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How did you feel at your first kiss?
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 きざはしを駆け上がって乱れきった呼吸を繰り返しながらいつもはお終いにするところで、もう一回だけ、とねだってみたら、細い腕に緩慢に抱き寄せられた。
「……宍戸さん?」
「………俺はもう、なんにも出来ねーからな…」
 瞬きすら力なく、気だるい浅い呼吸をしながらの掠れ声で宍戸にそれでも許されて。
 もう誕生日は昨日のことなのに、素っ気なさそうに、でもとびきり優しいようにそんな無理をのんでくれる年上のひとの頬を鳳は両手で包んだ。
 覆い被さって、ゆっくりと。
 まだ濡れている唇を塞ぐ。
「ん、………」
「………………」
「………ん…、…」
 息を継ぐ。
 さらりとした唇を舌先で舐める。
 また合わせて、重ねて、探って。
 濡れた感じだとか、乱れる感じだとか、唇や舌にからみついてきて、身体中が甘だるい。
「……、……ふ……ぁ…」
 深いキスに胸を喘がせて呼吸する宍戸の、小さな顔に指先を這わせながら鳳は長いことキスをした。
「………もう一回って、これ、か?」
 キスだけが続く状況に、宍戸が語尾のもつれた声で鳳を見上げてくる。
 眉根を寄せているその不機嫌な感じがひどく綺麗だった。
「今日、何の日か知ってます…? 宍戸さん」
「お前の誕生日の次の日」
「…じゃ、明日は俺の誕生日の次の次の日?」
 笑う鳳に、宍戸は目つきをきつくする。
 綺麗な上に可愛いなあと鳳はうっかり見惚れてキスを拒まれた。
「……うわ、…ごめんなさい」
「……………」
「怒らないで宍戸さん」
「…………おまえな…たった一回キス避けただけで焦んなよ」
「焦りますよ。…今の分、していい?」
「ほんと欲しがりな。お前」
「いい?」
「甘ったれ」
「宍戸さん」
 泣くなバカと言われて、泣いちゃいませんけどと鳳は笑った。
 小さく唇で触れる。
 幾度も唇を重ねる。
「今日はね、古代ローマの祭典のうちの一つで、ルパーカスに捧げる日なんです」
「……ん?」
「神官が鞭を持って街を走りまわって、途中で会った女性を鞭で叩く日」
「はあ?」
 キスを繰り返している最中なのに構わず宍戸は大きな声をあげた。
 それくらいで負ける鳳ではないから、それでもキスは続ける。
「変な祭りじゃないですよ?」
「充分変だろ」
「悪霊や侵略者から街を守る意味と、女性が多産を与るために」
「………わけわかんねー…」
「バレンタインの翌日にねえ?」
「でもたしか、そのバレンタインだって、誰かが死刑にされた日なんだろ」
「聖バレンタインがローマ政府に逆らって殉教した日ですね」
 会話の合間のキスなのか、キスの合間の会話なのか判らなくなってくる。
 恐ろしい月だなと宍戸がついた溜息も、鳳は飽きずに丁寧に奪った。
「………っ…ん」
「宍戸さん。眠そう」
「別に眠くねえよ」
「そうですか?」
 髪を撫でつけながらキスを繰り返していると、とろりと瞼が下りてくる宍戸が目前に見てとれて、鳳は、眠っていいですよと囁いた。
「…………もう一回…とか、言ってなかったか……長太郎……」
「許してくれるなんて思ってなくて」
「………んだよ……言っただけかよ……」
「……ですね」
「アホ」
「………宍戸さん?」
「嘘つくの、ほんと下手な。お前」
 眠そうな目で睨まれた。
 全部お見通しなのだろう。
 鳳は微苦笑し、宍戸の背を抱きこんだ。
 片手で宍戸の指先を握りこむと、ほんのりとゆるい体温で、しっかりと指先まで温かい。
「……くそ……だめだ、ねむい」
「はい」
 寝ましょうと鳳は宍戸を抱き締めながら囁く。
 したいと言ったのも、眠ろうと言うのも、どちらも鳳の本音だ。
「悪い、長太郎、明日な」
「…………宍戸さ…?…」
 唐突に気だるく持ち上げられた宍戸の片腕が鳳の首にかかる。
 宍戸から鳳へと与えられたものは、完全に鳳が受身でいるキスだ。
「………………」
 悪ぃ、と呟く宍戸の声。
 明日という埋め合わせを匂わす言葉。
 今適えてやれない事を侘びるようなキス。
「………………」
 唇を離した宍戸は、鳳の胸元に寝床を求めるようにもぐりこんできて、目を閉じた。
 たちまち深い眠りに落ちていく。
「……宍戸さん」
 甘やかしながら甘えてくる不思議な人。
 ありのまま、何も飾らずにいて、目が離せなくなる人。
 鳳の唇に残る余韻は、大人っぽいキスというより、甲斐性のある惚れ直したくなるようなキスだ。
「………叶わないなあ…」
 長い時間、繰り返し繰り返し口付けた、鳳のキス全部より。
 宍戸からの一回のこのキスの方がどれだけ雄弁であるかを思って。
 負けと判っても、鳳は幸せだった。
 おやすみなさい、と宍戸の髪に唇を押し当てて、鳳も目を閉じる。
 誕生日は終わってしまうものだけれど。
 宍戸はこうして、鳳の腕の中で今日も眠っている。
 宍戸を抱き締めて、鳳は眠っていられる。
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 発端は不二だった。
 海堂眠そうだね、と朝練前の部室で海堂に声をかけてきたのだ。
 ちょうどその時あくびをかみころしていて、若干潤んだ目の海堂は、いつもの深い溜息と供に言った。
「………先輩は寝言でも『データ、データ』ってブツブツ言ってウルサイんス」
「へえ」
 楽しそうに微笑んだ不二に海堂は気づかず着替えの手をすすめる。
 そんな海堂の真横に並んで、不二も着替えを始めながら穏やかに話を続ける。
「乾は寝言の時は声大きいんだ?」
「別に大きくは。普段と似たような…それより小さいかくらいっスけど…」
「へえ」
 でも聞こえて困るくらいなんだと言った不二に、こくりと海堂は頷く。
「……うわ…降参」
 いきなり声を出して笑い出した不二に、漸く海堂がいぶかしむ顔になる。
「……は?」
「僕の負け」
「何がっすか?」
「不二。負けと認めたのならすぐに退散」
「乾先輩?」
 そのうえ突然に現れた乾が事も無げに不二をあしらおうとするのにも面食らい、海堂は目上の二人を交互に見やっている。
「あの……」
「あれ、ひどいな乾。そんな追い払うみたいに」
「追い払ってなんかないさ」
「そうかなぁ」
「そうだよ」
「海堂は、素直だね」
「は?」
 いきなり話をふられてこられて海堂はまたもや全くその展開についていけない。
「乾も少しは海堂を見習えばいいのに」
「お前もな。不二」
「、さっきからいったい何の話……」
「海堂」
「………、…」
 にっこりと笑う不二が海堂の両肩に手を置いた。
 目線は自分よりも下にあるのに、ひどく存在感の強い不二に一瞬言葉を詰まらせた海堂は、不二の手によって乾の元へと押し出される。
「はい。乾」
「………あの、不二せんぱ……」
 そっと乾に差し出される。
 海堂が肩越しに振り返ると、不二はもう背を向けていて、楽しげな足取りで歩いていってしまっていた。
「………………」
「どうした? 海堂」
「訳が判らねえよ……あんたたち」
「そうかな? 極めて判りやすい構図だったじゃないか」
 海堂が可愛くて、不二は面白がって、俺はからかわれて。
 乾はそう言って、海堂はやっぱり訳が判らない。
「それで今は、海堂は意味が判らない、俺はちょっとヤキモチやいてる。簡単だろ?」
「ヤキモチって何だよ」
 ますます話を難しくする一方の乾を睨みつけて、海堂は不機嫌になった。
 乾にヤキモチをやかれるような事は何もない。
「………俺みたいに口下手で無愛想な奴、先輩意外に誰が面倒見るんですか」
「面倒、か」
 そうしてとうとう笑い出した乾に海堂は不機嫌を通り越し腹をたてた。
 これ以上何を言っても意味ないと思って乾に背を向ける。
「………待って」
「……………、…っ……、…」
 足早に部室を出て行こうとしたところを背後から長い腕に巻き込まれるように抱き寄せられて、海堂がぎょっとしたのを正しく悟って宥めるように。
 海堂の耳元で乾の囁く声がした。
「大丈夫。誰もいない」
「………、離…」
「それとね。俺は面倒なんかみてないよ?」
「………………」
「不二も言ってたろ? 海堂は素直だからそんな風に騙されてくれてるけどさ」
「騙されて……って何っすか」
「面倒みてますなんて見せかけて、ほんとのところ俺違うだろ?」
「……あんたの本当の所なんて、あんたにしか判らないんじゃないのかよ…」
「うーん……そのへんのことは海堂以外にはバレバレっぽいよ?」
「…、悪かったな…!」
 それは自分だけが乾の事を判らないと言われたようなもので、海堂は考えるより先に荒げた声をあげて乾の腕を振り切った。
「………っと…」
「……、……」
 しかし乾は今度は正面から海堂を抱き締めてきた。
 それも今度はもう振りほどけない。
「海堂。待った」
「………、……何なんだよ…あんたは…!」
「だから、面倒みてますって素振りで海堂を独占しようとしてるだけの俺だろ」
「………ああ?」
「俺って、言い回しとか態度、そんなにまわりくどいタイプかな?」
 珍しく弱っているような乾の口ぶりに、僅かに海堂の溜飲も下がって、海堂は抗うのを止めた。
「……だから判りにくいって言ってるじゃないっすか」
「………じゃ…不二の忠告も聞いて、海堂見習って素直になるからさ。怒るなよ」
「………………」
 相手にあまえてこられると強くは出られなくなる自分を熟知している海堂は、嘆息交じりに肩の力を抜く。
「先輩とテニスがあれば、俺は他に何もいらない」
「海堂」
「………俺が単純だから、あんたは七面倒くさくても構わねえよ」
「…………駄目だ…降参。俺の完全なる敗北だ……」
 先程の不二と似たような事を口にする乾が、海堂にはやはりよく判らなかった。
 
 ものすごい力で抱き締めてくる乾が、海堂にはやはりよく判らなかった。
 よし、と意を決して神尾は跡部の胸倉を両手でぐっとつかみしめた。
「跡部!」
「…ああ?」
 掴みかからんばかりの神尾の勢いに、秀麗な目を不機嫌そうに細め、跡部は凄む声で返してくる。
 こんなにガラが悪いのに。
 全然下品にならない。
 すごくおかしな男だ。
 跡部景吾。
 そのうえ神尾がつかんだ跡部の胸倉をいくら全力で引っ張っても跡部はびくともしない。
 まるで動かない。
 詐欺だ。
 そんなに大柄な男じゃないのに。
「………ったく」
 溜息まで大人っぽい。
 悪態まで美声だ。
 ずるい。
「されるだけでいるのにすっかり慣れやがって」
 何か勝手な勘違いをして、跡部は神尾の首の後ろを強い力で鷲掴みにしてきた。
 跡部の顔が急激にアップになったのを見て、慌てて神尾は声をつくして叫んだ。
「違う!」」
「ああ?」
「チ、チューして欲しかったら俺の言うこと聞けよ!」
「ば、か、か、てめえは」
 して欲しいのはてめえの方だろうがと吐き捨て、跡部が強引に神尾の唇を塞ぎにかかってくる。
 神尾は全身全霊でその身体を押し返した。
「俺の言うこと聞こえねーのかよ! 馬鹿跡部!」
「てめえにだけは言われたくねえ言葉だな」
「や、っ」
 跡部の胸倉を掴みに行ったのは神尾から。
 でも押しのけているのも神尾から。
 それが気に食わないらしくどんどん悪人面になって跡部は神尾を束縛し口付けようとするから傍目に二人は格闘しているようにしか見えない。
「ふざけんな! 嫌がってんじゃねえよ!」
「ばかばかばかっ。人の話聞け、ばかっ」
 何故だか跡部は時々気が短い。
 そういう時は子供っぽい。
 こんな風に。
「てめえが俺に、何の話があるってんだ。ああ?」
「ある! ばか! 俺真剣なんだからな! ちゃんと聞けよ…!」
 相手を引き剥がしたい神尾と、引き寄せたい跡部との、力比べみたいになっていて。
 形勢不利で息をきらして叫んだ神尾の声は弾みで上擦り、すると跡部の手の力が突然に弱くなった。
 徐々にではなく、いきなり動きが止まった。
「…………ぁ…?」
 いきなりだったので神尾が面食らって見つめた先、跡部は何とも言えない表情をしていた。
 すごく怒って、すこし戸惑うような。
 皮肉に笑って、ひどく狼狽するような。
 神尾にはうまく言えない跡部の表情。
「………跡部?」
「……何の話だ」
 聞いてはくれて。
 でも何で、そんな慄然とした顔で。
 取り繕ったような無表情を装って。
「………………」
 返答如何では殺されそう、なんてことまで神尾は思ってしまった。
 そんな跡部の顔。
 美形は三日で見飽きるんじゃなかったのかよと、神尾はどこぞで聞いた事のある言葉を思い出しながら、じわりと頬が熱くなるのが判った。
 神尾は跡部の胸元のシャツを握り締めたまま、俯いた。
 整いすぎるほど整った顔から目を逸らせて、神尾は言った。
「一回くらい好きって言ってくれよぅ……」
 それだけだ。
 神尾が欲しいもの。
 聞きたい言葉。
 それを聞かせてくれたら、幾らだって、キス、を。
「…………っ…」
 自分がねだっている物の恥ずかしさを今更ながら思い知らされた気分で神尾は完全に顔を上げられなくなる。
 掠れたような自分の声が、冗談に紛らわせる事も出来なくしていて、言っておきながら居たたまれなくなった。
「…………、っ」
 背中に。
 跡部の両手がするりと回って、やんわりと抱きこまれたのが判って、もう余計にだ。
「…てめえだって言った事ねえくせして」
「…………俺、は……!」
 優しい、抱き締め方。
 何だかくらくらしてきて。
 意地悪ばかりするから、一度くらい好きだって言って欲しいと思っていたはずなのに。
 こんな風に優しくされたら、今度はどうしたらいいか判らない。
「ま、今日は言ってやる。欲しいからな」
 チューとやらがな、と意地悪く言って笑っているらしい跡部に。
 抱き締められたまま。
 神尾が思いもしなかったような声で、好きだ、と囁かれた。
「…………、……」
「好きだ」
 抱き締めてくる手に力がこもって。
 顔は見えないけれど、ひどく生真面目に聞こえる口ぶりで、低くも甘い声音で。
 囁かれて。
 ぐったりと脱力させられた神尾は、上向くように頭の後ろを跡部の手に掴まれた。
「オラ、お前の言う事は聞いてやった。しろよ」
「………ぇ…?」
「キスだよ。しろ。早く」
 神尾を見下ろす跡部は、顔を近づけてはくるけれど、いつものように彼からは唇を塞いでこない。
 あくまでも神尾の方からしろと言う様に、至近距離で止まっている。
「………………」
 淡い色彩が幾重にも折り重なっている怜悧な面立ちを眼下に晒されて、神尾は息を詰まらせた。
「おい」
「………無理…」
 今更でも何でもとにかく無理だ。
 こんな綺麗な顔してる男に自分の方からチューだとか。
「俺様の事なめまくってやがるなテメエは…!」
 かなり本気で怒っている跡部は、今しがたまでの甘い抱擁が嘘みたいに手荒く神尾を抱き締めて。
 かぶりつくような手加減無しの口付けを神尾から奪った。
「……ッ…、…ン…」
「………ぼろぼろに泣かす」
「ぁ…………」
 凄む跡部がかわいいと、ふと思った。
 今なら出来るかもと、ふと思った。
 神尾は跡部の唇の表面に、ちゅ、と触れるだけのキスをおくる。
「………、…テメ…」
「…………跡部…」
 完全に面食らったような跡部の表情は見慣れなくて、何だかほっとして、神尾は。
「………もっと?」
 そっと尋ねた。


 その後の神尾は、跡部に散々に抱き潰された。
 悪いのはみんなお前だと跡部に不機嫌極まりない顔で言われた神尾は。
 本当に、跡部という男。
 自分勝手な王様だと思うのだった。 
 指先を揃えた鳳の手が、丁寧な動きで宍戸の目の前に翳された。
 宍戸が我に返って目を瞠り、見つめたその手が、そっと、伸びかけの宍戸の前髪を横に撫で付けていく。
 優しい手。
 誰にでも。
「…………………」
「ね、宍戸さん……」
「………んだよ」
「どうしたんですか」
 優しすぎる程に優しい男の口調は柔らかく、でも問いかけてくる瞳は翳りを帯びている。
 休日に、鳳の部屋にいて。
 考え事に沈んでいた宍戸を、責めるのではなく、気遣う目だ。
 近頃格段に鳳は大人びてきた。
 以前だったら、こと宍戸が絡むと疑問や不安を露にするところがあったけれど。
 今はそれをこらえて自然に促そうとする。
 聞き出そうとする。
 そうやって、違うやり方を覚えて。
 一層優しくなって、一層強くなって、一層大人になって。
 一人で。
「…………………」
 そんな鳳が宍戸は不安だった。
 後ろについてきているのが当たり前のような人懐っこさで、ずっと、鳳は宍戸の側にいたけれど。
 今は、次第に遠のいていっている気がしてならなかった。
 そして、そういう不安を、今の鳳には気づかれてしまう。
 隠せない。
「宍戸さん。何か…心配事ですか?」
「いや? 別に何もねーけど」
 こんな事だけは。
 絶対に言いたくないと思って。
 宍戸は鳳の目を見て首を振った。
「…………宍戸さん」
 それは、勘弁して、と鳳が呻くような声を出す。
 いきなり大きな身体を縮めるようにして、鳳が、宍戸を身包み抱きこんできた。
「…………………」
 宍戸の喉下に鳳は顔を伏せ、力を込めたいのを我慢するような感じで抱き締めてくる鳳に、宍戸は小さく息をのむ。
 泣き言のような言葉。
 縋りつくような抱擁。
「………長太郎?」
 小声で宍戸が問いかければ、今でも従順に、鳳の視線は引きあがってくる。
「……何かあるのに、何もないって返されるの、しんどいです」
「…………………」
「俺を見る時に。俺といる時に。ああいう顔をするのに」
「…………………」
 低い声を聞いて、宍戸は無意識に鳳の頭部に手を伸ばす。
 指先を浅く沈ませた鳳の髪は柔らかい。
 静かに撫でつけると、仕草は本当に甘えるように、鳳は宍戸を抱き締めてきた。
「長太郎」
 抱き締められて、ほっとする。
 その側からまた、不安になる。
「宍戸さん。俺にどうして欲しいですか」
「…………………」
「宍戸さんが言うなら俺は何だってする。どんな事だってする。だから」
 俺といる時に寂しそうな顔しないで、と懇願した声は。
 甘えて言うそれではなく、邪気のない後輩のそれでもない。
 声を聞いて、言葉が響いて、息も胸も詰まって口を噤む宍戸を、鳳は両腕で尚も抱き締めた。
 傷つけたのかもしれないと知り、宍戸に出来るのは、そうではないのだという思いだけで鳳の髪をすくくらいしかない。
「俺に……何か望んで欲しいです。宍戸さんはそういうの、何にもいらないって思うかもしれないけど」
「…………………」
「俺に、して欲しい事があったらいいのに」
 ひとつでもいいからと鳳は呟いた。
「…………んなもん聞いてどうするんだよ」
「あるんですか」
 突然鳳が物凄い勢いで顔を上げてきて宍戸は狼狽した。
 鳳は鳳で、まるで全く予想していなかった言葉を聞かされたような顔で宍戸を見つめてくる。
「俺に望んでること。あるんですか」
「…………………」
「だったら……あるんだったら、それを下さい」
 それが欲しいですと言った鳳は、怖いくらい厳しい表情をしていて。
 宍戸は、ここ最近の疲労困憊しきった神経が何だかぷっつりと切れたような気になった。
 鳳の胸元に、顔を伏せる。
「俺をおいていくな」
「俺は追いかけるのに必死です」
「…………………」
 即答した鳳に後ろ髪を撫でられる。
 熱のこもった所作だった。
「俺が先に行くんじゃない。宍戸さんが」
 離れてく、ときつく抱き締められた。
 鳳の胸に、腕に、包み込まれて、抱き潰されるように強く。
「………どこから離れるって言うんだよ」
 こんな。
「こんなに」
 きつく。
「抱き締めといて……」
 声も出ない。
 抱擁の強さ。
 でも、宍戸はそうされていたかった。
「宍戸さん」
 離れていかないでと請う男に、おいていかないでと願う自分。
「自分でも嫌になるくらい独占欲にまみれてんだ……」
「俺はそんな宍戸さん知らないです」
 真摯な鳳の言葉にかぶりを振って、宍戸は最後に痞えているものを吐き出した。
「もっと俺を欲しがれよ!」
 叫んだ瞬間、身体がバラバラになりそうなくらいきつく抱き締められた。
 そんな剥き出しの鳳の感情が、苦しくて、幸せだと宍戸は泣き笑いする表情になる。
 誰にでも優しい男。
 自分には取り分け優しい男。
 そんな鳳が、激情をぶつけるのは自分にだけだったらいい。
「……そんなこと、俺なんかに許して、どうするんですか」
「………………」
 歪められた目が、飢えた声が、かぶりついてくるようなキスが。
 どれだけ嬉しいか。
「……長…太郎……」
「………、………」
 離れていく唇がまだ欲しくて。
 唇から僅かに伸ばした舌先で、宍戸は鳳の唇の表面を小さく舐めた。
「……、宍戸さん」
「……ン……っ」
 嵐に巻き込まれるように、床に組み敷かれ、唇をむさぼられながら、宍戸は。
 全ての暗澹たる思いが、全て払拭された訳ではないにしろ。
 今の、この鳳が愛しくて。
 何をされてもいいと思って。

 身体を拓いた。
 手塚に呼ばれた乾は、手塚に向けて判ったと言うなり振り返り、海堂の事を呼んだ。
「悪い。少しそこで待っててくれる?」
「………………」
 海堂が小さく頷いたのを見てから乾は手塚の元へ向かう。
 何とはなしにその背を見送り、海堂は首にかけたタオルでこめかみからの汗を拭う。
「………………」 
 約束というほどの約束ではない。
 部活のさなかに、終わった後残れる?と言ったのは乾だ。
 いきなり屈み込んで海堂のふくらはぎに手を当ててそう言ったので、恐らくメニューの修正か何かのようだ。
 手塚に呼ばれたのならわざわざ自分に確認とらなくても帰りはしないのにと少し呆れて。
 そういえば前にも似た様な事があったのを海堂は思い出した。
 口に出してそれを告げた時、海堂は手塚崇拝主義者だからなあと乾に苦笑いされたのだ。
「かーいどう。乾のこと、そんなに好き?」
「………………」
 いきなりすぎる程いきなり、軽やかにそんな声をかけられ海堂は固まった。
 背中に飛び掛ってくるようにぶつかってきた身体。
「………………」
 部内で、海堂に対して、可愛がりたいという態度を顕著に表すのが、乾と、そしてもう一人。
 この菊丸だ。
 入部当初は菊丸のスキンシップにも大概戸惑った海堂だったが、最近はこれでも幾らか免疫が出来て、前ほどは激しくうろたえなくなった。
「薫ちゃん?」
 背後からぐっと顔を近づけてきた菊丸の大きな目を目の当たりにして。
 幾らかの慣れと、そして。
 こんなにも性格は違うのに、何故か同類意識で自分に構ってくる菊丸に、海堂も時折素になって言葉を返してしまう事があって。
 でも、そういう時の菊丸がひどく嬉しそうなので、最近何となく海堂は菊丸に対して肩の力が抜けている。
「ね。乾のこと、そんなに好き?」
「……好きなんじゃない」
「うん?」
 すごく好きなんだと小さくもはっきりと口に出してしまってから、海堂は急に我に返った。
「……、…ッ……」
「あー…大丈夫大丈夫」
 飛びのきかけたところを力で抱え込むように菊丸に抱きつかれ。
「俺しか聞いてないよ、大丈夫!」
「………っ……、…」
 宥められてしまった。
 まるで噛んで含めるみたいにだ。
「…………………」
 でも実際菊丸は、乾がいる時は割合盛大にからかってくる事が多いけれど、海堂一人の時は無闇に突付いてくるような事はしない。
 乾曰く、お兄ちゃんぶりを発揮しているという事らしい。
「あ。乾が睨んでるー」
「…………………」
 海堂を抱き締めたまま菊丸は明るく笑い、もっと抱きついちゃえーと言って力を入れてくる。
「うわー。走ってくるよー」
 愛されてるなあと、さらりと言われた言葉が。
 海堂の耳に優しく残った。


 あまり余裕のない顔で駆け寄ってきて、菊丸を引き剥がし、怒りたいのか泣きつきたいのか微妙な声で、乾は海堂の名を口にする。
「………海堂…!」
「先輩って」
「何」
「意外と子供っぽいんですね」
 自覚はあるのか咄嗟に言葉に詰まった乾を見つめて。
 海堂は、恐らく乾だけが判る範囲で。
 かすかに。
 わらった。
「………そういうアンタも嫌いじゃないッスよ」
「…、海堂」
 たまにはそういう風に、慌てる乾を見るのもいいと海堂は思う。


 言葉を考えあぐねている乾の姿は、海堂の目にも、優しく残った。
 肩を丸めて身体を縮めて、泣きじゃくるような呼吸を未だ引きずる神尾の背に、跡部が手のひらを宛がうと、綺麗に浮き出た肩甲骨が羽ばたき損ねた羽の様にぎこちなく動いた。
「………戻ってこれないのか」
「………………」
 目が合っているのに、神尾は跡部を探すような顔をする。
 上気した顔や、浅く忙しない呼吸。
 瞬くと睫毛にもつれるような涙がはっきりと見え、跡部は神尾の目元を手で拭いながらベッドの縁に腰掛けた。
「神尾」
「………………」
 聞こえてるかと静かに問いかけた跡部の手に擦り寄るようにして神尾の身体がまた小さく丸まった。
「おい……?」
「あとべのて、きもちいい……」
「…………………」
 片手にしがみつかれるような体勢に、跡部は片手を神尾に預けたまま、身体を並べるようにして横たえる。
 そうやって、横になって顔を見合わせると、尚も涙に潤んでいる目を震わせるようにして神尾がぽつんと呟いた。
「跡部、キレー……」
「…………………」
 どっちがだよと跡部は微かに眉間を歪める。
「……跡部の瞳ってビー玉みたいにキラキラしててきれくて好き」
 だからどっちがだと。
 濡れそぼる黒い瞳の眦を跡部は指先で辿った。
 跡部のその手にも擦り寄ってくるような神尾の仕草は何の媚もなく、寧ろ普段は感じ取れないいたいけさが色濃くて跡部はそのまま神尾を胸元に抱き寄せた。
「…………………」
 跡部が抱いた後の神尾はいつもこんな風で、最中にむさぼった快感の代償ように力ない。
 ぐったりとしている神尾の身体を、跡部が自分の上に乗せてしまっても、くたりとのびている子猫のようにおとなしい。
 跡部の胸に顔を伏せている神尾の小さな頭に、跡部は両手の指先をもぐらせて、撫でるようにあやし続けると。
 少しずつ神尾の荒いだ呼吸が和いでいくのが跡部の手のひらに伝わってきた。
「…………………」
 抱きたいと思う衝動はいつでも強く、そうやって抱いた後にうまれるひどくやわらかくて繊細な飢餓感を、跡部は神尾で知った。
「………なにゴソゴソやってんだ」
「…………ねむい…」
「寝りゃいいだろ」
「……おりる………」
「おりなくていい」
「………ぇ…?……でも…さ……」
「でもじゃねえよ」
「…………おもいだろ?…」
「どこが」
 跡部が強引に腕を回して、身じろぐ神尾を引き寄せると。
 何だか熱っぽい感触が胸に当たって、そのゆるい熱さが跡部の深いところにも浸透してくる。
「…………………」
 なだめて、あやして、寝かしつけたい欲求なんて、聞けばどこの母性か父性かという感じだが、生憎どちらにも当てはまらない己を跡部は熟知していた。
「苦しくねーの?……」
「…………………」
「……あとべ…?」
 抱いた後に殊更。
 手放したくなくなる。
「あとべ」
 朝になればまた、やたらと元気のいい、威勢のいい、笑って怒って目まぐるしい神尾になるのだろうけれど。
 今は。
 とろとろと甘い惰眠のように柔らかい神尾を抱き締めて。
 手のひらの下の滑らかな背中を感じて。
 跡部は静かに眠りに沈んだ。

 眠っている間でも。
 意識のない間でも。
 跡部には、もう、手放せなかった。
 昼間、学校にいる間は極力目立たぬように包帯などは巻きたくないから、夜の間に使うようにしている。
 宍戸は包帯の片端を口に銜え、腕の内側の薄い皮膚の擦過傷を覆ったガーゼを包帯で固定するよう、腕に巻きつけていく。
「どうせやったら怪我の始末もあいつにさせたらええのに」
「………………」
 そんな風な声が聞こえて、宍戸一瞬手を止める。
 顔を上げなくても誰かくらいは判るから、宍戸は無言のまま、作業を再開した。
「…貸し」
「いい」
「どうせ明日には取るんやろ。今くらいちゃんと巻いとき」
 暗い部室の窓辺。
 そこだけに月明かりが微かに射し、宍戸は忍足に巻きかけの包帯を奪われる。
 器用な男は宍戸の数倍手馴れた仕草で包帯を巻いた。
「そんな気配尖らさんでも」
 苦笑めいた含みの声で忍足が言うのに、宍戸は目つきをきつくする。
 宍戸が本気で睨み上げる先、忍足は飄々とした表情をしている。
 威嚇するのは触れられたくない事を持っているから。
 宍戸自身それは判っていて、だから平然とそれを指摘する忍足に過剰に反応をしてしまうのだ。
「出来たで」
「……サンキュ」
「礼なんかいらんがな」
 そう言いながらもどこか嬉しそうな顔で笑った忍足は、そのままの表情で低く囁いた。
「鳳がいてよかったわ」
 何でもないような一言が、今の宍戸にはこの上なく重い。
「………どういう意味だよ」
「あいつ、手貸せてええな」
 俺がしてやれんのはこれくらいやな、と忍足が宍戸の腕の包帯を目線で示す。
 毒舌でならしている忍足という男は、けれども自分の仲間に対しての気配りは細かく、何だかんだと雰囲気をよんではフォローにまわる体質だ。
 宍戸は忍足と一緒に自分の包帯に落とした目線を引き上げ、小さく吐き捨てる。
「……テニスに手助けなんか望んだ時点で、俺は負けてんだよ」
 八つ当たりではなかった。
 単なる本音だ。
 宍戸の声音の変化に忍足は肩を竦めた。
「それがなんや?」
「………………」
「かまへんやん。力貸してくれるっちゅーのに甘えて、なんぞ悪いことあるんか?」
 俺なんかここぞとばかりに甘えるしと臆面もなく言った忍足の態度に、ふと宍戸の気も緩んでしまう。
「………アホ…お前が岳人に甘えたおしてんのは普段のことだろうが」
「テニスしてる時やて、頼るとこは頼る」
 飛べへんもん俺、と真顔で言うから宍戸はとうとう微苦笑した。
「俺が言ってんのはそういう事や」
「………あ?」
 唐突に切り返されて宍戸は忍足を見返した。
 目が慣れて、月明かりでも大分表情が細かく見て取れる。
「好きな奴が、自分のこと判ってくれて、側におってくれんの、嬉しいやん。そういう相手がいてくれんのやったら無茶でも何でもしたろって気になるわ」
「……す、………」
「鳳がそうなのはバレバレやけど」
 お前もな?と笑みを深める忍足に、宍戸は絶句して、結局心情を吐露するうろたえた表情を粗方忍足に晒してしまう。
「安心しぃ。お前の事まで判ってんの俺くらいや」
 あとうちの部長な、と忍足がからかうように付け加えるので。
 宍戸は最悪だと呻くしかない。
 忍足と跡部以外の人間が全員知っているという方がどれだけかいい。
「一目惚れしあってんのに、両思いなのバレバレやのに、何年片思いのつもりで過ごすんや? お前ら二人」
「…………うるせえ」
 両思いかどうかなんて判るかと吐き捨てれば、呆れ返った盛大も盛大な溜息を忍足から返される。
「……ほんまもんのお馬鹿さんやなー」
「ふざけんなっ」
「ふざける余裕なんかあるかいな。全力で脱力中や」
 ふてぶてしい態度で言った忍足は、その後はひどく興味深そうに宍戸を眺め続けるばかりで。
 その視線にどこか居たたまれなさを覚え始めた宍戸は、思わず零してしまう。
「……しょうがねーだろ」
「何がや?」
「………指が…」
「……ん?」
「指が、…触れるだけでも心臓が止まりそうになるんだ」
 歯噛みするように吐き捨てて、だからそんな思いをする相手に、今。
 こんな事を頼る自分がどれだけ苦痛か。
 何故か自分に懐いていて、無茶だと言いながらも毎晩こんな事に付き合ってくれている気の良い後輩の好意に、これ以上つけ込める訳もない事とか。
 いっそ自虐的に暴露した本心に。
 苛立つ宍戸に投下された忍足の言葉は。
「お前……むちゃくちゃかわええな」
「………っ…、……」
 あまりに感慨たっぷりに呟かれ、宍戸は激怒した。
 ラケットバッグを手にとって、部室の扉を叩き壊す勢いで閉めて外に出る。
 よりにもよって忍足に本音を洩らしてしまった己に、本心からうんざりして。
「…………可愛いわけあるか、俺が…っ」
 いっそ本当に、ほんの少しでも可愛ければ、こんなに長いこと片思いなんて真似をせずに済んだのかもしれない。
 勝手に好きでいるだけだから。
 余計な事言うなと頭の中で。
 忍足を罵倒し続け宍戸は帰途につく。

 それでも。
 丁寧に巻かれた包帯。
 それが現す忍足の心配りには謝する思いがあるから、翌日もう一日だけ、宍戸の腕にその包帯は巻かれたままだった。
 気づかれないように息を詰めたのに。
 気づかわしいように頬を撫でられた。
 海堂は掠れた声で乾に告げる。
「初めてじゃねえっすよ……」
「……うん。でもね」
 乾のそれは、はっきりと欲情している声なのに。
 寸でで踏みとどまれて、海堂は乾を睨み上げる。
 多分、さほどきつい目にはなっていないのだろうと、海堂自身判っていた。
 折り重なって、擦れあって、触れ合っている身体は放熱するように熱い。
 お互いに。
「無理させてるって自覚はあるんだ」
「………何が無理だよ」
「そこのところ言葉にしたら怒るだろ。海堂」
 乾がちょっと笑った。
 汗に濡れた彼のこめかみを、涙に濡れた目で見上げて。
 滲むような熱が一層酷くなる。
 欲しくて堪らないのはお互い様で、交わす言葉は双方とも熱を含み、それなのにこんなところで敢えて耐え忍んでいるような真似をするのも大概おかしな話だと思う。
 普段から至極淡々としている乾が欲を剥き出しにしてみせる稀有なこの瞬間を、時折焦がれるような思いで海堂は欲している。
 気遣わなくていいから。
 もう幾度も幾度も繰り返している事なのだから、したいようにすればいいと思う。
 喉が痛むような熱気をはらんだ息を唇からぎこちなく逃がしながら、海堂は乾の頬に手を差し伸べ返した。
「無理なことなんて何もしてねえよ」
「……海堂?」
「あんたにされて嫌なことなんて何もない」
 欲しがる気持ちを伝えきれているか、そればかりを懸念して、海堂は乾を見つめた。
 応えはすぐに与えられる。
「海堂、俺が最初にお前を抱き締める時、お前は必ず震えるってこと、判ってるか」
 優しいけれどきつくもある目で乾からも見据えられ、囁かれた言葉に海堂は瞬いて目を伏せる。
 羞恥は一瞬で。
「…………………」
 すぐに顔を上げ、海堂は乾の頬に触れ合わせた指先をそっと滑らせていく。
「あんたの手…冷たいくせに、」
「…………………」
「触れられるとそこがなんだか熱いんだよ…」
「……海堂」
「………嫌がってるわけでも…怖がってるわけでもない」
 だから、と。
 海堂は自分から乾の首に両手を絡める。
「先輩に触れてる間は、年の差とか、男同士だとか、忘れられる…」
 呟くだけの声。
 それを乾は流さなかった。
「忘れなくていいよ」
「…………………」
 熱っぽい囁きと一緒にすくい上げるように背筋を抱かれる。
 痛いくらいに抱き締められて、引き合うように噛み合わせたキスへ、のめり込む。
「知ってていい。全部。だから俺は海堂を好きなんだから」
「…………………」
 何の迷いもなく乾はそう言った。
 何の問題もない事のように。
「先輩」
「うん」
 乾の手に髪を撫でつけるように頭を数回撫でられながら、間近から目を覗きこまれる。
 そういう一連の仕草は、甘やかされているものだと判っていながら、逆らうのはひどく難しかった。
 じっと見返す先、乾の表情が変化していくのも。
 海堂を急激に、深い処まで、追い詰めていく。
「海堂」
 手繰り込むようにお互いの指を絡める。
 海堂は、何を気づかれてもいいと思って身体をひらき、乾は、気づかわしさをかなぐり捨てて身体を押し進める。
 つなげられるところは全てつないで、こんなに近くにいる相手が見えなくなるくらい。
 見失いそうになるくらい。
 激しさにまかれても、怖くはない。

 知ってていい。
 判ってていい。
 だから好きなのだと乾が言ってくれるなら。
 海堂に怖い事は何もない。
 留守番をする事になった。
「ここには誰も来ないが、万が一誰かが訪ねてきても、絶対にドアを開けるな」
「……信用ねーなー……俺、ちゃんと応対くらい出来るぜ?」
 そういう事を言ってるんじゃねえと跡部に凄まれ、訳わかんねえと神尾は唸った。
 跡部の家にやって来て、小一時間も経たないうちに跡部の携帯が鳴った。
 テニス部の監督からの呼び出しである。
「急ぎの用なんだろ? 早く行けよ」
 何故か跡部は神尾にしてみればどうでもいいような事を念押ししているばかりで、なかなか出て行かない。
 神尾の方が気が急いてしまう。
「跡部」
「俺が帰ってくるまで絶対にここから出るな」
「……あのなあ……! 近くだとしても、買い物に出る時は俺だって鍵くらいかけるってば」
「そういう事言ってんじゃねえって何遍言わす」
「おんなじ回数訳わかんねーって俺に言わせておいてそういうこと言うか?」
 喧嘩なんかしてる暇ないだろうにと思いながらも、ついつい神尾は跡部に食ってかかってしまった。
 すると。
 舌打ちが聞こえて。
 後ろ首をつかまれて。
 神尾は思わず首を竦めた。
「…、…………」
「………誰もここに入れるな」
「………………」
「飽きて帰ったりするな」
「……跡部?」
 何だか声の感じが違って聞こえる。
 不思議に思って目を開けた神尾の唇に、跡部の唇が掠った。
 キス、された。
「………………」
「どこのいかれた野郎に手出されるか判ったもんじゃねえからドアは開けるな。俺じゃない奴と二人きりになったりするな。まだ帰したくないから帰らないでくれ。……こう言や判るのか。てめえの馬鹿な頭でも」
「ば、……!」
 馬鹿とか言われてむかつくし、からかってくる態度にも腹がたつのに。
 それなのに。
 何だか気分がひどく甘くなって、神尾の罵声は敢無く途切れた。
 間近に見る跡部の顔とか、言葉の調子ほど茶化した様子のない目だとか。
「………………」
 頬を撫でられ、もう一度されたキスだとか。
 跡部が好きで、胸が詰まる。
「………………」
「待ってろよ」
「……うん…」
 最後に軽く抱き寄せられ駄目押しされた。
 甘ったるい余韻を残す抱擁をして、跡部が出て行った後。
 即座にその場にしゃがみ込んでしまった神尾は、がなっているみたいな自分の胸元を押さえて呟く。
「………心臓に悪ぃってば……」
 そう呟くが精一杯で。
 神尾は。
 跡部が帰ってくるまでの時間の大半を、呆けて過ごす羽目になった。


 扉の開く音。
 我に返ったみたいな気分で、神尾は玄関まで走った。
 どれくらい時間が経ったのか確かめる余裕も無く、帰ってきた跡部を迎えにいく。
「跡部!」
「……三倍速でファイルチェックしてきてやった。有難く思え」
 相当悪い奴のような不機嫌極まりない顔で跡部は言った。
 凄む声。
 えらそうな言葉。
 不遜な態度。
「よしよし、いい子いい子」
「………ああ?」
 なんだか可愛かった。
 思わず手が出て跡部の頭を撫でた神尾に。
 呪いでもかけるような凶悪な面相で唸った跡部は、しかし目と目があうと、不意に口を噤んだ。
 なんだ?と小首を傾げて神尾が見つめると。
 跡部は舌打ちして目を逸らす。
 片手で頭を抱える。
 神尾は慌てた。
「……どうした? 具合悪いのか?」
 焦って表情を伺おうと顔を近づける神尾の目の前で、跡部が呪詛めいた悪態をいくつか口にしたが神尾の耳には届かない。
「跡部?」
「…………くそったれ…」
「え? 大丈夫か跡部?」
「大丈夫なわけあるかっ」
 神尾は更に慌てる。
「取り合えずベッド行く?」
 気遣わし気に跡部の様子を伺いながら尋ねると、荒っぽい返事がすぐに返ってくる。
「当たり前だ」
「そんな具合悪いのか? 医者とか行かなくて平気か?」
「てめえが連れてけ」
 天国の近くまで、と。
 神尾の耳にひどく理解し難い跡部の声が届く。
「は? 何、……っ……ぅわ、跡部、っ?」
 いわゆる抱っこ、そしてそのまま勢いで肩に担がれるようにされて、神尾は跡部の背にだらんと両手を落とし、ついでに宙に浮いている両足もばたつかせて叫んだ。
「ちょ、っ……おい、何の真似……!」
「お前下ろした場所でやるからな。廊下でやられたくなけりゃじっとしてろ」
「……やる、?!」
 何で、どうして、そういう話になっているのか。
 さっぱり判らず神尾はくらくらしてきた。
 跡部のベッドに放られて、いきなり深いキスをされても目をまわしていた。
「あとべ……?」
 もつれた舌で、キスの合間に懸命に名前を呼べば。
「………これ以上駄目押ししてどうすんだ。この馬鹿」
「……っ……ン…、」
 唇が離れる前の、何倍かの深さでまた口付けられた。


 結局神尾は何がどうしてこうなったのか、最後の最後まで判らないまま。
 跡部を連れて行き、跡部に連れていかれた。
 入り口どころか、それは恐らく、別天地そのものにまで。
 宍戸が初めて怪訝な顔を見せたのは、鳳が宍戸に口付けようとしたその瞬間だった。
 力で拘束するように宍戸の手首を握り込んで。
 壁に押さえつけて、近づけた唇が触れる間際。
「………おい?」
「はい?……」
 いぶかしむ声が微かな風となって鳳の唇に当たる。
「ちょっと待て…」
「……やだって言ったら?」
「待てっての」
 鳳は思った。
 やっぱり。
「………………」
「長太郎?……」
「やっぱり判ってませんでしたね……宍戸さん」
「……なにが」
「全部ですよ」
 そう言って笑おうとしたのだけれど、多分失敗した。
 消そうとした溜息が零れてしまった。
 至近距離から食い入るように宍戸を見つめ鳳は嘆息する。
「宍戸さん、簡単に受け入れるから。ひょっとして意味判ってないのかと思ったらやっぱりだ」
 普段から口にしていた言葉だからかもしれない。
 でも鳳がいつもの意味とは少し違うのだと。
 宍戸を抱き寄せるようにして言った、好きだという言葉を。
 聞いた宍戸が、だから知ってるってと、鳳の髪をくしゃくしゃとかきまぜて平然としていたから、鳳は強引にキスに出た。
 力づくで。
 手首細いなと鳳は今更のように手の中の感触に思う。
 寸での所で距離をとったまま鳳は囁いた。
「………キスくらいならいいかとか。そういう風には受け入れないで下さいね。宍戸さん」
「どういう意味だよ」
「俺があなたにしたい事はキスだけじゃありませんから」
 追い詰める気はなかったが、もう少しちゃんと考えて欲しくて。
 鳳は脅しているみたいだと自嘲気味に告げる。
 聞いた宍戸は即座に、馬鹿かと吐き捨てるように言った。
 鳳に両手を拘束されたまま。
「お前に人が脅せるかよ」
「宍戸さんになら出来ると思う」
「止せよ。そういうツラ」
 似合わねえと溜息と一緒に宍戸は言った。
「なあ」
「…はい?」
「別に今のままでも、俺は相当お前を気に入ってるけど」
「…………………」
 お前が俺を好きなのもちゃんと判るし。
 そう付け加えられ、それは実際傲慢でも何でもなく。
 鳳はそういう事は隠した覚えはないから、宍戸がそう言うのも当然の事なのだ。
「お前が思ってるより俺はお前のことが好きなんだ。それでもか?」
「それでもです」
 それでも。
 今のままより欲しいものが出来てしまった。
 我慢が出来ないことが出来てしまった。
「俺に何がしたいんだ」
「……言っていいんですか」
「聞かなきゃ判んねえ」
「………………」
 強くて無垢だ。
 鳳は苦笑いしたい気分で、でもとてもそれまでの余裕はなく、宍戸の耳元に唇を近づけた。
 欲しいもの。
 我慢が出来ないこと。
 宍戸にしたいこと。
 我ながら、餓えた欲求をあからさまな言い方で囁き続けた。
 最後には間近にある綺麗な首筋に噛み付くように口付けもして。
「………、……」
 びくっと身を竦ませた宍戸が、感情のよめない吐息を零す。
 鳳は宍戸の手首から指を解いた。
 幾らなんでも怒るか呆れるかするだろうと宍戸を改めて見下ろした鳳は、勢いよく顔を上げてきた宍戸の眼差しに捕まって息をのむ。
「………………」
 宍戸は両手を差し伸べてきた。
 細くまっすぐに伸びた指が鳳の両頬を包む。
 下から伸び上がってきた宍戸が、鳳の唇をキスで塞ぐ。
「……、……宍戸さ……」
 奪うキスだ。
 されるがままに任されない、宍戸からのそれは。
 彼の性格にひどく見合った、力強くも甘く相手を許容するキスだった。
「裏切ったら殺す」
「………………」
「返事は」
 唇を離し、でもまだ相当の至近距離から。
 唖然とする鳳に、最後の方だけ、宍戸は笑った。
 鳳は、自分の頬にある宍戸の手の上に己の手を重ねて。
 鳳の方からも、その唇を塞いで。
「裏切りません。絶対」
 そう答えた。
 宍戸がまた目を細めたから。
 それが彼の望んだ返事だったのだと思う。
 宍戸が鳳の頬から指先を引く。
 離しがたくて指先同士を絡ませたまま、鳳はその動きについていく。
「………………」
 あらいざらい自分の本意を伝えた後で。
 あれだけの事を聞いても、こうして自分をすべて受諾する相手の存在は。
 一層、鳳の中で大きくなる。
「宍戸さん」
 呼びかけにまっすぐ応えてくる怜悧な目。
「それとな。長太郎」
「何ですか?」
「言っておくがそれ以上デカくなったら別れるぞ」
「………はい?!」
 言葉も聞こえないほど、形振り構わずの幸福感に没頭しきっていたわけではない筈なのに。
 咄嗟に、完全に、解読不可能な事を聞いた気がして鳳は愕然とした。
 今なんて言いましたかと辛うじてというようなたどたどしさで尋ね入れば、宍戸は吐き捨てるようにして毒づいた。
「背伸びしてやっと届くってのはどういう事だよ。年下のくせして」
「宍戸さ、…」
「…ったく…腹立つ」
「あの、宍戸さん、」
「いいな。長太郎」
「よくないです!」
 宍戸に逆らい慣れてない鳳としては、こう叫ぶだけでも精一杯だ。
 それでもさすがにこれだけは聞けない、というか、聞いたら別れは確実に近日中だ。
 鳳の身長は、今尚、着実に伸びている。
「宍戸さん…っ!」
 いつの間にか歩き出していた宍戸に気付くと、その背を追って、鳳は走り出した。
 振り向かせて。
 例の条件を取り消してもらう為のうまい言い訳は、まだ思いつかないまま。
 それでも走って、手を取って。

 振り向かせて。
 
 恋人になった宍戸の顔が見たい。
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