How did you feel at your first kiss?
鳳が宍戸から逃げている。
宍戸がちょっとでも近寄ろうものならば鳳は断固としてそれを拒否をする。
これはいったい何事かと氷帝のテニス部内は騒然となった。
逆ならばまだしもと。
公然と言われてしまっている辺り、当事者である鳳と宍戸にも複雑な思いがあったのだが、とりあえずもっかのところ彼らに外野に構っている余裕はなかった。
「柔軟」
「別の人として下さい。宍戸さん」
眼光鋭く宍戸が鳳の前に立つ。
鳳は鳳で溜息交じりに頭を下げる。
お願いしますとまで鳳に言われて、宍戸の表情はますます厳しくなった。
「嫌だ」
「……嫌だじゃなくて。……ほんとお願いですから。宍戸さん」
「知らねえよ。いいから柔軟だっつってんだよ。俺は」
「だから、俺は宍戸さんとはしませんって言ってるじゃないですか」
ダブルスは一応どうにか出来ますからと鳳が疲れたように言って。
宍戸が一層機嫌を悪くしていく。
険悪ともいえる雰囲気は、少なくとも鳳と宍戸が醸し出すという事など、通常ならば有り得ない程の険悪さだ。
氷帝テニス部員達はこぞって顔を引きつらせていた。
さすがに普段ならば大抵のことには動じないレギュラー陣でさえも、あまりの雲行きの悪さに彼らの様子が気になって仕方ないようだった。
「………侑士ー…! どうしたんだよあいつら!」
向日の体当たりを平然と受け止めた忍足は、なんやろなあ?とこちらも不審気に首を傾げている。
「えー、あれって鳳がきれてんの? えー、なんで鳳が宍戸にあんなこと言うの? なあ日吉? なんだあれー?」
「……………知りません。ユニフォームが伸びます。手を離して下さい」
うんざりとした風情で、しかし日吉は背後を流し見るようにして鳳と宍戸を伺ってもいる。
ジローは日吉に軽くあしらわれると気にした風もなく、今度は樺地へとかけよって、同じ質問をぶつけていた。
レギュラー陣がこんな調子なのだ。
二百名はいるテニス部員達が浮つくのも無理はない。
しかし、そこに一人、容赦のない男もいるわけで。
「てめえらいい加減にしとけよ」
なまじおそろしく顔立ちの整っている男なので。
跡部がそう低く言って凄むと、凄まじい迫力になる。
無表情でいる故に跡部の怒りは赤裸々でもあり、部員たちは慌てて柔軟に勤しむべく散らばっていった。
跡部は鳳と宍戸の元へと近寄って行く。
「何考えてんだお前ら」
呆れて吐き捨てるように言えば、恨みがましい視線が跡部に注がれる。
「静電気ごときで何をぐだぐだ言ってやがるんだ。鬱陶しい」
「うるせえ! 俺は静電気なんかどうでもいいんだよ! 長太郎の奴が、」
「どうでもいい訳ないです! 俺、今年本当に静電気酷いんですよ?! 宍戸さんに怪我でもさせたら……!」
「するかっ。静電気ごときで!」
「暗がりなら火花見えるんですよ! 宍戸さんの指に傷でもつけたらどうするんですか……っ!」
「だからしねえよ! いいから柔軟!」
「だから柔軟はしませんってば…!」
「……………馬鹿だろ貴様らっ」
跡部が呪詛でも吐くように言い捨てる。
鳳と宍戸はそんな跡部にお構い無しに、堂々巡りの言い争いを繰り返していた。
「………………どうしようもねえ……」
呻いた跡部だけが知っている。
別に喧嘩や諍いがあって、鳳が宍戸を遠ざけているわけではない。
鳳らしからぬ言動は全て。
いっそ過保護なまでに鳳が宍戸を特別視する表れだ。
「おい! 二人ともグラウンド十周走って来いッ。戻ってきてから別々に柔軟だ」
足で蹴り出す勢いで。
跡部は、鳳と宍戸を。
コートの外へと追い払ったのだった。
鳳自身が言うように、今年の鳳は何に触れても。
音がたつほどの強い静電気を起こしてしまっている。
尋常でない程に、頻繁で。
人と人との指先の接触であっても、静電気は音を上げ、鳳の指の先を痛ませた。
そのうち指先だけでなく、二の腕でも胸元でも、接触した箇所から強い静電気が起きるようになって、鳳は何はさておき、帯電しているらしい自分から宍戸を遠ざけようとするようになった。
「……たかだか静電気くらいで」
「………たかだかって何ですか」
憮然と言葉を交わしながらも、鳳と宍戸は並走してグラウンドを走る。
「本当にすごいんですって……」
鳳自身、いい加減持て余している。
あまりにも強い静電気は、何度体験しても小さく不快なのだ。
そんなものを鳳は宍戸には絶対に与えたくない。
「俺はお前に痛い真似なんかされたこと一度もねえよ」
「……何言ってるんですか…宍戸さん」
痛い事ばかりだったでしょうと鳳は走りながら視線を逸らし曖昧に告げる。
「………濡らしてやりゃいいのかな」
「宍戸さん……ほんとに勘弁して下さいって……」
聞こえるか聞こえないかの声で、些か不機嫌そうに呟いている宍戸の言葉一つ一つに鳳は狼狽えた。
「濡れてりゃ静電気も起きないだろ」
「宍戸さん」
「十周、気合入れて走れよ。長太郎」
言うなり宍戸のスピードが増した。
「………………」
華奢で、しなやかで、強靭な背中。
走る速さを増した宍戸を、鳳は一瞬目を細めて見つめて。
それからゆっくり笑みを浮かべた。
「………………」
もっと速く、速く走って。
汗で濡れて、そうすれば。
傷つけないで触れられるかもしれない宍戸を、彼だけを見つめて、鳳は強く地面を蹴り上げた。
宍戸がちょっとでも近寄ろうものならば鳳は断固としてそれを拒否をする。
これはいったい何事かと氷帝のテニス部内は騒然となった。
逆ならばまだしもと。
公然と言われてしまっている辺り、当事者である鳳と宍戸にも複雑な思いがあったのだが、とりあえずもっかのところ彼らに外野に構っている余裕はなかった。
「柔軟」
「別の人として下さい。宍戸さん」
眼光鋭く宍戸が鳳の前に立つ。
鳳は鳳で溜息交じりに頭を下げる。
お願いしますとまで鳳に言われて、宍戸の表情はますます厳しくなった。
「嫌だ」
「……嫌だじゃなくて。……ほんとお願いですから。宍戸さん」
「知らねえよ。いいから柔軟だっつってんだよ。俺は」
「だから、俺は宍戸さんとはしませんって言ってるじゃないですか」
ダブルスは一応どうにか出来ますからと鳳が疲れたように言って。
宍戸が一層機嫌を悪くしていく。
険悪ともいえる雰囲気は、少なくとも鳳と宍戸が醸し出すという事など、通常ならば有り得ない程の険悪さだ。
氷帝テニス部員達はこぞって顔を引きつらせていた。
さすがに普段ならば大抵のことには動じないレギュラー陣でさえも、あまりの雲行きの悪さに彼らの様子が気になって仕方ないようだった。
「………侑士ー…! どうしたんだよあいつら!」
向日の体当たりを平然と受け止めた忍足は、なんやろなあ?とこちらも不審気に首を傾げている。
「えー、あれって鳳がきれてんの? えー、なんで鳳が宍戸にあんなこと言うの? なあ日吉? なんだあれー?」
「……………知りません。ユニフォームが伸びます。手を離して下さい」
うんざりとした風情で、しかし日吉は背後を流し見るようにして鳳と宍戸を伺ってもいる。
ジローは日吉に軽くあしらわれると気にした風もなく、今度は樺地へとかけよって、同じ質問をぶつけていた。
レギュラー陣がこんな調子なのだ。
二百名はいるテニス部員達が浮つくのも無理はない。
しかし、そこに一人、容赦のない男もいるわけで。
「てめえらいい加減にしとけよ」
なまじおそろしく顔立ちの整っている男なので。
跡部がそう低く言って凄むと、凄まじい迫力になる。
無表情でいる故に跡部の怒りは赤裸々でもあり、部員たちは慌てて柔軟に勤しむべく散らばっていった。
跡部は鳳と宍戸の元へと近寄って行く。
「何考えてんだお前ら」
呆れて吐き捨てるように言えば、恨みがましい視線が跡部に注がれる。
「静電気ごときで何をぐだぐだ言ってやがるんだ。鬱陶しい」
「うるせえ! 俺は静電気なんかどうでもいいんだよ! 長太郎の奴が、」
「どうでもいい訳ないです! 俺、今年本当に静電気酷いんですよ?! 宍戸さんに怪我でもさせたら……!」
「するかっ。静電気ごときで!」
「暗がりなら火花見えるんですよ! 宍戸さんの指に傷でもつけたらどうするんですか……っ!」
「だからしねえよ! いいから柔軟!」
「だから柔軟はしませんってば…!」
「……………馬鹿だろ貴様らっ」
跡部が呪詛でも吐くように言い捨てる。
鳳と宍戸はそんな跡部にお構い無しに、堂々巡りの言い争いを繰り返していた。
「………………どうしようもねえ……」
呻いた跡部だけが知っている。
別に喧嘩や諍いがあって、鳳が宍戸を遠ざけているわけではない。
鳳らしからぬ言動は全て。
いっそ過保護なまでに鳳が宍戸を特別視する表れだ。
「おい! 二人ともグラウンド十周走って来いッ。戻ってきてから別々に柔軟だ」
足で蹴り出す勢いで。
跡部は、鳳と宍戸を。
コートの外へと追い払ったのだった。
鳳自身が言うように、今年の鳳は何に触れても。
音がたつほどの強い静電気を起こしてしまっている。
尋常でない程に、頻繁で。
人と人との指先の接触であっても、静電気は音を上げ、鳳の指の先を痛ませた。
そのうち指先だけでなく、二の腕でも胸元でも、接触した箇所から強い静電気が起きるようになって、鳳は何はさておき、帯電しているらしい自分から宍戸を遠ざけようとするようになった。
「……たかだか静電気くらいで」
「………たかだかって何ですか」
憮然と言葉を交わしながらも、鳳と宍戸は並走してグラウンドを走る。
「本当にすごいんですって……」
鳳自身、いい加減持て余している。
あまりにも強い静電気は、何度体験しても小さく不快なのだ。
そんなものを鳳は宍戸には絶対に与えたくない。
「俺はお前に痛い真似なんかされたこと一度もねえよ」
「……何言ってるんですか…宍戸さん」
痛い事ばかりだったでしょうと鳳は走りながら視線を逸らし曖昧に告げる。
「………濡らしてやりゃいいのかな」
「宍戸さん……ほんとに勘弁して下さいって……」
聞こえるか聞こえないかの声で、些か不機嫌そうに呟いている宍戸の言葉一つ一つに鳳は狼狽えた。
「濡れてりゃ静電気も起きないだろ」
「宍戸さん」
「十周、気合入れて走れよ。長太郎」
言うなり宍戸のスピードが増した。
「………………」
華奢で、しなやかで、強靭な背中。
走る速さを増した宍戸を、鳳は一瞬目を細めて見つめて。
それからゆっくり笑みを浮かべた。
「………………」
もっと速く、速く走って。
汗で濡れて、そうすれば。
傷つけないで触れられるかもしれない宍戸を、彼だけを見つめて、鳳は強く地面を蹴り上げた。
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越前に奇妙な言葉を放られた。
部活の合間の、僅かな休憩時間のことだ。
「乾先輩って、海堂先輩いないと、もう駄目なんじゃないっスか」
「……越前」
「おっかないなあ」
喜ぶ所じゃないんですかと不敵に笑う越前を、海堂は何の加減もなく睨み据えた。
彼がどういう心積もりでそんな事を言い出したのか海堂には判らなかったが、とにかくこの一学年下の後輩は、海堂が友好的な態度をとれないのを承知の上で、毎日何かしら海堂に話しかけてくる。
今も海堂が幾ら目つきをきつくしてみせた所で、まるで平然とした様子で。
それどころかどこか海堂の反応を探るような笑みを浮かべている。
「……何言ってんだお前は」
「別にからかってんじゃないですよ。海堂先輩」
だって乾先輩が、と越前が言いかけたところで。
当事者の乾が現れた。
「越前もそう思うか」
馴染みのデータ帳を片手に広げ近づいてきた乾は、淡々と海堂と越前の話に加わってくる。
「でも海堂先輩は、そうは思ってないみたいっスね。乾先輩」
「………なに訳わかんねえ話、勝手に話すすめてんですか」
それもいったい何の話なんだと、海堂がきつく眼差しを引き絞る。
「馬鹿なこと言ってんじゃねえ」
最初に越前にそう吐き捨てて、それから海堂は更に目つきをきつくして乾に向き直った。
「あんたもだ。何ふざけて話にのっかってんですか」
「ふざけてないよ? 海堂」
「俺も馬鹿なことなんか言ってませんけど? 海堂先輩」
「………………」
三十三センチの身長差の二人が団結するのに呆れ果て、元々異なる方法ではあるが互いに弁の立つ二人に海堂が口頭で適う訳もない。
海堂は投げやりに嘆息して、さっさとその場から立ち去ろうとした。
「ああ、待て待て海堂」
「………………」
「待ってくれって」
どこまでが本気で、どこまでが冗談なのか。
乾は彼特有の、のんびりとした言い回しで海堂の後を追いかけてきた。
「今日部活の前に、越前に簡単な心理テストをしたんだよ。で、まあその話の流れで、ああいった事を海堂に言った訳なんだが。越前は」
するりと。
乾の手に手首を包まれた。
捉まれたのではなく、あくまで包まれた。
「………………」
海堂は胡散臭い思いを抱えつつも、それで足を止めた。
振り払いづらい、極めて軽い接触の仕方だ。
乾がよく海堂にするやり方だ。
「なあ、海堂。何でもいいから四字熟語を三つ言ってみて」
「………………」
「越前にした心理テストだよ。勿論越前の答えも俺の答えも後でちゃんと教えるから。三つ、言ってみて」
乾の言動が時にひどく突拍子もないということは海堂自身熟知している。
そして結局は、海堂は、そんな乾のペースにのまれてしまうという事も。
「……清廉潔白」
「うん。次は?」
「………一蓮托生」
「最後」
「縦横無尽」
なるほど、と乾はあながちポーズだけではなく生真面目に頷いてみせた。
「海堂らしいな。実に」
「………………」
そんな相槌を入れた乾を海堂が眉根を顰めて見ていると。
すぐにその心理テストとやらの回答が海堂に与えられてきた。
「最初の四字熟語は、その人の人生観」
「………あ?…」
「海堂は清廉潔白。……いかにも海堂らしいだろ?」
真っ向からそんな事を言われても海堂には返事の仕様がない。
「ちなみに俺は、紆余曲折。事情が込み合ってややこしい人生を考えているらしいな。越前は和洋折衷。……食事の事かテニスの事か」
「………………」
二番目はその人の恋愛観、と乾は続けた。
「海堂は一蓮托生。俺はここでも心配事が多いらしくて、内憂外患。ちなみに越前は満身創痍だ。どういう恋愛観なんだか…」
軽口で話をしながら、そんな事までも、乾はデータ帳に書き付けていく。
「最後は、死ぬ直前にその人の人生を振り返った感想だ」
「……………あんた何て言ったんですか」
「以心伝心。………で、まあ最後にそんな事を考えるとしたら、以心伝心の相手は海堂だろうなあ、と…」
「………………」
「他の二つに関してもそうだけど。まあとにかくそういうのに海堂をこじつけて、あれこれ考えてた俺の顔を越前は見てた訳だから。そういう経緯があったから、さっきの話になったんじゃないのかな」
例えそうだとしても。
海堂がいないと乾はもう駄目だなんて事は、絶対にないと海堂は思っているのだけれど。
海堂は、自分が答えた言葉を思い返す。
縦横無尽。
自由自在、思う存分。
最後の時にそう思う事が出来たとしたら、海堂にそういう全てのきっかけを与えてくれたのは恐らく乾だろう。
漠然とながら、はっきりと。
海堂にはそう思えた。
それから、一蓮托生なんていう言葉が今更ながら気恥ずかしく、海堂はぎこちなく話をかえた。
「………最後のは…越前は何て言ったんですか」
「ん?……ああ、越前ね。聞いたら腹立つぞ」
そう言いながらも、乾がどことなく楽しげなように海堂の目には見えていた。
乾はデータ帳で口元を隠すようにしながら、海堂に、そっと耳打ちしてくる。
「連戦連勝、とのことだ」
「……生意気言いやがる」
「全くだ」
乾が笑って、海堂の背中を軽く叩く。
「実際あいつは言うんだろうがな。……さて。内憂外患な俺と、一蓮托生な海堂は、休憩時間終了でダブルスの練習試合だ」
「……っす」
行こう、と乾に促されて。
海堂は、ほんの少し、目を伏せて頷いた。
未来の話を当然のようにする微かな気恥ずかしさや、結局そんな未来もありそうだと、あっさり受け入れてしまえる自分が海堂には不思議だった。
そしてそれで気づいた事があった。
海堂は、乾がいないと駄目なのではなくて、乾でなければ駄目なのだろうと。
自分を省みて思い知る。
そうして、ゆくゆくは乾も、海堂の事をそんな風に思えるように。
今は同じコートで、出来る限り負けない事、少しでもたくさん勝つ事。
そう決めて、そう定めて、海堂は乾と二人でコートに向かうのだった。
部活の合間の、僅かな休憩時間のことだ。
「乾先輩って、海堂先輩いないと、もう駄目なんじゃないっスか」
「……越前」
「おっかないなあ」
喜ぶ所じゃないんですかと不敵に笑う越前を、海堂は何の加減もなく睨み据えた。
彼がどういう心積もりでそんな事を言い出したのか海堂には判らなかったが、とにかくこの一学年下の後輩は、海堂が友好的な態度をとれないのを承知の上で、毎日何かしら海堂に話しかけてくる。
今も海堂が幾ら目つきをきつくしてみせた所で、まるで平然とした様子で。
それどころかどこか海堂の反応を探るような笑みを浮かべている。
「……何言ってんだお前は」
「別にからかってんじゃないですよ。海堂先輩」
だって乾先輩が、と越前が言いかけたところで。
当事者の乾が現れた。
「越前もそう思うか」
馴染みのデータ帳を片手に広げ近づいてきた乾は、淡々と海堂と越前の話に加わってくる。
「でも海堂先輩は、そうは思ってないみたいっスね。乾先輩」
「………なに訳わかんねえ話、勝手に話すすめてんですか」
それもいったい何の話なんだと、海堂がきつく眼差しを引き絞る。
「馬鹿なこと言ってんじゃねえ」
最初に越前にそう吐き捨てて、それから海堂は更に目つきをきつくして乾に向き直った。
「あんたもだ。何ふざけて話にのっかってんですか」
「ふざけてないよ? 海堂」
「俺も馬鹿なことなんか言ってませんけど? 海堂先輩」
「………………」
三十三センチの身長差の二人が団結するのに呆れ果て、元々異なる方法ではあるが互いに弁の立つ二人に海堂が口頭で適う訳もない。
海堂は投げやりに嘆息して、さっさとその場から立ち去ろうとした。
「ああ、待て待て海堂」
「………………」
「待ってくれって」
どこまでが本気で、どこまでが冗談なのか。
乾は彼特有の、のんびりとした言い回しで海堂の後を追いかけてきた。
「今日部活の前に、越前に簡単な心理テストをしたんだよ。で、まあその話の流れで、ああいった事を海堂に言った訳なんだが。越前は」
するりと。
乾の手に手首を包まれた。
捉まれたのではなく、あくまで包まれた。
「………………」
海堂は胡散臭い思いを抱えつつも、それで足を止めた。
振り払いづらい、極めて軽い接触の仕方だ。
乾がよく海堂にするやり方だ。
「なあ、海堂。何でもいいから四字熟語を三つ言ってみて」
「………………」
「越前にした心理テストだよ。勿論越前の答えも俺の答えも後でちゃんと教えるから。三つ、言ってみて」
乾の言動が時にひどく突拍子もないということは海堂自身熟知している。
そして結局は、海堂は、そんな乾のペースにのまれてしまうという事も。
「……清廉潔白」
「うん。次は?」
「………一蓮托生」
「最後」
「縦横無尽」
なるほど、と乾はあながちポーズだけではなく生真面目に頷いてみせた。
「海堂らしいな。実に」
「………………」
そんな相槌を入れた乾を海堂が眉根を顰めて見ていると。
すぐにその心理テストとやらの回答が海堂に与えられてきた。
「最初の四字熟語は、その人の人生観」
「………あ?…」
「海堂は清廉潔白。……いかにも海堂らしいだろ?」
真っ向からそんな事を言われても海堂には返事の仕様がない。
「ちなみに俺は、紆余曲折。事情が込み合ってややこしい人生を考えているらしいな。越前は和洋折衷。……食事の事かテニスの事か」
「………………」
二番目はその人の恋愛観、と乾は続けた。
「海堂は一蓮托生。俺はここでも心配事が多いらしくて、内憂外患。ちなみに越前は満身創痍だ。どういう恋愛観なんだか…」
軽口で話をしながら、そんな事までも、乾はデータ帳に書き付けていく。
「最後は、死ぬ直前にその人の人生を振り返った感想だ」
「……………あんた何て言ったんですか」
「以心伝心。………で、まあ最後にそんな事を考えるとしたら、以心伝心の相手は海堂だろうなあ、と…」
「………………」
「他の二つに関してもそうだけど。まあとにかくそういうのに海堂をこじつけて、あれこれ考えてた俺の顔を越前は見てた訳だから。そういう経緯があったから、さっきの話になったんじゃないのかな」
例えそうだとしても。
海堂がいないと乾はもう駄目だなんて事は、絶対にないと海堂は思っているのだけれど。
海堂は、自分が答えた言葉を思い返す。
縦横無尽。
自由自在、思う存分。
最後の時にそう思う事が出来たとしたら、海堂にそういう全てのきっかけを与えてくれたのは恐らく乾だろう。
漠然とながら、はっきりと。
海堂にはそう思えた。
それから、一蓮托生なんていう言葉が今更ながら気恥ずかしく、海堂はぎこちなく話をかえた。
「………最後のは…越前は何て言ったんですか」
「ん?……ああ、越前ね。聞いたら腹立つぞ」
そう言いながらも、乾がどことなく楽しげなように海堂の目には見えていた。
乾はデータ帳で口元を隠すようにしながら、海堂に、そっと耳打ちしてくる。
「連戦連勝、とのことだ」
「……生意気言いやがる」
「全くだ」
乾が笑って、海堂の背中を軽く叩く。
「実際あいつは言うんだろうがな。……さて。内憂外患な俺と、一蓮托生な海堂は、休憩時間終了でダブルスの練習試合だ」
「……っす」
行こう、と乾に促されて。
海堂は、ほんの少し、目を伏せて頷いた。
未来の話を当然のようにする微かな気恥ずかしさや、結局そんな未来もありそうだと、あっさり受け入れてしまえる自分が海堂には不思議だった。
そしてそれで気づいた事があった。
海堂は、乾がいないと駄目なのではなくて、乾でなければ駄目なのだろうと。
自分を省みて思い知る。
そうして、ゆくゆくは乾も、海堂の事をそんな風に思えるように。
今は同じコートで、出来る限り負けない事、少しでもたくさん勝つ事。
そう決めて、そう定めて、海堂は乾と二人でコートに向かうのだった。
小さな紙袋を手に持ってドラッグストアから出た所で神尾は跡部に出くわした。
「……何やってんだお前」
跡部は訝しげにドラッグストアの看板と神尾とを代わる代わる見やってくる。
「跡部こそ何でこの道通ってんだ?」
放課後、神尾は跡部の家に行く約束をしていて。
現に神尾は今こうして跡部の家に向かっている所で。
その最中の寄り道で買物をしていた訳なのだが、跡部がこの通りを使う筈はないのだ。
跡部は制服姿だ。
氷帝から跡部が自宅に向かうとしても、この道は普通絶対に通らない。
「迎えにきてやったんだよ。悪いか」
舌打ちして、言葉も荒くて。
でも跡部はそういう風に攻撃的に優しい男なのだと神尾はもう知っている。
「悪くなんかないぜ! 擦れ違わなくてよかったよな」
神尾が笑うと跡部は溜息をついた。
けれど呆れた気配の割に、跡部は慎重な物言いで神尾の手の中のものに視線を落とす。
「何だよそれ」
「これ?」
「お前のか」
「うん」
「……何の薬だ」
眉を顰めた跡部は、多分心配をしているのだ。
何でもないよと応えれば不機嫌になるし、心配してくれんのと交ぜっかえせばもっと不機嫌になるだろうし。
だから神尾は跡部と並んで歩き出しながら、笑って言った。
「跡部んちについてからな。見せてやるよ」
「えらそうに言ってんじゃねえ。バァカ」
雑な言葉を寄こしてきた割に、跡部の左手は神尾の右の手首を掴んできた。
足早に歩を進められる。
別にこれは薬とかじゃないし、跡部が心配するような事も何もないんだけどなあと神尾はひっそりと思いながら。
跡部の手に包まれている手首が温かくて心地良いから、そのままで歩いていく事にした。
そうして跡部の部屋に入るなり跡部の目線に促されて、神尾は苦笑いしながら紙袋を開けた。
手のひらに乗る程度の大きさの赤いチューブボトル。
「透明はらまき」
「……ああ?」
「だからこれ。温感クリームっていうの? 塗るカイロ。杏ちゃんが、冬場のヘソ出しには欠かせないって話しててさ」
「俺の前でそいつの話するなって言ってあんだろ」
「自分はナンパしておいて言うかな。そういう事」
そんな風に文句を言いながらも、神尾は普段は一応気にしているのだ。
本当に、彼女の名前が出ると跡部は憮然とするから。
以前跡部に、杏ちゃんは友達だぜ?とからかうでもなく言った際に、それでも嫌だと珍しくひどく子供じみた言い方で返されてから、なるべく話題には上げないようにしていた。
「とにかく! 腹とか手とか、これ塗るとぽわーっとあったかくなるんだって。なんか今日とかすごい寒いしさ。俺も試してみようと思って、さっき買ったんだ」
本当にあったかくなんのかなあと手元のチューブボトルを見やりながら、神尾は好奇心を募らせているのだが。
「………跡部?」
跡部からのリアクションがない。
まさか彼女の名前をここで出した事くらいで、本格的に機嫌を損ねた訳ではないだろうが、跡部の沈黙に神尾はふと不安になった。
「おーい……跡部…?」
「………………」
うっかり跡部の顔を覗き込みにいってしまった事が、今日の神尾の敗因だ。
「うわ、何すん…、…」
そうは言ったものの、おそろしいまでの手際のよさ。
神尾は跡部のベッドの上に、ごろんと寝転がされた。
神尾は確かにベッドの縁に腰掛てはいたのだが、音も痛みも何も感じさせずに、一瞬で跡部に組み敷かれてしまう。
「……跡部?」
「塗ってやるよ」
「………え?」
「腹だろ。おら、出せよ」
薄く笑みを浮かべる唇から零れた声は低く卑猥ないつものそれで。
でもどかこ面白がってもいるようで。
神尾は跡部の手に無造作に制服をたくし上げられた。
身体を重ねる時とは違う。
でも制服のまま、まさに腹部だけ晒されるのはまた違った意味で気恥ずかしかった。
「跡部…!」
「…ん? いつもより冷たいじゃねえの。何でだ?」
「だ、………」
跡部も制服を着たまま、ベッドに乗り上げてきている。
指の長い跡部の手のひらが、腹部の真上に直に宛がわれて。
神尾は小さく身震いした。
「いつもと同じだって…、」
「同じじゃねえよ。……触った事ねえっての。こんな冷えた腹」
「……だ…から、いつもは……」
「いつもは? 何だよ」
「………そこらへん…触られる前に、いろいろあるから……っ…」
「………………」
跡部にされる時。
性急にされる時でも。
即物的であったりおざなりにされたりした経験は神尾にはなかった。
跡部の接触はその点ひどく濃やかだ。
「……お前、俺がいつも触ってやってれば、こんなもんいらねえんじゃねえ? ん?」
「…………やらしい顔すんな…」
顔を近づけられて、わざと低くひそめた声にくらくらして。
神尾は不貞腐れたが、跡部の言う事はもっともだとも思う。
「試しに塗ってやるから、どっちがいいかてめえで決めな」
「……どっちがいいとかそういう話じゃないだろ、…」
何だかいつの間にか目的がずれていっている。
跡部は神尾から身体を離し、ベッドに座り込む。
手のひらに温感クリームを出して、オレンジの香りのするそれを神尾の腹部にすり込ませ、揉みしだいていく。
粉っぽい感触のクリームは跡部の手のひらの動きに抵抗感を持たせて、やけにじっくりと腹部を絞り込まれるようにされて、神尾にしてみればたまったものではなかった。
温感を体感する以前に、クリームのせいではなく、肌が熱を帯びる。
「指まわるんじゃねえの……」
細ぇなと呟かれて、そんな訳あるかと神尾は呻いた。
そんな言葉をぽつぽつと交わしながら、愛撫とは別の動きでひとしきり腹部を撫で擦られ、徐々にそこだけに熱を感じる。
どれの、なんの、だれのせいかも判らない。
「………とりあえずこんなもんか」
「………………」
跡部にたくしあげられていた上着が引き下ろされ、晒されていた腹部が覆われる。
至極平然とした振る舞いが癪にさわる。
神尾は制服でベッドに仰向けになっているその体制のまま、跡部を見据えた。
多分、恨みがましい目をしているだろうと自分で思う。
そんな状態で目線を合わせたりしたら、跡部は絶対にそのあたりのことをからかってくるのだろうと思いはしたが、自棄気味に意固地になって見据えていると、意外な事に降伏は跡部からだった。
「……見て見ぬ振りって言葉を知らねえのかお前は」
「………は?」
再度跡部に身体の上に乗り上げてこられた。
塞がれた唇は。
一瞬で、身体中のどこの箇所よりも、熱くなった。
「……何やってんだお前」
跡部は訝しげにドラッグストアの看板と神尾とを代わる代わる見やってくる。
「跡部こそ何でこの道通ってんだ?」
放課後、神尾は跡部の家に行く約束をしていて。
現に神尾は今こうして跡部の家に向かっている所で。
その最中の寄り道で買物をしていた訳なのだが、跡部がこの通りを使う筈はないのだ。
跡部は制服姿だ。
氷帝から跡部が自宅に向かうとしても、この道は普通絶対に通らない。
「迎えにきてやったんだよ。悪いか」
舌打ちして、言葉も荒くて。
でも跡部はそういう風に攻撃的に優しい男なのだと神尾はもう知っている。
「悪くなんかないぜ! 擦れ違わなくてよかったよな」
神尾が笑うと跡部は溜息をついた。
けれど呆れた気配の割に、跡部は慎重な物言いで神尾の手の中のものに視線を落とす。
「何だよそれ」
「これ?」
「お前のか」
「うん」
「……何の薬だ」
眉を顰めた跡部は、多分心配をしているのだ。
何でもないよと応えれば不機嫌になるし、心配してくれんのと交ぜっかえせばもっと不機嫌になるだろうし。
だから神尾は跡部と並んで歩き出しながら、笑って言った。
「跡部んちについてからな。見せてやるよ」
「えらそうに言ってんじゃねえ。バァカ」
雑な言葉を寄こしてきた割に、跡部の左手は神尾の右の手首を掴んできた。
足早に歩を進められる。
別にこれは薬とかじゃないし、跡部が心配するような事も何もないんだけどなあと神尾はひっそりと思いながら。
跡部の手に包まれている手首が温かくて心地良いから、そのままで歩いていく事にした。
そうして跡部の部屋に入るなり跡部の目線に促されて、神尾は苦笑いしながら紙袋を開けた。
手のひらに乗る程度の大きさの赤いチューブボトル。
「透明はらまき」
「……ああ?」
「だからこれ。温感クリームっていうの? 塗るカイロ。杏ちゃんが、冬場のヘソ出しには欠かせないって話しててさ」
「俺の前でそいつの話するなって言ってあんだろ」
「自分はナンパしておいて言うかな。そういう事」
そんな風に文句を言いながらも、神尾は普段は一応気にしているのだ。
本当に、彼女の名前が出ると跡部は憮然とするから。
以前跡部に、杏ちゃんは友達だぜ?とからかうでもなく言った際に、それでも嫌だと珍しくひどく子供じみた言い方で返されてから、なるべく話題には上げないようにしていた。
「とにかく! 腹とか手とか、これ塗るとぽわーっとあったかくなるんだって。なんか今日とかすごい寒いしさ。俺も試してみようと思って、さっき買ったんだ」
本当にあったかくなんのかなあと手元のチューブボトルを見やりながら、神尾は好奇心を募らせているのだが。
「………跡部?」
跡部からのリアクションがない。
まさか彼女の名前をここで出した事くらいで、本格的に機嫌を損ねた訳ではないだろうが、跡部の沈黙に神尾はふと不安になった。
「おーい……跡部…?」
「………………」
うっかり跡部の顔を覗き込みにいってしまった事が、今日の神尾の敗因だ。
「うわ、何すん…、…」
そうは言ったものの、おそろしいまでの手際のよさ。
神尾は跡部のベッドの上に、ごろんと寝転がされた。
神尾は確かにベッドの縁に腰掛てはいたのだが、音も痛みも何も感じさせずに、一瞬で跡部に組み敷かれてしまう。
「……跡部?」
「塗ってやるよ」
「………え?」
「腹だろ。おら、出せよ」
薄く笑みを浮かべる唇から零れた声は低く卑猥ないつものそれで。
でもどかこ面白がってもいるようで。
神尾は跡部の手に無造作に制服をたくし上げられた。
身体を重ねる時とは違う。
でも制服のまま、まさに腹部だけ晒されるのはまた違った意味で気恥ずかしかった。
「跡部…!」
「…ん? いつもより冷たいじゃねえの。何でだ?」
「だ、………」
跡部も制服を着たまま、ベッドに乗り上げてきている。
指の長い跡部の手のひらが、腹部の真上に直に宛がわれて。
神尾は小さく身震いした。
「いつもと同じだって…、」
「同じじゃねえよ。……触った事ねえっての。こんな冷えた腹」
「……だ…から、いつもは……」
「いつもは? 何だよ」
「………そこらへん…触られる前に、いろいろあるから……っ…」
「………………」
跡部にされる時。
性急にされる時でも。
即物的であったりおざなりにされたりした経験は神尾にはなかった。
跡部の接触はその点ひどく濃やかだ。
「……お前、俺がいつも触ってやってれば、こんなもんいらねえんじゃねえ? ん?」
「…………やらしい顔すんな…」
顔を近づけられて、わざと低くひそめた声にくらくらして。
神尾は不貞腐れたが、跡部の言う事はもっともだとも思う。
「試しに塗ってやるから、どっちがいいかてめえで決めな」
「……どっちがいいとかそういう話じゃないだろ、…」
何だかいつの間にか目的がずれていっている。
跡部は神尾から身体を離し、ベッドに座り込む。
手のひらに温感クリームを出して、オレンジの香りのするそれを神尾の腹部にすり込ませ、揉みしだいていく。
粉っぽい感触のクリームは跡部の手のひらの動きに抵抗感を持たせて、やけにじっくりと腹部を絞り込まれるようにされて、神尾にしてみればたまったものではなかった。
温感を体感する以前に、クリームのせいではなく、肌が熱を帯びる。
「指まわるんじゃねえの……」
細ぇなと呟かれて、そんな訳あるかと神尾は呻いた。
そんな言葉をぽつぽつと交わしながら、愛撫とは別の動きでひとしきり腹部を撫で擦られ、徐々にそこだけに熱を感じる。
どれの、なんの、だれのせいかも判らない。
「………とりあえずこんなもんか」
「………………」
跡部にたくしあげられていた上着が引き下ろされ、晒されていた腹部が覆われる。
至極平然とした振る舞いが癪にさわる。
神尾は制服でベッドに仰向けになっているその体制のまま、跡部を見据えた。
多分、恨みがましい目をしているだろうと自分で思う。
そんな状態で目線を合わせたりしたら、跡部は絶対にそのあたりのことをからかってくるのだろうと思いはしたが、自棄気味に意固地になって見据えていると、意外な事に降伏は跡部からだった。
「……見て見ぬ振りって言葉を知らねえのかお前は」
「………は?」
再度跡部に身体の上に乗り上げてこられた。
塞がれた唇は。
一瞬で、身体中のどこの箇所よりも、熱くなった。
今日の最後のキスのつもりだったのだ。
ごく軽い、触れる程度のつもりで、重ねた筈のキスだったのに。
やっぱり駄目だった。
すぐにそれを自覚して。
鳳は胸の内に、苦笑交じりの思いを宿す。
やっぱり駄目だった。
判ってはいた事だったけれども。
宍戸の唇は、触れればいつも、清涼感のあるミントの匂いがする。
優しく冷えている吐息と唇のやわらかさには、幾度口づけても思い知らされる事がある。
キスをした瞬間に。
湿りがちな、滞りがちな、鬱々としたものは全て清められる。
隠しもっている、押さえ込んでいる、密やかに静めている筈の欲望は全て引き摺り出される。
宍戸に口づけるたびに。
必ずそうなる。
これがいくら、もう何度目かも判らないくらいに繰り返した接触であっても、一種眩暈じみた衝動で、鳳は宍戸をかき抱かずにはいられなくなった。
「…………、…ん…」
「………………」
もうほんの数ミリも背後には行けないくらい。
部室の壁へ背を押し当てている宍戸に、覆い被さるようにして。
鳳はその唇をキスで深く塞いだ。
部活後、一番最後に部室に戻ってきた鳳と宍戸が、着替えを済ませたのも、やはり一番最後のこと。
チームメイトの姿は、もう誰一人としてここにはない。
制服に着替えて、それじゃあ帰るかと言って部室を出ようとした宍戸の腕を引いたのは鳳だ。
そして最初は確かに軽く重ねるだけのつもりだったキスが、次第に熱を帯びていってしまった。
「ふ…………ぁ」
「………………」
小さな喉声が宍戸の唇から零れると、宍戸がいつも口にいている飴やガムのミントの香りが、キスに溶けて甘みを濃くする。
それを飲み込むように、少しだけあからさまに鳳が宍戸の舌を貪れば、宍戸の指先が鳳の肩を掴んできた。
引き剥がしたい素振りではなかった。
むしろ、小さく取り縋る所作で。
鳳の肩口を掴む手の動きがどこか幼くさえあって鳳は余計に煽られた。
「宍戸さん」
「………、ぁ、」
執拗に絡めた舌を、殊更ゆっくりと、ほどく側から鳳が囁くと。
濡れた息も声も全部そのままふりこぼして、宍戸が眼差しを仰のかせてきた。
睫毛の震えも見て取れるくらいの至近距離。
鳳は宍戸の頬を、そっと掠るくらいのキスをして、腕の中にその痩身を抱き込んだ。
「………………」
鳳の腕の中、宍戸の肢体からは。
やはりあの、仄かに甘い気配の、爽やかな匂いがする。
「長太郎、…」
「……もう少しだけ」
「………………」
ここまできてしまえばもう。
ねだるのもあまえるのも何も隠さずに。
鳳は洗い浚い晒して、そう口にした。
宍戸を抱き締めながら、ほっそりとした首筋に横ざま唇を寄せる。
鳳の唇に、宍戸の首の脈が直に響いた。
「お願いします。……あと、もう少しだけ、こうしてて…?」
「…………お願いなんかされなくたって…別にやめろとか言ってねえだろ…」
少し怒ったような声で、しかし宍戸の指先は甘い仕草で鳳の髪にうずめられた。
宍戸の手に抱き返される。
鳳は宍戸から、澄んだ香りの涼やかさと、密着した身体の温かみとを同時に感じる。
厳しくて優しい人。
鋭くて柔らかな人。
渇望する気持ちは募るばかりだった。
「………………ミントには温冷作用があるっていうけど、本当ですね」
「……、…は…?」
「寒い時に温めて、暑い時には冷ましてくれる効果があるっていうから」
鳳の腕の中にいる宍戸が、まさにそうだった。
いつもそうやって、あまりバランスのよくない鳳のメンタルを、宥めたり切り替えたり、時には煽ったり唆したりしてくるのだ。
「……何だ? ガムの話か…?」
本人は何も判っていないらしいのだけれど。
全くもって無意識の事らしいのだけれど。
「…………違います。宍戸さんの話ですよ」
鳳は、小さく笑って言った。
「ミントの匂いのする、宍戸さんの話です」
冷静になるきっかけも、気を紛らわせることも。
気がかりの緩和にも、気持ちの切り替えにも。
もっと欲しい、まだ欲しい、口に出来ないと落ち着かない。
欲しくて、好きで、必要なのだ。
大切なのだ。
この人が。
鳳は、今度こそ今日最後の心積もりで。
ミントの匂いのする宍戸の唇を塞いだ。
ごく軽い、触れる程度のつもりで、重ねた筈のキスだったのに。
やっぱり駄目だった。
すぐにそれを自覚して。
鳳は胸の内に、苦笑交じりの思いを宿す。
やっぱり駄目だった。
判ってはいた事だったけれども。
宍戸の唇は、触れればいつも、清涼感のあるミントの匂いがする。
優しく冷えている吐息と唇のやわらかさには、幾度口づけても思い知らされる事がある。
キスをした瞬間に。
湿りがちな、滞りがちな、鬱々としたものは全て清められる。
隠しもっている、押さえ込んでいる、密やかに静めている筈の欲望は全て引き摺り出される。
宍戸に口づけるたびに。
必ずそうなる。
これがいくら、もう何度目かも判らないくらいに繰り返した接触であっても、一種眩暈じみた衝動で、鳳は宍戸をかき抱かずにはいられなくなった。
「…………、…ん…」
「………………」
もうほんの数ミリも背後には行けないくらい。
部室の壁へ背を押し当てている宍戸に、覆い被さるようにして。
鳳はその唇をキスで深く塞いだ。
部活後、一番最後に部室に戻ってきた鳳と宍戸が、着替えを済ませたのも、やはり一番最後のこと。
チームメイトの姿は、もう誰一人としてここにはない。
制服に着替えて、それじゃあ帰るかと言って部室を出ようとした宍戸の腕を引いたのは鳳だ。
そして最初は確かに軽く重ねるだけのつもりだったキスが、次第に熱を帯びていってしまった。
「ふ…………ぁ」
「………………」
小さな喉声が宍戸の唇から零れると、宍戸がいつも口にいている飴やガムのミントの香りが、キスに溶けて甘みを濃くする。
それを飲み込むように、少しだけあからさまに鳳が宍戸の舌を貪れば、宍戸の指先が鳳の肩を掴んできた。
引き剥がしたい素振りではなかった。
むしろ、小さく取り縋る所作で。
鳳の肩口を掴む手の動きがどこか幼くさえあって鳳は余計に煽られた。
「宍戸さん」
「………、ぁ、」
執拗に絡めた舌を、殊更ゆっくりと、ほどく側から鳳が囁くと。
濡れた息も声も全部そのままふりこぼして、宍戸が眼差しを仰のかせてきた。
睫毛の震えも見て取れるくらいの至近距離。
鳳は宍戸の頬を、そっと掠るくらいのキスをして、腕の中にその痩身を抱き込んだ。
「………………」
鳳の腕の中、宍戸の肢体からは。
やはりあの、仄かに甘い気配の、爽やかな匂いがする。
「長太郎、…」
「……もう少しだけ」
「………………」
ここまできてしまえばもう。
ねだるのもあまえるのも何も隠さずに。
鳳は洗い浚い晒して、そう口にした。
宍戸を抱き締めながら、ほっそりとした首筋に横ざま唇を寄せる。
鳳の唇に、宍戸の首の脈が直に響いた。
「お願いします。……あと、もう少しだけ、こうしてて…?」
「…………お願いなんかされなくたって…別にやめろとか言ってねえだろ…」
少し怒ったような声で、しかし宍戸の指先は甘い仕草で鳳の髪にうずめられた。
宍戸の手に抱き返される。
鳳は宍戸から、澄んだ香りの涼やかさと、密着した身体の温かみとを同時に感じる。
厳しくて優しい人。
鋭くて柔らかな人。
渇望する気持ちは募るばかりだった。
「………………ミントには温冷作用があるっていうけど、本当ですね」
「……、…は…?」
「寒い時に温めて、暑い時には冷ましてくれる効果があるっていうから」
鳳の腕の中にいる宍戸が、まさにそうだった。
いつもそうやって、あまりバランスのよくない鳳のメンタルを、宥めたり切り替えたり、時には煽ったり唆したりしてくるのだ。
「……何だ? ガムの話か…?」
本人は何も判っていないらしいのだけれど。
全くもって無意識の事らしいのだけれど。
「…………違います。宍戸さんの話ですよ」
鳳は、小さく笑って言った。
「ミントの匂いのする、宍戸さんの話です」
冷静になるきっかけも、気を紛らわせることも。
気がかりの緩和にも、気持ちの切り替えにも。
もっと欲しい、まだ欲しい、口に出来ないと落ち着かない。
欲しくて、好きで、必要なのだ。
大切なのだ。
この人が。
鳳は、今度こそ今日最後の心積もりで。
ミントの匂いのする宍戸の唇を塞いだ。
あやうく足先で蹴り出しかけた小さなボトルに寸でで気づき、海堂は身を屈めて手を伸ばす。
手にしてみれば部室に落ちていたそれが誰の物なのかを海堂は知っていた。
海堂が視線を向けた先にいる男の物だ。
「…………………」
部室内に置いてあるプラスチックベンチに腰掛けている乾は、組んだ足の腿の上に乗せたノートに何事かを書きつけながら、近くにいる数人と雑談を交わし、別方向からの質問に答え、手と口がまるで止まらず全くばらばらに動いているような印象だ。
海堂は瞬時躊躇った。
これでまた海堂からも乾に話しかけるというのは気が引けた。
それで、別段話しかける必要もないかと思い、海堂は黙ってその容器を乾の側に置いて行こうとしたのだが、乾に近づいて行くなりいきなり。
「やあ、海堂。お疲れ」
「…………っす…」
乾がノートから顔を上げて声をかけてきたので。
黙っている訳にもいかずに。
海堂は目礼と共に小さく声を出す。
上級生同士の話に割って入ってしまったようではないかと決まり悪くもなって、ぶっきらぼうに手にしていた小さな容器を乾に差し出した。
「………これ」
「ああ、俺のだね。ありがとう海堂。どこかに落ちてた?」
「入口んとこに」
「悪い。躓いた?」
「………んな真似しねえよ…」
乾がノートをとらない。
それまで続けていた三年生での会話を中断させたまま話しかけてくる。
顔を上げて、海堂の目を見てくる。
海堂は何だか身動きがとれなくなってしまった。
だいたい海堂が手渡そうとしている容器を、乾は一向に受け取る気配がない。
「あの…乾先輩」
「ちょうど使おうと思ってた所なんだ」
だったら尚のこと早く受け取ってくれと思って。
海堂は手を乾へと差し向けたのだが。
「海堂やってくれない?」
「…………あ?」
「だからそれ。目薬」
海堂が拾ったものは乾の目薬だった。
その目薬を乾の目線で指し示されて海堂は面食らった。
「………何で俺が」
「してほしいから俺が」
「………………」
「嫌か」
「…………嫌かって」
せめてまだ、笑うなり何なりしてからかっている風情ならばまだしも。
何でそんなに真顔なんだと海堂は戸惑った。
極普通のことを、極めて自然に頼まれているようではないかと思わされる乾の態度に面食らった海堂は。
乾の真意も酌めないまま、同意する事になってしまっていた。
「別に……いいですけど」
「助かる」
じゃ、と言って乾は上を向いた。
「………………」
海堂は眉根を寄せたまま近づいて行って、乾が自分で眼鏡を外そうともしないのに嘆息して目薬のキャップを開ける。
「……眼鏡くらい外して下さい」
「はいはい」
「………なに笑ってんですか」
「え? あ、ほら、外したぞ海堂」
「なにを威張ってんだ……訳わかんね……」
ひとりごちた海堂は渋々乾の正面に立ち、普段とは逆の角度で乾の事を見下ろした。
乾は海堂が見えているのかいないのか、瞬きする事もなく、裸眼を晒している。
「………………」
海堂は左手の指先をそっと乾の頬骨に沿え、乾の右目、そして左目へと点眼する。
普段目にする事のない乾の眼球の白黒の対比はくっきりと強い。
目薬を一滴ずつ落とした刹那、濃い睫毛が微かに動いた。
それも何もかもが一瞬の事だ。
「終わったっすよ。先輩」
強い吸引力に縛られでもしたかのように、海堂の眼差しは暫く乾の双瞳から外せなくなった。
じっと見下ろしたまま海堂がそう告げると、乾が瞼を下ろして。
閉ざされた眼に漸く海堂は身じろげた。
ゆっくりと乾から一歩後退りすれば乾の両眼もそれと同じスピードで見開かれていく。
「うん。一際よく海堂のことが見える」
そう言って乾は、唇の端をゆっくりと引き上げて笑った。
「………なに言ってんですか…」
「ありがとうな、海堂。お前目薬さすのうまいな。今度から海堂にしてもらおうかな」
「あのな……」
「もしくはお返しに俺がさしてやろうか?」
こっちおいでと乾にベンチを叩かれて海堂は呆れ顔で眉根を寄せたのだが、練習中に気づいた事があるからおいでと繰り返されては従わない訳にいかなくなった。
乾の隣に腰掛ける。
ずっと手に持っていたままの目薬を改めて差し出せば、今度は乾もそれを受け取った。
容器を挟んで手と手が重なった時に初めて。
海堂は目の前、部室の中で。
青学テニス部の面々が、顔を背けたり、片手で顔を覆ったり、俯いて頭に手をやったりしているのに気づいた。
「……乾先輩」
「なんだい海堂」
声には出さずにその不可思議な仲間のリアクションの意味合いを乾へ尋ねた海堂に返されたのは、いっそ暢気とも言えるような乾のおっとりとした笑み交じりの応えだった。
「うーん。なんだろうね。あいつら」
飄々とした物言いで、疑問に疑問で返された海堂はおもしろくなさそうに乾を一瞬睨んだのだが、乾が部活中に気づいたという海堂のフォームの話を始めれば。
それなりに長いベンチの、ものすごく片側。
腕と腕の重なる距離で海堂も乾のノートを覗き込む。
点眼液が一液落とされクリアになる視界のように。
彼らのふるまいは、時にどれだけ微かなものであっても周囲にさざめく甘い余波となる。
手にしてみれば部室に落ちていたそれが誰の物なのかを海堂は知っていた。
海堂が視線を向けた先にいる男の物だ。
「…………………」
部室内に置いてあるプラスチックベンチに腰掛けている乾は、組んだ足の腿の上に乗せたノートに何事かを書きつけながら、近くにいる数人と雑談を交わし、別方向からの質問に答え、手と口がまるで止まらず全くばらばらに動いているような印象だ。
海堂は瞬時躊躇った。
これでまた海堂からも乾に話しかけるというのは気が引けた。
それで、別段話しかける必要もないかと思い、海堂は黙ってその容器を乾の側に置いて行こうとしたのだが、乾に近づいて行くなりいきなり。
「やあ、海堂。お疲れ」
「…………っす…」
乾がノートから顔を上げて声をかけてきたので。
黙っている訳にもいかずに。
海堂は目礼と共に小さく声を出す。
上級生同士の話に割って入ってしまったようではないかと決まり悪くもなって、ぶっきらぼうに手にしていた小さな容器を乾に差し出した。
「………これ」
「ああ、俺のだね。ありがとう海堂。どこかに落ちてた?」
「入口んとこに」
「悪い。躓いた?」
「………んな真似しねえよ…」
乾がノートをとらない。
それまで続けていた三年生での会話を中断させたまま話しかけてくる。
顔を上げて、海堂の目を見てくる。
海堂は何だか身動きがとれなくなってしまった。
だいたい海堂が手渡そうとしている容器を、乾は一向に受け取る気配がない。
「あの…乾先輩」
「ちょうど使おうと思ってた所なんだ」
だったら尚のこと早く受け取ってくれと思って。
海堂は手を乾へと差し向けたのだが。
「海堂やってくれない?」
「…………あ?」
「だからそれ。目薬」
海堂が拾ったものは乾の目薬だった。
その目薬を乾の目線で指し示されて海堂は面食らった。
「………何で俺が」
「してほしいから俺が」
「………………」
「嫌か」
「…………嫌かって」
せめてまだ、笑うなり何なりしてからかっている風情ならばまだしも。
何でそんなに真顔なんだと海堂は戸惑った。
極普通のことを、極めて自然に頼まれているようではないかと思わされる乾の態度に面食らった海堂は。
乾の真意も酌めないまま、同意する事になってしまっていた。
「別に……いいですけど」
「助かる」
じゃ、と言って乾は上を向いた。
「………………」
海堂は眉根を寄せたまま近づいて行って、乾が自分で眼鏡を外そうともしないのに嘆息して目薬のキャップを開ける。
「……眼鏡くらい外して下さい」
「はいはい」
「………なに笑ってんですか」
「え? あ、ほら、外したぞ海堂」
「なにを威張ってんだ……訳わかんね……」
ひとりごちた海堂は渋々乾の正面に立ち、普段とは逆の角度で乾の事を見下ろした。
乾は海堂が見えているのかいないのか、瞬きする事もなく、裸眼を晒している。
「………………」
海堂は左手の指先をそっと乾の頬骨に沿え、乾の右目、そして左目へと点眼する。
普段目にする事のない乾の眼球の白黒の対比はくっきりと強い。
目薬を一滴ずつ落とした刹那、濃い睫毛が微かに動いた。
それも何もかもが一瞬の事だ。
「終わったっすよ。先輩」
強い吸引力に縛られでもしたかのように、海堂の眼差しは暫く乾の双瞳から外せなくなった。
じっと見下ろしたまま海堂がそう告げると、乾が瞼を下ろして。
閉ざされた眼に漸く海堂は身じろげた。
ゆっくりと乾から一歩後退りすれば乾の両眼もそれと同じスピードで見開かれていく。
「うん。一際よく海堂のことが見える」
そう言って乾は、唇の端をゆっくりと引き上げて笑った。
「………なに言ってんですか…」
「ありがとうな、海堂。お前目薬さすのうまいな。今度から海堂にしてもらおうかな」
「あのな……」
「もしくはお返しに俺がさしてやろうか?」
こっちおいでと乾にベンチを叩かれて海堂は呆れ顔で眉根を寄せたのだが、練習中に気づいた事があるからおいでと繰り返されては従わない訳にいかなくなった。
乾の隣に腰掛ける。
ずっと手に持っていたままの目薬を改めて差し出せば、今度は乾もそれを受け取った。
容器を挟んで手と手が重なった時に初めて。
海堂は目の前、部室の中で。
青学テニス部の面々が、顔を背けたり、片手で顔を覆ったり、俯いて頭に手をやったりしているのに気づいた。
「……乾先輩」
「なんだい海堂」
声には出さずにその不可思議な仲間のリアクションの意味合いを乾へ尋ねた海堂に返されたのは、いっそ暢気とも言えるような乾のおっとりとした笑み交じりの応えだった。
「うーん。なんだろうね。あいつら」
飄々とした物言いで、疑問に疑問で返された海堂はおもしろくなさそうに乾を一瞬睨んだのだが、乾が部活中に気づいたという海堂のフォームの話を始めれば。
それなりに長いベンチの、ものすごく片側。
腕と腕の重なる距離で海堂も乾のノートを覗き込む。
点眼液が一液落とされクリアになる視界のように。
彼らのふるまいは、時にどれだけ微かなものであっても周囲にさざめく甘い余波となる。
氷帝の制服はどこで見かけてもよく目立つ。
しかしそれを抜きにしても、あれは目立ちすぎだろ、と神尾は内心で思った。
氷帝の制服を着た男子学生が三人、遠目にもはっきりと判るレベルでもめている。
別に神尾がそこに首を突っ込む必要は全くないのだが、いかんせん当事者のうちの一人が跡部であるので神尾は悩んでしまった。
何せ神尾はその跡部と待ち合わせをしているわけなので。
「……修羅場…かな?」
険悪だなあと呟きながら神尾は彼らに近づいていく。
跡部と、あと二人は日吉と滝だ。
神尾は跡部以外とは別段親しいわけでもないのだが、テニス部である日吉と滝の事は、顔と名前が一致するくらいには見知っている。
そんな三人が三人、今はなにやら小競り合いの気配で、誰も近づいていく神尾の事になど気づかない。
「随分とぞんざいに扱ってやがるじゃねえか。日吉よ」
跡部はあまり機嫌がいい風ではなかった。
笑み交じりにそんな事を言っているが、目が全く笑っていない。
「………貴方には関係ないと思いますけど」
応えた日吉は低い声にあからさまな苛立ちを滲ませている。
「跡部、止めなって…」
困惑を滲ませて跡部の腕を引いている滝だけが一人、どこか頼りなげに立ち竦んでいた。
まっすぐに伸びた髪が肩から零れて、俯きがちの首筋が妙に痛々しく見える。
神尾はゆっくりと、尚も彼らに近づいていく。
「何が気にくわないのか知らねえが、こいつ相手に悪趣味な真似するんじゃねえよ」
「ですから貴方には」
関係ないと言いかけた日吉が、ふと言葉をすりかえる。
「……俺がそう思うだけかもしれませんけどね」
滝先輩は違うようですから、と後を続けた日吉の言葉に滝がびくりと肩を窄ませる。
跡部は迸らせるように全身から不機嫌な気配を立ち上らせる。
「だとよ。萩之介」
「…………………」
片腕を滝につかまれたまま跡部は視線だけを背後にやって。
そして。
それで漸く気づいたようだった。
もう、すぐ側までやって来ていた神尾に。
「…………………」
あまり心情を判りやすく酌ませるような表情を見せない跡部にしては珍しく、まず目を瞠って。
小さく息を飲む。
神尾はそんな跡部の表情を見てから、彼の背後で唇を噛むようにして俯いて、涙を小さく落とした滝の表情に気をとられた。
滝の涙に跡部は気づいていない。
見てしまったのは神尾と、そして日吉だ。
「…………………」
舌打ちした日吉が、突如呻くような声で怒鳴る。
「どうせ俺といても泣いているばっかりなんだ。だったらどっちがいいかなんて選んだり迷ったりしてないで、最初からあんたはそこで笑ってればいいだろう……!」
「日吉、……」
滝が踏み出した一歩は日吉の方へ。
しかし日吉が踏み出した一歩は滝へとは向かなかった。
背を向けて走っていく日吉を目で追いながら、神尾は小首をかしげて少し考えた。
「んー………」
「おい、神尾、」
跡部が硬直から解けたように神尾に向けて手を伸ばしてきた脇を。
神尾は走ってすり抜けた。
それを、どう思ったのか。
困惑と憤慨とが入り混じったような声で跡部にもう一度名前を呼ばれた神尾は、跡部達を振り返って叫んだ。
「そこにいろよなー!」
「おい…っ、神尾、てめえ……!」
もう一度、そこにいろという意味で、人差し指で地面を指し示すようなジェスチャーをしてから。
神尾は前を向き、そして本気で走り出した。
時間にしてものの数分後。
「つれもどしてきたぜ!」
「………………」
日吉の腕を掴んで戻って来た神尾は満面の笑みを浮かべてそう言った。
それに比べて日吉の仏頂面たるや凄まじかった。
視線で射殺しそうに神尾を睨みつけているが、神尾は平然と日吉の腕を持ったまま笑っている。
「歩いてたからすぐつかまえられた!」
「歩いてない!」
「あ、悪い。走ってたのか?」
「…………っ……」
思わず勢いで怒鳴り返していた日吉の視線が一層凶悪になる。
一方跡部もそれに張れる位の形相で。
見ているのは神尾が掴んでいる日吉の腕だ。
しかし神尾はそんな跡部の視線にも無頓着だった。
「な、日吉。さっきなんか、へんなこと言ってたじゃん」
「………変な事なんか言った覚えはない」
「滝さんが日吉と跡部と両方とつきあってるみたいな言い方したろ?」
神尾がそう言うなり、跡部と滝とが同じようなリアクションをとりかける。
違う、と否定の言葉を口にするのだけれど。
同一の反応に日吉は寧ろ苛立って、神尾は易々とそれらを見過ごす。
神尾は、じっと日吉だけを見据えて言った。
「や、あのさ、それはたぶんないぞ」
「………………」
あまりにも真面目にそう告げた神尾に、日吉は押し黙った。
神尾は尚も生真面目に日吉を見上げて話を続ける。
「あのな? 跡部がもしこの人とほんとにつきあってるなら、俺はここにいないだろうし」
「………………」
「跡部と俺、今一応ちゃんとつきあってるから大丈夫だと思うぜ」
「……てめえ」
聞いている者を身震いさせるような声音で跡部が割って入ってくる。
「一応、だと?」
「あのな、日吉。俺跡部に最初に言ったんだ。片手間に遊ぶんなら他あたれ、俺に構うなって。最初に言った」
しかし神尾はそれでも跡部ではなく日吉相手に話を続けた。
「跡部、約束絶対に守るから」
「………………」
「今日も待ち合わせしててさ。だから俺、ここ通ったんだけど」
「………………」
「今俺がここにいる以上は、日吉が言うような事は絶対ないぜ」
な?と笑っている神尾の表情にも言葉にも一点の邪気もない。
唖然とした表情で日吉は神尾を見据え、それは跡部や滝にも言えた事かもしれなかった。
「滝さん、大人っぽくて美人だから、日吉は心配だよな」
「な、………」
「……え…?」
神尾が笑みを浮かべたまま日吉の肩を数回叩くと、日吉が狼狽えたように身体を強張らせ、滝が小さな声をあげる。
「………日吉?」
「………、……」
舌打ちして顔を背けた日吉の表情は、普段と比べて格段に生々しい。
「でも滝さんだって、きっといろいろ心配なんだと俺は思うぜ!」
さっきからこれ見て泣きそうなんだ、と。
神尾は自らで掴んでいる日吉の腕を、他人事のような言い様で少し持ち上げて見せた。
「………………」
それにつられ思わずといった感じで日吉の眼差しが滝へと動く。
神尾の目線がその後を追えば、滝は真っ赤な顔をして困惑に震えている指で長い前髪を耳のあたりで握り締めていた。
目線を合わせられないまま、しかし全神経が互いへと繋がったような日吉と滝を察して、神尾が日吉の腕から指を離すや否や。
叩き落されるような勢いで、神尾の腕は跡部の指に鷲掴みにされていた。
「…………な、……なに怒ってんだ……っ? 跡部?」
「………………」
はっきり言って物凄い。
凄まじい。
なまじ顔の造作が半端ない程に整っている男が、完全な無表情で目つきだけを最悪に鋭くすごませている。
何でそんなに怒ってるんだと神尾が茫然とするほど跡部は静かに激高していた。
「こ、怖いぞ…? 跡部、ちょっとなんかそれ、凶悪に怖いんだけど…っ?」
「………………」
挙句。
往来だというのに。
日吉や滝がすぐ側にいるというのに。
神尾は胸倉を掴まれて口付けられた。
「なっ、……なっ、………」
「………………」
跡部は一瞬の後、捥ぎ飛ばすように口付けを解き、神尾を力づくで引きずるようにしながらその場から歩き出した。
「ちょっ…、なんか、…なんか俺わけ判んねえんだけど……!」
「それはこっちの台詞だ……ッ!」
桁違いの怒声が最後に残され、三人と一人とで接触した四人は。
二人と二人になって、別々の方向に進んでいくのであった。
しかしそれを抜きにしても、あれは目立ちすぎだろ、と神尾は内心で思った。
氷帝の制服を着た男子学生が三人、遠目にもはっきりと判るレベルでもめている。
別に神尾がそこに首を突っ込む必要は全くないのだが、いかんせん当事者のうちの一人が跡部であるので神尾は悩んでしまった。
何せ神尾はその跡部と待ち合わせをしているわけなので。
「……修羅場…かな?」
険悪だなあと呟きながら神尾は彼らに近づいていく。
跡部と、あと二人は日吉と滝だ。
神尾は跡部以外とは別段親しいわけでもないのだが、テニス部である日吉と滝の事は、顔と名前が一致するくらいには見知っている。
そんな三人が三人、今はなにやら小競り合いの気配で、誰も近づいていく神尾の事になど気づかない。
「随分とぞんざいに扱ってやがるじゃねえか。日吉よ」
跡部はあまり機嫌がいい風ではなかった。
笑み交じりにそんな事を言っているが、目が全く笑っていない。
「………貴方には関係ないと思いますけど」
応えた日吉は低い声にあからさまな苛立ちを滲ませている。
「跡部、止めなって…」
困惑を滲ませて跡部の腕を引いている滝だけが一人、どこか頼りなげに立ち竦んでいた。
まっすぐに伸びた髪が肩から零れて、俯きがちの首筋が妙に痛々しく見える。
神尾はゆっくりと、尚も彼らに近づいていく。
「何が気にくわないのか知らねえが、こいつ相手に悪趣味な真似するんじゃねえよ」
「ですから貴方には」
関係ないと言いかけた日吉が、ふと言葉をすりかえる。
「……俺がそう思うだけかもしれませんけどね」
滝先輩は違うようですから、と後を続けた日吉の言葉に滝がびくりと肩を窄ませる。
跡部は迸らせるように全身から不機嫌な気配を立ち上らせる。
「だとよ。萩之介」
「…………………」
片腕を滝につかまれたまま跡部は視線だけを背後にやって。
そして。
それで漸く気づいたようだった。
もう、すぐ側までやって来ていた神尾に。
「…………………」
あまり心情を判りやすく酌ませるような表情を見せない跡部にしては珍しく、まず目を瞠って。
小さく息を飲む。
神尾はそんな跡部の表情を見てから、彼の背後で唇を噛むようにして俯いて、涙を小さく落とした滝の表情に気をとられた。
滝の涙に跡部は気づいていない。
見てしまったのは神尾と、そして日吉だ。
「…………………」
舌打ちした日吉が、突如呻くような声で怒鳴る。
「どうせ俺といても泣いているばっかりなんだ。だったらどっちがいいかなんて選んだり迷ったりしてないで、最初からあんたはそこで笑ってればいいだろう……!」
「日吉、……」
滝が踏み出した一歩は日吉の方へ。
しかし日吉が踏み出した一歩は滝へとは向かなかった。
背を向けて走っていく日吉を目で追いながら、神尾は小首をかしげて少し考えた。
「んー………」
「おい、神尾、」
跡部が硬直から解けたように神尾に向けて手を伸ばしてきた脇を。
神尾は走ってすり抜けた。
それを、どう思ったのか。
困惑と憤慨とが入り混じったような声で跡部にもう一度名前を呼ばれた神尾は、跡部達を振り返って叫んだ。
「そこにいろよなー!」
「おい…っ、神尾、てめえ……!」
もう一度、そこにいろという意味で、人差し指で地面を指し示すようなジェスチャーをしてから。
神尾は前を向き、そして本気で走り出した。
時間にしてものの数分後。
「つれもどしてきたぜ!」
「………………」
日吉の腕を掴んで戻って来た神尾は満面の笑みを浮かべてそう言った。
それに比べて日吉の仏頂面たるや凄まじかった。
視線で射殺しそうに神尾を睨みつけているが、神尾は平然と日吉の腕を持ったまま笑っている。
「歩いてたからすぐつかまえられた!」
「歩いてない!」
「あ、悪い。走ってたのか?」
「…………っ……」
思わず勢いで怒鳴り返していた日吉の視線が一層凶悪になる。
一方跡部もそれに張れる位の形相で。
見ているのは神尾が掴んでいる日吉の腕だ。
しかし神尾はそんな跡部の視線にも無頓着だった。
「な、日吉。さっきなんか、へんなこと言ってたじゃん」
「………変な事なんか言った覚えはない」
「滝さんが日吉と跡部と両方とつきあってるみたいな言い方したろ?」
神尾がそう言うなり、跡部と滝とが同じようなリアクションをとりかける。
違う、と否定の言葉を口にするのだけれど。
同一の反応に日吉は寧ろ苛立って、神尾は易々とそれらを見過ごす。
神尾は、じっと日吉だけを見据えて言った。
「や、あのさ、それはたぶんないぞ」
「………………」
あまりにも真面目にそう告げた神尾に、日吉は押し黙った。
神尾は尚も生真面目に日吉を見上げて話を続ける。
「あのな? 跡部がもしこの人とほんとにつきあってるなら、俺はここにいないだろうし」
「………………」
「跡部と俺、今一応ちゃんとつきあってるから大丈夫だと思うぜ」
「……てめえ」
聞いている者を身震いさせるような声音で跡部が割って入ってくる。
「一応、だと?」
「あのな、日吉。俺跡部に最初に言ったんだ。片手間に遊ぶんなら他あたれ、俺に構うなって。最初に言った」
しかし神尾はそれでも跡部ではなく日吉相手に話を続けた。
「跡部、約束絶対に守るから」
「………………」
「今日も待ち合わせしててさ。だから俺、ここ通ったんだけど」
「………………」
「今俺がここにいる以上は、日吉が言うような事は絶対ないぜ」
な?と笑っている神尾の表情にも言葉にも一点の邪気もない。
唖然とした表情で日吉は神尾を見据え、それは跡部や滝にも言えた事かもしれなかった。
「滝さん、大人っぽくて美人だから、日吉は心配だよな」
「な、………」
「……え…?」
神尾が笑みを浮かべたまま日吉の肩を数回叩くと、日吉が狼狽えたように身体を強張らせ、滝が小さな声をあげる。
「………日吉?」
「………、……」
舌打ちして顔を背けた日吉の表情は、普段と比べて格段に生々しい。
「でも滝さんだって、きっといろいろ心配なんだと俺は思うぜ!」
さっきからこれ見て泣きそうなんだ、と。
神尾は自らで掴んでいる日吉の腕を、他人事のような言い様で少し持ち上げて見せた。
「………………」
それにつられ思わずといった感じで日吉の眼差しが滝へと動く。
神尾の目線がその後を追えば、滝は真っ赤な顔をして困惑に震えている指で長い前髪を耳のあたりで握り締めていた。
目線を合わせられないまま、しかし全神経が互いへと繋がったような日吉と滝を察して、神尾が日吉の腕から指を離すや否や。
叩き落されるような勢いで、神尾の腕は跡部の指に鷲掴みにされていた。
「…………な、……なに怒ってんだ……っ? 跡部?」
「………………」
はっきり言って物凄い。
凄まじい。
なまじ顔の造作が半端ない程に整っている男が、完全な無表情で目つきだけを最悪に鋭くすごませている。
何でそんなに怒ってるんだと神尾が茫然とするほど跡部は静かに激高していた。
「こ、怖いぞ…? 跡部、ちょっとなんかそれ、凶悪に怖いんだけど…っ?」
「………………」
挙句。
往来だというのに。
日吉や滝がすぐ側にいるというのに。
神尾は胸倉を掴まれて口付けられた。
「なっ、……なっ、………」
「………………」
跡部は一瞬の後、捥ぎ飛ばすように口付けを解き、神尾を力づくで引きずるようにしながらその場から歩き出した。
「ちょっ…、なんか、…なんか俺わけ判んねえんだけど……!」
「それはこっちの台詞だ……ッ!」
桁違いの怒声が最後に残され、三人と一人とで接触した四人は。
二人と二人になって、別々の方向に進んでいくのであった。
彼を見つめる事には慣れている。
いつも、いつも見てきたからだ。
宍戸が、鳳よりも、もっとずっと先に、高みに、いた時も。
手も触れられない処に宍戸がいた時からずっと鳳は彼を見ていた。
宍戸がそこから堕ちて来た時も。
見ていた。
いっそ何も汚れずに強いままでいるから痛々しかった。
宍戸が在るべき場所に戻してやりたいと鳳は思った。
彼が、強く、明るく、笑っていられる場所に。
戻して、そして、自分も其処にいくのだと鳳は決めたのだ。
綺麗な黒い色の長い髪はなくなったけれど。
宍戸は息のしやすい様子で笑い、鳳は彼の隣に並んで立てている。
レギュラー用の部室に最後に戻ってきたのは宍戸だった。
一人残っていた鳳を見とめて、宍戸は微かに唇の端を引き上げた。
ユニフォームを脱いで制服へと着替える、しなる背中を鳳は直視する。
華奢な骨格はその上にある薄い筋肉や肌の質感を繊細にうごめかせる。
「長太郎」
ふいに宍戸に呼ばれて、鳳がそれに応えるよりも先に。
「ただ見られてても俺は判んねえぞ」
ただ見られているという事は判っている宍戸が、振り返りもせずにそう言った。
「………………」
鳳はそれだけで大概の事は許されているような気になって一歩を進む。
宍戸の背後に立って、その後ろ髪に唇を寄せる。
「………………」
「………どうせ甘ったれんなら一気にやれっての」
ロッカーに向いたまま宍戸が後ろ手に左手を鳳に向けて伸ばしてくる。
過たずその指先は鳳の髪に埋められ軽くかきまぜられた。
間近に見下ろす宍戸のうなじはいつものように清潔に露で、今度はそこに唇を寄せながら鳳は両手で宍戸の身体を深く抱きこんだ。
強く力を入れても宍戸は身じろがなかった。
「………お前、また伸びただろ。背」
「……そうですか? よく判んないですけど」
宍戸の背と鳳の胸元が、ぴったりと密着している。
鳳が宍戸を抱き寄せている手にもう少し力を入れると、宍戸の唇から苦笑交じりの吐息が零れた。
「……………へこみすぎだ」
「宍戸さん」
「そう簡単に後輩のお前に負ける訳ねえだろ」
極軽く、宍戸の手が鳳の腕も叩いた。
部活の時間、最後に二人でシングルスの試合をした。
勝ったのは宍戸だ。
「四ゲームもとられてへこみたいのは俺の方だっての」
しかもサーブだけで一ゲームとられちまうしと嘆くように呟いている宍戸が。
甘ったれるのなら一気にやれと、鳳に言ったのだ。
だからもう、恥も何もないと鳳は思って。
背後から宍戸を抱き締めたまま、その耳元に囁いた。
「……宍戸さんに、飽きられたくないじゃないですか」
「は?」
「俺は年下だし。知っている事とか見ているものとか、永遠に宍戸さんより三百六十五日分少ないから」
だから、と鳳は低く続けた。
「勉強しようと思うし、優しくなりたいと思うし、力が欲しいとも思うんです」
宍戸が相手だからこそ、テニスだって勝ちたい。
負けてへこむ理由は、勝敗という結果への落胆だけではなく、そういう心積もりが叶わない事への消失感も含まれているのだ。
好きで、好きで、どうしようもなくなるたった一人のひとだから。
そういう鳳の言葉を聞き入れた宍戸は、小さな声で呟いてくる。
「………それで俺は、そうやって物を知ってて優しくて強いお前を他の奴らにとられないように必死になる訳だ」
「誰がとるんですか…」
「お前の言う三百六十五日分ってところで俺には判んだよ」
ずるいなあと鳳は苦く笑った。
そんな風に言われたら、鳳に出来るのは三百六十五日分を知らないという事を認める上で、我儘めいた態度を見せ付けるしか出来なくなる。
「俺のことをとるのは宍戸さんだけです。宍戸さんがいらないって言っても押し付けるけど」
「一生言わねえよ」
気配が緩んで宍戸が微笑んだのが判る。
僅かに鳳の胸元に宍戸の方からもたれてきた感触が鳳の手に甘くしみこんでくる。
抱き締めたい。
抱き締めている時でも絶えず沸き起こる、これは鳳の衝動めいた思いだ。
「………………」
こんなにも抱き締めている。
こんなにも近くにいる。
それでもこの、窮屈な体勢からのキスは。
手探りめいてたどたどしく、甘苦しく互いの気持ちを知らせあう。
互いのそれと、からめた舌は。
互いの恋情で、濡れていく。
いつも、いつも見てきたからだ。
宍戸が、鳳よりも、もっとずっと先に、高みに、いた時も。
手も触れられない処に宍戸がいた時からずっと鳳は彼を見ていた。
宍戸がそこから堕ちて来た時も。
見ていた。
いっそ何も汚れずに強いままでいるから痛々しかった。
宍戸が在るべき場所に戻してやりたいと鳳は思った。
彼が、強く、明るく、笑っていられる場所に。
戻して、そして、自分も其処にいくのだと鳳は決めたのだ。
綺麗な黒い色の長い髪はなくなったけれど。
宍戸は息のしやすい様子で笑い、鳳は彼の隣に並んで立てている。
レギュラー用の部室に最後に戻ってきたのは宍戸だった。
一人残っていた鳳を見とめて、宍戸は微かに唇の端を引き上げた。
ユニフォームを脱いで制服へと着替える、しなる背中を鳳は直視する。
華奢な骨格はその上にある薄い筋肉や肌の質感を繊細にうごめかせる。
「長太郎」
ふいに宍戸に呼ばれて、鳳がそれに応えるよりも先に。
「ただ見られてても俺は判んねえぞ」
ただ見られているという事は判っている宍戸が、振り返りもせずにそう言った。
「………………」
鳳はそれだけで大概の事は許されているような気になって一歩を進む。
宍戸の背後に立って、その後ろ髪に唇を寄せる。
「………………」
「………どうせ甘ったれんなら一気にやれっての」
ロッカーに向いたまま宍戸が後ろ手に左手を鳳に向けて伸ばしてくる。
過たずその指先は鳳の髪に埋められ軽くかきまぜられた。
間近に見下ろす宍戸のうなじはいつものように清潔に露で、今度はそこに唇を寄せながら鳳は両手で宍戸の身体を深く抱きこんだ。
強く力を入れても宍戸は身じろがなかった。
「………お前、また伸びただろ。背」
「……そうですか? よく判んないですけど」
宍戸の背と鳳の胸元が、ぴったりと密着している。
鳳が宍戸を抱き寄せている手にもう少し力を入れると、宍戸の唇から苦笑交じりの吐息が零れた。
「……………へこみすぎだ」
「宍戸さん」
「そう簡単に後輩のお前に負ける訳ねえだろ」
極軽く、宍戸の手が鳳の腕も叩いた。
部活の時間、最後に二人でシングルスの試合をした。
勝ったのは宍戸だ。
「四ゲームもとられてへこみたいのは俺の方だっての」
しかもサーブだけで一ゲームとられちまうしと嘆くように呟いている宍戸が。
甘ったれるのなら一気にやれと、鳳に言ったのだ。
だからもう、恥も何もないと鳳は思って。
背後から宍戸を抱き締めたまま、その耳元に囁いた。
「……宍戸さんに、飽きられたくないじゃないですか」
「は?」
「俺は年下だし。知っている事とか見ているものとか、永遠に宍戸さんより三百六十五日分少ないから」
だから、と鳳は低く続けた。
「勉強しようと思うし、優しくなりたいと思うし、力が欲しいとも思うんです」
宍戸が相手だからこそ、テニスだって勝ちたい。
負けてへこむ理由は、勝敗という結果への落胆だけではなく、そういう心積もりが叶わない事への消失感も含まれているのだ。
好きで、好きで、どうしようもなくなるたった一人のひとだから。
そういう鳳の言葉を聞き入れた宍戸は、小さな声で呟いてくる。
「………それで俺は、そうやって物を知ってて優しくて強いお前を他の奴らにとられないように必死になる訳だ」
「誰がとるんですか…」
「お前の言う三百六十五日分ってところで俺には判んだよ」
ずるいなあと鳳は苦く笑った。
そんな風に言われたら、鳳に出来るのは三百六十五日分を知らないという事を認める上で、我儘めいた態度を見せ付けるしか出来なくなる。
「俺のことをとるのは宍戸さんだけです。宍戸さんがいらないって言っても押し付けるけど」
「一生言わねえよ」
気配が緩んで宍戸が微笑んだのが判る。
僅かに鳳の胸元に宍戸の方からもたれてきた感触が鳳の手に甘くしみこんでくる。
抱き締めたい。
抱き締めている時でも絶えず沸き起こる、これは鳳の衝動めいた思いだ。
「………………」
こんなにも抱き締めている。
こんなにも近くにいる。
それでもこの、窮屈な体勢からのキスは。
手探りめいてたどたどしく、甘苦しく互いの気持ちを知らせあう。
互いのそれと、からめた舌は。
互いの恋情で、濡れていく。
乾と海堂が、二人で行う自主トレの後。
そのまま屋外で話しこむのがさすがに辛い季節になった。
日が落ちた後の空気は一際冷たい。
メニューの修正などを話しているとどうしても時間が長くなってしまうので、近頃は乾の家に立ち寄る事が増えた。
どうせ一人だからというのが乾の言い分で、その言葉通り、海堂はまだ乾の両親と顔をあわせた事がなかった。
「んー……家の中も、たいして外と変わらないな」
「………………」
家人の誰もいない家は、ドアを開けて中に入った直後は乾の言うように寒いくらいだったけれど。
電気をつけて二人で入り込むと、屋外とはやはり違う、家の中というあたたかみが生まれる。
「……おじゃまします」
「律儀だね。海堂は」
目礼と一緒に海堂が口にする言葉に乾が振り返って笑んだ。
「何かあったかい飲物でも持っていくから。先に俺の部屋に行ってて」
「………………」
「…やなの?」
低い笑い声を喉でくぐもらせる乾の言葉に海堂は憮然とする。
二人きりの時だけだけれど、乾は時々海堂相手にこういう子供相手のような声と言葉を使う。
今も。
人の家への訪問に慣れない海堂が、ましてや家人よりも先に一人で部屋に行くという行為を取り分け苦手としている事を知っての上で、乾は優しい甘い声を出すのだ。
海堂が無言のまま乾の後ろについていくと、乾はやけに嬉しそうな笑みを深めてキッチンに向かった。
電気をつけて、ケトルを手にしてお湯を沸かす。
「見張り?」
「………………」
「心配しなくてもホットの野菜汁とか飲ませないけど」
そんな事を言いながら、乾はそっと身体を屈めてきた。
海堂の顔に近づくようにして。
「お湯が沸くまで」
「………………」
「沸いても夢中になってたら噛んでいいよ」
乾の呪文めいた低い囁きに海堂は眉根を寄せて。
そっと押し当てられてきたキスに、海堂の方から唇をひらく。
「…………、ん」
大切なものに触れるような乾の手つきに頭を抱え込まれて、海堂は小さく啼いた。
キッチンの壁に静かに背中を押し当てられる。
海堂の腕がぎこちなく動いて、正面から乾の肩をつかむ。
舌が溶け合うようにして絡められていくにつれ、海堂の手は乾の後ろ首に回り、取り縋るような仕草になっていった。
「ふ、……ぅ………」
ケトルが、湯が沸いた事を知らせて甲高い音をたてた時、むしろ海堂の舌の方が乾に甘ったるく噛まれている状態で。
吐息を詰まらせていた海堂は、ゆるくほどかれていくキスに、まるで一瞬で湯が沸いてしまったかのように錯覚した。
「海堂」
「………………」
初めの宣言通り、湯が沸くまでの時間で、きっちりキスを終わりにした乾だったが。
海堂はそのまま暫く乾に抱き込まれていて、ゆっくりとキスの余韻を鎮めていく乾の気配を感じ取っていた。
それは海堂にも言えた事で。
そうやって、キスの後に無言で抱き締めあっている事で。
指の先までじんわりと暖まっていったような気がした。
「さて……たまには甘いものでも飲んで話そうか……」
抱擁の解き放たれ方もさらりとしていて、それが海堂にはひどく心地良かった。
乾はマグカップを二つ食器棚から取り出して、そこに薬剤のようにメイプルシロップを垂らしていく。
冷蔵庫から取り出したレモンは手で絞って加え、最後にケトルから湯を注いだ。
レモンの柑橘系の匂いとメイプルシロップの甘い匂いとが湯で融けあう香りがする。
そこに最後に乾が振り入れたものに海堂は首を傾げる。
「それ…何っすか」
「カエンペッパー。……まあ、唐辛子」
「………は?」
どうしてここで最後に唐辛子なんだと。
やはり乾の作るものには何かしら難題点があると。
海堂が思った事は全て表情に出ていたようで。
乾が苦笑して海堂にカップを手渡してきた。
「ほんの少ししか入れてないぞ? それにこれはカナダで実際に医学的に証明されてるメイプルシロップの摂取の仕方だ」
飲んでみろと乾に促されて海堂がおっかなびっくり口にしたそれは、拍子抜けするほど普通に美味しかった。
「カリウムやカルシウムが豊富なメイプルシロップに、レモンのビタミンC、カエンペッパーのカプサイシンが加わる事で、効果はまずデトックス」
「……デトックス?」
「体内の毒素、不純物の解体および消滅」
「はあ……」
「細胞の浄化、血管や神経へのプレッシャーや苛立ちの軽減、柔軟性の保持」
「………………」
両手で持ったマグカップに口をつけて、熱い甘い飲物を飲みながら。
海堂はこうなると当分は止まらないであろう乾の事を、上目に見つめた。
「………………」
乾は引き続き、全く淀みない口調で、この飲物の成分やら効能やらを語っている。
海堂は何の気兼ねも遠慮も無く、その飲物で暖まりながら、乾の事を見つめていた。
海堂には、何だかさっぱり判らないような事を語っている表情も、声も。
判らないながらも、ただ好きなので。
見つめていた。
そのまま屋外で話しこむのがさすがに辛い季節になった。
日が落ちた後の空気は一際冷たい。
メニューの修正などを話しているとどうしても時間が長くなってしまうので、近頃は乾の家に立ち寄る事が増えた。
どうせ一人だからというのが乾の言い分で、その言葉通り、海堂はまだ乾の両親と顔をあわせた事がなかった。
「んー……家の中も、たいして外と変わらないな」
「………………」
家人の誰もいない家は、ドアを開けて中に入った直後は乾の言うように寒いくらいだったけれど。
電気をつけて二人で入り込むと、屋外とはやはり違う、家の中というあたたかみが生まれる。
「……おじゃまします」
「律儀だね。海堂は」
目礼と一緒に海堂が口にする言葉に乾が振り返って笑んだ。
「何かあったかい飲物でも持っていくから。先に俺の部屋に行ってて」
「………………」
「…やなの?」
低い笑い声を喉でくぐもらせる乾の言葉に海堂は憮然とする。
二人きりの時だけだけれど、乾は時々海堂相手にこういう子供相手のような声と言葉を使う。
今も。
人の家への訪問に慣れない海堂が、ましてや家人よりも先に一人で部屋に行くという行為を取り分け苦手としている事を知っての上で、乾は優しい甘い声を出すのだ。
海堂が無言のまま乾の後ろについていくと、乾はやけに嬉しそうな笑みを深めてキッチンに向かった。
電気をつけて、ケトルを手にしてお湯を沸かす。
「見張り?」
「………………」
「心配しなくてもホットの野菜汁とか飲ませないけど」
そんな事を言いながら、乾はそっと身体を屈めてきた。
海堂の顔に近づくようにして。
「お湯が沸くまで」
「………………」
「沸いても夢中になってたら噛んでいいよ」
乾の呪文めいた低い囁きに海堂は眉根を寄せて。
そっと押し当てられてきたキスに、海堂の方から唇をひらく。
「…………、ん」
大切なものに触れるような乾の手つきに頭を抱え込まれて、海堂は小さく啼いた。
キッチンの壁に静かに背中を押し当てられる。
海堂の腕がぎこちなく動いて、正面から乾の肩をつかむ。
舌が溶け合うようにして絡められていくにつれ、海堂の手は乾の後ろ首に回り、取り縋るような仕草になっていった。
「ふ、……ぅ………」
ケトルが、湯が沸いた事を知らせて甲高い音をたてた時、むしろ海堂の舌の方が乾に甘ったるく噛まれている状態で。
吐息を詰まらせていた海堂は、ゆるくほどかれていくキスに、まるで一瞬で湯が沸いてしまったかのように錯覚した。
「海堂」
「………………」
初めの宣言通り、湯が沸くまでの時間で、きっちりキスを終わりにした乾だったが。
海堂はそのまま暫く乾に抱き込まれていて、ゆっくりとキスの余韻を鎮めていく乾の気配を感じ取っていた。
それは海堂にも言えた事で。
そうやって、キスの後に無言で抱き締めあっている事で。
指の先までじんわりと暖まっていったような気がした。
「さて……たまには甘いものでも飲んで話そうか……」
抱擁の解き放たれ方もさらりとしていて、それが海堂にはひどく心地良かった。
乾はマグカップを二つ食器棚から取り出して、そこに薬剤のようにメイプルシロップを垂らしていく。
冷蔵庫から取り出したレモンは手で絞って加え、最後にケトルから湯を注いだ。
レモンの柑橘系の匂いとメイプルシロップの甘い匂いとが湯で融けあう香りがする。
そこに最後に乾が振り入れたものに海堂は首を傾げる。
「それ…何っすか」
「カエンペッパー。……まあ、唐辛子」
「………は?」
どうしてここで最後に唐辛子なんだと。
やはり乾の作るものには何かしら難題点があると。
海堂が思った事は全て表情に出ていたようで。
乾が苦笑して海堂にカップを手渡してきた。
「ほんの少ししか入れてないぞ? それにこれはカナダで実際に医学的に証明されてるメイプルシロップの摂取の仕方だ」
飲んでみろと乾に促されて海堂がおっかなびっくり口にしたそれは、拍子抜けするほど普通に美味しかった。
「カリウムやカルシウムが豊富なメイプルシロップに、レモンのビタミンC、カエンペッパーのカプサイシンが加わる事で、効果はまずデトックス」
「……デトックス?」
「体内の毒素、不純物の解体および消滅」
「はあ……」
「細胞の浄化、血管や神経へのプレッシャーや苛立ちの軽減、柔軟性の保持」
「………………」
両手で持ったマグカップに口をつけて、熱い甘い飲物を飲みながら。
海堂はこうなると当分は止まらないであろう乾の事を、上目に見つめた。
「………………」
乾は引き続き、全く淀みない口調で、この飲物の成分やら効能やらを語っている。
海堂は何の気兼ねも遠慮も無く、その飲物で暖まりながら、乾の事を見つめていた。
海堂には、何だかさっぱり判らないような事を語っている表情も、声も。
判らないながらも、ただ好きなので。
見つめていた。
明け方、やけに寒いなとは思ったのだ。
季節柄、日に日に気温は下がっていっているから。
寒いのは当然だと思いながらも、さすがに、身体の芯から身震いするような寒さを覚えて跡部は目を開けた。
「………………」
毛布はしっかりと肩までかかっていて、しかも胸元には神尾がすっぽりとおさまっている。
体温の高い神尾は確かに跡部の腕の中にある。
ここまで密着していて寒いも何もないだろうと思いながら、跡部は億劫に瞬きを繰り返しながら一層深く神尾の身体を抱き込んでみる。
熟睡している神尾は、すうすうと音にならない音程度の寝息で、されるがままだ。
「………………」
家人が全て出払っているのをいい事に、跡部は神尾を半ば強引に家に泊まらせた。
こうして平日に神尾を泊まらせたのは初めてだったけれど。
身体を横向きにして、小さくなって。
指先を軽く握りこんだ手を、顔の近くに置いて眠る様子は見慣れたそれだ。
丸まった指が、神尾の寝姿をやけに幼く見せる。
跡部は眠気を引きずったまま、その神尾の曲げられた指の関節に唇を寄せた。
「…………と…べ……?…」
「………………」
起こす気はなかったのだが、眠気にとろりとなった声で確かに神尾は跡部の名前を呼んだ。
跡部が無言のまま神尾の背中に手を回すと、大人しく抱き込まれたまま、今度はもう少しはっきりとした声で神尾が言った。
「…あとべ……さむいのか…?」
神尾のくせに何でそんなことが判ると、悪態をつく気はあったのだが、跡部の唇から零れたのは別の言葉だった。
「…………寒ぃ……」
言いながら一層強く華奢な身体を抱き寄せる。
神尾が初めて焦ったように身じろいだ。
「跡部、……おまえ…身体熱い…」
「……バァカ……熱いんじゃなくて寒いんだよ」
毒づく跡部に、神尾はいつものように反論してはこなかった。
急いた仕草できつい束縛の中から引き出した手を跡部の額に当てて、もがき出す。
「熱、…熱あるって…お前…!」
「………暴れんな。風起きて寒い」
不機嫌に跡部は呻いた。
本気で寒い。
しかし、抱き込んだ神尾の身体だけが今跡部にとって温かなものだった。
「薬、どこにあるんだよ?」
「いらね……」
「今のうちに飲んでおいた方がいいって……!」
「いらねえって言ってんだろ………逃げんじゃねえ。馬鹿」
「ちょ、…おい、離せってば…! 俺探してくるから…!」
どうやら神尾はすっかりと目覚めてしまったようだった。
代わりに跡部は倦怠感にどっと襲われたかのように身体が重くて何もかもが億劫で堪らない。
このままただ抱かせておけばそれでいいものを、神尾は躍起になって跡部の腕の中から出て行こうとする。
それがとにかく腹立たしい。
舌打ちして、しかし跡部の口から零れたものは。
「………行くな」
「跡部、……」
「行くな。ここにいろ」
「………薬探してくるだけだぜ…?」
「行くな」
これではもうただの懇願だ。
跡部は不機嫌に眉根を寄せたまま、しかし、神尾を縛り付けるように一層深く身のうちに抱きこんだ。
寒気は相変わらずだったが、今腕の中からこの存在が離れていく事の方がどれだけ身体に負担かと思う。
「なあ……すぐ戻るから」
「嫌だ」
「……、…いやだ…って」
小声で即答してやったら、跡部の腕の中で神尾の体温がふわりと上がったのが判る。
心臓の音も早いじゃねえの、と。
普段なら口にしている言葉も。
今は跡部の胸中でのみ発せられている。
神尾を抱き締める腕も、もはや拘束というよりは逃すまいとしがみついているばかりだ。
「大人しくしてねえと、さっきよりかボロボロに泣かす」
「、ばかかおまえはっ」
熱あるくせしてと叫んでいる神尾の唇を跡部は塞いだ。
やけに甘い。
甘く濡れて、甘く熱い。
むさぼるようにして跡部がしかけるキスの合間で、神尾の泣き声交じりの声が途切れ途切れになった。
「………ふ……ぁ、っ」
「………………」
「んゃ……、ん、ャ」
完全に飢えた気分で跡部は神尾に口付ける。
それは身体の欲というより。
「み、ず……っ…、ん、っ、…くん、できてや…、から……っ」
「………………」
「…ゃ……跡部……っん、ぁ、く」
口付けた神尾の口腔から喉の渇きを収めてくれそうなものを手当たり次第奪った。
毛布ではどうにもならない寒気だけれど、こうしてこの肢体を抱き締めていれば温かい。
薬だとか、水だとかも、いらないだろう。
渇きはむさぼる口付けで得られるもので潤し、例え一時でも離れられたら跡部の体調不良は悪化しそうなのだから。
今片時も手放せない、毛布であり薬であり水である相手を跡部は抱き締めて、口付けて。
いとおしんだ。
季節柄、日に日に気温は下がっていっているから。
寒いのは当然だと思いながらも、さすがに、身体の芯から身震いするような寒さを覚えて跡部は目を開けた。
「………………」
毛布はしっかりと肩までかかっていて、しかも胸元には神尾がすっぽりとおさまっている。
体温の高い神尾は確かに跡部の腕の中にある。
ここまで密着していて寒いも何もないだろうと思いながら、跡部は億劫に瞬きを繰り返しながら一層深く神尾の身体を抱き込んでみる。
熟睡している神尾は、すうすうと音にならない音程度の寝息で、されるがままだ。
「………………」
家人が全て出払っているのをいい事に、跡部は神尾を半ば強引に家に泊まらせた。
こうして平日に神尾を泊まらせたのは初めてだったけれど。
身体を横向きにして、小さくなって。
指先を軽く握りこんだ手を、顔の近くに置いて眠る様子は見慣れたそれだ。
丸まった指が、神尾の寝姿をやけに幼く見せる。
跡部は眠気を引きずったまま、その神尾の曲げられた指の関節に唇を寄せた。
「…………と…べ……?…」
「………………」
起こす気はなかったのだが、眠気にとろりとなった声で確かに神尾は跡部の名前を呼んだ。
跡部が無言のまま神尾の背中に手を回すと、大人しく抱き込まれたまま、今度はもう少しはっきりとした声で神尾が言った。
「…あとべ……さむいのか…?」
神尾のくせに何でそんなことが判ると、悪態をつく気はあったのだが、跡部の唇から零れたのは別の言葉だった。
「…………寒ぃ……」
言いながら一層強く華奢な身体を抱き寄せる。
神尾が初めて焦ったように身じろいだ。
「跡部、……おまえ…身体熱い…」
「……バァカ……熱いんじゃなくて寒いんだよ」
毒づく跡部に、神尾はいつものように反論してはこなかった。
急いた仕草できつい束縛の中から引き出した手を跡部の額に当てて、もがき出す。
「熱、…熱あるって…お前…!」
「………暴れんな。風起きて寒い」
不機嫌に跡部は呻いた。
本気で寒い。
しかし、抱き込んだ神尾の身体だけが今跡部にとって温かなものだった。
「薬、どこにあるんだよ?」
「いらね……」
「今のうちに飲んでおいた方がいいって……!」
「いらねえって言ってんだろ………逃げんじゃねえ。馬鹿」
「ちょ、…おい、離せってば…! 俺探してくるから…!」
どうやら神尾はすっかりと目覚めてしまったようだった。
代わりに跡部は倦怠感にどっと襲われたかのように身体が重くて何もかもが億劫で堪らない。
このままただ抱かせておけばそれでいいものを、神尾は躍起になって跡部の腕の中から出て行こうとする。
それがとにかく腹立たしい。
舌打ちして、しかし跡部の口から零れたものは。
「………行くな」
「跡部、……」
「行くな。ここにいろ」
「………薬探してくるだけだぜ…?」
「行くな」
これではもうただの懇願だ。
跡部は不機嫌に眉根を寄せたまま、しかし、神尾を縛り付けるように一層深く身のうちに抱きこんだ。
寒気は相変わらずだったが、今腕の中からこの存在が離れていく事の方がどれだけ身体に負担かと思う。
「なあ……すぐ戻るから」
「嫌だ」
「……、…いやだ…って」
小声で即答してやったら、跡部の腕の中で神尾の体温がふわりと上がったのが判る。
心臓の音も早いじゃねえの、と。
普段なら口にしている言葉も。
今は跡部の胸中でのみ発せられている。
神尾を抱き締める腕も、もはや拘束というよりは逃すまいとしがみついているばかりだ。
「大人しくしてねえと、さっきよりかボロボロに泣かす」
「、ばかかおまえはっ」
熱あるくせしてと叫んでいる神尾の唇を跡部は塞いだ。
やけに甘い。
甘く濡れて、甘く熱い。
むさぼるようにして跡部がしかけるキスの合間で、神尾の泣き声交じりの声が途切れ途切れになった。
「………ふ……ぁ、っ」
「………………」
「んゃ……、ん、ャ」
完全に飢えた気分で跡部は神尾に口付ける。
それは身体の欲というより。
「み、ず……っ…、ん、っ、…くん、できてや…、から……っ」
「………………」
「…ゃ……跡部……っん、ぁ、く」
口付けた神尾の口腔から喉の渇きを収めてくれそうなものを手当たり次第奪った。
毛布ではどうにもならない寒気だけれど、こうしてこの肢体を抱き締めていれば温かい。
薬だとか、水だとかも、いらないだろう。
渇きはむさぼる口付けで得られるもので潤し、例え一時でも離れられたら跡部の体調不良は悪化しそうなのだから。
今片時も手放せない、毛布であり薬であり水である相手を跡部は抱き締めて、口付けて。
いとおしんだ。
制服のままするテニスは少し窮屈で、でもそれが却って程よい戒めになるかな、と宍戸は思った。
引退した部ででしゃばりすぎるのは宍戸の意とする所ではない。
時折顔を出し、望まれた部分だけ手を貸して、最後に少しだけコートを借りる。
テニスは、やはり楽しかった。
いとおしかった。
「俺が、なんて言われてるか知ってますか?」
コートの中。
腕でこめかみからの汗を拭っていた宍戸は、ネット越しにいる日吉にそんな風に声をかけられた。
今の今まで対戦形式で打ち合っていた勝負は宍戸の勝ちで、日吉は悔しさを隠していない。
「いや?」
「日吉もとうとう飼い慣らされたかって」
「……ああ?」
「宍戸先輩に」
「なんだそれ」
部内の二年や、引退した三年が、そう日吉に言っているらしい。
日吉の性格から考えて、それはかなり腹もたつだろうと宍戸は思った。
しかし意外にも日吉は言った。
「別に構いませんけど」
「……日吉?」
日吉は低い声で、珍しく饒舌に話をした。
「見た目より根性あって、見た目より危なっかしいって判りましたから」
「俺の事かよ?」
「はい」
「……そう見えんのか?」
「俺にはそう見えます」
言われた言葉に、宍戸は物凄く驚いてしまった。
日吉が淡々と言うから、ついそれにつられた物言いをしたが、よもや日吉からそんな事を言われるとは思ってもみなくて。
一つ年下の後輩をまじまじと見据えてしまう。
宍戸の視線を受けて、日吉は僅かに目を伏せた。
「宍戸さんは、俺が貴方の事を好きじゃなかったの知ってましたよね」
「ああ。嫌いだろ?」
元々そういう気配はあって、そこに敗者はレギュラーから外されるという榊のやり方に従えずに足掻いた宍戸の行動が拍車をかけた。
目上であろうが、同級生であろうが、馴れ合う事をしない日吉の孤高のポジション、それはどこか宍戸と似てもいたけれど。
似ている部分があるが故に、宍戸の甘さを日吉は厭ったのだろう。
だから日吉の問いかけに宍戸は即答したのだが、日吉はまるで舌打ちのような溜息を吐き出した。
「………嫌いではなく好きじゃない、です」
「違うのか?」
「違います。加えて言えば、好きじゃなかった、です」
「今は違うのかよ」
どこか面白そうに。
からかいを交ぜて言った宍戸に、日吉は無表情でそれを肯定してきた。
「違います。……時々鳳に牽制されるくらいには」
「…………ばかだよな…あいつ」
不意打ちで放られた名前に、宍戸は笑みを浮かべながら顔を伏せた。
こんな風に人の口から聞かされる鳳の言動。
日吉に牽制したって意味もないだろうにと。
「鳳が、宍戸先輩の事を綺麗だって言う時と同じ目してますよ。今」
「………勘弁しろよ」
決まり悪い事この上ない。
顔が熱くなってくるのが判って、宍戸は日吉が見られない。
珍しくも薄く笑んでいる日吉の表情はどこか大人びている。
赤くなって俯く宍戸なんて、大概の人間が知らないだろうと日吉は思った。
口の悪い上級生がそんな風に可愛く見えるのは、全てあいつのした事か、と。
感心したのも束の間。
「………………」
日吉は、部室の方からこのコートへと走ってくる同級生、鳳に気づいて嘆息する。
だからこの程度の会話なのだから。
そんなに血相変えて走ってくる事はないんだ。
それは日吉の今の呟きで、宍戸の後の呟きだ。
引退した部ででしゃばりすぎるのは宍戸の意とする所ではない。
時折顔を出し、望まれた部分だけ手を貸して、最後に少しだけコートを借りる。
テニスは、やはり楽しかった。
いとおしかった。
「俺が、なんて言われてるか知ってますか?」
コートの中。
腕でこめかみからの汗を拭っていた宍戸は、ネット越しにいる日吉にそんな風に声をかけられた。
今の今まで対戦形式で打ち合っていた勝負は宍戸の勝ちで、日吉は悔しさを隠していない。
「いや?」
「日吉もとうとう飼い慣らされたかって」
「……ああ?」
「宍戸先輩に」
「なんだそれ」
部内の二年や、引退した三年が、そう日吉に言っているらしい。
日吉の性格から考えて、それはかなり腹もたつだろうと宍戸は思った。
しかし意外にも日吉は言った。
「別に構いませんけど」
「……日吉?」
日吉は低い声で、珍しく饒舌に話をした。
「見た目より根性あって、見た目より危なっかしいって判りましたから」
「俺の事かよ?」
「はい」
「……そう見えんのか?」
「俺にはそう見えます」
言われた言葉に、宍戸は物凄く驚いてしまった。
日吉が淡々と言うから、ついそれにつられた物言いをしたが、よもや日吉からそんな事を言われるとは思ってもみなくて。
一つ年下の後輩をまじまじと見据えてしまう。
宍戸の視線を受けて、日吉は僅かに目を伏せた。
「宍戸さんは、俺が貴方の事を好きじゃなかったの知ってましたよね」
「ああ。嫌いだろ?」
元々そういう気配はあって、そこに敗者はレギュラーから外されるという榊のやり方に従えずに足掻いた宍戸の行動が拍車をかけた。
目上であろうが、同級生であろうが、馴れ合う事をしない日吉の孤高のポジション、それはどこか宍戸と似てもいたけれど。
似ている部分があるが故に、宍戸の甘さを日吉は厭ったのだろう。
だから日吉の問いかけに宍戸は即答したのだが、日吉はまるで舌打ちのような溜息を吐き出した。
「………嫌いではなく好きじゃない、です」
「違うのか?」
「違います。加えて言えば、好きじゃなかった、です」
「今は違うのかよ」
どこか面白そうに。
からかいを交ぜて言った宍戸に、日吉は無表情でそれを肯定してきた。
「違います。……時々鳳に牽制されるくらいには」
「…………ばかだよな…あいつ」
不意打ちで放られた名前に、宍戸は笑みを浮かべながら顔を伏せた。
こんな風に人の口から聞かされる鳳の言動。
日吉に牽制したって意味もないだろうにと。
「鳳が、宍戸先輩の事を綺麗だって言う時と同じ目してますよ。今」
「………勘弁しろよ」
決まり悪い事この上ない。
顔が熱くなってくるのが判って、宍戸は日吉が見られない。
珍しくも薄く笑んでいる日吉の表情はどこか大人びている。
赤くなって俯く宍戸なんて、大概の人間が知らないだろうと日吉は思った。
口の悪い上級生がそんな風に可愛く見えるのは、全てあいつのした事か、と。
感心したのも束の間。
「………………」
日吉は、部室の方からこのコートへと走ってくる同級生、鳳に気づいて嘆息する。
だからこの程度の会話なのだから。
そんなに血相変えて走ってくる事はないんだ。
それは日吉の今の呟きで、宍戸の後の呟きだ。
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