How did you feel at your first kiss?
海堂には、口に出せない事がたくさんあって、それらは例えば、弱音だとか諦めだとか泣き言だとかいうものだった。
どれもが海堂の好きでない行動や感情で、そして同時にそれらはいつでも、海堂の手の届く所にあったりもした。
だからこそ絶対につかまえない。
絶対に認めない。
そんな暇があったら、もっとするべき事がある筈だと、海堂は信じていた。
それでも時折、自分が負けない為の術を見つけられない事もあって。
そういう時に、ひどく上手な方法で手を貸してくれたのが乾だった。
海堂には物慣れない、自分自身の深い所まで曝け出すような乾との付き合いが、苦痛であった事は一度もない。
それはきっと、様々な可能性を示唆してくれる乾の、言いなりになるのではなくて。
乾のくれる手段から、自分で考えて選び信じる事が出来るからだと海堂は思っていた。
テニスが強くなりたくて。
そんな海堂にその為の手段を教えて、そして選ばせてくれたのは乾だった。
「……海堂? 大丈夫か?」
「………………」
そんなテニスと、何だか同じだと海堂が思ったのが、乾との付き合いの変化で。
テニスがもっと強くなりたいと思ったように、乾の事ももっと欲した。
テニスの時と同じように、乾はそんな海堂に、どうするといいのかを教えてくれた。
とても生真面目に、海堂にもよく判る言い方で、乾に好きだと告げられて初めて、海堂も自分の感情に正しい名前をつけられたのだ。
そして今、海堂の目の前。
優しくて長いキスをそっとほどいた乾が、海堂の様子を真剣に伺ってくる。
海堂の体内から退いた乾に、宥めるようなキスをされながら、落ち着いてきてはいるものの、海堂の身体は乱されたまま、浅い呼吸に蠢き、ひききらない汗に濡れている。
テニスへの熱と、乾への熱は、最初はひどく似通っていると海堂は思った。
だが徐々に、同じではないという事を知るようにもなった。
海堂が、テニスであれば絶対に認めたくないような、弱音や諦めや泣き言といったものが、何故か乾といるこういう時には、ぽろりといつの間にか零れ落ちてしまうのだ。
「海堂」
「………おかしく…なる…」
「…ん?」
「……あんたに…され、ると…、…どんどんおかしくなる…」
息を乱しながら、涙まじりのこんな言葉。
泣き言でなくて何なのだと海堂は思う。
でも、貪られるキスに喉を鳴らし、揺すられる動きに声を嗄らし、名を呼ばれる声に身体を震わせる、そういう事がどんどんひどくなる。
自分はおかしいんじゃないかと思うくらい。
乾が好きで、何をされても、頭も身体も乱されていくばかりだ。
「当たり前だろ」
「………………」
吐息を零すように乾が笑った。
困惑する海堂を腕の中に閉じ込めるよう組み敷いて、頬に口付けてくる。
無き濡れた海堂の睫毛の涙を払うよう、乾の睫毛も瞬きと供に触れてくる。
あんなに卑猥に動いていたのが信じられないくらい。
それはきっとお互い様なのだろうと海堂は思ったが、それでも。
こうして静かに肌を寄せている自分達を、けだるい身体でぼんやり感じ入りながら、海堂は乾を見つめた。
「海堂が、よくって、頭も身体もおかしくなるって思うように、やってるんだから」
「………………」
「本気でおかしくなるように、本気で抱いてるんだから当たり前なんだよ」
「………そうなん…すか…?」
「そうなんです」
「……俺も、そういう風に考えて、したら……乾先輩も本気でおかしくなるんですか」
「これ以上おかしくならないって。俺は」
面食らったような顔をした後、乾は海堂を抱き込むようにして隣に横たわった。
屈託なく笑い出した乾に肩を抱かれたまま、海堂に睡魔が差し込んでくる。
「…………乾先輩は………余裕があるように…見えるんですけど…」
「余裕ある奴があんな真似するか?」
身体の際どい箇所を幾つか。
大きな手のひらに触れられる感触がして、海堂の全身に震えが走るけれども。
乾の声は、海堂の耳に、何だか愕然としているように聞こえたのだけれども。
海堂の睡魔もまた一層濃くなってしまって。
もう確かめる余力も何もなく、海堂は乾の胸元に、顔を伏せて寝入ってしまった。
どれもが海堂の好きでない行動や感情で、そして同時にそれらはいつでも、海堂の手の届く所にあったりもした。
だからこそ絶対につかまえない。
絶対に認めない。
そんな暇があったら、もっとするべき事がある筈だと、海堂は信じていた。
それでも時折、自分が負けない為の術を見つけられない事もあって。
そういう時に、ひどく上手な方法で手を貸してくれたのが乾だった。
海堂には物慣れない、自分自身の深い所まで曝け出すような乾との付き合いが、苦痛であった事は一度もない。
それはきっと、様々な可能性を示唆してくれる乾の、言いなりになるのではなくて。
乾のくれる手段から、自分で考えて選び信じる事が出来るからだと海堂は思っていた。
テニスが強くなりたくて。
そんな海堂にその為の手段を教えて、そして選ばせてくれたのは乾だった。
「……海堂? 大丈夫か?」
「………………」
そんなテニスと、何だか同じだと海堂が思ったのが、乾との付き合いの変化で。
テニスがもっと強くなりたいと思ったように、乾の事ももっと欲した。
テニスの時と同じように、乾はそんな海堂に、どうするといいのかを教えてくれた。
とても生真面目に、海堂にもよく判る言い方で、乾に好きだと告げられて初めて、海堂も自分の感情に正しい名前をつけられたのだ。
そして今、海堂の目の前。
優しくて長いキスをそっとほどいた乾が、海堂の様子を真剣に伺ってくる。
海堂の体内から退いた乾に、宥めるようなキスをされながら、落ち着いてきてはいるものの、海堂の身体は乱されたまま、浅い呼吸に蠢き、ひききらない汗に濡れている。
テニスへの熱と、乾への熱は、最初はひどく似通っていると海堂は思った。
だが徐々に、同じではないという事を知るようにもなった。
海堂が、テニスであれば絶対に認めたくないような、弱音や諦めや泣き言といったものが、何故か乾といるこういう時には、ぽろりといつの間にか零れ落ちてしまうのだ。
「海堂」
「………おかしく…なる…」
「…ん?」
「……あんたに…され、ると…、…どんどんおかしくなる…」
息を乱しながら、涙まじりのこんな言葉。
泣き言でなくて何なのだと海堂は思う。
でも、貪られるキスに喉を鳴らし、揺すられる動きに声を嗄らし、名を呼ばれる声に身体を震わせる、そういう事がどんどんひどくなる。
自分はおかしいんじゃないかと思うくらい。
乾が好きで、何をされても、頭も身体も乱されていくばかりだ。
「当たり前だろ」
「………………」
吐息を零すように乾が笑った。
困惑する海堂を腕の中に閉じ込めるよう組み敷いて、頬に口付けてくる。
無き濡れた海堂の睫毛の涙を払うよう、乾の睫毛も瞬きと供に触れてくる。
あんなに卑猥に動いていたのが信じられないくらい。
それはきっとお互い様なのだろうと海堂は思ったが、それでも。
こうして静かに肌を寄せている自分達を、けだるい身体でぼんやり感じ入りながら、海堂は乾を見つめた。
「海堂が、よくって、頭も身体もおかしくなるって思うように、やってるんだから」
「………………」
「本気でおかしくなるように、本気で抱いてるんだから当たり前なんだよ」
「………そうなん…すか…?」
「そうなんです」
「……俺も、そういう風に考えて、したら……乾先輩も本気でおかしくなるんですか」
「これ以上おかしくならないって。俺は」
面食らったような顔をした後、乾は海堂を抱き込むようにして隣に横たわった。
屈託なく笑い出した乾に肩を抱かれたまま、海堂に睡魔が差し込んでくる。
「…………乾先輩は………余裕があるように…見えるんですけど…」
「余裕ある奴があんな真似するか?」
身体の際どい箇所を幾つか。
大きな手のひらに触れられる感触がして、海堂の全身に震えが走るけれども。
乾の声は、海堂の耳に、何だか愕然としているように聞こえたのだけれども。
海堂の睡魔もまた一層濃くなってしまって。
もう確かめる余力も何もなく、海堂は乾の胸元に、顔を伏せて寝入ってしまった。
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苦くて、酸っぱくて、神尾はコーヒーが苦手だった。
跡部は好きらしい。
家でも外でもよくコーヒーを飲む。
最初の頃、そんな跡部を見て、よくあんなの飲めるよなあと神尾は思っていた。
別に飲みたくて見ていた訳じゃないのだが、跡部と目が合ってしまった時、飲みたきゃやると跡部の飲みかけを、半ば強引に渡されてしまった。
いかにも高級なカップを手に、神尾はほとほと参った。
ぼそぼそと、コーヒーは苦手だと言ったら、飲んでから言えと凄まれた。
仕方ないから神尾は渋々それに口をつけた。
味はやはり苦かった。
でも、苦手な要素のもう一つ、酸っぱい味はしなくて。
ひとくち飲んで、それだけ言って。
恐る恐る跡部にカップを返すと。
跡部は僅かに目を見開いて、唇の端を引き上げた。
それから、酸味の強い豆が苦手なだけじゃねえの?と跡部は笑って。
跡部の家に行く度、神尾は必ず、一杯のコーヒーを飲まされるようになった。
ふわふわのスチームミルクが浮いているのとか。
牛乳の方が多いくらいの色味の、甘いフレーバーのカフェオレとか。
香ばしい香りのするさらりとしたのとか。
たっぷりとクリームが乗っているのとか。
最初はそういう、匂いとか甘みだとかで誤魔化されるように。
それから徐々に、少しずつ味の違うコーヒーそのものを。
そうして、いつの間にか神尾はコーヒーが飲めるようになっていた。
「………あれ? これ?」
今日も神尾は跡部の部屋で、コーヒーを飲んでいる。
跡部と出会ったばかりの頃は、ひとくちだって辛かった飲み物を。
「味覚は悪くねえんだよな。お前」
全然味を知らねえけど、と意地悪く笑う跡部は、いつもと味の違うコーヒーに気づいた神尾を、言い方ほどは意地悪くもない目で、見据えてくる。
コーヒーを飲む度、神尾は、この飲み物は跡部のようだとよく思う。
「………………」
苦くて。
癖があって。
馴染めなくて。
美味しくないと思っていたのに。
敬遠していたのに。
でも今は、一日の中で、ふと飲みたくなる時が必ずある。
豆の種類が違う事にもひとくちで気づく。
一瞬の香りとか、味だとかで。
苦味は今でも感じるけれど。
それでも。
「………………」
いつもより少し濃い、苦い味のするコーヒーに、砂糖をひとさじ落とすように。
跡部は神尾の唇にひとつキスをした。
甘くなったか?と笑う目を至近距離に見て、神尾は何だかくらくらした。
コーヒーでも、キスでも。
最初からこんな上等なものを与えられてしまっては、この先もう。
「………俺もう缶コーヒーとか全然飲めないんだぜ」
味覚が馴染んだのは、恐らく最高級品であるだろうコーヒー。
「それがどうした」
神尾の唇に馴染んだのは、そうやって不遜に笑う跡部の唇、それだけだ。
もう、神尾の唇は。
極上のキスだけしか知らない。
跡部は好きらしい。
家でも外でもよくコーヒーを飲む。
最初の頃、そんな跡部を見て、よくあんなの飲めるよなあと神尾は思っていた。
別に飲みたくて見ていた訳じゃないのだが、跡部と目が合ってしまった時、飲みたきゃやると跡部の飲みかけを、半ば強引に渡されてしまった。
いかにも高級なカップを手に、神尾はほとほと参った。
ぼそぼそと、コーヒーは苦手だと言ったら、飲んでから言えと凄まれた。
仕方ないから神尾は渋々それに口をつけた。
味はやはり苦かった。
でも、苦手な要素のもう一つ、酸っぱい味はしなくて。
ひとくち飲んで、それだけ言って。
恐る恐る跡部にカップを返すと。
跡部は僅かに目を見開いて、唇の端を引き上げた。
それから、酸味の強い豆が苦手なだけじゃねえの?と跡部は笑って。
跡部の家に行く度、神尾は必ず、一杯のコーヒーを飲まされるようになった。
ふわふわのスチームミルクが浮いているのとか。
牛乳の方が多いくらいの色味の、甘いフレーバーのカフェオレとか。
香ばしい香りのするさらりとしたのとか。
たっぷりとクリームが乗っているのとか。
最初はそういう、匂いとか甘みだとかで誤魔化されるように。
それから徐々に、少しずつ味の違うコーヒーそのものを。
そうして、いつの間にか神尾はコーヒーが飲めるようになっていた。
「………あれ? これ?」
今日も神尾は跡部の部屋で、コーヒーを飲んでいる。
跡部と出会ったばかりの頃は、ひとくちだって辛かった飲み物を。
「味覚は悪くねえんだよな。お前」
全然味を知らねえけど、と意地悪く笑う跡部は、いつもと味の違うコーヒーに気づいた神尾を、言い方ほどは意地悪くもない目で、見据えてくる。
コーヒーを飲む度、神尾は、この飲み物は跡部のようだとよく思う。
「………………」
苦くて。
癖があって。
馴染めなくて。
美味しくないと思っていたのに。
敬遠していたのに。
でも今は、一日の中で、ふと飲みたくなる時が必ずある。
豆の種類が違う事にもひとくちで気づく。
一瞬の香りとか、味だとかで。
苦味は今でも感じるけれど。
それでも。
「………………」
いつもより少し濃い、苦い味のするコーヒーに、砂糖をひとさじ落とすように。
跡部は神尾の唇にひとつキスをした。
甘くなったか?と笑う目を至近距離に見て、神尾は何だかくらくらした。
コーヒーでも、キスでも。
最初からこんな上等なものを与えられてしまっては、この先もう。
「………俺もう缶コーヒーとか全然飲めないんだぜ」
味覚が馴染んだのは、恐らく最高級品であるだろうコーヒー。
「それがどうした」
神尾の唇に馴染んだのは、そうやって不遜に笑う跡部の唇、それだけだ。
もう、神尾の唇は。
極上のキスだけしか知らない。
宍戸の両腕には、大量のプリントが山のようになって、今にも雪崩を起こしそうにバランス悪く積まれている。
「宍戸ー……お前さ、もー少しそういうの考えて持てば?」
「俺じゃねえっての!」
渡り廊下で行き会った同級生の向日に露骨に呆れられて、宍戸は牙を剥いた。
このプリントはそっくりそのまま、今年新卒で氷帝にやってきた教師の忘れ物だった。
次の時間によそのクラスで使うらしいプリントを、宍戸のクラスの授業に一緒に持ってきてしまった挙句に忘れて帰っていった。
クラスメイトが面白がる中、呆れながらもそのプリントを抱えたのは宍戸だった。
すると、その新任教師がまだ年若い女性だった事もあって、クラスメイトはひやかしと悪ふざけでプリントの山を手にする宍戸に絡んできたものだからこの有様だ。
友人達を怒鳴りつけてさっさと教室を出てきた宍戸は、今更持ち直すのも面倒で、そのまま歩いていたところ、部活仲間の向日と鉢合わせしたのだ。
「……このへん突っついたら、絶対崩れ落ちそ…」
「アホ! やったら泣かす!」
「泣かねーもん!」
宍戸は、やたらとすばっしこい向日の事を今度は怒鳴りながら、そのちょっかいをかわしていく。
「あ」
「……、…くそ」
向日が口を開け、宍戸が毒づいた。
プリントは無事だ。
しかし。
「……あーあ…」
「あーあじゃねえ! アホ!」
「ダサー……」
「お前のせいだろうがっ」
高めの位置で結わえられていた宍戸の髪が、肩へ、背中へと、解けて落ちる。
髪をとめていたゴムが飛んで足元に落ちた。
「へえ…宍戸、髪伸びたなー」
「伸びたなーじゃねえっての…!」
いくら怒鳴っても、まるでこたえない向日に嘆息して、宍戸は面倒くせえとぼやいた。
その時だ。
渡り廊下から、中庭を歩く見知った顔を見つけたのだ。
「長太郎!」
飛びぬけた長身。
宍戸の一学年下である鳳は、宍戸にそう呼ばれるなり、すごいスピードで走ってきた。
「宍戸さん」
あっという間に宍戸と向日の前に立つ。
「教室移動ですか?」
お疲れ様です、と二人の先輩への目礼も欠かさない鳳の態度を、向日は腹を抱えて笑っている。
「鳳ー、お前そんなんだから犬とか言われんだぜ?」
人懐っこくて従順で、礼儀正しく微笑ましい。
そんな鳳への犬呼ばわりは、無論好意的な意味で成されているのだが、取り分け宍戸への殊勝ぶりは凄まじく、それはそれで恰好のひやかしの種だった。
「長太郎。そのへんにゴム落ちてっから、それで俺の髪結べ」
宍戸が顎で指し示した先を見て、鳳は渡り廊下に入ってきて、膝をついた。
ガラスの靴でも拾ったみたいにゴム取るなと向日がまた笑う。
なんですか?それは、と鳳は温厚な笑みで向日に応えながら、そっと宍戸の背後に回った。
プリントを持ったまま、宍戸が背後を振り返る。
目と目が合うと、はい、と鳳は頷いて。
微笑を深める。
「失礼します」
「……馬鹿丁寧にいいっての」
「でも断りも無しに宍戸さんの髪に触れません」
「あのな。なんかの祟りでもあるみたいじゃねーか」
「今、ここにいる人達に羨まれて、妬まれて、俺が闇討ちとか合う可能性ならありそうです」
鳳は終始穏やかに、そして丁寧に、宍戸の髪を結わえた。
「サンキュ」
再度鳳を背後に見やった宍戸の視界にいたのは、そのルックスの甘さを一層際立たせる甘い微笑に笑みを細めている鳳だ。
「…………なー…宍戸」
「何だよ」
気力を根こそぎ奪われたかのような態度の向日の声に。
宍戸は怪訝に眉根を寄せながら、呼びかけに応じて向き直る。
耳で聞いた通りの表情で、向日はがっくりと肩を落としていて、ただでさえ小さな体が尚一層小さく見える。
「お前、そんだけ懐かれて慕われたら、鳳のこと可愛くてしょうがねーだろ…?!」
「は? なに馬鹿なこと言ってんだ。お前」
心底呆れて言い捨てた宍戸の返事に、向日はといえば。
鳳に向けて叫び声を上げた。
「今の聞いたかよ鳳! お前がそんな風にして従順に従ってる宍戸はな、こういう、暴君、俺様二号なんだぞ!」
俺様一号の顔を思い浮かべた時だけ、三人の心は一つになったが、すぐにバラバラになった。
「いい加減お前も目ぇ覚ませ!」
「目覚ますのはお前だっての。岳人」
「喧嘩しないで下さいよ…二人とも…」
「誰の為に言ってやってると思ってんだ鳳!」
散々賑やかになってしまった騒ぎを、あっという間に沈下させたのは、プリントを届けるという目的を思い出した宍戸だった。
宍戸は、足早に駆け出して。
向日を追い越しざまに言った。
「別に懐かれなくたって、慕われなくったって、可愛いだろ。こいつは」
こいつは、と。
宍戸の目線に撫でられた鳳が、それこそとろけそうな笑みを浮かべたのを目の当たりにして。
あまりの恥ずかしさに赤くなったのは向日で。
彼は耐えかねたように、涙目で「ゆうしーーー!」と叫びながら宍戸とは逆方向へ走っていった。
右へ左へと散らばる三年生を見送った鳳は、春風にまかれたように目を細め、どうしようもなく幸せそうだった。
「宍戸ー……お前さ、もー少しそういうの考えて持てば?」
「俺じゃねえっての!」
渡り廊下で行き会った同級生の向日に露骨に呆れられて、宍戸は牙を剥いた。
このプリントはそっくりそのまま、今年新卒で氷帝にやってきた教師の忘れ物だった。
次の時間によそのクラスで使うらしいプリントを、宍戸のクラスの授業に一緒に持ってきてしまった挙句に忘れて帰っていった。
クラスメイトが面白がる中、呆れながらもそのプリントを抱えたのは宍戸だった。
すると、その新任教師がまだ年若い女性だった事もあって、クラスメイトはひやかしと悪ふざけでプリントの山を手にする宍戸に絡んできたものだからこの有様だ。
友人達を怒鳴りつけてさっさと教室を出てきた宍戸は、今更持ち直すのも面倒で、そのまま歩いていたところ、部活仲間の向日と鉢合わせしたのだ。
「……このへん突っついたら、絶対崩れ落ちそ…」
「アホ! やったら泣かす!」
「泣かねーもん!」
宍戸は、やたらとすばっしこい向日の事を今度は怒鳴りながら、そのちょっかいをかわしていく。
「あ」
「……、…くそ」
向日が口を開け、宍戸が毒づいた。
プリントは無事だ。
しかし。
「……あーあ…」
「あーあじゃねえ! アホ!」
「ダサー……」
「お前のせいだろうがっ」
高めの位置で結わえられていた宍戸の髪が、肩へ、背中へと、解けて落ちる。
髪をとめていたゴムが飛んで足元に落ちた。
「へえ…宍戸、髪伸びたなー」
「伸びたなーじゃねえっての…!」
いくら怒鳴っても、まるでこたえない向日に嘆息して、宍戸は面倒くせえとぼやいた。
その時だ。
渡り廊下から、中庭を歩く見知った顔を見つけたのだ。
「長太郎!」
飛びぬけた長身。
宍戸の一学年下である鳳は、宍戸にそう呼ばれるなり、すごいスピードで走ってきた。
「宍戸さん」
あっという間に宍戸と向日の前に立つ。
「教室移動ですか?」
お疲れ様です、と二人の先輩への目礼も欠かさない鳳の態度を、向日は腹を抱えて笑っている。
「鳳ー、お前そんなんだから犬とか言われんだぜ?」
人懐っこくて従順で、礼儀正しく微笑ましい。
そんな鳳への犬呼ばわりは、無論好意的な意味で成されているのだが、取り分け宍戸への殊勝ぶりは凄まじく、それはそれで恰好のひやかしの種だった。
「長太郎。そのへんにゴム落ちてっから、それで俺の髪結べ」
宍戸が顎で指し示した先を見て、鳳は渡り廊下に入ってきて、膝をついた。
ガラスの靴でも拾ったみたいにゴム取るなと向日がまた笑う。
なんですか?それは、と鳳は温厚な笑みで向日に応えながら、そっと宍戸の背後に回った。
プリントを持ったまま、宍戸が背後を振り返る。
目と目が合うと、はい、と鳳は頷いて。
微笑を深める。
「失礼します」
「……馬鹿丁寧にいいっての」
「でも断りも無しに宍戸さんの髪に触れません」
「あのな。なんかの祟りでもあるみたいじゃねーか」
「今、ここにいる人達に羨まれて、妬まれて、俺が闇討ちとか合う可能性ならありそうです」
鳳は終始穏やかに、そして丁寧に、宍戸の髪を結わえた。
「サンキュ」
再度鳳を背後に見やった宍戸の視界にいたのは、そのルックスの甘さを一層際立たせる甘い微笑に笑みを細めている鳳だ。
「…………なー…宍戸」
「何だよ」
気力を根こそぎ奪われたかのような態度の向日の声に。
宍戸は怪訝に眉根を寄せながら、呼びかけに応じて向き直る。
耳で聞いた通りの表情で、向日はがっくりと肩を落としていて、ただでさえ小さな体が尚一層小さく見える。
「お前、そんだけ懐かれて慕われたら、鳳のこと可愛くてしょうがねーだろ…?!」
「は? なに馬鹿なこと言ってんだ。お前」
心底呆れて言い捨てた宍戸の返事に、向日はといえば。
鳳に向けて叫び声を上げた。
「今の聞いたかよ鳳! お前がそんな風にして従順に従ってる宍戸はな、こういう、暴君、俺様二号なんだぞ!」
俺様一号の顔を思い浮かべた時だけ、三人の心は一つになったが、すぐにバラバラになった。
「いい加減お前も目ぇ覚ませ!」
「目覚ますのはお前だっての。岳人」
「喧嘩しないで下さいよ…二人とも…」
「誰の為に言ってやってると思ってんだ鳳!」
散々賑やかになってしまった騒ぎを、あっという間に沈下させたのは、プリントを届けるという目的を思い出した宍戸だった。
宍戸は、足早に駆け出して。
向日を追い越しざまに言った。
「別に懐かれなくたって、慕われなくったって、可愛いだろ。こいつは」
こいつは、と。
宍戸の目線に撫でられた鳳が、それこそとろけそうな笑みを浮かべたのを目の当たりにして。
あまりの恥ずかしさに赤くなったのは向日で。
彼は耐えかねたように、涙目で「ゆうしーーー!」と叫びながら宍戸とは逆方向へ走っていった。
右へ左へと散らばる三年生を見送った鳳は、春風にまかれたように目を細め、どうしようもなく幸せそうだった。
海堂のその異変に気づいたのは、最初に母親で、それと殆ど時を同じくして、乾だった。
「海堂」
「…何っすか」
呼び止められるだけでなく、二の腕もとられた。
乾の手は指が長いだけでなく手のひらも相当大きいので。
あまりにも簡単に海堂の腕は乾の手に包まれる。
「………乾先輩」
「身体のサイズは一緒。だとすると……」
乾のその手で、勝手に自分のサイズを知られているらしい事に海堂は複雑な思いをしながら、ぎこちなく腕を引いた。
乾はすぐに逃がしてくれたが、じっと見つめてくる視線は、ずれなかった。
「海堂、最近服の買い方、変えた?」
「………………」
やっぱり、と海堂は思った。
今朝方母親にも同じ事を言われたのだ。
そしてそれは、誰に言われずとも海堂自身が最もよく判っている事だった。
「手足に合わせると、服のサイズが極端に大きくなるの嫌がってただろ?」
手足の長い海堂は、乾が指摘するように、服選びが難しい。
胸元や腰周りが不恰好に泳ぐくらいならと、丈を無視する事が多いのだ。
結果、袖や裾が足りない服が多い。
どうせ成長期だと海堂は構わずにいるのだが、それが最近、海堂は服を買う度、失敗する。
私服であっても制服のシャツであっても、何故だかいつも丈が充分足りてしまう。
つまり今までは避けていた、胸や腰周りにゆとりがありすぎる服を買ってしまう。
それも、時々は更に、全然サイズの違うような服をもだ。
今朝洗濯物を干す母親に言われた矢先、今度は学校に来て乾に指摘された。
「………………」
「………ん?」
顎を引くようにして乾を見上げた海堂に、乾は僅かに首を傾けてくる。
促されるような小さな問いかけに、海堂は低い声で言った。
「…………あんたのせいだ」
「俺? 何で?」
「………………」
乾は心底不思議そうな顔をした。
もうこれ以上言えるかと、海堂は後退りしかけた所をまた乾の腕に捉まった。
「おっと……」
「…………、…」
「何で俺のせい?」
優しげに笑う乾は、今度は海堂が身を捩っても、逃がしてはくれなかった。
何かに興味をそそられた時の乾は、普段よりも少し強引になる。
「海堂?」
答えるまで乾は自分を離さない気だと悟って。
うっかり口を滑らせた己を海堂は自責したけれど。
こうなったらもう仕方ない。
「………服、広げてみて」
その時に。
「これくらいだって」
頭で。
「思って」
「…海堂?」
「肩の幅とか、頭があんたのサイズで覚えちまってて」
だから失敗する。
ああこれくらいだ、と。
肩幅だとか。
服を広げてみた手が覚えているのは。
頭が判断するのは。
いつも乾の。
「……、…っ…に…すんですか……!」
いきなり身包み抱き込まれて海堂は思わず叫んだ。
耳元で、何だか気恥ずかしくなる甘い笑い声が聞こえてくる。
「照れ隠し」
「……っ……、」
甘ったるい照れは、その低い声での囁きと供に、海堂にも伝染してきてしまった。
離せととにかく怒鳴ってみても。
何だか妙に力ない言い方になってしまって、却って居たたまれない。
服のサイズを間違って買い続けてしまう事も、それを返品や交換する事もなく、着たままでいる事も。
何もかもが海堂にしてみれば恥ずかしいというのに、乾が嬉しがっている気配ばかりが伝わってくるから。
海堂もまた、照れ隠しの所存で。
抱き締められるままに乾の胸元に顔を伏せるのだった。
「海堂」
「…何っすか」
呼び止められるだけでなく、二の腕もとられた。
乾の手は指が長いだけでなく手のひらも相当大きいので。
あまりにも簡単に海堂の腕は乾の手に包まれる。
「………乾先輩」
「身体のサイズは一緒。だとすると……」
乾のその手で、勝手に自分のサイズを知られているらしい事に海堂は複雑な思いをしながら、ぎこちなく腕を引いた。
乾はすぐに逃がしてくれたが、じっと見つめてくる視線は、ずれなかった。
「海堂、最近服の買い方、変えた?」
「………………」
やっぱり、と海堂は思った。
今朝方母親にも同じ事を言われたのだ。
そしてそれは、誰に言われずとも海堂自身が最もよく判っている事だった。
「手足に合わせると、服のサイズが極端に大きくなるの嫌がってただろ?」
手足の長い海堂は、乾が指摘するように、服選びが難しい。
胸元や腰周りが不恰好に泳ぐくらいならと、丈を無視する事が多いのだ。
結果、袖や裾が足りない服が多い。
どうせ成長期だと海堂は構わずにいるのだが、それが最近、海堂は服を買う度、失敗する。
私服であっても制服のシャツであっても、何故だかいつも丈が充分足りてしまう。
つまり今までは避けていた、胸や腰周りにゆとりがありすぎる服を買ってしまう。
それも、時々は更に、全然サイズの違うような服をもだ。
今朝洗濯物を干す母親に言われた矢先、今度は学校に来て乾に指摘された。
「………………」
「………ん?」
顎を引くようにして乾を見上げた海堂に、乾は僅かに首を傾けてくる。
促されるような小さな問いかけに、海堂は低い声で言った。
「…………あんたのせいだ」
「俺? 何で?」
「………………」
乾は心底不思議そうな顔をした。
もうこれ以上言えるかと、海堂は後退りしかけた所をまた乾の腕に捉まった。
「おっと……」
「…………、…」
「何で俺のせい?」
優しげに笑う乾は、今度は海堂が身を捩っても、逃がしてはくれなかった。
何かに興味をそそられた時の乾は、普段よりも少し強引になる。
「海堂?」
答えるまで乾は自分を離さない気だと悟って。
うっかり口を滑らせた己を海堂は自責したけれど。
こうなったらもう仕方ない。
「………服、広げてみて」
その時に。
「これくらいだって」
頭で。
「思って」
「…海堂?」
「肩の幅とか、頭があんたのサイズで覚えちまってて」
だから失敗する。
ああこれくらいだ、と。
肩幅だとか。
服を広げてみた手が覚えているのは。
頭が判断するのは。
いつも乾の。
「……、…っ…に…すんですか……!」
いきなり身包み抱き込まれて海堂は思わず叫んだ。
耳元で、何だか気恥ずかしくなる甘い笑い声が聞こえてくる。
「照れ隠し」
「……っ……、」
甘ったるい照れは、その低い声での囁きと供に、海堂にも伝染してきてしまった。
離せととにかく怒鳴ってみても。
何だか妙に力ない言い方になってしまって、却って居たたまれない。
服のサイズを間違って買い続けてしまう事も、それを返品や交換する事もなく、着たままでいる事も。
何もかもが海堂にしてみれば恥ずかしいというのに、乾が嬉しがっている気配ばかりが伝わってくるから。
海堂もまた、照れ隠しの所存で。
抱き締められるままに乾の胸元に顔を伏せるのだった。
男二人でタンポポを植える。
いったいどういう光景なのかと、客観的に呆れて思う。
そうして思う側から、その違和感は。
たちどころに薄れていくのだけれど。
その日の跡部は出先から歩いて自宅に帰っていた。
親の仕事絡みの知人に、どうしてもと誘われて家に招かれ出向いていってみれば。
来客の多いちょっとしたパーティが行われていて、やはりそうかと、跡部はそつなく浮かべた笑顔の下で嘆息した。
執拗な誘いに、簡単な顔見せと挨拶とでは帰れそうもないだろうと、当初から思っていた通りの事態だった。
幼い頃から、こういう場には、親に連れ出され、また周囲からも声をかけられる事の多かった跡部にすれば全て心得ているものだったが。
中三となった今、部活から受験からその他所用まで、多忙を極める毎日で、あまつさえ近頃はそこに、一分一秒も惜しくなるような出来事が、もう一つ増えたものだから。
長々とこのパーティに付き合ってもいられないと跡部は思ったのだ。
新しく跡部の日常や感情の中に生まれたものは、恋人の存在という事になる。
だがしかし、何も跡部は色惚けしている訳ではなかった。
一分一秒が惜しいというのは、甘い意味合いもあるにはあるが、何分相手が猪突猛進の変り種で、目を離した隙に何をしだすか判らない、そういう意味合いでもあるのだ。
笑っていたかと思うと激怒し始め、泣いたかと思うとけろりとして音楽を聴いている。
怠惰にごろごろと転がっていたかと思うと、突如物凄いスピードでどこぞへと走っていってしまったりする。
体型に見合わない大食漢ぶりを発揮していたかと思うと、食べかけのパンなど片手に持って赤ん坊さながらに眠ってしまっていたりもする。
要するに、跡部にしてみれば未知の生き物なのである。
未知の生き物は名を神尾アキラという。
そんな風につらつらと神尾の事を考えていたせいなのか、跡部はその日、かなりの酒を飲んだ。
飲まされたと言うのが正しいのかもしれなかった。
無論跡部が未成年であることは誰もが判っていながら、そういう点に拘る輩はあまり居ず、ましてや跡部の見目があまりにも年齢を裏切ってもいるので。
こういう事は然して珍しい出来事ではなかった。
跡部もアルコールに強いのは親譲りの持って生まれた性質だったらしく、すすめられるままに飲んでも、酒で失敗した事は一度もなかった。
だから今日の状態は珍しい部類である。
跡部自身が、飲みすぎたかと思っている。
酔いが回ったと跡部が自ら感じるような事も、普段ならばそうそうない。
「………………」
数時間を過ごしたその家から戻る際、跡部は自宅から車をよばなかった。
たまには歩いて帰るかと思いつきで決めて電車に乗った。
そうやって普段とは違う幾つかのことをしながら、跡部は暗くなった夜道を歩いていく。
春の夜風は大分温まっていて、大胆に吹き付けてくる度に跡部は髪をかきあげた。
風が吹くと街路樹の葉擦れの音が大きくなる。
その音にも大分耳が慣れた頃、いきなり、風もないのに跡部が通り過ぎようとしていた茂みがさざめいた。
公園を囲う植木だ。
先端を赤く染めたカナメの葉。
そこから突然に飛び出てきたものがあって。
野良猫かと跡部が思えば、あろう事かそれは跡部の恋人だった。
「うわ! 跡部!」
「………………」
なんだ!どうしたんだ!こんなとこで!と矢継ぎ早に大声を出した神尾に、跡部は片手で自らの額を押さえる。
驚くよりもつくづくこいつはと呆れてしまう。
なんだ!どうしたんだ!こんなとこで!という状態なのは俺よりてめえだと跡部は神尾を斜に見据えた。
頭がくらりとまわったのは、酒の余韻か神尾の所為か。
跡部の不均衡な視野で、神尾はびっくりした顔でまだ何か言っている。
よく聞き取れない。
「………………」
とりあえず跡部はただ道を歩いていただけだ。
そんな跡部より、いきなり茂みの中から飛び出てきて、しかも右手にシャベルを握る神尾の方がどれだけ奇異というものか。
「……でさ、跡部、聞いてるか? 俺さ、タンポポ植えたいんだけど、どこがいいと思う?」
「…………ああ?」
そんなこと聞いてない。
聞いてるわけがない。
だいたいタンポポって。
何で植えるんだ。
どうして俺に聞く。
もうどこから、なにから、口に出していいのか跡部にはさっぱり判らなかった。
くらくらしてくる。
訳が判らない。
「………………」
もうどうしようもないから跡部は舌打ちをして、腕を伸ばした。
神尾に覆い被さるようにして、体重をかけて脱力する。
「………、…ぅ」
神尾にしては必死で持ちこたえた。
身長差十cm、体重差十㎏にしては頑張ってんじゃねーのと思って、跡部はおかしくなって、低く笑い声を上げた。
「な、…なんだ? 跡部?」
倒れこまない程度に跡部はわざと神尾へと体重をかけていく。
神尾も支えきれないという事は癪なのか、懸命に踏み止まろうとしているのが伝わってくる。
力が入ってぶるぶる震えているのがおかしかった。
「…跡部、なに、酔っ払ってんの?」
「……ねえよ」
酒の匂いでもするのかと考えながら、跡部は低い声で言った。
「嫌なら蹴っ飛ばしてでも逃げりゃいいだろ」
「………絡み酒かよ。タチ悪いなー…跡部」
「お前むかつく」
「はいはい。何だかなー」
全くこたえていない神尾の、まるで自分をあしらうような態度に。
ムッとするものの、言う程は腹もたたず、跡部は身体を起こした。
「……お前は何してんだ」
「だから言ってんじゃん! タンポポ植えるとこ探してんだよ」
右手のシャベルを持ち上げて見せて、神尾は言った。
「ここの公園にしようかと思ったんだけどさ。なんか踏み荒らされそうで、いいとこ見つかんないから困ってんだよ」
「…タンポポってお前、ただの雑草だろうが。どこだって好きに生えてくるだろうが」
「普通のタンポポじゃないんだよ!」
「タンポポに普通も普通じゃないもあるか馬鹿」
「馬鹿って言うな! いいか、よーく、これ見ろよ!」
神尾が跡部の顔に、ぐいっと近づけて見せたもの。
パッケージの写真。
ピンクのタンポポが写っていた。
「な? これ、桃色タンポポっていうんだぜ。タンポポがピンクなんだよ。すげーだろ?」
「…………別に」
「無理すんなよ跡部ー」
「してねえっての」
呆れる跡部にまるで構わず、神尾は嬉々として花の種のパッケージを見ていた。
何だか目がうっとりしているようで跡部は少し気に食わない。
「俺、絶対花が咲いたとこ見てみたいんだ!」
でも俺ん家の庭は今家庭菜園中だから駄目なんだと呟く様が傷心しているようで跡部は少し気になった。
「……来いよ」
「え?」
考えるより先に、跡部は腕を伸ばしていた。
手にしたのは神尾の手首だ。
「跡部?」
「植えさせてやる。いいから黙ってついて来い」
「…は?」
細い手首は跡部の手のひらに余るようだった。
この手でラケットを握るのかと思うと、跡部の胸に奇妙な感じが広がった。
子供っぽい手は、さらさらと温かかった。
「俺の家の庭に植えさせてやる。しょうがねーから」
「………マジで? いいの?」
植えても?
見に行っても?
咲いたら摘んでも?
そう捲くし立ててくる神尾の声が、耳障りでない理由がつくづく知りたいと跡部は思った。
普通有り得ないだろうと心底から思う。
もう、この、ありとあらゆる全ての事が。
月明かりの中で、跡部は自宅の庭にタンポポの種を埋める神尾の姿を眺め下ろした。
雑草でありながらも強い色彩を放つ花。
軽くて、簡単に、風に飛ばされて行き、飛ばされた先でまた、しっかりと根付く花。
シャベルを使って土を掘り、丁寧に種を埋めた神尾は、その花に似すぎている。
ここに植えさせたのは、案外良い事だったのだろうと跡部は考えた。
「サンキュー跡部」
「……………」
返事の代わりに跡部は軽く神尾の唇を掠め取った。
たちまち神尾はこれから咲くらしい花の色になった。
いったいどういう光景なのかと、客観的に呆れて思う。
そうして思う側から、その違和感は。
たちどころに薄れていくのだけれど。
その日の跡部は出先から歩いて自宅に帰っていた。
親の仕事絡みの知人に、どうしてもと誘われて家に招かれ出向いていってみれば。
来客の多いちょっとしたパーティが行われていて、やはりそうかと、跡部はそつなく浮かべた笑顔の下で嘆息した。
執拗な誘いに、簡単な顔見せと挨拶とでは帰れそうもないだろうと、当初から思っていた通りの事態だった。
幼い頃から、こういう場には、親に連れ出され、また周囲からも声をかけられる事の多かった跡部にすれば全て心得ているものだったが。
中三となった今、部活から受験からその他所用まで、多忙を極める毎日で、あまつさえ近頃はそこに、一分一秒も惜しくなるような出来事が、もう一つ増えたものだから。
長々とこのパーティに付き合ってもいられないと跡部は思ったのだ。
新しく跡部の日常や感情の中に生まれたものは、恋人の存在という事になる。
だがしかし、何も跡部は色惚けしている訳ではなかった。
一分一秒が惜しいというのは、甘い意味合いもあるにはあるが、何分相手が猪突猛進の変り種で、目を離した隙に何をしだすか判らない、そういう意味合いでもあるのだ。
笑っていたかと思うと激怒し始め、泣いたかと思うとけろりとして音楽を聴いている。
怠惰にごろごろと転がっていたかと思うと、突如物凄いスピードでどこぞへと走っていってしまったりする。
体型に見合わない大食漢ぶりを発揮していたかと思うと、食べかけのパンなど片手に持って赤ん坊さながらに眠ってしまっていたりもする。
要するに、跡部にしてみれば未知の生き物なのである。
未知の生き物は名を神尾アキラという。
そんな風につらつらと神尾の事を考えていたせいなのか、跡部はその日、かなりの酒を飲んだ。
飲まされたと言うのが正しいのかもしれなかった。
無論跡部が未成年であることは誰もが判っていながら、そういう点に拘る輩はあまり居ず、ましてや跡部の見目があまりにも年齢を裏切ってもいるので。
こういう事は然して珍しい出来事ではなかった。
跡部もアルコールに強いのは親譲りの持って生まれた性質だったらしく、すすめられるままに飲んでも、酒で失敗した事は一度もなかった。
だから今日の状態は珍しい部類である。
跡部自身が、飲みすぎたかと思っている。
酔いが回ったと跡部が自ら感じるような事も、普段ならばそうそうない。
「………………」
数時間を過ごしたその家から戻る際、跡部は自宅から車をよばなかった。
たまには歩いて帰るかと思いつきで決めて電車に乗った。
そうやって普段とは違う幾つかのことをしながら、跡部は暗くなった夜道を歩いていく。
春の夜風は大分温まっていて、大胆に吹き付けてくる度に跡部は髪をかきあげた。
風が吹くと街路樹の葉擦れの音が大きくなる。
その音にも大分耳が慣れた頃、いきなり、風もないのに跡部が通り過ぎようとしていた茂みがさざめいた。
公園を囲う植木だ。
先端を赤く染めたカナメの葉。
そこから突然に飛び出てきたものがあって。
野良猫かと跡部が思えば、あろう事かそれは跡部の恋人だった。
「うわ! 跡部!」
「………………」
なんだ!どうしたんだ!こんなとこで!と矢継ぎ早に大声を出した神尾に、跡部は片手で自らの額を押さえる。
驚くよりもつくづくこいつはと呆れてしまう。
なんだ!どうしたんだ!こんなとこで!という状態なのは俺よりてめえだと跡部は神尾を斜に見据えた。
頭がくらりとまわったのは、酒の余韻か神尾の所為か。
跡部の不均衡な視野で、神尾はびっくりした顔でまだ何か言っている。
よく聞き取れない。
「………………」
とりあえず跡部はただ道を歩いていただけだ。
そんな跡部より、いきなり茂みの中から飛び出てきて、しかも右手にシャベルを握る神尾の方がどれだけ奇異というものか。
「……でさ、跡部、聞いてるか? 俺さ、タンポポ植えたいんだけど、どこがいいと思う?」
「…………ああ?」
そんなこと聞いてない。
聞いてるわけがない。
だいたいタンポポって。
何で植えるんだ。
どうして俺に聞く。
もうどこから、なにから、口に出していいのか跡部にはさっぱり判らなかった。
くらくらしてくる。
訳が判らない。
「………………」
もうどうしようもないから跡部は舌打ちをして、腕を伸ばした。
神尾に覆い被さるようにして、体重をかけて脱力する。
「………、…ぅ」
神尾にしては必死で持ちこたえた。
身長差十cm、体重差十㎏にしては頑張ってんじゃねーのと思って、跡部はおかしくなって、低く笑い声を上げた。
「な、…なんだ? 跡部?」
倒れこまない程度に跡部はわざと神尾へと体重をかけていく。
神尾も支えきれないという事は癪なのか、懸命に踏み止まろうとしているのが伝わってくる。
力が入ってぶるぶる震えているのがおかしかった。
「…跡部、なに、酔っ払ってんの?」
「……ねえよ」
酒の匂いでもするのかと考えながら、跡部は低い声で言った。
「嫌なら蹴っ飛ばしてでも逃げりゃいいだろ」
「………絡み酒かよ。タチ悪いなー…跡部」
「お前むかつく」
「はいはい。何だかなー」
全くこたえていない神尾の、まるで自分をあしらうような態度に。
ムッとするものの、言う程は腹もたたず、跡部は身体を起こした。
「……お前は何してんだ」
「だから言ってんじゃん! タンポポ植えるとこ探してんだよ」
右手のシャベルを持ち上げて見せて、神尾は言った。
「ここの公園にしようかと思ったんだけどさ。なんか踏み荒らされそうで、いいとこ見つかんないから困ってんだよ」
「…タンポポってお前、ただの雑草だろうが。どこだって好きに生えてくるだろうが」
「普通のタンポポじゃないんだよ!」
「タンポポに普通も普通じゃないもあるか馬鹿」
「馬鹿って言うな! いいか、よーく、これ見ろよ!」
神尾が跡部の顔に、ぐいっと近づけて見せたもの。
パッケージの写真。
ピンクのタンポポが写っていた。
「な? これ、桃色タンポポっていうんだぜ。タンポポがピンクなんだよ。すげーだろ?」
「…………別に」
「無理すんなよ跡部ー」
「してねえっての」
呆れる跡部にまるで構わず、神尾は嬉々として花の種のパッケージを見ていた。
何だか目がうっとりしているようで跡部は少し気に食わない。
「俺、絶対花が咲いたとこ見てみたいんだ!」
でも俺ん家の庭は今家庭菜園中だから駄目なんだと呟く様が傷心しているようで跡部は少し気になった。
「……来いよ」
「え?」
考えるより先に、跡部は腕を伸ばしていた。
手にしたのは神尾の手首だ。
「跡部?」
「植えさせてやる。いいから黙ってついて来い」
「…は?」
細い手首は跡部の手のひらに余るようだった。
この手でラケットを握るのかと思うと、跡部の胸に奇妙な感じが広がった。
子供っぽい手は、さらさらと温かかった。
「俺の家の庭に植えさせてやる。しょうがねーから」
「………マジで? いいの?」
植えても?
見に行っても?
咲いたら摘んでも?
そう捲くし立ててくる神尾の声が、耳障りでない理由がつくづく知りたいと跡部は思った。
普通有り得ないだろうと心底から思う。
もう、この、ありとあらゆる全ての事が。
月明かりの中で、跡部は自宅の庭にタンポポの種を埋める神尾の姿を眺め下ろした。
雑草でありながらも強い色彩を放つ花。
軽くて、簡単に、風に飛ばされて行き、飛ばされた先でまた、しっかりと根付く花。
シャベルを使って土を掘り、丁寧に種を埋めた神尾は、その花に似すぎている。
ここに植えさせたのは、案外良い事だったのだろうと跡部は考えた。
「サンキュー跡部」
「……………」
返事の代わりに跡部は軽く神尾の唇を掠め取った。
たちまち神尾はこれから咲くらしい花の色になった。
テリトリーの境界線には厳しそうな人なので、宍戸が一人でいると、まず近寄っていっていいものか暫し悩む。
声をかけてもいいのかどうか。
一瞬人をそう悩ませる雰囲気のある人で。
それを取っ付きにくいとみる輩は宍戸にあまり近寄らない。
しかし、恐る恐るでも近寄っていった人間からすると、拍子抜けするくらい実は気さくで面倒見の言い宍戸を目の当たりにする事になる。
くっきりと線引きをされていそうな境界線の境目は寛容で、素っ気無い言葉で冷たくあしらわれる事もない。
イメージとのギャップに面食らって、その後からはもう、彼を慕う人間が増えていくだけだ。
宍戸の一学年下だった鳳にとっては、先入観も何もなく、最初から宍戸のそういう性格が不思議とよく判っていた。
だから入学当初から今に至る一年の間、よく言われていた「あの宍戸先輩とよく普通に話せるな」という意味合いの言葉の数々を不思議に思っていた。
「それは周りの奴らのが正しいんじゃねーの?」
「何でですか?」
「……真顔で聞くなよ」
脱力した宍戸を前に、鳳は軽く首を傾ける。
「本当にさっぱり判りません。俺」
「………そーかい」
ますます肩を落として呆れたような宍戸の髪に、鳳は手を伸ばした。
鳳がレギュラー入りを果たしてから、宍戸との距離は、また近くなっている。
「何だよ」
「綺麗ですね……本当に」
「………お前のキャラが未だに掴めねえよ。俺は」
呆れ返った口調の宍戸の髪を指先ですくう。
何の手入れをしなくてもこの状態だと宍戸が言っていたのに対して鳳はつくづく感心している。
「そういう嘘っぽい台詞をよくまあマジなツラして……」
「何ですか嘘って」
苦笑いを浮かべて、鳳は名残惜しく手を引いた。
「本当ですよ」
「どっちでもいいけどよ…」
本当の事と、嘘の事。
どっちでもいい訳ないけれど。
はっきりさせたい事の方が多いものだけれど。
でも、例えば宍戸のように。
見た目の印象と本来の性質とに、大きくギャップのあるような人のことを考えると。
一概に白黒はっきりつける必要はないのかもしれないと鳳は思う。
本当の逆にあるものは、嘘ではないのかもしれない。
「……本当の反対が、即、嘘っていうのも。何かさみしいですよね」
「じゃあ本当の反対にあるのは何だよ」
本当の、真実の、反対にあるものは。
鳳は、宍戸を見つめて呟いた。
「………秘密かな?」
「…………………」
宍戸を、厳しい人と思う者もいる。
宍戸を、優しい人と思う者もいる。
そのどちらであっても、思う人間からすればそれが本当だ。
だから、その本当の裏にあるものは、嘘じゃない。
秘密だ。
「お前…つくづく性格いいな」
感嘆の息で宍戸が溜息を零す。
鳳は思わずうろたえた。
「やめてくださいよ」
「それこそ嘘じゃねーよ」
「宍戸さん?」
「本当の事。もしくは秘密の事。……だろ?」
笑う宍戸の表情は鮮やかで。
幾度となく目にしても鳳はその都度視界を眩しく覆われる。
休憩終わり、と言って宍戸が立ち上がった。
部長である跡部の声も聞こえてきて、鳳も倣って腰を上げた。
華奢でありながら、触れないと、そう感じさせない強い背を向けて、先を歩く宍戸の背後で鳳は思う。
宍戸に伝えている事は、全て本当の事。
宍戸に伝えないでいる事は、全て秘密の事。
声をかけてもいいのかどうか。
一瞬人をそう悩ませる雰囲気のある人で。
それを取っ付きにくいとみる輩は宍戸にあまり近寄らない。
しかし、恐る恐るでも近寄っていった人間からすると、拍子抜けするくらい実は気さくで面倒見の言い宍戸を目の当たりにする事になる。
くっきりと線引きをされていそうな境界線の境目は寛容で、素っ気無い言葉で冷たくあしらわれる事もない。
イメージとのギャップに面食らって、その後からはもう、彼を慕う人間が増えていくだけだ。
宍戸の一学年下だった鳳にとっては、先入観も何もなく、最初から宍戸のそういう性格が不思議とよく判っていた。
だから入学当初から今に至る一年の間、よく言われていた「あの宍戸先輩とよく普通に話せるな」という意味合いの言葉の数々を不思議に思っていた。
「それは周りの奴らのが正しいんじゃねーの?」
「何でですか?」
「……真顔で聞くなよ」
脱力した宍戸を前に、鳳は軽く首を傾ける。
「本当にさっぱり判りません。俺」
「………そーかい」
ますます肩を落として呆れたような宍戸の髪に、鳳は手を伸ばした。
鳳がレギュラー入りを果たしてから、宍戸との距離は、また近くなっている。
「何だよ」
「綺麗ですね……本当に」
「………お前のキャラが未だに掴めねえよ。俺は」
呆れ返った口調の宍戸の髪を指先ですくう。
何の手入れをしなくてもこの状態だと宍戸が言っていたのに対して鳳はつくづく感心している。
「そういう嘘っぽい台詞をよくまあマジなツラして……」
「何ですか嘘って」
苦笑いを浮かべて、鳳は名残惜しく手を引いた。
「本当ですよ」
「どっちでもいいけどよ…」
本当の事と、嘘の事。
どっちでもいい訳ないけれど。
はっきりさせたい事の方が多いものだけれど。
でも、例えば宍戸のように。
見た目の印象と本来の性質とに、大きくギャップのあるような人のことを考えると。
一概に白黒はっきりつける必要はないのかもしれないと鳳は思う。
本当の逆にあるものは、嘘ではないのかもしれない。
「……本当の反対が、即、嘘っていうのも。何かさみしいですよね」
「じゃあ本当の反対にあるのは何だよ」
本当の、真実の、反対にあるものは。
鳳は、宍戸を見つめて呟いた。
「………秘密かな?」
「…………………」
宍戸を、厳しい人と思う者もいる。
宍戸を、優しい人と思う者もいる。
そのどちらであっても、思う人間からすればそれが本当だ。
だから、その本当の裏にあるものは、嘘じゃない。
秘密だ。
「お前…つくづく性格いいな」
感嘆の息で宍戸が溜息を零す。
鳳は思わずうろたえた。
「やめてくださいよ」
「それこそ嘘じゃねーよ」
「宍戸さん?」
「本当の事。もしくは秘密の事。……だろ?」
笑う宍戸の表情は鮮やかで。
幾度となく目にしても鳳はその都度視界を眩しく覆われる。
休憩終わり、と言って宍戸が立ち上がった。
部長である跡部の声も聞こえてきて、鳳も倣って腰を上げた。
華奢でありながら、触れないと、そう感じさせない強い背を向けて、先を歩く宍戸の背後で鳳は思う。
宍戸に伝えている事は、全て本当の事。
宍戸に伝えないでいる事は、全て秘密の事。
部活中、柔軟の最中、乾は開脚して前屈している海堂の横に屈んで問いかけた。
「何か悩み事?」
「………………」
海堂の気配が尖る。
それに構わずに、乾が長い足を折ってそこにしゃがんだままでいると、海堂は一度胸を完全に地面につけてから、ゆっくりと顔を起こしていく動きの流れで乾を見やってきた。
「………………」
すこしバツの悪そうな顔をしている。
乾がもしそれを口に出していたら、きっと近くにいる一年生トリオにまた、何故判ると騒がれたに違いない。
乾の目にはこんなにも明らかである海堂の表情は、乾以外の人間には、どうにも判りづらいらしいので。
「どうした?」
軽い口調で尚も乾が問いかければ、小さく息を零して、そして漸く海堂は答えてくる。
膝を抱え込むようにして長身を屈ませている乾は、丁寧に相槌をうった。
「葉末が」
「うん」
「………四つ葉のクローバーを探してる」
「四つ葉のクローバー?」
「……そうッス」
そこまで聞いて、乾は顎に、折り曲げた指の関節を当てて考えた。
そして、ああ、と頷いた乾を。
海堂は怪訝そうに見つめている。
「判った。いくら探しても四葉のクローバーが見つからないから、葉末くんはお兄ちゃんに相談してきたわけだ」
「………………」
海堂が複雑そうに視線を反らしたので、乾は自分が正しく言い当てられた事を悟った。
「海堂、もしかして結構いろいろな所探してるだろ」
「………………」
「練習時間は……削らないだろうからな。起床時間を一時間ばかり早めた?」
「………ほんとは、変な力とか持ってんだろ。あんた」
「可愛いこと言うなあ。海堂は」
乾があくまで真顔で言うと、海堂は首筋まで綺麗に赤く染まった。
「………、……っ……」
「まあまあ。そう怒らないでくれ。誰にも聞こえてないから」
噛み付いてきそうな海堂がやはり可愛くて、乾は笑って話を代える。
「確かに四つ葉のクローバーを見つけるのは、なかなか大変な事だな。今は四つ葉のクローバーを花屋で売ってる時代だけれど、出来る事ならそんなんじゃなくて、偶然に見つけたいものだろうし」
「…………だから苦労してるんじゃないっすか」
「幸福の象徴だからね。有難みを考えれば、そう簡単に見つからない方がいいのかもしれないけどな。海堂は、どうして四つ葉のクローバーが、見つけると幸せになれるっていうか知ってるか?」
知らねえと即答してきた海堂の言葉に被せて、乾は話を続けた。
「クローバーの葉には一枚ずつ意味があってね。三つ葉は、希望と信仰と愛情を意味している。その他の、もう一枚の葉に、幸福って意味がある」
海堂の視線が再び乾の方に戻ってくる。
きつい眼差しを浮かべる海堂の瞳は、至近距離から直視すると、虹彩の色が濃くて綺麗だった。
白と黒のコントラストがくっきりとしている目で海堂は乾を見据えた。
「それなら、わざわざ四つ葉じゃなくてもいいんじゃないっすか」
「ん?」
「三つ葉の時に、もうそれだけのものがあれば、四枚目なんてなくても幸福じゃないですか」
「…成る程」
「…………何っすか…」
「いや、確かに。海堂といれば、イコール幸せだよな。わざわざ幸福だけ単品で欲しがる必要もない」
「……、…っ…な、に言ってんですか……!」
「まあまあ」
すごく良い事教えてあげるから、と乾は海堂の耳元に唇を近づけた。
あからさまな内緒話に、触れ合わなくても近い距離で、海堂の体温がふわりと上がったのが乾にはよく判った。
「いつものあの河原の、昨日俺が座ってた辺りの。左側にあったよ。四つ葉のクローバー」
「………は?」
「葉末くん連れて行ってきな。それとなく弟くんがあの辺りを探すようにお兄ちゃんは頑張って」
「…………マジっすか」
「こんな嘘つかないよ」
笑う乾に、海堂は眉間を顰めた。
機嫌が悪いのではなく、こういう顔の時は大抵何か大きな疑問を抱えている事が多い。
他に質問は?と乾が笑みを滲ませたままの唇で問うと、案の定というべきか、海堂は眉間を歪ませたまま言った。
「………乾先輩だって、やっぱりそういう迷信みたいなのは信じてないんだって思っただけっす」
「何で?」
「……見つけても取らなかったんだろ」
四つ葉のクローバー。
「ああ…それは目先の幸福に充分満ち足りていたわけだから」
「…………は?」
「は?じゃなくて」
嗜めるような言い方をしたものの、乾はすこぶる機嫌よく笑った。
「昨日河原で、俺の目の前にいたのは、海堂、お前だけだろ」
見つけたら幸せになれる四つ葉のクローバー。
それより希少価値のある。
それより大切な。
それより実際、確実に幸せになれるもの。
目を奪われて手を差し伸べたくなるのはどちらかなんて、今更言うまでもないだろう、乾はそう思う。
「海堂がいたから四つ葉のクローバーは俺に無下に摘まれる事なく葉末くんの元に行く。つまりお前自身が、幸せのお守りみたいなものだってことだよ」
「………っ、……恥ずかしいことベラベラ並べてんじゃねえ…っ!」
「恥ずかしがり屋だな。海堂は」
「ふざけんな……っ」
海堂の怒鳴り声と、乾の笑い声と。
交ざりあって消えていく先は、桜も終わった春の空へだ。
「何か悩み事?」
「………………」
海堂の気配が尖る。
それに構わずに、乾が長い足を折ってそこにしゃがんだままでいると、海堂は一度胸を完全に地面につけてから、ゆっくりと顔を起こしていく動きの流れで乾を見やってきた。
「………………」
すこしバツの悪そうな顔をしている。
乾がもしそれを口に出していたら、きっと近くにいる一年生トリオにまた、何故判ると騒がれたに違いない。
乾の目にはこんなにも明らかである海堂の表情は、乾以外の人間には、どうにも判りづらいらしいので。
「どうした?」
軽い口調で尚も乾が問いかければ、小さく息を零して、そして漸く海堂は答えてくる。
膝を抱え込むようにして長身を屈ませている乾は、丁寧に相槌をうった。
「葉末が」
「うん」
「………四つ葉のクローバーを探してる」
「四つ葉のクローバー?」
「……そうッス」
そこまで聞いて、乾は顎に、折り曲げた指の関節を当てて考えた。
そして、ああ、と頷いた乾を。
海堂は怪訝そうに見つめている。
「判った。いくら探しても四葉のクローバーが見つからないから、葉末くんはお兄ちゃんに相談してきたわけだ」
「………………」
海堂が複雑そうに視線を反らしたので、乾は自分が正しく言い当てられた事を悟った。
「海堂、もしかして結構いろいろな所探してるだろ」
「………………」
「練習時間は……削らないだろうからな。起床時間を一時間ばかり早めた?」
「………ほんとは、変な力とか持ってんだろ。あんた」
「可愛いこと言うなあ。海堂は」
乾があくまで真顔で言うと、海堂は首筋まで綺麗に赤く染まった。
「………、……っ……」
「まあまあ。そう怒らないでくれ。誰にも聞こえてないから」
噛み付いてきそうな海堂がやはり可愛くて、乾は笑って話を代える。
「確かに四つ葉のクローバーを見つけるのは、なかなか大変な事だな。今は四つ葉のクローバーを花屋で売ってる時代だけれど、出来る事ならそんなんじゃなくて、偶然に見つけたいものだろうし」
「…………だから苦労してるんじゃないっすか」
「幸福の象徴だからね。有難みを考えれば、そう簡単に見つからない方がいいのかもしれないけどな。海堂は、どうして四つ葉のクローバーが、見つけると幸せになれるっていうか知ってるか?」
知らねえと即答してきた海堂の言葉に被せて、乾は話を続けた。
「クローバーの葉には一枚ずつ意味があってね。三つ葉は、希望と信仰と愛情を意味している。その他の、もう一枚の葉に、幸福って意味がある」
海堂の視線が再び乾の方に戻ってくる。
きつい眼差しを浮かべる海堂の瞳は、至近距離から直視すると、虹彩の色が濃くて綺麗だった。
白と黒のコントラストがくっきりとしている目で海堂は乾を見据えた。
「それなら、わざわざ四つ葉じゃなくてもいいんじゃないっすか」
「ん?」
「三つ葉の時に、もうそれだけのものがあれば、四枚目なんてなくても幸福じゃないですか」
「…成る程」
「…………何っすか…」
「いや、確かに。海堂といれば、イコール幸せだよな。わざわざ幸福だけ単品で欲しがる必要もない」
「……、…っ…な、に言ってんですか……!」
「まあまあ」
すごく良い事教えてあげるから、と乾は海堂の耳元に唇を近づけた。
あからさまな内緒話に、触れ合わなくても近い距離で、海堂の体温がふわりと上がったのが乾にはよく判った。
「いつものあの河原の、昨日俺が座ってた辺りの。左側にあったよ。四つ葉のクローバー」
「………は?」
「葉末くん連れて行ってきな。それとなく弟くんがあの辺りを探すようにお兄ちゃんは頑張って」
「…………マジっすか」
「こんな嘘つかないよ」
笑う乾に、海堂は眉間を顰めた。
機嫌が悪いのではなく、こういう顔の時は大抵何か大きな疑問を抱えている事が多い。
他に質問は?と乾が笑みを滲ませたままの唇で問うと、案の定というべきか、海堂は眉間を歪ませたまま言った。
「………乾先輩だって、やっぱりそういう迷信みたいなのは信じてないんだって思っただけっす」
「何で?」
「……見つけても取らなかったんだろ」
四つ葉のクローバー。
「ああ…それは目先の幸福に充分満ち足りていたわけだから」
「…………は?」
「は?じゃなくて」
嗜めるような言い方をしたものの、乾はすこぶる機嫌よく笑った。
「昨日河原で、俺の目の前にいたのは、海堂、お前だけだろ」
見つけたら幸せになれる四つ葉のクローバー。
それより希少価値のある。
それより大切な。
それより実際、確実に幸せになれるもの。
目を奪われて手を差し伸べたくなるのはどちらかなんて、今更言うまでもないだろう、乾はそう思う。
「海堂がいたから四つ葉のクローバーは俺に無下に摘まれる事なく葉末くんの元に行く。つまりお前自身が、幸せのお守りみたいなものだってことだよ」
「………っ、……恥ずかしいことベラベラ並べてんじゃねえ…っ!」
「恥ずかしがり屋だな。海堂は」
「ふざけんな……っ」
海堂の怒鳴り声と、乾の笑い声と。
交ざりあって消えていく先は、桜も終わった春の空へだ。
何でも命令するような、その態度が嫌いだ。
きっと相手は相手で、何一つ言う事を聞かない自分のことを嫌いだろう。
会えば険悪になることは判っていて、それでも会う為の約束ひとつ普通に取り付ける事も出来ない。
会えば会ったで揉め事を繰り返し、別れ際に苦々しさだとか悔しさだとか物哀しさだとかを抱かない事はないくらいなのに。
一言に傷ついたり、傷つけたり。
そういう事がみんな判っていて。
それでも、接触を持とうとする感情は、不可解で、いつまでも名前がつけられない。
本当に、ただ嫌いなだけならよかったのに。
嫌いなのに、腹も立つのに、それだけではないから苦しい。
それだけでないから、会って、繰り返して、苛々するばかりだ。
あの男に無関心でいられたらどんなにかいいと思う。
そう出来ない自分に、神尾は幾度も苦しく悔しい思いをしている。
いつものように呼びつけられた跡部の家で。
すっぽかせば済む話なのに、いつだって必ず出向いていく自分が馬鹿みたいだと、悔しくて哀しくて苛々する。
何か楽しいような出来事を、話すことも無いようなお互いが、二人でいれば大抵は、意味のない言い争いか、剣呑とした沈黙か、あとは。
「……っ…、…」
こんな。
繰り返し、繰り返し、唇を塞がれるキスをしている。
跡部から与えられるキスの、回数だとかやり方だとか。
どうしてこんな。
「…、……ぅ…」
「……………」
鷲掴みにされている後頭部。
強く重なって、角度を変えられて、ひずむ唇。
互いの息が混ざって、舌がふれて、濡れて。
始まると、キスは長い。
「……っ……、…は…、…」
「……………」
「ン…、…っ」
あまりちゃんと見たことはないが、こういう時の跡部の目は、こんな事をしている時でも冷静で、一人かき乱されていく神尾を見据えている。
だから、キスが深くなるのも、熱を増していくようなのも、全部自分の反応を見るための事かと思うと、神尾は執拗なキスに引きずられそうになるのを踏みとどまろうと懸命になる。
力を入れて強張った身体や、幾度探られても噛み締め直す歯だとか、押し退ける為に跡部のシャツを掴む手だとか。
跡部が、そういう神尾の態度で苛立っていくのが判っても。
今更神尾にはどうしようもない。
伺われ、からかわれていると思うのが、穿ちすぎなのかそうでないのか。
どうして、こんな風にキスなんかするようになったのかと、それこそ今更のように考える。
苦しいキスばかり、こんなに。
何度も。
「…ッ、……、…」
明らかに機嫌の悪い跡部に、千切られそうに唇を離される。
神尾の後頭部を掴んでいた手が、髪を握り締め直す。
痛みに眉根を寄せた神尾は、ふと、跡部の表情が何かに気を取られたようになったのに気づいた。
「………………」
跡部の視線が、神尾からずれる。
何かを見ている。
不安に近い心もとない感じがして、神尾も跡部の視線の先を伺うように身じろいだ。
ぎこちなく、背後を振り返る。
跡部が見ていたのは、彼の手のひらだった。
「………………」
神尾は顔を歪めた。
跡部の手のひらにあったのは、桜の花びらだった。
うすく、あわい、桜の花びら。
「………………」
神尾は、それを見るなり、泣き出しそうになった。
花びらは神尾の髪についていたもの。
駅から跡部の家に来る途中、走って抜けた桜並木。
そこを通るには、勾配のきつい上り坂を上がっていくしかない。
例えば自転車で上りきるのすら難しいほどの急な坂道を、徒歩でも上ってくる人の姿は殆どない。
駅に向かうために下っていく人はいるけれど。
神尾は、今日、その坂道を駆け上がった。
傾斜のきつい坂道は、跡部の家に来る為の、最短経路だ。
「………………」
馬鹿みたいだ、と神尾は思った。
跡部に会っては言い争いばかりして、苦しいのに、悔しいのに、呼ばれれば必ず会いにいく自分が。
ほんの少しの差でしかないのに、苦しいのに、あの坂道を駆け上がって跡部に会いにいく自分が。
少しでも早く、ここに来るためにあの道を選ぶ自分が。
本当に、馬鹿みたいだと思った。
跡部だって気づいたはずだった。
この一枚の花びらで、全部。
「………………」
揶揄する言葉を覚悟して神尾は視線を跡部へと戻した。
跡部は、その花びらを、まだ見据えていた。
苦しそうな顔をしていた。
「………跡部?」
思わず神尾は呟いて、跡部の名を呼んだ。
跡部は視線を神尾に移して、何だか一層、苦しそうな顔をした。
「跡部…?」
「………………」
跡部の両腕が伸びてきて、抱き締められた。
強い力で。
でも苦しそうだった。
乱暴な勢いで。
でも縋りつかれているような気がした。
「跡部」
どうしてそんな、苦しげに、跡部が背を丸めるのかと。
自分を抱き締めるのかと。
危ぶみながら、神尾は目を閉じる。
何か言える言葉があったらいいのにと、たくさんたくさん考えても、名もつけられない感情ばかりが、溢れ出てくるだけだ。
跡部の困惑が、密着した体から伝わってきて、どうにかしてやれたらいいのになと神尾は考えた。
自分に出来る術がないという事は、こんなにも、寂しい。
「……………」
結局神尾は跡部に抱き締められているしかなくて。
どれくらいかして、跡部が手を緩めてきて、キスを。
「……………」
ゆっくりと、近づけられてくる跡部の顔を、神尾は見つめた。
伏せられていた睫毛の下の跡部の眼差しは、やはりどこか苦しそうで。
でも、跡部の唇は、神尾が初めて知る程、静かで丁寧に神尾に近づいてきて。
気恥ずかしいくらい軽く、そっと、神尾の唇を掠めた。
「……………」
触れるだけのキスの後またすぐに跡部に抱き締められる。
奪うみたいな強さではなくて、やはり縋りつかれるような力で。
最後まで、神尾の行動は、揶揄されなかった。
きっと相手は相手で、何一つ言う事を聞かない自分のことを嫌いだろう。
会えば険悪になることは判っていて、それでも会う為の約束ひとつ普通に取り付ける事も出来ない。
会えば会ったで揉め事を繰り返し、別れ際に苦々しさだとか悔しさだとか物哀しさだとかを抱かない事はないくらいなのに。
一言に傷ついたり、傷つけたり。
そういう事がみんな判っていて。
それでも、接触を持とうとする感情は、不可解で、いつまでも名前がつけられない。
本当に、ただ嫌いなだけならよかったのに。
嫌いなのに、腹も立つのに、それだけではないから苦しい。
それだけでないから、会って、繰り返して、苛々するばかりだ。
あの男に無関心でいられたらどんなにかいいと思う。
そう出来ない自分に、神尾は幾度も苦しく悔しい思いをしている。
いつものように呼びつけられた跡部の家で。
すっぽかせば済む話なのに、いつだって必ず出向いていく自分が馬鹿みたいだと、悔しくて哀しくて苛々する。
何か楽しいような出来事を、話すことも無いようなお互いが、二人でいれば大抵は、意味のない言い争いか、剣呑とした沈黙か、あとは。
「……っ…、…」
こんな。
繰り返し、繰り返し、唇を塞がれるキスをしている。
跡部から与えられるキスの、回数だとかやり方だとか。
どうしてこんな。
「…、……ぅ…」
「……………」
鷲掴みにされている後頭部。
強く重なって、角度を変えられて、ひずむ唇。
互いの息が混ざって、舌がふれて、濡れて。
始まると、キスは長い。
「……っ……、…は…、…」
「……………」
「ン…、…っ」
あまりちゃんと見たことはないが、こういう時の跡部の目は、こんな事をしている時でも冷静で、一人かき乱されていく神尾を見据えている。
だから、キスが深くなるのも、熱を増していくようなのも、全部自分の反応を見るための事かと思うと、神尾は執拗なキスに引きずられそうになるのを踏みとどまろうと懸命になる。
力を入れて強張った身体や、幾度探られても噛み締め直す歯だとか、押し退ける為に跡部のシャツを掴む手だとか。
跡部が、そういう神尾の態度で苛立っていくのが判っても。
今更神尾にはどうしようもない。
伺われ、からかわれていると思うのが、穿ちすぎなのかそうでないのか。
どうして、こんな風にキスなんかするようになったのかと、それこそ今更のように考える。
苦しいキスばかり、こんなに。
何度も。
「…ッ、……、…」
明らかに機嫌の悪い跡部に、千切られそうに唇を離される。
神尾の後頭部を掴んでいた手が、髪を握り締め直す。
痛みに眉根を寄せた神尾は、ふと、跡部の表情が何かに気を取られたようになったのに気づいた。
「………………」
跡部の視線が、神尾からずれる。
何かを見ている。
不安に近い心もとない感じがして、神尾も跡部の視線の先を伺うように身じろいだ。
ぎこちなく、背後を振り返る。
跡部が見ていたのは、彼の手のひらだった。
「………………」
神尾は顔を歪めた。
跡部の手のひらにあったのは、桜の花びらだった。
うすく、あわい、桜の花びら。
「………………」
神尾は、それを見るなり、泣き出しそうになった。
花びらは神尾の髪についていたもの。
駅から跡部の家に来る途中、走って抜けた桜並木。
そこを通るには、勾配のきつい上り坂を上がっていくしかない。
例えば自転車で上りきるのすら難しいほどの急な坂道を、徒歩でも上ってくる人の姿は殆どない。
駅に向かうために下っていく人はいるけれど。
神尾は、今日、その坂道を駆け上がった。
傾斜のきつい坂道は、跡部の家に来る為の、最短経路だ。
「………………」
馬鹿みたいだ、と神尾は思った。
跡部に会っては言い争いばかりして、苦しいのに、悔しいのに、呼ばれれば必ず会いにいく自分が。
ほんの少しの差でしかないのに、苦しいのに、あの坂道を駆け上がって跡部に会いにいく自分が。
少しでも早く、ここに来るためにあの道を選ぶ自分が。
本当に、馬鹿みたいだと思った。
跡部だって気づいたはずだった。
この一枚の花びらで、全部。
「………………」
揶揄する言葉を覚悟して神尾は視線を跡部へと戻した。
跡部は、その花びらを、まだ見据えていた。
苦しそうな顔をしていた。
「………跡部?」
思わず神尾は呟いて、跡部の名を呼んだ。
跡部は視線を神尾に移して、何だか一層、苦しそうな顔をした。
「跡部…?」
「………………」
跡部の両腕が伸びてきて、抱き締められた。
強い力で。
でも苦しそうだった。
乱暴な勢いで。
でも縋りつかれているような気がした。
「跡部」
どうしてそんな、苦しげに、跡部が背を丸めるのかと。
自分を抱き締めるのかと。
危ぶみながら、神尾は目を閉じる。
何か言える言葉があったらいいのにと、たくさんたくさん考えても、名もつけられない感情ばかりが、溢れ出てくるだけだ。
跡部の困惑が、密着した体から伝わってきて、どうにかしてやれたらいいのになと神尾は考えた。
自分に出来る術がないという事は、こんなにも、寂しい。
「……………」
結局神尾は跡部に抱き締められているしかなくて。
どれくらいかして、跡部が手を緩めてきて、キスを。
「……………」
ゆっくりと、近づけられてくる跡部の顔を、神尾は見つめた。
伏せられていた睫毛の下の跡部の眼差しは、やはりどこか苦しそうで。
でも、跡部の唇は、神尾が初めて知る程、静かで丁寧に神尾に近づいてきて。
気恥ずかしいくらい軽く、そっと、神尾の唇を掠めた。
「……………」
触れるだけのキスの後またすぐに跡部に抱き締められる。
奪うみたいな強さではなくて、やはり縋りつかれるような力で。
最後まで、神尾の行動は、揶揄されなかった。
久しぶりに思い出した気がする。
ベッドにうつ伏せて、宍戸はもう声にもならない声を振り絞ってでも、唸りたい気持ちでいっぱいになった。
「宍戸さん」
ベッドの縁に腰掛けた鳳の手に、剥き出しの背を撫でられる。
寝返りすら億劫なのに、触れられた背筋にはっきりとした震えが走ったのが判って。
宍戸は片頬を枕に埋めたまま、斜に鳳を睨み据える。
「……お前……なあ…」
優しく、優しく。
あんなに丁寧なやり方で。
結果、こうなるっていうのはいったいどういうことだと宍戸は目線で鳳に訴える。
「………大丈夫ですか」
どこか辛くは?とそっと囁いて顔を近づけてくる鳳に。
宥められるよう撫でられている背の感触も、これほどまでに優しいのに。
久しぶりに思い出した。
優しく、優しく、何も傷ませずに、けれどここまで宍戸を崩す男のことを。
「お前なあ……」
身体中、指先の一本一本にまで、濃密な倦怠感を埋められている。
時々、こんな風に鳳は、優しいままに箍をはずす。
追ってどれくらい経っているのか、濡れた感触が宍戸の両足の狭間に、まだ生々しい。
「…………、…」
「………力抜いてて」
いとも簡単に抱き上げられそうになって、思わず身じろいだ宍戸を甘く宥める声。
容易く宙に浮く身体。
普段なら有り得ない状態なだけに、難なく鳳の腕に抱き上げられてしまうと、こんな事くらい鳳には簡単な事なのだということを思い知らされて。
どうにも宍戸は落ち着かない。
「…………お前なぁ…」
幾度目かになる言葉を吐き出しながら、それ以上が続かない。
動けないのか、動きたくないのか、宍戸自身にも判らないけれど。
確かに今、浴室に向かうにはこうして連れて行かれるしか術がない事は誰よりも承知していた。
「………………」
多忙な鳳の両親が、たまの休日をとって旅行に出かけていて。
宍戸は鳳に、今日うちに寄って行きませんかと誘われた。
鳳の両親が留守がちな事を宍戸は知っている。
広いその家で、鳳が何日も一人でいるのかと考えてしまって。
宍戸は素直に同意したのだ。
一人でいる事は当たり前だと思っている鳳は、宍戸にしてみれば、相当一人きりが嫌いな筈なのに、一人でいる事に何の疑いも不満も持たないアンバランスなところがある。
「泊まれって言やいいだろうが」
無理矢理帰れなくなんかしなくても。
宍戸が簡単に聞いてやれる程度の我儘を、最初から鳳に諦められているようで気に食わない。
「………すみません」
寂しいように。
済まなそうに。
笑わなくても。
「…………………」
別にそれが嫌だとか、怒っているわけではないのだから、宍戸は大人しく鳳に抱き上げられていた。
それでも、そこから軽く睨み上げてみせると鳳の表情がゆっくりと緩んでいったので宍戸の言いたい事は伝わったようだった。
「すぐお湯たまりますから」
「…………ん」
ベッドから運ばれてきた浴室は広い。
手足も楽に伸ばせる浴槽の中に丁重に下ろされて、シャワーを肩や背に宛がわれるのに任せたまま、宍戸は重く響く蛇口からの湯の放流をぼんやりと見つめた。
鳳の手は、あくまでも丁寧だった。
湯をすくうようにして、宍戸の肩が冷えないように気にかけている。
「寒くないですか?」
「…いや。暑くなってきた」
「少し風通しましょうか」
鳳家の浴室は少しばかり風変わりだった。
外部からは見えないよう設計されているが、浴室からは、庭の一部が地続きのようにつながっている。
窓というよりドアに近い大きな扉を鳳が開けに行くのを、宍戸は湯に浸かったまま、じっと見やった。
「………………」
鳳の背中があちこち赤い。
皮膚を切るほどではなく、引っかいたような赤い痕が生々しく広い背に乱れていた。
縋っても、縋っても、耐え切れないような衝動を繰り返し宍戸に送り込んできた男。
鳳の手がガラス扉を大きく開く。
そこから。
春の、温んだ夜風が。
すべりこむように、宍戸の元へも届いた。
甘く胸詰まるようなこの時期特有の夜の気配だ。
湯気に白くけむっていた浴室が一掃される。
春の風と一緒に、庭に咲く桜の花弁も浴室に吸い込まれてくる。
「………………」
淡い、繊細な色みの花弁は、揺らいで、頼りなく、鳳の開けた扉から浴室に忍んでくる。
「寒くなければ。少し開けておきましょうか」
「………ああ」
恐らく今晩で、桜ももう全て散るに違いなかった。
思いのほか沢山の桜の花びらが吹き込んでくる。
鳳が連れてきたかのように、桜は風にのって浴室に舞う。
扉を開けたまま、鳳は宍戸の元へ戻ってきた。
タイルに膝をつき、互いを隔てるバスタブに手をついて、鳳は宍戸の唇を浅く塞いだ。
「…………泊まっていって…くれますか…?」
「帰さないくらいの態度でいろっての」
お前は、と。
宍戸が呆れて微かに唇を触れ合わせたままの距離で言えば。
鳳の指先は宍戸の濡れた髪にもぐりこみ、キスを深くしてきた。
「帰したくないです」
大人びたキスに、子供じみた懇願に。
相も変わらずアンバランスな奴だと宍戸は思い、桜の舞う浴室で、鳳の頭を抱き寄せた。
帰らねえよと宍戸は告げた。
鳳が命じて望む事が出来ない事は、宍戸が命じて望ませる事にした。
ベッドにうつ伏せて、宍戸はもう声にもならない声を振り絞ってでも、唸りたい気持ちでいっぱいになった。
「宍戸さん」
ベッドの縁に腰掛けた鳳の手に、剥き出しの背を撫でられる。
寝返りすら億劫なのに、触れられた背筋にはっきりとした震えが走ったのが判って。
宍戸は片頬を枕に埋めたまま、斜に鳳を睨み据える。
「……お前……なあ…」
優しく、優しく。
あんなに丁寧なやり方で。
結果、こうなるっていうのはいったいどういうことだと宍戸は目線で鳳に訴える。
「………大丈夫ですか」
どこか辛くは?とそっと囁いて顔を近づけてくる鳳に。
宥められるよう撫でられている背の感触も、これほどまでに優しいのに。
久しぶりに思い出した。
優しく、優しく、何も傷ませずに、けれどここまで宍戸を崩す男のことを。
「お前なあ……」
身体中、指先の一本一本にまで、濃密な倦怠感を埋められている。
時々、こんな風に鳳は、優しいままに箍をはずす。
追ってどれくらい経っているのか、濡れた感触が宍戸の両足の狭間に、まだ生々しい。
「…………、…」
「………力抜いてて」
いとも簡単に抱き上げられそうになって、思わず身じろいだ宍戸を甘く宥める声。
容易く宙に浮く身体。
普段なら有り得ない状態なだけに、難なく鳳の腕に抱き上げられてしまうと、こんな事くらい鳳には簡単な事なのだということを思い知らされて。
どうにも宍戸は落ち着かない。
「…………お前なぁ…」
幾度目かになる言葉を吐き出しながら、それ以上が続かない。
動けないのか、動きたくないのか、宍戸自身にも判らないけれど。
確かに今、浴室に向かうにはこうして連れて行かれるしか術がない事は誰よりも承知していた。
「………………」
多忙な鳳の両親が、たまの休日をとって旅行に出かけていて。
宍戸は鳳に、今日うちに寄って行きませんかと誘われた。
鳳の両親が留守がちな事を宍戸は知っている。
広いその家で、鳳が何日も一人でいるのかと考えてしまって。
宍戸は素直に同意したのだ。
一人でいる事は当たり前だと思っている鳳は、宍戸にしてみれば、相当一人きりが嫌いな筈なのに、一人でいる事に何の疑いも不満も持たないアンバランスなところがある。
「泊まれって言やいいだろうが」
無理矢理帰れなくなんかしなくても。
宍戸が簡単に聞いてやれる程度の我儘を、最初から鳳に諦められているようで気に食わない。
「………すみません」
寂しいように。
済まなそうに。
笑わなくても。
「…………………」
別にそれが嫌だとか、怒っているわけではないのだから、宍戸は大人しく鳳に抱き上げられていた。
それでも、そこから軽く睨み上げてみせると鳳の表情がゆっくりと緩んでいったので宍戸の言いたい事は伝わったようだった。
「すぐお湯たまりますから」
「…………ん」
ベッドから運ばれてきた浴室は広い。
手足も楽に伸ばせる浴槽の中に丁重に下ろされて、シャワーを肩や背に宛がわれるのに任せたまま、宍戸は重く響く蛇口からの湯の放流をぼんやりと見つめた。
鳳の手は、あくまでも丁寧だった。
湯をすくうようにして、宍戸の肩が冷えないように気にかけている。
「寒くないですか?」
「…いや。暑くなってきた」
「少し風通しましょうか」
鳳家の浴室は少しばかり風変わりだった。
外部からは見えないよう設計されているが、浴室からは、庭の一部が地続きのようにつながっている。
窓というよりドアに近い大きな扉を鳳が開けに行くのを、宍戸は湯に浸かったまま、じっと見やった。
「………………」
鳳の背中があちこち赤い。
皮膚を切るほどではなく、引っかいたような赤い痕が生々しく広い背に乱れていた。
縋っても、縋っても、耐え切れないような衝動を繰り返し宍戸に送り込んできた男。
鳳の手がガラス扉を大きく開く。
そこから。
春の、温んだ夜風が。
すべりこむように、宍戸の元へも届いた。
甘く胸詰まるようなこの時期特有の夜の気配だ。
湯気に白くけむっていた浴室が一掃される。
春の風と一緒に、庭に咲く桜の花弁も浴室に吸い込まれてくる。
「………………」
淡い、繊細な色みの花弁は、揺らいで、頼りなく、鳳の開けた扉から浴室に忍んでくる。
「寒くなければ。少し開けておきましょうか」
「………ああ」
恐らく今晩で、桜ももう全て散るに違いなかった。
思いのほか沢山の桜の花びらが吹き込んでくる。
鳳が連れてきたかのように、桜は風にのって浴室に舞う。
扉を開けたまま、鳳は宍戸の元へ戻ってきた。
タイルに膝をつき、互いを隔てるバスタブに手をついて、鳳は宍戸の唇を浅く塞いだ。
「…………泊まっていって…くれますか…?」
「帰さないくらいの態度でいろっての」
お前は、と。
宍戸が呆れて微かに唇を触れ合わせたままの距離で言えば。
鳳の指先は宍戸の濡れた髪にもぐりこみ、キスを深くしてきた。
「帰したくないです」
大人びたキスに、子供じみた懇願に。
相も変わらずアンバランスな奴だと宍戸は思い、桜の舞う浴室で、鳳の頭を抱き寄せた。
帰らねえよと宍戸は告げた。
鳳が命じて望む事が出来ない事は、宍戸が命じて望ませる事にした。
SOSなんていう件名で、本文は「今日暇か」という一文。
何事かと呆れてみせたいところではあるが、内心結構慌てて海堂は乾に電話をした。
受話器越しの乾の声は、低音なのは普段と変わらず、別段焦った風もない。
しかし一刻を争うかもしれない提案をしてきた。
「海堂。今晩花見に行かないか」
「…………花見…っすか?」
「いきなりここまで暖かくなるとは思ってなくて急で悪いが。あ、ちなみに人混みではない」
なかなか咲かないと言われていた今年の桜が魔法のように花開いたのは、気温が前日に比べていきなり十度も上がった昨日の事だ。
世の中一斉に花見。
どこの名所も相当な人入りだと、昨日からニュースが伝えていた。
そんな中で人混みでない花見など出来るのかと危ぶみながら、海堂はその日。
毎晩恒例のロードワークを早めに切り上げ、いったん自宅に戻ってから電話で乾に言われた通り彼の家であるマンションへと向かったのだった。
そこに人の姿は全くなかった。
「見下ろす桜っていうのも悪くないと思うんだけど」
どうだ?と乾に問いかけられた海堂は、頷きながら、尚も桜も見つめる。
眼下に。
「………………」
どこに出かけるのかと思ってみれば、乾に連れて来られたのはマンションの屋上だった。
非常口の扉を開けて、脚を踏み入れた螺旋階段。
真下の駐輪場を見下ろせば、そこには数本の桜の樹があった。
大きな枝ぶりで、足元に広がるように桜の花が咲き乱れている。
風のよく通る螺旋階段に座り込んで。
夜桜を見下ろすのは、海堂が初めてするやり方だった。
「ほうじ茶とかいれてみたけど」
「………………」
ステンレスのポットを見せられて、海堂は一層俯いた。
笑う。
声はたてないし、顔も見えないだろうけれど、肩の微量な震えで気づいたらしく、乾の声にも笑みが交じる。
「なに。笑って」
「…………確かに笑える立場じゃないんですけど」
「ん?」
これ、と海堂は持っていた紙袋を手渡した。
笑みの余韻が微かに残る海堂の表情を、乾が僅かに目を細めて見ている。
「母親に持たされたんで」
「お重だ。凄いな。もしかしてお花見弁当?」
「……小さめの器ではあるんですけど…こんな時間に三段食えますか」
「当然」
海堂の母親は料理がうまい。
加えてマメで、季節感を大切にする。
お花見にはお重のお弁当ですと言ったかと思うと。
あっという間に気恥ずかしいくらい春らしいお花見弁当を作って、海堂に持たせたのである。
海堂の母親は、乾の事をすこぶるよく気に入っている。
「あんたの名前出したらこうなった」
「感謝だなあ。……お、箸は一組か」
「……は?」
「何から何まで有難い」
気を使って頂いてるなあと乾が笑い、マジか?と海堂は思わず呟く。
そして本当に箸が一組しかないのを見て、がっくり肩を落とした。
他意があるのかないのか、我が親ながら図りかねると海堂は思った。
酢ばすやスモークサーモンの手毬寿司、白坂昆布の茶巾寿司など手でつまめるものはともかく、う巻き卵や巻き蒸し南蛮などは、面白がる乾に促されるまま口を開けて食べさせられたりもしたものだから。
アルコールなんて当然ない花見であるのに。
海堂は、何だか酔っ払ったような気分にさせられてしまった。
こんな所で何をしてるんだかというような思いは、見下ろす眼下の桜の前では意味を成さない気もした。
「……俺が桜を好きなのも、データ収集済みだったんですか」
「聞こうと思って呼んだんだ。まだ予想の段階だったから」
「………俺の事で知らねーことないだろ。あんた」
「まさか」
指についたご飯粒を歯で噛んで乾は笑った。
ちょうど同じ仕草をしようとしていた海堂は、ふと思いとどまってしまって。
その一瞬をぬって乾が海堂の手首を掴んだ。
海堂の指先の一粒を、乾はあっさり食べてしまった。
「な、……」
「花見の席の無礼講って事でよろしく」
「意味わかんねえ……!」
「海堂、桜並みに綺麗な色だな」
「は?……、…」
乾は笑っていた筈なのに。
今、海堂の目の前に、あっという間に近づいてきていた乾の顔は真顔で。
眼鏡の隙間から垣間見える切れ長の目の強さにも息をのむ。
乾の言葉の通りならば、赤くなっているらしい海堂の頬を、するりと固い指先がなぞってくる。
散り初めの、桜の花びらくらいのキスに、唇を掠めとられる。
「海堂」
「……………」
唇が。
離れていく時に視線が重なって。
「……………」
今度は首筋にキスをうずめられた。
痛みというのも憚られる儚さで肌が震えて。
多分、そこに痕をつけられた。
「………乾先輩」
海堂の首筋に顔を埋めたまま、ごめんと応えてくる声はやわらかくて。
性懲りも無く海堂の耳元の下あたりに唇を寄せてくる乾を、しかし押しのける気は沸き起こらず。
海堂は乾の髪に指を差し入れた。
喉元への口付けを自ら受諾している姿勢も。
桜に酔いでもしたか、今は構わない気がした。
海堂は、ゆっくりと息を吸い込む。
春の闇の匂い。
「……………」
乾に背を抱かれて。
螺旋階段の鉄パイプに身体を押さえつけられて。
唇と唇とが重なる。
「……………」
生々しい欲には直結しない、けれども丁寧なキスの繰り返しは。
満開の。
零れ落ちんばかりの、桜のようだと海堂は空ろに思う。
桜と空との狭間で。
キスは深く、なっていった。
何事かと呆れてみせたいところではあるが、内心結構慌てて海堂は乾に電話をした。
受話器越しの乾の声は、低音なのは普段と変わらず、別段焦った風もない。
しかし一刻を争うかもしれない提案をしてきた。
「海堂。今晩花見に行かないか」
「…………花見…っすか?」
「いきなりここまで暖かくなるとは思ってなくて急で悪いが。あ、ちなみに人混みではない」
なかなか咲かないと言われていた今年の桜が魔法のように花開いたのは、気温が前日に比べていきなり十度も上がった昨日の事だ。
世の中一斉に花見。
どこの名所も相当な人入りだと、昨日からニュースが伝えていた。
そんな中で人混みでない花見など出来るのかと危ぶみながら、海堂はその日。
毎晩恒例のロードワークを早めに切り上げ、いったん自宅に戻ってから電話で乾に言われた通り彼の家であるマンションへと向かったのだった。
そこに人の姿は全くなかった。
「見下ろす桜っていうのも悪くないと思うんだけど」
どうだ?と乾に問いかけられた海堂は、頷きながら、尚も桜も見つめる。
眼下に。
「………………」
どこに出かけるのかと思ってみれば、乾に連れて来られたのはマンションの屋上だった。
非常口の扉を開けて、脚を踏み入れた螺旋階段。
真下の駐輪場を見下ろせば、そこには数本の桜の樹があった。
大きな枝ぶりで、足元に広がるように桜の花が咲き乱れている。
風のよく通る螺旋階段に座り込んで。
夜桜を見下ろすのは、海堂が初めてするやり方だった。
「ほうじ茶とかいれてみたけど」
「………………」
ステンレスのポットを見せられて、海堂は一層俯いた。
笑う。
声はたてないし、顔も見えないだろうけれど、肩の微量な震えで気づいたらしく、乾の声にも笑みが交じる。
「なに。笑って」
「…………確かに笑える立場じゃないんですけど」
「ん?」
これ、と海堂は持っていた紙袋を手渡した。
笑みの余韻が微かに残る海堂の表情を、乾が僅かに目を細めて見ている。
「母親に持たされたんで」
「お重だ。凄いな。もしかしてお花見弁当?」
「……小さめの器ではあるんですけど…こんな時間に三段食えますか」
「当然」
海堂の母親は料理がうまい。
加えてマメで、季節感を大切にする。
お花見にはお重のお弁当ですと言ったかと思うと。
あっという間に気恥ずかしいくらい春らしいお花見弁当を作って、海堂に持たせたのである。
海堂の母親は、乾の事をすこぶるよく気に入っている。
「あんたの名前出したらこうなった」
「感謝だなあ。……お、箸は一組か」
「……は?」
「何から何まで有難い」
気を使って頂いてるなあと乾が笑い、マジか?と海堂は思わず呟く。
そして本当に箸が一組しかないのを見て、がっくり肩を落とした。
他意があるのかないのか、我が親ながら図りかねると海堂は思った。
酢ばすやスモークサーモンの手毬寿司、白坂昆布の茶巾寿司など手でつまめるものはともかく、う巻き卵や巻き蒸し南蛮などは、面白がる乾に促されるまま口を開けて食べさせられたりもしたものだから。
アルコールなんて当然ない花見であるのに。
海堂は、何だか酔っ払ったような気分にさせられてしまった。
こんな所で何をしてるんだかというような思いは、見下ろす眼下の桜の前では意味を成さない気もした。
「……俺が桜を好きなのも、データ収集済みだったんですか」
「聞こうと思って呼んだんだ。まだ予想の段階だったから」
「………俺の事で知らねーことないだろ。あんた」
「まさか」
指についたご飯粒を歯で噛んで乾は笑った。
ちょうど同じ仕草をしようとしていた海堂は、ふと思いとどまってしまって。
その一瞬をぬって乾が海堂の手首を掴んだ。
海堂の指先の一粒を、乾はあっさり食べてしまった。
「な、……」
「花見の席の無礼講って事でよろしく」
「意味わかんねえ……!」
「海堂、桜並みに綺麗な色だな」
「は?……、…」
乾は笑っていた筈なのに。
今、海堂の目の前に、あっという間に近づいてきていた乾の顔は真顔で。
眼鏡の隙間から垣間見える切れ長の目の強さにも息をのむ。
乾の言葉の通りならば、赤くなっているらしい海堂の頬を、するりと固い指先がなぞってくる。
散り初めの、桜の花びらくらいのキスに、唇を掠めとられる。
「海堂」
「……………」
唇が。
離れていく時に視線が重なって。
「……………」
今度は首筋にキスをうずめられた。
痛みというのも憚られる儚さで肌が震えて。
多分、そこに痕をつけられた。
「………乾先輩」
海堂の首筋に顔を埋めたまま、ごめんと応えてくる声はやわらかくて。
性懲りも無く海堂の耳元の下あたりに唇を寄せてくる乾を、しかし押しのける気は沸き起こらず。
海堂は乾の髪に指を差し入れた。
喉元への口付けを自ら受諾している姿勢も。
桜に酔いでもしたか、今は構わない気がした。
海堂は、ゆっくりと息を吸い込む。
春の闇の匂い。
「……………」
乾に背を抱かれて。
螺旋階段の鉄パイプに身体を押さえつけられて。
唇と唇とが重なる。
「……………」
生々しい欲には直結しない、けれども丁寧なキスの繰り返しは。
満開の。
零れ落ちんばかりの、桜のようだと海堂は空ろに思う。
桜と空との狭間で。
キスは深く、なっていった。
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