How did you feel at your first kiss?
水を限界まで含んだ空気が、いよいよ耐えかねて雨を降らせ出した。
雨は空からと言うよりも、手に届く所から、僅かずつ。
零れ出てきたかのように、木々を濡らして、花を濡らしている。
宍戸は図書室の窓辺の席でそんな屋外の様子を流し見ていた。
「宍戸さん。なに見てるんですか…?」
「………ん? なんだ。随分早かったな。長太郎」
部活のない日、しかし委員会があると言った鳳を、待っていると言ったのは宍戸だ。
ちょうど延ばし延ばしにしてしまっていた読書感想文の提出日が翌々日で、ついでに仕上げてしまおうと図書館で待っていると宍戸が鳳にメールをしてからたいして時間も経っていない。
「早く宍戸さんに会いたくて」
上体を屈めて宍戸の耳元に唇を近づけた鳳が、ひそめた声で囁いてくる。
「………アホ」
宍戸はといえば、意識してひそめた訳ではなく、そういう声しか出ない気分で短く返した。
しかし吐息に笑みが交ざった鳳の気配は甘ったるく毒があった。
小さく息を詰め、宍戸は赤くなりかけているであろう顔を僅かに背けるしか出来ない。
「……銀河鉄道の夜ですか」
「………………」
やけに大人びたあしらいで、鳳は宍戸の手元に置いたままになっている本を見て宍戸の向かいの席に腰を落ち着かせた。
生まれた何かしらの雰囲気を一掃するかのように鳳が話し出す。
「俺好きですよ。この話」
宍戸も読書自体は好きな方だ。
しかしもっぱらノンフィクション派で、いわゆる読書感想文の課題として指定されるような書物を読む事に対してはどうにも気分がのらない。
宍戸は目の前の本を見つめて軽く溜息を吐き出した。
鳳も来た事だし、今日も感想文はもういいかと見切りをつけて、宍戸は立ち上がった。
「宍戸さん?」
「借りて帰る」
ちょっと待ってろと鳳に告げて本を手にした宍戸の手の甲に、そっと鳳の指先がかかった。
「…………、…」
「俺、この本持ってますから」
「………………」
「うち、来ますよね」
「………じゃ、お前に借りる」
丁寧で柔和な笑みと、男っぽい手の印象は一見アンバランスなようでいて。
でもそれが鳳なのだと宍戸は知っている。
優しい穏やかな口調と、雄めいた低い声音のそれもまた同様に。
「あ、でもその前に」
「……長太郎?」
「少し、寄り道して行きましょう」
立ち上がった鳳は宍戸と並び、何の衒いもなく宍戸の肩に手を回した。
肩を包んでくる手のひらの大きさや長い腕の感触に、近頃宍戸は内心でひっそりとうろたえる。
たったひとつの年の違いで。
しかし鳳の変貌はやけに鮮やかで顕著だった。
大人びていく過程が目立ちすぎて、これだけ身近にいる宍戸であっても時折ひどく驚かされる。
振り返ればいつでも宍戸のすぐ後にいた鳳が、少し前からは大抵隣にいて、ここ最近は宍戸の前にいる。
広い、大きな背中を見つめる事が増えた。
それが嫌な訳でも、不安な訳でもない。
ただ少しだけ何かが変わっていくようで心もとなかった。
鳳に促されるまま宍戸は図書室を出た。
雨は通り雨だったかのようにもう止んでいた。
「…で、どこ行くんだよ?」
「星を見に」
「…星?」
いくら雨は止んだとはいえ、またいつ降り出しても何らおかしくないほど空は雲で凝っている。
とても星など見える筈もない。
「長太郎?」
宍戸の呼びかけに鳳は振り返って、そしてそこでなにかひどくいとおしそうに、その目を細めて宍戸をまっすぐ見つめてきた。
宍戸が鳳に連れて来られたのはプラネタリウムで、銀河鉄道の夜を全天デジタル映像化したプログラムが上映されていた。
小説のままに、北十字から南十字までの天の川を走っていく。
白鳥の停車場、プリオシン海岸、蠍の火、サザンクロス停車場。
星で出来ている世界は物語を忠実に、しかし全てではなく描いていて、見終えた宍戸が何をしたかったかといえば、ともかくその小説をきちんと読みたくなっていた。
「何か思ってた以上に面白かった」
「それなら良かったです」
「お前、誰かと来たのか」
ふと思い立って宍戸は鳳にそう尋ねた。
場の空気が徐に固くなる。
「誰かって誰?」
「や、……だからそれを聞いて……」
鳳にしては珍しくきつい目をして問われ、宍戸は口ごもるかのように言葉を濁した。
そういえば時々、鳳はこういう顔も見せるようになった。
怒っているのか、腹立たしいのか。
「一人で来たに決まってるじゃないですか」
「………………」
プラネタリウムから鳳の家へと向かう道すがら、鳳は宍戸と肩を並べてそう言ってから暫くの間沈黙した。
宍戸からも何か話すことは出来なくて。
結局大分してから鳳が、囁くような声で静かに話し出した。
「宍戸さん」
「…何だよ」
「俺、……最近、がっついてて怖いですか?」
「……は…?」
「………自覚は…してるんですよ」
ひどく気難しそうに眉根を寄せた鳳を、宍戸は驚きに見開いた目で凝視した。
何を言われたのかよく判らなかった。
「………………」
「でも、すみません。気をつけてるけど、……宍戸さんを、絶対大事にしますけど、無茶苦茶なこと考えてたりするのも本当です」
「無茶苦茶って……」
漸く宍戸と視線を合わせて、鳳は微かな苦笑を唇に刻んだ。
「プラネタリウム見てる時の宍戸さんも綺麗だった」
「お前……」
どこ見てたんだよと宍戸が思わず呻くと、宍戸さんを、と臆面もなく応えられてはもうどうすることも出来ない。
あの暗闇で、そこまで恥ずかしい事をしているくらいなら。
今更無茶苦茶でも何でも好きにすればいいと宍戸は思った。
「………お前、最近俺を抱く時やけに苦しそうなツラするの、それでかよ…」
大人びていく故での強引さではなく、我慢しきれない子供じみた欲求で荒いでいるのかと思えば、ふと笑みも零れてしまう。
すこし安堵もした。
「お前の好きにすりゃいい」
「……また宍戸さんは簡単にそんなこと言って…」
窘めるような声は年下らしくなかったが、あからさまに表情は焦れて拗ねていたから、宍戸は無性におかしくなった。
「……プラネタリウム見た後は、すぐ本が読みたいって思ったけど。今のお前の顔見たら」
「宍戸さ……」
片腕で、ぐいっと鳳の後頭部を引き寄せて。
宍戸は至近距離で笑った。
図書室での鳳への、ちょっとした仕返しのように。
鳳がしたように彼の耳元に唇を近づけて囁いてやる。
「すぐお前としたいって思ったな」
早く。
全部。
好きにすればいい。
そうやって言葉と態度で明け渡してやればやったで、また余計に苦しがるような凶暴な気配を漂わせる鳳が、宍戸にはとにかくどうしようもなく可愛かった。
雨は空からと言うよりも、手に届く所から、僅かずつ。
零れ出てきたかのように、木々を濡らして、花を濡らしている。
宍戸は図書室の窓辺の席でそんな屋外の様子を流し見ていた。
「宍戸さん。なに見てるんですか…?」
「………ん? なんだ。随分早かったな。長太郎」
部活のない日、しかし委員会があると言った鳳を、待っていると言ったのは宍戸だ。
ちょうど延ばし延ばしにしてしまっていた読書感想文の提出日が翌々日で、ついでに仕上げてしまおうと図書館で待っていると宍戸が鳳にメールをしてからたいして時間も経っていない。
「早く宍戸さんに会いたくて」
上体を屈めて宍戸の耳元に唇を近づけた鳳が、ひそめた声で囁いてくる。
「………アホ」
宍戸はといえば、意識してひそめた訳ではなく、そういう声しか出ない気分で短く返した。
しかし吐息に笑みが交ざった鳳の気配は甘ったるく毒があった。
小さく息を詰め、宍戸は赤くなりかけているであろう顔を僅かに背けるしか出来ない。
「……銀河鉄道の夜ですか」
「………………」
やけに大人びたあしらいで、鳳は宍戸の手元に置いたままになっている本を見て宍戸の向かいの席に腰を落ち着かせた。
生まれた何かしらの雰囲気を一掃するかのように鳳が話し出す。
「俺好きですよ。この話」
宍戸も読書自体は好きな方だ。
しかしもっぱらノンフィクション派で、いわゆる読書感想文の課題として指定されるような書物を読む事に対してはどうにも気分がのらない。
宍戸は目の前の本を見つめて軽く溜息を吐き出した。
鳳も来た事だし、今日も感想文はもういいかと見切りをつけて、宍戸は立ち上がった。
「宍戸さん?」
「借りて帰る」
ちょっと待ってろと鳳に告げて本を手にした宍戸の手の甲に、そっと鳳の指先がかかった。
「…………、…」
「俺、この本持ってますから」
「………………」
「うち、来ますよね」
「………じゃ、お前に借りる」
丁寧で柔和な笑みと、男っぽい手の印象は一見アンバランスなようでいて。
でもそれが鳳なのだと宍戸は知っている。
優しい穏やかな口調と、雄めいた低い声音のそれもまた同様に。
「あ、でもその前に」
「……長太郎?」
「少し、寄り道して行きましょう」
立ち上がった鳳は宍戸と並び、何の衒いもなく宍戸の肩に手を回した。
肩を包んでくる手のひらの大きさや長い腕の感触に、近頃宍戸は内心でひっそりとうろたえる。
たったひとつの年の違いで。
しかし鳳の変貌はやけに鮮やかで顕著だった。
大人びていく過程が目立ちすぎて、これだけ身近にいる宍戸であっても時折ひどく驚かされる。
振り返ればいつでも宍戸のすぐ後にいた鳳が、少し前からは大抵隣にいて、ここ最近は宍戸の前にいる。
広い、大きな背中を見つめる事が増えた。
それが嫌な訳でも、不安な訳でもない。
ただ少しだけ何かが変わっていくようで心もとなかった。
鳳に促されるまま宍戸は図書室を出た。
雨は通り雨だったかのようにもう止んでいた。
「…で、どこ行くんだよ?」
「星を見に」
「…星?」
いくら雨は止んだとはいえ、またいつ降り出しても何らおかしくないほど空は雲で凝っている。
とても星など見える筈もない。
「長太郎?」
宍戸の呼びかけに鳳は振り返って、そしてそこでなにかひどくいとおしそうに、その目を細めて宍戸をまっすぐ見つめてきた。
宍戸が鳳に連れて来られたのはプラネタリウムで、銀河鉄道の夜を全天デジタル映像化したプログラムが上映されていた。
小説のままに、北十字から南十字までの天の川を走っていく。
白鳥の停車場、プリオシン海岸、蠍の火、サザンクロス停車場。
星で出来ている世界は物語を忠実に、しかし全てではなく描いていて、見終えた宍戸が何をしたかったかといえば、ともかくその小説をきちんと読みたくなっていた。
「何か思ってた以上に面白かった」
「それなら良かったです」
「お前、誰かと来たのか」
ふと思い立って宍戸は鳳にそう尋ねた。
場の空気が徐に固くなる。
「誰かって誰?」
「や、……だからそれを聞いて……」
鳳にしては珍しくきつい目をして問われ、宍戸は口ごもるかのように言葉を濁した。
そういえば時々、鳳はこういう顔も見せるようになった。
怒っているのか、腹立たしいのか。
「一人で来たに決まってるじゃないですか」
「………………」
プラネタリウムから鳳の家へと向かう道すがら、鳳は宍戸と肩を並べてそう言ってから暫くの間沈黙した。
宍戸からも何か話すことは出来なくて。
結局大分してから鳳が、囁くような声で静かに話し出した。
「宍戸さん」
「…何だよ」
「俺、……最近、がっついてて怖いですか?」
「……は…?」
「………自覚は…してるんですよ」
ひどく気難しそうに眉根を寄せた鳳を、宍戸は驚きに見開いた目で凝視した。
何を言われたのかよく判らなかった。
「………………」
「でも、すみません。気をつけてるけど、……宍戸さんを、絶対大事にしますけど、無茶苦茶なこと考えてたりするのも本当です」
「無茶苦茶って……」
漸く宍戸と視線を合わせて、鳳は微かな苦笑を唇に刻んだ。
「プラネタリウム見てる時の宍戸さんも綺麗だった」
「お前……」
どこ見てたんだよと宍戸が思わず呻くと、宍戸さんを、と臆面もなく応えられてはもうどうすることも出来ない。
あの暗闇で、そこまで恥ずかしい事をしているくらいなら。
今更無茶苦茶でも何でも好きにすればいいと宍戸は思った。
「………お前、最近俺を抱く時やけに苦しそうなツラするの、それでかよ…」
大人びていく故での強引さではなく、我慢しきれない子供じみた欲求で荒いでいるのかと思えば、ふと笑みも零れてしまう。
すこし安堵もした。
「お前の好きにすりゃいい」
「……また宍戸さんは簡単にそんなこと言って…」
窘めるような声は年下らしくなかったが、あからさまに表情は焦れて拗ねていたから、宍戸は無性におかしくなった。
「……プラネタリウム見た後は、すぐ本が読みたいって思ったけど。今のお前の顔見たら」
「宍戸さ……」
片腕で、ぐいっと鳳の後頭部を引き寄せて。
宍戸は至近距離で笑った。
図書室での鳳への、ちょっとした仕返しのように。
鳳がしたように彼の耳元に唇を近づけて囁いてやる。
「すぐお前としたいって思ったな」
早く。
全部。
好きにすればいい。
そうやって言葉と態度で明け渡してやればやったで、また余計に苦しがるような凶暴な気配を漂わせる鳳が、宍戸にはとにかくどうしようもなく可愛かった。
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星のない夜空で幾ら目を凝らして星を探した所で、見つからない。
無数の星空の中から、たった一つの星だけを探す事もまた同様に。
無いものは見つけようが無い。
しかし有り過ぎてもそこから見つけ出す事はなかなかに困難だ。
海堂は学校帰りに立ち寄ったCDショップで、大量のCDが収められているラックの端から片っ端に、収録曲の曲目を確認している。
生誕二百五十年を迎えた事を記念して設けられている件の作曲家のラックは、記念全集から復刻版までより一層の品揃えで、言うなればおびただしい星を瞬かせている夜空のようなものだ。
収録された曲は無数の星だ。
海堂はそれらひとつずつを手にとっては、曲名を確認していった。
「………………」
これで何件目のCDショップになるのか。
本当はすぐにでも欲しいなら、店員に尋ねるなり、ネットで注文するなりすれば確実なのは判っている上で、海堂は自分の目で探し出したかったのだ。
「………………」
ラックの何段目にさしかかった時だったか、海堂の手が止まった。
セピア色が日に焼けて明るくなった色みの中、楽器を手にした女性がジャケットに描かれているCDは他の全集などに比べると薄かった。
しかし紛う事無く海堂が探していた曲だ。
ふ、と笑みとも吐息ともつかない息を唇からもらした海堂は、背後から名前を呼ばれるのと一緒に肩に手を置かれて、飛び上がりかけた。
実際に跳ね上がった肩先を宥めるように手のひらに包んだ男は海堂の背後で笑った。
「どうしたんだ? そんなに驚くなんて」
「……乾先輩…」
気配もなくいきなり現れられては普通驚くと、海堂が胸の内で思っただけで乾は言った。
「悪かったよ。そういうつもりじゃなかったんだって」
「………………」
「海堂、なにか真剣な感じだったから、どのタイミングで声かけていいものかと…………あれ?」
乾の視線が、海堂が手にしていたものに留まる。
「あれ、…それって、ひょっとして」
海堂は溜息をついた。
乾が気を取られているのを承知の上で、海堂は黙って歩き出し、レジに向かった。
「海堂」
「ラッピングの時間くらい待って欲しいんですけど」
「は?」
乾にしては珍しく、状況がさっぱり判っていない声を上げたが、海堂は返事をしなかった。
レジでラッピングを頼み、受け取って店を出る。
乾は海堂の後ろについてきていた。
ショップを出たところで、海堂はくるりと振り返って手提げ袋を持っている片手を乾へと突き出した。
「…え?」
乾は面食らった顔をしていた。
「どうぞ。あんたに渡そうと思って買ったんで」
「モーツァルト…?」
「そうです。きらきら星変奏曲だろ」
「………………」
乾が言っていた。
だから海堂は覚えている。
だから海堂は探した。
「………あんな独り言みたいな話で?」
きらきら星は、元はパリのシャンソンの恋の歌。
それをテーマにモーツァルトがつくったきらきら星の変奏曲。
綺麗で可愛い曲だよと乾に言っていたのは不二で、初めて聞いたとそれに応えた乾は、いつか聴いてみようと言いながら、その事は頭の中だけにおさめたようだった。
いつものように手元のノートには書き止めなかったから。
これは日常の忙殺に追いやられるなと海堂は思ったのだ。
あの日、乾は誕生日だった。
「ずっと覚えてて?」
「………………」
「ずっと探してくれてたんだ…?」
「…………誕生日が」
「ん?」
乾の眼差しが甘すぎて気恥ずかしい。
海堂はぶっきらぼうに言った。
「あんた、…誕生日…俺がいるだけでいいとか……ふざけたことしか言わねえから……」
「おいおい。ふざけてないよ。大真面目だ俺は」
「……、………っ……とにかく……!」
海堂は赤くなっている自分を自覚した上で、口早に後を続けた。
「誕生日、なんにも渡せなかったから!」
「……海堂」
ここで抱き締めたら殴られるんだろうなあと乾は笑った。
そしてそっと、誰にも気づかれないように、ほんの一瞬。
海堂の指先が乾の手に握りこまれる。
海堂は驚いたが、逃げはしなかった。
「ありがとう。海堂」
「………………」
「CDも嬉しい。もっと嬉しいのは、誕生日から十二日間経ってもその間ずっと俺の事を考えて探してくれてた事だよ」
「……あんたの事なら、いつも考えてる」
別にこの十二時間が珍しい訳じゃない。
海堂が低く告げると、乾は海堂がこれまで見た事がないくらい、嬉しそうな顔をした。
「うちで一緒に聴かない?」
「……きらきら星ですか」
「そう。恋の歌ね」
綺麗で可愛いらしいから、と乾は言って海堂の肩を軽く抱いて歩き出した。
「………………」
これは本当にとてつもなく機嫌が良いらしい。
海堂は驚いて目を見開いたが、それはそれで海堂もまた嬉しかったので。
黙って海堂も乾と共に歩き出した。
きらきら星、恋を告げる、その曲のさなかに。
沈みに、浮かびに、光るべく。
一緒にいよう。
いとけなく、シンプルでいて、単調にならない馴染みのいい調べは。
愛しく。
自分達のようであるといい。
無数の星空の中から、たった一つの星だけを探す事もまた同様に。
無いものは見つけようが無い。
しかし有り過ぎてもそこから見つけ出す事はなかなかに困難だ。
海堂は学校帰りに立ち寄ったCDショップで、大量のCDが収められているラックの端から片っ端に、収録曲の曲目を確認している。
生誕二百五十年を迎えた事を記念して設けられている件の作曲家のラックは、記念全集から復刻版までより一層の品揃えで、言うなればおびただしい星を瞬かせている夜空のようなものだ。
収録された曲は無数の星だ。
海堂はそれらひとつずつを手にとっては、曲名を確認していった。
「………………」
これで何件目のCDショップになるのか。
本当はすぐにでも欲しいなら、店員に尋ねるなり、ネットで注文するなりすれば確実なのは判っている上で、海堂は自分の目で探し出したかったのだ。
「………………」
ラックの何段目にさしかかった時だったか、海堂の手が止まった。
セピア色が日に焼けて明るくなった色みの中、楽器を手にした女性がジャケットに描かれているCDは他の全集などに比べると薄かった。
しかし紛う事無く海堂が探していた曲だ。
ふ、と笑みとも吐息ともつかない息を唇からもらした海堂は、背後から名前を呼ばれるのと一緒に肩に手を置かれて、飛び上がりかけた。
実際に跳ね上がった肩先を宥めるように手のひらに包んだ男は海堂の背後で笑った。
「どうしたんだ? そんなに驚くなんて」
「……乾先輩…」
気配もなくいきなり現れられては普通驚くと、海堂が胸の内で思っただけで乾は言った。
「悪かったよ。そういうつもりじゃなかったんだって」
「………………」
「海堂、なにか真剣な感じだったから、どのタイミングで声かけていいものかと…………あれ?」
乾の視線が、海堂が手にしていたものに留まる。
「あれ、…それって、ひょっとして」
海堂は溜息をついた。
乾が気を取られているのを承知の上で、海堂は黙って歩き出し、レジに向かった。
「海堂」
「ラッピングの時間くらい待って欲しいんですけど」
「は?」
乾にしては珍しく、状況がさっぱり判っていない声を上げたが、海堂は返事をしなかった。
レジでラッピングを頼み、受け取って店を出る。
乾は海堂の後ろについてきていた。
ショップを出たところで、海堂はくるりと振り返って手提げ袋を持っている片手を乾へと突き出した。
「…え?」
乾は面食らった顔をしていた。
「どうぞ。あんたに渡そうと思って買ったんで」
「モーツァルト…?」
「そうです。きらきら星変奏曲だろ」
「………………」
乾が言っていた。
だから海堂は覚えている。
だから海堂は探した。
「………あんな独り言みたいな話で?」
きらきら星は、元はパリのシャンソンの恋の歌。
それをテーマにモーツァルトがつくったきらきら星の変奏曲。
綺麗で可愛い曲だよと乾に言っていたのは不二で、初めて聞いたとそれに応えた乾は、いつか聴いてみようと言いながら、その事は頭の中だけにおさめたようだった。
いつものように手元のノートには書き止めなかったから。
これは日常の忙殺に追いやられるなと海堂は思ったのだ。
あの日、乾は誕生日だった。
「ずっと覚えてて?」
「………………」
「ずっと探してくれてたんだ…?」
「…………誕生日が」
「ん?」
乾の眼差しが甘すぎて気恥ずかしい。
海堂はぶっきらぼうに言った。
「あんた、…誕生日…俺がいるだけでいいとか……ふざけたことしか言わねえから……」
「おいおい。ふざけてないよ。大真面目だ俺は」
「……、………っ……とにかく……!」
海堂は赤くなっている自分を自覚した上で、口早に後を続けた。
「誕生日、なんにも渡せなかったから!」
「……海堂」
ここで抱き締めたら殴られるんだろうなあと乾は笑った。
そしてそっと、誰にも気づかれないように、ほんの一瞬。
海堂の指先が乾の手に握りこまれる。
海堂は驚いたが、逃げはしなかった。
「ありがとう。海堂」
「………………」
「CDも嬉しい。もっと嬉しいのは、誕生日から十二日間経ってもその間ずっと俺の事を考えて探してくれてた事だよ」
「……あんたの事なら、いつも考えてる」
別にこの十二時間が珍しい訳じゃない。
海堂が低く告げると、乾は海堂がこれまで見た事がないくらい、嬉しそうな顔をした。
「うちで一緒に聴かない?」
「……きらきら星ですか」
「そう。恋の歌ね」
綺麗で可愛いらしいから、と乾は言って海堂の肩を軽く抱いて歩き出した。
「………………」
これは本当にとてつもなく機嫌が良いらしい。
海堂は驚いて目を見開いたが、それはそれで海堂もまた嬉しかったので。
黙って海堂も乾と共に歩き出した。
きらきら星、恋を告げる、その曲のさなかに。
沈みに、浮かびに、光るべく。
一緒にいよう。
いとけなく、シンプルでいて、単調にならない馴染みのいい調べは。
愛しく。
自分達のようであるといい。
走っていると雨が降り出した。
目的地まではあと少し。
神尾はスピードを上げた。
いきなり辺り一面に轟く大きな音で雷が鳴った。
勢いづいた雨粒は大きい。
「やっべ……」
これは急がないと。
これよりも、もっともっと強烈な雷を食らう羽目になる。
案の定、神尾の考え通り。
神尾を一喝した雷の剣幕たるやそれは凄まじかった。
「そんな怒鳴んなって。跡部」
冗談でなく思わず耳を押さえてしまった程の怒声だ。
ずぶ濡れですみませんと結構真面目に言った神尾は、さすがにこれは人様の家を訪れる恰好ではないと我が身を省みている。
びしょびしょと言うよりも、もはやぐちゃぐちゃだ。
「……ええと…今日は帰った方がいい…?」
顔を合わせるなりこの馬鹿!と神尾を怒鳴りつけた跡部は、この神尾の問いかけに一層険しい顔をした。
はっきり言って恐ろしい形相だった。
神尾としては、この有様で家に上がっては室内を濡らして汚す事は判りきっていたので言ったまでなのだが、涼しそうな亜麻布のシャツを羽織った跡部は物凄い力で神尾の二の腕を掴み、引き寄せてきて、息も止めるような深い口付けをしかけてきた。
「…………、…ん」
「……何で俺が怒るのかも判らねえのか。お前は」
「…あと…べ…?」
ずぶ濡れの神尾を、躊躇いもなく身包み抱き締めて。
同じように濡れていきながら跡部は低く囁いてくる。
吐息程度のささやきは神尾の唇にかるくぶつかって。
跡部だなあと神尾は思った。
三週間ぶりの。
「………跡部」
神尾も両腕で跡部の背を抱いた。
見目はすらりとしている跡部の身体は、しなやかでいて、しかし固い。
ひどく熱い。
「…………風邪ひく前にシャワー浴びろ」
「うん……」
跡部の口調は平静で、でも肌は熱くて、返事をしてからぽつりと神尾がそれを告げれば即答で返された。
「お前が冷えてんだよ」
「………そう…なのか…?」
「神尾」
跡部は多分、早く神尾にシャワーを浴びせさせたいようだった。
神尾もそうと気づいていたが、こうして近くに居て抱き締めあってしまうと、どうしようもなく離れがたくなってしまった。
促しでまた跡部から名前を呼ばれた神尾は、取り立てて意味のない、ふと思い当たった事を口にする。
「……六月って、何でこんなに雨が降るのに水が無い月で水無月なんだろ…」
「神尾……」
「変じゃね?」
跡部は一瞬また微かな怒気を滲ませてきた。
けれど神尾は、判れよ、と念じてぎゅっと跡部の背のシャツを掴み締める。
判れ。
こうしていたいのだ。
「……………」
跡部がまた神尾の唇を塞いできた。
唇で。
キスは今度も強くて、深くて、甘ったるい。
「水が無い月って意味じゃねえよ」
「……ちがうのか…?」
「無しって漢字は当て字だ。ついでに『な』は『の』って意味の連体助詞だから、六月の意味は『水の月』だ」
「へえ……」
「日照りが続いて水無しになるから水無月って説もあるがな……」
「……………」
六月にはいろいろ意味合いがあるようなので。
神尾は六月の中にいる自分の、渇きと潤いとを否が応でも体感した。
「跡部と会えないでいたから、俺もずーっと水無しの月だったぜ」
「……………」
「でも今は水の月だな」
たっぷりと、溢れかえる程に。
こうして抱き締め合える跡部がここにいる。
「渇いて……」
「………跡部…?」
「餓えてんのは…」
俺だ、と。
跡部の言葉ごとキスをされた。
「……ふ……、…」
神尾は跡部の舌先を口腔に含んで。
沁みこむ様に伝わってくる跡部の存在に。
思考や体内がゆったりと濡れていくのを感じていた。
激しいこの夕立のような雨よりも。
短い時間で、遠慮の無さで。
欲しがられるのが堪らなかった。
目的地まではあと少し。
神尾はスピードを上げた。
いきなり辺り一面に轟く大きな音で雷が鳴った。
勢いづいた雨粒は大きい。
「やっべ……」
これは急がないと。
これよりも、もっともっと強烈な雷を食らう羽目になる。
案の定、神尾の考え通り。
神尾を一喝した雷の剣幕たるやそれは凄まじかった。
「そんな怒鳴んなって。跡部」
冗談でなく思わず耳を押さえてしまった程の怒声だ。
ずぶ濡れですみませんと結構真面目に言った神尾は、さすがにこれは人様の家を訪れる恰好ではないと我が身を省みている。
びしょびしょと言うよりも、もはやぐちゃぐちゃだ。
「……ええと…今日は帰った方がいい…?」
顔を合わせるなりこの馬鹿!と神尾を怒鳴りつけた跡部は、この神尾の問いかけに一層険しい顔をした。
はっきり言って恐ろしい形相だった。
神尾としては、この有様で家に上がっては室内を濡らして汚す事は判りきっていたので言ったまでなのだが、涼しそうな亜麻布のシャツを羽織った跡部は物凄い力で神尾の二の腕を掴み、引き寄せてきて、息も止めるような深い口付けをしかけてきた。
「…………、…ん」
「……何で俺が怒るのかも判らねえのか。お前は」
「…あと…べ…?」
ずぶ濡れの神尾を、躊躇いもなく身包み抱き締めて。
同じように濡れていきながら跡部は低く囁いてくる。
吐息程度のささやきは神尾の唇にかるくぶつかって。
跡部だなあと神尾は思った。
三週間ぶりの。
「………跡部」
神尾も両腕で跡部の背を抱いた。
見目はすらりとしている跡部の身体は、しなやかでいて、しかし固い。
ひどく熱い。
「…………風邪ひく前にシャワー浴びろ」
「うん……」
跡部の口調は平静で、でも肌は熱くて、返事をしてからぽつりと神尾がそれを告げれば即答で返された。
「お前が冷えてんだよ」
「………そう…なのか…?」
「神尾」
跡部は多分、早く神尾にシャワーを浴びせさせたいようだった。
神尾もそうと気づいていたが、こうして近くに居て抱き締めあってしまうと、どうしようもなく離れがたくなってしまった。
促しでまた跡部から名前を呼ばれた神尾は、取り立てて意味のない、ふと思い当たった事を口にする。
「……六月って、何でこんなに雨が降るのに水が無い月で水無月なんだろ…」
「神尾……」
「変じゃね?」
跡部は一瞬また微かな怒気を滲ませてきた。
けれど神尾は、判れよ、と念じてぎゅっと跡部の背のシャツを掴み締める。
判れ。
こうしていたいのだ。
「……………」
跡部がまた神尾の唇を塞いできた。
唇で。
キスは今度も強くて、深くて、甘ったるい。
「水が無い月って意味じゃねえよ」
「……ちがうのか…?」
「無しって漢字は当て字だ。ついでに『な』は『の』って意味の連体助詞だから、六月の意味は『水の月』だ」
「へえ……」
「日照りが続いて水無しになるから水無月って説もあるがな……」
「……………」
六月にはいろいろ意味合いがあるようなので。
神尾は六月の中にいる自分の、渇きと潤いとを否が応でも体感した。
「跡部と会えないでいたから、俺もずーっと水無しの月だったぜ」
「……………」
「でも今は水の月だな」
たっぷりと、溢れかえる程に。
こうして抱き締め合える跡部がここにいる。
「渇いて……」
「………跡部…?」
「餓えてんのは…」
俺だ、と。
跡部の言葉ごとキスをされた。
「……ふ……、…」
神尾は跡部の舌先を口腔に含んで。
沁みこむ様に伝わってくる跡部の存在に。
思考や体内がゆったりと濡れていくのを感じていた。
激しいこの夕立のような雨よりも。
短い時間で、遠慮の無さで。
欲しがられるのが堪らなかった。
ベッドの上、枕を抱え込むようにしてうつ伏せになっている宍戸の横で、ベッドヘッドに寄りかかって上半身を起こしている鳳は宍戸の後ろ髪に長い指先を沈ませている。
飽きる様子もなく宍戸の髪をすいている。
頭を撫でる。
会話はない。
でも接触が優しく甘い分、沈黙は穏やかだった。
「……宍戸さん。喉は?」
「、ん」
それが最初の言葉。
鳳はひどく優しい声で宍戸にそう問いかけた。
まだだるい身体は確かに喉の渇きを訴えていて、宍戸が小さく応えると。
鳳は宍戸の後頭部を撫でながら更に耳元に囁いてきた。
「少し待ってて下さいね」
「……………」
飲み物なにか持って来ますからと鳳がベッドから床に足を下ろす。
そのまま屈んで、おそらく床に投げ置いたシャツを手に取っている鳳の背中に宍戸は目線をやって、そして呟いた。
「悪ぃ」
「……何がですか?」
「それ、俺だ」
背中、と言って。
宍戸は寝そべったままけだるく腕を伸ばした。
宍戸の手のひらが宛がわれた箇所を鳳が肩越しに見つめてくる。
「ああ……」
「……………」
強く重く速いサーブを繰り出す鳳の腕は鍛え上げられていて、腕の付け根から続く固い三角筋の上に宍戸の爪痕があった。
薄赤い痕を見据えながら、我ながら、と言って苦く笑う宍戸に、鳳が眼差しだけで先を促してくる。
我ながら何ですか?と訴えてくる。
そんな鳳の視線に宍戸は溜息交じりに応えて枕に片頬を埋めた。
「独占欲、誇示してんな…」
「そうですか?」
俺はもっと欲しい。
鳳は迷わず丁寧にそう囁いてきた。
「宍戸さんからの独占欲なら、もっともっと欲しいです」
「キャパ広いな…お前」
「すみません。貪欲で」
目を瞠った宍戸に対して穏やかに微笑む鳳の表情は最近ひどく大人びてきた。
人懐っこい印象をそのまま保っている事が不思議なくらい、鳳は確かに貪欲な目を宍戸にまっすぐに向けてくる事がある。
「お前の貪欲な所なら俺はもっと欲しい」
「……………」
「もっと…あるんなら、寄こせ」
全部。
「宍戸さん」
聞き分けの良い、優しい男だからこそ、めちゃくちゃに欲しがられたい。
他の誰にも向けない情熱で、他の誰にも望まない願望で。
もっと、とそれを強く望んでいるのは自分の方だと宍戸は判っている。
「……宍戸さんこそキャパ広すぎですよ」
鳳が身体を返してきた。
宍戸に覆い被さるようにして乗りあがってきて、口付けてくる。
「………、…ん」
渇いた宍戸の口腔に濡れた鳳の舌が忍んでくる。
もう水なんかいらないからと伝えるように、宍戸は自らも鳳の舌を口腔に含む。
濡れてしなやかな熱と弾力を持つ器官を宍戸が貪ると、鳳の両手が宍戸の首筋や頬や頭部を抱え込んで、鳳の方からも濃厚なやり方で与えられてきた。
「…っ…ん…、ぅ…っ…、ん」
「…………宍戸さん…」
「…、……っは……、ぁ…」
すきまなく塞がれた唇の端から伝い漏れていく唾液の感触に、どれだけのキスをされているのかと思う。
でももっとなんだと、宍戸は自分の舌で鳳の舌に絡みにいく。
挑んだ以上の激しさに巻き込まれて、痛いくらいに奪われて、荒いキスに安堵する。
「長…太郎………」
「……なんて声で呼ぶんですか……」
「……、長太郎…」
僅かに離れた唇と唇の隙間。
宍戸がちいさく舌をのぞかせて鳳の唇の表面をそっと舐めると、先程よりも更に激しいキスで唇を奪われた。
「ん……、…く………」
「……………」
「……ぅ……、…っ…」
粘膜を擦り合わせて、混ぜ合わせて、濡れて、沈んで、絡んで零れる。
「は、……キス…だけでいきそう……」
「……、ン…、…」
熱い息と共に洩らされた鳳の言葉に宍戸は小さく強く立て続けに震えて同じ事を思った。
「……宍戸さんも…?」
咄嗟にまた両手できつく、宍戸は鳳の肩や背中に取り縋る。
「ん、…っ……」
「宍戸さんも…一緒に…いく…?」
「……、……ぁ…」
優しい、いやらしい、どうしようもなく絶妙な案配で荒れる鳳の声に。
本当に、疲労困憊しきった身体がキスでまた絶頂していこうとするのを生々しく宍戸は感じ取っていた。
「宍戸さん……」
「………っふ…、ぁ……」
「………………」
「ぅ…、……ン…、っ」
唇と唇を擦り合わせるように角度が変えられる。
舌と舌が甘くもつれる。
自分の吐息が相手の口で溶け、相手の吐息が自分の口で溶けた。
口腔を舌で撫でられる。
濡れ出してきたものを嚥下する。
粘膜が痺れた。
唇が戦慄いた。
「長…、…太郎……」
「……そんなに可愛い声で呼ばないで…」
苦しがるような声すら注がれる甘さでしかなく、濡れそぼった唇で宍戸は解けているキスを再び結び直した。
「ん……っ……ン…、…ぅ…ん…」
「……、……ふ……」
くぐもった声が互いの口の中で一つになる。
舌の先を音をたてて吸われて、宍戸は鳳の背に指先を強く沈ませながら、数回身体を跳ね上げさせた。
鳳の唇は強く宍戸の唇を塞いだままで、そのキスの深さに鳳も宍戸と同じ感覚を味わっている事が知れた。
「…、…ぅ…、…ぁ…」
「……………」
きつく重なっていた唇が離れていく。
お互いの唇と唇とを濡れたものが繋いでいく。
濡れきった唇はそれこそお互い様だ。
荒い息が堰をきったようにもれてくる。
「宍戸さん…、……」
「…………、……ん…」
身体を繋げて、熱を、全部吐き出した後のように。
鳳が宍戸の肩口に顔を伏せてくる。
今度は宍戸の指が鳳の髪に埋められる。
「…長太郎…、…」
「………キスで…」
「……っ…、……」
キスだけで、いかせるんだから、と鳳は笑った。
でもそんな事は宍戸だってそうだ。
どこか甘く責める様に言われたところでどれこそ同じだ。
参った、そう思って。
二人で笑ってしまった。
とろけるように。
飽きる様子もなく宍戸の髪をすいている。
頭を撫でる。
会話はない。
でも接触が優しく甘い分、沈黙は穏やかだった。
「……宍戸さん。喉は?」
「、ん」
それが最初の言葉。
鳳はひどく優しい声で宍戸にそう問いかけた。
まだだるい身体は確かに喉の渇きを訴えていて、宍戸が小さく応えると。
鳳は宍戸の後頭部を撫でながら更に耳元に囁いてきた。
「少し待ってて下さいね」
「……………」
飲み物なにか持って来ますからと鳳がベッドから床に足を下ろす。
そのまま屈んで、おそらく床に投げ置いたシャツを手に取っている鳳の背中に宍戸は目線をやって、そして呟いた。
「悪ぃ」
「……何がですか?」
「それ、俺だ」
背中、と言って。
宍戸は寝そべったままけだるく腕を伸ばした。
宍戸の手のひらが宛がわれた箇所を鳳が肩越しに見つめてくる。
「ああ……」
「……………」
強く重く速いサーブを繰り出す鳳の腕は鍛え上げられていて、腕の付け根から続く固い三角筋の上に宍戸の爪痕があった。
薄赤い痕を見据えながら、我ながら、と言って苦く笑う宍戸に、鳳が眼差しだけで先を促してくる。
我ながら何ですか?と訴えてくる。
そんな鳳の視線に宍戸は溜息交じりに応えて枕に片頬を埋めた。
「独占欲、誇示してんな…」
「そうですか?」
俺はもっと欲しい。
鳳は迷わず丁寧にそう囁いてきた。
「宍戸さんからの独占欲なら、もっともっと欲しいです」
「キャパ広いな…お前」
「すみません。貪欲で」
目を瞠った宍戸に対して穏やかに微笑む鳳の表情は最近ひどく大人びてきた。
人懐っこい印象をそのまま保っている事が不思議なくらい、鳳は確かに貪欲な目を宍戸にまっすぐに向けてくる事がある。
「お前の貪欲な所なら俺はもっと欲しい」
「……………」
「もっと…あるんなら、寄こせ」
全部。
「宍戸さん」
聞き分けの良い、優しい男だからこそ、めちゃくちゃに欲しがられたい。
他の誰にも向けない情熱で、他の誰にも望まない願望で。
もっと、とそれを強く望んでいるのは自分の方だと宍戸は判っている。
「……宍戸さんこそキャパ広すぎですよ」
鳳が身体を返してきた。
宍戸に覆い被さるようにして乗りあがってきて、口付けてくる。
「………、…ん」
渇いた宍戸の口腔に濡れた鳳の舌が忍んでくる。
もう水なんかいらないからと伝えるように、宍戸は自らも鳳の舌を口腔に含む。
濡れてしなやかな熱と弾力を持つ器官を宍戸が貪ると、鳳の両手が宍戸の首筋や頬や頭部を抱え込んで、鳳の方からも濃厚なやり方で与えられてきた。
「…っ…ん…、ぅ…っ…、ん」
「…………宍戸さん…」
「…、……っは……、ぁ…」
すきまなく塞がれた唇の端から伝い漏れていく唾液の感触に、どれだけのキスをされているのかと思う。
でももっとなんだと、宍戸は自分の舌で鳳の舌に絡みにいく。
挑んだ以上の激しさに巻き込まれて、痛いくらいに奪われて、荒いキスに安堵する。
「長…太郎………」
「……なんて声で呼ぶんですか……」
「……、長太郎…」
僅かに離れた唇と唇の隙間。
宍戸がちいさく舌をのぞかせて鳳の唇の表面をそっと舐めると、先程よりも更に激しいキスで唇を奪われた。
「ん……、…く………」
「……………」
「……ぅ……、…っ…」
粘膜を擦り合わせて、混ぜ合わせて、濡れて、沈んで、絡んで零れる。
「は、……キス…だけでいきそう……」
「……、ン…、…」
熱い息と共に洩らされた鳳の言葉に宍戸は小さく強く立て続けに震えて同じ事を思った。
「……宍戸さんも…?」
咄嗟にまた両手できつく、宍戸は鳳の肩や背中に取り縋る。
「ん、…っ……」
「宍戸さんも…一緒に…いく…?」
「……、……ぁ…」
優しい、いやらしい、どうしようもなく絶妙な案配で荒れる鳳の声に。
本当に、疲労困憊しきった身体がキスでまた絶頂していこうとするのを生々しく宍戸は感じ取っていた。
「宍戸さん……」
「………っふ…、ぁ……」
「………………」
「ぅ…、……ン…、っ」
唇と唇を擦り合わせるように角度が変えられる。
舌と舌が甘くもつれる。
自分の吐息が相手の口で溶け、相手の吐息が自分の口で溶けた。
口腔を舌で撫でられる。
濡れ出してきたものを嚥下する。
粘膜が痺れた。
唇が戦慄いた。
「長…、…太郎……」
「……そんなに可愛い声で呼ばないで…」
苦しがるような声すら注がれる甘さでしかなく、濡れそぼった唇で宍戸は解けているキスを再び結び直した。
「ん……っ……ン…、…ぅ…ん…」
「……、……ふ……」
くぐもった声が互いの口の中で一つになる。
舌の先を音をたてて吸われて、宍戸は鳳の背に指先を強く沈ませながら、数回身体を跳ね上げさせた。
鳳の唇は強く宍戸の唇を塞いだままで、そのキスの深さに鳳も宍戸と同じ感覚を味わっている事が知れた。
「…、…ぅ…、…ぁ…」
「……………」
きつく重なっていた唇が離れていく。
お互いの唇と唇とを濡れたものが繋いでいく。
濡れきった唇はそれこそお互い様だ。
荒い息が堰をきったようにもれてくる。
「宍戸さん…、……」
「…………、……ん…」
身体を繋げて、熱を、全部吐き出した後のように。
鳳が宍戸の肩口に顔を伏せてくる。
今度は宍戸の指が鳳の髪に埋められる。
「…長太郎…、…」
「………キスで…」
「……っ…、……」
キスだけで、いかせるんだから、と鳳は笑った。
でもそんな事は宍戸だってそうだ。
どこか甘く責める様に言われたところでどれこそ同じだ。
参った、そう思って。
二人で笑ってしまった。
とろけるように。
着替えを済ませた乾が財布を取り出した。
その中にたたんで入れてあったメモを見ている。
確認し、再びしまう。 そして乾はくるりと振り返って海堂を見た。
「……………」
汁か。
汁なのか。
「海堂。スーパーで買物つきあわない?」
「……………」
やはり汁なんだな。
海堂は自問自答を繰り返し、結論づけ、そして長い長い溜息をついた。
部室の中では、声にならない声で阿鼻叫喚、顔を歪めたテニス部の面々が、海堂へと目線だけのエールを送ってくる。
見張ってて…!
確認してこい…!
ものによっては避けてきて…!
「……………」
そんな眼差しはエールというよりもはや懇願だ。
「海堂?」
「……もう行けますけど…」
「そうか。じゃあな、みんな。行こう海堂」
「………っす」
乾は時々海堂を連れて野菜汁の材料の調達をする。
それは彼らが部活後に共に自主トレをしている流れでもあるのだが、秘密主義者の乾にしては珍しい行動だった。
汁に関して戦々恐々している青学テニス部の面々は、とにかく様子を探ってこいとばかりに海堂を暗黙の懇願で見送るのが常だ。
海堂も正直あの汁は不得手だ。
しかし時々こうして一緒に買出しにつきあってみると、確かに身体にいいものを乾が厳選している事だけは確かなのだと気づいた。
嫌がらせと思われるのは心外だなあと苦笑する乾に、つい、そういう訳ではないのだと生真面目に応えるあたりが海堂の海堂たる所以だ。
「五月が来るまでは、顎の下までボタンを掛けよ。六月が来るまでは、ぼろでも脱ぐな。………そういうことわざが外国にはあってね」
「はあ……」
「つまり今時分の天候の変化には気をつけないと身体を悪くするよっていう戒めなんだが」
制服姿の中学生男子が二人、一見不似合いと思しき場所スーパーの野菜売り場に居ながらも、乾は慣れた様子で買い物カゴに野菜を入れていく。
「健康の為にね、五月の薬草でサラダを作って食べるのがいいらしいよ」
乾は饒舌だが、うるさい感じが全くしないのはその声質のせいだろうと海堂は思っている。
乾の声は、低くて、なめらかだ。
気を許している相手には語尾が少しゆるくなる。
そういう乾の声を、海堂はよく耳にした。
「ホウレンソウ、レタス、セージ。それを酢とオイルと砂糖を少々で和えて、ゆで卵とエディブルフラワーで飾る」
「エディブルフラワー…?」
「食用の花だね」
ほらこれ、と乾がパックを手に取る。
小ぶりの花が詰まったパックも買物カゴに入れられた。
「……サラダがいいなら、そのまま食いましょうや…」
「液体は体内吸収率がいいんだぞ」
その乾の返答に、今更ながら。
やっぱりこれら全部汁にする気なんだなと、海堂は鬱々と買物カゴの中に目線をやった。
「物を噛むって事も大事っすよ」
「ん?……んー……」
生返事で微苦笑しながら乾は肩越しに海堂を見つめてきた。
「サラダにしたら、海堂はこの後うちに寄ってくれるのかな」
「………別に汁だって寄りますよ」
思わず、ぽつりとそう洩らしてしまった海堂は、乾がひどく嬉しげに目を細めてくるのに慌てた。
「見張りでって意味です!」
「……えー……見張りかぁ…」
微かに甘えの滲む、こんな時の乾の口調に、海堂は滅法弱かった。
知ってて乾がやっているのなら、絶対に流されてなんかやらない。
しかし乾は自覚もしていないらしく、極たまに海堂といる時にだけ、こういう声や眼差しを見せてくるからたちが悪い。
肩とか落とすなと怒鳴りたくなる。
それをぐっと堪えて、海堂は乾の背後で、その背中から視線を逃しながら言った。
「………これ、サラダにするなら」
「海堂」
乾も前方を向いたまま。
「そんな簡単に自分の身体を売るようなこと言っちゃ駄目だよ。海堂」
「な、……っ……気色悪いこと言うな…ッ」
さすがに怒鳴った。
顔が赤いことを自覚しながらの海堂の一喝に、あながち的外れな事も言ってないだろう?と乾が微かに笑んで海堂を流し見てきた。
「そんなにヤバイか? 野菜汁って?」
「………っ…たり前…、…」
「どれも身体にいいものなんだぞ」
「それは判ってます……!」
乾が当てずっぽうに野菜を選んでいるのではないことくらい海堂も知っている。
でもせめてあと少し。
もう少し、どうにか出来ないのだろうか。
味を。
「作りたては結構普通の味なんだけど」
乾が真顔で言い出して、海堂もふと真面目に返した。
「……そうなん…ですか?」
「ああ。家で作って学校に持っていくから味が変わるのかもなあ…」
「……………」
「作りたて、試してみない?」
最後に添えられた微笑に、誘うのはそれだけが理由ではないのだけれどという乾の意味合いを感じて海堂は溜息をつく。
「だから……別に俺はどっちだって行くっつってんじゃないですか……」
とにかく絶対連れ帰りたい。
とにかく絶対帰したくない。
そんな風に念を押さなくたって、自分は。
「……………」
そう思い、応えた海堂の返答に。
乾が大人びた面立ち満面に安堵の笑みを浮かべるから。
スーパーの野菜売り場で甘ったるい気分になってしまう。
それこそ、そんなこと。
野菜汁の味より普通有り得ないだろうと、歯噛みしてみるものの、致し方ない。
どうしようもない。
その中にたたんで入れてあったメモを見ている。
確認し、再びしまう。 そして乾はくるりと振り返って海堂を見た。
「……………」
汁か。
汁なのか。
「海堂。スーパーで買物つきあわない?」
「……………」
やはり汁なんだな。
海堂は自問自答を繰り返し、結論づけ、そして長い長い溜息をついた。
部室の中では、声にならない声で阿鼻叫喚、顔を歪めたテニス部の面々が、海堂へと目線だけのエールを送ってくる。
見張ってて…!
確認してこい…!
ものによっては避けてきて…!
「……………」
そんな眼差しはエールというよりもはや懇願だ。
「海堂?」
「……もう行けますけど…」
「そうか。じゃあな、みんな。行こう海堂」
「………っす」
乾は時々海堂を連れて野菜汁の材料の調達をする。
それは彼らが部活後に共に自主トレをしている流れでもあるのだが、秘密主義者の乾にしては珍しい行動だった。
汁に関して戦々恐々している青学テニス部の面々は、とにかく様子を探ってこいとばかりに海堂を暗黙の懇願で見送るのが常だ。
海堂も正直あの汁は不得手だ。
しかし時々こうして一緒に買出しにつきあってみると、確かに身体にいいものを乾が厳選している事だけは確かなのだと気づいた。
嫌がらせと思われるのは心外だなあと苦笑する乾に、つい、そういう訳ではないのだと生真面目に応えるあたりが海堂の海堂たる所以だ。
「五月が来るまでは、顎の下までボタンを掛けよ。六月が来るまでは、ぼろでも脱ぐな。………そういうことわざが外国にはあってね」
「はあ……」
「つまり今時分の天候の変化には気をつけないと身体を悪くするよっていう戒めなんだが」
制服姿の中学生男子が二人、一見不似合いと思しき場所スーパーの野菜売り場に居ながらも、乾は慣れた様子で買い物カゴに野菜を入れていく。
「健康の為にね、五月の薬草でサラダを作って食べるのがいいらしいよ」
乾は饒舌だが、うるさい感じが全くしないのはその声質のせいだろうと海堂は思っている。
乾の声は、低くて、なめらかだ。
気を許している相手には語尾が少しゆるくなる。
そういう乾の声を、海堂はよく耳にした。
「ホウレンソウ、レタス、セージ。それを酢とオイルと砂糖を少々で和えて、ゆで卵とエディブルフラワーで飾る」
「エディブルフラワー…?」
「食用の花だね」
ほらこれ、と乾がパックを手に取る。
小ぶりの花が詰まったパックも買物カゴに入れられた。
「……サラダがいいなら、そのまま食いましょうや…」
「液体は体内吸収率がいいんだぞ」
その乾の返答に、今更ながら。
やっぱりこれら全部汁にする気なんだなと、海堂は鬱々と買物カゴの中に目線をやった。
「物を噛むって事も大事っすよ」
「ん?……んー……」
生返事で微苦笑しながら乾は肩越しに海堂を見つめてきた。
「サラダにしたら、海堂はこの後うちに寄ってくれるのかな」
「………別に汁だって寄りますよ」
思わず、ぽつりとそう洩らしてしまった海堂は、乾がひどく嬉しげに目を細めてくるのに慌てた。
「見張りでって意味です!」
「……えー……見張りかぁ…」
微かに甘えの滲む、こんな時の乾の口調に、海堂は滅法弱かった。
知ってて乾がやっているのなら、絶対に流されてなんかやらない。
しかし乾は自覚もしていないらしく、極たまに海堂といる時にだけ、こういう声や眼差しを見せてくるからたちが悪い。
肩とか落とすなと怒鳴りたくなる。
それをぐっと堪えて、海堂は乾の背後で、その背中から視線を逃しながら言った。
「………これ、サラダにするなら」
「海堂」
乾も前方を向いたまま。
「そんな簡単に自分の身体を売るようなこと言っちゃ駄目だよ。海堂」
「な、……っ……気色悪いこと言うな…ッ」
さすがに怒鳴った。
顔が赤いことを自覚しながらの海堂の一喝に、あながち的外れな事も言ってないだろう?と乾が微かに笑んで海堂を流し見てきた。
「そんなにヤバイか? 野菜汁って?」
「………っ…たり前…、…」
「どれも身体にいいものなんだぞ」
「それは判ってます……!」
乾が当てずっぽうに野菜を選んでいるのではないことくらい海堂も知っている。
でもせめてあと少し。
もう少し、どうにか出来ないのだろうか。
味を。
「作りたては結構普通の味なんだけど」
乾が真顔で言い出して、海堂もふと真面目に返した。
「……そうなん…ですか?」
「ああ。家で作って学校に持っていくから味が変わるのかもなあ…」
「……………」
「作りたて、試してみない?」
最後に添えられた微笑に、誘うのはそれだけが理由ではないのだけれどという乾の意味合いを感じて海堂は溜息をつく。
「だから……別に俺はどっちだって行くっつってんじゃないですか……」
とにかく絶対連れ帰りたい。
とにかく絶対帰したくない。
そんな風に念を押さなくたって、自分は。
「……………」
そう思い、応えた海堂の返答に。
乾が大人びた面立ち満面に安堵の笑みを浮かべるから。
スーパーの野菜売り場で甘ったるい気分になってしまう。
それこそ、そんなこと。
野菜汁の味より普通有り得ないだろうと、歯噛みしてみるものの、致し方ない。
どうしようもない。
圧迫感をはらんだまま、蠕動し出しているのは観月だ。
赤澤に食い入るように見据えられながら、涙と、あえかな呼気と、震えや熱を帯びた小さな声を洩らす。
手のひらと手のひらを一部の隙間もなく重ねた上で絡めとられた指で、赤澤の手の甲に縋り、爪を立てる。
強張る身体は尚募る緊張と唐突な弛緩とを繰り返した。
「赤澤……、……」
「………大丈夫だ。待ってる」
欲望に切羽詰ったような息を洩らしているのに、赤澤の唇はそっと観月の目元の端に落ちてきた。
「観月」
好きだと呟くように言って、淡く微笑むから。
繋ぎとめられていない方の手を観月は必死で伸ばした。
汗の落ちる赤澤のこめかみに。
指先は、観月自身が呆れる程に震えていた。
熱い汗がその指の先に触れて、観月はまた少し泣いた。
「観月?」
触れ合わせている肌も、息も、汗も、全てが熱い。
観月を圧し拓いて、観月を抱き締めて、観月だけを見ている赤澤に。
もう、何なんだこの男はと観月は胸が押し潰されそうになる。
力づくなのに優しい。
余裕があるようで切羽詰っていた。
甘ったるくて焦れてもいる。
観月だけを見つめている。
観月だけしか見ていない。
そんな事あっていい筈ない。
「……赤澤…」
「何だ?……」
赤澤の両手に頬を包れ、骨ばった指の先に眦を拭われる。
慰めるような、いたわるような仕草に。
凪ぐ気持ちと焦れる気持ちが沸き起こる。
「………なにを……言わせたいんですか…あなたは…」
責めるように言った言葉は泣き濡れて弱々しくなってしまった。
顔を背けようとすれば、自然と赤澤の手のひらに自分の方から頬を寄せる仕草になってしまって、観月はますます追い詰められる。
「……観月…」
しかし濡れた頬にやわらかいキスが押し当てられて、身体の奥が慎重に揺すられれば、観月は赤澤の背に取り縋るように腕を伸ばした。
「………、…っ……」
観月の唇が触れた赤澤の肩は、熱くて、なめらかに硬かった。
日に焼けた太陽の匂いがする。
「ん、…っ…、……」
「……殴れよ…?」
「な…に…、……?…」
「嫌だったり、痛かったりしたらちゃんと」
「………………」
「言葉に出すのが嫌でも、殴って止めるくらいはしてくれ」
「……れるわけ、ないでしょう……!」
そんな事を真顔で危惧する男の事が、いったいどれだけ好きでいると思っているのか。
両腕でかき抱くように抱き締めている赤澤にこそ、欲しいなら欲しいでちゃんと、言葉で言うなり態度に出すなりして欲しがれと願う。
「僕にそんな真似……させる気でいるんですか」
「……泣くなって」
「誰が、泣かせて…、…」
「俺だ。………俺だよ。判ってる。何をどうやっても泣かせちまうんだ。お前の事」
「赤澤…」
「お前が可哀相で、可愛くて、自分で自分がどうしようもないって思うけどな……」
どこか仄かに自嘲を残したまま、好きだ、と掠れる声で繰り返され、幾度も幾度も請われるように囁かれて、観月の中で感情が揺れる。
気持ちの揺らぎは招待の判らないうねりを呼んで、体内に含まされている赤澤に観月の方から関わっていくような動きを呼んだ。
「……っ…ぅ…」
「…、…バカ……お前…」
息を詰めた赤澤に、珍しくなじるような言い方をされても観月は何も苛立たない。
羞恥ついでにまた少し泣いて、焦った声を出す赤澤の、欲に濡れていく表情をじっと見上げた。
「おい」
「………っぁ…」
「観月…?……おい、大丈夫か」
「も、…しつこい…っ…」
「しつこいってお前……泣くなよ」
「……いい加減慣れろ…っ……」
「慣れねえよ。何回見たって可哀相だわ可愛いわ…お前は何なんだよ、ほんと」
八つ当たりじみた言葉が耳に甘い。
広い背中に腕を回せば赤澤が上体を屈めてきた。
すでに体内に深くのんでいる熱量が、その動きに伴って、観月の内部で伸び上がってくるような触感で観月の神経を焦がす。
「ふ……ぁ…っ……」
「……、……どうなってんだよ…マジで…」
くそ、と耳元で毒づかれても嬉しくて。
観月は上擦った涙声で赤澤の名を繰り返し呼んだ。
拓かれた箇所から絶え間なく送り込まれてくる刺激は、赤澤が動き出す前から観月が感じていたもので。
「ん…っ…、ん、っ…ぁ…、」
それが実際にゆっくりではあるが揺さぶられ出してしまうといよいよ誤魔化しきれなくなった。
観月の濡れた声を探るようにしながら、赤澤は身体を進めてくる。
退いては、また、奥深くに忍んでくる。
食い返し、繰り返し、そしてとうとう、こんな中まで。
入ってきた。
「………っ、ひ…」
「観月」
「…、く…ぅ………」
熱い息と共に首筋を甘く食まれて。
とける、と苦しがるような、それでいて低い、甘い、囁く声に観月の方こそそうなった。
気持ちが溢れて涙になる。
声になる。
観月が嗚咽交じりに赤澤の名を呼べば、そんな自分に執着した優しい手で頭を撫でられて、キスを重ねられ、身体を揺さぶられたからおかしくならない筈がない。
シーツをかきむしろうとした手を再び奪われ、強く指を絡めとられた。
密着した手のひらの熱さに浮かされる。
組み合わせた指と指で、互いへと縋りつく。
「観月」
浅いキスが、唇に触れる。
幾度も。
荒いでいる呼気とは裏腹に、赤澤の所作は丁寧で優しかった。
執着のように繰り返されるキスに観月の啜り泣きはますます止まらなくなってしまう。
身体の中に、恐らくはひどい我慢を強いられている熱がある。
切ないくらいに優しいキスの感触と、同じ人間のものとは思えない猛々しい気配がする。
なんてばかなんだと、観月は眦から涙を零しながら、両膝で赤澤の腰を挟みつけ観月の方からキスを返した。
「み、……」
息をのんだ赤澤の唇を舌先でそっと舐める。
両足を、その腰にいっそ絡みつかせてしまおうかと、泣き濡れた目で赤澤を強く見据える。
「……っ…ァ、…ぁ…、っ…ァ」
「………、……悪い……」
「ん…、っ…ぅ……く…、…ぅ」
「マジで……やばい…、…」
赤澤の長い髪が観月の首筋を擽って、ものすごい力で抱きすくめられながら、赤澤が送り込んでくる律動の激しさに観月はしゃくりあげて泣いた。
両手で、きつく、赤澤の背を抱き込みながら。
怖いくらいに荒い腰の動きに観月の身体はシーツの上をずれていき、その度に赤澤の強い腕で引き戻された。
「…ひ……、…っ…ぁ、っ」
「観月」
「ン……、…ぁ…、…っ…ァ」
噛み付くように口付けられ、赤澤の動きが更に加速して、それはいっそ暴挙と言っていいのかもしれなかった。
けれど観月が今ここで泣くのは、それが、少しも嫌でないからだ。
手加減も何も出来なくて、それを苦しがりながらも、自分の中で快感を貪っている赤澤が、観月に堪らない安堵感と陶酔感を植えつけてくる。
我を忘れるくらい、欲しがればいい。
優しい、優しい、男だから。
勝手なようで、無茶なようで、しかし何があっても観月を絶対に大切にしている男だから。
「……好き、だ」
「………ッ……ぅ」
「好きだ。観月」
低い声で、熱に浮かされているような、しかし真摯で切羽詰った声音で、赤澤は観月にそう繰り返した。
「好きだ……」
「…、……ぅ………ぁ」
「観月」
赤澤は声でも観月をおかしくする。
言葉で観月の頭の中まで愛撫してくる。
赤澤に食い入るように見据えられながら、涙と、あえかな呼気と、震えや熱を帯びた小さな声を洩らす。
手のひらと手のひらを一部の隙間もなく重ねた上で絡めとられた指で、赤澤の手の甲に縋り、爪を立てる。
強張る身体は尚募る緊張と唐突な弛緩とを繰り返した。
「赤澤……、……」
「………大丈夫だ。待ってる」
欲望に切羽詰ったような息を洩らしているのに、赤澤の唇はそっと観月の目元の端に落ちてきた。
「観月」
好きだと呟くように言って、淡く微笑むから。
繋ぎとめられていない方の手を観月は必死で伸ばした。
汗の落ちる赤澤のこめかみに。
指先は、観月自身が呆れる程に震えていた。
熱い汗がその指の先に触れて、観月はまた少し泣いた。
「観月?」
触れ合わせている肌も、息も、汗も、全てが熱い。
観月を圧し拓いて、観月を抱き締めて、観月だけを見ている赤澤に。
もう、何なんだこの男はと観月は胸が押し潰されそうになる。
力づくなのに優しい。
余裕があるようで切羽詰っていた。
甘ったるくて焦れてもいる。
観月だけを見つめている。
観月だけしか見ていない。
そんな事あっていい筈ない。
「……赤澤…」
「何だ?……」
赤澤の両手に頬を包れ、骨ばった指の先に眦を拭われる。
慰めるような、いたわるような仕草に。
凪ぐ気持ちと焦れる気持ちが沸き起こる。
「………なにを……言わせたいんですか…あなたは…」
責めるように言った言葉は泣き濡れて弱々しくなってしまった。
顔を背けようとすれば、自然と赤澤の手のひらに自分の方から頬を寄せる仕草になってしまって、観月はますます追い詰められる。
「……観月…」
しかし濡れた頬にやわらかいキスが押し当てられて、身体の奥が慎重に揺すられれば、観月は赤澤の背に取り縋るように腕を伸ばした。
「………、…っ……」
観月の唇が触れた赤澤の肩は、熱くて、なめらかに硬かった。
日に焼けた太陽の匂いがする。
「ん、…っ…、……」
「……殴れよ…?」
「な…に…、……?…」
「嫌だったり、痛かったりしたらちゃんと」
「………………」
「言葉に出すのが嫌でも、殴って止めるくらいはしてくれ」
「……れるわけ、ないでしょう……!」
そんな事を真顔で危惧する男の事が、いったいどれだけ好きでいると思っているのか。
両腕でかき抱くように抱き締めている赤澤にこそ、欲しいなら欲しいでちゃんと、言葉で言うなり態度に出すなりして欲しがれと願う。
「僕にそんな真似……させる気でいるんですか」
「……泣くなって」
「誰が、泣かせて…、…」
「俺だ。………俺だよ。判ってる。何をどうやっても泣かせちまうんだ。お前の事」
「赤澤…」
「お前が可哀相で、可愛くて、自分で自分がどうしようもないって思うけどな……」
どこか仄かに自嘲を残したまま、好きだ、と掠れる声で繰り返され、幾度も幾度も請われるように囁かれて、観月の中で感情が揺れる。
気持ちの揺らぎは招待の判らないうねりを呼んで、体内に含まされている赤澤に観月の方から関わっていくような動きを呼んだ。
「……っ…ぅ…」
「…、…バカ……お前…」
息を詰めた赤澤に、珍しくなじるような言い方をされても観月は何も苛立たない。
羞恥ついでにまた少し泣いて、焦った声を出す赤澤の、欲に濡れていく表情をじっと見上げた。
「おい」
「………っぁ…」
「観月…?……おい、大丈夫か」
「も、…しつこい…っ…」
「しつこいってお前……泣くなよ」
「……いい加減慣れろ…っ……」
「慣れねえよ。何回見たって可哀相だわ可愛いわ…お前は何なんだよ、ほんと」
八つ当たりじみた言葉が耳に甘い。
広い背中に腕を回せば赤澤が上体を屈めてきた。
すでに体内に深くのんでいる熱量が、その動きに伴って、観月の内部で伸び上がってくるような触感で観月の神経を焦がす。
「ふ……ぁ…っ……」
「……、……どうなってんだよ…マジで…」
くそ、と耳元で毒づかれても嬉しくて。
観月は上擦った涙声で赤澤の名を繰り返し呼んだ。
拓かれた箇所から絶え間なく送り込まれてくる刺激は、赤澤が動き出す前から観月が感じていたもので。
「ん…っ…、ん、っ…ぁ…、」
それが実際にゆっくりではあるが揺さぶられ出してしまうといよいよ誤魔化しきれなくなった。
観月の濡れた声を探るようにしながら、赤澤は身体を進めてくる。
退いては、また、奥深くに忍んでくる。
食い返し、繰り返し、そしてとうとう、こんな中まで。
入ってきた。
「………っ、ひ…」
「観月」
「…、く…ぅ………」
熱い息と共に首筋を甘く食まれて。
とける、と苦しがるような、それでいて低い、甘い、囁く声に観月の方こそそうなった。
気持ちが溢れて涙になる。
声になる。
観月が嗚咽交じりに赤澤の名を呼べば、そんな自分に執着した優しい手で頭を撫でられて、キスを重ねられ、身体を揺さぶられたからおかしくならない筈がない。
シーツをかきむしろうとした手を再び奪われ、強く指を絡めとられた。
密着した手のひらの熱さに浮かされる。
組み合わせた指と指で、互いへと縋りつく。
「観月」
浅いキスが、唇に触れる。
幾度も。
荒いでいる呼気とは裏腹に、赤澤の所作は丁寧で優しかった。
執着のように繰り返されるキスに観月の啜り泣きはますます止まらなくなってしまう。
身体の中に、恐らくはひどい我慢を強いられている熱がある。
切ないくらいに優しいキスの感触と、同じ人間のものとは思えない猛々しい気配がする。
なんてばかなんだと、観月は眦から涙を零しながら、両膝で赤澤の腰を挟みつけ観月の方からキスを返した。
「み、……」
息をのんだ赤澤の唇を舌先でそっと舐める。
両足を、その腰にいっそ絡みつかせてしまおうかと、泣き濡れた目で赤澤を強く見据える。
「……っ…ァ、…ぁ…、っ…ァ」
「………、……悪い……」
「ん…、っ…ぅ……く…、…ぅ」
「マジで……やばい…、…」
赤澤の長い髪が観月の首筋を擽って、ものすごい力で抱きすくめられながら、赤澤が送り込んでくる律動の激しさに観月はしゃくりあげて泣いた。
両手で、きつく、赤澤の背を抱き込みながら。
怖いくらいに荒い腰の動きに観月の身体はシーツの上をずれていき、その度に赤澤の強い腕で引き戻された。
「…ひ……、…っ…ぁ、っ」
「観月」
「ン……、…ぁ…、…っ…ァ」
噛み付くように口付けられ、赤澤の動きが更に加速して、それはいっそ暴挙と言っていいのかもしれなかった。
けれど観月が今ここで泣くのは、それが、少しも嫌でないからだ。
手加減も何も出来なくて、それを苦しがりながらも、自分の中で快感を貪っている赤澤が、観月に堪らない安堵感と陶酔感を植えつけてくる。
我を忘れるくらい、欲しがればいい。
優しい、優しい、男だから。
勝手なようで、無茶なようで、しかし何があっても観月を絶対に大切にしている男だから。
「……好き、だ」
「………ッ……ぅ」
「好きだ。観月」
低い声で、熱に浮かされているような、しかし真摯で切羽詰った声音で、赤澤は観月にそう繰り返した。
「好きだ……」
「…、……ぅ………ぁ」
「観月」
赤澤は声でも観月をおかしくする。
言葉で観月の頭の中まで愛撫してくる。
傷には慣れている。
過去には執拗ともいえる上級生達からの暴力もあったし、現在では少ない人数で次第にレベルアップしていく対戦相手に敵う為にはある程度の無茶も必要だったからだ。
自分の傷も、仲間の傷も、そうそういちいち戸惑う余裕も無い程には頻繁だった。
「………神尾」
「ん?」
しかし、今回一番珍しい人間が、一番らしくない気に仕方をした。
「なんだよ深司」
「その顔……」
「おう、石田との特訓!」
親指を立て笑顔で応えた神尾に、伊武が長い長い溜息を吐き出した。
「え、なんだよ?」
「………………」
「どうした深司?」
「………………」
神尾は急激に心配になった。
肩を落とした伊武なんて滅多に見ない。
ぼやかず沈黙する伊武もまたしかりだ。
「深司ー…?…どっか痛いのか? 大丈夫か?」
うろうろと伊武の表情を伺う神尾の顔には無数の傷がある。
引っかき傷程度ならばまだしも、縦横無尽な切り傷があちこちにある。
手足にも傷跡は多かったが、何分ここまで顔に傷がある様は一種異様だ。
お互いの怪我には見慣れている彼らであってもだ。
「あの人、何か言った?」
神尾の問いかけには何も答えず、伊武は小さな声でひとつだけ神尾に確認する。
「跡部?」
神尾は小首を傾けた。
伊武が言うあの人という言い回しは主に一人にだけ向けられる。
「今日会うけど?」
「……もしかしてその顔見せるの初めて?」
「そだな。最近忙しかったからなー」
特訓で!と再び明るい笑顔を浮かべた神尾に、伊武は堰を切ったかのように、一気にぼやきだした。
いつもの深司だーとより一層の笑みを浮かべる神尾にはいまひとつ伊武の危惧は伝わらなかった。
何せ神尾は思っていたからだ。
跡部のような顔ならばそれこそ一大事だろうが。
別に自分の顔に多少傷がつこうがたいした問題ではない。
神尾は気にしないし、跡部だって気にしない。
「………深司の顔でも一大事だなー…」
伊武のぼやきを聞き流しながら呟いた神尾の言葉に、ぴたりと伊武が口を噤んだ。
小綺麗に整った伊武の面立ちに、ぴしりと冷たい怒りが浮かぶ。
神尾は慌てた。
「あ、聞いてる、聞いてるぞ、深司」
「もういい」
「深司ってば…! 俺ちゃんと聞いてたって…!」
「神尾なんかあの人に怒鳴られて、きれられて、足蹴にされてしまえばいい」
呪詛のように言って踵を返した伊武を、神尾は慌てに慌てて追いかけていくのだった。
今朝方の伊武とのそんな会話を神尾は思い返していた。
跡部を見つめたまま。
跡部は押し黙っている。
放課後、神尾が跡部の家に行くと、迎えに出てきた玄関先で跡部は僅かに目を瞠り動かなくなってしまったのだ。
「……跡部。……おーい」
「………………」
少し目を細めるようにした跡部の表情から、あまり機嫌がよくない印象を受ける。
まさか伊武が言っていたように、自分の傷に関わる事でか?と神尾はこっそり自問した。
不思議がるだとか、笑うとか、呆れるとか。
そういうリアクションなら跡部であっても可能性もあるが、不機嫌になるとは全く意味が判らない。
神尾はおずおずと幾度目かになる呼びかけを口にした。
「跡部?……」
「………入れ」
低い声。
きれいなラインの顎で促される。
横柄な筈の態度が様になる。
そういうところはいつもの跡部なんだけどなあと神尾は内心でぼやきながら後に続いた。
部屋に辿りつくなり、立ったまま、跡部は神尾の顔を改めて強く見下ろしてきた。
そしてやはりあまり機嫌のよくなさそうな態度で、何だそれはと言った。
「何って。テニスしたんだよ」
「テニス?」
「………正確には練習」
ひやりと冷たい声で跡部が問い返してくるので、渋々神尾はもう少し詳しく言った。
全国大会前だ。
お互いに。
改めてこんな話をするのもどうもなあ、と神尾の歯切れは悪かった。
しかし跡部が無言のまま、何とも言えない表情で神尾を見据えるのにかちんときた。
挙句こんなことまで言われたから、神尾はきつく跡部を睨み据える事になる。
「何だってんだ。そのツラは」
「………………」
跡部は、気にしないと思ったのだ。
神尾の顔が傷だらけだろうが、そんな事別に。
それなのにうんざりと嘆息されて、神尾は嫌な気分になった。
跡部の舌打ちでいよいよ限界に達する。
「見苦しくて悪かったな…!」
「そんな事はどうでもいい」
きつい声での即答に、神尾の激情はますます強まった。
「そうだよ! どうせたいした顔じゃねえんだからどうでもいいんだよ!」
「言ってねえよ。バァカ」
「だったらそういう顔するなっ、馬鹿はお前だろっ」
一気に膨れた怒りは、怒鳴ってみても一向に萎まらない。
跡部は、気にしないと思ったのに。
顔なんか。
汚れたように傷がついても、構わないでいてくれるだろうと思っていたのに。
「傷だらけの汚い顔が嫌なら、ずっと目つぶってればいいだろ! それか、もうずーっと会わなけりゃいいじゃん…!」
「…言ってねえって言ってんだろうが」
神尾の怒りなど簡単に切り捨てるように、急激に跡部の眼差しが険しくなった。
一瞬神尾はそれに怯んでしまった。
本気で怒った時の跡部はさすがに怖い。
跡部が神尾の両手首を壁に押さえつける。
近づいてきた跡部の顔はやはり怒っていて、しかし、至近距離から見据えられて言われた言葉は辛辣なものとは違っていた。
「傷があろうがなかろうが、俺がいいと思ったものはいいんだよ」
「………………」
可愛いまんまじゃねえのと皮肉気に囁かれて、神尾は息を詰まらせた。
耳元での跡部の囁きは、神尾の全身に急激にまわっていく。
可愛いとか。
普段言わないだろうがと視線に込めて睨んでやれば、どこまでも聡い男は低く笑って返してくる。
「言わねえだけだ」
「……、……っ……そんだけ嫌そうな顔しておいて……!」
「傷跡なんざマジでどうでもいいんだよ。お前に、この傷がついた時の事が嫌だって言ってんだ」
「………跡部……?…」
跡部の唇が神尾の頬に寄せられる。
正確には右頬の一際目立つ二本の切り傷の上にだ。
「痛い思いしたんだろ」
「別に……たいしたこと…、…」
跡部の舌先が神尾の傷の上をそっと撫でる。
神尾はびくりと肩を竦ませた。
「………………」
「……、……跡部…」
首筋にもぐりこむようにキスが埋められる。
そういえば打ち身の変色した痕がそこにはある筈で。
跡部の手が神尾の手首から外されて、まさぐるように神尾の四肢を這い回っていく。
衣服を剥がれていく。
「跡部、……」
「見せねえ気じゃねえだろうな?」
「………え…?」
壁を背中でずるずると滑り落ちていって、床に座り込んだ時にはもう、神尾の状態は散々だった。
いつの間にこんなと唖然となるほど、粗方の衣類は中途半端に剥ぎ取られている。
跡部は神尾の身体にある傷ぜんぶに固執して、眼差しと手と唇とを宛がってきた。
「……ャ……、……そん……」
傷なんかない、ところまでも。
それらはやってきて。
神尾は鳴き声混じりに跡部に両腕を伸ばした。
「ふ……、…ぁ…」
「神尾」
「…………っ……ぁ…」
身体をきつく抱き返されて、唇をつよくむさぼられる。
「……っ、ん」
いっそ生々しい傷跡の有無などは、どうでもいいと切り捨てられるのに。
その傷がついた瞬間のことについては、その全ての瞬間において懸念する男は。
時に、こんな傷など比ではない熱さと鋭さで神尾に存在する。
これまで何度も、そして今も、これからも。
「……、跡部……」
「……黙ってろ。下手に煽るな」
相変わらずの薄い笑みを浮かべている跡部に、神尾は結果的には逆らったらしかった。
跡部の首に腕を回して、キスを返した。
「………ッ…」
舌打ち。
強い力での抱擁。
その嵐のような勢いにまかれながら、熱さに傷痕が溶けていくような錯覚を神尾は覚えた。
実際は。
その後、神尾の身体にはより多くの痕が残ることになったにも関わらず。
過去には執拗ともいえる上級生達からの暴力もあったし、現在では少ない人数で次第にレベルアップしていく対戦相手に敵う為にはある程度の無茶も必要だったからだ。
自分の傷も、仲間の傷も、そうそういちいち戸惑う余裕も無い程には頻繁だった。
「………神尾」
「ん?」
しかし、今回一番珍しい人間が、一番らしくない気に仕方をした。
「なんだよ深司」
「その顔……」
「おう、石田との特訓!」
親指を立て笑顔で応えた神尾に、伊武が長い長い溜息を吐き出した。
「え、なんだよ?」
「………………」
「どうした深司?」
「………………」
神尾は急激に心配になった。
肩を落とした伊武なんて滅多に見ない。
ぼやかず沈黙する伊武もまたしかりだ。
「深司ー…?…どっか痛いのか? 大丈夫か?」
うろうろと伊武の表情を伺う神尾の顔には無数の傷がある。
引っかき傷程度ならばまだしも、縦横無尽な切り傷があちこちにある。
手足にも傷跡は多かったが、何分ここまで顔に傷がある様は一種異様だ。
お互いの怪我には見慣れている彼らであってもだ。
「あの人、何か言った?」
神尾の問いかけには何も答えず、伊武は小さな声でひとつだけ神尾に確認する。
「跡部?」
神尾は小首を傾けた。
伊武が言うあの人という言い回しは主に一人にだけ向けられる。
「今日会うけど?」
「……もしかしてその顔見せるの初めて?」
「そだな。最近忙しかったからなー」
特訓で!と再び明るい笑顔を浮かべた神尾に、伊武は堰を切ったかのように、一気にぼやきだした。
いつもの深司だーとより一層の笑みを浮かべる神尾にはいまひとつ伊武の危惧は伝わらなかった。
何せ神尾は思っていたからだ。
跡部のような顔ならばそれこそ一大事だろうが。
別に自分の顔に多少傷がつこうがたいした問題ではない。
神尾は気にしないし、跡部だって気にしない。
「………深司の顔でも一大事だなー…」
伊武のぼやきを聞き流しながら呟いた神尾の言葉に、ぴたりと伊武が口を噤んだ。
小綺麗に整った伊武の面立ちに、ぴしりと冷たい怒りが浮かぶ。
神尾は慌てた。
「あ、聞いてる、聞いてるぞ、深司」
「もういい」
「深司ってば…! 俺ちゃんと聞いてたって…!」
「神尾なんかあの人に怒鳴られて、きれられて、足蹴にされてしまえばいい」
呪詛のように言って踵を返した伊武を、神尾は慌てに慌てて追いかけていくのだった。
今朝方の伊武とのそんな会話を神尾は思い返していた。
跡部を見つめたまま。
跡部は押し黙っている。
放課後、神尾が跡部の家に行くと、迎えに出てきた玄関先で跡部は僅かに目を瞠り動かなくなってしまったのだ。
「……跡部。……おーい」
「………………」
少し目を細めるようにした跡部の表情から、あまり機嫌がよくない印象を受ける。
まさか伊武が言っていたように、自分の傷に関わる事でか?と神尾はこっそり自問した。
不思議がるだとか、笑うとか、呆れるとか。
そういうリアクションなら跡部であっても可能性もあるが、不機嫌になるとは全く意味が判らない。
神尾はおずおずと幾度目かになる呼びかけを口にした。
「跡部?……」
「………入れ」
低い声。
きれいなラインの顎で促される。
横柄な筈の態度が様になる。
そういうところはいつもの跡部なんだけどなあと神尾は内心でぼやきながら後に続いた。
部屋に辿りつくなり、立ったまま、跡部は神尾の顔を改めて強く見下ろしてきた。
そしてやはりあまり機嫌のよくなさそうな態度で、何だそれはと言った。
「何って。テニスしたんだよ」
「テニス?」
「………正確には練習」
ひやりと冷たい声で跡部が問い返してくるので、渋々神尾はもう少し詳しく言った。
全国大会前だ。
お互いに。
改めてこんな話をするのもどうもなあ、と神尾の歯切れは悪かった。
しかし跡部が無言のまま、何とも言えない表情で神尾を見据えるのにかちんときた。
挙句こんなことまで言われたから、神尾はきつく跡部を睨み据える事になる。
「何だってんだ。そのツラは」
「………………」
跡部は、気にしないと思ったのだ。
神尾の顔が傷だらけだろうが、そんな事別に。
それなのにうんざりと嘆息されて、神尾は嫌な気分になった。
跡部の舌打ちでいよいよ限界に達する。
「見苦しくて悪かったな…!」
「そんな事はどうでもいい」
きつい声での即答に、神尾の激情はますます強まった。
「そうだよ! どうせたいした顔じゃねえんだからどうでもいいんだよ!」
「言ってねえよ。バァカ」
「だったらそういう顔するなっ、馬鹿はお前だろっ」
一気に膨れた怒りは、怒鳴ってみても一向に萎まらない。
跡部は、気にしないと思ったのに。
顔なんか。
汚れたように傷がついても、構わないでいてくれるだろうと思っていたのに。
「傷だらけの汚い顔が嫌なら、ずっと目つぶってればいいだろ! それか、もうずーっと会わなけりゃいいじゃん…!」
「…言ってねえって言ってんだろうが」
神尾の怒りなど簡単に切り捨てるように、急激に跡部の眼差しが険しくなった。
一瞬神尾はそれに怯んでしまった。
本気で怒った時の跡部はさすがに怖い。
跡部が神尾の両手首を壁に押さえつける。
近づいてきた跡部の顔はやはり怒っていて、しかし、至近距離から見据えられて言われた言葉は辛辣なものとは違っていた。
「傷があろうがなかろうが、俺がいいと思ったものはいいんだよ」
「………………」
可愛いまんまじゃねえのと皮肉気に囁かれて、神尾は息を詰まらせた。
耳元での跡部の囁きは、神尾の全身に急激にまわっていく。
可愛いとか。
普段言わないだろうがと視線に込めて睨んでやれば、どこまでも聡い男は低く笑って返してくる。
「言わねえだけだ」
「……、……っ……そんだけ嫌そうな顔しておいて……!」
「傷跡なんざマジでどうでもいいんだよ。お前に、この傷がついた時の事が嫌だって言ってんだ」
「………跡部……?…」
跡部の唇が神尾の頬に寄せられる。
正確には右頬の一際目立つ二本の切り傷の上にだ。
「痛い思いしたんだろ」
「別に……たいしたこと…、…」
跡部の舌先が神尾の傷の上をそっと撫でる。
神尾はびくりと肩を竦ませた。
「………………」
「……、……跡部…」
首筋にもぐりこむようにキスが埋められる。
そういえば打ち身の変色した痕がそこにはある筈で。
跡部の手が神尾の手首から外されて、まさぐるように神尾の四肢を這い回っていく。
衣服を剥がれていく。
「跡部、……」
「見せねえ気じゃねえだろうな?」
「………え…?」
壁を背中でずるずると滑り落ちていって、床に座り込んだ時にはもう、神尾の状態は散々だった。
いつの間にこんなと唖然となるほど、粗方の衣類は中途半端に剥ぎ取られている。
跡部は神尾の身体にある傷ぜんぶに固執して、眼差しと手と唇とを宛がってきた。
「……ャ……、……そん……」
傷なんかない、ところまでも。
それらはやってきて。
神尾は鳴き声混じりに跡部に両腕を伸ばした。
「ふ……、…ぁ…」
「神尾」
「…………っ……ぁ…」
身体をきつく抱き返されて、唇をつよくむさぼられる。
「……っ、ん」
いっそ生々しい傷跡の有無などは、どうでもいいと切り捨てられるのに。
その傷がついた瞬間のことについては、その全ての瞬間において懸念する男は。
時に、こんな傷など比ではない熱さと鋭さで神尾に存在する。
これまで何度も、そして今も、これからも。
「……、跡部……」
「……黙ってろ。下手に煽るな」
相変わらずの薄い笑みを浮かべている跡部に、神尾は結果的には逆らったらしかった。
跡部の首に腕を回して、キスを返した。
「………ッ…」
舌打ち。
強い力での抱擁。
その嵐のような勢いにまかれながら、熱さに傷痕が溶けていくような錯覚を神尾は覚えた。
実際は。
その後、神尾の身体にはより多くの痕が残ることになったにも関わらず。
鳳が、最近料理をするようになった。
試食してみてくれませんかだの、たくさん作り過ぎたんで協力して貰えますかだの言いながら、タッパウェア持参してくる。
その中身は彼が作ったというアボガドのサラダだの、チーズのスコーンだの、ポトフだのが日替わりで大胆に一品のみ詰め込まれていて。
初めて作ったという割りにはなかなか味のこなれた料理の数々が、気づくと日々、宍戸の間食になったり昼食の追加になったり放課後の腹ごなしになったりしている。
今日も放課後、すっかりひとけのない中庭で鳳持参の料理を宍戸は食べている。
鳳は元々が器用な男だ。
その気になれば料理なども楽にこなしてのけるのだろうと宍戸は思ったが、それにしても何故急にこんな事を思い立ったのかを鳳に尋ねれば。
「出来ないより出来た方がいいでしょう?」
「そりゃそうだけどよ。……てゆーか、何でそれを俺に聞く」
「それを宍戸さんに聞きたいからです」
微笑んだ鳳の表情は、宍戸の目に充分すぎるほどに甘く映った。
それは贔屓目でも何でもなく、甘い整い方をしている鳳の面立ちが湛える笑顔は最強だと宍戸は思っている。
宍戸はもうどうしようもなく鳳の笑顔に弱い。
おくびにも出さないよう努めるが、結局負けてしまう自分を自覚している。
じっと自分にだけ注がれる鳳の視線。
それを受け止めて、気まずさや決まり悪さではなく、しかしどこか落ち着かないのは羞恥のせいだ。
何て目で見てるんだか、と宍戸は内心で思った。
勘弁して欲しい。
「今日はひよこ豆と里芋の炊き込みご飯を作ってみたんですけど」
「ん………」
「好みでレモンを絞ってもいいらしいんで」
「……ん……」
「絞りましょうか?」
「……………ん」
「宍戸さん?」
黙々と箸を口元に運びながら宍戸が生返事になってしまうのは。
甘ったるい視線に直視される羞恥心に耐えての事だったが、鳳は眉根を寄せて心配そうに顔を近づけ問いかけてきた。
至近距離から、生真面目な声で囁かれる。
「口に合いませんでした…?」
「え?……いや、違う。悪ぃ。うまいぜ」
宍戸は慌てて首を左右に振った。
つい勢いで、余計な事を口走る。
「ちょっと考えただけだ」
「何をですか?」
「お前さ、……顔もよくて、性格もよくて、テニスも強くて、その上料理まで出来ちまったらよ。どんだけお買い得品な男なんだよって」
「……お買い得品って…」
鳳は目を瞠った後に。
薄く、きれいな笑みを刷いた。
「宍戸さんに買って貰えるくらいになりたいです」
「………お前の基準は何でいつも俺なんだか」
「何でって、そうなんで」
あくまでも柔和に言葉を紡ぐが、鳳の強情なところだとか、一途なところは、宍戸も充分承知している。
この男に、どうしてここまで自分が気に入られたのか。
宍戸としてはそれはまるで奇跡的な事のように思えるのだけれど。
「…………いつも貰ってばっかじゃ悪ぃからよ」
鞄の中から、今日は宍戸もタッパウェアを取り出した。
「うわ、宍戸さんが作ったんですか?」
「キムチ入れて作るんだよ。ある程度味の誤魔化しがきくからよ」
宍戸の両親は共働きで、兄は壊滅的に料理が出来ない。
必然的に宍戸はある程度の料理は作れるようになっていて、それを人に言ったことは勿論なかったのだが。
「あー……箸忘れた」
「………………」
辛口の肉じゃがは失敗しようもなく簡単だ。
家族の評判も特にいい。
鳳に食べさせたら何て言うだろうかと考えながら作ったなんて、自分の行動こそ勘弁して欲しいよなと宍戸は微妙に羞恥に駆られた。
「これでいいよな?」
鳳に手渡され、炊き込みご飯を食べていた箸でつかんだ肉じゃがを、鳳の口元に運ぶ。
食べさせる。
「………長太郎」
思わず宍戸は呻いた。
「肉じゃがくらいでそのツラってのはどういう訳だ」
簡単すぎやしねえかと交ぜっ返す。
何せ鳳が。
しみじみと、しみじみと、幸福を噛み締めている顔をしていたので。
「肉じゃだけが嬉しい訳ではないんですが………」
「口開けろよ」
「宍戸さん」
だからそのツラ!と宍戸もつい赤くなって叫び、無理矢理鳳の口に少し辛く味付けたジャガイモを詰め込む。
「すっごいうまいです」
「……そうかよ」
クソ恥ずかしい。
宍戸がそう毒づいても、鳳は嬉しげに目を細めるばかりだった。
「未来の俺達の食生活は安泰ですね」
「知るか…っ」
どちらも料理が出来るから。
食べさせたいと思って作る楽しみも、作ってもらえる楽しみも。
どちらも堪能出来るという訳だ。
試食してみてくれませんかだの、たくさん作り過ぎたんで協力して貰えますかだの言いながら、タッパウェア持参してくる。
その中身は彼が作ったというアボガドのサラダだの、チーズのスコーンだの、ポトフだのが日替わりで大胆に一品のみ詰め込まれていて。
初めて作ったという割りにはなかなか味のこなれた料理の数々が、気づくと日々、宍戸の間食になったり昼食の追加になったり放課後の腹ごなしになったりしている。
今日も放課後、すっかりひとけのない中庭で鳳持参の料理を宍戸は食べている。
鳳は元々が器用な男だ。
その気になれば料理なども楽にこなしてのけるのだろうと宍戸は思ったが、それにしても何故急にこんな事を思い立ったのかを鳳に尋ねれば。
「出来ないより出来た方がいいでしょう?」
「そりゃそうだけどよ。……てゆーか、何でそれを俺に聞く」
「それを宍戸さんに聞きたいからです」
微笑んだ鳳の表情は、宍戸の目に充分すぎるほどに甘く映った。
それは贔屓目でも何でもなく、甘い整い方をしている鳳の面立ちが湛える笑顔は最強だと宍戸は思っている。
宍戸はもうどうしようもなく鳳の笑顔に弱い。
おくびにも出さないよう努めるが、結局負けてしまう自分を自覚している。
じっと自分にだけ注がれる鳳の視線。
それを受け止めて、気まずさや決まり悪さではなく、しかしどこか落ち着かないのは羞恥のせいだ。
何て目で見てるんだか、と宍戸は内心で思った。
勘弁して欲しい。
「今日はひよこ豆と里芋の炊き込みご飯を作ってみたんですけど」
「ん………」
「好みでレモンを絞ってもいいらしいんで」
「……ん……」
「絞りましょうか?」
「……………ん」
「宍戸さん?」
黙々と箸を口元に運びながら宍戸が生返事になってしまうのは。
甘ったるい視線に直視される羞恥心に耐えての事だったが、鳳は眉根を寄せて心配そうに顔を近づけ問いかけてきた。
至近距離から、生真面目な声で囁かれる。
「口に合いませんでした…?」
「え?……いや、違う。悪ぃ。うまいぜ」
宍戸は慌てて首を左右に振った。
つい勢いで、余計な事を口走る。
「ちょっと考えただけだ」
「何をですか?」
「お前さ、……顔もよくて、性格もよくて、テニスも強くて、その上料理まで出来ちまったらよ。どんだけお買い得品な男なんだよって」
「……お買い得品って…」
鳳は目を瞠った後に。
薄く、きれいな笑みを刷いた。
「宍戸さんに買って貰えるくらいになりたいです」
「………お前の基準は何でいつも俺なんだか」
「何でって、そうなんで」
あくまでも柔和に言葉を紡ぐが、鳳の強情なところだとか、一途なところは、宍戸も充分承知している。
この男に、どうしてここまで自分が気に入られたのか。
宍戸としてはそれはまるで奇跡的な事のように思えるのだけれど。
「…………いつも貰ってばっかじゃ悪ぃからよ」
鞄の中から、今日は宍戸もタッパウェアを取り出した。
「うわ、宍戸さんが作ったんですか?」
「キムチ入れて作るんだよ。ある程度味の誤魔化しがきくからよ」
宍戸の両親は共働きで、兄は壊滅的に料理が出来ない。
必然的に宍戸はある程度の料理は作れるようになっていて、それを人に言ったことは勿論なかったのだが。
「あー……箸忘れた」
「………………」
辛口の肉じゃがは失敗しようもなく簡単だ。
家族の評判も特にいい。
鳳に食べさせたら何て言うだろうかと考えながら作ったなんて、自分の行動こそ勘弁して欲しいよなと宍戸は微妙に羞恥に駆られた。
「これでいいよな?」
鳳に手渡され、炊き込みご飯を食べていた箸でつかんだ肉じゃがを、鳳の口元に運ぶ。
食べさせる。
「………長太郎」
思わず宍戸は呻いた。
「肉じゃがくらいでそのツラってのはどういう訳だ」
簡単すぎやしねえかと交ぜっ返す。
何せ鳳が。
しみじみと、しみじみと、幸福を噛み締めている顔をしていたので。
「肉じゃだけが嬉しい訳ではないんですが………」
「口開けろよ」
「宍戸さん」
だからそのツラ!と宍戸もつい赤くなって叫び、無理矢理鳳の口に少し辛く味付けたジャガイモを詰め込む。
「すっごいうまいです」
「……そうかよ」
クソ恥ずかしい。
宍戸がそう毒づいても、鳳は嬉しげに目を細めるばかりだった。
「未来の俺達の食生活は安泰ですね」
「知るか…っ」
どちらも料理が出来るから。
食べさせたいと思って作る楽しみも、作ってもらえる楽しみも。
どちらも堪能出来るという訳だ。
今週から父親が出張に行っている。
だから夕食の時間がいつもより遅い。
だから平気なのだと海堂が説明すると、そういうことかと乾は納得した。
乾の家に来ても、海堂の帰宅時間は、いつも規則正しく夕食前だ。
乾の両親は揃って帰宅が遅いので気にする事はないのだが、海堂家の生活リズムを正しく認識している乾としては、今日の海堂の様子にふと疑問を覚えての問いかけだった。
午後五時近くなっても海堂がゆったりとしていたので、時間は平気?と口にした乾は状況を把握して小さく笑った。
「よかった。あやうく今日最後のキスをして、海堂を見送ってしまうところだった」
「……、…何っすか…それ」
ぐっと息を詰めた海堂が小声で呟く。
問いかけにもなっていないのは、忙しない瞬きに狼狽が滲むのが見てとれて、判る。
「今おじさんはニューヨークか」
そっと話題を変えてやると、海堂は微かにほっとしたようだった。
日本とニューヨークの時差を考えるのが苦手だとぽつりと言った。
乾は即座にいつも手にしている馴染みのノートを広げた。
「日本とニューヨークの時差は十四時間。現地時間に二時間足して、昼と夜を逆にしたのが日本での時間だ」
数字と、簡単な記号。
海堂に見えるようにノートを広げ、乾はシャープペンで書きこんでいく。
「ただし今は夏時間だから、一時間を足すんでいい。今こっちが午後五時だから、ニューヨークは午前四時って事になるな」
「……サマータイムってやつですか」
「四月の第一日曜日から、十月の最終土曜日までな。それまではプラス一時間」
おいで、と乾は海堂の手を引いた。
「…先輩?」
PCの置いてある机の前まで連れて行き、海堂を椅子に座らせる。
怪訝に振り返ってくるのを制するように乾は海堂の背後から、薄い背に覆い被さるように近づいた。
マウスに手を伸ばし、数回クリックして開いたサイトを見るように海堂の耳元で囁いて促した。
「これ……」
「ロックフェラーセンターだよ。ライブ中継だからさすがにまだ暗いね」
「……ずっと中継されてるんですか」
「そうだよ」
近すぎる距離に僅かにうろたえる気配が甘くてかわいい。
表情を緩めれば勿論即座に海堂は怒り出すだろうから、乾は敢えて極めて真顔でいるのだ。
背後からそっと腕の中に抱きこむようにしている体勢を解く気はなかったので。
「ロックフェラーセンターのクリスマスイルミネーション、聞いた事ある?」
「……、……ライトアップの派手な…?」
同じモニタを見る為の至近距離と思おうとしているらしい海堂の精一杯の返答に、乾自身いつまでこの平静が保てるかと自分の事を危ぶんだ。
「このアングルでよく見えるんだよ。気分転換に時々見てた」
「自宅で…ニューヨークのクリスマスツリーっすか…」
「そう。ささやかな贅沢ってとこ。……イルミネーションが終わっても、これはこれで面白いから、今も時々見てるよ」
人の姿、車の動き、装飾の国旗の棚びき。
プライバシーを侵害することはない、しかしリアルな十四時間時差のある光景。
深夜にデータ処理をしている最中に見る昼間の光景や、目覚めたてで見る夕暮れの景色に、ふと不思議な思いにとらわれる事があった。
「アドレス、送っておく」
「……乾先輩」
だから。
今はこっち、と乾は海堂に座らせた椅子をこちら側に回転させた。
「え……」
椅子に座ったままくるりと回った海堂の唇に、乾は高い所から、そっと唇をかぶせる。
息をのんだ微かな気配。
虚勢という平静はここまでだ。
海堂の両の頬を両手で支えて、乾はゆっくりとキスを深くする。
「…………ん…」
あえかな喉声。
繊細な熱を放つ舌をむさぼっていきながら、今日お互いへと許されている時間の全てを使い切る為に、繰り返す。
キスは時間も刻めた。
だから夕食の時間がいつもより遅い。
だから平気なのだと海堂が説明すると、そういうことかと乾は納得した。
乾の家に来ても、海堂の帰宅時間は、いつも規則正しく夕食前だ。
乾の両親は揃って帰宅が遅いので気にする事はないのだが、海堂家の生活リズムを正しく認識している乾としては、今日の海堂の様子にふと疑問を覚えての問いかけだった。
午後五時近くなっても海堂がゆったりとしていたので、時間は平気?と口にした乾は状況を把握して小さく笑った。
「よかった。あやうく今日最後のキスをして、海堂を見送ってしまうところだった」
「……、…何っすか…それ」
ぐっと息を詰めた海堂が小声で呟く。
問いかけにもなっていないのは、忙しない瞬きに狼狽が滲むのが見てとれて、判る。
「今おじさんはニューヨークか」
そっと話題を変えてやると、海堂は微かにほっとしたようだった。
日本とニューヨークの時差を考えるのが苦手だとぽつりと言った。
乾は即座にいつも手にしている馴染みのノートを広げた。
「日本とニューヨークの時差は十四時間。現地時間に二時間足して、昼と夜を逆にしたのが日本での時間だ」
数字と、簡単な記号。
海堂に見えるようにノートを広げ、乾はシャープペンで書きこんでいく。
「ただし今は夏時間だから、一時間を足すんでいい。今こっちが午後五時だから、ニューヨークは午前四時って事になるな」
「……サマータイムってやつですか」
「四月の第一日曜日から、十月の最終土曜日までな。それまではプラス一時間」
おいで、と乾は海堂の手を引いた。
「…先輩?」
PCの置いてある机の前まで連れて行き、海堂を椅子に座らせる。
怪訝に振り返ってくるのを制するように乾は海堂の背後から、薄い背に覆い被さるように近づいた。
マウスに手を伸ばし、数回クリックして開いたサイトを見るように海堂の耳元で囁いて促した。
「これ……」
「ロックフェラーセンターだよ。ライブ中継だからさすがにまだ暗いね」
「……ずっと中継されてるんですか」
「そうだよ」
近すぎる距離に僅かにうろたえる気配が甘くてかわいい。
表情を緩めれば勿論即座に海堂は怒り出すだろうから、乾は敢えて極めて真顔でいるのだ。
背後からそっと腕の中に抱きこむようにしている体勢を解く気はなかったので。
「ロックフェラーセンターのクリスマスイルミネーション、聞いた事ある?」
「……、……ライトアップの派手な…?」
同じモニタを見る為の至近距離と思おうとしているらしい海堂の精一杯の返答に、乾自身いつまでこの平静が保てるかと自分の事を危ぶんだ。
「このアングルでよく見えるんだよ。気分転換に時々見てた」
「自宅で…ニューヨークのクリスマスツリーっすか…」
「そう。ささやかな贅沢ってとこ。……イルミネーションが終わっても、これはこれで面白いから、今も時々見てるよ」
人の姿、車の動き、装飾の国旗の棚びき。
プライバシーを侵害することはない、しかしリアルな十四時間時差のある光景。
深夜にデータ処理をしている最中に見る昼間の光景や、目覚めたてで見る夕暮れの景色に、ふと不思議な思いにとらわれる事があった。
「アドレス、送っておく」
「……乾先輩」
だから。
今はこっち、と乾は海堂に座らせた椅子をこちら側に回転させた。
「え……」
椅子に座ったままくるりと回った海堂の唇に、乾は高い所から、そっと唇をかぶせる。
息をのんだ微かな気配。
虚勢という平静はここまでだ。
海堂の両の頬を両手で支えて、乾はゆっくりとキスを深くする。
「…………ん…」
あえかな喉声。
繊細な熱を放つ舌をむさぼっていきながら、今日お互いへと許されている時間の全てを使い切る為に、繰り返す。
キスは時間も刻めた。
東京タワーはオレンジ色だった。
昼間は赤いのに、夜になってライトアップされた様子は炎の色で。
煮詰められた蜜のようにとろとろと光って見えた。
「うわ、すっげ…!」
ガラスにぺたりと両手の手のひらをつけて。
神尾は眼下の夜景を見下ろし、声を上げる。
瞬く無数の灯りで埋め尽くされた夜景は、下界と言ってしまえるくらいとても遠くの光景のように神尾の足元に在った。
「なんだよこれ……マジですっごいなー……!」
思わず呟いて、ガラスに額も押し当てた神尾の背後で。
吐息に交じった笑みの気配がする。
ひどく大人びた嘆息は、神尾をこの展望台に連れてきた男の唇から漏れたものだ。
「な、跡部」
神尾はくるりと背後を振り返り跡部を見つめて言った。
「すごい!」
「お前はさっきからそればっかじゃねえか」
皮肉な笑みを浮かべて跡部は神尾の横に並んだ。
「だってよぅ、こんなにたくさん光ってる灯りのところ全部に、人がいるんだぜ?」
「………………」
神尾の言葉に、何故か跡部は目を瞠った。
跡部の表情の変化に気づかないまま神尾は更に言い募る。
「すごいよなー。道路流れてるのは車だろ。あれだけの数の車を、人が動かしてんだもんな」
「………………」
「ビルの灯りだってだってさ、仕事してる人がまだあれだけいるってことだもんな。電気のついてる家には、その家の住人がテレビ見たり食事してたりしてて……この灯りの数だけ人間いるんだもんな。すごいよな」
なあ跡部、ともう一度呼びかけて。
漸く神尾は跡部が黙ったまま何だかびっくりしたみたいな顔をしているのに気づいた。
「……跡部?」
なんだよ?と神尾が怪訝に問うと、跡部はやけにまじまじと神尾を見下ろし続け、それから唐突に神尾もよく見慣れた不遜な笑みで唇の端を引き上げた。
「………なんだよ…ぅ…?」
跡部のリアクションの意味合いが判らず、神尾は眉根を寄せた。
内心では忙しく、自分は何かおかしな事でも言っただろうかと思い悩んでいる神尾に、跡部はとうとう低い声音で笑い出した。
「な、…なんで笑うんだよっ」
「いや、別に?」
「別にって! 笑ってんだろ!」
肩まで上下させている跡部に神尾が噛み付くように叫べば、うんざりするほどうっとりさせるようなやり方で跡部が前髪をかきあげて神尾を流し見てくる。
「女と子供は光るもんが好きで、ついでに馬鹿は高いところが好きだとも思ったから、お前をここに連れて来たんだがな」
「……っ…、…なにナチュラルに人のことばかにしてんだよ…!」
「リアクションは、まあ予想通りだったが……」
「…………あと…、…」
壮大な夜景をも配下に従える暴君さで。
跡部はガラスに片腕をついて、首を捩じるようにして神尾の唇をキスで塞いだ。
静かに、深く。
「………ン……、…」
「………………」
真横に並んだ跡部を見上げていたままキスを受けた神尾は、無理な体勢に首筋を強張らせながら口付けられる。
跡部の手が神尾の顔に触れた。
髪を撫でられ、頬を包まれ、後頭部をまさぐられながら、ガラスに背を押し付けられる。
キスは深くなり、強くなる。
背中にあるガラス板の存在が、ふと怖くなるほどに唇を貪られて、神尾は跡部の手首に指先を沈ませた。
「ゃ……、……跡…」
「………なんだ。…どうした」
「……こわい…って……」
高層ビル、神尾の背後にあるのはガラス板一枚だ。
「馬鹿か。割れる訳ねえだろ」
足元がすくわれそうな夜景。
またたくネオン、流れるライト。
「跡部…」
「そういうツラするな」
「……跡部?」
「…………なるだろうが…」
「え…?……」
何が。
何を。
したくなると、今跡部は言ったのかと神尾は迷い、しかしすでに神尾の思考をかきみだす勢いで口付けは繰り返されていた。
キスで舌先を愛撫される。
跡部がキスに本気になったのは、そういうやり方で判ってしまった。
角度をかえる度に、ちいさく濡れる音がする。
可愛らしいようなその音と、跡部のしかけてくるかぶりつくようなキスのやり方の卑猥さとが相まって、次第神尾の足元が覚束なくなってくる。
「…っ……ぅ…」
落ちる。
そんな錯覚も当然な場所。
人のいない、暗い、高層ビルの展望台。
夜景を背後にしたまま座り込んでしまえば、落ちていく先は遥か遠い下界にまでとイメージしてしまう。
「……、…ャ…」
「………………」
かくんと膝がぬける。
座り込んでしまう神尾に口付けたまま、跡部も後を追ってきた。
ちゃんと。
「………っ……、…は…」
「お前の目が気にいってるんだ。俺は」
「……ぇ……?……」
瞼に口付けられる。
跡部の唇は、神尾の睫毛の先にまでキスを落とす。
神尾は小さく肩を跳ね上げさせた。
「ガキで、バカで、生意気で、そのくせ」
「………………」
「お前にしか見つけられないものを見てる目だ」
貶されているのか褒められているのか神尾にはさっぱり判らなかった。
ただ言えることは。
「………………」
まるで渇望されるかのように。
さながら強い執着も露に。
跡部が。
「神尾」
「………………」
自分の事を。
欲しがる。
キスする。
抱き締める。
「…………跡部…」
神尾が跡部にそうしたいように、神尾が跡部を好きなのと同じ強さで、望まれている事は判るから。
星に、夜に、闇に、蕩けるように口付けを絡ませあった。
浮かんでも、落ちても、光っても、隠れても。
見えていても、見えていなくても、自分達の恋はここに在る。
昼間は赤いのに、夜になってライトアップされた様子は炎の色で。
煮詰められた蜜のようにとろとろと光って見えた。
「うわ、すっげ…!」
ガラスにぺたりと両手の手のひらをつけて。
神尾は眼下の夜景を見下ろし、声を上げる。
瞬く無数の灯りで埋め尽くされた夜景は、下界と言ってしまえるくらいとても遠くの光景のように神尾の足元に在った。
「なんだよこれ……マジですっごいなー……!」
思わず呟いて、ガラスに額も押し当てた神尾の背後で。
吐息に交じった笑みの気配がする。
ひどく大人びた嘆息は、神尾をこの展望台に連れてきた男の唇から漏れたものだ。
「な、跡部」
神尾はくるりと背後を振り返り跡部を見つめて言った。
「すごい!」
「お前はさっきからそればっかじゃねえか」
皮肉な笑みを浮かべて跡部は神尾の横に並んだ。
「だってよぅ、こんなにたくさん光ってる灯りのところ全部に、人がいるんだぜ?」
「………………」
神尾の言葉に、何故か跡部は目を瞠った。
跡部の表情の変化に気づかないまま神尾は更に言い募る。
「すごいよなー。道路流れてるのは車だろ。あれだけの数の車を、人が動かしてんだもんな」
「………………」
「ビルの灯りだってだってさ、仕事してる人がまだあれだけいるってことだもんな。電気のついてる家には、その家の住人がテレビ見たり食事してたりしてて……この灯りの数だけ人間いるんだもんな。すごいよな」
なあ跡部、ともう一度呼びかけて。
漸く神尾は跡部が黙ったまま何だかびっくりしたみたいな顔をしているのに気づいた。
「……跡部?」
なんだよ?と神尾が怪訝に問うと、跡部はやけにまじまじと神尾を見下ろし続け、それから唐突に神尾もよく見慣れた不遜な笑みで唇の端を引き上げた。
「………なんだよ…ぅ…?」
跡部のリアクションの意味合いが判らず、神尾は眉根を寄せた。
内心では忙しく、自分は何かおかしな事でも言っただろうかと思い悩んでいる神尾に、跡部はとうとう低い声音で笑い出した。
「な、…なんで笑うんだよっ」
「いや、別に?」
「別にって! 笑ってんだろ!」
肩まで上下させている跡部に神尾が噛み付くように叫べば、うんざりするほどうっとりさせるようなやり方で跡部が前髪をかきあげて神尾を流し見てくる。
「女と子供は光るもんが好きで、ついでに馬鹿は高いところが好きだとも思ったから、お前をここに連れて来たんだがな」
「……っ…、…なにナチュラルに人のことばかにしてんだよ…!」
「リアクションは、まあ予想通りだったが……」
「…………あと…、…」
壮大な夜景をも配下に従える暴君さで。
跡部はガラスに片腕をついて、首を捩じるようにして神尾の唇をキスで塞いだ。
静かに、深く。
「………ン……、…」
「………………」
真横に並んだ跡部を見上げていたままキスを受けた神尾は、無理な体勢に首筋を強張らせながら口付けられる。
跡部の手が神尾の顔に触れた。
髪を撫でられ、頬を包まれ、後頭部をまさぐられながら、ガラスに背を押し付けられる。
キスは深くなり、強くなる。
背中にあるガラス板の存在が、ふと怖くなるほどに唇を貪られて、神尾は跡部の手首に指先を沈ませた。
「ゃ……、……跡…」
「………なんだ。…どうした」
「……こわい…って……」
高層ビル、神尾の背後にあるのはガラス板一枚だ。
「馬鹿か。割れる訳ねえだろ」
足元がすくわれそうな夜景。
またたくネオン、流れるライト。
「跡部…」
「そういうツラするな」
「……跡部?」
「…………なるだろうが…」
「え…?……」
何が。
何を。
したくなると、今跡部は言ったのかと神尾は迷い、しかしすでに神尾の思考をかきみだす勢いで口付けは繰り返されていた。
キスで舌先を愛撫される。
跡部がキスに本気になったのは、そういうやり方で判ってしまった。
角度をかえる度に、ちいさく濡れる音がする。
可愛らしいようなその音と、跡部のしかけてくるかぶりつくようなキスのやり方の卑猥さとが相まって、次第神尾の足元が覚束なくなってくる。
「…っ……ぅ…」
落ちる。
そんな錯覚も当然な場所。
人のいない、暗い、高層ビルの展望台。
夜景を背後にしたまま座り込んでしまえば、落ちていく先は遥か遠い下界にまでとイメージしてしまう。
「……、…ャ…」
「………………」
かくんと膝がぬける。
座り込んでしまう神尾に口付けたまま、跡部も後を追ってきた。
ちゃんと。
「………っ……、…は…」
「お前の目が気にいってるんだ。俺は」
「……ぇ……?……」
瞼に口付けられる。
跡部の唇は、神尾の睫毛の先にまでキスを落とす。
神尾は小さく肩を跳ね上げさせた。
「ガキで、バカで、生意気で、そのくせ」
「………………」
「お前にしか見つけられないものを見てる目だ」
貶されているのか褒められているのか神尾にはさっぱり判らなかった。
ただ言えることは。
「………………」
まるで渇望されるかのように。
さながら強い執着も露に。
跡部が。
「神尾」
「………………」
自分の事を。
欲しがる。
キスする。
抱き締める。
「…………跡部…」
神尾が跡部にそうしたいように、神尾が跡部を好きなのと同じ強さで、望まれている事は判るから。
星に、夜に、闇に、蕩けるように口付けを絡ませあった。
浮かんでも、落ちても、光っても、隠れても。
見えていても、見えていなくても、自分達の恋はここに在る。
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