳の指と組み合ったまま震えた。
 鳳の手の甲、指の付け根に。
 宍戸の指先が食い込む。
「…ァ、…っ…ッ」
「いい匂い……」
「………ッ、…ん、っ」
 剥き出しの首筋に唇を滑らせながら宍戸の脇腹を膝の側面で擦り上げると、鳳の正気も飛ぶような濡れた溜息で宍戸が息を詰めた。
「宍戸さん…」
「……………ぁ…、……ぅ…」
 手の中であやすように触れたのは一瞬で。
 痛ませないように加減をしながらも、手のひらで繰り返し力を加えて、宍戸の声を引き出して。
 熱い吐息を零す苦しげな唇に口付けを幾重にも重ね、宍戸が先をよめないうちに深くその身体を拓いていった。
「ぅ……、…っ……く、…ン…」
 それもやはり毛布の中で、宍戸は両目を見開いたまま顎を反らせて衝動に喉を震わせている。
 鳳は、ゆっくりと、深くまで進み、両手で宍戸の頭を抱え込むように唇も同じだけ深く重ねた。
「……、…ッ……、っ、ッ…」
「………日吉の事いつから名前で呼んでました? 宍戸さん」
「…ぇ……?…な…、…っァ…」
 鳳の手は宍戸の顔を固定しながら指先で耳の縁も辿っていて、体感するものに呑まれてか、言葉を聞き取りづらい為にか、宍戸が混乱したような声をもらして息を乱す。
「ね、…宍戸さん…」
「……ァ……、っア、…な…に…、…っ…ァ…」
 身体を繋げたまま、宍戸の上半身をシーツに押し付けるようにうつ伏せさせて、鳳は宍戸の耳を唇に吸い込みながら細い腰から揺さぶり上げた。
「…ャ…、…ッ……あ…っ…ァ」
「若、って……」
「……ン……ぅ…、…っ…」
 うつ伏せになったものの自らの腕で身体を支える余裕もまるでない宍戸に、鳳は覆い被さり、肩を抱き込み囁きながら繰り返し身の内を奪う。
 耳朶に直接囁かれる言葉にも宍戸は崩れていって、だから鳳も何が何でも答えを聞きたい訳ではなく、次第に問いかけは止めていった。
 代わりに背後から、宍戸の身体を突き上げては引きずりおろし、宍戸に触れていた手では濃すぎる愛撫を執拗に与えた。
「長…太郎…、…」
「………はい…」
 肩越しに振り仰いできた宍戸の濡れた眼差しに、辛いですか、と鳳は口にする。
「も、……っ………」
 宍戸はそれだけ言うのが精一杯だったようで、きつく目を閉じると、鳳に揺さぶられたまま身体を痙攣させた。
 枕に最後の声を埋める宍戸の細いうなじに、鳳は口付けた。
 震えの一層酷くなった宍戸の首の裏側に強く印した真紅の跡を、間近に見下ろし、鳳は。
 きっかけは些細な事でしかないものから生まれる、この焦燥感や、飢餓感、独占欲が。
 せめてこれ以上宍戸を傷つけることのないように。
 これがせめて見極めの見張り線であるように。
 祈るように、口付け続けた。

 鳳の感情が宍戸の項に紅く在る。
 跡部がキスを使うようになった。
 キスをするんじゃなくて、キスを使う。

 例えばいつもするような言い争いで、神尾が激昂して怒っていると。
 仕方ねえなと呆れた跡部がキスを使う。
 舌先を浅く入れて、音をさせ、ちょっと甘めのキスを使われ、神尾がぐったりしかけると。
 跡部は唇を離し、どこか皮肉な笑みを浮かべて、神尾の顔を眺め下ろしている。

 例えば今日はヤダと跡部の腕から逃げる神尾にキスを使って。
 散々煽るようなキスを、そのくせあっさり終わらせて。
 これでもまだ嫌か?と露骨にからかう言葉で結局神尾の方から強請らせたりする。

 例えば約束をドタキャンされて、消沈して拗ねたくもなる状態の神尾に跡部はキスを使って。
 これで機嫌直ったかよと、何だかひどく単純みたいな扱いで、言うだけ言ってそこからいなくなる。

 例えば。

「………キリないし」
 神尾は溜息を吐き出した。
 考えてみると、こんなことばかりだった。
 言われるまでもなく、神尾は跡部にキスされるのに弱くて。
 怒っていたり、嫌だったり、哀しんだり、落ち込んだりしている時。
 いくら言葉を尽くしてもそういう感情が晴れない時。
 跡部のキスで丸め込まれたり、誤魔化されたりした事が、決して少なくないのだ。
 単純な奴、と跡部に呆れられるのは悔しかったが、実際キスをされると神尾は駄目になってしまう。
 跡部のキスひとつで駄目になる。
「………絶対に跡部の奴…俺なんか、ちょろいとか思ってんだぜ…」
 言って自分で落ち込んだ。
 跡部のキスが好きだけれど。
 でもキスを使われるのは好きじゃない。
 神尾は最近それを考えて鬱々する。
 キスを使われているのだと、思い当たった時から毎日その事を考えている。
「……何ブツブツ言ってやがる」
「………………」
 真上から声が降ってくる。
 神尾は膝を抱え込むようにしてしゃがみこんだ体勢で、顔を上げた。
 待ち合わせ相手の跡部がいる。
 制服を着ていても、つくづく中学生離れした顔立ちだと思う。
 今日は跡部が時間通りに来た事を、神尾は跡部の身体の向こうに見える駅前の電光掲示の時刻で知る。
 跡部の遅刻が原因の言い争いにも、よく使われる。
 キス。
「………………」
 神尾は膝に手を置いて立ち上がった。
「鬱陶しいツラしてんなあ…お前」
「………………」
 いきなり跡部にそう言われた。
 腹がたつより哀しくなった。
「何ヘソ曲げてんだよ」
「曲げてない」
「曲げてんだろ」
「違う。考え事」
「……ハ、お前が考え事?」
「悪いかよ」
 喧嘩腰にでなく神尾が返すと、跡部はちょっと嫌な笑い方をした。
「精々たかが知れてるがな。お前の考え事じゃ」
「………だったらなんだよ」
「くっだらねえことだろ。どうせ」
 ヘソ曲げてんのどっちだよ、とふと神尾は思った。
 食って掛かるような剣幕ではなく、跡部は時々、こんな風に神尾に絡む。
 よほど自分が跡部に見下されているんだろうと思うような感じで。
 今だって、会うなりいきなりこんなだ。
 やけにつっかかってくるような跡部に、いつもならいくらだって言い返せる神尾も、今日は何だか胸がつかえて言葉が出てこない。
 何も顔をあわせるなりこんな所で言い争う事もないだろうに。
「お前が考える事なんざ、どうせたいしたレベルの話じゃねえんだから、いい加減その鬱陶しい顔どうにかしろ」
 うんざりした跡部の声に、どうせ本当にそうなのだからと神尾は心の中だけで言った。
 神尾がここ数日、ずっと考え込んでいる事なんか、くだらないのだ。
 本当に。
 どうしようもなく。
 でも、と神尾は思った。
 そう思ったら、口に出さなかった言葉の代わりみたいに、瞳から涙を零してしまった。
 跡部を見据えたまま。
「…………、…っ………」
「…………………」
 跡部が息を詰めたのを、神尾はぼんやり見つめる。
 何をそんな慌てたみたいな。
 ぎょっとしたような顔を跡部がしているのか。
「…………………」
 瞬くと涙が頬に落ちていく感触がする。
 神尾はそのまま跡部をじっと見上げて。
「……てめえ、何泣いて」
「………………」
「……、……来い」
 引っ手繰るようにして手首を掴まれ、跡部に引きずられていく。
 今日は跡部の用事が何かあって、出かける事にした筈なのに。
 何故か駅前から神尾が連れて行かれたのは跡部の家だった。
 舌打ちと一緒に、跡部の部屋のソファに身体を投げられて。
 そんな荒っぽい跡部の仕草も、ふんわりと柔らかいソファは全て吸い込んだ。
「だから何考えてそんなツラしてんのか、話してみろって言ってんだろうが。さっきから」
「………………」
 頭悪いのはどっちだよと、神尾は普段跡部に言われている台詞を思い出した。
 話してみろって思ってるなら、そう言えばいい。
 どう思い起こしたって、跡部は一度もそんな事を言っていない。
「神尾!」
「……もう跡部とキスしない」
 それでも話せと言われたから、神尾は神尾で答えたのに。
 神尾は跡部に、今まで見たことのないようなきつい表情で睨みつけられ胸倉を掴まれた。
「てめえ………」
「もうやだ」
「ふざけんな…!」
 跡部の怒声がビリビリと鼓膜を刺激して、神尾は身を竦めながらもそのまま覆い被さってきた跡部に腕を突っ張った。
「もう、キス、やだ…!」
「そんなてめえの言い草」
「そういうの、やだ…っ…」
「聞く訳ねえだろうが……ッ!」
 激怒している跡部を、神尾は不思議と怖いとは思わなかった。
 怒っているというより、焦っているような乱れを跡部から感じたからだ。
 強引にでも口付けられそうになって、神尾は跡部の胸元にもぐるように顔を埋めた。
「……、神尾?」
 だって跡部のキスが好きなのだ。
 だからそのキスを使われるのが嫌で、普通の、使われないキスなら、してと強請ってもいいくらい好きなのだから。
「おい………」
 跡部の胸元に顔を埋めてしまった神尾に、僅かに怒りの削げたような声音で跡部が呼びかけてくる。
 躊躇しているような気配がする。
 神尾は跡部の胸元のシャツを両手で握り締めながら。
 そこに顔を埋めて、多分たどたどしさ極まりない言葉で。
 夢中で。
 跡部に真意を告げる。
 子供みたいに一方的に相手を詰るような言葉も使ったのに、跡部は一度も怒らなかった。
 全部黙って聞いていた。
 癇癪じみた勢いで神尾がひとしきり吐き出すと、いつの間にか神尾は跡部の膝の上に載せられていた。
 跡部の胸に顔を伏せたまま、少しずつ落ち着いてきた神尾が狼狽を滲ませ出すと、跡部の指先が手探りするように神尾の唇に宛がわれる。
「したい時にしかしてねえよ」
「………………」
「お前を従わせられるなんて自惚れてもいない」
 跡部にしては珍しい、不貞腐れたような言い方だった。
 神尾の唇の表面を暫く辿った跡部の指は、そこからまた手探りで神尾の目元に辿りつく。
 眦を指先で拭われた。
「いきなり泣くな」
「……跡部…」
「不意打ちで泣くんじゃねえ」
 焦らせやがってと吐き捨てられて、神尾は漸く跡部の胸元から顔を上げた。
 そこで目にした跡部の表情に胸が苦しくなって。
 神尾はそっと跡部の唇をキスで掠めた。
「…………てめえだって使ってんじゃねえか」
「………え?……今のは…、…」
 違う、と言った唇を、今度は跡部から塞がれる。
「俺だって違う」
「…………………」
「そういう事だろうが」
「………そっか………ごめん」
 そうなのか、と神尾は繰り返して言う。
 キスはやっぱり、使うものではなくて、するもの、してしまうもの、したいもの。
 今のキスを『使った』と言われるのはショックだったから。
「……跡部、俺の言った事で、傷ついた? ごめん」
「自惚れんな」
 馬鹿がと跡部は言い捨てたが。
 神尾は跡部に両腕を伸ばした。
「跡部……」
「…………………」
 抱き返された背中が熱くなる。
 同じ力で抱き締めあって、同じ思いでキスをする。
 全てが永遠に、均等につり合うのは難しい。
 でもこの一瞬は確かに均等で、一瞬の積み重ねが永遠だ。
 ここ一年、青学テニス部の持久走のワンツーフィニッシュは、手塚、海堂、という順で決まっていた。
 肩を痛めた手塚が、治療の為に部を離れて、その後は二番手は流動したが、長距離を先頭で走り終えるのは必ず海堂だった。
「………これに…関しちゃ、マジで化物、だぜ、あの…野郎…!」
 遠い背中に悪態をついた桃城に、いつの間にかするすると追いついてきていた不二が走りながらの笑顔で言った。
「ね、今日はどうしたんだろう?」
「……何が…っスか。不二先輩」
 何気に余裕ですねと桃城が見やった先で、何気に桃はバテバテだと不二は笑った。
「乾がね。二番手キープしてるんだ」
「………あ…?……あー、…みたいっすね…確かに珍し……」
「気になるから近くに行ってみようかな。桃お先」
「俺も行くっすよ…!」
「……練習前にコンビニの中華まん全種類、しかも二個ずつなんて食べたりするからだよ」
 軽やかにスピードアップした不二のすぐ後を、菊丸やら越前やら、基本的に野次馬見物が嫌いでない面々が桃城を次々と追い抜いていった。
「………くっそ……豚トロまんを三個で止めときゃ俺だって……!」
「…………部活前にその量は明らかに食べすぎだぞ桃」
「あ、大石先輩…!」
「本当に桃はよく食べるなあ」
「タカさんまで…!」
 今日の乾汁の餌食は俺なのか?!と顔面蒼白になる桃城だったが。
 レギュラー陣の誰もが何とはなしに、今日は乾汁は無しの方向でいくんじゃないかと思っている。
 何分今日の乾は、とてもそれどころではなさそうだったので。
 


 さすがに旧知の仲間。
 誰もが正しく乾という男を理解していた。
 今日の乾はいつもは生きがいと言ってもいい汁の事など、欠片も頭になかった。
 乾の頭の中は、はっきり言ってしまうと、自分の前方を走っている伸びやかな長い手足の後輩の事しかないような状態だ。
 ゴール地点寸前で、また距離を開けられたが、それでも。
「…………………」
 海堂、乾、の順で千五百mを走り終えた。
 肩で大きく息を繰り返しながら、乾は海堂の手をとった。
 無論背後から来る友人達からは死角であるという事は確認した上での行動だったが。
 海堂は即座に、びくりと反応した。
 まだ走り足りなさそうな海堂の呼吸はあまり乱れていない。
 それでもうっすらと顔が赤くなっていくのがつぶさに見てとれて、乾は唇の端を引き上げた。
「やれば出来るな俺も」
「………そんなに息荒く言われても」
「そう言うな海堂。神がかりじゃないか。俺が千五百で二着ってのは」
「………………」
 一向に落ち着かない呼吸で。
 笑いながらも苦しげに話す乾に海堂は眉を寄せた。
 乾の手からそっと逃れて。
 乾はそっと逃がしてくれて。
「………………」
 海堂は自分のタオルを手にとった。
 それを乾の頭にふわりと被せる。
「海堂?」
「………………」
 タオル越しに、海堂は乾のこめかみから頬を通って顎に落ちていった汗を拭う。
「…………汗…すごいっすよ……」
「……そりゃあもう必死だったから」
 ぶっきらぼうでいながら、細やかな気配りの感じられる手で。
 ひとしきり顔の汗を拭われた乾は、ふと差し向けられてきた海堂の小さな声に、上半身を屈めた。
「………ん…?」
「……………だから……」
「何?……」
 海堂はどことなく言いにくそうに、躊躇ったような沈黙をつくった。
 根気よく乾がそのままの体勢で待っていると、中途半端に乾の顔からタオルを離して、海堂は時期に、ぽつりと言った。
「………何でそんなに今日は」
「…ああ、持久走のこと?」
 もったいぶるつもりもないから、乾はあっさりと白状する。
「髪がね」
「………髪?」
「そう。海堂の髪」
 不思議そうに聞き返してきた海堂に乾が頷く。
「バンダナしないで走るの、珍しいじゃないか」
「……あ…」
「普段でもサラサラで綺麗な髪だとは思ってたけどな。走り出したら、その髪が、またすごいよくて」
「……、……」
 海堂が、また赤くなった。
 からかってないよと乾はすぐさま小さく付け加える。
「……本当に綺麗だった」
「…………先輩」
「あんまり綺麗で、気付いたらふらふらと後を、ってわけ」
 含み笑って、乾は海堂の髪の先を一束、指先で摘まむ。
 きゅっと微かに音がたつ。
 海堂は何だか硬直したように動かない。
 乾は、あまりあからさまにならないように。
 もう少しだけ、と唇を動かした。
 海堂は乾を睨みつけてきたが、拒まなかったし、一層頬を赤くもした。
「……こんなにサラサラだと、三つ編みとか出来なさそうだな」
「………何すかそれ」
 呆れ返った口調の海堂を、甘くあしらう乾はすこぶる機嫌が良かった。
「うちのクラスの女性陣がね。昼休みに三つ編み早編み競争なんてのをやってたからさ。興味深く眺めてたらいつの間にか頭の中は海堂の事だけになってて」
「……、…だから何で三つ編みで俺……!」
「海堂より綺麗な髪を、俺は知らないなあと思ったわけ。彼女らに俺の心の声が聞こえてたら、とても二着は無理だったな」
 殺されると笑いながら、乾は両手を素早く海堂の髪へ宛がう。
「あ。ほら。すぐほどける」
「………っ……何やって…」
「三つ編み」
 昼休みの光景を思い出し、見よう見まねで乾がやってみると。
 海堂の髪は、乾が手を離すと同時に跡形もなく元通りに戻っていった。
 真直ぐで、艶のある細い黒髪。
「何いちゃいちゃしてるの? 乾」
「やあ不二」
「乾にご褒美かい? 海堂」
「…………っ……、…」
 絶句する海堂は、気付けば不二どころか、他のレギュラー陣からも取り囲まれていた事を知る。
 面白がっているような雰囲気に、海堂が出来た反抗は、せいぜい乾を睨みつける事くらいだったようで。
 その後はもう。
「……あ。逃げた」
 一際海堂をからかう声音で越前が言った通り、海堂はその場から走っていってしまった。


 レギュラー陣で持久走の最下位となった桃城が、単独で走ってきた海堂を見つけ、笑いたけりゃ笑え!とやけっぱちに怒鳴った時。
 海堂は笑うどころか、生まれて初めて桃城に感謝してやってもいいような気になっていた。
 少なくとも桃城は、三つ編みにされた海堂を見ていない、唯一の、青学テニス部のレギュラー陣だったわけだ。
 レギュラー落ちが言い渡された時の宍戸は平静だった。
 動じた様子はまるでなく、かといって無気力だとか、投げやりだったという感じもない。
 真直ぐ前を向いて、準レギュラーのコートへ向かっていった。
 そうやって向けられた背中は。
 それでも鳳の目には痛ましかった。
 その感情は、同情ではなく同調に近かった。
 自分のもののように、宍戸の心情は、鳳の感情を伝わってくる。
 宍戸は悔しさを、吐き出せないのではなく、今は、吐き出さないでいると鳳には思えた。
 何の為にそうしているのかは、すぐに。
 その日の夕刻過ぎに、鳳の知るところになった。
 練習を終えて、宍戸に声をかけられた。
 宍戸の後について鳳が向かった先は、ナイター設備が整っているのも関わらず、その時は暗がりのままのテニスコートだった。
 ネットを挟んで、コートに対峙した宍戸の表情はきつかった。
 だからこそ、話し出すきっかけを鳳の方からそっと口にした。
 その時、鳳は微笑んでさえいたのだが。
 宍戸の話を聞いていく過程で、その表情は一変した。
「、そんな話呑めるわけないでしょう…!」
 鳳の怒声の珍しさにか、宍戸は一瞬、やけに幼い表情をした。
 片首をかすかに傾げた。
 それでもすぐに宍戸の面立ちは引き締められたが、見慣れないそんな仕草は、いつまでも鳳の脳裏に強い印象を残した。
 消えない故に治まるものも治まらず、鳳は宍戸の言葉に畳み掛けて返答する。
 しかし宍戸も引きはしなかった。
「宍戸さん」
「呑んで貰う」  
「スカッドをラケットを持っていない宍戸さんに向かって打てって言うんですか?」
「そうだ」
「そんな真似が俺に出来る訳、」
「俺は負けたままで終わりたくない」
 次第に強くなる鳳の口調を遮って、きっぱりと宍戸は言った。
「このままでいたくない」
「宍戸さん」
「俺は勝ちたい」
「…待って下さい。宍戸さん」
「何もしないでいるなんて耐えられない」
「だからって……!」
 何で、と言った鳳の言葉は途中で掠れた。
 何でそんな方法で、と鳳は問いたかった。
 しかし宍戸は続くのは違う言葉だと思ったらしく、ネット越しに鳳との距離を僅かに詰めてきた。
「何でお前かって?」
 悲壮な面持ちの鳳に、宍戸はかすかに笑みを見せた。
 ネットを握り締めている宍戸の指が、震えて見えた。
「頭下げてでも、今の俺が頼みたいのはお前だけだ」
「……、…止め…」
 宍戸に、本当に、頭を下げかけられて、鳳は慌てた。
 思わず手を伸ばし、宍戸の肩を掴んでそれを止めさせる。
「止めてください。そんな真似」
 どうしてそんな事までと。
 叫び出したい衝動で、胸が痞える。
 宍戸の肩を掴んだ鳳の手に無意識の強い力が籠もり、宍戸が眉根を寄せた。
 それすらもう目に入らず、鳳は、胸でも喉でも、そこで息苦しく痞え出したものを振り払いたくて吐き出した。
「俺が、宍戸さんを好きだってこと、知ってますよね」
 尊敬だけでなく。
 先輩というだけでなく。
「……だからですか」
 それなら、俺なら、何でも言う事聞くと思ったんですか、と言った声は。
 鳳自身がびっくりするほど冷たかった。
「だからなんですか? 宍戸さん」
 ひどく残酷で自虐的な気分になった。
 鳳は宍戸の肩を掴む手に自分の意思で更に力を込める。
 自分が悔しいのか寂しいのか判らず、歯を食いしばったまま鳳は、宍戸を睨み据え、そこで息をのむ。
「………………」 
 暗がりで見つめた宍戸の怜悧な眼差しに、涙が浮かんでいく。
 ゆっくりと。
「………………」
 その事が、彼自身、どうしようもなく悔しいようで。
 絶対に涙を零すまいとして目を見開いているせいなのか、瞳の中で潤みながら揺らいでいく涙の様すらつぶさに見てとれた。
「………どうして…」
「………………」
「泣いたりするんですか…」
 愕然とした問いかけの言葉が駄目押ししたかのように、零れそうで零れないでいた震える雫が、とうとうその瞳の中から落下する。
 糸のように細く落ちていった涙はあまりにも綺麗すぎて。
 涙を湛えても、そして零しても、鳳を睨みつけてくるような宍戸の目のきつさはそのままで。
 泣いていても強い、その屈強な痛々しさに、胸が潰される。
「……宍戸さん」
「…………お前も…」
「…俺…? 何ですか?」
「お前も………だから…なのか?」
 涙の絡みついた睫毛が伏せられ、そんな一度の瞬きからですら、もう鳳は目が離せない。
「宍戸さん?………」
「俺が…お前を好きなの判ってて」
「…………え…?」
「知ってて、そういう…」
 泣かせたのは、自分なのかと。
 鳳は今更のように宍戸の顔を見て思った。
 何か叫び出してしまいそうな衝動が冷たく身体を突き抜けて、咄嗟にネット越しに宍戸の身体を抱き寄せる。
 抗いはせずに鳳の胸におさまった宍戸の身体は薄く感じた。
 痩せたのだと、間近に見下ろした首筋の細さに知る。
「お前に、俺の言う事全部きかせようなんて、思った事なんか、一度もねえよ……!」
「宍戸さん。ごめん……!」
 無理矢理に存在しもしない傲慢さをでっち上げたような己の言葉に鳳は今更のように気付いて、宍戸の身体を抱き込んだ。
 左手で宍戸の頭をかき抱き、右手で背中を引き込む。
 それでも足りなくて、唇を宍戸の髪に埋めて鳳は繰り返した。
「すみませんでした。勝手なこと言いました」
「…………………」
「傷つけたくなんかなかった……ごめん、宍戸さん、本当に」
「…………、アホ……!…」
 ぎゅっと背中のシャツが宍戸の手に握り込まれたのが判って、鳳はもう一度腕の中の身体を抱き締め直す。
 鳳は、今自分が宍戸にしたい事は何なのか、漸く判った気がした。
 今の宍戸に鳳がしたい事は、一つだけ。
 協力、したいだけだ。
「……俺を泣かせるなんて趣味悪ぃんだよお前……!」
「宍戸さん。ごめんね………」
 最初から、ちゃんと言えば良かったのだ。
「宍戸さんが好きです」
 宍戸の両肩に手をおいたまま身体を離して、鳳は宍戸を見つめた。
「俺に、手伝わせてくれますか?」
「…………………」
 強くなりたい人。
 負けたら、負けたままでいたくない人。
 だからまっすぐ前を見て、準レギュラーに交ざったあの背中を。
 自分は確かに見ていた筈なのにと。
 鳳は宍戸の目元を親指の付け根でそっと拭う。
「俺を選んでくれて、ありがとうございます」
 鳳の手にされるがまま、涙を拭われる時だけ目を閉じた宍戸も、静かに鳳を見つめた。
「…………………」
 交し合うものは、視線だけでも充分だった。
 それでもどこか引き合うように、額と額とを重ねて、一時。
 鳳と宍戸は、凪ぐような静けさを、暗がりのテニスコートで共有したのだった。
 生まれて初めてのインフルエンザだった。
 おおーっ!と思わず感動の声を上げた神尾は、かかりつけの医者に馬鹿者と頭を叩かれた。
 くれぐれも安静にしていなさいと言いつけられた言葉と薬を持って病院を出ると、途端に何だか足元がぐらぐらして、やけに目が回った。
 気持ち悪い、寒い、頭痛い、吐く、と何だか呪文のように繰り返しながら家に辿りついた所までだ。
 神尾の記憶があったのは。
 その後、神尾は水曜日までの丸三日間、寝込んでしまった。
 四日目にどうにか起き上がり、携帯の受信フォルダを埋めていたお見舞いメールに返信をうつところまで回復した。
 金曜日はもう学校に行ってもいいかなと思ったのだが、どうせすぐに週末なんだからここできちんと治しなさいときつく親に言われて、結局金曜日も学校を休んだ。
 土日に、両親が遠方の親戚の結婚式に呼ばれていたことは神尾も判っていたから、安心して行かせるためにはここは大人しくしていた方がいいぞと神尾自身が判断したのだ。
 姉はここぞとばかりに友達の家に泊まりに行くと言っていたし。
「………どうしよっかなー…」
 そんな金曜日。
 神尾は布団の中で、真剣に考え事をしていた。
 明日、実は神尾は跡部と会う約束をしている。
 体調を崩した当初は、それまでには風邪くらい絶対に治っているものだと思っていたのだが、さすがはインフルエンザだなあと神尾はしみじみと関心してしまう。
 結局ギリギリまで引きずってしまった。
 今はもう時々咳が出るくらいで。
 自分的には完治も同然と思っている神尾だが、万が一跡部にうつしでもしたらと思うと、どうにも躊躇いが色濃くなってしまう。
「…………やっぱ止めといた方がいいんだろうなー……」
 会いたいけど。
「………………しょうがないかー……」
 すごく会いたいけど。
「…………………」
 神尾は大きな溜息をついて、手探りで枕もとの携帯をつかんで、跡部にメールを打った。
 跡部は今授業中だろうとは思ったが、あまり遅くにキャンセルの連絡というのも怒られそうだし。
 そう思って、神尾は短いメールを送信する。
「…………………」
 考え事が決着して、断りのメールも入れて。
 そうしたら何だか無性に寂しくなってきた神尾は、布団の中に潜り込んだ。
 その時に、無意識に一緒に引き込んでいたいた携帯が、いきなりメールの受信音を響かせ始めた。
「うわっ………え、…あれ……跡部だ…」
 携帯を手にして、ぷはっと布団から顔を出した神尾は、サブディスプレイに映し出される跡部の名前に驚いた。
 授業中だよな?と部屋の時計を見ながらそのメールを読むと、内容はたったの一文だった。

『理由は』

「…………あ…書かなかったっけ…?」
 神尾は布団に再び横になって、メールを打つ。
 その後の返事もすぐにきた。
 やはりひどく短い文だったけれど。

『月曜からインフルエンザで学校休んでて、もう治ったけど一応うつしたら悪いから』
『熱は』
『もう下がった。咳が少しくらい。来週は駄目か?』
『家族はちゃんといるのか』

 質問に答えろよな、と神尾は少し不貞腐れた。
 会いたいのに。
 会えないから。
 次はいつって決めたいのに。

『ちゃんといた。だからもう治ってんだよ』
『判った』

 それで終わりだ。
 しつこいかなと思ったけど、もう一度だけ、明日の代わりにいつ会うかのメールを神尾は入れたのに。
 返事は返ってこなかった。
 怒ったり、不貞腐れたり、拗ねていたのも束の間。
 しまいに本当にどうしようもなく寂しくなってきてしまって、神尾は毛布を目元近くまで引き上げて、ぐずぐずと眠りについたのだった。


 翌日、朝早く出て行った両親の気配を、神尾は布団の中でまどろんだまま感じて。
 そのまま起きる事無く、うとうとと眠って。
 次にまたぼんやり覚醒しかけた時、今度は姉が出かけていく気配が玄関先でする。
 姉の声。
 出掛けて行った。
 これで、今日明日はもう一人だ。
「………………」
 嫌な夢みたいに、ふと思い出したのは、昨日の跡部とのメール。
 でもそれは夢ではなくて本当の話。
「………んだよ……ドタキャンだからって怒るなよな」
「誰も怒っちゃいねえよ」
「…………え……、………えええええ?」
 悪態に返事が返されて神尾は飛び起きた。
 部屋には、紛う事なき跡部の姿があった。
「な、…なん、…なんで、跡部が…っ」
「来たからだろ」
 起き上がんな、とバサッと顔に毛布を被せられる。
 そのまま肩を押されて横たわらされても、神尾の混乱は収まらない。
「なんで跡部…っ…!」
「騒ぐな。また熱でるぞ」
「…………、……」
 言われた言葉にでなく、頬に触れてくる跡部の手の感触に神尾は口を噤んだ。
 ひんやりと気持ちの良い手だった。
「………………」
 思わず目を瞑り、そして開き、跡部の手が動いて、また神尾は目を瞑る、そして開く。
 跡部は無表情で、神尾の頬に手のひらを宛がっていた。
「お前の姉貴に断っておいた。今日誰もいないんだろ」
「……なんで…?」
「お前が昨日のメールで今日は誰もいないって言っただろうが」
「………そんなの言ってない…」
「親はちゃんといたって自分で書いたのもう忘れてんのか」
「……………それは書いたけど……」
「つまり今日はいないって事だろうが意味として」
 なんでそうやって顔触るのかも聞いてみたかったが、何となく跡部は無意識でそうしてそうで、口に出して聞いたら止められてしまう気がして神尾は聞けなかった。
 その代わりにもうひとつのなんでを口にする。
「……なんで昨日、次はいつにするって俺が聞いたのスルーしたんだよ」
「だから次ってのは今日だろう」
「………会えないって言ったら、判ったって返事したじゃん」
「今日ここに誰もお前の家族がいないのが、判ったって言ったんだ」
「…………うー……」
 悔しくて唸っても。
 馬鹿と素っ気無く言われるだけ。
 上目に跡部を睨み上げた神尾は、視界を跡部の手に塞がれた。
「……、跡…」
「………………」
 唇を何かが掠った。
 なんで、という言葉は今度は飲み込んだ。
「…………うつるぜ?」
「うつせばいいだろ」
「………そんな簡単に言うなよ。言っとくけど、すっごいしんどいんだぞ…」
「……おとなしくしてろ」
「………………」
 低く告げられ、もう一度、今度は目元を塞がれないまま、あやすようなキスが短く二度。
 唇に重ねられる。
「………………」
 胸が甘ったるく詰まって、跡部がすごく優しいのが判って、神尾は泣くかもしれないと思った。
「飯は食わせてやる」
「………うん…」
 おとなしく頷いたらキスをくれた。
「退屈なら、話し相手でも読み聞かせでも、仕方ないからつきあってやる」
「…………うん…」
 もう一度のそのキスの後、まず何したいと跡部が囁くから、神尾はキスしたいと口にした。
 返事より先に与えられて、神尾は目を閉じた。
 唇を開いたのは神尾からで、入ってきた跡部の舌は長く神尾の口腔にいて、ずっと優しかった。
「……………何時までいてくれる?」
 それだけは聞いておこうと思うくらい、キスは心地良かった。
「泊めろ」
 そんな跡部の返事が嬉しくて。
 神尾は跡部にキスされたまま、跡部と重ねた唇の下で笑った。
 昨晩母親が手紙を書いていた。
 銀色のキャップのインクボトルには、ピンクともパープルともつかない不思議な色のインクが入っていて、大事にしているガラスペンで手紙をしたためていた。
 ふと顔を上げた母親は海堂に向けて、学生時代からの友人宛てなのだと言って、小さく笑みながらその手紙を持ち上げて見せた。
 そこには、何も書かれていなかった。

 甘い色合いのインクは、外国製のあぶり出し用のインクだった。
 父親が愛用してるマーベラスの炎で、試し書きした別の紙面をそっとあぶると、ゆっくりと浮かび上がってきた文字の羅列。
 滲むように。
 今までは何もなかったところに、はっきりと姿を現していく文字。
 まるで自分の頭の中のようだと海堂は思った。
 ライターの炎のような、極小さなきっかで一気にあぶり出され、形を成していく。
 一見目に見えなくても、正しい手法を使えば、こんなにも鮮やかにさらされるもの。
 暴き出された感は否めず、だからといってそれを不快と思った事は一度もない。
 自分の感情も、このインクのようなどこか甘いような色をしているのだろうかと海堂はぼんやり考えた。
 
 あの色の感情で、海堂が考えたのは、乾のことだった。
 昨夜の曖昧な羞恥をふと思い返してしまって、海堂は慌てた。
 今はトレーニング中だ。
 ましてその乾とだ。
 考え事に没頭してしまった自分が、乾に気付かれているかどうか。
 柔軟をしながらこっそり盗み見た海堂は、案の定、乾としっかりと目が合った。
「………………」
 気付かれて当然だ。
 決まり悪げに柔軟を中断した海堂に、しかし乾は意外な言葉を口にした。
 口元に当てていた彼愛用のデータノートを外して、やんわりと微苦笑して。
「気付かれたか」
「………はい…?」
「うまく隠し見てたつもりだったんだけど、やっぱり海堂は気配に敏感だな」
「…………………」
 全く思いもしていなかった事を言われて海堂は面食らう。
 その隙に、ジャージ姿の乾はノートを置いて、もう海堂の前に屈んでいた。
 両足を開いて座り、中途半端な前屈の体勢でいる海堂の正面に腰を下ろし、乾は海堂の右の足首をつかんだ。
 咄嗟に少し身体に力が入った海堂だったが、二人でする自主トレの後で、乾が海堂の筋肉をチェックすることは時々あったので、すぐに脱力する。
 ほんの僅かだけ海堂に残った緊張は、それでも相手が乾だという事以外に理由はない。
 乾の手は、手のひら全体でマッサージしていくように海堂の足首からふくらはぎまですべってくる。
「こっちのパワーアンクル、また少し外しておいたほうがいいな」
「………っす……」
 硬い手のひら。
 骨ばって長い指。
 乾の手は暖かかった。
 そんなことを心地良く海堂が思っていられたのは、乾の手が海堂の膝にかかるまでだった。
 乾の指の腹が膝裏の薄い皮膚に触れた途端、思わず海堂は息を詰めた。
 ことさらに、ゆるくそこを撫でられる。
 咄嗟に目も瞑ってしまい、海堂はその感触に耐えた。
「…乾…先ぱ…?」
「……俺があからさますぎるのか海堂が敏感すぎるのか」
「な、………」
 唇の端を引き上げて言い、乾は両手で海堂の膝を包んだ。
 乾の両方の手の指が膝裏にかかって海堂の足が竦み上がる。
 飲み水を両手ですくうようにして、海堂の膝を包み、乾はゆっくりと上体を屈めてくる。
「……、……っ……」
 膝に唇を押し当てられ、海堂は小さく声を上げた。
 舌先で舐められるのを感触で理解して、海堂は乾の肩を掴む。
「止め…、……」
「…………それは難しい…」
 なにいって、と声にならない声で海堂が訴える間に、乾の手は膝から腿へ這い上がってくる。
 どこかまだマッサージの延長のようなやり方で逆撫でされていくが、ハーフパンツを押し上げられ、足の付け根の極薄い皮膚に乾の指先が沈んできた時にはもう、海堂もそんな事を言ってはいられなくなった。
「………ッ…、…ぁ…」
 乾の肩をつかんだまま、背を丸めて小さく声を上げた海堂に、風邪が吹き付けてくるようなキスが与えられる。
「…………………」
 噛み締めた唇を掠めるだけのキスだったが、乾からの忍んだ欲情の気配に海堂はくらりと眩暈じみたものを感じた。
「………お持ち帰りしてもいいか?」
「…………知るか…っ……」
 ごめんごめん、と。
 軽い口調の割には神妙な声音で、乾は言って。
 海堂の腕を引き上げながら立ち上がった。


 あのインクの色をしているであろう海堂の感情は。
 またもや乾からの接触や言葉でもって、海堂の脳裏にはっきりとした形となってあぶり出された。
 例えば過度に金銭を使われたり、四六時中食べ物を奢られたりすることを、宍戸は本気で嫌う。
「俺は何か物を見て、いいなと思うとただ宍戸さんにあげたくなるだけなんですけどね……」
「時々やりすぎんだよ」
 鳳に渡される物を、簡単に受け取ったものの、それが後から本当にびっくりするような値段だったりする事を知った経験は一度や二度ではないのだ。
「食事に誘うのも、もっと一緒にいたいだけですし」
「じゃあ馬鹿高い所で食う必要ねえだろ」
 おっとりと苦笑いを浮かべる鳳をきつい眼差しで見上げて、宍戸は胸の前で腕を組む。
「それで? 今日は何なんだよ」
 土曜の今日は、学校は休みだが部活はあった。
 全てのメニューを済ませて、解散となった途端。
 宍戸は鳳に、そっと腕を取られた。
 人目を忍んだ微かな接触。
 鳳の腕はすぐに離れていった。
 しかしやわらかく微笑している後輩は、あからさまに物言いたげで。
 宍戸は深い溜息を吐き出しながら、大概の事を察した。
 常に邪気なく宍戸に接してくる鳳だったが、時折こんな風に、誘いを断られる事を恐れるような気弱な態度をとる。
 それに宍戸は弱かった。
「宍戸さん。ミルク鶏食べにいきませんか」
「………ミルク鶏?」
「はい」
 水の代わりにミルクを飲ませて育てた鶏だと鳳は説明した。
「普通の鶏とは味が違うそうですよ。タンパク質も特に豊富で、スポーツする人には最適なんだとか」
「へえ……」
「……食べてみませんか」
「…………………」
 微笑んでいるけれど、もし断ったら地の果てまで落ち込んで沈んでいきそうだなと宍戸は鳳を見て思う。
 ここのところ断ってばかりだったしな、と宍戸は心中でのみ呟き。
 頷いた。
「いいぜ」
「本当ですか?」
「疑ってんじゃねえよ」
「すみません」
 そう言った鳳の笑い顔が。
 純粋に明るくて。
 宍戸もつられて薄く笑み、ついてくるように片手で鳳を促して歩き出した。
 部室に行くまでの僅かな時間で、今晩の約束を交わす。
「車出すとか言うなよ」
「判ってます。電車に乗って歩いて行く方が、宍戸さんと一緒にいる時間が長いからそうします」
「………アホ」
 こんなに従順で。
 こんなに可愛いのに。
 そのくせどんどんと大人びていく身体つきや表情が。
 近頃の鳳を危うく目立たせる。
 最近キスの仕方も濃厚だよなあと。
 考えて、宍戸は。
「え、あれ…?…宍戸さん…首、真っ赤ですけど…どうかしましたか?!」
「………うるせ……」
 何考えてんだと羞恥に焼かれそうな宍戸にお構い無しに。
 鳳は至ってマイペースに宍戸を心配し、慌てていた。
 それは夕方に、再度待ち合わせをしてからも変わらず。
 風邪を心配しているようで、鳳は、彼自身が巻いていたマフラーを外して宍戸の首にかけるという真似まで往来でやってのけた。
 本当に、最近激しくも甘く悪目立ちするこの年下の男をどうしたものかと。
 宍戸はあちこちから向けられてくる密やかな注目を自覚しながら悩むのだった。


 悩みながらも、ミルク鶏は美味だった。
 宍戸の気に入った。
 食事を済ませた帰り際。
 盗むような鳳からのキスが宍戸に苦かったのは、食事の最後に鳳が食べたパセリのせいのようだった。
「パセリは結婚の約束を表すんですよ。知ってました?」
 そう言って見るからに苦そうなつけあわせのパセリを齧った鳳は。
 その苦い唇で。
 今。

 少し長く、宍戸の唇を塞いだ。
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