How did you feel at your first kiss?
海堂薫は紛う事なき猫科だ。
乾は思った。
「海堂ー。なに怒ってるんだ?」
「………………」
口数が少ないのは普段から。
でも今はそれに加えて威嚇するように気配が尖っていて、逆立つ毛並みが目に見えるような気すらする。
更には目つきも相当きつい。
しかしそれは乾にしてみれば怖いというより弱ったなというのが正直な心情だった。
「海堂。なあって…」
「………………」
どうしたの、と生真面目に聞いても海堂は答えない。
海堂は口数が少ないだけで、上手に問いかければ言葉を口にするのは厭わない質だと乾は判っているだけに。
さてどうしたものかと、自分の方を見ようとしない海堂を眺め下ろして嘆息する。
部活の最中は、まだ。
余分な私語が無くてもそうは困らないし、海堂が不機嫌でもテニスをする事は出来た訳なのだが。
帰り道に二人きりでいてこれではさすがに。
「海堂」
乾は、先行く海堂の手をとった。
それは無造作に振り払われたけれど、振り向いてはくれたので良しとする。
全く人馴れしていない猫の目で睨みつけられもしたが、この際それでも構わない。
「何に怒ってるか教えてくれ」
「………………」
お願い、と神妙に乾は呟いて、もう一度海堂の手を握った。
敢無くも素気無く。
二度目もその手は振り払われる。
ただ初めて、海堂は口をきいてくれた。
「他の奴の前で眼鏡とるの……気にくわねぇ」
「………は?」
問い返しておいて何だが、乾はすぐに海堂が何を言っているのかを理解した。
四時間目の体育、種目はマラソンだった。
一時間走り続ければ冬場のこの時期でもさすがに汗をかく。
水飲み場で顔を洗おうとした所、その場に居た女子数名が眼鏡を外した乾が見てみたいと言い出して。
派手に盛り上がり始めた彼女達の前で、あっさりと眼鏡を外した乾は、うってかわった静寂の中顔を洗い、立ち去る背中で歓声にも似た賑やかな彼女達の声を聞いた。
「……わざとやっただろ」
「え?」
「俺が見てるの知ってて、わざとやった。それが一番気にくわねぇ……」
「海堂」
さすがに、これは。
しまったと、乾も慌てた。
海堂の言う事に相違はない。
水飲み場近くの渡り廊下。
海堂が通りかかっているのは乾も知っていた。
声をかけて呼び止めるには距離があって。
気付かず通り過ぎられていくのも少々癪で。
確かにそういう理由もあった。
普段なら、別に隠している訳ではないが、乾は好き好んで裸眼を晒したりはしないのだ。
「……海堂?」
「何が気に入らない?」
「ええと………」
「あてつけにしたんだったら、別に俺が怒ってたって関係ないっすよね」
「ごめんなさい!」
もう速攻も速攻で乾は頭を下げた。
海堂の言葉尻に被せる勢いで。
これは確かに自分が悪い。
認めたらこれはもう謝るしかない。
「悪かった。ごめんなさい」
「………………」
海堂は黙っている。
下げた頭をすぐに戻す訳にもいかず、乾は平身低頭の体勢で、じっとした。
どれくらいかして、頭を叩かれた。
ぽん、と痛すぎもなく甘すぎもなく。
乾は顔を上げた。
その勢いに躊躇したように宙に浮いた中途半端な手の指を握り込みながら、海堂は溜息をついていた。
「自分でやっといて、何で俺が怒ったら簡単に頭なんか下げるんすか」
「海堂」
「………離れてたって、ちゃんとあんただって、俺は気付いてる」
「ごめん。意地の悪い事した」
「………………」
「……海堂?」
「アンタの『イジワル』なら許してやる……」
「………………」
きつい目で睨みつけてくる海堂が、不機嫌な声で口にした、何だか可愛いような言葉に。
乾は面食らい、そして。
ゆるやかに微苦笑する。
「………勝てないな……海堂には」
「…よく言う」
「本当に」
負けてもいいなんて思うこと自体、本来乾の思考にはない事なのに。
海堂には、こういう負けなら、いくらでも甘んじてという気になる。
「負けっぱなしだ。海堂に」
「………………」
潜めた声で、好きだよと告げた乾に海堂は僅かに眉根を寄せた。
「海堂…?」
そして、変わらない不機嫌そうなきつい目で乾を見つめたまま。
「好きだって言うなら、証拠見せてみろよ」
「………………」
気にくわないと言った海堂の気持ちに潜むのはおそらく嫉妬心で、そういうものの表現方法にひどく不器用な海堂が、精一杯の言葉で欲しがるものは。
寧ろ乾を甘やかすものでもあったが。
「………………」
好きだと思う気持ちの分の証拠として。
乾は海堂の両肩を手で包み、海堂の持つ最もやわらかい器官を同じもので塞ぐ。
おとなしく上向いてくれる海堂の唇に、深すぎるほどに舌を忍び入れ、キスを。
「………家に連れて帰ってもいいか」
「一日くらい大人しく反省して下さい」
「イジワルだけじゃなくて、俺のオネガイの方も、許してくれないかな?」
「……、…甘えんな…っ」
結局今日一日で三回、海堂に手を振り払われた乾は思う。
猫を可愛がるのは難しい。
そこねてしまった猫のご機嫌を伺うのは、更に更に難しい。
しかしだ。
これ程に愛しい存在を、無くしてしまうのは。
恐ろしいまでに難しい。
乾は思った。
「海堂ー。なに怒ってるんだ?」
「………………」
口数が少ないのは普段から。
でも今はそれに加えて威嚇するように気配が尖っていて、逆立つ毛並みが目に見えるような気すらする。
更には目つきも相当きつい。
しかしそれは乾にしてみれば怖いというより弱ったなというのが正直な心情だった。
「海堂。なあって…」
「………………」
どうしたの、と生真面目に聞いても海堂は答えない。
海堂は口数が少ないだけで、上手に問いかければ言葉を口にするのは厭わない質だと乾は判っているだけに。
さてどうしたものかと、自分の方を見ようとしない海堂を眺め下ろして嘆息する。
部活の最中は、まだ。
余分な私語が無くてもそうは困らないし、海堂が不機嫌でもテニスをする事は出来た訳なのだが。
帰り道に二人きりでいてこれではさすがに。
「海堂」
乾は、先行く海堂の手をとった。
それは無造作に振り払われたけれど、振り向いてはくれたので良しとする。
全く人馴れしていない猫の目で睨みつけられもしたが、この際それでも構わない。
「何に怒ってるか教えてくれ」
「………………」
お願い、と神妙に乾は呟いて、もう一度海堂の手を握った。
敢無くも素気無く。
二度目もその手は振り払われる。
ただ初めて、海堂は口をきいてくれた。
「他の奴の前で眼鏡とるの……気にくわねぇ」
「………は?」
問い返しておいて何だが、乾はすぐに海堂が何を言っているのかを理解した。
四時間目の体育、種目はマラソンだった。
一時間走り続ければ冬場のこの時期でもさすがに汗をかく。
水飲み場で顔を洗おうとした所、その場に居た女子数名が眼鏡を外した乾が見てみたいと言い出して。
派手に盛り上がり始めた彼女達の前で、あっさりと眼鏡を外した乾は、うってかわった静寂の中顔を洗い、立ち去る背中で歓声にも似た賑やかな彼女達の声を聞いた。
「……わざとやっただろ」
「え?」
「俺が見てるの知ってて、わざとやった。それが一番気にくわねぇ……」
「海堂」
さすがに、これは。
しまったと、乾も慌てた。
海堂の言う事に相違はない。
水飲み場近くの渡り廊下。
海堂が通りかかっているのは乾も知っていた。
声をかけて呼び止めるには距離があって。
気付かず通り過ぎられていくのも少々癪で。
確かにそういう理由もあった。
普段なら、別に隠している訳ではないが、乾は好き好んで裸眼を晒したりはしないのだ。
「……海堂?」
「何が気に入らない?」
「ええと………」
「あてつけにしたんだったら、別に俺が怒ってたって関係ないっすよね」
「ごめんなさい!」
もう速攻も速攻で乾は頭を下げた。
海堂の言葉尻に被せる勢いで。
これは確かに自分が悪い。
認めたらこれはもう謝るしかない。
「悪かった。ごめんなさい」
「………………」
海堂は黙っている。
下げた頭をすぐに戻す訳にもいかず、乾は平身低頭の体勢で、じっとした。
どれくらいかして、頭を叩かれた。
ぽん、と痛すぎもなく甘すぎもなく。
乾は顔を上げた。
その勢いに躊躇したように宙に浮いた中途半端な手の指を握り込みながら、海堂は溜息をついていた。
「自分でやっといて、何で俺が怒ったら簡単に頭なんか下げるんすか」
「海堂」
「………離れてたって、ちゃんとあんただって、俺は気付いてる」
「ごめん。意地の悪い事した」
「………………」
「……海堂?」
「アンタの『イジワル』なら許してやる……」
「………………」
きつい目で睨みつけてくる海堂が、不機嫌な声で口にした、何だか可愛いような言葉に。
乾は面食らい、そして。
ゆるやかに微苦笑する。
「………勝てないな……海堂には」
「…よく言う」
「本当に」
負けてもいいなんて思うこと自体、本来乾の思考にはない事なのに。
海堂には、こういう負けなら、いくらでも甘んじてという気になる。
「負けっぱなしだ。海堂に」
「………………」
潜めた声で、好きだよと告げた乾に海堂は僅かに眉根を寄せた。
「海堂…?」
そして、変わらない不機嫌そうなきつい目で乾を見つめたまま。
「好きだって言うなら、証拠見せてみろよ」
「………………」
気にくわないと言った海堂の気持ちに潜むのはおそらく嫉妬心で、そういうものの表現方法にひどく不器用な海堂が、精一杯の言葉で欲しがるものは。
寧ろ乾を甘やかすものでもあったが。
「………………」
好きだと思う気持ちの分の証拠として。
乾は海堂の両肩を手で包み、海堂の持つ最もやわらかい器官を同じもので塞ぐ。
おとなしく上向いてくれる海堂の唇に、深すぎるほどに舌を忍び入れ、キスを。
「………家に連れて帰ってもいいか」
「一日くらい大人しく反省して下さい」
「イジワルだけじゃなくて、俺のオネガイの方も、許してくれないかな?」
「……、…甘えんな…っ」
結局今日一日で三回、海堂に手を振り払われた乾は思う。
猫を可愛がるのは難しい。
そこねてしまった猫のご機嫌を伺うのは、更に更に難しい。
しかしだ。
これ程に愛しい存在を、無くしてしまうのは。
恐ろしいまでに難しい。
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出会った最初の頃は何かにつけ神尾の方が怒る事が多くて、跡部は大抵笑ったり呆れたりしているばかりの客観的なところがあった。
つきあいはじめた頃は、神尾は相変わらず腹を立てる事が多くて、しかし跡部も同じように怒ったり時には神尾以上に激高してきれたりする事があった。
それからもずっとずっと一緒にいて。
今に至って、どうなったかと言えば。
「お前が俺を嫌いでも俺はお前が好きだよ」
「………………」
「なあ、跡部。こっち向けってば」
相変わらず跡部はよく怒るけれど。
「跡部」
こっちを向いてくれなくて、泣いた事もあったけれど。
「俺は跡部が好きだよ」
振り払われるのが怖くて、手が伸ばせなかった事もあったけれど。
「ちゃんと好きだから」
「………………」
「跡部」
今は。
そっぽを向いている跡部の正面に自分から回っていって、目を見つめて、腕を伸ばして。
抱き締められるようになった。
「お前が俺には一番大事」
「…………、……」
「………………」
跡部の舌打ちに萎縮した事も多かった。
でも今は、それすらいとおしくて抱き締めていられる。
「跡部」
「……人を丸め込む方法なんざ覚えやがって」
「跡部」
「百年早ぇよバカヤロウ」
「うん」
跡部が好きだとそれでも繰り返して言うと、神尾の腕の中、跡部が身体をあずけてきた。
手にかかる重みが増した。
「………………」
昔はこんな風な事はなかった。
神尾が、跡部にしてやれる事なんて何もないと思っていた。
でも今は幾らでもそういう言葉や行動があることを知っている。
「跡部」
抱き締めて。
名前を呼んで。
腹が立ったり、苛々したり、寂しくなったり、弱ったりした時に、言葉が欲しいのは、抱き寄せられたいのは、自分だけではないと判ったから。
笑って、大事に、抱き締めて。
好きだと、幾度も、繰り返す。
「好き」
同じ事を何度も言われるのが嫌いな跡部が。
鬱陶しいとか、一度聞けば判るとか、必ず悪態をつく跡部が。
この言葉だけは、神尾が何度繰り返しても絶対に遮らない。
「跡部」
抱き締めていた跡部に、逆に抱き締め返され、強く床に組み敷かれる。
跡部の両手に抱え込まれるように頭を掴まれ口づけられる。
深く角度のついたキスは全部を貪られるように深くて。
「………ん、…っ…」
苦しいくらい幸せだ。
「…ぁ……と…べ」
「……神尾」
絡まる足、重なる身体。
夢中になられる事が嬉しいから、夢中であることを隠さない。
それからもずっとずっと一緒にいて。
今に至って、どうなったかと言えば。
こうなった。
これからもずっとずっと一緒にいて。
未来に至って、どうなるかと言えば。
多分今と大差なく。
違う喧嘩をしては、違う幸せを噛み締めているのだろうと思ったりする。
つきあいはじめた頃は、神尾は相変わらず腹を立てる事が多くて、しかし跡部も同じように怒ったり時には神尾以上に激高してきれたりする事があった。
それからもずっとずっと一緒にいて。
今に至って、どうなったかと言えば。
「お前が俺を嫌いでも俺はお前が好きだよ」
「………………」
「なあ、跡部。こっち向けってば」
相変わらず跡部はよく怒るけれど。
「跡部」
こっちを向いてくれなくて、泣いた事もあったけれど。
「俺は跡部が好きだよ」
振り払われるのが怖くて、手が伸ばせなかった事もあったけれど。
「ちゃんと好きだから」
「………………」
「跡部」
今は。
そっぽを向いている跡部の正面に自分から回っていって、目を見つめて、腕を伸ばして。
抱き締められるようになった。
「お前が俺には一番大事」
「…………、……」
「………………」
跡部の舌打ちに萎縮した事も多かった。
でも今は、それすらいとおしくて抱き締めていられる。
「跡部」
「……人を丸め込む方法なんざ覚えやがって」
「跡部」
「百年早ぇよバカヤロウ」
「うん」
跡部が好きだとそれでも繰り返して言うと、神尾の腕の中、跡部が身体をあずけてきた。
手にかかる重みが増した。
「………………」
昔はこんな風な事はなかった。
神尾が、跡部にしてやれる事なんて何もないと思っていた。
でも今は幾らでもそういう言葉や行動があることを知っている。
「跡部」
抱き締めて。
名前を呼んで。
腹が立ったり、苛々したり、寂しくなったり、弱ったりした時に、言葉が欲しいのは、抱き寄せられたいのは、自分だけではないと判ったから。
笑って、大事に、抱き締めて。
好きだと、幾度も、繰り返す。
「好き」
同じ事を何度も言われるのが嫌いな跡部が。
鬱陶しいとか、一度聞けば判るとか、必ず悪態をつく跡部が。
この言葉だけは、神尾が何度繰り返しても絶対に遮らない。
「跡部」
抱き締めていた跡部に、逆に抱き締め返され、強く床に組み敷かれる。
跡部の両手に抱え込まれるように頭を掴まれ口づけられる。
深く角度のついたキスは全部を貪られるように深くて。
「………ん、…っ…」
苦しいくらい幸せだ。
「…ぁ……と…べ」
「……神尾」
絡まる足、重なる身体。
夢中になられる事が嬉しいから、夢中であることを隠さない。
それからもずっとずっと一緒にいて。
今に至って、どうなったかと言えば。
こうなった。
これからもずっとずっと一緒にいて。
未来に至って、どうなるかと言えば。
多分今と大差なく。
違う喧嘩をしては、違う幸せを噛み締めているのだろうと思ったりする。
夜のランニングは海堂の日課で、幾つかあるランニングコースは、全て部の先輩である乾が厳選してつくりあげたものだった。
「やっぱり走ってた」
「………乾先輩」
大晦日の夜も日課に例外無く走っていた海堂は、通り過ぎようとしていたマンションの、植え込みの所に立っていた乾に声をかけられる。
「………………」
ゆっくりと、海堂は足を止めた。
乾の家はこのマンションの一室にある。
それを知ってはいたが驚いて、海堂は怪訝な顔で乾を見やった。
こんなところでいったいなにを。
そう考えて。
「今年最後にもう一回会えるかなと思ってね」
低く耳に伝わってくる乾の声。
「………俺にですか」
「そう。海堂に」
「………………」
息を乱すまでではないが、肩で呼吸を繰り返しながら、海堂はますます不可解な思いで乾の言葉を聞いた。
乾の表情からは何も汲み取れない。
低音の声と話し方は、いつものようにゆったりと丁寧だった。
「今年一年を振り返ってね」
「………………」
「今年も一年やっぱりそうだったな、と思って」
「………そうって…何すか」
「海堂を好きだなあというのがそう」
「はあ。………?」
あんまりさらりと普通に言われたものだから。
海堂もこんな風に極めてあっさり頷いてしまった。
頷いてしまってから。
何かがおかしくないかと急激に思う。
「………………」
そんな海堂に、乾はゆっくりと唇の端を引き上げた。
「知ってた?」
「………あ…?」
「俺は海堂が好きだよ」
「……あの…、」
乾の右手が伸びてきた。
そう思った時にはもう、その手に正面から自分の左手を握り込まれていて。
「………、っ…」
海堂はぐっと言葉に詰まる。
手。
繋がれた、手。
「……………」
乾は、普通の顔して、平気な顔して、手なんか繋いできて。
海堂は、悔しくて、猛烈に、不意打ちに、悔しくなって。
憮然と黙り込んだ。
混乱はパニックではなく、沸々と込み上げてくる怒りに酷似していた。
乾を、海堂はその感情のまま、きつく睨みつけようとした。
でも。
ふと。
海堂は戸惑った。
頼りない不安を覚えた。
海堂は気付いたのだ。
乾の手は冷たい。
とても、冷たい。
「……………」
海堂の視線は、きつくなれずに乾を凝視した。
それに気付いた乾が、珍しく決まり悪そうに微笑んだから。
その表情を目にした途端、ふわりと、海堂の身体の中で何かが灯ったように温かくなる。
温かさが、満ち満ちてきて、あっという間に熱の塊になる。
海堂は、乾の手の冷たさが心地良いと急に思った。
そして、この一瞬で、どれだけ自分の熱が高まったのかを考え、硬直した。
何故こんな事にと惑う未経験の類の緊張感は、瞬く間に海堂を追い詰めた。
「海堂」
怖いみたいに身体が竦む。
言葉が出てこない。
聞き慣れた声に名前を呼ばれて。
混乱がひどくなるわけがわからない。
「つきあって」
「………は? つきあうって」
「うん」
「つきあうって、交換日記でもするんですか」
本当にひどい混乱のまま口走った海堂に、乾はそれもいいけどね、と微笑を浮かべる。
「俺が三ページ書いて、海堂が三行とかかな」
「あんたが文章書き慣れしすぎてるんです」
「そうだなあ……だから交換日記じゃない方向で、どうかな?」
何がだからなのか。
交換日記じゃない方向ってどっちの方向なんだとか。
考えて考えて考えて。
海堂は突然、空いていた右手で自分の頭を抱えた。
「海堂?」
「………っ……あーっ!」
「あれ? どうした?」
「アンタのこと考えると頭ん中グルグルするッ」
「……………」
「……、…っなに笑ってんだよっ」
この上ない激高で叫んだつもりが、乾のリアクションは余計に海堂を煽ってきた。
海堂の見たまま。
乾は口元を大きな手のひらで覆って肩を震わせている。
笑っている。
海堂は自分ををここまで混乱させた挙句に笑っている乾を、今度こそ本当に、本気で睨みつけた。
さすがに乾が気付いて首を左右に振った。
「いや、…嬉しくて。ごめん。気を悪くしないで欲しいんだけど」
「……っ……ど…ゆー……ッ」
「興味ないとか、どうでもいいとかいうような拒絶も想定してたからさ」
グルグルって可愛い、可愛すぎる、と臆面もなく言われて。
その声音の甘さに海堂はうろたえた。
こんな乾を、海堂は知らない。
手を握られたまま、もうこれ以上怒鳴る事も、ましてや赤くなるなんて真似も到底出来なくて。
海堂が顔を強張らせていると、乾の笑いは緩やかにおさまっていった。
次第に。
優しそうだけれど、生真面目な表情に移ろっていく。
「………………」
「海堂…」
「………………」
「来年は、俺のこと考えてよ。海堂」
ゆっくりでいいから、と乾の手が僅かに力を込めてきて。
海堂は密着した肌と肌で気付く。
乾の手のひらが、きちんと温かくなっているのに気付く。
自分がそれを温かくしたのかと思うと、戸惑いと物慣れない羞恥心とが相まって海堂は言葉に詰まった。
「ね……」
「………………」
「長期戦の方が得意だろ?」
そんな海堂に囁くように乾は言った。
「……なんのこと言って…」
「海堂の得意なやり方で良いから俺のこと考えて」
「………………」
乾は薄い笑みを唇にたたえたままだったけれど、とても真剣だった。
それがよく判った。
それくらいには理解している。
今、海堂にしてみれば、ひどく突飛な事を言い出した乾だが。
そんな彼に戸惑ってばかりの海堂だが。
「…………俺は」
「ん?」
「あんたのこと………尊敬してる」
「ありがとう」
「……誰かと一緒にトレーニングするなんて、あんたが初めてだった」
「うん」
「でも、……そういう好きじゃなくて、考えろって事ですか」
「ああ」
難しいかな、と囁いた乾を海堂は漸く見据える事が出来た。
「………………」
難しいこと。
判らないこと。
そういったものを、何でも。
やさしくして、教えてくれるのが乾だった。
「……俺のが先輩より持久力あるんですけど」
「振り切ろうと思ってる?」
「………そうじゃねえ」
「俺が早々脱落すると思ってるんだったら取り越し苦労だな。海堂」
「………………」
「試してごらん」
好きなようにさせてくれているようで、巧みな誘導のうまい男。
そんな乾の手中に在る気がしてならないが、海堂は何だかそれでもいいような気になった。
一年の最後の日。
寒空の下にどれだけ居たのか知れない乾の冷たい手。
「判りました。来年は、あんたのこと考える」
判るまで。
「来年は、じゃなくて。今からだよ海堂」
「…………は?」
「年が明けた」
おめでとう、と笑いながら。
乾は時計の文字盤を視線で指し示す。
そこに視線を落とした海堂は、一瞬だけ、乾に軽く抱き寄せられた。
「……………」
自分自身が、いとも簡単に乾の胸元におさまることを思い知らされながら、海堂は新しい年の、新しい一日の、冷たい冷気を深く胸に吸い込んだ。
今日からどんな毎日が始まるのか。
それを思って海堂は。
乾と手を繋いだまま、新年を迎えたのだった。
「やっぱり走ってた」
「………乾先輩」
大晦日の夜も日課に例外無く走っていた海堂は、通り過ぎようとしていたマンションの、植え込みの所に立っていた乾に声をかけられる。
「………………」
ゆっくりと、海堂は足を止めた。
乾の家はこのマンションの一室にある。
それを知ってはいたが驚いて、海堂は怪訝な顔で乾を見やった。
こんなところでいったいなにを。
そう考えて。
「今年最後にもう一回会えるかなと思ってね」
低く耳に伝わってくる乾の声。
「………俺にですか」
「そう。海堂に」
「………………」
息を乱すまでではないが、肩で呼吸を繰り返しながら、海堂はますます不可解な思いで乾の言葉を聞いた。
乾の表情からは何も汲み取れない。
低音の声と話し方は、いつものようにゆったりと丁寧だった。
「今年一年を振り返ってね」
「………………」
「今年も一年やっぱりそうだったな、と思って」
「………そうって…何すか」
「海堂を好きだなあというのがそう」
「はあ。………?」
あんまりさらりと普通に言われたものだから。
海堂もこんな風に極めてあっさり頷いてしまった。
頷いてしまってから。
何かがおかしくないかと急激に思う。
「………………」
そんな海堂に、乾はゆっくりと唇の端を引き上げた。
「知ってた?」
「………あ…?」
「俺は海堂が好きだよ」
「……あの…、」
乾の右手が伸びてきた。
そう思った時にはもう、その手に正面から自分の左手を握り込まれていて。
「………、っ…」
海堂はぐっと言葉に詰まる。
手。
繋がれた、手。
「……………」
乾は、普通の顔して、平気な顔して、手なんか繋いできて。
海堂は、悔しくて、猛烈に、不意打ちに、悔しくなって。
憮然と黙り込んだ。
混乱はパニックではなく、沸々と込み上げてくる怒りに酷似していた。
乾を、海堂はその感情のまま、きつく睨みつけようとした。
でも。
ふと。
海堂は戸惑った。
頼りない不安を覚えた。
海堂は気付いたのだ。
乾の手は冷たい。
とても、冷たい。
「……………」
海堂の視線は、きつくなれずに乾を凝視した。
それに気付いた乾が、珍しく決まり悪そうに微笑んだから。
その表情を目にした途端、ふわりと、海堂の身体の中で何かが灯ったように温かくなる。
温かさが、満ち満ちてきて、あっという間に熱の塊になる。
海堂は、乾の手の冷たさが心地良いと急に思った。
そして、この一瞬で、どれだけ自分の熱が高まったのかを考え、硬直した。
何故こんな事にと惑う未経験の類の緊張感は、瞬く間に海堂を追い詰めた。
「海堂」
怖いみたいに身体が竦む。
言葉が出てこない。
聞き慣れた声に名前を呼ばれて。
混乱がひどくなるわけがわからない。
「つきあって」
「………は? つきあうって」
「うん」
「つきあうって、交換日記でもするんですか」
本当にひどい混乱のまま口走った海堂に、乾はそれもいいけどね、と微笑を浮かべる。
「俺が三ページ書いて、海堂が三行とかかな」
「あんたが文章書き慣れしすぎてるんです」
「そうだなあ……だから交換日記じゃない方向で、どうかな?」
何がだからなのか。
交換日記じゃない方向ってどっちの方向なんだとか。
考えて考えて考えて。
海堂は突然、空いていた右手で自分の頭を抱えた。
「海堂?」
「………っ……あーっ!」
「あれ? どうした?」
「アンタのこと考えると頭ん中グルグルするッ」
「……………」
「……、…っなに笑ってんだよっ」
この上ない激高で叫んだつもりが、乾のリアクションは余計に海堂を煽ってきた。
海堂の見たまま。
乾は口元を大きな手のひらで覆って肩を震わせている。
笑っている。
海堂は自分ををここまで混乱させた挙句に笑っている乾を、今度こそ本当に、本気で睨みつけた。
さすがに乾が気付いて首を左右に振った。
「いや、…嬉しくて。ごめん。気を悪くしないで欲しいんだけど」
「……っ……ど…ゆー……ッ」
「興味ないとか、どうでもいいとかいうような拒絶も想定してたからさ」
グルグルって可愛い、可愛すぎる、と臆面もなく言われて。
その声音の甘さに海堂はうろたえた。
こんな乾を、海堂は知らない。
手を握られたまま、もうこれ以上怒鳴る事も、ましてや赤くなるなんて真似も到底出来なくて。
海堂が顔を強張らせていると、乾の笑いは緩やかにおさまっていった。
次第に。
優しそうだけれど、生真面目な表情に移ろっていく。
「………………」
「海堂…」
「………………」
「来年は、俺のこと考えてよ。海堂」
ゆっくりでいいから、と乾の手が僅かに力を込めてきて。
海堂は密着した肌と肌で気付く。
乾の手のひらが、きちんと温かくなっているのに気付く。
自分がそれを温かくしたのかと思うと、戸惑いと物慣れない羞恥心とが相まって海堂は言葉に詰まった。
「ね……」
「………………」
「長期戦の方が得意だろ?」
そんな海堂に囁くように乾は言った。
「……なんのこと言って…」
「海堂の得意なやり方で良いから俺のこと考えて」
「………………」
乾は薄い笑みを唇にたたえたままだったけれど、とても真剣だった。
それがよく判った。
それくらいには理解している。
今、海堂にしてみれば、ひどく突飛な事を言い出した乾だが。
そんな彼に戸惑ってばかりの海堂だが。
「…………俺は」
「ん?」
「あんたのこと………尊敬してる」
「ありがとう」
「……誰かと一緒にトレーニングするなんて、あんたが初めてだった」
「うん」
「でも、……そういう好きじゃなくて、考えろって事ですか」
「ああ」
難しいかな、と囁いた乾を海堂は漸く見据える事が出来た。
「………………」
難しいこと。
判らないこと。
そういったものを、何でも。
やさしくして、教えてくれるのが乾だった。
「……俺のが先輩より持久力あるんですけど」
「振り切ろうと思ってる?」
「………そうじゃねえ」
「俺が早々脱落すると思ってるんだったら取り越し苦労だな。海堂」
「………………」
「試してごらん」
好きなようにさせてくれているようで、巧みな誘導のうまい男。
そんな乾の手中に在る気がしてならないが、海堂は何だかそれでもいいような気になった。
一年の最後の日。
寒空の下にどれだけ居たのか知れない乾の冷たい手。
「判りました。来年は、あんたのこと考える」
判るまで。
「来年は、じゃなくて。今からだよ海堂」
「…………は?」
「年が明けた」
おめでとう、と笑いながら。
乾は時計の文字盤を視線で指し示す。
そこに視線を落とした海堂は、一瞬だけ、乾に軽く抱き寄せられた。
「……………」
自分自身が、いとも簡単に乾の胸元におさまることを思い知らされながら、海堂は新しい年の、新しい一日の、冷たい冷気を深く胸に吸い込んだ。
今日からどんな毎日が始まるのか。
それを思って海堂は。
乾と手を繋いだまま、新年を迎えたのだった。
これで離れていくだろうと思った鳳の唇は、微かな酸素を得てまたすぐに宍戸の唇へと重なってきた。
「………ン、…」
「………………」
「…………ッ…、…っ」
しつこい、と眉根を寄せて宍戸は鳳の腕に手を伸ばす。
でもそれは、自分から鳳を引き剥がす為ではなく、鳳に取り縋る為だ。
鳳の部屋に入ってから、長いことキスをされ続けていて、頭が本気でくらくらしている。
首が定まらないような不安定な感覚はひどくなる一方で、宍戸は鳳に唇を貪られながら大きな手が背中を支えてくれるのに任せ、体重を全部その手にかけた。
「宍戸さん」
「…………も、…いいかげんに……」
「会いたかった」
「アホ……一昨日会ったばっかだろーが…」
「中一日が、俺の限界ですね……」
宍戸の頬に唇を寄せながら話す鳳の声が、吐息に交ざって肌に触れるのに、宍戸は小さく身を竦ませる。
座ったまま抱き締められて。
こんな風に、ただただべったりしている自分達を、正直どうなのかと思う気もあるのだが。
甘えかかってくる鳳は、宍戸にしてみれば。
しっかりと抱き締め返してやって、無性にあやしたくなる、そんな存在だった。
そんな自分にも完全に問題がある。
宍戸は溜息をついた。
「……宍戸さん?」
「…紅茶、もう冷めてんじゃねえ?」
部屋に入る時に鳳が手にしていたトレイの上のマグカップからは、たっぷりと湯気がたちのぼっていたが、今はどう見ても湯気の気配はなかった。
「喉かわきました? すみません」
「…………………」
別にそういうわけではなかったのだが、鳳は漸く、終わりの印しのような微かなキスをして宍戸から腕を引いた。
テーブルの上のマグカップに手を伸ばす鳳を見ながら、何となくもの寂しい感触のする唇に宍戸は無意識に手をやっていて。
すぐに自分の行動に気付いて宍戸は居たたまれない羞恥心に襲われた。
「宍戸さん?」
「……、んでもねーよ」
マグカップを片手に持って、鳳は不思議そうに宍戸に呼びかける。
追求する時としない時とを大体正しく見極める鳳は、この時はそれ以上は何も聞いてこなかった。
やわらかに微笑んで、宍戸を後ろ抱きするように引き寄せてくる。
紅茶の入ったマグカップがあるからへたに動けなくて、宍戸はされるまま、壁に寄りかかって座る鳳の胸に寄りかからされる。
宍戸の身体を挟んで、鳳の長い両足が膝を曲げて立てられた。
「はい」
「………………」
口元にマグカップが持ってこられて、宍戸はいったい鳳は、どれだけ自分のことを甘やかしたいんだろうかと疑問に思う。
一日会ってないせいもなにもない。
毎日会っていたって鳳のこういう行動は変わらない。
「………………」
自分を甘やかしたがる鳳の、好きにさせているというこういう状況。
宍戸は宍戸でそうやって鳳を甘やかしたいのだから、もう自分達は。
「…………どうしようもねえな」
「何ですか?]
[………なんでもね。喉かわいた。早く飲ませろ」
「はい」
鳳の手にあるマグカップから、程よい温度になっている紅茶を飲む。
紅茶と一緒に持ってきていた小ぶりな籠に鳳が手を伸ばし、中に入っていた薄い白い紙に包まれていたものを宍戸の視界に翳す。
「……なんだ?」
「ポルボロン。スペインのお菓子なんですけどね」
薄紙は平たい丸いものを包んである。
両脇でキャンディのように捩じり上げられていて、側面にはPOLVORONと英字が印字されていた。
鳳が長い指先でその薄紙を解く。
粉砂糖のようなものがまぶされているその一口大の菓子を鳳は直接手にして宍戸の口元に近づけた。
「食べる時に、ポルボロンって三回唱えると幸せが訪れるって言い伝えられているものなんですよ」
「へえ……」
それでつまり唱えろって事か?と肩越しに視線を上げた宍戸は、目が合うなり鳳に頷かれた。
わかったよと宍戸はその言葉を三度口にした。
鳳の指先が宍戸の口の中にその焼き菓子を運ぶ。
ほろりとくずれるようにして口溶けする菓子だった。
「………………」
咀嚼するまでもないような繊細な感触が。
幸せを呼ぶのかもしれいが。
今でも充分幸せだがなと宍戸は内心で思う。
「どんな幸せが宍戸さんに来るんですかね。今年は」
「………………」
穏やかにそんな事を囁いてくる鳳に、深く凭れかかって宍戸は笑う。
「お前さ、長太郎」
「なんですか?」
「俺の幸せとやらは、結構お前次第かもしれないぜ?」
「俺ですか? 宍戸さんが幸せになるのに必要なものって何です?」
「俺の事だけ見てろ」
「もうそうしてますよ」
鳳が真顔で言って、それから?と言いながら微笑を浮かべる。
「長太郎が欲しい」
「それも、もうとっくにそうじゃないですか」
「ずっとかどうかが問題なんだよ。アホ」
「どっちがアホですか。そんな当たり前の事問題にしないで下さいよ」
情けないような声で嘆いた鳳に、宍戸は零れるように笑った。
顎に手がかかって、背後を振り返ったところを、キスされる。
キスが徐々に今度はパウダーシュガーの味になる。
「………ン、…」
「………………」
「…………ッ…、…っ」
しつこい、と眉根を寄せて宍戸は鳳の腕に手を伸ばす。
でもそれは、自分から鳳を引き剥がす為ではなく、鳳に取り縋る為だ。
鳳の部屋に入ってから、長いことキスをされ続けていて、頭が本気でくらくらしている。
首が定まらないような不安定な感覚はひどくなる一方で、宍戸は鳳に唇を貪られながら大きな手が背中を支えてくれるのに任せ、体重を全部その手にかけた。
「宍戸さん」
「…………も、…いいかげんに……」
「会いたかった」
「アホ……一昨日会ったばっかだろーが…」
「中一日が、俺の限界ですね……」
宍戸の頬に唇を寄せながら話す鳳の声が、吐息に交ざって肌に触れるのに、宍戸は小さく身を竦ませる。
座ったまま抱き締められて。
こんな風に、ただただべったりしている自分達を、正直どうなのかと思う気もあるのだが。
甘えかかってくる鳳は、宍戸にしてみれば。
しっかりと抱き締め返してやって、無性にあやしたくなる、そんな存在だった。
そんな自分にも完全に問題がある。
宍戸は溜息をついた。
「……宍戸さん?」
「…紅茶、もう冷めてんじゃねえ?」
部屋に入る時に鳳が手にしていたトレイの上のマグカップからは、たっぷりと湯気がたちのぼっていたが、今はどう見ても湯気の気配はなかった。
「喉かわきました? すみません」
「…………………」
別にそういうわけではなかったのだが、鳳は漸く、終わりの印しのような微かなキスをして宍戸から腕を引いた。
テーブルの上のマグカップに手を伸ばす鳳を見ながら、何となくもの寂しい感触のする唇に宍戸は無意識に手をやっていて。
すぐに自分の行動に気付いて宍戸は居たたまれない羞恥心に襲われた。
「宍戸さん?」
「……、んでもねーよ」
マグカップを片手に持って、鳳は不思議そうに宍戸に呼びかける。
追求する時としない時とを大体正しく見極める鳳は、この時はそれ以上は何も聞いてこなかった。
やわらかに微笑んで、宍戸を後ろ抱きするように引き寄せてくる。
紅茶の入ったマグカップがあるからへたに動けなくて、宍戸はされるまま、壁に寄りかかって座る鳳の胸に寄りかからされる。
宍戸の身体を挟んで、鳳の長い両足が膝を曲げて立てられた。
「はい」
「………………」
口元にマグカップが持ってこられて、宍戸はいったい鳳は、どれだけ自分のことを甘やかしたいんだろうかと疑問に思う。
一日会ってないせいもなにもない。
毎日会っていたって鳳のこういう行動は変わらない。
「………………」
自分を甘やかしたがる鳳の、好きにさせているというこういう状況。
宍戸は宍戸でそうやって鳳を甘やかしたいのだから、もう自分達は。
「…………どうしようもねえな」
「何ですか?]
[………なんでもね。喉かわいた。早く飲ませろ」
「はい」
鳳の手にあるマグカップから、程よい温度になっている紅茶を飲む。
紅茶と一緒に持ってきていた小ぶりな籠に鳳が手を伸ばし、中に入っていた薄い白い紙に包まれていたものを宍戸の視界に翳す。
「……なんだ?」
「ポルボロン。スペインのお菓子なんですけどね」
薄紙は平たい丸いものを包んである。
両脇でキャンディのように捩じり上げられていて、側面にはPOLVORONと英字が印字されていた。
鳳が長い指先でその薄紙を解く。
粉砂糖のようなものがまぶされているその一口大の菓子を鳳は直接手にして宍戸の口元に近づけた。
「食べる時に、ポルボロンって三回唱えると幸せが訪れるって言い伝えられているものなんですよ」
「へえ……」
それでつまり唱えろって事か?と肩越しに視線を上げた宍戸は、目が合うなり鳳に頷かれた。
わかったよと宍戸はその言葉を三度口にした。
鳳の指先が宍戸の口の中にその焼き菓子を運ぶ。
ほろりとくずれるようにして口溶けする菓子だった。
「………………」
咀嚼するまでもないような繊細な感触が。
幸せを呼ぶのかもしれいが。
今でも充分幸せだがなと宍戸は内心で思う。
「どんな幸せが宍戸さんに来るんですかね。今年は」
「………………」
穏やかにそんな事を囁いてくる鳳に、深く凭れかかって宍戸は笑う。
「お前さ、長太郎」
「なんですか?」
「俺の幸せとやらは、結構お前次第かもしれないぜ?」
「俺ですか? 宍戸さんが幸せになるのに必要なものって何です?」
「俺の事だけ見てろ」
「もうそうしてますよ」
鳳が真顔で言って、それから?と言いながら微笑を浮かべる。
「長太郎が欲しい」
「それも、もうとっくにそうじゃないですか」
「ずっとかどうかが問題なんだよ。アホ」
「どっちがアホですか。そんな当たり前の事問題にしないで下さいよ」
情けないような声で嘆いた鳳に、宍戸は零れるように笑った。
顎に手がかかって、背後を振り返ったところを、キスされる。
キスが徐々に今度はパウダーシュガーの味になる。
慣れない身体が慣れるように。
慣れない感情に慣れるように。
「……跡部は、幸せ?」
「………………」
涙をためた目で、必死な眼差しで、神尾は跡部を見つめてくる。
跡部の正気を飛ばすような無垢な問いかけに、跡部は神尾の内部の深い所で留めていたものでその肢体をゆるく突き上げる。
か細い悲鳴と一緒に、たちまち涙は神尾の目から零れた。
「………っぁ」
「……………お前は」
どうなんだ、と跡部は口付けで直接神尾の口腔に言葉の続きを含ませる。
「俺……、……」
「………………」
軽く唇を触れ合わせたまま。
「ずっと……好き……」
「………………」
熱い吐息が唇にかかる。
笑みの形になっている神尾の唇。
感触でそれが判る。
「……ずっと好きだよ……跡部……」
慣れない身体を跡部の手に濃密に抱かれながら、神尾は素直な言葉を繰り返す。
跡部の一番欲しい言葉を口にする。
欲しがりなのは、自分の方なのだと。
跡部は判っていた。
神尾は寂しがりだ。
本当ならば神尾にこそ、浴びせかけるように与えてやらなければならない言葉。
それなのに、思う気持ちばかりがどうしようもなく募り、これまでにはまるで身に覚えのなかったような恋愛感情の甘さに、跡部自身が寧ろ困惑している。
神尾の言葉も表情もひたむきすぎて、跡部はそれと均衡する言葉が見つけられずに歯噛みする。
こんな事は今まで無かった。
言葉が追いつかない。
「……っぁ、ァ…っ」
言葉の分も神尾の身体に与えてしまう。
深くえぐるように身体を突き動かすと、神尾は声を詰まらせて喉を反らした。
細い、白い喉が震えている。
「神尾……」
「ァ……っ……」
舌でその喉を舐め上げる、そんな卑猥なやり方なら幾らでも出来るのに。
咽び泣く神尾の泣き濡れた顔に一層募る恋情は、優しい言葉よりも強い欲情ばかりが先走りしていくようで。
もっとどうにか、いくらでも体裁よく出来た筈なのに。
「…ひ……、…っ…ん…っ」
「………神尾」
「ん、っ…ぁ、…っ…」
快感をまだどこか苦しげに受け止める幼いような反応を返す身体を、めちゃめちゃに抱いて、抱いて、それでもまだ込み上げてくる飢餓感を跡部は持て余している。
神尾が跡部の平静.を掻き乱す。
「跡部、……っ…」
「………………」
「………、…て……?…」
「………なんだ…?」
戦慄く唇が、言葉を紡げず震えている。
腰を鷲づかみにして、神尾の体内へと立て続けに送り込む律動は、もっと加減をしてやらなければいけないほど強まってしまっている。
しかしそれをゆるめてやれないまま跡部は更に深く神尾を突き上げていく。
壊れるかもしれない。
手の中にある細い腰の感触に跡部が思い、眉根を寄せる。
同時に跡部の耳に吹き込まれる切れ切れの声。
「いっぱい…して……?」
「………、……」
「…跡部…、ね……、…い…っぱい…、して…、…?……」
「……神尾」
それはねだるのではなく、ゆるす言葉だ。
言いながら、両腕を跡部の首に絡めていく。
身体を重ねている時の神尾はあどけなくて聡い。
セックスには全く慣れないが、気持ちを形に現してみせるのは、こんなにも練達している。
跡部と全てが逆だ。
「神尾」
「……うん」
跡部が神尾の背中を抱きこむと、神尾は跡部の首に絡めた両腕に力をこめてくる。
しがみついてくる華奢な身体を同じ力で抱き寄せながら、跡部は神尾の肩口に顔を埋めた。
縋っているのは、どちらかとは、もう判らない均等な力の強さで抱き締めあう。
慣れない身体が慣れるように、繰り返し繰り返し跡部は神尾を抱く。
慣れない感情に慣れるように、繰り返し繰り返し神尾は跡部に囁く。
つりあうように。
つたわるように。
慣れない感情に慣れるように。
「……跡部は、幸せ?」
「………………」
涙をためた目で、必死な眼差しで、神尾は跡部を見つめてくる。
跡部の正気を飛ばすような無垢な問いかけに、跡部は神尾の内部の深い所で留めていたものでその肢体をゆるく突き上げる。
か細い悲鳴と一緒に、たちまち涙は神尾の目から零れた。
「………っぁ」
「……………お前は」
どうなんだ、と跡部は口付けで直接神尾の口腔に言葉の続きを含ませる。
「俺……、……」
「………………」
軽く唇を触れ合わせたまま。
「ずっと……好き……」
「………………」
熱い吐息が唇にかかる。
笑みの形になっている神尾の唇。
感触でそれが判る。
「……ずっと好きだよ……跡部……」
慣れない身体を跡部の手に濃密に抱かれながら、神尾は素直な言葉を繰り返す。
跡部の一番欲しい言葉を口にする。
欲しがりなのは、自分の方なのだと。
跡部は判っていた。
神尾は寂しがりだ。
本当ならば神尾にこそ、浴びせかけるように与えてやらなければならない言葉。
それなのに、思う気持ちばかりがどうしようもなく募り、これまでにはまるで身に覚えのなかったような恋愛感情の甘さに、跡部自身が寧ろ困惑している。
神尾の言葉も表情もひたむきすぎて、跡部はそれと均衡する言葉が見つけられずに歯噛みする。
こんな事は今まで無かった。
言葉が追いつかない。
「……っぁ、ァ…っ」
言葉の分も神尾の身体に与えてしまう。
深くえぐるように身体を突き動かすと、神尾は声を詰まらせて喉を反らした。
細い、白い喉が震えている。
「神尾……」
「ァ……っ……」
舌でその喉を舐め上げる、そんな卑猥なやり方なら幾らでも出来るのに。
咽び泣く神尾の泣き濡れた顔に一層募る恋情は、優しい言葉よりも強い欲情ばかりが先走りしていくようで。
もっとどうにか、いくらでも体裁よく出来た筈なのに。
「…ひ……、…っ…ん…っ」
「………神尾」
「ん、っ…ぁ、…っ…」
快感をまだどこか苦しげに受け止める幼いような反応を返す身体を、めちゃめちゃに抱いて、抱いて、それでもまだ込み上げてくる飢餓感を跡部は持て余している。
神尾が跡部の平静.を掻き乱す。
「跡部、……っ…」
「………………」
「………、…て……?…」
「………なんだ…?」
戦慄く唇が、言葉を紡げず震えている。
腰を鷲づかみにして、神尾の体内へと立て続けに送り込む律動は、もっと加減をしてやらなければいけないほど強まってしまっている。
しかしそれをゆるめてやれないまま跡部は更に深く神尾を突き上げていく。
壊れるかもしれない。
手の中にある細い腰の感触に跡部が思い、眉根を寄せる。
同時に跡部の耳に吹き込まれる切れ切れの声。
「いっぱい…して……?」
「………、……」
「…跡部…、ね……、…い…っぱい…、して…、…?……」
「……神尾」
それはねだるのではなく、ゆるす言葉だ。
言いながら、両腕を跡部の首に絡めていく。
身体を重ねている時の神尾はあどけなくて聡い。
セックスには全く慣れないが、気持ちを形に現してみせるのは、こんなにも練達している。
跡部と全てが逆だ。
「神尾」
「……うん」
跡部が神尾の背中を抱きこむと、神尾は跡部の首に絡めた両腕に力をこめてくる。
しがみついてくる華奢な身体を同じ力で抱き寄せながら、跡部は神尾の肩口に顔を埋めた。
縋っているのは、どちらかとは、もう判らない均等な力の強さで抱き締めあう。
慣れない身体が慣れるように、繰り返し繰り返し跡部は神尾を抱く。
慣れない感情に慣れるように、繰り返し繰り返し神尾は跡部に囁く。
つりあうように。
つたわるように。
放課後、三年の教室内、開いた扉から廊下にいる鳳に気付いた宍戸が目を瞠った。
その眼差しの中の、宍戸の尖った気配の名残に気付いた鳳は。
宍戸の比ではなく、大きく双瞳を見開いた。
「………………」
沈黙と少しの間をおいて、よう、と気安くもどこか違和感のある声をかけてきた宍戸の足元には男が一人蹲っている。
宍戸とその男以外は誰もいない教室。
鳳は自分の表情が険しくなるのを自覚する。
「………なんですかその人は」
「あー…気にすんな…」
「気にしますよ! 何なんですか」
「来るな」
「……はい?」
「入ってくるな」
一歩踏み出した所で、思いのほか厳しい宍戸の声に咎められる。
全く腑に落ちないながらも。
鳳は宍戸に言われるままに、一先ずその場に踏みとどまった。
「何故ですか?」
納得いかない怪訝な思いを隠さず問いかけた鳳に答えたのは、宍戸ではなく、彼の足元に蹲る鳳の知らない男だった。
「そいつがそうなのか」
「そうだ」
「…………………」
しかし男が話しかけたのは宍戸で、宍戸の返答もまた早かった。
素っ気無いと言っていいくらいだった。
一人勝手が判らず、まして静止の命令がかけられたままの鳳は、さすがに苛立って宍戸の名を呼ぶ。
「宍戸さん!」
「怒鳴んなって……」
緊迫感には程遠く、しかし宍戸は珍しくあからさまな溜息をついて後ろ首に手を当てた。
「お前がキレると止めらんねえよ」
「つまりそういう状況なわけですか」
「長太郎」
止められないと言いながら、まるっきり鳳を窘めるような言い方で宍戸は言って。
けれどもひどく生真面目に鳳を見据えてきた。
「俺がそっちに行くからまだ動くなよ」
「…………………」
はっきり言ってそんな言いつけを守るのもそろそろ限界だと鳳は宍戸の目を強く見つめた。
宍戸は、それよりもっと強い視線で、鳳に念押しするような目をしてみせてから、足元の男を見下ろした。
脛を押さえている所を見ると、恐らく宍戸が蹴ったようだった。
「そういうわけだ。俺じゃ話にならねえよ。他当たってくれ」
そうして宍戸は教室から出てきた。
「…………………」
「帰るぜ。長太郎」
しかし、そう言われても。
とてもすぐには頷けずにいる鳳を。
宍戸はまっすぐな目で見上げてきて、低く言った。
「おい。俺はお前に嫉妬されんのは嫌いじゃないが、疑われんのは嫌だぜ?」
「………宍戸さん…」
不意打ちの言葉で、鳳から過剰な力が思わず抜ける。
「お前に大事にされんのも好きだ。でも、お前が全部守る必要はねえよ」
強い光の湛えられた目に淡い笑みを滲ませて。
宍戸は歩きながら話し始めた。
同級生に、そういう意味で迫られて、言葉で言っても納得しないで詰め寄ってくるから蹴っちまった所でお前が来た、と至極あっさりと。
端的に、そして簡潔に、宍戸は言った。
内容は、ほぼ鳳の予想通りのもので、しかし実際に宍戸の口から聞かされると、それがどれだけあっさりとした口調であったとしても鳳は憮然となっていく自分が止められなかった。
「…………………」
宍戸は自分自身の事にはまるで無頓着でいるが、実際こういう告白やら呼び出しやらは少なくないらしい。
無論宍戸が逐一言ってくる訳はなく、大抵テニス部の三年生達が、見るに見かねたような場合を選んで鳳に申告してくるのだ。
「…………………」
ほっそりと伸びやかな手足や首筋の印象は、いっそ繊細であるのに。
宍戸の眼差しは強い。
深くて、きつく、真直ぐだ。
その怜悧な目を実直に向けながら、荒い言葉を使って、仄かな優しい後味を残す大切な言葉をくれる人。
そんな宍戸から、ふいに見せられる気持ち良いくらいの素直なリアクションや衒いのない笑顔が、いったいどれだけの強い力でもって、人を彼へと傾倒させていくのかを。
好きになったら見境も何も全てなくなる、それだけの効力がある宍戸という存在を、誰よりもよく理解し、そして捉えられている鳳は、本気で宍戸を欲しいと思った相手の飢餓感を見縊る事は到底出来なかった。
不機嫌に、というわけではなく黙り込んで歩く鳳を、少し先を行く宍戸が肩越しに振り返って見てくる。
「なあ」
「……はい?」
「お前、さっき本当に聞こえてなかったのか?」
「………何がですか?」
宍戸は、鳳があまり見たことのない表情を浮かべていた。
苦笑いに、少し甘さを煮詰めたような。
「結構でかい声で怒鳴ったんだぜ…」
「何を…?」
「俺を好きに出来るのは長太郎だけだ!って」
「…………………」
鳳は息をのんだ。
宍戸がひどく印象的に長い睫毛を伏せた。
「勝手に名前出して悪かったけどな」
「え?……いえ、そんなことは全然」
「死ぬほど好きだ。長太郎」
「……、宍戸さ…?」
立て続けの言葉に驚愕させられ、鳳は思わず宍戸の肩に手を伸ばした。
向き合った。
宍戸は鳳を見上げて言った。
「だからお前は自惚れてろよ」
「…………………」
不安になるなと暗に潜ませ、宍戸は笑う。
「…………物凄いこと…言いますね。宍戸さんは…」
「そっか?」
「物凄く嬉しくて……ますます心配に……」
「何でだよ」
呆れ返ったような宍戸の反応に、鳳は笑うに笑えない気持ちで宍戸の両肩に手を置いた。
「キスしても…?」
「好きにしろ」
「好きです」
「…………ン…」
ゆっくりと押し当てた唇。
上向いてキスを受け止めてくる宍戸へ、唇を重ねたままキスの角度を幾度か変える。
細くて固い肩。
熱くて柔らかな舌。
相反するようなものたちが、複雑に、デリケートに、折り重なって出来ている、成り立っている、そんな人を腕に抱き締め、口付ける。
鳳は知っていた。
宍戸は。
いくら好きだと言われても、それで自惚れていられるような相手ではない。
それは、自分が持っているものが。
いくら好きだと言っても、それで伝わりきれるような感情ではないからだ。
その眼差しの中の、宍戸の尖った気配の名残に気付いた鳳は。
宍戸の比ではなく、大きく双瞳を見開いた。
「………………」
沈黙と少しの間をおいて、よう、と気安くもどこか違和感のある声をかけてきた宍戸の足元には男が一人蹲っている。
宍戸とその男以外は誰もいない教室。
鳳は自分の表情が険しくなるのを自覚する。
「………なんですかその人は」
「あー…気にすんな…」
「気にしますよ! 何なんですか」
「来るな」
「……はい?」
「入ってくるな」
一歩踏み出した所で、思いのほか厳しい宍戸の声に咎められる。
全く腑に落ちないながらも。
鳳は宍戸に言われるままに、一先ずその場に踏みとどまった。
「何故ですか?」
納得いかない怪訝な思いを隠さず問いかけた鳳に答えたのは、宍戸ではなく、彼の足元に蹲る鳳の知らない男だった。
「そいつがそうなのか」
「そうだ」
「…………………」
しかし男が話しかけたのは宍戸で、宍戸の返答もまた早かった。
素っ気無いと言っていいくらいだった。
一人勝手が判らず、まして静止の命令がかけられたままの鳳は、さすがに苛立って宍戸の名を呼ぶ。
「宍戸さん!」
「怒鳴んなって……」
緊迫感には程遠く、しかし宍戸は珍しくあからさまな溜息をついて後ろ首に手を当てた。
「お前がキレると止めらんねえよ」
「つまりそういう状況なわけですか」
「長太郎」
止められないと言いながら、まるっきり鳳を窘めるような言い方で宍戸は言って。
けれどもひどく生真面目に鳳を見据えてきた。
「俺がそっちに行くからまだ動くなよ」
「…………………」
はっきり言ってそんな言いつけを守るのもそろそろ限界だと鳳は宍戸の目を強く見つめた。
宍戸は、それよりもっと強い視線で、鳳に念押しするような目をしてみせてから、足元の男を見下ろした。
脛を押さえている所を見ると、恐らく宍戸が蹴ったようだった。
「そういうわけだ。俺じゃ話にならねえよ。他当たってくれ」
そうして宍戸は教室から出てきた。
「…………………」
「帰るぜ。長太郎」
しかし、そう言われても。
とてもすぐには頷けずにいる鳳を。
宍戸はまっすぐな目で見上げてきて、低く言った。
「おい。俺はお前に嫉妬されんのは嫌いじゃないが、疑われんのは嫌だぜ?」
「………宍戸さん…」
不意打ちの言葉で、鳳から過剰な力が思わず抜ける。
「お前に大事にされんのも好きだ。でも、お前が全部守る必要はねえよ」
強い光の湛えられた目に淡い笑みを滲ませて。
宍戸は歩きながら話し始めた。
同級生に、そういう意味で迫られて、言葉で言っても納得しないで詰め寄ってくるから蹴っちまった所でお前が来た、と至極あっさりと。
端的に、そして簡潔に、宍戸は言った。
内容は、ほぼ鳳の予想通りのもので、しかし実際に宍戸の口から聞かされると、それがどれだけあっさりとした口調であったとしても鳳は憮然となっていく自分が止められなかった。
「…………………」
宍戸は自分自身の事にはまるで無頓着でいるが、実際こういう告白やら呼び出しやらは少なくないらしい。
無論宍戸が逐一言ってくる訳はなく、大抵テニス部の三年生達が、見るに見かねたような場合を選んで鳳に申告してくるのだ。
「…………………」
ほっそりと伸びやかな手足や首筋の印象は、いっそ繊細であるのに。
宍戸の眼差しは強い。
深くて、きつく、真直ぐだ。
その怜悧な目を実直に向けながら、荒い言葉を使って、仄かな優しい後味を残す大切な言葉をくれる人。
そんな宍戸から、ふいに見せられる気持ち良いくらいの素直なリアクションや衒いのない笑顔が、いったいどれだけの強い力でもって、人を彼へと傾倒させていくのかを。
好きになったら見境も何も全てなくなる、それだけの効力がある宍戸という存在を、誰よりもよく理解し、そして捉えられている鳳は、本気で宍戸を欲しいと思った相手の飢餓感を見縊る事は到底出来なかった。
不機嫌に、というわけではなく黙り込んで歩く鳳を、少し先を行く宍戸が肩越しに振り返って見てくる。
「なあ」
「……はい?」
「お前、さっき本当に聞こえてなかったのか?」
「………何がですか?」
宍戸は、鳳があまり見たことのない表情を浮かべていた。
苦笑いに、少し甘さを煮詰めたような。
「結構でかい声で怒鳴ったんだぜ…」
「何を…?」
「俺を好きに出来るのは長太郎だけだ!って」
「…………………」
鳳は息をのんだ。
宍戸がひどく印象的に長い睫毛を伏せた。
「勝手に名前出して悪かったけどな」
「え?……いえ、そんなことは全然」
「死ぬほど好きだ。長太郎」
「……、宍戸さ…?」
立て続けの言葉に驚愕させられ、鳳は思わず宍戸の肩に手を伸ばした。
向き合った。
宍戸は鳳を見上げて言った。
「だからお前は自惚れてろよ」
「…………………」
不安になるなと暗に潜ませ、宍戸は笑う。
「…………物凄いこと…言いますね。宍戸さんは…」
「そっか?」
「物凄く嬉しくて……ますます心配に……」
「何でだよ」
呆れ返ったような宍戸の反応に、鳳は笑うに笑えない気持ちで宍戸の両肩に手を置いた。
「キスしても…?」
「好きにしろ」
「好きです」
「…………ン…」
ゆっくりと押し当てた唇。
上向いてキスを受け止めてくる宍戸へ、唇を重ねたままキスの角度を幾度か変える。
細くて固い肩。
熱くて柔らかな舌。
相反するようなものたちが、複雑に、デリケートに、折り重なって出来ている、成り立っている、そんな人を腕に抱き締め、口付ける。
鳳は知っていた。
宍戸は。
いくら好きだと言われても、それで自惚れていられるような相手ではない。
それは、自分が持っているものが。
いくら好きだと言っても、それで伝わりきれるような感情ではないからだ。
一緒にいたいなら何でわざわざその日に一緒にいられなくなるような喧嘩するかな、とぼやいたのは親友の伊武で。
正論だけどさ、とその都度神尾は答えて、当日までの数日間、たっぷりと落ち込んだ。
当日、つまりはクリスマスイブ。
跡部との喧嘩の原因は、それだ。
十二月はテストがあったりしてあまり会えない日が続いていて。
中旬過ぎに漸く、互いの時間が合った。
そこで神尾は呼ばれるまま跡部の家に行き、そして。
実際顔を合わせると、そこからはもう、碌に話をする間もなく跡部に腕を取られた。
抱き竦められ、口付けられた。
神尾も何も言えなくて、跡部の背を抱き返す方がどれだけ雄弁に気持ちを現せるか知る。
キスを受け入れて、舌を貪られる方が、どれだけか。
会いたかったと、伝えられている気がして。
ベッドに押さえ込まれても何一つ抗わなかった。
口付けられながら服を脱がされ、跡部らしくないような急いた所作で身体を探られ、拓かれていく。
まともな会話もないまま、ずっとキスを交わし、抱かれていた。
どれくらいか時間が経って、ぐったりとベッドに身体を投げうって、跡部が手遊びに髪に触れてくるのを受け入れているうち、窓の外はもう暗くなっていた。
冬場はこうしてどんどん暗くなるのが早くなる。
漸くぽつぽつと言葉を口にしあうようになる頃にはもう、神尾は帰らないといけなくなっていた。
車を出させると言った跡部に、自転車だからと首を振り、乗れるわけないだろうと呆れたように言われて神尾は赤くなる。
跡部が危惧する程、辛くない。
それよりも、徐々に落ち着いてきてみれば。
ひたすら跡部を欲しがった自分の行動が省みるにつけ恥ずかしくて、神尾はとにかく一人で帰りたかったのだ。
こんな状態では、家族と顔を突き合せられるかも危うい。
車が嫌なら歩いて送っていくと言った跡部の誘いも、同じ理由で、大丈夫だからと断って。
何だか身体中、隅々まで、跡部でいっぱいになっているような自分は、これ以上跡部といたらますますどうにかなるかもしれないと神尾は真剣に思ってしまう。
身体よりも跡部の説得の方に大分苦労したが、神尾はひとまず、一人で帰宅することとなった。
家についたら連絡しろと跡部が言ったので、部屋に入ってからメールをする。
すると返事は、メールではなく、電話でかかってきた。
「跡部?」
「さっき聞くの忘れたが」
忘れたというより、そんな余裕も暇もなかったという方が正しい気がする。
神尾は思わず赤くなる。
電話越しの跡部の声は、数時間前までの、耳元で聞こえた詰めた荒い呼気を思い起こさせる。
「お前、二十四日の予定は?」
「………………」
クリスマスイブ。
改まってクリスマスの話をするなんていう真似は神尾には到底出来なくて、だから跡部が何でもない事のようにそれを口にしてきて神尾は少しだけ胸の辺りが痛くなった。
「………予定?」
「いかにもお前の所は全員集合してクリスマスって感じだな」
学校の事を言われているのか家の事を言われているのか判らなくて、神尾は返事を詰まらせる。
「ホテルでもアミューズメントパークでもレストランでも、行きたい所言ってみな」
それこそ何でも叶えてくれるのだろう。
跡部は。
「昼間用事があっても、夜からなら会えるだろ」
「………………」
「欲しいものがあるなら、一年に一回くらい聞いてやるから言っておけ」
素っ気無いような言い方だけれど、冷たくはない。
でも、何故だか神尾は寂しくなる。
何でだろう?と考えて。
携帯からの跡部の声を聞いていると、次第に理由がはっきりしていく。
神尾の中で。
「………………」
クリスマスに、誰かと過ごす事に慣れている跡部が。
場所でも、物でも、何でも思いのままに出来る跡部が。
「……おい? 聞いてんのか?」
自分にも、きっとこれまでしてきた事と同じようにするクリスマス。
「神尾」
「…………いい」
「ああ?」
「クリスマス……跡部と会わない」
どこにも行かない。
なんにもいらない。
「てめえ………」
悔しいのか寂しいのか判らないまま力なく詰った神尾の言葉を拾って、跡部の声が剣呑と尖る。
「どういう意味だ」
「…………クリスマスなんか」
俺と会わなくていい。
神尾はそう言って電話をきった。
跡部は本気で怒ったと思う。
その後電話はかかってこなくて、短いメールが一通だけ送られてきた。
『勝手にしろ』
それだけだ。
「……………ヤキモチ…やいたのかなあ…俺」
ふとそんな風に神尾は思って、でも、跡部を怒らせないヤキモチのやきかたなんて知らないし、とひとりごちる。
「………クリスマスなんてなけりゃいいのに」
ひどく神尾は落ち込んで、クリスマスまで毎日溜息をつくような日々を過ごした。
結局そうして迎えたクリスマスイブは、学校で終業式を済ませて、部活の延長のようにテニス部の仲間とファーストフードでチキンを食べた。
馬鹿だよねえ、と伊武には最後までぼやかれた。
馬鹿だよなあ、と神尾はしみじみと判っていた。
どこにも行かなくていい。
なんにもいらない。
それは本当で。
でもひとつだけ間違えたという事が判っていた。
一緒には、いたかった。
跡部と。
「…………………」
浮かれたような街中の雰囲気に溜息をついて、神尾は友人達と別れた後、帰途につく。
日暮れる間際の最後の明るさの中、ひどく疲れたような気持ちで歩いていく。
あまり進まない足取りでのろのろと歩いていた神尾は、ふと、途中にあるマンションの前の集積所に、捨て置かれているおもちゃのピアノに気付いて足を止めた。
黒いプラスチックのおもちゃのピアノ。
「…………クリスマスプレゼントに本物貰って、捨てられちゃったのか?」
そんなに古いもののようにも見えなくて。
思わず小さく呟きながら屈むと、神尾は人差し指で鍵盤を叩いた。
ひとつ音がこぼれた。
おもちゃのピアノでしかない音。
壊れてはいない、でもクリスマスに捨てられてしまったおもちゃのピアノ。
「…………………」
泣くのかな、と人事のように神尾は思った。
跡部と出会ってから、自分はよく泣くようになった
今も、こうして屈み込んだまま、何だかもう泣きそうになってしまって。
でも。
「どこ座ってんだ」
「…………………」
抑揚の無い、いっそ冷たいような声が振ってきて。
神尾は唖然と顔を上げた。
「俺の許可も無しに勝手に捨てられてんじゃねえ」
「………跡部……」
不機嫌極まりない顔で、跡部は立っていた。
神尾の前に。
「…………………」
跡部の名を口にしたきり、何も言えなくなって。
ただ跡部を見上げるしかない神尾を、跡部も暫くそうして見下ろしてくるだけだった。
「誰がクリスマスにこんなところにお前を捨てた」
「…………跡部…?」
「ふざけるな。俺がそんな真似するか」
問いかけに答えたのではない。
神尾には、もう跡部の名前を呼ぶしか出来なかっただけだ。
しかし跡部は腹を立てたように吐き捨てて、神尾の前に屈んできた。
「お前は俺を捨てたいみたいだがな」
「ちが、……」
「ああ? どう違うのか言ってみろよ」
「…、俺は……」
「…………………」
「なんにも、いらない……」
「…………………」
「跡部が、…今までのクリスマスに、誰かにしてきたみたいなこと、なんにもいらない」
「…神尾」
「……んだよ…っ…」
自棄になって神尾は怒鳴った。
「妬いたら、駄目なのかよ……!」
「………バーカ」
「馬鹿だよっ」
「ああ、馬鹿だな」
本心から跡部がそう言っているのは神尾にもよく判って。
でも半ば涙目で神尾が睨みつけた跡部は、小さく笑っていた。
「バーカ」
「…………っ……」
伸びてきた跡部の手に荒く髪をかきまぜられて、揺すられた反動で涙が零れてしまう。
それでも唇を噛んで、尚も跡部を睨み返している神尾に、跡部は次第に苦笑いする顔になった。
「嫉妬するのもヘタクソだな。お前」
「…………んなの…、知らね…よ…っ…」
「お前相手で、誰かにしたような事なぞって通じる訳ねえだろうが」
第一クリスマスなんて、と言った跡部の言葉は、そこで途切れた。
キスのせいで。
「…………………」
軽く重ねるだけのキスで跡部は唇を離す。
溜息交じりの苦笑を唇に刻んだまま、跡部は捨てられていたピアノに目を落とした。
そして。
「…………………」
綺麗な指で、おもちゃの鍵盤を爪弾き、弾いたのは。
耳慣れたクリスマスソングだった。
「…………跡部……」
「…………………」
おもちゃのピアノでクリスマスソングを弾く跡部をじっと見つめて、結局神尾はまた泣いた。
曲が終わって、軽くピアノを撫でた跡部の手が神尾の手を握り込んで立ち上がる。
「お前の希望通り、何にもねえイブだ。文句ないだろ」
「………なんにもなくなんか、ないよ」
神尾の欲しいものだけが、ここにはある。
「跡部が知ってる事も、跡部が知らない事も、オレの中にはいっぱいあるんだよ……?」
それは全部跡部の事。
「…………………」
神尾の眦の涙を吸うように、口付けられたこのキスも。
おもちゃのピアノで弾いてくれたクリスマスソングの事も。
今つないでいる、この手の温かさも。
神尾の欲しいものだけがある、クリスマスイブだった。
正論だけどさ、とその都度神尾は答えて、当日までの数日間、たっぷりと落ち込んだ。
当日、つまりはクリスマスイブ。
跡部との喧嘩の原因は、それだ。
十二月はテストがあったりしてあまり会えない日が続いていて。
中旬過ぎに漸く、互いの時間が合った。
そこで神尾は呼ばれるまま跡部の家に行き、そして。
実際顔を合わせると、そこからはもう、碌に話をする間もなく跡部に腕を取られた。
抱き竦められ、口付けられた。
神尾も何も言えなくて、跡部の背を抱き返す方がどれだけ雄弁に気持ちを現せるか知る。
キスを受け入れて、舌を貪られる方が、どれだけか。
会いたかったと、伝えられている気がして。
ベッドに押さえ込まれても何一つ抗わなかった。
口付けられながら服を脱がされ、跡部らしくないような急いた所作で身体を探られ、拓かれていく。
まともな会話もないまま、ずっとキスを交わし、抱かれていた。
どれくらいか時間が経って、ぐったりとベッドに身体を投げうって、跡部が手遊びに髪に触れてくるのを受け入れているうち、窓の外はもう暗くなっていた。
冬場はこうしてどんどん暗くなるのが早くなる。
漸くぽつぽつと言葉を口にしあうようになる頃にはもう、神尾は帰らないといけなくなっていた。
車を出させると言った跡部に、自転車だからと首を振り、乗れるわけないだろうと呆れたように言われて神尾は赤くなる。
跡部が危惧する程、辛くない。
それよりも、徐々に落ち着いてきてみれば。
ひたすら跡部を欲しがった自分の行動が省みるにつけ恥ずかしくて、神尾はとにかく一人で帰りたかったのだ。
こんな状態では、家族と顔を突き合せられるかも危うい。
車が嫌なら歩いて送っていくと言った跡部の誘いも、同じ理由で、大丈夫だからと断って。
何だか身体中、隅々まで、跡部でいっぱいになっているような自分は、これ以上跡部といたらますますどうにかなるかもしれないと神尾は真剣に思ってしまう。
身体よりも跡部の説得の方に大分苦労したが、神尾はひとまず、一人で帰宅することとなった。
家についたら連絡しろと跡部が言ったので、部屋に入ってからメールをする。
すると返事は、メールではなく、電話でかかってきた。
「跡部?」
「さっき聞くの忘れたが」
忘れたというより、そんな余裕も暇もなかったという方が正しい気がする。
神尾は思わず赤くなる。
電話越しの跡部の声は、数時間前までの、耳元で聞こえた詰めた荒い呼気を思い起こさせる。
「お前、二十四日の予定は?」
「………………」
クリスマスイブ。
改まってクリスマスの話をするなんていう真似は神尾には到底出来なくて、だから跡部が何でもない事のようにそれを口にしてきて神尾は少しだけ胸の辺りが痛くなった。
「………予定?」
「いかにもお前の所は全員集合してクリスマスって感じだな」
学校の事を言われているのか家の事を言われているのか判らなくて、神尾は返事を詰まらせる。
「ホテルでもアミューズメントパークでもレストランでも、行きたい所言ってみな」
それこそ何でも叶えてくれるのだろう。
跡部は。
「昼間用事があっても、夜からなら会えるだろ」
「………………」
「欲しいものがあるなら、一年に一回くらい聞いてやるから言っておけ」
素っ気無いような言い方だけれど、冷たくはない。
でも、何故だか神尾は寂しくなる。
何でだろう?と考えて。
携帯からの跡部の声を聞いていると、次第に理由がはっきりしていく。
神尾の中で。
「………………」
クリスマスに、誰かと過ごす事に慣れている跡部が。
場所でも、物でも、何でも思いのままに出来る跡部が。
「……おい? 聞いてんのか?」
自分にも、きっとこれまでしてきた事と同じようにするクリスマス。
「神尾」
「…………いい」
「ああ?」
「クリスマス……跡部と会わない」
どこにも行かない。
なんにもいらない。
「てめえ………」
悔しいのか寂しいのか判らないまま力なく詰った神尾の言葉を拾って、跡部の声が剣呑と尖る。
「どういう意味だ」
「…………クリスマスなんか」
俺と会わなくていい。
神尾はそう言って電話をきった。
跡部は本気で怒ったと思う。
その後電話はかかってこなくて、短いメールが一通だけ送られてきた。
『勝手にしろ』
それだけだ。
「……………ヤキモチ…やいたのかなあ…俺」
ふとそんな風に神尾は思って、でも、跡部を怒らせないヤキモチのやきかたなんて知らないし、とひとりごちる。
「………クリスマスなんてなけりゃいいのに」
ひどく神尾は落ち込んで、クリスマスまで毎日溜息をつくような日々を過ごした。
結局そうして迎えたクリスマスイブは、学校で終業式を済ませて、部活の延長のようにテニス部の仲間とファーストフードでチキンを食べた。
馬鹿だよねえ、と伊武には最後までぼやかれた。
馬鹿だよなあ、と神尾はしみじみと判っていた。
どこにも行かなくていい。
なんにもいらない。
それは本当で。
でもひとつだけ間違えたという事が判っていた。
一緒には、いたかった。
跡部と。
「…………………」
浮かれたような街中の雰囲気に溜息をついて、神尾は友人達と別れた後、帰途につく。
日暮れる間際の最後の明るさの中、ひどく疲れたような気持ちで歩いていく。
あまり進まない足取りでのろのろと歩いていた神尾は、ふと、途中にあるマンションの前の集積所に、捨て置かれているおもちゃのピアノに気付いて足を止めた。
黒いプラスチックのおもちゃのピアノ。
「…………クリスマスプレゼントに本物貰って、捨てられちゃったのか?」
そんなに古いもののようにも見えなくて。
思わず小さく呟きながら屈むと、神尾は人差し指で鍵盤を叩いた。
ひとつ音がこぼれた。
おもちゃのピアノでしかない音。
壊れてはいない、でもクリスマスに捨てられてしまったおもちゃのピアノ。
「…………………」
泣くのかな、と人事のように神尾は思った。
跡部と出会ってから、自分はよく泣くようになった
今も、こうして屈み込んだまま、何だかもう泣きそうになってしまって。
でも。
「どこ座ってんだ」
「…………………」
抑揚の無い、いっそ冷たいような声が振ってきて。
神尾は唖然と顔を上げた。
「俺の許可も無しに勝手に捨てられてんじゃねえ」
「………跡部……」
不機嫌極まりない顔で、跡部は立っていた。
神尾の前に。
「…………………」
跡部の名を口にしたきり、何も言えなくなって。
ただ跡部を見上げるしかない神尾を、跡部も暫くそうして見下ろしてくるだけだった。
「誰がクリスマスにこんなところにお前を捨てた」
「…………跡部…?」
「ふざけるな。俺がそんな真似するか」
問いかけに答えたのではない。
神尾には、もう跡部の名前を呼ぶしか出来なかっただけだ。
しかし跡部は腹を立てたように吐き捨てて、神尾の前に屈んできた。
「お前は俺を捨てたいみたいだがな」
「ちが、……」
「ああ? どう違うのか言ってみろよ」
「…、俺は……」
「…………………」
「なんにも、いらない……」
「…………………」
「跡部が、…今までのクリスマスに、誰かにしてきたみたいなこと、なんにもいらない」
「…神尾」
「……んだよ…っ…」
自棄になって神尾は怒鳴った。
「妬いたら、駄目なのかよ……!」
「………バーカ」
「馬鹿だよっ」
「ああ、馬鹿だな」
本心から跡部がそう言っているのは神尾にもよく判って。
でも半ば涙目で神尾が睨みつけた跡部は、小さく笑っていた。
「バーカ」
「…………っ……」
伸びてきた跡部の手に荒く髪をかきまぜられて、揺すられた反動で涙が零れてしまう。
それでも唇を噛んで、尚も跡部を睨み返している神尾に、跡部は次第に苦笑いする顔になった。
「嫉妬するのもヘタクソだな。お前」
「…………んなの…、知らね…よ…っ…」
「お前相手で、誰かにしたような事なぞって通じる訳ねえだろうが」
第一クリスマスなんて、と言った跡部の言葉は、そこで途切れた。
キスのせいで。
「…………………」
軽く重ねるだけのキスで跡部は唇を離す。
溜息交じりの苦笑を唇に刻んだまま、跡部は捨てられていたピアノに目を落とした。
そして。
「…………………」
綺麗な指で、おもちゃの鍵盤を爪弾き、弾いたのは。
耳慣れたクリスマスソングだった。
「…………跡部……」
「…………………」
おもちゃのピアノでクリスマスソングを弾く跡部をじっと見つめて、結局神尾はまた泣いた。
曲が終わって、軽くピアノを撫でた跡部の手が神尾の手を握り込んで立ち上がる。
「お前の希望通り、何にもねえイブだ。文句ないだろ」
「………なんにもなくなんか、ないよ」
神尾の欲しいものだけが、ここにはある。
「跡部が知ってる事も、跡部が知らない事も、オレの中にはいっぱいあるんだよ……?」
それは全部跡部の事。
「…………………」
神尾の眦の涙を吸うように、口付けられたこのキスも。
おもちゃのピアノで弾いてくれたクリスマスソングの事も。
今つないでいる、この手の温かさも。
神尾の欲しいものだけがある、クリスマスイブだった。
普段は宍戸の言う事なら大抵の事は聞く鳳も、時折、宍戸相手でも絶対譲らず、意見を通してくる事がある。
そういう時の宍戸の心中はといえば。
正直なところ、腹がたつのではなく、その稀な我儘が可愛いような気になっているのだがら、我ながら末期だと宍戸自身が思っていたりする。
「一緒にいたいです」
ひたむきな話し方。
「駄目ですか?」
懸命な声。
「……いや?」
そして一途な目。
それでもう、宍戸は陥落してしまう。
クリスマスに一緒にいたいという鳳の願いも、結局宍戸はそれで聞き入れてしまった。
しかし、元来そういうイベント事に興味がなく、ましてや鳳のような男と共にそんな場に連れ立てば、いったいどれだけ悪目立ちするのかを考えると、宍戸はほとほと気が重くなる。
だからせめて、一緒にはいるが街中に出るのは勘弁しろと言ってみた所、鳳の妥協案はこうだった。
「うちにきませんか?」
家族の人はと言いかけた宍戸に、畳み掛けていくような鳳の言葉はよどみなかった。
弁護士の父親はクリスマスなど関係なく多忙で、姉は当然のように彼氏の所で二人で過ごす。
寂しがりつつも、残った母と祖母は家中のクリスマス装飾やケーキ作りに夢中でいる事。
来客者がいるのなら、それを本当に心待ちにしている事。
「宍戸さんのお家でもクリスマスします?」
「いや? まあ、彼女と過ごす兄貴以外は、顔合わせてケーキ食ってってところだろ」
「じゃあ…あまり遅くならないようにしますから。俺の部屋で一緒にクリスマスっていうのは、どうですか?」
「……まあ…いいけど?」
人目が無いなら、寧ろその方が良い。
それで宍戸はこの案を了承して、鳳の家に行く事にしたのだった。
クリスマスイブ当日、終業式を終え鳳との待ち合わせ場所である昇降口へと宍戸が向かうと、そこには携帯で誰かと話をしている鳳の姿があった。
珍しく、何かに驚いているようなリアクションが遠目にも見て取れる。
「………………」
しかし宍戸に気付くと鳳はたちまち笑顔になって、一言二言何かを言って、さっさと電話をきってしまった。
「……んな慌ててきらなくても構わねーよ」
「ちょうど話が終わった所で」
本当か嘘かは宍戸の知らぬ所だ。
だが鳳が、でも、と言葉を続けたので。
その、ちょっと微苦笑を浮かべるような表情が気になって。
宍戸は眉間を歪める。
「何だよ?」
「すみません」
「何が」
「一つ野暮用が出来ちゃいました。少しだけ寄り道…付き合ってくれますか?」
そんな風に、おっとりと微笑まれて言われれば。
詳しく聞く前からもう頷いてやりたくもなる。
クリスマスイブ。
こうなったらもうとことん付き合ってやろうじゃねえかという心持で、宍戸は片手で鳳を促した。
「行くぞ」
「はい」
素直な頷きと、ふいに大人びる笑みとで、鳳は宍戸と並び、歩き出す。
「どこに寄るって?」
「花屋です」
「花?」
「はい。母が大量に注文したらしくて。取ってこいって」
「へえ……」
「すみません。つき合わせて」
「別に花屋寄るくらいで、すみませんも何もねーよ」
花屋に寄るくらい。
宍戸は、確かにそう思って言ったのだが、実際到着した花屋で用意されていたものを見て思わず絶句した。
「…………………」
「………すみません。無類の花好きなんです。うちの親」
鳳が決まり悪そうな苦笑いを浮かべたのにも絶句したまま、宍戸は鳳が両腕で抱え込んで持ち上げた花束を見つめる。
純白の花束。
白薔薇だ。
「…………す…げー…な…」
長身の鳳が埋もれて見えそうな程の薔薇。
そして。
「ホワイトクリスマスがテーマだとか言ってましたからね……ホワイトマスターピース二百四十本」
「…………………」
宍戸は、その薔薇にも勿論驚いたが、それよりももっと驚愕したのは、二百四十本の白薔薇を抱えても欠片も遜色ない鳳自身にだ。
行きましょう、と促して微笑む優しげな表情で鳳は宍戸を見つめてから歩き出した。
「ブランカーセっていうらしいですよ。こういう透明感のない肉厚な花びらの白の事。こわれた白って意味だとか」
白薔薇の香りは、涼しい甘さで、冷気に溶ける。
クリスマスイブ。
制服姿で数百本の薔薇の花を抱え込む鳳の姿は、はっきりいって凄まじく注目を集めているが、宍戸はこれを悪目立ちとは思わなかった。
集まる視線も感嘆に満ちたものばかりで、要は鳳は溶け込んでいる。
いっそ非日常的な薔薇の花の中に。
こんな真似がさらりと出来る奴もそういないだろうと、宍戸もいっそ敬服する。
宍戸がそんな事を思っていると。
徐に、鳳の歩調が遅くなり、そして。
立ち止まった。
どうしたのかと宍戸もそれに倣って足を止める。
「………長太郎?」
「宍戸さん……」
「何だよ?」
「俺、宍戸さんにお願いがあるんですけど」
「……お願い?」
クリスマスプレゼントでもねだるのか?と宍戸が言うと、そんな感じですと鳳は言った。
突然思い立ったみたいに何を言い出す気になったのかと、宍戸が鳳の言葉を待っていると。
鳳は宍戸にゆっくり向き合った。
「これ……俺の家まで持って貰えますか」
「……は? どこがクリスマスプレゼント…」
「最初に花屋でこれ見た時からずっと思ってたんです」
「長太郎?」
「宍戸さんに似合う。宍戸さんが持ってる所が見たいです」
「………馬鹿かお前」
こんな大量の白薔薇抱えて似合うのはお前くらいだと呆れて。
宍戸は溜息をついたのだが、鳳は引かなかった。
「白も、薔薇も、宍戸さんが似合います」
「……お前なあ…」
「結構重くて……それは申し訳ないなって思うんですけど……でも、宍戸さんが持ってる所が見たいです」
クリスマスに。
そう言って秀麗に笑んだ男の顔に、結局宍戸は弱い。
「……しょうがねぇな」
「宍戸さん」
「…………露骨に嬉しそうな顔するな」
「だって嬉しいです」
気をつけて、と二百四十本の白薔薇が鳳の手から宍戸へと手渡される。
結構重いと言った鳳の言葉はあながち過剰表現などではなく、重い花束など初めて手にした宍戸の腕に、それはずっしりときた。
「………………」
馥郁とした白薔薇の香りごと受け取った花束を抱えて、宍戸が鳳を見上げると。
鳳の目は宍戸を見据えていた。
「……長太郎…?」
「ありがとうございます」
「………何が」
「綺麗で」
「……………」
「勿体無いくらいのイブだなあと」
「アホ」
照れ隠しからではなく、宍戸は悪態をついた。
「いい加減お前が俺見て綺麗だとか言うの、どうにかしろって本気で思うけどよ。勿体無いって何だよ」
「宍戸さん?」
こんなことを言うのは。
別にクリスマスのせいだからじゃない。
「俺は」
「…………………」
「お前でなきゃダメなんだよ」
薔薇は古代エジプトの沈黙の神の象徴だと聞いた事があるが、言わないと伝わらない事もあるのだ。
「宍戸さん、」
薔薇が邪魔して近づけない。
一瞬もどかしそうな顔をした鳳の表情に。
宍戸は。
「これ持ってるうちはお預けだな」
白薔薇の中、笑った。
そういう時の宍戸の心中はといえば。
正直なところ、腹がたつのではなく、その稀な我儘が可愛いような気になっているのだがら、我ながら末期だと宍戸自身が思っていたりする。
「一緒にいたいです」
ひたむきな話し方。
「駄目ですか?」
懸命な声。
「……いや?」
そして一途な目。
それでもう、宍戸は陥落してしまう。
クリスマスに一緒にいたいという鳳の願いも、結局宍戸はそれで聞き入れてしまった。
しかし、元来そういうイベント事に興味がなく、ましてや鳳のような男と共にそんな場に連れ立てば、いったいどれだけ悪目立ちするのかを考えると、宍戸はほとほと気が重くなる。
だからせめて、一緒にはいるが街中に出るのは勘弁しろと言ってみた所、鳳の妥協案はこうだった。
「うちにきませんか?」
家族の人はと言いかけた宍戸に、畳み掛けていくような鳳の言葉はよどみなかった。
弁護士の父親はクリスマスなど関係なく多忙で、姉は当然のように彼氏の所で二人で過ごす。
寂しがりつつも、残った母と祖母は家中のクリスマス装飾やケーキ作りに夢中でいる事。
来客者がいるのなら、それを本当に心待ちにしている事。
「宍戸さんのお家でもクリスマスします?」
「いや? まあ、彼女と過ごす兄貴以外は、顔合わせてケーキ食ってってところだろ」
「じゃあ…あまり遅くならないようにしますから。俺の部屋で一緒にクリスマスっていうのは、どうですか?」
「……まあ…いいけど?」
人目が無いなら、寧ろその方が良い。
それで宍戸はこの案を了承して、鳳の家に行く事にしたのだった。
クリスマスイブ当日、終業式を終え鳳との待ち合わせ場所である昇降口へと宍戸が向かうと、そこには携帯で誰かと話をしている鳳の姿があった。
珍しく、何かに驚いているようなリアクションが遠目にも見て取れる。
「………………」
しかし宍戸に気付くと鳳はたちまち笑顔になって、一言二言何かを言って、さっさと電話をきってしまった。
「……んな慌ててきらなくても構わねーよ」
「ちょうど話が終わった所で」
本当か嘘かは宍戸の知らぬ所だ。
だが鳳が、でも、と言葉を続けたので。
その、ちょっと微苦笑を浮かべるような表情が気になって。
宍戸は眉間を歪める。
「何だよ?」
「すみません」
「何が」
「一つ野暮用が出来ちゃいました。少しだけ寄り道…付き合ってくれますか?」
そんな風に、おっとりと微笑まれて言われれば。
詳しく聞く前からもう頷いてやりたくもなる。
クリスマスイブ。
こうなったらもうとことん付き合ってやろうじゃねえかという心持で、宍戸は片手で鳳を促した。
「行くぞ」
「はい」
素直な頷きと、ふいに大人びる笑みとで、鳳は宍戸と並び、歩き出す。
「どこに寄るって?」
「花屋です」
「花?」
「はい。母が大量に注文したらしくて。取ってこいって」
「へえ……」
「すみません。つき合わせて」
「別に花屋寄るくらいで、すみませんも何もねーよ」
花屋に寄るくらい。
宍戸は、確かにそう思って言ったのだが、実際到着した花屋で用意されていたものを見て思わず絶句した。
「…………………」
「………すみません。無類の花好きなんです。うちの親」
鳳が決まり悪そうな苦笑いを浮かべたのにも絶句したまま、宍戸は鳳が両腕で抱え込んで持ち上げた花束を見つめる。
純白の花束。
白薔薇だ。
「…………す…げー…な…」
長身の鳳が埋もれて見えそうな程の薔薇。
そして。
「ホワイトクリスマスがテーマだとか言ってましたからね……ホワイトマスターピース二百四十本」
「…………………」
宍戸は、その薔薇にも勿論驚いたが、それよりももっと驚愕したのは、二百四十本の白薔薇を抱えても欠片も遜色ない鳳自身にだ。
行きましょう、と促して微笑む優しげな表情で鳳は宍戸を見つめてから歩き出した。
「ブランカーセっていうらしいですよ。こういう透明感のない肉厚な花びらの白の事。こわれた白って意味だとか」
白薔薇の香りは、涼しい甘さで、冷気に溶ける。
クリスマスイブ。
制服姿で数百本の薔薇の花を抱え込む鳳の姿は、はっきりいって凄まじく注目を集めているが、宍戸はこれを悪目立ちとは思わなかった。
集まる視線も感嘆に満ちたものばかりで、要は鳳は溶け込んでいる。
いっそ非日常的な薔薇の花の中に。
こんな真似がさらりと出来る奴もそういないだろうと、宍戸もいっそ敬服する。
宍戸がそんな事を思っていると。
徐に、鳳の歩調が遅くなり、そして。
立ち止まった。
どうしたのかと宍戸もそれに倣って足を止める。
「………長太郎?」
「宍戸さん……」
「何だよ?」
「俺、宍戸さんにお願いがあるんですけど」
「……お願い?」
クリスマスプレゼントでもねだるのか?と宍戸が言うと、そんな感じですと鳳は言った。
突然思い立ったみたいに何を言い出す気になったのかと、宍戸が鳳の言葉を待っていると。
鳳は宍戸にゆっくり向き合った。
「これ……俺の家まで持って貰えますか」
「……は? どこがクリスマスプレゼント…」
「最初に花屋でこれ見た時からずっと思ってたんです」
「長太郎?」
「宍戸さんに似合う。宍戸さんが持ってる所が見たいです」
「………馬鹿かお前」
こんな大量の白薔薇抱えて似合うのはお前くらいだと呆れて。
宍戸は溜息をついたのだが、鳳は引かなかった。
「白も、薔薇も、宍戸さんが似合います」
「……お前なあ…」
「結構重くて……それは申し訳ないなって思うんですけど……でも、宍戸さんが持ってる所が見たいです」
クリスマスに。
そう言って秀麗に笑んだ男の顔に、結局宍戸は弱い。
「……しょうがねぇな」
「宍戸さん」
「…………露骨に嬉しそうな顔するな」
「だって嬉しいです」
気をつけて、と二百四十本の白薔薇が鳳の手から宍戸へと手渡される。
結構重いと言った鳳の言葉はあながち過剰表現などではなく、重い花束など初めて手にした宍戸の腕に、それはずっしりときた。
「………………」
馥郁とした白薔薇の香りごと受け取った花束を抱えて、宍戸が鳳を見上げると。
鳳の目は宍戸を見据えていた。
「……長太郎…?」
「ありがとうございます」
「………何が」
「綺麗で」
「……………」
「勿体無いくらいのイブだなあと」
「アホ」
照れ隠しからではなく、宍戸は悪態をついた。
「いい加減お前が俺見て綺麗だとか言うの、どうにかしろって本気で思うけどよ。勿体無いって何だよ」
「宍戸さん?」
こんなことを言うのは。
別にクリスマスのせいだからじゃない。
「俺は」
「…………………」
「お前でなきゃダメなんだよ」
薔薇は古代エジプトの沈黙の神の象徴だと聞いた事があるが、言わないと伝わらない事もあるのだ。
「宍戸さん、」
薔薇が邪魔して近づけない。
一瞬もどかしそうな顔をした鳳の表情に。
宍戸は。
「これ持ってるうちはお預けだな」
白薔薇の中、笑った。
雪の降るクリスマスは翌年の繁栄を象徴するのだと乾が空を見上げて言った。
本当に、いつ雪が降り出してもおかしくないような冷気に周囲は満ちている。
そんな乾の隣で海堂は、雪の気配よりも、来年の事を考えているのかもしれない乾の心情を酌みたくなる。
しかし、いくら見つめたところで、海堂には判らなかった。
乾の表情から、今乾が何を考えているのかは。
「…………………」
終業式を終え、海堂の冬休み用のトレーニングメニューを作ってあった乾に呼び出され、丁寧な説明を受けた後。
海堂は、乾と肩を並べて歩いている。
それぞれの家へと向かっている。
別れるのは、あと幾つか先の曲がり角。
今日の学校内は、何とはなしに浮き足立っていた。
二学期が終わるせいと、そしてクリスマスイブという日のせいとで。
「…………………」
でもこうして学校を出て、乾と歩いていると、校内のあの喧騒も嘘のように静かだった。
冷たい外気と、慣れた気安い沈黙。
乾の少し後をついて歩きながら、一つだけ普段と違って海堂の気持ちが沈鬱に沈むのは。
乾の両手にある真新しいなめし革の手袋のせいだ。
乾がしている、その見慣れぬ革の手袋は。
今朝は、乾の手には、はめられてはいなかった。
それは何となく、海堂の気持ちを沈ませる手袋だった。
恐らくクリスマスプレゼントなのだろうと海堂は思った。
海堂のクラスでも、可愛らしげなラッピングを施した包みを手にしていた女性陣は多かった。
寒い冬の景色と対照的に、それらは目にひどく華やかだった。
乾もきっと、誰かからか。
クリスマスプレゼントとして、それを貰ったのだろうと思う。
そういう事が出来る相手の行動を、自分は羨んでいるのかもしれないと思う。
自分らしくない。
その思いが海堂を沈ませていた。
好きな相手に、好きと伝える事は難しい。
海堂には取り分けのこと。
思う気持ちばかりが蓄積して、言葉にも形にも、しにくい。
乾は大概よく海堂の真意を酌んでくれる男だったが、例えば海堂にはそれと同じ事が出来ない。
乾を好きで、でもそれは、それだけだ。
そこで止まってしまっている。
海堂の心中で、留まってしまっている。
クリスマスという大義名分があっても、乾に対して、海堂は身動きがとれない。
見つめているだけだ。
僅かな悋気に焼かれるように、手袋を。
「海堂」
「…………………」
そしてもう、幾つか先の曲がり角まで自分達は来てしまっていて。
ここで、いつものように別れて。
それで二人でいるこの時間も終わりだ。
足を止め、ゆっくりと振り返ってきた乾を、海堂はじっと見上げていた。
またな、と動くであろう唇を。
じっと、見ていると。
「…………………」
何も言わないで、乾は。
そっと掠めるように、身体を屈めて、海堂の唇に、キスをした。
消えていくひとひらの雪のように一瞬。
驚いて、声にはならなくて、大きく目を見開いて、海堂は乾を見つめた。
するりと手を取られ、なけなしの死角になっているスペースに身を寄せる。
「……いつかは指輪をはめるんだろうけど」
「…………………」
「今の所は手袋ってことでね」
乾は微笑んで、左手の手袋をはずし、それを海堂の左手へ。
両手で丁寧につける。
そして今度は右の手袋をはずし、同じように海堂の右手へとはめた。
「…………え?」
「クリスマスプレゼント」
温めておきました、と珍しくふざけたような笑み交じりの声で言った乾に、海堂は瞬きを繰り返しながら、自身の手元を見た。
「乾先輩?」
語尾のもつれるような幼い発音になってしまうくらい驚いて。
海堂は、ほんの少し前まで嫉妬するように見ていた手袋が、思いの他かじかんでいた自身の指先をゆるゆると温まらせていくのに感じ入った。
手袋を貰って嬉しいというより、手袋を乾にはめられたのが嬉しいだなんて、そう思ってしまった感情が気恥ずかしかった。
「海堂」
「………………」
乾の右手が海堂の背に回され、そのまま背中側から、海堂の右肩を掴む。
片腕で抱き寄せられ、僅かに首を傾けた乾がゆっくり顔を近づけてくる。
「…………………」
喉を反らせ、唇でキスを受け止める。
触れるなりしっかりと重なってきた唇の感触に海堂は指先に更に熱が灯るような感触を覚える。
「…………、ん」
「…………………」
「……っ…………」
ひどく大切そうに、乾に抱かれているのが判る。
キスの、優しくて、でも強い感情の感じだとか。
それは、クリスマスだからというわけでもないけれど。
クリスマスらしいという気もした。
大事なキスをしている気がする。
「海堂」
乾の左手も海堂の背に回る。
背中で交差された二本の腕で、しっかりと、抱き込まれる。
「いい匂い……」
「………、……」
海堂の首筋に顔を伏せた乾の、低音の声の振動に。
痺れるようになって、海堂は息をのむ。
乾が顔を上げる時、互いの頬と頬とがこすれあった感触の甘さに鼓動が乱れる。
「海堂といると、クリスマスも特別な日みたいに思えるな……」
「………………」
それこそ海堂が思っていたままの事を乾に言われる。
元々自分達は、あまりイベント事に興味がない。
でも、二人でいると、意味が違ってくるように思えた。
「………………」
「……海堂?」
思わず乾の胸元に額を当てるように顔を伏せた海堂は、問いかけてくる声と、しっかりと背を支えている大きな手のひらの感触とに、静かに深い吐息を零す。
ここは、心地良い。
藹々としている。
自分が誰かの腕の中で、こんな思いをするとは、海堂は考えてみたこともなかった。
「やっぱり、アンタの側が落ち着く……」
「………………」
この腕に抱かれると、こんがらがった思考がゆっくり緩んでいくような気がする。
強くなっていく気がする。
力が抜ける気がする。
「もう少しだけ、……側にいてもいいですか?」
手袋をはめた手が温かくて、抱き寄せられている腕の中も穏やかで。
ぽつりと洩らした海堂の言葉に、乾は。
一時の沈黙の後、低く、低く、呟いた。
「………やられた」
その、呻くような声がいとおしくて。
海堂は、乾からは見えないその場所で、微かに、笑った。
本当に、いつ雪が降り出してもおかしくないような冷気に周囲は満ちている。
そんな乾の隣で海堂は、雪の気配よりも、来年の事を考えているのかもしれない乾の心情を酌みたくなる。
しかし、いくら見つめたところで、海堂には判らなかった。
乾の表情から、今乾が何を考えているのかは。
「…………………」
終業式を終え、海堂の冬休み用のトレーニングメニューを作ってあった乾に呼び出され、丁寧な説明を受けた後。
海堂は、乾と肩を並べて歩いている。
それぞれの家へと向かっている。
別れるのは、あと幾つか先の曲がり角。
今日の学校内は、何とはなしに浮き足立っていた。
二学期が終わるせいと、そしてクリスマスイブという日のせいとで。
「…………………」
でもこうして学校を出て、乾と歩いていると、校内のあの喧騒も嘘のように静かだった。
冷たい外気と、慣れた気安い沈黙。
乾の少し後をついて歩きながら、一つだけ普段と違って海堂の気持ちが沈鬱に沈むのは。
乾の両手にある真新しいなめし革の手袋のせいだ。
乾がしている、その見慣れぬ革の手袋は。
今朝は、乾の手には、はめられてはいなかった。
それは何となく、海堂の気持ちを沈ませる手袋だった。
恐らくクリスマスプレゼントなのだろうと海堂は思った。
海堂のクラスでも、可愛らしげなラッピングを施した包みを手にしていた女性陣は多かった。
寒い冬の景色と対照的に、それらは目にひどく華やかだった。
乾もきっと、誰かからか。
クリスマスプレゼントとして、それを貰ったのだろうと思う。
そういう事が出来る相手の行動を、自分は羨んでいるのかもしれないと思う。
自分らしくない。
その思いが海堂を沈ませていた。
好きな相手に、好きと伝える事は難しい。
海堂には取り分けのこと。
思う気持ちばかりが蓄積して、言葉にも形にも、しにくい。
乾は大概よく海堂の真意を酌んでくれる男だったが、例えば海堂にはそれと同じ事が出来ない。
乾を好きで、でもそれは、それだけだ。
そこで止まってしまっている。
海堂の心中で、留まってしまっている。
クリスマスという大義名分があっても、乾に対して、海堂は身動きがとれない。
見つめているだけだ。
僅かな悋気に焼かれるように、手袋を。
「海堂」
「…………………」
そしてもう、幾つか先の曲がり角まで自分達は来てしまっていて。
ここで、いつものように別れて。
それで二人でいるこの時間も終わりだ。
足を止め、ゆっくりと振り返ってきた乾を、海堂はじっと見上げていた。
またな、と動くであろう唇を。
じっと、見ていると。
「…………………」
何も言わないで、乾は。
そっと掠めるように、身体を屈めて、海堂の唇に、キスをした。
消えていくひとひらの雪のように一瞬。
驚いて、声にはならなくて、大きく目を見開いて、海堂は乾を見つめた。
するりと手を取られ、なけなしの死角になっているスペースに身を寄せる。
「……いつかは指輪をはめるんだろうけど」
「…………………」
「今の所は手袋ってことでね」
乾は微笑んで、左手の手袋をはずし、それを海堂の左手へ。
両手で丁寧につける。
そして今度は右の手袋をはずし、同じように海堂の右手へとはめた。
「…………え?」
「クリスマスプレゼント」
温めておきました、と珍しくふざけたような笑み交じりの声で言った乾に、海堂は瞬きを繰り返しながら、自身の手元を見た。
「乾先輩?」
語尾のもつれるような幼い発音になってしまうくらい驚いて。
海堂は、ほんの少し前まで嫉妬するように見ていた手袋が、思いの他かじかんでいた自身の指先をゆるゆると温まらせていくのに感じ入った。
手袋を貰って嬉しいというより、手袋を乾にはめられたのが嬉しいだなんて、そう思ってしまった感情が気恥ずかしかった。
「海堂」
「………………」
乾の右手が海堂の背に回され、そのまま背中側から、海堂の右肩を掴む。
片腕で抱き寄せられ、僅かに首を傾けた乾がゆっくり顔を近づけてくる。
「…………………」
喉を反らせ、唇でキスを受け止める。
触れるなりしっかりと重なってきた唇の感触に海堂は指先に更に熱が灯るような感触を覚える。
「…………、ん」
「…………………」
「……っ…………」
ひどく大切そうに、乾に抱かれているのが判る。
キスの、優しくて、でも強い感情の感じだとか。
それは、クリスマスだからというわけでもないけれど。
クリスマスらしいという気もした。
大事なキスをしている気がする。
「海堂」
乾の左手も海堂の背に回る。
背中で交差された二本の腕で、しっかりと、抱き込まれる。
「いい匂い……」
「………、……」
海堂の首筋に顔を伏せた乾の、低音の声の振動に。
痺れるようになって、海堂は息をのむ。
乾が顔を上げる時、互いの頬と頬とがこすれあった感触の甘さに鼓動が乱れる。
「海堂といると、クリスマスも特別な日みたいに思えるな……」
「………………」
それこそ海堂が思っていたままの事を乾に言われる。
元々自分達は、あまりイベント事に興味がない。
でも、二人でいると、意味が違ってくるように思えた。
「………………」
「……海堂?」
思わず乾の胸元に額を当てるように顔を伏せた海堂は、問いかけてくる声と、しっかりと背を支えている大きな手のひらの感触とに、静かに深い吐息を零す。
ここは、心地良い。
藹々としている。
自分が誰かの腕の中で、こんな思いをするとは、海堂は考えてみたこともなかった。
「やっぱり、アンタの側が落ち着く……」
「………………」
この腕に抱かれると、こんがらがった思考がゆっくり緩んでいくような気がする。
強くなっていく気がする。
力が抜ける気がする。
「もう少しだけ、……側にいてもいいですか?」
手袋をはめた手が温かくて、抱き寄せられている腕の中も穏やかで。
ぽつりと洩らした海堂の言葉に、乾は。
一時の沈黙の後、低く、低く、呟いた。
「………やられた」
その、呻くような声がいとおしくて。
海堂は、乾からは見えないその場所で、微かに、笑った。
乾がデータ収集に没頭するのはいつもの事だ。
でも今日に限って海堂がそれを咎めたのには、海堂なりの言い分があった。
乾が彼自身の為に無茶をするなら、もう少しは黙っていられたのだ。
しかし、部活後に、乾に誘われて。
立ち寄った乾の部屋で、海堂の調整メニューを一から見直し始めた乾の、そのあまりの専念ぶりに。
海堂は次第に眉根を寄せていった。
乾が海堂の為だけにつくるメニューは、海堂にとって、必要不可欠なものになっている。
でも、その半面で、ただでさえ時間の足りない生活を送っている乾に、自分の為だけに根を詰めさせているという事実は時折海堂を悩ませた。
そこまでさせてしまっていいものだろうかと、実際幾度か口に出した事もある。
大抵乾は笑って、いいよ、と優しい声をくれるのだが、それを聞いても海堂にはその事が気がかりだった。
そうして今日のように、目の前で海堂のデータをつくることに没頭する乾を見てしまったものだから、海堂は思わず、その言葉を乾の背に向かって投げていた。
「データと俺と、どっちが大事なんですかっ」
口調は海堂自身が考えていたよりも荒くなってしまって、でも呟くくらいの声量でしかなかったのに、乾はすぐに振り返ってきた。
海堂は、腹がたったというよりも、呆れてその言葉を乾にぶつけたのだが、乾は傍目に見てもはっきりと判るくらい狼狽しているように見えた。
「海堂」
「……………」
上擦っても、低い声。
乾が立ち上がって、海堂の正面に近づいてきた。
大きな手に肩を掴まれる。
思いのほか強い力に、自分のデータをつくらせておいて、あの言い草はなかったかと海堂が躊躇した隙をつくようにして乾に押し倒される。
ほとんどもつれこむ勢いで、海堂は腰掛けていたベッドに身体を沈められた。
海堂の背で、毛布から空気が抜ける音がする。
「乾先輩、……」
きつく抱き締められたまま押し倒されたものの、乾から、怒りの乱暴な気配は伝わってこなかった。
それどころか、これではまるで。
「…………乾先輩…」
「………………」
しがみついてくるようだと。
海堂は思った。
自然と、固い背をあやすように手を伸ばしてしまう。
「乾先輩…」
「………………」
多分、同じような台詞を今までにも言われた事があるんだろうと、海堂は乾の背を下から抱き締めながら思った。
馬鹿な事を言ったと、急激に悔やむ気持ちが湧き出てきて、そっと乾の背を擦った。
あんな言い方、よりにもよって自分が。
決して言うべきではなかったと。
ちゃんと、思ったままを言えばよかったと。
海堂は小さく息をついた。
「……俺の事で、あんたに無理して欲しくないって意味だ……変な言い方してすみません」
「………海堂」
やっと口を開いてくれた乾に少し安心して、海堂は身体の力を抜いた。
言葉のうまくない海堂にはそれ以上言いようがない。
乾の返事を待っていると、乾は、感触で探り当てるような少々即物的なやり方で唇を重ねてきた。
「ン、………」
唇から、ベッドに押さえ込まれるように口付けられて、海堂は乾のシャツを握り締めた。
容赦なく絡んでくる舌に呼吸を奪われ、海堂は口をひらく。
そこに尚も乾の舌が、深みを探って落ちてくる。
「………ぅ…」
ああ、不安がらせた、と思って。
荒い乾のキスで、気付いて。
海堂は、乾にひとしきり、深いキスで唇を貪られた。
「…………トラウマっすか…?」
散々に口付けられた唇は、まだ痺れるようで。
キスが止むなり掠れた声で問いかけた海堂は、乾の返事を待たないで、すみません、ともう一度言った。
乾なら絶対に聞かれていそうな事を。
乾なら絶対に返答に詰まりそうな事を。
何も自分まで言う事なかった。
「……お前と比べられるようなもの、俺には何もないよ」
「………………」
「俺が好きになってもいいのかって、そんな事したらまずいんじゃないかって、思うくらい大事なんだ」
熱のこもった乾の言葉に。
かきくどくような声音に。
乾を抱き締めながら、海堂は胸を詰まらせる。
そんな乾の思いに、見合う自分なのかは判らないけれど。
「俺にはよく判ん無いっすけど……」
乾の言う言葉。
でも。
「多分…あんたは間違って無いっすよ」
俺は、嬉しいから、と海堂は乾の耳元で言った。
「海堂?」
今顔を見られるのは本当に恥ずかしくて、顔を上げたそうにした乾の首に取り縋るようにして海堂は腕を回した。
「……俺は…あんたがそういう風に言ってくれるの、嬉しいから」
そして。
好きだ、という、海堂からの言葉は。
声という形になる前に、乾のキスで甘く潰された。
海堂の両腕が乾の首の裏側に絡んだまま。
強引な口付けをされ、声にはならなかった。
けれど、その言葉の染みた海堂の唇は、幾度も幾度も乾のキスにからめとられて、乾の中へと伝わっていく。
言葉も感情も感覚も。
重ねた唇から互いへと、沈んでいくようなイメージで。
判る事の出来るキスがある。
でも今日に限って海堂がそれを咎めたのには、海堂なりの言い分があった。
乾が彼自身の為に無茶をするなら、もう少しは黙っていられたのだ。
しかし、部活後に、乾に誘われて。
立ち寄った乾の部屋で、海堂の調整メニューを一から見直し始めた乾の、そのあまりの専念ぶりに。
海堂は次第に眉根を寄せていった。
乾が海堂の為だけにつくるメニューは、海堂にとって、必要不可欠なものになっている。
でも、その半面で、ただでさえ時間の足りない生活を送っている乾に、自分の為だけに根を詰めさせているという事実は時折海堂を悩ませた。
そこまでさせてしまっていいものだろうかと、実際幾度か口に出した事もある。
大抵乾は笑って、いいよ、と優しい声をくれるのだが、それを聞いても海堂にはその事が気がかりだった。
そうして今日のように、目の前で海堂のデータをつくることに没頭する乾を見てしまったものだから、海堂は思わず、その言葉を乾の背に向かって投げていた。
「データと俺と、どっちが大事なんですかっ」
口調は海堂自身が考えていたよりも荒くなってしまって、でも呟くくらいの声量でしかなかったのに、乾はすぐに振り返ってきた。
海堂は、腹がたったというよりも、呆れてその言葉を乾にぶつけたのだが、乾は傍目に見てもはっきりと判るくらい狼狽しているように見えた。
「海堂」
「……………」
上擦っても、低い声。
乾が立ち上がって、海堂の正面に近づいてきた。
大きな手に肩を掴まれる。
思いのほか強い力に、自分のデータをつくらせておいて、あの言い草はなかったかと海堂が躊躇した隙をつくようにして乾に押し倒される。
ほとんどもつれこむ勢いで、海堂は腰掛けていたベッドに身体を沈められた。
海堂の背で、毛布から空気が抜ける音がする。
「乾先輩、……」
きつく抱き締められたまま押し倒されたものの、乾から、怒りの乱暴な気配は伝わってこなかった。
それどころか、これではまるで。
「…………乾先輩…」
「………………」
しがみついてくるようだと。
海堂は思った。
自然と、固い背をあやすように手を伸ばしてしまう。
「乾先輩…」
「………………」
多分、同じような台詞を今までにも言われた事があるんだろうと、海堂は乾の背を下から抱き締めながら思った。
馬鹿な事を言ったと、急激に悔やむ気持ちが湧き出てきて、そっと乾の背を擦った。
あんな言い方、よりにもよって自分が。
決して言うべきではなかったと。
ちゃんと、思ったままを言えばよかったと。
海堂は小さく息をついた。
「……俺の事で、あんたに無理して欲しくないって意味だ……変な言い方してすみません」
「………海堂」
やっと口を開いてくれた乾に少し安心して、海堂は身体の力を抜いた。
言葉のうまくない海堂にはそれ以上言いようがない。
乾の返事を待っていると、乾は、感触で探り当てるような少々即物的なやり方で唇を重ねてきた。
「ン、………」
唇から、ベッドに押さえ込まれるように口付けられて、海堂は乾のシャツを握り締めた。
容赦なく絡んでくる舌に呼吸を奪われ、海堂は口をひらく。
そこに尚も乾の舌が、深みを探って落ちてくる。
「………ぅ…」
ああ、不安がらせた、と思って。
荒い乾のキスで、気付いて。
海堂は、乾にひとしきり、深いキスで唇を貪られた。
「…………トラウマっすか…?」
散々に口付けられた唇は、まだ痺れるようで。
キスが止むなり掠れた声で問いかけた海堂は、乾の返事を待たないで、すみません、ともう一度言った。
乾なら絶対に聞かれていそうな事を。
乾なら絶対に返答に詰まりそうな事を。
何も自分まで言う事なかった。
「……お前と比べられるようなもの、俺には何もないよ」
「………………」
「俺が好きになってもいいのかって、そんな事したらまずいんじゃないかって、思うくらい大事なんだ」
熱のこもった乾の言葉に。
かきくどくような声音に。
乾を抱き締めながら、海堂は胸を詰まらせる。
そんな乾の思いに、見合う自分なのかは判らないけれど。
「俺にはよく判ん無いっすけど……」
乾の言う言葉。
でも。
「多分…あんたは間違って無いっすよ」
俺は、嬉しいから、と海堂は乾の耳元で言った。
「海堂?」
今顔を見られるのは本当に恥ずかしくて、顔を上げたそうにした乾の首に取り縋るようにして海堂は腕を回した。
「……俺は…あんたがそういう風に言ってくれるの、嬉しいから」
そして。
好きだ、という、海堂からの言葉は。
声という形になる前に、乾のキスで甘く潰された。
海堂の両腕が乾の首の裏側に絡んだまま。
強引な口付けをされ、声にはならなかった。
けれど、その言葉の染みた海堂の唇は、幾度も幾度も乾のキスにからめとられて、乾の中へと伝わっていく。
言葉も感情も感覚も。
重ねた唇から互いへと、沈んでいくようなイメージで。
判る事の出来るキスがある。
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