How did you feel at your first kiss?
外気の冷たさに、空気が僅かに重くなったように感じられる。
例年よりもかなり遅い初氷が張った事を道すがらに知る。
神尾は歩くスピードを上げた。
頬が、吹き付けてくる風の冷たさに微かに痛む。
吐き出す息は霞のように神尾の視界を掠る。
気付いた時にはもう、神尾は走り出していた。
「……………」
本屋とカフェが同じフロアに併設されているビル前で待ち合わせをしている。
時間は、まだ充分に余裕がある。
でも神尾は走った。
怖い時間は短い方がいい。
去年と今年とでは、いろいろなものが違うけれど。
この寒さは、まるであの頃と同じもののように思えたから。
神尾は走って、本気で走って、ガラス張りのビルに辿りつく。
肩で息をつき、スノースプレーでクリスマスデコレーションされていてるビルの前でゆっくりと足を止める。
駐輪スペースも兼ねている場所だったが、この寒さのせいかあまり自転車は置かれていない。
「……………」
二十分前なのに。
跡部はそこにいた。
タイトなロングコートを着て、壁に寄りかかり、僅かに俯いている。
片足の足の裏を壁に当て、腕を組んで立っている。
コートが黒いので透けるように淡い髪の色がよく目立った。
そして神尾はその場に立ち竦むようにして、ただ跡部を見据えているしか出来ない。
寒さなどもう全く感じ取れない。
「……………」
神尾がそうやって立ち尽くしていると、ふと、跡部の顔が上がった。
神尾と目が合うと、跡部の双瞳が、ゆっくりと瞠られていく。
「……………」
すぐに跡部は神尾の元へやってきた。
長いコートの裾が翻ったのを見た後にはもう、跡部は神尾の目の前にいた。
「何で走ってくるんだ?」
「……………」
「時間…まだ余裕だろうが」
跡部が微かに笑い、神尾の耳へと手が伸ばされてくる。
固い、でも温かい手のひらに耳を覆われ、神尾はそこが痛いくらいに冷えていたことに気付かされた。
「跡部……」
何時に来たのかと問う声は、そっと遮られた。
跡部の手に今度は背を抱かれて、そのまま軽く抱き寄せられた。
跡部の仕草は自然で、露骨な感じはしなくて。
開かれているコートの前合わせの狭間、その中に包まれるように抱き込まれても。
そこにあるひどく肌触りの良い跡部の服の感触を感じ入るだけで、神尾はおとなしくしていた。
頬に当たった、薄いのにやわらかで、ふんわりとした跡部の衣服の感じが気持ちよくて。
もぐり込むように自然と、擦り寄る仕草をとってしまっていたことに神尾が気づいたのは、跡部のからかうような笑みが耳のすぐ近くで聞こえたからだ。
「何だよ。擦り寄ってきて。気に入ったのか、肌触り」
「………、…」
慌てて離れようとした時には、すでに跡部の指先が神尾の髪に埋められていた。
一層押し付けられるように抱き締められる。
「お前は何も着てない時の方が肌触り良いんじゃねえの」
「………っ…」
「褒めてんだよ」
「ゃ、…………」
「抱き締めたいって言ってる。逃げるんじゃねえよ」
ここまでくるとさすがに周囲の目が気になって、神尾はもがいた。
でも跡部は許してはくれなくて。
面白そうに喉の奥で低く笑っている。
その声がみんな神尾の耳に直接的に吹き込まれてくる。
「…、…あとべ…」
「ちっさい声だな」
吐息でも笑った跡部は、神尾の耳に唇を近づけ、囁いた。
神尾の名と、そして、短い言葉と。
「…………………」
その言葉を聞いた途端、神尾は息を止めてしまう。
強張った身体の感触はダイレクトに跡部へと伝わったようだった。
跡部の笑いが止む。
「…神尾」
「ウソツキ」
「……………」
その言葉だけは怖い。
ここに来るのに、走り出してしまったのと同じ理由で怖い。
跡部を好きで、跡部が好きで、だから跡部の口からその言葉を聞くと、神尾は逃げ出してくなる。
今年と去年は違う。
判っていても思い出しては怖くなる。
たった一年の間で、変わった出来事をつかまえきれなくて。
何も言わないでいいから、ただ構ってくれたらいいのだと、今の跡部が一番傷つく言葉が神尾の喉をついて出そうになる。
「……俺の自業自得だからな」
「………………」
「お前が判るまで言う」
やはり傷つけた。
跡部の口調は変わらないが、双瞳に宿るものを見てしまって神尾は唇を噛み締める。
ウソツキなんていう言葉も、本当は言いたくなかった。
でも。
自分が好きなだけでいい。
跡部は言わなくていい。
言わないで欲しい。
こわいから。
「………………」
何度も何度も執拗に思い出してばかりいる。
去年の今頃は、こういう風に。
同じように寒かったあの頃は。
神尾も、跡部も、判らないことばかりで、傷つけあってばかりで。
いつまでもそんな事を覚えている。
思い出したりする。
こういう振る舞いは傍からは鬱陶しいだけだろうに、跡部は投げ出さない。
見捨てない。
繰り返す。
好きだと。
「…………………」
その度にお互い、こんな気持ちになって唇を噛むのに。
跡部は繰り返す。
「好きだ」
一年前にたった一度、跡部はその言葉を口にして。
そして一瞬後には冷たく切り捨てて。
否定して。
神尾はその時から変われないものを胸に住まわせている。
判らなかったのだと、苦しげに吐き出し、跡部が神尾を力づくで抱き竦めたのはそれから大分経ってからのことだった。
神尾はその時も跡部の事を好きなままだったから、抱き締め返して、強く、好きだと、思ったけれど。
跡部がその言葉を口にするのだけは、怖かった。
また、すぐに否定されそうで、怖かった。
「お前をそうしたのは俺だ」
「…………………」
「もう、お前でしかいられないのも俺だ…」
「……跡部…」
一瞬、本気の力できつく抱き締められ、それからそっと抱擁から離される。
跡部の手は神尾の肩に置かれ、そのまま跡部は歩き出した。
肩を抱かれたまま歩く行為に戸惑って、神尾は思わず跡部を見上げてしまう。
「…………………」
今、跡部は、約束通りに姿を現す。
今、跡部は、神尾を好きだと言った言葉を否定しない。
今、跡部は、それなのに、自分は。
「…………………」
きっと何よりも望んでいる。
欲しがっている。
そんな言葉を、受け止められないで。
「跡部……好きだよ」
それでも自分の思いはいつも溢れ出しそうなほどで。
「………好きだ」
跡部の、声。
跡部からの言葉。
歩きながら、荒いキスと一緒に、神尾の唇にぶつけられる。
そしてそれはやはり痛いまま。
でもいつか。
いつかの、冬には。
笑って聞きたい。
怖がらないで聞きたい。
同じように、凍えるように、寒いいつかの冬の日には。
例年よりもかなり遅い初氷が張った事を道すがらに知る。
神尾は歩くスピードを上げた。
頬が、吹き付けてくる風の冷たさに微かに痛む。
吐き出す息は霞のように神尾の視界を掠る。
気付いた時にはもう、神尾は走り出していた。
「……………」
本屋とカフェが同じフロアに併設されているビル前で待ち合わせをしている。
時間は、まだ充分に余裕がある。
でも神尾は走った。
怖い時間は短い方がいい。
去年と今年とでは、いろいろなものが違うけれど。
この寒さは、まるであの頃と同じもののように思えたから。
神尾は走って、本気で走って、ガラス張りのビルに辿りつく。
肩で息をつき、スノースプレーでクリスマスデコレーションされていてるビルの前でゆっくりと足を止める。
駐輪スペースも兼ねている場所だったが、この寒さのせいかあまり自転車は置かれていない。
「……………」
二十分前なのに。
跡部はそこにいた。
タイトなロングコートを着て、壁に寄りかかり、僅かに俯いている。
片足の足の裏を壁に当て、腕を組んで立っている。
コートが黒いので透けるように淡い髪の色がよく目立った。
そして神尾はその場に立ち竦むようにして、ただ跡部を見据えているしか出来ない。
寒さなどもう全く感じ取れない。
「……………」
神尾がそうやって立ち尽くしていると、ふと、跡部の顔が上がった。
神尾と目が合うと、跡部の双瞳が、ゆっくりと瞠られていく。
「……………」
すぐに跡部は神尾の元へやってきた。
長いコートの裾が翻ったのを見た後にはもう、跡部は神尾の目の前にいた。
「何で走ってくるんだ?」
「……………」
「時間…まだ余裕だろうが」
跡部が微かに笑い、神尾の耳へと手が伸ばされてくる。
固い、でも温かい手のひらに耳を覆われ、神尾はそこが痛いくらいに冷えていたことに気付かされた。
「跡部……」
何時に来たのかと問う声は、そっと遮られた。
跡部の手に今度は背を抱かれて、そのまま軽く抱き寄せられた。
跡部の仕草は自然で、露骨な感じはしなくて。
開かれているコートの前合わせの狭間、その中に包まれるように抱き込まれても。
そこにあるひどく肌触りの良い跡部の服の感触を感じ入るだけで、神尾はおとなしくしていた。
頬に当たった、薄いのにやわらかで、ふんわりとした跡部の衣服の感じが気持ちよくて。
もぐり込むように自然と、擦り寄る仕草をとってしまっていたことに神尾が気づいたのは、跡部のからかうような笑みが耳のすぐ近くで聞こえたからだ。
「何だよ。擦り寄ってきて。気に入ったのか、肌触り」
「………、…」
慌てて離れようとした時には、すでに跡部の指先が神尾の髪に埋められていた。
一層押し付けられるように抱き締められる。
「お前は何も着てない時の方が肌触り良いんじゃねえの」
「………っ…」
「褒めてんだよ」
「ゃ、…………」
「抱き締めたいって言ってる。逃げるんじゃねえよ」
ここまでくるとさすがに周囲の目が気になって、神尾はもがいた。
でも跡部は許してはくれなくて。
面白そうに喉の奥で低く笑っている。
その声がみんな神尾の耳に直接的に吹き込まれてくる。
「…、…あとべ…」
「ちっさい声だな」
吐息でも笑った跡部は、神尾の耳に唇を近づけ、囁いた。
神尾の名と、そして、短い言葉と。
「…………………」
その言葉を聞いた途端、神尾は息を止めてしまう。
強張った身体の感触はダイレクトに跡部へと伝わったようだった。
跡部の笑いが止む。
「…神尾」
「ウソツキ」
「……………」
その言葉だけは怖い。
ここに来るのに、走り出してしまったのと同じ理由で怖い。
跡部を好きで、跡部が好きで、だから跡部の口からその言葉を聞くと、神尾は逃げ出してくなる。
今年と去年は違う。
判っていても思い出しては怖くなる。
たった一年の間で、変わった出来事をつかまえきれなくて。
何も言わないでいいから、ただ構ってくれたらいいのだと、今の跡部が一番傷つく言葉が神尾の喉をついて出そうになる。
「……俺の自業自得だからな」
「………………」
「お前が判るまで言う」
やはり傷つけた。
跡部の口調は変わらないが、双瞳に宿るものを見てしまって神尾は唇を噛み締める。
ウソツキなんていう言葉も、本当は言いたくなかった。
でも。
自分が好きなだけでいい。
跡部は言わなくていい。
言わないで欲しい。
こわいから。
「………………」
何度も何度も執拗に思い出してばかりいる。
去年の今頃は、こういう風に。
同じように寒かったあの頃は。
神尾も、跡部も、判らないことばかりで、傷つけあってばかりで。
いつまでもそんな事を覚えている。
思い出したりする。
こういう振る舞いは傍からは鬱陶しいだけだろうに、跡部は投げ出さない。
見捨てない。
繰り返す。
好きだと。
「…………………」
その度にお互い、こんな気持ちになって唇を噛むのに。
跡部は繰り返す。
「好きだ」
一年前にたった一度、跡部はその言葉を口にして。
そして一瞬後には冷たく切り捨てて。
否定して。
神尾はその時から変われないものを胸に住まわせている。
判らなかったのだと、苦しげに吐き出し、跡部が神尾を力づくで抱き竦めたのはそれから大分経ってからのことだった。
神尾はその時も跡部の事を好きなままだったから、抱き締め返して、強く、好きだと、思ったけれど。
跡部がその言葉を口にするのだけは、怖かった。
また、すぐに否定されそうで、怖かった。
「お前をそうしたのは俺だ」
「…………………」
「もう、お前でしかいられないのも俺だ…」
「……跡部…」
一瞬、本気の力できつく抱き締められ、それからそっと抱擁から離される。
跡部の手は神尾の肩に置かれ、そのまま跡部は歩き出した。
肩を抱かれたまま歩く行為に戸惑って、神尾は思わず跡部を見上げてしまう。
「…………………」
今、跡部は、約束通りに姿を現す。
今、跡部は、神尾を好きだと言った言葉を否定しない。
今、跡部は、それなのに、自分は。
「…………………」
きっと何よりも望んでいる。
欲しがっている。
そんな言葉を、受け止められないで。
「跡部……好きだよ」
それでも自分の思いはいつも溢れ出しそうなほどで。
「………好きだ」
跡部の、声。
跡部からの言葉。
歩きながら、荒いキスと一緒に、神尾の唇にぶつけられる。
そしてそれはやはり痛いまま。
でもいつか。
いつかの、冬には。
笑って聞きたい。
怖がらないで聞きたい。
同じように、凍えるように、寒いいつかの冬の日には。
PR
鳳の声は低いがなめらかで、語尾が優しい。
それで何か言った後は大抵ゆっくり微笑むから、一層優しく声が耳に残る。
「それで、子供の時にね、バンクーバーの街中でそいつに遭遇して」
話す内容は雑談だよなあ?と宍戸は心の中でふと思う。
それなのに鳳の声は睦言を口にしているようで。
宍戸をじっと見つめて。
微笑んでいて。
「トラだ!って指差したら、ネコだったんです」
「間違わねえだろ普通」
「え、間違いますよー。本当にトラかと思ったんですよ。アメリカって動物までもビッグサイズなんですって」
「それにしたってトラはねえだろうが」
「なくないですって。トラサイズのネコなんです。大袈裟に言ってるんじゃなくて、本当の話。怖かったです」
「…………………」
宍戸は、真剣な表情で言い募る鳳を見上げて微苦笑する。
大人っぽいかと思うと子供っぽい。
ひとつ年下の鳳のバランスは不均等だ。
でもそういう所に危うさがないのは、ひとえにその笑顔の効力だろうと宍戸は思う。
鳳の笑い顔は人を安心させる。
年上の宍戸ですらそうだ。
学校は休みの土曜日。
部活の為だけに出向いてきた今日は、いつも通る通学路も時間帯が普段とはずれていて、どことなく周囲の気配も目新しい。
それは学校の敷地内に足を踏み入れてからも言える事で、部室にもっと近づけばテニス部の面々がいるのは判っていても、今はまだ驚くほど人の気配がない。
「宍戸さん」
なんだよ、と歩きながら答えた宍戸は、そっと手を取られて足を止める。
「…………………」
指先だけ握り込んでくるような軽い接触は子供の仕草のようで。
しかし今宍戸の指先を包む手は、骨ばって、大きく、温かい。
指の長い、男の手だ。
「…………………」
あまりにもなめらかに、取られたその手を引かれる。
中庭の手前、日陰の校舎の壁に、そっと背中が当たった。
宍戸の視界を鳳が埋める。
宍戸にキスをしたがっている時の鳳は、普段よりも少しだけ強引になる。
鳳の影が顔にかかる。
昼間なのに、宍戸の視野は暗くなる。
宍戸はゆっくりと瞬いた。
このまま目を瞑ってしまう事は、キスを待つようで。
あからさますぎて。
宍戸にはとても出来ない所作だった。
軽く睫毛を伏せるようにしているのが精一杯だった。
「…………………」
しかし、いつもなら、かすめるようなキスが、とうに唇に触れている筈なのに。
何故か今日はなかなかそれがやってこなかった。
軽く目を伏せるようにしていた宍戸が、怪訝になって顔を上げると。
初めて、鳳にじっと見据えられていたその事実を知る。
「…………なに見てんだよ」
キスの前触れというにはあまりに強く見つめられ、宍戸は居心地の悪い思いで呟いた。
鳳の指先が宍戸の頬を軽く撫でる。
注がれる視線が一層強くなった気がした。
だから触れられた鳳の指先のせいではなく、宍戸はびくっと身体を竦ませる。
「宍戸さんは、キスされる前の顔もすごく綺麗」
「………、…アホ」
直向な眼差しと、一途な声と。
逃げ場がない。
「一瞬しか見られない顔だから、たまにはちゃんと見てみたいなって思ってたんです」
「………誰のせいだよ」
「すみません」
「…………………」
キスされる前の自分の顔なんて、宍戸には知りようもない。
そしてそれが一瞬しか存在しないのは、もどかしげに重なり、始まるっていくのがキスの常だからだ。
「本当に、こんなに綺麗な人……」
「……、……」
指先だけでなく、手のひらでも頬を撫でられ、宍戸は息を詰まらせる。
何度も何度も聞く言葉。
鳳は宍戸を見つめては、よくその言葉を口にする。
馬鹿なことと宍戸が否定すると、判らせる為の様に回数が増やされるから、最近では宍戸も意見をしなくなった。
でも、未だに、鳳のような男の口からその言葉が出てくる謂れが判らない。
繰り返し、繰り返し。
「………見飽きろよ……いい加減」
「物凄い無茶なこと言いますね…宍戸さん」
「……真面目な顔して言うな」
「真面目なんですよ」
「………、…っ…」
今度こそ本当にキスしそうなまで近づいて。
しかし鳳は唇を重ねては来ない。
キスの距離で、熱のこもった目で、宍戸を見据えてくる。
大きな手に包まれた頬、息もかかりそうな距離。
そんな鳳の存在だけで、宍戸はくらくらした。
息苦しくてどうにかなりそうだった。
「…………………」
「………さっさとしろ!アホ!」
「俺も、限界……」
羞恥とか限界にだとか、様々な事に耐えかねた宍戸の罵声に、はい、とおとなしく頷いて。
大人びた深いキスで唇を重ねてきた鳳の背を宍戸は抱き締める。
ぎりぎりまで堪えたような熱をぶつけるようなキスに唇が痺れる。
何度もやわらかく噛まれて、宍戸は馬鹿みたいに膝が震えるのを持て余した。
いったいどれだけ我慢してたんだと問いたくなるような熱っぽいキスだった。
濡れて、擦られて、やわらかく赤くなった唇を、執拗に貪られる。
すでに人目を盗むようなレベルのキスではなくなっていて、宍戸は自分に深く覆い被さってくる鳳の背を咎めるように叩いた。
「ん…っ…、……っ…」
「…………………」
キスは一層激しくなっただけだった。
「……、……ッ…」
「………宍戸さん」
「お前、……っ………」
「誘うから。宍戸さんが」
「……って…ね……!」
何て言い草だと鳳を睨み付けたものの、思う程には視線がきつくならないのは宍戸自身が誰よりもよく判っていた。
「……綺麗」
「…、……っだから……!」
「宍戸さんは俺に見飽きろって言いますけど……宍戸さんは聞き飽きないんですか…?」
「、……そん…、無……」
「…同じじゃないですか」
「………っ……」
宍戸の視界は再び。
鳳の笑顔が溶けた闇で埋められた。
それで何か言った後は大抵ゆっくり微笑むから、一層優しく声が耳に残る。
「それで、子供の時にね、バンクーバーの街中でそいつに遭遇して」
話す内容は雑談だよなあ?と宍戸は心の中でふと思う。
それなのに鳳の声は睦言を口にしているようで。
宍戸をじっと見つめて。
微笑んでいて。
「トラだ!って指差したら、ネコだったんです」
「間違わねえだろ普通」
「え、間違いますよー。本当にトラかと思ったんですよ。アメリカって動物までもビッグサイズなんですって」
「それにしたってトラはねえだろうが」
「なくないですって。トラサイズのネコなんです。大袈裟に言ってるんじゃなくて、本当の話。怖かったです」
「…………………」
宍戸は、真剣な表情で言い募る鳳を見上げて微苦笑する。
大人っぽいかと思うと子供っぽい。
ひとつ年下の鳳のバランスは不均等だ。
でもそういう所に危うさがないのは、ひとえにその笑顔の効力だろうと宍戸は思う。
鳳の笑い顔は人を安心させる。
年上の宍戸ですらそうだ。
学校は休みの土曜日。
部活の為だけに出向いてきた今日は、いつも通る通学路も時間帯が普段とはずれていて、どことなく周囲の気配も目新しい。
それは学校の敷地内に足を踏み入れてからも言える事で、部室にもっと近づけばテニス部の面々がいるのは判っていても、今はまだ驚くほど人の気配がない。
「宍戸さん」
なんだよ、と歩きながら答えた宍戸は、そっと手を取られて足を止める。
「…………………」
指先だけ握り込んでくるような軽い接触は子供の仕草のようで。
しかし今宍戸の指先を包む手は、骨ばって、大きく、温かい。
指の長い、男の手だ。
「…………………」
あまりにもなめらかに、取られたその手を引かれる。
中庭の手前、日陰の校舎の壁に、そっと背中が当たった。
宍戸の視界を鳳が埋める。
宍戸にキスをしたがっている時の鳳は、普段よりも少しだけ強引になる。
鳳の影が顔にかかる。
昼間なのに、宍戸の視野は暗くなる。
宍戸はゆっくりと瞬いた。
このまま目を瞑ってしまう事は、キスを待つようで。
あからさますぎて。
宍戸にはとても出来ない所作だった。
軽く睫毛を伏せるようにしているのが精一杯だった。
「…………………」
しかし、いつもなら、かすめるようなキスが、とうに唇に触れている筈なのに。
何故か今日はなかなかそれがやってこなかった。
軽く目を伏せるようにしていた宍戸が、怪訝になって顔を上げると。
初めて、鳳にじっと見据えられていたその事実を知る。
「…………なに見てんだよ」
キスの前触れというにはあまりに強く見つめられ、宍戸は居心地の悪い思いで呟いた。
鳳の指先が宍戸の頬を軽く撫でる。
注がれる視線が一層強くなった気がした。
だから触れられた鳳の指先のせいではなく、宍戸はびくっと身体を竦ませる。
「宍戸さんは、キスされる前の顔もすごく綺麗」
「………、…アホ」
直向な眼差しと、一途な声と。
逃げ場がない。
「一瞬しか見られない顔だから、たまにはちゃんと見てみたいなって思ってたんです」
「………誰のせいだよ」
「すみません」
「…………………」
キスされる前の自分の顔なんて、宍戸には知りようもない。
そしてそれが一瞬しか存在しないのは、もどかしげに重なり、始まるっていくのがキスの常だからだ。
「本当に、こんなに綺麗な人……」
「……、……」
指先だけでなく、手のひらでも頬を撫でられ、宍戸は息を詰まらせる。
何度も何度も聞く言葉。
鳳は宍戸を見つめては、よくその言葉を口にする。
馬鹿なことと宍戸が否定すると、判らせる為の様に回数が増やされるから、最近では宍戸も意見をしなくなった。
でも、未だに、鳳のような男の口からその言葉が出てくる謂れが判らない。
繰り返し、繰り返し。
「………見飽きろよ……いい加減」
「物凄い無茶なこと言いますね…宍戸さん」
「……真面目な顔して言うな」
「真面目なんですよ」
「………、…っ…」
今度こそ本当にキスしそうなまで近づいて。
しかし鳳は唇を重ねては来ない。
キスの距離で、熱のこもった目で、宍戸を見据えてくる。
大きな手に包まれた頬、息もかかりそうな距離。
そんな鳳の存在だけで、宍戸はくらくらした。
息苦しくてどうにかなりそうだった。
「…………………」
「………さっさとしろ!アホ!」
「俺も、限界……」
羞恥とか限界にだとか、様々な事に耐えかねた宍戸の罵声に、はい、とおとなしく頷いて。
大人びた深いキスで唇を重ねてきた鳳の背を宍戸は抱き締める。
ぎりぎりまで堪えたような熱をぶつけるようなキスに唇が痺れる。
何度もやわらかく噛まれて、宍戸は馬鹿みたいに膝が震えるのを持て余した。
いったいどれだけ我慢してたんだと問いたくなるような熱っぽいキスだった。
濡れて、擦られて、やわらかく赤くなった唇を、執拗に貪られる。
すでに人目を盗むようなレベルのキスではなくなっていて、宍戸は自分に深く覆い被さってくる鳳の背を咎めるように叩いた。
「ん…っ…、……っ…」
「…………………」
キスは一層激しくなっただけだった。
「……、……ッ…」
「………宍戸さん」
「お前、……っ………」
「誘うから。宍戸さんが」
「……って…ね……!」
何て言い草だと鳳を睨み付けたものの、思う程には視線がきつくならないのは宍戸自身が誰よりもよく判っていた。
「……綺麗」
「…、……っだから……!」
「宍戸さんは俺に見飽きろって言いますけど……宍戸さんは聞き飽きないんですか…?」
「、……そん…、無……」
「…同じじゃないですか」
「………っ……」
宍戸の視界は再び。
鳳の笑顔が溶けた闇で埋められた。
あまり繰り返してばかりいるのも信用性に欠けるだろうかと、乾も一時、迷いはしたけれど。
「海堂」
己の腕に抱き締めて、その名を呼べる悦楽に、抗えない。
「好きだ」
そう口にする時の高揚感、その都度見たことのない表情を晒す海堂を、望む欲求は凌げない。
浴びせかけるように囁き続け、抱き締め続け、逃げようとする海堂を決して離さず繰り返していると、時期に海堂は、乾の腕の中で大人しくなる。
こうなるまでには、ある程度の時間が必要だけれど。
その時間は乾にとって決して苦痛ではなかった。
寧ろ欣喜だ。
「……海堂」
「………………」
腕の中におさまる海堂をそっと見下ろして囁きかける乾の視界で、海堂は少し赤い目元に震える睫毛の影を落とす。
「好きだ……」
「…………わ……かったから…」
戸惑って、力の無くなる声。
「…好きだよ」
「……っ…、……!」
怒って荒くなる気配。
それらが全て、乾にはとろりと甘く感じられる。
乾が笑みを深めるのを、何だか悔しそうに海堂は睨みつけてくる。
何が悔しいの?と寧ろ相手に対しての敗北感なら余程強い乾が、腕の中の海堂を軽く揺らす。
顔を近づけて。
海堂?と囁けば。
「……わかったって、言ってんだろ……っ…」
好きだと乾が繰り返し口にするのが、いったいどれほど海堂の心中を乱すのか。
震え出しそうに混乱している海堂の困惑が愛しいと思う。
知らない表情ばかりを次々見せられ、乾は海堂の頬に指先を這わせ、その表情に更に近づいた。
「口説くのはお一人様一回限りなんて…誰が決めたんだ?」
「………、……」
「言いたいんだ何度でも」
極軽く唇を重ねてから両腕できつく海堂を抱き締める。
繰り返し、繰り返し、その体勢で乾が囁けば。
海堂の手が乾の背のシャツを、きゅっと握り込んだのが気配で判る。
「……海堂?」
「俺は……」
「………ん…?」
少しだけ身体を離して乾が見下ろす先で、海堂は小さく息をつき、そして顔を上向けてくる。
「……………」
躊躇っても、まっすぐに。
見つめてくる目が自分を見ているということに、乾は体験したことのない深い充足感で満たされる。
きつい、眼差しは。
真摯だ。
「俺と一緒にいること、後悔させない」
「……海堂」
「そういう風に、思ってる」
「ありがとう」
「…………………」
礼なら俺が言いたいと、至極真面目な小さな声で海堂は言った。
「…………………」
心からの感謝を、焦がれるようにしたくなる程の存在は、乾の腕にあつらえられたもののように収まっている。
「好きだ……」
耐えかねたような。
呻く声音でまた繰り返し囁く乾の背を、海堂の両腕が、しっかりと抱き締め返してくる。
「俺なんかに惚れて…馬鹿だアンタ」
ぶっきらぼうな声の中に、一滴ぽつんと落とされた海堂の感情は。
一瞬で波紋を描いて水面を染めた、見目鮮やかな色インクのように乾へと伝わってくる。
甘く苦しむ海堂の含羞みの色は。
声だけでなく。
襟足の髪が零れて露になった海堂の項をも、ほんのりと甘い色に染め上げていた。
「海堂」
己の腕に抱き締めて、その名を呼べる悦楽に、抗えない。
「好きだ」
そう口にする時の高揚感、その都度見たことのない表情を晒す海堂を、望む欲求は凌げない。
浴びせかけるように囁き続け、抱き締め続け、逃げようとする海堂を決して離さず繰り返していると、時期に海堂は、乾の腕の中で大人しくなる。
こうなるまでには、ある程度の時間が必要だけれど。
その時間は乾にとって決して苦痛ではなかった。
寧ろ欣喜だ。
「……海堂」
「………………」
腕の中におさまる海堂をそっと見下ろして囁きかける乾の視界で、海堂は少し赤い目元に震える睫毛の影を落とす。
「好きだ……」
「…………わ……かったから…」
戸惑って、力の無くなる声。
「…好きだよ」
「……っ…、……!」
怒って荒くなる気配。
それらが全て、乾にはとろりと甘く感じられる。
乾が笑みを深めるのを、何だか悔しそうに海堂は睨みつけてくる。
何が悔しいの?と寧ろ相手に対しての敗北感なら余程強い乾が、腕の中の海堂を軽く揺らす。
顔を近づけて。
海堂?と囁けば。
「……わかったって、言ってんだろ……っ…」
好きだと乾が繰り返し口にするのが、いったいどれほど海堂の心中を乱すのか。
震え出しそうに混乱している海堂の困惑が愛しいと思う。
知らない表情ばかりを次々見せられ、乾は海堂の頬に指先を這わせ、その表情に更に近づいた。
「口説くのはお一人様一回限りなんて…誰が決めたんだ?」
「………、……」
「言いたいんだ何度でも」
極軽く唇を重ねてから両腕できつく海堂を抱き締める。
繰り返し、繰り返し、その体勢で乾が囁けば。
海堂の手が乾の背のシャツを、きゅっと握り込んだのが気配で判る。
「……海堂?」
「俺は……」
「………ん…?」
少しだけ身体を離して乾が見下ろす先で、海堂は小さく息をつき、そして顔を上向けてくる。
「……………」
躊躇っても、まっすぐに。
見つめてくる目が自分を見ているということに、乾は体験したことのない深い充足感で満たされる。
きつい、眼差しは。
真摯だ。
「俺と一緒にいること、後悔させない」
「……海堂」
「そういう風に、思ってる」
「ありがとう」
「…………………」
礼なら俺が言いたいと、至極真面目な小さな声で海堂は言った。
「…………………」
心からの感謝を、焦がれるようにしたくなる程の存在は、乾の腕にあつらえられたもののように収まっている。
「好きだ……」
耐えかねたような。
呻く声音でまた繰り返し囁く乾の背を、海堂の両腕が、しっかりと抱き締め返してくる。
「俺なんかに惚れて…馬鹿だアンタ」
ぶっきらぼうな声の中に、一滴ぽつんと落とされた海堂の感情は。
一瞬で波紋を描いて水面を染めた、見目鮮やかな色インクのように乾へと伝わってくる。
甘く苦しむ海堂の含羞みの色は。
声だけでなく。
襟足の髪が零れて露になった海堂の項をも、ほんのりと甘い色に染め上げていた。
跡部が鳳に声をかけたのは、そこに宍戸の姿がなかったからだ。
「おい」
「……部長」
最低限の照明を使うにとどめた暗がりのテニスコート。
振り返った鳳を跡部に気付いて目を瞠る。
構わずに跡部はフェンス越しから鳳を見据えた。
「意味があってやってる事なら迷ってんじゃねえ」
「…………………」
ラケットを持たない宍戸に鳳が部内最速を誇るスカッドサーブを打ち続けていた。
身体でも顔でも構わずに、その重い球威のテニスボールを受け止めている宍戸は、夜目にも明らかに傷を負っていた。
そんな光景を闇に紛れる様にして見続けた跡部が、選んで声をかけたのは鳳だった。
宍戸は、こういう光景を、跡部には絶対に見られたくない男だと判っていたし。
宍戸が不動峰との試合に負けた際、跡部はその事実に驚いただけで、宍戸のレギュラー落ちに対しては過剰な危惧も感慨も抱いてはいなかった。
そこで終わる男と思っていなかったからだ。
「鳳」
「……判ってます。迷ってるわけじゃありません」
宍戸が去った後もコートに残り、傷ましい顔をしていた鳳は。
跡部に気付くと穏やかに凪いだ表情で、ゆっくりと跡部に近づいてきた。
「は、…どうだか?」
「宍戸さんが決めた事ですから」
「あれに意味があるって事か」
「はい」
フェンス越しに、跡部は自分よりも上背のある後輩のことを、腕を組んで見上げた。
「それにしちゃ、ひでぇツラだな。お前」
「……あんなに強くて、あんなに綺麗な人、初めてなんです」
痛みを内に包む微笑を浮かべ、鳳は静かに言った。
「どれだけ宍戸を好きなんだお前は」
呆れた声で言い、跡部が溜息を零しても。
鳳は痛んでいる目で、しかし幸福そうに笑う。
「言葉があればいいんですけどね」
この気持ちに見合うだけの言葉。
鳳はそう呟いて。
「……部長は言えないなんて事なさそうですね」
「あん?」
「言葉が追いつかない感情なんてありますか?」
「ねえよ。その高度な言葉を理解出来ねえ馬鹿ならいるがな」
「馬鹿…ですか」
面食らったような顔をする鳳に、跡部は荒く前髪をかきあげた。
「ああ馬鹿だ。優しくしてやりゃ怖がって、仄めかす程度で匂わせれば気付きもしない。言葉が判らないから態度で表せば曲解して一人で怒るか泣き出すかする有様だ。救い様がねえ」
「はあ……」
「初心者仕様で抱いてやりゃおもちゃみたいにして遊んでるって泣く。本気で抱けばものの五分で号泣だ。いかれてるとしか言いようがねえよ。あんな馬鹿」
「あの……」
「口説かれ下手の、傷つき上手ときた。本当に頭くるぜ。ったく。あんな奴は一生俺でめちゃめちゃになってりゃいい」
「…………」
「何か言いたそうなツラしてるな…何だよ?」
「いえ……ノロケる部長を初めて見たもので少々びっくり……」
「は? お前も馬鹿か? どこ見てノロケとか言いやがる」
侮蔑するような跡部のきつい口調に全く怯む様子もなく、寧ろ笑みを深めて鳳は言った。
「いつか、紹介して下さいね」
「するか馬鹿」
「大丈夫です」
「何が」
「俺は宍戸さんに夢中ですから。取りませんよ」
「………てめえ…」
からかうでもなく微笑み続ける鳳は結構逞しい。
跡部は鳳を睨み据えながら呆れた。
「人のこと言える立場か。お前が」
口が悪くて近寄りがたく、容赦ない物言いをするのに。
基本的に人に優しく、ひどく面倒見の良い宍戸を、慕って集まる輩は多い。
「取られません。絶対に。俺がこれから生きていくのが本当に辛くなるようなそんなこと、誰にもさせないです」
「生きていけないとは言わないんだな」
そういう鳳なら、宍戸は大丈夫だ。
跡部はそう思う。
そして、一方で。
自分は。
自分がいなくなったら、生きていけない、というくらい。
欲しがられないと、気がすまない。
虚勢ばかり張る、あの馬鹿な恋人に。
自分と同じにしてやらないと。
気がすまない。
「おい」
「……部長」
最低限の照明を使うにとどめた暗がりのテニスコート。
振り返った鳳を跡部に気付いて目を瞠る。
構わずに跡部はフェンス越しから鳳を見据えた。
「意味があってやってる事なら迷ってんじゃねえ」
「…………………」
ラケットを持たない宍戸に鳳が部内最速を誇るスカッドサーブを打ち続けていた。
身体でも顔でも構わずに、その重い球威のテニスボールを受け止めている宍戸は、夜目にも明らかに傷を負っていた。
そんな光景を闇に紛れる様にして見続けた跡部が、選んで声をかけたのは鳳だった。
宍戸は、こういう光景を、跡部には絶対に見られたくない男だと判っていたし。
宍戸が不動峰との試合に負けた際、跡部はその事実に驚いただけで、宍戸のレギュラー落ちに対しては過剰な危惧も感慨も抱いてはいなかった。
そこで終わる男と思っていなかったからだ。
「鳳」
「……判ってます。迷ってるわけじゃありません」
宍戸が去った後もコートに残り、傷ましい顔をしていた鳳は。
跡部に気付くと穏やかに凪いだ表情で、ゆっくりと跡部に近づいてきた。
「は、…どうだか?」
「宍戸さんが決めた事ですから」
「あれに意味があるって事か」
「はい」
フェンス越しに、跡部は自分よりも上背のある後輩のことを、腕を組んで見上げた。
「それにしちゃ、ひでぇツラだな。お前」
「……あんなに強くて、あんなに綺麗な人、初めてなんです」
痛みを内に包む微笑を浮かべ、鳳は静かに言った。
「どれだけ宍戸を好きなんだお前は」
呆れた声で言い、跡部が溜息を零しても。
鳳は痛んでいる目で、しかし幸福そうに笑う。
「言葉があればいいんですけどね」
この気持ちに見合うだけの言葉。
鳳はそう呟いて。
「……部長は言えないなんて事なさそうですね」
「あん?」
「言葉が追いつかない感情なんてありますか?」
「ねえよ。その高度な言葉を理解出来ねえ馬鹿ならいるがな」
「馬鹿…ですか」
面食らったような顔をする鳳に、跡部は荒く前髪をかきあげた。
「ああ馬鹿だ。優しくしてやりゃ怖がって、仄めかす程度で匂わせれば気付きもしない。言葉が判らないから態度で表せば曲解して一人で怒るか泣き出すかする有様だ。救い様がねえ」
「はあ……」
「初心者仕様で抱いてやりゃおもちゃみたいにして遊んでるって泣く。本気で抱けばものの五分で号泣だ。いかれてるとしか言いようがねえよ。あんな馬鹿」
「あの……」
「口説かれ下手の、傷つき上手ときた。本当に頭くるぜ。ったく。あんな奴は一生俺でめちゃめちゃになってりゃいい」
「…………」
「何か言いたそうなツラしてるな…何だよ?」
「いえ……ノロケる部長を初めて見たもので少々びっくり……」
「は? お前も馬鹿か? どこ見てノロケとか言いやがる」
侮蔑するような跡部のきつい口調に全く怯む様子もなく、寧ろ笑みを深めて鳳は言った。
「いつか、紹介して下さいね」
「するか馬鹿」
「大丈夫です」
「何が」
「俺は宍戸さんに夢中ですから。取りませんよ」
「………てめえ…」
からかうでもなく微笑み続ける鳳は結構逞しい。
跡部は鳳を睨み据えながら呆れた。
「人のこと言える立場か。お前が」
口が悪くて近寄りがたく、容赦ない物言いをするのに。
基本的に人に優しく、ひどく面倒見の良い宍戸を、慕って集まる輩は多い。
「取られません。絶対に。俺がこれから生きていくのが本当に辛くなるようなそんなこと、誰にもさせないです」
「生きていけないとは言わないんだな」
そういう鳳なら、宍戸は大丈夫だ。
跡部はそう思う。
そして、一方で。
自分は。
自分がいなくなったら、生きていけない、というくらい。
欲しがられないと、気がすまない。
虚勢ばかり張る、あの馬鹿な恋人に。
自分と同じにしてやらないと。
気がすまない。
いい靴をはいていると、その靴がお気に入りの場所にいざなう。
それは鳳の父親の口癖だった。
異国の地では、昔ながらにそう言い伝えられているという。
鳳が氷帝学園の中等部に進学すると、オーダーメイドで靴をあしらえてくれた父親に、鳳はどうせすぐに履けなくなってしまうかもしれないのにと内心で思った。
成長期の兆しを自覚していたからだ。
しかし、その靴を履いて出向いた入学式で。
鳳は、父親の言葉を借りるなら、その靴にまさに、いざなわれたのだ。
葉桜の葉擦れの音。
長い髪が風に流れ、制服姿で立っていた人。
テニスコートに。
出会えた人が、そこにいた。
「……、…おい……!…長太郎!」
歯切れの良い大声に名を呼ばれ、鳳は目を見張った。
「……宍戸さん」
「………ったく……宍戸さん、じゃねーだろーが……!」
回想の中にいた人と同一人物でありながら、もうあの長い髪は今の彼にはない。
しかし、その代わりに、あの時とは違って、今は鳳の名前を口にする彼がいる。
「………………」
宍戸を見下ろす角度が、また大きくなった気がする。
顎の尖った小さな顔に指を伸ばしたい衝動を抑えるのもいつものこと。
きつい眼差しに見惚れて、清冽な声に気を取られて、宍戸が居心地悪そうな顔をするまで無言で見つめてしまうのも。
自覚はしているのだが、どうにも制御しきれない。
「おい」
宍戸に、ぐっと胸倉を掴まれて、鳳は僅かに前のめりになる。
ひどくなめらかな宍戸の肌が鳳の視界を埋めて、これだけ近づいても綺麗なままだなんていったいどういう人なんだろうと鳳は思った。
「長太郎」
「はい」
「お前」
軽く首を反らせる様にして。
宍戸が鳳の耳元に唇を近づけてきた。
その気配と、囁かれるような声に、鳳は思わず息を詰める。
そのうえ、言われた言葉が。
「俺が欲しいだろ?」
「………、…え?」
「え?じゃねーっての…! 物欲しそうな顔で散々人のこと見ておいて間抜けな返事すんな!」
「物欲しそ…って……宍戸さん……!」
さすがに鳳は慌てた。
隠していたつもりの気持ちなのだ。
それをこれほどあっさりと言い当てられては溜まらない。
しかし。
「違うのか?」
真直ぐな目線で問いかけられれば、鳳の出来る事はひとつだけしかない。
「違いません」
至極真面目に首を振り、否定するだけだ。
その返答に宍戸は満足したらしかった。
軽く笑った。
「…………………」
至近距離から与えられたその表情は、鳳の目には甘すぎるほど甘く映った。
痛いような思いで目を眇めた鳳に、更に顔を近づけ。
宍戸はひそめた声で言った。
「お前のものになってやる」
「……、…宍戸さん…?」
「聞こえなかったのか? もう一度言うか?」
「あの、………」
「お前のものになってやる」
だから、と宍戸の拳が。
幾分手荒に、鳳の胸を、どん、と叩く。
互いの距離がそれで離れた。
「試合に集中しろアホ!」
「な、………」
そう、試合中なのだ。
部内の練習試合だが、確かに今は試合中。
「ちょ……冗談……なんですか? 今の?」
「ああもう、うるせ。さっさと打てっ」
「宍戸さんっ」
「そういうツラすんな! それからフォルトになるたんびに俺の顔を伺うな!」
「宍戸さんってば…!」
鳳が構わず詰め寄ると、宍戸はラケットを持っていないほうの手を額に当てて、何事か嘆くような声で呟いた。
「………んだよ。すっきりするんじゃねえのか普通」
「……はい?」
「お前がぐだぐだ考えてること解決してやったろうが。もういいから、とにかく試合に集中しろっての」
あっちのダブルスがうるせーだろ、とうんざりした様子で宍戸が言うまで、鳳は相手コートから投げられるブーイングに気付かなかった。
「この…っ……そこの…にわかダブルスー! いい加減真面目にやれっ!」
「岳人……今日ばかりはその気持ち、俺にも痛いほど判るで……」
「おう、お前も言ってやれ侑士! 罵っていい! 俺が許す! あの新米バカップルダブルス!!」
地団駄踏んでは飛び上がって怒っている向日と、大仰に嘆き憂いでいる忍足の、氷帝ダブルス1の有様に。
殆ど同調しているかのような態度の宍戸に、冷たくあしらわれるようにして鳳はサーブの構えを取る。
先程の出来事は何だったんだろうか、夢か幻だったんだろうかと、意気消沈する鳳の耳に、宍戸の小さな声が届く。
小さくて、ぶっきらぼうな声。
「…おい。後でちゃんと言えよ」
「何をですか?」
思わず宍戸を振り返った鳳は、そこに、初めて見るような表情の宍戸を見つける。
「宍戸さん?」
「好きって言え!」
はしょるな、そういうの!と不機嫌そうに言った宍戸の、薄赤い目元にくらくらして。
鳳は黙り込んだ。
返事もそこそこにサーブを打つ。
このばかぢからぁっ!とまたも激高した向日の声が聞こえた気もしたが、ひとまずこの時の鳳は。
一刻も早く試合を終わらせるべく、向日が後に名づけた殺人サーブを、連打していくだけであった。
それは鳳の父親の口癖だった。
異国の地では、昔ながらにそう言い伝えられているという。
鳳が氷帝学園の中等部に進学すると、オーダーメイドで靴をあしらえてくれた父親に、鳳はどうせすぐに履けなくなってしまうかもしれないのにと内心で思った。
成長期の兆しを自覚していたからだ。
しかし、その靴を履いて出向いた入学式で。
鳳は、父親の言葉を借りるなら、その靴にまさに、いざなわれたのだ。
葉桜の葉擦れの音。
長い髪が風に流れ、制服姿で立っていた人。
テニスコートに。
出会えた人が、そこにいた。
「……、…おい……!…長太郎!」
歯切れの良い大声に名を呼ばれ、鳳は目を見張った。
「……宍戸さん」
「………ったく……宍戸さん、じゃねーだろーが……!」
回想の中にいた人と同一人物でありながら、もうあの長い髪は今の彼にはない。
しかし、その代わりに、あの時とは違って、今は鳳の名前を口にする彼がいる。
「………………」
宍戸を見下ろす角度が、また大きくなった気がする。
顎の尖った小さな顔に指を伸ばしたい衝動を抑えるのもいつものこと。
きつい眼差しに見惚れて、清冽な声に気を取られて、宍戸が居心地悪そうな顔をするまで無言で見つめてしまうのも。
自覚はしているのだが、どうにも制御しきれない。
「おい」
宍戸に、ぐっと胸倉を掴まれて、鳳は僅かに前のめりになる。
ひどくなめらかな宍戸の肌が鳳の視界を埋めて、これだけ近づいても綺麗なままだなんていったいどういう人なんだろうと鳳は思った。
「長太郎」
「はい」
「お前」
軽く首を反らせる様にして。
宍戸が鳳の耳元に唇を近づけてきた。
その気配と、囁かれるような声に、鳳は思わず息を詰める。
そのうえ、言われた言葉が。
「俺が欲しいだろ?」
「………、…え?」
「え?じゃねーっての…! 物欲しそうな顔で散々人のこと見ておいて間抜けな返事すんな!」
「物欲しそ…って……宍戸さん……!」
さすがに鳳は慌てた。
隠していたつもりの気持ちなのだ。
それをこれほどあっさりと言い当てられては溜まらない。
しかし。
「違うのか?」
真直ぐな目線で問いかけられれば、鳳の出来る事はひとつだけしかない。
「違いません」
至極真面目に首を振り、否定するだけだ。
その返答に宍戸は満足したらしかった。
軽く笑った。
「…………………」
至近距離から与えられたその表情は、鳳の目には甘すぎるほど甘く映った。
痛いような思いで目を眇めた鳳に、更に顔を近づけ。
宍戸はひそめた声で言った。
「お前のものになってやる」
「……、…宍戸さん…?」
「聞こえなかったのか? もう一度言うか?」
「あの、………」
「お前のものになってやる」
だから、と宍戸の拳が。
幾分手荒に、鳳の胸を、どん、と叩く。
互いの距離がそれで離れた。
「試合に集中しろアホ!」
「な、………」
そう、試合中なのだ。
部内の練習試合だが、確かに今は試合中。
「ちょ……冗談……なんですか? 今の?」
「ああもう、うるせ。さっさと打てっ」
「宍戸さんっ」
「そういうツラすんな! それからフォルトになるたんびに俺の顔を伺うな!」
「宍戸さんってば…!」
鳳が構わず詰め寄ると、宍戸はラケットを持っていないほうの手を額に当てて、何事か嘆くような声で呟いた。
「………んだよ。すっきりするんじゃねえのか普通」
「……はい?」
「お前がぐだぐだ考えてること解決してやったろうが。もういいから、とにかく試合に集中しろっての」
あっちのダブルスがうるせーだろ、とうんざりした様子で宍戸が言うまで、鳳は相手コートから投げられるブーイングに気付かなかった。
「この…っ……そこの…にわかダブルスー! いい加減真面目にやれっ!」
「岳人……今日ばかりはその気持ち、俺にも痛いほど判るで……」
「おう、お前も言ってやれ侑士! 罵っていい! 俺が許す! あの新米バカップルダブルス!!」
地団駄踏んでは飛び上がって怒っている向日と、大仰に嘆き憂いでいる忍足の、氷帝ダブルス1の有様に。
殆ど同調しているかのような態度の宍戸に、冷たくあしらわれるようにして鳳はサーブの構えを取る。
先程の出来事は何だったんだろうか、夢か幻だったんだろうかと、意気消沈する鳳の耳に、宍戸の小さな声が届く。
小さくて、ぶっきらぼうな声。
「…おい。後でちゃんと言えよ」
「何をですか?」
思わず宍戸を振り返った鳳は、そこに、初めて見るような表情の宍戸を見つける。
「宍戸さん?」
「好きって言え!」
はしょるな、そういうの!と不機嫌そうに言った宍戸の、薄赤い目元にくらくらして。
鳳は黙り込んだ。
返事もそこそこにサーブを打つ。
このばかぢからぁっ!とまたも激高した向日の声が聞こえた気もしたが、ひとまずこの時の鳳は。
一刻も早く試合を終わらせるべく、向日が後に名づけた殺人サーブを、連打していくだけであった。
ものすごい勢いで走ってきた乾に、さらわれるように抱き締められたのには、心底面食らった。
海堂は、まず呆気にとられ、それから硬直し、最後に赤くなった。
「ちょ……、…」
漸く海堂がそんな言葉を発する事が出来たのは。
乾に抱きしめられてから、どれくらい経った頃だったか。
「…、…先輩…」
いきなりストリートテニス場で乾に抱き締められている状況もつかめないでいる海堂は、まして周囲にチームメイトがいるのに気付くと一層激しく混乱した。
何故こんな所で、こんな真似、と視線を泳がせる。
乾は離れない。
「薫ちゃーん。もう少しそうしておいてあげなってばー」
「……、…菊丸先輩?」
「そうだぜマムシ。お前、乾先輩にどれだけ心配かけたか判ってんのかよ?」
「な、…桃城…っ…」
「よかったなあ海堂。記憶が戻って」
「記憶……って……あの、大石先輩、」
「裕太と二人で猫二匹って感じだったね。可愛かったよ。海堂」
「ね、…!…不二先輩…何言っ…」
「乾に、きちんと医者に連れて行ってもらえよ?」
「河村先輩」
乾に抱き締められながら次々かけられる言葉に、しどろもどろになっている海堂は、最後にふと、越前の物言いたげな視線に気をとられる。
「おい……?」
「…………………」
ただ一人、じっと海堂を見ているだけだった越前は、普段の不敵な笑みや不遜な態度は欠片も見せず、トレードマークの帽子を手で取って一礼した。
「越前?」
アリガトウゴザイマシタ、と聞こえた気がして海堂は呼びかけたのだが。
越前は、海堂の見慣れない表情をするだけだった。
先輩も同級生も後輩も、結局それで全員連れ立って帰っていってしまい、海堂は今尚自身を抱き締め続ける乾と二人、その場に取り残される。
「…………先輩」
「うん?」
「………誰か一人くらい状況説明してくれたっていいんじゃねえっすか…」
何がどうなって、それでこうなのかと。
海堂は大きな溜息を吐き出す。
実は未だに乾に抱き締められているのだが、人目がなくなった分いくらか気が落ち着いて。
海堂は乾の固い背中を、ゆるく握りこんだ拳で軽く叩いた。
促すように。
「………………」
「桃がフレームで打ち損じたダンクが、越前に向かって飛んできて……海堂が越前を庇って、そのショックで記憶喪失だ。……思い出したか?」
落ち着いた乾の声に引き出されるように。
海堂の記憶に、越前の顔が浮かんできた。
「……記憶…喪失」
「そうだ。お前、なんにも覚えてなかったんだぞ」
「…………え…?」
耳馴染みはいい言葉だが、実体験を見たり聞いたりした事は一度もない記憶喪失とやらに自分がなっていたらしいと知らされて。
海堂は正直呆気にとられた。
ところがどうも、乾は腑に落ちない事があるような口ぶりで海堂を抱き締める手に力を込めてきた。
「………先輩?」
「俺さあ……」
「………………」
「お前を河原に連れていったんだよ。手ぬぐい渡して。あの特訓すれば思い出すかなとか思ってね」
「………………」
「それでも駄目で。挙句逃げられて。気が逸って、つい、一大決心の告白をしたら同じ言葉でふられてねえ…」
「…………一大決心の告白?」
何の事かと海堂が乾に抱き締められたまま身じろぐと、初めて乾の腕の束縛がゆるんだ。
海堂がそっと見据えると、乾は溜息交じり微苦笑で言った。
「俺に未来預けてみるか?」
「………………」
「ことわるっ………と海堂には一言で玉砕」
その経緯を聞き、海堂は腹をたてた。
怒鳴るよりも、睨みつけるよりも、もっと深いところで腹がたった。
「海堂?」
「………………」
口下手で口数の少ない海堂の真意を、いつだって誰より正しく汲み取る乾は。
この時も案の定、海堂の感情起伏を察して穏やかな声で囁いた。
「海堂に言ったんだよ…?」
「………聞いてねえよ」
「………………」
「俺は覚えてねえ」
拗ねているような物言いなんか、海堂はこれまでに、したことがない。
それなのに口をついて出る言葉は僻みに他ならなくて。
「俺じゃない俺にそんなこと言うな」
「海堂」
「なんで……そいつが先に言われてんだよ」
「海堂…」
乾は薄く笑った。
優しい、笑い方で、ほんの少しも腹はたたなかった。
「焦るあまりに本能で口から出てしまった、いつも持っている本音、という事で……納得してくれないか」
「………………」
「畢生の告白に、同じ相手に同じ言葉でふられて、かなり落ち込んだ俺に免じて許してくれると有難いんだが……駄目か?」
「………三度目は断らねえよ」
「…海堂」
「何時か、何か、」
気が向いたら。
告白っていうのをすればいい。
そうしたら今度は。
三度目は。
最初から頷くからと海堂は心で思う。
「……アンタ頭いいんだから、俺の言いたいことくらい分かるだろ」
一度目は確かに断った。
でもその後応えた。
二度目も、今の自分に言うなら応える。
だから、と海堂は。
正気を焼かれそうな羞恥心を堪えて顔を上げる。
乾の目を見る。
「海堂」
そこにあったのは乾の嬉しそうな笑い顔で余計に恥ずかしくなる。
「……とんでもないこと言い出すかもよ」
「…………構わねえよ……」
楽しみだと言う低い甘い声と一緒にもう一度。
海堂は乾に抱き締められた。
乾からの二度目の告白を聞いた自分はもういないが、その自分は今のこの抱擁を知らないのだと思う事で。
全ては帳消しだろうと海堂は思うことにした。
海堂は、まず呆気にとられ、それから硬直し、最後に赤くなった。
「ちょ……、…」
漸く海堂がそんな言葉を発する事が出来たのは。
乾に抱きしめられてから、どれくらい経った頃だったか。
「…、…先輩…」
いきなりストリートテニス場で乾に抱き締められている状況もつかめないでいる海堂は、まして周囲にチームメイトがいるのに気付くと一層激しく混乱した。
何故こんな所で、こんな真似、と視線を泳がせる。
乾は離れない。
「薫ちゃーん。もう少しそうしておいてあげなってばー」
「……、…菊丸先輩?」
「そうだぜマムシ。お前、乾先輩にどれだけ心配かけたか判ってんのかよ?」
「な、…桃城…っ…」
「よかったなあ海堂。記憶が戻って」
「記憶……って……あの、大石先輩、」
「裕太と二人で猫二匹って感じだったね。可愛かったよ。海堂」
「ね、…!…不二先輩…何言っ…」
「乾に、きちんと医者に連れて行ってもらえよ?」
「河村先輩」
乾に抱き締められながら次々かけられる言葉に、しどろもどろになっている海堂は、最後にふと、越前の物言いたげな視線に気をとられる。
「おい……?」
「…………………」
ただ一人、じっと海堂を見ているだけだった越前は、普段の不敵な笑みや不遜な態度は欠片も見せず、トレードマークの帽子を手で取って一礼した。
「越前?」
アリガトウゴザイマシタ、と聞こえた気がして海堂は呼びかけたのだが。
越前は、海堂の見慣れない表情をするだけだった。
先輩も同級生も後輩も、結局それで全員連れ立って帰っていってしまい、海堂は今尚自身を抱き締め続ける乾と二人、その場に取り残される。
「…………先輩」
「うん?」
「………誰か一人くらい状況説明してくれたっていいんじゃねえっすか…」
何がどうなって、それでこうなのかと。
海堂は大きな溜息を吐き出す。
実は未だに乾に抱き締められているのだが、人目がなくなった分いくらか気が落ち着いて。
海堂は乾の固い背中を、ゆるく握りこんだ拳で軽く叩いた。
促すように。
「………………」
「桃がフレームで打ち損じたダンクが、越前に向かって飛んできて……海堂が越前を庇って、そのショックで記憶喪失だ。……思い出したか?」
落ち着いた乾の声に引き出されるように。
海堂の記憶に、越前の顔が浮かんできた。
「……記憶…喪失」
「そうだ。お前、なんにも覚えてなかったんだぞ」
「…………え…?」
耳馴染みはいい言葉だが、実体験を見たり聞いたりした事は一度もない記憶喪失とやらに自分がなっていたらしいと知らされて。
海堂は正直呆気にとられた。
ところがどうも、乾は腑に落ちない事があるような口ぶりで海堂を抱き締める手に力を込めてきた。
「………先輩?」
「俺さあ……」
「………………」
「お前を河原に連れていったんだよ。手ぬぐい渡して。あの特訓すれば思い出すかなとか思ってね」
「………………」
「それでも駄目で。挙句逃げられて。気が逸って、つい、一大決心の告白をしたら同じ言葉でふられてねえ…」
「…………一大決心の告白?」
何の事かと海堂が乾に抱き締められたまま身じろぐと、初めて乾の腕の束縛がゆるんだ。
海堂がそっと見据えると、乾は溜息交じり微苦笑で言った。
「俺に未来預けてみるか?」
「………………」
「ことわるっ………と海堂には一言で玉砕」
その経緯を聞き、海堂は腹をたてた。
怒鳴るよりも、睨みつけるよりも、もっと深いところで腹がたった。
「海堂?」
「………………」
口下手で口数の少ない海堂の真意を、いつだって誰より正しく汲み取る乾は。
この時も案の定、海堂の感情起伏を察して穏やかな声で囁いた。
「海堂に言ったんだよ…?」
「………聞いてねえよ」
「………………」
「俺は覚えてねえ」
拗ねているような物言いなんか、海堂はこれまでに、したことがない。
それなのに口をついて出る言葉は僻みに他ならなくて。
「俺じゃない俺にそんなこと言うな」
「海堂」
「なんで……そいつが先に言われてんだよ」
「海堂…」
乾は薄く笑った。
優しい、笑い方で、ほんの少しも腹はたたなかった。
「焦るあまりに本能で口から出てしまった、いつも持っている本音、という事で……納得してくれないか」
「………………」
「畢生の告白に、同じ相手に同じ言葉でふられて、かなり落ち込んだ俺に免じて許してくれると有難いんだが……駄目か?」
「………三度目は断らねえよ」
「…海堂」
「何時か、何か、」
気が向いたら。
告白っていうのをすればいい。
そうしたら今度は。
三度目は。
最初から頷くからと海堂は心で思う。
「……アンタ頭いいんだから、俺の言いたいことくらい分かるだろ」
一度目は確かに断った。
でもその後応えた。
二度目も、今の自分に言うなら応える。
だから、と海堂は。
正気を焼かれそうな羞恥心を堪えて顔を上げる。
乾の目を見る。
「海堂」
そこにあったのは乾の嬉しそうな笑い顔で余計に恥ずかしくなる。
「……とんでもないこと言い出すかもよ」
「…………構わねえよ……」
楽しみだと言う低い甘い声と一緒にもう一度。
海堂は乾に抱き締められた。
乾からの二度目の告白を聞いた自分はもういないが、その自分は今のこの抱擁を知らないのだと思う事で。
全ては帳消しだろうと海堂は思うことにした。
神尾から海の匂いがした。
「…………………」
正確には、神尾が持ったバケツからだ。
海の匂い。
「よ、跡部」
入ってもいい?と顔を合わせるなり神尾は言った。
跡部は腕組みしたまま自宅の玄関に寄りかかって、そんな神尾を眺め下ろす。
「……何だそのバケツは」
「アサリ」
「…………………」
「なあ、入っちゃ駄目なのか?」
聞くまでもなく見ればバケツの中身はアサリ以外に他ならない。
しかし跡部が敢えてそう聞いたのは、なまじ回転の良過ぎる自身の頭を深く憂いでの事だ。
アサリ入りのバケツを神尾が持っているのを見た時点で、すでにおもしろくない過程が背景にある事を跡部は悟ってしまう。
「跡部?」
「……何でそんなもん持ってんだ」
おもしろくない事と判っていて、でも事実を知るのは聞くしかないのだから不条理である。
そう思って憮然とした跡部に構う事無く神尾は素直に喋り出す。
「うん、あのさ。なんか急に、海行きたい!海見たい!って思ってさ。深司と行って来たんだ。電車乗って」
「…………てめえ」
出だしから案の定な展開で、跡部は神尾を睨みつけた。
海行きたい、海見たい、そうなったら普通。
一緒に行くのは彼氏じゃねえのかと、跡部は神尾を呪い殺せそうな目で見据える。
どうしてそこであのボヤキなんだと目線でせめても神尾はびくともしない。
鈍いのである。
こういう所がつくづく。
けろんとした口調で平気で後を続けるのである。
「そうしたら六角中がいたんだぜ」
「六角だ?」
「潮干狩りに交ぜてくれた」
で、これおみやげ、と神尾はアサリがたっぷり入ったバケツを跡部に突き出した。
「採ったアサリで味噌汁作ってくれたんだけど、それがめちゃくちゃ美味いの!跡部に食べさせたいって思ったから、作り方習ってきたぜ!」
「…………………」
跡部は微妙に頬を引きつらせて、邪気なく笑う神尾の顔を見つめる。
跡部に食べさせたいなんてさらりと言ってしまう神尾は気に入ったが、自分を差し置いて海で潮干狩りで料理教室かという流れは決して跡部にとっておもしろい話ではなかった。
「なあ跡部。用事あんの?入っちゃ駄目かよ?」
「………誰に習ったって?」
「は?味噌汁の作り方?黒羽さん」
すげーいい人なんだぜー、とまた全開の笑顔を見せる神尾に舌打ちして。
それでも跡部は漸く身体をずらして神尾に中に入るよう促した。
物怖じしない神尾は跡部家の無人の厨房に行き、ごそごそと味噌やら乾物やらを探し出し、勝手に味噌汁をつくったようだった。
衒いのない笑顔で一杯のお椀を持って戻ってきた。
「ここに、からしをちょっとだけ溶かすと美味いんだぜ」
「……それも黒羽か」
「ん? これは天根が言ってた。ついでにダジャレも言ってたぜ。最後はあっさりアサリ汁って。あいつおもしろいよなー」
昔の歌の歌詞なんだって、と神尾は笑いながらからしを味噌汁に溶かした。
それを跡部の前に起き、神尾も椅子に座る。
そして両手で頬杖をつき、跡部をじっと見つめてきた。
「跡部、味噌汁の丁寧語って何だか判る?」
「……あん?」
「味噌汁の丁寧語。お味噌汁じゃないんだぜ。おみおつけ。知ってた?」
こういう時は普通、相手が何か答えるまで待っているものではないのだろうかと跡部は呆れた。
神尾らしいといえば神尾らしいのだが。
「でさ、おみおつけって漢字で書ける? 御が三つで御御御つけなんだぜ。すごくね? つまり超高級品なんだぜ。味噌汁って」
「……誰からの薀蓄だ」
「佐伯さん。頭良いよなー!」
「…………………」
神尾が六角のメンバーを褒めているのに他意はないと知りつつ、跡部は気に食わなくて、一瞬意地の悪い事が頭に浮かぶ。
例えばこの目の前の味噌汁を、飲むつもりはないと手を出さなかったら神尾はどんな顔をするか。
例えばこの目の前の味噌汁を、口もつけずに捨てたら神尾はどんな顔をするか。
例えばこの目の前の味噌汁を、ひとくち飲んで不味いと言ったら神尾はどんな顔をするか。
「…………………」
呆れ返るほど簡単に傷ついて、泣くんだろうと、跡部は思う。
神尾を泣かせてやりたくなる事は跡部に時々起こる衝動で、最初の頃はそれで随分後味の悪い思いをした事があった。
神尾を泣かせてやりたくなって、実際手酷く泣かせて。
ところがそうやって神尾の泣き顔を目にすると、途端に跡部は苛ついた。
なにもかもが一気に気に食わなくなった。
神尾の泣き顔がというより、泣かせた自分が、ひどくつまらないもののように思えてならなかった。
跡部は今ではもう、不用意に、ただ傷つけたいが為に神尾を泣かす事はしなくなった。
もっと別の方法がある事を知っている。
神尾を泣かす事にしろ、自身の気持ちを落ち着かせる事にしろ、傷つけなくても叶うやり方がある。
「な、食ってみてよ。跡部」
「…………………」
「跡部」
神尾の真直ぐな視線は一途で、跡部はつまらない事で、その目を涙で埋めるような必要はない事を知っている。
「…………………」
椀に手をかけ、漆塗りの縁に唇をつける。
ゆっくり飲み干して、跡部は指先で神尾を呼んだ。
「なんだ?」
「…………………」
近づいてきた神尾の首の裏側に指をかけ、浅くその唇を塞ぐ。
「…………………」
軽く重ねただけのキスで、すぐに唇を離す。
瞬きを繰り返している神尾の表情に思わず笑い、跡部は言った。
「……ったく……味噌汁の味のキスなんて初めてしたぜ」
「…はじめて?」
「…………………」
神尾の表情いっぱいに広がったのは。
はにかむような笑みだ。
目を伏せて、微笑む訳に跡部は今日幾度目かの仏頂面を晒す。
神尾と出会う前の事は今更どうしようもない。
でもたかだかこんな一言で嬉しそうな顔をされるのもどうなんだと跡部は苦く思った。
「美味いんじゃねーの」
だからまずはこの言葉を言って。
嬉しがる顔を臆面もなく見せる神尾を。
後はもう、うんざりするくらい。
甘ったるく可愛がってやろうじゃねえのと心に決める。
深い意味はないことを知りつつ収まりつかない跡部が自ら、六角中に出向き容赦ないテニスを繰り広げたりした事。
氷帝テニス部の部活後の雑談で、味噌汁の丁寧語について話題になり、いかにも味噌汁に縁のなさそうな男として、この質問のターゲットにされた跡部が、完璧に答えた事によって。
跡部に庶民派の知識を植えつけたのは当然神尾と知るレギュラー陣が、神尾をネタに容赦なく跡部をおちょくり、最終的に跡部を本気できれさせた事件。
回転寿司などには入った事のない跡部が、最後はあっさりアサリ汁などというやけに語呂の良いフレーズを、実の所いつまでも、頭の片隅に置く羽目になったという事。
後日談はこのくらいだ。
「…………………」
正確には、神尾が持ったバケツからだ。
海の匂い。
「よ、跡部」
入ってもいい?と顔を合わせるなり神尾は言った。
跡部は腕組みしたまま自宅の玄関に寄りかかって、そんな神尾を眺め下ろす。
「……何だそのバケツは」
「アサリ」
「…………………」
「なあ、入っちゃ駄目なのか?」
聞くまでもなく見ればバケツの中身はアサリ以外に他ならない。
しかし跡部が敢えてそう聞いたのは、なまじ回転の良過ぎる自身の頭を深く憂いでの事だ。
アサリ入りのバケツを神尾が持っているのを見た時点で、すでにおもしろくない過程が背景にある事を跡部は悟ってしまう。
「跡部?」
「……何でそんなもん持ってんだ」
おもしろくない事と判っていて、でも事実を知るのは聞くしかないのだから不条理である。
そう思って憮然とした跡部に構う事無く神尾は素直に喋り出す。
「うん、あのさ。なんか急に、海行きたい!海見たい!って思ってさ。深司と行って来たんだ。電車乗って」
「…………てめえ」
出だしから案の定な展開で、跡部は神尾を睨みつけた。
海行きたい、海見たい、そうなったら普通。
一緒に行くのは彼氏じゃねえのかと、跡部は神尾を呪い殺せそうな目で見据える。
どうしてそこであのボヤキなんだと目線でせめても神尾はびくともしない。
鈍いのである。
こういう所がつくづく。
けろんとした口調で平気で後を続けるのである。
「そうしたら六角中がいたんだぜ」
「六角だ?」
「潮干狩りに交ぜてくれた」
で、これおみやげ、と神尾はアサリがたっぷり入ったバケツを跡部に突き出した。
「採ったアサリで味噌汁作ってくれたんだけど、それがめちゃくちゃ美味いの!跡部に食べさせたいって思ったから、作り方習ってきたぜ!」
「…………………」
跡部は微妙に頬を引きつらせて、邪気なく笑う神尾の顔を見つめる。
跡部に食べさせたいなんてさらりと言ってしまう神尾は気に入ったが、自分を差し置いて海で潮干狩りで料理教室かという流れは決して跡部にとっておもしろい話ではなかった。
「なあ跡部。用事あんの?入っちゃ駄目かよ?」
「………誰に習ったって?」
「は?味噌汁の作り方?黒羽さん」
すげーいい人なんだぜー、とまた全開の笑顔を見せる神尾に舌打ちして。
それでも跡部は漸く身体をずらして神尾に中に入るよう促した。
物怖じしない神尾は跡部家の無人の厨房に行き、ごそごそと味噌やら乾物やらを探し出し、勝手に味噌汁をつくったようだった。
衒いのない笑顔で一杯のお椀を持って戻ってきた。
「ここに、からしをちょっとだけ溶かすと美味いんだぜ」
「……それも黒羽か」
「ん? これは天根が言ってた。ついでにダジャレも言ってたぜ。最後はあっさりアサリ汁って。あいつおもしろいよなー」
昔の歌の歌詞なんだって、と神尾は笑いながらからしを味噌汁に溶かした。
それを跡部の前に起き、神尾も椅子に座る。
そして両手で頬杖をつき、跡部をじっと見つめてきた。
「跡部、味噌汁の丁寧語って何だか判る?」
「……あん?」
「味噌汁の丁寧語。お味噌汁じゃないんだぜ。おみおつけ。知ってた?」
こういう時は普通、相手が何か答えるまで待っているものではないのだろうかと跡部は呆れた。
神尾らしいといえば神尾らしいのだが。
「でさ、おみおつけって漢字で書ける? 御が三つで御御御つけなんだぜ。すごくね? つまり超高級品なんだぜ。味噌汁って」
「……誰からの薀蓄だ」
「佐伯さん。頭良いよなー!」
「…………………」
神尾が六角のメンバーを褒めているのに他意はないと知りつつ、跡部は気に食わなくて、一瞬意地の悪い事が頭に浮かぶ。
例えばこの目の前の味噌汁を、飲むつもりはないと手を出さなかったら神尾はどんな顔をするか。
例えばこの目の前の味噌汁を、口もつけずに捨てたら神尾はどんな顔をするか。
例えばこの目の前の味噌汁を、ひとくち飲んで不味いと言ったら神尾はどんな顔をするか。
「…………………」
呆れ返るほど簡単に傷ついて、泣くんだろうと、跡部は思う。
神尾を泣かせてやりたくなる事は跡部に時々起こる衝動で、最初の頃はそれで随分後味の悪い思いをした事があった。
神尾を泣かせてやりたくなって、実際手酷く泣かせて。
ところがそうやって神尾の泣き顔を目にすると、途端に跡部は苛ついた。
なにもかもが一気に気に食わなくなった。
神尾の泣き顔がというより、泣かせた自分が、ひどくつまらないもののように思えてならなかった。
跡部は今ではもう、不用意に、ただ傷つけたいが為に神尾を泣かす事はしなくなった。
もっと別の方法がある事を知っている。
神尾を泣かす事にしろ、自身の気持ちを落ち着かせる事にしろ、傷つけなくても叶うやり方がある。
「な、食ってみてよ。跡部」
「…………………」
「跡部」
神尾の真直ぐな視線は一途で、跡部はつまらない事で、その目を涙で埋めるような必要はない事を知っている。
「…………………」
椀に手をかけ、漆塗りの縁に唇をつける。
ゆっくり飲み干して、跡部は指先で神尾を呼んだ。
「なんだ?」
「…………………」
近づいてきた神尾の首の裏側に指をかけ、浅くその唇を塞ぐ。
「…………………」
軽く重ねただけのキスで、すぐに唇を離す。
瞬きを繰り返している神尾の表情に思わず笑い、跡部は言った。
「……ったく……味噌汁の味のキスなんて初めてしたぜ」
「…はじめて?」
「…………………」
神尾の表情いっぱいに広がったのは。
はにかむような笑みだ。
目を伏せて、微笑む訳に跡部は今日幾度目かの仏頂面を晒す。
神尾と出会う前の事は今更どうしようもない。
でもたかだかこんな一言で嬉しそうな顔をされるのもどうなんだと跡部は苦く思った。
「美味いんじゃねーの」
だからまずはこの言葉を言って。
嬉しがる顔を臆面もなく見せる神尾を。
後はもう、うんざりするくらい。
甘ったるく可愛がってやろうじゃねえのと心に決める。
深い意味はないことを知りつつ収まりつかない跡部が自ら、六角中に出向き容赦ないテニスを繰り広げたりした事。
氷帝テニス部の部活後の雑談で、味噌汁の丁寧語について話題になり、いかにも味噌汁に縁のなさそうな男として、この質問のターゲットにされた跡部が、完璧に答えた事によって。
跡部に庶民派の知識を植えつけたのは当然神尾と知るレギュラー陣が、神尾をネタに容赦なく跡部をおちょくり、最終的に跡部を本気できれさせた事件。
回転寿司などには入った事のない跡部が、最後はあっさりアサリ汁などというやけに語呂の良いフレーズを、実の所いつまでも、頭の片隅に置く羽目になったという事。
後日談はこのくらいだ。
胸がつぶれる。
「好きで……壊しそう」
こんな言葉だとか。
「宍戸さん」
こんな声だとか。
「………ばー…か……壊れそうなツラしてんのどっちだよ」
「………………」
こんな目で見られて。
「……宍戸さん」
「………………」
こんな男を覚えてしまって。
自分がこれからどうなっていくのかと、宍戸は胸をつぶされる。
手を伸ばし、鳳の頬に指先を這わす。
「好きか。……俺が」
「好きです」
「………それなら平気だろ。びびんな…」
そう言いながらも、もうどうにかなりそうなくらいの心音は、宍戸のもので。
「………………」
鳳は、飢えた目をしてはいるけれど。
焦れた吐息を零しもしているけれど。
でもそれは、余裕がない性急さよりも、暴走を食い止める荒さで、宍戸を組み敷いている。
「腰、こんなに細くて……」
「………、るせ」
「脚も…綺麗」
「長太郎」
「めちゃくちゃに…」
「………………」
「…………するかもしれない」
鳳の目線で刷かれた箇所が痺れるようにひりついた。
実際手で辿られた皮膚は燃えるように熱を持つ。
宍戸はバラバラになりそうな自分の体と感覚と感情を掻き集めて告げた。
「………見たいぜ…?…俺は」
「………………」
「そうなるお前……」
「……宍戸さん…」
「見せろよ」
たまには暴走しろって、と。
それでも踏みとどまる鳳の腿の側面を手で撫で上げる。
「………、…」
詰めた息が宍戸の耳に熱く届いた。
溜まらずに吐き出された鳳の吐息に当てられながら、宍戸は両方の膝を鳳の手に鷲掴みにされる。
力でひらかれて、暴かれて。
シーツに押さえつけられ左右に割られた脚の狭間に重い腰が沈んでくる。
「……、…長…太郎……、…っぁ」
「………宍戸さん」
「ァ…っ……」
「………………」
「………ぅ…、…っ…く、…ぅ」
腰を進めてくる鳳の身体に、両手でも、両足でも縋って。
それでも。
「宍戸さん、」
こんなものを埋められて。
迸る嬌声ではとても追いつかないと宍戸はかぶりを振って鳳の首に取り縋る。
「…っ……、ぃ…、…」
「……、…………」
「……ン………ッぁ、ァ……」
「…………も……ヤバイ…」
「ぅ…、…っ…ぁ…っ…」
「宍戸さん」
かぶりついてきて。
むさぼられるキス。
息も奪われて、突き上げられる身体。
「………ッ……っ、…、」
欲情を溢れ出させる鳳の、常ならぬ強引さが宍戸をめちゃくちゃにしていった。
もう考えられることは、ひとつ。
好きで、壊れそう。
「好きで……壊しそう」
こんな言葉だとか。
「宍戸さん」
こんな声だとか。
「………ばー…か……壊れそうなツラしてんのどっちだよ」
「………………」
こんな目で見られて。
「……宍戸さん」
「………………」
こんな男を覚えてしまって。
自分がこれからどうなっていくのかと、宍戸は胸をつぶされる。
手を伸ばし、鳳の頬に指先を這わす。
「好きか。……俺が」
「好きです」
「………それなら平気だろ。びびんな…」
そう言いながらも、もうどうにかなりそうなくらいの心音は、宍戸のもので。
「………………」
鳳は、飢えた目をしてはいるけれど。
焦れた吐息を零しもしているけれど。
でもそれは、余裕がない性急さよりも、暴走を食い止める荒さで、宍戸を組み敷いている。
「腰、こんなに細くて……」
「………、るせ」
「脚も…綺麗」
「長太郎」
「めちゃくちゃに…」
「………………」
「…………するかもしれない」
鳳の目線で刷かれた箇所が痺れるようにひりついた。
実際手で辿られた皮膚は燃えるように熱を持つ。
宍戸はバラバラになりそうな自分の体と感覚と感情を掻き集めて告げた。
「………見たいぜ…?…俺は」
「………………」
「そうなるお前……」
「……宍戸さん…」
「見せろよ」
たまには暴走しろって、と。
それでも踏みとどまる鳳の腿の側面を手で撫で上げる。
「………、…」
詰めた息が宍戸の耳に熱く届いた。
溜まらずに吐き出された鳳の吐息に当てられながら、宍戸は両方の膝を鳳の手に鷲掴みにされる。
力でひらかれて、暴かれて。
シーツに押さえつけられ左右に割られた脚の狭間に重い腰が沈んでくる。
「……、…長…太郎……、…っぁ」
「………宍戸さん」
「ァ…っ……」
「………………」
「………ぅ…、…っ…く、…ぅ」
腰を進めてくる鳳の身体に、両手でも、両足でも縋って。
それでも。
「宍戸さん、」
こんなものを埋められて。
迸る嬌声ではとても追いつかないと宍戸はかぶりを振って鳳の首に取り縋る。
「…っ……、ぃ…、…」
「……、…………」
「……ン………ッぁ、ァ……」
「…………も……ヤバイ…」
「ぅ…、…っ…ぁ…っ…」
「宍戸さん」
かぶりついてきて。
むさぼられるキス。
息も奪われて、突き上げられる身体。
「………ッ……っ、…、」
欲情を溢れ出させる鳳の、常ならぬ強引さが宍戸をめちゃくちゃにしていった。
もう考えられることは、ひとつ。
好きで、壊れそう。
人一番体力のある海堂も、こればかりは、全く勝手が違う事のようで。
乾が見下ろす先、乱れた髪で目元を隠して浅く息を継いでいる。
口元には手の甲が宛てられ、背けた首筋が汗で濡れていた。
「海堂」
「………、…」
前髪をかきあげてやると泣き濡れた目が現れる。
乾が海堂の眦に唇を寄せても、海堂は嫌がらなかった。
まだ小さく弾んだ息を繰り返す海堂の肩を抱きこみながら、乾もそっと身を横たえた。
腕枕をするような体勢になる。
それでも海堂はおとなしかった。
「……………」
人馴れしない海堂が、自分にだけは特別扱いのようにこんな事を許してくれるのを。
乾は決して、当然のことだと思った事はなかった。
少しずつ少しずつ。
警戒心が強くて、礼儀正しいのに人との接触に不自由な海堂との距離を縮めた。
気詰りと感じさせないよう、二人きりでいる時間も徐々に覚えさせた。
「……………」
乾は海堂の前髪を手すさびに弄りながら、そのくらいまでは冷静だった自分を思い返して微苦笑する。
一緒に自主トレをするようになった。
一緒にダブルスを組むようになった。
抱き締めたくなった。
抱き締めた。
キスをしたくなった。
キスをした。
「……海堂」
顔を近づけ、声を潜め、名前を呼ぶと微かに海堂の睫毛が動く。
伏し目になった後、目線がゆっくりと上がってくる。
まだ戻ってこられないのかも知れない。
頑是無い眼差しは普段と違って頼りないくらいに柔らかだった。
「大丈夫か?」
「………………」
唇が僅かに動く。
乾は言葉を聞くより先に口付けたくなって、海堂の唇に自分のそれをゆっくりと重ねた。
また微かに海堂の唇が動く。
そうすると今度はそこに潜む清潔な舌が欲しくなって乾は深く口付けた。
「………ん………」
「………………」
「…………………っ…」
海堂に覆いかぶさるようにして。
ひとしきり唇を重ねた後、乾は海堂の唇から離れたが、その時に、熱っぽく乱れたような海堂の吐息が唇に触れて離れがたくてどうしようもなくなった。
「………………」
海堂は眠ってしまいたいように見えた。
億劫そうに瞬きを繰り返す。
乾が海堂の髪を再び弄り出すと、幼児のように、ことりと眠りに落ちた。
呆気ないくらいに。
容易く。
「………………」
少しそれも寂しい気がしたが、はっきりいって自業自得と乾は理解している。
ここまで海堂を疲れさせたのは誰か。
何をしたからか。
「……海堂…」
それでも。
眠ってしまった海堂が、まるで、乾のことなど知らない人間であるかのように見えて。
こうしてじっと見つめているのもやはり寂寥感が募って落ち着かない。
「……追いかけてくか…」
夢の中に。
「…………………」
乾は海堂を抱き込んで、目を閉じた。
すぐに見つけられると、いい。
データも、推測も、まるで役にたたない世界の話だが。
見つけられない筈もないだろうと乾は思う。
そして眠る。
乾が見下ろす先、乱れた髪で目元を隠して浅く息を継いでいる。
口元には手の甲が宛てられ、背けた首筋が汗で濡れていた。
「海堂」
「………、…」
前髪をかきあげてやると泣き濡れた目が現れる。
乾が海堂の眦に唇を寄せても、海堂は嫌がらなかった。
まだ小さく弾んだ息を繰り返す海堂の肩を抱きこみながら、乾もそっと身を横たえた。
腕枕をするような体勢になる。
それでも海堂はおとなしかった。
「……………」
人馴れしない海堂が、自分にだけは特別扱いのようにこんな事を許してくれるのを。
乾は決して、当然のことだと思った事はなかった。
少しずつ少しずつ。
警戒心が強くて、礼儀正しいのに人との接触に不自由な海堂との距離を縮めた。
気詰りと感じさせないよう、二人きりでいる時間も徐々に覚えさせた。
「……………」
乾は海堂の前髪を手すさびに弄りながら、そのくらいまでは冷静だった自分を思い返して微苦笑する。
一緒に自主トレをするようになった。
一緒にダブルスを組むようになった。
抱き締めたくなった。
抱き締めた。
キスをしたくなった。
キスをした。
「……海堂」
顔を近づけ、声を潜め、名前を呼ぶと微かに海堂の睫毛が動く。
伏し目になった後、目線がゆっくりと上がってくる。
まだ戻ってこられないのかも知れない。
頑是無い眼差しは普段と違って頼りないくらいに柔らかだった。
「大丈夫か?」
「………………」
唇が僅かに動く。
乾は言葉を聞くより先に口付けたくなって、海堂の唇に自分のそれをゆっくりと重ねた。
また微かに海堂の唇が動く。
そうすると今度はそこに潜む清潔な舌が欲しくなって乾は深く口付けた。
「………ん………」
「………………」
「…………………っ…」
海堂に覆いかぶさるようにして。
ひとしきり唇を重ねた後、乾は海堂の唇から離れたが、その時に、熱っぽく乱れたような海堂の吐息が唇に触れて離れがたくてどうしようもなくなった。
「………………」
海堂は眠ってしまいたいように見えた。
億劫そうに瞬きを繰り返す。
乾が海堂の髪を再び弄り出すと、幼児のように、ことりと眠りに落ちた。
呆気ないくらいに。
容易く。
「………………」
少しそれも寂しい気がしたが、はっきりいって自業自得と乾は理解している。
ここまで海堂を疲れさせたのは誰か。
何をしたからか。
「……海堂…」
それでも。
眠ってしまった海堂が、まるで、乾のことなど知らない人間であるかのように見えて。
こうしてじっと見つめているのもやはり寂寥感が募って落ち着かない。
「……追いかけてくか…」
夢の中に。
「…………………」
乾は海堂を抱き込んで、目を閉じた。
すぐに見つけられると、いい。
データも、推測も、まるで役にたたない世界の話だが。
見つけられない筈もないだろうと乾は思う。
そして眠る。
開いた口が塞がらない。
神尾は、ぱかーっと口を開けて、そのゴージャス極まりない建物を見上げた。
「……なんだこれ」
「いつまでそうやってんだ。行くぞ」
「うわ、…待て待て待て…! 置いてくな…っ…」
さっさと先へと行ってしまう跡部の後を、神尾は慌てて追いかけた。
こんな所に置いていかれたら困る。
ものすごく困る。
「跡部ってば……!」
「……泣きそうな声出すんじゃねえよ」
皮肉っぽく唇を引き上げ、肩越しにちらりと視線を投げてきた跡部の態度はむかつくが、店内から次から次へと現れては、いらっしゃいませと頭を下げる大人たちに、神尾ではとても太刀打ち出来ない。
びくびくしていると跡部が更に呆れた様子で言った。
「メシを食うだけだ。びびってんじゃねえ」
「……メシってお前……ここ何屋だよ?」
「………………」
大袈裟な程あからさまな溜息を跡部につかれてしまって、神尾も慌てた。
「なんだよ?」
「………何屋ってなあ。テメエ…」
「だ、…って…、跡部がいきなりこんなとこ連れてくるから…っ」
「お前が言ったんだろうが」
「……へ…?」
「お前が。牡蠣が食いたいって言うから、連れてきてやったんだろうが」
「な…違、…俺は牡蠣ってうまいのかって、跡部に聞いただけじゃん…!」
テレビ番組で女性レポーターが、足をばたばたさせて、身体もじたばたさせて、涙目になって生牡蠣を食べていたから。
神尾は跡部に、牡蠣ってそんなにうまいのか?と聞いただけ。
それでどうしてこうなるんだと、跡部の後を追っていきながら神尾は食い下がった。
「跡部!」
「同じ事だろ」
「ちっげーよ!」
「騒ぐな。うるさい」
「…………、…ぅ…」
ただでさえこの場にあまりにも不釣合いな制服姿の自分に怯んでいる神尾は、跡部の一言にぴたりと口を噤んだ。
制服というのは何も神尾だけでなく跡部もそうなのだが、はっきりいって跡部の場合は気味が悪い程この煌びやかな空間にマッチしていた。
黒いスーツを着た大人達が頭を下げては、時々跡部に声をかけてくる。
馴染みの店らしかった。
応対の仕方も堂に入っていて、神尾は跡部の後についていくうち、個室へと足を踏み入れていた。
「…………なんなんだこれ……」
美術館みたいな部屋だった。
昼間なのに部屋の中は暗くて、凝った造りの間接照明が、舞台に当てるスポットライトみたいにテーブルを浮かび上がらせている。
背後に回った黒服の店員に椅子を引かれ、おっかなびっくり神尾は座った。
お化け屋敷の方がどれだけ心臓に優しいかと心の底から思う。
跡部が何語かよく判らないものの名をいくつか口にして、そして待つこと数分。
今度は店員が水槽みたいな銀色の細長い器を運んできた。
中にはクラッシュアイスが敷き詰められ、その上に生牡蠣が列を成して乗っていた。
神尾は再び口を開け、盛大に呆気にとられた。
あまりに眩しくて、食べ物がキラキラ光るなんて、いったいどういう世界の話なんだと思う。
テーブルの中央に生牡蠣のケースが置かれる。
そして目の前には白い器に入った様々な色のソースが所狭しと並べられていく。
端から、どうやらソースの名前と説明を口にしているらしい店員の、話す言葉が神尾には全く理解できず。
恭しく頭を下げて彼らが去っていった後も、神尾は目の前の光景を凝視するばかりだった。
「……おい」
「……………………」
「そうやって間抜け面で見てたって、腹は膨れねえぞ」
「な、っ……誰が間抜け面だ…っ」
はっと我に返った神尾が、そう怒鳴ると。
跡部が、吐息程度に笑った。
「…………、……」
それこそスポットライトを浴びるように。
頭上からの照明を受けて恐ろしく秀麗な笑みを見せた跡部は、食え、と顎で神尾を促した。
本当にえらそうな仕草なのだが、こんな場所で見ると見惚れてしまいそうで怖い。
神尾はそんな跡部と、目の前の大量の牡蠣とを、恐る恐る交互に見やった。
「…………………」
「……これどうやって食うの」
「手で食えよ」
「………どこ持つのこれ」
「殻持てよ」
クラッシュアイスに転がされるようにして並べられた大振りの生牡蠣。
目の前にはフォークらしきカトラリーが数種。
そして大量のソースだ。
「…………………」
神尾が悩んでいると、跡部の唇から深い溜息が零れた。
もういい、と聞こえて。
神尾が慌てて跡部を見やると。
跡部はまっすぐ神尾を見ていた。
「食わせてやるからこっち来い」
手の甲で、跡部は自分の腿の上を叩いた。
膝に乗れとでもいうのかと、跡部の言葉の意味に気付いて神尾は赤くなる。
「やだ!」
「来いよ」
「いい!」
嫌なのか良いのかどっちだよと言って、跡部の声が低くなる。
「なんで」
「…なんででも!」
なんとなく空気が変わった気がする。
神経が何かを感じて神尾は思わず身構えた。
跡部がゆっくりと目を細める。
「来いよ。食わせてやる」
「…………………」
「誰も来ねえよ。お前がここにあるだけじゃ足りないって追加オーダーしなけりゃな」
意地の悪い事を言いながら、跡部の声は、低く甘く響く。
酷く優しく囁く。
「…………………」
赤くなったままそれで完全に硬直した神尾に、跡部は幾度目かになる溜息を吐き出しながら、徐に立ち上がった。
「………跡、部?…」
「…………………」
跡部は無言で神尾の背後に立った。
神尾が跡部を振り返ろうとして、出来なかったのは。
跡部が、まるで背中から神尾に覆い被さるようにして近づいてきたからだ。
「…………………」
神尾を背後から抱きこむように、跡部は右手を伸ばし牡蠣を手にした。
そして、左手の指先で、神尾の顎を支える。
仰のかされたらまるでキスの時のようで。
神尾がぎょっとしていると、ゴツゴツした牡蠣を下側から指三本で掴んでいる跡部の右手が近づいてくる。
爪の形まで跡部は綺麗だ。
「カクテルソースか?」
「…………………」
「ビネガーでもレモンでも……どれがいい」
「……よくわかんねーってば」
「だったら最初はこのまま食ってみろ」
跡部の左の親指に唇をそっと掠られ、すぐに牡蠣の縁が唇の狭間に宛がわれる。
跡部に顎を支えられたまま、神尾はつるりと口にすべってきた滑らかなものを咀嚼した。
「………ん、………ぅ…まー…!」
「…赤ん坊か。テメエは」
口調ほど凄みのない声で言い、跡部は席に戻った。
食え、と頭を軽く叩かれた神尾は、すでに言われるまでもなく、どんどん牡蠣に手を伸ばしていた。
それは、本当に生牡蠣が美味しかったせいもあるし。
跡部に、食べさせられたという行為が急激に恥ずかしくなってきたからでもあった。
よくよく考えれば一つ幾らするんだろうという生牡蠣だ。
満腹になるほど牡蠣だけを食べてから、今更のように神尾は青くなったが、料金の事を言うと跡部は不機嫌に一言。
誰がお前に払わせるって言った、と言い捨てて。
入ってきた時以上の足早で、店を出る。
神尾も慌てて後を追った。
ここに来たのは跡部の家の車でだったが、帰りは呼ばなかったようだった。
跡部はどんどん先に行く。
ごちそうさま、と神尾が早足で歩きながら言うと少し歩調が遅くなった。
おいしかった、とこれもまた本心から言えば漸く肩が並んだ。
「……………………」
跡部は黙っているけれど、今はそんなに不機嫌なわけではない事は、こっそり伺い見た表情で、神尾にもよく判った。
外はすっかり暗くなっていて、神尾は今自分達がいる場所がどこなのかよく判っていないから、跡部の少し後ろを同じように黙ってついて行く。
肌寒くなってきたせいか、何となくもっと近くに寄りたいようなおかしな気持ちになる。
もっと跡部の近く。
「……………………」
そう思って。
じっと跡部の背中を見て歩いていた神尾は、ふいに跡部に話しかけられた。
歩いたまま。
跡部は前を見たまま。
「こっちもか」
「………え?」
なに?と跡部の横に並んで、神尾は跡部の顔を見上げた。
跡部は神尾を見ずに言った。
「こんなことも、俺が教えてやらねえと出来ないのか?」
「……………………」
呆れた声なのに。
するりと神尾の右の指全部に絡んできた、跡部の左の指全部の感触が優しい。
てのひらをぴったりと密着させて、互い違いに絡み合う指の接触が甘い。
本当に恥ずかしいくらい甘ったるく手を繋がれてしまって、神尾は跡部の二の腕に、ことんとこめかみを押し当てた。
跡部が急に立ち止まる。
「……こういう事だけはうまくなりやがって」
「…………跡部…?」
なに?と神尾が跡部を見上げると。
暗闇の空を背にした跡部の顔がすでにもうすぐ近くにあった。
「……………………」
自分の横にいる相手とキスをする為に首を少しなれない方向に捩じって。
舌を使わず、唇を重ね続けるキスに、つないだ互いの手の中であたたかいものが灯ったような感触がした。
そしてそれは、ゆっくりと離れていく互いの唇の狭間でも、同じように生まれた。
あたたかく灯る。
キスから生まれたような星がひとつ。
夜空に柔らかく瞬いている。
神尾は、ぱかーっと口を開けて、そのゴージャス極まりない建物を見上げた。
「……なんだこれ」
「いつまでそうやってんだ。行くぞ」
「うわ、…待て待て待て…! 置いてくな…っ…」
さっさと先へと行ってしまう跡部の後を、神尾は慌てて追いかけた。
こんな所に置いていかれたら困る。
ものすごく困る。
「跡部ってば……!」
「……泣きそうな声出すんじゃねえよ」
皮肉っぽく唇を引き上げ、肩越しにちらりと視線を投げてきた跡部の態度はむかつくが、店内から次から次へと現れては、いらっしゃいませと頭を下げる大人たちに、神尾ではとても太刀打ち出来ない。
びくびくしていると跡部が更に呆れた様子で言った。
「メシを食うだけだ。びびってんじゃねえ」
「……メシってお前……ここ何屋だよ?」
「………………」
大袈裟な程あからさまな溜息を跡部につかれてしまって、神尾も慌てた。
「なんだよ?」
「………何屋ってなあ。テメエ…」
「だ、…って…、跡部がいきなりこんなとこ連れてくるから…っ」
「お前が言ったんだろうが」
「……へ…?」
「お前が。牡蠣が食いたいって言うから、連れてきてやったんだろうが」
「な…違、…俺は牡蠣ってうまいのかって、跡部に聞いただけじゃん…!」
テレビ番組で女性レポーターが、足をばたばたさせて、身体もじたばたさせて、涙目になって生牡蠣を食べていたから。
神尾は跡部に、牡蠣ってそんなにうまいのか?と聞いただけ。
それでどうしてこうなるんだと、跡部の後を追っていきながら神尾は食い下がった。
「跡部!」
「同じ事だろ」
「ちっげーよ!」
「騒ぐな。うるさい」
「…………、…ぅ…」
ただでさえこの場にあまりにも不釣合いな制服姿の自分に怯んでいる神尾は、跡部の一言にぴたりと口を噤んだ。
制服というのは何も神尾だけでなく跡部もそうなのだが、はっきりいって跡部の場合は気味が悪い程この煌びやかな空間にマッチしていた。
黒いスーツを着た大人達が頭を下げては、時々跡部に声をかけてくる。
馴染みの店らしかった。
応対の仕方も堂に入っていて、神尾は跡部の後についていくうち、個室へと足を踏み入れていた。
「…………なんなんだこれ……」
美術館みたいな部屋だった。
昼間なのに部屋の中は暗くて、凝った造りの間接照明が、舞台に当てるスポットライトみたいにテーブルを浮かび上がらせている。
背後に回った黒服の店員に椅子を引かれ、おっかなびっくり神尾は座った。
お化け屋敷の方がどれだけ心臓に優しいかと心の底から思う。
跡部が何語かよく判らないものの名をいくつか口にして、そして待つこと数分。
今度は店員が水槽みたいな銀色の細長い器を運んできた。
中にはクラッシュアイスが敷き詰められ、その上に生牡蠣が列を成して乗っていた。
神尾は再び口を開け、盛大に呆気にとられた。
あまりに眩しくて、食べ物がキラキラ光るなんて、いったいどういう世界の話なんだと思う。
テーブルの中央に生牡蠣のケースが置かれる。
そして目の前には白い器に入った様々な色のソースが所狭しと並べられていく。
端から、どうやらソースの名前と説明を口にしているらしい店員の、話す言葉が神尾には全く理解できず。
恭しく頭を下げて彼らが去っていった後も、神尾は目の前の光景を凝視するばかりだった。
「……おい」
「……………………」
「そうやって間抜け面で見てたって、腹は膨れねえぞ」
「な、っ……誰が間抜け面だ…っ」
はっと我に返った神尾が、そう怒鳴ると。
跡部が、吐息程度に笑った。
「…………、……」
それこそスポットライトを浴びるように。
頭上からの照明を受けて恐ろしく秀麗な笑みを見せた跡部は、食え、と顎で神尾を促した。
本当にえらそうな仕草なのだが、こんな場所で見ると見惚れてしまいそうで怖い。
神尾はそんな跡部と、目の前の大量の牡蠣とを、恐る恐る交互に見やった。
「…………………」
「……これどうやって食うの」
「手で食えよ」
「………どこ持つのこれ」
「殻持てよ」
クラッシュアイスに転がされるようにして並べられた大振りの生牡蠣。
目の前にはフォークらしきカトラリーが数種。
そして大量のソースだ。
「…………………」
神尾が悩んでいると、跡部の唇から深い溜息が零れた。
もういい、と聞こえて。
神尾が慌てて跡部を見やると。
跡部はまっすぐ神尾を見ていた。
「食わせてやるからこっち来い」
手の甲で、跡部は自分の腿の上を叩いた。
膝に乗れとでもいうのかと、跡部の言葉の意味に気付いて神尾は赤くなる。
「やだ!」
「来いよ」
「いい!」
嫌なのか良いのかどっちだよと言って、跡部の声が低くなる。
「なんで」
「…なんででも!」
なんとなく空気が変わった気がする。
神経が何かを感じて神尾は思わず身構えた。
跡部がゆっくりと目を細める。
「来いよ。食わせてやる」
「…………………」
「誰も来ねえよ。お前がここにあるだけじゃ足りないって追加オーダーしなけりゃな」
意地の悪い事を言いながら、跡部の声は、低く甘く響く。
酷く優しく囁く。
「…………………」
赤くなったままそれで完全に硬直した神尾に、跡部は幾度目かになる溜息を吐き出しながら、徐に立ち上がった。
「………跡、部?…」
「…………………」
跡部は無言で神尾の背後に立った。
神尾が跡部を振り返ろうとして、出来なかったのは。
跡部が、まるで背中から神尾に覆い被さるようにして近づいてきたからだ。
「…………………」
神尾を背後から抱きこむように、跡部は右手を伸ばし牡蠣を手にした。
そして、左手の指先で、神尾の顎を支える。
仰のかされたらまるでキスの時のようで。
神尾がぎょっとしていると、ゴツゴツした牡蠣を下側から指三本で掴んでいる跡部の右手が近づいてくる。
爪の形まで跡部は綺麗だ。
「カクテルソースか?」
「…………………」
「ビネガーでもレモンでも……どれがいい」
「……よくわかんねーってば」
「だったら最初はこのまま食ってみろ」
跡部の左の親指に唇をそっと掠られ、すぐに牡蠣の縁が唇の狭間に宛がわれる。
跡部に顎を支えられたまま、神尾はつるりと口にすべってきた滑らかなものを咀嚼した。
「………ん、………ぅ…まー…!」
「…赤ん坊か。テメエは」
口調ほど凄みのない声で言い、跡部は席に戻った。
食え、と頭を軽く叩かれた神尾は、すでに言われるまでもなく、どんどん牡蠣に手を伸ばしていた。
それは、本当に生牡蠣が美味しかったせいもあるし。
跡部に、食べさせられたという行為が急激に恥ずかしくなってきたからでもあった。
よくよく考えれば一つ幾らするんだろうという生牡蠣だ。
満腹になるほど牡蠣だけを食べてから、今更のように神尾は青くなったが、料金の事を言うと跡部は不機嫌に一言。
誰がお前に払わせるって言った、と言い捨てて。
入ってきた時以上の足早で、店を出る。
神尾も慌てて後を追った。
ここに来たのは跡部の家の車でだったが、帰りは呼ばなかったようだった。
跡部はどんどん先に行く。
ごちそうさま、と神尾が早足で歩きながら言うと少し歩調が遅くなった。
おいしかった、とこれもまた本心から言えば漸く肩が並んだ。
「……………………」
跡部は黙っているけれど、今はそんなに不機嫌なわけではない事は、こっそり伺い見た表情で、神尾にもよく判った。
外はすっかり暗くなっていて、神尾は今自分達がいる場所がどこなのかよく判っていないから、跡部の少し後ろを同じように黙ってついて行く。
肌寒くなってきたせいか、何となくもっと近くに寄りたいようなおかしな気持ちになる。
もっと跡部の近く。
「……………………」
そう思って。
じっと跡部の背中を見て歩いていた神尾は、ふいに跡部に話しかけられた。
歩いたまま。
跡部は前を見たまま。
「こっちもか」
「………え?」
なに?と跡部の横に並んで、神尾は跡部の顔を見上げた。
跡部は神尾を見ずに言った。
「こんなことも、俺が教えてやらねえと出来ないのか?」
「……………………」
呆れた声なのに。
するりと神尾の右の指全部に絡んできた、跡部の左の指全部の感触が優しい。
てのひらをぴったりと密着させて、互い違いに絡み合う指の接触が甘い。
本当に恥ずかしいくらい甘ったるく手を繋がれてしまって、神尾は跡部の二の腕に、ことんとこめかみを押し当てた。
跡部が急に立ち止まる。
「……こういう事だけはうまくなりやがって」
「…………跡部…?」
なに?と神尾が跡部を見上げると。
暗闇の空を背にした跡部の顔がすでにもうすぐ近くにあった。
「……………………」
自分の横にいる相手とキスをする為に首を少しなれない方向に捩じって。
舌を使わず、唇を重ね続けるキスに、つないだ互いの手の中であたたかいものが灯ったような感触がした。
そしてそれは、ゆっくりと離れていく互いの唇の狭間でも、同じように生まれた。
あたたかく灯る。
キスから生まれたような星がひとつ。
夜空に柔らかく瞬いている。
カテゴリー
アーカイブ
ブログ内検索
カウンター
アクセス解析