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How did you feel at your first kiss?
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 放課後、部室前で海堂と目が合った途端、乾は表情を変えた。
 そうと判る人間は限られるだろうが、少なくとも判る人間の中では、それはあからさますぎると言われているレベルの表情で。
 海堂にも、それはよく判った。
「海堂ー……」
 乾の低音の声が持つ艶っぽさが、遺憾なく発揮された声音。
 海堂は生真面目に見つめ返す。
 先に来ていたのは海堂の方で、乾は足早に歩み寄ってくるなり海堂の肩を両手で包んだ。
「海堂が足りなくて死にそう」
「……………」
 小さな溜息に込められている思いは深そうで、真顔で辛そうに嘆息する乾を、海堂は黙って見上げた。
 痛くない程度に鷲掴みにされている両肩の力加減が、あんたはいったい何をふざけているのかと言いたくなる言葉を海堂に飲み込ませてしまう。
「……………」
 それっきり乾が何も言わなくなったので。
 海堂も黙ったまま、じっと乾を見上げるだけでいた。
「………海堂」
 見目も声も一際大人びているくせに。
 自分の名前だけをそんな、無闇に甘やかしてやりたくなるような顔をして、声でもって、口にするなと海堂は思う。
「ちょっとだけ抱き締めていい?」
 何でちょっとなんだか判らない。
 どうしてたくさんじゃ駄目なんだ。
「……ほっそいなあ…」
 乾の手に抱き込まれた腰。
 あんたの手がでかいんだろうがと思う。
 だいたい今更。
 何でたった今知ったみたいに言うのか理解不能だ。
 海堂は乾の胸元に閉じ込められる。
 長い腕で縛り付けられる。
 乾のしたい事が海堂のされたい事だと、まさか乾は知らないでいるのだろうか。
「………逃げたい時は本気で逃げるようにね」
 自嘲めいた言葉の意味。
 そんなことは海堂は知らない。
 でもその言葉の道理を使うのならば、つかまえたい時は本気でつかまえればいいのだという事だろう。
 言葉の数を知らない自分だけれど、そうと決めて翻さない気持ちは持っている。
 あれこれと難しくいろいろ考えて、時折頭も身体も疲労困憊させている男を呼ぶための言葉は知っている。
「先輩」
 強く口にして。
 強く見つめれば。
 疲れて強張ったような表情を浮かべていた乾が、ひどく生々しく戸惑った気配を見せるので、海堂の気持ちも穏やかに凪いでいく。
 抱き締めたいのなら好きなだけ。
 好きなだけ抱き締めたらいい。
 足りないのなら欲しいだけ。
 欲しいだけ持っていけばいい。
 あと他に、望むものがあるのなら、言ってみろよと思って願って見つめ続ければ。
「………降参」
 珍しく少し赤い顔をして、乾は海堂の肩口に顔を伏せた。
 無口といよりも。
 言葉足らずな自分を海堂は自覚しているけれど。
 そんな海棠の性質を加速させたのは、判ってしまいすぎる乾が原因の一端だと思う。
「そうやって、あんまりにも見境なくお前のことを好きにさせていったら、俺は面倒で大変だぞ。海堂」
 乾はそう言った。

 乾の危惧が海堂の願望だと、まさか乾は知らないでいるのだろうか。
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 跡部のキスがいつもと違う。
 神尾が感じた違和感は不快なものではなかったけれど。
 神尾を不安にはさせた。
 普段なら頭を抱え込まれて貪られる唇に、今日はあくまで軽く。
 通常ならいやらしく音をたてて探られる口腔に、今日は撫でるよりも浅い接触。
 焦らされている時とは異なる、どこか覇気のない、跡部らしくないキスに。
 神尾は唇を合わせたままそっと目を開けた。
「………………」
 跡部は長い睫毛を伏せるようにしているだけで、目は閉じていなかった。
 あからさまに何か別の事を考えている目だ。
 さすがに神尾も、自分にされているキスが適当だとは評したくないのだが、これはどう考えたって。
 心ここにあらずといった状態の跡部がしてくるこのキスは、どう考えたって。
 適当、だ。
「………………」
 神尾の中に妙な敵対心が沸き起こってきた。
 神尾は唇の合わせを自分の方からもう少しゆるめて、舌をさしだした。
 普段であれば、神尾がこんな真似でもすれば。
 痛いくらいに跡部の口腔へと吸い込まれていく筈の神尾の舌を、今日の跡部は素通りした。
「………………」
 そういえば。
 いつもは神尾の身体を縛り付けるようにして回されている筈の跡部の両腕も、だらりと跡部の身体の両脇に下りたままだ。
 跡部の部屋で、二人きりでいて、交わすキスなのに。
 随分と儀礼的な感じがしてくる。
 そうやって、あれこれと、よくよく伺ってみれば本当に。
 今日の跡部の態度はおざなりで、ここにきて神尾は漸く不機嫌に眉根を寄せた。
 全く持って乗り気でないと言わんばかりの適当なキスに腹が立つ。
 別に、適当にならしなくたっていい。
 おざなりにならいらない。
 そう吐き捨てるのは簡単だったけれど、でも本音は神尾だってするならちゃんとしたキスが欲しいだけだ。
「………………」
 なので神尾は自分のの方から。
 下から伸び上がるようにして、跡部の唇に深く密着する。
 いつもは跡部がするように。
 しかし今日は神尾が伸ばした両腕で跡部の頭を抱き寄せて。
 神尾から跡部の胸元におさまるように近づいていって。
 それなのに、跡部の腕は軽く神尾の肩を掴むだけで、その腕も結局キスを離し、神尾の身体を跡部から引き剥がす為に使われた。
「…………なんだ? やりてえの?」
「………………」
 唇と身体が離れると、跡部は少しだけ笑って言った。
 でもその笑みと同じくらい少しだけ。
 跡部の機嫌がよくないのも判って。
 神尾はちょっと傷ついた。
「………………」
 それを押し隠して睨み据えた先で、微かな溜息まで跡部につかれてしまってその心情は余計にだ。
「……ったく。普段こんな真似してみせたこともないくせに」
「………………」
「噛み合わねえ時にばっか誘うんじゃねえよ」
 別に。
 跡部と噛み合わなくて。
 跡部がしたくないならしたくないでいいけれど。
 でもだからってそういう言い草があるか?!と神尾は内心で激しく憤慨した。
 実際は、そんな思いも口に出せないくらい、結構なショックを受けている神尾であるけれど。
 跡部の方こそ、普段ならどうしてそんなにがっついてるんだと神尾が焦るくらいなのに、今日はそんなにも低い熱量で自分を見つめるのかと。
 神尾が言葉を口にする事も出来ずに、跡部をただ睨みすえているだけでいる中。
 床に置いてあった跡部の携帯が無造作に着信音をたてた。
 神尾は緊張感の最中に割って入ってきたその音に驚いて、一瞬身体を竦ませたが、跡部は平然と電話に向かって手を伸ばす。
 あっさりと神尾から離れていって。
 その電話に跡部は出た。
「………………」
 本当にもう、ここまできたら何から何まで腹がたつ。
 何から何まで人の事を傷つける。
 神尾は心底から、むかつくやら悔しいやら哀しいやらで本気で泣きたくなってしまった。
 その間跡部は神尾に背を向けながら電話で誰かと話をしている。
 放ったらかしもいいとこだ。
 さすがに神尾も限界だった。
「………………」
 もうこんな所さっさと出て行ってやると、神尾が無言を貫き通して跡部を追い越し、部屋を出て行こうとした時だ。
 跡部が電話をかけてきた相手に「今から行きます」と返事をして電話をきった。
 適当なキスだとか、噛み合わない欲だとか、その上に自分など置いていって平気で出かけると言うのだから、ほとほと軽んじられてると怒りも最骨頂に達した神尾は、跡部を追い越しかけた所で二の腕をつかまれた。
 物凄い力でだ。
「……、……ッ…な…」
「………………」
 支えもないまま首が仰け反るほど強く深く唇を塞がれた。
 痛いような濃密すぎるこのキスを、神尾はよく知っている。
 身体は慣れないけれど、気持ちは慣れてもいる。
 馴染んだキスだ。
 跡部が必ずするキスだ。
 神尾を抱いている最中に。
「……お前、俺がこの後すぐにお前を抱けないって知った上であんな真似したんじゃねえだろうな」
「…ぇ……?」
 歯噛みするように苦々しく跡部に吐き捨てられて、神尾はくらくらする思考を凝らして、か細い問いかけを跡部に向ける。
 耐えかねたような勢いで跡部に貪られた舌が痺れる。
 跡部は相当凶悪な目をして神尾を睨みつけてきた。
 

 確かに、今日は約束をしていた訳ではなかった。
 確かに、神尾は駄目なら駄目でいいやと思って跡部の家に突然出向いてきた。
 そうして跡部は家にいたのだけれど、いきなりやってきた神尾を見て目を瞠り、些か複雑な顔をしてみせた。
 そういえば。
 確かに。


 跡部が急くようなキスの合間で毒づく言葉に、神尾は徐々に跡部の心中を知る。
 氷帝テニス部の監督である榊から、今日跡部の所に連絡がある事は最初から判っていた事だとか。
 そんな中で神尾が跡部の元を訪れた事だとか。
 でもそれならそれで、最初から都合が悪いとでも言って、帰せば良かっただろと神尾は手加減のないキスをされる仕返しに言ってやったのだが。
 その言葉で、跡部の機嫌は一層悪くなってしまった。
 腹いせのように首筋に軽い痛みと共に痕が残されるのを甘んじて受けながら、神尾は怒っている跡部の頭をそっと抱きこんだ。
 ちょっとでも。
 ちょっとだけでも。
 一緒にいたかったとか、思ってくれたんだろうかと。
 獰猛なキスを喉や首筋に埋められながら神尾は思う。
 神尾がおざなりと感じたキスも。
 踏みとどまれる跡部のボーダーラインだったのかと考えれば、随分と早い段階が跡部の限界地点なんだなと知って気恥ずかしくなる。
「な………行かなくて…い…のか?……」
「………くそったれ…!」
 何だかもう、そんな風に口汚く罵られているのに。
 その跡部の声音にうっかりと幸せになってしまった神尾は、獰猛な気配を放つ跡部の頬に、迂闊にもキスなんかしてしまって。
 激高した跡部に罵声と一緒に突き放されてしまった。
 そのまま跡部は走って出て行った。
 神尾を置いて。
 他人が聞いたら呪詛か悪態かというような、しかし神尾にとっては睦言でしかないような怒鳴り声も一緒に置いて。


 うっかり、迂闊に、それで神尾は幸せだったりするのである。
 もう本当に今度こそと意を決した顔で鳳が身体を離そうとするのを宍戸は伸ばした両腕で引きとめた。
「宍戸さ……」
 窘めるような声をもらした鳳の唇を宍戸は無言で塞いだ。
 力ない舌を差し出せば鳳の気配が怒ったような困ったようなものになって、舌はひどく優しくも噛まれてしまう。
 宍戸の誘いかけは、鳳に咎められているのだと判ったけれど。
 構わずに、宍戸は鳳の首に両手を絡めた。
 鳳の腰を合間において、まだ大きく開いている片足も擦り寄らせて縋れば、鳳が小さく息を詰めたのが触れ合わせた唇の感触で判る。
 そっと噛まれた舌で、懲りずに鳳に唇を舐めれば、宍戸の身体の奥が確かに重くなる。
 こうやって、何度繰り返しているのか。
 宍戸が誘う以上の激しさを、鳳は送り返してくるけれど、さすがに心配の度を越したような、どこか辛そうな目をしてキスをほどいてきた。
「宍戸さん」
「……………」
「無茶……しないで…」
「………るせえ」
「これ以上したら」
「うるさい」
 お前が悪いんだろうがと睨みつけて。
 俺は怒ってるんだと言ってやれば、宍戸の視線の先、鳳が頷いた。
「反省してます。本当に。だから、」
「……じゃ…抱け」
「だから、……これ以上は無茶ですって……」
 幾度したのか、ちょっとすぐには答えられないのはお互い共だ。
「ごめんなさい。ごめんね、宍戸さん。もうあんなこと絶対言わないから」
「だから……ゆるしてほしかったら、しろ。…バカ」
「宍戸さん……熱っぽいよ…?」
「………………」
「声もね、嗄れてるし。…息するのも苦しそうじゃないですか」
 労る手が宍戸の肩や頬を擦る。
 優しい所作は、普段ならば行為の終焉の時のものだ。
「涙、止まらなくなってるって…判ってる?」
 だからそんなのは誰のせいでどうしてかなんて。
 判ってるだろうと宍戸は鳳を睨みつける。
 涙が滲み続ける目元を、気遣いに溢れた鳳の大きな手が優しく優しく撫でていく。
「痙攣の仕方もだんだん酷くなってきてる。……これ以上は…ね…? 本当に無茶ですから」
「……、…れでも…」
「宍戸さん……」
「それでも、!」
 お前が悪い。
 だから抱け。
 宍戸はもう一度そう言った。
 それしか言えないのだ。


 鳳が。
 数年、十数年、先の話をした時に。
 宍戸さんが哀しんだりするような事が何もないといいな、と優しく綺麗な目を切なげにしてみせたから。

 数年、十数年、先の未来に。
 宍戸の隣に、まるで居ない可能性があるような、そんな眼を鳳がみせたから。

 
 それしか言えないのだ。
「お前が、悪いんだよ……!」
 繰り返し宍戸が怒鳴っている言葉に、鳳はその都度、真剣に詫び続けている。
 そういう意味ではないのだと。
 自分がどれだけ宍戸を好きか、それも全部言葉にして、かき口説いて、くるけれど。
 宍戸はそんな風に、自分に向けられた鳳の恋情を知るたびに。
 唯一生まれてしまった不安にどうしようもなくなった。
 もう無茶だと鳳が言っても。
 身体が熱っぽくなっていて。
 声は嗄れ、息が苦しく、涙が止まらず、痙攣がおさまらなくなっていても。
 抱け、と繰り返し言った。
「……俺を壊すこと、覚えろよ」
「宍戸さん、」
「俺に傷をつけること、お前はちゃんと覚えろ」
 そんな事に怯えて手放されるなんて宍戸は我慢出来なかった。
「一生、俺を壊さないとか、傷つけないとか、」
「………宍戸さん」
「そんなことするくらいなら離れた方がいいなんて、そんな馬鹿な決断なんかお前が一生、絶対、出来ないように」
 今、何度でも、覚えろと宍戸は思う。
 壊されたって、傷ついたって、鳳を好きなままでいる自分をちゃんと知っていろと宍戸は願う。
 だから宍戸は、無茶でもなんでも。
「……抱け…って……!」
 子供じみた癇癪のように声を振り絞れば、優しくて、優しくて、愛情を注ぐ事を惜しまない男は、宍戸の潤んだ視界の中で、奥歯を噛み締め険しい顔をした。
「………ッ……ん、っ…」
 唇に訪れたきつい口付けに宍戸は安堵する。
 壊れたって、傷がついたって、鳳の事を好きでいる自分を見て理解しろと。
 喉元を噛み付かれるように埋められたキスに、宍戸の唇は。
 幸福を溶かしこんだ透明な笑みを浮かべた。
 閉じている瞼に光が見えた、そんな気がして。
 海堂は眠気に思い瞼を引き上げていく。
 暗い部屋の中。
 眠い視界にやけにくっきりと海堂の目に映った乾の背中。
 座っていても長身と判る身体のラインから滲んでいるのは、乾が対面しているパソコンのディスプレイ光だ。
 海堂は暫くベッドに横向きに寝たまま乾の背を見つめていた。
 はめたままだった腕時計を、音のしないように毛布の中から引き上げて時間を見れば溜息が零れる。
「…………いい加減休んだらどうなんですか」
「あ、ごめん。眩しかったか」
 低い小声は、そのうえ掠れてもいたのに。
 乾は即座に海堂を振り返ってきた。
 背中の筋肉がシャツ越しに滑らかに隆起するのが見てとれる。
「…………俺の話じゃない」
「ん…?…」
 いいからほら、と海堂は寝ていた寝具の空いたスペースを手の甲で軽く叩く。
 海堂は泊まりに来た身で、これでは誰の為のベッドだが判ったものではない。
 しかし乾はやけに嬉しそうに近づいてきた。
「………………」
 海堂は上掛けの端を軽く持ち上げる。
 更に乾が笑うから、何だか恥ずかしい事でもしているみたいな気にさせられて。
 海堂は目つきもきつく乾を睨み上げた。
 ベッドに寝そべったまま乾を見上げる。
 見慣れぬ角度だ。
 襟ぐりの広いシャツから見える骨ばった鎖骨から首へのラインがやけに雄めいて見えるのは、少し前にそこに両手で縋りついた感触がまだ海堂の手のひらに生々しい所為だ。
「………………」
 足の狭間を口腔に長いこと捕らわれて、肩を押し返していたのは束の間で。
 最後はもう泣き声を噛み殺しながら乾の髪や首の裏側に指先を沈ませていた。
 実際には目にしていない筈の、嚥下した時の喉の動きを考えさせるような乾の首筋を見上げて海堂は唇を噛んだ。
「………………」
 毛布の端を引き上げていた手を下ろしてしまうのとほぼ同時に、するりと乾が毛布にもぐりこんできた。
 眼鏡を手探りでベッドヘッドに置くのを待って、海堂は憮然と言った。
「………あんたいつもこんなことしてんのか」
「いつもとまではいかないよ」
「人がいて落ち着かないとかなら言えばいい……」
「何言ってるんだ」
 低い低い笑い声はほんの少し気だるげで。
 疲れているのかと思えば、海堂の手は自然と乾に向かって伸びる。
 無意識に髪を撫でつけるようにして触れていると、乾は海堂の胸元に顔を伏せてきた。
「……葉末君にもしてあげた?」
「たまにですけど。……あいつ具合悪い時は一緒に寝たがったから」
「いいなあ……海堂がお兄ちゃんか」
「何言ってんっすか。先輩」
 実際の弟よりも数段に甘ったれた所作で乾は海堂の胸元にもぐりこむようにしてくる。
 けれども海堂の腰に回されてきた長い腕に、家族の気配や子供の仕草はまるで滲まない。
「……いー…匂い…」
「…、……せんぱ……、…」
 胸元から首筋に、味わうような唇が寄せられ滑ってくる。
 慈しまれながら楽しまれているように、本当に何かの匂いがするのかどうかは海堂には判らない。
 ただ海堂には、普段とは少し違って、ベッドの中ではあっても、自分に擦り寄って肌と肌を密着させてくる年上の男が、本当に心地良さそうな吐息を零すのに煽られた。
「海堂抱っこしてるとよく眠れるんだよな……」
 臆面もない言葉に、馬鹿言ってんじゃねえと海堂が言えば言ったで。
「海堂に叱れると気持ち良い。すっきりする」
 海堂の胸元で乾が笑うから。
「いいからもう寝ろ! 先輩」
「……ああ」
 怒鳴りつけて、乾の頭を枕に押し付けてやったのに。


 翌朝海堂が目覚めると、恋人はちゃっかりと。
 海堂を抱き締めながら、海堂の胸元におさまっていた。
 跡部の体温にあたたまった寝具は、近頃尋常でなく心地良い。
 神尾は寝ぼけ眼で身じろいで、その拍子に跡部の整いすぎる程に整った端整な顔を不意打ちで間近に見ることになり、今更のようにうろたえた。
「………………」
 一緒に寝てるとか信じらんね、と神尾は思う。
 今でも。
 そんなことを思いながらこうして跡部の寝顔を見つめていると、やけに現実離れした状況に自分が在る気がして、意識しないままぽつりと呟いた。
「…………いらなくなったら…上手に捨てろよな」
 優しくしたりしないといい。
 そういう時が来たら。
 もう立ち直れないくらい、未練なんか少しも残せないくらい、跡部の前にもう二度と立てないくらいにしてくれないと、自分はきっと。
「蹴り落とすぞ」
「………あと…べ…?」
「最悪なやり方で起こしやがって……」
 不機嫌極まりない、唸り声のような声を洩らして跡部が神尾を組み敷いてきた。
「何のつもりだ」
「……なんのって…」
 聞いたくせに答えさせない。
 強いキスで唇を深く塞がれた。
「…………っ…、ぅ」
 乱暴なキスは気持ちの良い寝床と寝起きの気だるさとは全く噛みあわない。
 睨み据えてくる跡部の眼差しは相当にきついし、キスも痛いくらいなのに。
 なんだろう、ほっとすると神尾は思った。
 本気で怒る跡部に、ほっとする。
「………蹴り……落とさないのか?…」
「うるさい」
「跡部……」
「俺は凄まじく腹立ってんだよ。抵抗するな」
「…………してない」
「嫌がるな」
「だから…してない」
 そんな力づくで押さえつけてこなくたって逃げない。
 脅すように言わなくたって跡部の言うこと聞くのに。
「跡部」
 眠るときに着たシャツをたくし上げられ、素肌に直接宛がわれた跡部の手は熱いのに。
 まるで寒いみたいに身体が震えた。
 大きくなっていく心音を確かめるように跡部の手が執拗に左胸の上を撫で擦ってきて、起き抜けにも関わらず神尾の鼓動はどうしようもなく乱れていった。
「捨ててくれって」
「………………」
「もう開放してくれって、頭下げられようが、泣いて頼まれようが、お前はもう逃げられねえんだよ」
「………………」
 物騒な眼差しと言葉とで、そんな風に吐き捨てられて、嬉しいなんて。
 自分はおかしいのかもしれないけれど。
 抱き締め返させてもくれない一方的な跡部を少しだけ恨めしく思って、でも神尾は。
 首筋に顔を伏せてきた跡部のキスをそこに埋められながら、握り潰されそうに拘束されている自分の手首を自身の顔の脇に見つめ、跡部の事をますます好きで、泣き出しかける。

 知り尽くせないお互いだから、何度も何度も、こうして相手に。
 キスをする、身体を繋げる、喧嘩をして、言い争って、そしてまた恋をする。
 気にしているなんて人には絶対言えないような小さな小さな不安は。
 目に見えないくらいの小さな小さな棘でもって、感情のひどくやわらかでもろい箇所にちくりと刺さってしまった。



 異性からは特に羨まれた宍戸の髪は、さして手入れなどしなくとも、まっすぐで、黒く濡れた様な艶を放っていた。
 宍戸が自らの手で長かったその髪を切った時、誰よりもそのことを惜しんだのは、誰よりも宍戸の髪を綺麗だと口にした同性の男だ。
 一つ年下の鳳が。
 どれだけ宍戸の髪を好きだったのか。
 無論宍戸も知っていたつもりではあったが、髪を短く切ってしまってから数ヶ月が経った今、鳳の口からその言葉を聞くとは思っていなかった。
『……長い方』
 テニス部の二年生達が集まる中に鳳の姿もあって、偶然その場を通りかかった宍戸の耳に、彼らの話題が自分であるという事が聞こえてきた。
『宍戸先輩って、髪が長い時と短い時とで随分印象変わるよな』
 どっちの方がいいと思う?と続いた問いかけに、バラバラな答えが飛び交っている。
 勝手に人の話で盛り上がってんじゃねえと宍戸は呆れたが、ふと気になったのは鳳の答えだった。
 彼は、どちらだと答えるのか。
 それで宍戸は足を止めたのだ。
 待ってみた。
 しかし鳳は何も言わないでいる。
 部員達から、お前はどうなんだよと名指しをされても、鳳は暫く明確な返事は口にしなかった。
 しまいにそこにいた人間全員に詰め寄られるようになって漸く、鳳は淡い苦笑いを浮かべて、短く言ったのだ。
 長い方、と。
 ふたつにひとつの二者選択。
 それもあまりにも些細な内容で、話題はすぐさま別の話にすりかわっていった。
 たいした話ではない。
 それなのに宍戸は、彼らに背を向けて、来た道を戻ってしまった。
 多分目にも見えないくらいの小さな棘。
 けれど、それからずっと、その棘は。
 刺さってしまった宍戸の心で、微量の痛みを放ち続けていた。



 だからそういう、くだらない理由だったのだと。
 宍戸は不貞腐れて言った。
 ここ数日。
 意識しないまま鳳を避けてしまっていた宍戸は、業を煮やした鳳にこの日とうとう捕まってしまった。
 切羽詰ったような顔をした鳳に強く腕を取られたのは下校途中の事だ。
 自分に対してこわいくらいに懸命な鳳が、宍戸にはかわいかった。
 何でも言う事を聞いてやりたくなるような、よからぬ思いに縛られてしまうくらいに。
 ここ数日間の宍戸の態度を、怖がる様にも責めるようにも見える目で、問い正してくる鳳に。
 宍戸は結局負けてしまった。
 たかがこんな事で、落ち込む自分がいやだった。
 言わないで済むならば言わずにいたかった事を、半ば強引に言う羽目になった宍戸は、腹立ち紛れに最後に吐き捨てた。
「髪、長い方がよかったんだろ。お前は」
 八つ当たりめいた言い方だったが、鳳は寧ろほっとしたような顔をした。
「…………よかった…」
「……なにが」
「知らない間に何かやらかして、宍戸さんに愛想つかされたんだったらどうしようって思ってた」
 紛う事無く、本気で安堵している。
 鳳の様子に、宍戸はほとほと呆れた。
 人目を集める派手な容姿を無類の人の良さで完全に中和しきっているような鳳は、通常の穏やかさなど放り投げる勢いで、宍戸のことに関してはこんなにも不安定だ。
 宍戸が無言で見据えている先で、鳳は優しい目をして宍戸の眼差しを受け止めた。
「あのね……宍戸さん」
「………………」
「宍戸さんの髪が、長い方がいいか、短い方がいいか、そんな二者選択、俺には無意味じゃないですか」
「……無意味?」
「そうですよ。だって俺、宍戸さんが好きなんですよ」
「………………」
 宍戸さんと宍戸さんを比べてどっちがいいかなんておかしな話でしょう?と鳳は微笑んだ。
「それをあいつらがどっちだどっちだって詰め寄るから」
「………長い方だって答えてただろ」
「それは確かに言いました。……俺の願掛けみたいなものですけど」
「願掛け…?」
 鳳が、そっと宍戸の肩を抱く。
 そういえば校内だったと今更ながらに宍戸が身構えたのにも構わず、人気のない所に連れ立っていく間も鳳の手は宍戸の肩から外されなかった。
「おい、」
「また俺が宍戸さんに甘えてるってくらいにしか映りませんよ…」
 鳳はそう言ったが、甘えているというよりこれは手馴れたエスコートだろうと宍戸は憮然とした。
 宍戸の肩を容易く手のひらに閉じ込めてくる大きな手。
 長い腕と、広い胸元。
 そんなに大事そうに肩なんか抱き寄せてくるなと思っても、宍戸に鳳の腕は払えない。
 裏庭まで来て、ひとけも完全になくなって、宍戸は鳳に抱き寄せられた。
「………………」
「長い方だって言ったら……」
「………………」
「宍戸さんの髪が長く伸びるまでは、絶対に、一緒にいられるって事だなと思ったんですよ」
「………一緒にいるのを……いつまでとか…考えてんじゃねえよ」
 そんな事を願掛けだなんて言われても、宍戸には納得がいかない。
 例えばこの先、もしも何かがあって。
 つきあっていくことが出来なくなるような出来事が、仮に起きたとして。
 そうなった時に、簡単に、諦めてしまえるような存在にはなりたくないのだ。
 何が起きても、絶対に手放せないと、鳳に執着されるような存在に宍戸はなりたい。
 鳳とつきあい始めてから、宍戸はずっとそう考えている。
「……宍戸さん」
 宍戸に刺さった棘を。
 宍戸自身がその場所も判らないような小さな小さな場所を。
 鳳は何故か容易く察してきて、優しい言葉で宥めながら、取り除こうとする。
「宍戸さんの長い髪が、本当に、ものすごく綺麗だったから。ずっと見惚れてたんです」
「………………」
「宍戸さんだからですよ。長い髪が好きなのは」
 今は短い宍戸の黒髪を、鳳の指が、愛しそうに幾度もすいていく。
「……長太郎」
「宍戸さんだから、短い髪が好きです」
「………………」
「俺は宍戸さんが好きです。……知ってるでしょう?」
 囁きと一緒に口付けが。
 宍戸の頭上に埋められる。
 きつく抱き締められる。

 棘はどこに行ったのか。

 縛り付けるように抱き締めてくる鳳の腕の強さに。
 棘は恐らく融けたのだ。
 花がある時には葉がなくて、葉がある時には花がない。
 決して出会う事がない花と葉は、しかし一本の茎を共有して生きている。


 日が落ちるのが早くなった。
 夜の色が濃くなった。
 肌を焼くようだった夏の空気はもはや跡形も無い。
 いつものように走っていても、どこか追い立てられるような気持ちになった。
 早くなった夜の訪れに。
 深くなった秋の気配に。
 冷たさを孕んだ外気に。
 近頃の、季節の移り変わりを感じて、それを振り切ってしまいたいような思いが何故胸を巣食うのか。
 海堂には判らない。
「………海堂……ペースあげすぎだ」
「………………」
 低い声と一緒に、背後から手首を取られて止められる。
 言葉だけでは聞き分けない子供を止めるような仕草だと思う。
 それでも別段腹はたたない。
 乾のする事だ。
 それだけで無条件に海堂には受け入れる事が出来る、どこか魔法じみた効力が乾にはある。
 馴染んだ自主トレを共にする時間の最後の走りこみで、言われてみれば確かにペースを上げすぎていたと、海堂はゆっくりと足を止めた。
 海堂の少し後ろを走っていた乾も、そのまま足を止める。
 海堂の手首は、乾の手に捉えられたままだった。
「………………」
 少しだけ乱れている程度の息使いは、冷えてきた夜の空気に容易く溶ける。
 鎮められ、静められる。
 海堂の手首だけが、拘束の器具のように乾に捉まえられていて、放熱するように熱かった。
「花が…咲いてるな」
 唐突な乾の言葉、抑揚のない声に様々な感情を灯している乾の声音が海堂に沁みて来る。
 声で刺激されるような曖昧でいながらも強い印象で。
 海堂が目線を向ければ、燃えるような色の花がある。
 繊細で屈強な、緋色の彼岸花が咲いている。
 乾が花の側へと歩き出したので、自然と海堂もその後に続く事になる。
「彼岸花は、花がある時には葉がなくて、葉がある時には花がないんだ」
「………………」
「決して出会う事がない花と葉は、だけど一本の茎を共有して生きている」
 本来であれば群生する彼岸花は、誰かが分けて植えつけたのか、ほんのひとかたまり、道端に咲いていた。
 同じ茎を持ちながら、決して花と葉が共に有る事はないという彼岸花は、今は花のみで形成されている。
 そんな花はつまり、何かにひどく似通っていないだろうか。
 海堂の抱いた思いに、乾の声音は低く浸透してきて、響いた。
「………海堂」
 笑み交じりの呼びかけに、海堂は顔を上げて乾を見上げた。
「俺達みたいだなんて俺は考えてないぞ」
「…………別に……んなこと言ってねえ」
「花は葉を思い、葉は花を思う。彼岸花はそう言われているから、そういう所はなぞらえてもいいと思うけどね」
 自分達に、と海堂の手首を握る手に力を込めた乾に。
 海堂は気づかされてしまった。
 変化することへの、困惑。
 共にテニスをする事、部活で一緒にいた時間、いつの間にか当然の事になっていた一緒の二人で自主トレ。
 そういうものが、秋の訪れと共に移ろっていくこと。
 変わっていくこと。
 彼岸花の茎のように、確かに乾と海堂とで共有しているものはある。
 思いの軸がある。
 しかし、部活を引退し来年には高等部に上がる乾と、中等部にいる海堂とでは。
 花がある時には葉がなくて葉がある時には花がない、そんな彼岸花のようになるかもしれない現実は確かに未来にあるのだ。
「なあ、海堂」
「………………」
「俺は海堂を思うし、海堂は俺を思う」
 だからこの先、環境が変わっても。
 何も不安にならないようにと、乾は少しだけ海堂をからかって諭すような言い方をした。
 しかし、そうやって物言いを明るく緩めても、手首を握りこむ指の強さに乾の強い気持ちは伝わってきて。
 海堂は、ふと詰めていた息をふわりとほどいた。
「…………あんた…最近」
「ん?」
「………………」
「ああ……言葉を惜しまない事にしただけ」
 海堂の沈黙の中から正確にその意図を汲んだ乾は、恐らく海堂が漠然と抱えた不安にも気づいているのだろう。
 部活を引退した後も自主トレはずっと一緒に続けられていて。
 海堂の感情に細やかに気を配り、それまでよりも随分とストレートな物言いをするようになった。
「海堂がうんざりするくらい言っておこうと思ってね」
 これまでと環境が変わっても。
 何も不安にならないように。
 そう繰り返し、乾は海堂の手を引いた。
 今度は、乾の胸元に。
「………………」
「部活も引退しちゃったからね。海堂に本腰入れようかと」
「………普通それは、受験勉強を言うんじゃないんすか」
 正面から、そっと抱き寄せられるのに逆らわず。
 背中に宛がわれた乾の手のひらの感触に海堂は一瞬目を閉じる。
「海堂の事の方が難しいし、俺の一生がかかってるって感じなんだよね」
「…………真面目に言うな」
「真面目なんだよ」
「…………………」
 乾の胸元に軽く顔を伏せて、思わず海堂は赤くなった。
 本当に乾が真面目なものだから。
 どういう言い草かと、呆れる言葉も羞恥にとけて消える。
「お前を、もっと俺のものしたいんだ。俺は」
 怖いくらいの真剣な欲をぶつけられて、身体が揺らぎそうになる。
 呟くような言い方なのに。
 聞いたこともないような声で乾は海堂にそう言った。
 海堂は乾に背中を抱かれたまま。
 自分からももう少し乾へと近づいた。
 言葉が気持ちに追いつかなくて、海堂に出来るのは動物めいた衝動での接触しかない。
「…………………」
 乾の喉元。
 喉仏に口付けて、小さな動きを唇に感じ取りながら、海堂は腕を伸ばした。
 感触だけを頼りに、手探りで、乾の眼鏡を外し、その目元を手のひらで覆い、爪先立った。
 下から、かぶりつくように。
 乾の唇をキスで塞ぐ。
 乾が言葉を惜しまないと言うのなら、海堂は苦手な言葉の分だけ行動で返していこうと思う。
 花は葉を思い、葉は花を思う、片時も忘れえない、そうして艶やかに咲く彼岸花のように、自分達も咲くならば。
「…………………」
 乾は海堂に目を塞がれたまま、海堂の背筋を抱く手に力を込めてきた。
 絡み合った舌と舌とが、お互いを繋げる。
 花と葉という個々の思いをそれぞれ生み出す茎のように、キスを結んだ。


 繊細で屈強な、緋色の彼岸花が咲いている。
 赤い舌と舌とが絡んで、花のように濡れた。
 帰宅時に家から車を呼んで、跡部は今朝から自分の元に集まったバースデイプレゼントの山を全て運ばせた。
 そうやって。
 身軽になったと思ったのはほんの一時。
 今度は、学校を出たら出たで。
 その瞬間から跡部の元へと再び集まり出すプレゼントの数々に、跡部慣れしきっている氷帝テニス部の面々ですらも呆れたり感心したりと実に忙しい。
「………さすがですね…跡部さん」
 ギフトボックスが詰め込まれていく紙袋を両手に下げて鳳は生真面目に感心している。
 樺地は鞄があるから、そっちは俺が持つよと言い出した人の良い鳳の少し前を歩きながら、機嫌が悪いのは宍戸だ。
「下級生を顎で使ってんじゃねえよ。跡部」
「ああ? 鳳が自分で持つって言ったんだろうが。お前こそどれだけ鳳に過保護なんだ? 宍戸よ」
「うるせえ!」
 人の悪い笑みを浮かべる跡部と、不機嫌さが増す宍戸の小競り合いはいつもの事で。
 鳳は困ったように笑い、樺地は困ったように沈黙して、上級生の後を歩いていく。
 眠たくて眠たくてどうしようもなくなって、ふらふらよろよろ辛うじてといった状態で歩いているジローにかかりきりなのは日吉と滝で。
 最後尾にいる向日はそんな三人を指差して笑っている。
「なあなあ侑士。ジローの奴、おむつが重い、歩き始めの幼児みたいじゃね? おもしれー!」
「それで、あっちがおとんで、そっちがおかん?」
「そうそうそう!」
 日吉と滝は、身体を半分に折る勢いで爆笑する向日ではなく、悪ノリさせる忍足を責める様に、ジローを挟んで振り返り、睨みつけてくる。
 そんな事など眼中にない様子で飄々と向日を増長させるような相槌ばかりをうっていた忍足が、ふいに低い声を響かせて言った。
「跡部」
「何だ」
 足を止めた最前部と最後部。
 目線を合わせた二人の狭間で他のメンバーも思わず立ち止まる。
「パンダや」
「………ああ?」
「パンダが走ってくる」
 忍足が指で指し示した先は、彼等が歩く歩道脇の道路の向こう側。
「……………パンダ……」
「…………………ほんとにパンダだ……」
 パンダー、イェーイ、と突如目を覚ましてハイテンションになったジローを除く全ての人間が、唖然となって見つめた先。
 きぐるみパンダがものすごいスピードで道路を渡ってこちら側に向かって走ってくる。
 次の瞬間、ギャー!と叫んだのは向日で、何故かといえば勢いあまったパンダが躓いて、そのままのスピードでこちら側にゴロゴロと転がってきたからだ。
 阿鼻叫喚の中、お前らどけ!と物凄い大声を出したのは跡部で、言われなくても!と言葉にならないままにその場から飛びのいたのが全員だ。
 白と黒とのパンダは、何故か一人避けなかった跡部にぶつかって、でんぐり返って漸く止まった。
 歩道に足を開いて座り込んだ態勢で、ごろんと被り物の頭が落ちる。
 身体だけがパンダになったその物体。
 パンダのなかみは満面の笑顔でパンダ手を上げて言った。
「よう、跡部!」
 不動峰中の二年、神尾アキラがパンダのなかみだ。
 正真正銘その場に腰を抜かしてしまった氷帝学園テニス部の面々の中で、流石は元カリスマ部長、跡部景吾である。
「…………何の真似だこれは」
「パンダだよ! 見てわかれよう。可愛いだろう? パンダ」
「可愛かねえよ。馬鹿」
「馬鹿って言った! 可愛いじゃんかよ!」
「……んな訳わかんねえパンダよりか俺は中身のがいいんだよ…!」
「パンダ可愛いじゃんか! この可愛さ判んないなんてバカだろ跡部!」
 神尾は跡部の発言を流したのか気づいていないのか。
 結構とんでもなく甘い事を跡部が口走ったのを、その場にいた人間はしっかり聞きつけてしまって更なるダメージで立ち上がれない。
 ただでさえ、きぐるみパンダ姿がやけに似合っている神尾と、氷帝きっての有名人跡部との異色の構図はインパクトが強すぎるのだ。
 どうやら喧嘩しながらも交わされる二人の会話の端々から伺うに、神尾は友人のピンチヒッターとして、このきぐるみを着ているらしい。
 バイト代も出るんだぜ!と今度は一転してにこにこと笑う神尾は、座ってしまっている跡部に顔を近づけるようにして、四つん這いになっている。
 往来で見るのは有り得ない光景だろうと、自然と集まってしまった座り込み組達は、手に手をとらんばかりになっていた。
「てめえ……何でよりによって今日、バイトなんざしやがるんだ」
「今日だからだろー。跡部、誕生日おめでとうなー」
「ついでみたいに言うんじゃねえよ」
 跡部さんものすごく拗ねてます。
 鳳が大真面目に跡部を評するのに、異論の返答は勿論ない。
「ついでなんかじゃないって。だってもうバイト終わったんだぜ? このまま跡部の所行こうと思ったら、跡部が見えたからさ。だから俺走ってきたんだぜ」
「………危ないだろうが」
「そういや跡部って、パンダの中身が俺でも驚かなかったな?」
「当たり前だ。何着てたって中身がお前なら判るに決まってる」
 跡部さんものすごい愛ですね。
 尚も鳳が言って、それで漸く面々は呪縛が解かれたようにのろのろと動き出した。
 これ以上ここにいるのは居たたまれない。
 だいたい跡部も神尾も、お互いの事しか見えていない。
「樺地、跡部の荷物貸せ。あいつん家の庭に放り投げてくる!」
「……ウス」
「宍戸さん、ここに置いていかないんですか?」
「お前の持ってるその誕生日プレゼントがあるだろ……そんなもん置いていけねえだろ。庭に一個投げるも二個投げるも同じだ」
「………神尾君の為ですね。宍戸さん優しい」
「うるせ」
 ここはここで甘い。
 一方ジローは現実逃避で再び眠ってしまったので、日吉と滝がまたもや悪戦苦闘し始めた。
 一人威勢良く悪態ついている岳人の隣で、忍足は真剣に考え込んでいる。
「なあ岳人。このパンダの頭はどないしよか……」
「転がしとけ侑士…!」
「まあ、そう怒んなや。岳人」
「最悪カップルだ……あいつら……」
「いやいや……ある意味最強やで?」
 そうして往来に残されたのは。
 今日誕生日を迎えた綺麗な顔の男と。
 パンダのきぐるみを着た一つ年下の恋人と。
 パンダの頭のみだった。
 広いベッドの上で。
 柔らかい毛布の内側で。
 囲われてしまう腕の中でのおいかけっこ。

 
 跡部の声は、まるで自分に手をやいているかのように聞こえた。
「おい。逃げるな」
「逃げるだろ。逃げるよ普通。何で引っぱんだよ」
 疲れた身体で必死にもがく神尾を、跡部は難なく封じ込めた。
 裸の胸に引き寄せられる。
 背中に手のひらが宛がわれる。
 まだ少し息があがっている。
 跡部も、神尾も。
「しねえよ。もう。…………しねえって言ってんだろ。逃げんな。何で暴れんだ」
 神尾が尚ももがくのを止めないでいたら、跡部は不機嫌そうに、でも根気良く、神尾を宥めすかそうとしてくる。
 跡部にも多少の倦怠感が垣間見える腕に抱き締められて、神尾は、何でかなんて聞くなよと思った。
 何でかなんて、そんな事は決まっているのだ。
「だってよう……」
「…何だ」
「跡部がもうしないって言っても、……じゃあこうやってて俺がしたくなったらどうすんだよ」
「………………」
「………どうすんだよ?」
 そしたら困るだろうと神尾は思って言ったのに。
 何だかとんでもないようなすごい力で跡部に抱き締められてしまった。
「…、っ……な…、…に……?…苦し…、…って、ば…! 跡部、?」
「………どう考えても今のはお前が悪いだろ」
「は?…いや、俺は全然悪くないだろ…っ……」
 だいたいまだ服も着ていないのだ。
 お互い。
 こんな風にきつくぎゅっと抱き締められたりなんかすると、へんになる。
「………人がしねえって言ってやってる側からこれか」
 らしくもなく甘やかしすぎたと苦々しく呟いた跡部に抱き締められて、神尾はもうもがくことすら許してもらえなくなった。
「ちょっとは判れ。てめえも」
「…、跡部?」
 手をとられる。
 導かれる。
 触れさせられて、包みこむようにしろと教えられる。
「……、っ…、……」
 手のひらの中で感じた脈に背筋を震わせた神尾は、唇を跡部からのキスで深く塞がれてしまう。
 すきまなく食い違わせた唇は甘く密着して、生々しく口腔を舌で辿られる。
 手の中で。
 重くなる。
 熱くなる。
 神尾はいよいよどうにも出来なくなって、キスを受けながら瞳を潤ませた。
「…………、」
 するとすぐに跡部の唇は神尾の眦へとやってきた。
「やらねえよ。泣くな、バカ」
「……んで…?…」
「ああ?」
「しな……ぃ…、の……何で……?」
「最初に言った」
「でも、だって、これ」
 神尾は次第に顔を赤くしていく。
 伝導してきた。
 跡部に触れている手のひらから。
「あーうるせえ。こんなのはいつもだっつーの」
「………………」
「今までだってどれだけこのまんま我慢させてきたと思ってやがんだ。お前」
 いい加減呆れ返ったような跡部の物言いに、神尾は狼狽した。
「な、…そんなの俺、知らなか……」
「教えなかったんだよ」
「…………言えよ…ばか」
 くたくたと神尾の身体から力が抜けていく。
 跡部が少し笑ったのが振動で判った。
「お前はくたばってんので精一杯だからな」
「………がまんとかするなら、それでもすればよかったんだ」
 どれだけ自分がくたばっていたって。
 でも、神尾のそんな言い分は。
 跡部によって手荒に甘く切り捨てられた。
「俺の一番大事なもん壊せってのか? 正真正銘の馬鹿だな。てめえは」
 雑な声音。
 凄む言葉。
 そんな風に本気で大事にしてきて。
 本気で呆れ果てている跡部に。
 神尾が出来る事といったら。
「………どっちが正真正銘の馬鹿だよ」
「アア?」
「俺がしたくなったらどうするんだって、俺は最初にちゃんと言ったのに」
「神尾?」
「……………どうすんだよ」
 拗ねきって。
 神尾は跡部の首筋に両腕でしがみついた。


 おいかけてこないなら、おいかけていく。
 おいかけてくるなら、例え逃げはしてみても、最後にはきちんとつかまえられてやるから。

 どうするんだと、一方的に責めてやるくらいは神尾だけの特権だ。
 欲しいだけ抱いた後になって、何だか辛がる目で自分を見つめてくるのは止めて欲しいと思う。
 そのくせ自分が目線を合わせてやれば、微妙に逸らされたりするのも。
 声が出るなら一喝してやりたいし、手足が動くのならば殴るなり蹴るなりしてやりたい。
 そのどれも叶わない、でもその事が腹立たしいのではない。
 判れ、と宍戸が目線で訴えて睨みつけてやれば、鳳は漸く観念したらしかった。
 ベッド脇に立っていた鳳が、膝をつく。
 ベッドから出られない宍戸の視線に近づいてくる。
「………………」
 ごめんね、とちいさなちいさな声と一緒に頬に唇が寄せられて。
 ちいさくちいさく痛む身体を、大きな手のひらが宥めて擦る。
 宍戸は瞬きすら億劫なままベッドに腹這いでいて、会えないでいた時間の分だけ長くなった行為の余韻で、声が出ない、身体が痛い。
 でもそれが嫌なのではない、辛いのではない。
 判れ。
 祈るように鳳からのキスを受け止める。
「………俺には勿体無い人だって、思ってるんです。いつも」
 どういう馬鹿だ。
「それでも、どうしても、宍戸さんを誰にも絶対触らせたくないから」
 そういう事なら。
「無茶でも、酷くても、俺だけがする。他の誰にも、触れさせないって決めた」
 鳳は言った。
 宍戸は聞いた。
 だから。
「…………き……たから…な……」
 声が戻ってくる。
「………………れ…よ……」
 言ったのだから。
 聞いたのだから。
 守れ、と宍戸は返した。
 ずっと、ずっと、これから先もずっと守っていけ。
 決めたと、鳳が宍戸に教えたその言葉を。
「誰にもやらない」
 当たり前だと宍戸は思って身じろいだ。
 腰が真綿のように軽くて感覚がない。
 仰向けになる為の、手足の動かし方が判らないかのようになっている自分の身体を持て余す。
 床に膝をついて顔を近づけてきて、目線の高さを同じくしてくる鳳を。
 威嚇じみた眼差しで睨み据え、宍戸は重たい腕を伸ばした。
 指先が震えるように伸びていく手を鳳へと伸ばした。
 ベッドに乗り上げてきて、宍戸を組み敷きながらもこの腕に抱き込まれてくる鳳が、好きで、好きで、どうにかなる。
 判れ、と宍戸はまた思った。
「………………」
 宍戸の顔の両脇に手をついて、見下ろしてくる鳳に。
 宍戸は明け透けに何もかも晒して。
 表情も、身体も、思う心の内、全て晒して。
「お前が抱く身体だ……これは」
「………………」
「全部……お前の好きにしていい、一人だけの人間が俺なんだろ」
 何を当たり前のことをと、普段より少し荒い口調の鳳の言葉が宍戸の恋情を焼く。
 残り火が焚きつけられたようになる。


 判れ。
 守れ。


 生まれた日に、宍戸が鳳に願うものと欲しいものは、ただそれだけだ。
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