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How did you feel at your first kiss?
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 目が染みて、額からの汗のせいかとふと気づく。
 それを拭おうとして、今打ったサーブが何本目なのかを忘れてしまった。
「…………………」
 鳳は二の腕で雑に額を拭い、そういえばサーブを何球打つつもりだったのかと自問してみる。
 明確な数字を思い出せないまま、また新たに打ち込んだサーブの行方が見てとれない。
 汗は拭った筈なのにと怪訝に思って初めて、辺りが相当に薄暗くなっている事に鳳は気づいた。
 息が苦しい。
 感覚が後からついてくる。
 いったいこれは何なのだと、急にしづらくなった呼吸を肩で逃した鳳の背中が、何かでふわりと覆われた。
 力が抜けそうになる。
 鳳は背後を振り返った。
「…………え…?」
 鳳の背中に額と手のひらを押し当てている。
 宍戸が。
「………宍戸さ…、?」
 見慣れた細い肩を。
 身体を捩る窮屈な姿勢で見下ろして、鳳は小さくその名を口にした。
 宍戸の腕が伸びてきた。
 鳳の身体の前側から。
 宍戸の手のひらが、鳳の肩を掴む。
 縋る、といった方がいいのかもしれない。
 すんなりとした宍戸の指先が、鳳の肩を甘く羽交い絞めるように。
 その仕草は懸命に取り縋っているようにも見えた。
 ぼんやりと宍戸の手を見下ろした鳳の背に、宍戸が身体を寄せる。
 何がとも言い切れない心地良さに引きずられて、それと同時に鳳の思考が少しずつクリアになっていく。
「宍戸さん?」
 どうして?と呟けば、どうしてじゃねえよと、にべもなく返されてしまった。
「…どうした。長太郎」
 挙句、逆に問い返される始末だ。
「……どう…って?」
「何してんだ。お前」
 別段怒った口調ではなかったが、宍戸の手のひらが、まるで何か労るような仕草で鳳の肩をさすってきた。
 宍戸は尚も鳳の背に重なるように密着してきて。
 身体の距離が近くなる事で、鳳は闇雲な安心感を覚えた。
 まるで衝動のように、今ここにいる宍戸が鳳の全てになるような気がした。
 しばらくそのままでいた。
 何も言わず、答えず。
 身じろぎもしない鳳に、宍戸は背後から静かに寄り添うだけだ。
「…………………」
 どれくらいそうしていたのか、鳳の手が意識するより先に動き、自身の肩口にある宍戸の手の上にそっと重なると、宍戸はまた同じ事を口にしてきた。
「どうした…? 長太郎」
 今度は鳳にもその意味が判った。
「……すみません」
「謝んなくたっていい。俺が気にかかるだけだ…」
 素っ気無いような言い方だったが、少しも距離も置かずに、ぴったりと鳳の背に寄り添っている宍戸の仕草は優しかった。
 鳳は、ゆっくりと息を吐き出した。
 宍戸がいるだけで、和いでいく。
 訳の判らない戸惑いがやわらいでいく。
「………春から…宍戸さんとテニスが出来なくなるのが怖い…」
 何の取り繕いもなく、本音だけが零れた。
 何を甘ったれた事を言っているのかと鳳自身口にした途端苦笑いしてしまったが、宍戸は笑わなかった。
 否定の言葉も言わなかった。
「…………………」
 鳳の背中に重ねられた宍戸の額や頬の感触が繊細に甘い。
「………あんまり無茶するな」
 だからってと咎めの言葉が振動と一緒に鳳に響いた。
 それで漸く鳳も、がむしゃらというより、ただ衝動的に、延々サーブ練習をしていた自分を省みる事が出来た。
 そして、恐らくずっと見ていたに違いない宍戸が今の今までそれを止めなかったのは、鳳の胸を巣食う感情に気づいていたからに違いない。
 その不安を杞憂だと笑い飛ばさないのは、宍戸もまたその感情を持っているからに違いない。
「すみません…」
「長太郎」
「はい…?」
「…俺の一番大事なものなんだから」
「宍戸さん?」
「もう少しお前も大事に扱えよ」
 そう言って、宍戸は両腕で鳳の身体を、背後から強く抱き締めてきた。
 縋られているような抱擁は、その実どこまでも鳳を受諾する、強くて優しい腕が織り成す感情表現だ。
「好きです。宍戸さん」
「………知ってる」
「知ってても言います」
「…………じゃ…言え」
 本当は正面から、鳳も自身の両腕で宍戸を力ずくで抱き締めたい。
 しかし背後からだからこそ、宍戸がこんな風にいつもとは少し違った態度を見せてくれている事も判るので。
 鳳は、強靭でありながら華奢な宍戸の両腕に背後から抱き寄せられながら、何度も、何度でも、乞われた言葉を口にした。
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 背が高くて一見風貌は大人びているのに、フリスクはからくて苦手なんだと上級生の輪の中で真顔で手を振っている乾を横目にして海堂は微かに苦笑した。
 本当に微かに。
 それなのに。
「……笑うなよ。お前」
「………………」
 目敏い。
 乾が複雑そうな顔をして、即座に海堂の側に近づいてきた。
「あんた……いくつ目があるんですか」
「第三の目? ないよ」
 ほら、と前髪をかきあげて乾は海堂に顔を近づける。
 いきなり至近距離にきた面立ちに海堂は小さく息をのむ。
 緊張ではないが、慣れないものは慣れない。
 こんな距離で海堂に近づくのは乾くらいだ。
「………フリスク苦手なら…これ食べますか」
 顔を伏せる名目のように、海堂は鞄から小さな丸いアルミ缶を取り出した。
「ジェリービーンズ? 懐かしいな」
 NYで売られている大人向けのジェリービーンズは、長いこと、海堂の父親が海外出張の度に母親への土産として買ってきていたものだ。
 最近では普通に日本でも買えるようになった。
 興味深そうに海堂の手元を覗き込んでくる乾に、海堂は呟いた。
「…手」
「手?」
「手を出してくれなけりゃ中身も出せないだろ…」
「食べさせてくれないの?」
 長い人差し指で自身の口元を指し示して微笑む乾に、海堂は微かに赤くなる。
 この甘ったれた声が。
 声に。
 弱いのだ。
「…………………」
 どうせ知っててやってんだろうと八つ当たり気味に海堂は乾を睨みすえた。
 それをどう思って受け止めたのか、乾は即座にゴメンナサイと頭を下げてきて、自分でジェリービーンズを口に放る。
「……お、…うまいな。これ」
「…………………」
「小さい時に食べたのと全然違う。ジェリービーンズなのにやけに大人っぽい味がする」
 シャンパンやワインにも合うように作られているスイーツらしいので、確か味はカクテル風味だった筈だ。
 海堂がそう口をひらきかけた所で、乾の顔が再び近づいてきた。
「………海堂みたいだな?」
「…、……な……」
 乾はもう一度人差し指で自身の口元を示して囁く。
 海堂はもう、今度はもう、微かに赤くどころの話ではなくて。
「……っざけんな…!」
「いや本気」
 飄々と言って、乾は海堂の怒声を物ともせずに笑った。
「すこぶる本気」
「…ッ……、……」
 何をそんなに誇らしげに言うのかと、海堂は唖然となってしまう。
 だからといって乾のように言葉を駆使できない海堂は、結局反論らしい反論も出来ず、ただただ乾を見据えるだけだ。
 海堂自身はそうやって、あくまでも睨んでいるつもりなのに。
 乾はただただ嬉しげで、微笑むばかりでいる。
 跡部の家に行くなり、二の腕掴まれて部屋に引っ張られて行って。
 ベッドに景気よく放り投げられたものだから、神尾もさすがに何事かと慌てた。
 跡部は唇の端で、薄く笑んでいた。
「な、…………なんだよぅ…?」
 思わず身構えた神尾に、跡部はそれは横柄に、そしてそれは綺麗な仕草で顎を突き出した。
 促す仕草に神尾はベッドを見下ろして、おおっ!と声をあげた。
「うわ、なにこれ…!」
 神尾が乗り上げた事で、僅かにずれた布団から見えているもの。
 思わず上掛けを剥いでしまうと、真っ白な敷毛布が現れた。
「すっげ…! ふわふわじゃん…!」
 やわらかい毛の感触は、手のひらでとろけそうだった。
「ホワイトクラウド敷。羊毛の毛足の長さは三センチ」
「あったかいなー…これ……うわ……めちゃくちゃ気持ちいいー……」
 跡部は何やら説明をしていたが、神尾にしてみれば実際体感している感触に勝るものはない。
 思わず横になると、身体がやわらかいもので温かく包まれてすばらしく気持ちが良かった。
 神尾が羊毛に埋めた片頬を摺り寄せていると、跡部が実に判りやすく不機嫌になっていくのが判って、神尾は思わず笑ってしまった。
「お前が俺をここに投げたんだろ」
「俺のいないベッドで気持いいって言いやがったか。てめえは」
「え…………」
 そういう話かと神尾が息を詰まらせると、跡部はベッドの上に片膝を乗り上げてきた。
「跡部、…?…」
「………………」
 そのままの体勢で、元から二つ緩まっていた胸元のシャツの釦を尚も外す跡部を見上げながら、神尾は恐る恐る身体を起こしかけ、阻まれた。
「………っ…!………あと…、…」
 組み敷かれるように、跡部の身体が被さってくる。
「ちょ……、…ちょっとまて…っ…………待て待て待て跡部っ」
「犬じゃねんだよ俺様は。何だその言い草は」
 思いっきり至近距離で見下ろされる。
 おそろしくきれいな顔をしてると、今更な事をつい思ってしまう神尾だったが、いやいやそうでなく、と首をぶんぶん左右に振った。
「跡部……おい、…これ……ここ、まず、…っ…」
「なに言ってんだがさっぱり判らねえな」
 判っていない筈がない。
 跡部なのである。
 神尾が気づく事に、跡部が気づかない訳がない。
「……跡部ー…!」
 神尾は焦った。
 長い毛足の柔らかな毛布に背面を埋められる感触は本当に心地良かった。
 良かったからこそ、ここでは出来ないと思うのだ。
 こんなに繊細でふわふわで暖かく柔らかいものを。
 どうやって洗えばいいのか神尾には検討もつかない。
 洗わなければならなくなるであろう状況を思えば顔も熱くなってくるし、何より跡部の腕が、横たわって向かいあっている神尾の身体の上に回されてきて、近づく身体にどうしようもなくどぎまぎした。
「…………ったく……縮こまってんじゃねえよ」
「………へ…?」
 たいして痛くもなく、ぺしっと額を叩かれる。
 神尾は目を瞠った。
「…跡部?」
「今は、まだ抱かねえよ」
 いちゃいちゃするだけだと跡部は言った。
「…………………」
 ふわふわの敷布のベッドの上。
 横たわって、くっついて、そして。
「…………いちゃいちゃ…って……あ、…跡部…?…」
「何笑ってんだよ。てめえは」
「だ、………だ……って…、……」
 いちゃいちゃって。
 跡部の口から出た言葉だとは思えなかった。
 おかしくて、笑えて、そしてどうしようもなく擽ったくも甘ったるい。
 肩を震わせて笑ってしまう神尾を、跡部の腕が強く抱きこんでくる。
「それならこういうのは何て言うんだ」
「………ん…ー……」
 頭も抱きこまれた。
 跡部の腕に後頭部を包まれて、釦の大半が外れている跡部の胸元に引き寄せられる。
「…………べたべた?」
「いちゃいちゃと変わらねえだろ」
 どっちもどっちだと言う声と一緒に、眦に唇が押し当てられてきた。
 跡部の声は冷たいくらいの毒づきなのに、触れてきた唇は微笑みの形をしている。
「…………俺が…寒いって言うから…?」
「別に。俺が必要なだけだ」
「そっか………」
 ありがとな、という言葉は口にはしなかった。
 代わりに神尾は、先程は羊毛の敷布に擦り付けた頬を、今は跡部の胸元に摺り寄せた。
 気持ちが良い、その一番は、ここだからと。
 伝わればいい。
 伝わるように。
 跡部の手が、すぐに神尾の後ろ髪をひどく優しげな手で撫でたから、きちんとそれは伝わっている。
「跡部…」」
 それならばもう。
 後はふわふわの敷毛布の上で。
 いちゃいちゃと、べたべたと、過ごすのみだ。
 二月十四日、そこかしこでチョコレートが飛び交うその日、宍戸が見かける鳳は、大概遠慮がちに微笑んでいた。
 バレンタインデーのチョコレート、誕生日のプレゼント。
 そしてそれらを手にして鳳の周囲に居る女生徒達。
 彼女等は、大抵おとなしそうで可愛らしいタイプか、大人びた上級生のどちらかだった。
 鳳に好意を寄せる女生徒の雰囲気は何故か両極端で、見目する所をきっちりと二分させている。
 長身なのに物腰の柔らかな鳳は、異性への対応も丁寧だ。
 チョコレートやプレゼントを微笑んで受け取る様子はおっとりと甘い気配を漂わせているが、困ったような表情を隠しきれていないところがかわいいもんだと宍戸は思う。
 自分には手放しの笑顔だけを見せると知っているから。
 眼差しで、ずっと恋情を注いでくると判っているから。
「長太郎」
 朝から見かけ続けた光景もどうやらこれでお終いだろうかと、宍戸は夕暮れの中、交友棟の壁面に寄りかかって、鳳を手招いた。
「………………」
 紙袋ごとの下級生からの受け取り物を手にし、振り返った鳳が大きく目を瞠る。
「宍戸さん」
「………………」
 焦ったような鳳の表情に宍戸は低く笑った。
 背を向けて歩き出すと大きな手が宍戸の肩を背後から掴む。
「ちょ、…宍戸さ……」
「朝から散々見かけてるっつーの」
 別に疑っちゃいねーよと宍戸が肩越しに見上げた鳳は、それでもまだどこか慌てた目をしている。
「だって宍戸さん、行っちゃうじゃないですか」
「だってとか言ってんじゃねえよ」
「でも、」
「でもとかも言うな」
 かわいくてどうしようもないなと苦笑いに本音を交ぜて。
 バァカと呟き、宍戸は交友棟から体育館を通り過ぎ、室内プールの更に裏庭に足を踏み入れる。
 鳳はずっと宍戸の背後についてきていて、時々宍戸の名前を呼んだ。
「さて、と。ここらでいいか」
「……宍戸さん?」
「俺にはさせねえの?」
「え?」
 学校の敷地の一番外れまで来て、宍戸は足を止め、鳳を見上げた。
「今日誕生日だろ? 長太郎」
「はい。そうですけど…」
「チョコレートとかは勘弁しろよな。別に期待もしてねえだろうけどよ」
「くれるんですか?」
 すごく欲しいですと寧ろ真顔で鳳に詰め寄られ、宍戸は一層苦笑を深めた。
 狂乱じみたこのイベントに便乗する気はなかったが、生憎と、宍戸の年下の恋人は今日が誕生日なのである。
「ま、……バレンタイン半分、誕生日半分、ってとこか」
 コートのポケットに入れていた臙脂色のラッピングが施された四角い箱を取り出し、宍戸は鳳の目の前でペーパーを破いていく。
「え?………ええ? それ俺にじゃないんですか?」
 何で破っちゃうんですかとひどく慌てた様子の鳳をいなして、宍戸は桐箱の蓋を開けた。
 ざらりと指に掬って取ったのはチョコレート色の金平糖だ。
 ちいさく尖った星のような金平糖を一粒。
 自分の唇の合間に入れながら、宍戸は上目でちらりと鳳を見上げて笑う。
「お前のだぜ」
「……………って………え?」
「ただしセルフサービスな」
「………………」
 金平糖を乗せた舌先を、そっと鳳に見せ付けると、宍戸の両肩は鳳の手に握られ、何か余裕のない顔をした鳳にすぐに唇を塞がれる。
 チョコレートの味の金平糖は、互いの舌の合間をころりと転がって、ちいさな尖りが交わすキスに溶けていく。
 舌と舌とに揉み解され、とけてなくなった金平糖は。
 淡いチョコレートの味を口腔にした。
「一年に一回しか作らない金平糖を売ってる店があるんだよ」
「……宍戸さん」
「ん…ー……ふ…つう、金平糖を作る釜はものすごい高温だから……チョコレートなんざ入れたら分離して…えらいこと、…になるらしい…けど…、…ここの…は……」
 話しながら、もう一粒。
 宍戸は自分の口に金平糖を運ぶ。
 すぐに鳳のキスが落ちてくる。
「ふ………っ……」
 今日という日にチョコレートなんて真似、宍戸には到底出来なかったが、誕生日にほんの少し取り混ぜるくらいならばどうにか。
 それもこんな間接的な、回りくどいやり方で。
 しかも直接的にはまるで、鳳のキスが欲しくてやっているような現状で。
 キスをねだる。
 唇を塞がれる。
 水分を蒸発させ砂糖を結晶化させる金平糖は、どこか恋愛感情にも似ている気がする。
 レシピがないほどの金平糖の精製の難しさは、マニュアルのない恋愛と似通っている。
「、ん………っ……ん…」
 一年に一度しか作られる事のない金平糖が、宍戸の唇から鳳の唇へと移って、二人で溶かした。
「…………あとどれくらいあります?」
「死ぬほどあるぜ」
 本気で気がかりな様子で、金平糖の残り数を期に知る鳳に、宍戸は喉で笑い声を響かせた。
「あとは自分で食え」
「いやですよ。そんな」
 大人びた表情で子供じみた事を言う鳳の唇を、金平糖を含んでいない宍戸の唇が下から伸び上がって塞ぐ。
 甘い星の欠片が口になくとも、いくらだってしたいされたいその衝動。
 冬の静かな日暮れに抱き締めあって交わした。
 鳳に気づいた宍戸は、すぐに足早にスピードを上げて駆け寄ってきた。
 時々宍戸はこんな風に無防備だと鳳は思う。
「宍戸さん?」
「おう」
 足の速い人なので。
 宍戸はすぐに鳳の手の届く距離に来た。
 思わず差し伸べていた鳳の手を拒む事無く、寧ろ鳳の手首の少し上あたりを宍戸はぎゅっと掴んで、至近距離から鳳を覗き込んでくる。
 宍戸の眼差しは、きつさを増すほどに綺麗に光る。
「……どうしたんですか?」
「ん。あのな」
 これなんだけどよ、と宍戸が制服のポケットに手を入れて取り出して見せたものは燻したように光る金色の鉱石だ。
 宍戸が手にしていると、煌めきかたが一際不思議な印象に見えた。
「………パイライト…かな?」
 鳳が慎重に告げると、宍戸は口笛を吹いた。
「すげ。見ただけで名前とか判んのかよ」
「…多分ですよ?」
「いや…確か跡部もそんな名前言ってたぜ」
「これは部長が宍戸さんに?」
「ついでにお前にやるとか言いやがってな。ありがたく受け取れとか、全く腹立つ言い草だぜ」
 眉を顰めた宍戸に鳳は曖昧に微笑んだ。
 確かに普段から、跡部と宍戸が親しげに話をしていたりする様子などは殆ど見た事がなかったが、黙って肩を並べているだけでも案外通じ合っている事を知ってもいる。
 二人が一緒にいるのを見て、鳳が妬みに似た苦い感情を抱く事もある。
 妬みは、自分が持っていない物を持つ人から、それを奪ってしまいたい思いの事だと昔どこかで聞いた。
 人が持っている物を欲しいと思うだけなら羨みで済んだのにと幾度となく考えた。
「長太郎」
「……あ、…はい」
「……………」
「宍戸さん?」
 ふいに小さいけれど強い声音で名前を呼ばれ、慌てて意識を宍戸へ向け直した鳳は、自分を覗き込んでくる宍戸の眼差しの鋭さに僅かに目を細めた。
 怒った時に宍戸の瞳はますます力を持ってきつくなる。
「跡部の名前が出ると、どうしてお前いつもそういうツラすんだよ」
 そして直球な言葉には体裁を取り繕う気も奪われて、鳳は微かに苦笑した。
「すみません」
「……………」
 ごめんなさい、と続けて。
 鳳は、宍戸の肩をそっと引き寄せる。
 宍戸は逆らわなかった。
 俯いて、ぽつりと呟いただけだった。
「……なんにも関係ねえだろ」
「判ってます。ごめんね。宍戸さん」
 跡部ほどの強靭さを持っていたら。
 不安定に嫉妬して、宍戸を傷つけたりはしないのだろうけれど。
 鳳は跡部になりたい訳ではないのだ。
 自分のままで、誰よりも深く近い所で宍戸の近くにいたい。
 鳳は、宍戸の手をそっと包んだ。
 パイライトを握りこんでいる手は、すこし冷たかった。
「その石ね、宍戸さん。パイライトって名前は、スペイン語で火花とか、ギリシャ語の火の意味に由来してるんです」
「………………」
「パイライト同士を打ちつけると火花が出るからとか、回転させると火花が散ったように輝くからとか、そういう謂れのある石なんですよ。よく光ってすごく綺麗で、それでいて金よりもずっと強い石だから、宍戸さんみたいだと俺は思って」
「……長太郎…?」
「部長もそういうこと考えて宍戸さんに渡したのかなあとか考えちゃったんです。すみません」
「…………バカヤロウ」
 不貞腐れたように宍戸が言った。
「それ持って鳳に口説かれて来いって俺は跡部に言われたんだぞ」
「え?」
「………お前に口説かれたくて、のこのこと俺は来たってのに勘ぐられるなんて最悪だろうが」
 多分鳳は知ってるだろうからと、跡部は宍戸に言ったのだという。
 この石の意味も、それが宍戸と繋がると鳳が考えている事も。
 からかう跡部から放られた石を受け取って、悪態をつきながらも、宍戸は走ってやってきたのだと知らされて。
 鳳は両腕で宍戸を抱きこんだ。
「…嫉妬深くてすみません。ほんと」
「……今更口説き出したって遅ぇよ」
「これは口説いてるんじゃなくて謝ってるんです」
「…………………」
 暫くの沈黙の後、こぼれるように宍戸が笑い出した気配がした。
 振動が鳳の胸元に響く。
 強い信念を育てて、強い保護力を発揮し、邪悪な念を跳ね返す力を持つ石そのものの人は、鳳の腕に、こんなにも柔らかに温かい。
 好きだと呼吸をするように鳳が繰り返し告げれば、宍戸はひどく幸せそうに目を瞑るから。
 瞼の薄い皮膚の上に鳳は静かに唇を寄せる。
 胸の中で、火花が散った甘い音がした。
 海堂、と名前を呼ばれた。
 テニスコートから海堂はその方角を振り返る。
 大きな声を出しても囁いているように聞こえる声音は相変わらずで、フェンスの向こう側にいる乾に海堂は歩み寄っていった。
「……何で入って来ないんですか」
「一応引退した身だし」
「関係ねえ。……んなこと」
 憮然と吐き出した海堂に、乾は物柔らかに微笑んだ。
 制服姿の乾は、フェンス越し、海堂よりも高い位置から視線を落として、ひっそりと言葉も落とした。
「悪いな。部活中に」
「今終わった所なんで別に…」
「でもコートを出るのはいつも一番最後だからな。海堂は」
 知ってるよ、と眼差しで囁かれたようで気恥ずかしい。
 海堂の狼狽など笑みで刷くようにいなして、乾は鞄の中から紙袋を取り出し、器用に指先で海堂を手招きした。
「………………」
 入ってくればいいものをと海堂は眉根を寄せ、しかし促されるままコートの外に出る。
「はい。これ穂摘さんに渡して」
「………は?」
「お釣りは封筒の中で、ここに一緒に入ってるから」
「……………何っすか。これ」
 乾と海堂の母親はひどく気が合うらしく、初めて対面してから以降、時々こういう事がある。
 それは別段悪い事ではないのだが、二人が楽しげに話をしている側にいる事は海堂にとっては些か落ち着かなくもあった。
 どうにも居たたまれなくなるのだ。
 海堂の母親と乾は、海堂を間に挟んで、互いが互いへとひたすらによろしくしあうものなので。
 どれだけ重大で大切なものの取り扱いの話をしているのかと聞いてて思ってしまうくらい、二人は海堂に対して真剣だ。
「ピンクガーリック。要はニンニクだ」
 海堂に手渡してから、乾は海堂の手の上で紙袋の口をそっと広げた。
 中には確かにピンク色のガーリックが幾つも入っている。
「南フランスの粘土質の土壌には、ポリフェノールの一種であるアントシアニンが豊富に含まれているんだ。この成分の為に、こういうピンク色のガーリックが育つ。ちなみに通常のニンニクより甘みがあって、効能は血液の清浄、視力回復、コラーゲンの促進」
「……………何でそれが先輩からうちの親に行くんですか」
 乾の淀みない口調を遮る事は容易でない。
 けれども海堂が口を開けば、乾はぴたりと口を噤んで、そうして話を遮られても気を悪くした風もなく、海堂に答えてきた。
「この間スーパーで会ったんだ。俺は野菜汁の材料調達。穂摘さんは夕食の買物らしかった。ちなみにメニューはすき焼きの確率93%」
「………先週の土曜日っすね…」
「そうだったな。ああ、そういえば穂摘さんは割り下も手作りなんだな。さすがだな。興味深かったから海堂家のすき焼きのレシピを教わった。覚えておいて損はないだろう。将来的にも」
 至って真顔で話し続ける乾に、海堂は小さく溜息をついた。
 頭が良すぎるのだろうか。
 乾の話はよく脱線する。
「あの……それでどうしてこれが」
「ん?…ああ。その時に話をした訳だ。料理つながりで。最近俺の家の近くのスーパーでピンクガーリックを扱うようになったって言ったら、穂摘さんが買いに行きたいって言うんで、俺がおつかいを頼まれた」
 そういう訳で、品物と釣銭だと乾は袋の中身を指差した。
「よろしくな」
 はあ、と溜息程度の声で返したものの、乾に手間をかけさせた事は確かなようなので、海堂は頭を下げた。
「……すみません。わざわざ」
「いやいや」
 構わないと首を左右に振った後、乾は徐に紙袋の中からピンクガーリックを取り出した。
「羨ましいとは思うけど」
「…は?」
「こいつらは海堂に食われる訳だ」
 呟きと共に乾は手にしたピンクガーリックに軽くキスして紙袋に戻した。
 笑っている。
 海堂は絶句した。
 そして紙袋の中身のものと同じ色になった。
「ある意味で間接キスかな」
 海堂が睨み上げても構わずに乾は微笑んで。
 二人で交わす今日最後の言葉を、そんな風に口にした。
 最初から勝手に酷い人間だと決め付けてこられて気分がいい訳が無い。
 第一印象が最悪だったというなら否定はしないが、それだって半ば一方的に突っかかってきたのはどっちの方だったのかと言ってしまえば結論は目に見えている。
 会えば突っかかってくるか憎まれ口ばかりきいてくる。
 鬱陶しければ相手にしないのが常だ。
 何だかんだ言いながら顔を合わせ、口をきき、時にはテニスまでして、しまいには家にまで連れ込んで。
 どれも好まざる相手にとる行為ではない。
 跡部にしてみれば数々の妥協だってしてやったのだ。
 好きになってしまったもの仕方ないと、非常にお子様な相手に合わせて、跡部なりに順を踏み、気長に待ってもやったのだ。
 それがだ。
 仮に、生意気にも神尾にとって自分の感情が不本意な好意だと、迷惑だと疎まれるなり責められるならばまだしも、神尾は最初からそんなの嘘だと決めてかかってきた。
 そういう風に遊ばれるの好きじゃないと勝手に傷つき、からかって楽しいかと勝手に責められ、俺は本当に好きなのにと勝手に区別されて告白された。
 神尾のあまりの暴君さに呆れ返った跡部が、その時感じた怒りにまかせて神尾を抱いた事も決して褒められた話ではなかったが、だからといって何もああまで泣かなくてもいいだろうと跡部は唖然とした。
 神尾は、それで跡部が思わず手を止めれば、やっぱり俺じゃ嫌なんだとか出来ないんだとか言って更に泣いたから最悪だ。
 それはどっちの台詞だと思って責めても話は平行線で、抱こうとすれば泣かれ、止めても泣かれ、結局跡部はまるで無理矢理神尾を抱いたような行為をとらされた。
 しかしそうやって滅茶苦茶な中でも触れてしまえば箍が外れて、のめりこんで抱き尽くした自覚はあった跡部が、行為の意味づけを軌道修正しようと全て済んだ後に生真面目に神尾を呼べば、何を怯えるのか神尾は首を左右にうち振って聞き入れようとしない。
 とにかく自分を非道な人間のままにしておきたいのかと跡部もほとほと苛立つくらい神尾は頑なだった。
 好きだとまで言葉にした跡部に、神尾の返答は、また俺としてくれんの?というつくづく的外れなものだった。
 神尾が跡部の事を好きなのは跡部にも判ったし、神尾は神尾で跡部に言葉で告げてもきた。
 それなのに、あくまでもお互いの感情は違うものだと思い込んでいる神尾がいて、跡部は自分が太刀打ちできないほど厄介な相手にそれでも固執する自分自身を生まれて初めて自覚した。
 一緒にいる時間が増えて、二人きりの時には必ずキスをして。
 濃密にその身を抱く事も回数を重ねてきていて、それでも。
「っゃ…、…んぁ、…」
「………そういう声出しておいて嫌がるようなこと言ってんじゃねえ」
「だ、…っ…ぁ…っ…ァ…」
 跡部の手で溶けて、声で乱れて、視線で炙られているくせに。
 神尾は啜り泣いてかぶりを振っている。
 跡部が、例えば神尾の身体を慣らすような所作をとる時や、口でそれを愛撫しようとする時など、神尾は決まって狼狽えた。
「それ…、…しな……っ…ぃ、…で…って、俺、言ってん、…のに…、…な、んで?」
 今も神尾は泣き濡れた目を真っ赤にして跡部の肩をぎこちなくも懸命に押しやろうとしている。
 跡部は神尾の両足の狭間に入り込んでいて、濡れた指が細い下肢から深みに射し入れられている。
 神尾の内側を探りながら跡部が唇で食みかけた所を神尾の拒絶にあっている。
 いつもそうだ。
 神尾の方に負担がかかるような跡部の無茶には寧ろ神尾は至って寛容で。
 しかしそれではまるで跡部が神尾に、耐えさせ奉仕させ付きあわせているようではないかという気になる。
 跡部は不機嫌に舌打ちして、強引に神尾のそれを口に捉えてしまう。
「ア…、…ぁ…、っぁ…っぅ…」
 快感を与えている筈なのに跡部の耳に届いたのはどこか悲痛な泣き声だ。
 決して放出しないと食い止めている反射的な神尾の行動に、この行為が長引けば長引くほど結局辛い快感を溜めさせてしまう事を知っている跡部は、これまでにも強引にそれに逆らって続けた事はあるのだが、いきついた後の神尾の泣きっぷりを思うと苛立ちながらも身を引く事の方が多かった。
 この悪循環はいったい何なのだと跡部は憂いだ。
 抱き締めて、口付ければ、縋りついてくるのに。
 好きだと、その口は跡部に告げるのに。
 同じ言葉を跡部が言えば、神尾は痛みを感じる顔をする。
 その身を拓き、揺さぶり、跡部が快感を追えば例え痛みがあっても安堵した顔を見せるのに。
 神尾の感覚を探るようにしてペースを落とし、腰を送り込み、拾い上げた享楽を高めてやれば、途端に蒼惶して泣き出すのだ。
「…なん、…なんでそれ……っ…、」
「…………………」
「…、ャ…、て…、や、だ…って、言……、…のに……っ……」
 怖がる手が跡部の肩に触れ、一層そこを暴いて揺すれば、しがみついてきた。
 一気に追い上げられていく感覚に涙をいっぱいに溜めた神尾が跡部の身体の下で切羽詰った声を上げる。
「……、…ん、で…?……っ…ぁ、っ…ャ、…っ」
「お前が…縋りついてくるからだ」
「ァ…っ…、ア、っ…ぁ」
「……お前が俺に、めちゃくちゃにしがみついてくるからだって言ってんだよ。聞いてんのか、馬鹿」
「……ぁ、……っ…と…、っゃ、っ、ァ、っん」
「ここまでやらねえと縋ってもこねえだろお前は……!」
 神尾の背に腕を回して、背がベッドから浮くまで抱き竦める。
 耳元に吹き込んでやった跡部の声はどこまで神尾に届いているのか判らない。
 跡部が神尾の腰をも強く抱きこめば、神尾は濡れそぼった声を上げて、跡部を体内に含んだまま一人きざはしを駆け上がる。
 泣きじゃくりながら、ごめんと繰り返す神尾の言葉の意味が、また跡部を追い詰める。
 最後までもやはり、あくまでも自分が酷い人間にでもなったような気になる。
「ごめ…、ね、……跡部……俺、跡部……好き…で…」
「………俺がお前を好きだって、何遍言や判るんだ。てめえは」
 同じ気持ちの同じ言葉に、違う意味をつけあってしまう。
 抱き締めあう力も思いも均等で。
 それなのに何が臆病になる原因なのか。
 深い口付けを噛み合せながら、薄まらない欲に満ちながら、考えている事までも。

 こんなにも。
 同じだというのに。
 別に自分自身をないがしろにしているつもりは全く無い。
 自虐的な性格をしている訳でもない。
 ただ時には、自分自身についてのみ、ひどく無頓着になってしまうことは宍戸も認めているところで。
 傍目にはそれがとても無茶な振る舞いに見えてしまうらしい。
 でもそれは、実は宍戸のとても身近に、あまりにも宍戸の事を大切に扱う男がいるものだから。
 あまりにも大事に自分がされてしまうものだから。
 多少自分が自分の事を気にかけずとも別段構わないだろうと、つい宍戸が思ってしまう原因にもなっていた。
 甘くて優しい年下の男と、時折喧嘩をしてしまうのはそういう訳だ。
 誰よりも宍戸を大切に扱う鳳は、宍戸が向こう見ずであったり無理をしたりする行動に対しての怒りもまた半端ではないからだ。
 滅多に起きないいざこざは、しかし起きてしまえば珍しい分だけ痛さも濃い。
 でも諍いの後で、飢えを隠せず少しだけ獰猛になる鳳に、宍戸はいつもやみくもな安堵を覚えるのだ。
 手荒に大事に抱き潰されて、甘やかされている時よりも安寧する。
「宍戸さん。……もう少し平気…?」
「……、…っ……」
「もう…少し…」
「ま、……」
 抱き締められ、耳元に乱れた吐息で尋ねられ、宍戸は身震いする。
 実際は、震える隙間もない程に、鳳に抱き竦められているのだけれど。
 普段であるなら、このまま終わるために強く宍戸を揺さぶってくる筈の鳳が、宍戸の中に深く沈んで動きを止めてしまった瞬間、宍戸にも判ってしまった事だったのだけれど。
「……待て、ですか?」
「違…、……おまえ……」
「ああ……まさか?」
 そうです、と鳳は微かに苦笑いを刷く。
 目で見なくても宍戸には判った。
「ゃ、……長太郎…、…」
「駄目。いかないで」
「……っ……ぅ、」
「宍戸さん…」
 実際に手を下して、無理矢理にでも我慢させるような真似はしない。
 優しい声で、優しい目で、いっそひどい命令をする。
 鳳は動き出した。
 宍戸の奥深い所にまで沈んで、そこから幾度も宍戸を揺すり上げてきた。
 強く、早く、長く。
「もっとずっと抱いていたいから」
「…………ぁ、っ……っ」
「まだ」
「……っ………ぅ…」
「いかないで」
「…ャ…、……むり、…っ……、ゃ、っ」
「……無理でも」
 じゃあもう動くなと泣いて訴えたい宍戸の言葉を飲み込む勢いで、鳳は宍戸を揺さぶってくる。
「……ッァ…、…ぁ、…ァ、っ」
 体内に奥深く食んだ熱が重く脈打ちながら動いて、繰り返される摩擦は本当に燃え立つような強い刺激をそこに生み、宍戸を混乱させた。
「…………ゃ…ッ、ぃ…、っ…ぁ、ァ、っ」
「……怖い?……我慢出来ない?」
「長太郎…、っ…、…も…ャ…っ、ぁ」
「辛い…?」
 塞き止められる事もなく、動きをゆるめて貰えもせず、鳳は、いくなと宍戸を言葉でのみ束縛した。
「………ぃ…っ……、ッ、……」
「宍戸さん」
「ゃ…、…も……怖…っ、…ぁ…ァ、ぁ、」
 よすぎて、よくなりすぎて、怖い、本当に怖い、だからもうと懇願で半狂乱になりながらかぶりをふりたくって泣きじゃくる。
「っぁ…、…ぁ……長太郎…、…」
「………こうしてる。ずっと。……抱き締めてる」
 おかしくなっていいからと鳳は宍戸の背を抱いて、卑猥に律動を複雑にした。
「ひ…ぁ…っ…」
 恋われて、壊れて。
 今にも流れ出していくものばかりで埋まった身体を攪拌される。
 激しく揺らされて、それでもしたたらせまいと、宍戸は自分の意思でのみ、それを塞き止める。
 鳳が乞うから。
 鳳が恋うから。
 だから宍戸は泣き濡れながら、もっとずっと恋われていたくて、壊れていようとする。
 しかけたのは鳳なのに、宍戸を大事にだけ出来ない事で、結局追い詰められたように鳳は歯噛みをするのだけれど。
 こういう時だけしか抱き締められない鳳を、宍戸がどれだけ好きでいるか、伝える術のように鳳の背に伸ばされた宍戸の指先には力がこもる。


 恋の器にいつも思いは満ちていて、そこから思いが零れてしまえど厭わない。
 おさまりきらないと判っていても、そこから思いは今も生まれ続けるからだ。
 淀みない口調で語られている言葉は、内容というよりも耳に真っ直ぐに届く音と響きで海堂を寛がせた。
「同じコーヒー豆を使っても挽き方で味が変わるんだよな。いろいろ試してみたらペーパードリップ用よりも豆を荒挽きにして、その分量を多めにして淹れると味がやわらかくなるって判った」
 真鍮の細い注ぎ口のケトルを傾け、乾はコーヒーを淹れている。
 ペーパーに入れた粉の上に、そっと湯を置くようにして注ぐ一段目。
 全体を湿らせ、蒸らしてから、タイミングをはかって二段目。
「味を重ねていくっていう感じが面白い」
 そう言って、笑って。
 サーバーに抽出されたコーヒーが落ちきらないうちに注ぎ足す三段目。
「注いだ湯を全部としてしまうとコーヒーの味が悪くなるっていうのが不思議だよな」
 器用な手の動作が早くなっていく。
 四段目、五段目。
 湯を注ぎいれ、全てが落ちきらないうちにドリッパーを外し、サーバーからカップに注がれたコーヒーは海堂の前に滑るように給仕される。
「どうぞ。データによると一刻でも早い方が格段にうまい」
 節のある、しかし長く真っ直ぐな指を伸ばした手で促され、海堂はカップを手にして口をつける。
 乾に、ひどく丁寧に、大切に淹れられた飲み物。
 痛いくらいの熱さと香りのいい苦さは、乾に抱き締められた時と同じ感じを海堂に与えた。
「………うまいっすよ」
 じっと見つめてくる乾に海堂は小さく言った。
 実際に、本当に、コーヒーは美味しかった。
 しかし、乾から何らかのリアクションを欲しがられているのがあからさますぎて些か気恥ずかしい。
「それはよかった」
 唇をゆっくりと引き上げて微笑む乾の表情も一際優しげで、海堂は相当甘やかされている自分を自覚せざるを得ない。
 またひとくち海堂がコーヒーを口に含めば、乾はまた一層の甘やかな目で見つめてくる。
 静かで、優しい空気は、こうやって乾がつくってくれるのだ。
「………………」
 朝から予想以上の積雪で、自主トレを半ば強引に中止させられ不服でいる態度も露な海堂を、乾は笑って自宅に誘ってきた。
 頑張る事と無謀でいる事は別次元だよとやんわり窘めた乾は、そうして海堂の目の前で素早く、そして丁重にコーヒーを淹れて。
 今は海堂がそのコーヒーを飲む様を楽しげにテーブルの向かいから見つめてくる。
 海堂は海堂で、乾がコーヒーが淹れる様を見ていて、そのコーヒーを口にして、すると何だか拍子抜けするほど気持ちが落ち着いてしまった。
 自主トレの出来ない苛立ちもうやむやに立ち消えてしまっていた。
 乾は、こういうところがとてつもなくうまいと海堂は思う。
 海堂を落ち着かせたり、浮上させたり、後押しや、鞭撻、戒めや、協力。
 強引に出る所と、決して踏み込まないでいる所が、いつも絶妙だ。
 海堂は、結局自分が乾にどれだけ助力を仰いでいるか、自分自身で図りきれない程だ。
「海堂みたいに、健やかに自立してる子を好きになるとさ」
「………、す………、…」
 何の前触れもなしに乾から放たれた言葉に海堂が絶句すると、乾は心底楽しそうに笑みを深めた。
「あれ、海堂がうろたえた」
「………っ……!」
 当たり前だと怒鳴ろうとした海堂の頬に乾の手が宛がわれる。
 伸ばされてきた乾の手のひらに片頬をすっぽりと覆われ、愛しむようにそっと撫でられて海堂は息を飲んだ。
 熱くて、かわいた、大きな手だった。
「俺がしてあげられる事なんて、本当に少ししかないんだよ」
「……に……言って……」
 乾には、してもらっている事ばかりで、判ってもらっている事ばかりだ。
 海堂の困惑と怒りを、乾は海堂の頬を撫でる指先で消してしまう。
「嫌な事があってもさ」
「………………」
「例えばこうやって熱いコーヒーを飲んで、それで、ほっと落ち着く事が出来る、そういう事を知っている、ちゃんとした子だからな。海堂は。俺としては、せめて人よりうまいコーヒーを淹れられるようにはなりたいと思う訳だ」
「………意味判んねえんですけど」
「海堂がすごく好きだって言ってるんだが?」
「言ってねえだろっ」
 海堂は怒鳴って、でも。
 乾の手のひらの中の頬を、充分に赤くしている自覚はあった。
 髪がくずれていく。
 かたく、普段は上げてかためてしまっている互いの髪は、どちらからともなくくずれ出していく。
 亜久津に剥がれた衣服が、寝具の上、南の背の下で、散らかっていくように。
 キスをして、身体を重ねて、その過程で互いの髪が、散らばっていくように。
 汗で湿る。
 シーツに擦れる。
 その手にまさぐられ、この手に縋られて、髪はやわらかく濡れ、雑に乱れて、もつれあう。
 唇の内部を探られて、抉られて、舐められて、繰り返すキスの狭間に相手の髪を手に握りこむ。
 終わらせたくなくて亜久津の舌に南の方から絡んでいけば、苦い舌は尚濡れて、執拗に南の唇を貪った。
 そのくせ南の喉からくる痙攣を察するのも早く、食いちぎるように阿久津の方からキスが解かれるのと同時に、南はかわいた咳を唇から零した。
「………馬鹿が」
 舌打ちと共に、しかし亜久津の手は南の背を擦った。
「しねえって、俺は言った」
「……ッ…、…っ、ン…」
「やるっつったのはお前だ」
 不機嫌に吐き捨てられた言葉に、南は咳き込みながら頷いた。
 苦しいながらも淡く笑って阿久津を見上げて腕を伸ばす。
「…………さむい……」
 再度の舌打ちが聞こえて。
 南の身体は浚われるように亜久津の長い腕に巻き込まれた。
「熱あんだろうが」
「………いい…」
 したい、と言ってしがみつけば。
 亜久津の気配は剣呑としたものになったが、南の笑みは深まった。
 風邪をひいている自覚はあって、普段なら堅実にこの初期段階で治そうと思う南だけれど。
「いらないか」
 俺の風邪。
 ぽつんと呟いてやれば。
 一切の言葉にはせず、そのくせいつも南の何もかもを欲しがっている男は、躊躇いもなく嗄れた咳の余韻で忙しなく動いている南の喉を舐めて、深く、そこに口付けてきた。
 むさぼられる口付けに肌をさらしながら、南はやわらかくなった亜久津の髪を、大事に手のひらに閉じ込める。
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