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How did you feel at your first kiss?
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 四月の第一月曜日に当たる頃は悪魔の誕生日と言われているらしい。
 つまり今日で。
 神尾がそれ跡部に言うと、跡部の返答には何の感慨もなかった。
「俗説だがな」
 あっさりとしたものである。
 不満と呆れとで半々になった顔で神尾は唸った。
「あのよー……跡部さ、ちょっとは驚けよ。悪魔の誕生日だぞ? すごいじゃんかよ」
「……悪魔の誕生日だからって、それのどこがすごいのか俺にはさっぱり判らねえよ」
「だって悪魔の誕生日だぜ? 普通そう言われたらもう少し驚くとかしねえ?」
「だいたい今時分は気候が不安定だから、海に出れば荒れる、地上に居ても荒れる、その程度の理由で悪魔の誕生日だ何だって言われてるだけの事だろうが」
 不機嫌な跡部がうんざりと言った言葉に。
 うっかり感心してしまった神尾は。
「………跡部ってさ……何ていうか、こう、知らない事とかないわけ?」
「ないな」
「……即答かよ」
 深々と溜息をつく羽目になる。
 判ってはいても、思い知らされる。
 跡部の性格や言動は、神尾をよく脱力させた。
 常識離れした金持ちっぷりにもそうだし、桁外れの頭の良さにしてもそうだ。
 あと、俺様っぷりとかも。
「………神尾」
 しかし今は、跡部も負けてはいないとでも言いたげに、盛大で派手であからさまな溜息を吐き出してきた。
「なんだよ?」
「この状態でそこまで喋っていられるお前の頭の中が俺には皆目不明だ」
「え?………、ン…、…」
 額を、ぐっと真上から押さえつけられて。
 深く、強く、合わせられた唇。
 ベッドに組み敷かれていたことを忘れていた訳ではなかったけれど。
 神尾に乗り上げてきていた跡部に見下ろされていること。
 始まろうとしていたこと。
 誤魔化すつもりは毛頭無かったが、だからってこんな、唇が歪むくらい強いキスはどうかと思う。
「ん……、ゃ……」
 跡部の胸を押し返そうとして失敗。
 かぶりを振ってキスからのがれようとして失敗。
 抑えようとして逆に上擦った声を出してしまって失敗。
 神尾は何もかもを失敗したのに。
「……ふ……、ぁ…」
「……………」
 跡部の手にゆっくりと髪を撫で付けられて、神尾の頭の中に、何か甘いいけないものが滲んでくる。
 髪の払われた額や、頭皮に、宛がわれ撫でられる。
 跡部の手の感触。
「………っ…ん…」
 まさぐられるように口腔を、跡部の舌に探られる。
 角度を変えて。
 時折はとても深いところまで沈んできて。
 そんなキスが延々と続くので、神尾の唇は、震えて震えてどうしようもなくなった。
「………神尾」
「……、………、は…」
 浅く呼気の当たる距離で、キスを途切れさせた跡部が食い入るような眼差しを神尾に向けてくる。
 近すぎて惑うように。
 近すぎて見つけられないように。
 神尾の目に跡部がはっきりと写らない。
 切れ切れの呼吸に。
 潤んだ視界に。
 水中で泳いでいるみたいだと神尾は思った。
 跡部の輪郭もぼやけているようで、横たわっているのにくらくらした。
「…っ…ん…」
 息を整えるように。
 こくんと喉にあるようなものを神尾は飲んだ。
 何故かその瞬間跡部の気配が強くなって。
 この、悪魔、と。
 何だか嗄れたような声で跡部が言ったような気がしたが、神尾は気のせいだと思う。
 意味が判らないから。
 それより、今なにを飲んだのかとぼんやり考えた。
 何かひどく慣れないようなもの。
 喉がじんわりと熱かった。
「ん…ぅ………、…」
 すぐにまた跡部に唇が塞がれてきて、舌と息とが絡む感触、自然と口角から零れ出るもの、それが口腔に溜まり、ひいては飲み干したのだと気づいて神尾の脳裏がぼうっと熱で霞んだ。
「…、……、…ん、…、っ」
 跡部の舌に纏わりつかれながら、神尾は跡部の背中に縋る。
 背を丸めるようにして、神尾の上、神尾に覆い被さるようにしてくる跡部の背のシャツを握り締めて。
 神尾が持て余しそうなほど屈強で広い背に両手で縋った。
「……ン……ぅ……ん…」
 シャツを握りこんで拳を丸めて、溺れているような必死で切羽詰った喉声ばかりがついて出てくる。
 この男こそ悪魔なんじゃないかと、神尾は朦朧と思った。
「………少しはその気になったかよ」
 唇を離して、悪い笑みを刻んで。
 跡部は神尾の首筋に言葉を埋めた。
「……ャ……なに……、……」
「いつもみたいに泣いて頼めば終わると思うなよ」
「ぇ…、……っ…ん…?……跡部…?」
 笑いながら機嫌を損ねているらしい跡部のバランスが、神尾には図れない。
 何だかひどく恥ずかしい事を言われている気もするが、どうする事も出来ない。
「…………、…ぁ」
 服と素肌の間に滑り込んできた跡部の手のひらの下、血液が流れる音すらも聞こえてきそうな自分自身の体の乱れにも。
 すでに神尾には対応出来るものではなくなっていた。


 四月最初の月曜日。
 ここに悪魔が生まれてしまった。
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 今年は桜の開花が遅い。
 四月に入って、本格的に愛でる事が出来る春の花は、まだ桃だ。
「桃で花見ですか? 宍戸さん」
 鳳の胸元くらいの高さのブロック塀に宍戸は座っていて。
 空を仰ぐようにして桃の花を見ていた。
 傾斜の激しい坂道の途中にある公園は、敷地の外と中とで高低差が激しい。
 待ち合わせたのは公園の敷地内だったが、上り坂の途中で塀の上の宍戸に気づいた鳳が。
 そう声をかけると、宍戸は容易くバランスを変えて、鳳のいる坂の方へ向き直った。
 塀を跨ぐようにして座ったまま。
 すんなりと伸びた脚が軽やかに鳳の視界に向けて落とされた。
「危ないですって……!」
「なあ、長太郎」
 鳳の生真面目な意見など軽く流して、宍戸が奔放な笑みを向けてくる。
 腹が立つどころか見事なまでに見惚れて。
 普段とは違う、高い位置にある宍戸を鳳は見つめ返した。
 塀に両手をついて、僅かに上体を鳳へと屈ませてきた宍戸の首筋がひどく細く思える。
 春先の陽気につられて、ラフで柔らかい素材のシャツを着ているせいだとふと気づく。
「口開けろ」
「……は?」
 宍戸の指先が鳳の顎へと触れて。
 指先ですくうようにして、軽く上向かせてくる仕草に逆らわないままで。
 しかし鳳は慌てた。
「宍戸さん?」
「いいから開けろ」
「……………」
 怪訝に思うものの追従を許されず、結局鳳は大人しく従った。
 宍戸に望まれる事を、拒まないのは鳳の習性でもある。
「……………」
「……あの…?……宍戸さん?」
 ゆっくり近づいて来る宍戸の小さな顔と、強すぎる程の眼差し。
 鳳の顎にかけられた指先の感触。
 宍戸の背後に咲いている濃いピンク色の花が時折鳳の視界を掠るように現れて見えた。
「桃は、神話で沈黙の神に捧げられた花なんだってよ。桃の葉が人間の舌の形に似てるからとかで。ここで花見てたらそんなこと思い出してな」
 見てみた、と言って。
 何の邪気もなく笑顔を浮かべた宍戸に、口を開けさせられて自らの舌を見られていた事を鳳は知って。
 微苦笑で応える。
「で、同じ形してました?」
「わかんね」
 元々忍足の言ってる事だからそのへんも判らねえよと宍戸は言って。
 するりと、指先で鳳の頬を軽く掠めて手を引いた。
 そんな宍戸を見上げながら、鳳はびっくりしたと声にして笑った。
「何がだ?」
「今日エイプリールフールです。宍戸さん」
「………あ?」
「キスでもしてやるって、宍戸さんに担がれるのかと思った」
「……してやった事ねえみたいな言い方すんな」
「何度貰っても特別なんですよ」
 貰っても。
 奪っても。
「宍戸さんの事も、宍戸さんとする事も、俺にはみんな特別です」
「………お前な……エイプリールフールなんて日に、そういうこと真面目なツラして言うんじゃねえよ…」
「疑わないで下さいね」
 そう、お願いをすれば。
「アホ」
 呆れ返った顔をして、宍戸が塀から飛び降りてくる。
 鳳の手元に。
 散り初めの花弁のように。
「……………」
 綺麗で、しかしその人は儚くはない。
 しっかりと、強く、ここに存在している。
 思わず差し伸べた腕で軽く宍戸を抱きこんで、鳳は目立たぬように宍戸の耳元へキスをした。
「……おい」
「はい?」
「もっと派手にやったっていいんじゃねえのか?」
「……宍戸さん?」
 鳳が予想もしていなかった言葉が宍戸の唇からもれる。
「もし誰かに見られて騒ぎになったら、エイプリールフールの一環です、とでも言や良いんだろ」
 そう告げて笑う宍戸の顔に。
 鳳も同類の表情を近づけていく。


 隠れ蓑に使うのは嘘をつく日だという慣わし。
 気持ちには、一点の曇りも嘘もなく。
 交わすキスに、春の風すらも入り込む余地はなかった。
 筋肉の張った腕がゆったりと海堂に向けて伸ばされてきた。
「海堂。ちょっとそれ貸して」
「………………」
 部室で乾がねだってきたものは海堂のバンダナだった。
 まだ着替え途中だった海堂は、先に着替えを済ませていた乾が、コートに向かうでもなく部室内の長椅子に座っているなとは思っていたのだが、突然にそんな事を言われて、バンダナなんてどうするのかと怪訝に目で問いかける。
 ちょうどコートに出ようとしていた桃城が、乾先輩に何ガンくれてんだぁ?と大声を出すので、うるせえ!と怒鳴り返した海堂を。
 乾はといえば優しげな笑みを含んだ顔で見つめてくるばかりだ。
「貸して? 海堂」
「………どーぞ」
 どうせ着替え終わらなければ頭に巻くことも出来ない訳だから。
 海堂はバンダナを手にとった。
「桃の奴、おかしなこと言ってたな」
「……おかしなこと?」
 差し伸べられている乾の手に渡す直前に。
「お前がガンくれてるとかなんとかさ……」
 言われたことの意味が判んなくて、密かに困ってる時の、すごい可愛い顔なのにな、と乾が言うものだから。
 海堂は乾の手に手渡そうとしていたバンダナを、思わず乾に向けて投げつけてしまっていた。
「き、……気色悪いこと言うな…っ」
「なんで?」
 すごく気色いいよ?と乾は笑う。
「………っ……」
 どうせからかうなら、もっと判りやすくあからさまにからかってくれと、海堂は叫び出しそうになった。
 そんな、どう考えても不自然におかしなこと、とても言えやしないが。
 何故乾は真顔でそんな事を言ってのけるのかと、海堂は今度こそ本当に、力いっぱい乾の事を睨みつける。
「海堂。着替えないのか?」
「…………、…っ…あんたが邪魔してんだろ…!」
「海堂が遅刻したら、グラウンド10周の罰則には付き合うつもりだけど」
 優しい声が一層優しくなって。
 気づけば部室に誰もいないのをいい事に、乾の態度にますます衒いがなくなってくるのが海堂にも判る。
 これはもうさっさと着替えて部活に向かおうと海堂は猛スピードで着替えを済ませた。
 その間乾は海堂のバンダナを弄っていたようだが、海堂の身支度が済むと実にいいタイミングでバンダナを返してきた。
 しかしそのバンダナは。
「…………乾先輩」
「何だ?」
「……あんた……ガキの悪戯じゃあるまいし……」
 バンダナの端が結ばれていた。
 いつものように海堂が頭にそれを結ぶためには、解かなければならないしっかりとした結び目。
 呆れ返った海堂が、怒鳴る気力も無く自分のバンダナを手にして深い溜息を吐き出していると。
 ふわりと、海堂の後頭部に乾の手のひらが宛がわれる。
「……………」
 大きな手の感触。
 顔が上げられなくなる。
「……………」
 誰もいない部室とはいえ、ひどく大切そうに数回。
 乾の手に後頭部を撫でられて海堂は硬直する。
「恋の結び目って知ってるかい?」
「……………」
「昔、兵士に恋心を持った人は、兵士が身に着けてるスカーフに恋の結び目を結んで自分の気持ちを現した」
 いつの間にか乾は海堂の手からバンダナを奪っていて。
 端に固い結び目を作ったままの状態で、海堂の頭にそのバンダナを巻いた。
「……………」
 海堂は。
 好きだと、乾に言われる事になかなか慣れない。
 好きだと、乾に伝える事にもなかなか慣れない。
 嫌なわけでは勿論なくて。
 どうしていいのか、判らなくなるのだ。
 そんな海堂を慮ってか、乾はよく、好きだという言葉を使わないで、好きだと伝えてくる事がある。
 今みたいに。
「そろそろ行こうか」
「…先輩」
 そういう乾をとても好きだと海堂は思う。
「……………」
「海堂」
 そう、心で思えば。
 言葉にしなくても気づいてくれる乾に。
 海堂は、今は甘えることにする。
 そんなこと、乾に伝えた事は一度もないけれど。

 恋の結び目が結ばれたままのバンダナ。
 今日海堂が身につけている彼のトレードマークでもあるその代物に、どういう意味合いが込められているかとか。
 そのバンダナを外さずに、つけたままで、部活をする海堂の心情や。
 それを見つめる乾の心境も。
 誰も気づかないものだし、誰も知りえない事だけれど、概してそんな程度でいいのかもしれない。
 まずは何よりも当事者が。
 判っていなければ始まらない。

 恋愛は。
 喧嘩中ではないが神尾の機嫌はあまりよくない。
 眉を顰めて、唇を噛んで、声にならない声で唸っている。
「………跡部」
 もう一回、と低く言った神尾の向かいで、跡部は片肘をつき溜息を吐き出す。
「まだやんのか」
「やる!」
「……いい加減気づけよ」
「え?」
「なんでもねーよ」
 うんざりとした素振りの跡部の部屋で。
 おそろしく高そうなガラステーブルを挟んで向き合っている跡部と神尾だ。
 先程から二人は幾度となく同じ事を繰り返している。
 精密なアイアンの装飾が施されているガラステーブルの上にあるのは十数枚の小銭だ。
 百円玉と十円玉が多い。
「どっちからだ」
「えっと……俺から!」
 好きにしろと跡部が言うので、神尾はテーブルの中央から小銭を一枚引き抜いた。
 様子見の一枚だ。
 跡部はすぐに三枚取った。
「………………」
 一枚か二枚か三枚。
 小銭を取る枚数はその三パターンに限られている。
 二人で交互に小銭を取って言って、最後の一枚を引いた方が負けだ。
 この、ささやかな賭けの方法は跡部の提案。
 賭けの話自体を持ち出したのは神尾からだ。
「ほらよ。またお前の負けだ」
「………っ…、どうなってるんだよさっきから…!」
「どうもこうもねえよ…」
 いい加減にしとけと跡部も機嫌のあまりよくなさそうな顔で言った。
 もう何回くらいこの勝負を繰り返しているのか。
 ことごとく最後の一枚を引くのは神尾だった。
「お前な……俺の家に泊まっていくくらいの事で、毎回駄々こねるんじゃねえよ」
 往生際の悪い、と些か乱暴な口調で言った跡部の真向かいで神尾は赤くなった。
「……、…っ……そーゆー軽い問題じゃねーんだよ、俺にとってはっ」
「至れり尽くせり、上にも下にもおかないようなおもてなしを、俺様が直々にやってやってんだろ。何が不満だ」
「そん、…」
「違うってのか?」
「ちが…、てゆーか、そーゆーことを言ってんじゃねーんだよ……っ…」
 真顔で、機嫌悪く、言う事だろうか。
 そんな綺麗な顔で。
 えらそうな態度で。
「………っ……」
 神尾はいい加減熱くなってきた顔を伏せて、跡部を見ないようにした。
 見たくないんじゃなくて、見られたくないのだ。
 どれだけ赤いのかと、尋常でなく熱い自分自身の顔を思って神尾は頭を抱え込みたくなった。
「神尾」
「………泊まると……」
「……………」
「一緒に寝るじゃんか…」
「当たり前だろ」
 神尾が必死の思いで言った言葉を、跡部は何を今更といった口ぶりで、即答肯定である。
 ぐっと言葉を詰まらせた神尾は、透明なガラステーブルの天板の下から、跡部の手が伸びてきたのを見た。
 手を、握られた。
「………、……」
「まさかそれが嫌だからって言うんじゃねえだろうな」
「…………い、…やとかじゃなくて……!」
 跡部の声はそっけないくらいだったのだが、テーブルの下で跡部の手に握りこまれている指先が感じた力加減が不思議にぎこちなく思えて。
 神尾は顔を伏せたまま口をひらいた。
「いやとかじゃなくて、ただ、跡部と一緒に眠るのとか」
「無理だの嫌だの今更言うんじゃねえぞ。さんざ寝こけといて」
「寝こけ……、」
「すかーっと、ガキみてえなツラして散々人の腕ん中で寝ておいて今更何だってんだよ」
 跡部の語気が次第にきつくなる。
 跡部の声が、からかうような言葉とは不釣合いになっていく。
「………………」
 握り込まれている指先から、跡部が苛立ちが伝わってきて、神尾は、そっと跡部の手を握り返した。
「…………この間はじめて跡部が眠ってる時の顔見たんだってば……!」
「…ああ?」
「心臓止まるかと思ったんだよ…っ」
 泣きそうにも、なった。
 うまく言えない。
 きっと跡部には伝えられない。
 でも、怖いくらいに隙のない、整いきった面立ちの跡部が、神尾を片腕で抱きこみながら、深い、深い眠りに落ちている表情は。
 静かで、綺麗で。
 愛しかった。
 心臓が止まりそうなくらい、泣いてしまいそうなくらい、神尾は。
「………跡部が…、…」
 嫌だとか、見たくないだとか、そういう事ではなくて、跡部の、寛いで、穏やかな、眠りに沈むあの表情を思い出すだけで。
 好きが膨れ上がって神尾はおかしくなりそうだった。
「バァカ。寝顔ごときでびびってんじゃねえよ」
 跡部の指先が神尾の手首をゆるく撫でる。
 手の甲を擦る。
 ゆっくりと。
「………跡…部…」
 優しい。
 仕草だ。
「……泊まっていけ」
「………………」
「お前の心臓止まらねえように、夜中に目が覚めるなんて事ないくらい、してやるから」
「し……!」
 びびるな、と駄目押しされた跡部の言葉も耳に入らないくらい、神尾は硬直した。
「して…って…!…」
「本当に慣れねえな…お前」
 忍び笑う跡部に。
 テーブルの下。
 両手を握り取られる。
 つながれた、両手。
 羞恥心もそれでいよいよ限界に近い。
「いいな。神尾」
 低くひそめた跡部の声に。
 跡部と繋いだ、この手が無ければ。
 神尾はこのまま倒れ伏してしまいそうだと思った。


 そして実際跡部の言うように、することもしたわけなのだが。
 その延長で延々睦みあうようにベッドの中で話を続けている中、神尾は跡部にコインの最後の一枚を引かない方法を教えられた。
「要は自分が取った後に残っている数が五なら絶対勝てるんだよ」
「……五?」
「相手が一枚取ろうが二枚取ろうが三枚取ろうが、最後の一枚引かせられるだろ。残り枚数が五ならな」
 睡魔も手伝っていた。
 神尾は跡部の説明を聞きながら。
 小銭など無いベッドの中で、跡部の手に触れてそれを確かめる。
 指の長い片手にそっと手を伸ばし、神尾はコインに見立てて跡部の指を握りこんでは試す。
「……ほんとだ……」
「………お前な」
「…ぇ……?……」
 呻くような跡部の声を、聞いた気がしたが。
 神尾は、結局、眠気に負けた。
 跡部の指を両手に握りこんだまま。
 もう、目が開かない。
「………ったく…どっちがだ」
 心臓が、なんとかとか。
 跡部が言っていたような気がしたが。
 眠りに落ちていく神尾には、もう、確かめる術はない。
 多分随分遠くの方から名前を呼ばれたと思うのだが、その声ははっきりと、鳳に一番心地言い音で耳に届いた。
「長太郎!」
 その声のする方を鳳が無意識に振り仰げば、校舎の四階の窓から宍戸が腕と顔とを出していた。
「宍戸さん」
 目が合って。
 よう、と少し緩んだ表情の宍戸は、鳳よりも、ずっとずっと高い所で。
 空に、とても近い所で。
 明るい日差しを一身に背に負うようにして笑顔を浮かべた。
 笑わない人ではないのに、彼の笑顔を見るたび言葉が詰まる。
「……………」
 鳳は片手を顔に翳して宍戸を見上げた。
 そこに居るのは何も飾らない人。
 どんな飾りよりも、もっとすごい特別なものを持っていて、容易く人目を集めてしまえる人。
 厳しくて、優しくて、傷だらけの綺麗な人。
「長太郎。お前さ、学生証どうした?」
「はい?」
「学生証」
 快活な話し方で言いながら宍戸が手に持ったものを軽く動かして見せる。
 遠目にもそれが何か判って、鳳は、あ、と声に出した。
「もしかしてそれ俺のですか?」
「俺が拾うなんていう器用な落とし方すんなよ」
 宍戸は笑っているが、鳳は、これはもう自分の才能かもしれないと結構真剣に考えた。
 そういう落し物の仕方を出来る自分に、いっそ感心したくもなる。
「おい、投げるぜ。落とすなよ」
 宍戸の腕が動いた。
「………………」
 動きと一緒に日に透けて、シルエットのぼやけた細い腕が蓄えている、しなやかで強靭な強さを、鳳は残像の中で見上げる。
「………………」
 ゆるい弧をえがいて、後はひたすら下降して。
 落ちてくる学生証。
 宍戸の手から、それは見惚れる程の的確さで、鳳の手の中に落ちてきた。
「………………」
 思わず吹いた鳳の口笛が聞こえた訳もないだろうに、宍戸は一層おかしげに笑って言った。
「お前じゃこうはいかねーな」
「……反論はしませんけどね」
 自分のノーコンっぷりは自覚もしている事だから、鳳は軽く肩を竦めて苦笑したのだが。
 その代わりと言っては何だが、自分の恋愛感情の行き先は、正確すぎるほどのコントロールなんだろうなと思って自惚れてみる。
 向ける先は、伝われと鳳が願うたった一人の相手にだけだ。
「宍戸さん」
「何だよ」
「ありがとうございます」
 学生証を持ち上げて。
 宍戸を見上げて。
 鳳は微笑んだ。
「大好きです」
「…………大袈裟な奴だな」
 完全に面食らったような沈黙の後の、怒ったような顔で呟く、多分照れているであろう年上の人。
 焦がれ、請うるように、欲しいと鳳が思うただひとりの人。
「宍戸さん」
「………………」
 鳳の気持ちはほんの少しの狂いもなく、まっすぐに宍戸へ向く。
 尚も、高い所にいる宍戸を見上げて、鳳は笑みを深めた。
 手を伸ばしても到底届かない、この距離がもどかしくもあるが。
 鳳の元へと舞い降りてくるのと同等の宍戸の眼差しを受け止めれば、鳳の焦れたもどかしさも自然と溶け出す。
 今、鳳の手の届かない、高い所にいるその人に。
 羽はないけれど。
 地上であれば一瞬で、誰よりも早く鳳の元へと踏み込んで来られる人だ。
「……おーい。男前」
 そのツラで何よからぬこと考えてんだ、と全てお見通しの聡い人。
「宍戸さんに羽が生えてない」
「はあ?」
「生えてても何にもおかしくないのにね。綺麗で。でも、脚があるからいいかなって。綺麗で早くて強い脚」
「でっけー声で馬鹿言ってんじゃねーよ…!」
 珍しく真っ赤になって、宍戸が鳳を怒鳴ってきた。
 そこで待ってろ!とも怒鳴られた。
「降りて来てくれるのかな…」
 それが嬉しいので。
 鳳は、もう誰の姿も無い校舎の窓を見上げたまま、柔らかく微笑した。
 春先、空気は大分ぬるまった。
 川の水は、まだ冷たい。
「海堂。一度出ておいで」
 川べりに座り込んでノートを広げ、あれこれと書きつけていた乾に呼びかけられる。
 川の中に脚を浸して。
 今でも時々手ぬぐいを振るうこのトレーニングをしている海堂は、乾にそう言われて動きを止めた。
 はじける水音が止んで、反射していた水面のきらめきが密やかに落ち着いた。
 海堂が浅瀬から川べりに上がっていくと、乾がまだノートに書き物をしながら空いた手で海堂を手招きしてきた。
「……………」
 言われるまま海堂が乾の横に腰を下ろす。
 乾はノートを地面に置いて、タオルとスポーツドリンクを手渡してきた。
 海堂がそれらを受け取る際に、体温でも確かめるみたいに、乾の手が海堂の頬や首筋に軽く触れてくる。
「……………」
 家族でもない誰かに、そんな風に触れられた事などなかった海堂も。
 不思議と、乾には最初から抵抗感を持たずにいられた。
 身体のどこかが自然と触れている距離。
 こんなに距離感の近しい相手は海堂にとって乾だけだった。
「いい天気だなあ……」
 のんびりとした言い方で。
 乾が座ったまま頭上の空を仰ぎ見ている。
 その横で、海堂も、仄かに体感出来る様になった暖かさを神経で追う。
「海堂、桜好きか?」
「……好きっすよ」
 乾の問いかけは、いきなりである事が多いから。
 最初の頃は何でそんな事を聞くのかとか、あんたに関係ないだろうだとか、あれこれ思ったものだが。
 今ではそれも気にならなくなった。
 尋ねられたことへの訳など聞くより、乾とならば、会話を進めてしまいたくなったのだ。
 今も、突然に桜の話など振ってこられた訳だが、確かに今日ほどの暖かさならば、もう、その花の事を考えても充分だろうと海堂は思った。
「日本の花だよな。俺も好きなんだが……この河原には生えてなくて良かったな」
「……………」
 それはどういう意味かと視線で乾を伺った海堂に、乾は近頃一層大人びてきた笑みを向けてきた。
 元々から優しいところのある男だけれど。
 そんな風に微笑まれると、もっと優しくなっていくようで。
 何だか怖いくらいだなんて事を思わされてしまう。
「ここに桜が咲いてたら」
「……………」
「きっと見物人で賑わうだろ?」
 話しながら。
 ゆっくりと、近づいてくる乾の顔。
 低い声を紡ぐ口元を、ぼんやりと海堂は見つめた。
「そうしたら、こんな風に海堂とのんびり出来ないし」
「……………」
「二人でこうも、していられない」
「……………」
 散り初めの桜の花弁が、地面に落ちるように。
 乾の唇が海堂の唇を掠めた。
 さらさらと、微かに聞こえる川面の水の流れが、一瞬だけ途絶えた。
 唇と唇が触れていた一瞬の間だけ。
「海堂」
 小さく啄ばむようなキスが、頬と、耳の縁にも。
 海堂は目を閉じてそれを受ける。
「……………」
 目を閉じても瞼の残像で残るような晴天。
 明るい光。
 さらさらと、水の流れと同じ音をたてるのは乾の手に撫で付けられる海堂自身の髪の音だ。
 双瞳を閉ざした海堂の、何もない筈の眼下に。
 静かに、次々と、散り始めた桜の花弁。
 散り零れていく桜の花のように、乾からのキスが幾重にも幾重にも折り重なるように、海堂の唇にあたって、頬を掠って、首筋に忍び入ってくる。
「……先輩……」
「…………ん。…もう少しな…?」
「……………」
 請われるような言葉は。
 桜の後の青嵐のように海堂へと吹きすさび、穏やかでありつつも乱された余韻を引きずりながら海堂は乾のキスを唇の感覚のみで追う。

 海堂の脳裏に在るのは、淡く繊細な花弁が寄り集まって、とろけるように咲く桜の花。
 そして、その花弁のようなキスを重ねてくる、この男のことだけだ。
 ひっきりなしに海堂を掠っていく乾からのキス。
 終わりたくないキスを、今海堂は、乾で知った。
 身体が動かないと思って神尾は目を開けた。
 そして、実際に目を開けてみれば、そんな大袈裟なことではないと判るのだけれども。
「………………」
 まだ室内は暗い。
 部屋の様子もだいたいでしかつかめない。
 でも、自分の一番近くにいる相手が誰なのか、それだけは正しく、判っていた。
「………………」
 神尾が探すまでもなく、その男は驚くほど近くにいた。
 腕枕をされているのに似ている体勢だけれど、少しだけ違っていて。
 跡部の腕はまさに腕枕の体勢そのものなのだが、神尾の頭の位置がずれている。
 並んで寝そべる横から、跡部の胸元に。
 顔を寄せるように横向きになっている神尾の頭に跡部の手があった。
 添えられるように軽く宛がわれていた手。
 それが神尾を動けないと思わせたものの正体だった。
「………………」
 寝ている間も、こうしてずっと跡部の手が頭にあったのかと思うと、色濃い眠気の中の気恥ずかしさが、どんどん神尾に侵食してきた。
 普段から夜中に目が覚めるなんてことは殆どない神尾だったから、だんだんと目が慣れて、くっきりとらえる事が出来てきた跡部の寝顔にだって正直鼓動が早くなる。
 そんな神尾に突然跡部がなだれこんできた。
「……っ…!…」
 ひ、と思わず神尾は息を飲む。
 いきなり寝返りをうつように。
 跡部が神尾のいる方に身体を倒してきたのだ。
 神尾を抱え込むようにして跡部の腕が神尾の肌の上に乗る。
 一層近くなった跡部の顔は、目を閉じているのに壮絶に整っていて、神尾は何事か叫び出してしまいたくなる衝動を抑えるのに懸命だった。
 寝入っている跡部の表情に、物珍しさを感じる余裕すら神尾にはない。
 体温で温まった涼しくも甘い匂いがして。
 近すぎるこの距離に、とても眠るどころではなくなった神尾を、跡部が更に抱き込んでくる。
 その仕草に寝たまま仰け反りかけた神尾の、ガチガチになったひどい緊張を緩めたのは、唸るような言葉だった。
 跡部の。
「抱き締めて何が悪い」
「は?…、…あれ?…跡部?…起きて…?」
「俺が俺のものを抱き締めて何が悪い」
 低いだけでなく、ぼそぼそと喋る聞きなれない跡部の喋り方に神尾は混乱を極めた。
「わ、……わる…いとかじゃなくて…」
「嫌がるな」
「…や、…嫌がってんじゃなくて、」
「嫌がってんだろ……」
 ちがうと慌てる神尾は、胸に抱き込まれるどころではない跡部からの抱擁の強さに抱かれながら、今が明け方、暗がりの部屋でよかったと心底から思う。
 自分の顔が赤いのが、いやというほど判っていたからだ。
「神尾」
「……な…、…なに…?」
「逃げんな」
「逃げてねーよ!………ってゆーか跡部、ひょっとして本当は寝ぼけてんの…?」
「誰に向かって口きいてんだ」
「あ、大丈夫か……」
 いやいや。
 ぜんぜん。
 大丈夫じゃない。
 思い直した神尾の心情こそが本心だ。
 だってこんな、何度されたって、跡部に抱き締められればドキドキするのだ。
 ベッドの上。
 毛布の中。
 裸じゃくても。
 しているんじゃなくても。
「…………跡部」
 跡部は目を瞑ったままだ。
 眠いのかもしれない。
 でも、神尾を抱きこむ腕の力は緩まない。
「…大丈夫かおまえ」
「………え…?…」
「今一気に体温上がったぞ」
「………………」
 だってこんな。
 こんな風に抱き締められたら。
 体温なんておかしくなるに決まっている。
 抱き締められているから苦しいのではなく。
 耳元で囁かれているから熱が上がるのではなく。
「跡部……」
「……お前本当は熱出してんじゃねえだろうな」
「ちがう」
「嫌がって、固まってんじゃねえな?」
「…うん」
 好きで。
 好きになりすぎて。
 苦しくなる。
「……跡部…」
 でも、押し潰されそうになると不安に思った事はなかった。
 どんなに気持ちが募っても。
 恋愛感情は、どれだけ苦しくても逃げてはいかない。
 胸の内から。
 どこへにも。
「神尾」
「……………」
 寝乱れた髪越しに眦あたりにキスされて、本当に熱でも出そうな気分になった。
 もう自分が、眠いんだか、そうでないんだか判らなくて。
 跡部の事も、優しいんだかそうでないんだか判らなくて。
「……少し熱抜きして冷やしてやろうか」
 笑いの交じった声で跡部にそう囁かれた言葉を耳にした途端、神尾は強く頷いていた。
 小さく、一回だけ。
 でも跡部は、ひどく驚いたようだった。
 短い絶句の後の呼びかけは、確かめの問いかけのようで。
「神尾」
「………冗談だったんならいい。ねる」
 同じベッドで逃げるも隠れるもないが、神尾はもう眠い振りをするくらいしか出来なくなって跡部に背を向けて、毛布の中に潜り込もうとした。
 それを跡部の手に食い止められ、跡部に乗り上げられ、組み敷かれた時は。
 跡部は絶対、少し意地悪く笑って、神尾をからかうのだと思っていたのに。
「………………」
 神尾が見上げた先、跡部は強い眼差しで神尾を見据えて。
 唇を塞いできた。
 深すぎるような口付けで。
「……、…っ……」
「………………」
 口付けられながら身体のあちこちを辿られ、何も言わない跡部の性急な所作に、生々しい欲を感じ取って身体を震わせた。
「跡部…」
 すき、と食いつかれるキスの狭間に織り込めば、毛布の中で下肢のパジャマを引きずりおろされた。
「………ァ…ぅ」
 跡部の手にめちゃくちゃにされる毎に声を上げて、神尾は跡部の後ろ首に手を伸ばし取り縋った。
 神尾が跡部の耳元すぐ近くで呼吸を乱していると、舌打ち交じりの荒い言葉が聞こえた気がした。
 跡部の声で。
「……跡部…?…」
「………、…ッ」
 何の言葉か判らないのに。
 悪態のようにも聞こえるのに。
 神尾は、何故だか、嬉しくなった。
 このまま抱くと威しのような物騒さで跡部から投げられた言葉も嬉しくて。
 とけだすように笑っていると。
「………真夜中に半分眠りかけながら人を誘うんじゃねえ。バカが」
 跡部の、駄目押しの悪罵が、神尾の笑みを一層深くさせる。

 神尾が笑っていられたのは。
 それまで。
 たかだかチーズサンドだぞと宍戸は思う。
 いろんな意味で。
「こんなん料理じゃねえよ」
「でも俺には作れませんよ」
「威張んな」
 手元に並べられた薄切りの食パン。
 白っぽいバターを均一に塗った。
 ブロック状のチーズ。
 極力薄く切ったキュウリは塩を振っておいてある。
 こうして材料さえ用意してしまえば後はもう。
「挟むだけだろうが」
「でも宍戸さんが作るとすごく美味しいです」
 この甘えたがり、と宍戸は密やかに溜息をつく。
 自分も好物なのだが鳳のリクエストもあって。
 こうしてチーズサンドを作っている宍戸の背後にいる鳳は、いつの間にか随分とくっついてきている。
 身体が触れ合うこんな距離にもすっかり慣れた。
「宍戸さん、いつからチーズサンド好きだったんですか?」
「覚えてねーよ。でも相当チビん時からチーズは齧ってたらしいけど」
「そうですか……」
「……何だよ?」
「でも、チーズより俺のが多いですよね…?」
「何が」
「宍戸さんの唇とか舌とか知って……」
 言い切らせず。
 宍戸が背後に肘を打ち込むと、鳳はそれを笑って痛がった。
「痛い。宍戸さん」
「あー、そうかい」
「ヤキモチやいただけなのに」
「チーズなんぞに妬くな! 恥ずかしい!」
「これ切るんですか?」
 宍戸が怒鳴りつけてもまるで堪えず、鳳は笑顔を浮かべてチーズの塊を手に取った。
 未開封のそれは、ビニールできっちりと覆われている。
 大きなままのチーズを片手に持つ鳳に、宍戸は言った。
「長太郎」
「はい?」
「さすがにそれ全部食うのは無理そうだろ?」
「ですね……半分くらいで足りそうかな」
「チーズ切った表面な。放っといたらかわいて固くなるよな」
「ラップでもかけますか?」
「ラップも何もかけないで、切った断面をかわかさない、固まらせないようにしろって言われたら、お前どうやる?」
「………はい?」
 初めて怪訝そうな問いかけが向けられて。
 宍戸は表情を微かに緩めた。
「それが上手に出来たら、俺がチーズ食うより多く、お前に食われてやってもいいぜ」
「宍戸さ、…」
「今日限定の話、だ」
 ついでに、ちゃんとそれが出来てからの話だ、と宍戸が強く言えば。
 制された鳳は、すっかり待てをくらった大型犬さながらに、ぴたりと動きを止めた。
「………………」
 ええーと口に出さないのが不思議なくらいの顔を鳳が露骨にしてみせるのが実は密かにおかしくて。
 宍戸は俯いて表情を隠した。
 そうしてこっそりと伺い見れば。
「………………」
 宍戸の背後にいる鳳は、チーズのかたまりを手にしてああでもないこうでもないと一心不乱に考え込んでいた。
 すこぶる見目の良い男がこんなにも可愛いというのはどういうことだろうかと宍戸は吹きだしそうになった。
「寄こせ。長太郎」
「え。時間切れですか」
「………何て顔すんだよお前」
 駄目押しされてしまって堂々と笑いながら、宍戸はチーズをまな板の上において、半ばにナイフを差し入れた。
「……真ん中から切っちゃうんですか?」
「別に端でもいいけどよ」
 傷心を隠さない鳳の呟きに宍戸は唇に笑みに浮かべたまま、必要な分のチーズをスライスした。
「あ。判った」
 嬉しそうというより、悔しそうな声で鳳は言って、宍戸の背に身体を預けるようにして近づいてきた。
「断面と断面。くっつけておくんですね?」
「ああ。切り口同士をぴったりくっつけて保管しておけば乾燥もしないし固まりもしないだろ」
 改めて宍戸がそう説明すると。
 鳳は、宍戸の肩口にがっくりと顔を埋めて、唸るような声で呻いていた。
 そんなに悔しいかと呆れ半分、おかしさ半分で。
 宍戸は自分の肩口にある柔らかそうな髪を横目に見て、無造作に手を当てた。
 顔を上げてきた鳳の目を覗きこむようにして。
 ひどく窮屈な角度から、宍戸は鳳の唇を、自分の唇で掠めとった。
「宍戸さん?…、…」
「お前には食わさねえけど、俺が食う分にはいいだろ」
 鳳の後ろ首に指先を伸ばして。
 背後から持ってくるように鳳を引き寄せ再びキスをする。
 体勢が窮屈な分、合わさった唇と唇は、ひどく複雑に密着した。
「……、…ン…」
 唇や口腔が濡れてくる感じに宍戸はゆっくりと目を閉じながら。
 絶え間なく重ねていれば、かわきもせず固まりもしないのは、キスだってそうかと思い当たった。
 もう、どちらからしかけるキスだって構わない。
 誘い込むように宍戸が舌を動かせば、鳳の大きな手に頭を抱え込まれた。
 むさぼられるキスを受けながら。
 チーズサンドは諦めた。
 パンもチーズもパサパサになって、おいしくなくなるのは必須。
 でも、今交わしあっているこのキスを取るのだから。
 悔やむ気持ちは全くない。
 今夜から雪が降るらしい。
 海堂の日課である所の夜のマラソンを、だからといって止めようとは思わなかったが、それでも海堂なりに状況に応じようという心積もりはあったのだ。
 いつもより距離を減らして切り上げてくるくらいは海堂にだって出来る。
 それなのに。
「海堂」
「……………」
 海堂の家の前に乾がいた。
 学校には着てこない冬のコートがますます乾の年齢を読めなくする。
「……何してるんっすか」
「今日は夜ランは中止」
「あんたまさかそれだけを言いにわざわざここまで来たのかよ…」
「メールじゃ読まないかもしれないだろ」
「………だからって」
 乾は決して暇な男ではない。
 むしろ多忙を極めている。
 それなのに何故自分のトレーニングを止める為だけにわざわざ足を運んできたのかと、海堂は目を据わらせて凄んだ。
「そんな顔しても駄目。寒い時は怪我をしやすいんだから」
「ストレッチならいつも以上にしますけど」
「いくら入念にやっても今日は寒すぎる。風邪ひいたらどうするんだ」
「………あんたじゃあるまいし。俺は風邪なんかひかねーっすよ」
「ひどいなあ」
 引かない海堂をどう見たのか。
 乾は不意に唇の端を引き上げるようにして、意味ありげな笑みを浮かべた。
「判った。じゃあ、海堂」
「……何っすか」
「三キロくらいは走らせてあげるから、おいで」
「は?……」
「ベッドの上でもそれくらいは走れるよ」
 走らせてあげる、と囁いた乾の声は。
 うんざりするほど美声だ。
 低くて、甘い。
「………っ……」
 手首を握られた。
 痛くはないが、外せない。
 海堂は何とも上機嫌に見える乾を見据えて、薄ら寒い思いを味わった。
「……、……先輩……」
「だからそういう顔もしないの。海堂」
 俺が脅してるみたいだろ?と笑う乾に海堂はいよいよ動揺した。
「や、……先輩。俺、今日走んの、止めるんで」
「うん。それがいいよ」
「あの…手を」
「逃げないなら離してあげる」
「……………」
 乾が。
 笑っているその表情ほど、余裕がある訳ではないらしいと気づいて海堂は、ひどく落ち着かない気持ちになった。
 そういえばこうして二人で会うのも久しぶりだ。
 青春学園の高等部への進学を決めたら決めたで、乾はいっそ受験期よりも忙しそうで。
 海堂は海堂で、そんな乾にどこか遠慮をしてしまっていて。
 元々積極的に人と交流するタイプではない海堂は、乾が落ち着くまではと思って、特に何のリアクションもとっていなかった。
 乾は痺れをきらしたのかもしれない。
 飄々としているようだけれど、握り込まれた手首は相当力が込められている。
「乾先輩」
「ん?」
「先輩も…走りたいっすか」
 真直ぐに乾を見上げて言った海堂に。
 乾は生真面目に頷いた。
「ああ」
「……………」
「走りたい」
「どれくらい」
「うーん…三キロくらい」
「本当は?」
「四.五キロくらい」
 言いながら笑う乾の即答は、多分に本音だろう。
 乾の手から伝わってくる体温と、笑いの振動。
 恥ずかしいのか。
 おかしいのか。
 判らなくなってきた。
 そう思って海堂は長く息を吐き出した。
「……その溜息の意味は何?」
 乾の笑いが深くなる。
 腕の力が強くなる。
 高揚感を自覚した。
 久しぶりに会って、嬉しがっているのだ。
 自分たちは、お互いに。

 四.五キロは、どこで走ろう。
 声は出さなかったと思うのだけれど、跡部が振り返った。
「どうした」
「え? 別に…」
「…手か?」
「え?」
 何で判るんだと神尾が驚いているうち、跡部は椅子から立ち上がり、ソファにいた神尾の前に立つ。
 膝をついて。
 神尾の手を取った。
「………………」
「……爪引っ掛けるような場所がこの部屋にあるか?」
「いや、ここでじゃなくて、部室でちょっと端んとこ割れて、……、いっ、てー…!」
 ぱしん、と頭を叩かれ神尾は叫んだ。
「なにすんだよ跡部!」
「なにすんだじゃねえ。気づいてたならその時切れ」
「爪切りなかったんだから、しょうがねーじゃんか!」
 部活が終わった後は、本当にちょっと切れていただけだった。
 跡部の家にきて、すぐ済むから待ってろと跡部が机に向かっている間、神尾はいつものようにMDを聴いたり、雑誌を見たりしていた。
 ふと手持ち無沙汰になった時に、爪の亀裂が大分進んでいた事に気づいたのだ。
 このまま取ってしまおうと、殆ど取れかかっている爪先を指で摘まんでみたところ、変な方向に亀裂が進んで深爪のようになった。
 痛いというのは思っただけの筈で、どうして跡部が振り返ったのかは未だに謎だ。
「………………」
 立ち上がって何かを取りに行く跡部の背中を複雑に見据えた神尾の元に、跡部はすぐに戻ってきた。
「手、寄こせ」
「………………」
 再び神尾の正面に膝をついた跡部の手には、無造作に幾つかのものが握られていた。
 神尾には見慣れない道具だった。
「…それ何?」
 爪を切ったもの。
「ニッパー」
「爪切り使えばいいのに」
 ペンチみたいで怖いなあとこっそり思った神尾の心情は、またもや跡部には筒抜けだったらしく、何びびってんだと笑われた。
 跡部のさらさらとした手は少し冷たくて。
 神尾の甲や指の付け根をそっと取っている。
「爪が傷むだろ」
「爪切り使うと? 何で?……ってゆーか、今度のそれ何?」
「ヤスリだろ」
 何となく気恥ずかしくて神尾が矢継ぎ早に尋ねれば、跡部は返事は素っ気無く、でも仕草はひどく優しく、神尾の爪を整えた。
 細くて長い金属の棒で爪の断面を研ぐ跡部の手が綺麗で神尾はじっと見てしまう。
 そんなに物珍しいかよと跡部がまた笑った。
「………………」
 別に爪を切ったり研いだりする道具が珍しいわけではない。
 でもそう言う訳にもいかず、神尾は黙っていた。
「……ちいせえ爪」
「………生まれつきなんだよ」
 触感なんて無いと思うのに。
 爪の真上を跡部の親指の腹にそっと撫でられて、神尾は緊張した。
「伸びんのも、遅いし」
「苦髪楽爪って諺知って……る訳ねーな。お前じゃ」
「……、……っ…どういう意味だよ…っ」
「苦労していると髪がよくのびる、楽をしていると爪がよくのびるって意味だ」
「そういう意味を聞いてんじゃねえ…!」
 お前じゃ、の方意味だと叫んだ神尾に、含み笑いを零す跡部は絶対に判ってて言っている。
 神尾が顎を引いて睨みつけるように跡部を見下ろすと、少し下の目線にある跡部は平然と見返してきた。
「見た目ほど、楽してる訳じゃねえんだなって言ってやってるんだぜ」
「はあ?」
 すこぶるえらそうに言われた言葉の意味がまたもや判らない。
 しかも何気に貶されている気もする。
「見た目が楽してそうって事かよ。あのな、俺だっていろいろ、」
「苦労してんだろ。だからそう言ってやってんじゃねえか」
「……、…聞こえないんだよ! そんなえらそうに言うから!」
「バァカ。えらそうじゃなくて、えらいんだよ。俺は」
「………っ……」
 頭にくる。
 本当に、頭にくるのに。
 どうしてこんなに、ドキドキするんだろうと神尾は思って。
 そういえば、ずっと跡部に手を握られているんだと。
 今更のように気づいた。
 指先を握りこまれていて。
 映画に出てくる、女の人をエスコートする男の人みたいな。
「なに赤くなってんだ? 神尾」
 判っていて言う跡部。
 悔しいと思うけれど、恥ずかしさの方が募って、神尾は跡部から手を引こうとした。
 でも思いのほか指先はがっちり握りこまれていて手が引けない。
「……、……離せよ…」
「何で」
「……も…切り終わっただろ…!」
「お前の爪を切ってやった俺様に礼ぐらい言ったらどうだ?」
 神尾が座っているソファの上に片膝を乗り上げてきた跡部に神尾はいよいようろたえる。
「……跡部って…いつもああしてんの?」
「ああ?」
「爪とか……切ってあげんの?」
 間近にあった跡部の目が不意にきつくなって。
 怒ったな、という事は神尾にも判った。
「……誰にだよ」
「え……あの、今まで付き合った子、とか…、…っ……」
 さっき頭を叩かれたより痛いかもしれない。
 唇。
「……っ…ぅ……、」
 強いキス。
 割り込んできた跡部の舌に、口腔中撫でられた。
「………、…は…、…ぁ、……なに…?…」
「……何じゃねえ。この馬鹿が」
「…ぇ……?……っん」
 キスが止んだのはそんな一瞬で。
 再び深く口付けらてこれて、神尾はぐったりと跡部の腕に落ちた。
 背中を抱きこまれる。
 押し当てられた跡部の胸元。
 近くなって知る香りにくらくらした。
「…………………」
「人にさせるならともかく、俺が人の爪なんざ切ってやる訳ないだろうが」
「………跡部…?」
「馬鹿かお前は」
 呆れ返った口調なのに、聞いた神尾はくすぐったいような気持ちになった。
 気持ちが、すごくいい。
「神尾?」
 抱き締められたまま。
 眠いって呟いたら、跡部は何て言うかな、と神尾はぼんやり考えた。
 ふざけんなってまた怒鳴るか。
 案外、このまま寝かせてくれたりもするかもしれない。
 爪を切ってくれた跡部はすごく優しかったから。
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