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How did you feel at your first kiss?
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 今年の十五夜は強烈な雨風で月など到底望める状態ではなかった。
 季節行事に忠実やかな海堂の母親はそれをひどく残念がって、翌々日の晴天の日の夜、二日遅れのお月見をしましょうと言って、改めてススキを活け、月見団子をたくさん作った。
 そして夜の走りこみに出ようとしていた海堂を呼び止めると、乾と会うのかどうかを確認した上で、月見団子のお重を持たせてきたのだ。
 持たされた海堂は、いつもの河原まで本気で走っていく訳にもいかずペースを落とした分乾よりも後に河原についた。
 月明かりで夜目にもはっきり相手の表情が判る。
 先に来ていた乾は海堂の口から事情を聞くと笑って、河原の土手を指差して言った。
「しようか。お月見」
 それで二人は河原の土手に並んで座り、冴え冴えと煌く月を見上げたのだ。
 どこかで秋の虫の鳴き声がしていた。
「これも穂摘さんの手作り?」
「………っす」
「すごいな」
 深さのある小ぶりのお重の蓋を開けると積まれた月見団子が現れて、乾は頂きますと言って手を伸ばしてきた。
 ひょいと一個口に入れて目を見開く。
「……お」
「………………」
 海堂はじっと乾を見据える。
「月見団子って、こんなにうまいものなのか……」
 真面目な乾の呟きに、海堂は判る人でなければ判らない程度の薄い笑みを唇に浮かべた。
 乾は判る人なので海堂の表情を目にして同じように笑みで返してくる。
「何?」
「………や、」
 なんでもないと海堂が言えば、それ以上追い込んできたりはしない。
 乾は次の団子に手を伸ばす。
「あれ、さっきのと味違う?」
「ああ…」
 見た目は全く同じ。
 取り立てて変哲のない白い月見団子なのだが、乾の言うように二種類入っているのだ。
「うちのは白玉粉も入ってるんで…水で練らないで、牛乳で練ったのと豆腐で練ったのがあるから味が違うかと」
「へえ…手間隙かかってるんだな」
「別にそれほど大変な訳では…」
「………………」
「……、…何っすか…」
 乾が顔を近づけてきたので、海堂は小さく息を飲む。
 見返して問うと、乾が唇に笑みを刻んだ。
「もしかして海堂も、これ作った?」
「………っ…、……」
 いきなり切り込んでこられて、海堂は怯んでしまった。
 別にそれが何だと返せばいいだけの話なのは判っているのだが。
「海堂」
「……っ…たら…、何…」
 手伝っただけだ。
 でも乾にも食べさせると知っていたら、手伝わなかったかもしれない。
 別に嫌な訳ではない。
 ただどうしようもなく気恥ずかしい。
 でも、一口食べて。
 うまいと言った乾の言葉が、嬉しかったのも本当だ。
「月見団子が自家製で作れるなんてすごいよな」
「………別にただ混ぜるだけで…」
「俺は家事は分担制であるべきだと思う派なんだが……掃除苦手なんだよなあ…」
「は…?」
「でも料理は絶対海堂のが美味い筈だし」
「あの…乾先輩…」
「仕事で分ける当番制じゃなくて、曜日か週かで分けるんでどうだろう」
「あんた、さっきから何の話してるんですか」
「え? 将来の話を」
 俺達の、と乾は言った。
「………………」
 団子を食いながらか。
 海堂はがっくり肩を落とした。
 しかしそれは突拍子もないと呆れているというよりも。
 真面目にそんな事を考えて、思い悩んでいる乾にどうしようもなく気恥ずかしい思いをさせられたからだ。
 乾は月見団子を黙々と食べて、ああでもないこうでもないと呟いてる。
 乾がとりやすいようにお重を彼の方に向けてやりながら、海堂は秋の月を見上げた。
 月は、潔く綺麗だ。
「乾先輩」
「ん?……ああ、何だ? 海堂」
「その時が来たら、役割分担は俺が振るから、今からぐだぐだ考えてんじゃねえよ」
「……は?」
「………月見だろ。月見ろよ」
 綺麗だから。
 そう眼差しで促すと、何故か乾は感嘆したような溜息を零し、そして。
 海堂を土手の草むらに押し倒してきた。
 それは丁寧に。
「なん…、……」
「いや……俺達の将来の話なんて俺が言っても、それを全く否定しない海堂にくらっときただけ」
「俺は月を見ろって言ってんのに、月に背向けてどうするんすか…!」
「え…じゃあ…」
「………っ…、…」
 すぐさまくるりと体勢が変えられる。
 乾が草むらに背を宛て仰向けになり、海堂はその上に引き上げられた。
「これならいいか」
「………………」
 よくない。
 全然よくない。
「………………」
 海堂が見下ろす先で。
 乾の両腕が伸びてくる。
 海堂の頭を抱えるようにして引き寄せてくる。
 唇にされそうなキス。
 やはりよくない。
 キスがじゃなくて。
「………………」
 この体勢になったところで、結局乾は月を見上げてはいないのだ。
 海堂ばかりを見ているだけだ。
「…、月を…」
「ん」
「見ろ…って、…言…」
「…海堂のがいいなぁ」
 囁く小声が唇に当たる。
 潜めた乾のささやきに眩暈がする。
 海堂は目を閉じた。
 乾の舌を唇をひらいて受け入れる。


 月は、また後で。
 今は、このまま。
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 宍戸の後輩は、筆記具に拘りがあるらしい。
「拘りというか……なんか落ち着かないんですよ。違う感触で字を書くのが」
「そういうもんか?」
 宍戸にはそういうことはよく判らない。
 やんわりと微笑んでいる鳳はといえば、筆記具に限らず、ノートやファイルなどもいつも同じ物を使っている。
「気に入るまでは、いろいろ試すんですよ。それでこれだって思えるものを見つけたら、もうそれ以外使いたくないんです」
 待ち合わせて帰っている放課後。
 文房具店に付き合ってほしいと鳳に言われ、宍戸は今鳳と共に近隣の店にいた。
「すみません。すぐ会計してきますんで」
「別に急がなくていい。俺あの辺見てるな」
 何せ買う物が決まっているので、すでに鳳は必要なものを手にしているのだが、レジがやたらと混んでいた。
 宍戸は文具店の一角にある自然観察のエリアを指差して、そこに足を向けた。
 夏休みの自由研究のコーナーの名残らしく、NASAが開発した蟻の飼育観察セットやら星の王子様に出てくるバオバブの木の栽培キットやらがおいてある。
 先月はまだ夏休み中だったという事が信じがたいほど、季節にはもう、夏の名残が殆ど見受けられなかった。
 そういえば鳳も、今日は半袖の制服の上に薄手のニットを着込んでいた。
 もう時期に制服も冬服だ。
「………………」
 別段秋を自覚して、もの寂しいような気持ちになるタイプではない。
 宍戸は自身をそう思っているものの、でも実際。
 今、ちょっと鬱々とした気分になった。
 季節のせいではなく、原因はよそで明確だ。
 宍戸がそうやってぼんやり考え込んでいると、お待たせしましたと鳳が横に並んだ。
「…おう」
 筆記具だけの割には大きな紙袋を鳳は持っていた。
 何か他のものも買ったのかもしれない。
 宍戸は溜息が溜息にならないように飲み込んで店を出た。
 鳳も宍戸の隣を歩いている。
 夕方近くになってもよく晴れている。
 皮膚を撫でられるような風が明らかに秋めいていた。
「なあ、お前さ」
「はい?」
 宍戸は呟くように言った。
 歩きながら、足元に視線を落とし、それから高い空を見上げて。
「さっきのよ、…」
「さっきの?」
「お前が言ってたのは、文房具っていうか……身の回りの用品って事だよな?」
「…何がですか?」
 何のことかと思案しつつ顔を覗き込んでくる鳳に、宍戸は弱冠決まりが悪い。
 らしくもない歯切れの悪さだと宍戸も自覚はしているのだ。
 頭上を見上げた視線を、仰のいたまま距離の近くなった鳳に合わせる。
「だから…!」
「…はい?」
 宍戸がいくら荒っぽく吐き捨てるようにしても、鳳は生真面目に宍戸も見つめてくるばかりだ。
 そんな風に生真面目にされると今更ごますわけにもいかなくなる。
「お前、言ったろうが。…気に入るまでいろいろ試すって」
「はい。さっきの話ですよね。確かに言いましたけど…それが何か…」
 ああもうどうしてこんなこと言っているんだと、宍戸は口にする側から、片っ端から、後悔している。
 それなのに出てきてしまう言葉は止まらずに。
「……俺もじゃねえよな」
「…え?」
「………っ…、…っから…、お前、自分が気に入るかどうか、試してみてる最中とかじゃねえよなっって…、…!」
 それこそもうすぐさま。
 宍戸の言葉の語尾に被さって、バサバサッと音をたて、鳳が手にしていた買物袋が落ちた。
 はあ?とそれこそ鳳らしからぬ声がしてた。
 宍戸はぎょっと斜を見やる。
 なんだ、どうしたんだ、と宍戸は慌てた。
 しかしあまりにも真剣に唖然としているらしい鳳は、復活の後、宍戸の比ではなく慌てていた。
「ちょ…、……なに言ってるんですか、宍戸さん……!」
「うわ、…っ……ばか、…っ、おまえ、それ止めろ…っ」
 両肩を鳳の手のひらに握りこまれ、揺さぶられ、泣きつかれた。
 ガシッと抱き締められ、叫ばれた。
 宍戸絡みの事で本気で混乱したり狼狽したりする時の鳳は、宍戸にも制御不能なのだ。
「宍戸さん!」
 耳元で名前を叫ばれ恨み言を叫ばれ、宍戸は、往来なんだぞここは!と鳳に意見しようにも到底出来ない状況に陥った。
 思いっきり抱き締められて揺すられる。
「そんな訳ないです。ありえないです」
「わ、…っかった、わかったから…っ」
 わかったから放せっという宍戸の叫びは、鳳の胸元にぶつかって消音した。
「どうして文房具なんかと宍戸さんが同じになるんですか」
「なんねーよ、なんねーけどっ」
 抱き締められてしまえば最高に心地良い鳳の腕の中で、くそうと宍戸は呻いた。
「ちょっと、何か、引っかかっちまったんだよ…っ。悪いか…っ」
「それって俺の宍戸さんへの愛情の伝え方が、全然足りてないって事ですよね」
「ば、…ッ……」
 足りてるっ!充分だっ!と宍戸が言う側から、抱き締める腕の力は半端なく強くなり、好きだと繰り返し告げられた。
 だからここは、往来。
 往来なんだって、と。
 宍戸は溜息も出ない気持ちになる。
 同時に、鬱々とした気分は全て吹っ飛んだのだけれど。
「……長太郎ー…」
 自分より一回りも二回りも長身で、近頃頓に大人びた顔をするようにもなった後輩の、甘ったれた恨み言と甘ったるい睦言をいっしょくたに向けられて宍戸はどんどんだめになる。
「わるかったよ。……おい…って……長太郎」
 どうにか腕を伸ばして、鳳の広い背を軽く叩く。
「俺だってキャラじゃねえこと言ってる自覚あんだよ。勘弁してくれ」
 安堵と一緒に宍戸に襲い掛かってきたのは、羞恥心なので。
 俺も何だかなあと宍戸は呻き、足元に落ちたままの紙袋を視界の端に入れて、鳳の背を再度叩いた。
「おい、落ちてる……」
「……あ…」
 そんな促しに効力があるかどうか不明だったのだが、鳳が小さく声を上げて身体を離してきた。
「宍戸さんに渡すのなのにすみません」
「は?」
 屈んで紙袋を拾い上げた鳳を宍戸は怪訝に見守った。
「俺?……それお前のだろ」
「宍戸さんの誕生日の前にね。これ」
「………………」
 スリムタイプの薄い手帳を渡される。
 自分にという言葉にもだし、誕生日の前にという言葉にも、宍戸は眉根を寄せたまま、差し出された手帖を受け取った。
 深い赤、臙脂に近い表紙のそれは、薄さからして中身はカレンダーのページだけのようだった。
「長太郎?」
「俺との予定にだけ使ってくれる?」
「………………」
 優しい笑みで鳳は宍戸に囁いた。
「………………」
「俺との約束だけ書いて」
 そして鳳は紙袋からボールペンを取り出す。
 同じものが二本。
 一本は自分の鞄に入れ、もう一本は宍戸に手渡してきた。
 これが好きだと言って、鳳がいつも使っているボールペン。
 宍戸はそれもまた受け取った。
「それで、まず今月の二十九日の所に書いてもらえると嬉しいです」
「………………」
 九月二十九日。
 宍戸の誕生日だ。
「次の日土曜日だから、泊まりって事で翌日にも記入があると更に幸せなんですが」
「ば…、……」
 どうでしょうかと小さく問いかけてくる鳳に、いったいさっきまでのお前は何なんだと宍戸は言ってやりたくなった。
 宍戸の一言で錯乱して混乱して派手にやらかしてくれた鳳も、今宍戸の目の前で気恥ずかしいまでの甘い笑みと声と提案を寄こしてきている鳳も、どちらも同じ男なのだ。
 そしてそのどちらも同じくらい、宍戸は欲しい。
「………………」
 観念してやるよと内心で呟きながら、宍戸は手帳のOPP袋を雑に破いた。
 手帳を取り出し、ボールペンのキャップを口に銜えて外し、顎で鳳に背を向けるように促した。
 それはもう幸せを笑顔にしたらこれだろうというような笑みを見せた後に背を向けた鳳の背中に、宍戸は手帳の九月のページを開く。
 九月始まりの手帳だった。
 まずは即座に二十九日と三十日に、丸をつける。
 それからもうこれは勢いで。
 今日の日付けに好きだバカと書きなぐる。
 手帳を閉じると鳳が振り返ってきた。
「……ぜってー中は見せねえからな」
「はい」
 鳳は丁寧に微笑み、頷いた。
 それから肩を並べてまた歩き出す。
 宍戸は手帳とボールペンを鞄にしまいこんだ。
「誕生日、何か食べたいものとかありますか」
「そういうのはしないでいいっての」
「上海蟹とか、どうでしょう。姿蒸し。あと蟹味噌の茶碗蒸しとか。前に宍戸さん、うちで美味しいって言ってくれたから、蟹取り寄せて……」
「お前取り寄せってまさか…」
「はい。陽澄湖からですが」
「気軽に言うな…っ」
 このブルジョワめと宍戸は唸ったが、鳳は依然柔らかく笑んでいた。
 秋風が吹く。
 空は抜けるように高く、遠くまで薄く青い。
 宍戸が鳳に手渡された九月始まりの手帳が、一年後、どう書き込まれて最終頁を迎えるのか、それはまた来年の宍戸の誕生日あたりで判る事だ。
 この週末、跡部の家に泊まりに来た神尾は、もっか跡部の目の前でおにぎりを握っている。
 日曜の朝の事だ。
 俺それしかつくれねえもんと、数日前の電話口で何故か威張って言っていた神尾は、しかし現在跡部が思っていたよりも危なげない手つきで白米を握っていく。
 跡部はその様子をじっと見ていた。
 電話で話したのは金曜日の事。
 お前何でもいいから日曜のメシ作れと言った跡部に。
 神尾は、じゃあおにぎり作るぜ、と返してきたのだ。
 天気悪いから非常食っぽくてぴったりじゃんなどと言いながら、ひどい雨の日曜日、こうしてせっせと神尾は跡部の家の広いキッチンでおにぎりを作っていく。
「……ちいせえ手」
「別に小さくねえよ」
「ちいせえよ。こいつだって小さいだろうが」
 立っている神尾の隣に、スツールを引っ張って座っている跡部は。
 神尾の手と、次々並べられていくおにぎりとを、交互に見やった。
 きちんと三角形をしているけれど、とがった角のないおにぎりは小さめで、丁寧だ。
「おい。違うのも握れよ」
「えー。塩むすびが一番うまいんだぜ」
「そりゃ病人食だろ」
「はあ? 病人食はお粥だよ。なんで塩むすびが病人食だよ」
 ヘンな奴、と眉根を寄せる神尾は、跡部の指摘通り、塩むすびしか作らない。
 どんどん数が増えていくのに、全部塩だ。
「おい。食ってやるからこれも握れ」
「へえ……跡部、明太子好きなんだ」
「別に好きじゃねえ」
 たまたま家にあったんだと跡部は憮然と言って。
 桐箱に入っている明太子を神尾に突き出した。
「明太子好きならさー」
「人の話聞け、てめえは。別に好きじゃねえって言ってんだろうが」
「今度さ、持ってきてやるよ。うまいのあんだよ。橘さんがくれたんだ。九州から取り寄せてるんだって」
「……ぜってー食わねえからな」
「なんでー! うまいって言ってるだろ」
 跡部は最初、神尾のことを短気で子供っぽい奴だと思った。
 その見極めはあながち間違ってはいなかったけれど、それだけではなかった。
 短気なようで、おおらかだ。
 子供っぽいようで、面倒見がいい。
「この明太子もすっごいうまそうなー」
 この作業の何がそんなに楽しいのか、にこにこ笑いながら、跡部の要望通りに明太子のおにぎりも作って並べていく。
 神尾の手が握る小さめのサイズの食べ物。
 神尾は、性格が大雑把なようでいて、案外それだけとも限らないらしい。
 おにぎりの大きさがどれも殆ど同じなのだ。
「おい。神尾」
「ん?」
「腹減った」
「…………へ…?」
 跡部が憮然と言った言葉に、神尾が話しながらも一度も止めなかった手をぴたりと止めた。
「何だ、そのツラ」
「だって…跡部が…そういうこと言うの初めて聞いた」
「…………………」
 もしかしてうまそう?と神尾の表情いっぱいに笑顔が浮かぶ。
 だから。
 いったい何がそんなに。
 楽しいんだ、嬉しいんだと、跡部は嘆息する。
 神尾のことは、跡部には、いつも判らないことだらけだ。
 だがそれが、不快と思った事は一度もなかった。
 それもまた跡部には不思議で。
「出来たぜー、跡部」
 大きな竹笊に、ぎっしりと。
 並べられたおにぎり。
 神尾は手を洗いながら、スツールに座る事で視線の角度が逆転した跡部を見下ろしてまた笑う。
「おにぎりが、こうやっていっぱいあるとわくわくするよな!」
「しねえよ」
「しろよ!」
「うまそうだとは思うがな」
 跡部のそんな言葉で。
 それだけの返事で。
 神尾がまた笑みを深め、笑顔を全開にするから。
 楽しくて、嬉しくて、どうしようもないという顔をするから。
「神尾。部屋行くぞ」
「部屋で食べんのか?」
 外は雨。
 大雨だ。
 そしてそれこそ山のように竹笊にはおにぎり。
 そう、まさに非常食。
「腹減ったらこれ食ってろ」
 跡部はスツールから立ち上がる。
 竹笊を片手に持って先に立つと、神尾がすぐに後をついてきた。
「食ってろって、作ったの俺だぜ」
「俺も食う」
 そうすぐ付け加え、ちらりと背後を流し見れば、跡部の視線の先で。
 神尾が面映そうな、はにかむ顔をしているから。
 跡部も微かに笑った。
 部屋につき、跡部は言った。
「外、雨だろ」
「うん……すごい雨だな」
 窓ガラスをしぶかせている水滴。
「メシはここだ」
「……うん?」
 竹笊をテーブルの上に置く。
「だからこれで今日は一日中」
 そして神尾の腕を引き、もろとも。
「……、…っ……あ…とべ、?」
 もろとも、ベッドへ。
 なだれこむ。
 そうして跡部は、神尾の両手首をシーツに押さえつけ、組み敷いて。
「一日中」
「………っ…」
 それこそ楽しくてどうしようもない事を隠さぬ笑みで神尾を見下ろし、神尾の顔を真っ赤にさせた。
「…、……跡…部…?」
 小さな小さな声を吸い取った。
 浅く重ねた唇の合間で囁いた。
「悪かねえだろ」
「………跡部…、」
 繰り返せば、神尾は赤い顔で、頷いた。


 悪くないだろうこんな休日。
 花火が部屋で見つかった。
「……使用期限とかあんのかこれ」
 ひとりごちた宍戸は風呂上りだった。
 濡れ髪をタオルで大雑把に拭きながら、花火に水滴が飛ばないように暫く離れて見据えた後、宍戸は急いでジーンズに足を通し、シャツを着る。
 花火は長袖のシャツを探そうとして開けたクローゼットで見つけた。
 入れたままになっていたデイバッグの口が開いていて、そこから花火が見えていたのだ。
 宍戸は携帯電話をジーンズの後ろポケットに突っ込み、花火ごとデイバッグを肩に担ぐ。
 家を出ると外はすでにほの暗かった。
 最近暗くなるのが早くなった。
 風も随分と涼しい。
 シャワーを浴びた後、長袖の上着を探してしまうくらいに涼しくなった。
 宍戸はそんな事を考えながら、少し前に別れたばかりの、一緒に自主トレをしていた相手に電話をかけた。
「宍戸さん?」
 コール音してねえだろと宍戸が内心で呆れて思う程に早く鳳は電話に出た。
 でも鳳は、優しいゆったりとした声で宍戸の名を呼んだ。
 気持ちの良い声だ。
「おう。あのよ、さっき別れたばっかで何だけど」
「はい。なにかありましたか…?」
「花火つきあえ」
「花火?」
「そう。お前ん家の近くの公園な」
 じゃあなと言って宍戸は携帯をきり、本格的に走り出した。
 夏の残りの花火は、先月テニス部の面々と馬鹿騒ぎをした時のものだ。
 まだあれから一月も経っていない。
 そう思う事が驚きである程に、今の季節はすっかり秋めいてしまっている。
 あんなに暑かったのに、こんなに風は変わってしまっている。
 満月まであと少しの形をした月は、冴え冴えと涼しさを湛えて夜空に浮かんでいた。
 夏はいつの間にか終わっていた。



 宍戸が辿りついた公園にはすでに鳳の姿があった。
 やっぱりなと宍戸は思った。
 あらかじめの待ち合わせであっても突然の呼び出しであっても大抵鳳は先に到着している。
「宍戸さんー…」
 やけに情けない声を出した鳳は、手にタオルを持っていた。
「ひょっとしてと思ったんです。まだ髪濡れてるじゃないですか。帰ってすぐシャワー浴びたんでしょう? ちゃんとかわかさないと、そろそろヤバイですよ。風邪ひきます」
「…お前エスパーかよ」
 当然のようにそのタオルで宍戸の髪を拭き出した鳳を宍戸は上目に見やって、近頃また差の開き始めた身長差に眉根を寄せる。
「……ったく。しかもよ、何食ったらそう背が伸びんだよ。長太郎」
 さっきよりでかいんじゃねえのと睨みつけると、そんな馬鹿なと鳳が笑った。
「いくらなんでも一時間かそこらで伸びやしませんよ」
 甘い笑顔は温かい。
 鳳は季節を問わずにいつも穏やかに凪いでいる。
 優しく丁寧な手に髪を拭われ、花火するんですか?と耳元で囁かれた声も、宍戸の頭の中をとろりと溶かすようだった。
 鳳は宍戸のデイバッグを見ただけで、それがいつの花火の残りなのか思い出したようだった。
「ああ、不思議ですね。まだあの時からそんなに時間経ってないのに、何だか懐かしい気がする」
「最近やけに涼しいしな」
 話しながら宍戸がポケットから兄のライターを取り出すのを見て、鳳がまた少し笑った。
 マーベラスは宍戸の兄の愛用品で、先月の花火の際に拝借したことで家で小競り合いになったと宍戸が言った事を覚えていたのだろう。
「また持ってきちゃってお兄さん怒ってないですか?」
「別にいいんじゃねえの? 結局この間も喧嘩した後に、気に入ったんならやるって言われたし」
「コレクションだったんですよね?」
「タイプがいろいろあるらしいぜ。マーベラス。デザインもだけど着火方法も違うらしくて、兄貴は一通り持ってんだよ。まあ俺には使い道ねえから貰わなかったけど」
 今日は花火用で借りてきただけだと宍戸が言えば、鳳は真顔でしみじみ呟いてくる。
「宍戸さんのお兄さん、本当に宍戸さんのこと可愛がってるんだなあ…」
「……そういう事マジなツラで言うなっつーの」
 カチャンとパーツを跳ね上げさせ、花火の先端に火を灯す。
 ライターのオイルの微かな匂いは、すぐに弾けだした花火の火薬の匂いに紛れて消えた。
 迸る火花は眩しかった。
 宍戸は火をつけた手持ち花火を鳳に手渡した。
 続けざま自分のものにも火をつける。
 小さな火が爆ぜて、光り、暗がりの公園に華やかな色を射し始めた。
「ああ…やっぱり綺麗ですね」
「………………」
 横に並んで、手にした花火の先を見下ろす鳳の顔を宍戸は見ていた。
 火の花に照らされる端整な顔立ちは、雰囲気の甘さに見合って優しいが、少しずつ鋭利に、清廉と、すごみを増してもいる。
 伏せた目元の睫毛の影、強靭な流線を描き出した広い肩幅や喉元は、鳳の変わっていく外観を人に目の当たりにさせるものだが、鳳の持つ柔らかな雰囲気は決して削がれたりはしなかった。
 夏休みを経て更に鳳が恐ろしく人目を集めるようになっているのを、宍戸は決して不安とは思わなかったが、いろいろ悔しいと思う事はある。
 自分の持つ独占欲が厄介だと思う。
 宍戸は鳳の手首に指先を伸ばした。
 鳳が持っていた花火を下向きにさせ、その分近づく。
 距離を詰める。
「宍戸さん?」
 踵を上げる。
 届かないから。
 それでキスをする。
 鳳の唇を下から奪い、すぐに離れる。
 大きく目を見開いた鳳の表情に、血液そのものに感覚があるかのように、とくとくと身体を巡る流れが速まった。
「…むかつく」
「宍戸さん…?…」
 もう一度、噛み付くようにしてやったのに、鳳は宍戸からのキスを心地良さそうに目を細めて受け止めている。
 驚いてもいる鳳を睨みすえて宍戸は凄んだ。
「……見とれた顔してやがるからだよ」
「え?」
「相手花火でも面白くねえんだよ。悪かったな」
 面食らった顔をしていた鳳が、生真面目に顔を左右に振った。
「いえ。悪くないです、全然」
 ただ、と鳳は控えめに言葉を繋げ、微笑んだ。
「嬉しいだけです」
「………………」
「すごく嬉しいだけ」
 嬉しいと、鳳は繰り返した。
 鳳の手に宍戸の腰回りは支えられ、真横にいる鳳からのキスで宍戸は軽くのけぞるようになった。
 花火は、まだお互いの手にあって、それで相手を傷つける事のないよう下向きになったままだ。
 唇が深く食い違う。
 舌先を舐められて、含まれて、宍戸の手元から、殆ど消えかけの花火がとうとう落ちた。
 鳳も花火から手を離し、両手で宍戸を抱き締めてくる。
 宍戸は両手で鳳を抱き締め返した。
 花火の消えた暗がり。
 無言になった自分達。
 舌を濡らして、喉を鳴らして、口付けあい、抱き締めあい、お互いがお互いに、執着しあい、目には見えない火の花を散らした。
 身体の中には、過ぎた季節の夏に似た熱が居た。
 剥き出しになっている肩を、乾の手のひらに包まれた。
 海堂の目線の先にある乾の手の甲は骨ばっている。
 海堂の肩に触れている乾の手のひらは温かく固かった。
 じんわりと染入るような体温に、もう季節は秋なのだなと海堂は思った。
「……肩冷やす」
「………………」
 乾も同じ事を考えたようで、そう呟くとベッドから出て行こうとする。
 海堂は汗で濡れている乾の背に手を伸ばした。
 指先が触れたか触れないかで乾は振り返る。
 上半身を捩じって屈ませ、まだ荒い呼気を零す海堂の唇に乾はキスを落としてきた。
 含んだ乾の舌もまだ熱かった。
「シャワー浴びられるか」
 キスが解けての問いかけに海堂が頷くと、すぐにまた唇は塞がれた。
「一緒に行くか」
 暫くしての再度の問いかけには首を左右に振ったら、ひとしきり舌で口腔を弄り合うような口付けに長く捕まってしまった。
 時間をかけたキスが、熱っぽい吐息を漏らしてほどける。
「長袖のシャツと、厚手の上掛けと、どっちがいい?」
「………あんたは?」
 唇の触れ合う距離で、乾は小さく笑った。
「俺はどちらかを選んだ海堂で温まる」
「…………ふざけてねえで、あんたもちゃんとしろよ」
「じゃ、両方用意しておく」
 先シャワー浴びてくる、と目元に音をたててキスされて。
 海堂はじわじわと顔の熱を上げた。
 キスなんかもう、どうしようもないくらい繰り返していたのにだ。
 乾がベッドから出て行く背中を今度を見送って、海堂は枕に片頬を埋めた。
 燻る熱がまだ消えないのに、それでも外気の変化を感じ取れるのが不思議だ。
 余韻の色濃い身体は甘ったるく気だるいのに、些細な異変を感じ取る事も出来る。
 海堂は目を閉じた。
「………………」
 じん、と疼く首筋は乾の最後の吐息を埋められた場所。
 頭皮まで痺れる感触は、乾の指が海堂の髪をすきあげていった経路。
 ひりつく脇腹には乾に執拗に残された痕があって、強靭な四肢に取り縋った海堂の指先全てには未だ生々しく乾の肌の感触がある。
 今しがた乾の手に包まれた肩、食い合わせられた唇、吸い込まれた舌先。
 目で見なくても、こんなにも、判る事が多くて、海堂は寧ろほっとする。
 乾の固執が判る。
 自身の身体のあちこちに在る名残で判る。
 海堂は、結果として形になることばかりを追ってしまう自分の傾向を知っていて、でも、全てが形になっているものではないという事を判ってもいた。
 判りづらい、判りにくい、そういうものの方が実際は圧倒的に多いのだ。
 本当は。
「………………」
 頬に当たる感触。
 乾の手のひら。
 海堂が目を開けた。
 乾の手の中で睫毛を、瞼を、引き上げる。
「……眠い?」
「………………」
 名前を呼ぶと起こしてしまうと思ったのだろうか。
 乾の小さな問いかけに、寝てない、と海堂は呟いた。
「…………もったいないって思っただけだ…」
「海堂?…」
「……あんたの感触が…いろんなとこに残ってるから」
 う、と乾が息を詰めたのが手のひらから伝わってきて、海堂は上目に乾を伺い見た。
「………お前な」
「べつに……シャワーくらいで消えるもんでもないですけど……」
 乾は本当に何とも言えないような顔をしていたので、海堂は微かに笑んだ。
「シャワー借ります」
 ゆっくりと起き上がる。
 あっさりと組み敷かれる。
「…………乾先輩…?…」
 何故再びこうなっているのだろう。
 海堂は今日二度目の不思議に思う。
 首筋に乾が顔を埋める。
 熱の籠もった吐息。
「乾先輩?……」
「………身体は拭くし、パジャマも着せるし、上掛けは秋用にするし、ともかく全部ちゃんとするから」
「………………」
 もういっかい、と唸られた。


 唸られて。
 ねだられたのかも。
 せがまれたのかも。
 しれなかった。
 絵に描いたような夏だ。
「おー!すっげ眩しい!」
 眩しいと言っては笑い、蝉が鳴いてると言っては走って行き、肌がジリジリ痛いと言っては一身にその日差しを浴びている。
「暑いなー…!冷たいアイス食いたい。スイカ食いたい。プールで泳ぎたい。でもやっぱテニスかなー!」
「よくまあ次から次へと思い付くもんだな…」
 夏休みも半分以上過ぎた。
 昨日から跡部の家に泊まっていた神尾は、跡部と共に外に出るなりこのはしゃぎっぷりだ。
「な、跡部。夏ってやりたいこといっぱいあるよな!」
「お前は春も夏も秋も冬も同じ事言ってやがるよ」
「そっか?……そっか!」
 同じ言葉を全く異なった感情で放った神尾を、跡部は怪訝なまなざしで一瞥する。
「何だよ」
 神尾は最初不思議そうな顔をして、一瞬後あまりにも鮮やかに、笑顔になったのだ。
 跡部が怪訝に問い返すと、神尾は一層明るく笑みを浮かべた。
「そっかー! 俺、跡部と、春も夏も秋も冬も一緒にいたんだな」
「………………」
 それがどうしてそこまでの笑顔になって、神尾が口にする言葉なのか。
 神尾の行動は跡部には判らない事が多くて、だから余計に跡部は神尾から視線が外せない。
 現に、夏の強すぎる日差しを受けて満面の笑みをたたえている神尾は、しかし次の瞬間には。
「来年の夏もこうしてるかな…」
 いきなりふっと声のトーンを落とすので、跡部は舌打ちした。
 まるいちいさな後頭部を片手で無造作にはたく。
「い…っ……」
 潤みやすい目は、もう涙目にも見えた。
 自分で口にした言葉のせいか、跡部の暴挙のせいかは不明だ。
 それにしたって本当に次から次へと目まぐるしい事この上ない。
 いきなり噛み付かんばかりの勢いで神尾は喚いた。
「お前、今すっごい本気で叩いただろっ!」
「間違いの修正は、間違ったその場でが基本だ」
 今度は本気で怒鳴って喚いてこの有様だ。
「なんなんだそれ! ペット相手じゃねえんだかんな!」
「ペットの方がよっぽど覚えがいいぜ」
「…、なんだよそれ!」
 真夏の光をいっぱいに浴びて、満面の笑みを浮かべていた顔を。
 陰らせて見せたのが悪い。
 これまでの事を振り返ってあんな笑顔を見せるのなら、未来を思ってそれ以上の笑顔をみせるのが当然だ。
 跡部はそう思った。
 だから不機嫌になった。
 しかしすぐに、今度はぴたりと完全に黙ってしまった神尾の、今考えている事も概ね理解して、跡部は嘆息する。
「……ったく」
 跡部に叩かれた後頭部に手をあてがったままの神尾は、どうせまた、ろくでもない事を考えているに違いなかった。
 跡部は屈みこみ、下からすくいあげるようにして神尾の唇に掠める程度のキスをした。
「……ゃ」
「嫌じゃねぇよ。バァカ」
 こんなにも丁寧にしてしまうキスを跡部は神尾で知って、その他にも跡部にとって神尾で初めて知る事の多さに、大概分が悪いと思っているのだ。
 ただでさえ自分の方が。
 それなのに。
「ペットよりお前のがいいに決まってんだろ」
 お前をペット扱いする気もねえよ、と神尾にも判るように跡部は言ったのだが、当の
本人が正しく理解していなくて参る。
 こっちの方が伝わるかと思って、跡部がわざと音のするキスを神尾の唇に繰り返していると、いきなり恥ずかしくなってきたのか突如神尾が暴れ出した。
 それを唇の端に刻んだ笑みで跡部は簡単にあしらって、内心は正直おかしくて堪らなくなる。
「何だよ。夏はやりたいこといっぱいあるんじゃねえの?」
 夏はキスしたくねえの?と跡部がひそめた声で唆すようにからかえば。
 神尾はそれは盛大に赤くなって動きが止まったので。
 跡部はこの暑さの中酔狂だと思いながらも、すぐさま自分の両腕の中に神尾を抱きこんだのだった。
 人目があるところでは何も言わなかった宍戸が、二人きりになるなり鳳に言った。
「お前さ、俺にそんなに好きとか言わないでいいから」
「宍戸さん?」
 その言い方が鳳にはどうにも気がかりだった。
 やけに慎重で、遠慮がちなそれが、仮に鳳への窘めだとしたら。
 人目がある場で言う方が効果的ではないのかと思いながらも、人目がなくなってから言われたというのはやはり宍戸の気遣いなのかと思い直したりもする。
 鳳は宍戸の目をじっと見つめた。
 氷帝のレギュラー用の部室で、今はこうして二人きりだけれど。
 先程まではレギュラー陣が顔を揃えていて、からかいの笑みや呆れた顔の上級生達に鳳は囲まれていた。
 鳳自身あまり思えていないが、いつものように宍戸の隣であれこれ話しながら着替えをしていた際に、上級生達に絡まれたのだ。
 お前どんだけ宍戸を好きなんや?だの、爽やかに好きです好きです連発すんな!だの、言われた事はいろいろだ。
 そう言われましてもと微苦笑を浮かべた鳳の横で、宍戸はうるせえ放っておけと軽く喧騒をあしらっていただけだった。
 それが二人きりになった途端、そんなに好きとか言わないでいい、ときた。
 注意なのか牽制なのか鳳にはまだ判らなくて、ただ宍戸を見つめているだけだ。
「宍戸さん」
 鳳の呼びかけに、宍戸は僅かに気まずそうに目線を上げてきた。
 すぐに眼差しは伏せられ、溜息がその唇から零れる。
「…お前のその勢いじゃ、どこまでもつかわかんねぇんだよ」
 ますます意味が判らなかった。
 鳳は頭の中で宍戸の言葉を幾度か反復して、それでも判らなくて、そっと尋ねる。
「どこまで…とは?」
 すると宍戸は今度はいきなり鳳をきつく睨みつけてきた。
「っだから…、…」
 この上なく鋭い眼差しは、主に下級生達には、怖いと評判のものなのだが、鳳にしてみたら怖いどころかただただ綺麗で見惚れるだけだ。
「だから?」
「………だから、」
「…はい?」
 鳳が真面目に問い返し続けていると、宍戸の肩が、ふと落ちた。
 溜息をついたのだ。
「お前さあ……」
「はい」
「そんなに俺のこと好きだ好きだって顔してよ…」
「顔だけではなく言葉にもしてますが」
「言われてんの俺だ。判ってるっつーの」
 今度は言葉ほど宍戸の口調は荒くなかった。
 思わず口を挟んだ鳳を叱るでもなく、また溜息を零した。
「何か問題が…?」
「……もうすこし」
「もう少し?」
「先見て小出しにして欲しいんだけどって話!」
 鳳は目を瞠った。
「先見て小出し…ですか」
 どういう意味だろうと首を傾げる。
 勢いで言った感のある宍戸は、だせぇ、と呟いていた。
 それは鳳に言ったわけではないのは、どこか自嘲めいた口調で判った。
 宍戸は自分自身にそう言ったらしい。
 着替えを済ませた宍戸が、ロッカーの扉を両手で閉じながら言った。
「もう言いきったとか、思いきったとか、早いうちにお前に言われたくねーの!」
「………………」
 もっとずっと長く。
 そう願って、願って、願っているのだからと、きつくも清廉な横顔が告げてくる。
 正直な所、鳳は呆気にとられた。
「……ばかですね…宍戸さん」
 結局そうとしか言いようがなく、鳳は真顔で呟いた。
 宍戸が一気に目元をきつくするのもまじまじ見つめた上で。
「どうしてそんなに…」
「馬鹿馬鹿何度も言うな!」
「いえ、そうでなく。大好きです」
「…は?」
 毒気が抜かれた声で宍戸は鳳を見上げてきた。
 鳳は繰り返す。
「大好きです」
「……長太郎?」
 お前人の話聞いてんのかよと不平を言う宍戸の唇に、鳳は屈んで、自身の唇で一瞬触れた。
「俺は、もっとずっと言いたいの、毎日セーブしてます」
 もう言いきったとか、思いきったとか。
 そんなことは鳳には想像もつかなかった。
 宍戸の勘違いを判らせるために鳳は自分の状況を淡々と宍戸に告げていく。
「でも…そうですね。今の俺のペースじゃ、一生の方が追いつかないだろうと思うので」
「…お前なにさらっととんでもないこと言ってんだよ」
「嘘はつきません。絶対に」
「……そりゃわかってるけどよ」
 ちいさくひとりごちる唇に、鳳はまた軽く唇を合わせた。
「好きっていう言葉を使わないでも、もっと伝えられたらいいんですけど…」
「………………」
「言葉うまくなくてごめんね。宍戸さん」
「別にそんなのいらねぇし」
 お前がいりゃ俺はいいよと、それこそさらっと宍戸は言ってのけた。
「俺、実際口に出してるよりも、もっと好きなんです。宍戸さんが」
「………………」
「何度も何度も、繰り返し宍戸さんのこと、好きになるから。言いきるとか、思いきるとか、それは無理です」
 言葉を切ってはキスをする。
 宍戸は仰のいて全部を受け止めている。
「なあ…」
「はい?」
「なくなりそうになったら」
「…ん?」
「早めに」
「だから…」
「言えよな」
「なくならないですって」
「詰め込んでやるし」
「聞いてよ宍戸さん」
「俺がお前に」
「もう」
「いくらでも」
「俺の話聞いて」
 交わす言葉がどんどん短くなる。
 それは言葉の合間のキスではなく、キスの合間の言葉になっているからだ。
 お互いが等しい力で抱き締めあうまでは、キスも会話も止まないでこのままだ。
 ずっと後ろにいる。
 ずっと後ろに立っていて、ずっと後ろを歩いている。
 今日はずっとそうだ。
「…先輩」
「ん?」
 海堂が足を止めて振り返ると、背後にいた乾も足を止めた。
 ぴったり真後ろにつかれている訳ではないのだが、いつもとは違う位置に海堂はどうにも落ち着かなくなってしまった。
「何さっきから後ろにいるんすか」
「ああ…ちょっと…」
「ちょっとじゃないだろうが…」
 思わず呻くような声が出てしまうのも仕方ない事だと海堂は思った。
 とにかく、今日乾はずっと海堂の後ろ側にいる。
 自主トレ中も、終わって帰途についている今もだ。
 いつもは大抵海堂の視界に入ってきている乾が、今日はそうでないから。
 どうにも違和感を覚えて仕方なかった。
 海堂が、睨む程ではないが、じっと見据えた先で乾はテニスバッグを肩にかけなおして薄く笑みを浮かべた。
「きれいな歩き方だなあと思ってさ」
「…は?」
 僅かにだけ首を傾けて、乾は微笑したままそう言った。
「惚れ惚れしてる所なんだが」
「……っ…」
 海堂を絶句させた乾の衒いない言葉は尚も続く。
「いくら見てても飽きないなあ、と。確かに今日一日中考えてたよ。海堂は後姿も綺麗だよなぁ…」
「馬鹿だろあんた…っ」
 そう怒鳴るしか海堂には出来なかった。
 他にいったいどんなリアクションがとれるというのか。
 しかし海堂が、そう怒鳴ったところで乾はけろりとしたもので、あっさり首を左右に振ったかと思うと、言ったのはこんな言葉だ。
「馬鹿というか、海堂マニアと言われたよ」
「………………」
 何だその言葉はと絶句した後、海堂はどこか恐々乾に尋ねた。
「……誰にっすか」
「不二」
 やはりと思った気持ちも無くはない。
 しかしそれにしたっていったいどんなシチュエーションでその台詞が放たれたのかと思うと、海堂も訳もなく取り乱しそうになってしまった。
「……あんた」
「いや、悪いな。俺判りやすいらしくて」
「さっぱり判んねえよっ」
 淡々と告げてくる乾に海堂は背を向けて歩き出した。
 本気で怒っている訳ではなく、込み上げてくるような羞恥心にどうにも居たたまれなくなった為だ。 
 海堂は乾の先をどんどん歩いた。
 意地になった。
 もう後ろは見ない、ひたすら前を見て歩く。
 乾がきちんと背後にいることは気配で判っていた。
 立秋を過ぎても世界はこんなにも夏のままだ。
 焼けつくような日差しは肌に体感できる程なのに、それよりもっと乾の気配の方が。
 海堂の感覚にはリアルだった。
「海堂」
「………………」
「鬱陶しいか?」
「……そういうこと言ってんじゃない」
 背後に居るなと海堂が思うのは、鬱陶しいからではなくて。
「好きだよ。海堂」
「……、…目合わせないで言うな」
「正面から言うと顔伏せるだろう?」
「近すぎなんだよ距離が! 極端すぎる!」
「わがままだなあ」
 先を行く海堂、背後にいる乾。
 視線は絡まないのに、あまりにも幸せそうに乾に言われてしまったのが判り、海堂は息を詰める。
 我儘なんて、そんなものどっちがだ。
 海堂にだっていろいろ思う所はある。
「………………」
 足を止めないまま、海堂は頭上を仰ぎ見た。
 わめきたてるような蝉の鳴声はどこから聞こえてくるのか。
 違う種類の鳴声が反響しあって、青く高く抜けた空へと立ち消えていく。
「……先輩?」
 突然に、乾が海堂の横に並んで来た。
 やっと、いつもの定位置。
 しかし何で突然にこうもあっさり戻ってきたのかと海堂が訝しげに伺い見ると、乾も高い位置から丁寧に海堂を見下ろしていた。
「肩がいつもより下がったから」
「………………」
「ごめんな」
 謝るんじゃねえと言うのは簡単だったが、海堂はその言葉を飲んだ。
 乾がどうして謝ったのか、その理由は多分正しい筈だからだ。
「……怒らせてって思って言ってんなら聞かねぇ」
 低く告げれば、乾も小さく返してきた。
「寂しがらせてごめんな」
「……、…口に出すなっ」
「だから我儘だよ海堂」
 至極幸せそうに、楽しそうに、乾はそう繰り返した。


 間違ってない。
 だからってな。
 そんな思いを込めて乾を睨みつける海堂だったが、その肩は、それで漸く普段のラインを保つのだった。
 気に障って、気になって、気に入った。
 規則正しくも目まぐるしい、そういう流れ。
「跡部ー、なあ、この映画行かね?」
「ああ?」
「跡部と行きたい!」
 連れていってくれと、ねだられた事は散々にある。
 でも。
 こういう真っ直ぐなねだられ方は初めてだった。
「映画ねえ……」
 気のない素振りになるのは、映画に興味がないというより、それよりもっと見ていたいものが目の前にあるからだ。
「跡部こういうのあんまり観ないか?」
 跡部の顔を覗き込んでくるかのように、神尾が近づいてくる。
 小さい。
 頭も顔も何もかも小さくて。
 それでいてまるで危なっかしい感じがしないのが不思議だ。
 自室の赤いソファに身を沈めて座っている跡部の無言をどう受け取ったのか、神尾は近づいたその距離のまま言った。
「じゃあさ、お試しに観に行こうぜ。面白かったら新境地だぜ」
「最悪につまらなかったらどうするんだ」
 わざと捻くれた返答を跡部がしても、神尾はにこっと邪気なく笑った。
「跡部の中で、人生最悪につまらない映画リストの更新が出来るじゃん」
 人生最悪につまらない映画。
 そんなものは跡部の中になかった。
 人生最高に楽しい映画も。
 人生最強に哀しい映画も。
 跡部の中には何もなかった。
「な? 行こうぜ」
「………………」
 ソファに深く背中を預けたまま、跡部は腕を伸ばした。
 すぐ目の前に立って上半身を屈めていた神尾の後ろ首を掴むのは容易かった。
 映画に誘う言葉の唇を浅く塞ぐ。
 下から、喉を反らせて。
 舌触りのいい神尾の唇を軽く啄ばむようにしていると、神尾は瞬く間に赤い顔になり、やけに悲しげに呟いた。
「………そんなに映画行きたくないのかよぅ…」
「………………」
 跡部は映画に行きたくないのではなくて、この場を離れたくないのだと。
 神尾は気付かないらしい。
 跡部のする事に抗いはしないものの、触れ合う唇の隙間から零すような恨み言に跡部は微苦笑する。
「言ってねえだろ」
「……ん…、……ぇ…?…」
 神尾の下唇を跡部が軽く噛むと、幼い響きで神尾が問い返してくる。
「行ってやってもいい」
「………いってなくて、いってやってもいい…?」
 うん?と眉根を寄せて、跡部の言葉を漢字変換しているらしい神尾の表情は、跡部の思考を一際緩ませた。
「……このバカ」
 笑いながら。
 好きだと思う時に決まってバカという言葉が口から出る。
 何だこの思考回路はと跡部は自身を呆れた。
 こんな壊れ方は、これまでただの一度だってしていない筈だ。
 いつでも、きちんと、跡部は感情と思考と言葉が繋がっていた筈なのに。
 神尾が絡むとそれが乱れる。
 人生最悪につまらない映画。
 人生最高に楽しい映画。
 人生最強に哀しい映画。
 そんなものが出来てしまいそうになる。
「神尾」
 手のひらの中に包みこんでしまえるほどの小さな感触。
 手を伸ばし、頬を包み、尊大に見上げながら。
 全面降伏に似た跡部の心境に神尾は永遠に気付かないかもしれない。
「行ってやるよ」
「マジで!……っし!」
 片手でのガッツポーズと、弾けた笑顔と。
「言ってやるよ」
 人生最悪につまらない映画も、人生最高に楽しい映画も、人生最強に哀しい映画も。
 一緒に観ていたのはお前だと。
 ゆくゆくは、言ってやる。
 テニスをしている時は一言も口にしない言葉が、テニスを終えた途端その唇から繰り返し放たれるのが奇妙にかわいらしく思えた。
「暑ぃ…………あー……つー…いー」
「………………」
「………お前は何さっきから人の顔見て笑ってやがんだ…」
「え…?」
 問い返しておきながら、やはり鳳は笑ってしまった。
 宍戸はくったりと座り込んでいる。
 自主トレ中のストイックさを熟知しているだけに、終わった途端、弱々しくくたばる様が何とも日常の彼とはミスマッチで目が離せなくなる。
 確かに今日の暑さは尋常でない。
「宍戸さん」
「………なんだよ…」
「アイス、食べません? 俺買ってきます」
「コンビニ行くのか?」
 パッと即座に上がってきた眼差しが年上のひととは思えないほどで、鳳は唇に浮かべた笑みを深めた。
「勿論宍戸さんが食べたいんだったらハーゲンダッツでもサーティワンでも行きますが」 「どこまで行く気だよ。コンビニでいい。スイカのやつ食いたい」
「スイカバー? 宍戸さんあれ好きですよね」
 待っていてと告げれば、おう、と手のひらが振られる。
 そっけないようでいて、素直に頷く仕草は無条件に可愛かった。
 宍戸は鳳にとっていつも不思議な存在だった。
 ぶっきらぼうでいて面倒見の良い、口調は雑なのにその言葉はいつでも優しく真摯。
 こんなにも闇雲に、側にいたいという欲求が突き上げてくる相手を鳳は他に知らない。 側にいたい、近くに寄りたい、離れたくない。
 第一印象はきつくて近寄りがたいながらも、その実気さくな性格だというのはすぐに判った。
 同性に慕われ、頼られやすい性質も。
 それでいて案外単独行動が多い事も。
 鳳とダブルスを組んでからの宍戸に「随分そいつを気に入ったもんだな」と皮肉気に言ったのは跡部で、そいつと指された鳳は、即座に目の前で繰り広げられた上級生同士の言い争いを、何とも複雑な気持ちで見つめたものだった。
 気に入ったというのが本当ならいい。
 鳳はそう思った。
 テニス以外のもの、人や物に、何ら固執しない宍戸が。
 自分に拘ってくれるならどんなにかいいだろうと、まるで請い願うように鳳は思ったのだ。
 コンビニで買ったアイスが二つ入ったビニールの手提げ袋を片手に、鳳は走った。
 待ってくれている人が宍戸なら、いくらだって走れる。
 鳳が戻ってくると、宍戸は地面に仰向けになっていた。
 無防備な体勢だ。
 額とこめかみに汗をかいている。
 暑いと言いながら、夏の日差しを全身に受け止めるように浴びていた。
「お待たせしました」
「おー……サンキュー……」
 仰向けの体勢のまま、片腕が鳳に伸ばされてきた。
 見慣れない子供みたいな仕草に鳳は膝を折ってその場に屈んだ。
 宍戸の頭上にしゃがみこみ、アイスの袋を破いて手渡す。
 受け取った宍戸は上半身を起こしてきた。
 暑ぃ、とまた呟きながら、スイカの形の棒アイスを齧る。
「………………」
 鳳もその隣に腰を下ろし、同じアイスを食べ始める。
 別々にものを食べているけれど、舌先に感じる味は今同じもの。
 どことなく倒錯的な感じがする。
 鳳は意識しないまま宍戸の口元を見つめてしまう。
 アイスを舐め齧る宍戸の口元は、冷えて色濃くなっていた。
「宍戸さん」
「んー?」
「キスしても……?」
 アイスが食べ終えられた所を見計らって、鳳はそっと問いかける。
 宍戸は眉を寄せた。
「ダメっつった事ねえだろ」
「今の優先順位はアイスの方が上かなあと思いまして……」
「アホ」
 ふざけんな、こっちのがいいに決まってんだろ、と。
 重ねて罵られた。
 宍戸の片手が鳳のうなじにかかる。
 鳳は地面に手をついて、宍戸に近づいた。
 赤い唇を塞ぐと、薄い皮膚はひどくひんやりとしていた。
「………………」
 冷たくなった口腔で舌を探ると、すこしぎこちない応え方をしてくる。
「……宍戸さん…?」
「…………なんか……ヘン」
「ヘン?」
 なに?と鳳はキスをほどいたがまだ唇は触れそうな距離で問いかける。
 瞬く睫毛も触れ合いそうだ。
「アイス食ったからかな……口の感覚が麻痺してる感じすんだよ…」
「ああ……」
 なるほど、と鳳は納得する。
 ぎこちない宍戸の舌の動きはそういう訳だったかと。
「俺だって事は判る?」
「………たり前だろ」
 憮然と宍戸は返してきた。
 怒らせるつもりはないのだと鳳は笑んで首を振り、囁いた。
「じゃあ……溶かしましょう」
「…………、……ん」
 冷えたかたまった感覚を。
 溶かす。
「……、…ぁ」
 唇を深く噛み合わせる。
 食い違わせた柔らかな器官は、ぴったりと密着した。
 吐息も、想いも、零れない程に。
 宍戸の舌を鳳は深く貪って、とろとろと甘い感触を味わった。
 アイスの比ではない。
 角度を変える度に宍戸の喉が小さく鳴って、混ざり合ったものを嚥下している気配が直に伝わってくる。
 小さく強い熱が胸に灯る。
「…………熱ぃ…」
「………………」
 ほどいたキスの隙間から、先程と同じ言葉で違う意味をもつ言葉が放たれる。
 くったりと、再び宍戸は脱力する。
 今度はしかし鳳の腕の中にだ。
「宍戸さん……」
「…熱い……」
「ん………大丈夫ですか…?」
 熱いと繰り返しながらも、宍戸が決して逃げないから。
 鳳も決して、その腕を解かなかった。
 季節が暑くて。
 身体が熱くて。
 恋の病も篤かった。
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