How did you feel at your first kiss?
うつぶせた薄い背中が、うねるように乱れているのに鳳は手を伸ばした。
「……ッ…、…っ…」
「………もうしません。終わりです」
綺麗な背がびくりと跳ねたのを宥めるよう、鳳はゆっくりと手のひらで擦る。
鳳の呼吸もまだ大概あがってしまったままだが、細い指でシーツに取り縋るような仕草でうつぶせている宍戸は、その比ではなく苦しげだった。
「宍戸さん……ゆっくり戻ってくればいいですから…」
「………っ……ァ……」
少しでも落ち着けるようにと、鳳は繰り返し宍戸の背を擦る。
際立ってラインの綺麗な宍戸の背筋は感触もひどく甘くて、凝りもせず鳳の手のひらを疼かせる。
肩先に欲の滲まない唇を寄せた鳳の所作に、まず宍戸の指が、掴み締めていたシーツから漸く外される。
細い骨が浮かび上がるほど強張っていた宍戸の手の甲に鳳は唇を押し当てる。
宍戸に背中から覆い被さるようにして。
頬や耳の端にも口付けながら、鳳が追い上げてかき散らした身体が穏やかに静まるよう丁寧に触れていく。
薄赤く染まっていた宍戸の全身がゆるやかに本来の色の落ち着いてくるにつれ、逆に浮かび上がってきたのは、最中宍戸の腰を強く掴み締めていた鳳の指の痕跡だった。
うつぶせた宍戸を、背後から、繰り返し穿っている間。
鳳の両手の中にあった華奢すぎる程に細い宍戸の腰には、生々しく鳳の指の痕が残っていた。
「……長…太郎……?」
自分へと流されてきた眼差しに鳳は宍戸の眦に口付けてから、すみません、と囁いた。
「…………な…にが…?…」
「………辛くなかったですか?」
「だから……なにが……」
「腰。俺の指の痕すごくて」
壊しそう、と思う事はよくあった。
屈強な精神の分というように、宍戸の肢体はか細い。
普段はそんな事を全く感じさせない宍戸を、抱いた時にはいつも強く思い知らされる。
溺れこむように宍戸に沈みきって、揺さぶりたてている時の己の獰猛さを目の当たりにして、苦く自嘲した鳳を宍戸が気だるく寝返って腕を伸ばし、抱き寄せてくる。
甘やかされているのを承知で、鳳はされるがまま宍戸の胸元に顔を伏せた。
「……お前が夢中になってんの好きなんだよ」
素っ気無いような口調だったけれど、手遊びに鳳の髪に沈み込んできた指先は甘く優しい。
「俺ばっかおかしくさせてどうすんだよ。お前。……」
ちょっとはお前も我を忘れりゃいいとまで言われて鳳は笑った。
「…………なに言ってるんですか…宍戸さん」
胸元をそっと撫で擦りながら、鳳は顔を上げて宍戸の唇にキスをした。
薄い唇にも、幾度も捩じ込むように強く深く舌を差し入れ、口付けたのに。
宍戸の唇はいつでも清潔な印象で鳳からのキスに応えてくれている。
「………、……ふ…」
そうやって軽く唇だけを重ねていたのだが、宍戸の唇が綻ぶように緩み、戯れる仕草で舌と舌とが触れて。
性懲りも無くその舌を貪りたくなって、鳳は苦笑した。
「………ね、……煽らないで…」
「クールダウンみたいなもんだろ……」
「はい…?」
激しい試合の後でも、筋肉の負担を減らすために、休むのではなく走りこむ事と。
今の、このキスとが、同じという事かと。
鳳は宍戸の言い様に一層苦笑を深めた。
そんなに甘やかしていいのかと思うけれど、それに逆らいようもない。
宍戸の唇を欲しいままに貪れば、息を継ぐ合間で囁く声が一層鳳の思考を焦がす。
「……いきなりお前がいなくなると、おかしくなんだよ。身体」
「………宍戸さん」
追い詰められる。
「どうかしてるよな……」
「…………、……」
どうにかなりそうだと。
鳳は息を詰めて、宍戸を組み敷いた。
「…長太郎…?……」
いとけなく見上げられて胸も詰まる。
抱き締める。
「……長太郎……?…」
そんな声で呼んで。
鳳の気持ちを、そんな風に占めてくるような相手は。
いつだって、鳳には、宍戸だけだった。
「……ッ…、…っ…」
「………もうしません。終わりです」
綺麗な背がびくりと跳ねたのを宥めるよう、鳳はゆっくりと手のひらで擦る。
鳳の呼吸もまだ大概あがってしまったままだが、細い指でシーツに取り縋るような仕草でうつぶせている宍戸は、その比ではなく苦しげだった。
「宍戸さん……ゆっくり戻ってくればいいですから…」
「………っ……ァ……」
少しでも落ち着けるようにと、鳳は繰り返し宍戸の背を擦る。
際立ってラインの綺麗な宍戸の背筋は感触もひどく甘くて、凝りもせず鳳の手のひらを疼かせる。
肩先に欲の滲まない唇を寄せた鳳の所作に、まず宍戸の指が、掴み締めていたシーツから漸く外される。
細い骨が浮かび上がるほど強張っていた宍戸の手の甲に鳳は唇を押し当てる。
宍戸に背中から覆い被さるようにして。
頬や耳の端にも口付けながら、鳳が追い上げてかき散らした身体が穏やかに静まるよう丁寧に触れていく。
薄赤く染まっていた宍戸の全身がゆるやかに本来の色の落ち着いてくるにつれ、逆に浮かび上がってきたのは、最中宍戸の腰を強く掴み締めていた鳳の指の痕跡だった。
うつぶせた宍戸を、背後から、繰り返し穿っている間。
鳳の両手の中にあった華奢すぎる程に細い宍戸の腰には、生々しく鳳の指の痕が残っていた。
「……長…太郎……?」
自分へと流されてきた眼差しに鳳は宍戸の眦に口付けてから、すみません、と囁いた。
「…………な…にが…?…」
「………辛くなかったですか?」
「だから……なにが……」
「腰。俺の指の痕すごくて」
壊しそう、と思う事はよくあった。
屈強な精神の分というように、宍戸の肢体はか細い。
普段はそんな事を全く感じさせない宍戸を、抱いた時にはいつも強く思い知らされる。
溺れこむように宍戸に沈みきって、揺さぶりたてている時の己の獰猛さを目の当たりにして、苦く自嘲した鳳を宍戸が気だるく寝返って腕を伸ばし、抱き寄せてくる。
甘やかされているのを承知で、鳳はされるがまま宍戸の胸元に顔を伏せた。
「……お前が夢中になってんの好きなんだよ」
素っ気無いような口調だったけれど、手遊びに鳳の髪に沈み込んできた指先は甘く優しい。
「俺ばっかおかしくさせてどうすんだよ。お前。……」
ちょっとはお前も我を忘れりゃいいとまで言われて鳳は笑った。
「…………なに言ってるんですか…宍戸さん」
胸元をそっと撫で擦りながら、鳳は顔を上げて宍戸の唇にキスをした。
薄い唇にも、幾度も捩じ込むように強く深く舌を差し入れ、口付けたのに。
宍戸の唇はいつでも清潔な印象で鳳からのキスに応えてくれている。
「………、……ふ…」
そうやって軽く唇だけを重ねていたのだが、宍戸の唇が綻ぶように緩み、戯れる仕草で舌と舌とが触れて。
性懲りも無くその舌を貪りたくなって、鳳は苦笑した。
「………ね、……煽らないで…」
「クールダウンみたいなもんだろ……」
「はい…?」
激しい試合の後でも、筋肉の負担を減らすために、休むのではなく走りこむ事と。
今の、このキスとが、同じという事かと。
鳳は宍戸の言い様に一層苦笑を深めた。
そんなに甘やかしていいのかと思うけれど、それに逆らいようもない。
宍戸の唇を欲しいままに貪れば、息を継ぐ合間で囁く声が一層鳳の思考を焦がす。
「……いきなりお前がいなくなると、おかしくなんだよ。身体」
「………宍戸さん」
追い詰められる。
「どうかしてるよな……」
「…………、……」
どうにかなりそうだと。
鳳は息を詰めて、宍戸を組み敷いた。
「…長太郎…?……」
いとけなく見上げられて胸も詰まる。
抱き締める。
「……長太郎……?…」
そんな声で呼んで。
鳳の気持ちを、そんな風に占めてくるような相手は。
いつだって、鳳には、宍戸だけだった。
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唇が触れる寸前に、もうそのイメージが頭に浮かんで、唇同士が触れあえばもう、咀嚼されているかのように口腔でつかまるキスのその先を察して足元が危うくなる。
キスは、自分は、苦手なのかもしれないと海堂は思った。
「…………ン…、」
乾は両手で、必ず海堂の頭なり肩なりを包むように支え、熱っぽくはあっても身勝手では決してない、優しいキスをくれるのだけれど。
無理強いされた事も勿論ないのだけれど。
重ね合わせた唇の狭間から、やんわりと獲られた舌が、奪われ呑まれる気がしてならない。
質感や、動き方。
そういう生々しい舌を海堂は普段知らないし、たっぷりと舌先を這わされどこもかしこもくまなく辿られると、乾から逃れたいのか逃れられなくなるのか、どちらにしろ怖いような衝動に突き動かされる。
「……っ…ん…」
「海堂……」
「………、…は……」
自分自身の息の乱れが生々しく海堂の耳につき、乾は彼自身がキスがしたいというよりもはや、一方的に海堂を愛撫する為の口付けを施しているのではいかと海堂は思った。
自分ばかりが、もう、率直に心中を吐露すれば、ただ気持ちよくて。
唇が、そんな器官だなんて、海堂は知らなかった。
「……海堂?」
「…………ぅ……」
俯いて震える海堂に、乾の低い呼びかけがかかる。
頬に指先を宛がわれ、海堂の震えはますますひどくなった。
顔を上げさせたいのか、乾の固く滑らかな指は海堂の頬から顎へと、顔の表面を滑っていく。
「……っ……、……く…」
「頭が良い人間ほど、こういう事に過敏なんだよ…」
「…………、っ…」
感覚を考えるから、と言った乾の指先はあくまで優しく海堂の顔のラインを撫でている。
「……、…先輩…、は…」
それなら乾はどうなのかと。
頭が良いなんて、自分より乾の方が余程そうなのにと。
海堂は詰りたい気で口にした言葉は、海堂が自分でぎょっとするほど掠れた震え声だ。
「………ん?……」
「……………へ……ー…きな、くせ…しやが…って…、」
「……海堂」
本気で言ってる?と耳元に囁かれ、海堂は首を竦めた。
「………、ひ……」
「さわる?……」
「……ぇ…?」
「………何で俺が海堂を抱き締められないか、気づかない?」
顔を俯かせていた海堂に、見えてるだろうにと乾は溜息交じりの呟きを洩らした。
「見え……?」
「…………………」
「…………、…」
ぼんやりと、潤んだ視界にいた海堂が、乾の言葉に誘導されるように、随分とあからさまな彼の状態に気づく。
「…………ぁ」
首の裏側まで、かあっと熱くなったのが自分でも判って。
しかもその首筋に乾からキスまで落とされた海堂は、もう訳の判らない衝動にへたりこみそうになる。
「………いくら皆が帰った後だからって、部室でしたのはまずかったな」
「……………」
本当に。
いろいろなことが、まずいと、海堂は乾が言うのと同じ気持ちを胸に抱く。
キスは、自分達は、苦手なのかもしれない。
軽く触れ合うだけでおさまらなくて、一度きりで終われなくて、結局引くに引けないところまで暴走してしまう自分達は。
キスは、きっと苦手だと思う。
キスは、自分は、苦手なのかもしれないと海堂は思った。
「…………ン…、」
乾は両手で、必ず海堂の頭なり肩なりを包むように支え、熱っぽくはあっても身勝手では決してない、優しいキスをくれるのだけれど。
無理強いされた事も勿論ないのだけれど。
重ね合わせた唇の狭間から、やんわりと獲られた舌が、奪われ呑まれる気がしてならない。
質感や、動き方。
そういう生々しい舌を海堂は普段知らないし、たっぷりと舌先を這わされどこもかしこもくまなく辿られると、乾から逃れたいのか逃れられなくなるのか、どちらにしろ怖いような衝動に突き動かされる。
「……っ…ん…」
「海堂……」
「………、…は……」
自分自身の息の乱れが生々しく海堂の耳につき、乾は彼自身がキスがしたいというよりもはや、一方的に海堂を愛撫する為の口付けを施しているのではいかと海堂は思った。
自分ばかりが、もう、率直に心中を吐露すれば、ただ気持ちよくて。
唇が、そんな器官だなんて、海堂は知らなかった。
「……海堂?」
「…………ぅ……」
俯いて震える海堂に、乾の低い呼びかけがかかる。
頬に指先を宛がわれ、海堂の震えはますますひどくなった。
顔を上げさせたいのか、乾の固く滑らかな指は海堂の頬から顎へと、顔の表面を滑っていく。
「……っ……、……く…」
「頭が良い人間ほど、こういう事に過敏なんだよ…」
「…………、っ…」
感覚を考えるから、と言った乾の指先はあくまで優しく海堂の顔のラインを撫でている。
「……、…先輩…、は…」
それなら乾はどうなのかと。
頭が良いなんて、自分より乾の方が余程そうなのにと。
海堂は詰りたい気で口にした言葉は、海堂が自分でぎょっとするほど掠れた震え声だ。
「………ん?……」
「……………へ……ー…きな、くせ…しやが…って…、」
「……海堂」
本気で言ってる?と耳元に囁かれ、海堂は首を竦めた。
「………、ひ……」
「さわる?……」
「……ぇ…?」
「………何で俺が海堂を抱き締められないか、気づかない?」
顔を俯かせていた海堂に、見えてるだろうにと乾は溜息交じりの呟きを洩らした。
「見え……?」
「…………………」
「…………、…」
ぼんやりと、潤んだ視界にいた海堂が、乾の言葉に誘導されるように、随分とあからさまな彼の状態に気づく。
「…………ぁ」
首の裏側まで、かあっと熱くなったのが自分でも判って。
しかもその首筋に乾からキスまで落とされた海堂は、もう訳の判らない衝動にへたりこみそうになる。
「………いくら皆が帰った後だからって、部室でしたのはまずかったな」
「……………」
本当に。
いろいろなことが、まずいと、海堂は乾が言うのと同じ気持ちを胸に抱く。
キスは、自分達は、苦手なのかもしれない。
軽く触れ合うだけでおさまらなくて、一度きりで終われなくて、結局引くに引けないところまで暴走してしまう自分達は。
キスは、きっと苦手だと思う。
案外と家で一人で過ごすのが好きらしい跡部に、神尾はよく呼びつけられた。
神尾にしてみても、最初は相当たじろいだ跡部の家の豪邸ぶりだったのだが。
順応性は高い方と自覚しているだけあって、今ではすっかりと跡部の家に出向く事にも慣れた。
神尾は神尾で寛いで、好きな事をして過ごす。
話しかけるのは専ら神尾の方からだったが、あれでいて跡部も返答だけはきちんと寄こしてくるので、会話もそれなりにしているのだ。
「跡部の好きな色って、なに?」
「聞かなけりゃ判んねーのかよ」
ソファに座って本の誌面を目で追っている跡部は、神尾の方を見もしないで答えるので、神尾は不服そうに眉根を寄せる。
「判んね」
「ゴールドと黒」
「……まあ、確かに部屋の中とか跡部の服とか、その色多いけど」
言われて妙に納得してしまうのが癪だけれど。
跡部の座るソファの真向かいにある5.1チャンネルサラウンドシステムに持参したCDをセットしながら、神尾は、俺は蛍光黄緑が好きなんだけどさー、と言って話を続ける。
「………趣味悪ぃ」
「うるせーよ。いいだろ。好きなんだから」
大のお気に入りである素晴らしく音の良いオーディオ機器の前では不機嫌にもなれず、神尾は跡部の悪態も軽くやりすごした。
「今日学校でさ、好きな色によって診断する占いっていうのを、やってもらったんだ。そうしたら、蛍光黄緑が好きな人って、将来小説家に向いてるんだってさ」
自分でも完璧にキャラじゃないなあと思っておかしかったから、神尾は跡部にもその話をしたのだ。
現に学校でも、周囲にいた友人達は、アキラが小説家かよ?と腹を抱えて笑っていたのだ。
どうせ跡部も歯に衣着せぬ物言いで応えてくるのだろうと思っていた神尾は。
跡部が本を閉じて、目線を上げてきた後、言った言葉に思わず双瞳を見開いてしまった。
「いいんじゃねえの」
「は?」
てっきり馬鹿にされるか、呆れられるかとばかり思っていた神尾は、激しく面食らった。
「なに間の抜けたツラしてやがる」
「………え、…だって…」
「小説家なら一日中家にいるんだろ」
跡部は真面目な顔で、そう口にした。
そんな真っ当な切り返しをされるだなんて思ってもみなかった神尾は、確かに小説家なら家で小説を書くんだろうけれど、と心中で呟く。
跡部は神尾を見据えたまま、伸びかけの長くなった前髪を片手でかきあげる。
「一日中手元においておけるんだろ。お前にしちゃ上出来の選択だ」
「…………え…?…」
なんか。
なんだか。
どうしようもなく恥ずかしい事を言われている気がする。
神尾は、秀麗な跡部の顔にも、至って生真面目な返答にも、うろたえるように赤くなる。
当たり前みたいに言われた。
「神尾?」
いつもみたいに、からかうとかすればいいのに。
口悪くあれこれ言葉を並べればいいのに。
どうしてそんな、怪訝そうに呼びかけてきたりなんかするんだと、神尾は鼓動の早まる胸元に無意識に手をやった。
「おい」
「………て…ゆーか……俺が、家にいたって、跡部が外で働いてたら、別にかわんねーじゃん」
言ってる側から、気恥ずかしさのあまり神尾は死にそうになる。
信じられない。
なんて会話なんだと、思うのに。
「バァカ」
「…………う」
「俺にはいくらだって在宅勤務の手段があるんだよ。お前と違ってな」
何でそんな真剣になって否定してくるんだと神尾は混乱する。
「ディーラーでも何でも幾らだって術はある」
「……ディーラー…?」
「説明は簡単だがお前に理解させるのは難しいから聞くな」
「………っ…、…どういう意味だよ…っ」
「ドイツ語とギリシャ語の翻訳家って手もあるな。何ならお前の小説専属のモデルでもやってやるよ」
「……、…は…?!」
「私生活でも書けばいいだろ」
いざって時は官能小説家にでもなれ。
そんな事まで跡部は言った。
最後の最後まで跡部は真面目で。
真剣みたいで。
からかう素振りもなかったので。
当たり前みたいに未来の話をされるので神尾は恥ずかしいと思ったのだけれど。
当たり前みたいに未来も一緒にいるようなので、それはそれで実は嬉しく思ったのだった。
神尾にしてみても、最初は相当たじろいだ跡部の家の豪邸ぶりだったのだが。
順応性は高い方と自覚しているだけあって、今ではすっかりと跡部の家に出向く事にも慣れた。
神尾は神尾で寛いで、好きな事をして過ごす。
話しかけるのは専ら神尾の方からだったが、あれでいて跡部も返答だけはきちんと寄こしてくるので、会話もそれなりにしているのだ。
「跡部の好きな色って、なに?」
「聞かなけりゃ判んねーのかよ」
ソファに座って本の誌面を目で追っている跡部は、神尾の方を見もしないで答えるので、神尾は不服そうに眉根を寄せる。
「判んね」
「ゴールドと黒」
「……まあ、確かに部屋の中とか跡部の服とか、その色多いけど」
言われて妙に納得してしまうのが癪だけれど。
跡部の座るソファの真向かいにある5.1チャンネルサラウンドシステムに持参したCDをセットしながら、神尾は、俺は蛍光黄緑が好きなんだけどさー、と言って話を続ける。
「………趣味悪ぃ」
「うるせーよ。いいだろ。好きなんだから」
大のお気に入りである素晴らしく音の良いオーディオ機器の前では不機嫌にもなれず、神尾は跡部の悪態も軽くやりすごした。
「今日学校でさ、好きな色によって診断する占いっていうのを、やってもらったんだ。そうしたら、蛍光黄緑が好きな人って、将来小説家に向いてるんだってさ」
自分でも完璧にキャラじゃないなあと思っておかしかったから、神尾は跡部にもその話をしたのだ。
現に学校でも、周囲にいた友人達は、アキラが小説家かよ?と腹を抱えて笑っていたのだ。
どうせ跡部も歯に衣着せぬ物言いで応えてくるのだろうと思っていた神尾は。
跡部が本を閉じて、目線を上げてきた後、言った言葉に思わず双瞳を見開いてしまった。
「いいんじゃねえの」
「は?」
てっきり馬鹿にされるか、呆れられるかとばかり思っていた神尾は、激しく面食らった。
「なに間の抜けたツラしてやがる」
「………え、…だって…」
「小説家なら一日中家にいるんだろ」
跡部は真面目な顔で、そう口にした。
そんな真っ当な切り返しをされるだなんて思ってもみなかった神尾は、確かに小説家なら家で小説を書くんだろうけれど、と心中で呟く。
跡部は神尾を見据えたまま、伸びかけの長くなった前髪を片手でかきあげる。
「一日中手元においておけるんだろ。お前にしちゃ上出来の選択だ」
「…………え…?…」
なんか。
なんだか。
どうしようもなく恥ずかしい事を言われている気がする。
神尾は、秀麗な跡部の顔にも、至って生真面目な返答にも、うろたえるように赤くなる。
当たり前みたいに言われた。
「神尾?」
いつもみたいに、からかうとかすればいいのに。
口悪くあれこれ言葉を並べればいいのに。
どうしてそんな、怪訝そうに呼びかけてきたりなんかするんだと、神尾は鼓動の早まる胸元に無意識に手をやった。
「おい」
「………て…ゆーか……俺が、家にいたって、跡部が外で働いてたら、別にかわんねーじゃん」
言ってる側から、気恥ずかしさのあまり神尾は死にそうになる。
信じられない。
なんて会話なんだと、思うのに。
「バァカ」
「…………う」
「俺にはいくらだって在宅勤務の手段があるんだよ。お前と違ってな」
何でそんな真剣になって否定してくるんだと神尾は混乱する。
「ディーラーでも何でも幾らだって術はある」
「……ディーラー…?」
「説明は簡単だがお前に理解させるのは難しいから聞くな」
「………っ…、…どういう意味だよ…っ」
「ドイツ語とギリシャ語の翻訳家って手もあるな。何ならお前の小説専属のモデルでもやってやるよ」
「……、…は…?!」
「私生活でも書けばいいだろ」
いざって時は官能小説家にでもなれ。
そんな事まで跡部は言った。
最後の最後まで跡部は真面目で。
真剣みたいで。
からかう素振りもなかったので。
当たり前みたいに未来の話をされるので神尾は恥ずかしいと思ったのだけれど。
当たり前みたいに未来も一緒にいるようなので、それはそれで実は嬉しく思ったのだった。
今から出て来られますか?と電話での穏やかな声で誘われて。
宍戸は鳳のその言葉に聞きながら部屋を出た。
「どこ行きゃいいんだ?」
携帯を片手に話をしながら玄関を出ると、暗い屋外、玄関横に鳳がいる。
「………お前」
面食らった後、宍戸は笑い出した。
「おい、長太郎。お前じゃなけりゃ相当ヤバイ奴だぜ。その行動は」
「……まあ…我ながらヤバイかなあとは思っているんですが……」
恐縮と自嘲の入り混じる複雑な表情をしている鳳は。
自分の真意を判っていないと宍戸は思った。
長身でありながら人に威圧感を与えない鳳の佇まいだとか、端整な面立ちの穏やかさだとか。
笑みを浮かべるととことんやわらかくなる雰囲気や、優しい声と話し方。
誘う前から家の前で待っているなんていう行動も、鳳がすると、ふと和んでしまう。
宍戸が言いたかったのはそういう事なのだが、鳳は律儀にも頭を下げた。
「すみません」
「アホ」
普段は自分よりも高い所にある鳳の髪に、宍戸は今は難なく手を伸ばし、ゆるい癖のある後ろ髪を荒くかきまぜた。
頭を下げたまま視線だけを持ち上げてきた鳳の表情に宍戸は笑みを深める。
「どうした?」
うち来るか?と親指で背後の自宅を指した宍戸に、鳳は漸くまっすぐに背を伸ばした。
「いえ。もう遅いですから」
「遅いって、まだ八時だぜ?」
「お家の方にご迷惑ですから…また今度に」
「お前桁外れにうちの親に評判いいから、迷惑どころか帰して貰えないかもしれねえな」
笑う宍戸を優しく撫でるような目で鳳が見つめてくる。
宍戸が慣れる程。
その眼差しの甘さは日々鳳から与えられるものだけれど。
鳳が、宍戸へと向ける微笑や視線が。
どれも全て特別なものなのだということを忘れる事はないだろうと宍戸は思っている。
「五月の満月の光を浴びると、偉大な力を授かるっていう話、知ってますか?」
「………………」
民間伝承の言伝えです、と鳳が穏やかな声で囁きかけてくる。
鳳を見上げた角度で、宍戸は頭上の満月も見た。
「宍戸さんにはそういうの必要ないかもしれないけど誘いたかったんです」
今日が五月最初の満月なのだという。
そう言われると、今日の月明かりは普段よりも少し強いような気がしてくる。
宍戸は、じっと鳳を見上げた。
「せっかくの満月だから」
「………………」
鳳の手が宍戸の頭に、そっとのせられる。
先ほど宍戸が鳳の髪をかきませたのに比べて、あまりにも丁寧な仕草で。
鳳は宍戸の髪を撫でつける。
「………………」
ひどくいとおしいというような、鳳の感情が。
宍戸へと伝えられてくる仕草だった。
月明かりも感じ取れるような気分になる。
宍戸は鳳に髪を撫でられながら言った。
「……一人で浴びせられてたら、後で知ってきっと腹立っただろうな」
「宍戸さん…?」
「お前と一緒にやる事なら、必要ない事なんか何もないだろ」
五月の満月を浴びて授かる力。
出来ない事が出来るようになるというならば、例えばこんな事でもいいのだろうと宍戸は思い、目を閉じた。
「………………」
自分でしかけるのとは違う、自分からうながす故の落ち着きの無さは宍戸の鼓動を乱したが。
鳳に唇を塞がれてそれもゆるやかに治まっていく。
「……宍戸さん………」
「………………」
囁く声が唇に触れ、宍戸が目を閉じたまま緩めた唇に鳳が深く舌を含ませ、キスが強くなる。
甘く撫でられていた後ろ髪が、後頭部を包むような鳳の手のひらに乱される。
キスは、長いものではなかった。
でも、お互いの奥深くまで気持ちが沈んできて、離れた。
「………ある意味…偉大な力…授かったようなもんか」
「え?…」
「……普通ここでしねえだろ…」
自宅前の往来だ。
気恥ずかしさも交えて呟いた宍戸に、鳳は珍しく、すみませんとは言わなかった。
月明かりの下で、鳳は、何だか幸せそうに笑っていた。
月明かりの下で、宍戸は、何だか指の先まで甘い感情を詰め込まれたような気分にさせられた。
宍戸は鳳のその言葉に聞きながら部屋を出た。
「どこ行きゃいいんだ?」
携帯を片手に話をしながら玄関を出ると、暗い屋外、玄関横に鳳がいる。
「………お前」
面食らった後、宍戸は笑い出した。
「おい、長太郎。お前じゃなけりゃ相当ヤバイ奴だぜ。その行動は」
「……まあ…我ながらヤバイかなあとは思っているんですが……」
恐縮と自嘲の入り混じる複雑な表情をしている鳳は。
自分の真意を判っていないと宍戸は思った。
長身でありながら人に威圧感を与えない鳳の佇まいだとか、端整な面立ちの穏やかさだとか。
笑みを浮かべるととことんやわらかくなる雰囲気や、優しい声と話し方。
誘う前から家の前で待っているなんていう行動も、鳳がすると、ふと和んでしまう。
宍戸が言いたかったのはそういう事なのだが、鳳は律儀にも頭を下げた。
「すみません」
「アホ」
普段は自分よりも高い所にある鳳の髪に、宍戸は今は難なく手を伸ばし、ゆるい癖のある後ろ髪を荒くかきまぜた。
頭を下げたまま視線だけを持ち上げてきた鳳の表情に宍戸は笑みを深める。
「どうした?」
うち来るか?と親指で背後の自宅を指した宍戸に、鳳は漸くまっすぐに背を伸ばした。
「いえ。もう遅いですから」
「遅いって、まだ八時だぜ?」
「お家の方にご迷惑ですから…また今度に」
「お前桁外れにうちの親に評判いいから、迷惑どころか帰して貰えないかもしれねえな」
笑う宍戸を優しく撫でるような目で鳳が見つめてくる。
宍戸が慣れる程。
その眼差しの甘さは日々鳳から与えられるものだけれど。
鳳が、宍戸へと向ける微笑や視線が。
どれも全て特別なものなのだということを忘れる事はないだろうと宍戸は思っている。
「五月の満月の光を浴びると、偉大な力を授かるっていう話、知ってますか?」
「………………」
民間伝承の言伝えです、と鳳が穏やかな声で囁きかけてくる。
鳳を見上げた角度で、宍戸は頭上の満月も見た。
「宍戸さんにはそういうの必要ないかもしれないけど誘いたかったんです」
今日が五月最初の満月なのだという。
そう言われると、今日の月明かりは普段よりも少し強いような気がしてくる。
宍戸は、じっと鳳を見上げた。
「せっかくの満月だから」
「………………」
鳳の手が宍戸の頭に、そっとのせられる。
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鳳は宍戸の髪を撫でつける。
「………………」
ひどくいとおしいというような、鳳の感情が。
宍戸へと伝えられてくる仕草だった。
月明かりも感じ取れるような気分になる。
宍戸は鳳に髪を撫でられながら言った。
「……一人で浴びせられてたら、後で知ってきっと腹立っただろうな」
「宍戸さん…?」
「お前と一緒にやる事なら、必要ない事なんか何もないだろ」
五月の満月を浴びて授かる力。
出来ない事が出来るようになるというならば、例えばこんな事でもいいのだろうと宍戸は思い、目を閉じた。
「………………」
自分でしかけるのとは違う、自分からうながす故の落ち着きの無さは宍戸の鼓動を乱したが。
鳳に唇を塞がれてそれもゆるやかに治まっていく。
「……宍戸さん………」
「………………」
囁く声が唇に触れ、宍戸が目を閉じたまま緩めた唇に鳳が深く舌を含ませ、キスが強くなる。
甘く撫でられていた後ろ髪が、後頭部を包むような鳳の手のひらに乱される。
キスは、長いものではなかった。
でも、お互いの奥深くまで気持ちが沈んできて、離れた。
「………ある意味…偉大な力…授かったようなもんか」
「え?…」
「……普通ここでしねえだろ…」
自宅前の往来だ。
気恥ずかしさも交えて呟いた宍戸に、鳳は珍しく、すみませんとは言わなかった。
月明かりの下で、鳳は、何だか幸せそうに笑っていた。
月明かりの下で、宍戸は、何だか指の先まで甘い感情を詰め込まれたような気分にさせられた。
別段人に気をつかう方ではないと、海堂は自分自身を思うのだけれど。
自分の誕生日に、目覚めてここまで具合が悪いというのはどうしたらいいものか、深く悩んだ。
風邪か。
風邪なのか?と自問する海堂は、上半身を起こした体制のまま、なかなか寝床から出られない。
頭が重く、喉に痛みのような違和感がある。
身体が熱っぽく軋んでだるい。
「……………」
ぼうっと剥ぎかけの布団を見下ろしながら、背筋にじわじわ広がる悪寒を気のせいとすることも無理だと悟り、海堂は細い溜息を零した。
両親も弟も、普段風邪など滅多にひかない海堂が、よりにもよっての今日という日に寝込んだりなどしたら、いったいどれだけ心配するか判らない。
もし明日寝込むとしたら、それはそれでいいだろうと決意して。
海堂は寝床から漸く起き出した。
海堂の家族は全員朝が早い。
家族の揃う食卓で、日課の早朝ランニングを今日は休むと海堂が口にした時、手の込んだ料理を少量ずつ、懐石料理のような品揃えで用意していた母親は微笑み、新聞に目を通していた父親も微笑み、兄の海堂にひどく懐いている弟も微笑んだ。
そんな家族の様子を見て、海堂のその場での気分はかなりよくなった。
朝食と身支度とを済ませ登校した海堂が、再び下り坂を転げるように体調不良を自覚したのは一時間目の科目が終わった頃からだった。
昼までにあと三時間。
そう思うと、時間のあまりの長さに一気に倦怠感が増した。
登校時、授業が始まる前にテニス部の上級生を中心に顔を合わせておいて良かったと海堂は思った。
どうして知っているのか、彼らは口々に、海堂の誕生日を祝う言葉を口にした。
愛想がないながらも、一人一人に生真面目に礼を言う海堂の態度は、気心知れたメンバーを充分満足させたようで、続きは部活の後な!といわれた言葉を思い返すと、そこまでもつかどうか、海堂はふらつくような頭に手をやって考え込んでしまう。
そんな事をしていると、今度は生意気な一年生からメールが届く。
内容といったら長文の英文で、件名から察するにこれも誕生祝のメッセージのようだった。
返事をうつ気力がないが読むだけ読んでそのままにしておく訳にもいかず、授業はともかく部活を休もうとは全く思わない海堂は、結局具合が悪いことを自覚しながら残りの三時間を乗り切った。
元々寡黙な海堂が、休み時間を含め、無言かつ無表情で押し通しても。
傍目には特別具合が悪いだとか不機嫌だとかいうようには見えないようだった。
「…………………」
良かったのか悪かったのか。
昼休みになると、海堂はおそらく誕生日仕様になっているであろう弁当箱を持って、教室を出た。
吐き気がないのが幸いだが、食欲も然してない。
かといってこの弁当を残すのも憚れるしで、海堂は廊下を歩いて行きながら、この後どうしようかと思い悩んだ。
そうして、決して、朦朧とまではなっていないつもりだったのだが。
海堂は、歩いていた廊下で、向かい側から来た人物に、ぶつかった。
肩と肩がぶつかるといったような接触などではなく、相手の胸元にそのまま正面から入り込むように。
「………、……すみませ…」
「海堂」
「…………先輩」
その瞬間、やけに慣れたような感じがしたと思ったら。
海堂は、乾にぶつかっていた。
馴染みの良い腕に肩を掴まれ、低い声はいつもの角度から降ってくる。
「無理するなと言いたいんだけど」
「……………」
「今日だから。…気をつかう海堂の性格も判るから」
少しでいいから何か食べて。
食後にはちゃんとこれ飲んで。
そう言って。
乾に何かを握らされる。
海堂はぼんやりと自分の手を見つめた。
乾の手もまだそこにある。
長い指と、骨ばった甲。
乾が持っていて、海堂に握らせたのは、小さな紙の箱だった。
まるでギフトボックスのようなそれは、真新しい風邪薬のパッケージだ。
「薬飲んだら保健室」
「……乾先輩…」
「部活に行く前に、俺が様子見に行くからそれまで寝てて。その時に駄目だと思ったら俺がそのまま送ってく」
「……………」
「反論は受け付けないよ」
優しくて。
優しい分。
きっと心配して。
すごく心配して。
ちょっと怒っているかもしれない。
海堂は、そんな乾を見上げて頷いた。
「……………」
海堂に手渡した薬の箱から引いた手を、乾が海堂の額から眦にすべらせる。
「………少し熱っぽいか」
「……………」
無意識に、海堂はその手に擦り寄りたい気になった。
大きな手がひどく心地いい。
乾を見つめながら、首を乾の手のある方に僅かに傾ける海堂に。
気難しいような、甘い狼狽のような躊躇を目にして、熱っぽくなる理由なんてこれだろうと海堂は思った。
「…………ありがとうございます」
微かに笑んで海堂が言うと、乾に、そっと抱き締められた。
ここは学校の廊下なのだと今更ながらに海堂は思ったが。
思考の霞む海堂には、それ以上追及する気力がなく。
そして、乾がそうするのなら、おそらくは人目もないのだろうと信じる事でされるに任せた。
「………先輩?」
「……うつってくれればいいんだがな」
「え……、……?…」
「こんな一瞬でもさ」
そうして抱擁はゆるく解かれる。
乾が海堂にしてくれる事は。
向けてくれる言葉は。
いつも海堂に未経験の感情を呼び起こす。
海堂の誕生日にも、こうしてとびきりの。
海堂を理解をしてくれているという、最大級のギフトを。
自分の誕生日に、目覚めてここまで具合が悪いというのはどうしたらいいものか、深く悩んだ。
風邪か。
風邪なのか?と自問する海堂は、上半身を起こした体制のまま、なかなか寝床から出られない。
頭が重く、喉に痛みのような違和感がある。
身体が熱っぽく軋んでだるい。
「……………」
ぼうっと剥ぎかけの布団を見下ろしながら、背筋にじわじわ広がる悪寒を気のせいとすることも無理だと悟り、海堂は細い溜息を零した。
両親も弟も、普段風邪など滅多にひかない海堂が、よりにもよっての今日という日に寝込んだりなどしたら、いったいどれだけ心配するか判らない。
もし明日寝込むとしたら、それはそれでいいだろうと決意して。
海堂は寝床から漸く起き出した。
海堂の家族は全員朝が早い。
家族の揃う食卓で、日課の早朝ランニングを今日は休むと海堂が口にした時、手の込んだ料理を少量ずつ、懐石料理のような品揃えで用意していた母親は微笑み、新聞に目を通していた父親も微笑み、兄の海堂にひどく懐いている弟も微笑んだ。
そんな家族の様子を見て、海堂のその場での気分はかなりよくなった。
朝食と身支度とを済ませ登校した海堂が、再び下り坂を転げるように体調不良を自覚したのは一時間目の科目が終わった頃からだった。
昼までにあと三時間。
そう思うと、時間のあまりの長さに一気に倦怠感が増した。
登校時、授業が始まる前にテニス部の上級生を中心に顔を合わせておいて良かったと海堂は思った。
どうして知っているのか、彼らは口々に、海堂の誕生日を祝う言葉を口にした。
愛想がないながらも、一人一人に生真面目に礼を言う海堂の態度は、気心知れたメンバーを充分満足させたようで、続きは部活の後な!といわれた言葉を思い返すと、そこまでもつかどうか、海堂はふらつくような頭に手をやって考え込んでしまう。
そんな事をしていると、今度は生意気な一年生からメールが届く。
内容といったら長文の英文で、件名から察するにこれも誕生祝のメッセージのようだった。
返事をうつ気力がないが読むだけ読んでそのままにしておく訳にもいかず、授業はともかく部活を休もうとは全く思わない海堂は、結局具合が悪いことを自覚しながら残りの三時間を乗り切った。
元々寡黙な海堂が、休み時間を含め、無言かつ無表情で押し通しても。
傍目には特別具合が悪いだとか不機嫌だとかいうようには見えないようだった。
「…………………」
良かったのか悪かったのか。
昼休みになると、海堂はおそらく誕生日仕様になっているであろう弁当箱を持って、教室を出た。
吐き気がないのが幸いだが、食欲も然してない。
かといってこの弁当を残すのも憚れるしで、海堂は廊下を歩いて行きながら、この後どうしようかと思い悩んだ。
そうして、決して、朦朧とまではなっていないつもりだったのだが。
海堂は、歩いていた廊下で、向かい側から来た人物に、ぶつかった。
肩と肩がぶつかるといったような接触などではなく、相手の胸元にそのまま正面から入り込むように。
「………、……すみませ…」
「海堂」
「…………先輩」
その瞬間、やけに慣れたような感じがしたと思ったら。
海堂は、乾にぶつかっていた。
馴染みの良い腕に肩を掴まれ、低い声はいつもの角度から降ってくる。
「無理するなと言いたいんだけど」
「……………」
「今日だから。…気をつかう海堂の性格も判るから」
少しでいいから何か食べて。
食後にはちゃんとこれ飲んで。
そう言って。
乾に何かを握らされる。
海堂はぼんやりと自分の手を見つめた。
乾の手もまだそこにある。
長い指と、骨ばった甲。
乾が持っていて、海堂に握らせたのは、小さな紙の箱だった。
まるでギフトボックスのようなそれは、真新しい風邪薬のパッケージだ。
「薬飲んだら保健室」
「……乾先輩…」
「部活に行く前に、俺が様子見に行くからそれまで寝てて。その時に駄目だと思ったら俺がそのまま送ってく」
「……………」
「反論は受け付けないよ」
優しくて。
優しい分。
きっと心配して。
すごく心配して。
ちょっと怒っているかもしれない。
海堂は、そんな乾を見上げて頷いた。
「……………」
海堂に手渡した薬の箱から引いた手を、乾が海堂の額から眦にすべらせる。
「………少し熱っぽいか」
「……………」
無意識に、海堂はその手に擦り寄りたい気になった。
大きな手がひどく心地いい。
乾を見つめながら、首を乾の手のある方に僅かに傾ける海堂に。
気難しいような、甘い狼狽のような躊躇を目にして、熱っぽくなる理由なんてこれだろうと海堂は思った。
「…………ありがとうございます」
微かに笑んで海堂が言うと、乾に、そっと抱き締められた。
ここは学校の廊下なのだと今更ながらに海堂は思ったが。
思考の霞む海堂には、それ以上追及する気力がなく。
そして、乾がそうするのなら、おそらくは人目もないのだろうと信じる事でされるに任せた。
「………先輩?」
「……うつってくれればいいんだがな」
「え……、……?…」
「こんな一瞬でもさ」
そうして抱擁はゆるく解かれる。
乾が海堂にしてくれる事は。
向けてくれる言葉は。
いつも海堂に未経験の感情を呼び起こす。
海堂の誕生日にも、こうしてとびきりの。
海堂を理解をしてくれているという、最大級のギフトを。
誰かに起こされたとか、物音がしたとか、そういう理由は何もなくただ目が覚めて。
窓の外が不思議な色味を帯びているのに気づいた神尾は、そっとベッドから身体を起こした。
「………………」
同じベッドで、横向きになって寝入っている跡部の顔に。
見つめれば今更のようにドキドキして、神尾は慎重にベッドから降りた。
跡部の部屋は、壁際の大きな窓を開けた先のバルコニーから庭へと出られるようになっている。
音をたてないように窓を開けて、神尾は、ほの暗いバルコニーに出た。
夜明けにもまだ少し早い。
紫色の見慣れぬ色の空を見上げて、神尾は冷たいながらも春先の気配をはらむ夜と朝の合間の空気を吸い込んだ。
そんな神尾にいきなりバサッと音をたてて背後からガウンが肩にかけられる。
「あ、…とべ?…」
「風邪ひくぞ。バァカ」
結局起こしてしまったかと、神尾が複雑そうに背後を振り仰ぐと、口調ほどは不機嫌そうではないものの、跡部は眉根を寄せて神尾を見下ろしていた。
「跡…、…」
後ろから伸びてきた手に顎を掴まれ、回り込んできた跡部の唇で神尾の唇が塞がれる。
窮屈な角度で重なった唇は、舌を絡ませあうことはしなくても、唇の表面がゆがむように合わせられていやに気恥ずかしい。
「……っ……ん」
「……………」
「…ぅ………、」
「………寝らんねえのか」
寝かせてやろうか?と卑猥に腿を辿られて神尾は赤くなった。
「…………っ、ゃ」
跡部の笑みを含んだ吐息が耳元に当たって、からかわれていると判れば神尾も意地になる。
本当は、こうやって抱き締められるのはすごくすごく好きなのだけれど。
「離せ…ってば…!……」
「お前が俺より先に目が覚めるなんて初めてじゃねえか?」
余裕じゃねえの、と首筋に唇を這わされて神尾は身体を強張らせる。
「………跡部」
「………………」
胸の前。
跡部の腕に、両手でぎゅっとしがみついた神尾は、声を振り絞って跡部を呼んだ。
怖い訳ではなく、嫌な訳でもなく、寝起き様には刺激が強すぎると伝えたくて跡部の腕を胸元で抱え込む。
「…………無理矢理やるわけねえだろ」
どこか憮然とした跡部の物言いに、神尾はかぶりを振って、違うのだと訴えた。
「抜け出してんじゃねえよ」
「……え?」
続けざまの舌打ち交じりの跡部の声に神尾は息を詰まらせる。
跡部の腕を抱いたまま。
ぎこちなく振り返ると。
寝乱れた前髪の隙間から色の薄い跡部の瞳が細められているのが見えた。
その目の色に、まさかこれだけの事で自分は跡部を驚かせたのかと狼狽する。
「跡部……?」
肩に羽織ったガウンごと背後から抱き締められて、神尾の視界から跡部は消えたけれど。
神尾は小さな声で言った。
「………空が…見たことない色してたから。ちょっと出てみただけだよ」
「ドーンパープルだろ」
「…なにそれ?」
「明け初めの空の色。産まれてすぐの赤ん坊も、最初はこの色なんだとよ」
自然の始まりの色なのだと跡部は言った。
「へえ……」
どこか不可思議な色。
生まれたての色。
それを空いっぱいに、神尾は跡部に抱き取られながら見上げた。
まだどこか肌寒く感じていた外気が、今は背中から滲むように温かくて、何も気にならない。
身包み神尾を抱きこむように回されている、跡部の腕の強い感触に。
もう少しこうしていたくなって。
神尾は喉の下辺りにあるその腕を、両手で掴んだ。
すると微かに跡部が笑ったから。
神尾の気持ちは正しく温かく跡部へと伝わったようだった。
窓の外が不思議な色味を帯びているのに気づいた神尾は、そっとベッドから身体を起こした。
「………………」
同じベッドで、横向きになって寝入っている跡部の顔に。
見つめれば今更のようにドキドキして、神尾は慎重にベッドから降りた。
跡部の部屋は、壁際の大きな窓を開けた先のバルコニーから庭へと出られるようになっている。
音をたてないように窓を開けて、神尾は、ほの暗いバルコニーに出た。
夜明けにもまだ少し早い。
紫色の見慣れぬ色の空を見上げて、神尾は冷たいながらも春先の気配をはらむ夜と朝の合間の空気を吸い込んだ。
そんな神尾にいきなりバサッと音をたてて背後からガウンが肩にかけられる。
「あ、…とべ?…」
「風邪ひくぞ。バァカ」
結局起こしてしまったかと、神尾が複雑そうに背後を振り仰ぐと、口調ほどは不機嫌そうではないものの、跡部は眉根を寄せて神尾を見下ろしていた。
「跡…、…」
後ろから伸びてきた手に顎を掴まれ、回り込んできた跡部の唇で神尾の唇が塞がれる。
窮屈な角度で重なった唇は、舌を絡ませあうことはしなくても、唇の表面がゆがむように合わせられていやに気恥ずかしい。
「……っ……ん」
「……………」
「…ぅ………、」
「………寝らんねえのか」
寝かせてやろうか?と卑猥に腿を辿られて神尾は赤くなった。
「…………っ、ゃ」
跡部の笑みを含んだ吐息が耳元に当たって、からかわれていると判れば神尾も意地になる。
本当は、こうやって抱き締められるのはすごくすごく好きなのだけれど。
「離せ…ってば…!……」
「お前が俺より先に目が覚めるなんて初めてじゃねえか?」
余裕じゃねえの、と首筋に唇を這わされて神尾は身体を強張らせる。
「………跡部」
「………………」
胸の前。
跡部の腕に、両手でぎゅっとしがみついた神尾は、声を振り絞って跡部を呼んだ。
怖い訳ではなく、嫌な訳でもなく、寝起き様には刺激が強すぎると伝えたくて跡部の腕を胸元で抱え込む。
「…………無理矢理やるわけねえだろ」
どこか憮然とした跡部の物言いに、神尾はかぶりを振って、違うのだと訴えた。
「抜け出してんじゃねえよ」
「……え?」
続けざまの舌打ち交じりの跡部の声に神尾は息を詰まらせる。
跡部の腕を抱いたまま。
ぎこちなく振り返ると。
寝乱れた前髪の隙間から色の薄い跡部の瞳が細められているのが見えた。
その目の色に、まさかこれだけの事で自分は跡部を驚かせたのかと狼狽する。
「跡部……?」
肩に羽織ったガウンごと背後から抱き締められて、神尾の視界から跡部は消えたけれど。
神尾は小さな声で言った。
「………空が…見たことない色してたから。ちょっと出てみただけだよ」
「ドーンパープルだろ」
「…なにそれ?」
「明け初めの空の色。産まれてすぐの赤ん坊も、最初はこの色なんだとよ」
自然の始まりの色なのだと跡部は言った。
「へえ……」
どこか不可思議な色。
生まれたての色。
それを空いっぱいに、神尾は跡部に抱き取られながら見上げた。
まだどこか肌寒く感じていた外気が、今は背中から滲むように温かくて、何も気にならない。
身包み神尾を抱きこむように回されている、跡部の腕の強い感触に。
もう少しこうしていたくなって。
神尾は喉の下辺りにあるその腕を、両手で掴んだ。
すると微かに跡部が笑ったから。
神尾の気持ちは正しく温かく跡部へと伝わったようだった。
二人で観ていたDVDは歴史映画で、主人公が夜襲に合うシーンで、鳳は宍戸の耳元に囁いた。
「ああいうベッド、欲しくない?」
「いらねえ」
「どうして?」
「………んな仰々しいとこで寝れるかよ」
画面に映っているのは、天蓋つきの西洋式ベッドだ。
宍戸を背後から抱き込んで座っている鳳は、確かにうちのとは随分違いますよねと自分が寄りかかっている自室のベッドを流し見た。
そうしている間も、鳳の両腕は宍戸の薄い腹部にまわっている。
華奢な身体をしっかりと抱きこみ、互いの身体をぴったりと密着させている。
宍戸に欠片も嫌がられることなく、全てを許される、この距離の近さが鳳は好きで。
時々こうして二人でDVDを観る。
「なあ、長太郎」
「はい」
「あのベッド、なんかおかしくねえか?」
「何がですか?」
細い首筋にかかる襟足に目を眇め、鳳は宍戸の後ろ髪に唇を埋める。
最初にこの体勢でDVDを観た時。
宍戸は随分と落ち着き無かったものだが、今ではすっかりと鳳の好きなようにさせてくれている。
DVDが観たいだけじゃなくて。
くっつきたい。
宍戸さんと。
そう、鳳が、何の取り繕いもなく口にした言葉に、宍戸はあっさりこの慣習を受け入れた。
どちらかの部屋でDVDを観る時は自然とこの体勢になる。
ただくっついていたいからという理由だけで、観ている時もある。
「何かおかしいですか?」
問いかけながら、鳳は宍戸を抱き締める腕に少し力を込めた。
「サイズがやけに小さいだろ」
「ああ……高さに比べて寝台の大きさがってことですか?」
「お前が寝たら、絶対足がはみ出るだろ、あれじゃ。……西洋人だって身体デカイのに、何でベッドは小さいんだ」
「西洋では、昔の人は上半身を起こした体制で眠ってたらしいですよ。上半身も横たえて眠るのは死んだ時だけだって聞いた事あります」
上半身を起こしてといえば、まさに今、鳳や宍戸が座り込んでいるこの体勢で。
一瞬だけ、画面上の古い西洋のシーンとシンクロしたような気になる。
「……上半身起こしたままで眠る、ねえ。……そりゃ寝心地、」
わる、と言いかけて。
宍戸は口をつぐんだ。
「宍戸さん?」
「………ま、お前でもこうやって背中側にいりゃ良いけどよ」
「良いですか? 寝心地」
あんまりやわらかい感触じゃないですけど、と鳳は笑いながら宍戸に告げる。
「俺は固めが好きなんだよ」
そう言って宍戸が思い切り寄りかかってくるのを。
平然と受け止めて、鳳は一層両腕に力を込める。
華奢な宍戸の身体の感触は、鳳の手のひらに甘すぎる余韻を残す。
「………苦しくても?」
「アホ」
苦しかねえよ、と宍戸が言い捨てるのに甘えて、鳳は宍戸を強く抱き締め、ほっそりとした首筋と肩口とに顔を埋める。
「……観ねえのかよ」
苦笑いの気配がした。
でも離れろとは決して言わない宍戸を抱き締めたまま、鳳は目を閉じた。
「俺は最後まで観るからな」
「はい」
背後から宍戸を抱え込み、邪魔はしないけれど、放しもしないと、鳳は決める。
鳳の方から抱き締めるだけでなく。
宍戸の方からも寄りかかって近づいてきてくれるから。
こうして別々の事をしている時間も、彼らは結局ひとつだ。
「ああいうベッド、欲しくない?」
「いらねえ」
「どうして?」
「………んな仰々しいとこで寝れるかよ」
画面に映っているのは、天蓋つきの西洋式ベッドだ。
宍戸を背後から抱き込んで座っている鳳は、確かにうちのとは随分違いますよねと自分が寄りかかっている自室のベッドを流し見た。
そうしている間も、鳳の両腕は宍戸の薄い腹部にまわっている。
華奢な身体をしっかりと抱きこみ、互いの身体をぴったりと密着させている。
宍戸に欠片も嫌がられることなく、全てを許される、この距離の近さが鳳は好きで。
時々こうして二人でDVDを観る。
「なあ、長太郎」
「はい」
「あのベッド、なんかおかしくねえか?」
「何がですか?」
細い首筋にかかる襟足に目を眇め、鳳は宍戸の後ろ髪に唇を埋める。
最初にこの体勢でDVDを観た時。
宍戸は随分と落ち着き無かったものだが、今ではすっかりと鳳の好きなようにさせてくれている。
DVDが観たいだけじゃなくて。
くっつきたい。
宍戸さんと。
そう、鳳が、何の取り繕いもなく口にした言葉に、宍戸はあっさりこの慣習を受け入れた。
どちらかの部屋でDVDを観る時は自然とこの体勢になる。
ただくっついていたいからという理由だけで、観ている時もある。
「何かおかしいですか?」
問いかけながら、鳳は宍戸を抱き締める腕に少し力を込めた。
「サイズがやけに小さいだろ」
「ああ……高さに比べて寝台の大きさがってことですか?」
「お前が寝たら、絶対足がはみ出るだろ、あれじゃ。……西洋人だって身体デカイのに、何でベッドは小さいんだ」
「西洋では、昔の人は上半身を起こした体制で眠ってたらしいですよ。上半身も横たえて眠るのは死んだ時だけだって聞いた事あります」
上半身を起こしてといえば、まさに今、鳳や宍戸が座り込んでいるこの体勢で。
一瞬だけ、画面上の古い西洋のシーンとシンクロしたような気になる。
「……上半身起こしたままで眠る、ねえ。……そりゃ寝心地、」
わる、と言いかけて。
宍戸は口をつぐんだ。
「宍戸さん?」
「………ま、お前でもこうやって背中側にいりゃ良いけどよ」
「良いですか? 寝心地」
あんまりやわらかい感触じゃないですけど、と鳳は笑いながら宍戸に告げる。
「俺は固めが好きなんだよ」
そう言って宍戸が思い切り寄りかかってくるのを。
平然と受け止めて、鳳は一層両腕に力を込める。
華奢な宍戸の身体の感触は、鳳の手のひらに甘すぎる余韻を残す。
「………苦しくても?」
「アホ」
苦しかねえよ、と宍戸が言い捨てるのに甘えて、鳳は宍戸を強く抱き締め、ほっそりとした首筋と肩口とに顔を埋める。
「……観ねえのかよ」
苦笑いの気配がした。
でも離れろとは決して言わない宍戸を抱き締めたまま、鳳は目を閉じた。
「俺は最後まで観るからな」
「はい」
背後から宍戸を抱え込み、邪魔はしないけれど、放しもしないと、鳳は決める。
鳳の方から抱き締めるだけでなく。
宍戸の方からも寄りかかって近づいてきてくれるから。
こうして別々の事をしている時間も、彼らは結局ひとつだ。
海堂はお兄ちゃん気質だねえと言ったのは、海堂より一学年上の不二だった。
その時海堂は、背中に菊丸をぶら下げていた。
無論進んでしていた事ではなく、一方的に受身でだ。
菊丸もまた海堂よりも一つ年上なのだが、典型的な末っ子体質で、加えて邪気なく人懐っこい。
海堂も、菊丸からのこういう接触に最初はとてつもなく驚いたのだが、度重なる強襲に今や大分慣らされた。
「そだねー。海堂は、何かこう懐きたくなる感じする」
「は…?」
「おチビにも、さりげなーく優しいしね!」
「はあ?」
「お兄ちゃんだよな!」
「そうだね」
「………………」
にこにこと微笑む上級生二人を、海堂は唖然と見やった。
正気とはとても思えないような言い様だ。
有り得ないだろうそんな現実。
海堂本人が、何より誰よりそう思うのに、上級生達はそこに一層の追い討ちを放ってくる。
「乾とか手加減なしに海堂に甘えたおしてるよな!」
「ああ、乾ね。確かに。海堂も、たまには厳しく突き放したっていいんだよ?」
「そうそう! 困った事あったら俺らにちゃんと言いに来いよなー!」
「………………」
不二と菊丸の言い様に、海堂は衝撃すら覚えて硬直した。
彼らが立ち去った後も、暫くその場から動けない。
本当に今話題にされていたのは自分達の話なのだろうかと。
思い返そうにも、碌に思考が働かないのだ。
「あれ、海堂」
「………………」
「どうした。ぼうっとして」
しかもそこに姿を見せてきたのが乾で、海堂はまじまじと長身の彼を見上げた。
この男が、自分に甘えたおす?
そして自分はそれを殆ど突き放す事もしない?
有り得ねえ。
そう呻くか叫ぶかしてしまいそうになる自分をどうにか抑えて、海堂は乾に問いかけた。
「……あんたは何してるんですか」
「俺か? 海堂を探して、見つけたところ」
「何か用っすか」
「うん。疲れてくると、甘いものが欲しくなるだろ」
「……は?」
「俺は海堂が欲しくなる」
笑って言うので。
乾の口調は軽いのだが。
その低くてよく響く声の効力は強い。
「………、…な…」
「ちょっと構ってよ。海堂」
適当にあしらうんでもいいからと。
尚もやわらかく笑んで言ってくる乾に、海堂は憮然とした。
怒りも交えて、乾を見つめて、言い放つ。
「あんたは片手間に構えるような相手じゃねえよ」
「海堂?」
「適当にとか、出来る訳ねえ」
「………………」
何を考えてそんな馬鹿な事を言うのかと、海堂は乾を強く見据える。
そうやって、海堂が睨みつけた先で、乾が。
何だか虚をつかれたような顔をして、そして。
「……元気、出た」
「…………は?」
「や、……めちゃめちゃ元気出た」
「………訳判んね」
「ここでキスとかしたら海堂は怒るかな」
「……ッ…、…ふ…ざけたこと、マジなツラして聞いてくるな……っ!」
どういうからかい方だと海堂は尚も憤慨するが、何故か乾は真顔で悩んでいるような顔をしている。
しかも嬉しそうな。
顔もしている。
「海堂」
「…、…耳元で……、!」
喋るな、と怒鳴ろうとした海堂の唇を、乾が恐ろしく上手く、一瞬だけ掠った。
「…………っ」
「……元気出た」
「……………」
囁くような声に。
微笑む顔に。
そんな乾に。
「……………」
結局海堂は怒りきれなくなる。
それどころか寧ろ、多分二人の上級生に言われた通り。
乾を突き放すなんて事、海堂には到底出来ないのだ。
海堂は、ただ人を甘やかす事はしないし、出来もしないけれど。
不思議と乾相手には、甘やかすような幾つかの方法があるらしい。
我が事ながら、まるで他人事のように海堂が思うのは。
未だに何の自覚もないからだ。
海堂が判る事は、ただ。
和んだり嬉しそうだったりする乾から、熱っぽくも甘く、伝わってくるものの気配だけだ。
その時海堂は、背中に菊丸をぶら下げていた。
無論進んでしていた事ではなく、一方的に受身でだ。
菊丸もまた海堂よりも一つ年上なのだが、典型的な末っ子体質で、加えて邪気なく人懐っこい。
海堂も、菊丸からのこういう接触に最初はとてつもなく驚いたのだが、度重なる強襲に今や大分慣らされた。
「そだねー。海堂は、何かこう懐きたくなる感じする」
「は…?」
「おチビにも、さりげなーく優しいしね!」
「はあ?」
「お兄ちゃんだよな!」
「そうだね」
「………………」
にこにこと微笑む上級生二人を、海堂は唖然と見やった。
正気とはとても思えないような言い様だ。
有り得ないだろうそんな現実。
海堂本人が、何より誰よりそう思うのに、上級生達はそこに一層の追い討ちを放ってくる。
「乾とか手加減なしに海堂に甘えたおしてるよな!」
「ああ、乾ね。確かに。海堂も、たまには厳しく突き放したっていいんだよ?」
「そうそう! 困った事あったら俺らにちゃんと言いに来いよなー!」
「………………」
不二と菊丸の言い様に、海堂は衝撃すら覚えて硬直した。
彼らが立ち去った後も、暫くその場から動けない。
本当に今話題にされていたのは自分達の話なのだろうかと。
思い返そうにも、碌に思考が働かないのだ。
「あれ、海堂」
「………………」
「どうした。ぼうっとして」
しかもそこに姿を見せてきたのが乾で、海堂はまじまじと長身の彼を見上げた。
この男が、自分に甘えたおす?
そして自分はそれを殆ど突き放す事もしない?
有り得ねえ。
そう呻くか叫ぶかしてしまいそうになる自分をどうにか抑えて、海堂は乾に問いかけた。
「……あんたは何してるんですか」
「俺か? 海堂を探して、見つけたところ」
「何か用っすか」
「うん。疲れてくると、甘いものが欲しくなるだろ」
「……は?」
「俺は海堂が欲しくなる」
笑って言うので。
乾の口調は軽いのだが。
その低くてよく響く声の効力は強い。
「………、…な…」
「ちょっと構ってよ。海堂」
適当にあしらうんでもいいからと。
尚もやわらかく笑んで言ってくる乾に、海堂は憮然とした。
怒りも交えて、乾を見つめて、言い放つ。
「あんたは片手間に構えるような相手じゃねえよ」
「海堂?」
「適当にとか、出来る訳ねえ」
「………………」
何を考えてそんな馬鹿な事を言うのかと、海堂は乾を強く見据える。
そうやって、海堂が睨みつけた先で、乾が。
何だか虚をつかれたような顔をして、そして。
「……元気、出た」
「…………は?」
「や、……めちゃめちゃ元気出た」
「………訳判んね」
「ここでキスとかしたら海堂は怒るかな」
「……ッ…、…ふ…ざけたこと、マジなツラして聞いてくるな……っ!」
どういうからかい方だと海堂は尚も憤慨するが、何故か乾は真顔で悩んでいるような顔をしている。
しかも嬉しそうな。
顔もしている。
「海堂」
「…、…耳元で……、!」
喋るな、と怒鳴ろうとした海堂の唇を、乾が恐ろしく上手く、一瞬だけ掠った。
「…………っ」
「……元気出た」
「……………」
囁くような声に。
微笑む顔に。
そんな乾に。
「……………」
結局海堂は怒りきれなくなる。
それどころか寧ろ、多分二人の上級生に言われた通り。
乾を突き放すなんて事、海堂には到底出来ないのだ。
海堂は、ただ人を甘やかす事はしないし、出来もしないけれど。
不思議と乾相手には、甘やかすような幾つかの方法があるらしい。
我が事ながら、まるで他人事のように海堂が思うのは。
未だに何の自覚もないからだ。
海堂が判る事は、ただ。
和んだり嬉しそうだったりする乾から、熱っぽくも甘く、伝わってくるものの気配だけだ。
跡部から渡されたものを手のひらに乗せて見ながら、神尾は誰に言うのでもなく呟いた。
「………嫌がらせかなあ…」
実際そう口に出してみると、ダメージは一層大きくなる。
溜息も出てこない。
「……………」
それを、手に握りこむ事も出来ないまま。
神尾は手のひらの上の小さく丸いものを、ただ見つめるだけだった。
跡部は何でも持っていて、何でも知っているから、何にも自分はいらないと神尾は思った。
跡部の事を好きになって、どんどん好きになって、それだけで自分はいいと神尾は思った。
だからクラスの女の子達が恋人から貰ったプレゼントを喜んでいるみたいに跡部から何かが欲しいと思わない。
もし何かそういう物を跡部から渡されたら。
神尾はどうしても跡部のこれまでの事も考えてしまいそうで、それが怖かった。
跡部を好きな気持ちは神尾の中に絶え間なくあるもので。
口にしないと許容範囲を超えてしまって苦しいくらいで。
だから跡部に好きだと告げる事は神尾にとっていっそ楽になれる行為だったから、自分ばかりが好きだとか、それが不安だとか、思うことはなかった。
跡部に何か言われたり。
何か手渡されたり。
そういう事は何一つなかったけれど。
神尾はそれでいいと思っていた。
多分、形ある何かを、跡部から渡される事が怖かったのだと、神尾は今にして思う。
実際、初めて跡部から渡されたものをこうして前にしてみて確信した。
どういうつもりで跡部が神尾にこれを手渡したか。
神尾には皆目検討もつかない。
ただひたすらに、どんどん暗い方向へと陥ってしまう自分の思考も、相当女々しいと思えば。
神尾の落ち込みも一層酷くなる。
とにかうそうやって、鬱々と歩くだけだった神尾の視界に、見知った人物の姿が飛び込んでくる。
神尾が彼らに気づいたのと同時に、彼らも神尾に気がついた。
「やあ。不動峰」
「……………」
無表情ながらも穏やかな声をかけてきた方は、他校とはいえ一学年上の男であるので神尾は目礼した。
眼鏡をかけた長身の彼の隣で、敵意かというような鋭い眼光で神尾を見据えてき方は同学年だから。
普段の神尾なら挑発まがいの軽口をたたくことも容易いのだが、いかんせん今日は日が悪かった。
とてもそういう気分になれない。
神尾はじっと相手の顔を見るだけだった。
「………、…何だ」
「……なにが?」
相手の、きつい眼差しが、ぎこちなく揺らぐ。
そう怪訝な問いかけを寄こしてきた海堂に、神尾が力なく聞き返せば。
海堂の視線は泳いで。
戸惑いも露に、まるで助けを求めるように、傍らの乾を見上げた。
「………………」
あれ、と神尾は思った。
海堂は、あんな顔するような奴だっただろうかと。
自問する。
そんな海堂と肩を並べている乾の気配も、何だか随分と優しく凪いでいる。
乾もまた、あんな雰囲気の男だっただろうか。
しかも乾は、神尾にこんな事まで言い出した。。
「何かあった?」
「……は?……俺ですか?」
「そう。神尾」
海堂が心配してる、と乾は言った。
神尾は思わず海堂を見てしまった。
「誰が、…!…」
「まあまあ。海堂」
激高寸前の海堂を軽くあしらいながら、笑み交じりの乾は尚も神尾に問いかけてきた。
「何か心配事かい?」
「…………別に…」
「困ってる事とか?」
「いえ…、…」
「……ああ、なるほど」
「は?」
少しも会話の流れが汲めない。
どうしてこれで、なるほどなどと相槌を打たれたのかさっぱり判らない神尾は。
しかし次の瞬間叫び出さんばかりに驚愕した。
「恋の悩み」
親指で神尾を指し示し、乾は海堂を見つめてそんな事を言った。
しかも海堂は。
納得したみたいに、ああ、という顔をした。
「なん、……!……な…っ……なに言…、っ、」
赤くなるべきか青くなるべきか。
自分で自分の反応も自覚できないまま神尾が息も絶え絶えに口を挟めば、青学の二人は揃って、違うのか?とでも言いたげな表情で神尾を見据えてきた。
「…………、う」
お、おんなじかおしやがって!と神尾は唇を噛む。
ただでさえ深く深く神尾は落ち込んでいるというのに。
そこに追い討ちをかけるみたいに。
他校の生徒に勝手に心中見透かされて。
これではあんまりではないかと。
神尾は八つ当たり気味に二人をきつく睨みつけた。
喧嘩をふっかける意図はないが、今更引くにも引けない。
攻撃的に気配を尖らせた神尾を、海堂もひどく難しい顔をして見据えてきた。
そんな二年生の漂わせる雰囲気を、柔らかく切り崩したのは年長者の乾だった。
「よかったら話してみるかい」
「……………」
「なあ、神尾? 海堂は物凄く口がかたいし、俺もデータ収集が趣味だが基本的に秘密主義で個人情報の流出はしないよ」
「………あんた何言ってんですか」
「そういう呆れた顔しない」
笑う乾の奇妙な和やかさと、通常より砕けた感じのする海堂とを目の当たりにして。
二人の距離の。
その近さに、彼らの状況を察してしまう。
「………いーよな。あんたたち」
神尾の大きな溜息に紛れた小さな呟き。
聞きとめたらしい二人が正反対の表情で神尾に向き直った。
「いいだろう」
「よくねえ!」
極めて機嫌の良い乾と、すこぶる機嫌の悪い海堂に同時に叫ばれた神尾は、もうすっかりとやけっぱちな気分で、手の中に握っていたものを、ぐっと彼らに差し出して見せた。
「………………」
「これは?」
無言の海堂と、問いかけてきた乾とに、神尾は暗く目線を向けながらぽつりと零す。
「………嫌がらせ」
「誰から誰への?」
「………………」
真っ向から聞かれて思わず押し黙る神尾の目の前で、あろうことか海堂が乾に答えた。
「……多分、氷帝の跡部さんじゃねえッスか」
「跡部?」
「な…ッ……海堂、てめ…っ…何で知って……!…、あ…」
「……へえ…」
「海堂…!」
乾があまりにしげしげと見つめてくるので、神尾は尚も海堂に食ってかかった。
ところが海堂は海堂で平然としたもので。
「一緒にいる所何度か見た事ある」
「へえ」
「……、…っ……んだよ…っ………全然、口かたくなんか、ねーじゃんかよ! マムシ……!」
「ああ、悪いな神尾。俺にだけ特別なんだよ」
「…、…誰もそんなこと言ってねえ!」
「だって海堂、跡部と神尾が一緒にいるのを見かけた話、今ここでした以外に誰かに話した事あるか?」
「……、それは」
「海堂は口がかたいよ。見た事を無責任に吹聴するような奴じゃない。そういう海堂が、こういう時に俺に話してくれるから嬉しいんだ」
何でこう。
どうしてこう。
人が落ち込んでいる時に。
こいつらは人の目の前で、いちゃいちゃいちゃいちゃしやがるんだろうか。
神尾はこの上もない落ち込みを味わった。
あまりといえばあまりではないだろうか。
そんな神尾の様子に、さすがに気づいたらしい乾と海堂の注意が再び神尾へと向けられる。
「………それで、どうしてそのネックレスが、跡部から神尾への嫌がらせになるんだ?」
「……見りゃ判んじゃないですか」
「いいや? 俺にはさっぱりだけど。……海堂、判る?」
「…………あんたに判らない事が俺に判るわけないだろ」
あくまでもいちいち甘い気配の零れる乾と海堂が、しまいには羨ましいような気分になっていくから神尾はいよいよ自分も壊れ気味だと思った。
神尾の手にあるものは、細いチェーンに丸い石のついたネックレス。
跡部が、何の説明もなしに、放り投げて寄こした代物。
一つだけついている石は、透明だけれど、傷だらけだ。
形は丸いが内部は粉々に亀裂が入っている。
壊れたものだから渡されたのか、自分にはこういうものが似合いだと思われたのか、自分に渡す事とゴミとして捨てる事とが跡部にとっては同じ意味だからなのか。
これを手にした時から、神尾は深く落ち込んだ。
あまり跡部の顔を見なかったし、話もしなかった。
その日は何だかおかしな雰囲気のまま別れて、それから一度も会っていない。
たかだか二日の事かもしれないけれど、神尾にとってはひどく長い時間のように思えてならなかった。
「神尾?」
「………………」
乾の呼びかけと海堂のきつい眼差しの中の危惧とが自分に向けられて。
神尾は何だか泣きたくなってしまった。
第三者に気遣われるようでは、いよいよもって自分のみっともなさが露見されたようで。
そんなネックレスでも、捨てられずにこうして持っている自分が、一層馬鹿みたいで。
「……なあ、神尾。この石が何の石なのか、跡部は説明しなかったのか?」
しかし乾がそんな事を言い出して神尾は驚いて顔を上げた。
「………何の石って…」
「これはクラック水晶っていって、元々内部にこういう亀裂を持つ石だぞ」
人工的に作る方法もあるけれど跡部からなら天然物だろうと乾は付け加えた。
「持ち主に纏わりつく邪気や悪運を吸い込んで、体外に吐き出してくれると言われていてね。アクセサリーというより御守かな」
「え……?…」
「自分がいない場所でも相手を守ってやりたいっていう意味だと思うけど?」
そう言って乾が笑った。
その言葉に神尾は赤くなった。
「え?……ええ?」
「大概跡部も説明不足とは思うけどな。そういう意味合いで渡したものを相手は嫌がらせだと思ってるって知ったら、さすがにあの跡部でも傷心だろうな」
「………、……」
だって。
そんなこと、神尾は知らない。
手の中の石を、神尾は茫然と見つめた。
「割れ傷みたいに見えるかもしれないけど、光に反射させると虹色に輝くって人気らしいけど?」
乾の言葉通りに神尾がその石を太陽に透かすと、石の中身は水しぶきのように光った。
「………………」
綺麗だった。
「………俺…」
ぎゅっと石を握った神尾に、早く行け、という風に顎で示したのは海堂だった。
その態度に、不思議と腹もたたない。
気持ちがもう、全部跡部に向かってしまっていて。
神尾は全力で走った。
跡部の家まで行ったら。
呼び鈴を押す前に、つけよう。
細い鎖を握り締めながら。
神尾はそう思った。
「………嫌がらせかなあ…」
実際そう口に出してみると、ダメージは一層大きくなる。
溜息も出てこない。
「……………」
それを、手に握りこむ事も出来ないまま。
神尾は手のひらの上の小さく丸いものを、ただ見つめるだけだった。
跡部は何でも持っていて、何でも知っているから、何にも自分はいらないと神尾は思った。
跡部の事を好きになって、どんどん好きになって、それだけで自分はいいと神尾は思った。
だからクラスの女の子達が恋人から貰ったプレゼントを喜んでいるみたいに跡部から何かが欲しいと思わない。
もし何かそういう物を跡部から渡されたら。
神尾はどうしても跡部のこれまでの事も考えてしまいそうで、それが怖かった。
跡部を好きな気持ちは神尾の中に絶え間なくあるもので。
口にしないと許容範囲を超えてしまって苦しいくらいで。
だから跡部に好きだと告げる事は神尾にとっていっそ楽になれる行為だったから、自分ばかりが好きだとか、それが不安だとか、思うことはなかった。
跡部に何か言われたり。
何か手渡されたり。
そういう事は何一つなかったけれど。
神尾はそれでいいと思っていた。
多分、形ある何かを、跡部から渡される事が怖かったのだと、神尾は今にして思う。
実際、初めて跡部から渡されたものをこうして前にしてみて確信した。
どういうつもりで跡部が神尾にこれを手渡したか。
神尾には皆目検討もつかない。
ただひたすらに、どんどん暗い方向へと陥ってしまう自分の思考も、相当女々しいと思えば。
神尾の落ち込みも一層酷くなる。
とにかうそうやって、鬱々と歩くだけだった神尾の視界に、見知った人物の姿が飛び込んでくる。
神尾が彼らに気づいたのと同時に、彼らも神尾に気がついた。
「やあ。不動峰」
「……………」
無表情ながらも穏やかな声をかけてきた方は、他校とはいえ一学年上の男であるので神尾は目礼した。
眼鏡をかけた長身の彼の隣で、敵意かというような鋭い眼光で神尾を見据えてき方は同学年だから。
普段の神尾なら挑発まがいの軽口をたたくことも容易いのだが、いかんせん今日は日が悪かった。
とてもそういう気分になれない。
神尾はじっと相手の顔を見るだけだった。
「………、…何だ」
「……なにが?」
相手の、きつい眼差しが、ぎこちなく揺らぐ。
そう怪訝な問いかけを寄こしてきた海堂に、神尾が力なく聞き返せば。
海堂の視線は泳いで。
戸惑いも露に、まるで助けを求めるように、傍らの乾を見上げた。
「………………」
あれ、と神尾は思った。
海堂は、あんな顔するような奴だっただろうかと。
自問する。
そんな海堂と肩を並べている乾の気配も、何だか随分と優しく凪いでいる。
乾もまた、あんな雰囲気の男だっただろうか。
しかも乾は、神尾にこんな事まで言い出した。。
「何かあった?」
「……は?……俺ですか?」
「そう。神尾」
海堂が心配してる、と乾は言った。
神尾は思わず海堂を見てしまった。
「誰が、…!…」
「まあまあ。海堂」
激高寸前の海堂を軽くあしらいながら、笑み交じりの乾は尚も神尾に問いかけてきた。
「何か心配事かい?」
「…………別に…」
「困ってる事とか?」
「いえ…、…」
「……ああ、なるほど」
「は?」
少しも会話の流れが汲めない。
どうしてこれで、なるほどなどと相槌を打たれたのかさっぱり判らない神尾は。
しかし次の瞬間叫び出さんばかりに驚愕した。
「恋の悩み」
親指で神尾を指し示し、乾は海堂を見つめてそんな事を言った。
しかも海堂は。
納得したみたいに、ああ、という顔をした。
「なん、……!……な…っ……なに言…、っ、」
赤くなるべきか青くなるべきか。
自分で自分の反応も自覚できないまま神尾が息も絶え絶えに口を挟めば、青学の二人は揃って、違うのか?とでも言いたげな表情で神尾を見据えてきた。
「…………、う」
お、おんなじかおしやがって!と神尾は唇を噛む。
ただでさえ深く深く神尾は落ち込んでいるというのに。
そこに追い討ちをかけるみたいに。
他校の生徒に勝手に心中見透かされて。
これではあんまりではないかと。
神尾は八つ当たり気味に二人をきつく睨みつけた。
喧嘩をふっかける意図はないが、今更引くにも引けない。
攻撃的に気配を尖らせた神尾を、海堂もひどく難しい顔をして見据えてきた。
そんな二年生の漂わせる雰囲気を、柔らかく切り崩したのは年長者の乾だった。
「よかったら話してみるかい」
「……………」
「なあ、神尾? 海堂は物凄く口がかたいし、俺もデータ収集が趣味だが基本的に秘密主義で個人情報の流出はしないよ」
「………あんた何言ってんですか」
「そういう呆れた顔しない」
笑う乾の奇妙な和やかさと、通常より砕けた感じのする海堂とを目の当たりにして。
二人の距離の。
その近さに、彼らの状況を察してしまう。
「………いーよな。あんたたち」
神尾の大きな溜息に紛れた小さな呟き。
聞きとめたらしい二人が正反対の表情で神尾に向き直った。
「いいだろう」
「よくねえ!」
極めて機嫌の良い乾と、すこぶる機嫌の悪い海堂に同時に叫ばれた神尾は、もうすっかりとやけっぱちな気分で、手の中に握っていたものを、ぐっと彼らに差し出して見せた。
「………………」
「これは?」
無言の海堂と、問いかけてきた乾とに、神尾は暗く目線を向けながらぽつりと零す。
「………嫌がらせ」
「誰から誰への?」
「………………」
真っ向から聞かれて思わず押し黙る神尾の目の前で、あろうことか海堂が乾に答えた。
「……多分、氷帝の跡部さんじゃねえッスか」
「跡部?」
「な…ッ……海堂、てめ…っ…何で知って……!…、あ…」
「……へえ…」
「海堂…!」
乾があまりにしげしげと見つめてくるので、神尾は尚も海堂に食ってかかった。
ところが海堂は海堂で平然としたもので。
「一緒にいる所何度か見た事ある」
「へえ」
「……、…っ……んだよ…っ………全然、口かたくなんか、ねーじゃんかよ! マムシ……!」
「ああ、悪いな神尾。俺にだけ特別なんだよ」
「…、…誰もそんなこと言ってねえ!」
「だって海堂、跡部と神尾が一緒にいるのを見かけた話、今ここでした以外に誰かに話した事あるか?」
「……、それは」
「海堂は口がかたいよ。見た事を無責任に吹聴するような奴じゃない。そういう海堂が、こういう時に俺に話してくれるから嬉しいんだ」
何でこう。
どうしてこう。
人が落ち込んでいる時に。
こいつらは人の目の前で、いちゃいちゃいちゃいちゃしやがるんだろうか。
神尾はこの上もない落ち込みを味わった。
あまりといえばあまりではないだろうか。
そんな神尾の様子に、さすがに気づいたらしい乾と海堂の注意が再び神尾へと向けられる。
「………それで、どうしてそのネックレスが、跡部から神尾への嫌がらせになるんだ?」
「……見りゃ判んじゃないですか」
「いいや? 俺にはさっぱりだけど。……海堂、判る?」
「…………あんたに判らない事が俺に判るわけないだろ」
あくまでもいちいち甘い気配の零れる乾と海堂が、しまいには羨ましいような気分になっていくから神尾はいよいよ自分も壊れ気味だと思った。
神尾の手にあるものは、細いチェーンに丸い石のついたネックレス。
跡部が、何の説明もなしに、放り投げて寄こした代物。
一つだけついている石は、透明だけれど、傷だらけだ。
形は丸いが内部は粉々に亀裂が入っている。
壊れたものだから渡されたのか、自分にはこういうものが似合いだと思われたのか、自分に渡す事とゴミとして捨てる事とが跡部にとっては同じ意味だからなのか。
これを手にした時から、神尾は深く落ち込んだ。
あまり跡部の顔を見なかったし、話もしなかった。
その日は何だかおかしな雰囲気のまま別れて、それから一度も会っていない。
たかだか二日の事かもしれないけれど、神尾にとってはひどく長い時間のように思えてならなかった。
「神尾?」
「………………」
乾の呼びかけと海堂のきつい眼差しの中の危惧とが自分に向けられて。
神尾は何だか泣きたくなってしまった。
第三者に気遣われるようでは、いよいよもって自分のみっともなさが露見されたようで。
そんなネックレスでも、捨てられずにこうして持っている自分が、一層馬鹿みたいで。
「……なあ、神尾。この石が何の石なのか、跡部は説明しなかったのか?」
しかし乾がそんな事を言い出して神尾は驚いて顔を上げた。
「………何の石って…」
「これはクラック水晶っていって、元々内部にこういう亀裂を持つ石だぞ」
人工的に作る方法もあるけれど跡部からなら天然物だろうと乾は付け加えた。
「持ち主に纏わりつく邪気や悪運を吸い込んで、体外に吐き出してくれると言われていてね。アクセサリーというより御守かな」
「え……?…」
「自分がいない場所でも相手を守ってやりたいっていう意味だと思うけど?」
そう言って乾が笑った。
その言葉に神尾は赤くなった。
「え?……ええ?」
「大概跡部も説明不足とは思うけどな。そういう意味合いで渡したものを相手は嫌がらせだと思ってるって知ったら、さすがにあの跡部でも傷心だろうな」
「………、……」
だって。
そんなこと、神尾は知らない。
手の中の石を、神尾は茫然と見つめた。
「割れ傷みたいに見えるかもしれないけど、光に反射させると虹色に輝くって人気らしいけど?」
乾の言葉通りに神尾がその石を太陽に透かすと、石の中身は水しぶきのように光った。
「………………」
綺麗だった。
「………俺…」
ぎゅっと石を握った神尾に、早く行け、という風に顎で示したのは海堂だった。
その態度に、不思議と腹もたたない。
気持ちがもう、全部跡部に向かってしまっていて。
神尾は全力で走った。
跡部の家まで行ったら。
呼び鈴を押す前に、つけよう。
細い鎖を握り締めながら。
神尾はそう思った。
宍戸がひっきりなしにガムを食べている事に特に意味はない。
ガムを噛むとリラックスした状態になるという事で、スポーツ選手などが意識して競技前に食べているのと同じ理由かと聞かれた事もあったが、そう意識した事もない。
また、ミントの味は常習性があるから止められなくなってるんだろうと言われた事もあるが、そこまで執着している訳でもない。
クセには確かになっているけどなと思いながら、宍戸は包み紙を剥いたガムを口に入れた。
「何だよ。欲しいのか?」
宍戸の隣を歩く鳳の視線に気づき、宍戸はそう声をかける。
長身の後輩は目を伏せるようにして、じっと宍戸を見つめてきていた。
しかし、宍戸が聞いた問いかけにはやんわりと首を振った。
「……いえ、ガムでなくて」
「あ?」
「ガムよりキスがいいです」
宍戸さんの、と鳳は言った。
「………………」
大抵の時はその端整な表情に浮かべている柔和な笑みは、今はひっそりと隠されていて、代わりに請い願うような顔になっている。
宍戸は、ぐっと言葉を詰まらせた。
「………………」
宍戸がガムを食べ始めると、鳳が物言いたげに見つめてくる事が度々繰り返されて、それでとうとう先日、何だよと問いかけた宍戸に鳳は真顔で言ったのだ。
ガムに宍戸さんの唇を独占されてるみたいで寂しい。
そう言った。
はっきりいって、こんな事を言って。
宍戸を怒らせるのではなく、恥ずかしがらせる事が出来る人間は鳳くらいなものである。
一見大人びた風体で、その実ひどく人懐っこく甘えたがりという鳳の持つギャップに、弱かったり甘かったりする輩は少なくない。
宍戸も、あまり表にはそういう態度を出さないものの、結局の所はそんな鳳に滅法弱くて甘いのだ。
それで、鳳といる時は極力ガムを食べる事は止めていたのだが、如何せん癖になっていて、時々無意識に口に入れてしまうのだ。
今日のように。
「………あのよ。俺が言うのも何だけどよ、しょっちゅう食べつけたらクセになるんだぜ…?」
ガムがそうであるように、つまりはキスも、きっと。
「もうなってます」
「………………」
真面目な顔で鳳にそう断言され、キスの回数が極端に増えているここ最近を思いながら宍戸は脱力した。
だいたい、鳳がこんな往来でキスを欲しがったり、そんな顔をして自分を直視してくる事なんて、少し前まではなかった筈だ。
最近鳳のキスは回数を増やし、やり方を深くし、宍戸を少しだけ不安にさせる。
「……俺なんか、コレ癖になってから、なくなったり食えない時とか結構大変なんだけど」
「俺も今大変なんです」
あくまでもキスで話をすすめる鳳に、宍戸は観念した。
そういう苦しそうな。
切なそうな表情を。
隠してみせられたら。
「………………」
人目のつかなさそうな道の死角。
そんな場所を都合よく通りかかってしまったら。
「………………」
鳳に両肩を掴まれ、外壁に押さえつけられる。
ノーブルな顔立ちの、通常の礼儀正しい後輩とは思えない事に。
鳳は中指を宍戸の唇に忍ばせてガムを奪っていった。
咥えされられた指は関節の太い長い指で、口にあるのがひどく生々しく思えた。
退いた後すぐに塞がれた唇へのキスは、丁寧で優しい。
「…………宍戸さん」
「………………」
我儘言ってすみませんと耳元に囁かれた宍戸は、こんな事くらいが我儘かよと思ってしまう自分自身に呆れながら。
少しずつ、少しずつ。
鳳が胸に住まわせる欲望を。
回数の増やされてきたキスで、口移しされているように思う。
少しずつ、少しずつ。
鳳の抱える欲望が、最近宍戸にも判ってきたように思う。
唇から、理解した。
ガムを噛むとリラックスした状態になるという事で、スポーツ選手などが意識して競技前に食べているのと同じ理由かと聞かれた事もあったが、そう意識した事もない。
また、ミントの味は常習性があるから止められなくなってるんだろうと言われた事もあるが、そこまで執着している訳でもない。
クセには確かになっているけどなと思いながら、宍戸は包み紙を剥いたガムを口に入れた。
「何だよ。欲しいのか?」
宍戸の隣を歩く鳳の視線に気づき、宍戸はそう声をかける。
長身の後輩は目を伏せるようにして、じっと宍戸を見つめてきていた。
しかし、宍戸が聞いた問いかけにはやんわりと首を振った。
「……いえ、ガムでなくて」
「あ?」
「ガムよりキスがいいです」
宍戸さんの、と鳳は言った。
「………………」
大抵の時はその端整な表情に浮かべている柔和な笑みは、今はひっそりと隠されていて、代わりに請い願うような顔になっている。
宍戸は、ぐっと言葉を詰まらせた。
「………………」
宍戸がガムを食べ始めると、鳳が物言いたげに見つめてくる事が度々繰り返されて、それでとうとう先日、何だよと問いかけた宍戸に鳳は真顔で言ったのだ。
ガムに宍戸さんの唇を独占されてるみたいで寂しい。
そう言った。
はっきりいって、こんな事を言って。
宍戸を怒らせるのではなく、恥ずかしがらせる事が出来る人間は鳳くらいなものである。
一見大人びた風体で、その実ひどく人懐っこく甘えたがりという鳳の持つギャップに、弱かったり甘かったりする輩は少なくない。
宍戸も、あまり表にはそういう態度を出さないものの、結局の所はそんな鳳に滅法弱くて甘いのだ。
それで、鳳といる時は極力ガムを食べる事は止めていたのだが、如何せん癖になっていて、時々無意識に口に入れてしまうのだ。
今日のように。
「………あのよ。俺が言うのも何だけどよ、しょっちゅう食べつけたらクセになるんだぜ…?」
ガムがそうであるように、つまりはキスも、きっと。
「もうなってます」
「………………」
真面目な顔で鳳にそう断言され、キスの回数が極端に増えているここ最近を思いながら宍戸は脱力した。
だいたい、鳳がこんな往来でキスを欲しがったり、そんな顔をして自分を直視してくる事なんて、少し前まではなかった筈だ。
最近鳳のキスは回数を増やし、やり方を深くし、宍戸を少しだけ不安にさせる。
「……俺なんか、コレ癖になってから、なくなったり食えない時とか結構大変なんだけど」
「俺も今大変なんです」
あくまでもキスで話をすすめる鳳に、宍戸は観念した。
そういう苦しそうな。
切なそうな表情を。
隠してみせられたら。
「………………」
人目のつかなさそうな道の死角。
そんな場所を都合よく通りかかってしまったら。
「………………」
鳳に両肩を掴まれ、外壁に押さえつけられる。
ノーブルな顔立ちの、通常の礼儀正しい後輩とは思えない事に。
鳳は中指を宍戸の唇に忍ばせてガムを奪っていった。
咥えされられた指は関節の太い長い指で、口にあるのがひどく生々しく思えた。
退いた後すぐに塞がれた唇へのキスは、丁寧で優しい。
「…………宍戸さん」
「………………」
我儘言ってすみませんと耳元に囁かれた宍戸は、こんな事くらいが我儘かよと思ってしまう自分自身に呆れながら。
少しずつ、少しずつ。
鳳が胸に住まわせる欲望を。
回数の増やされてきたキスで、口移しされているように思う。
少しずつ、少しずつ。
鳳の抱える欲望が、最近宍戸にも判ってきたように思う。
唇から、理解した。
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