How did you feel at your first kiss?
三人で結託した時の彼らは最強だ。
越前、菊丸、不二、彼ら三人の力が最大に発揮される時、恰好の対象となってしまうのが海堂だった。
「海堂先輩って、休み明けだと雰囲気変わるよね」
「………あ?」
「うんうん。休み明けは、一際美人さんだにゃー」
「…………は?」
「そのあたりの秘訣なんかを是非教えて欲しいな」
「…………………」
朝から、件の三人に取り囲まれ捕まってしまった海堂は、怪訝な顔をしたり唖然となったり困惑を深めたりと忙しい。
海堂のそんな表情は、さして付き合いがなければ恐らくは全く汲めないものなのだろうが、ここにいる三人には面白い程の変わりようだ。
「おい……お前達」
海堂の隣に並んで一緒に登校してきた乾は、彼らに提言し、溜息をつく。
近頃頓に、この三人による、こういった類のからかいが多いのだ。
乾と海堂が一緒にいたりするともう。
どこからともなく連れ立って現れては、あれこれとかまをかけてきたり、構ってきたりする。
乾を突っついても面白くないと言ったのは確か菊丸で、その言葉通り彼らの目的は、恋人同士となった乾と海堂をからかいたい、それだけらしい。
故に、乾は反応がつまらないとかで、専らその対象は海堂に絞られている。
基本的に不二と菊丸は海堂に目をかけ可愛がっているようだし、越前も口調の割りに実は海堂にはちょっかい出しつつ懐いているようなので。
例えばからかう事で海堂を傷つけるのではないかという心配はしていない乾なのだが、何分乾のようには彼らをあしらえない海堂である。
あまり度が過ぎると、後々大変なのは乾なのだ。
三人には強く返せない海堂も、その分乾には手厳しい。
「お前達な、毎度毎度そう海堂に無闇に構うな」
「うるさいよ! 乾バイバイ!」
「………英二。まずは普通、今はおはようだろう」
「お疲れーっす」
「………越前…お前な」
「それで海堂は、連休も、この過保護男とずっと一緒だったのかな?」
菊丸と越前に邪険にされるくらい何でもないと思えてしまう。
不二が、柔らかな微笑と共に海堂の横にぴったりとついたのを見て、乾はがっくりと肩を落とした。
これでもう海堂には近づけない。
とりあえず俺に海堂を返してくれと乾は思うのだが、不二に引き続いて菊丸と越前にも周囲を固められてしまった海堂には、乾は全く近寄れなくなった。
見当外れのからかいならばまだしも、実際連休中は殆ど一緒にいた乾と海堂である。
普段ではちょっと出来ないような、時間とかやり方とかで、睦んでいたのもまた事実。
それ故に、隠し切れない海堂の狼狽は普段よりも色濃くて。
恰好の餌食にされてしまっている。
「………勘弁してくれよ」
三人にあれこれとからかわれて海堂は。
唇を引き結んでいるものの、きつめの目元がうっすらと赤い。
これは後々自分が責められるなと予測して、乾は最後尾を歩くのだった。
朝練が始まってしまえばさすがに菊丸達も海堂から離れて、漸くというか代わりにというか、今度は乾が、一緒にストレッチをすべく海堂の横に立った。
「……………先輩」
「……うん?」
案の定、海堂は乾を睨み上げてきたけれど。
先ほどの事は手助け無しに傍観者を決めこんでいたわけでもないし、ましてや恰好のからかいネタになるような、例えば見える所にキスマークを残すとか、そういう事をした覚えもないので。
八つ当たりに近いものだろうと踏んで、小さく笑んで海堂を見返した乾に。
海堂はいきなり手を伸ばしてきた。
乾の眼鏡を強引に外す。
「か、……?…」
「………ずるいだろ。あんたばっかり」
乾から奪い取った眼鏡を手に握り込んで海堂は毒づいた。
「眼鏡に表情隠れてて。俺ばっかりからかわれて。あんたの目だって、眼鏡外せば考えてる事まるわかりな………、って…何で赤くなるんですか」
きつい目をして言い募っていた海堂が、呆気にとられたような顔をする。
乾はといえば、海堂の指摘通りの状態で。
口元を手のひらで覆って、呻くような声で言いよどんでしまう。
「やー……だってさ…」
「……………」
「スイッチが入るだろ……」
「………スイッチ?」
「お前がそうやって俺の眼鏡外したら……なんかもうパブロフの犬で」
海堂に触れると、すぐに。
乾は眼鏡を外す事すらも億劫になってしまう。
眼鏡をかけたままでも無論特には支障はないものの、キスの時だけは、その距離だけ。
まだ近づける事を知っているから、海堂が手を伸ばして乾の眼鏡を外す。
まずキスからだから。
まず眼鏡を外す所からだから。
すっかり慣習化した行動に、スイッチを入れられてしまう。
「………、……」
乾の言っている意味が判ったらしく、海堂が言葉を詰まらせ赤くなったが、この時ばかりは海堂の比ではない状態の乾が、呻いて固まって赤くなっている。
向かい合ったまま、そんな状態からなかなか脱出出来ない彼らであったが、手塚の一喝で漸くストレッチを始める。
しかし、ちょっと手が触れては赤くなってみたりするものだから。
その突然のぎこちなさには、あまりに甘ったるく気恥ずかしくて、最強三人組ですらも見て見ぬふりが精一杯なのだった。
越前、菊丸、不二、彼ら三人の力が最大に発揮される時、恰好の対象となってしまうのが海堂だった。
「海堂先輩って、休み明けだと雰囲気変わるよね」
「………あ?」
「うんうん。休み明けは、一際美人さんだにゃー」
「…………は?」
「そのあたりの秘訣なんかを是非教えて欲しいな」
「…………………」
朝から、件の三人に取り囲まれ捕まってしまった海堂は、怪訝な顔をしたり唖然となったり困惑を深めたりと忙しい。
海堂のそんな表情は、さして付き合いがなければ恐らくは全く汲めないものなのだろうが、ここにいる三人には面白い程の変わりようだ。
「おい……お前達」
海堂の隣に並んで一緒に登校してきた乾は、彼らに提言し、溜息をつく。
近頃頓に、この三人による、こういった類のからかいが多いのだ。
乾と海堂が一緒にいたりするともう。
どこからともなく連れ立って現れては、あれこれとかまをかけてきたり、構ってきたりする。
乾を突っついても面白くないと言ったのは確か菊丸で、その言葉通り彼らの目的は、恋人同士となった乾と海堂をからかいたい、それだけらしい。
故に、乾は反応がつまらないとかで、専らその対象は海堂に絞られている。
基本的に不二と菊丸は海堂に目をかけ可愛がっているようだし、越前も口調の割りに実は海堂にはちょっかい出しつつ懐いているようなので。
例えばからかう事で海堂を傷つけるのではないかという心配はしていない乾なのだが、何分乾のようには彼らをあしらえない海堂である。
あまり度が過ぎると、後々大変なのは乾なのだ。
三人には強く返せない海堂も、その分乾には手厳しい。
「お前達な、毎度毎度そう海堂に無闇に構うな」
「うるさいよ! 乾バイバイ!」
「………英二。まずは普通、今はおはようだろう」
「お疲れーっす」
「………越前…お前な」
「それで海堂は、連休も、この過保護男とずっと一緒だったのかな?」
菊丸と越前に邪険にされるくらい何でもないと思えてしまう。
不二が、柔らかな微笑と共に海堂の横にぴったりとついたのを見て、乾はがっくりと肩を落とした。
これでもう海堂には近づけない。
とりあえず俺に海堂を返してくれと乾は思うのだが、不二に引き続いて菊丸と越前にも周囲を固められてしまった海堂には、乾は全く近寄れなくなった。
見当外れのからかいならばまだしも、実際連休中は殆ど一緒にいた乾と海堂である。
普段ではちょっと出来ないような、時間とかやり方とかで、睦んでいたのもまた事実。
それ故に、隠し切れない海堂の狼狽は普段よりも色濃くて。
恰好の餌食にされてしまっている。
「………勘弁してくれよ」
三人にあれこれとからかわれて海堂は。
唇を引き結んでいるものの、きつめの目元がうっすらと赤い。
これは後々自分が責められるなと予測して、乾は最後尾を歩くのだった。
朝練が始まってしまえばさすがに菊丸達も海堂から離れて、漸くというか代わりにというか、今度は乾が、一緒にストレッチをすべく海堂の横に立った。
「……………先輩」
「……うん?」
案の定、海堂は乾を睨み上げてきたけれど。
先ほどの事は手助け無しに傍観者を決めこんでいたわけでもないし、ましてや恰好のからかいネタになるような、例えば見える所にキスマークを残すとか、そういう事をした覚えもないので。
八つ当たりに近いものだろうと踏んで、小さく笑んで海堂を見返した乾に。
海堂はいきなり手を伸ばしてきた。
乾の眼鏡を強引に外す。
「か、……?…」
「………ずるいだろ。あんたばっかり」
乾から奪い取った眼鏡を手に握り込んで海堂は毒づいた。
「眼鏡に表情隠れてて。俺ばっかりからかわれて。あんたの目だって、眼鏡外せば考えてる事まるわかりな………、って…何で赤くなるんですか」
きつい目をして言い募っていた海堂が、呆気にとられたような顔をする。
乾はといえば、海堂の指摘通りの状態で。
口元を手のひらで覆って、呻くような声で言いよどんでしまう。
「やー……だってさ…」
「……………」
「スイッチが入るだろ……」
「………スイッチ?」
「お前がそうやって俺の眼鏡外したら……なんかもうパブロフの犬で」
海堂に触れると、すぐに。
乾は眼鏡を外す事すらも億劫になってしまう。
眼鏡をかけたままでも無論特には支障はないものの、キスの時だけは、その距離だけ。
まだ近づける事を知っているから、海堂が手を伸ばして乾の眼鏡を外す。
まずキスからだから。
まず眼鏡を外す所からだから。
すっかり慣習化した行動に、スイッチを入れられてしまう。
「………、……」
乾の言っている意味が判ったらしく、海堂が言葉を詰まらせ赤くなったが、この時ばかりは海堂の比ではない状態の乾が、呻いて固まって赤くなっている。
向かい合ったまま、そんな状態からなかなか脱出出来ない彼らであったが、手塚の一喝で漸くストレッチを始める。
しかし、ちょっと手が触れては赤くなってみたりするものだから。
その突然のぎこちなさには、あまりに甘ったるく気恥ずかしくて、最強三人組ですらも見て見ぬふりが精一杯なのだった。
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暇なら付き合えと跡部が誘い、暇でもないけど付き合おうかなと乾が応える。
跡部の家が携わっているスポーツジムの前で、偶然そこを通りがかった乾は、今まさに中に入ろうとしていた跡部と目が合い、お互いに薄い笑みを刷いてこのような会話が交わされた訳である。
「さすがだな。この設備は」
一通り施設を見て回った後、手持ちのノートで手早く組まれた乾のプログラムは、後々ジムの専属トレーナーが見て、心底から感心していた。
気前の良い事に乾は跡部専用のメニューとやらも作ってのけたのだ。
「余裕じゃねえの」
「この礼だ」
レッグプレスとハックスクワットが兼用になっているマシンでウエイトを足で押し上げて、乾は軽く笑う。
インクラインベンチでバーベルを持ち上げている跡部の表情にも似た笑みが浮かんだが、双方とも、すぐに無言になった。
暫くは、マシンの音だけがジム内に響く。
沈黙は長かったが、先に口を開いたのは乾だった。
「…………随分自棄っぱちだな。跡部」
「そういうお前は心ここにあらずってとこだな。乾」
「まあ……当たらずとも遠からじ」
「は、……よく言うぜ」
汗を散らしながら、跡部はバーベルを下ろした。
「大方あれだろ。海堂だったか?」
つきあってんだろお前ら、と跡部に続けられて。
乾は微苦笑する。
「俺の態度がどうも露骨らしいな。よくうちの連中にも言われる」
「あっちも似たようなもんだろ」
「インサイト?」
「使うまでもねえ」
似たようならいいんだけどね、と乾は溜息をつく。
ウエイトを足で押し上げていきながら、跡部の方を流し見る。
「跡部が苛ついてるのは不動峰の神尾が原因だろう?」
「知るか。あんな奴」
「まあまあ。誤魔化す気なら、あんな奴よりそんな奴って言った方がいいな?」
「………食えねえな……貴様は本当に」
跡部が心底嫌そうに言ったので、乾は笑ってウエイトから足を外した。
「喧嘩でもしたか?」
「珍しくもねえよ。んな事は」
「跡部にそんな顔させる辺り彼も凄いな」
「ああ? どんな顔だって?」
乾は笑み交じりにさらりと言った。
「傷ついた顔」
「………てめえ」
「インサイト使えない俺でも見える。かなり判りやすいと思うんだが、神尾には見えないんだろうな。……ん? そう睨むなよ、跡部。伝わりにくいとか、伝えきれてないとかは、俺も一緒なんだから」
乾の言った言葉に跡部は剣呑とさせていた目つきを僅かに緩める。
無言の圧力で先を促されているのを感じ取り、乾は。
海堂には言うなよ、と。
跡部と海堂とでは何の接点もない事を知っている上で言い置いてから浮かべた笑みこそ、傷んでいるように跡部には見えた。
「俺は最初っから、どうしようもなくよかったからなあ……最初は辛いばっかりでも、だんだんよくなってきた事の、何が怖かったり嫌だったりするのかどうしても判らなくて。最近ずっと、海堂にあんな顔させてる」
「セックスの話してんのか?」
「聡いな。さすが跡部だ。飲み込みが早くていい」
「バカと付き合ってると鍛えられんだよ」
向こうはだんだんバカがひどくなってくるがな、と跡部は吐き捨てた。
乾が口を噤んだのをいい事に、跡部はそのまま話を続ける。
「同じ相手に何遍もした事なんざ一度もなかった。俺をここまではまらせておいて、嫌がらせでやってるだの、嫌いだからって何度もやったりするなだの、いかれてるとしか思えねえ」
「威張れた内容では全く無いが、要するにお前もセックス絡みか」
「聡いじゃねえの。お前もな」
うんざりとした風情で前髪をかきあげて、跡部は勢いのまま言い募る。
「みんな同じ顔に見える女の集団を纏めてあしらってるのが、どうして優しく笑ってるに見えやがるんだ。あのバカは。泣いてもうおしまいにしてくれって言われるまで、こっちがやっちまう理由も気づこうとしないで、どうでもいいと思ってるからこんな事するんだってほざきやがる。始末に負えねえだろうが」
「……なあ、跡部?」
汗が邪魔で、眼鏡を外してこめかみを腕で拭った乾は、溜息混じりに進言した。
「お前、そういうの、神尾に言ってるか?」
「……ああ?」
「実際その取り巻き連中あしらうのに、笑ってみせてるんだろ? 見ようによっては優しく接してるように見えるんじゃないか? 充分」
平静な乾の物言いに、ぐっと息を詰めた跡部の表情は、物珍しい。
乾は、これはこれで貴重だなあと内心で思いながらも、跡部を見据えて続けた。
「どうして何度だって抱きたいか、それを神尾に言ったり、気づかせてやった事あるか? もしそういうのが無いなら、バカなのは神尾じゃなくて、お前にならないか?」
語尾に被せるようにして舌打ちがした。
跡部が、それは忌々しげな顔をして。
でもそれはどこか八つ当たりめいて見えるので、乾は別段気分を害さなかった。
「おい。乾」
「何だ?」
「お前の言葉は足りてるのか」
「……だから俺も足りてないんだって。………確かに、人にえらそうに言える立場じゃないな」
自嘲めいて言った乾に、そういう事を言ってるんじゃねえと跡部は憮然とした。
「お前の話もしてみろって言ってんだよ」
「………跡部?」
「抱いてて、辛いばっかだったようなのが、最近違うんだろ」
「ああ」
「でも海堂は、それが受け入れられない。お前は奴に何て言ってんだ」
「……大丈夫…おかしくない……当たり前の事だから………そんな所かな…」
「バァカ。だからだろうが」
「………は?」
あまりにもきっぱりと跡部が断言したので、乾は困惑のまま思わず身を乗り出した。
「まずいか? 俺の言った事」
「決まってんだろ」
「悪い。何がまずいのかを教えてくれないか跡部」
そこの所が俺には判らないんだと首の裏側に手をやって嘆息する乾に、跡部は漸く、皮肉めいた普段の笑みを浮かべた。
「海堂は、そんな一般論やら定説やらが聞きたい訳じゃねえんだろうよ」
「……一般論やら定説?」
「お前に抱かれて、よくなれるようになった海堂を、お前がどう思うかは、言った事ねえのか」
「………俺がどう思うか?」
反復して。
乾は、声にならない声で呻いた。
「そういう事か……!」
「そういう事だ。お前が、どう思うのかを言ってやらねえから、向こうはいつまでもおっかねえんだろうが」
「跡部ー……お前……」
どうして俺が気づけなかった事に先に気づくんだと。
どこか悔しげに歯噛みする乾は、まるで的外れな嫉妬心をちらつかせている。
でもそれは結局先程乾の言葉で跡部が覚えた感情から現れていたものとよく似ていた。
どうして自分が判らないでいる事に、他人の方が気づけてしまうのか。
それは一見不可思議なことのようで、その実は。
色恋沙汰に関しては、よくある事なのかもしれなかった。
ひとしきり汗を流した後シャワールームに向かった跡部と乾は、そこでよく見知った男に会った。
「鳳。来てたのか」
「はい。スイミングの方に。……あれ…乾さん………珍しい組み合わせですね。跡部部長」
「まあな」
丁寧に跡部に答え、乾にも目礼をする一学年下の鳳が、このジムにくるのは珍しい事ではないようだった。
跡部は別段驚きもしないし、雰囲気でそれを察した乾も、やあ、と軽く手を上げるにとどめる。
「………おい。鳳。お前…どれだけ泳いでた」
鳳と肩を並べた時に偶然掠めた肌で感じ取った違和感に、跡部がふと眉根を寄せる。 乾も首を傾けた。
「どうした。なんだか思いつめたような顔をしてるな」
「え……」
同じ学校の上級生に睨まれ、対戦経験のある他校の上級生に気遣われ、鳳は困惑気味に笑みを浮かべる。
何でもないですと首を振る様子に納得しない上級生達は、寧ろその様子で察してしまった。
要するにお前もか、という意味でだ。
「言え」
「は?……あの、…何をですか?」
跡部に威圧的に促され、鳳がちょっとあとずさった。
すると背後には、待ち構えていたかのように乾が立っていて、鳳が焦った声を上げる。「うわ、……乾さん…?」
「宍戸の事で悩み事かい?」
「…………、………」
「年がら年中ベタベタしてやがるくせして生意気に何の悩みだ」
「な、……」
見るからに人の良い、そして内面もまたその見目を全く裏切らない鳳は。
年上の男二人に挟まれて、どうする事も出来なくなった。
実際、図星をつかれてもいたので。
観念の溜息と供に、力ない声で心情を吐露する。
「………俺が宍戸さん大事にしたいって思う程。好きになればなる程。宍戸さんは苦しそうになるのが判らなくて」
そんな風に切り出した鳳の言葉に。
跡部と乾は、不審気に首を傾げた。
それはあからさまに違うだろうと言いたくなる内容だった。
どれだけ濃密に付き合っても理性を無くさない所や、恋情への貪欲さが、鳳と宍戸はよく似通っている。
そんな彼らには、鳳に言葉は随分とそぐわない。
「ここの所、ずっと宍戸さんが、俺が何か言ったりやったりする度に、俺を見て苦しそうにしてたり哀しそうにしてたりしてて。………俺は、宍戸さんの事が、本当に好きなんです。だから宍戸さんの嫌がる事とか、邪魔するような事は、絶対言ったりやったりしたくないんです。だから気をつけてた……でも」
「鳳?」
「……欲しくて、いつも。どうにかなりそうになるから、気をつけてた。ちょっとでも宍戸さんが抵抗したら、我慢した。絶対、無理強いとかしないようにって」
鳳は悲痛な笑みを浮かべて、ゆっくりと言葉を紡ぐが。
跡部と乾は、それはどこか、何か、違うのではないだろうかと同時に思っていた。
宍戸は、鳳が思う以上に、彼の事を好きだろうと。
少なくとも、そんな風に鳳が気に病む事はないだろうと、言い切れるくらいには。
寧ろ、そういう遠慮がちな態度が。
あの一本気な宍戸を沈ませているのではないだろうかと。
他人事だからこそ感じ取れる確信めいた考えが、跡部と乾、双方の男に頭に浮かぶ。 しかし。
「俺も、大概…最近煮詰まってて。だからってあんな事していいわけないのに」
「……おい?」
「塞ぎこんでる宍戸さんに、何かを言われるのか怖くて……乱暴だった。強引に、何度も、抱いて」
物騒になってきた話に跡部と乾が、ぎょっとなったのも束の間。
「………それなのに宍戸さん…俺が正気づいて、頭下げても、全然怒らないんです」
「………………」
「………………」
「責めて当然なのに、笑ってた。優しくて。全然俺を怒らない。……俺は自己嫌悪で死にそうで」
思いつめた鳳は、そうしてここで、恐らく数時間も無茶な本数を泳いでいたのだろう。
悲壮な気配すら伝わってくる鳳に。
しかし跡部と乾は、ひきつった笑みを、力なく浮かべるしかない。
だからその、乱暴にというか、強引にというか。
それが宍戸は、嬉しかったのだと。
その事を。
跡部か乾か、どちらかの口から。
教えてやらない限り。
鳳は気づけないまま落ち込んでいるのかもしれない。
しかし、口に出すにはあまりにも脱力する事実でもある。
自分が判らないでいる事に、他人の方が気づけてしまうのは、色恋沙汰にはよくある事。
そして、その内容が。
他人からすれば、口に出すのも恥ずかしい、甘ったるさであるような事もまた道理だ。
跡部の家が携わっているスポーツジムの前で、偶然そこを通りがかった乾は、今まさに中に入ろうとしていた跡部と目が合い、お互いに薄い笑みを刷いてこのような会話が交わされた訳である。
「さすがだな。この設備は」
一通り施設を見て回った後、手持ちのノートで手早く組まれた乾のプログラムは、後々ジムの専属トレーナーが見て、心底から感心していた。
気前の良い事に乾は跡部専用のメニューとやらも作ってのけたのだ。
「余裕じゃねえの」
「この礼だ」
レッグプレスとハックスクワットが兼用になっているマシンでウエイトを足で押し上げて、乾は軽く笑う。
インクラインベンチでバーベルを持ち上げている跡部の表情にも似た笑みが浮かんだが、双方とも、すぐに無言になった。
暫くは、マシンの音だけがジム内に響く。
沈黙は長かったが、先に口を開いたのは乾だった。
「…………随分自棄っぱちだな。跡部」
「そういうお前は心ここにあらずってとこだな。乾」
「まあ……当たらずとも遠からじ」
「は、……よく言うぜ」
汗を散らしながら、跡部はバーベルを下ろした。
「大方あれだろ。海堂だったか?」
つきあってんだろお前ら、と跡部に続けられて。
乾は微苦笑する。
「俺の態度がどうも露骨らしいな。よくうちの連中にも言われる」
「あっちも似たようなもんだろ」
「インサイト?」
「使うまでもねえ」
似たようならいいんだけどね、と乾は溜息をつく。
ウエイトを足で押し上げていきながら、跡部の方を流し見る。
「跡部が苛ついてるのは不動峰の神尾が原因だろう?」
「知るか。あんな奴」
「まあまあ。誤魔化す気なら、あんな奴よりそんな奴って言った方がいいな?」
「………食えねえな……貴様は本当に」
跡部が心底嫌そうに言ったので、乾は笑ってウエイトから足を外した。
「喧嘩でもしたか?」
「珍しくもねえよ。んな事は」
「跡部にそんな顔させる辺り彼も凄いな」
「ああ? どんな顔だって?」
乾は笑み交じりにさらりと言った。
「傷ついた顔」
「………てめえ」
「インサイト使えない俺でも見える。かなり判りやすいと思うんだが、神尾には見えないんだろうな。……ん? そう睨むなよ、跡部。伝わりにくいとか、伝えきれてないとかは、俺も一緒なんだから」
乾の言った言葉に跡部は剣呑とさせていた目つきを僅かに緩める。
無言の圧力で先を促されているのを感じ取り、乾は。
海堂には言うなよ、と。
跡部と海堂とでは何の接点もない事を知っている上で言い置いてから浮かべた笑みこそ、傷んでいるように跡部には見えた。
「俺は最初っから、どうしようもなくよかったからなあ……最初は辛いばっかりでも、だんだんよくなってきた事の、何が怖かったり嫌だったりするのかどうしても判らなくて。最近ずっと、海堂にあんな顔させてる」
「セックスの話してんのか?」
「聡いな。さすが跡部だ。飲み込みが早くていい」
「バカと付き合ってると鍛えられんだよ」
向こうはだんだんバカがひどくなってくるがな、と跡部は吐き捨てた。
乾が口を噤んだのをいい事に、跡部はそのまま話を続ける。
「同じ相手に何遍もした事なんざ一度もなかった。俺をここまではまらせておいて、嫌がらせでやってるだの、嫌いだからって何度もやったりするなだの、いかれてるとしか思えねえ」
「威張れた内容では全く無いが、要するにお前もセックス絡みか」
「聡いじゃねえの。お前もな」
うんざりとした風情で前髪をかきあげて、跡部は勢いのまま言い募る。
「みんな同じ顔に見える女の集団を纏めてあしらってるのが、どうして優しく笑ってるに見えやがるんだ。あのバカは。泣いてもうおしまいにしてくれって言われるまで、こっちがやっちまう理由も気づこうとしないで、どうでもいいと思ってるからこんな事するんだってほざきやがる。始末に負えねえだろうが」
「……なあ、跡部?」
汗が邪魔で、眼鏡を外してこめかみを腕で拭った乾は、溜息混じりに進言した。
「お前、そういうの、神尾に言ってるか?」
「……ああ?」
「実際その取り巻き連中あしらうのに、笑ってみせてるんだろ? 見ようによっては優しく接してるように見えるんじゃないか? 充分」
平静な乾の物言いに、ぐっと息を詰めた跡部の表情は、物珍しい。
乾は、これはこれで貴重だなあと内心で思いながらも、跡部を見据えて続けた。
「どうして何度だって抱きたいか、それを神尾に言ったり、気づかせてやった事あるか? もしそういうのが無いなら、バカなのは神尾じゃなくて、お前にならないか?」
語尾に被せるようにして舌打ちがした。
跡部が、それは忌々しげな顔をして。
でもそれはどこか八つ当たりめいて見えるので、乾は別段気分を害さなかった。
「おい。乾」
「何だ?」
「お前の言葉は足りてるのか」
「……だから俺も足りてないんだって。………確かに、人にえらそうに言える立場じゃないな」
自嘲めいて言った乾に、そういう事を言ってるんじゃねえと跡部は憮然とした。
「お前の話もしてみろって言ってんだよ」
「………跡部?」
「抱いてて、辛いばっかだったようなのが、最近違うんだろ」
「ああ」
「でも海堂は、それが受け入れられない。お前は奴に何て言ってんだ」
「……大丈夫…おかしくない……当たり前の事だから………そんな所かな…」
「バァカ。だからだろうが」
「………は?」
あまりにもきっぱりと跡部が断言したので、乾は困惑のまま思わず身を乗り出した。
「まずいか? 俺の言った事」
「決まってんだろ」
「悪い。何がまずいのかを教えてくれないか跡部」
そこの所が俺には判らないんだと首の裏側に手をやって嘆息する乾に、跡部は漸く、皮肉めいた普段の笑みを浮かべた。
「海堂は、そんな一般論やら定説やらが聞きたい訳じゃねえんだろうよ」
「……一般論やら定説?」
「お前に抱かれて、よくなれるようになった海堂を、お前がどう思うかは、言った事ねえのか」
「………俺がどう思うか?」
反復して。
乾は、声にならない声で呻いた。
「そういう事か……!」
「そういう事だ。お前が、どう思うのかを言ってやらねえから、向こうはいつまでもおっかねえんだろうが」
「跡部ー……お前……」
どうして俺が気づけなかった事に先に気づくんだと。
どこか悔しげに歯噛みする乾は、まるで的外れな嫉妬心をちらつかせている。
でもそれは結局先程乾の言葉で跡部が覚えた感情から現れていたものとよく似ていた。
どうして自分が判らないでいる事に、他人の方が気づけてしまうのか。
それは一見不可思議なことのようで、その実は。
色恋沙汰に関しては、よくある事なのかもしれなかった。
ひとしきり汗を流した後シャワールームに向かった跡部と乾は、そこでよく見知った男に会った。
「鳳。来てたのか」
「はい。スイミングの方に。……あれ…乾さん………珍しい組み合わせですね。跡部部長」
「まあな」
丁寧に跡部に答え、乾にも目礼をする一学年下の鳳が、このジムにくるのは珍しい事ではないようだった。
跡部は別段驚きもしないし、雰囲気でそれを察した乾も、やあ、と軽く手を上げるにとどめる。
「………おい。鳳。お前…どれだけ泳いでた」
鳳と肩を並べた時に偶然掠めた肌で感じ取った違和感に、跡部がふと眉根を寄せる。 乾も首を傾けた。
「どうした。なんだか思いつめたような顔をしてるな」
「え……」
同じ学校の上級生に睨まれ、対戦経験のある他校の上級生に気遣われ、鳳は困惑気味に笑みを浮かべる。
何でもないですと首を振る様子に納得しない上級生達は、寧ろその様子で察してしまった。
要するにお前もか、という意味でだ。
「言え」
「は?……あの、…何をですか?」
跡部に威圧的に促され、鳳がちょっとあとずさった。
すると背後には、待ち構えていたかのように乾が立っていて、鳳が焦った声を上げる。「うわ、……乾さん…?」
「宍戸の事で悩み事かい?」
「…………、………」
「年がら年中ベタベタしてやがるくせして生意気に何の悩みだ」
「な、……」
見るからに人の良い、そして内面もまたその見目を全く裏切らない鳳は。
年上の男二人に挟まれて、どうする事も出来なくなった。
実際、図星をつかれてもいたので。
観念の溜息と供に、力ない声で心情を吐露する。
「………俺が宍戸さん大事にしたいって思う程。好きになればなる程。宍戸さんは苦しそうになるのが判らなくて」
そんな風に切り出した鳳の言葉に。
跡部と乾は、不審気に首を傾げた。
それはあからさまに違うだろうと言いたくなる内容だった。
どれだけ濃密に付き合っても理性を無くさない所や、恋情への貪欲さが、鳳と宍戸はよく似通っている。
そんな彼らには、鳳に言葉は随分とそぐわない。
「ここの所、ずっと宍戸さんが、俺が何か言ったりやったりする度に、俺を見て苦しそうにしてたり哀しそうにしてたりしてて。………俺は、宍戸さんの事が、本当に好きなんです。だから宍戸さんの嫌がる事とか、邪魔するような事は、絶対言ったりやったりしたくないんです。だから気をつけてた……でも」
「鳳?」
「……欲しくて、いつも。どうにかなりそうになるから、気をつけてた。ちょっとでも宍戸さんが抵抗したら、我慢した。絶対、無理強いとかしないようにって」
鳳は悲痛な笑みを浮かべて、ゆっくりと言葉を紡ぐが。
跡部と乾は、それはどこか、何か、違うのではないだろうかと同時に思っていた。
宍戸は、鳳が思う以上に、彼の事を好きだろうと。
少なくとも、そんな風に鳳が気に病む事はないだろうと、言い切れるくらいには。
寧ろ、そういう遠慮がちな態度が。
あの一本気な宍戸を沈ませているのではないだろうかと。
他人事だからこそ感じ取れる確信めいた考えが、跡部と乾、双方の男に頭に浮かぶ。 しかし。
「俺も、大概…最近煮詰まってて。だからってあんな事していいわけないのに」
「……おい?」
「塞ぎこんでる宍戸さんに、何かを言われるのか怖くて……乱暴だった。強引に、何度も、抱いて」
物騒になってきた話に跡部と乾が、ぎょっとなったのも束の間。
「………それなのに宍戸さん…俺が正気づいて、頭下げても、全然怒らないんです」
「………………」
「………………」
「責めて当然なのに、笑ってた。優しくて。全然俺を怒らない。……俺は自己嫌悪で死にそうで」
思いつめた鳳は、そうしてここで、恐らく数時間も無茶な本数を泳いでいたのだろう。
悲壮な気配すら伝わってくる鳳に。
しかし跡部と乾は、ひきつった笑みを、力なく浮かべるしかない。
だからその、乱暴にというか、強引にというか。
それが宍戸は、嬉しかったのだと。
その事を。
跡部か乾か、どちらかの口から。
教えてやらない限り。
鳳は気づけないまま落ち込んでいるのかもしれない。
しかし、口に出すにはあまりにも脱力する事実でもある。
自分が判らないでいる事に、他人の方が気づけてしまうのは、色恋沙汰にはよくある事。
そして、その内容が。
他人からすれば、口に出すのも恥ずかしい、甘ったるさであるような事もまた道理だ。
次から次へと台風が来るので、ロードワークが不規則になる。
雨風が激しい中でのランニングには、さすがに家族もきっぱりと反対をするものだから。
そのフラストレーションが、ここのところ海堂を憂鬱にさせている。
そうして走りこむ時間が奪われるから、余計な事を考える。
だから海堂は今日こそはと決意して家を出た。
多少風はあるものの、雨が止んだのをいい事に久々に夜のロードワークに飛び出ていったのだ。
思ったよりも強い風の抵抗に若干縛られながらも、海堂は慣れた道を走っていく。
しかし、そうやって久しぶりに走りながらも、海堂の頭の中には相変わらずの気鬱が巣食っていた。
海堂がここのところ考え込んでいること。
それは乾の事だ。
毎日のトレーニングが侭ならず、苛つく海堂の心情などは当然のようにお見通しの乾は、近頃よく海堂宅を訪れる。
自室にあるトレーニングマシーンを使った筋トレをみてくれたり、データベースの戦術やメニュー作りなどを提案しながら、乾は海堂を懐柔してくるのだ。
そうかといって、別段、海堂はその事が不満な訳ではない。
乾への信頼は確固たるもので、実はそうやって日ごと一緒にいる時間が増える分、繰り返される事になるキスとかそれ以上の接触も。
海堂は、決して嫌な訳ではないのだ。
ただ。
「…………………」
走っているせいだけではなく、心拍数が上がって。
海堂は意識しないままペースを上げた。
ただ、最近。
自分がおかしい。
「…………………」
自分がおかしく、なってしまった。
乾に抱き寄せられ、キスをされる。
繰り返せば繰り返す程、大抵の事ならば、慣れていく筈なのに。
どうして乾にキスをされたり抱かれる事は、慣れるどころか、その度甘苦しさが募っていくのか。
おかしいくらい心音が乱れる。
意識も乱れる。
乾の手は、海堂のどこに触れてもひどく丁寧で。
丁寧なままで。
どれほどやわらかく撫でられても、さすられても、海堂は触れられた箇所から、ぐずぐずと溶けていくような錯覚に締め付けられる。
乾の指先は、海堂の身体の表面だけでなく、内部にも沈んでくる。
海堂自身が知らないような所に触れてくる。
普通ならば、そんな所で感じ取る筈もないような。
きつい悦楽が、日ごとに乾によって引き摺り出されて。
海堂がどれだけ必死になって息を詰め、声を殺し、顔を伏せても。
乾はそれを知ってしまう。
海堂のみが、自分の身体の筈なのに、訳が判らないでいる。
「…………………」
錯乱して、いっそ声にして泣いてしまおうかと。
海堂が乾に揺さぶられるまま涙を滲ませ出すと、乾は必ずそれに気づいて海堂に囁いた。
大丈夫、おかしくない、当たり前の事だから、と宥めるような優しさで。
でも海堂にしてみれば、大丈夫とは思えないし、おかしくないわけがないし、当たり前な筈があるかと、日ごと思い悩まされる。
乾に抱かれる事で、ひどく濃密な快感を覚え出した自分が、海堂には怖かった。
誰に話せる事でもない。
乾はうっすらと海堂の心中に気づいてもいるようだが、やはり口にするのは、大丈夫、おかしくない、当たり前の事だから、という馴染みのそれらだ。
「…………………」
走り出せば無心になれるだろうと海堂は思っていたが、久々のロードワークに出てみても、やはり頭の中からそれは離れなかった。
頭の中で、乾の事ばかり考えている。
こんなことばかりを考えて、ただ流されるように走っているだけではどうしようもないと、海堂が思考を振り払おうとした時だ。
「………、ッ……」
余程ぼんやりとしてしまっていたのか、衝撃を受けてから、状況に気づいた。
思いっきり正面から人とぶつかってしまったのだ。
海堂が半身に受けた衝撃を、相手もまた同等に受けてしまったようで、同じようなよろめき方をした後、口にした言葉も同一だった。
「……すみません…、!」
そしてふと海堂は、その声に聞き覚えがあると思い当たる。
そうして漸く海堂は自分がぶつかってしまった相手を見つめた。
「……、…お前……」
「………海堂…?」
「神尾………」
対戦経験のある他校の同学年。
決して親しい仲ではない。
むしろ、どちらかといえば、こうしてぶつかりでもすればたちまち言い争いを始めてしまう方が自然だ。
だがこの時は、あきらかに考え事に没頭していた自分に非があると海堂は思ったので。
怪我は、と問いかけて愕然とする。
「おい、……」
「………え…?……あ、ごめん……」
「……………………」
「悪い……平気だ。お前は?……ごめん」
考え事して走ってた、と神尾は言った。
そして、赤い目を擦った。
泣かせる程どこか痛ませてしまったのかと海堂はぎょっとしたのだ。
「おい。神尾。お前どこか……」
「いや………これちがうから」
海堂が聞いた事のないような幼げな言い方で神尾は言って、首を左右に数回振った。 それでいてあまり弱弱しさを感じさせないのは、引き結ばれている唇がどことなく悔しげに見えるからだ。
海堂は何だか毒気が抜かれたような気持ちで神尾を見据えた。
普段ならば双方喧嘩腰になるような雰囲気でしか話をした事がないだけに、些か落ち着かない気もするにはするのだが。
気づけば何故か二人で向き合っている。
「…………大丈夫なんだな?」
他に聞きようもなくてそう口にした海堂に、神尾は何だか自棄になったように言った。
「なんともねえよ。……大丈夫でもないけど」
「………………」
「………ここで、どうしたとか聞く奴じゃねーよな。お前」
「……聞いて欲しいのか」
「聞かなくていい。俺が勝手に独りごと言うからいい」
重たい溜息を吐き出して、神尾は短い言葉を幾つも口にした。
「頭おかしくなる」
「………………」
「むかつく」
半ベソの神尾を、海堂は眉根を寄せて見るしか出来ない。
手の甲で目元を擦っては怒る神尾が、どうにも傷ましく見えてきてならない。
「女には優しい。俺の事はどうでもいい。俺にばっか適当しやがって。ばかやろう。死んじまえ」
「………………」
海堂は、神尾が氷帝の三年生、跡部とつきあっていることを知っている。
それは勿論ありとあらゆるデータの宝庫である乾から聞きかじった情報だ。
今、泣いて、悔しがって、怒って、傷ついている神尾が詰っている相手は、確認するまでもなく跡部だろう。
「自分の取り巻きには笑いかけるくせに、俺の事は睨みつけてくるばっかで」
「………………」
「だいたい、」
神尾の声が、ひっくり返る。
いきなりのそれに海堂が目を瞠ると、神尾はぼろぼろと涙を零して、しゃくりあげながら怒鳴った。
「いっつも、いっつも、俺が泣いて、何度も頼んで、お願いとかしないと、やんの止めてくんねーし……!」
「……、ああ…?」
海堂が激しく怯んだのも当然。
神尾が話し出した事は、突然に、そしてあまりにもディープだ。
ひょっとしてそれは、と海堂が硬直したのも目に入らないらしい神尾は、尚もまくしたてるばかりだった。
「普通、ああまでするか…っ? 毎回毎回、俺に謝らせて、頭下げさせたいから、あいつ、嫌がらせでああまで俺んこと抱くんだよ…っ。何回も何回も、会うたんび抱くんだよ…っ。むかつく……!」
「おま…、……それは……」
それは嫌がらせとかではないんじゃないかと海堂は思った。
中途半端に神尾へと伸ばしかけた手が宙に浮いてしまい、そんな海堂の困惑を神尾はどう見たのか、真っ赤な目で海堂を見据えてきた。
「どうせお前は、泣かされたりとかしないんだろ」
丁寧にされてんだ絶対、俺とは全然違うんだ絶対、とかなんとか。
とんでもない推測を次々神尾から投げかけられて、海堂は、ぐっと息を飲んだ。
神尾は実際、乾の名前を口にも出した。
どうして知っているんだという疑問は勿論あるのだが、何せ海堂は海堂で、ここ最近ずっと鬱々と考え込んでいたのだ。
乾に抱かれる事で。
泣くだけでは飽き足らず、されればされる程よくなっていく自分の身体に覚える不安定な感情は。
自分はおかしいのだと思うしかない後ろ暗いもので、ずっと海堂を落ち込ませている。
ここで泣きながら怒っている神尾の方がどれだけ健全かと思うと、海堂は一層憂鬱になった。
結局海堂はそんな神尾に触発されたようなもので、いつの間にか売り言葉に買い言葉の勢いで自身が抱え込んでいる危惧や不安をあらいざらい口にしていた。
そうしたらそうしたで、神尾は時々、先程までの海堂のように。
言葉を詰まらせたり、硬直したり、赤くなったりした。
「か……海堂……」
「うるせえ…! どうせ俺はおかしいんだろうが…っ」
「……や、…別にそれはおかしくねえよ…? 普通じゃんか…?」
「どうせてめえは、そうやって俺みたいにみっともなくなったりはしねえんだろ…っ!」
「それ別に落ち込むとこじゃないだろ…!」
神尾の話を聞いて海堂が思った事と、同じような言葉を神尾も口にしてきた。
もう自分自身では止められないし、お互いがお互いをも止められないし、台風を感じさせる強風に吹きつけられながら、海堂と神尾は噛みあわない個々の鬱憤を喚き散らしていた。
台風一過は、それからものの数分後の事だった。
海堂や神尾と同様に、近場を走りこんでいた氷帝の三年生、宍戸が現れて。
騒いでいる他校の下級生二人を、それは手厳しく嗜めたのだ。
周辺の人の迷惑になるだろうがと恫喝のように怒鳴られたのだが、口調や態度が荒い割りに、宍戸は面倒見の良い男のようで。
海堂と神尾をストリートテニス場まで連れてきて、缶ジュースをそれぞれに買ってくれて、話してみな、と言った。
三人が三人とも、学校は違うが、微妙に繋がりがあったりもする。
個々の最近の悩みやら憂鬱やらは、とても人に話せる内容ではないとずっと思ってきた海堂と神尾だったが。
結局、独特の雰囲気のある宍戸に、思っている事をあらいざらい話してしまった。
「神尾。お前、あの人付き合いなんてどうでもいいって本心から思ってる跡部の、お前にだけ向いてる執着心にいい加減気づけ」
「………跡部の…執着心…?」
「それから海堂。セックスがよくなって何が悪い。気持ちいいならそれでいいだろうが。お前もいい加減、乾だって必死だったり真剣だったりするって事理解しろよ」
「…………乾先輩が必死…?」
宍戸はきっぱりと言ってのけた。
神尾と海堂に。
荒っぽい口調ながらも、どこか温かなものを残す口調で。
「だいたいてめえら贅沢だっつーの」
「………は?」
「跡部にしろ、乾にしろ、好きな相手にがっつかれて何が不満だ」
「が、……」
「………っ…、…」
「それくらい欲しがられてみてえよ。俺だって」
「……え…」
「…………」
思わず海堂と神尾は顔を向き合わせてしまった。
まるで。
それでは宍戸は、欲しがられてないみたいではないかと、今聞いた事が信じられなくて見詰め合った。
それこそ宍戸が付き合っている相手が、自分達と同学年の鳳であることは、海堂も神尾も知っている。
そして、あれだけストレートに、無条件に、宍戸の事しか見ていない鳳がいて。
どうして宍戸があんな言葉を口にするのかが信じられない。
宍戸は、二人がかりからの視線に気づいているのかいないのか、中身を飲み干した缶を、公園のダストボックス目掛けて放った。
「ちょっとでも嫌って言や、すぐに離される」
「………………」
「………………」
「跡部や乾がお前たちに拘ってるみたいまでには、俺は欲しがられてないんだろうな」
宍戸は静かな声で、そう呟いた。
それは違う。
はっきり言って全然違う。
海堂と神尾は愕然とした。
宍戸の方こそ、鳳の、宍戸にだけ向けられているあの執着心だとか必死さだとかに、もっとちゃんと気づくべきだ。
心の底から、そう思う。
二人がかりで、宍戸を取り成し始めた海堂と神尾だった。
人の状況ほどよく見通せる。
何も難しい事はない。
ただ自分の事となると見通せなくなるのもまた無理もなかった。
恋の行く末は、概してそういうものだろう。
雨風が激しい中でのランニングには、さすがに家族もきっぱりと反対をするものだから。
そのフラストレーションが、ここのところ海堂を憂鬱にさせている。
そうして走りこむ時間が奪われるから、余計な事を考える。
だから海堂は今日こそはと決意して家を出た。
多少風はあるものの、雨が止んだのをいい事に久々に夜のロードワークに飛び出ていったのだ。
思ったよりも強い風の抵抗に若干縛られながらも、海堂は慣れた道を走っていく。
しかし、そうやって久しぶりに走りながらも、海堂の頭の中には相変わらずの気鬱が巣食っていた。
海堂がここのところ考え込んでいること。
それは乾の事だ。
毎日のトレーニングが侭ならず、苛つく海堂の心情などは当然のようにお見通しの乾は、近頃よく海堂宅を訪れる。
自室にあるトレーニングマシーンを使った筋トレをみてくれたり、データベースの戦術やメニュー作りなどを提案しながら、乾は海堂を懐柔してくるのだ。
そうかといって、別段、海堂はその事が不満な訳ではない。
乾への信頼は確固たるもので、実はそうやって日ごと一緒にいる時間が増える分、繰り返される事になるキスとかそれ以上の接触も。
海堂は、決して嫌な訳ではないのだ。
ただ。
「…………………」
走っているせいだけではなく、心拍数が上がって。
海堂は意識しないままペースを上げた。
ただ、最近。
自分がおかしい。
「…………………」
自分がおかしく、なってしまった。
乾に抱き寄せられ、キスをされる。
繰り返せば繰り返す程、大抵の事ならば、慣れていく筈なのに。
どうして乾にキスをされたり抱かれる事は、慣れるどころか、その度甘苦しさが募っていくのか。
おかしいくらい心音が乱れる。
意識も乱れる。
乾の手は、海堂のどこに触れてもひどく丁寧で。
丁寧なままで。
どれほどやわらかく撫でられても、さすられても、海堂は触れられた箇所から、ぐずぐずと溶けていくような錯覚に締め付けられる。
乾の指先は、海堂の身体の表面だけでなく、内部にも沈んでくる。
海堂自身が知らないような所に触れてくる。
普通ならば、そんな所で感じ取る筈もないような。
きつい悦楽が、日ごとに乾によって引き摺り出されて。
海堂がどれだけ必死になって息を詰め、声を殺し、顔を伏せても。
乾はそれを知ってしまう。
海堂のみが、自分の身体の筈なのに、訳が判らないでいる。
「…………………」
錯乱して、いっそ声にして泣いてしまおうかと。
海堂が乾に揺さぶられるまま涙を滲ませ出すと、乾は必ずそれに気づいて海堂に囁いた。
大丈夫、おかしくない、当たり前の事だから、と宥めるような優しさで。
でも海堂にしてみれば、大丈夫とは思えないし、おかしくないわけがないし、当たり前な筈があるかと、日ごと思い悩まされる。
乾に抱かれる事で、ひどく濃密な快感を覚え出した自分が、海堂には怖かった。
誰に話せる事でもない。
乾はうっすらと海堂の心中に気づいてもいるようだが、やはり口にするのは、大丈夫、おかしくない、当たり前の事だから、という馴染みのそれらだ。
「…………………」
走り出せば無心になれるだろうと海堂は思っていたが、久々のロードワークに出てみても、やはり頭の中からそれは離れなかった。
頭の中で、乾の事ばかり考えている。
こんなことばかりを考えて、ただ流されるように走っているだけではどうしようもないと、海堂が思考を振り払おうとした時だ。
「………、ッ……」
余程ぼんやりとしてしまっていたのか、衝撃を受けてから、状況に気づいた。
思いっきり正面から人とぶつかってしまったのだ。
海堂が半身に受けた衝撃を、相手もまた同等に受けてしまったようで、同じようなよろめき方をした後、口にした言葉も同一だった。
「……すみません…、!」
そしてふと海堂は、その声に聞き覚えがあると思い当たる。
そうして漸く海堂は自分がぶつかってしまった相手を見つめた。
「……、…お前……」
「………海堂…?」
「神尾………」
対戦経験のある他校の同学年。
決して親しい仲ではない。
むしろ、どちらかといえば、こうしてぶつかりでもすればたちまち言い争いを始めてしまう方が自然だ。
だがこの時は、あきらかに考え事に没頭していた自分に非があると海堂は思ったので。
怪我は、と問いかけて愕然とする。
「おい、……」
「………え…?……あ、ごめん……」
「……………………」
「悪い……平気だ。お前は?……ごめん」
考え事して走ってた、と神尾は言った。
そして、赤い目を擦った。
泣かせる程どこか痛ませてしまったのかと海堂はぎょっとしたのだ。
「おい。神尾。お前どこか……」
「いや………これちがうから」
海堂が聞いた事のないような幼げな言い方で神尾は言って、首を左右に数回振った。 それでいてあまり弱弱しさを感じさせないのは、引き結ばれている唇がどことなく悔しげに見えるからだ。
海堂は何だか毒気が抜かれたような気持ちで神尾を見据えた。
普段ならば双方喧嘩腰になるような雰囲気でしか話をした事がないだけに、些か落ち着かない気もするにはするのだが。
気づけば何故か二人で向き合っている。
「…………大丈夫なんだな?」
他に聞きようもなくてそう口にした海堂に、神尾は何だか自棄になったように言った。
「なんともねえよ。……大丈夫でもないけど」
「………………」
「………ここで、どうしたとか聞く奴じゃねーよな。お前」
「……聞いて欲しいのか」
「聞かなくていい。俺が勝手に独りごと言うからいい」
重たい溜息を吐き出して、神尾は短い言葉を幾つも口にした。
「頭おかしくなる」
「………………」
「むかつく」
半ベソの神尾を、海堂は眉根を寄せて見るしか出来ない。
手の甲で目元を擦っては怒る神尾が、どうにも傷ましく見えてきてならない。
「女には優しい。俺の事はどうでもいい。俺にばっか適当しやがって。ばかやろう。死んじまえ」
「………………」
海堂は、神尾が氷帝の三年生、跡部とつきあっていることを知っている。
それは勿論ありとあらゆるデータの宝庫である乾から聞きかじった情報だ。
今、泣いて、悔しがって、怒って、傷ついている神尾が詰っている相手は、確認するまでもなく跡部だろう。
「自分の取り巻きには笑いかけるくせに、俺の事は睨みつけてくるばっかで」
「………………」
「だいたい、」
神尾の声が、ひっくり返る。
いきなりのそれに海堂が目を瞠ると、神尾はぼろぼろと涙を零して、しゃくりあげながら怒鳴った。
「いっつも、いっつも、俺が泣いて、何度も頼んで、お願いとかしないと、やんの止めてくんねーし……!」
「……、ああ…?」
海堂が激しく怯んだのも当然。
神尾が話し出した事は、突然に、そしてあまりにもディープだ。
ひょっとしてそれは、と海堂が硬直したのも目に入らないらしい神尾は、尚もまくしたてるばかりだった。
「普通、ああまでするか…っ? 毎回毎回、俺に謝らせて、頭下げさせたいから、あいつ、嫌がらせでああまで俺んこと抱くんだよ…っ。何回も何回も、会うたんび抱くんだよ…っ。むかつく……!」
「おま…、……それは……」
それは嫌がらせとかではないんじゃないかと海堂は思った。
中途半端に神尾へと伸ばしかけた手が宙に浮いてしまい、そんな海堂の困惑を神尾はどう見たのか、真っ赤な目で海堂を見据えてきた。
「どうせお前は、泣かされたりとかしないんだろ」
丁寧にされてんだ絶対、俺とは全然違うんだ絶対、とかなんとか。
とんでもない推測を次々神尾から投げかけられて、海堂は、ぐっと息を飲んだ。
神尾は実際、乾の名前を口にも出した。
どうして知っているんだという疑問は勿論あるのだが、何せ海堂は海堂で、ここ最近ずっと鬱々と考え込んでいたのだ。
乾に抱かれる事で。
泣くだけでは飽き足らず、されればされる程よくなっていく自分の身体に覚える不安定な感情は。
自分はおかしいのだと思うしかない後ろ暗いもので、ずっと海堂を落ち込ませている。
ここで泣きながら怒っている神尾の方がどれだけ健全かと思うと、海堂は一層憂鬱になった。
結局海堂はそんな神尾に触発されたようなもので、いつの間にか売り言葉に買い言葉の勢いで自身が抱え込んでいる危惧や不安をあらいざらい口にしていた。
そうしたらそうしたで、神尾は時々、先程までの海堂のように。
言葉を詰まらせたり、硬直したり、赤くなったりした。
「か……海堂……」
「うるせえ…! どうせ俺はおかしいんだろうが…っ」
「……や、…別にそれはおかしくねえよ…? 普通じゃんか…?」
「どうせてめえは、そうやって俺みたいにみっともなくなったりはしねえんだろ…っ!」
「それ別に落ち込むとこじゃないだろ…!」
神尾の話を聞いて海堂が思った事と、同じような言葉を神尾も口にしてきた。
もう自分自身では止められないし、お互いがお互いをも止められないし、台風を感じさせる強風に吹きつけられながら、海堂と神尾は噛みあわない個々の鬱憤を喚き散らしていた。
台風一過は、それからものの数分後の事だった。
海堂や神尾と同様に、近場を走りこんでいた氷帝の三年生、宍戸が現れて。
騒いでいる他校の下級生二人を、それは手厳しく嗜めたのだ。
周辺の人の迷惑になるだろうがと恫喝のように怒鳴られたのだが、口調や態度が荒い割りに、宍戸は面倒見の良い男のようで。
海堂と神尾をストリートテニス場まで連れてきて、缶ジュースをそれぞれに買ってくれて、話してみな、と言った。
三人が三人とも、学校は違うが、微妙に繋がりがあったりもする。
個々の最近の悩みやら憂鬱やらは、とても人に話せる内容ではないとずっと思ってきた海堂と神尾だったが。
結局、独特の雰囲気のある宍戸に、思っている事をあらいざらい話してしまった。
「神尾。お前、あの人付き合いなんてどうでもいいって本心から思ってる跡部の、お前にだけ向いてる執着心にいい加減気づけ」
「………跡部の…執着心…?」
「それから海堂。セックスがよくなって何が悪い。気持ちいいならそれでいいだろうが。お前もいい加減、乾だって必死だったり真剣だったりするって事理解しろよ」
「…………乾先輩が必死…?」
宍戸はきっぱりと言ってのけた。
神尾と海堂に。
荒っぽい口調ながらも、どこか温かなものを残す口調で。
「だいたいてめえら贅沢だっつーの」
「………は?」
「跡部にしろ、乾にしろ、好きな相手にがっつかれて何が不満だ」
「が、……」
「………っ…、…」
「それくらい欲しがられてみてえよ。俺だって」
「……え…」
「…………」
思わず海堂と神尾は顔を向き合わせてしまった。
まるで。
それでは宍戸は、欲しがられてないみたいではないかと、今聞いた事が信じられなくて見詰め合った。
それこそ宍戸が付き合っている相手が、自分達と同学年の鳳であることは、海堂も神尾も知っている。
そして、あれだけストレートに、無条件に、宍戸の事しか見ていない鳳がいて。
どうして宍戸があんな言葉を口にするのかが信じられない。
宍戸は、二人がかりからの視線に気づいているのかいないのか、中身を飲み干した缶を、公園のダストボックス目掛けて放った。
「ちょっとでも嫌って言や、すぐに離される」
「………………」
「………………」
「跡部や乾がお前たちに拘ってるみたいまでには、俺は欲しがられてないんだろうな」
宍戸は静かな声で、そう呟いた。
それは違う。
はっきり言って全然違う。
海堂と神尾は愕然とした。
宍戸の方こそ、鳳の、宍戸にだけ向けられているあの執着心だとか必死さだとかに、もっとちゃんと気づくべきだ。
心の底から、そう思う。
二人がかりで、宍戸を取り成し始めた海堂と神尾だった。
人の状況ほどよく見通せる。
何も難しい事はない。
ただ自分の事となると見通せなくなるのもまた無理もなかった。
恋の行く末は、概してそういうものだろう。
跡部の家の玄関で、帰り際のキスが中途半端に途切れた。
唇同士は触れ合ってはいたものの、浅く開かされた唇をくぐられる事無く跡部が離れて。
「……、…ん…」
それを惜しむような喉声が咄嗟に出てしまった事に気づいて、神尾は即座に顔を赤くする。
「……………、っ」
「神尾」
「……っ…、…るさい…っ!」
あからさまな笑い交じりの跡部の問いかけに神尾は一層の剣幕で喚いた。
「じゃあな…ッ…俺は帰る…!」
「待て……こら」
跡部に肩を掴まれて、神尾が身体を捩っても、その手はなかなか外れない。
低い笑いを噛み殺そうともせず、跡部は何が楽しいのかと神尾が憤慨するほど笑って。
神尾を玄関扉に押さえつけてきた。
「まだだろ。途中だ」
逃げるな、と笑ったまま顔を近づけてきた跡部に、せめてもの抵抗と、神尾が出来たのは歯を食いしばる事くらいで。
「……、……ぅ……」
しかしそれも、請うように唇の表面を跡部に舐められてしまってはひとたまりもない。
結局必要以上に深く、長くなってしまったキスは、通常の別れ際のそれとは大分種類の異なったものとなった。
「………っ…だよ……」
「何だ?……立てねえのかよ」
がくがくと膝が笑いそうで、覚束なくなる神尾の足元を見透かした跡部の手のひらに、腿の脇を辿られる。
神尾はもう、逃げ出してでも帰ろうと決意して跡部の胸を押した。
「……っと。待ちやがれ、馬鹿」
「馬鹿だと?! 馬鹿ってなんだ…!」
「喚くな。うるせえ」
「じゃあ離せ!」
「…………ったく……さっきみたいにずっと可愛くしてりゃあいいのにな? オマエ」
「……かわ…、…っ……」
今度はもう、可愛いってなんだと叫んで問うよりも。
可愛くなくて悪かったなと、どこか力なく毒づいた神尾に。
跡部は言った。
「別に悪かねえよ」
「………………」
神尾の耳元で、笑った声で。
「そうやってしょぼくれてんのも、それなりに好みだ」
結局神尾を派手に赤面させ、跡部はもう一度軽く神尾の唇をキスで掠めて、外に出た。
神尾の腕を引いて。
「………跡部?」
見送りについて出てきたのかと思いきや、跡部は神尾の手を取ったまま、庭へと向かう。
怪訝に呼びかけた神尾を振り返りこそしないものの。
手を握るというより、全部の指を絡めるというような接触はひどく甘くて、神尾もただおとなしく後をついていくしかなかった。
跡部の家の庭は広い。
どこまで行くのかと思いつつ歩いていた神尾は、跡部の背中ばかり見ていたから、それに気づくのに遅れた。
「これを持って行かせるの忘れたって、さっき思い出したんだよ」
「……え?」
中断したキスの事を言っているらしい跡部が足を止めた。
神尾もつられて足を止め、漸く前方のその花に気づいた。
「ヒマワリ…!」
小ぶりな向日葵が、力強い黄色を発光させるようにして咲き乱れている。
群集だ。
神尾が近づいていくと、丈は神尾の胸元近くまで伸びた花自体は小ぶりな向日葵が、今が盛りというように咲き乱れていた。
花びらは瑞々しくて、咲き初めと気づいた。
「え、……何でだ? もう九月なのに……」
「狂い咲きしやがった。八月中は気配もなかったのに」
「すっごい数だなあ………」
大袈裟な話ではなく、帯状に伸びていく黄色の連なりに、神尾は感心しきった溜息を吐く。
「家に持ってけ」
「いいのか?」
「今切らせる」
「いいよ、俺自分でやる! あ、ハサミ借りてくるな!」
跡部は時々、庭の花を神尾に持たせる。
母親と姉とがそれを喜ぶので、神尾が跡部に伝えると、殊更にそれは慣習化した。
この間などは薔薇の盛りの季節だったものだから、跡部の家に来る度、神尾は恥ずかしいくらいの薔薇の花束を持たされて帰っていた。
そんなことを繰り返しているうち顔馴染みになった跡部邸のガーデニング担当の初老男性から、神尾は剪定鋏を借り受けた。
向日葵の咲き乱れる場所まで神尾が全力で走っていくと、眩しいくらいの色と量とで圧倒してくるその花よりも、もっと強い存在感で、跡部が立っている。
「………………」
ひどく健康的で、明るい向日葵の印象は、跡部の持つ雰囲気とはまるで違うけれど。
花の美しさを損なわせる事は決してしないのもまた跡部だ。
神尾がそんな事を考えて足を止めると、跡部は神尾に気づいて視線を向けてくる。
「好きなだけ切っていけ」
「……うん」
顎で軽く指し示され、神尾は向日葵の花の中に埋もれるようにして足を踏み入れる。
手前から切れば簡単なのだが、せっかく庭から見える一面を切り崩すのは惜しい気がしたからだ。
奥の方の花から切っていき、左手に抱える。
数本で遠慮するのも馬鹿らしいほど咲いているので、神尾は繰り返し繰り返し剪定鋏を使った。
跡部が、何だかじっとそんな神尾を見つめてくるので。
神尾は向日葵を腕に抱きながら、一本ずつ増やしていきながら、何だよ?と跡部に問いかける。
跡部は僅かに目を細めるような表情をした。
それから、神尾をからかう時特有の、少し皮肉めいた薄い微笑を唇に刷く。
「どれがお前だか判んねえな」
「………は?」
「そうやってると。向日葵なんだかお前なんだか判らなくなるって言ってる」
「どういう意味……」
向日葵と自分が区別つけられないとはどういう意味だと、神尾は怪訝に手に持つ花と跡部とを見比べる。
訳が判らない。
でもふとそれが、なんだかとてもおかしく思えてきて。
神尾は笑った。
「訳わかんね。跡部」
「……だからそういう」
「え?……」
跡部が溜息をつきながら近づいてくる。
両手が向日葵で埋められている神尾の唇に、キスをする。
「………、…なん…」
「馬鹿みたいに真っ直ぐ、太陽の方しか向かねえんだよ。この花は」
少し、何だか、嫉妬するみたいな珍しい言い方を跡部がしたので。
神尾は不思議に思った。
「………だから……向いてるだろ。まっすぐ」
そっと言っても、跡部はまだ表情を崩さない。
恥ずかしいなあ、と思いながらも。
神尾は意を決して言った。
「跡部の方だけ。………まっすぐ…向いてるじゃん」
「………赤い向日葵なんざ初めて見たな」
一瞬面食らってしまった自分を、まるで誤魔化すように。
跡部はそんな言い方をした。
太陽のような吸引力。
人から言われるまでもなく自覚しているくせに、引き寄せているだけでは足りないらしい太陽の独占欲が、夏の花の向日葵を、まだまだ盛りで咲かせている。
唇同士は触れ合ってはいたものの、浅く開かされた唇をくぐられる事無く跡部が離れて。
「……、…ん…」
それを惜しむような喉声が咄嗟に出てしまった事に気づいて、神尾は即座に顔を赤くする。
「……………、っ」
「神尾」
「……っ…、…るさい…っ!」
あからさまな笑い交じりの跡部の問いかけに神尾は一層の剣幕で喚いた。
「じゃあな…ッ…俺は帰る…!」
「待て……こら」
跡部に肩を掴まれて、神尾が身体を捩っても、その手はなかなか外れない。
低い笑いを噛み殺そうともせず、跡部は何が楽しいのかと神尾が憤慨するほど笑って。
神尾を玄関扉に押さえつけてきた。
「まだだろ。途中だ」
逃げるな、と笑ったまま顔を近づけてきた跡部に、せめてもの抵抗と、神尾が出来たのは歯を食いしばる事くらいで。
「……、……ぅ……」
しかしそれも、請うように唇の表面を跡部に舐められてしまってはひとたまりもない。
結局必要以上に深く、長くなってしまったキスは、通常の別れ際のそれとは大分種類の異なったものとなった。
「………っ…だよ……」
「何だ?……立てねえのかよ」
がくがくと膝が笑いそうで、覚束なくなる神尾の足元を見透かした跡部の手のひらに、腿の脇を辿られる。
神尾はもう、逃げ出してでも帰ろうと決意して跡部の胸を押した。
「……っと。待ちやがれ、馬鹿」
「馬鹿だと?! 馬鹿ってなんだ…!」
「喚くな。うるせえ」
「じゃあ離せ!」
「…………ったく……さっきみたいにずっと可愛くしてりゃあいいのにな? オマエ」
「……かわ…、…っ……」
今度はもう、可愛いってなんだと叫んで問うよりも。
可愛くなくて悪かったなと、どこか力なく毒づいた神尾に。
跡部は言った。
「別に悪かねえよ」
「………………」
神尾の耳元で、笑った声で。
「そうやってしょぼくれてんのも、それなりに好みだ」
結局神尾を派手に赤面させ、跡部はもう一度軽く神尾の唇をキスで掠めて、外に出た。
神尾の腕を引いて。
「………跡部?」
見送りについて出てきたのかと思いきや、跡部は神尾の手を取ったまま、庭へと向かう。
怪訝に呼びかけた神尾を振り返りこそしないものの。
手を握るというより、全部の指を絡めるというような接触はひどく甘くて、神尾もただおとなしく後をついていくしかなかった。
跡部の家の庭は広い。
どこまで行くのかと思いつつ歩いていた神尾は、跡部の背中ばかり見ていたから、それに気づくのに遅れた。
「これを持って行かせるの忘れたって、さっき思い出したんだよ」
「……え?」
中断したキスの事を言っているらしい跡部が足を止めた。
神尾もつられて足を止め、漸く前方のその花に気づいた。
「ヒマワリ…!」
小ぶりな向日葵が、力強い黄色を発光させるようにして咲き乱れている。
群集だ。
神尾が近づいていくと、丈は神尾の胸元近くまで伸びた花自体は小ぶりな向日葵が、今が盛りというように咲き乱れていた。
花びらは瑞々しくて、咲き初めと気づいた。
「え、……何でだ? もう九月なのに……」
「狂い咲きしやがった。八月中は気配もなかったのに」
「すっごい数だなあ………」
大袈裟な話ではなく、帯状に伸びていく黄色の連なりに、神尾は感心しきった溜息を吐く。
「家に持ってけ」
「いいのか?」
「今切らせる」
「いいよ、俺自分でやる! あ、ハサミ借りてくるな!」
跡部は時々、庭の花を神尾に持たせる。
母親と姉とがそれを喜ぶので、神尾が跡部に伝えると、殊更にそれは慣習化した。
この間などは薔薇の盛りの季節だったものだから、跡部の家に来る度、神尾は恥ずかしいくらいの薔薇の花束を持たされて帰っていた。
そんなことを繰り返しているうち顔馴染みになった跡部邸のガーデニング担当の初老男性から、神尾は剪定鋏を借り受けた。
向日葵の咲き乱れる場所まで神尾が全力で走っていくと、眩しいくらいの色と量とで圧倒してくるその花よりも、もっと強い存在感で、跡部が立っている。
「………………」
ひどく健康的で、明るい向日葵の印象は、跡部の持つ雰囲気とはまるで違うけれど。
花の美しさを損なわせる事は決してしないのもまた跡部だ。
神尾がそんな事を考えて足を止めると、跡部は神尾に気づいて視線を向けてくる。
「好きなだけ切っていけ」
「……うん」
顎で軽く指し示され、神尾は向日葵の花の中に埋もれるようにして足を踏み入れる。
手前から切れば簡単なのだが、せっかく庭から見える一面を切り崩すのは惜しい気がしたからだ。
奥の方の花から切っていき、左手に抱える。
数本で遠慮するのも馬鹿らしいほど咲いているので、神尾は繰り返し繰り返し剪定鋏を使った。
跡部が、何だかじっとそんな神尾を見つめてくるので。
神尾は向日葵を腕に抱きながら、一本ずつ増やしていきながら、何だよ?と跡部に問いかける。
跡部は僅かに目を細めるような表情をした。
それから、神尾をからかう時特有の、少し皮肉めいた薄い微笑を唇に刷く。
「どれがお前だか判んねえな」
「………は?」
「そうやってると。向日葵なんだかお前なんだか判らなくなるって言ってる」
「どういう意味……」
向日葵と自分が区別つけられないとはどういう意味だと、神尾は怪訝に手に持つ花と跡部とを見比べる。
訳が判らない。
でもふとそれが、なんだかとてもおかしく思えてきて。
神尾は笑った。
「訳わかんね。跡部」
「……だからそういう」
「え?……」
跡部が溜息をつきながら近づいてくる。
両手が向日葵で埋められている神尾の唇に、キスをする。
「………、…なん…」
「馬鹿みたいに真っ直ぐ、太陽の方しか向かねえんだよ。この花は」
少し、何だか、嫉妬するみたいな珍しい言い方を跡部がしたので。
神尾は不思議に思った。
「………だから……向いてるだろ。まっすぐ」
そっと言っても、跡部はまだ表情を崩さない。
恥ずかしいなあ、と思いながらも。
神尾は意を決して言った。
「跡部の方だけ。………まっすぐ…向いてるじゃん」
「………赤い向日葵なんざ初めて見たな」
一瞬面食らってしまった自分を、まるで誤魔化すように。
跡部はそんな言い方をした。
太陽のような吸引力。
人から言われるまでもなく自覚しているくせに、引き寄せているだけでは足りないらしい太陽の独占欲が、夏の花の向日葵を、まだまだ盛りで咲かせている。
大型のタイフーンの影響で飛行機が飛ばなかった。
鳳が日本に戻ってきたのは、本来の帰国予定日よりも、結局三日も遅れた九月二日の事であった。
異国のその地に滞在していた時間は一週間。
仕事で日本を離れなければならなかった事も、帰国日に勢力の強いタイフーンにかち当たってしまった事も、ある意味仕方のない事であったが、鳳には大きなダメージを与えた。
鳳の急な仕事が入らなければ、八月の最後の一週間は、恋人と完全休暇を楽しむ予定だったのだ。
中学で知り合った一つ年上の鳳の恋人は、宍戸といって、今はその出身中学校で教師をしている。
公務員である彼の休暇は規則的だがテニス部の顧問をしているので、大きな大会のある夏場は多忙だ。
鳳もまた漸く弁護士になったばかりで日々忙しく、漸く互いの休暇を合わせた一週間が、見事に潰れた。
消沈する鳳に発破をかけるようにして、仕事ならちゃんと行って来いと空港まで見送りに来てくれた宍戸は、帰国時の便に合わせて迎えにも来るからと言ってくれていたのだが、タイフーンのせいでそれすらも呆気なく叶わぬ事となる。
予定通り八月三十日に帰国出来ていれば、せめて最後の一日は一緒に過ごせたのにと、鳳は溜息をつきながら、ゲートを進んだ。
職業柄きっちりとスーツを着込み、長旅のせいだけではない疲れを滲ませながら、鳳は全ての手続きを事務的に済ませていく。
九月二日となってしまっては、新学期も始まっている。
宍戸もまた忙しい日常に戻っているのだろうと思いながら、時刻を確かめて、鳳は空港のロビーで携帯電話を手にした。
宍戸に連絡をしようとして。
「……………………」
鳳は固まった。
鳳の目の前に、宍戸がいたからだ。
それも、両脇に長身の金髪碧眼の男性を置いて。
彼等は宍戸に、しきりと何事か熱心に話しかけている。
宍戸はほっそりとした首筋や鎖骨のラインがきれいに出るラフなシャツ姿で、慣れた様子で彼らをあしらい、そうして鳳に気づく。
「よう。お帰り」
真っ直ぐに宍戸は鳳の元へと歩いてくる。
「……宍戸さん?」
「なに惚けたようなツラしてんだよ。迎えに来るって、お前が行く時言っただろ」
「え……でも…、……新学期始まってるでしょう? どうして?」
「関係ねえよ」
だいたい時間見てみろよと言われてみれば確かに、夜の便で帰ってきた訳だからこの時間まで授業がある筈もない。
それにしても、まさか宍戸がここに居るとは本当に思わなくて、鳳は面食らったまま、久しぶりに対峙した宍戸の顔をじっと見据えた。
「………………」
そうやって。
何年経っても。
繰り返し繰り返し、鳳が見惚れる、厳しくも甘い綺麗な面立ち。
宍戸は鳳からの視線を真っ向から受けて、その薄い唇に婀娜めいた笑みを浮かべて言った。
「長太郎」
「……はい」
宍戸の片手が、鳳のネクタイを軽く引く。
いいぜ、と眼差しに促され、鳳は一瞬躊躇した。
宍戸に許されたものが何かを即座に察したからこそ、場所を考えたのだ。
「………………」
言葉にしないで問いかけた鳳に、宍戸もまた言葉にする必要はないというように、真っ直ぐに伸びている睫毛をけぶらせ鳳を唆すような眼差しを刷いてくる。
「………………」
ネクタイを引かれるからだけではなく、鳳の方からも軽く屈み、手のひらで小ぶりな宍戸の頭を包むようにし、その頬に掠めるような口付けを落とした。
慈しむ気持ちで触れれば一瞬の接触すらも艶かしく、宍戸は微笑して鳳のキスを受けると、背後を流し見て英語で短く言葉を放つ。
そういえばまだそこに居たのかと鳳が今更のように気づいた二人の男は、額に手を当てて頭上を仰ぐと、派手なリアクションで何事かを嘆き、そしていなくなった。
「………これが俺の毒蛇…って。どういう意味です?」
宍戸が言ったままを問いかけると、宍戸は小さく声を出して笑った。
「いや。あいつらがさ」
「…………………」
「待ちぼうけくらわされてんのかって声かけてきてな。今日はアクティムの海戦の日だから、アントニウスを失ったクレオパトラが自殺したみたいにならないように、毒蛇の代わりに俺達が噛んでやろうか?とか何とか言ってたからよ」
「宍戸さん」
軽く聞き流せない鳳を、嗜めるように宍戸は笑ったが。
要するに、宍戸はあの男達に、口説かれ、誘われていた訳だ。
あからさますぎるほどあからさまに。
憮然と強い悋気を覗かせた鳳を、宍戸はあくまで、たいした事じゃないと言ってかわすけれど。
アントニウスに死なれて、毒蛇に胸を噛ませて後を追い自殺したクレオパトラになぞらえて。
毒蛇の代わりに胸を噛んでやろうかなどと。
言われた宍戸が軽く流せても、聞かされた鳳はとても納得出来たものではない。
「おい。長太郎」
微苦笑の溜息で宍戸は手を伸ばし、鳳の頬を指先で軽く撫でた。
「だから、俺の毒蛇はこれだって、あいつらに言ったんだろうが」
「……宍戸さん」
「お前を見たら、あいつらだって早々諦めたろ? おとなしく退散しただろうが」
だから。
そういうどうでもいい事には、もう構わず。
早く帰ろうぜと宍戸は鳳に囁いた。
ただいまの意味のキスは、もうここでしてしまったけれど。
二人で暮らすあの部屋でしか、出来ない事があるから。
だから早く。
手に手をとって。
一刻も早く。
あの部屋へ。
帰ろう。
鳳が日本に戻ってきたのは、本来の帰国予定日よりも、結局三日も遅れた九月二日の事であった。
異国のその地に滞在していた時間は一週間。
仕事で日本を離れなければならなかった事も、帰国日に勢力の強いタイフーンにかち当たってしまった事も、ある意味仕方のない事であったが、鳳には大きなダメージを与えた。
鳳の急な仕事が入らなければ、八月の最後の一週間は、恋人と完全休暇を楽しむ予定だったのだ。
中学で知り合った一つ年上の鳳の恋人は、宍戸といって、今はその出身中学校で教師をしている。
公務員である彼の休暇は規則的だがテニス部の顧問をしているので、大きな大会のある夏場は多忙だ。
鳳もまた漸く弁護士になったばかりで日々忙しく、漸く互いの休暇を合わせた一週間が、見事に潰れた。
消沈する鳳に発破をかけるようにして、仕事ならちゃんと行って来いと空港まで見送りに来てくれた宍戸は、帰国時の便に合わせて迎えにも来るからと言ってくれていたのだが、タイフーンのせいでそれすらも呆気なく叶わぬ事となる。
予定通り八月三十日に帰国出来ていれば、せめて最後の一日は一緒に過ごせたのにと、鳳は溜息をつきながら、ゲートを進んだ。
職業柄きっちりとスーツを着込み、長旅のせいだけではない疲れを滲ませながら、鳳は全ての手続きを事務的に済ませていく。
九月二日となってしまっては、新学期も始まっている。
宍戸もまた忙しい日常に戻っているのだろうと思いながら、時刻を確かめて、鳳は空港のロビーで携帯電話を手にした。
宍戸に連絡をしようとして。
「……………………」
鳳は固まった。
鳳の目の前に、宍戸がいたからだ。
それも、両脇に長身の金髪碧眼の男性を置いて。
彼等は宍戸に、しきりと何事か熱心に話しかけている。
宍戸はほっそりとした首筋や鎖骨のラインがきれいに出るラフなシャツ姿で、慣れた様子で彼らをあしらい、そうして鳳に気づく。
「よう。お帰り」
真っ直ぐに宍戸は鳳の元へと歩いてくる。
「……宍戸さん?」
「なに惚けたようなツラしてんだよ。迎えに来るって、お前が行く時言っただろ」
「え……でも…、……新学期始まってるでしょう? どうして?」
「関係ねえよ」
だいたい時間見てみろよと言われてみれば確かに、夜の便で帰ってきた訳だからこの時間まで授業がある筈もない。
それにしても、まさか宍戸がここに居るとは本当に思わなくて、鳳は面食らったまま、久しぶりに対峙した宍戸の顔をじっと見据えた。
「………………」
そうやって。
何年経っても。
繰り返し繰り返し、鳳が見惚れる、厳しくも甘い綺麗な面立ち。
宍戸は鳳からの視線を真っ向から受けて、その薄い唇に婀娜めいた笑みを浮かべて言った。
「長太郎」
「……はい」
宍戸の片手が、鳳のネクタイを軽く引く。
いいぜ、と眼差しに促され、鳳は一瞬躊躇した。
宍戸に許されたものが何かを即座に察したからこそ、場所を考えたのだ。
「………………」
言葉にしないで問いかけた鳳に、宍戸もまた言葉にする必要はないというように、真っ直ぐに伸びている睫毛をけぶらせ鳳を唆すような眼差しを刷いてくる。
「………………」
ネクタイを引かれるからだけではなく、鳳の方からも軽く屈み、手のひらで小ぶりな宍戸の頭を包むようにし、その頬に掠めるような口付けを落とした。
慈しむ気持ちで触れれば一瞬の接触すらも艶かしく、宍戸は微笑して鳳のキスを受けると、背後を流し見て英語で短く言葉を放つ。
そういえばまだそこに居たのかと鳳が今更のように気づいた二人の男は、額に手を当てて頭上を仰ぐと、派手なリアクションで何事かを嘆き、そしていなくなった。
「………これが俺の毒蛇…って。どういう意味です?」
宍戸が言ったままを問いかけると、宍戸は小さく声を出して笑った。
「いや。あいつらがさ」
「…………………」
「待ちぼうけくらわされてんのかって声かけてきてな。今日はアクティムの海戦の日だから、アントニウスを失ったクレオパトラが自殺したみたいにならないように、毒蛇の代わりに俺達が噛んでやろうか?とか何とか言ってたからよ」
「宍戸さん」
軽く聞き流せない鳳を、嗜めるように宍戸は笑ったが。
要するに、宍戸はあの男達に、口説かれ、誘われていた訳だ。
あからさますぎるほどあからさまに。
憮然と強い悋気を覗かせた鳳を、宍戸はあくまで、たいした事じゃないと言ってかわすけれど。
アントニウスに死なれて、毒蛇に胸を噛ませて後を追い自殺したクレオパトラになぞらえて。
毒蛇の代わりに胸を噛んでやろうかなどと。
言われた宍戸が軽く流せても、聞かされた鳳はとても納得出来たものではない。
「おい。長太郎」
微苦笑の溜息で宍戸は手を伸ばし、鳳の頬を指先で軽く撫でた。
「だから、俺の毒蛇はこれだって、あいつらに言ったんだろうが」
「……宍戸さん」
「お前を見たら、あいつらだって早々諦めたろ? おとなしく退散しただろうが」
だから。
そういうどうでもいい事には、もう構わず。
早く帰ろうぜと宍戸は鳳に囁いた。
ただいまの意味のキスは、もうここでしてしまったけれど。
二人で暮らすあの部屋でしか、出来ない事があるから。
だから早く。
手に手をとって。
一刻も早く。
あの部屋へ。
帰ろう。
八月後半の朝夕と、少しずつ涼しげな風が吹くようになっていたのだが、九月になった日である今日、天気は朝から猛暑再びというような気温になった。
午前中から三十度を軽く越え、この日行われた始業式では貧血を起こした数名の女生徒が倒れる事となった。
「で! その子が倒れこむ前に、絶妙なタイミングで受け止めて! 軽々お姫様抱っこで、保健室まで運んでいったわけよ!」
「へえ…流石っすねえ。乾先輩」
「だろぉ?」
始業式を終えて各教室へと戻っていく中で学年が入り混じり、階段で顔を合わせた菊丸と桃城が、大声でそんな話をしているので。
内容が、意識せずとも海堂の耳に全部届いてくる。
「でも周りがさ、いっくら冷やかしても乾は平然としちゃっててさー。つまんなかったにゃー」
「確かに乾先輩って、そういう局面で動じなさそうっすね……」
「桃と似てんね」
「そうっすか? 何でしたら英二先輩、俺が教室まで運びましょうか?」
「うわっ、…って言って、ほんとに持ち上げんなってば……!」
背後で繰り広げられている二人の様子は振り返るまでもなく判って、海堂は呆れ交じりの溜息をつきながら階段を上っていく。
ぽん、と気安くも丁寧な仕草で背中を軽く叩かれたのはその時だ。
「………不二先輩」
「やあ海堂。おはよう」
海堂が目礼で挨拶を返すと、不二は柔らかく笑って海堂と肩を並べた。
二年の教室が三階、三年の教室が四階になるので、何かの話をする程の時間はない。
黙々と階段を上る海堂を、不二はじっと見つめてくる。
「…………何っすか…?」
「ん? 海堂が今なに考えてるかなーと思って」
「菊丸先輩と桃城の話を聞いてって意味ですか」
「直球だなあ。海堂」
不二が何だか楽しげに笑ったので、海堂は小さく溜息をつく。
そんな海堂を見た不二がまた笑い、そうやって笑みと溜息は相乗効果で深められていくようだった。
「……別に何とも思ってないんですけど」
「乾が女の子をお姫様抱っこしたくらいじゃ、海堂は別に気にならない?」
「比べる事じゃないですから」
虚勢でもなんでもなく、海堂はそう口にした。
乾が女生徒を抱き上げて運んだり、それを冷やかされたりした事を、海堂が気にやむ筋合いは何もない。
「倒れた人間を放っておく方が、人としてどうかと思うんで」
「海堂、かっこいいね」
低く言った海堂に反して、不二の言葉は澄んだ声音で予想外に耳通りが良かった。
不二がそう言い放った瞬間、人混みであふれている階段は一瞬沈黙し、その後にどよめきが走った。
その気配を感じ取りつつ怪訝にそんな周囲の意味合いを図りかねる海堂に、不二は尚も言った。
「海堂の、かっこよくて、綺麗なところ、僕はすごく好きだなあ」
軽く笑みも交ぜて、じゃあね、と不二は海堂を追い越し四階へと上っていった。
三階と四階の合間の踊り場で、はあ、と海堂は眉根を寄せる。
何であんなに楽しそうなんだろうかと不二の背中を見送った海堂は、何だか周囲の好奇な視線と潜めた会話とに気づいて、不審気に辺りを見やった。
海堂が振り返ると、周囲の生徒達は強張ったように沈黙した。
「な、………ふ…、不二は、時々ああいう冗談でびっくりさせるなー…! なー、桃!」
「……っス…! そうっスね、英二先輩…!」
沈黙の中、不自然な程テンションを上げた菊丸と桃城の会話にも海堂は眉を寄せ、結局そんな不可解な周囲の反応など知った事かと、さっさと自分の教室へと向かった。
海堂の背後で桃城が、てめえの為にフォローしてやってんのにとか何とか喧嘩腰に喚いているのに、海堂はうんざり嘆息するのだった。
新学期早々、生徒達が飛びついた噂話が二つ。
一つは三年の乾貞治が、貧血で倒れた同じクラスの女生徒を平然とお姫様抱っこで運んで行ったと、色恋を騒ぎ立てるもの。
もう一つは三年の不二周助が、公衆の面前で二年の海堂薫に告白らしき事を、口にしたとかしないとか。
散々な冷やかしにも全く動じなかった乾が。
後者の噂話を聞きつけて、血相変えて下級生の教室へと向かった姿を。
見ていたのは、笑いを抑えきれない不二、ひとまず彼だけであった。
午前中から三十度を軽く越え、この日行われた始業式では貧血を起こした数名の女生徒が倒れる事となった。
「で! その子が倒れこむ前に、絶妙なタイミングで受け止めて! 軽々お姫様抱っこで、保健室まで運んでいったわけよ!」
「へえ…流石っすねえ。乾先輩」
「だろぉ?」
始業式を終えて各教室へと戻っていく中で学年が入り混じり、階段で顔を合わせた菊丸と桃城が、大声でそんな話をしているので。
内容が、意識せずとも海堂の耳に全部届いてくる。
「でも周りがさ、いっくら冷やかしても乾は平然としちゃっててさー。つまんなかったにゃー」
「確かに乾先輩って、そういう局面で動じなさそうっすね……」
「桃と似てんね」
「そうっすか? 何でしたら英二先輩、俺が教室まで運びましょうか?」
「うわっ、…って言って、ほんとに持ち上げんなってば……!」
背後で繰り広げられている二人の様子は振り返るまでもなく判って、海堂は呆れ交じりの溜息をつきながら階段を上っていく。
ぽん、と気安くも丁寧な仕草で背中を軽く叩かれたのはその時だ。
「………不二先輩」
「やあ海堂。おはよう」
海堂が目礼で挨拶を返すと、不二は柔らかく笑って海堂と肩を並べた。
二年の教室が三階、三年の教室が四階になるので、何かの話をする程の時間はない。
黙々と階段を上る海堂を、不二はじっと見つめてくる。
「…………何っすか…?」
「ん? 海堂が今なに考えてるかなーと思って」
「菊丸先輩と桃城の話を聞いてって意味ですか」
「直球だなあ。海堂」
不二が何だか楽しげに笑ったので、海堂は小さく溜息をつく。
そんな海堂を見た不二がまた笑い、そうやって笑みと溜息は相乗効果で深められていくようだった。
「……別に何とも思ってないんですけど」
「乾が女の子をお姫様抱っこしたくらいじゃ、海堂は別に気にならない?」
「比べる事じゃないですから」
虚勢でもなんでもなく、海堂はそう口にした。
乾が女生徒を抱き上げて運んだり、それを冷やかされたりした事を、海堂が気にやむ筋合いは何もない。
「倒れた人間を放っておく方が、人としてどうかと思うんで」
「海堂、かっこいいね」
低く言った海堂に反して、不二の言葉は澄んだ声音で予想外に耳通りが良かった。
不二がそう言い放った瞬間、人混みであふれている階段は一瞬沈黙し、その後にどよめきが走った。
その気配を感じ取りつつ怪訝にそんな周囲の意味合いを図りかねる海堂に、不二は尚も言った。
「海堂の、かっこよくて、綺麗なところ、僕はすごく好きだなあ」
軽く笑みも交ぜて、じゃあね、と不二は海堂を追い越し四階へと上っていった。
三階と四階の合間の踊り場で、はあ、と海堂は眉根を寄せる。
何であんなに楽しそうなんだろうかと不二の背中を見送った海堂は、何だか周囲の好奇な視線と潜めた会話とに気づいて、不審気に辺りを見やった。
海堂が振り返ると、周囲の生徒達は強張ったように沈黙した。
「な、………ふ…、不二は、時々ああいう冗談でびっくりさせるなー…! なー、桃!」
「……っス…! そうっスね、英二先輩…!」
沈黙の中、不自然な程テンションを上げた菊丸と桃城の会話にも海堂は眉を寄せ、結局そんな不可解な周囲の反応など知った事かと、さっさと自分の教室へと向かった。
海堂の背後で桃城が、てめえの為にフォローしてやってんのにとか何とか喧嘩腰に喚いているのに、海堂はうんざり嘆息するのだった。
新学期早々、生徒達が飛びついた噂話が二つ。
一つは三年の乾貞治が、貧血で倒れた同じクラスの女生徒を平然とお姫様抱っこで運んで行ったと、色恋を騒ぎ立てるもの。
もう一つは三年の不二周助が、公衆の面前で二年の海堂薫に告白らしき事を、口にしたとかしないとか。
散々な冷やかしにも全く動じなかった乾が。
後者の噂話を聞きつけて、血相変えて下級生の教室へと向かった姿を。
見ていたのは、笑いを抑えきれない不二、ひとまず彼だけであった。
気が遠くなってしまった。
マズイ、と頭の中で神尾が思った時には、もう手遅れで。
体内には、まだしっかりと、強すぎる程の存在感が埋まったままで、でも逆らいがたい衝動で目の前は真っ暗になっていた。
「おい、……っ…?…」
そんな中で、聞きなれない、焦った声で。
「……神尾っ?」
跡部に名前を呼ばれた事だけが、辛うじて、神尾の記憶の残像となった。
神尾が十六歳になった日、その前の年の誕生日や、更に前の年の誕生日の時と同様、神尾の隣には跡部の姿があった。
最悪の第一印象で跡部と出会った時は中二だった神尾も、今では高一になって。
一学年の差は何年経っても埋まらないにしても、今日から跡部の誕生日までの数ヶ月は、年齢は同じになる。
跡部は、ずっと一緒にいても、それでも目を瞠るくらい、どんどん大人びていくのに。
自分はたいして変わらないなあ、というのが、十六歳になった朝、洗面台で顔を洗って、鏡に映った自分の顔を見た時の神尾の感想だ。
多分、見た目だけではなくて、性格とか、行動とか、そういうものも。
跡部と初めて出会った時から、自分は然して変化がないと神尾は思う。
跡部はいろいろと変わった。
正反対になったという訳ではなく、もっとすごくなっていったというか。
元々完璧みたいに整っていた顔立ちは、尚も凄みを増して一層綺麗になっていく。
足だけ伸びていくみたいに背が伸びる。
見目の上品さに充分伴う洗練された立ち居振る舞いをしつつ、口をきくと実はかなりさばけた印象で、毒舌家だが変に取り澄ましたところがないので、逆に周囲から一目おかれる事になる。
神尾に対しても、言葉でからかったり、態度であしらったり、そういう事は今でも勿論あるのだけれど。
例えば神尾の話す事に対して、先を促す時とか。
別れ際のキスだとか。
すごく甘く、すごく優しくなった。
始めの頃は、お互いの感情をただぶつけあう、声を張り上げるような喧嘩ばかりしていたのだが、最近ではそういう感情まかせな言い争いは殆どなくなった。
「………………」
神尾はふと、自分は何で、こんな、昔の事をしきりに思い返しながら今の事を考えていたりするのだろうかと、思って。
ぼんやりと、あれ?と違和感に気づく。
意識が、すうっと身体に戻ってきたような感じがする。
もう一度、あれ?と思いながら、神尾は目を開けた。
「神尾?………」
「…………跡…部…?」
軽く肩を揺すられている。
神尾を覗き込むようにしていた跡部は、目に見えて安寧の表情を浮かべた。
「………………」
綺麗な、男。
神尾は、跡部を見上げて思う。
「………おい?」
「……………ん……」
気遣わし気に頬を手のひらに包まれて、平気だという意味合いで神尾はこくりと頷いた。
「……どうした?」
「…ん…?……なに…?…」
「何じゃねえだろ……」
酷くしたか?と跡部は真剣な表情で言った。
一瞬意味を図りかねて。
神尾はただ無心に跡部を見返してしまう。
「………え?」
「乱暴だったかって聞いてる」
「……、……な……」
低い声にあくまでも真剣に問われて。
漸く意味を理解した神尾は、言葉を詰まらせた。
多分顔は赤い。
尋常でない羞恥に完全に負けてしまっている。
ベッドの上、神尾の顔の脇に肘をついて、顔を近づけてきている跡部の面立ちは秀麗だ。
その顔で、二年もずっとしている事なのに、今更だろうに、真剣にそんな危惧をみせてくるのは。
ものすごくずるいと神尾は思った。
「や、……全然そんなんじゃ、……何でそんな…」
「気失ってた。お前」
「……あ、…えっと………それは跡部のせいじゃなくって…、…」
うわあ、と神尾は叫び出したかった。
尚も間近から跡部に見つめ下ろされている自分の顔は相当に赤い筈だ。
神尾はもう息も絶え絶えに言った。
「気を失って…ってのは、…えっと、………献血のせいかなあ…と…」
「……献血?」
跡部の眉が微かに寄せられる。
神尾は必死に頷いて。
あ、まだちょっとくらっときてるな、と思う。
「十六になったらさ、やってみたかったんだよ。献血」
「全血の二百mlか」
「……十六はそれしか出来ねえもん……四百mlとか成分献血は、十八になったらやるんだ」
跡部と会う前に、神尾は初めての献血ルームに立ち寄った。
病院みたいなのを想像していた神尾は、待合室の漫画や雑誌の量や、ベッドごとに小型テレビがあったりすることや、自販機以外にもたくさんの飲み物が無料だったり、ドーナツやアイスが用意されていたり、ゲーム機やマッサージチェアー、しまいには手相の占い師までいたりする献血ルームを堪能し、真っ赤な献血手帳を受け取って、生まれて初めての献血をしてきたのだ。
その足で跡部の家に来て、最初のキスのまま抱きすくめられ、身体を繋げている中で、眩暈のようにそれはやってきて。
ヤバイ、と神尾が思った時にはもう、ブラックアウトしてしまっていた。
そんな訳で、ひょっとしたら貧血のような自失だったのだと、神尾は跡部に告げた。
どうやら要らぬ心配をかけてしまったようなので。
悪かったなあと思いながら、神妙に神尾は申告したのだが、話を聞くにつれ跡部の形相が変わっていって呆気にとられる。
「………馬鹿かテメエは」
辛辣な、恐ろしい程低く平坦な声音で跡部は言った。
「献血なんかしてんじゃねえよ」
「……、…なんかってなんだよ…!」
吐き捨てるような跡部の言葉に神尾もつられる。
「血とられて貧血起こすような奴が、献血なんてするんじゃねえって言ってんだよ」
「絶対貧血って訳じゃないかもだろ…!」
「自分で貧血だって言っただろうが!」
「ひょっとしたらって付けたよ俺は! だいたい初めてなんだから、まずはやってみなくちゃ判んないだろっ」
「じゃあもう二度とするなっ」
だいたいお前の血を何で見も知らぬ野郎に、とか。
何だかちょっととんでもない事をぺろりと言われたのだが、完璧に腹をたてている神尾にはそれを拾い上げる余裕がない。
「この人非人!」
「うるせえ!」
「俺の夢だった善意の行動に難癖つけてんじゃねえ! バカ跡部!」
「知るか! 俺以外の奴に構ってんじゃねえ!」
「何でそうお前は俺様なんだよっ」
跡部が、凄く、大人びたと。
確か少し前までは、考えていた筈なのに。
何だ、全然変わってないじゃん、と神尾は思った。
昔はいつも、神尾には訳の判らない所で跡部は腹をたてていた。
でも、こういう喧嘩はちょっと久しぶりだなと神尾は思って。
実はちょっと、楽しくもあった。
マズイ、と頭の中で神尾が思った時には、もう手遅れで。
体内には、まだしっかりと、強すぎる程の存在感が埋まったままで、でも逆らいがたい衝動で目の前は真っ暗になっていた。
「おい、……っ…?…」
そんな中で、聞きなれない、焦った声で。
「……神尾っ?」
跡部に名前を呼ばれた事だけが、辛うじて、神尾の記憶の残像となった。
神尾が十六歳になった日、その前の年の誕生日や、更に前の年の誕生日の時と同様、神尾の隣には跡部の姿があった。
最悪の第一印象で跡部と出会った時は中二だった神尾も、今では高一になって。
一学年の差は何年経っても埋まらないにしても、今日から跡部の誕生日までの数ヶ月は、年齢は同じになる。
跡部は、ずっと一緒にいても、それでも目を瞠るくらい、どんどん大人びていくのに。
自分はたいして変わらないなあ、というのが、十六歳になった朝、洗面台で顔を洗って、鏡に映った自分の顔を見た時の神尾の感想だ。
多分、見た目だけではなくて、性格とか、行動とか、そういうものも。
跡部と初めて出会った時から、自分は然して変化がないと神尾は思う。
跡部はいろいろと変わった。
正反対になったという訳ではなく、もっとすごくなっていったというか。
元々完璧みたいに整っていた顔立ちは、尚も凄みを増して一層綺麗になっていく。
足だけ伸びていくみたいに背が伸びる。
見目の上品さに充分伴う洗練された立ち居振る舞いをしつつ、口をきくと実はかなりさばけた印象で、毒舌家だが変に取り澄ましたところがないので、逆に周囲から一目おかれる事になる。
神尾に対しても、言葉でからかったり、態度であしらったり、そういう事は今でも勿論あるのだけれど。
例えば神尾の話す事に対して、先を促す時とか。
別れ際のキスだとか。
すごく甘く、すごく優しくなった。
始めの頃は、お互いの感情をただぶつけあう、声を張り上げるような喧嘩ばかりしていたのだが、最近ではそういう感情まかせな言い争いは殆どなくなった。
「………………」
神尾はふと、自分は何で、こんな、昔の事をしきりに思い返しながら今の事を考えていたりするのだろうかと、思って。
ぼんやりと、あれ?と違和感に気づく。
意識が、すうっと身体に戻ってきたような感じがする。
もう一度、あれ?と思いながら、神尾は目を開けた。
「神尾?………」
「…………跡…部…?」
軽く肩を揺すられている。
神尾を覗き込むようにしていた跡部は、目に見えて安寧の表情を浮かべた。
「………………」
綺麗な、男。
神尾は、跡部を見上げて思う。
「………おい?」
「……………ん……」
気遣わし気に頬を手のひらに包まれて、平気だという意味合いで神尾はこくりと頷いた。
「……どうした?」
「…ん…?……なに…?…」
「何じゃねえだろ……」
酷くしたか?と跡部は真剣な表情で言った。
一瞬意味を図りかねて。
神尾はただ無心に跡部を見返してしまう。
「………え?」
「乱暴だったかって聞いてる」
「……、……な……」
低い声にあくまでも真剣に問われて。
漸く意味を理解した神尾は、言葉を詰まらせた。
多分顔は赤い。
尋常でない羞恥に完全に負けてしまっている。
ベッドの上、神尾の顔の脇に肘をついて、顔を近づけてきている跡部の面立ちは秀麗だ。
その顔で、二年もずっとしている事なのに、今更だろうに、真剣にそんな危惧をみせてくるのは。
ものすごくずるいと神尾は思った。
「や、……全然そんなんじゃ、……何でそんな…」
「気失ってた。お前」
「……あ、…えっと………それは跡部のせいじゃなくって…、…」
うわあ、と神尾は叫び出したかった。
尚も間近から跡部に見つめ下ろされている自分の顔は相当に赤い筈だ。
神尾はもう息も絶え絶えに言った。
「気を失って…ってのは、…えっと、………献血のせいかなあ…と…」
「……献血?」
跡部の眉が微かに寄せられる。
神尾は必死に頷いて。
あ、まだちょっとくらっときてるな、と思う。
「十六になったらさ、やってみたかったんだよ。献血」
「全血の二百mlか」
「……十六はそれしか出来ねえもん……四百mlとか成分献血は、十八になったらやるんだ」
跡部と会う前に、神尾は初めての献血ルームに立ち寄った。
病院みたいなのを想像していた神尾は、待合室の漫画や雑誌の量や、ベッドごとに小型テレビがあったりすることや、自販機以外にもたくさんの飲み物が無料だったり、ドーナツやアイスが用意されていたり、ゲーム機やマッサージチェアー、しまいには手相の占い師までいたりする献血ルームを堪能し、真っ赤な献血手帳を受け取って、生まれて初めての献血をしてきたのだ。
その足で跡部の家に来て、最初のキスのまま抱きすくめられ、身体を繋げている中で、眩暈のようにそれはやってきて。
ヤバイ、と神尾が思った時にはもう、ブラックアウトしてしまっていた。
そんな訳で、ひょっとしたら貧血のような自失だったのだと、神尾は跡部に告げた。
どうやら要らぬ心配をかけてしまったようなので。
悪かったなあと思いながら、神妙に神尾は申告したのだが、話を聞くにつれ跡部の形相が変わっていって呆気にとられる。
「………馬鹿かテメエは」
辛辣な、恐ろしい程低く平坦な声音で跡部は言った。
「献血なんかしてんじゃねえよ」
「……、…なんかってなんだよ…!」
吐き捨てるような跡部の言葉に神尾もつられる。
「血とられて貧血起こすような奴が、献血なんてするんじゃねえって言ってんだよ」
「絶対貧血って訳じゃないかもだろ…!」
「自分で貧血だって言っただろうが!」
「ひょっとしたらって付けたよ俺は! だいたい初めてなんだから、まずはやってみなくちゃ判んないだろっ」
「じゃあもう二度とするなっ」
だいたいお前の血を何で見も知らぬ野郎に、とか。
何だかちょっととんでもない事をぺろりと言われたのだが、完璧に腹をたてている神尾にはそれを拾い上げる余裕がない。
「この人非人!」
「うるせえ!」
「俺の夢だった善意の行動に難癖つけてんじゃねえ! バカ跡部!」
「知るか! 俺以外の奴に構ってんじゃねえ!」
「何でそうお前は俺様なんだよっ」
跡部が、凄く、大人びたと。
確か少し前までは、考えていた筈なのに。
何だ、全然変わってないじゃん、と神尾は思った。
昔はいつも、神尾には訳の判らない所で跡部は腹をたてていた。
でも、こういう喧嘩はちょっと久しぶりだなと神尾は思って。
実はちょっと、楽しくもあった。
背格好やら顔立ちやらは大人びているのに、笑うと途端に甘く柔らかくなる男は、指の先まで蕩けそうに優しくて、とことん自分を駄目にする。
「宍戸さん。こっち来て。マッサージします」
「……いい」
「何でですかー」
つれなく突っぱねたのだから、少しは責めるなりすればいいものを。
何でまたそんな哀しそうな声を出して、尚も丁寧に微笑むのか。
ただでさえ宍戸には自分の勝手でこの夜半の特訓に鳳をつき合わせているという負い目がある故に。
これ以上何か、鳳にして貰うような事は極力なくしたいのだが、少しでも距離を置こうとすると、それは哀しげに鳳が肩を落とすものだから。
結局宍戸は折れるしかない。
「……判った」
嘆息して。
鳳の言うのに任せるしかなくなる。
宍戸が頷くと、鳳は殊更丁重に宍戸の手を取って、宍戸をベンチに座らせる。
宍戸の足元に鳳は膝をついた。
「………お前」
「はい?」
「……ほんと…マメだな」
「そうですか?」
「そうだろ…」
「そうですかね?」
「……………」
生真面目に返答してくる鳳を、お前がマメじゃなくていったいどういう奴がマメなんだという目で見据えて宍戸は呆れた。
宍戸の右腕に両手を当てて、丁寧に手のひらを滑らせマッサージしていく鳳は、目線を合わせなくても宍戸の眼差しに気付いているようで、丁重に宍戸の腕を扱いながら囁くようにして聞いてきた。
「鬱陶しかったりしますか?」
「……アホ」
「しつこいなーとか…」
「蹴るぞ」
「すみません」
宍戸の腕を見つめる鳳は、睫毛を伏せたまま笑って。
ゆっくりと上目に宍戸を見つめてきた。
「俺、宍戸さんにとにかく構って欲しくて」
「……………」
「甘えてるんです。すみません」
「………だから……どこがだよ」
甲斐甲斐しいのも、気をまわすのも、鳳で。
あれこれと甘えさせられてばかりいるのが自分で。
宍戸には、お互いの思っている事は、何だかこんなにもちぐはぐだと。
いっそ噛みあっていないくらいだと。
思えてならないのに。
「……………」
ふと落ちた沈黙に引き込まれるような衝動。
鳳の両手で支えられた宍戸の手の甲への、鳳からの口付け。
上体を屈めて鳳の髪先へ唇を埋めた、宍戸からの口付け。
軽く、甘い接触は、二人同時で、優しくつりあう。
「え、………」
「………っ……」
お互い、自身がするキスにいっぱいいっぱいで。
だから同時に相手から与えられたキスには一瞬遅れで気づいたようになる。
これもお互い。
「……宍戸さん」
「……、んだよ…」
まず驚いて。
仄かな羞恥。
そして余韻は、あくまでも甘く、どこまでもより親密に。
「宍戸さん。こっち来て。マッサージします」
「……いい」
「何でですかー」
つれなく突っぱねたのだから、少しは責めるなりすればいいものを。
何でまたそんな哀しそうな声を出して、尚も丁寧に微笑むのか。
ただでさえ宍戸には自分の勝手でこの夜半の特訓に鳳をつき合わせているという負い目がある故に。
これ以上何か、鳳にして貰うような事は極力なくしたいのだが、少しでも距離を置こうとすると、それは哀しげに鳳が肩を落とすものだから。
結局宍戸は折れるしかない。
「……判った」
嘆息して。
鳳の言うのに任せるしかなくなる。
宍戸が頷くと、鳳は殊更丁重に宍戸の手を取って、宍戸をベンチに座らせる。
宍戸の足元に鳳は膝をついた。
「………お前」
「はい?」
「……ほんと…マメだな」
「そうですか?」
「そうだろ…」
「そうですかね?」
「……………」
生真面目に返答してくる鳳を、お前がマメじゃなくていったいどういう奴がマメなんだという目で見据えて宍戸は呆れた。
宍戸の右腕に両手を当てて、丁寧に手のひらを滑らせマッサージしていく鳳は、目線を合わせなくても宍戸の眼差しに気付いているようで、丁重に宍戸の腕を扱いながら囁くようにして聞いてきた。
「鬱陶しかったりしますか?」
「……アホ」
「しつこいなーとか…」
「蹴るぞ」
「すみません」
宍戸の腕を見つめる鳳は、睫毛を伏せたまま笑って。
ゆっくりと上目に宍戸を見つめてきた。
「俺、宍戸さんにとにかく構って欲しくて」
「……………」
「甘えてるんです。すみません」
「………だから……どこがだよ」
甲斐甲斐しいのも、気をまわすのも、鳳で。
あれこれと甘えさせられてばかりいるのが自分で。
宍戸には、お互いの思っている事は、何だかこんなにもちぐはぐだと。
いっそ噛みあっていないくらいだと。
思えてならないのに。
「……………」
ふと落ちた沈黙に引き込まれるような衝動。
鳳の両手で支えられた宍戸の手の甲への、鳳からの口付け。
上体を屈めて鳳の髪先へ唇を埋めた、宍戸からの口付け。
軽く、甘い接触は、二人同時で、優しくつりあう。
「え、………」
「………っ……」
お互い、自身がするキスにいっぱいいっぱいで。
だから同時に相手から与えられたキスには一瞬遅れで気づいたようになる。
これもお互い。
「……宍戸さん」
「……、んだよ…」
まず驚いて。
仄かな羞恥。
そして余韻は、あくまでも甘く、どこまでもより親密に。
真夏のギラギラした光の中で飛ぶ、黒い揚羽蝶の羽のように見えた。
初めて、間近で見た、レンズで遮られない目。
暗がりの室内だったのに思わず目が眩んだ。
「海堂?」
「……………」
眉根を寄せるようにして瞬間目を閉じた海堂に、伺い問いかける、深い低音の呼びかけ。
乾の声に、海堂はぎこちなく伏せた眼差しを引き上げていった。
乾の手に掴まれている両肩が、少し痛い。
唇は痺れて、熱くて、少し怖い。
「……………」
お互いの身体の、初めての場所で。
一瞬だけ重なった。
触れ合わせた。
唇が言葉を邪魔する。
嫌だった訳ではないと海堂が首を左右に振ると。
判ってくれている優しい手に立ったまま後ろ髪を撫でられて、海堂は、ほっとした。
「………先輩」
「ん……」
ゆるい抱擁の中、吐息程度の返事にどれだけ海堂は宥められたか。
安堵感を覚えながら、海堂も乾の胸元に額を当てた。
「あんたの目が、蝶みたいだって思っただけだ……」
初めてのキスは、ふわりと、海堂の視界に黒揚羽蝶の羽ばたきのような光沢を落としていった。
それが乾の見慣れぬ裸眼であった事を、海堂は唇を塞がれながら気づいた。
「蝶?」
「……黒い揚羽蝶」
瞳の、どこまでも黒い色味の中に現れる閃光。
すこし角度が変わると、虹色のような光沢が微かに見てとれる、微妙な移ろいに。
海堂は目元にふわりと蝶が降り立ったかのように錯覚した。
「ラブラドール効果って知ってるか。海堂」
「……いえ…」
「黒い揚羽蝶の羽みたいにしさ、黒っぽい中で、角度によって見える光沢の事。そういう色の鉱石があるんだ」
長い腕で海堂を軽く抱き込みながら、乾の声は、ひそめられればひそめられるほどに甘かった。
抱き止せられるまま、海堂は。
だからそれが乾の目の色だったのだと告げる。
「俺も、海堂見てていつも思ってた事なんだがな」
「…………先輩…?」
「髪がさ…海堂の」
綺麗で、と乾は呟きながら、指先に海堂の髪をすくってくる。
互いの身体が少し離れて。
海堂は、自分の髪に触れている乾の節くれだった指を見つめた。
「真っ黒なんだが……角度によって光って」
「………………」
「夏の暑い中、目立って飛んでる綺麗な揚羽蝶みたいだって。走ってる時のお前の髪見て考えてた」
「…………あの、…なあ……っ…」
乾のあまりに衒いのない囁きに。
饒舌で、居たたまれないような賞賛に。
海堂が居心地悪げに声を振り絞れば、乾は盗むように海堂の唇を再び掠め取った。
「……俺だって初めてだ。目の事そんな風に言われたの」
「………………」
苦笑いの気配と、気恥ずかしいようなキスの接触。
海堂は、ひっそりと狼狽を噛み締めて。
お互い様らしい、お互いの黒を。
抱き締めあう事と、口付けを交わす事とで、受諾する事にした。
黒の中に宿る閃光は。
ラブラドール効果の行き先は。
目的に向かって確実に前進する事を表してもいる。
いっそ彼らの為にあるような、それは架空の揚羽蝶の羽ばたき。
距離を縮めて、近づいて、やっと、そっと、手に触れる事が出来るもの。
初めて、間近で見た、レンズで遮られない目。
暗がりの室内だったのに思わず目が眩んだ。
「海堂?」
「……………」
眉根を寄せるようにして瞬間目を閉じた海堂に、伺い問いかける、深い低音の呼びかけ。
乾の声に、海堂はぎこちなく伏せた眼差しを引き上げていった。
乾の手に掴まれている両肩が、少し痛い。
唇は痺れて、熱くて、少し怖い。
「……………」
お互いの身体の、初めての場所で。
一瞬だけ重なった。
触れ合わせた。
唇が言葉を邪魔する。
嫌だった訳ではないと海堂が首を左右に振ると。
判ってくれている優しい手に立ったまま後ろ髪を撫でられて、海堂は、ほっとした。
「………先輩」
「ん……」
ゆるい抱擁の中、吐息程度の返事にどれだけ海堂は宥められたか。
安堵感を覚えながら、海堂も乾の胸元に額を当てた。
「あんたの目が、蝶みたいだって思っただけだ……」
初めてのキスは、ふわりと、海堂の視界に黒揚羽蝶の羽ばたきのような光沢を落としていった。
それが乾の見慣れぬ裸眼であった事を、海堂は唇を塞がれながら気づいた。
「蝶?」
「……黒い揚羽蝶」
瞳の、どこまでも黒い色味の中に現れる閃光。
すこし角度が変わると、虹色のような光沢が微かに見てとれる、微妙な移ろいに。
海堂は目元にふわりと蝶が降り立ったかのように錯覚した。
「ラブラドール効果って知ってるか。海堂」
「……いえ…」
「黒い揚羽蝶の羽みたいにしさ、黒っぽい中で、角度によって見える光沢の事。そういう色の鉱石があるんだ」
長い腕で海堂を軽く抱き込みながら、乾の声は、ひそめられればひそめられるほどに甘かった。
抱き止せられるまま、海堂は。
だからそれが乾の目の色だったのだと告げる。
「俺も、海堂見てていつも思ってた事なんだがな」
「…………先輩…?」
「髪がさ…海堂の」
綺麗で、と乾は呟きながら、指先に海堂の髪をすくってくる。
互いの身体が少し離れて。
海堂は、自分の髪に触れている乾の節くれだった指を見つめた。
「真っ黒なんだが……角度によって光って」
「………………」
「夏の暑い中、目立って飛んでる綺麗な揚羽蝶みたいだって。走ってる時のお前の髪見て考えてた」
「…………あの、…なあ……っ…」
乾のあまりに衒いのない囁きに。
饒舌で、居たたまれないような賞賛に。
海堂が居心地悪げに声を振り絞れば、乾は盗むように海堂の唇を再び掠め取った。
「……俺だって初めてだ。目の事そんな風に言われたの」
「………………」
苦笑いの気配と、気恥ずかしいようなキスの接触。
海堂は、ひっそりと狼狽を噛み締めて。
お互い様らしい、お互いの黒を。
抱き締めあう事と、口付けを交わす事とで、受諾する事にした。
黒の中に宿る閃光は。
ラブラドール効果の行き先は。
目的に向かって確実に前進する事を表してもいる。
いっそ彼らの為にあるような、それは架空の揚羽蝶の羽ばたき。
距離を縮めて、近づいて、やっと、そっと、手に触れる事が出来るもの。
聴覚の駆使は全く苦にならないけれど、視覚の駆使は駄目なんだと生真面目な顔をして言った神尾に跡部は呆れた。
「お前が読書出来ねえのは、目の問題じゃなくて頭の中身の問題だろうが」
「むかつく!」
「……だから語意が増えねえんだ」
「…………ごい?」
「……………」
やっぱ馬鹿だろコイツ、と跡部は嘆息する。
「ボキャブラリーって事だよ」
「あー………」
「……判ってねえだろうが」
「…………うん」
そのくせ跡部が拍子抜けする程あっさりと肯定してみせた神尾は、まあいいかーと暢気に笑った。
笑うと極端に印象の柔らかくなる神尾の表情は跡部の溜息を再び呼んで、続く言葉を些か軽いものに変えさせた。
「それで? ひと夏にたった十冊の読書感想文も未だに一冊もクリア出来ないでいるお前が、俺様に何の用だ」
尊大と言われようが思われようが構わず。
ソファに深く寄りかかり足を組んだ跡部は、己の足元にちょこんと座っている神尾を細めた眼差しで見下ろした。
夏休みももう折り返し地点を過ぎている。
先まで聞かずとも、ここまで話を聞けばもう大概理解できるというものだ。
大方、読書感想文の代行という事だろう。
本来であるなら、跡部の性質的に人にそんな情けをかけてやる要素はこれっぽちもない。
人に、宿題を写させてやる事すらしないのに。
ましてや人の宿題をやってやるなんて行為は絶対にありえない。
通常ならば言われるまでもなくそんな申し出は即刻却下であるが、何分今回は相手が神尾である。
年下でありながら、跡部を跡部とも思っていないような、要するに跡部という男に対して、もういっそ無頓着でもある神尾だ。
宿題手伝ってくれ!くらいは平気で言うだろう。
ならばいっそ交換条件を持ちかけてみた方が、結果として自分が得かもしれないと跡部は考えていた。
そんな跡部の足元で。
神尾は跡部を見上げて、笑顔を見せる。
判っていてやっている筈もないが、その邪気のない笑顔には、どうも不埒な交換条件を諌められたような気持ちにさせられ、跡部は眉根を寄せた。
「あのさ。跡部はたくさん本読んでんじゃん」
「当たり前だろうが。てめえと一緒にすんな」
「うん。だからさ」
俺の代わりに感想文書いて、とか何とか。
言い出すのだろうと考えていた跡部の思考は、続く神尾の言葉によって遮られた。
「俺に、本読んで」
「……ああ?」
「俺さー、頭よくないけど、跡部の言った事とかは全部覚えてるし」
「……………」
「むかつく事とかも言うけど、俺、跡部の声は、すげー好きだし。跡部が読んでくれるの聞くんなら、読者感想文十冊とか、楽勝な気がする」
だからお願い、と顔の前で両手を合わせた体勢で、大真面目に頼んでくる神尾を、跡部は半ば唖然と見下ろした。
「……………」
馬鹿と天才は紙一重だというけれど。
こいつはその紙に違いない。
跡部はそう思った。
「……跡部?」
もしくは、知性は低いが恋愛は天才か。
「……お前の頭じゃ、一日一冊が限界だろ」
「え?」
「だから十日間」
短期集中型なんだ俺はと跡部は言って、神尾の腕を掴んで自分の膝を跨がせるように引き上げた。
「当然泊まりだからな」
「………は?」
「読み聞かせは眠る前にベッドの中で、が基本だろう」
「…………、……あと……」
神尾が、うろたえて赤くなるのを目にしながら。
跡部は神尾と軽く唇を合わせた。
「……っ…、……」
「本の選択権は俺だからな」
とびきり長い話の本を一冊。
とびきり甘い話の本を一冊。
泣かせてやろうかとか、怖がらせてやろうかとか。
跡部は頭の中にある情報を探って、十日間の夜の為の、十冊の本をチョイスするのだった。
「お前が読書出来ねえのは、目の問題じゃなくて頭の中身の問題だろうが」
「むかつく!」
「……だから語意が増えねえんだ」
「…………ごい?」
「……………」
やっぱ馬鹿だろコイツ、と跡部は嘆息する。
「ボキャブラリーって事だよ」
「あー………」
「……判ってねえだろうが」
「…………うん」
そのくせ跡部が拍子抜けする程あっさりと肯定してみせた神尾は、まあいいかーと暢気に笑った。
笑うと極端に印象の柔らかくなる神尾の表情は跡部の溜息を再び呼んで、続く言葉を些か軽いものに変えさせた。
「それで? ひと夏にたった十冊の読書感想文も未だに一冊もクリア出来ないでいるお前が、俺様に何の用だ」
尊大と言われようが思われようが構わず。
ソファに深く寄りかかり足を組んだ跡部は、己の足元にちょこんと座っている神尾を細めた眼差しで見下ろした。
夏休みももう折り返し地点を過ぎている。
先まで聞かずとも、ここまで話を聞けばもう大概理解できるというものだ。
大方、読書感想文の代行という事だろう。
本来であるなら、跡部の性質的に人にそんな情けをかけてやる要素はこれっぽちもない。
人に、宿題を写させてやる事すらしないのに。
ましてや人の宿題をやってやるなんて行為は絶対にありえない。
通常ならば言われるまでもなくそんな申し出は即刻却下であるが、何分今回は相手が神尾である。
年下でありながら、跡部を跡部とも思っていないような、要するに跡部という男に対して、もういっそ無頓着でもある神尾だ。
宿題手伝ってくれ!くらいは平気で言うだろう。
ならばいっそ交換条件を持ちかけてみた方が、結果として自分が得かもしれないと跡部は考えていた。
そんな跡部の足元で。
神尾は跡部を見上げて、笑顔を見せる。
判っていてやっている筈もないが、その邪気のない笑顔には、どうも不埒な交換条件を諌められたような気持ちにさせられ、跡部は眉根を寄せた。
「あのさ。跡部はたくさん本読んでんじゃん」
「当たり前だろうが。てめえと一緒にすんな」
「うん。だからさ」
俺の代わりに感想文書いて、とか何とか。
言い出すのだろうと考えていた跡部の思考は、続く神尾の言葉によって遮られた。
「俺に、本読んで」
「……ああ?」
「俺さー、頭よくないけど、跡部の言った事とかは全部覚えてるし」
「……………」
「むかつく事とかも言うけど、俺、跡部の声は、すげー好きだし。跡部が読んでくれるの聞くんなら、読者感想文十冊とか、楽勝な気がする」
だからお願い、と顔の前で両手を合わせた体勢で、大真面目に頼んでくる神尾を、跡部は半ば唖然と見下ろした。
「……………」
馬鹿と天才は紙一重だというけれど。
こいつはその紙に違いない。
跡部はそう思った。
「……跡部?」
もしくは、知性は低いが恋愛は天才か。
「……お前の頭じゃ、一日一冊が限界だろ」
「え?」
「だから十日間」
短期集中型なんだ俺はと跡部は言って、神尾の腕を掴んで自分の膝を跨がせるように引き上げた。
「当然泊まりだからな」
「………は?」
「読み聞かせは眠る前にベッドの中で、が基本だろう」
「…………、……あと……」
神尾が、うろたえて赤くなるのを目にしながら。
跡部は神尾と軽く唇を合わせた。
「……っ…、……」
「本の選択権は俺だからな」
とびきり長い話の本を一冊。
とびきり甘い話の本を一冊。
泣かせてやろうかとか、怖がらせてやろうかとか。
跡部は頭の中にある情報を探って、十日間の夜の為の、十冊の本をチョイスするのだった。
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