How did you feel at your first kiss?
だから嫌だったのだ。
だから抱かれたくなかった。
抱いた後に、赤澤に。
ああいう顔をされる事を、ああいう態度をとられる事を、観月は多分、最初から判っていた。
嫌だった、でも、したかった。
して欲しかった。
外は酷い夕立だった。
窓ガラスの向こう側の光景は、雨の飛沫にけぶっていて視界も儘ならない。
夜の闇とは違う濁った色で満ちている。
まるで奥にあるものを全く見透かせない状態の感情のようだ。
それは自分のものか、他人のものか。
どちらもだと、観月は吐息を零す。
「………………」
夏休みに入って数日。
今日はずっと天気がよかったから、寮に残っている輩は少ないらしかった。
寮内はとても静かだった。
皆どこかしらに出かけているのだろう。
観月は夕立が降り出す随分前から食堂に居て、何があるでもない屋外の風景をガラス窓越しに見やっていた。
目の前にあるノートパソコンはスクリーンセーバーの星を煌かせ続けている。
身体はいろいろな理由でだるくて、本来なら自室で休むのが得策だと観月も判っているのだが、どうして自分がここから動かないでいるのかは謎だった。
これではまるで、待っているみたいではないかと観月は自嘲する。
「おはよーだーね。観月」
「………十六時半回ってます。何がおはようですか」
「昼寝から起きたおはよう」
柳沢が欠伸に笑いを交ぜて観月の背後から現れ、隣の席に座った。
いつもはきちんとセットされている髪がくしゃくしゃだ。
襟刳りの広いシャツの胸元は寝乱れて皺になっていて、だらしないと観月が苦言を呈そうとするより早く柳沢は言った。
「喧嘩しただーね?」
観月はひらきかけていた唇を閉ざした。
まだ少し眠たそうな目をした柳沢は、頬杖をついて観月を流し見ている。
「いいえ」
観月は、しらばっくれるのは止めた。
やってやれない事はないが、これでいて柳沢は結構厄介な相手だからだ。
「喧嘩じゃなく、観月が怒ってるだけ?」
「怒ってなどいません」
「じゃあ赤澤の方が怒ってるだーね」
「知りません」
観月はぴしりと柳沢の言葉を遮った。
狼狽の欠片も無い、いっそ冷徹な物言いだと客観的に思う。
我ながら、うんざりする程だ。
「淳から貰ったから観月にもやるだーね」
「………………」
柳沢はそんな観月の応答に別段気にした風もなく、ズボンのポケットからとても小さなアイスブルーのキャンディを取り出して観月の手に握らせた。
「……モンクスのキャンディですね」
「冷たくて気持ち良いだーね」
指先でつまむ程度のミニキャンディを口に放った柳沢を横目に、観月も黙ってそれに倣った。
口に含むと甘すぎず辛すぎない清涼感が喉近くまで広がった。
何となくそれだけで僅かに淀みが流される。
観月は溜息をついた。
柳沢は黙っている。
もう一粒、観月はキャンディを口に入れた。
清涼感のあるアイスブルーのミニキャンディが、まるで薬か何かのような気持ちで。
これを口にしたら、話す事が出来るような面持ちで。
「今何か言っただーね? 観月」
「………柳沢」
観月は眉を顰めた。
まだ何も言っていない。
しかしこれから、今まさに、言おうとはしていた。
そういう心情を全て酌まれているかのようなタイミングでの柳沢からの呼びかけに、観月は眼差しをきつくしたが、柳沢は飄々としているばかりだ。
「観月?」
「………………」
いっそ何の思惑もなさそうな邪気のない顔だ。
観月は降伏した。
「喧嘩はしていません。僕は怒ってなどいません。赤澤は…」
一度言葉を止めて、観月は溜息と一緒に低く言った。
「……つまらなかったんでしょう」
「何がだーね?」
「………………」
僕が。
観月がそう口に出す寸前、それは遮られた。
「お前、それ以上喋るな」
「…………、…」
赤澤だった。
「うわ。びしょ濡れだーね。赤澤」
タオルタオルと柳沢はフットワークも軽く立ち上がり寮の部屋に向かったらしかった。
観月は唖然と全身濡れそぼった赤澤を見上げるだけだ。
この夕立に降られて、長い髪はべったりと褐色の肌に貼りついている。
「観月」
「………………」
それ以上喋るなと言いながら、赤澤は押し殺した声で観月に詰め寄ってきた。
「つまらなかったんだろうって、何だ」
荒く前髪をかきあげる大きな手のひらは、昨夜観月の肌の上を辿った。
「どういう意味だ。観月」
「………………」
赤澤の手が観月の肩を鷲掴む。
骨に直接指が沈んでくるように鈍くそこが痛んだ。
「観月!」
「……、…ッ…」
痛みにと、怒声にと。
観月が唇を噛みしめる。
手荒に肩が揺すられた。
「赤澤! 何してるだーね!」
物凄い慌て方で、タオルを片手に持った柳沢が駆け寄ってくる。
「放っとけ!」
「お前、観月に何してるだーね」
赤澤の怒声に全く臆する事無く柳沢は血相を変えていて、そんな彼の背後から部屋にいたらしい木更津も顔を出した。
慌てふためく事はしないものの、木更津もまた一方的に赤澤だけを窘めた。
「ちょっと赤澤。観月と慎也に何すんの」
柳沢と木更津が二人がかりで間に割って入ってきて、観月は赤澤の手から引き離された。
まるで庇い立てするかのような柳沢と木更津の背中を観月は傍線と見据えた。
何故彼らは自分を庇うのだろうかと怪訝に思う。
こんな時まで絶対に、自分の言う事を聞けというつもりはない。
赤澤は別に悪くない。
何も悪くない。
後悔は後から悔やむから後悔で、それは仕方の無い事なのだ。
観月は、それが判っていたけれど、それでも欲しかったのだ。
「赤澤、ちょっとは自分の力とか考えなよね。あんな力いっぱい掴んだら観月の肩が砕ける」
「あんな風に食ってかかるのも止めるだーね! 観月に実家帰られでもしたらどう責任とるだーね!」
結構な剣幕で赤澤に詰め寄っている柳沢と木更津の声、それを片っ端から切り捨てている赤澤の怒鳴り声が、寮内で反響する。
観月は額に手をやって一喝した。
「うるさい! 落ち着きなさい貴方達…!」
ぴたりと全員が口を噤む。
たちどころに辺りは静まった。
のろのろと、不服も露に唇を尖らせて柳沢が観月を振り返ってきた。
「……って観月にいわれるっていうのは、どうなんだーね…」
木更津も不満も露に声のトーンを低くして振り返ってくる。
「……随分ひどい話じゃない? 観月」
「………………」
赤澤だけが一人、怒りを滲ませたまま複雑そうな顔で押し黙っている。
喧騒が止んだら止んだで、観月は訳も無く沈痛な面持ちを伏せた。
「慎也」
「……判ってるだーね。淳」
深々と嘆息した柳沢が、観月の腕を掴んで窓辺に連れて行く。
「…柳沢?」
一方木更津は赤澤を引っ張ってきて、窓辺に観月と赤澤を残し、彼らは背を向けてきた。
そして肩越しに同時のタイミングで振り返ってきて、ピッと立てた人差し指を差し向けられる。
ちゃんと話をしろと眼で言われた。
「………………」
後は二人きりでカタをつけろという意味らしい。
そういうわりにはちゃっかり二人とも、様子を伺って食堂の出入口に屈んで隠れる辺りが食えない。
観月が、そんな柳沢と木更津の行動に意識をやっている間、赤澤は再び観月の肩を掴んだ。
先程とは違う。
精一杯加減しているのだと観月には判った。
「泣くなって……どうすりゃいいんだ」
「………………」
改めて向き合った途端、赤澤の言うとおり観月の双瞳は潤みかけてしまっていた。
「そんなに嫌だったのか?」
苦く問われて観月はきつく唇を噛んだ。
この、馬鹿。
観月は自分らしくもないと承知の上で、口汚く赤澤を罵りたくなる。
濡れた赤澤のシャツの胸元を掴み、引っ張って、観月は赤澤の耳元に唇を近づけた。 「…………して」
「……みづ…、……」
「もう一回、して」
ひどく悔しくて。
本当に泣き出しそうになって。
でも観月は言った。
声が震えているのが自分で判った。
「赤澤! 何言われたか知らないけどとにかく今は観月の言うこと聞いておくだーね!」
隠れている事を忘れているのか、はなから隠れているつもりもないのか、無責任極まりない台詞で柳沢にけしかけられた赤澤は、観月を見下ろし唖然としているままだ。
「………観月…?」
「今度は、あんな顔させない」
もう一度チャンスくらいくれたっていいだろうと観月は言外に赤澤を詰った。
うまく出来なかったとか、赤澤のしたいようには出来てなかったとか、それならそれで。 術を代えて再度挑む事くらい観月には難しくない。
「僕が泣いてるのが嫌なら、ずっと目瞑っていればいい。違う事を考えていればいい」
「おい、観月」
「僕がうつ伏せのまま、絶対に顔上げないでいる。だから」
「観月!」
泣き出した観月を、あんな苦々しい顔で見たりしなくて済むように。
してみて、後悔されて、それ一度きりでおしまいだなんて観月には我慢出来ない。
「嫌でも、したくなくても、もう一回」
「お前……お前な……!」
赤澤は無理矢理振り絞ったかのような声で呻いた。
「観月、お前自分で何言ってるのか本当に判ってるのか」
「………………」
やみくもな力で抱き締められた。
何でそんな必死に、と観月は息を詰める。
赤澤の肩越しに、もう出入り口に柳沢達の姿がない事を知る。
それ抜きにしても、観月の身体から力が抜けた。
「…赤澤」
ひっそりと名を呼べば、一層強く抱き竦められた。
「嫌で……泣いたんじゃないのか…?」
「貴方があんな顔で僕を見るからです…っ…」
「………お前にどれだけダメージ与えたかって…」
観月は必死に両腕を伸ばした。
赤澤の背中を抱く。
「放っておくな……っ…」
「観月」
同じ力で抱き返される。
全身濡れている筈の赤澤の身体が熱くて、全身かわいている筈の観月の身体が濡れている。
こうやって、お互い染み渡るように行き来するもの全部で、抱き締め合いたいだけだ。
望みはそれだけ。
「………放っておくな、…馬鹿…」
「ん。………悪かった。観月。ごめんな?」
甘やかされても腹はたたない。
結局、こうしたかったのだ。
観月は。
「ごめんな」
でも。
「……それ以上謝ったら許しませんからね…」
「…判ってる」
赤澤は笑ったようだった。
少しも手の力は緩まない。
謝られたいのではないという事を赤澤が判ってくれているのなら、観月はそれだけでいいのだ。
もう一回、と囁きで煽ってしがみつく。
駄目押しに。
「………お前…な」
赤澤の零した笑いの気配はたちまち欲情を含んで苦しげになる。
観月は微笑んだ。
綻んだ唇が、褐色の首筋にそっと重なった。
花押は署名の印。
唇は恋人の肌に同じ事を残せる箇所だ。
だから抱かれたくなかった。
抱いた後に、赤澤に。
ああいう顔をされる事を、ああいう態度をとられる事を、観月は多分、最初から判っていた。
嫌だった、でも、したかった。
して欲しかった。
外は酷い夕立だった。
窓ガラスの向こう側の光景は、雨の飛沫にけぶっていて視界も儘ならない。
夜の闇とは違う濁った色で満ちている。
まるで奥にあるものを全く見透かせない状態の感情のようだ。
それは自分のものか、他人のものか。
どちらもだと、観月は吐息を零す。
「………………」
夏休みに入って数日。
今日はずっと天気がよかったから、寮に残っている輩は少ないらしかった。
寮内はとても静かだった。
皆どこかしらに出かけているのだろう。
観月は夕立が降り出す随分前から食堂に居て、何があるでもない屋外の風景をガラス窓越しに見やっていた。
目の前にあるノートパソコンはスクリーンセーバーの星を煌かせ続けている。
身体はいろいろな理由でだるくて、本来なら自室で休むのが得策だと観月も判っているのだが、どうして自分がここから動かないでいるのかは謎だった。
これではまるで、待っているみたいではないかと観月は自嘲する。
「おはよーだーね。観月」
「………十六時半回ってます。何がおはようですか」
「昼寝から起きたおはよう」
柳沢が欠伸に笑いを交ぜて観月の背後から現れ、隣の席に座った。
いつもはきちんとセットされている髪がくしゃくしゃだ。
襟刳りの広いシャツの胸元は寝乱れて皺になっていて、だらしないと観月が苦言を呈そうとするより早く柳沢は言った。
「喧嘩しただーね?」
観月はひらきかけていた唇を閉ざした。
まだ少し眠たそうな目をした柳沢は、頬杖をついて観月を流し見ている。
「いいえ」
観月は、しらばっくれるのは止めた。
やってやれない事はないが、これでいて柳沢は結構厄介な相手だからだ。
「喧嘩じゃなく、観月が怒ってるだけ?」
「怒ってなどいません」
「じゃあ赤澤の方が怒ってるだーね」
「知りません」
観月はぴしりと柳沢の言葉を遮った。
狼狽の欠片も無い、いっそ冷徹な物言いだと客観的に思う。
我ながら、うんざりする程だ。
「淳から貰ったから観月にもやるだーね」
「………………」
柳沢はそんな観月の応答に別段気にした風もなく、ズボンのポケットからとても小さなアイスブルーのキャンディを取り出して観月の手に握らせた。
「……モンクスのキャンディですね」
「冷たくて気持ち良いだーね」
指先でつまむ程度のミニキャンディを口に放った柳沢を横目に、観月も黙ってそれに倣った。
口に含むと甘すぎず辛すぎない清涼感が喉近くまで広がった。
何となくそれだけで僅かに淀みが流される。
観月は溜息をついた。
柳沢は黙っている。
もう一粒、観月はキャンディを口に入れた。
清涼感のあるアイスブルーのミニキャンディが、まるで薬か何かのような気持ちで。
これを口にしたら、話す事が出来るような面持ちで。
「今何か言っただーね? 観月」
「………柳沢」
観月は眉を顰めた。
まだ何も言っていない。
しかしこれから、今まさに、言おうとはしていた。
そういう心情を全て酌まれているかのようなタイミングでの柳沢からの呼びかけに、観月は眼差しをきつくしたが、柳沢は飄々としているばかりだ。
「観月?」
「………………」
いっそ何の思惑もなさそうな邪気のない顔だ。
観月は降伏した。
「喧嘩はしていません。僕は怒ってなどいません。赤澤は…」
一度言葉を止めて、観月は溜息と一緒に低く言った。
「……つまらなかったんでしょう」
「何がだーね?」
「………………」
僕が。
観月がそう口に出す寸前、それは遮られた。
「お前、それ以上喋るな」
「…………、…」
赤澤だった。
「うわ。びしょ濡れだーね。赤澤」
タオルタオルと柳沢はフットワークも軽く立ち上がり寮の部屋に向かったらしかった。
観月は唖然と全身濡れそぼった赤澤を見上げるだけだ。
この夕立に降られて、長い髪はべったりと褐色の肌に貼りついている。
「観月」
「………………」
それ以上喋るなと言いながら、赤澤は押し殺した声で観月に詰め寄ってきた。
「つまらなかったんだろうって、何だ」
荒く前髪をかきあげる大きな手のひらは、昨夜観月の肌の上を辿った。
「どういう意味だ。観月」
「………………」
赤澤の手が観月の肩を鷲掴む。
骨に直接指が沈んでくるように鈍くそこが痛んだ。
「観月!」
「……、…ッ…」
痛みにと、怒声にと。
観月が唇を噛みしめる。
手荒に肩が揺すられた。
「赤澤! 何してるだーね!」
物凄い慌て方で、タオルを片手に持った柳沢が駆け寄ってくる。
「放っとけ!」
「お前、観月に何してるだーね」
赤澤の怒声に全く臆する事無く柳沢は血相を変えていて、そんな彼の背後から部屋にいたらしい木更津も顔を出した。
慌てふためく事はしないものの、木更津もまた一方的に赤澤だけを窘めた。
「ちょっと赤澤。観月と慎也に何すんの」
柳沢と木更津が二人がかりで間に割って入ってきて、観月は赤澤の手から引き離された。
まるで庇い立てするかのような柳沢と木更津の背中を観月は傍線と見据えた。
何故彼らは自分を庇うのだろうかと怪訝に思う。
こんな時まで絶対に、自分の言う事を聞けというつもりはない。
赤澤は別に悪くない。
何も悪くない。
後悔は後から悔やむから後悔で、それは仕方の無い事なのだ。
観月は、それが判っていたけれど、それでも欲しかったのだ。
「赤澤、ちょっとは自分の力とか考えなよね。あんな力いっぱい掴んだら観月の肩が砕ける」
「あんな風に食ってかかるのも止めるだーね! 観月に実家帰られでもしたらどう責任とるだーね!」
結構な剣幕で赤澤に詰め寄っている柳沢と木更津の声、それを片っ端から切り捨てている赤澤の怒鳴り声が、寮内で反響する。
観月は額に手をやって一喝した。
「うるさい! 落ち着きなさい貴方達…!」
ぴたりと全員が口を噤む。
たちどころに辺りは静まった。
のろのろと、不服も露に唇を尖らせて柳沢が観月を振り返ってきた。
「……って観月にいわれるっていうのは、どうなんだーね…」
木更津も不満も露に声のトーンを低くして振り返ってくる。
「……随分ひどい話じゃない? 観月」
「………………」
赤澤だけが一人、怒りを滲ませたまま複雑そうな顔で押し黙っている。
喧騒が止んだら止んだで、観月は訳も無く沈痛な面持ちを伏せた。
「慎也」
「……判ってるだーね。淳」
深々と嘆息した柳沢が、観月の腕を掴んで窓辺に連れて行く。
「…柳沢?」
一方木更津は赤澤を引っ張ってきて、窓辺に観月と赤澤を残し、彼らは背を向けてきた。
そして肩越しに同時のタイミングで振り返ってきて、ピッと立てた人差し指を差し向けられる。
ちゃんと話をしろと眼で言われた。
「………………」
後は二人きりでカタをつけろという意味らしい。
そういうわりにはちゃっかり二人とも、様子を伺って食堂の出入口に屈んで隠れる辺りが食えない。
観月が、そんな柳沢と木更津の行動に意識をやっている間、赤澤は再び観月の肩を掴んだ。
先程とは違う。
精一杯加減しているのだと観月には判った。
「泣くなって……どうすりゃいいんだ」
「………………」
改めて向き合った途端、赤澤の言うとおり観月の双瞳は潤みかけてしまっていた。
「そんなに嫌だったのか?」
苦く問われて観月はきつく唇を噛んだ。
この、馬鹿。
観月は自分らしくもないと承知の上で、口汚く赤澤を罵りたくなる。
濡れた赤澤のシャツの胸元を掴み、引っ張って、観月は赤澤の耳元に唇を近づけた。 「…………して」
「……みづ…、……」
「もう一回、して」
ひどく悔しくて。
本当に泣き出しそうになって。
でも観月は言った。
声が震えているのが自分で判った。
「赤澤! 何言われたか知らないけどとにかく今は観月の言うこと聞いておくだーね!」
隠れている事を忘れているのか、はなから隠れているつもりもないのか、無責任極まりない台詞で柳沢にけしかけられた赤澤は、観月を見下ろし唖然としているままだ。
「………観月…?」
「今度は、あんな顔させない」
もう一度チャンスくらいくれたっていいだろうと観月は言外に赤澤を詰った。
うまく出来なかったとか、赤澤のしたいようには出来てなかったとか、それならそれで。 術を代えて再度挑む事くらい観月には難しくない。
「僕が泣いてるのが嫌なら、ずっと目瞑っていればいい。違う事を考えていればいい」
「おい、観月」
「僕がうつ伏せのまま、絶対に顔上げないでいる。だから」
「観月!」
泣き出した観月を、あんな苦々しい顔で見たりしなくて済むように。
してみて、後悔されて、それ一度きりでおしまいだなんて観月には我慢出来ない。
「嫌でも、したくなくても、もう一回」
「お前……お前な……!」
赤澤は無理矢理振り絞ったかのような声で呻いた。
「観月、お前自分で何言ってるのか本当に判ってるのか」
「………………」
やみくもな力で抱き締められた。
何でそんな必死に、と観月は息を詰める。
赤澤の肩越しに、もう出入り口に柳沢達の姿がない事を知る。
それ抜きにしても、観月の身体から力が抜けた。
「…赤澤」
ひっそりと名を呼べば、一層強く抱き竦められた。
「嫌で……泣いたんじゃないのか…?」
「貴方があんな顔で僕を見るからです…っ…」
「………お前にどれだけダメージ与えたかって…」
観月は必死に両腕を伸ばした。
赤澤の背中を抱く。
「放っておくな……っ…」
「観月」
同じ力で抱き返される。
全身濡れている筈の赤澤の身体が熱くて、全身かわいている筈の観月の身体が濡れている。
こうやって、お互い染み渡るように行き来するもの全部で、抱き締め合いたいだけだ。
望みはそれだけ。
「………放っておくな、…馬鹿…」
「ん。………悪かった。観月。ごめんな?」
甘やかされても腹はたたない。
結局、こうしたかったのだ。
観月は。
「ごめんな」
でも。
「……それ以上謝ったら許しませんからね…」
「…判ってる」
赤澤は笑ったようだった。
少しも手の力は緩まない。
謝られたいのではないという事を赤澤が判ってくれているのなら、観月はそれだけでいいのだ。
もう一回、と囁きで煽ってしがみつく。
駄目押しに。
「………お前…な」
赤澤の零した笑いの気配はたちまち欲情を含んで苦しげになる。
観月は微笑んだ。
綻んだ唇が、褐色の首筋にそっと重なった。
花押は署名の印。
唇は恋人の肌に同じ事を残せる箇所だ。
PR
どきりとする程涼しい風が吹いた。
八月になったというのに、夏ではなく秋がやってきたかのような気配は、夕涼みと言ってしまう事すら憚られる。
光が淡く消されて、いっそ煙っているかのような夕暮れの中、海堂は一人で歩いていた。
手に下げているビニールバックの中には、シャンプーとリンス、石鹸、ボディタオルなどが詰まっていた。
「海堂ー。どこ行くのー」
遠い距離のある所からの声。
唐突な呼びかけ。
けれど海堂は驚かなかった。
乾のいるマンションの前だなと思って通っていたので、無意識に視線も頭上の一室を見上げてもいたからだ。
そうして見上げた先にいた乾は、ベランダの手すりに手をついて、ひらりと大きな手のひらを振って海堂の歩を止めさせた。
「……風呂っす」
「ええー?」
「…風!呂!」
「ああー、お風呂ー?」
いかにも暢気な様子だが、大声を張り上げているわけでもない乾の声は、海堂の耳に楽に届いてきた。
「ちょっとそこで待ってて。海堂」
三分、と乾は言って。
ベランダから唐突に姿を消した。
「………………」
海堂は溜息をついた。
乾はいつも唐突だ。
ひどく落ち着いているようなのに、突拍子もない事を平気でしたりする。
実際乾はすぐに海堂の前に現れた。
紙袋をひとつ手に提げている。
「お待たせ。行こうか」
「………あの?」
「銭湯だろ?……あれ、富士の湯じゃなく?」
「……いや……それはそうなんですけど」
「じゃあ行こう」
乾は長い脚でのんびり歩いた。
海堂はその隣に並び、再びの溜息だ。
海堂が向かっている行先は、確かにここからあと五分ほど歩いた先にある富士の湯、銭湯だ。
しかし問題は行先ではない。
「…………何であんたが一緒に来るんですか」
「銭湯って俺行ったことないんだよな」
「………………」
だからって。
海堂はその呟きを飲み込んだ。
やけに乾が楽しそうだったからだ。
持っている紙袋の中身は、タオルとか着替えの類なのだろう。
慌てて、そして無理矢理突っ込んできたらしく、中身が少し見えていた。
「海堂の家の風呂どうしたんだ? 壊れたとか?」
「………そうです。明日業者が来て、点検してから見積もり出すとかで」
「シャワーも駄目なのか」
「水しか出ない」
「そうか」
海堂は銭湯行った事ある?と乾が突然に海堂の顔を覗き込んできた。
いきなり目の前に現れた乾の顔に息をのみつつ、海堂は首を横に振る。
乾は淡々と話を続けた。
「葉末君と一緒じゃないんだ」
「……葉末は、早い時間に母親と行ってきたんで」
「銭湯って何時からやってるんだ?」
「四時って言ってましたけど」
へえ、と乾は興味深そうに頷いた。
「なあ、海堂」
「……何っすか」
「俺って将来、銭湯通いしてそうじゃない? 木造の古いアパート、風呂無しに住んでてさ」
その想像は実に容易かった。
あっさり頷けると海堂は思った。
後学の為にと乾は本当に楽しそうで、海堂も自然と表情を緩めていた。
富士の湯について、湯ののれんをくぐる。
向かって右が男湯で、左が女湯だ。
右に進み、木製の下駄箱に靴を入れる。
下駄箱の鍵は金属板で、見た目の大きさに比べて重かった。
それを手にガラス戸を横に引いて中に入り、金額表を確認して料金を払う。
奥にあるロッカーの前で服を脱ぎながら、海堂は乾に言った。
「風呂つきのとこ住んだ方がいいっすよ。先輩」
そんな海堂の言葉に乾は神妙に頷いた。
「だな。一回四百五十円か。思ったより金がかかるんだな、銭湯ってのは」
一ヶ月にかかる金額がと口に出して計算しながら、乾は最後に眼鏡を外してタオルだけ手に持った。
「あ、海堂」
「…はい?」
「シャンプーとか貸してくれ」
「……はあ」
「それからさ。実はあんまりよく見えてないんだけど、手とか引いてっていうお願いは…」 ありかな?と問いかけてくる乾が、微かに笑っている。
乾の視力がどれほどなのか海堂は正確には知らなかったが、とりあえず今のこれは半分以上海堂をからかっているのだろう。
海堂は大袈裟な溜息を吐き出して、おもむろに乾の手をとった。
「……海堂?」
言っておいて驚く乾を引っ張るように海堂は歩き出す。
「敬って、労りますよ」
「おいおい。お前、そんなお年寄り相手みたいな事言うなよ」
言いながら乾も笑っている。
結局浴場の中に入るまで手が繋がったままになってしまった。
中には誰もいなかったので、まあいいかと思いながらも、やはりどこか気恥ずかしい。 それにしてもこんなに誰もいなくて経営は大丈夫なのだろうかと海堂は考えながら、髪を洗い。身体を洗う。
乾は興味深そうに周囲を一周してから、海堂の持って来たシャンプーや石鹸などで同じように髪と身体を洗い、湯船に沈んだ。
「結構深いな、これ。子供とか大丈夫なのか」
「回りの段になってる所に座らせておくんじゃないんですか」
「貸切だなあ……」
「……みたいっすね」
乾は、不思議だ。
特別な事は言わないが、口の重い海堂から言葉を引き出す。
会話をさせる。
たいした話ではなくても、何の気詰りもしないやりとりで、話が交わせる。
「………………」
海堂はずっと、必要でない言葉、意味のない言葉は、無用だと思っていた。
言葉よりも行動の方が重要だと思っていた。
ずっと、そうしてきたのだけれど。
乾といると、そうする事が難しくなる。
言葉は使わないと。
乾は以前海堂にそう言った。
奇妙なほど、海堂の言動を理解している彼が、そう言った。
言葉にした事で、現実になる事ってあるよ。
言葉にすれば、誰かがそれを聞いていて、いつか返ってくる事もあるよ。
そう、ひとりごとのように海堂に言った。
「………先輩…」
「何だ?」
どこまで見えているのか判らない乾の眼が、海堂を見据えてくる。
たっぷりと溢れている湯に肩先まで沈めて、海堂は湯の中で手を伸ばした。
「………………」
乾は問い返さない。
からかわない。
言葉を使えと海堂には告げたくせに、乾は黙って、そして何よりも正確に、湯の中で海堂の手をとった。
指と指が組まれて。
自分達は一続きになる。
手を引いて。
手をつないで。
そのどちらでもいい。
温かな液体の中で握った手のひらは、確かに、大切な感触がした。
フルーツ牛乳というのを飲んでみたいという意見は一致して、湯上りにお互いがその瓶入りの甘い飲み物を飲んだせいで。
銭湯からの帰り道、乾の住むマンション前での別れ際。
唇と唇が掠っただけのキスが、やけに、ものすごく、甘い味と余韻を互いの唇に残した。
至近距離で笑った吐息を漏らした乾の考えている事は、海堂と同じ事だ。
海堂もつられて微かに吐息に笑みを含ませた。
きっと、もしかしたら、何年か後にも、同じ事をしているかもしれない自分達。
否定出来ない。
むしろ、どこか確信じみていて気恥ずかしい。
風呂無しの木造アパートだとか。
銭湯の行き帰りの道だとか。
どうしよう、そんな未来。
現実になったら笑える。
だから出来たら将来、笑いたい。
八月になったというのに、夏ではなく秋がやってきたかのような気配は、夕涼みと言ってしまう事すら憚られる。
光が淡く消されて、いっそ煙っているかのような夕暮れの中、海堂は一人で歩いていた。
手に下げているビニールバックの中には、シャンプーとリンス、石鹸、ボディタオルなどが詰まっていた。
「海堂ー。どこ行くのー」
遠い距離のある所からの声。
唐突な呼びかけ。
けれど海堂は驚かなかった。
乾のいるマンションの前だなと思って通っていたので、無意識に視線も頭上の一室を見上げてもいたからだ。
そうして見上げた先にいた乾は、ベランダの手すりに手をついて、ひらりと大きな手のひらを振って海堂の歩を止めさせた。
「……風呂っす」
「ええー?」
「…風!呂!」
「ああー、お風呂ー?」
いかにも暢気な様子だが、大声を張り上げているわけでもない乾の声は、海堂の耳に楽に届いてきた。
「ちょっとそこで待ってて。海堂」
三分、と乾は言って。
ベランダから唐突に姿を消した。
「………………」
海堂は溜息をついた。
乾はいつも唐突だ。
ひどく落ち着いているようなのに、突拍子もない事を平気でしたりする。
実際乾はすぐに海堂の前に現れた。
紙袋をひとつ手に提げている。
「お待たせ。行こうか」
「………あの?」
「銭湯だろ?……あれ、富士の湯じゃなく?」
「……いや……それはそうなんですけど」
「じゃあ行こう」
乾は長い脚でのんびり歩いた。
海堂はその隣に並び、再びの溜息だ。
海堂が向かっている行先は、確かにここからあと五分ほど歩いた先にある富士の湯、銭湯だ。
しかし問題は行先ではない。
「…………何であんたが一緒に来るんですか」
「銭湯って俺行ったことないんだよな」
「………………」
だからって。
海堂はその呟きを飲み込んだ。
やけに乾が楽しそうだったからだ。
持っている紙袋の中身は、タオルとか着替えの類なのだろう。
慌てて、そして無理矢理突っ込んできたらしく、中身が少し見えていた。
「海堂の家の風呂どうしたんだ? 壊れたとか?」
「………そうです。明日業者が来て、点検してから見積もり出すとかで」
「シャワーも駄目なのか」
「水しか出ない」
「そうか」
海堂は銭湯行った事ある?と乾が突然に海堂の顔を覗き込んできた。
いきなり目の前に現れた乾の顔に息をのみつつ、海堂は首を横に振る。
乾は淡々と話を続けた。
「葉末君と一緒じゃないんだ」
「……葉末は、早い時間に母親と行ってきたんで」
「銭湯って何時からやってるんだ?」
「四時って言ってましたけど」
へえ、と乾は興味深そうに頷いた。
「なあ、海堂」
「……何っすか」
「俺って将来、銭湯通いしてそうじゃない? 木造の古いアパート、風呂無しに住んでてさ」
その想像は実に容易かった。
あっさり頷けると海堂は思った。
後学の為にと乾は本当に楽しそうで、海堂も自然と表情を緩めていた。
富士の湯について、湯ののれんをくぐる。
向かって右が男湯で、左が女湯だ。
右に進み、木製の下駄箱に靴を入れる。
下駄箱の鍵は金属板で、見た目の大きさに比べて重かった。
それを手にガラス戸を横に引いて中に入り、金額表を確認して料金を払う。
奥にあるロッカーの前で服を脱ぎながら、海堂は乾に言った。
「風呂つきのとこ住んだ方がいいっすよ。先輩」
そんな海堂の言葉に乾は神妙に頷いた。
「だな。一回四百五十円か。思ったより金がかかるんだな、銭湯ってのは」
一ヶ月にかかる金額がと口に出して計算しながら、乾は最後に眼鏡を外してタオルだけ手に持った。
「あ、海堂」
「…はい?」
「シャンプーとか貸してくれ」
「……はあ」
「それからさ。実はあんまりよく見えてないんだけど、手とか引いてっていうお願いは…」 ありかな?と問いかけてくる乾が、微かに笑っている。
乾の視力がどれほどなのか海堂は正確には知らなかったが、とりあえず今のこれは半分以上海堂をからかっているのだろう。
海堂は大袈裟な溜息を吐き出して、おもむろに乾の手をとった。
「……海堂?」
言っておいて驚く乾を引っ張るように海堂は歩き出す。
「敬って、労りますよ」
「おいおい。お前、そんなお年寄り相手みたいな事言うなよ」
言いながら乾も笑っている。
結局浴場の中に入るまで手が繋がったままになってしまった。
中には誰もいなかったので、まあいいかと思いながらも、やはりどこか気恥ずかしい。 それにしてもこんなに誰もいなくて経営は大丈夫なのだろうかと海堂は考えながら、髪を洗い。身体を洗う。
乾は興味深そうに周囲を一周してから、海堂の持って来たシャンプーや石鹸などで同じように髪と身体を洗い、湯船に沈んだ。
「結構深いな、これ。子供とか大丈夫なのか」
「回りの段になってる所に座らせておくんじゃないんですか」
「貸切だなあ……」
「……みたいっすね」
乾は、不思議だ。
特別な事は言わないが、口の重い海堂から言葉を引き出す。
会話をさせる。
たいした話ではなくても、何の気詰りもしないやりとりで、話が交わせる。
「………………」
海堂はずっと、必要でない言葉、意味のない言葉は、無用だと思っていた。
言葉よりも行動の方が重要だと思っていた。
ずっと、そうしてきたのだけれど。
乾といると、そうする事が難しくなる。
言葉は使わないと。
乾は以前海堂にそう言った。
奇妙なほど、海堂の言動を理解している彼が、そう言った。
言葉にした事で、現実になる事ってあるよ。
言葉にすれば、誰かがそれを聞いていて、いつか返ってくる事もあるよ。
そう、ひとりごとのように海堂に言った。
「………先輩…」
「何だ?」
どこまで見えているのか判らない乾の眼が、海堂を見据えてくる。
たっぷりと溢れている湯に肩先まで沈めて、海堂は湯の中で手を伸ばした。
「………………」
乾は問い返さない。
からかわない。
言葉を使えと海堂には告げたくせに、乾は黙って、そして何よりも正確に、湯の中で海堂の手をとった。
指と指が組まれて。
自分達は一続きになる。
手を引いて。
手をつないで。
そのどちらでもいい。
温かな液体の中で握った手のひらは、確かに、大切な感触がした。
フルーツ牛乳というのを飲んでみたいという意見は一致して、湯上りにお互いがその瓶入りの甘い飲み物を飲んだせいで。
銭湯からの帰り道、乾の住むマンション前での別れ際。
唇と唇が掠っただけのキスが、やけに、ものすごく、甘い味と余韻を互いの唇に残した。
至近距離で笑った吐息を漏らした乾の考えている事は、海堂と同じ事だ。
海堂もつられて微かに吐息に笑みを含ませた。
きっと、もしかしたら、何年か後にも、同じ事をしているかもしれない自分達。
否定出来ない。
むしろ、どこか確信じみていて気恥ずかしい。
風呂無しの木造アパートだとか。
銭湯の行き帰りの道だとか。
どうしよう、そんな未来。
現実になったら笑える。
だから出来たら将来、笑いたい。
薔薇は甘酸っぱい匂いがする事を、神尾は跡部の家で知った。
跡部の家の庭には薔薇の茂みがある。
「お前、なに当たり前の事言ってんだ」
「ええ? だってよぅ、俺こんなにたくさん薔薇の花が咲いてるとこ来た事ねえし」
呆れ返っている跡部に告げて、神尾はゆっくりと歩いた。
庭にはいろいろな種類の薔薇が植わっている。
名前や種類など知らなくても、綺麗なものは綺麗だ。
いい匂いがして、気持ちが良い。
迂闊に手折る事は出来ないし、棘もよく見るとかなり鋭い。
極たまに花束なんかで神尾が見る薔薇は、当然棘の処理がされているのだから。
野生の状態で目にすると、綺麗な薔薇の棘はいっそ強暴だ。
「跡部ってさぁ……何かもう、…薔薇ー!…って感じだよな」
「ああ?」
「だから、薔薇ー!って感じ」
「………………」
意味が判らねえとうんざり吐き捨てる跡部に神尾は唇を尖らせた。
「何で俺達って、会話出来ねえんだろ?」
「どう考えても貴様のせいだ」
「ええー、どう考えたって跡部のせいだろ!」
薔薇の咲く茂みに沿って、それでも二人。
肩を並べて歩いている。
「薔薇なんざ、いい喩えじゃねえだろうが」
「何で? いいじゃん」
綺麗。
薔薇も、跡部も。
それは神尾だって思っている。
けれども跡部は、さも嫌そうに嘆息した。
「薔薇みたいに害虫に弱い植物にこの俺を喩えんな」
「……そうなのか?」
「だから葡萄畑の周囲に薔薇が植えられてるんだろ」
「は? 葡萄?」
意味が判らねえと今度は神尾が眉根を寄せる。
何がどう繋がってそういう話になるのか、神尾には全く理解出来ない。
「ワインの葡萄だよ」
「…はぁ?」
「……何で俺とお前は、こうも会話が成り立たねえんだ」
「どう考えてもそれは跡部のせいだろ」
「バカヤロウ。お前だお前」
先程したばかりの会話を繰り返す。
そうして、やっぱり、どうしたって、そうなのに。
自分達は。
噛みあわない事の方が、圧倒的に多いのに。
「薔薇は害虫に弱いってさっき言ったろうが」
「ああ。それは聞いたぞ」
「だから薔薇が被害を受けると次は葡萄が被害を受ける。ワインをつくるための葡萄畑の回りには、だから薔薇が植えてあんだよ」
「……葡萄が害虫の被害にあわない目安でってこと?」
「綺麗な薔薇が咲いてりゃ、そこのワインは美味いんだよ」
跡部が、ふっつり言葉を切る。
何だ?と神尾は足を止めて隣に居る跡部を見上げた。
それと同時に唇が軽く重なった。
「………………」
「俺が薔薇でもいいぜ」
ふ、と吐息に笑みを混ぜた跡部の表情は艶然としていて神尾はくらくらした。
「せいぜいうまいワインになるんだな。お前」
「………は?…」
「側で薔薇が綺麗に咲いてる以上、葡萄は最高級のワインにならなきゃいけねえんだよ。判ったか」
「……、ぃ…、ってぇ…!」
言葉と同時に、後頭部を景気よく叩かれた。
手加減も何もない。
「痛ぇだろっ。何すんだ跡部っ」
「うるせえなぁ……」
薔薇の茂みで。
甘いような気配もこんなにも簡単に吹き飛ぶ自分達だけれど。
喧嘩ばかりをこうして繰り返すけど、時々は素直な気持ちを口に出してもみるし。
手やら足やら出して争う事もあるけれど、時々は抱き締めたり抱き締められたりして安寧してもいるし。
薔薇と葡萄で、いいのだろう。
これはこれで。
自分達は共存しているのだから。
跡部の家の庭には薔薇の茂みがある。
「お前、なに当たり前の事言ってんだ」
「ええ? だってよぅ、俺こんなにたくさん薔薇の花が咲いてるとこ来た事ねえし」
呆れ返っている跡部に告げて、神尾はゆっくりと歩いた。
庭にはいろいろな種類の薔薇が植わっている。
名前や種類など知らなくても、綺麗なものは綺麗だ。
いい匂いがして、気持ちが良い。
迂闊に手折る事は出来ないし、棘もよく見るとかなり鋭い。
極たまに花束なんかで神尾が見る薔薇は、当然棘の処理がされているのだから。
野生の状態で目にすると、綺麗な薔薇の棘はいっそ強暴だ。
「跡部ってさぁ……何かもう、…薔薇ー!…って感じだよな」
「ああ?」
「だから、薔薇ー!って感じ」
「………………」
意味が判らねえとうんざり吐き捨てる跡部に神尾は唇を尖らせた。
「何で俺達って、会話出来ねえんだろ?」
「どう考えても貴様のせいだ」
「ええー、どう考えたって跡部のせいだろ!」
薔薇の咲く茂みに沿って、それでも二人。
肩を並べて歩いている。
「薔薇なんざ、いい喩えじゃねえだろうが」
「何で? いいじゃん」
綺麗。
薔薇も、跡部も。
それは神尾だって思っている。
けれども跡部は、さも嫌そうに嘆息した。
「薔薇みたいに害虫に弱い植物にこの俺を喩えんな」
「……そうなのか?」
「だから葡萄畑の周囲に薔薇が植えられてるんだろ」
「は? 葡萄?」
意味が判らねえと今度は神尾が眉根を寄せる。
何がどう繋がってそういう話になるのか、神尾には全く理解出来ない。
「ワインの葡萄だよ」
「…はぁ?」
「……何で俺とお前は、こうも会話が成り立たねえんだ」
「どう考えてもそれは跡部のせいだろ」
「バカヤロウ。お前だお前」
先程したばかりの会話を繰り返す。
そうして、やっぱり、どうしたって、そうなのに。
自分達は。
噛みあわない事の方が、圧倒的に多いのに。
「薔薇は害虫に弱いってさっき言ったろうが」
「ああ。それは聞いたぞ」
「だから薔薇が被害を受けると次は葡萄が被害を受ける。ワインをつくるための葡萄畑の回りには、だから薔薇が植えてあんだよ」
「……葡萄が害虫の被害にあわない目安でってこと?」
「綺麗な薔薇が咲いてりゃ、そこのワインは美味いんだよ」
跡部が、ふっつり言葉を切る。
何だ?と神尾は足を止めて隣に居る跡部を見上げた。
それと同時に唇が軽く重なった。
「………………」
「俺が薔薇でもいいぜ」
ふ、と吐息に笑みを混ぜた跡部の表情は艶然としていて神尾はくらくらした。
「せいぜいうまいワインになるんだな。お前」
「………は?…」
「側で薔薇が綺麗に咲いてる以上、葡萄は最高級のワインにならなきゃいけねえんだよ。判ったか」
「……、ぃ…、ってぇ…!」
言葉と同時に、後頭部を景気よく叩かれた。
手加減も何もない。
「痛ぇだろっ。何すんだ跡部っ」
「うるせえなぁ……」
薔薇の茂みで。
甘いような気配もこんなにも簡単に吹き飛ぶ自分達だけれど。
喧嘩ばかりをこうして繰り返すけど、時々は素直な気持ちを口に出してもみるし。
手やら足やら出して争う事もあるけれど、時々は抱き締めたり抱き締められたりして安寧してもいるし。
薔薇と葡萄で、いいのだろう。
これはこれで。
自分達は共存しているのだから。
普段ひどく滑舌のいい宍戸の言葉がこの時ばかりはゆるく蕩けきって、乱れた呼気に乗る声音は暫くの間覚束ない。
「宍戸さん……苦しくない?……」
細い喉を撫でてやりながら、鳳は宍戸へ問いかける。
宍戸の唇は動いたが、言葉にはならなかった。
余韻を引きずる宍戸のこめかみに鳳は唇を寄せて小さく告げた。
「ちょっと待ってて下さいね」
「…………、………」
「…はい?」
荒い息と縺れた舌とで宍戸が口にしたのは自分の名前だろうと察したものの、鳳は丁寧に顔を近づけ聞き返した。
「飲み物と……あと欲しいものありますか…?」
「………、…じゃ…なくて……」
それから何事か呻くように悪態をついた宍戸が、潤んだ目で鳳を見据えてきた。
「…、…んで……そう、…余裕……」
「……俺が余裕な訳ないじゃないですか…」
何言ってるんですかと鳳は苦笑いする。
宍戸の言葉は切れ切れだったが、言おうとしていることは判った。
どこをどう見てそんな事をと鳳は思うのだが、掠れ声で宍戸は怒っている。
「……やく、…もどって来いよな…、…」
「それは勿論」
「もどって、きたら…お前…、…俺くらいなるまで、…ぜったい、もういっかい…、…」
「……、…宍戸さん」
鳳は密やかに頭を抱えたくなった。
何て事を言い出すのかこの年上の人はと。
だいたいもう一回だなんて、自分はすぐにだって出来てしまえる状態で、かといって宍戸にはかなりの負担の筈で。
それをそんなにもあっさりと告げる人の、負けん気の強さも相当に好きではあるが、この状況では鳳には少々酷な台詞だった。
荒いままの呼吸と、怒って無理して声を紡いだせいか、宍戸が軽く咳き込み出す。
宍戸の尖った肩を手のひらに包み、背中を撫で擦ってから鳳はベッドから降りた。
「………おとなしくしててくださいね…」
お願いだからと苦笑交じりに真摯に言って、鳳は自宅のキッチンへと向かう。
ミネラルウォーターのペットボトルを二本、冷蔵庫から取り出す。
それとビンに入った蜂蜜と、木製の匙をひとつ。
鳳は危なげなくそれらを全て手にして部屋に戻った。
宍戸がまだ軽く咳き込んでいる。
「宍戸さん……起きられる?」
手を貸そうかと鳳はベッドの縁に腰掛けて腕を伸ばしたが、宍戸は気だるげにではあったが自分で上半身を起こした。
鳳の肩口にもたれかかってくる。
「水飲む前に…ちょっとこれ飲み込んでみて貰えます…?」
「……あ…?」
鳳が木匙ですくった蜂蜜を宍戸の唇まで運ぶ。
宍戸は黙って蜂蜜を飲み込んだ。
僅かに眉根が寄った様を注意深く見つめていた鳳は、やっぱりと小さく息をついた。
「滲みました?」
「…べつに…、みる…ってほどじゃ、ね…けど」
「喉が痛んでいる時に蜂蜜をそのまま飲むと滲みるんですよ」
ひょっとすると少し風邪気味なのかもしれない。
鳳が抱いた後はいつも暫くはこんな感じの宍戸だったが、それにしても今日はやけに喉が苦しそうだと鳳も思っていたのだ。
キャップを開けたペットボトルを差し出すと宍戸は喉の乾きは酷いらしく暫く無心に飲んでいた。
その間に鳳はもう一本のボトルに口をつけ、少し量を減らしてから、水の中に蜂蜜を入れた。
「………なに…やってんだ?」
「蜂蜜水。喉に良いんですよ」
夜中喉乾いたらこれ飲んで下さいねと鳳は言ってベッドヘッドに甘い水のボトルを置いた。
宍戸は無論シャワーを浴びたいだろうけれど、風邪気味だとすれば止めておいた方がいいかもしれない。
再度ベッドを離れた鳳は、電子レンジでつくった蒸しタオルとかわいたタオルを数本手にして部屋へとまた戻る。
「宍戸さん?」
宍戸はベッドに寝そべったまま、蜂蜜水を舐めるように飲んでいた。
「あまいけど……なんかうまい……」
「……ですか?」
喉が結構痛んでいるってことかもしれないと鳳は思いながら、宍戸の身体を二種類のタオルで手早く拭った。
宍戸は終始おとなしかった。
「…………これより、あまいよな。お前」
気に入ったのか宍戸は蜂蜜水から手を離さない。
やけにしみじみと呟かれて、鳳は笑った。
「甘いより苦い方がいいですか?」
「んー……お前ならどっちでも……」
ぼんやりとした口調は眠いせいかもしれない。
それにしたってぺろりとそんな事を言われてしまった鳳は。
自分の方が熱が出ると、心中でのみ零す。
甘い蜂蜜が滲みた宍戸の喉の痛みと同じくらいの、甘い泣き言だった。
「宍戸さん……苦しくない?……」
細い喉を撫でてやりながら、鳳は宍戸へ問いかける。
宍戸の唇は動いたが、言葉にはならなかった。
余韻を引きずる宍戸のこめかみに鳳は唇を寄せて小さく告げた。
「ちょっと待ってて下さいね」
「…………、………」
「…はい?」
荒い息と縺れた舌とで宍戸が口にしたのは自分の名前だろうと察したものの、鳳は丁寧に顔を近づけ聞き返した。
「飲み物と……あと欲しいものありますか…?」
「………、…じゃ…なくて……」
それから何事か呻くように悪態をついた宍戸が、潤んだ目で鳳を見据えてきた。
「…、…んで……そう、…余裕……」
「……俺が余裕な訳ないじゃないですか…」
何言ってるんですかと鳳は苦笑いする。
宍戸の言葉は切れ切れだったが、言おうとしていることは判った。
どこをどう見てそんな事をと鳳は思うのだが、掠れ声で宍戸は怒っている。
「……やく、…もどって来いよな…、…」
「それは勿論」
「もどって、きたら…お前…、…俺くらいなるまで、…ぜったい、もういっかい…、…」
「……、…宍戸さん」
鳳は密やかに頭を抱えたくなった。
何て事を言い出すのかこの年上の人はと。
だいたいもう一回だなんて、自分はすぐにだって出来てしまえる状態で、かといって宍戸にはかなりの負担の筈で。
それをそんなにもあっさりと告げる人の、負けん気の強さも相当に好きではあるが、この状況では鳳には少々酷な台詞だった。
荒いままの呼吸と、怒って無理して声を紡いだせいか、宍戸が軽く咳き込み出す。
宍戸の尖った肩を手のひらに包み、背中を撫で擦ってから鳳はベッドから降りた。
「………おとなしくしててくださいね…」
お願いだからと苦笑交じりに真摯に言って、鳳は自宅のキッチンへと向かう。
ミネラルウォーターのペットボトルを二本、冷蔵庫から取り出す。
それとビンに入った蜂蜜と、木製の匙をひとつ。
鳳は危なげなくそれらを全て手にして部屋に戻った。
宍戸がまだ軽く咳き込んでいる。
「宍戸さん……起きられる?」
手を貸そうかと鳳はベッドの縁に腰掛けて腕を伸ばしたが、宍戸は気だるげにではあったが自分で上半身を起こした。
鳳の肩口にもたれかかってくる。
「水飲む前に…ちょっとこれ飲み込んでみて貰えます…?」
「……あ…?」
鳳が木匙ですくった蜂蜜を宍戸の唇まで運ぶ。
宍戸は黙って蜂蜜を飲み込んだ。
僅かに眉根が寄った様を注意深く見つめていた鳳は、やっぱりと小さく息をついた。
「滲みました?」
「…べつに…、みる…ってほどじゃ、ね…けど」
「喉が痛んでいる時に蜂蜜をそのまま飲むと滲みるんですよ」
ひょっとすると少し風邪気味なのかもしれない。
鳳が抱いた後はいつも暫くはこんな感じの宍戸だったが、それにしても今日はやけに喉が苦しそうだと鳳も思っていたのだ。
キャップを開けたペットボトルを差し出すと宍戸は喉の乾きは酷いらしく暫く無心に飲んでいた。
その間に鳳はもう一本のボトルに口をつけ、少し量を減らしてから、水の中に蜂蜜を入れた。
「………なに…やってんだ?」
「蜂蜜水。喉に良いんですよ」
夜中喉乾いたらこれ飲んで下さいねと鳳は言ってベッドヘッドに甘い水のボトルを置いた。
宍戸は無論シャワーを浴びたいだろうけれど、風邪気味だとすれば止めておいた方がいいかもしれない。
再度ベッドを離れた鳳は、電子レンジでつくった蒸しタオルとかわいたタオルを数本手にして部屋へとまた戻る。
「宍戸さん?」
宍戸はベッドに寝そべったまま、蜂蜜水を舐めるように飲んでいた。
「あまいけど……なんかうまい……」
「……ですか?」
喉が結構痛んでいるってことかもしれないと鳳は思いながら、宍戸の身体を二種類のタオルで手早く拭った。
宍戸は終始おとなしかった。
「…………これより、あまいよな。お前」
気に入ったのか宍戸は蜂蜜水から手を離さない。
やけにしみじみと呟かれて、鳳は笑った。
「甘いより苦い方がいいですか?」
「んー……お前ならどっちでも……」
ぼんやりとした口調は眠いせいかもしれない。
それにしたってぺろりとそんな事を言われてしまった鳳は。
自分の方が熱が出ると、心中でのみ零す。
甘い蜂蜜が滲みた宍戸の喉の痛みと同じくらいの、甘い泣き言だった。
努力して掴めるものは何なのか。
諦めない先にあるものは何なのか。
その経過も結果も、全てを見せてくれた。
そんな存在は稀有だ。
共に在る。
それがどれだけ特別な事であるか。
恋に落ちる。
それがどれだけ至当な事であるか。
判っているから、のめりこむ。
ココナッツミルクと発酵バターがベースの白いエビカレーをスプーンですくい、口に運ぶ。
舌に感じたスパイスを、フェンネル、カルダモン、と確認していた乾は、野菜汁に最適なスパイスは何だろうかとふと思った。
そういえば最近、野菜汁を改良する時間がとれていない。
何のスケジュールが押しているせいだろうかと記憶を辿っていくと、たちまち考え事が芋蔓式に増えていく。
「……乾先輩」
「………………」
「乾先輩!」
「………うん?」
どうやら名前を呼ばれている。
乾が顔を上げると、正面の席に座っている後輩が深く肩で息をついていた。
「いつまでスプーンを口にくわえたまんまでいるんスか」
「……へ?……ああ……」
そういえば、海堂の言うように。
確かにと乾はスプーンを口から引き出し、もう一口を素早く食べてから脇に置いた鞄の中身を探った。
今乾の頭の中は、幾つかの考え事が同時進行で流れている。
書き留めないと取りこぼしが出るのは確実だ。
乾はノートに文字を書き散らしながら、口腔にじんわりと残るカレーの味をしみじみ美味しいと思った。
エビのエキスを含んだ辛くも円やかなカレーだ。
もう一口食べたいが、如何せん今は手が止まらない。
「乾先輩」
「ん…?……」
低い声は呆れと窘めを隠さなかった。
ひたすらに紙面に文章を書き付けている乾の手が止まるのを見計らって、向かい側から海堂の腕が伸びてくる。
ノートを取られて、閉じられた。
「おい?」
「……メシ食ってる時くらい、止めたらどうです」
寡黙な海堂は、乾といる時は普段よりも僅かに饒舌だ。
敬語は崩さないが、寧ろ年長者のような物言いも、ぶっきらぼうな中に真摯な気遣いが滲んでいて心地いい。
乾は微苦笑と共に素直にそう思った。
「行儀悪いな。確かに」
「………それだけじゃなくて。メシん時くらい、頭休めた方がいい」
「………………」
憮然とした表情で海堂は眼を伏せた。
スープカレーを食べている海堂の、まっすぐに伸びた姿勢、綺麗な手捌きを乾は直視する。
そんな視線に気づいているのかいないのか、海堂はちらりと目線を上向けてきて言った。
「あんた四六時中考え事してんだから。メシ食う時くらい俺を見てればいいだろ」
うわ、と乾は眼を眇めた。
きた、と胸を押さえたくなる。
海堂の言葉数は、少ない分ストレートだ。
厳しい方向にも、甘い方向にも、真っ直ぐだ。
命令なのかお願いなのか提案なのか判らない所が乾を直撃する。
「………………」
海堂は言うだけ言うと、あとは黙々とスープカレーを食べ続けた。
柄の長いスプーンを節のない長い指が掴んでいる。
さらさらとしたスープを一滴も零す事無く唇へと運ぶ動き。
唇は香辛料に刺激でも受けたのか普段よりも色濃く赤い。
いつもはバンダナに抑えられている髪が、さらりと小さな丸い頭から滑る。
何の音もしない。
海堂の回りだけが無声映画のように冴え冴えと静かだ。
きれいに食べきったスープカレーの皿にスプーンが置かれる。
海堂が先程と同じように上向きの目線を乾に宛がってきて、怒鳴った。
「ただ見ててどうすんですか…!」
とにかく食えよっと乾を一喝した海堂の目元が、うっすらと赤かった。
そういう海堂のどこかにではなく、そういう海堂自身に見惚れる。
乾は海堂に見据えられたまま、エビカレーの続きにとりかかった。
ただ見られているという事もまた。
何とも言えない甘い気分で乾の胸の内が埋まった。
諦めない先にあるものは何なのか。
その経過も結果も、全てを見せてくれた。
そんな存在は稀有だ。
共に在る。
それがどれだけ特別な事であるか。
恋に落ちる。
それがどれだけ至当な事であるか。
判っているから、のめりこむ。
ココナッツミルクと発酵バターがベースの白いエビカレーをスプーンですくい、口に運ぶ。
舌に感じたスパイスを、フェンネル、カルダモン、と確認していた乾は、野菜汁に最適なスパイスは何だろうかとふと思った。
そういえば最近、野菜汁を改良する時間がとれていない。
何のスケジュールが押しているせいだろうかと記憶を辿っていくと、たちまち考え事が芋蔓式に増えていく。
「……乾先輩」
「………………」
「乾先輩!」
「………うん?」
どうやら名前を呼ばれている。
乾が顔を上げると、正面の席に座っている後輩が深く肩で息をついていた。
「いつまでスプーンを口にくわえたまんまでいるんスか」
「……へ?……ああ……」
そういえば、海堂の言うように。
確かにと乾はスプーンを口から引き出し、もう一口を素早く食べてから脇に置いた鞄の中身を探った。
今乾の頭の中は、幾つかの考え事が同時進行で流れている。
書き留めないと取りこぼしが出るのは確実だ。
乾はノートに文字を書き散らしながら、口腔にじんわりと残るカレーの味をしみじみ美味しいと思った。
エビのエキスを含んだ辛くも円やかなカレーだ。
もう一口食べたいが、如何せん今は手が止まらない。
「乾先輩」
「ん…?……」
低い声は呆れと窘めを隠さなかった。
ひたすらに紙面に文章を書き付けている乾の手が止まるのを見計らって、向かい側から海堂の腕が伸びてくる。
ノートを取られて、閉じられた。
「おい?」
「……メシ食ってる時くらい、止めたらどうです」
寡黙な海堂は、乾といる時は普段よりも僅かに饒舌だ。
敬語は崩さないが、寧ろ年長者のような物言いも、ぶっきらぼうな中に真摯な気遣いが滲んでいて心地いい。
乾は微苦笑と共に素直にそう思った。
「行儀悪いな。確かに」
「………それだけじゃなくて。メシん時くらい、頭休めた方がいい」
「………………」
憮然とした表情で海堂は眼を伏せた。
スープカレーを食べている海堂の、まっすぐに伸びた姿勢、綺麗な手捌きを乾は直視する。
そんな視線に気づいているのかいないのか、海堂はちらりと目線を上向けてきて言った。
「あんた四六時中考え事してんだから。メシ食う時くらい俺を見てればいいだろ」
うわ、と乾は眼を眇めた。
きた、と胸を押さえたくなる。
海堂の言葉数は、少ない分ストレートだ。
厳しい方向にも、甘い方向にも、真っ直ぐだ。
命令なのかお願いなのか提案なのか判らない所が乾を直撃する。
「………………」
海堂は言うだけ言うと、あとは黙々とスープカレーを食べ続けた。
柄の長いスプーンを節のない長い指が掴んでいる。
さらさらとしたスープを一滴も零す事無く唇へと運ぶ動き。
唇は香辛料に刺激でも受けたのか普段よりも色濃く赤い。
いつもはバンダナに抑えられている髪が、さらりと小さな丸い頭から滑る。
何の音もしない。
海堂の回りだけが無声映画のように冴え冴えと静かだ。
きれいに食べきったスープカレーの皿にスプーンが置かれる。
海堂が先程と同じように上向きの目線を乾に宛がってきて、怒鳴った。
「ただ見ててどうすんですか…!」
とにかく食えよっと乾を一喝した海堂の目元が、うっすらと赤かった。
そういう海堂のどこかにではなく、そういう海堂自身に見惚れる。
乾は海堂に見据えられたまま、エビカレーの続きにとりかかった。
ただ見られているという事もまた。
何とも言えない甘い気分で乾の胸の内が埋まった。
そういえば最後の方が思い出せなかった。
終わったんだっけ?と神尾はぼんやり考えてみたもののやはり何も思い出せない。
そしてそれで今は。
何をしているのか。
今は?と神尾は再度自問する。
何だかひどくふわふわと気持ちがいい。
さらさらと温かい。
確か少し前までは、熱くて、熱くて、熱くて。
それが痛みなのか快楽なのか区別出来ない強さで、神尾の身体の内側で、放熱している硬い熱を、のんでいた。
体内で砕けて弾けた熔けた感触を神尾は思い出した。
終わったのだ。
思い出した。
その瞬間を思い出してみれば、身体が震えた。
「……………」
ふと、神尾は肩を抱かれた。
眼が開かない。
でも判った。
今、神尾の肩を抱いたのは、跡部だ。
支えられた肩から、湯をかけられる。
シャワーのようだった。
「……………」
どうやら浴室に運ばれているらしかった。
湯船の中にいるらしかった。
神尾の感覚は少しずつ戻ってきているが、眼を開けるのも動き出すのも酷く億劫で、そのまま頭だけで状況を考える。
跡部が、自分を浴室に運び、肩を支えられながら自分はバスタブに沈んでいて、肩口からシャワーをかけられている、それが今の状況。
しかし、意識だけが覚醒し始めた先程の神尾の身震いを跡部はどう思ったのか。
強い力でいきなりバスタブから抱きかかえられた。
膝裏に回った腕と、肩を抱かれたままの腕。
そんな簡単に抱き上げるなと神尾は思ったが、跡部のそのひどく丁寧なやり方に募るのは心地良さばかりだ。
このままでいてもいい、むしろいたい、そんな風に神尾は思ってしまった。
跡部が自分を抱き上げたまま歩き出す。
手足の先から、ぽたぽたと水滴が落ちる。
爪先が擽ったかった。
跡部はいつもこうしてくれていたのだろうか。
湯船に浸され、浴室から運ばれ、バスローブらしきものに包まれて。
そのまま抱き締められる。
濡れた身体の水滴はバスローブに吸い込まれていく。
抱き上げられ、ベッドに寝かされる。
気持ちのいい厚手のタオルの感触が、手足を辿り、バスローブがゆるめられて、肌触りのいい何かを着せられる。
跡部は終始無言のまま。
ゆっくりと進めてくる。
神尾に触れてくる手は、すごく、丁寧だった。
おざなりな感触はなく、適当な印象もまるでない。
いつも、こうされていたのだろうか。
神尾は眼を閉じたまま、横たわったまま、ゆるい甘さにひたひたと胸の内を埋められてしまう。
跡部の手に頭を撫でられた。
髪を撫でつけられたようだった。
その指先で頬にも軽く接触を受ける。
折り曲げられた指の関節で、そっと辿られた頬が、熱を帯びないのが不思議なくらい。
跡部は何もかもが、どうしようもなく優しかった。
「………………」
いつもは、神尾はこの跡部を知らない。
跡部とした後に訳が判らなくなって、翌日目覚めれば自分の身なりは整えられていて、跡部にされているのは判っていたもの、こんなやり方だったなんて神尾は今日初めて知った。
丁寧すぎる。
優しすぎる。
意識もない、眠っている自分に。
目じりに唇が寄せられる。
髪がまた撫でられて、跡部が隣に横たわったのが、弾んだベッドのスプリングで判った。
頬にも唇が。
だから、本当に、何で今こんなにも甘く優しく丁寧なのだ。跡部は。
神尾は、自分の知らないところで、こんな風にされていたのだと気づかされ、それこそもう何か甘ったるいものにどっぷりと浸ってしまって落ちていく。
目覚められない。
起き上がれない。
「………………」
跡部はゆるやかな指先での接触と、幾度かのキスとで、何のリアクションもない神尾をかまった後、静かに寝入っていった。
跡部に抱かれて自失している間も、こんなに、とんでもなかったんだと。
神尾はその日、初めて知った。
終わったんだっけ?と神尾はぼんやり考えてみたもののやはり何も思い出せない。
そしてそれで今は。
何をしているのか。
今は?と神尾は再度自問する。
何だかひどくふわふわと気持ちがいい。
さらさらと温かい。
確か少し前までは、熱くて、熱くて、熱くて。
それが痛みなのか快楽なのか区別出来ない強さで、神尾の身体の内側で、放熱している硬い熱を、のんでいた。
体内で砕けて弾けた熔けた感触を神尾は思い出した。
終わったのだ。
思い出した。
その瞬間を思い出してみれば、身体が震えた。
「……………」
ふと、神尾は肩を抱かれた。
眼が開かない。
でも判った。
今、神尾の肩を抱いたのは、跡部だ。
支えられた肩から、湯をかけられる。
シャワーのようだった。
「……………」
どうやら浴室に運ばれているらしかった。
湯船の中にいるらしかった。
神尾の感覚は少しずつ戻ってきているが、眼を開けるのも動き出すのも酷く億劫で、そのまま頭だけで状況を考える。
跡部が、自分を浴室に運び、肩を支えられながら自分はバスタブに沈んでいて、肩口からシャワーをかけられている、それが今の状況。
しかし、意識だけが覚醒し始めた先程の神尾の身震いを跡部はどう思ったのか。
強い力でいきなりバスタブから抱きかかえられた。
膝裏に回った腕と、肩を抱かれたままの腕。
そんな簡単に抱き上げるなと神尾は思ったが、跡部のそのひどく丁寧なやり方に募るのは心地良さばかりだ。
このままでいてもいい、むしろいたい、そんな風に神尾は思ってしまった。
跡部が自分を抱き上げたまま歩き出す。
手足の先から、ぽたぽたと水滴が落ちる。
爪先が擽ったかった。
跡部はいつもこうしてくれていたのだろうか。
湯船に浸され、浴室から運ばれ、バスローブらしきものに包まれて。
そのまま抱き締められる。
濡れた身体の水滴はバスローブに吸い込まれていく。
抱き上げられ、ベッドに寝かされる。
気持ちのいい厚手のタオルの感触が、手足を辿り、バスローブがゆるめられて、肌触りのいい何かを着せられる。
跡部は終始無言のまま。
ゆっくりと進めてくる。
神尾に触れてくる手は、すごく、丁寧だった。
おざなりな感触はなく、適当な印象もまるでない。
いつも、こうされていたのだろうか。
神尾は眼を閉じたまま、横たわったまま、ゆるい甘さにひたひたと胸の内を埋められてしまう。
跡部の手に頭を撫でられた。
髪を撫でつけられたようだった。
その指先で頬にも軽く接触を受ける。
折り曲げられた指の関節で、そっと辿られた頬が、熱を帯びないのが不思議なくらい。
跡部は何もかもが、どうしようもなく優しかった。
「………………」
いつもは、神尾はこの跡部を知らない。
跡部とした後に訳が判らなくなって、翌日目覚めれば自分の身なりは整えられていて、跡部にされているのは判っていたもの、こんなやり方だったなんて神尾は今日初めて知った。
丁寧すぎる。
優しすぎる。
意識もない、眠っている自分に。
目じりに唇が寄せられる。
髪がまた撫でられて、跡部が隣に横たわったのが、弾んだベッドのスプリングで判った。
頬にも唇が。
だから、本当に、何で今こんなにも甘く優しく丁寧なのだ。跡部は。
神尾は、自分の知らないところで、こんな風にされていたのだと気づかされ、それこそもう何か甘ったるいものにどっぷりと浸ってしまって落ちていく。
目覚められない。
起き上がれない。
「………………」
跡部はゆるやかな指先での接触と、幾度かのキスとで、何のリアクションもない神尾をかまった後、静かに寝入っていった。
跡部に抱かれて自失している間も、こんなに、とんでもなかったんだと。
神尾はその日、初めて知った。
宍戸は現在待ちぼうけの最中だ。
しかし待ちぼうけというのは正しくはついに相手が来なかった事を指すので、正確なところ確定ではないのだが、とにかく待ち人が来ないのである。
それは事実だ。
「………………」
鳳が待ち合わせの場所に現れない。
これまでに宍戸との待ち合わせで、ただの一度も遅刻やドタキャンをしたことがない鳳がだ。
メールも電話も来ないばかりか、宍戸からかけてみた携帯は、メールの返事がないのは勿論、繋がりもしなかった。
「どうしたんだあいつ…」
八方塞がりなこの状態なら尚更、へたに動くのはまずい。
宍戸は待ち合わせ場所である、ひとけのない穴場である車のショールームの中で、ガラスの壁面に寄りかかり、肩越しの外の風景を流し見る。
適度な空調で内部は程よく涼しかった。
ここ最近暑い日が続いていたので、待ち合わせ場所をここにしたのは正解だった。
本当ならば今日は宍戸が見やっている道路の向こう側にある映画館で、映画を観る事になっていた。
二十分前の待ち合わせにも関わらず、とうにその上映時間は過ぎてしまっていた。
三十分以上、音沙汰無しだ。
こうなると怪我や事故でないようにと祈るばかりだが、不思議と宍戸の内に、そういうへたな胸騒ぎは起きなかった。
鳳に関しては案外そういう勘のようなものがよく働くので。
宍戸はむしろ落ち着いている。
あと三十分くらいは待ってもいいかと宍戸は思ったが、それから五分もしないうちに、自動ドアを走って駆け込んできた長身の男に、宍戸は片手を上げた。
「よう」
ここだと手を閃かせると、更に物凄い勢いで駆け寄ってきた鳳が、それこそ土下座でもしそうな勢いで頭を下げてきた。
「すみませ…、っ……」
「ん?…ああ、いいけどさ、お前」
すごい汗だった。
宍戸は目を瞠る。
長期戦の試合の時並みだった。
「大丈夫かよ、長太郎。なんか飲むか?」
このショールームの一階には、こじんまりとしたカフェスペースがある。
膝に手を当てて上体を屈めていた鳳が、宍戸の問いかけに勢いよく顔を上げてきた。
気難しい顔で、掠れた声で、鳳は彼にしては珍しいぞんざいな息遣いで言った。
「宍戸さん、なんで怒らないんですか、っ」
「あ? 腹たたねーからだよ」
当たり前の理由を告げて、宍戸は僅かに首を傾けた。
いったいどこから走って来たのか鳳は髪まで湿らせている。
宍戸は鳳の髪にそっと手を伸ばした。
しかしその指先が触れるか触れないかで鳳が再度頭を下げた。
「…おい」
「すみませんでした!本当にごめんなさいっ」
「だからー…怒ってねえっつーの。顔上げろよ」
普段見慣れない鳳の後頭部を、宍戸は苦笑いしながら軽くはたいた。
けれども鳳はそのままだ。
言い訳ではなく謝罪だけを繰り返すばかりの鳳に、しかたねえなあと嘆息して、宍戸は強い声で言った。
「悪いと思ってんならさっさと顔上げろ!」
「は、」
はい、と言いかけている鳳の唇を宍戸は素早く掠めた。
「宍戸さ…、…」
幸い辺りにひとけは無し。
各階に一箇所しかないインフォメーションは正面入口の前だ。
今宍戸達がいる出入り口はショールームのスタッフからも完全な死角故の、スペシャルサービスだ。
いつまで好きな相手の後頭部ばかりを見てりゃいいんだと、元来気の短い宍戸は痺れをきらしたのだ。
「俺が怒ってんのか怒ってないのかくらい目で見て判れ。馬鹿」
「………違います」
「何がだよ」
「俺は宍戸さんが怒ってるから謝るんじゃないです。宍戸さんに心配かけさせたり、長い時間待たせたりしてしまったことを謝りたいんです」
ごめんなさいとまた真摯に頭を下げる鳳に、宍戸は結局唇を緩めてしまう。
「……お前は……ったく」
両手で軽く鳳の髪をかき乱す。
鳳が顔を上げてくるのにあわせて、乱した髪を形のいい頭に撫でつけた。
「あんまりいい男になりすぎんなよ」
「宍戸さん?」」
みすみす誰かに奪われるつもりも毛頭ないが。
「そのうち……いつか、泣き落としとかまでしちまいそうで怖いんだよ…」
好きで、好きすぎて、今ならダセェと一蹴出来る事もいつかはしてしまいそうで怖い。
苦笑いを浮かべた宍戸を、鳳は怪訝に見つめてきて。
「そういうのは俺が」
ひどく生真面目に宍戸の言葉を否定して来た鳳の、汗に濡れた頬を宍戸は軽く指先で拭う。
「長太郎」
「はい」
「あのな。俺、お前としたくなったんだけどよ…」
「…、え?」
「やっぱ映画が先のがいいか?」
ならもうすこし我慢するけどと宍戸は鳳を真っ直ぐ見つめて言った。
鳳はといえば、近頃とみに大人びてきた顔をあからさまに赤くして。
息を詰まらせ、絶句して。
それでも充分に男前なまま。
本当に勘弁してくださいと、再び深々と頭を下げていってしまった。
しかし待ちぼうけというのは正しくはついに相手が来なかった事を指すので、正確なところ確定ではないのだが、とにかく待ち人が来ないのである。
それは事実だ。
「………………」
鳳が待ち合わせの場所に現れない。
これまでに宍戸との待ち合わせで、ただの一度も遅刻やドタキャンをしたことがない鳳がだ。
メールも電話も来ないばかりか、宍戸からかけてみた携帯は、メールの返事がないのは勿論、繋がりもしなかった。
「どうしたんだあいつ…」
八方塞がりなこの状態なら尚更、へたに動くのはまずい。
宍戸は待ち合わせ場所である、ひとけのない穴場である車のショールームの中で、ガラスの壁面に寄りかかり、肩越しの外の風景を流し見る。
適度な空調で内部は程よく涼しかった。
ここ最近暑い日が続いていたので、待ち合わせ場所をここにしたのは正解だった。
本当ならば今日は宍戸が見やっている道路の向こう側にある映画館で、映画を観る事になっていた。
二十分前の待ち合わせにも関わらず、とうにその上映時間は過ぎてしまっていた。
三十分以上、音沙汰無しだ。
こうなると怪我や事故でないようにと祈るばかりだが、不思議と宍戸の内に、そういうへたな胸騒ぎは起きなかった。
鳳に関しては案外そういう勘のようなものがよく働くので。
宍戸はむしろ落ち着いている。
あと三十分くらいは待ってもいいかと宍戸は思ったが、それから五分もしないうちに、自動ドアを走って駆け込んできた長身の男に、宍戸は片手を上げた。
「よう」
ここだと手を閃かせると、更に物凄い勢いで駆け寄ってきた鳳が、それこそ土下座でもしそうな勢いで頭を下げてきた。
「すみませ…、っ……」
「ん?…ああ、いいけどさ、お前」
すごい汗だった。
宍戸は目を瞠る。
長期戦の試合の時並みだった。
「大丈夫かよ、長太郎。なんか飲むか?」
このショールームの一階には、こじんまりとしたカフェスペースがある。
膝に手を当てて上体を屈めていた鳳が、宍戸の問いかけに勢いよく顔を上げてきた。
気難しい顔で、掠れた声で、鳳は彼にしては珍しいぞんざいな息遣いで言った。
「宍戸さん、なんで怒らないんですか、っ」
「あ? 腹たたねーからだよ」
当たり前の理由を告げて、宍戸は僅かに首を傾けた。
いったいどこから走って来たのか鳳は髪まで湿らせている。
宍戸は鳳の髪にそっと手を伸ばした。
しかしその指先が触れるか触れないかで鳳が再度頭を下げた。
「…おい」
「すみませんでした!本当にごめんなさいっ」
「だからー…怒ってねえっつーの。顔上げろよ」
普段見慣れない鳳の後頭部を、宍戸は苦笑いしながら軽くはたいた。
けれども鳳はそのままだ。
言い訳ではなく謝罪だけを繰り返すばかりの鳳に、しかたねえなあと嘆息して、宍戸は強い声で言った。
「悪いと思ってんならさっさと顔上げろ!」
「は、」
はい、と言いかけている鳳の唇を宍戸は素早く掠めた。
「宍戸さ…、…」
幸い辺りにひとけは無し。
各階に一箇所しかないインフォメーションは正面入口の前だ。
今宍戸達がいる出入り口はショールームのスタッフからも完全な死角故の、スペシャルサービスだ。
いつまで好きな相手の後頭部ばかりを見てりゃいいんだと、元来気の短い宍戸は痺れをきらしたのだ。
「俺が怒ってんのか怒ってないのかくらい目で見て判れ。馬鹿」
「………違います」
「何がだよ」
「俺は宍戸さんが怒ってるから謝るんじゃないです。宍戸さんに心配かけさせたり、長い時間待たせたりしてしまったことを謝りたいんです」
ごめんなさいとまた真摯に頭を下げる鳳に、宍戸は結局唇を緩めてしまう。
「……お前は……ったく」
両手で軽く鳳の髪をかき乱す。
鳳が顔を上げてくるのにあわせて、乱した髪を形のいい頭に撫でつけた。
「あんまりいい男になりすぎんなよ」
「宍戸さん?」」
みすみす誰かに奪われるつもりも毛頭ないが。
「そのうち……いつか、泣き落としとかまでしちまいそうで怖いんだよ…」
好きで、好きすぎて、今ならダセェと一蹴出来る事もいつかはしてしまいそうで怖い。
苦笑いを浮かべた宍戸を、鳳は怪訝に見つめてきて。
「そういうのは俺が」
ひどく生真面目に宍戸の言葉を否定して来た鳳の、汗に濡れた頬を宍戸は軽く指先で拭う。
「長太郎」
「はい」
「あのな。俺、お前としたくなったんだけどよ…」
「…、え?」
「やっぱ映画が先のがいいか?」
ならもうすこし我慢するけどと宍戸は鳳を真っ直ぐ見つめて言った。
鳳はといえば、近頃とみに大人びてきた顔をあからさまに赤くして。
息を詰まらせ、絶句して。
それでも充分に男前なまま。
本当に勘弁してくださいと、再び深々と頭を下げていってしまった。
思考までも湿らせてくる湿気にはほとほとうんざりするが、実際目の前で汗に濡れている海堂の姿は、乾の目には不思議と爽然として見えた。
「はい、お疲れ。終了だ」
「…………っす…」
最後のランニングを仕上げて足を止めた海堂が、無造作に肩口で額の汗を拭う。
乾に目礼してきた海堂の睫毛も、汗を含んだように濡れて色濃くなっていた。
慣例の二人で行う自主トレを終えて、乾は小型のクーラーボックスの中からボトルを取り出した。
「海堂」
途端に海堂が、きつい眼差しの中に怯えの色を翳すので、乾は微苦笑してボトルキャップを開けた。
「牛乳。ただのね」
「………………」
十中八九野菜汁だと思っている海堂が、またいかにも判りやすくその肩から息を抜いた。
こうやって徐々に素の表情を晒してくる海堂に、乾の興味が薄れる事はなかった。
興味というよりもはや執着だ。
「ちょうど飲み頃だ」
「飲み頃……?」
「そう。凍らせてきたからね」
ほら、と乾がボトルの中身を見せるようにすると、警戒心の強い猫が好奇心に負けたかのように目線を寄こしてくる。
黒い髪と黒い目の、きつくて綺麗な後輩は。
乾の目に近頃ひどく甘かった。
「牛乳を凍らせるとね、まずは水分から先に固まっていく」
「は……?」
「いわゆる不純物というか、牛乳で言うなら栄養成分みたいな物が、水分の後に固まっていく。溶ける時はその逆だ。栄養分から先に溶けていく」
つまり半解凍のこの状態の牛乳は、栄養素も高く、味も濃いのだと乾は海堂に飲んでみるよう促した。
海堂はおとなしく従ってきた。
ふわりとやわらかそうな唇がボトルの口に株さる。
上向いて、細い喉元が露になる。
一口二口飲んで海堂は目を瞠った。
「……だろう?」
乾が軽く頭を傾けて微笑み問えば、海堂は小さく頷いた。
黙って、それがやけに幼い仕草に思えた。
乾は無意識に海堂の濡れている髪の先に手をやった。
バンダナを外してやると、抗わないどころか、それこそ猫のようにふるりと頭を振った。
ミルクを飲んだばかりの唇の色が一際きれいだ。
「凍結濃縮ってね。ジュースなんかでも使われてるよ。果汁を濃縮させる為に、果汁を凍らせて水分だけを分離させる」
「………汁でやんないで下さいよ…」
「あれ。判った?」
途端に逆毛立つ猫のように気配を尖らせる海堂がまたどうにも乾を煽り立てる。
乾は忍び笑いを漏らしながら、それはまあ冗談だけどと呟いた。
「栄養素が高くなりそうだと思ったのは事実だけどね」
「これ以上のグレードアップは勘弁してほしいんですけど…」
海堂の心底からの苦い声に、乾は尚も笑みを深めた。
「…凍結濃縮っていうのは、海堂みたいだな」
「……は?」
「口数がね、少ない分」
「……………」
「海堂の言葉は濃く濃縮されてるよ」
馴れ合ってはこないし、あまり多くを語りもしないし、海堂の言葉は大概端的で飾りがない。
だからこそ、濁りなく、躊躇いなく、濃くて強い。
「………あんたは逆っすね…」
「そうだな。だから言葉は惜しまないようにしてる」
「……………」
乾が、海堂を抱き締めるたび、好きだと繰り返すのは。
だからなのだ。
自分達は何かひとつだけがひどく似通っていると乾は感じている。
でもそれ以外のものの殆どは、異なる事ばかりだ。
しかし、それだからこそうまくいっているのもまた事実だった
少しずつでもたくさん欲しい。
時々だけれども大きく欲しい。
違うやり方で、同じ気持ちで分け与えられるのが、自分達だ。
「はい、お疲れ。終了だ」
「…………っす…」
最後のランニングを仕上げて足を止めた海堂が、無造作に肩口で額の汗を拭う。
乾に目礼してきた海堂の睫毛も、汗を含んだように濡れて色濃くなっていた。
慣例の二人で行う自主トレを終えて、乾は小型のクーラーボックスの中からボトルを取り出した。
「海堂」
途端に海堂が、きつい眼差しの中に怯えの色を翳すので、乾は微苦笑してボトルキャップを開けた。
「牛乳。ただのね」
「………………」
十中八九野菜汁だと思っている海堂が、またいかにも判りやすくその肩から息を抜いた。
こうやって徐々に素の表情を晒してくる海堂に、乾の興味が薄れる事はなかった。
興味というよりもはや執着だ。
「ちょうど飲み頃だ」
「飲み頃……?」
「そう。凍らせてきたからね」
ほら、と乾がボトルの中身を見せるようにすると、警戒心の強い猫が好奇心に負けたかのように目線を寄こしてくる。
黒い髪と黒い目の、きつくて綺麗な後輩は。
乾の目に近頃ひどく甘かった。
「牛乳を凍らせるとね、まずは水分から先に固まっていく」
「は……?」
「いわゆる不純物というか、牛乳で言うなら栄養成分みたいな物が、水分の後に固まっていく。溶ける時はその逆だ。栄養分から先に溶けていく」
つまり半解凍のこの状態の牛乳は、栄養素も高く、味も濃いのだと乾は海堂に飲んでみるよう促した。
海堂はおとなしく従ってきた。
ふわりとやわらかそうな唇がボトルの口に株さる。
上向いて、細い喉元が露になる。
一口二口飲んで海堂は目を瞠った。
「……だろう?」
乾が軽く頭を傾けて微笑み問えば、海堂は小さく頷いた。
黙って、それがやけに幼い仕草に思えた。
乾は無意識に海堂の濡れている髪の先に手をやった。
バンダナを外してやると、抗わないどころか、それこそ猫のようにふるりと頭を振った。
ミルクを飲んだばかりの唇の色が一際きれいだ。
「凍結濃縮ってね。ジュースなんかでも使われてるよ。果汁を濃縮させる為に、果汁を凍らせて水分だけを分離させる」
「………汁でやんないで下さいよ…」
「あれ。判った?」
途端に逆毛立つ猫のように気配を尖らせる海堂がまたどうにも乾を煽り立てる。
乾は忍び笑いを漏らしながら、それはまあ冗談だけどと呟いた。
「栄養素が高くなりそうだと思ったのは事実だけどね」
「これ以上のグレードアップは勘弁してほしいんですけど…」
海堂の心底からの苦い声に、乾は尚も笑みを深めた。
「…凍結濃縮っていうのは、海堂みたいだな」
「……は?」
「口数がね、少ない分」
「……………」
「海堂の言葉は濃く濃縮されてるよ」
馴れ合ってはこないし、あまり多くを語りもしないし、海堂の言葉は大概端的で飾りがない。
だからこそ、濁りなく、躊躇いなく、濃くて強い。
「………あんたは逆っすね…」
「そうだな。だから言葉は惜しまないようにしてる」
「……………」
乾が、海堂を抱き締めるたび、好きだと繰り返すのは。
だからなのだ。
自分達は何かひとつだけがひどく似通っていると乾は感じている。
でもそれ以外のものの殆どは、異なる事ばかりだ。
しかし、それだからこそうまくいっているのもまた事実だった
少しずつでもたくさん欲しい。
時々だけれども大きく欲しい。
違うやり方で、同じ気持ちで分け与えられるのが、自分達だ。
さらさらとした肌触りの中に埋もれながら、神尾はふと目を覚ました。
気持ちの良い感触は、普段神尾が慣れ親しんでいるもの。
しかしここは跡部の家だ。
ガーゼの寝具。
一昨日ここに来た時、同じこのベッドで使われていた上掛けは、これとは違うものだった。
まだその時は夜になれば幾らか涼しい気候であったし、何より跡部の部屋の空調は完璧に保たれていたから。
これから本格的にやってくる夏を思って、神尾は跡部に、夏の寝具はガーゼケットだよなという話をしたからなのか、そうでないのか。
「………………」
神尾は心地良いガーゼの中で目を開けて、そこに跡部がいないので、微かに唸った。
逆の事をしたら怒るくせにとぶつぶつ呻いて、重い身体を投げ出すようにしてベッドから降りる。
「………、……」
跡部のTシャツを一枚、何時の間にやら着せられている。
捲れたシャツの裾から見えた自分の足の付け根に、男の執着も露な露骨な吸い痕が見下えて神尾は再び唸り声をもらす。
打撲かと思うほど色濃く残されている。
立ち上がると、腰がひどく重かった。
そのくせ腰から足先までの感触は、歩いてみても殆どない。
歩きづらい事この上なかった。
神尾は覚束ない足取りで部屋から続くテラスへと出た。
ガラス扉を押すと、そこには息苦しい熱をはらんだ夜の重い空気がある。
跡部はテラスの柵に寄りかかってぼんやり頭上を見やっていたが、神尾に気づくと目線を下げて少し皮肉気に唇の端を上げた。
「…なにやってんだよ」
声がうまく出ない。
寝起きのせいかもしれないし、先程までしていた行為のせいかもしれない。
掠れた神尾の声を、しかし跡部は正確に拾い上げた。
「熱さましてるだけだ」
「……って…中のがよっぽど涼しいじゃん」
「気温の話じゃねえよ」
「………………」
跡部は僅かに目を細め、渇いているらしい上唇をほんの少し覗いている舌先で舐めた。
その顔は、さっき見た。
見上げていた。
ずっと。
「………………」
「お前を抱いた後は、おさまりがつかねえんだよ」
背にある柵に両肘を乗せ、適当に羽織ったらしい白いシャツはろくに釦もとめられていない。
神尾が息苦しくなる程に、跡部の表情には卑猥な影がある。
「………ずっと残ってるみたいで、鬱陶しい?」
「誰がそんなこと言った」
「……俺、そこ行ってもいいのか」
何とはなしに躊躇してしまって、足がとどまり、声も小さく神尾が尋ね入れば、跡部は薄く微笑した。
「キスされるのが嫌でなけりゃな」
「…………やなわけないだろ」
近づいていく。
跡部の腕が伸びてくる。
神尾は跡部に肩を抱かれて、強く、引き寄せられた。
ふわりと、接触の柔らかなキスで唇が塞がれる。
そのキスは浅く、長かった。
「…、……跡…部…」
「お前は、ほんと俺ん中から出ていかねえな」
「え?…」
「俺の側にいてもいなくても、俺から近くでも離れていても、俺が起きていようが眠ってよういようが、出ていかねえで俺ん中にいるままだ」
それはつまりやっぱ鬱陶しいって事か?と思った事が顔にそのまま出たようで。
神尾は首筋に、噛むような口付けを跡部にされて身を竦めた。
「だいたいお前だろうが」
「…俺…が…なに?」
「鬱陶しいって思うなら」
お前だと繰り返され、跡部の強い腕が神尾の腰に回ってくる。
身体と身体が密着して、視線が近くて。
くたくたと跡部の胸元に落ちていってしまう神尾にしてみれば、それこそ鬱陶しいなんて誰が思うのだと心底呆れる気分だった。
「のこのこ俺の前に顔を出したお前が悪い」
「……跡部…」
神尾の耳元や首筋に跡部の唇がひっきりなしに触れてきて。
次第執拗になっていく感触がダイレクトに神尾に沁みこんでくる。
それは痛みのような明確な刺激で、跡部が言うところの『熱』だ。
神尾は跡部の背のシャツを握り締め、唇からこらえるような息が零れてしまうのを受諾する。
「神尾」
気づいている跡部は、けれども何も言わなかった。
ただ、神尾の名前を呼んだ時の跡部の呼気は、神尾の首筋にひどく熱かった。
指先にまで、じんわりと熱が走る。
「…………あつい…」
「今から言うな」
「…そんなこと言ったってよぅ」
「お前が言うな」
俺の方が熱い。
呻くような声音で、跡部はそう言った。
実際神尾の唇を塞いだ口付けの合間から、跡部が神尾に含ませてきた舌は、熱の塊のようだった。
暗くて、苦しい、真夏夜。
さらりと甘いガーゼに包まれ、もっと熱い、真夏夜。
気持ちの良い感触は、普段神尾が慣れ親しんでいるもの。
しかしここは跡部の家だ。
ガーゼの寝具。
一昨日ここに来た時、同じこのベッドで使われていた上掛けは、これとは違うものだった。
まだその時は夜になれば幾らか涼しい気候であったし、何より跡部の部屋の空調は完璧に保たれていたから。
これから本格的にやってくる夏を思って、神尾は跡部に、夏の寝具はガーゼケットだよなという話をしたからなのか、そうでないのか。
「………………」
神尾は心地良いガーゼの中で目を開けて、そこに跡部がいないので、微かに唸った。
逆の事をしたら怒るくせにとぶつぶつ呻いて、重い身体を投げ出すようにしてベッドから降りる。
「………、……」
跡部のTシャツを一枚、何時の間にやら着せられている。
捲れたシャツの裾から見えた自分の足の付け根に、男の執着も露な露骨な吸い痕が見下えて神尾は再び唸り声をもらす。
打撲かと思うほど色濃く残されている。
立ち上がると、腰がひどく重かった。
そのくせ腰から足先までの感触は、歩いてみても殆どない。
歩きづらい事この上なかった。
神尾は覚束ない足取りで部屋から続くテラスへと出た。
ガラス扉を押すと、そこには息苦しい熱をはらんだ夜の重い空気がある。
跡部はテラスの柵に寄りかかってぼんやり頭上を見やっていたが、神尾に気づくと目線を下げて少し皮肉気に唇の端を上げた。
「…なにやってんだよ」
声がうまく出ない。
寝起きのせいかもしれないし、先程までしていた行為のせいかもしれない。
掠れた神尾の声を、しかし跡部は正確に拾い上げた。
「熱さましてるだけだ」
「……って…中のがよっぽど涼しいじゃん」
「気温の話じゃねえよ」
「………………」
跡部は僅かに目を細め、渇いているらしい上唇をほんの少し覗いている舌先で舐めた。
その顔は、さっき見た。
見上げていた。
ずっと。
「………………」
「お前を抱いた後は、おさまりがつかねえんだよ」
背にある柵に両肘を乗せ、適当に羽織ったらしい白いシャツはろくに釦もとめられていない。
神尾が息苦しくなる程に、跡部の表情には卑猥な影がある。
「………ずっと残ってるみたいで、鬱陶しい?」
「誰がそんなこと言った」
「……俺、そこ行ってもいいのか」
何とはなしに躊躇してしまって、足がとどまり、声も小さく神尾が尋ね入れば、跡部は薄く微笑した。
「キスされるのが嫌でなけりゃな」
「…………やなわけないだろ」
近づいていく。
跡部の腕が伸びてくる。
神尾は跡部に肩を抱かれて、強く、引き寄せられた。
ふわりと、接触の柔らかなキスで唇が塞がれる。
そのキスは浅く、長かった。
「…、……跡…部…」
「お前は、ほんと俺ん中から出ていかねえな」
「え?…」
「俺の側にいてもいなくても、俺から近くでも離れていても、俺が起きていようが眠ってよういようが、出ていかねえで俺ん中にいるままだ」
それはつまりやっぱ鬱陶しいって事か?と思った事が顔にそのまま出たようで。
神尾は首筋に、噛むような口付けを跡部にされて身を竦めた。
「だいたいお前だろうが」
「…俺…が…なに?」
「鬱陶しいって思うなら」
お前だと繰り返され、跡部の強い腕が神尾の腰に回ってくる。
身体と身体が密着して、視線が近くて。
くたくたと跡部の胸元に落ちていってしまう神尾にしてみれば、それこそ鬱陶しいなんて誰が思うのだと心底呆れる気分だった。
「のこのこ俺の前に顔を出したお前が悪い」
「……跡部…」
神尾の耳元や首筋に跡部の唇がひっきりなしに触れてきて。
次第執拗になっていく感触がダイレクトに神尾に沁みこんでくる。
それは痛みのような明確な刺激で、跡部が言うところの『熱』だ。
神尾は跡部の背のシャツを握り締め、唇からこらえるような息が零れてしまうのを受諾する。
「神尾」
気づいている跡部は、けれども何も言わなかった。
ただ、神尾の名前を呼んだ時の跡部の呼気は、神尾の首筋にひどく熱かった。
指先にまで、じんわりと熱が走る。
「…………あつい…」
「今から言うな」
「…そんなこと言ったってよぅ」
「お前が言うな」
俺の方が熱い。
呻くような声音で、跡部はそう言った。
実際神尾の唇を塞いだ口付けの合間から、跡部が神尾に含ませてきた舌は、熱の塊のようだった。
暗くて、苦しい、真夏夜。
さらりと甘いガーゼに包まれ、もっと熱い、真夏夜。
噴き出す汗に溺れそうになる。
濡れた中で荒く塞がれた唇は、息をも止められ、苦しくもがく側からかぶりつかれて、また深いキスへと繋がった。
決して嫌がっていないのに、手首の拘束は暴力的で。
呼吸が奪われる執拗な口付けは、麻酔の効力で。
南の記憶を錯乱させる。
あの日、千石は、どちらをたしなめていただろうか。
夕焼けに満ちた部室で、千石の言葉が部誌を書きつけていた南の手の動きを止める。
「南は亜久津がいなくても平気だろうけど、亜久津は南がいないと駄目なんじゃないかな」
「………千石?」
何の話だ?と南が聞くより先。
苦笑いしている千石は言った。
「だって南が」
「俺が何」
「亜久津を育てちゃったから」
「…は?」
肘をついた片手に頬を乗せて、千石は溜息のように言葉を綴る。
「叱って、甘やかして、信じてさ。繰り返し繰り返し、何度も何度も」
「………俺が亜久津を?」
「殴られても、怒鳴られても、全然びびんないし。南、見た目地味だから、そういうの結構びっくりするよ。ギャップ強くて」
「……千石。一言余計だ」
困惑交じりに南は千石を睨んだ。
何を言われているのか、もしくは言われようとしているのか。
南には判らなくて。
ペンを置いて、たいして大きくもない部室の机を向かい合わせに挟んでいる千石を真直ぐに見据える。
「第一、びびんないとか、そんなのうちの部員達の殆どは……」
「でも俺は亜久津を叱らないよ?」
「…………それは…まあ…そうだけど」
「あっくんしょうがないなーって放っておいちゃうしね。東方は叱る事はあっても、甘やかしはしないし。室町くん達は、びびりはしないけど放任でしょ? そういうの全部やってんのは南だけ」
夕焼けは千石の明るい髪を一層眩く光らせる。
南は少し目を細めた。
「南の側は居心地いいよ」
「………………」
「羽目外して何かやらかす一歩手前で、堅実にストッパーしてくれるし」
「千石?…お前、何でそんな話を俺にする?」
いい加減なようでいて誰よりも聡い千石の本質を知っている南には、千石の言いたい事が一向に掴めない。
普段とは違う、まるで遠慮がちな話し方も気になって、南は千石の話をそっと遮った。
千石は、そうされて気分を害した風もなく、ただ軽く頷くような仕草をみせた。
「ん。あのさ」
そうして普段の千石らしい物言いで言った。
「南は、そういうわけで、すごいいい奴なんだけど、唯一にして最大の欠点があると俺は思うわけ」
「は?」
「南。にぶい」
「……は?」
面食らった南に対して、千石は盛大な溜息を吐き出した。
「ほんっとに、にぶい。こんなこと、俺が教えなくても自分で気づいてよー」
「何をだよ?」
そんなあからさまに呆れられても。
南には本当にさっぱりと判らない。
「どうしてあんなギラギラした目で見られてて判んないの」
「だから何が?」
「身体に判らせてやるとか、もういつ言われてもおかしくないだろ。南」
どうすんのそんなんじゃさあ、と情けなく肩を落とし、眉も下げる千石を、具合でも悪いのかと南は怪訝に覗き込む。
「千石? どうしたんだよ」
「………もー……どうしたじゃないよ……」
千石は、珍しくも自棄っぱちな口調で、机に顔を伏せてしまった。
そして取り残された南はといえば、困ったように、そんな千石と向き合うしかなかった。
そんな会話をして、何の意味も判らなくて、いた時もあったのに。
結局千石の目はいつでも確かで、彼の危惧した通りになった気もする。
「……、…に考えてやがる」
「………っ…ぁ…、ッ」
もう二度とほどけないかと思ったキスが離れて、煙草の匂いが乱れた息に飽和して。
濡れそぼっては零れ、尚も濡れる口元に、南は無意識に手をやった。
苛立った亜久津の気配は尖って痛い。
「ん、…、…ッ……、」
首筋から喉元から噛みつかれ、長い指が、かわいた手のひらが、身体中に触れてくる。
亜久津の手に弄られて、押し込まれて。
互いの皮膚が、重なって、擦れていく。
そこから発火していきそうになる。
初めての、あの時も。
初めての、あの後も。
闇雲な衝動に巻き込まれるやり方は暴力をも思わせたけれど、繰り返していくうち、南は慣れて、亜久津は焦れて餓えていく。
躊躇いが亜久津を追い立てている事を知っているから、南は自分の首筋に歯を食い込ませる亜久津の頭をゆるく抱いた。
そこには亜久津の舌も、自分の汗も滲みた。
噛み切られても与えたまま。
「…亜久津」
「………………」
「お前が本気で殴ったって、俺はそう簡単に壊れたりしないし……お前がやりたいだけやったって、たぶん平気だぜ…?」
亜久津に何をされてもいいと思うのは、決して自虐などではない。
亜久津が欠片も言葉にはせずに危惧している事など、南には少しも重大な事ではない。
「……甘くみられたもんだな」
酷く獰猛な目で睨みつけられ、吐き捨てられた言葉と舌打ち。
顔を上げてきた亜久津の唇の表面は、薄く血で赤い。
南はそれを見上げて微笑した。
「……こっちの台詞だよ。亜久津」
「…………、…テメェ……」
真上から喉で押さえられて口付けられる。
「っ…、ン…っ、ぅ…」
もう一方の阿久津の手は南の下腹部に伸び、手のひらの付け根の固い骨でそれを嬲られながら、骨ばった長い指が深く埋められていく。
「……ひ……ぁ…っ…」
「…どこが平気だって」
「ァ……ぁ…、…ァっ…、ァ」
「ふざけるな」
荒い指に内側から身体を数回突き上げられ、引き摺り出されたような嬌声で南の喉がまだ震えているうちに、亜久津は南の両足を腿の裏側で掴んで押し広げた。
衝撃としか言いようのない力で身体を拓かれる。
声も出せずに仰け反って戦慄いた南の喉元で、亜久津がつけた傷跡からうっすらと血が滲んだようで。
「………、…ッ…」
何事か毒づいた亜久津にそこをきつく吸われて、南は、ひりつく小さな痛みが判るくらいには正気へと引き戻された。
「……っ…ぅ、…」
「………………」
「…、…く…」
無理矢理に押し込まれたまま、でもそこから動き出そうとはせず。
音でもしそうに奥歯を噛み締めている亜久津に、南は手を伸ばす。
指先で、削げたような硬質なラインの亜久津の頬に触れる。
「……大丈夫…だろ…?」
「………………」
「………いいよ……じっとなんか…してなくて……」
しなくていい我慢なんて必要ないのだと、南は亜久津に判らせたいだけだ。
亜久津の目は獰猛さを増して、南を本気で殺してしまいたそうな顔をする。
「壊れやがったら……本気で殺すぞ」
「…………ん」
頷きは。
尋常でない揺すられ方に掻き消された。
そこでされているのと同じ強さで唇も塞がれ、体内を擦られているのと同じやり方で硬口蓋を強い舌で撫でられる。
怖いような痺れを伴って南の気が遠くなる。
それが何故なのか、亜久津が正しく気づけばいい。
「ぁ、…、く…っ、ぅ…、」
手加減なんか、これっぽっちも、絶対に、しないのに。
壊れたら殺すなんて脅すくらいなら。
執着にまみれたキスひとつで、簡単に縛られた自分に対してもう少し付け上がっていればいいのにと南は思う。
自分を睨み付けてくる亜久津のきつい目が、必死に見えるなんて変だ。
「………亜久津…」
キスが解けて、舌打ちが、悔しげに聞こえるとか。
「亜久津?……」
荒い息とか。
焼けおちそうな高ぶりだとか。
切羽詰っていって、猛々しい乱れに取り囲まれていく気配だとか。
「…………くそったれ」
毒づく言葉の甘さが脳に沁みる。
こうしていて、おかしくなるのは、自分だけのはずなのに。
どうしてこの男まで、そんな顔をと南は思って、再び亜久津の顔へと伸ばした指を。
亜久津の口に深く銜えられ、飲み込まれ、根元近くを、強く噛まれた。
噛み傷は、誓いの指輪の形に酷似していた。
濡れた中で荒く塞がれた唇は、息をも止められ、苦しくもがく側からかぶりつかれて、また深いキスへと繋がった。
決して嫌がっていないのに、手首の拘束は暴力的で。
呼吸が奪われる執拗な口付けは、麻酔の効力で。
南の記憶を錯乱させる。
あの日、千石は、どちらをたしなめていただろうか。
夕焼けに満ちた部室で、千石の言葉が部誌を書きつけていた南の手の動きを止める。
「南は亜久津がいなくても平気だろうけど、亜久津は南がいないと駄目なんじゃないかな」
「………千石?」
何の話だ?と南が聞くより先。
苦笑いしている千石は言った。
「だって南が」
「俺が何」
「亜久津を育てちゃったから」
「…は?」
肘をついた片手に頬を乗せて、千石は溜息のように言葉を綴る。
「叱って、甘やかして、信じてさ。繰り返し繰り返し、何度も何度も」
「………俺が亜久津を?」
「殴られても、怒鳴られても、全然びびんないし。南、見た目地味だから、そういうの結構びっくりするよ。ギャップ強くて」
「……千石。一言余計だ」
困惑交じりに南は千石を睨んだ。
何を言われているのか、もしくは言われようとしているのか。
南には判らなくて。
ペンを置いて、たいして大きくもない部室の机を向かい合わせに挟んでいる千石を真直ぐに見据える。
「第一、びびんないとか、そんなのうちの部員達の殆どは……」
「でも俺は亜久津を叱らないよ?」
「…………それは…まあ…そうだけど」
「あっくんしょうがないなーって放っておいちゃうしね。東方は叱る事はあっても、甘やかしはしないし。室町くん達は、びびりはしないけど放任でしょ? そういうの全部やってんのは南だけ」
夕焼けは千石の明るい髪を一層眩く光らせる。
南は少し目を細めた。
「南の側は居心地いいよ」
「………………」
「羽目外して何かやらかす一歩手前で、堅実にストッパーしてくれるし」
「千石?…お前、何でそんな話を俺にする?」
いい加減なようでいて誰よりも聡い千石の本質を知っている南には、千石の言いたい事が一向に掴めない。
普段とは違う、まるで遠慮がちな話し方も気になって、南は千石の話をそっと遮った。
千石は、そうされて気分を害した風もなく、ただ軽く頷くような仕草をみせた。
「ん。あのさ」
そうして普段の千石らしい物言いで言った。
「南は、そういうわけで、すごいいい奴なんだけど、唯一にして最大の欠点があると俺は思うわけ」
「は?」
「南。にぶい」
「……は?」
面食らった南に対して、千石は盛大な溜息を吐き出した。
「ほんっとに、にぶい。こんなこと、俺が教えなくても自分で気づいてよー」
「何をだよ?」
そんなあからさまに呆れられても。
南には本当にさっぱりと判らない。
「どうしてあんなギラギラした目で見られてて判んないの」
「だから何が?」
「身体に判らせてやるとか、もういつ言われてもおかしくないだろ。南」
どうすんのそんなんじゃさあ、と情けなく肩を落とし、眉も下げる千石を、具合でも悪いのかと南は怪訝に覗き込む。
「千石? どうしたんだよ」
「………もー……どうしたじゃないよ……」
千石は、珍しくも自棄っぱちな口調で、机に顔を伏せてしまった。
そして取り残された南はといえば、困ったように、そんな千石と向き合うしかなかった。
そんな会話をして、何の意味も判らなくて、いた時もあったのに。
結局千石の目はいつでも確かで、彼の危惧した通りになった気もする。
「……、…に考えてやがる」
「………っ…ぁ…、ッ」
もう二度とほどけないかと思ったキスが離れて、煙草の匂いが乱れた息に飽和して。
濡れそぼっては零れ、尚も濡れる口元に、南は無意識に手をやった。
苛立った亜久津の気配は尖って痛い。
「ん、…、…ッ……、」
首筋から喉元から噛みつかれ、長い指が、かわいた手のひらが、身体中に触れてくる。
亜久津の手に弄られて、押し込まれて。
互いの皮膚が、重なって、擦れていく。
そこから発火していきそうになる。
初めての、あの時も。
初めての、あの後も。
闇雲な衝動に巻き込まれるやり方は暴力をも思わせたけれど、繰り返していくうち、南は慣れて、亜久津は焦れて餓えていく。
躊躇いが亜久津を追い立てている事を知っているから、南は自分の首筋に歯を食い込ませる亜久津の頭をゆるく抱いた。
そこには亜久津の舌も、自分の汗も滲みた。
噛み切られても与えたまま。
「…亜久津」
「………………」
「お前が本気で殴ったって、俺はそう簡単に壊れたりしないし……お前がやりたいだけやったって、たぶん平気だぜ…?」
亜久津に何をされてもいいと思うのは、決して自虐などではない。
亜久津が欠片も言葉にはせずに危惧している事など、南には少しも重大な事ではない。
「……甘くみられたもんだな」
酷く獰猛な目で睨みつけられ、吐き捨てられた言葉と舌打ち。
顔を上げてきた亜久津の唇の表面は、薄く血で赤い。
南はそれを見上げて微笑した。
「……こっちの台詞だよ。亜久津」
「…………、…テメェ……」
真上から喉で押さえられて口付けられる。
「っ…、ン…っ、ぅ…」
もう一方の阿久津の手は南の下腹部に伸び、手のひらの付け根の固い骨でそれを嬲られながら、骨ばった長い指が深く埋められていく。
「……ひ……ぁ…っ…」
「…どこが平気だって」
「ァ……ぁ…、…ァっ…、ァ」
「ふざけるな」
荒い指に内側から身体を数回突き上げられ、引き摺り出されたような嬌声で南の喉がまだ震えているうちに、亜久津は南の両足を腿の裏側で掴んで押し広げた。
衝撃としか言いようのない力で身体を拓かれる。
声も出せずに仰け反って戦慄いた南の喉元で、亜久津がつけた傷跡からうっすらと血が滲んだようで。
「………、…ッ…」
何事か毒づいた亜久津にそこをきつく吸われて、南は、ひりつく小さな痛みが判るくらいには正気へと引き戻された。
「……っ…ぅ、…」
「………………」
「…、…く…」
無理矢理に押し込まれたまま、でもそこから動き出そうとはせず。
音でもしそうに奥歯を噛み締めている亜久津に、南は手を伸ばす。
指先で、削げたような硬質なラインの亜久津の頬に触れる。
「……大丈夫…だろ…?」
「………………」
「………いいよ……じっとなんか…してなくて……」
しなくていい我慢なんて必要ないのだと、南は亜久津に判らせたいだけだ。
亜久津の目は獰猛さを増して、南を本気で殺してしまいたそうな顔をする。
「壊れやがったら……本気で殺すぞ」
「…………ん」
頷きは。
尋常でない揺すられ方に掻き消された。
そこでされているのと同じ強さで唇も塞がれ、体内を擦られているのと同じやり方で硬口蓋を強い舌で撫でられる。
怖いような痺れを伴って南の気が遠くなる。
それが何故なのか、亜久津が正しく気づけばいい。
「ぁ、…、く…っ、ぅ…、」
手加減なんか、これっぽっちも、絶対に、しないのに。
壊れたら殺すなんて脅すくらいなら。
執着にまみれたキスひとつで、簡単に縛られた自分に対してもう少し付け上がっていればいいのにと南は思う。
自分を睨み付けてくる亜久津のきつい目が、必死に見えるなんて変だ。
「………亜久津…」
キスが解けて、舌打ちが、悔しげに聞こえるとか。
「亜久津?……」
荒い息とか。
焼けおちそうな高ぶりだとか。
切羽詰っていって、猛々しい乱れに取り囲まれていく気配だとか。
「…………くそったれ」
毒づく言葉の甘さが脳に沁みる。
こうしていて、おかしくなるのは、自分だけのはずなのに。
どうしてこの男まで、そんな顔をと南は思って、再び亜久津の顔へと伸ばした指を。
亜久津の口に深く銜えられ、飲み込まれ、根元近くを、強く噛まれた。
噛み傷は、誓いの指輪の形に酷似していた。
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