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How did you feel at your first kiss?
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 大変な事に気づいてしまった。
「跡部! 悪いけど、俺、今日もう帰る!」
 学校からの帰り道、直行で向かった跡部の部屋に入るなり、神尾はそう叫んだ。
 大変な事に気づいてしまった。
 くるりと振り返って、ごめんな!と叫びながら一気に走り出そうとしていた神尾は、猫の子よろしく首根っこをつかまれる。
 正確にはコートの襟ぐりに跡部の指がひっかけられたのだ。
「………っ…」
 瞬時喉を詰まらせた神尾だったが、すぐに跡部の指は襟刳りから離れて、代わりに跡部の両腕が神尾の胸の前で交差する。
 背後から、神尾は身包み跡部に抱き締められていた。
「……跡、部?」
「何で帰る」
 怒ったようでもないし、かといって機嫌がいい訳でもなさそうな、跡部の物言いは平坦で抑揚がない。
 首の裏側に跡部の唇が触れそうで触れない気配があって、神尾は少しうろたえた。
「や、あの、さ……」
「抱かれんのが嫌か」
「え、あの、…え?」
 何をそんないきなり言い出すんだと、神尾は真っ赤になっているだろう自分の顔に片手を宛て、もう片方の手では胸元にある跡部の腕をつかんだ。
 先に氷帝からこの彼の自宅へと帰ってきていた跡部は、すでに制服から着替えていて、胸元の大きくあいたVネックのニットをさらりと一枚素肌に着ているだけのようだった。
 正直なところ、神尾は自分を出迎えに出てきた跡部のこの出で立ちを最初に見た時、しみじみと、いやになるくらいいい男だよなと思ったのだ。
 跡部には吸引力がある。
 テニスをしていても、していなくても、黙っていても、笑っていても、怒っていても。
 女は色めき立つし、浮かれるし。
 男はそれを納得してしまう。
 意地悪で優しくて、綺麗で怖くて甘ったるい。
 跡部の部屋に来れば、キスと、その先が必ず。
 そんな風になってまだ一月も経たなくて、抱かれるとか跡部に言われてしまうのは神尾には相当な羞恥心を煽られる出来事だ。
「するばっかが不満なら今日は我慢してやるから…帰るな」
「………跡部?」
 別にそんなつもりで神尾は帰ると言った訳ではないのだ。
 だから余計に言われた言葉が恥ずかしくてならなくなる。
 跡部は普段は辛辣だったり揶揄うような言葉を平気で口にしてくるのに、神尾を抱く時は口数が減る。
 あまり喋らなくなる中で、神尾の髪を撫でたり寄せるキスの仕草が濃密に優しい。
 時折呻くような掠れ声でくれる言葉が、神尾の涙腺を簡単に壊した。
 跡部に抱かれるのは好きなのだ。
 言った事は勿論ないが、神尾はそう思っている。
 してくれるのが嬉しい。
 そんなことだって思っているのだ。
「跡部、あの…俺な…」
「逃げるな。バカ」
 身じろいで背後を視線で流し見た神尾の間近に、不機嫌そうに眉根を寄せながらも微苦笑を浮かべた跡部の顔があった。
 これまで見た事のない、こんな顔ばかり最近の跡部は神尾に晒してくるのだ。
 好きに終わりがなくて怖い。
 好きにさせるのがこんなにうまい男だったなんて神尾は知らなかった。
「神尾」
 伏せた目元は余裕があるのに、自分を抱きこむ腕の力はやけに強い。
 跡部が判らなくて、跡部が好きで、跡部がずるくて、跡部が愛しい。
 頭の中、全部この男の事で埋まる、と神尾はとても吐露出来ないような事を考えた。
「だって……跡部」
「……なんだ?」
「今日は、13日の金曜日なんだぜ…?」
 神尾は胸元にある跡部の腕を、ぎゅっとつかんで小さな声で言った。
 気づいてしまった、大変な事。
「それが何だ」
「不吉な日だろ…」
 何かもう恥ずかしくてどうしようもないけれど。
 跡部があんなこと言ってまで自分を引きとめようとするから、自分はこんなこと言ってしまうんだと神尾は八つ当たりめいた口調で告げた。
「跡部と一緒にいて、なんかあったら困るだろ…っ」
「ああ?」
「だから! 13日の金曜日だから…! 喧嘩とかしたり、それが原因で別れるとかなったら俺困るから! 今日は帰る…!」
 跡部と一緒にいられる筈が無い。
 よりにもよってこんな日に。
「…………、…お前」
 薄着の跡部の体温が、急に高くなった気がする。
 それはひょっとしたら自分の体温かもしれないけれど。
 神尾は、ふいに背後から、まさぐってくるような跡部の手のひらに顔を触れられ、斜め後ろに捩じり上げられるような窮屈な姿勢で深く唇を塞がれた。
「……、…っ……ン、……」
 舌を痛いくらい。
 いやらしくいじられて。
 跡部の舌に。
 くらくらする。
 喉に零れる唾液の感触に神尾は肩を喘がせて、嵐にまかれるようにそのまま組み敷かれる。
 抱かないんじゃなかったっけと考えたのは一瞬で。
 抱かれたくなかった訳ではないんだったと神尾はすぐに思いなおす。
「跡部……」
「……13日の金曜日が終わるまで、お前ちょっと黙ってろ」
 不吉というならそれはお前の煽りだと。
 跡部の甘苦しく詰るような言葉と、卑猥な眼差しと、歪めた笑みと。
 そうして口数の少なくなる跡部、熱を帯びた優しい手。
 いつもと同じ事と、いつもとは違う事。
 全部が跡部から降ってくる。

 神尾は両腕を高く差し伸べ、降り頻る全てを抱き締めた。
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 正直そこまで心細そうな、不安気な顔をされるとは思わなかった。
 しかもそこにどこか苛立ちすらも垣間見えて、これは本気で参ったと内心で思いながら、宍戸は鳳を見上げた。
 うち来るか?と尋ねてみれば、鳳は逡巡の後、小さく頷いた。
 でも学校から宍戸の家へ向かう間も、鳳はひとことも口をきかなかった。
 少し先を歩く宍戸が時々背後に視線を向けると、鳳は宍戸が考えていた以上の強い眼差しで見据えてきていて、宍戸はまた嘆息する。
 元来穏やかな性質の鳳が、頼りなくも憮然とした表情をしていること自体、慣れない。
 どうしたものかと思い悩んでしまうから自然と宍戸の口数も減って、結局二人、ほぼ無言で歩を進める。
 そうして到着した宍戸の家で、家人の姿のないまま宍戸の部屋に二人で入ってしまえば、それこそもう。
 彼らをとりまくのは静寂だ。
「……長太郎」
「………………」
 宍戸は沈黙をやぶって鳳の名を呼び、彼の手をとった。
 そして自分のベッドへ鳳を座らせる。
 その正面に立って、いつもとは逆に鳳を見下ろしながら、宍戸は小さく肩から息を抜く。
 指先で鳳の髪を撫でた。
「………………」
 じっと見つめている宍戸の視線を、鳳もまた見上げて、受け止めてはいるけれど。
 やはりどうにも憂いで見えて、宍戸は鳳へと、ゆっくりと上体を屈めていった。
「………………」
 頬にキスして、そっと鳳の髪を撫で、耳の縁と、こめかみへも唇を寄せる。
 それから両手で鳳の頭部を囲うようにして、己の胸へと抱き寄せた。
 やわらかい癖のある髪に唇を落とす。
「好きだ」
 振動に近い小さな声。
 それを鳳の髪にうずめて、宍戸は呟いた。
「可愛いとか、かっこいいとか、俺はお前で全部思う」
「………………」
 身じろぎをみせた鳳の動きを封じるように、宍戸は胸元にある鳳の頭を更に抱き込んだ。
「お前が好きだ」
 聞かせている相手は、鳳にだけではなく、自分へも。
 宍戸は手を宛がっている鳳の後頭部をそっと撫で、繰り返し口にした。
 鳳が、うんざりするくらい。
 繰り返してやろうと思って、胸元にいる鳳にひとしきり告げた。
 鳳は何も言わない。
 しかし、大きな手のひらが、もどかしそうに伸びてきて宍戸の後ろ首をつかんできたので。
 宍戸は鳳の唇を塞ぎながら、彼をベッドに倒していく。
 鳳の上になって、口腔にある男の舌を微かに噛む。
 首の裏をつかまれたまま、鳳のもう一方の手が宍戸の腰を強く抱き寄せてきた。
 キスが、深くなる。
「……っ…、」
「………………」
「…ふ………っ、……、」
 唇を重ねたまま宍戸は鳳の胸元についた手で彼の制服のブレザーの釦を外す。
 空いた方の手では同時に自分の制服の釦を外していた。
「………長太郎……」
「………………」
「……好きだ…」
 同時にしようとするからうまくいかないのかもしれないが、互いの制服は何だかぐちゃぐちゃに乱れる割には、少しも思うようにならず、いつまで経っても中途半端に身に纏ったままだ。
 宍戸は鳳には何もさせず、一人で二人分の脱衣をしようとしていて、しかもその間ずっと鳳に囁き続けていた。
「好きだぜ。お前のこと」
「………………」
「お前みたいにはちゃんと言えてないけどな」
 でも今日みたいに、と宍戸は鳳の身体の上で自身のシャツを肩から外す。
「お前が言えない時は、その分も俺が言うからよ」
 そして宍戸は鳳のシャツも脱がせて、鳳の手をとり、その大きな手のひらを自分の胸元に運んだ。
「好きだって。それは俺が言うから」
「………………」
「お前は抱けよ」
 俺を、と微笑んで見下ろした鳳に。
 宍戸は嵐にまかれるような勢いで、抱き込まれ、反転させられ、組み敷かれた。
「好きだ」
 鳳は宍戸を抱く。
 けれど何も言わない。
 だから宍戸がずっと言っていた。
「好きだ」
 繰り返す言葉を、決して安くなんかさせない。
 事実を正しく告げて、それで陳腐に聞こえるなんていうのは、言葉に見合う気持ちの込め方が足りないだけだと宍戸は思っている。
 だからずっと、今日は囁いた。
「好きだ」
 そして。
「長太郎」
 同じ気持ちのこもる、二つの言葉を。



 数時間後、宍戸は台所で笑っていた。
 手にしているのはレモン。
 ガスコンロの前で、二等分にしたレモンの切り口を青い炎で焼いている。
 宍戸の背後にはぴったりと鳳がくっついて立っている。
「少しは落ち着いたか」
「………笑いすぎです」
 酷い声だった。
 掠れて、われて、歪んでいる。
 あーあ、と宍戸は苦笑いした。
「喋んなって。やっと声出るようになったんだろうが」
 宍戸がコンロの火で炙っているレモンの果肉が少しずつ焦げていき、柑橘系特有の香りが周囲に濃く立ち込める。
 鳳は宍戸の背後から腕を回してきて、下腹部を抱き込むようにしてきた。
「だってなあ……お前が、ああもへこむとは思わなかったからなぁ…」
 週末、鳳が風邪をひいた。
 微熱と共に腫れあがった喉は、腫れがひいた後には、完全にその声を潰してしまっていた。
 それはもう掠れ声などという生易しい話ではなく、声がまるで発せられなくなってしまったのだ。
 鳳という男は元来非常に細やかな性質をしている。
 しかも言葉にすると同時に行動にも出ている。
 そういうとにかくまめな男で、だから言葉が話せなくなってからも日常生活には然して支障はないようだったのだが、唯一の例外が宍戸だったらしい。
 好きだと言葉で宍戸に告げられないという事は、鳳にとって相当のストレスだったようで。
 余りにも判りやすく風邪をひいてしまった鳳からすれば、移してしまうかもしれないという危惧で、また宍戸からすれば病み上がりに無理をさせてはまずいだろうという危惧で、日常生活にも微妙な距離があいたものだから。
 次第、悲壮なストレスを露にしてきた鳳を、宍戸もいい加減放っておけなくなってしまったのだ。
 普段、言葉を惜しまない鳳に、甘えてしまっている自覚は宍戸にもある。
 だからせめてこんな時くらいは。
 好きだと口に出来ない鳳に、彼が言いたい以上の回数、自分がそれを与えてやりたくなったのだ。
 この数時間であまりにも繰り返し口にした言葉だが、これまで鳳が宍戸に告げた回数と等しくなるか越えるかしたかと考えれば、実の所あまり自信がないのが宍戸の本音だ。
「長太郎。グラス持ってろ」
 後ろ手に手を伸ばし、軽く鳳の頭をたたいて促した宍戸は、ガス台の火を止めた。
 そして鳳に持たせた耐熱性のグラスに、焦がしたレモン汁を絞る。
「うちではいつもこれなんだよな。喉は」
 飲んどけ、と指先でグラスを指し示して宍戸が言った通り、鳳は素直に従った。
「飲みづらかったらハチミツ入れてやるけど」
「………………」
 鳳は少し考える顔をして。
 いきなり。
「………、……てめ……」
 ちゅ、とかわいらしいこと極まりない音をたて宍戸の唇にふれるだけのキスをした。
 それから残りのレモンを飲んで。
 微笑んだ鳳が何事か言おうとするのを察し、宍戸は怒鳴った。
「長太郎!」
 はい、と声にはならなかったものの、素直に頷いた鳳に。
 宍戸は一気に脱力した。
 ハチミツって言ったんだ俺はと言おうとしていた言葉を捨てて。
 今日は、そうだ、言うべき言葉はこれだったと思いなおす。
「バカすぎだ、お前……ったく…そういうところも好きだけどな…!」
「………………」
 そうして再び、焦がしたレモンの味のキスをする。
 苦味より、酸味より、あくまで甘い、キスをする。
 自分の何かを人に任せる。
 海堂にとって、乾は初めてそういう事をした相手だった。
 強制でもなんでもなく、自らの意思で。
 ましてそれが自分が強くなる為の術であれば尚更の事。
 これから先こんな相手は乾の他にいないであろうと海堂は思った。
 依存ではないのかと己を危ぶんだ事は幾度かあって、その度に機知に富んだ年上の男は敏感に察し、それは違うよと首を振った。
『依存というなら、それは俺が海堂に、なのかもしれない』
 乾はそう言って微かに笑んでいた。
 海堂に乾の真意は判らなかったが、執着に似た相手への思い入れが自分だけではないのだという事を知らされ、それは海堂を安堵させもした。
 お互いとの距離は、なんて事のない日常の積み重ねで狭まっていく。
 理由などなくても、顔を見合わせ、話をする。
 和む優しい空気に馴染んで、馴致して、そうしてそんな優しい和やかなものの中から渇望が生まれる事を知る。
 さらさらと肌触りのよかった好意が、熱を帯びて苦しい恋情に変化していく時も。
 乾がきっと、察してくれたのだろうと海堂は思っていた。
 放つ術も心積もりもなかった海堂の感情を、丁寧に酌んで、器用に拾い上げてくれた。
 好きだよと囁く事で、飽和して混沌となっていた海堂の気持ちをも名付けてくれて。
 でもそれは。
 元より乾が抱いていた思いではなかっただろうと海堂は心のどこかで思ってもいた。
 乾が誰よりも慎重な男だからこそ、まずは困惑に陥った海堂を救うべく、海堂に手を伸ばし言葉を向けたのだと思っていた。
 海堂を抱き締める瞬間。
 キスをする寸前。
 いつもうまれる僅かな間。
 丁寧な抱擁や口付けのさなか、乾が彼自身の感情を探っている気配を海堂は見過ごせない。
 無理をさせ、引きずり込んでいるのかと。
 そう思ってしまえば最後、海堂はそれまで以上の耐え難さに囚われた。
 駄目なら駄目でいっそ早く拒んで欲しいと思う。
 それと同時に、突き放されたくないという思いも確かに海堂にはあって、乾の言葉を聞き、キスをされ、抱き締められるたび、ゆっくりと進められていくその日常の繰り返しに、次第どうしようもなくなっていった。


 乾に抱き締められて、初めて、ベッドに押さえつけられた。
 強い手に組み敷かれ、最後かもしれない確認の予感に海堂は唇を噛む。
 乾の手のひらが胸元に宛がわれ、服の上から撫でられる。
 普段触れられることのない喉元や首筋に乾の唇が押し当てられて、身体のそこかしこに乾からの接触がある。
 乾の所作の全て、強引にも、丁寧にも、なりきれていない。
 どっちつかずの微妙な乾の動きに、海堂が感じるものは、最終通告を待つ怯えだけだ。
「……海堂?」
「…………………」
 意識するより先に海堂の目じりから落ちていた涙に、嗚咽の声は含まれない。
 しかし乾はそれが海堂の瞳から生まれるや否や気づいて、低く重い声で名前を呼んできた。
 僅かに顔を横に背けている海堂の、片頬に大きな手が触れてきて。
 海堂は眼差しを乾へと向けて言った。
 乾の表情は涙で霞んで見え辛かった。
 海堂は、呟くように見えない乾に告げた。
「確かめてもいい…」
「…………………」
「でも決めるなら早くしてくれ」
「………決めるって何を」
「だから」
 顔をずらして乾を見上げることで、乾の手の親指の付け根に海堂の唇が当たる。
 そこに口付けるように海堂は一度目を閉じて、涙を流しきってから睫毛を引き上げる。
「出来ないなら出来ないで、早く」
「そんな選択肢なんかないよ」
「…………………」
「最初からない」
「だ……、…」
 何を言ってるんだと乾は言った。
 まるで呻くような低い声だった。
「………これだけあせらせておいて」
「乾先輩…?……」
「平気な顔してるなんて思わないでくれ」
 初めて乾の前で涙を流した分だろうか。
 乾の表情が、海堂にはいつもよりよく見える気がした。
「……平気じゃ…ないんですか」
「ないよ。当然だろ」
 海堂の小さな声に、乾は憮然と答える。
 怒っているのかもしれない、見慣れぬ乾の表情に海堂は驚いた。
「それから確かめるとか決めるとか、どういう意味でお前は言ってるんだ」
「どういう意味って…それは」
「お前じゃないのか? それは」
 確かめているのも。
 決めようとしているのも。
「………………」
 思いもしなかった疑問を放られ、海堂は愕然とした。
「俺は……今更そんな事しない……」
「俺だってそうだ。最初から全部決まってる。お前が、」
 好きで、欲しくて、と抑揚のない声に欲望を詰め込まれ耳元で告げられた。
 乾のその焦れたような声に海堂は息をのんだ。
「思いもしてなかったって顔だな」
 困った奴だと珍しい乾の苦笑いを耳元に吹き込まれ、海堂はそのまま乾に口付けられた。
 舌の絡むキス。
 急いたように勢いを増した手。
 おり重なった互いの脚、密着する四肢。
 塞き止めていたものが放出されていくような勢いに、海堂は僅かだけ狼狽し、混乱した。
 涙まで欲しがられるように眦にもキスをされて、気恥ずかしい居たたまれなさを覚えもしたけれど。
 お互いが持っていた勘違いを、きちんと訂正しあう余裕はそれぞれにない。
 今は、少しでも早く、先に、奥に、続いていきたい。
 言葉を惜しむのではなく、言葉を放つ時間を待てない。
 思いでのみ動かした身体で、抱きしめあって、今は危うい罠にはまったままで。


 このままで。
 誘ってみたものの、絶対断られると思っていた。
 だから跡部の合意を得た瞬間、神尾は呆気にとられたのだ。
「どういう理屈だ。自分で誘っておいて」
「だってよう…跡部が行くとは思わないじゃん」
「それなら何で誘う」
「………どうせ駄目でも言うだけは言っておきたいだろ」
「前向きなんだか後ろ向きなんだか判んねえな。お前」
 神尾を振り返るように流し見ながら、跡部は薄く笑った。
 整いすぎている面立ちは、初詣に向かう人の波の中に入り込んでも際立ってよく目立つ。
 跡部が着ているコートは高級そうではあったが色は地味めなアースカラーであるのに、そういう色味の服を着ている事で何故だか余計に派手に見える。
 初詣に行こうと跡部を誘った神尾は寒いのが好きでないので、帽子からマフラーからイヤーマフから手袋まで、完全防備でいるのに比べて。
 跡部はすっきりとしたラインのコートこそ着ているが、そのほかの防寒具は手袋のみだ。
「革って冷たくない?」
「別に」
 端的な返答だが、跡部の唇には笑みが浮かんだままだから。
 冷たい感じは全然しない。
 そういえば、どちらかといえば跡部は、今機嫌がいいみたいな気がすると神尾は思った。
 人込みとか嫌いな筈なのにと不思議に思って見据えていると、また跡部から眼差しが流れてくる。
 きつくて、綺麗な目だ。
「何だ」
「んー……」
「唸るな」
「唸ってんじゃねえよ。考えてただけ」
「何を」
 跡部の唇から、ふわりと白い息が零れる。
 全然寒そうに見えないけれど、やっぱり跡部の周りだって空気は冷たいんだよな、と当たり前の事を認識しながら神尾は言った。
「跡部はさ、願い事なんかないだろ?」
「ああ?」
「神様にお願いするようなこと何もなさそうじゃん。叶えたい事は全部自分でどうにかするって感じだし」
 人込み以外にもう一つ。
 初詣に跡部を誘っても、来ないだろうなと神尾が思っていた理由がこれだ。
 しかし跡部は神尾の予想外の返事を寄こしてきた。
「俺一人じゃどうにもならないことがあるだろうが」
 瞠った目で跡部を見据え、神尾は思わず大きな声を上げた。
「あんの?! そんなの?!」
「うるせえ……」
 跡部は眉を顰めたが神尾は構わず跡部に詰め寄る。
「お願い事とか、跡部にもあんの?」
「悪いか。俺にあったら」
「悪くないけど今死ぬほど驚いた!」
 跡部があからさまに不機嫌な顔になったが神尾は胸元に手を当てて深く息を吸って吐き出す。
 それが何なのか聞きたい気は勿論あったのだが、聞いたって跡部が答える筈がないと判ってもいる。
「……跡部一人じゃ出来ない事でも、神様なら叶えてくれそうな事なのか?」
「俺は神様なんざ信じちゃいねえよ」
「跡部ー……仮にもこれから初詣しようとしてる人間がそういう事言うかー?」
「叶えてくれんのは神様じゃねえって言ってんだよ。俺は」
 神様とやらには一応頼んでおくだけだと言った跡部を、神尾はじっと見つめた。
「じゃあ誰が跡部のお願いを叶えてくれるんだ?」
 言い終わるか言い終わらないかで。
 跡部が歩きながら身体を屈めてきて、神尾の唇をキスで掠めた。
「………、っ…、……」
 間近に見える跡部の長い睫毛の先端が、頬の上を軽く撫でる。
 唇だけでなくそこにもキスされたようで、神尾は続けざまに赤くなった。
「……あと……」
「お前が逃げなきゃいいんだよ」
 一生俺から、と。
 いっそ物騒な目で神尾を見据え、跡部は低く呟いた。
「逃がす気もないがな」
「跡部…?」
「もしお前が逃げたり、お前に何かあったらタダじゃおかねえ。これからあそこで俺がお願いしてやる内容だ」
 目前に近づいてきている神社の境内を指差して言った跡部に、神尾は叫んだ。
「それお願いじゃねえよっ!」
 神様脅すなよっ!と半泣きになった神尾に。
 跡部は再び機嫌のいい鮮やかな笑みを浮かべてみせるのだった。
 案の定、鳳は宍戸を見つけるなり言った。 
「宍戸さん。平気なんですか?」
「何が?」
「……何がって」
 受験勉強ですよと気遣いの滲む真摯な目に顔を覗きこまれるようにされて。
 屈んできたその角度に、また鳳の背が伸びている事に宍戸は気づかされる。
 待ち合わせた公園への到着はほぼ同時だった。
 引き合うようにして足早に近づいて行って、久しぶりに面と向かって交わした言葉は当たりさわりなく、しかし宛がわせた互いへの視線は片時も外せない。
「………………」
 毎日当然のように顔を合わせていた頃に比べれば、会えないでいる時間は格段に増えたのだけれど。
 優しく丁寧な鳳の口調は何も変わっていなかった。
 ここ最近の鳳は、受験の差し迫った宍戸に、短い電話やメールで精一杯の配慮をしてよこす。
 白く煙る吐息を零す鳳の口元を見据えながら、宍戸は後もう少しで新しい年の来る冬空の下、同じように白濁した外気に溜息を紛れこませる。
「俺から誘わなきゃ、気使って、お前絶対声なんかかけてこねえだろ」
 一年の最後の日だからだとか、一年の最初の日だからだとか、そういう事ではなくて。
 ただ会いたい。
 宍戸はそれだけだった。
「俺のため?」
 そのくせ、聞いた鳳の方が余程感慨深く、ひどく幸せそうな笑みを浮かべてくるので。
「いや。俺のため」
 鳳の問いかけに、宍戸がそうして否定の言葉を放っても。
「嬉しいです」
「俺ほどじゃねえだろ…」
 鳳の笑みは甘くなっていくばかりで。
 宍戸もつられるようにして笑い、手を伸ばす。
 鳳の頬に軽く指先で触れた。
「………………」
 冷たい頬。
 肉の削げた精悍なライン。
 会えない時間を目にしているような面持ちで、宍戸はじっと鳳を見上げていた。
 直接手の届く距離。
 目を見て話せる。
 例え短い時間でも。
 こうして直接会う方が、やはりどれだけいいかと宍戸は思った。
「……長太郎?」
 鳳が、宍戸を強くかたく抱き締めてきた。
 いっそ唐突なくらいの勢いで。
 腕の力で。
「………………」
 随分と簡単に自分が鳳の胸元におさまってしまう事を知らされて、宍戸は些か面食らった。
 こんなだっただろうか。
 自分は。
 そして彼は。
「宍戸さん」
「………………」
 深い声。
 長い腕に巻き込まれるようにして、かきいだかれた背中。
 強い密着。
 冷たい身体同士なのに、冷えた服の感触にも温かさはないのに、わけもなく安心した。
「俺に宍戸さんをありがとうございます」
「………………」
 一年が終わる間際から、一年が始まるその後にまで、跨って。
 鳳は宍戸の耳元で、そう囁いた。
「………なんか変だけどな……まあ、何となく意味は判る」
 俺もそうだからと、宍戸は両手を鳳の背に回す。
「好きだぜ。長太郎」
「……宍戸さん…」
「好きだ」
 抱き締めあう事で、充分満ちてくるものがある。
 違う人間だからこそ、噛み合うように重なる部分がある。
 埋められる言葉がある。
 触れてやれる部分がある。
 抱き締めあったまま、実感して、今年もまた。
「長太郎」
「はい?」
「お前の欲しいだけ俺をやるから…」
「はい。宍戸さんの欲しいだけ俺をあげます」
 普段であれば、そっと微笑んで。
 貰って下さいと物柔らかに言うのが常である年下の男が、今は笑ってそんな物言いをするから。
 宍戸は鳳に抱き締められたまま、いっそ嬉しくて、ひどく安心した。
「だから宍戸さんも、俺にまた、もっと、宍戸さんを下さいね」
「だからやるって最初に言ってんだろ」
 でも結局は、やっぱりそんな風に。
 お願い、されるのだけれど。
 それはそれで宍戸を和ませる。
 いつもとは違うこと。
 いつもと同じこと。
 今年もそれらを、織り成していけばいいだけの話だ。
 個別の練習メニューについてを語る乾の説明を、逐一の頷きと相槌を入れて生真面目に聞いていた河村は、最後まで聞き終えてから言った。
「うん。よく判ったよ。乾」
「そうか。それはよかった」
 ぱたん、と様々なグラフやイラストを書き綴ったデータ帳を閉じて、乾は河村の横にいる不二へと目線を向けた。
「不二は何かあるか?」
「ないよ。僕もよく判った」
 微笑む不二には頷きで返して、乾は、これでレギュラー全員終了、と呟いた。
「個人差があるにしても、みんながいるところで一斉に説明した方が、乾は楽なんじゃないのかい?」
 朴訥とした河村の物言いには気遣いが滲んでいる。
 心配無用、と乾は生真面目に首を左右に振った。
「義務的なトレーニングメニューの話じゃないからな。感性で理解して貰うには、個々のタイプ別によって説明した方が、却って効率がいい」
「……ということはつまり、僕とタカさんの感性が似通ってるから、今こうして一緒に乾の話を聞いたってこと?」
 不二の問いかけに乾はその通りと大きく頷いた。
 中指で眼鏡のブリッジを押し上げて、低い声は淀みなく言葉を紡ぐ。
「不二とタカさんは視覚派構成タイプだと俺は思ってるんだ」
「……なんだいそれ?」
「先の事を常に考えて、自分のイメージで構成する。こういうタイプには口頭重視よりも視覚で捉えてもらった方が疎通がしやすい」
「…………なんだか……ちょっとした心理学者みたいだな。乾」
 思わずといった風に河村が呟くと、不二が小さく笑い声をあげた。
「本当だね。タカさん」
「根拠はあるぞ」
「へえ…どんな?」
 二人がかりに興味深く乗り出され、乾の口調が滑らかになる。
「簡単な質問をされた際に、答えを考えている時の視線がどこにあるかで感性タイプが予想出来る。ちなみに何事かを考えている時のお前達の視線は、だいたい左上を見てる」
「そうなのか?」
「……僕も?」
「ほらな」
 乾の促しに、あ、と河村と不二の声が重なって、確かに彼らは同じ方向を見上げている。
 満足気に乾が唇の端を引き上げると、すごいなあと素直に河村が感嘆した。
「ひょっとして他の皆もそれぞれタイプで分かれてるのか?」
「右上を見る大石は視覚派想起タイプ。今までの記憶の中からイメージを思い浮かべるタイプだな。右下を見る菊丸は聴覚タイプで音に敏感なテンポ重視。左横を見る海堂は身体感覚派。これは触感を優先的に使って物事を認識するタイプだ」
 しかし全てが当てはまる訳じゃないけどな、と言って乾が流し見たのは、手塚と桃城と越前だ。
「手塚と越前は考え事をしていても視線が外れない。桃城は曲者。案外とこういう括りに当てはめられない」
 どことなく無念そうに見える乾の様子に、河村と不二は顔を見合わせ声にせずに笑った。
「何だ?」
「いや…つくづく乾のデータはすごいと思って。ね、タカさん」
「うん。本当にすごいよ、乾。乾のデータ収集って、もう趣味の域を完全に超えてるよな」
「うん? データは趣味というより俺の生活行動だからな」
「じゃあ…乾の趣味って何?」
 テニス以外でだよ、と不二が聞くのに。
 乾は顎の辺りに大きな手を宛がって即答した。
「俺の趣味は海堂」
 潔くも深みある美声でそんなことを断言されて。
 河村と不二の視線は静かに、そしてただちに、左上へと向けられた。
 言葉が冷たい時はやり方がうんと優しくて、やり方が少し乱暴な時は言葉が甘い。
 尋常でなく泣かされるし、怖い思いもするし、恥ずかしくて死にそうに苦しいのに、されるたびに跡部の事が好きになる自分はきっとどうかしてる。
 例えば跡部の家を訪れて、顔を合わせるなり抱き締められて、服を脱がされるなんて事は、あまりにも即物的ではないかと思うのに。
 それなのに、なんとなくそういうがっつかれ方が嬉しいなんて思ったりするのも相当おかしいと神尾は思っている。
「どれだけ着こんでんだお前」
 手早に、マフラー、手袋が外されて。
 コート、セーター、と脱がされていって。
 神尾のシャツの釦に手をかけた跡部が、一つ二つと釦を外していきながら、その下に更に神尾が着込んでいるTシャツを見て呆れた風に言った。
 全てを脱がしきるのを、待つのを面倒がって。
 跡部は外気に晒されていく箇所からもう触れてきた。
 首筋に噛みつかれる様なキスを受けながら、神尾はまた服を脱がされる。
「ん、……ちょ………噛む、な…っ……」
「噛んでねえよ」
「………っ…、…舐め…んなってば、」
「判ってんじゃねえの」
 首の側面に、笑っているらしい跡部の呼気が当たる。
 その感触がひどくリアルなのは、多分濡らされたり吸われたりしてそこの皮膚が過敏になっているせいだ。
「お前、これ嫌がらせだろ」
「……え?……なに…」
「着こんでくるか。ここまで」
 笑ったかと思えば今度は不機嫌も露に、跡部は神尾の首筋から唇を離さずに顎を通って近づいてくる。
 シャツを剥ぎ取られて、床に捨てられて。
 Tシャツの上から幾分手荒に胸元を撫で擦られた。
 所作がやけに生々しくて神尾は息を詰めた。
 顔が熱い。
 きっと赤い。
 跡部が布地の上から執拗に神尾の胸元を構ってくるのも、神尾の心音を激しく乱す。
「跡…、…」
 唇を深く塞がれ、跡部に触れられている全ての箇所へと強い刺激が集められていく。
 跡部の言っている事は勝手極まりない。
 今は冬なのだし、今年は大寒波到来だとも言われていて、本当に本当に寒いのだから。
 服だっていくらだって着込む。
「オラ、頭抜け」
「…………っ……は」
 舌をいやらしく噛まれた後に、たくしあげられていたTシャツを強引に頭から抜かれる。
 その合間にも跡部は唇を寄せてくるから、なんだかもうめちゃくちゃだ。
 服は放られるし、髪はぐちゃぐちゃで。
 跡部の手つきも言葉も、今日は両方とも、結構乱暴で雑だ。
 でもすこしもいやでない。
 どうかしてる。
 神尾は自分をそう思う。
 
 
 外は本当に寒いのに。
 服を脱がされれば脱がされるほど熱くなっていく。
 顔を合わせてからまだ数分、それでもう、どこもかしこも浮かされて熱い。


 好きで、好きで、好きだから。
 あまりにも毎日寒いのが、その喧騒の原因だった。
 月曜日の朝の事だ。
「昨日の夜テレビでさ、お天気お姉さんが、明日の朝の気温は冷蔵庫の中とほぼ同じでしょうって言ったんだぜ! 信じらんねえよ!」
「それで昨日はちゃんと湯たんぽ抱っこして寝たんか? 岳人」
「寝たけど! でも湯たんぽ抱いたって、足とか顔は、朝にはすっげえ冷たくなってた!」
「確かになあ……今年はちょっと、尋常でなく寒い気がするな…」
「気じゃねえよ侑士! ほんとに寒いんだって!」
 三年の冬。
 部活を引退してからもつるんでいる時間は然して変わらない氷帝テニス部のダブルスコンビは、肩を並べて登校中だった。
「お。跡部と滝を発見」
 おーっす、と走っていく向日の後を忍足はのんびりとついていく。
「おはよう岳人。ほっぺた真っ赤だね。寒い?」
「あったりまえだろ滝! めちゃくちゃ寒ぃよ!」
「岳人は寒いの苦手だもんね…」
 滝が笑って言って、向日は頬をふくらませている。
「おはようさん」
「ああ」
 忍足の言葉に跡部は頷くだけで、それでも自然と四人で連れ立って歩けば、通学路の人目は否が応でも彼らに集まる。
「跡部、お前、制服の下に特殊スーツでも着込んでんじゃねえの?!」
「ああ?」
「平気な顔しやがって……ちょっとは寒いって前面に押し出していけよな!」
 くそくそ跡部っ、と言った向日は派手な音をたてて跡部に頭を叩かれて涙目だ。
「おいおい跡部……」
 苦笑交じりに忍足は、跡部に殴り返さんばかりの勢いの向日を己の方へと引き寄せる。
「離せっ侑士っ」
「あかんって。岳人」
「だって跡部がっ」
 俺は昨日あんなに寒くて今日もこんなに寒いのにー!と癇癪じみて喚く向日を横目に、跡部は肩を聳やかせた。
「は………寒いねえ…? 悪いがこっちはお子様体温で朝まで無駄に温かかったんだよ」
 ぴたっと向日の声が止む。
 皮肉気な笑みを薄い唇に刷いて、跡部は一人先を行く。
「………侑士……」
「……ん?」
 頬を引き攣らせた向日に、忍足は力なく笑った。
 その横で滝も微苦笑している。
 三人は跡部の背を見つめながら小声で言った。
「お泊りだね……」
「お泊りやな……」
「お泊りかよ…!」
 跡部の衒いの無さを三者三様の反応で受け止めた彼らは、ふと背後に鳳と宍戸の姿がある事に気づく。
 向日の目がすわった。
「くそ………あいつらも絶対お泊り組だな」
 だから月曜日は嫌なんだと向日が呻く。
「でもまあ……宍戸は跡部みたいには言わないんじゃないかな?」
「せやな。けど、宍戸はともかく、鳳は言うやろ? 宍戸さんが温かかったから寒くありませんでしたー!…とかなんとか」
「うん。鳳は言うね」
 滝と忍足がそんな話を続ける中、宍戸だって判ったもんじゃねえと言ったのは向日だ。
 俺はあんなに寒かったのにと恨めしい顔で鳳と宍戸を睨む向日の論点はすでに激しくずれてしまっているのだが、ぐるぐると喉を鳴らして威嚇に励む子猫の如き向日の様子に、滝が提案をした。
「じゃあさ、岳人。宍戸の返答で賭けしようよ。昨日の夜とか、今朝とか、すごい寒くなかった?って宍戸に聞いて」
「………聞いて?」
「宍戸が跡部的な返答をしてきたら岳人の勝ち。俺と忍足で放課後、岳人の好きなもの奢ってあげる。いいよね? 忍足」
「決定しといてから聞くなや」
 苦笑いしながらも、ええよと忍足は頷いてみせた。
「俺、ベーグル食いたい」
「ベーグルでいいの?」
「今月の限定スプレッドのイタリア産渋皮マロンのモンブランと、今月限定ベーグルのクリスマスチキン、あとホワイトチョコのクリームチーズのと、レモンとブルーポピーシードのマフィン、そこにグレープフルーツジュースつけて!」
「………………」
 向日にまくしたてられ思わず顔を見合わせてしまった滝と忍足だったが、正直な所あまり負ける気もしないでいる。
「判った判った。岳人が買ったらみーんな奢ったる」
「よっしゃ!…じゃ、とりあえず鳳を追っ払おう!」
 あいつが聞いてると宍戸も言うもんも言わない可能性あると向日が言っているのとほぼ同時に、滝が声を上げた。
「あ、鳳ー、跡部が呼んでたよー」
 すでに大声を出さないでも充分声の届く距離まで来ていた鳳と宍戸に向けて滝が告げると、足早に近づいてきた鳳が、そこのいた三人の上級生に生真面目に頭を下げてから少し不思議そうな顔をした。
「何ですかね?」
「さあ? 跡部、少し前にここ追い越していったばっかだから、走っていけばすぐ追いつくと思うよ」
「そうですか。行ってみます。ありがとうございます」
「いえいえ」
 おっとりと柔和に微笑む滝を前に、鬼だ…、と内心で呟く向日と忍足である。
「じゃ、宍戸さん。お先にすみません」
「おう」
 そう言って鳳が走り出し、その背が小さくなっていくのを、宍戸以外のその場にいる全員が我慢比べのような面持ちで見送って。
「ね、宍戸」
 漸く本題に入る。
 滝が声をかけると、宍戸はマフラーを口元近くまで指先で押し上げながら、何だよと呟いた。
 寒がっている仕草だなあと慎重に観察しながら、滝は宍戸に並んで歩き出す。
 二人のすぐ後ろには忍足と向日がやはり並んで後についていた。
「昨日の夜も寒かったよね。今朝もすごい寒いし」
「ああ」
「昨日の夜寝る時とか、寝てる最中とか、寒くなかった?」
 宍戸の返事を待って、三人の意識が真剣に宍戸へと向けられる。
 宍戸は、もう一度マフラーを引き上げながら即答した。
「寝てねえよ。だから判らねえ」
 今はすっげえ寒い、とも宍戸は付け足した。


 寝ていない。
 だから寒かったのか寒くなかったのかは判らない。
 宍戸が眠らなかった原因の男は今頃、元部長の前で意味も判らず首を捻っているだろう。
 この場合賭けの結果は果たして。
 集団の中にいても、時々ひとり違う方向を見ている。
 誰も見ていない場所を見ている。
 だから乾には海堂が寡黙であるにも関わらずひどく際立って目立って見えた。
 黙ったままひとり何を見ているのかと海堂の視線を追えば。
 例えば雨上がりの歩道の水溜りに映りこんだ真逆の景色であったり、鳴かずに顔だけ出している軒下の燕の巣の中の雛であったり。
 つむじ風なのか不思議な螺旋をえがいて舞い上がっている落ち葉であったり、いつもと少し色の違って見える月であったり。
 海堂が見つけて、見つめているものは、どれもささやかだけれども印象的なものばかりだった。
 海堂が見つめるものは目立たずとも独自だ。
 気づく人がいない程度の小さい綺麗な欠片を、きちんと見つめているのが海堂だ。
 乾は海堂の視線の先を追うのが癖になった。
 海堂が何を見つけて、何を見ているのか。
 知りたいと思う欲求が生まれたからだ。
 そうして乾は海堂が見ている物を目で追った。
 それを見ている海堂の表情も必ず見つめた。
 そういう日々の繰り返しだったのだ。


 実際口に出して説明してみて改めて。
 そういう事だったのだと乾は再認識した。
 誰からも気づかれない程度の軽微なものであっても、それらを必ず見つけて見つめている目だから、海堂の双瞳は綺麗なのだ。
「………あれ、海堂。そっち向く?」
 乾の部屋、ベッドの上。
 まだ時間はある。
 先程までひっきりなしに軋んだ音をたてていたベッドは今はこんなにもおとなしい。
 海堂を胸元に抱き込んで、回想というほど古い話でもない事を、ぽつぽつ口にしていた乾は、海堂が身じろいで背中を向けて寝返ると、その背に被さるようにまた密着した。
 顔を背けられた代わりに乾の眼下に露になった海堂の耳元から首筋が、ふわっと滲むように赤かった。
「海堂?」
「………るせ……」
「からかってないぞ? 俺は」
「……ってる………真面目な顔してるから、余計悪い」
 低い声は本当に小さくて、けれども怒っている訳ではない事くらい、乾にもよく判る。
「俺が、そんな風にずっと海堂の事見てたのが居たたまれない?」
 少し笑って、乾は海堂の耳元に囁く。
 相変わらずその周辺の皮膚は、ほんのりと色味が濃くなっていて綺麗だった。
「海堂が綺麗なものをよく見てて、だからその眼も綺麗なんだって、俺は本気で思ってるから否定されても困るんだが」
「………も、…その声…」
 詰るような言葉の割りに言い回しの語尾が弱くて甘い。
 海堂は頑なに乾に背を向けたまま、片手を引き上げてきて、自身の耳元に手を当てる。
 耳を塞ぐような、めずらしくひどく子供じみた仕草に、乾が煽られないでいられる筈もない。
 海堂の指の先と耳の縁とに唇を寄せる。
 乾の唇の薄い皮膚を痺れさせる程そこの熱は高かった。
 乾が好きだと告げる度、海堂はますます振り返ろうとはしなくなるが、それでも乾は背後から海堂の身体を抱きこむようにして囁き続けた。
「海堂」
 いつも真っ直ぐに伸びている背を今は丸めて、ぎこちなく指先を震わせている海堂を抱き寄せていると、乾の思考は未経験の感覚を辿る。
 このままやみくもに抱き締めて再び暴いてしまいたいような欲求と、このままゆるく好きだと囁き続けているだけで他には何もいらないと思う気持ちと。
 正反対の感情が、不思議と乾の中で吊り合っている。
「………………」
 赤い耳元に宛がわれている海堂の手を乾は自身の手で包んだ。
 海堂が肩越しに視線を向けてくる。
 乱れた前髪の隙間から見えている真っ直ぐな眼差しが今映しているものは。
「………先輩」
「………………」
 自分もまた海堂のその眼に映るのだと、今更のように認識しながら。
 乾は海堂のこめかみに唇を寄せた。
 瞬いた海堂の睫毛の先が、乾の唇に触れる。


 そして再び、秘密裡のキス。
 宿る思いを隠す必要はない。
 まだ誰も空から降ってきた雪に気づいていない。
 細かな粉雪の欠片は、白が白ともまだ見えない。
 夜にほど近い空の黒の中に溶け込んでしまっている、目に見えない細雪。
 跡部は親族との会食の場であったレストランを出て、僅かの間、そんな空と雪の欠片とを見上げていた。
「………………」
 張りつめた冷気、微かな光でしかない雪の気配。
 誰も知らない。
 誰も気づかない。
 そんな静寂と鋭い冷気とに、いっそほっとして。
 跡部は溜息を吐き出すと時間を確かめつつ待ち合わせ場所に足を進めた。
 煩わしい時間が済んだ事で跡部が抱いた安寧は、予想以上に寒い外気によってすぐに苦い焦心に取って代わる。
 レストランからその場所までの距離が近かった事だけが今の跡部の救いだ。
「跡部! なんだー早かったなー」
「………………」
 待ち合わせ場所は跡部が指定した。
 レストランに程近いファッションビルの中。
 屋内に設置された噴水がオブジェも兼ねて高く水飛沫を上げている側で、神尾は白いピーコートを着て立っていた。
 細い首には同じく白いマフラーが巻かれている。
 すぐに跡部に気づいた神尾の表情は最初は紛うことなく笑顔だったが、跡部が近づいていくにつれ、大きく目を瞠っていくのが判る。
 大方原因は自分の格好だろうと跡部は思った。
 今日の会食の為に、例え親族であっても誰からも見縊られない為に。
 一分の隙もなく完璧に上質のスーツを着込んでいた跡部は、神尾の前に立って薄く笑った。
 跡部の家の事とか、こういうような格好だとか。
 対面して、神尾が怯んだとしても、逃すなんて気は跡部には全くない。
「跡部」
「何だ」
「お前……コートどうしたんだよ?」
「………ああ?」
 しかし神尾の言葉は跡部の自嘲めいた笑みを全く異なったものに摩り替えさせた。
 神尾は跡部を呆気にとられたように見つめてはいるが、その原因はスーツではないようだった。
「コート! 着てこなかったのかよ?」
「………………」
 神尾は僅かに首を傾けて声を大きくする。
「今日雪降るかもって言ってたんだぜ? 外だってすっごい寒いじゃんか! なんでそんな薄着で来たんだよ」
「………………」
 神尾の言うように。
 跡部はスーツ姿のまま、コートを羽織ってもいなかった。
 別段跡部は気にならなかったのだ。
 しがらみの多い会食の場をさっさと後にして、少しでも早く、ここに来る事しか考えていなかった。
 寒いと思いもしなかった。
「信じらんねー……! 風邪とかひいたらどうすんだよ!」
「………………」
 どうやら怒っているらしい神尾を見下ろしながら、跡部はこの、健やかで真っ直ぐな生き物は何だろうと考えた。
「ああほら手もこんなだし…!」
 跡部の冷えた指先を、ぎゅっと握りこんでくる神尾の手。
 自分よりも小さくて、細くて、しかし少しも弱くない。
 跡部に気持ちよく怒り、跡部に気持ちよく笑う。
 この存在は何なのだ。
「ちょっと待ってろよな」
 くるりと翻るようにしなやかな背が向けられて、走って行ってしまった神尾を、跡部は食い入るように見据えた。
 賑やかで、目まぐるしくて、そのくせ健気だ。
「跡部!」
 明るく優しい笑顔で戻ってきて、神尾は跡部に自動販売機で買ってきたらしい缶コーヒーを握らせた。
「とりあえずこれ持って」
「神尾」
「家の用事、全部済んだのか?」
「……ああ」
「そっか。じゃ、もうこの後何してもいいんだな?」
 神尾の物言いの言質をとるように、跡部は唇の端を引き上げた。
「お前に何していいんだよ?」
「だから。何してもいいんだって言ってるんだよ」
 やなことあったんだろ?と神尾は跡部を見上げて言った。
「………………」
「気晴らしになる事あるなら、ぜんぶ跡部のしたいようにしていい。……たまにはな!」
 最後には照れの滲むぶっきらぼうな言葉を添えて、しかし神尾は微笑んでいる。
 跡部は神尾の肩を抱いて歩き出した。
「うわ、…急になに…、…?」
「気晴らしとか言うんじゃねえ」
「……跡部?」
「滅入ってるなんて、みっともねえとこ見せても。お前に会わなきゃいられねえこっちの心情酌めって言ってんだよ」
 歩きながらビルの外へと出る自動ドアを越えた瞬間跡部は神尾の肩に回していた手で一層強く神尾を抱き込んで、その唇を掠った。
「………、…どこで……っ…、なに……っ…」
「恥ずかしけりゃ下向いてろ。俺は構わない」
 唇を手で押さえて神尾は赤くなっている。
 その慌てぶりや見事な赤面ぶりに、跡部は少しずつ、呼吸が楽になるような気持ちになる。
「……下なんか向かねえよ…っ」
 恐らく対抗心からか、神尾はそんな事を言ったが、言葉通りに上向いた後、あれ、と神尾は呟いて視線を上空の高い所に向けた。
「雪だ」
「……ああ、さっきちらついてたな」
 粉雪。
 細雪。
 今は先程よりも明確な白が頼りなく揺れながら天空から落ちてくる。
 跡部は神尾の肩から手を外す。
 神尾は雪を見ていて、跡部は神尾を見ていた。
 どれくらいそうしていたのか、はっと我に返った神尾の視線が跡部に戻ってくる。
「…………あ。だから跡部!」
「何だよ」
「そんな恰好でいたら風邪ひくって! だいたい寒くないのかよ?」
 神尾は、跡部の肘下辺りを掴んで、ぐいぐいと引いて歩き出した。
「…………………」
 散歩をねだる子犬か何かだなと跡部は心中でこっそりと思い、笑う。
「おい。神尾」
「え?」
「左手は缶コーヒー」
 神尾に掴まれている左腕、手には先程手渡された缶コーヒーを持っている。
 浸透してくる熱で手のひらが温かい。
 跡部はそれとは逆の手、冷たい右手を翳して見せた。
「こっちはどうすりゃいいんだ?」
「………、どう…って…」
 跡部自身、子供っぽくていい加減笑える己の言い草に、しかし神尾は笑わなかった。
 微かな雪が、触れた瞬間に溶けていくくらいの熱量で顔を僅かに赤くして。
 神尾は右を見て、左を見て、もう一度右を見て、もう一度左も見た。
「…………………」
 児童の信号機歩行かと跡部は笑いを噛み殺した。
 慎重に、そして慌しく。
 左右の確認を行った後、漸く。
 神尾の左手は跡部の右手に重なった。
 指と指とを絡め、手のひらを合わせ、手が繋がれた。


 互いの手と手は、祈りの形で結ばれる。
 小さいまま、細かなまま、落ちる微かな雪も、その形の上で静かに消えた。
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