How did you feel at your first kiss?
大きな笹を軽々と担いで現れた河村に、喜び勇んで飛びついたのは菊丸と桃城だった。
「タカさんナーイス!」
「すっげぇ! でかいっすねえ!」
「こんなんでよかったかなあ?」
二人がかりの体当たりを物ともしないで温厚な返答を口にする河村に近づいていった不二が微苦笑した。
「英二も桃も。タカさんに無理言ったんじゃないの?」
「えー。言ってないにゃー!」
「そうっすよ。不二先輩。俺達が七夕の笹を探してるの見て、タカさんが好意で持ってきてくれたんっすよ!」
そうそうと頷く河村の人の良い笑顔に不二も表情を和ませて、四人は数日後にひかえた七夕の飾りつけを始めた。
部活の時間はもうとうに終わっていた。
着替えをせずに何をしているのかと思ってみれば、と大石が傍らの手塚を見上げた。
「部室にそんな大きなものたてかけて………手塚、どうする?」
「竜崎先生の許可はとってあるそうだ」
「んー…それならいいんだけど」
大石と手塚は、仕方ないというように顔をあわせて事の成り行きを見守る。
「これ何っすか。桃先輩」
「ああ? 短冊だろ短冊。何だよ越前。おまえ、七夕やったことねえの?」
「……やるって何を」
「七夕は、願い事書いた短冊をこういう笹に吊るすんだよ。そうすっとその願い事が叶うの!」
ほらお前も書け!と桃城が越前に色とりどりの短冊の中から一枚を手渡した。
たくさんの短冊を広げて持っていたのは菊丸だ。
「早く大きくなりますように。とかでもいいんだぜー。おっちび」
「………………」
越前に睨まれても全くめげずに菊丸は笑い、周辺に残っている部員達に短冊を配ってまわる。
「ほい、手塚! 大石も!」
「…………………」
「あ、…ああ…」
眉を顰める手塚にも臆す所の全く無い菊丸は、次に短冊を手渡した大石の顔を覗き込むようにして首を傾げた。
「大石。乾と海堂は?」
「……確かまだ走ってたぞ。海堂が走り足りないって言って、乾はそのお目付け役で」
「ええー! まだやってんの? あの二人」
しょうがないなあと菊丸はふくれて、届けに行っちゃる!と短冊片手に走っていった。
青学のムードメイカー達の賑々しさとマメさとに、感心するやら呆れるやらの青学テニス部員達は、菊丸に渡された短冊に願い事を書き、それらは桃城の手で笹に結ばれた。
一通り取り付けると、なかなか壮観な七夕飾りになった。
「うおっ……何っすか、この梵字みたいなのは…!」
「俺だ」
「あ、…部長のっすか?」
あまりに達筆で!と桃城が豪快に笑う。
筆ペン片手に手塚はその注釈を延々桃城に語り出した。
「……朝食が和食。……ってこれ越前かい?」
「………ッス」
「そっか……越前は本当に和食が好きなんだなあ」
また今度うちに食べに来いよと河村が言うのに越前は真剣な顔で必ず行きますと頷いている。
魔方陣みたいなものから、絵馬や伝言板みたいなものまで。
多様につり下がった短冊を皆で眺めている所に、猛烈なスピードで走って戻ってきたのは菊丸だった。
「やあ、英二。乾と海堂にも書いて貰ったのか?」
家内安全、と短冊にしたためた大石が話しかけると、菊丸は先ほどまでよりも一層ひどい膨れっ面をしていた。
「英二?」
「もー! やだ、あの二人!」
「書きたくないとでも言われたのか」
「違う! 乾に渡したら書きかけのデータ帳の上ですぐに書いて返してきたし、海堂は俺が並走して渡したら、走りながら書いて渡してきた!」
「………まあ書いただけいいじゃないか」
苦笑いを浮かべる大石に、菊丸は、ぷうっと頬を膨らませたまま二枚の短冊を突きつけた。
「あの二人! 別々に書かせて、これだにゃ!」
「………………」
短冊にそれぞれ書かれていた願い事はひどく短い。
D1
それだけだ。
乾の字と、海堂の字。
そして、菊丸が心底悔しそうにしているのは。
「ダブルス1は俺らだっつーの! 大石も勿論ダブルス1って書いたよな?!」
願い事の内容にというより。
図らずとも同じ事を書ける、乾と海堂の息の合い方に、という事が判るから。
「え?……えっと………」
大石は胃が痛む様な思いで、家内安全の短冊をそっと握りつぶすのだった。
「タカさんナーイス!」
「すっげぇ! でかいっすねえ!」
「こんなんでよかったかなあ?」
二人がかりの体当たりを物ともしないで温厚な返答を口にする河村に近づいていった不二が微苦笑した。
「英二も桃も。タカさんに無理言ったんじゃないの?」
「えー。言ってないにゃー!」
「そうっすよ。不二先輩。俺達が七夕の笹を探してるの見て、タカさんが好意で持ってきてくれたんっすよ!」
そうそうと頷く河村の人の良い笑顔に不二も表情を和ませて、四人は数日後にひかえた七夕の飾りつけを始めた。
部活の時間はもうとうに終わっていた。
着替えをせずに何をしているのかと思ってみれば、と大石が傍らの手塚を見上げた。
「部室にそんな大きなものたてかけて………手塚、どうする?」
「竜崎先生の許可はとってあるそうだ」
「んー…それならいいんだけど」
大石と手塚は、仕方ないというように顔をあわせて事の成り行きを見守る。
「これ何っすか。桃先輩」
「ああ? 短冊だろ短冊。何だよ越前。おまえ、七夕やったことねえの?」
「……やるって何を」
「七夕は、願い事書いた短冊をこういう笹に吊るすんだよ。そうすっとその願い事が叶うの!」
ほらお前も書け!と桃城が越前に色とりどりの短冊の中から一枚を手渡した。
たくさんの短冊を広げて持っていたのは菊丸だ。
「早く大きくなりますように。とかでもいいんだぜー。おっちび」
「………………」
越前に睨まれても全くめげずに菊丸は笑い、周辺に残っている部員達に短冊を配ってまわる。
「ほい、手塚! 大石も!」
「…………………」
「あ、…ああ…」
眉を顰める手塚にも臆す所の全く無い菊丸は、次に短冊を手渡した大石の顔を覗き込むようにして首を傾げた。
「大石。乾と海堂は?」
「……確かまだ走ってたぞ。海堂が走り足りないって言って、乾はそのお目付け役で」
「ええー! まだやってんの? あの二人」
しょうがないなあと菊丸はふくれて、届けに行っちゃる!と短冊片手に走っていった。
青学のムードメイカー達の賑々しさとマメさとに、感心するやら呆れるやらの青学テニス部員達は、菊丸に渡された短冊に願い事を書き、それらは桃城の手で笹に結ばれた。
一通り取り付けると、なかなか壮観な七夕飾りになった。
「うおっ……何っすか、この梵字みたいなのは…!」
「俺だ」
「あ、…部長のっすか?」
あまりに達筆で!と桃城が豪快に笑う。
筆ペン片手に手塚はその注釈を延々桃城に語り出した。
「……朝食が和食。……ってこれ越前かい?」
「………ッス」
「そっか……越前は本当に和食が好きなんだなあ」
また今度うちに食べに来いよと河村が言うのに越前は真剣な顔で必ず行きますと頷いている。
魔方陣みたいなものから、絵馬や伝言板みたいなものまで。
多様につり下がった短冊を皆で眺めている所に、猛烈なスピードで走って戻ってきたのは菊丸だった。
「やあ、英二。乾と海堂にも書いて貰ったのか?」
家内安全、と短冊にしたためた大石が話しかけると、菊丸は先ほどまでよりも一層ひどい膨れっ面をしていた。
「英二?」
「もー! やだ、あの二人!」
「書きたくないとでも言われたのか」
「違う! 乾に渡したら書きかけのデータ帳の上ですぐに書いて返してきたし、海堂は俺が並走して渡したら、走りながら書いて渡してきた!」
「………まあ書いただけいいじゃないか」
苦笑いを浮かべる大石に、菊丸は、ぷうっと頬を膨らませたまま二枚の短冊を突きつけた。
「あの二人! 別々に書かせて、これだにゃ!」
「………………」
短冊にそれぞれ書かれていた願い事はひどく短い。
D1
それだけだ。
乾の字と、海堂の字。
そして、菊丸が心底悔しそうにしているのは。
「ダブルス1は俺らだっつーの! 大石も勿論ダブルス1って書いたよな?!」
願い事の内容にというより。
図らずとも同じ事を書ける、乾と海堂の息の合い方に、という事が判るから。
「え?……えっと………」
大石は胃が痛む様な思いで、家内安全の短冊をそっと握りつぶすのだった。
PR
神尾が跡部の家に行くと、いつも物珍しくていかにも高級そうなケーキの類が用意されているようになったのはいつくらいからだったろうか。
甘いものが好きで、会う度にそういったものをうまいうまいと言って食べている神尾だったから、跡部が用意させているのは明らかだったけれど。
今日は綺麗なピンク色の、口に入れるとたちどころに溶けて無くなる、軽くてさっくりとした触感のお菓子だった。
「これなに?」
跡部の家で食べるものには大抵この言葉がつきもので。
ぱくぱくと口に運びながら神尾は跡部に問いかけた。
「シャンパンビスキュイ」
聞いても判らないのはいつものこと。
首を傾げていると、跡部は淡々と説明した。
「卵白を泡立てて、乾燥焼きにしたジャンパーニュ地方の銘菓だ」
「いい匂いするけど……ちょっとアルコール入ってる?」
「食用色粉を水じゃなくてオー・ド・ヴィで溶いてる程度にはな」
「オーなんとかってなに」
「……キルシュとか」
「………………」
「まあ酒だ」
「ふーん。うまいなー」
溜息をつきながらも、跡部はこういう所が結構マメだ。
あまり言動を惜しまないというか、基本的に面倒見がいいのだ。
俺様のくせして。
「あ、雨降ってきたな」
「泊まってけ」
「………跡部ー……」
窓の外の様子に気づいて神尾はそれを口にしただけなのに、即答で跡部から返されてきた言葉に神尾は力なく肩を落とした。
「どういう理屈だよ……」
雨なんか、降ってきたとはいえパラパラと疎らだ。
帰れなくなる程では到底ない。
それなのに真顔で、当然の事のように跡部が言うものだから。
ちょっとくすぐったいような照れくささも感じつつ、神尾はじっと跡部を見据えた。
シャンパンビスキュイを長い指に取り、口に運ぶ跡部の所作からは、目が離せない。
ここまで綺麗な男ってのがいるんだなあとしみじみ神尾は思う。
「七夕だから泊まっていくってのは理由になんねえのか」
「………や、……なんていうかそれは随分恥ずかしい理由では……」
跡部は恋愛沙汰にもいろいろと慣れているようで、こういう事を言ったりしても平然としているものだが。
神尾にしてみれば、まだまだ気恥ずかしいことばかりだった。
「七夕っていえば、……雨降ったから、織姫と彦星は会えないんだよな?」
ぎこちなくも慌てて話題をすりかえれば。
跡部は溜息混じりに神尾を軽く睨んでくる。
その上、テーブルに片肘ついて、薄く開いた唇から覗かせた舌の上で、シャンパンビスキュイがとける様を見せ付けてくるとか。
恥ずかしいからほんとよしてくれと頭を下げたくなる神尾だった。
「か、…可哀想だよな……、…元々一年に一回しか会えないのに、雨だったら、その日も駄目になるなんてさ……!」
「………その時は本来一匹の筈の案内役のカササギが無数現れて、天の川に自分達の身体で橋をかけてくれんだよ」
「え、そうなのか?」
なら良かったな!と言い終わるか言い終わらないかのうち。
神尾は跡部に腕を引っ張られる。
難なく跡部の胸元に収まるよう抱き込まれてしまって。
「…………、……跡部……」
「泊まらねえなら、ここのいる間はこれくらい近くにいろっての」
「………………」
からかって笑われているくらいなら、いっそまだ良かった。
でも、静かにこんな事を言われると、神尾はもうどうしていいのか判らない。
「………空の上でもおんなじ感じなのかな…」
「どっちのが恥ずかしいんだよ」
喉で低く笑った跡部の両腕が、強く神尾の背にまわる。
痛いくらいにきつく抱き寄せられて。
かぶりつくように口付けられて。
「……、……ッ……ん…」
「神尾…」
「……ン…、…ぁ…と…、…っ…ん、」
錯覚でなく、甘い舌と舌とでキスをつなぐ。
雨交じりの七夕。
跡部に床に組み敷かれて、神尾はほんの少しの間だけ、天空の恋人達の事を考えた。
「……帰れなくしてやればいいだけの話だな」
欲情に濡れた跡部の、物騒にも聞こえる低い声に。
もうとてもじゃないが、他所事に気をとられている場合ではなくなった神尾だった。
甘いものが好きで、会う度にそういったものをうまいうまいと言って食べている神尾だったから、跡部が用意させているのは明らかだったけれど。
今日は綺麗なピンク色の、口に入れるとたちどころに溶けて無くなる、軽くてさっくりとした触感のお菓子だった。
「これなに?」
跡部の家で食べるものには大抵この言葉がつきもので。
ぱくぱくと口に運びながら神尾は跡部に問いかけた。
「シャンパンビスキュイ」
聞いても判らないのはいつものこと。
首を傾げていると、跡部は淡々と説明した。
「卵白を泡立てて、乾燥焼きにしたジャンパーニュ地方の銘菓だ」
「いい匂いするけど……ちょっとアルコール入ってる?」
「食用色粉を水じゃなくてオー・ド・ヴィで溶いてる程度にはな」
「オーなんとかってなに」
「……キルシュとか」
「………………」
「まあ酒だ」
「ふーん。うまいなー」
溜息をつきながらも、跡部はこういう所が結構マメだ。
あまり言動を惜しまないというか、基本的に面倒見がいいのだ。
俺様のくせして。
「あ、雨降ってきたな」
「泊まってけ」
「………跡部ー……」
窓の外の様子に気づいて神尾はそれを口にしただけなのに、即答で跡部から返されてきた言葉に神尾は力なく肩を落とした。
「どういう理屈だよ……」
雨なんか、降ってきたとはいえパラパラと疎らだ。
帰れなくなる程では到底ない。
それなのに真顔で、当然の事のように跡部が言うものだから。
ちょっとくすぐったいような照れくささも感じつつ、神尾はじっと跡部を見据えた。
シャンパンビスキュイを長い指に取り、口に運ぶ跡部の所作からは、目が離せない。
ここまで綺麗な男ってのがいるんだなあとしみじみ神尾は思う。
「七夕だから泊まっていくってのは理由になんねえのか」
「………や、……なんていうかそれは随分恥ずかしい理由では……」
跡部は恋愛沙汰にもいろいろと慣れているようで、こういう事を言ったりしても平然としているものだが。
神尾にしてみれば、まだまだ気恥ずかしいことばかりだった。
「七夕っていえば、……雨降ったから、織姫と彦星は会えないんだよな?」
ぎこちなくも慌てて話題をすりかえれば。
跡部は溜息混じりに神尾を軽く睨んでくる。
その上、テーブルに片肘ついて、薄く開いた唇から覗かせた舌の上で、シャンパンビスキュイがとける様を見せ付けてくるとか。
恥ずかしいからほんとよしてくれと頭を下げたくなる神尾だった。
「か、…可哀想だよな……、…元々一年に一回しか会えないのに、雨だったら、その日も駄目になるなんてさ……!」
「………その時は本来一匹の筈の案内役のカササギが無数現れて、天の川に自分達の身体で橋をかけてくれんだよ」
「え、そうなのか?」
なら良かったな!と言い終わるか言い終わらないかのうち。
神尾は跡部に腕を引っ張られる。
難なく跡部の胸元に収まるよう抱き込まれてしまって。
「…………、……跡部……」
「泊まらねえなら、ここのいる間はこれくらい近くにいろっての」
「………………」
からかって笑われているくらいなら、いっそまだ良かった。
でも、静かにこんな事を言われると、神尾はもうどうしていいのか判らない。
「………空の上でもおんなじ感じなのかな…」
「どっちのが恥ずかしいんだよ」
喉で低く笑った跡部の両腕が、強く神尾の背にまわる。
痛いくらいにきつく抱き寄せられて。
かぶりつくように口付けられて。
「……、……ッ……ん…」
「神尾…」
「……ン…、…ぁ…と…、…っ…ん、」
錯覚でなく、甘い舌と舌とでキスをつなぐ。
雨交じりの七夕。
跡部に床に組み敷かれて、神尾はほんの少しの間だけ、天空の恋人達の事を考えた。
「……帰れなくしてやればいいだけの話だな」
欲情に濡れた跡部の、物騒にも聞こえる低い声に。
もうとてもじゃないが、他所事に気をとられている場合ではなくなった神尾だった。
七夕前夜、部活からの帰り道、雲の厚い空を見上げて鳳は呟いた。
「今年も七夕の天気、悪いみたいですね」
例年七夕は天候に恵まれない。
鳳の隣を歩く宍戸は、言われて初めて気付いたみたいに頭上を見やった。
「七夕って明日か?」
「はい」
持ち上がった細い顎を斜から見下ろしながら、鳳は、一年に一回しか会えない天空の彦星と織姫みたいに自分がなった時の事を考え、正気の沙汰ではいられないだろうと思った。
一年に一回しか会えないというのは大袈裟だけれど、でもどうしたって来年は、高等部に進学する宍戸と自分とに一年差の空白があく。
中等部と高等部との敷居の高さが天の川のように思えてしまう。
「……何でお前がそんな顔してんだ? 長太郎」
「え…?」
「彦星と織姫にまで同調してんじゃねえよ」
呆れた風に宍戸が言うので、違いますよと鳳は苦笑を浮かべた。
優しいとか、人がいいとか、そういう性質の度を越してる部分があると、鳳は常日頃から宍戸に言われているので。
そうじゃないんですと首を左右に振った。
「七夕にかこつけて、ちゃっかりと自分の事です」
「……ああ?」
「来年は我が身?って」
「アホ……」
宍戸の細く伸びた指が手荒に鳳の髪をかき乱す。
「仕事をなまけて引き離されたような奴らと俺達を一緒にしてんじゃねえよ」
「……宍戸さんがそういうの知ってるのってちょっとびっくりです」
「悪かったな!」
「悪くないです」
おっとりと鳳が笑んでしまうのは、荒っぽくも優しい宍戸の手の感触や、言葉のせいだ。
鳳は宍戸の髪にも指を差し入れた。
「……何だよ?」
宍戸が怪訝に問いかけてくる。
鳳は足を止めて、丁寧に両手の指を宍戸の髪へともぐらせた。
鳳の髪からは宍戸の手が退く。
ちいさな頭を長い全ての包むよう、鳳は宍戸を見つめおろした。
「七夕の早朝に髪を洗うと黒髪が美しくなるっていう言い伝えがあるそうですよ」
宍戸の髪には、以前のような長さはない。
でも、つややかでなめらかな指通りは短くなっても変わらない。
「………………」
丁重に撫で付けていると、宍戸は鳳の好きにさせてくれているまま、目を閉じて唇を引き上げた。
「……じゃ、やれ」
「………宍戸さん?」
「七夕の早朝、お前が俺の髪を洗えって言ってんだよ」
「…………それって…」
「今日泊まりに来いって言ってんだよ」
ほんの少し不機嫌に宍戸が言うのは、察しの悪い鳳の返答を責めての事だろう。
鳳は、宍戸に言われた言葉の意味が判らなかった訳ではないのだが。
ただ、ほんの少しの泣き言めいた言葉を口にした自分に、呆れながらもとびきりの甘やかしが宍戸から放られてきた事に胸が詰まったのだ。
「ご両親にご迷惑じゃないですか?」
そんな言葉で遠慮もしたのに。
「そりゃお前の方だろ」
うちの親ふたりしてお前の事すげー気にいってるし、と宍戸は嘆息する。
確かにこれまでにも歓迎が過ぎて、宍戸が鳳をさっさと自室に連れ込む事が幾度かあった。
「………じゃあ、お言葉に甘えて」
「……ん」
鳳がそっと手を引くと、宍戸はもう一度軽く目を閉じてから、歩き出した。
その後に続きながら、鳳は通り過ぎかけた店の、営業中のプレートに目をやった。
「あ、宍戸さん。ちょっとだけ待ってて下さい」
「何だよ」
「せめて何か手土産を」
「アッホ! いらねーっつの」
吐き捨てた宍戸に鳳は微笑んで言った。
「カルピスですから」
「……はあ?」
呆気にとられたような宍戸を促して、鳳は一緒に店内へと入る。
陳列ラックから、馴染みのある瓶を一瓶、手に取った。
「カルピスが発売されたの、七夕の日だって知ってました?」
「………そうなのか?」
「はい。この包み紙の水玉模様は天の川を表してるんですよ」
だから、と鳳はカルピスを買った。
「明日、責任もって俺は宍戸さんの髪を洗いますから。七夕の飲み物は宍戸さん作って下さいね」
「ま、それくらいいいけど」
今年も多分天候はいまひとつで。
天空にミルキーウェイは見られないかもしれない。
来年は多分、進級とともに。
今みたいに学校の行き帰りが一緒になることもあまりないかもしれない。
でも、離れたまま、ただ待つだけの一年にする気はないわけだから。
七夕を教訓に。
誓約はカルピスで。
「今年も七夕の天気、悪いみたいですね」
例年七夕は天候に恵まれない。
鳳の隣を歩く宍戸は、言われて初めて気付いたみたいに頭上を見やった。
「七夕って明日か?」
「はい」
持ち上がった細い顎を斜から見下ろしながら、鳳は、一年に一回しか会えない天空の彦星と織姫みたいに自分がなった時の事を考え、正気の沙汰ではいられないだろうと思った。
一年に一回しか会えないというのは大袈裟だけれど、でもどうしたって来年は、高等部に進学する宍戸と自分とに一年差の空白があく。
中等部と高等部との敷居の高さが天の川のように思えてしまう。
「……何でお前がそんな顔してんだ? 長太郎」
「え…?」
「彦星と織姫にまで同調してんじゃねえよ」
呆れた風に宍戸が言うので、違いますよと鳳は苦笑を浮かべた。
優しいとか、人がいいとか、そういう性質の度を越してる部分があると、鳳は常日頃から宍戸に言われているので。
そうじゃないんですと首を左右に振った。
「七夕にかこつけて、ちゃっかりと自分の事です」
「……ああ?」
「来年は我が身?って」
「アホ……」
宍戸の細く伸びた指が手荒に鳳の髪をかき乱す。
「仕事をなまけて引き離されたような奴らと俺達を一緒にしてんじゃねえよ」
「……宍戸さんがそういうの知ってるのってちょっとびっくりです」
「悪かったな!」
「悪くないです」
おっとりと鳳が笑んでしまうのは、荒っぽくも優しい宍戸の手の感触や、言葉のせいだ。
鳳は宍戸の髪にも指を差し入れた。
「……何だよ?」
宍戸が怪訝に問いかけてくる。
鳳は足を止めて、丁寧に両手の指を宍戸の髪へともぐらせた。
鳳の髪からは宍戸の手が退く。
ちいさな頭を長い全ての包むよう、鳳は宍戸を見つめおろした。
「七夕の早朝に髪を洗うと黒髪が美しくなるっていう言い伝えがあるそうですよ」
宍戸の髪には、以前のような長さはない。
でも、つややかでなめらかな指通りは短くなっても変わらない。
「………………」
丁重に撫で付けていると、宍戸は鳳の好きにさせてくれているまま、目を閉じて唇を引き上げた。
「……じゃ、やれ」
「………宍戸さん?」
「七夕の早朝、お前が俺の髪を洗えって言ってんだよ」
「…………それって…」
「今日泊まりに来いって言ってんだよ」
ほんの少し不機嫌に宍戸が言うのは、察しの悪い鳳の返答を責めての事だろう。
鳳は、宍戸に言われた言葉の意味が判らなかった訳ではないのだが。
ただ、ほんの少しの泣き言めいた言葉を口にした自分に、呆れながらもとびきりの甘やかしが宍戸から放られてきた事に胸が詰まったのだ。
「ご両親にご迷惑じゃないですか?」
そんな言葉で遠慮もしたのに。
「そりゃお前の方だろ」
うちの親ふたりしてお前の事すげー気にいってるし、と宍戸は嘆息する。
確かにこれまでにも歓迎が過ぎて、宍戸が鳳をさっさと自室に連れ込む事が幾度かあった。
「………じゃあ、お言葉に甘えて」
「……ん」
鳳がそっと手を引くと、宍戸はもう一度軽く目を閉じてから、歩き出した。
その後に続きながら、鳳は通り過ぎかけた店の、営業中のプレートに目をやった。
「あ、宍戸さん。ちょっとだけ待ってて下さい」
「何だよ」
「せめて何か手土産を」
「アッホ! いらねーっつの」
吐き捨てた宍戸に鳳は微笑んで言った。
「カルピスですから」
「……はあ?」
呆気にとられたような宍戸を促して、鳳は一緒に店内へと入る。
陳列ラックから、馴染みのある瓶を一瓶、手に取った。
「カルピスが発売されたの、七夕の日だって知ってました?」
「………そうなのか?」
「はい。この包み紙の水玉模様は天の川を表してるんですよ」
だから、と鳳はカルピスを買った。
「明日、責任もって俺は宍戸さんの髪を洗いますから。七夕の飲み物は宍戸さん作って下さいね」
「ま、それくらいいいけど」
今年も多分天候はいまひとつで。
天空にミルキーウェイは見られないかもしれない。
来年は多分、進級とともに。
今みたいに学校の行き帰りが一緒になることもあまりないかもしれない。
でも、離れたまま、ただ待つだけの一年にする気はないわけだから。
七夕を教訓に。
誓約はカルピスで。
例えばそこが物凄い人ごみの雑踏の中だとか、全校集会が行われている校庭だとか、偶然相手を見つけた街中だったとして。
そういう場で、まるで引き合うようにお互いの目が合う。
すぐさまお互いの存在を認識する。
いる、と思って。
その感が外れた事がなかった。
探すよりも先に、意思がまっすぐ疎通しているような乾と海堂に。
それはもういっそ才能の域だと乾に言って笑ったのが、青学テニス部の天才だったという話だ。
「………不二先輩…そんなことあんたに言ったんすか」
「ああ。そう言う不二も不二で、いったいどこでどう俺達の事を見てるんだかな……」
乾がノートにペンを走らせながら、唇の端を僅かに引き上げる。
いつものように二人で行う自主トレも、最後の柔軟を済ませた今は、乾の今日のデータが書付られれば全てが終わる。
首から下げたタオルでこめかみを押さえた海堂は、乾の表情に、ふと眉根を寄せた。
「……先輩?」
「ん?…ああ、ちょっと思い出してさ」
些細な違和感。
いったい何をと海堂が問うより先。
乾はノートを閉じて海堂を見つめた。
「海堂、目立ってたからなあ」
「…………なんの話っすか」
「俺が初めて海堂を見た時の話」
「態度悪くてだろ……」
「いやいや。オーラがね」
テニス強くなりたいんだなって判る綺麗な強い目立ち方、と乾は言って。
思い返すように笑みを深める。
「………………」
どういう表現だと海堂は絶句する。
しかもそれに加えて乾の和らいだような表情が何とも居たたまれない。
海堂のそんな困惑を知ってか知らずか、乾は微かに首を片側に傾け、何か自己確認するように頷いた。
「というか、輝いて見えちゃったのは、それだけじゃないかもな」
「か、………」
「所謂一目惚れだった訳だから……キラキラしていたのかもしれないな……」
「ひ、っ…、…キ、……、…」
何を真顔で、そんな真面目な声音で、言って、そんな訳の判らない事を。
海堂は錯乱した。
声は詰まって言葉にならないし、頭は酸欠で何一つ碌な反応も返せない。
あまりにも自分が関わっているとは到底思えないような言葉を立て続けに乾から放られた海堂が、乾を漸く怒鳴りつけられたのは。
一呼吸二呼吸おいてどころの騒ぎではない。
たっぷりと混乱し、惑いまくった挙句に、海堂は声を嗄らして叫んだ。
「………、…あ………、あんたな、!」
「何だ?」
「それだけ頭良いくせして、どうしてそういう所は、そんなに、おかしいんだよ……ッ…」
海堂の渾身の叫びを、乾はいかにも不服そうに迎えうってきた。
「なあ、海堂? お前こそ、自分のテニスの実力や努力についてはどれも正しく認識してるのに、どうしてこういう事に関しては、そうも無自覚かな?」
一目惚れは本当の話、と乾に真摯にきっぱりと告げられて。
海堂はもう、どうしていいのかも判らず、ただ押し黙るしかない。
気恥ずかしいのか、心もとないのか、きっと両方に違いない。
そんな海堂の様子に乾が。
またふと淡い笑みを唇に湛えた。
「……何だ、知らなかったのか? 海堂」
「…………………」
乾はおもしろそうにそう言った。
それはからかっているというより、純粋に思いもしない出来事に直面した時特有の笑みだったから、海堂も今度は反抗しなかった。
無言で頷いた海堂に、乾は今度はそんなに昔ではない頃を思い返して囁いてくる。
「嬉しかったよ。メニューの事でお前に呼ばれた時は」
「…………………」
「俺としては最初から、海堂のこと構ってみたくて仕方なかったからさ」
「……そういう風には全然見えなかったですけど」
「海堂は一人で考えて、一人で何でも実行してたから、そういう俺の願望はばれないように頑張ってたんだよ」
「…………………」
「だから海堂から相談を受けたのは嬉しかったし、そこでそういうきっかけを作ったら、後はもう、俺の方から猛進って感じだっただろう?」
「…………あんたのそういう所が」
「苦手?」
「逆です」
「…ん?」
さらりと続きを口にした乾の言葉を真っ向から否定して、海堂は言った。
「尊敬してる。…………何だよその顔」
人との接触が苦手な自分を自覚しているだけに、海堂は、ここまで気心許せる相手を今まで知らなかった。
乾を知り得たのは、さりげなくも熱心に、海堂との接触を持ち続けてくれた乾だったからと言って過言はない。
別段急に思いついた訳でもない言葉を口にした海堂は、今度は乾が絶句したのを見て困惑した。
多少の含羞を自覚しながらも、海堂は面食らったような乾を見据えた。
乾の長い指が、大きな手のひらが、ゆっくり動いて彼の顔半分を覆う。
「いや………」
「…………………」
「…驚いて」
「………笑ってんだろ」
ゆるむ表情をそう指摘すれば、乾は誤魔化しもせずあっさり頷いた。
「じわじわと嬉しさが」
「意味わかんねえ」
「…好きだよ? 海堂」
「他人事みたいに言ってんじゃねえ…っ」
「好きだ」
「…、…そういう声出すな…!」
「注文多い所もつくづく好きだ」
「ふざけんなっ」
上機嫌の乾は、酔っぱらいより余程質が悪い。
海堂は、怒鳴っても怒鳴っても、繰り返し繰り返し好きだと言ってくる乾を置いて、とうとうそこから走り出した。
全力で。
しかし乾に、見失われる事はないだろうという事を海堂は知っている。
そういう場で、まるで引き合うようにお互いの目が合う。
すぐさまお互いの存在を認識する。
いる、と思って。
その感が外れた事がなかった。
探すよりも先に、意思がまっすぐ疎通しているような乾と海堂に。
それはもういっそ才能の域だと乾に言って笑ったのが、青学テニス部の天才だったという話だ。
「………不二先輩…そんなことあんたに言ったんすか」
「ああ。そう言う不二も不二で、いったいどこでどう俺達の事を見てるんだかな……」
乾がノートにペンを走らせながら、唇の端を僅かに引き上げる。
いつものように二人で行う自主トレも、最後の柔軟を済ませた今は、乾の今日のデータが書付られれば全てが終わる。
首から下げたタオルでこめかみを押さえた海堂は、乾の表情に、ふと眉根を寄せた。
「……先輩?」
「ん?…ああ、ちょっと思い出してさ」
些細な違和感。
いったい何をと海堂が問うより先。
乾はノートを閉じて海堂を見つめた。
「海堂、目立ってたからなあ」
「…………なんの話っすか」
「俺が初めて海堂を見た時の話」
「態度悪くてだろ……」
「いやいや。オーラがね」
テニス強くなりたいんだなって判る綺麗な強い目立ち方、と乾は言って。
思い返すように笑みを深める。
「………………」
どういう表現だと海堂は絶句する。
しかもそれに加えて乾の和らいだような表情が何とも居たたまれない。
海堂のそんな困惑を知ってか知らずか、乾は微かに首を片側に傾け、何か自己確認するように頷いた。
「というか、輝いて見えちゃったのは、それだけじゃないかもな」
「か、………」
「所謂一目惚れだった訳だから……キラキラしていたのかもしれないな……」
「ひ、っ…、…キ、……、…」
何を真顔で、そんな真面目な声音で、言って、そんな訳の判らない事を。
海堂は錯乱した。
声は詰まって言葉にならないし、頭は酸欠で何一つ碌な反応も返せない。
あまりにも自分が関わっているとは到底思えないような言葉を立て続けに乾から放られた海堂が、乾を漸く怒鳴りつけられたのは。
一呼吸二呼吸おいてどころの騒ぎではない。
たっぷりと混乱し、惑いまくった挙句に、海堂は声を嗄らして叫んだ。
「………、…あ………、あんたな、!」
「何だ?」
「それだけ頭良いくせして、どうしてそういう所は、そんなに、おかしいんだよ……ッ…」
海堂の渾身の叫びを、乾はいかにも不服そうに迎えうってきた。
「なあ、海堂? お前こそ、自分のテニスの実力や努力についてはどれも正しく認識してるのに、どうしてこういう事に関しては、そうも無自覚かな?」
一目惚れは本当の話、と乾に真摯にきっぱりと告げられて。
海堂はもう、どうしていいのかも判らず、ただ押し黙るしかない。
気恥ずかしいのか、心もとないのか、きっと両方に違いない。
そんな海堂の様子に乾が。
またふと淡い笑みを唇に湛えた。
「……何だ、知らなかったのか? 海堂」
「…………………」
乾はおもしろそうにそう言った。
それはからかっているというより、純粋に思いもしない出来事に直面した時特有の笑みだったから、海堂も今度は反抗しなかった。
無言で頷いた海堂に、乾は今度はそんなに昔ではない頃を思い返して囁いてくる。
「嬉しかったよ。メニューの事でお前に呼ばれた時は」
「…………………」
「俺としては最初から、海堂のこと構ってみたくて仕方なかったからさ」
「……そういう風には全然見えなかったですけど」
「海堂は一人で考えて、一人で何でも実行してたから、そういう俺の願望はばれないように頑張ってたんだよ」
「…………………」
「だから海堂から相談を受けたのは嬉しかったし、そこでそういうきっかけを作ったら、後はもう、俺の方から猛進って感じだっただろう?」
「…………あんたのそういう所が」
「苦手?」
「逆です」
「…ん?」
さらりと続きを口にした乾の言葉を真っ向から否定して、海堂は言った。
「尊敬してる。…………何だよその顔」
人との接触が苦手な自分を自覚しているだけに、海堂は、ここまで気心許せる相手を今まで知らなかった。
乾を知り得たのは、さりげなくも熱心に、海堂との接触を持ち続けてくれた乾だったからと言って過言はない。
別段急に思いついた訳でもない言葉を口にした海堂は、今度は乾が絶句したのを見て困惑した。
多少の含羞を自覚しながらも、海堂は面食らったような乾を見据えた。
乾の長い指が、大きな手のひらが、ゆっくり動いて彼の顔半分を覆う。
「いや………」
「…………………」
「…驚いて」
「………笑ってんだろ」
ゆるむ表情をそう指摘すれば、乾は誤魔化しもせずあっさり頷いた。
「じわじわと嬉しさが」
「意味わかんねえ」
「…好きだよ? 海堂」
「他人事みたいに言ってんじゃねえ…っ」
「好きだ」
「…、…そういう声出すな…!」
「注文多い所もつくづく好きだ」
「ふざけんなっ」
上機嫌の乾は、酔っぱらいより余程質が悪い。
海堂は、怒鳴っても怒鳴っても、繰り返し繰り返し好きだと言ってくる乾を置いて、とうとうそこから走り出した。
全力で。
しかし乾に、見失われる事はないだろうという事を海堂は知っている。
我慢ができなくなった神尾は、ベッドに組み敷かれた所で跡部を押し退けた。
予測はしていたが案の定跡部は神尾を睨みつけてきて、そう簡単には逃してはくれない。
「あと、べ…っ……離せってば…! 手!」
手首を真上から押さえつけられて、そこにもろに体重をかけられた。
身体も乗り上げられて。
こうなるともう跡部はびくともしない。
神尾は再度本格的にベッドに組み敷かれる事になった。
跡部の家に来てすぐのこの有様。
あー、とも、うー、ともつかない呻き声をあげて神尾はジタバタと足でもがいた。
「………てめえ…」
そんな神尾の抵抗を眼下に見下ろして、跡部の表情が馬鹿みたいに剣呑と尖るから。
跡部の今の心情を理解して、神尾もつい、慌てた。
いい加減我慢の限界だというのに、つい、そうじゃなくてと、首を左右に打ち振った。
「嫌がってんじゃねえってば…!」
「どこから見たって立派に嫌がってんだろうが」
「ちが、うってば!…もう、離せって、とにかく!」
「……半ベソで抵抗か?」
不機嫌極まりなく喉奥で笑われて。
逃がすか、と獰猛に告げられて。
唇が塞がれそうになる寸前。
とうとう神尾は、それこそ半ベソで叫んだ。
「かゆい!」
「………ああ?」
「かゆいんだよっ。虫に食われたのっ。ああもうっ」
我慢出来ないと思って神尾は跡部を睨んで暴れた。
多分部活中だ。
だからこの季節は嫌なのだと神尾は恨めしく己の体質を呪う。
何故なのか神尾は蚊に刺されやすい。
体温が高く、子供体温だからだと仲間内からは毎年からかわれている。
神尾にとって、入梅から初夏にかけては最も被害の大きな憂鬱な時期なのである。
だから自分の叫んだ言葉に面食らった跡部の顔を目前にしながらも、それでも緩まない手の拘束に本気で焦れる。
それなのにだ。
「…………食われたってのが、気にくわねえな」
「馬鹿かっ。蚊だ蚊っ!」
何を真顔で言ってやがると神尾は心底から跡部を呆れたが、それより何より今は背中を襲う掻痒感が重大だ。
無意識にシーツに背を擦りつけるようにしていると、跡部の表情にちょっと危なげな笑みが浮かんだ気がして神尾は物凄く嫌な予感がした。
嫌な予感は外れない。
跡部は神尾の耳の縁を噛むようにして囁いてきた。
「我慢できなくなると自分から派手に動いちまうのは一緒みたいだな」
「…、……っ……な」
それとこれとは全然違うと思っても。
神尾が口には出せないのは、じわじわと滲んでくる羞恥心のせいだ。
全然違う事のはずなのに。
跡部が意地悪するから、許してくれないから、神尾がもがくのは確かに共通点だ。
「………ッ……、」
ぐっと言葉を詰まらせて神尾が跡部を睨みつければ、癖のある笑みを浮かべたまま漸く跡部から行動を起こしてくれるのもまた一緒。
「…………………」
腕が離され、うつ伏せにされ、いとも簡単にシャツを剥ぎ取れる。
「一昨日俺がつけた痕に交ざっちまってんじゃねえの」
含み笑いながらも、どれだよ?と聞いてくる跡部に、掻過しながら場所を手で指し示そうとして、そういえば手が届きそうもない所だと神尾は気づく。
第一跡部の台詞にもますます羞恥は募り、呻きながらやけっぱちに、もっと上だとか右だとか神尾は喚いた。
跡部は笑いながら神尾の皮膚を噛んでくる。
それもどうなんだろうかと思いつつ、神尾は跡部の歯でむず痒さを宥められる。
多少強く噛まれても、いっそ気持ちよくて、そのうち痒いんだか痛いんだか気持ち良いんだか何だか判らなくなってくる。
なしくずしに、そして本格的に、跡部に抱かれ始めている事に神尾が気づいた時にはもう大概手遅れで。
終始うつ伏せでしかけられたものだから、神尾の背中は跡部に完全に支配されて、吸われたり噛まれたり舐められたりで紅色に様々に刻まれてしまった。
蚊に刺されやすいお子様体温どころではない。
跡部に狙われて淫らに身体の色を変えられる始末の神尾だった。
予測はしていたが案の定跡部は神尾を睨みつけてきて、そう簡単には逃してはくれない。
「あと、べ…っ……離せってば…! 手!」
手首を真上から押さえつけられて、そこにもろに体重をかけられた。
身体も乗り上げられて。
こうなるともう跡部はびくともしない。
神尾は再度本格的にベッドに組み敷かれる事になった。
跡部の家に来てすぐのこの有様。
あー、とも、うー、ともつかない呻き声をあげて神尾はジタバタと足でもがいた。
「………てめえ…」
そんな神尾の抵抗を眼下に見下ろして、跡部の表情が馬鹿みたいに剣呑と尖るから。
跡部の今の心情を理解して、神尾もつい、慌てた。
いい加減我慢の限界だというのに、つい、そうじゃなくてと、首を左右に打ち振った。
「嫌がってんじゃねえってば…!」
「どこから見たって立派に嫌がってんだろうが」
「ちが、うってば!…もう、離せって、とにかく!」
「……半ベソで抵抗か?」
不機嫌極まりなく喉奥で笑われて。
逃がすか、と獰猛に告げられて。
唇が塞がれそうになる寸前。
とうとう神尾は、それこそ半ベソで叫んだ。
「かゆい!」
「………ああ?」
「かゆいんだよっ。虫に食われたのっ。ああもうっ」
我慢出来ないと思って神尾は跡部を睨んで暴れた。
多分部活中だ。
だからこの季節は嫌なのだと神尾は恨めしく己の体質を呪う。
何故なのか神尾は蚊に刺されやすい。
体温が高く、子供体温だからだと仲間内からは毎年からかわれている。
神尾にとって、入梅から初夏にかけては最も被害の大きな憂鬱な時期なのである。
だから自分の叫んだ言葉に面食らった跡部の顔を目前にしながらも、それでも緩まない手の拘束に本気で焦れる。
それなのにだ。
「…………食われたってのが、気にくわねえな」
「馬鹿かっ。蚊だ蚊っ!」
何を真顔で言ってやがると神尾は心底から跡部を呆れたが、それより何より今は背中を襲う掻痒感が重大だ。
無意識にシーツに背を擦りつけるようにしていると、跡部の表情にちょっと危なげな笑みが浮かんだ気がして神尾は物凄く嫌な予感がした。
嫌な予感は外れない。
跡部は神尾の耳の縁を噛むようにして囁いてきた。
「我慢できなくなると自分から派手に動いちまうのは一緒みたいだな」
「…、……っ……な」
それとこれとは全然違うと思っても。
神尾が口には出せないのは、じわじわと滲んでくる羞恥心のせいだ。
全然違う事のはずなのに。
跡部が意地悪するから、許してくれないから、神尾がもがくのは確かに共通点だ。
「………ッ……、」
ぐっと言葉を詰まらせて神尾が跡部を睨みつければ、癖のある笑みを浮かべたまま漸く跡部から行動を起こしてくれるのもまた一緒。
「…………………」
腕が離され、うつ伏せにされ、いとも簡単にシャツを剥ぎ取れる。
「一昨日俺がつけた痕に交ざっちまってんじゃねえの」
含み笑いながらも、どれだよ?と聞いてくる跡部に、掻過しながら場所を手で指し示そうとして、そういえば手が届きそうもない所だと神尾は気づく。
第一跡部の台詞にもますます羞恥は募り、呻きながらやけっぱちに、もっと上だとか右だとか神尾は喚いた。
跡部は笑いながら神尾の皮膚を噛んでくる。
それもどうなんだろうかと思いつつ、神尾は跡部の歯でむず痒さを宥められる。
多少強く噛まれても、いっそ気持ちよくて、そのうち痒いんだか痛いんだか気持ち良いんだか何だか判らなくなってくる。
なしくずしに、そして本格的に、跡部に抱かれ始めている事に神尾が気づいた時にはもう大概手遅れで。
終始うつ伏せでしかけられたものだから、神尾の背中は跡部に完全に支配されて、吸われたり噛まれたり舐められたりで紅色に様々に刻まれてしまった。
蚊に刺されやすいお子様体温どころではない。
跡部に狙われて淫らに身体の色を変えられる始末の神尾だった。
あれだけの破壊力があるサーブを打ち込む手と同じ手が奏でているとはとても思えないバイオリンの旋律に、包まれる。
音からにも、その姿からにも、吸引されて。
宍戸は鳳を見つめる。
昼休みの音楽室。
確か最初は偶然だった。
昼休み、この場所で、顔を合わせた後輩の鳳に、物珍しさから楽器を演奏させ、聴き入っていた宍戸だったが。
近頃ではその頻度が増えて、昼休みに音楽室に足を運んでいる事が多い。
テニスの話をしながらでもメロディが奏でられ出すと、心地良くも甘ったるい気分に終始させられた。
宍戸はクラシックに興味も無いし、鳳が器用に操る楽器から、何の曲が演奏されているのかも判らない。
でも、鳳の指が爪弾く、優しくもあたたかな音が好きだった。
テニスをするときとは違う、甘く凪いだ表情も好きだった。
「…………………」
綺麗な音を生む綺麗な男。
宍戸が見据えていると、鳳が宍戸を見返して気持ち良さそうに笑った。
「俺が何か弾くと、宍戸さん、いつもそういう顔をしてくれて嬉しいです」
「……は? 顔?」
忙しくても、大変な事があっても、今はここで休んでくれているみたいな、と滑らかな鳳の囁きが調べに交ざる。
人のこと言えた義理かと宍戸は思ったが口にしなかった。
代わりに、机に片手で頬杖をついた姿勢で、宍戸は鳳に問いかけた。
「専門的なこと判らねえけどよ。お前、バイオリンでもピアノでもそれだけ出来て、音楽の方もっと本格的にやれとか言われねえの?」
それに対して鳳の返事は微苦笑だけで、あながち的外れな疑問でもなかった事を宍戸を知る。
「俺は渡すつもりねえけどな」
「宍戸さん?」
「お前の楽器、聴くの好きだけどよ。だからってそっちに本腰とか言われてたとしても、絶対やんねえ」
「……宍戸さん」
音楽なんて、宍戸には判らないのに。
宍戸の言葉で。
メロディが甘くなって。
鳳の微笑も幸せそうになって。
そういう事は、よく判った。
「お前にどれだけいろんな才能があって、そういう能力を生かす場がどれだけよそにあったとしても、必ず。そのどれを選ぶより、テニスと俺のが良いって思わせてやる」
宍戸が宣戦布告したのは、鳳の持つ力に対して。
鳳の未来に対して。
そんな思いを口に出させる威力のある、バイオリンの演奏に言葉を引き出されるようにして、宍戸は、じっと鳳を直視して告げた。
宍戸を見つめ返してきた鳳の手が止まる。
「………………」
ふっつりと突然途切れてしまった旋律は、胸を熱く詰まらせるようような余韻で教室を満たした。
耐えかねたように、バイオリンを置いて足早に歩み寄ってきた鳳に、宍戸は背中を抱き寄せられる。
頬杖をついたまま、広い胸元に押し付けられるよう抱き締められた。
「お前……俺を抱き締めんのも上手いよな」
「俺より上手い奴なんていません」
テニスでも、楽器でも、あまり自己表示することのない鳳の、きっぱりとした物言いに気持ちを甘く擽られ、宍戸は小さく笑った。
「……かもしんねえな」
「かもじゃないです」
顔は見えないけれど、少し拗ねているような鳳のそんな言い方がやけにかわいく思えて、宍戸は鳳の背に腕を伸ばした。
「誰にも」
「……………」
「それが人でなくても」
鳳の宣戦布告は、熱の高い、純度も高い、真摯な響きで宍戸を包んだ。
「物とか、環境とかでも。俺は絶対、宍戸さんは渡しません」
「……そうしてくれ」
からかい半分。
そしてもう半分は。
鳳に、そんな勝負に挑まれるのも良いかもしれないと、自覚してしまった宍戸の気恥ずかしいような笑みに交じって吐かれるのだった。
音からにも、その姿からにも、吸引されて。
宍戸は鳳を見つめる。
昼休みの音楽室。
確か最初は偶然だった。
昼休み、この場所で、顔を合わせた後輩の鳳に、物珍しさから楽器を演奏させ、聴き入っていた宍戸だったが。
近頃ではその頻度が増えて、昼休みに音楽室に足を運んでいる事が多い。
テニスの話をしながらでもメロディが奏でられ出すと、心地良くも甘ったるい気分に終始させられた。
宍戸はクラシックに興味も無いし、鳳が器用に操る楽器から、何の曲が演奏されているのかも判らない。
でも、鳳の指が爪弾く、優しくもあたたかな音が好きだった。
テニスをするときとは違う、甘く凪いだ表情も好きだった。
「…………………」
綺麗な音を生む綺麗な男。
宍戸が見据えていると、鳳が宍戸を見返して気持ち良さそうに笑った。
「俺が何か弾くと、宍戸さん、いつもそういう顔をしてくれて嬉しいです」
「……は? 顔?」
忙しくても、大変な事があっても、今はここで休んでくれているみたいな、と滑らかな鳳の囁きが調べに交ざる。
人のこと言えた義理かと宍戸は思ったが口にしなかった。
代わりに、机に片手で頬杖をついた姿勢で、宍戸は鳳に問いかけた。
「専門的なこと判らねえけどよ。お前、バイオリンでもピアノでもそれだけ出来て、音楽の方もっと本格的にやれとか言われねえの?」
それに対して鳳の返事は微苦笑だけで、あながち的外れな疑問でもなかった事を宍戸を知る。
「俺は渡すつもりねえけどな」
「宍戸さん?」
「お前の楽器、聴くの好きだけどよ。だからってそっちに本腰とか言われてたとしても、絶対やんねえ」
「……宍戸さん」
音楽なんて、宍戸には判らないのに。
宍戸の言葉で。
メロディが甘くなって。
鳳の微笑も幸せそうになって。
そういう事は、よく判った。
「お前にどれだけいろんな才能があって、そういう能力を生かす場がどれだけよそにあったとしても、必ず。そのどれを選ぶより、テニスと俺のが良いって思わせてやる」
宍戸が宣戦布告したのは、鳳の持つ力に対して。
鳳の未来に対して。
そんな思いを口に出させる威力のある、バイオリンの演奏に言葉を引き出されるようにして、宍戸は、じっと鳳を直視して告げた。
宍戸を見つめ返してきた鳳の手が止まる。
「………………」
ふっつりと突然途切れてしまった旋律は、胸を熱く詰まらせるようような余韻で教室を満たした。
耐えかねたように、バイオリンを置いて足早に歩み寄ってきた鳳に、宍戸は背中を抱き寄せられる。
頬杖をついたまま、広い胸元に押し付けられるよう抱き締められた。
「お前……俺を抱き締めんのも上手いよな」
「俺より上手い奴なんていません」
テニスでも、楽器でも、あまり自己表示することのない鳳の、きっぱりとした物言いに気持ちを甘く擽られ、宍戸は小さく笑った。
「……かもしんねえな」
「かもじゃないです」
顔は見えないけれど、少し拗ねているような鳳のそんな言い方がやけにかわいく思えて、宍戸は鳳の背に腕を伸ばした。
「誰にも」
「……………」
「それが人でなくても」
鳳の宣戦布告は、熱の高い、純度も高い、真摯な響きで宍戸を包んだ。
「物とか、環境とかでも。俺は絶対、宍戸さんは渡しません」
「……そうしてくれ」
からかい半分。
そしてもう半分は。
鳳に、そんな勝負に挑まれるのも良いかもしれないと、自覚してしまった宍戸の気恥ずかしいような笑みに交じって吐かれるのだった。
今日は一番最初に乾と顔を合わせたら、そこで言う言葉が海堂にはあった。
その筈だったのに。
考えるより先に海堂の口をついて出てたのは、全く関係のない言葉になってしまった。
「顔色悪いっすね……」
陰鬱に近い悲壮な何かを噛み締めているかのような。
そんな乾の表情に海堂は呆気にとられた。
朝っぱらからどういう状態だと海堂は一つ年上の男を一瞬上目に見やった。
通学路で出会ったので、自然と肩を並べて学校までの道のりを歩いていく。
乾は重たい溜息をついて、眼鏡のフレームを指先で押し上げた。
「夢見がすこぶる悪くてね……」
「………………」
夢ぐらいでそこまでなるかと海堂は内心で呆れた。
口にしなかったのは、すぐに乾が話の先を続けたからだ。
「海堂にふられる夢。リアルすぎて死にそう……」
「………それくらいで死ぬなよ」
「それくらいってな。お前」
珍しく乾の口調がさばけて荒い。
強く見つめられて、海堂は、ぐっと息をのんだ。
「……………夢だろうが。たかが」
「夢だよ。でなけりゃこうして学校に行こうとなんかしてないよ」
本物の海堂見るまで不安で、と複雑そうに消沈する乾の、広い肩ががっくりと落ちているのを見て海堂はとうとう乾を睨みつけた。
何を勝手にそんな訳の判らない夢なんか見ているのかと。
いつまでそんな自分でない自分の言葉を引きずっているのかと。
だんだん腹がたってきて、海堂は歩く速度を早くした。
乾を追い越し様に言い捨てる。
「そんなにそっちの俺のが良ければ、ずっと引きずってればいい」
「海堂」
知るか、と海堂は乾を置いて学校へ向かった。
だいたい、どうして、よりにもよって。
今日、そんな馬鹿な夢を見るのかと。
挙句、自分が今日一番に乾に言おうとしていた言葉まで奪って。
全くもって何もかも苛つくばかりだ。
そんな海堂の背後から、足早に駆け寄ってきて、あっという間に追いついてきた男が、困ったような、いとおしそうな声を出してくる。
「海堂」
振り向くのも足を止めるのも癪だ。
海堂はそう思ってひたすら歩き続けた。
文句を言いながら。
ひたすら。
「勝手に夢なんかとシンクロしてんな」
「海堂」
「俺が、あんたを、ふるわけねえだろ」
「海堂ー」
担がれたかって疑うなり、有り得ないって笑い飛ばすなりしろ、と本気で怒って言った海堂に、とうとう乾が笑いながら背後から抱きついてきた。
「な、……っ……」
「何回惚れ直させるんだ? お前」
海堂の耳元で、甘い低い声で囁いて。
そのうえ頬に唇まで寄せて。
海堂は絶句の後、絶叫した。
「……、…っざけんな……!」
「ふざけてない。嬉しいだけ」
どこで、なにを、と錯乱しかける海堂に。
じゃれるように尚も覆い被さってきて。
大丈夫大丈夫と笑う乾は機嫌がよすぎる。
朝の通学路だ。
冗談じゃない。
海堂は心底からそう思うのだが。
「…………………」
でも、あまりにも目の前で、あまりにも幸せそうに、乾が笑っているので。
ああもう今日だから、仕方が無いから、許してやる、と。
甘い気分に巻き込まれたようになって海堂は乾を睨み据えた。
赤い顔では何の迫力もないのは承知の上だ。
「乾先輩」
「ん?」
「……、誕生日」
「ありがとう」
「言ってねえよ! まだ!」
「最後まで聞いたら幸せすぎて死にそう」
「………それくらいで死ぬな…!」
たっぷりと甘えてくるような乾を怒鳴りつけながら、海堂は。
言葉の続きは、別に今日中に言えればいいのかと、ひっそり思ったりもしたのだった。
今晩は、乾がそんな碌でもない夢などみないように。
今日の最後に、告げたい言葉は伝えることにしたのだった。
その筈だったのに。
考えるより先に海堂の口をついて出てたのは、全く関係のない言葉になってしまった。
「顔色悪いっすね……」
陰鬱に近い悲壮な何かを噛み締めているかのような。
そんな乾の表情に海堂は呆気にとられた。
朝っぱらからどういう状態だと海堂は一つ年上の男を一瞬上目に見やった。
通学路で出会ったので、自然と肩を並べて学校までの道のりを歩いていく。
乾は重たい溜息をついて、眼鏡のフレームを指先で押し上げた。
「夢見がすこぶる悪くてね……」
「………………」
夢ぐらいでそこまでなるかと海堂は内心で呆れた。
口にしなかったのは、すぐに乾が話の先を続けたからだ。
「海堂にふられる夢。リアルすぎて死にそう……」
「………それくらいで死ぬなよ」
「それくらいってな。お前」
珍しく乾の口調がさばけて荒い。
強く見つめられて、海堂は、ぐっと息をのんだ。
「……………夢だろうが。たかが」
「夢だよ。でなけりゃこうして学校に行こうとなんかしてないよ」
本物の海堂見るまで不安で、と複雑そうに消沈する乾の、広い肩ががっくりと落ちているのを見て海堂はとうとう乾を睨みつけた。
何を勝手にそんな訳の判らない夢なんか見ているのかと。
いつまでそんな自分でない自分の言葉を引きずっているのかと。
だんだん腹がたってきて、海堂は歩く速度を早くした。
乾を追い越し様に言い捨てる。
「そんなにそっちの俺のが良ければ、ずっと引きずってればいい」
「海堂」
知るか、と海堂は乾を置いて学校へ向かった。
だいたい、どうして、よりにもよって。
今日、そんな馬鹿な夢を見るのかと。
挙句、自分が今日一番に乾に言おうとしていた言葉まで奪って。
全くもって何もかも苛つくばかりだ。
そんな海堂の背後から、足早に駆け寄ってきて、あっという間に追いついてきた男が、困ったような、いとおしそうな声を出してくる。
「海堂」
振り向くのも足を止めるのも癪だ。
海堂はそう思ってひたすら歩き続けた。
文句を言いながら。
ひたすら。
「勝手に夢なんかとシンクロしてんな」
「海堂」
「俺が、あんたを、ふるわけねえだろ」
「海堂ー」
担がれたかって疑うなり、有り得ないって笑い飛ばすなりしろ、と本気で怒って言った海堂に、とうとう乾が笑いながら背後から抱きついてきた。
「な、……っ……」
「何回惚れ直させるんだ? お前」
海堂の耳元で、甘い低い声で囁いて。
そのうえ頬に唇まで寄せて。
海堂は絶句の後、絶叫した。
「……、…っざけんな……!」
「ふざけてない。嬉しいだけ」
どこで、なにを、と錯乱しかける海堂に。
じゃれるように尚も覆い被さってきて。
大丈夫大丈夫と笑う乾は機嫌がよすぎる。
朝の通学路だ。
冗談じゃない。
海堂は心底からそう思うのだが。
「…………………」
でも、あまりにも目の前で、あまりにも幸せそうに、乾が笑っているので。
ああもう今日だから、仕方が無いから、許してやる、と。
甘い気分に巻き込まれたようになって海堂は乾を睨み据えた。
赤い顔では何の迫力もないのは承知の上だ。
「乾先輩」
「ん?」
「……、誕生日」
「ありがとう」
「言ってねえよ! まだ!」
「最後まで聞いたら幸せすぎて死にそう」
「………それくらいで死ぬな…!」
たっぷりと甘えてくるような乾を怒鳴りつけながら、海堂は。
言葉の続きは、別に今日中に言えればいいのかと、ひっそり思ったりもしたのだった。
今晩は、乾がそんな碌でもない夢などみないように。
今日の最後に、告げたい言葉は伝えることにしたのだった。
時々、赤澤との距離がひどく近くなっている。
校内で話しかけられてきた時に自分に触れる赤澤の髪の先だとか、コートで並び合う時に微かに重なる二の腕だとか。
でも、そういう時に観月が身構え感じた違和感は、極力小さいものだった。
恐らく赤澤が観月を気遣って、時間をかけて、縮めた距離だと思われた。
観月は他人とのそういう近さや気安さに慣れていない。
しかし赤澤のそういう接触は決して苦痛ではなく、だから観月は、そう気づいた時から更に縮まっていく赤澤との距離に、もうされるがままでいる事にした。
咎めたりする事はせず、軽く流す事にした。
赤澤は、派手な見目を裏切る気さくさで、誰に対してもそういう所があったから。
観月には手にあまるような赤澤からのスキンシップの深さも、いちいち目くじらをたてても仕方ない事なのだろうと諦めて。
だから観月は、自分とは違う赤澤という人間のする事に、何も口を挟まなかったというのに。
ある時赤澤が、観月の寮室で、今まで観月が知らなかったやり方で自分を抱き締めてきて。
好きだと言ってきて。
その瞬間、観月は自分が感じた暴力的な羞恥心と、そこから湧き上がる認めたくもなかった劣等感とに、烈火の如く怒った。
好きだなんて。
簡単に。
自分に。
言った赤澤に。
観月は悔しくてどうしようもなくなった。
観月が赤澤にぶつけたものがただの怒りだったら、赤澤はそれを単なる拒否として受けいれたのかもしれない。
しかし滅多に見せないのに、観月の困惑や衝動には誰より敏感な赤澤は。
好きだという赤澤の言葉をきっかけに激高し出した観月に、まるで宥めて労るような手を伸ばしてきた。
「観月?」
「……ッ…、」
唇を噛み締めて、観月はその手を叩き落す。
「全部、知ってて、やってるくせに……っ…」
「何がだ。観月」
激情型のようでいて、その実冷静なのは赤澤だ。
観月とは正反対で、観月は冷静に見せているだけで激情には逆らえない。
「俺のことなんか……判ってて、余裕で、だから自分の好きな事が出来て」
振り絞る声の聞き苦しさに観月は眉根を寄せながら、赤澤から顔を背けた。
悔しくて、悔しくて堪らなかったのだ。
「どうしてそんなあなたと僕が、こんな……っ…」
観月が感情に任せて叫んで押し退けた男は、派手な顔の造りには繊細すぎるような困惑の表情を浮かべた。
「……観月。悪い。よく判んねえよ」
「嘘ばっかり……!」
声を尖らせた観月の手首が、赤澤に握りこまれる。
過剰反応のように、びくりと震えた自分が忌々しいと、観月は今度は意地で赤澤を睨み据えた。
赤澤は、怖いくらい真剣に見えた。
「嘘はない」
「………………」
「一つも。絶対だ」
「………っ………な、…も……っ…」
振り解こうとしても、びくともしない赤澤に、観月は苛ついた。
挙句とうとう抱き締められた。
「……、…ッ…ャ、」
「観月」
身体に直接染みこんでくる様な囁きに束縛されて、観月は震えた。
「お前には全部見せてる。全部話してる。お前には何一つ敵わないって、俺は知ってるから。今更取り繕う嘘もない」
「それなら……っ…!」
それならば。
何故自分の事を好きだなんて言うのかと。
観月は叫び出したくなった。
観月が、どれだけ。
どれだけ、赤澤を好きか。
好きなのか。
知っているから告げるのではないのか。
好きな相手に好きだと告げる、そんな恐ろしいこと観月には絶対に出来ない。
自分の髪をこんな風に撫でて、抱き締めている男が。
この男が。
観月を厭い、去っていったら。
もうどうしたらいいのか判らない。
「観月」
いい加減で、適当で。
そんな風に観月が最初に思っていた男は、懐深い大人びた面も持っていて。
軽薄で、感情的で、そう決め込んでいたのを裏切って。
明るく優しい、そんな男だった。
「…赤…澤……」
「……ああ」
抱き締めてくるのなら、もう、その腕でこのまま抱きつぶしてしまって欲しい。
何もかもこの腕で、ぐしゃぐしゃに壊して抱え込んでくれたらいい。
「………僕を」
「…お前を……?…」
「どうしようもなく好きで、……好きで、堪らなくなった時以外、好きだなんて言うな」
「観月?」
「抱きたくて頭がおかしくなりそうになった時以外、抱いたりするな」
「好きだ」
「人の話を…っ…、……」
何度目になるのか、観月が叫びかけたところをさらうようにきつく抱き竦められて言葉を封じられた。
背筋が反り返って、喉元に噛み付かれるような口付けを受けた。
聞いてる、と荒いだ呻き声が赤澤の唇から零れて。
ぞくりと観月は身体を震わせた。
胸元に抱きこまれたまま手首を痛いくらい掴まれて、持っていかれた先で、掠る程度に一瞬。
触れた苦しげな熱の生々しさに観月は息を詰めた。
「……っ………」
「悪ぃ……」
ごめんな、とそれでも耐えかねたように首筋を噛まれて、その感触にも震えながら観月は赤澤の胸元にぶつけるように顔を伏せた。
「………観月…?」
「なんでもいい……っ……」
「………………」
「も……なんでもいいから……」
指先が痺れたようになっている。
指の先まで、ねっとりと欲情を詰め込まれてしまったようで、観月に出来る事は観月自身には耐え難い、泣きつくような掠れ声で促す事だけだった。
赤澤はその声に煽られでもしたかのように抱き締めてくる力が強くなって。
観月は赤澤の腕の中で溺れたように肩を喘がせた。
好きにすればいいと自分を投げ出してみれば、強靭な腕はひどく大切そうに観月を受け止めて。
身体に回された腕の力は強いのに、どこかぎこちなく耐えいるような気配が堪らなかった。
「観月……」
「………………」
身体をまさぐられて泣き出しそうになるのが、興奮のせいだと判るから。
観月は赤澤から逃げなかった。
固い、大きな手のひらのする事を受け入れたまま、震える腕を赤澤へと伸ばし返せば、倍以上の力で赤澤から抱き竦められる。
「……、…っ…」
「観月」
自分を欲しがる男。
赤澤を抱き返しながら、観月はもう、赤澤には何をされてもいいと思った。
何をされてもいいと思うけれど、観月が知りたい事もたくさんある。
「……赤澤。あなた、好きなんですか」
熱に浮かされたように観月が細い声で言えば、壊されそうに抱き締められて、かき抱かれて、観月が言った数倍もの熱量をはらんだ声に口説かれた。
繰り返される程にその言葉は、威力を増して観月の胸を焼く。
「好きだ」
「…………、……」
「観月」
幾ら浴びせかけられても、威力を失わず、安くもならず、何度も言われたら真実味がなくなるなんて疑いようもない声で。
「……好きだ」
「………………」
観月の事を何も知らないで、見た目だけで声をかけてくる相手は大勢いるけれど。
観月の事を全部知った上で、そんな風に言ってくる相手なんて世界中探したってこの男だけだ。
「………バカ」
本当に。
本当に、本当に、どれだけ馬鹿なんだと観月が心底思う赤澤の方からも同じ言葉が囁かれる。
「馬鹿はお前だ……」
「……失礼な。あなたに言われたくないです……」
「操れよ。うまく」
お前が好きすぎて何するか判らねえ、とひどく実直に言った赤澤の普段は見せない凶暴さに。
身体は微かに怯えで戦くけれど、心は甘くなだらかで、観月は淡く笑みを浮かべた。
「言われなくても。僕の最も得意な分野ですから」
「観月」
「…………それで、どうするんですか……それは…」
赤澤の、自分を請うる声と身体とを間近にして、観月がそれを口にしたのは。
多分赤澤が、今はそれを抑えようとしているのを感じ取ったからだった。
どこか悔しく思う気持ちと、どこか安堵している気持ちと。
自分の中の両極端な感情を認めた上で、敢えて口にして問いかけた観月は。
赤澤の乱暴な腕に痛いくらい抱き締められながら。
そういえば過去に珍しく赤澤から、敵情視察はいいが過度の挑発だけは慎めよと言われた事があるのを思い出した。
「………好きだっつった日にいきなり抱くとか…お前の好みじゃねえだろ」
「よくおわかりで」
「……………くそ。じゃ、気づかない振りくらいしろよ」
「無茶な。白々しいです。そんななんですから気づかないわけない」
熱っぽい抱擁の中。
不釣合いな程の軽口を叩きながら。
言葉にはしないけれど。
本当はふんわりとした安堵感を胸に住まわせて、観月は赤澤に心のうちだけで甘える事にした。
でも礼儀だけは通しておこうと、観月は赤澤に抱き締められながら、返事だけは言っておく事にする。
「折を見て、時期を選んでなら、何をされてもいいですよ……」
「……観月…、…?」
「そのくらいには、あなたを好きですから」
告げた途端我が身を襲った骨まで軋ませる物凄い力での抱擁も。
言葉も無くしたような赤澤の気配も。
それを幸せと繋げられるくらいに好きな男の背に観月は腕を伸ばした。
校内で話しかけられてきた時に自分に触れる赤澤の髪の先だとか、コートで並び合う時に微かに重なる二の腕だとか。
でも、そういう時に観月が身構え感じた違和感は、極力小さいものだった。
恐らく赤澤が観月を気遣って、時間をかけて、縮めた距離だと思われた。
観月は他人とのそういう近さや気安さに慣れていない。
しかし赤澤のそういう接触は決して苦痛ではなく、だから観月は、そう気づいた時から更に縮まっていく赤澤との距離に、もうされるがままでいる事にした。
咎めたりする事はせず、軽く流す事にした。
赤澤は、派手な見目を裏切る気さくさで、誰に対してもそういう所があったから。
観月には手にあまるような赤澤からのスキンシップの深さも、いちいち目くじらをたてても仕方ない事なのだろうと諦めて。
だから観月は、自分とは違う赤澤という人間のする事に、何も口を挟まなかったというのに。
ある時赤澤が、観月の寮室で、今まで観月が知らなかったやり方で自分を抱き締めてきて。
好きだと言ってきて。
その瞬間、観月は自分が感じた暴力的な羞恥心と、そこから湧き上がる認めたくもなかった劣等感とに、烈火の如く怒った。
好きだなんて。
簡単に。
自分に。
言った赤澤に。
観月は悔しくてどうしようもなくなった。
観月が赤澤にぶつけたものがただの怒りだったら、赤澤はそれを単なる拒否として受けいれたのかもしれない。
しかし滅多に見せないのに、観月の困惑や衝動には誰より敏感な赤澤は。
好きだという赤澤の言葉をきっかけに激高し出した観月に、まるで宥めて労るような手を伸ばしてきた。
「観月?」
「……ッ…、」
唇を噛み締めて、観月はその手を叩き落す。
「全部、知ってて、やってるくせに……っ…」
「何がだ。観月」
激情型のようでいて、その実冷静なのは赤澤だ。
観月とは正反対で、観月は冷静に見せているだけで激情には逆らえない。
「俺のことなんか……判ってて、余裕で、だから自分の好きな事が出来て」
振り絞る声の聞き苦しさに観月は眉根を寄せながら、赤澤から顔を背けた。
悔しくて、悔しくて堪らなかったのだ。
「どうしてそんなあなたと僕が、こんな……っ…」
観月が感情に任せて叫んで押し退けた男は、派手な顔の造りには繊細すぎるような困惑の表情を浮かべた。
「……観月。悪い。よく判んねえよ」
「嘘ばっかり……!」
声を尖らせた観月の手首が、赤澤に握りこまれる。
過剰反応のように、びくりと震えた自分が忌々しいと、観月は今度は意地で赤澤を睨み据えた。
赤澤は、怖いくらい真剣に見えた。
「嘘はない」
「………………」
「一つも。絶対だ」
「………っ………な、…も……っ…」
振り解こうとしても、びくともしない赤澤に、観月は苛ついた。
挙句とうとう抱き締められた。
「……、…ッ…ャ、」
「観月」
身体に直接染みこんでくる様な囁きに束縛されて、観月は震えた。
「お前には全部見せてる。全部話してる。お前には何一つ敵わないって、俺は知ってるから。今更取り繕う嘘もない」
「それなら……っ…!」
それならば。
何故自分の事を好きだなんて言うのかと。
観月は叫び出したくなった。
観月が、どれだけ。
どれだけ、赤澤を好きか。
好きなのか。
知っているから告げるのではないのか。
好きな相手に好きだと告げる、そんな恐ろしいこと観月には絶対に出来ない。
自分の髪をこんな風に撫でて、抱き締めている男が。
この男が。
観月を厭い、去っていったら。
もうどうしたらいいのか判らない。
「観月」
いい加減で、適当で。
そんな風に観月が最初に思っていた男は、懐深い大人びた面も持っていて。
軽薄で、感情的で、そう決め込んでいたのを裏切って。
明るく優しい、そんな男だった。
「…赤…澤……」
「……ああ」
抱き締めてくるのなら、もう、その腕でこのまま抱きつぶしてしまって欲しい。
何もかもこの腕で、ぐしゃぐしゃに壊して抱え込んでくれたらいい。
「………僕を」
「…お前を……?…」
「どうしようもなく好きで、……好きで、堪らなくなった時以外、好きだなんて言うな」
「観月?」
「抱きたくて頭がおかしくなりそうになった時以外、抱いたりするな」
「好きだ」
「人の話を…っ…、……」
何度目になるのか、観月が叫びかけたところをさらうようにきつく抱き竦められて言葉を封じられた。
背筋が反り返って、喉元に噛み付かれるような口付けを受けた。
聞いてる、と荒いだ呻き声が赤澤の唇から零れて。
ぞくりと観月は身体を震わせた。
胸元に抱きこまれたまま手首を痛いくらい掴まれて、持っていかれた先で、掠る程度に一瞬。
触れた苦しげな熱の生々しさに観月は息を詰めた。
「……っ………」
「悪ぃ……」
ごめんな、とそれでも耐えかねたように首筋を噛まれて、その感触にも震えながら観月は赤澤の胸元にぶつけるように顔を伏せた。
「………観月…?」
「なんでもいい……っ……」
「………………」
「も……なんでもいいから……」
指先が痺れたようになっている。
指の先まで、ねっとりと欲情を詰め込まれてしまったようで、観月に出来る事は観月自身には耐え難い、泣きつくような掠れ声で促す事だけだった。
赤澤はその声に煽られでもしたかのように抱き締めてくる力が強くなって。
観月は赤澤の腕の中で溺れたように肩を喘がせた。
好きにすればいいと自分を投げ出してみれば、強靭な腕はひどく大切そうに観月を受け止めて。
身体に回された腕の力は強いのに、どこかぎこちなく耐えいるような気配が堪らなかった。
「観月……」
「………………」
身体をまさぐられて泣き出しそうになるのが、興奮のせいだと判るから。
観月は赤澤から逃げなかった。
固い、大きな手のひらのする事を受け入れたまま、震える腕を赤澤へと伸ばし返せば、倍以上の力で赤澤から抱き竦められる。
「……、…っ…」
「観月」
自分を欲しがる男。
赤澤を抱き返しながら、観月はもう、赤澤には何をされてもいいと思った。
何をされてもいいと思うけれど、観月が知りたい事もたくさんある。
「……赤澤。あなた、好きなんですか」
熱に浮かされたように観月が細い声で言えば、壊されそうに抱き締められて、かき抱かれて、観月が言った数倍もの熱量をはらんだ声に口説かれた。
繰り返される程にその言葉は、威力を増して観月の胸を焼く。
「好きだ」
「…………、……」
「観月」
幾ら浴びせかけられても、威力を失わず、安くもならず、何度も言われたら真実味がなくなるなんて疑いようもない声で。
「……好きだ」
「………………」
観月の事を何も知らないで、見た目だけで声をかけてくる相手は大勢いるけれど。
観月の事を全部知った上で、そんな風に言ってくる相手なんて世界中探したってこの男だけだ。
「………バカ」
本当に。
本当に、本当に、どれだけ馬鹿なんだと観月が心底思う赤澤の方からも同じ言葉が囁かれる。
「馬鹿はお前だ……」
「……失礼な。あなたに言われたくないです……」
「操れよ。うまく」
お前が好きすぎて何するか判らねえ、とひどく実直に言った赤澤の普段は見せない凶暴さに。
身体は微かに怯えで戦くけれど、心は甘くなだらかで、観月は淡く笑みを浮かべた。
「言われなくても。僕の最も得意な分野ですから」
「観月」
「…………それで、どうするんですか……それは…」
赤澤の、自分を請うる声と身体とを間近にして、観月がそれを口にしたのは。
多分赤澤が、今はそれを抑えようとしているのを感じ取ったからだった。
どこか悔しく思う気持ちと、どこか安堵している気持ちと。
自分の中の両極端な感情を認めた上で、敢えて口にして問いかけた観月は。
赤澤の乱暴な腕に痛いくらい抱き締められながら。
そういえば過去に珍しく赤澤から、敵情視察はいいが過度の挑発だけは慎めよと言われた事があるのを思い出した。
「………好きだっつった日にいきなり抱くとか…お前の好みじゃねえだろ」
「よくおわかりで」
「……………くそ。じゃ、気づかない振りくらいしろよ」
「無茶な。白々しいです。そんななんですから気づかないわけない」
熱っぽい抱擁の中。
不釣合いな程の軽口を叩きながら。
言葉にはしないけれど。
本当はふんわりとした安堵感を胸に住まわせて、観月は赤澤に心のうちだけで甘える事にした。
でも礼儀だけは通しておこうと、観月は赤澤に抱き締められながら、返事だけは言っておく事にする。
「折を見て、時期を選んでなら、何をされてもいいですよ……」
「……観月…、…?」
「そのくらいには、あなたを好きですから」
告げた途端我が身を襲った骨まで軋ませる物凄い力での抱擁も。
言葉も無くしたような赤澤の気配も。
それを幸せと繋げられるくらいに好きな男の背に観月は腕を伸ばした。
乾汁がバージョンアップするらしいという噂が流れて、青学テニス部は、どよめいていた。
乾が漢方薬の販売店で店主と話しこんでいたとか、スーパーの野菜売り場の前で品質表示を確かめていたとか、様々なサイトを巡ってレシピを集めプリントアウトしたファイルをいつも持っているとか、どうも不穏な動きが増えている。
乾汁には過敏な面々である。
それとなくカマをかけてみても、乾はのらりくらりとはぐらかすばかりなので、業を煮やした彼らによって矢面に立たされたのが海堂だった。
海堂になら話すかもしれないから探って来いと、三年からも二年からも一年からも日々せっつかれた海堂は、自分にだって話すとは到底思えないながらも、ある日決意して乾に概要を尋ねる事になった。
その時たまたま、昼休みに実験室で一人、何かの作業に没頭しているらしい乾を見かけてしまったのもいい後押しだった。
海堂自身、それを見て恐怖が募ってしまったせいもある。
「やあ、海堂」
「……っす」
遠慮がちに実験室の前扉を引いた海堂に、然して驚きもせず、乾はそう声をかけてきた。
「乾汁じゃないから入っておいで」
「………………」
笑っている。
海堂が無言で近づいていくと、乾はあれこれ混ぜ合わせながら、無色透明ながらも発泡する液体を作っていた。
「………何してるんですか」
「ん? 今日結構暑いだろ?」
「はあ……」
「四時間目の授業で、中原中也やってさ……無性にソーダ水がね」
作りたくなってと乾が言うので、普通飲みたくなってじゃないのかと海堂は怪訝に乾を見つめた。
「何の詩か判る? 初夏の詩」
「………アメリカの国旗とソーダ水とが…」
「恋し始める頃。……アタリだ」
さすがだね、と乾に言われて海堂は何となく落ち着かない。
二人きりの時の乾のやわらかさが、それこそ日に日に高まっていく気温のように熱を増して甘くなるようで落ち着かない。
「ドライアイスのかけらを水に溶かして砂糖を入れてもサイダーっぽくなるし、こうやって酸性の液体に炭酸ナトリウムを入れても炭酸水が出来るんだが」
色がついていた方が中也っぽいよな、と乾は呟いて手持ちの炭酸水を窓の外に翳して見ている。
そんな乾の横顔を何をするでもなくぼんやり見ていた海堂に、乾の視線が戻ってくる。
「海堂はさ、クリームソーダとかあんまり飲まなかった?」
基本的にジャンクフードは殆ど食べない海堂を熟知している乾は、あの緑色はいかにも着色料って感じだもんな、と言って笑った。
「………レモン味のアイスクリームソーダは飲みましたよ」
「アイスクリームソーダって、レモン味もあるのか?」
小さい頃、時々両親に連れて行かれた銀座の店の名前を告げて海堂が頷けば、乾は興味深そうな顔をした。
「味もレモン?」
「……そりゃ勿論…」
「他にも種類あるのか?」
「オレンジがあった気が……」
「へえ」
そういえば最近行ってないなと海堂は思った。
どこかレトロな老舗のパーラーは、父親とのデートでよく訪れたのだとそこに行く度に母親が口にした。
「連れてってよ。海堂」
「………は?」
そんな風に子供の頃の事を考えていた海堂は、乾の突然の言葉に驚いてしまった。
「……乾先輩?」
「海堂のご両親のデートスポットだったんだろ? 歴史は受け継ごう」
「な、…っ……なに言って……」
「頼むよ」
「………、………っ…」
乾が、笑ってはいるけれど、とても真面目にそう言うから。
どっと恥ずかしくなって、海堂は激しく狼狽えたのだった。
結局週末、海堂は乾と一緒にレモン味のアイスクリームソーダを飲んだ。
事前に、そこの店に海堂が乾と行くと知った母親は、何故だか大層喜んで。
事後に、乾汁のバージョンアップは当面未定だという情報を海堂から聞かされたテニス部の面々も大層喜んで。
そんな人々の狭間で、乾と海堂には。
レモン味のアイスクリームソーダの、明るく軽く爽やかな印象の、初夏の思い出が発泡水のように生まれたのだった。
乾が漢方薬の販売店で店主と話しこんでいたとか、スーパーの野菜売り場の前で品質表示を確かめていたとか、様々なサイトを巡ってレシピを集めプリントアウトしたファイルをいつも持っているとか、どうも不穏な動きが増えている。
乾汁には過敏な面々である。
それとなくカマをかけてみても、乾はのらりくらりとはぐらかすばかりなので、業を煮やした彼らによって矢面に立たされたのが海堂だった。
海堂になら話すかもしれないから探って来いと、三年からも二年からも一年からも日々せっつかれた海堂は、自分にだって話すとは到底思えないながらも、ある日決意して乾に概要を尋ねる事になった。
その時たまたま、昼休みに実験室で一人、何かの作業に没頭しているらしい乾を見かけてしまったのもいい後押しだった。
海堂自身、それを見て恐怖が募ってしまったせいもある。
「やあ、海堂」
「……っす」
遠慮がちに実験室の前扉を引いた海堂に、然して驚きもせず、乾はそう声をかけてきた。
「乾汁じゃないから入っておいで」
「………………」
笑っている。
海堂が無言で近づいていくと、乾はあれこれ混ぜ合わせながら、無色透明ながらも発泡する液体を作っていた。
「………何してるんですか」
「ん? 今日結構暑いだろ?」
「はあ……」
「四時間目の授業で、中原中也やってさ……無性にソーダ水がね」
作りたくなってと乾が言うので、普通飲みたくなってじゃないのかと海堂は怪訝に乾を見つめた。
「何の詩か判る? 初夏の詩」
「………アメリカの国旗とソーダ水とが…」
「恋し始める頃。……アタリだ」
さすがだね、と乾に言われて海堂は何となく落ち着かない。
二人きりの時の乾のやわらかさが、それこそ日に日に高まっていく気温のように熱を増して甘くなるようで落ち着かない。
「ドライアイスのかけらを水に溶かして砂糖を入れてもサイダーっぽくなるし、こうやって酸性の液体に炭酸ナトリウムを入れても炭酸水が出来るんだが」
色がついていた方が中也っぽいよな、と乾は呟いて手持ちの炭酸水を窓の外に翳して見ている。
そんな乾の横顔を何をするでもなくぼんやり見ていた海堂に、乾の視線が戻ってくる。
「海堂はさ、クリームソーダとかあんまり飲まなかった?」
基本的にジャンクフードは殆ど食べない海堂を熟知している乾は、あの緑色はいかにも着色料って感じだもんな、と言って笑った。
「………レモン味のアイスクリームソーダは飲みましたよ」
「アイスクリームソーダって、レモン味もあるのか?」
小さい頃、時々両親に連れて行かれた銀座の店の名前を告げて海堂が頷けば、乾は興味深そうな顔をした。
「味もレモン?」
「……そりゃ勿論…」
「他にも種類あるのか?」
「オレンジがあった気が……」
「へえ」
そういえば最近行ってないなと海堂は思った。
どこかレトロな老舗のパーラーは、父親とのデートでよく訪れたのだとそこに行く度に母親が口にした。
「連れてってよ。海堂」
「………は?」
そんな風に子供の頃の事を考えていた海堂は、乾の突然の言葉に驚いてしまった。
「……乾先輩?」
「海堂のご両親のデートスポットだったんだろ? 歴史は受け継ごう」
「な、…っ……なに言って……」
「頼むよ」
「………、………っ…」
乾が、笑ってはいるけれど、とても真面目にそう言うから。
どっと恥ずかしくなって、海堂は激しく狼狽えたのだった。
結局週末、海堂は乾と一緒にレモン味のアイスクリームソーダを飲んだ。
事前に、そこの店に海堂が乾と行くと知った母親は、何故だか大層喜んで。
事後に、乾汁のバージョンアップは当面未定だという情報を海堂から聞かされたテニス部の面々も大層喜んで。
そんな人々の狭間で、乾と海堂には。
レモン味のアイスクリームソーダの、明るく軽く爽やかな印象の、初夏の思い出が発泡水のように生まれたのだった。
四階建ての鉄筋コンクリートの部室棟の屋上から、跡部が飛び降りようとしている。
そういうことなので、下界は凄い騒ぎになった。
騒いでいるのは氷帝テニス部のレギュラー陣だ。
部室棟の向かいにある体育館から、筋トレメニューをこなして出てきた彼等が見たものは、誰かと何事か揉めているらしい跡部の姿だ。
校舎の物ほど頑丈ではない部室棟の屋上フェンスの外側に、跡部は出てしまっている。
普通に腰を下ろして座れるくらいのスペースはあるものの、どうやら激しく激高しているらしい跡部は。
屋上の方へと顔を向けて怒鳴っているので、真下から見上げる様子は決して心臓に良いものではなかった。
「……何してんねや…跡部…」
一見冷静でいるようで、しかし真っ先に声を上げたのは忍足だった。
そんな忍足の隣で向日が突然走り出し、そして適当な所で止まり、笑って叫ぶ。
「着地はー! ここらじゃねえ?」
飛んでみそー!と嬉々と口にした向日に忍足が駆け寄った。
「そんなんお前にしか出来へんわ!」
「そうだな! 跡部には無理だよなー!」
「嬉しそうに笑っとる場合やないて。もう」
氷帝のD2がそんな小競り合いをしている間も、跡部は空中に背を向けて、相変わらず誰かに何かを怒鳴っている。
恐らく下界の喧騒など気にもかけていないと思われた。
「跡部ー? 跡部ー? 跡部ー?」
珍しく起きているジローが壊れたおもちゃみたいにエンドレスに叫び、日吉が唖然と口を開け、樺地が固まる。
そういう仲間達のリアクションも全てひっくるめた上で、うんざりした溜息を吐き出す宍戸に駆け寄ったのは鳳だった。
「宍戸さん……! どうしましょう……!」
「ほっとけ」
「はい」
真顔で焦っていた鳳の筈なのに、宍戸のたった一言で至極あっさり頷き落ち着く。
その様子に向日が爆笑し、忍足が呆れ返った。
「どんだけ宍戸のわんこだお前ー! すっげー笑える!」
「はい?」
何かおかしかったですか?と鳳は宍戸に聞いた。
「宍戸さんが放っておけって言うなら、大丈夫って事ですもんね…?」
「………………」
宍戸は困ったような怒ったような目で鳳を見返して、片手を上げた。
「…ついてこい。長太郎」
「はい!」
歯切れ良い同意を口にした鳳を従えて、宍戸が歩き出す。
「どこ行くん。宍戸」
「部室棟の屋上」
「俺らも行こか?」
「お前らは跡部が落ちてきたら受け止める役。そこに待機」
宍戸が跡部を突き落としに!と声に出した忍足と、声には出さなかった日吉とが、同じ思いで頬を引きつらせれば。
向日は小さな身体で樺地を引っ張り、受け止めの段取りを決めている。
ジローは叫びつかれて眠ってしまっていた。
宍戸は深々と溜息をつきながら、大股で歩き、部室棟の階段を上っていく。
そうして屋上へと辿りついて見れば、宍戸の予想通りの光景が広がり、彼の溜息は一層深く重くなる。
「跡部…! 危ないだろっ、戻れってばっ!」
屋上で叫んでいる他校生に、鳳が、あれ?と声を上げた。
「不動峰の神尾君ですね……宍戸さん」
「それ以外に跡部にあんなことやらせる奴がいるかよ」
屋上まで来たものの、進んでそれ以上踏み込む気はないらしく、宍戸は非常口の重い鉄扉に寄りかかった。
鳳もそれに並ぶ。
「うるせーって言ってんだろ! この馬鹿!」
「何そんな怒ってんだよ……っ!」
「だから馬鹿だって言ってんだ! そんな事も判らないで叫んでんじゃねーよ!」
「叫んでんのは跡部だろっ………って、うわ、危ねえってば…っ! 跡部っ!」
地上の比ではない喧しさに不機嫌を極めていく宍戸を、鳳がそっと見下ろした。
「………喧嘩……ですかね」
「してない時があるか? あいつら」
「はあ……まあ……」
鳳の唇が苦笑いを浮かべる。
鳳と宍戸の姿など目にも入っていない様子の彼らは、確かに四六時中よく喧嘩をしている。
でも。
「てめえ、自分が言った事なんざ、すっかり忘れてやがんだろうが」
「………っ…、跡部が、そんな怒るようなこと…言ったか?!」
「そんなに俺が気にくわねえなら、ここから突き落とせばいいだろうとか、言いやがっただろうがっ!」
凄まじい跡部の怒声は、離れた所にいる鳳と宍戸でも眉を寄せる程の恫喝だった。
神尾が僅かに怯んだ様子も見て取れる。
「な、……だっ…、…」
「ふざけたこと言いやがって……久々に本気で腹が立ったぜ……!」
「そ……それくらいで何で……」
「アア? それくらい?」
「うわあっ、あぶないっ、あぶないってば跡部っ」
見るに耐えない馬鹿がいる、と呻くように零した宍戸に眼差しを向けて、鳳が苦笑のまま問いかける。
「……二人に言ってるんですか?」
「跡部にだよ」
「俺は、よく判りますよ。部長があそこまで怒るの」
「あ?」
宍戸が見上げてくるのを受け止めるように見つめて。
鳳は微笑んだ。
「どれだけ喧嘩してる時だって、屋上で取っ組み合いになったとしたって、一番好きで、一番大事な相手に、突き飛ばせばいいだなんて言われたら傷つきます」
「………つまり、あれは今、傷ついてるって?」
細い顎で宍戸がうんざりと指し示したのは、今度は確認をとるまでもなく、確かに跡部だ。
「傷ついて、それで、そういうこと言う相手を本気で叱りたい気持ち、判ります」
「それなら、お前みたいにそうやって口で言えばいいじゃねえか。跡部も」
それが何であいつが飛び降りの真似事なんざしてる?と宍戸は不機嫌そうに吐き捨てる。「判れ……って事じゃないですか?」
「神尾もってことか?」
「はい」
宍戸は鳳の穏やかな応えに溜息をつき、壁に寄りかかって立ったまま、腕組みした。
「そういう事なら出る幕ねえな」
「……………」
鳳が無言で上半身を屈めて来た。
影が落ちた視界に、宍戸がちらりと目線を上げれば、もう間近に薄く目を伏せた鳳の顔があった。
「………なんだよ」
唇が触れる寸前に宍戸が囁けば、鳳は動きを止めて宍戸よりも小さな声で言う。
「……あてられて」
「あいつらにか…?」
「はい」
「………お前も相当の変わり者だな……」
「宍戸さんの事が好きすぎるだけですよ」
「別にそれは悪いことじゃないからいい」
そして軽く唇を合わせた二人に、当然全く気づいていない跡部と神尾は。
結局。
フェンスの向こう側にいる跡部が、納得して機嫌を直すまで、神尾がごめんなさいと叫び続けるという、何とも奇妙な光景を繰り広げ続けているのであった。
そういうことなので、下界は凄い騒ぎになった。
騒いでいるのは氷帝テニス部のレギュラー陣だ。
部室棟の向かいにある体育館から、筋トレメニューをこなして出てきた彼等が見たものは、誰かと何事か揉めているらしい跡部の姿だ。
校舎の物ほど頑丈ではない部室棟の屋上フェンスの外側に、跡部は出てしまっている。
普通に腰を下ろして座れるくらいのスペースはあるものの、どうやら激しく激高しているらしい跡部は。
屋上の方へと顔を向けて怒鳴っているので、真下から見上げる様子は決して心臓に良いものではなかった。
「……何してんねや…跡部…」
一見冷静でいるようで、しかし真っ先に声を上げたのは忍足だった。
そんな忍足の隣で向日が突然走り出し、そして適当な所で止まり、笑って叫ぶ。
「着地はー! ここらじゃねえ?」
飛んでみそー!と嬉々と口にした向日に忍足が駆け寄った。
「そんなんお前にしか出来へんわ!」
「そうだな! 跡部には無理だよなー!」
「嬉しそうに笑っとる場合やないて。もう」
氷帝のD2がそんな小競り合いをしている間も、跡部は空中に背を向けて、相変わらず誰かに何かを怒鳴っている。
恐らく下界の喧騒など気にもかけていないと思われた。
「跡部ー? 跡部ー? 跡部ー?」
珍しく起きているジローが壊れたおもちゃみたいにエンドレスに叫び、日吉が唖然と口を開け、樺地が固まる。
そういう仲間達のリアクションも全てひっくるめた上で、うんざりした溜息を吐き出す宍戸に駆け寄ったのは鳳だった。
「宍戸さん……! どうしましょう……!」
「ほっとけ」
「はい」
真顔で焦っていた鳳の筈なのに、宍戸のたった一言で至極あっさり頷き落ち着く。
その様子に向日が爆笑し、忍足が呆れ返った。
「どんだけ宍戸のわんこだお前ー! すっげー笑える!」
「はい?」
何かおかしかったですか?と鳳は宍戸に聞いた。
「宍戸さんが放っておけって言うなら、大丈夫って事ですもんね…?」
「………………」
宍戸は困ったような怒ったような目で鳳を見返して、片手を上げた。
「…ついてこい。長太郎」
「はい!」
歯切れ良い同意を口にした鳳を従えて、宍戸が歩き出す。
「どこ行くん。宍戸」
「部室棟の屋上」
「俺らも行こか?」
「お前らは跡部が落ちてきたら受け止める役。そこに待機」
宍戸が跡部を突き落としに!と声に出した忍足と、声には出さなかった日吉とが、同じ思いで頬を引きつらせれば。
向日は小さな身体で樺地を引っ張り、受け止めの段取りを決めている。
ジローは叫びつかれて眠ってしまっていた。
宍戸は深々と溜息をつきながら、大股で歩き、部室棟の階段を上っていく。
そうして屋上へと辿りついて見れば、宍戸の予想通りの光景が広がり、彼の溜息は一層深く重くなる。
「跡部…! 危ないだろっ、戻れってばっ!」
屋上で叫んでいる他校生に、鳳が、あれ?と声を上げた。
「不動峰の神尾君ですね……宍戸さん」
「それ以外に跡部にあんなことやらせる奴がいるかよ」
屋上まで来たものの、進んでそれ以上踏み込む気はないらしく、宍戸は非常口の重い鉄扉に寄りかかった。
鳳もそれに並ぶ。
「うるせーって言ってんだろ! この馬鹿!」
「何そんな怒ってんだよ……っ!」
「だから馬鹿だって言ってんだ! そんな事も判らないで叫んでんじゃねーよ!」
「叫んでんのは跡部だろっ………って、うわ、危ねえってば…っ! 跡部っ!」
地上の比ではない喧しさに不機嫌を極めていく宍戸を、鳳がそっと見下ろした。
「………喧嘩……ですかね」
「してない時があるか? あいつら」
「はあ……まあ……」
鳳の唇が苦笑いを浮かべる。
鳳と宍戸の姿など目にも入っていない様子の彼らは、確かに四六時中よく喧嘩をしている。
でも。
「てめえ、自分が言った事なんざ、すっかり忘れてやがんだろうが」
「………っ…、跡部が、そんな怒るようなこと…言ったか?!」
「そんなに俺が気にくわねえなら、ここから突き落とせばいいだろうとか、言いやがっただろうがっ!」
凄まじい跡部の怒声は、離れた所にいる鳳と宍戸でも眉を寄せる程の恫喝だった。
神尾が僅かに怯んだ様子も見て取れる。
「な、……だっ…、…」
「ふざけたこと言いやがって……久々に本気で腹が立ったぜ……!」
「そ……それくらいで何で……」
「アア? それくらい?」
「うわあっ、あぶないっ、あぶないってば跡部っ」
見るに耐えない馬鹿がいる、と呻くように零した宍戸に眼差しを向けて、鳳が苦笑のまま問いかける。
「……二人に言ってるんですか?」
「跡部にだよ」
「俺は、よく判りますよ。部長があそこまで怒るの」
「あ?」
宍戸が見上げてくるのを受け止めるように見つめて。
鳳は微笑んだ。
「どれだけ喧嘩してる時だって、屋上で取っ組み合いになったとしたって、一番好きで、一番大事な相手に、突き飛ばせばいいだなんて言われたら傷つきます」
「………つまり、あれは今、傷ついてるって?」
細い顎で宍戸がうんざりと指し示したのは、今度は確認をとるまでもなく、確かに跡部だ。
「傷ついて、それで、そういうこと言う相手を本気で叱りたい気持ち、判ります」
「それなら、お前みたいにそうやって口で言えばいいじゃねえか。跡部も」
それが何であいつが飛び降りの真似事なんざしてる?と宍戸は不機嫌そうに吐き捨てる。「判れ……って事じゃないですか?」
「神尾もってことか?」
「はい」
宍戸は鳳の穏やかな応えに溜息をつき、壁に寄りかかって立ったまま、腕組みした。
「そういう事なら出る幕ねえな」
「……………」
鳳が無言で上半身を屈めて来た。
影が落ちた視界に、宍戸がちらりと目線を上げれば、もう間近に薄く目を伏せた鳳の顔があった。
「………なんだよ」
唇が触れる寸前に宍戸が囁けば、鳳は動きを止めて宍戸よりも小さな声で言う。
「……あてられて」
「あいつらにか…?」
「はい」
「………お前も相当の変わり者だな……」
「宍戸さんの事が好きすぎるだけですよ」
「別にそれは悪いことじゃないからいい」
そして軽く唇を合わせた二人に、当然全く気づいていない跡部と神尾は。
結局。
フェンスの向こう側にいる跡部が、納得して機嫌を直すまで、神尾がごめんなさいと叫び続けるという、何とも奇妙な光景を繰り広げ続けているのであった。
カテゴリー
アーカイブ
ブログ内検索
カウンター
アクセス解析