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How did you feel at your first kiss?
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 車内は最初からそこそこ混んでいた。
 そのうえで駅に停まる度に、降りる人はなく乗り込む人ばかりが増えていく。
 ああこれは駄目だと宍戸が本格的に思ったのは乗車からすぐのことだった。
 混雑と、そして空気がすこぶる悪い。
 これは致命的だ。
 宍戸は元々人込みが好きでない。
 閉塞感が苦手で、加えて今日は朝から重たい雨雲が空を覆っていた。
 雨が降る前特有の湿った息苦しさがあった。
 そんな気候の中の、この満員電車だ。
 並大抵のことでは音を上げない宍戸も、今日ばかりは無理そうだった。
 一応はそれでもぐっと我慢をしてみたのだが、気分は一向に晴れず、どんどん重く息苦しくなっていくばかりだ。
 人に押され、人に揉まれ、不快指数をたっぷりはらんだ熱気、薄い空気。
 宍戸は力ない溜息を零しながら、目で相方を探した。
 一緒に乗車した筈が混み合うにつれ今は互いの距離が離れてしまっている男、長身の鳳の姿は簡単に見つかる。
 頭ひとつ分、ゆうに飛び出ている上、大層な男前だ。
 ちょうど停車駅で車内の人の流れが動いたのに乗って、宍戸は少々強引に鳳の元へと移動した。
 どうせ降りる駅は終点だからと、鳳と離れていく事を全く気にしていなかった宍戸だが、ここは少しばかり頼ろう、甘えようと、鳳の前まで無理矢理移動する。
「宍戸さん」
 混雑の中にあっても、器用に、極自然に伸ばされてきた腕で引き寄せられる。
 ちょっと寄りかからせろと小声で言いながら鳳の胸元にもぐりこもうとしていた宍戸は、しかし寸での所で動きを止めた。
「……宍戸さん?」
 どうしました?と問いかけてくる柔らかい低音。
 すでに宍戸の状態を察している鳳によって、広い胸元は宍戸の為にあけられていた。
「…………アホ」
「何がです?」
 構いませんよ?と眼差しで促され、引き寄せられるが宍戸は足を踏みとどめた。
「構うだろーが。お前のがよっぽど具合悪そうな顔してんじゃねえか」
 ともすれば乗り物酔い中と言っていいかもしれない。
 鳳の顔色は冴えなかった。
 更に人が乗車して、周囲の混雑が増す。
 電車が動き出した。
 その揺れで、結局宍戸は鳳の胸元に納まってしまった。
「あのね……」
「…………あ?…」
 宍戸の背中に素早く鳳の手が宛がわれた。
 抱き込まれるような仕草だった。
 実際宍戸は鳳に半ば抱き締められた状態で、そっと耳元で囁かれた。
「宍戸さんのミントガムの匂いが気持ち良いから……」
「………………」
「近くにいてくれてる方が、俺は気分よくなるので」
 お願いしますとまた抱き込まれた。
「………………」
 宍戸はいつもミントガムを口にしていて、今もそうで、だからといって実際鳳が言うようにミントの匂いがしているのかどうか、宍戸には判らなかったけれど。
 身体をあずけきってもいい鳳の存在は、今の宍戸には逆らいがたい程心地良かった。
 耳打ちされる声も穏やかで、宍戸は鳳の胸元に額を当てて目を閉じた。
「………………」
 大丈夫?と問うのではなく、大丈夫と宥めるように背を抱かれた。
 背中に宛がわれた鳳の手のひらからゆっくりと浸透してくる熱が、周囲の熱気とは全く異なる優しさで伝わってくる。
 宍戸の肩から力が抜けて、また互いの距離が近くなる。
 それでも尚、更に背を強く抱かれたのは、もっと寄りかかってしまっていいという合図だと判る。
 満員電車をいいことに相当な密着具合だと宍戸も半ば自嘲したのだが、満員電車だからこそかと思い直して。
 鳳の胸元にすっぽりとおさまった。
 それだけで具合が悪かったのなんて嘘みたいに消えてなくなった。
 鳳もやわらかい吐息をついたのが気配で判る。
 髪に唇が寄せられた気配がする。
 まあいいか、と宍戸は鳳の胸元で淡く微笑んだ。
 電車が混んでいるせいでの、抱擁だ。
 乗り物酔いを解消するべく、抱擁だ。
 近くても、強くても、甘くても、誰にも見咎められることはない、抱擁だ。
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 小さな溜息をついた不二は自分の背後にいる菊丸をちらりと流し見て、今しがた言われた言葉を寸分違わず繰り返した。
「英二。あそこにいるのは生霊でも亡霊でも自縛霊でもトイレの花子さんでもうしろの百太郎でもなく乾だよ」
「……ほえっ?…」
 不二を盾にしていた菊丸が教室の前扉から中を覗くように不二の肩越しに顔を出す。
 不二が電気のスイッチに手を伸ばし、薄暗い教室は一気に明るくなった。
「乾だ!」
「そうだよ」
「乾かよ!」
「乾だよ」
 放課後、すでに暗がりと化した誰もいない筈の教室に人影が!と半泣きで不二を呼びにきた菊丸は、今では頬を膨らませて憤りも露に教室へと足を踏み入れていく。
 三年十一組。
 下校時刻を少し過ぎたこの時間に一人居残っていたらしい乾は、机にうつ伏せていて、確かめるまでもなく熟睡中だ。
「人騒がせな奴! 乾」
「困ったね……こうなっちゃうと乾は何したって起きないんだよね……」
 乾の机の脇に立ち、菊丸と不二はそれでも肩を揺すったり声をかけたりはしてみる。
 しかし、どうにも万年ギリギリの睡眠時間で生活しているらしい乾は、時折ふっつりと事切れるようにしてこんな状態に陥るのだ。
 限界を超えて眠りに落ちた乾は、とにかくちょっとやそっとの事では目を覚まさない。
「うーん…人選ミスだね。英二。僕らじゃ二人がかりでも乾は運べないよ」
「生霊か亡霊か自縛霊か花子か百太郎だったら不二でバッチリだったのに!」
「どういう意味」
 微笑みと一緒に、きらりと瞳を光らせた不二に、菊丸は頭がもげそうなほど首を左右に振った。
「や、なんも意味ないです!」
「そう?」
「そーでっす!」
 今度は上下に再びものすごい勢いで首を振った菊丸は、少々ふらつきながら不二の肩につかまった。
「大丈夫?」
「うん! へーき」
 多少無理矢理っぽく笑みを浮かべた菊丸は、素早く立ち直り、見なかった振りで置いていったらダメかな?と乾を指差した。
「そうだねえ……青学テニス部のブレーンが受験苦で失踪……なんて騒ぎは困るよね」
「乾、そういうのやけにはまるもんなー」
「かといって乾の家に連絡しても家族の人はまだ誰も帰ってないだろうし……」
「置いてきましたの事後報告じゃ、俺たちがものすごーく酷い友達みたいになっちゃうしねー…」
 どうしようか?と可愛らしく悩み合いながらも、二人は乾の頭上で結構な事を言いあっている。
「乾を運べそうな…って言ったら」
「タカさんか桃だよねえ……」
 菊丸の提案に不二は首を左右に振った。
「タカさんはダメ。乾を持ち上げて怪我とかしたら大変」
「桃だってこんなことで呼び出したら可哀相じゃん」
「英二が言えば桃はすっ飛んで来るでしょ」
「不二が頼めばタカさんだって快く引き受けてくれるよ」
 うーん、と唸って結局二人の会話は堂々巡りだ。
 時折気まぐれに乾の背を叩いたり、耳元で叫んだりしてみるのだが、依然乾は目を覚まさなかった。
 ほとほと弱りかけた時だ。
「………先輩?」
 誰にという訳ではなく放たれたらしい呼びかけに、菊丸と不二はくるりと背後を振り返った。
 開けたままにしていた教室の前扉。
 教室内に入ってくるでもなくそこから遠慮がちに顔を見せているのはあまり表情らしい表情もない海堂だった。
「あー、海堂!」
 菊丸と不二が同時に叫び、海堂は些か怯んだように息を詰める。
 そうだ海堂だ、海堂がいた、という面持ちで上級生二人は手招きで海堂を中に呼び入れる。
 戸惑い気味に、しかし目礼を忘れずに、海堂が教室に入ってきた。
「………どうかしたんすか」
 低く呟きながら、しかし海堂はすぐに状況がのみこめたようだった。
 菊丸と不二が身体をずらしてみせた先、机にうつ伏せて寝入っている乾が目に入ったのだ。
「海堂こそどうしたんだよー? こんな時間に三年の校舎に何の用?」
「もしかして乾と待ち合わせしてたりした?」
 菊丸の問いかけと不二の確認に、海堂は、まあ、と曖昧な返事をした。
「ええー! 乾ひどーい!」
 たちまち大きな声を上げたのは菊丸だ。
「海堂待ちぼうけさせて自分は寝てる訳?」
「……いや…たいして待ってませんから」
「庇わなくていいよっ」
 ひどいひどいと連呼する菊丸に同調こそしないものの、不二も似たような事を思っているらしく、じゃあもう遅いから三人で一緒に帰ろうかと微笑んだ。
「は…? 乾先輩は、」
「寝かせておけばいいよ。ね、英二」
「そうそう! 明日の朝まで乾はここでたっぷり寝ればいいよ!」
「あの……乾先輩くらいなら俺普通に運べますけど」
 海堂のすらりとした四肢は一見は目立たないが極めて良質な筋肉がついていて、見目のともすれば華奢に見える程の手足の伸びやかさとは裏腹にその腕力も強い。
 乾を担ぎ上げる事くらい造作ないと言った口調は、確かにその内容が事実でもあるのだが。
「海堂ー……お前、ビジュアル的にびっくりしちゃうからそれは止しなってば」
「……どういう…?…」
「ま、海堂に担ぎ上げられて帰宅したなんて事を、後から乾が知ったらそれはそれで面白いかもね」
 がっくりと肩を落とす菊丸の言う事も、口元に拳を当てて含み笑う不二の言う事も、海堂はうまく理解する事が出来ない。
 しかしこのままでは二人の上級生に連れ出されてしまう事だけは確かだった。
「起こします。乾先輩」
「無理無理! 俺らだって散々に揺さぶったり怒鳴ったり擽ったり殴ったりしたけど駄目だったもん! ね、不二」
「僕は殴ってないよ」
「足踏んづけただけだっけ?」
「英二は乾の背中の上に完全に乗っかってたよね」
「………………」
 海堂は思わず溜息をつく。
 上級生の容赦なさに対してもだし、それでも起きない男に対してもだ。
 依然菊丸と不二の会話が続き、海堂は、とにかくこの場は一刻も早く乾を起こしてここから帰ろうと決める。
 海堂の手は乾のうつ伏せた頭に伸ばされる。
 指先が髪に沈んで、数回。
 頭を撫でつけるようにその手が動いた。
「………………」
 何とは無しに不二と菊丸は目を瞠った。
 思わず口を噤んで見据えてしまったものは、海堂の所作のあまりのやわらかさとやさしさだ。
 でもそれは特別なものというよりも、極自然な仕草にも見えた。
 いっそ心地良さに余計に寝入ってしまいそうな海堂の所作はゆっくりと繰り返され、後頭部を撫でられていた乾がふと微かに身じろいだ。
 おおー!と声にならない声を菊丸があげ、さすがに不二も驚きに睫毛を瞬かせた。
 海堂の指先は乾の髪に埋められたまま尚も静かに撫でつけている。
 繰り返されている。
「………、…かいど……?…」
「…目ぇ覚めたっすか。先輩」
「……ん……?………あれ…?」
 乾がだるそうに顔を上げた。
 海堂の手はすぐには退かない。
「ちゃんと布団で寝ないと疲れとれないっすよ…」
 例えば。
 待ちぼうけをくらわされたというのに全く怒りもしない海堂の言動だとか。
 例えば。
 生半可な事では絶対に目覚めない乾の眠りを静かな指先だけで解く海堂の振る舞いだとか。
 その場に居合わせてしまった菊丸と不二を愕然とさせた海堂薫は、結局最後まで硬質な声で優しい言葉を、強靭な手で甘い仕草を、慎み深く露呈した。


 乾はそういう海堂を、友人達にはあまり見せたくなかったらしいというのは。
 後々の乾の態度で、菊丸と不二には充分察する事が出来た。
 誰よりも深い寛容さは、結局一番年下の彼が持ち合わせているようだった。
 神尾が自宅に帰る事を告げる時、跡部は返事をしないのが常だ。
 それは少しばかり神尾を落ち着かなくさせる。
 帰りづらい。
 かといって。
 実際帰らない訳にもいかないので、神尾は小さく溜息をつき、立ち上がり、跡部の部屋を後にする。
「じゃあな。跡部」
 扉のノブに手をかけた神尾は、音も無かったのに近くなった慣れた香りに背後を振り返る。
 跡部がいた。
 もう唇が触れそうに近い。
 跡部は睫毛を伏せて目を閉じていた。
「………………」
 ノブを掴んでいた神尾の右の手は、跡部の左手に握りとられて。
 片手だけつなぐようにして。
 キスされた。
 舌で探られはしないけれど。
 深くかみあわされて頬が重なる。
 するりと擦ってすべる感触に、頬に熱が集まりそうで神尾は少し身じろいだ。
 後ずさっても背後にあるのは扉で、却ってキスでそのまま押さえつけられてしまう。
「ん…、……」
 握られている手も、少し強くなった。
 唇がゆっくり角度を変えて、その間も、もつれるようにキスは重なったままだ。
 跡部の唇の感触はさらさらと甘い温かさで、キスで、身体も頭の中も抱き締められているみたいになる。
「……っ…ぁ…」
 唇がずれた拍子に小さく声がもれてしまうのが居たたまれない。
 確か自分は帰ろうとしていた筈なのにと、神尾はうまく動かない思考で考える。
 今している、今日最後のキスが、今日した中で一番深くて。
 どんどんどうしようもなくなっていく。
 跡部の舌が、神尾の口腔にゆっくりと入ってくる。
 上顎を撫でられて、舌先を小さく吸われて、濡れた音が唇の合間に生まれる。
 もう、帰るのに。
「も……やめろよ…ぅ…」
「何でだよ…」
 何で、なんて聞きたいのはこっちだと神尾は思った。
 背にある扉に身体をあずけて、辛うじて足場を踏みとどまらせ、囁くほどに小さく低い跡部の声に息をのむ。
 跡部の唇も濡れていた。
「…………帰れなくなるだろ……」
「そうしてんだよ」
「何でだよ…」
「帰したくないからだろ」
 跡部が上体を屈ませてきた。
 俯く神尾の唇を、下からすくいあげるようにして口づけてくる。
 手をつないでいない方の跡部の右手が神尾の頬を包んで、キスがまた深くなった。
 あまり肉感的な印象のない跡部の唇が、次第に貪欲なやり方で自分の唇をむさぼってくるのに。
 神尾は結局どうしようもなくなって、その場に座り込んでしまった。
 跡部はキスをしたまま同じように膝をついてきた。
「………あ…とべ…」
「……………」
 歩けなくして、立てなくして。
 帰したくないなんて本当だろうか。
 跡部の考えは神尾には判りにくい事も多くて、それはお互い様だと跡部に言われた事もある自分達だけれど。
「…跡部……」
 跡部の首の裏側に両手を伸ばす。
 自分が縋りついているのか、跡部を抱き寄せているのか、神尾自身判らなかったけれど。
 そうしたくて、強く。
 近く。
 身体がぴったりと重なって。
 体温が滲んでくる。
 跡部の小さな吐息が神尾の首筋でとける。
「…………帰せなくなるだろ……」
「そうしてんだよ」
「何でだよ…」
「帰りたくないからだろ」
 会う度に、離れる度に、名残惜しんで大切に思っている。


 歩けなくなって、立てなくなって。
 帰りたくないなんて本当だ。
 いっそ見事な泣きっぷりだった。
 大きい目からは大粒の涙が出るものなのだろうかと思うような泣き顔に、宍戸は切れ長の瞳を眇めて手を伸ばした。
 真っ直ぐに伸ばした手で泣いている向日の腕を引く。
 強く、自分の方に、そのまま肩を抱いても向日は無抵抗だ。
 普段であるならば噛み付いてきそうな勝気なリアクションをとるであろう向日が全く逆らわないでいる。
 宍戸は溜息を吐き出して言った。
「何したんだよ。お前」
 ごめんの連呼をしているジローや、顔の前で両手を合わせて頭を下げている滝、二人を敢えてスルーして。
 宍戸は苦笑いも保てなくなってきたような表情でやはり侘び続けている忍足を一瞥する。
 宍戸の露骨な直撃に忍足は複雑な表情になったが、構う事無く宍戸は眼差しを一層きつく引き絞った。
 鳳と居残っていた為に最後に部室を出てきた宍戸は、鳳と肩を並べてくぐろうとした正門前での光景に足止めされた。
 そこに居たのは向日と忍足と滝とジローの四人。
 その中で、向日がここまで泣いているというのは普通でない。
「驚かせすぎちゃったんだよー」
 ほんとごめんなーとジローがそれこそ泣きそうに謝っている横で、滝が憮然としている宍戸に状況を説明する。
「何だかここ何日か岳人が元気ないと思って。でも、どうしたの?って聞いても岳人は言わないだろうから、どうしたらいいんだろうってジローと話をしてたところにね。忍足と岳人が来たのが見えて……」
「見えて?」
 素っ気無い促しに今度はジローが言った。
「話聞こえちゃったかなーっていうのとー……あと、うまいこと話ごまかす方法が咄嗟に思いつかなくてー……」
「つかなくて何だ」
「何かちょっと勢いで…滝ともめてるっぽくね……うん、なってる風に言い争いっぽくね……しちゃってみちゃって、誤魔化そうとしようとね……」
 回りくどい話し方をするなと宍戸は眉根を寄せた。
 不機嫌になる宍戸の横で、鳳が黙ったまま困ったような顔をしている。
「それで、そこに忍足が仲裁っぽく入ってきたんで、ジローともめてる振りしながらこっそり説明して、なんかその流れで三人で言い争ってるっぽくなって」
 それでね、と滝の視線がそっと向日に流れる。
 宍戸はそれはもうあからさまな溜め息をついた。
「おどかしてんじゃねえよ」
 この面子でもめてる振りなんかするなと一喝する。
「お前らが言い争いなんざしてたら、いったい何事かと思うだろうが」
 俺や跡部ならともかくと零してから宍戸は手加減なくチームメイトを叱り飛ばした。
「こいつが元気ない理由なんか、原因一つに決まってんだろ」
 きっぱりと指差された忍足が曖昧な沈黙を保つのは、ここ数日に渡った忍足と向日の些細な喧嘩が確かにその原因だと認めているに他ならない。
「どうにかそっちはカタつきそうになってる所で、今度はお前らが、おまけにその馬鹿も加えて三人でもめだしたら、やばいスイッチも入るだろーが」
 恐らく向日自身、そこまで泣いてしまっている理由もわからないのだろう。
 止まらなくなっている涙は、つまりそういう事だ。
 情緒不安定。
「ごめんね岳人」
「ごめんー! ほんとごめん」
「ああもうそれ以上言わなくても、判ってるよ、こいつも。今言うと余計止まらなくなりそうだから止せ。帰れもう」
 向日の肩を抱き寄せた宍戸が言うと、滝とジローはそれでも尚謝りながら、宍戸の言うのも最もだと思ったようで、じゃあ明日なーと言って帰っていった。
「………お前も帰れ」
「そういう訳にいかんやろ…」
 さすがに忍足は同行しないし、宍戸の冷たい言葉にもひかない。
 しかし宍戸はつれなかった。
「俺は岳人と二人でメシ食って帰る」
「……待てや、おい」
「一人が嫌なら長太郎を貸してやる」
「は?」
 それまで黙っていた鳳が、それでさすがに声を上げた。
「ちょっと待って下さい。宍戸さん…!」
 そもそも一緒に帰る筈だったのに何でと。
 言葉に出さずとも眼差しでのみ訴える鳳の戸惑いに、忍足の唖然とした言葉が被った。
「なんやそれ。何で俺が鳳を借りなあかんの」
「てめえには贅沢な話だぜ。ったく。いいか、明日にはちゃんと俺に返せよ」
「宍戸さん!」
 いやです!と叫ぶ鳳と、いらんわ!と叫ぶ忍足を背後に置いて、宍戸は歩き出した。
「くそ。ついてきやがる」
 背後を流し見て舌打ちする宍戸に肩を抱かれたまま。
 向日が、泣きながら笑っていた。
「…宍戸ー………」
「なんだよ」
「ひでぇ……お前……」
 泣き濡れた向日の目には、すでに普段の勝気な笑みが宿っていた。
「あいつの宝物借りんだから、俺の宝物預けただけだろ。何がひでぇんだか」
 ヤケ食いつきあってやるから滝とジローへのフォローは明日自分でやれよと宍戸は呟き、向日を見下ろし、唇の端を引き上げた。
 いきなりの気配に驚いたものの、咄嗟に振り返ってみれば慌て戸惑う必要もない事を海堂は知った。
 無意識に肩から力を抜いたのは、背後にいたのが乾だったからだ。
「枯れてないよ。大丈夫」
「………………」
 海堂が引っ込めかけた手に、触れないながらも重なるようにして、乾の手が海堂の動きをとめる。
「花かんざしだね」
 落ち着いた低い声だ。
「和紙みたいな花びらだけど、枯れてる訳じゃないから」
 心配しなくても大丈夫と言った乾の声が、ぐっと近くなって海堂は今度はもう振り返るに振り返れなくなった。
 気になって、花を。
 手を伸ばしていたのは確かに海堂自身で。
 でもだからってどうしてこう絶対に見過ごす事無く気づかれてしまうのか。
 乾からの接触はいつもこんな風にひどく不思議だ。
 海堂が気を取られた花は、白は白のまま透けていくような色合いの小さなもの。
 緑の葉、白い花弁、黄色の花軸。
 はっきりと花が咲いていく過程は、やはり季節の移ろいを感じさせて、何の気はなしに手を延べてみて。
 指先に触れた花びらのあまりにかわいた感触に、作り物のような肌触りに、海堂が戸惑った一瞬を浚うように、乾はこうして海堂の背後にいる。
「この花は開花前の蕾が面白いんだ」
 ほら、と乾の指がすくいあげてみせた花かんざしの蕾。
 花びらが、外側から徐々に開いていくようで、中心はあくまでまるくかたい蕾のままだ。
「外側から、ゆっくり開いていく」
「………………」
 蕾の軸を取り囲み、外側からゆっくりと。
 それを告げる乾の声が僅かに緩んで、どこか柔らかく耳に届いた。
 まるであんたじゃないかと海堂は思って。
 覆い被さるようにして背後にいる乾を微かに流し見る。
 本音はなかなか晒さずに。
 かといって人を寄せ付けない硬質さもない。
 一緒にいる事に気まずさを感じさせず、いつの間にか距離が縮まって、こうして側に居れば少しずつだけ本意を見せてもくれる。
 全部ではない。
 でも、外側から花開いていくこの蕾のようには、海堂は許されている。
 それは判っている。
「………海堂みたいだよな…」
「………………」
 乾と目が合い、そんな言葉を口に出されて。
 似ている事を考えはするが、決して同じでない自分達を、海堂は苦笑いしたくなる。
 お互いの距離が近くなって、恋愛感情を持つようになって、それでも。
 あくまでも、実際自分達は別々の人間だ。
 いつかどうにも相容れなくなって、諍いが起きたりするのかもしれない。
 そんな事を考えてしまうくらいに、どこか不安めいたものがいつでもこの感情に潜んでいる。
 けれど乾と海堂が同じでないのは当たり前のことだと知っているから。
 その上で、こんな事もあったりするから。
「……あれ。それは逆…とか考えてるな。お前」
「………………」
 乾は海堂の心情に機微を解している。
 背後を視線だけで見る海堂と、そんな海堂を覗き込んでくる乾とで、窮屈な体勢の中視線は引き結ばれて。
 同じ花を見て、物凄く似ていて結局真逆の事を思う自分達は、それでもこうして抱き締め合える。
 乾が海堂の背後から両腕で海堂を抱き締めてくる。
 海堂はおとなしくその抱擁におさまった。
「……海堂の真ん中は、まだひらいて貰えてないなと、俺は思うんだが。お前もそんな風に考えてたりするって事か?」
 少しの驚きは、お互いのもの。
 自分は全部見せてるだろうと思う気持ちも、お互いのもの。
「まあ…それならそれで」
「………………」
「ちゃんと咲くまで末永く一緒にいればいいか」
 低い声で生真面目に、やわらかな提案を口にする乾の腕を。
 海堂は自身の胸の前で抱き込んだ。
 乾の手のひらが海堂の頬を包むように動いたので、その手のひらのくぼみに、海堂はそっと唇を押し当てた。

 無理に剥がされていくのではなく。
 徐々に剥いでいくから、花開くまで行く末永く。
 口に含んだら甘い味のしそうなオレンジ色の夕焼けを見上げて、神尾は携帯の通話ボタンを押した。
 跡部からだ。
 専用の着信音がしたし、でももし音を消してあったとしても、神尾には今かかってきたそれが跡部からの電話だと絶対に判る。
「おい。何で来ないんだよ」
 いきなり神尾の耳に飛び込んできたのはそんな言葉だった。
 日暮れていく空が本当に綺麗で神尾はすうっと息を胸に吸い込んだ。
 返事をするより先に、この間青学に負けた時は来ただろうが、と跡部の声が淡々と言ったので。
「……負けてねえよ」
 神尾は憮然と言ってやった。
 跡部は少し笑ったみたいだった。
「神尾」
「今向かってるとこなんだよ!」
「とろいんだよ。お前」
「うるさい。このせっかち」
 今行く所なんだと。
 もう一度、神尾は繰り返す。
 足を速める。
 もっと。
 もっと。
「おう。早く来い」
「………………」
 やはり笑っているみたいな跡部の声に、神尾も少し唇の端を引き上げて。
 そして、目元を空いている手のひらで擦った。
 拭ったものは、涙なんかじゃない。
 何度も、何度も、惚れ直させる暴君に、八つ当たりじみて腹が立つだけだ。
 敗北を身に浴びても、欠片も弱者にならない。
 揺らぎない強靭さで、屈強に立ちはだかるから。
 悔しい、くらい。
 好きで好きで好きで。
 跡部のテニスはいつでも許容範囲を超える勢いで神尾の気持ちをすべて埋めていく。
 跡部のテニスはどうしてあんなにまでも特別なのか、人の気持ちを揺するのか。
 こんなに跡部を好きな状態で、跡部に会うのが怖いと思ったって、それは道理、無理ない話だろうと神尾は思った。
「ああ、…おい。神尾」
「………なんだよ」
 何かに気づいたような跡部の呼びかけに神尾は小さく応えた。
 こんなにも好きにさせて、自分をどうする気なのかこの男は。
「お前、俺に見惚れたようなツラ見せたら叩き出すぞ」
「……は?」
 跡部が何をいきなり言い出すのか、思わず神尾は、そんなこと言われたら叩き出されるのが確実じゃないかと思ってしまった。
 あんな試合を見せられて、そんな無理な提案のめる訳がない。
 口に出す事こそは、ぐっと堪えたが。
 理不尽な提案に神尾が眉根を寄せていると、跡部も然して面白くなさそうな口調で言った。
「どっかで見たようなとか何とか思ったら、よりにもよって橘じゃねえか」
「は? 橘さんがなんだよ?」
「髪型がだ、馬鹿」
 跡部の言葉に神尾は呆気にとられて。
「橘みたいだと思ってちょっとでも見惚れたようなツラ見せやがったら蹴り出すからな。そこんとこ覚えとけ。いいな」
「………………」
 ばか。
 神尾は声を殺して笑った。
 どういう発想、どういう理屈だと、跡部らしからぬその発言に、神尾は受話器から口元を離して肩を震わせた。
 ばかでばかでばかで。
 本当にもう大好きだ。
「跡部ー……」
「……なに笑ってんだてめえ」
 露骨に不機嫌な声だ。
 神尾は笑いを隠さずに言った。
「あのさ……跡部になら…いいんだよな?」
「ああ?」
「跡部に見惚れるのは…いいんだよな?」
 ちゃんと見ろよ、と神尾は念じてみる。
 自分が誰を見ていて、自分が誰を好きなのか。
 全部、全部、この気持ちを全部見せるから。
 神尾の気持ちを全て目にして、跡部は少しえらそうにしているといい。
 世界で一番跡部のことを好きな人間を側において、自惚れているといい。
 無性にそうしてやりたくなって、神尾は走った。
「待ってろよな…!」
「早くしてくれ」
 呆れたような跡部の声で、電話が切れた。
「……頼んでやがんの。跡部の奴」
 神尾は笑って、もう一度だけ、目元を拭った。

 後は、そう、全力疾走だ。
 お前ちょっとこっち来いと宍戸が不機嫌な顔で手招きをすると、鳳は自分よりも背の低い相手を上目に見るという器用な事をしながら近づいてきた。
「あのなぁ長太郎」
「はい。すみません。宍戸さん」
「そのすみませんをいい加減止せって話だボケ!」
「はい? あ、…すみません」
「だからそれだっつーの!」
 わあすみませんっと性懲りも無く口にする鳳に、宍戸はますます声を荒げた。
 しかし宍戸が怒れば怒るほど鳳はますますその言葉を連呼する。
「てめ、ひょっとしてわざとなのか! 今ので七回言ったぞ。七回!」
「わざとなわけないじゃないですか!」
「じゃあお前は何で寄ると触るとすみませんっつーんだよ! 俺に!」
「や、判んないですけど、でもいろいろ俺にも事情があるんですよ!」
「ああ? 事情だ?」
 宍戸は片眉を跳ね上げさせて凄んだ。
 だいたい鳳は、実際問題宍戸に対して、あまりにもその言葉を口にしすぎる。
 神妙な顔の時もあるし、微笑んでいる時もあるけれど、それにしたって多すぎた。
「俺がお前を一方的に、脅すかなんかしてる暴君みたいだろうがよっ。四六時中すみませんすみません言われてりゃ」
「な、誰ですか宍戸さんにそんな失礼なこと言うの!」
「てめーのせいだアホ!」
「は、…すみません…!」
「八回目ッ!」
 宍戸の怒声に鳳は肩も眉も下に落として、そのくせその面立ちの整い方には欠片も傷をつけず、傍目には心底から憂いでいるような無駄な色気を振りまく顔で宍戸を取り成そうと狼狽えている。
 そんな二人の様子に、いつもの事だとすでに周囲からは失笑もおきない。
 氷帝のレギュラー陣は黙々と、或いは勝手気ままに喋りながら、着替えの手を休めない。
 そんな中で一人、細い顎から然して遡る必要もない小さな顔のこめかみに、ぴしりと青筋を立たせた向日だけが、いい加減我慢の限界だというように、鳳と宍戸のいる方向を物凄い勢いと剣幕とで振り返り睨み据えている。
 見失いそうに小さいながらも向日の性根は極めて男らしいのだ。
「……そこの暴君と下僕」
 花びらのようだと人に言わしめた事もある唇から呪詛を吐くように向日が呻くと、更なる嵐、更なる日常に身構えて周囲の面々は嘆息する。
 耳を塞ぎ顔を背ける本能的な衝動にかられた面々を他所に、向日は鳳と宍戸の前に荒い足取りで歩み寄った。
 立ちはだかった。
「おい!」
「長太郎。あのな。すみませんって言葉は、心が澄まない、心が澄みませんってのが語源なんだよ。お前俺といて、そんなに四六時中心が澄まない訳?」
「おいって!」
「まさか! そんな訳ないじゃないですか。宍戸さん。宍戸さんといて、心が澄まないなんてこと俺ないですから」
「おーいー! だからそこの暴君と下僕! 馬鹿二人!」
 向日の姿など目にも入れずに、呼びかけなど気にもせずに話続けていた鳳と宍戸も、さすがにそこまでの大声を出されたせいか、向日の存在に今更ながらに気づいたように二人で顔を向けてきた。
「………誰が馬鹿二人だって?」
「………暴君と下僕って誰のことですか?」
 不機嫌な宍戸と怪訝な鳳に向かって、お前らだー!と叫びかけた向日の口元が、突然に大きな手のひらで塞がれる。
「ンぅ……っ……、…」
「………………」
 いつの間に忍び寄ってきていたのか向日の背後にいたのは忍足だった。
 忍足は向日の口元を片手で塞ぎ、上体を屈めるようにして向日の耳元で何かしら耳打ちし出した。
 声は何も聞こえない。
 忍足の表情も見えない。
 向日はしばらく忍足の手を引き剥がそうと暴れていたが、徐々に大人しくなっていく。
 少し小首を傾けるようにして、忍足の言葉に意識を集中し始めた頃合を見計らってか、忍足の手が向日の口元から外された。
 向日は鳳と宍戸を真っ直ぐ見据えて言った。
「なあ、お前らさ。漢字で一二三四五六七って書いて何て読むか知ってるか」
 二人からの返事はない。
 その間再び忍足が向日の耳元に唇を寄せる。
 もう忍足は手を伸ばして向日を捕まえたりはしていない。
 ただ向日の背後にぴったり寄り添うようにして立ち、何事かを耳打ちしているだけだ。
「お前らみたいなこと言ってる言葉なんだけど」
「……………」
「……………」
 鳳と宍戸が顔を見合わせる。
 忍足がまた向日の耳元に唇を寄せる。
 向日が少し笑った。
「恥知らずって読むんだぜ」
「……………」
「……………」
「孝・悌・忠・信・礼・儀・廉・恥っていう八つの徳のうち、八番目が抜けてるから、恥を知らないって意味で、一二二三四五六七をそう読ませてるわけ」
 孝、悌、忠、信、礼、儀、廉、恥、は勿論。
 逐一ひとつずつ、忍足が向日の耳元に囁いていた。
 口移しのようにひとつずつ。
 そうして忍足も笑っていた。
 笑ってはいたのだが。
「……そこの後ろ」
 宍戸が低い声で凄んだところで、目線も合わせずに忍足は目を伏せ向日に耳打ちばかりを繰り返していた。
「恥知らずはてめえらだろうが…っ!」
「し、宍戸さん……落ち着いて…」
「………………」
「…お前らには言われたくないわ。…だってさ」
 てめえの口で喋れ!と宍戸は忍足に詰め寄ろうとするが、にやつきながらも向日はしっかりと背後に忍足を庇い立て、忍足は忍足で向日への耳打ちでしか言葉を発しない。
 氷帝テニス部レギュラー用部室は、かくして相乗効果としか言いようのない有様で益々賑やかに、そして傍からすれば益々うんざりと、甘ったるくなっていくのであった。


 美麗な所作、顔立ちで、口汚く彼らを罵り一喝する氷帝テニス部の部長が現れるまで現状はそのままだった。
 鳳は何かに気づいた声で宍戸の名前を呼んだ。
 キスのさなか、呼吸のあいま。
「………宍戸さん?」
 問いかけてきた唇は、微笑みの形をしている。
 目線を合わせてきた目元は、的確に宍戸の気持ちを酌んでいる。
 宍戸は尚もそこに口付ける。
「俺、なにかしましたか?」
「…………るせーよ。黙ってろ」
「はい」
 従順に頷いた鳳は、薄い色合いの瞳を幸せそうに細めて宍戸を見下ろし、もう何も喋らない。
 その唇へ、宍戸は繰り返し口付けた。
 感謝をしている。
 そういう思いをキスに交ぜた宍戸の心情を、鳳は素晴らしく濃やかに汲み取るのだ。
 違和感ではなく、正しく読み取って、気づいてくれる。
 今このキスを、鳳は微笑と共に受け取ってくれている。
「長太郎」
 感謝を、している。
 言葉でも伝えるけれど、言葉では伝えきれない分を、表せる術があってよかったと、決して言葉のうまくない宍戸は思っている。
 そっと重ねていくキスは、宍戸の思いを表す幸福な手段だ。
 暮れかけの温む風とよく似た甘い微かな接触を乾は感じた。
 立ち止まって振り返ると、自身の着ているジャケットの裾が海堂の手の中にある。
 乾の少し後ろを歩いていた海堂がとった仕草にしては、物珍しいものだった。
 なんだい?と乾が眼差しで問いかけると、海堂は黙って動いた。
 乾のジャケットの裾を右手にしたまま膝を曲げずに屈んで、乾の足元へ左手を伸ばす。
 海堂がすくいあげるようにして手のひらに拾い上げたものは、肉厚の花弁の白い花だ。
 無意識に乾は頭上を見上げた。
 街路樹が白い花を暮れ初めの空に向け咲かせていた。
 よく、こうも大きな。
 そして純白の花が、葉もない枝先に花開いているものだといっそ感嘆する。
「………………」
 踏み躙られる花を憂いだのか、それとも転ぶなり滑るなりするかもしれない我が身が案じられたのか。
 乾がそんな事を考えていると、海堂は乾に寄り添うように並んだまま静かな声で言った。
「両方っすよ…」
「え? あれ…声に出してた?」
「顔見りゃ判ります」
 呆れた風に海堂は小さな溜息を吐き出した。
 手のひらに白い花をすくい、海堂も乾がそうしたように街路樹を見上げてきた。
 本当ならば、まだああして空に近い場所で咲いていた筈の花の姿も。
 万が一にでも足元のそれを踏む事で怪我をするかもしれない可能性があった乾の事も。
 同じ気持ちで案じ、守ろうとする海堂の仕草は、乾の目にひどくやさしく映った。
 頭上を見上げている海堂の黒髪が、さらりと風に揺らいで整った額が一瞬だけ露になる。
 乾は海堂の手のひらから引き取るようにその白い花を手にする。
「……これはコブシだっけか…」
「似てるけど違う。みんな空を向いてるから、これはモクレンっすよ」
 へえ、と乾が視線を花から海堂に落としても、海堂はどこか無心に花を見上げていた。
 コブシとモクレンは同じ時期に咲く同じような花だけれど、モクレンの花は全て上に向いて咲き、コブシは様々な方向に咲くのだと海堂は訥々と言った。
「海堂はモクレンの方が好きだろ」
「………………」
 海堂は応えなかったが、乾は薄く笑って歩き出した。
 乾の横を海堂もついてくる。
「……その花持っていくんですか」
「うん。捨ておけないからな。枯れるまで大事に俺の部屋に置いておいて…枯れたら」
「………枯れたら?」
「そうだな……土に埋めてあげようかな」
 海堂がひどく不思議そうな顔をしたので、乾は笑みを深めて並んで歩く海堂を流し見た。
「海堂の好きな花ならそれくらい大切にして当然だろ」
 それで海堂の事は。
 それこそ当然、もっともっと大切にするけどなと乾が続けると。
 いつもはモクレンの花のように、真っ直ぐに前を、上を、見ている海堂が。
 コブシの花の咲く向きのように、あちらを、こちらを、向いている様が乾にはたまらなく可愛く思えたのだった。
 花の香りがする。
 なんだろうと神尾は眼差しで香りの行方探して低木に気付く。
 白とえんじの小さな、それなのに香りの濃い花。
「沈丁花」
「………………」
 どんどん先を歩いていって、後ろに誰かがいるなんて考えもしていない背中をみせていたのに、どうして気づくのか。
 神尾の前方を歩いていた跡部の声がする。
 足を止め、肩越しに僅かだけ振り返ってきた気配がしたけれど、神尾は花を見つめた。
 濃い香りは決して不快ではないけれど、あれほどまでに小さな欠片から香ってくることがひどく不思議だ。
「神尾」
 続けざまに名前。
 あまり機嫌のよくなさそうな声だ。
 久しぶりに会った。
 こうして二人で会うのは一月ぶり近い。
 跡部から呼び出されて、跡部からそうされなければ会う事も出来ない自分達を神尾はここ一月で実感していた。
 高等部への進学を来月に控えた跡部は多忙だったようで、音信はぱたりと途切れていた。
 元々学校の違う自分達は跡部からの連絡が途絶えてしまうと、簡単に互いの間に距離が生まれた。
 三月だからというだけでなく。
 自分達は、ずっとそうだったのだ。
 思えば。
 跡部が誘わなければ、神尾は跡部に会えない。
 跡部が抱き寄せてこなければ、神尾は跡部を抱き締められない。
 だから跡部が、何もしなくなったら。
 何もいらなくなったら。
「神尾」
 予感は確信で、想像は現実に近づいているのかもしれない。
 いつまでも沈丁花を見つめている神尾の元へ跡部は戻ってきた。
 荒っぽい手に後頭部を掴まれる。
「………………」
 もっと荒っぽく唇を塞がれた。
 何故こんな人目があるかもしれない場所で。
 でも一瞬。
「………………」
 沈丁花に意識をやっていないと、身近になった跡部の香りにつかまってしまう。
 思い出してしまった。
 一月なかったものなのに。
 神尾が歯噛みした事を一瞬の口付けで悟った跡部は舌打ちをした。
 面倒だよな、と神尾は胸の内でひっそりと凍えた。
 こんなに好きで。
 跡部が。
 だから跡部は自然消滅を狙わないんだと神尾は少しだけ笑いたくなった。
 跡部が好きで、好きで、好きで。
 放っておいたって、いつまでも好きで。
 それは跡部にとっては後々困る事になるのだろう。
 別に危惧されるような事は何もしない。
 出来やしないんだと、神尾は自分を省みて思うけれど。
 跡部は、違うんだなと思った。
 わざわざ、また呼び出して、また会って、こうして。
「………言え」
「………………」
 ぼんやりと、あくまでも沈丁花に気を取られている素振りで視線を逃がしていた神尾の後ろ髪を握り締め。
 跡部が、至近距離で獰猛な声を出した。
 低く、小さな声だ。
「………………」
「いつまでも考えてないで言え」
 酷い奴、と神尾は目を伏せた。
 せめて跡部の家に連れていかれてからにして欲しかった。
 跡部は、きっと知っているのだ。
 神尾が跡部に何を言いたいか。
 だからここで言わせるのだ。
 跡部の部屋だったら、二人きりであったのなら、もう、いくらだって。
 どれだけみっとなくたって、抵抗してやるのに。
 言う事なんか聞いてやらない。
 泣いたって、喚いたって、何でもしてやって、抗ってやるのに。
 こんな、往来で。
 騒げば簡単に人目も集まるような場所で。
 跡部は神尾に言わせて、そして容易くそれを切り捨てるのだ。
 神尾の望みなど、簡単に。
「…………ない…からな…」
 くやしくて、でも意思はかたくて。
 食い縛った歯の隙間から洩らすようにして神尾が口にした言葉は酷く醜く歪んだ。
「別れたって…止めてなんかやんねえよ」
 好きで。
 好きで。
 もう止めろと言われたって、止め方なんか神尾は知らない。
 跡部が好きで。
 別れたって絶対神尾はこのままだ。
「好きなままなんだからな」
 そう言って、神尾は悔しさの腹いせのように、片腕を伸ばし跡部の身体を突き放そうとした。
 跡部が自分で決めた事なら、神尾が何を言ったって無駄な事は判っている。
 だからこの場から立ち去ってはやるけれど、好きなままでいる事は絶対に止めない。
「………ぇ…?」
 しかし、神尾の身体は。
 突き放した跡部の身体と離れる事無く、それどころか闇雲な力で、逆に抱き込まれていた。
 気管が潰される、そんな危機感を持つ程の乱暴さで、そして。
「………………」
 跡部の身体から、一気に力が抜けていくのを、ダイレクトに身で感じた。
 神尾に浴びせかけられたのは、まるで。
 まるで、跡部の。
 安堵感。
「跡…部……?」
 耳元に微かに当たる吐息。
 言葉も出せないというような衝動じみた安寧の吐息は、神尾の凍えた心情を揺らした。
 徐々に強まっていく抱擁。
 抱き締めろよ、と神尾は泣きそうになった。
 どうして、いつもみたいに、抱き締めるのではなくて。
 こんな、まるで縋りついてくるようなやり方で。
「……、…跡部」
 大きな手のひらで、背中をかき抱かれる。
 横暴な束縛ではなく、何故そんな懸命な拘束で。
 まさか跡部は、神尾が言うとでも思っていたのだろうか。
 跡部が口にするのだろうと、神尾が思っていた言葉を。
「………くそったれ…!」
「跡部……」
「思いつめたようなツラしやがるから……!」
 ふざけんなと呻く跡部に抱き締められたまま、もしかして跡部は、焦っていたのだろうかと神尾は眉根を寄せた。
 だってまさか、そんなこと。
 別れ話をされるのかと思うのは普通自分の方だろうと神尾は愕然とした。
 だってまさか。
 跡部がそんな危機感みたいなものを自分に持つだなんて事、神尾は思いもしなかった。
「………跡部」
 笑い出したいのに涙が出るから神尾は目を閉じた。
 手探りで、跡部の背中を抱き返す。
 こんな往来で。
 だから責任と役割は半々で。
 神尾は跡部と同じ力でその背中を抱き返す。


 もう沈丁花の香りはしない。
 神尾が吸い込む空気には跡部の香りだけがした。
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