How did you feel at your first kiss?
上背があって、声は低く響いて、年齢不相応の落ち着き払った態度だとか、ひとたび口をひらけば何人たりとも太刀打ちできない滑らかな饒舌さだとか。
乾は、ともすれば目立って当然の風貌を、不思議と無機質に潜ませるのがひどくうまい。
「やあ。海堂。お疲れ様」
「………………」
「座ったら?」
朝練前の自主練を終えて一度部室に戻った海堂を、部室で迎えた乾は、木製の長椅子に腰掛け、壁に寄りかかっていた。
長い脚を持て余しがちに折り曲げて、手元のノートに何かを書きつけている。
思いもしなかった乾の存在を目の当たりにして、しかし海堂は別段驚きはしなかった。
今部室に乾がいるとは思っていなかった。
でもこうして直面すれば、それは極めて自然な事でしかなく、海堂はこめかみを伝う汗を腕で拭いながら静かに乾に近づいていく。
座ったら?と制服姿の乾が指し示したところ。
それは今乾が座っている長椅子だ。
海堂は黙ってそこに腰を下ろした。
「………微妙な距離だなあ」
「………………」
近すぎたかと海堂が距離を空けようとすると、逆逆逆と乾がかなりの早口で言った。
ぱたんとノートも閉じて、海堂が空けかけた距離分、にじり寄ってくる。
「逆だって海堂」
「……はあ…」
ぐっと近づいてきた乾の顔に、海堂はぎこちなく頷いた。
「ん? すごいな汗。どれだけ走ったんだ?」
「別にいつも通りっスけど……」
乾の指先が海堂の前髪を一束すくいあげてくる。
距離の近さ。
眼差しの絡み方。
髪先と指先とでひとつなぎになる自分達。
じっと見つめてくる乾の視線に、海堂は小さく、息を飲んだ。
普段。
無機質な、どこか植物めいた気配のする乾が。
時々見せるこういう空気が、正直海堂を躊躇させる。
海堂は思うのだ。
乾は、本当はもっと、何か激しく迸るようなものを持っている男なのかもしれない。
冷静な態度で、日常そんな事など欠片も感じさせないでいるけれど、本当はもっと。
「………………」
そう考えると、乾という男はとても警戒心が強いタイプなのかもしれないと海堂は思った。
本音をそう簡単には人に察知させない。
見せない、晒さない。
穏やかなようでいて、重要な事は決して表立たせない乾の、言うなればその警戒心。
今はそれがふと緩んでいるようで、どうにも海堂は気がそぞろになる。
最近乾は、海堂の知らない顔ばかり見せる。
「海堂、最近そういう顔見せてくれるようになったよな」
「………は?…」
「だから、そういう」
近すぎるような距離感で、メガネのレンズ越しに、乾の黒目がちな目が瞬きもせずに海堂を直視したまま告げてくる言葉。
「警戒心緩めて貰えてるのかなあと密かに嬉しかったりするんだが」
「よく意味が判んねえんですけど……」
「うん」
「うんって。だから何が」
「この距離になってもさ…飛びのかれないのが嬉しいというか」
「……誰がいつ飛びのいたよ!」
「意識的にだよ」
思わず噛み付くように怒鳴った海堂に、乾は不意打ちのように、にこりと笑った。
ひどく楽しそうな笑みだ。
「海堂、ちゃんと俺を見てる」
「………………」
微笑と一緒に囁かれた吐息の甘さに海堂は狼狽する。
そして同時に言われた言葉を反芻して、でも、そうだ、意識は決して乾から飛びのかない、それに気づく。
その事を噛み締めるように体感しながら、海堂は低く呟いた。
「………あんただってそうだろうが」
「俺が何?」
「あんたみたいに警戒心の強い奴いねえよ…」
「それに気づく奴こそ稀だ」
人当たり良いって評判なんだぞ俺はと言って、乾は尚も笑った。
データ収集が趣味だなんて究極の人好きだと思う反面、乾の他人へ何かを望む事のない意識の希薄さにも、海堂はもう気づいている。
恐らくは、お互いに、警戒心が強いのだ。
自分達は、似ているところなどないようでいて、こんなにも同じものも持っているということ。
「もう少し近くても?」
「………もう充分近い」
「だから、ここからもう少し」
そんな方法、海堂には判らないから、じっとしていた。
乾が海堂の前髪を指先に摘まんだまま、近づいてくる。
もっと、今よりももっと、だから、こうなる。
「………………」
掠るように触れた唇と唇。
離れて、また触れて、離れて、また触れる。
海堂は乾の唇が触れてくる度、瞬いた。
睫毛の動きが気になったのか、最後に乾の唇は海堂の睫毛の先に触れてきた。
唇が離れた後の方が、じわりと熱を帯びた気がした。
唇の表面。
「………………」
お互い黙っていた。
でももう一回だけというように。
同時に互いの頭が傾き、唇が触れる。
海堂の汗が、ぽつんと乾の頬に落ちる。
もどかしいような満ち足りたような不思議な気分だった。
間違ってない。
望み、望まれている事は、これだ。
警戒心の強い自分達は、いつも少しずつ確かめながら、確信している。
乾は、ともすれば目立って当然の風貌を、不思議と無機質に潜ませるのがひどくうまい。
「やあ。海堂。お疲れ様」
「………………」
「座ったら?」
朝練前の自主練を終えて一度部室に戻った海堂を、部室で迎えた乾は、木製の長椅子に腰掛け、壁に寄りかかっていた。
長い脚を持て余しがちに折り曲げて、手元のノートに何かを書きつけている。
思いもしなかった乾の存在を目の当たりにして、しかし海堂は別段驚きはしなかった。
今部室に乾がいるとは思っていなかった。
でもこうして直面すれば、それは極めて自然な事でしかなく、海堂はこめかみを伝う汗を腕で拭いながら静かに乾に近づいていく。
座ったら?と制服姿の乾が指し示したところ。
それは今乾が座っている長椅子だ。
海堂は黙ってそこに腰を下ろした。
「………微妙な距離だなあ」
「………………」
近すぎたかと海堂が距離を空けようとすると、逆逆逆と乾がかなりの早口で言った。
ぱたんとノートも閉じて、海堂が空けかけた距離分、にじり寄ってくる。
「逆だって海堂」
「……はあ…」
ぐっと近づいてきた乾の顔に、海堂はぎこちなく頷いた。
「ん? すごいな汗。どれだけ走ったんだ?」
「別にいつも通りっスけど……」
乾の指先が海堂の前髪を一束すくいあげてくる。
距離の近さ。
眼差しの絡み方。
髪先と指先とでひとつなぎになる自分達。
じっと見つめてくる乾の視線に、海堂は小さく、息を飲んだ。
普段。
無機質な、どこか植物めいた気配のする乾が。
時々見せるこういう空気が、正直海堂を躊躇させる。
海堂は思うのだ。
乾は、本当はもっと、何か激しく迸るようなものを持っている男なのかもしれない。
冷静な態度で、日常そんな事など欠片も感じさせないでいるけれど、本当はもっと。
「………………」
そう考えると、乾という男はとても警戒心が強いタイプなのかもしれないと海堂は思った。
本音をそう簡単には人に察知させない。
見せない、晒さない。
穏やかなようでいて、重要な事は決して表立たせない乾の、言うなればその警戒心。
今はそれがふと緩んでいるようで、どうにも海堂は気がそぞろになる。
最近乾は、海堂の知らない顔ばかり見せる。
「海堂、最近そういう顔見せてくれるようになったよな」
「………は?…」
「だから、そういう」
近すぎるような距離感で、メガネのレンズ越しに、乾の黒目がちな目が瞬きもせずに海堂を直視したまま告げてくる言葉。
「警戒心緩めて貰えてるのかなあと密かに嬉しかったりするんだが」
「よく意味が判んねえんですけど……」
「うん」
「うんって。だから何が」
「この距離になってもさ…飛びのかれないのが嬉しいというか」
「……誰がいつ飛びのいたよ!」
「意識的にだよ」
思わず噛み付くように怒鳴った海堂に、乾は不意打ちのように、にこりと笑った。
ひどく楽しそうな笑みだ。
「海堂、ちゃんと俺を見てる」
「………………」
微笑と一緒に囁かれた吐息の甘さに海堂は狼狽する。
そして同時に言われた言葉を反芻して、でも、そうだ、意識は決して乾から飛びのかない、それに気づく。
その事を噛み締めるように体感しながら、海堂は低く呟いた。
「………あんただってそうだろうが」
「俺が何?」
「あんたみたいに警戒心の強い奴いねえよ…」
「それに気づく奴こそ稀だ」
人当たり良いって評判なんだぞ俺はと言って、乾は尚も笑った。
データ収集が趣味だなんて究極の人好きだと思う反面、乾の他人へ何かを望む事のない意識の希薄さにも、海堂はもう気づいている。
恐らくは、お互いに、警戒心が強いのだ。
自分達は、似ているところなどないようでいて、こんなにも同じものも持っているということ。
「もう少し近くても?」
「………もう充分近い」
「だから、ここからもう少し」
そんな方法、海堂には判らないから、じっとしていた。
乾が海堂の前髪を指先に摘まんだまま、近づいてくる。
もっと、今よりももっと、だから、こうなる。
「………………」
掠るように触れた唇と唇。
離れて、また触れて、離れて、また触れる。
海堂は乾の唇が触れてくる度、瞬いた。
睫毛の動きが気になったのか、最後に乾の唇は海堂の睫毛の先に触れてきた。
唇が離れた後の方が、じわりと熱を帯びた気がした。
唇の表面。
「………………」
お互い黙っていた。
でももう一回だけというように。
同時に互いの頭が傾き、唇が触れる。
海堂の汗が、ぽつんと乾の頬に落ちる。
もどかしいような満ち足りたような不思議な気分だった。
間違ってない。
望み、望まれている事は、これだ。
警戒心の強い自分達は、いつも少しずつ確かめながら、確信している。
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泊まっていけと当たり前のように跡部は命じるけれど、そうそう外泊が出来るわけがない。
中学生だぞ俺は。
神尾は憮然と、跡部に言った事があるのだが。
返答は、こっちもそうだ馬鹿野郎と全くもってにべもなかった。
神尾が帰ると答える日は、決まって跡部は不機嫌になる。
「………何でついてくんだよ」
「アア?」
すっかり日暮れが早くなった。
暗い道を黙って歩く沈黙の重さに耐えかねて神尾が呟けば、背後からの返答はガラが悪い事この上ない。
それでも神尾がちらりと振り返った視線の先にいる跡部は、暗闇にあっても華やかで、秀麗な顔も整ったスタイルも嫌って程よく目立つ。
ファーのついたジャケットなんか、そんな当たり前みたいに着こなすなよなと神尾は内心で思った。
「ついてく訳ねえだろ。何で俺がてめえなんかに」
「………………」
「送ってやってんだろうが。彼氏が直々に、こうやって」
素っ気無くも冷たい言い方のすぐ後で、今度はそんな風に言ってくるから嫌だ。
どういう顔をしていいのか判らない。
神尾は黙って前を向いた。
歩く足は止めない。
俯きがちに歩を進める神尾の後ろを跡部は歩いてくる。
帰ると言った神尾に、いつものように不機嫌になったくせに。
実際神尾が身支度を始めると、何故か一緒に出てきた跡部だ。
何にも喋らない。
ただついてくる。
視線だけはやけにひしひしと背に感じて神尾はどうにも居たたまれなくなった。
振り返りたい。
振り返りたくない。
走ってしまいたい。
もっとゆっくり歩きたい。
頭の中がごちゃごちゃになる。
「神尾」
「………………」
「お前の歩き方、やけにみっともねえな」
「………ッ……誰のせいだと…、…!」
それなのに、冷淡な声でいきなりそんな言葉を放られて。
神尾は思わず足を止め、背後の跡部を物凄い勢いで振り返って怒鳴った。
跡部は胸の前で両腕を組み、唇の端を引き上げて笑っていた。
「ア? 誰のせいだって?」
「……、…っ…まえのせいだよ…!」
「俺は黙ってお前の後ろ歩いてただけだろうがよ」
「ずっとあるみたいなんだよ…!」
「……へえ?」
目を細めて笑う跡部の表情が、すごくいやらしい顔になった。
ものすごく綺麗でもあるけれど。
勢いで怒鳴ってしまった神尾だったが、跡部のその顔つきに、はっと息を飲む。
ずっとあるみたいだと、言った言葉は咄嗟のもの。
でも。
どこに、とか、なにが、とか。
そういうニュアンスは後からじわじわと神尾の羞恥を侵食してきた。
「ま…俺も似たようなもんだけどな」
「……え?」
ずっとお前の、と跡部が言った所で神尾が絶叫する。
場所も何も忘れて喚いた。
跡部は露骨に眉を顰めた。
「うるせえな」
「おま、…っ…なに、言おうとして…っ!」
「ああ?」
真っ赤になった神尾を、跡部は心底から呆れながらも、さも面白そうに眺めてくる。
「だから俺もずっとお前の」
「…ッ、…言うな…っ! 最低! 最悪!」
「てめえが聞いておいてその言い草か?」
そのうえ力づくで神尾を抱き込んできて、キスまでしてきた。
「………、ぅ…、…」
「………………」
「…っ………」
「……今度から、泊まらねえ日はシャワー貸さねえからな」
肩口の匂いを味わわれている気配に神尾は一層真っ赤になった。
跡部自身が使っている筈のボディソープの香りが、まるで気に食わないみたいな顔を跡部はしていた。
「ゆくゆく変えてやるよ」
「……え……?」
「お前の帰る場所をだ」
「…………跡部?」
駄目押しのようなきついキスをされた後に、軽く身体が突き放される。
「せいぜいよろよろと、帰るんだな」
冴え冴えとした声。
いつもの、そっけない跡部の口調だ。
でも後ろ手に軽く手を振られて、それだけの事に神尾の顔は、やはり赤いままでいるしかなかった。
「もー……訳わかんねー…跡部…」
珍しく泣き言めいた言葉が神尾の唇からもれる。
身体の奥深くに、今尚残る余韻を植えつけただけでは飽き足らず。
神尾の唇にもまた、まだキスのさなかのような余情が塗り込められて、神尾はまさしくよろよろと帰途につくしかなくなった。
中学生だぞ俺は。
神尾は憮然と、跡部に言った事があるのだが。
返答は、こっちもそうだ馬鹿野郎と全くもってにべもなかった。
神尾が帰ると答える日は、決まって跡部は不機嫌になる。
「………何でついてくんだよ」
「アア?」
すっかり日暮れが早くなった。
暗い道を黙って歩く沈黙の重さに耐えかねて神尾が呟けば、背後からの返答はガラが悪い事この上ない。
それでも神尾がちらりと振り返った視線の先にいる跡部は、暗闇にあっても華やかで、秀麗な顔も整ったスタイルも嫌って程よく目立つ。
ファーのついたジャケットなんか、そんな当たり前みたいに着こなすなよなと神尾は内心で思った。
「ついてく訳ねえだろ。何で俺がてめえなんかに」
「………………」
「送ってやってんだろうが。彼氏が直々に、こうやって」
素っ気無くも冷たい言い方のすぐ後で、今度はそんな風に言ってくるから嫌だ。
どういう顔をしていいのか判らない。
神尾は黙って前を向いた。
歩く足は止めない。
俯きがちに歩を進める神尾の後ろを跡部は歩いてくる。
帰ると言った神尾に、いつものように不機嫌になったくせに。
実際神尾が身支度を始めると、何故か一緒に出てきた跡部だ。
何にも喋らない。
ただついてくる。
視線だけはやけにひしひしと背に感じて神尾はどうにも居たたまれなくなった。
振り返りたい。
振り返りたくない。
走ってしまいたい。
もっとゆっくり歩きたい。
頭の中がごちゃごちゃになる。
「神尾」
「………………」
「お前の歩き方、やけにみっともねえな」
「………ッ……誰のせいだと…、…!」
それなのに、冷淡な声でいきなりそんな言葉を放られて。
神尾は思わず足を止め、背後の跡部を物凄い勢いで振り返って怒鳴った。
跡部は胸の前で両腕を組み、唇の端を引き上げて笑っていた。
「ア? 誰のせいだって?」
「……、…っ…まえのせいだよ…!」
「俺は黙ってお前の後ろ歩いてただけだろうがよ」
「ずっとあるみたいなんだよ…!」
「……へえ?」
目を細めて笑う跡部の表情が、すごくいやらしい顔になった。
ものすごく綺麗でもあるけれど。
勢いで怒鳴ってしまった神尾だったが、跡部のその顔つきに、はっと息を飲む。
ずっとあるみたいだと、言った言葉は咄嗟のもの。
でも。
どこに、とか、なにが、とか。
そういうニュアンスは後からじわじわと神尾の羞恥を侵食してきた。
「ま…俺も似たようなもんだけどな」
「……え?」
ずっとお前の、と跡部が言った所で神尾が絶叫する。
場所も何も忘れて喚いた。
跡部は露骨に眉を顰めた。
「うるせえな」
「おま、…っ…なに、言おうとして…っ!」
「ああ?」
真っ赤になった神尾を、跡部は心底から呆れながらも、さも面白そうに眺めてくる。
「だから俺もずっとお前の」
「…ッ、…言うな…っ! 最低! 最悪!」
「てめえが聞いておいてその言い草か?」
そのうえ力づくで神尾を抱き込んできて、キスまでしてきた。
「………、ぅ…、…」
「………………」
「…っ………」
「……今度から、泊まらねえ日はシャワー貸さねえからな」
肩口の匂いを味わわれている気配に神尾は一層真っ赤になった。
跡部自身が使っている筈のボディソープの香りが、まるで気に食わないみたいな顔を跡部はしていた。
「ゆくゆく変えてやるよ」
「……え……?」
「お前の帰る場所をだ」
「…………跡部?」
駄目押しのようなきついキスをされた後に、軽く身体が突き放される。
「せいぜいよろよろと、帰るんだな」
冴え冴えとした声。
いつもの、そっけない跡部の口調だ。
でも後ろ手に軽く手を振られて、それだけの事に神尾の顔は、やはり赤いままでいるしかなかった。
「もー……訳わかんねー…跡部…」
珍しく泣き言めいた言葉が神尾の唇からもれる。
身体の奥深くに、今尚残る余韻を植えつけただけでは飽き足らず。
神尾の唇にもまた、まだキスのさなかのような余情が塗り込められて、神尾はまさしくよろよろと帰途につくしかなくなった。
寝そべったベッドの上で、じっと見つめてくる視線の熱の高さ。
嫌だと思った事は無いが、時にはその刺激が強すぎる事もある。
こんなぐちゃぐちゃな顔見てんじゃねえよと毒づきたい言葉ももはや出てこない。
「………………」
むずがるように宍戸が毛布の中に顔を半分までもぐりこませる。
鳳はそれを甘ったれて嫌がるかのごとく阻止してきた。
「…苦しいですよ? もぐったら」
「………………」
うう、と声にならない声で唸った宍戸に鳳の笑みは深くなる。
汗や涙で濡れている宍戸の頬を、大きな手のひらで撫でつけながら、鳳は囁いてくる。
「眠いですか?」
首を左右に振るだけの所作で宍戸は応えた。
その間も鳳の手のひらはゆったりと宍戸の肌の上を撫でている。
「痛いとこない?」
「……ねえよ。あんだけ馬鹿っ丁寧に抱いてて言うな」
「馬鹿はひどい」
笑いながら鳳が宍戸の唇にキスを落としてきた。
余裕のない顔は隠さず見せるのに、ガツガツしたところのない年下の恋人の舌を宍戸は軽く噛んでやった。
「やりたいようにやれって俺は言ってんのによ…」
「してるじゃないですか。そうやって宍戸さんが許してくれるから、俺は宍戸さんに触れたいところ全部に触れてるし」
実際それは本当の話。
鳳は宍戸に、相当際どい事もするし、触れてもくる。
それは宍戸も判っているのだけれど、例えばこんな風に終わった直後の状態の差などを目の当たりにしてしまうと、いっぱいいっぱいなのは自分の方ばかりのような気がしてしまうのだ。
「なんか露骨に手加減されてる気がすんだよなぁ…」
「そんな馬鹿な」
「お前な。馬鹿とか言ってんじゃねえよ」
「宍戸さんだってさっき言ったじゃないですか」
どうでもいいような口調に紛れさせて、多分に本音を織り交ぜて言葉を放る。
誠実で生真面目な後輩は心底呆れ返ったような返事を寄こしてきたのが宍戸を内心で安堵させる。
「背中冷えてきましたね。シャワー浴びにいきますか?」
背筋をさらりと鳳の手のひらに撫で下ろされて、宍戸は言った。
「んー…じゃ、もう一回」
「宍戸さん?」
「起き上がってシャワー行くの面倒」
だからもう一回する、と宍戸は鳳の身体の上に乗り上がった。
鳳が本気で驚いているのがおかしくて、宍戸は笑った。
「なんて顔してんの。お前」
「え…そりゃ、だって…宍戸さん」
「しどろもどろじゃん」
喉の奥で響かせるように笑って、宍戸は鳳の額に唇を落とした。
こめかみと、頬にも口付けを滑らせると、ぐっと腰を抱かれた。
「…馬鹿ですね。宍戸さんは」
「長太郎。てめえまた馬鹿っつったな」
本当にもう、と嘆息する鳳の喉元に噛み付くように宍戸は痕をつけてやる。
後ろ髪がやわらかく鷲掴みにされて、顔を引き上げさせられた。
腰を抱き込まれる力と同じ強さで後頭部も抱え込まれて、唇が深い角度で噛み合う。
強いキスに頭の中がぐらぐらした。
眩暈じみた感覚に囚われながら、息の止まる限界までむさぼられたキスが解ける。
すでに潤み出していた宍戸の視界で、鳳が目を細めていた。
艶めくように熱が上がる。
「綺麗な色」
「………、……」
宍戸の身体の下で、じっと宍戸を見上げてくる視線の熱の高さ、言葉に交ざる呼気の熱の高さ。
そう囁かれ、次いで鳳の舌で直接舐め上げられた宍戸の唇が、発火するかのように綻んだ。
「…長太郎」
そうして綻んだ唇から漏れたものは、宍戸の一番大切なものの名前だ。
嫌だと思った事は無いが、時にはその刺激が強すぎる事もある。
こんなぐちゃぐちゃな顔見てんじゃねえよと毒づきたい言葉ももはや出てこない。
「………………」
むずがるように宍戸が毛布の中に顔を半分までもぐりこませる。
鳳はそれを甘ったれて嫌がるかのごとく阻止してきた。
「…苦しいですよ? もぐったら」
「………………」
うう、と声にならない声で唸った宍戸に鳳の笑みは深くなる。
汗や涙で濡れている宍戸の頬を、大きな手のひらで撫でつけながら、鳳は囁いてくる。
「眠いですか?」
首を左右に振るだけの所作で宍戸は応えた。
その間も鳳の手のひらはゆったりと宍戸の肌の上を撫でている。
「痛いとこない?」
「……ねえよ。あんだけ馬鹿っ丁寧に抱いてて言うな」
「馬鹿はひどい」
笑いながら鳳が宍戸の唇にキスを落としてきた。
余裕のない顔は隠さず見せるのに、ガツガツしたところのない年下の恋人の舌を宍戸は軽く噛んでやった。
「やりたいようにやれって俺は言ってんのによ…」
「してるじゃないですか。そうやって宍戸さんが許してくれるから、俺は宍戸さんに触れたいところ全部に触れてるし」
実際それは本当の話。
鳳は宍戸に、相当際どい事もするし、触れてもくる。
それは宍戸も判っているのだけれど、例えばこんな風に終わった直後の状態の差などを目の当たりにしてしまうと、いっぱいいっぱいなのは自分の方ばかりのような気がしてしまうのだ。
「なんか露骨に手加減されてる気がすんだよなぁ…」
「そんな馬鹿な」
「お前な。馬鹿とか言ってんじゃねえよ」
「宍戸さんだってさっき言ったじゃないですか」
どうでもいいような口調に紛れさせて、多分に本音を織り交ぜて言葉を放る。
誠実で生真面目な後輩は心底呆れ返ったような返事を寄こしてきたのが宍戸を内心で安堵させる。
「背中冷えてきましたね。シャワー浴びにいきますか?」
背筋をさらりと鳳の手のひらに撫で下ろされて、宍戸は言った。
「んー…じゃ、もう一回」
「宍戸さん?」
「起き上がってシャワー行くの面倒」
だからもう一回する、と宍戸は鳳の身体の上に乗り上がった。
鳳が本気で驚いているのがおかしくて、宍戸は笑った。
「なんて顔してんの。お前」
「え…そりゃ、だって…宍戸さん」
「しどろもどろじゃん」
喉の奥で響かせるように笑って、宍戸は鳳の額に唇を落とした。
こめかみと、頬にも口付けを滑らせると、ぐっと腰を抱かれた。
「…馬鹿ですね。宍戸さんは」
「長太郎。てめえまた馬鹿っつったな」
本当にもう、と嘆息する鳳の喉元に噛み付くように宍戸は痕をつけてやる。
後ろ髪がやわらかく鷲掴みにされて、顔を引き上げさせられた。
腰を抱き込まれる力と同じ強さで後頭部も抱え込まれて、唇が深い角度で噛み合う。
強いキスに頭の中がぐらぐらした。
眩暈じみた感覚に囚われながら、息の止まる限界までむさぼられたキスが解ける。
すでに潤み出していた宍戸の視界で、鳳が目を細めていた。
艶めくように熱が上がる。
「綺麗な色」
「………、……」
宍戸の身体の下で、じっと宍戸を見上げてくる視線の熱の高さ、言葉に交ざる呼気の熱の高さ。
そう囁かれ、次いで鳳の舌で直接舐め上げられた宍戸の唇が、発火するかのように綻んだ。
「…長太郎」
そうして綻んだ唇から漏れたものは、宍戸の一番大切なものの名前だ。
気配で判る。
今海堂の背後に近づいてきているのは乾だ。
無機質な故に穏やかな、癖のない気色。
「海堂」
呼ばれて振り返るのが常だけれど、今日海堂はそうしなかった。
まただ、と思ってしまったからだ。
「海堂?」
「………………」
ぽん、と頭の上に大きな手のひらが乗せられる。
もう海堂の背に身体が触れそうなほど近くに乾はいる。
昼休み。
急激に冷え込んできた初冬の中庭は寒く、生徒の姿も殆どない。
そんな中で、背後に居る乾から体温の余波させ感じられそうな至近距離で、海堂はぽつりと呟いた。
「……あんた」
「ん?」
「なんでいつもそうやって後ろから」
「何?」
そっと耳元近くで問い返されて、乾の呼気に晒された海堂は息を詰まらせてしまう。
「……、…何でもねえよ、」
「いや…ちっとも何でもなくなさそうだから」
「……っ……」
さりげなく手首をとられている。
咄嗟に振り切ろうとした身体が前に進まない。
「乾先輩、…」
「海堂。なに怒ってるの」
静かな言い方だったが、海堂は慌てた。
「…、…別に怒ってなんか」
しかもいきなり腹部に乾の片腕が回りこんできて、ぐいっと抱き込まれたものだからぎょっとする。
いくらひとけがなくたって、こんな様をどこから誰が見ているか判らない。
しかしそうやってうろたえる海堂をよそに、乾は飄々としたものだった。
「最近校舎で俺が声をかけると、海堂いつも不機嫌になるよな?」
何が嫌なんだ?と低い声で囁かれて。
耳の縁に当たる呼気。
乾が怒っている訳ではないと判っていながらも、その真剣な口調と感触に海堂は一層慌てた。
「…っ…不機嫌になんか…」
「じゃあさっき言いかけた事は?」
もう殆ど、どんなごまかしもきかない程の密着の仕方で。
校内でこれはないだろうと錯乱しきった海堂が、恨めしく肩越しに乾を睨み上げる。
ん?と尚も平静に促してくる乾に、結局海堂はやけっぱちに噛み付いた。
「だからッ」
「…何だ?」
「そうやって、近頃いつも人の背後から来やがんの、あんただろ…っ」
顔見たくなけりゃ無理矢理声かけてくんな!と呻いて付け足せば、乾は暴れる野良猫に手こずるような態度で海堂を一層深く抱え込んできた。
「ちょ…、…っ…」
「ああ……そういう……」
長い腕に締め付けられるようにされて、いよいよ海堂も赤くなる。
乾はといえば、まるでお構い無しに、勝手に何だかんだと納得している素振りだ。
「なるほど。……いや、でもな、それはな…海堂」
ほら、あれだ、と乾にしては歯切れの悪い物言いに、海堂はきつく眼差しを引き絞った。
斜め上を鋭く睨みつけると、乾が真顔で首を左右に振った。
「違う違う。誤魔化してんじゃないよ。ええと……そうだな、つまり俺の心情を説明すると、ティカップの模様の話」
「……ああ?」
「海堂はさ、ティカップの持ち手ってどっち向きで出すのが正しいと思う?」
まあちょっと座ろうかと乾に促されるまま、海堂は乾と並んで中庭にあるベンチに腰を落ち着けた。
乾の話が突飛なのはいつもの事だ。
怪訝に思いながらも海堂は言われた言葉を反芻する。
「つまりそういう話。正しい正しくないの話じゃないってこと」
「……全く意味判んねえんですけど」
過程を飛ばして結論にいってしまう乾も健在だ。
海堂は呆れながらも生真面目に意見した。
この男は、そういう男なのだ。
乾の事で海堂に判る事は少ないけれど、考えなしでない事は知っている。
案の定今だって、乾は訥々と海堂に語って聞かせた。
「カップの取っ手を右側にして出すのがアメリカ式。手を伸ばしてすぐ飲めるように、極めて合理的にだ」
「はあ…」
「対して取っ手を左側にして出すのがヨーロッパ式だ。取っ手を左側から右側に動かす間に、カップの模様を楽しむ為にそうする」
「………………」
「で、俺はヨーロッパ式な訳だ」
俺を振り返ってくるのに半周する海堂を見てるのが好きなんだよと衒いも無く言ってのけた乾に海堂は絶句した。
「振り返ってくる海堂の顔が見たいから、ついいつも後ろから声をかけるという事になる」
「………………」
「前から見るのも勿論好きなんだけど」
いろいろ海堂フェチで悪いねと薄く笑う乾に、海堂はくたくたとベンチに懐いてしまいそうになった。
全く考えもしなかった言葉を次々向けられて、いい加減海堂の許容範囲を超えている。
こんなことを自分に言う相手も。
思う相手も。
乾以外にいない。
誰もいない。
この男は、何でそんなに、こんな自分に拘るのか判らない。
「海堂?」
判らないと思った事をどうやら口からも放っていたらしく、乾が微苦笑と一緒に再び手のひらを海堂の頭の上に乗せてきた。
「俺からしてみたら海堂は奇跡的だよ」
「………は…?」
「海堂の持ってる信念とか、努力の仕方、結果の出し方」
「………………」
「どれもこれも俺には初めて見るもので、きっと自覚無しにそれは俺がずっと欲しがってたものなんだろうなって海堂を見て気づいた」
「あんた…何言って…」
俺はそんなに、と言い募った海堂の言葉を乾は遮った。
「すごいんだよ。俺にとって、お前しかいないんだから」
「………………」
優しい声で告げられて、海堂は混乱してしまう。
あまりにも特別な言葉ばかり、次々乾から向けられて。
「………何で今日はそういうこと言うんですか」
呆然と呟けば、乾は笑った。
「海堂が聞いたからだろ」
「…俺?」
「どうしていつも後ろからって、聞いただろ?」
「それとこれとは全然話が違うだろ…」
「一緒」
乾が笑みを深めた。
ベンチに深く寄りかかって海堂を流し見てくる。
「海堂も知ってるだろう? 俺はいろいろ考えてるんだよ。何をするにもね」
「………………」
「海堂を抱き締める向きだって理由がある。この程度の事はいつも考えてるんだ」
それからふと、乾は面白そうに付け加えた。
「……それでも全然足りてない」
「………………」
「ついでに他に質問は?」
あればこの機会に答えるけどと。
乾は笑って話題を変えてきたけれど。
海堂はといえば、あまりにも壮大な話の欠片だけ聞かされたような面持ちで首を左右に振るしかない。
全然足りてない。
それは乾に対して海堂が思う事でもあった。
まだお互いのこと、判らないこと、知らないことだらけだ。
同じ部活の先輩後輩として数年。
結構長く関わってきていたとも思ったが、それはどうやら単純に気のせいなようで。
全然足りてない。
まだまだ足りてない。
これまでもこれからも、もっとずっとちゃんと一緒に。
いないと解けない謎だらけだ。
今海堂の背後に近づいてきているのは乾だ。
無機質な故に穏やかな、癖のない気色。
「海堂」
呼ばれて振り返るのが常だけれど、今日海堂はそうしなかった。
まただ、と思ってしまったからだ。
「海堂?」
「………………」
ぽん、と頭の上に大きな手のひらが乗せられる。
もう海堂の背に身体が触れそうなほど近くに乾はいる。
昼休み。
急激に冷え込んできた初冬の中庭は寒く、生徒の姿も殆どない。
そんな中で、背後に居る乾から体温の余波させ感じられそうな至近距離で、海堂はぽつりと呟いた。
「……あんた」
「ん?」
「なんでいつもそうやって後ろから」
「何?」
そっと耳元近くで問い返されて、乾の呼気に晒された海堂は息を詰まらせてしまう。
「……、…何でもねえよ、」
「いや…ちっとも何でもなくなさそうだから」
「……っ……」
さりげなく手首をとられている。
咄嗟に振り切ろうとした身体が前に進まない。
「乾先輩、…」
「海堂。なに怒ってるの」
静かな言い方だったが、海堂は慌てた。
「…、…別に怒ってなんか」
しかもいきなり腹部に乾の片腕が回りこんできて、ぐいっと抱き込まれたものだからぎょっとする。
いくらひとけがなくたって、こんな様をどこから誰が見ているか判らない。
しかしそうやってうろたえる海堂をよそに、乾は飄々としたものだった。
「最近校舎で俺が声をかけると、海堂いつも不機嫌になるよな?」
何が嫌なんだ?と低い声で囁かれて。
耳の縁に当たる呼気。
乾が怒っている訳ではないと判っていながらも、その真剣な口調と感触に海堂は一層慌てた。
「…っ…不機嫌になんか…」
「じゃあさっき言いかけた事は?」
もう殆ど、どんなごまかしもきかない程の密着の仕方で。
校内でこれはないだろうと錯乱しきった海堂が、恨めしく肩越しに乾を睨み上げる。
ん?と尚も平静に促してくる乾に、結局海堂はやけっぱちに噛み付いた。
「だからッ」
「…何だ?」
「そうやって、近頃いつも人の背後から来やがんの、あんただろ…っ」
顔見たくなけりゃ無理矢理声かけてくんな!と呻いて付け足せば、乾は暴れる野良猫に手こずるような態度で海堂を一層深く抱え込んできた。
「ちょ…、…っ…」
「ああ……そういう……」
長い腕に締め付けられるようにされて、いよいよ海堂も赤くなる。
乾はといえば、まるでお構い無しに、勝手に何だかんだと納得している素振りだ。
「なるほど。……いや、でもな、それはな…海堂」
ほら、あれだ、と乾にしては歯切れの悪い物言いに、海堂はきつく眼差しを引き絞った。
斜め上を鋭く睨みつけると、乾が真顔で首を左右に振った。
「違う違う。誤魔化してんじゃないよ。ええと……そうだな、つまり俺の心情を説明すると、ティカップの模様の話」
「……ああ?」
「海堂はさ、ティカップの持ち手ってどっち向きで出すのが正しいと思う?」
まあちょっと座ろうかと乾に促されるまま、海堂は乾と並んで中庭にあるベンチに腰を落ち着けた。
乾の話が突飛なのはいつもの事だ。
怪訝に思いながらも海堂は言われた言葉を反芻する。
「つまりそういう話。正しい正しくないの話じゃないってこと」
「……全く意味判んねえんですけど」
過程を飛ばして結論にいってしまう乾も健在だ。
海堂は呆れながらも生真面目に意見した。
この男は、そういう男なのだ。
乾の事で海堂に判る事は少ないけれど、考えなしでない事は知っている。
案の定今だって、乾は訥々と海堂に語って聞かせた。
「カップの取っ手を右側にして出すのがアメリカ式。手を伸ばしてすぐ飲めるように、極めて合理的にだ」
「はあ…」
「対して取っ手を左側にして出すのがヨーロッパ式だ。取っ手を左側から右側に動かす間に、カップの模様を楽しむ為にそうする」
「………………」
「で、俺はヨーロッパ式な訳だ」
俺を振り返ってくるのに半周する海堂を見てるのが好きなんだよと衒いも無く言ってのけた乾に海堂は絶句した。
「振り返ってくる海堂の顔が見たいから、ついいつも後ろから声をかけるという事になる」
「………………」
「前から見るのも勿論好きなんだけど」
いろいろ海堂フェチで悪いねと薄く笑う乾に、海堂はくたくたとベンチに懐いてしまいそうになった。
全く考えもしなかった言葉を次々向けられて、いい加減海堂の許容範囲を超えている。
こんなことを自分に言う相手も。
思う相手も。
乾以外にいない。
誰もいない。
この男は、何でそんなに、こんな自分に拘るのか判らない。
「海堂?」
判らないと思った事をどうやら口からも放っていたらしく、乾が微苦笑と一緒に再び手のひらを海堂の頭の上に乗せてきた。
「俺からしてみたら海堂は奇跡的だよ」
「………は…?」
「海堂の持ってる信念とか、努力の仕方、結果の出し方」
「………………」
「どれもこれも俺には初めて見るもので、きっと自覚無しにそれは俺がずっと欲しがってたものなんだろうなって海堂を見て気づいた」
「あんた…何言って…」
俺はそんなに、と言い募った海堂の言葉を乾は遮った。
「すごいんだよ。俺にとって、お前しかいないんだから」
「………………」
優しい声で告げられて、海堂は混乱してしまう。
あまりにも特別な言葉ばかり、次々乾から向けられて。
「………何で今日はそういうこと言うんですか」
呆然と呟けば、乾は笑った。
「海堂が聞いたからだろ」
「…俺?」
「どうしていつも後ろからって、聞いただろ?」
「それとこれとは全然話が違うだろ…」
「一緒」
乾が笑みを深めた。
ベンチに深く寄りかかって海堂を流し見てくる。
「海堂も知ってるだろう? 俺はいろいろ考えてるんだよ。何をするにもね」
「………………」
「海堂を抱き締める向きだって理由がある。この程度の事はいつも考えてるんだ」
それからふと、乾は面白そうに付け加えた。
「……それでも全然足りてない」
「………………」
「ついでに他に質問は?」
あればこの機会に答えるけどと。
乾は笑って話題を変えてきたけれど。
海堂はといえば、あまりにも壮大な話の欠片だけ聞かされたような面持ちで首を左右に振るしかない。
全然足りてない。
それは乾に対して海堂が思う事でもあった。
まだお互いのこと、判らないこと、知らないことだらけだ。
同じ部活の先輩後輩として数年。
結構長く関わってきていたとも思ったが、それはどうやら単純に気のせいなようで。
全然足りてない。
まだまだ足りてない。
これまでもこれからも、もっとずっとちゃんと一緒に。
いないと解けない謎だらけだ。
部活が終わったら来いとだけ打たれているメールが来た。
それでも随分とマシになったもんだよなあと、神尾は画面を見てしみじみ思ったものだ。
差出人は跡部景吾。
最初の頃の跡部なら、この内容ならば間違いなく本文は、来い、だけだった筈だ。
こちらの予定などお構いなしに。
それは今も、多少はそうなのかもしれないが。
でも今は、尊大な態度は然して変わらないが、ちょっといろいろ違う事もある。
跡部が変わったのか、神尾が気づくようになったのか。
最近あんまりこういう些細な事では喧嘩しなくなったなあと神尾は思った。
「三十分待ってろ」
例えば神尾がこうやって、言われた通りに跡部の家に行くと、人の事を呼びつけたくせに跡部は振り返りもせずにパソコンに向かって何か作業中だったりする。
これは以前からよくある事。
それでも今は、何をしているのかは言わないけれど、どれくらい時間がかかるのかは言ってくれるので。
神尾は慣れた場所に腰を落ち着ける。
跡部の部屋の派手な赤いソファに寄りかかって、床に直接座り込むのが神尾は好きなのだ。
以前の神尾は、用事を済ませてから呼べよとよく憤慨していたのだが、親友の伊武が最悪にうんざりとした顔で「少しでも早く会いたいんじゃないの。目離してる間に神尾は何してるか判らないから」と言った事があって、それ以来神尾は腹がたたなくなった。
こんな風に放置されたままでも。
そうなのかな、そうだったらいいな、と勝手に思っているので。
「………………」
今日は三十分かと神尾は考えて、鞄の中から宿題を取り出した。
別に勉強したい訳ではないのだが、三日前に出たその宿題の提出日は明日なのだ。
そして然して難しい内容ではないが手付かずのままなのである。
ちょうどいいからと神尾はソファに寄りかかったまま、ロータイプのガラステーブルの上に教科書とノートを広げた。
会話のない部屋は静かだ。
けれど気詰りは全く無かった。
跡部の指はパソコンのキーボードを叩き、神尾の指はシャープペンをノートの上に走らせている。
一点集中型と自他共に認める神尾が宿題に没頭して、どれくらい経ったのか。
よし、終わり、と神尾はシャープペンを置き、勢いのままガバッと顔を上げる。
ひゅっ、と神尾の喉が鳴った。
「…………ッ…」
「どういうリアクションだよ、てめえ」
神尾に背を向けて机に向かっていた筈の跡部が、椅子に座ったまま神尾の方を向いていた。
長い足を片方、膝から折り曲げて。
椅子の座面に乗せ、右手で抱えている。
そして直視していた。
神尾を。
「び、…びっくりした…!」
うおー、と神尾はバクバクしている胸に片手を当てる。
何で跡部が自分を見てるんだと驚いた神尾だったが、徐々にこの状況に気づく。
どうやら先に作業が終わっていたらしい跡部は、宿題をしていた自分を待っていたらしい。
おとなしく。
いかにも不機嫌そうな顔をしているが、でもおとなしく。
「………あげく笑いやがるか」
「や、ごめん。すいません。お待たせ」
跡部の面持ちは整いすぎていて、凄むと凶悪に冷徹になるのだが、神尾は神妙に謝りながらも笑ってしまった。
一層機嫌も悪く、跡部は神尾が寄りかかっているソファに、どっかりと座った。
尚も笑い続ける神尾の背中を足で軽く蹴ってきて、跡部はそのまま広げた両足の間に置いた神尾を軽々とソファの上に引き上げてきた。
「お?」
ひょい、と持ち上げられるまま、神尾はソファに座り、背後の跡部に寄りかからされるようにして抱き込まれる。
身体の前、腹部の辺りに跡部の両腕が交差している。
「ちょ、…苦しいんだけど!」
「これで中身ちゃんと詰まってんのかよ」
「は? 中身?」
「内蔵だ内臓」
「げ、…何の話して…」
腹部を固い手のひらに撫でられ、いったい何の話だと神尾は頬を引き攣らせた。
「片手楽に回るんじゃねーの」
「…は?……跡部っ、…そこ、すっげえ擽ったいんだけど…っ」
しまいには笑い出した神尾だったが、自分の背中越しに伝わってくる振動のような跡部の声音が、ひどく気持ちよくもあった。
「なあ、跡部」
「何だ」
跡部の両腕で、がっちりと腹部をホールドされている為、視線でしか振り返れない神尾が。
それでも懸命に見つめた先で、跡部は長い睫毛を伏せるようにして神尾を見返してきていた。
「なんか歌うたって」
無類の音楽好きである神尾は、無性に今、跡部のこの声が歌を歌うのが聞きたくなってしまった。
「そうだなー……あ、氷帝の校歌歌って。校歌聞いてみたい!」
「ああ? 校歌だ?」
「うん。氷帝の校歌」
「氷帝以外知らねえよ」
馬鹿かと跡部は言い捨てて。
軽い言い合いを交わして。
辛辣で素っ気無い口調の割に、跡部はいかにも面倒くさそうに校歌を歌い出した。
神尾を抱き込んだまま、何故か片手で神尾の目元を覆って。
視界が閉ざされた分、神尾の聴覚は敏感に跡部の歌声を拾った。
婀娜めいた声は歌っていてもその艶が褪せる事はなかった。
耳元近くで歌われる歌。
跡部の声。
凭れかかっている跡部から直接響いてくる声音をもっとよく聞きたくて、神尾は一層跡部の胸元に背中を預けた。
終わってしまいそうになる歌に、二番もとねだったら耳元を軽く噛まれた後にまた歌声が耳に届く。
「なんか校歌も独特だなー氷帝…」
耳に与えられた刺激の正体を感覚だけで追って気づいた神尾は、瞬時顔に血が上ったのを、誤魔化すようにして呟く。
跡部が歌の合間に作詞者と作曲者の名を短く口にした。
それは二人とも、神尾もよく知っている著名人の名前だった。
「すっげえ…」
「卒業生なんでな」
「へえ………ところでさ。あのさ、跡部」
「何だ」
「お前、なんでずうっと俺の目塞いでんだよぅ?」
歌の合間の会話が、会話の合間の歌のようになっているが、神尾の目元は依然跡部に塞がれたままだ。
「じろじろ見られてると歌いにくいんだよ。馬鹿」
「見られるのくらい、お前慣れてんだろ」
「お前みたいな目で見る奴は滅多にいねえよ」
「……俺、なんかヤバイのか…?!」
咄嗟に神尾は自分の目元に手を当てた。
しかし実際手に触れるのは跡部の手な訳なのだが。
また神尾の耳元に、直接吹き込まれるような小さな歌声が聞こえてくる。
「………跡部、ボイトレとかしてる?」
「馬鹿か。する訳ねえだろ」
「……人のこと馬鹿馬鹿言いすぎだと思うぜ」
「仕方ねえだろ。どうしようもなく馬鹿なんだから」
また歌が止んで、些細な言い合いになって。
校歌の二番はなかなか終わらない。
「じゃあさ…地声で、そうなのか?」
「地声でこうだよ」
そして歌。
跡部の声に、歌に、絡めとられて。
神尾は、くたくたと跡部の腕の中にまた深く落ちていく。
「跡部ってよぅ……出来ないこととか…ないわけ」
「お前以外は思いのままだ」
熱を帯びたような声がして、しかしすぐにはその意味が判らなかった。
神尾は暫く沈黙してから、愕然と叫んだ。
「え………俺?! 何で!」
「………………」
「俺、べつにぜんぜん難しくなんかないぜ!」
「……ああそうかい」
「なんだよその呆れ果ててますーって言い方は!」
神尾は両手で、自分の目元を覆う跡部の右手をそこから引き剥がした。
勢いこんで背後を振り仰ぐと、ひどく窮屈な体勢で唇を塞がれた。
「……ん…」
「………………」
「…………っ…、…ぅ」
跡部の手のひらが神尾の片頬を包んでくる。
器官が捩じれているような体勢でのキスなので、すぐに呼吸が詰まるのを、もどかしく思ってしまう自分に神尾は赤くなった。
キスはかなり強引だったが、唇が離れてから、労るように神尾の喉元に宛がわれてきた跡部の手のひらは温かかった。
その後は、神尾は跡部に背後から抱き込まれたまま。
歌も言い争いも何もない。
抱き締められているだけだ。
「…………な…跡部…いつまでこの体勢?」
そっと神尾が尋ねたのは、退屈した訳でも、嫌な訳でも、無論なく。
神尾の方から離れるのは無理なほどに、あまりに心地が良かったからだ。
それで問いかけた神尾に、跡部はほんの少しも腕の力を緩めないままに。
「さあな。俺様が飽きたら放してやるよ」
そう呟くように言った。
それから、こうも言った。
「たかだか十分程度の話だろうが」
「………………」
神尾は、跡部が三十分待てと言った時から、時計を見ていて。
こうやってソファに引き上げられた時にも、時計を見ていて。
だから。
跡部が校歌を口ずさんだあたりから、もうすでに三十分ばかりが経過している事を、知っている。
知っているけれど。
言わないけれども。
それでも随分とマシになったもんだよなあと、神尾は画面を見てしみじみ思ったものだ。
差出人は跡部景吾。
最初の頃の跡部なら、この内容ならば間違いなく本文は、来い、だけだった筈だ。
こちらの予定などお構いなしに。
それは今も、多少はそうなのかもしれないが。
でも今は、尊大な態度は然して変わらないが、ちょっといろいろ違う事もある。
跡部が変わったのか、神尾が気づくようになったのか。
最近あんまりこういう些細な事では喧嘩しなくなったなあと神尾は思った。
「三十分待ってろ」
例えば神尾がこうやって、言われた通りに跡部の家に行くと、人の事を呼びつけたくせに跡部は振り返りもせずにパソコンに向かって何か作業中だったりする。
これは以前からよくある事。
それでも今は、何をしているのかは言わないけれど、どれくらい時間がかかるのかは言ってくれるので。
神尾は慣れた場所に腰を落ち着ける。
跡部の部屋の派手な赤いソファに寄りかかって、床に直接座り込むのが神尾は好きなのだ。
以前の神尾は、用事を済ませてから呼べよとよく憤慨していたのだが、親友の伊武が最悪にうんざりとした顔で「少しでも早く会いたいんじゃないの。目離してる間に神尾は何してるか判らないから」と言った事があって、それ以来神尾は腹がたたなくなった。
こんな風に放置されたままでも。
そうなのかな、そうだったらいいな、と勝手に思っているので。
「………………」
今日は三十分かと神尾は考えて、鞄の中から宿題を取り出した。
別に勉強したい訳ではないのだが、三日前に出たその宿題の提出日は明日なのだ。
そして然して難しい内容ではないが手付かずのままなのである。
ちょうどいいからと神尾はソファに寄りかかったまま、ロータイプのガラステーブルの上に教科書とノートを広げた。
会話のない部屋は静かだ。
けれど気詰りは全く無かった。
跡部の指はパソコンのキーボードを叩き、神尾の指はシャープペンをノートの上に走らせている。
一点集中型と自他共に認める神尾が宿題に没頭して、どれくらい経ったのか。
よし、終わり、と神尾はシャープペンを置き、勢いのままガバッと顔を上げる。
ひゅっ、と神尾の喉が鳴った。
「…………ッ…」
「どういうリアクションだよ、てめえ」
神尾に背を向けて机に向かっていた筈の跡部が、椅子に座ったまま神尾の方を向いていた。
長い足を片方、膝から折り曲げて。
椅子の座面に乗せ、右手で抱えている。
そして直視していた。
神尾を。
「び、…びっくりした…!」
うおー、と神尾はバクバクしている胸に片手を当てる。
何で跡部が自分を見てるんだと驚いた神尾だったが、徐々にこの状況に気づく。
どうやら先に作業が終わっていたらしい跡部は、宿題をしていた自分を待っていたらしい。
おとなしく。
いかにも不機嫌そうな顔をしているが、でもおとなしく。
「………あげく笑いやがるか」
「や、ごめん。すいません。お待たせ」
跡部の面持ちは整いすぎていて、凄むと凶悪に冷徹になるのだが、神尾は神妙に謝りながらも笑ってしまった。
一層機嫌も悪く、跡部は神尾が寄りかかっているソファに、どっかりと座った。
尚も笑い続ける神尾の背中を足で軽く蹴ってきて、跡部はそのまま広げた両足の間に置いた神尾を軽々とソファの上に引き上げてきた。
「お?」
ひょい、と持ち上げられるまま、神尾はソファに座り、背後の跡部に寄りかからされるようにして抱き込まれる。
身体の前、腹部の辺りに跡部の両腕が交差している。
「ちょ、…苦しいんだけど!」
「これで中身ちゃんと詰まってんのかよ」
「は? 中身?」
「内蔵だ内臓」
「げ、…何の話して…」
腹部を固い手のひらに撫でられ、いったい何の話だと神尾は頬を引き攣らせた。
「片手楽に回るんじゃねーの」
「…は?……跡部っ、…そこ、すっげえ擽ったいんだけど…っ」
しまいには笑い出した神尾だったが、自分の背中越しに伝わってくる振動のような跡部の声音が、ひどく気持ちよくもあった。
「なあ、跡部」
「何だ」
跡部の両腕で、がっちりと腹部をホールドされている為、視線でしか振り返れない神尾が。
それでも懸命に見つめた先で、跡部は長い睫毛を伏せるようにして神尾を見返してきていた。
「なんか歌うたって」
無類の音楽好きである神尾は、無性に今、跡部のこの声が歌を歌うのが聞きたくなってしまった。
「そうだなー……あ、氷帝の校歌歌って。校歌聞いてみたい!」
「ああ? 校歌だ?」
「うん。氷帝の校歌」
「氷帝以外知らねえよ」
馬鹿かと跡部は言い捨てて。
軽い言い合いを交わして。
辛辣で素っ気無い口調の割に、跡部はいかにも面倒くさそうに校歌を歌い出した。
神尾を抱き込んだまま、何故か片手で神尾の目元を覆って。
視界が閉ざされた分、神尾の聴覚は敏感に跡部の歌声を拾った。
婀娜めいた声は歌っていてもその艶が褪せる事はなかった。
耳元近くで歌われる歌。
跡部の声。
凭れかかっている跡部から直接響いてくる声音をもっとよく聞きたくて、神尾は一層跡部の胸元に背中を預けた。
終わってしまいそうになる歌に、二番もとねだったら耳元を軽く噛まれた後にまた歌声が耳に届く。
「なんか校歌も独特だなー氷帝…」
耳に与えられた刺激の正体を感覚だけで追って気づいた神尾は、瞬時顔に血が上ったのを、誤魔化すようにして呟く。
跡部が歌の合間に作詞者と作曲者の名を短く口にした。
それは二人とも、神尾もよく知っている著名人の名前だった。
「すっげえ…」
「卒業生なんでな」
「へえ………ところでさ。あのさ、跡部」
「何だ」
「お前、なんでずうっと俺の目塞いでんだよぅ?」
歌の合間の会話が、会話の合間の歌のようになっているが、神尾の目元は依然跡部に塞がれたままだ。
「じろじろ見られてると歌いにくいんだよ。馬鹿」
「見られるのくらい、お前慣れてんだろ」
「お前みたいな目で見る奴は滅多にいねえよ」
「……俺、なんかヤバイのか…?!」
咄嗟に神尾は自分の目元に手を当てた。
しかし実際手に触れるのは跡部の手な訳なのだが。
また神尾の耳元に、直接吹き込まれるような小さな歌声が聞こえてくる。
「………跡部、ボイトレとかしてる?」
「馬鹿か。する訳ねえだろ」
「……人のこと馬鹿馬鹿言いすぎだと思うぜ」
「仕方ねえだろ。どうしようもなく馬鹿なんだから」
また歌が止んで、些細な言い合いになって。
校歌の二番はなかなか終わらない。
「じゃあさ…地声で、そうなのか?」
「地声でこうだよ」
そして歌。
跡部の声に、歌に、絡めとられて。
神尾は、くたくたと跡部の腕の中にまた深く落ちていく。
「跡部ってよぅ……出来ないこととか…ないわけ」
「お前以外は思いのままだ」
熱を帯びたような声がして、しかしすぐにはその意味が判らなかった。
神尾は暫く沈黙してから、愕然と叫んだ。
「え………俺?! 何で!」
「………………」
「俺、べつにぜんぜん難しくなんかないぜ!」
「……ああそうかい」
「なんだよその呆れ果ててますーって言い方は!」
神尾は両手で、自分の目元を覆う跡部の右手をそこから引き剥がした。
勢いこんで背後を振り仰ぐと、ひどく窮屈な体勢で唇を塞がれた。
「……ん…」
「………………」
「…………っ…、…ぅ」
跡部の手のひらが神尾の片頬を包んでくる。
器官が捩じれているような体勢でのキスなので、すぐに呼吸が詰まるのを、もどかしく思ってしまう自分に神尾は赤くなった。
キスはかなり強引だったが、唇が離れてから、労るように神尾の喉元に宛がわれてきた跡部の手のひらは温かかった。
その後は、神尾は跡部に背後から抱き込まれたまま。
歌も言い争いも何もない。
抱き締められているだけだ。
「…………な…跡部…いつまでこの体勢?」
そっと神尾が尋ねたのは、退屈した訳でも、嫌な訳でも、無論なく。
神尾の方から離れるのは無理なほどに、あまりに心地が良かったからだ。
それで問いかけた神尾に、跡部はほんの少しも腕の力を緩めないままに。
「さあな。俺様が飽きたら放してやるよ」
そう呟くように言った。
それから、こうも言った。
「たかだか十分程度の話だろうが」
「………………」
神尾は、跡部が三十分待てと言った時から、時計を見ていて。
こうやってソファに引き上げられた時にも、時計を見ていて。
だから。
跡部が校歌を口ずさんだあたりから、もうすでに三十分ばかりが経過している事を、知っている。
知っているけれど。
言わないけれども。
鳳の家のバスタオルのサイズはどれもかなり大きい。
それは例えば鳳の背の高さにあわせたものかと宍戸は最初思ったのだが、どうやら鳳家のバスタオルは全て同じメーカーのもので統一されているようだった。
それもとびきり高級であろう代物だ。
ただサイズが大きいだけでなく、毛布並みのあまりにも贅沢な手触りは、分厚く柔らかく心地良かった。
バスタオル専用のクローゼットに整然としまわれている様子を目にしてしまえば尚更だ。
今日も宍戸がバスルームから出るといつものバスタオルが用意してあった。
最近すでに馴染みつつある、でもいつでもしみじみと気持ちのいいそれに宍戸は包まるようにして、バスルームとほぼ直結している鳳の部屋に向かった。
どういう家の造りだと宍戸は思うが、鳳に言わせると二階のバスルームはゲスト用だから狭いでしょう?と至って控えめな事を言う。
確かに広くはないが、別に狭くもない。
殆ど鳳の専用になっているらしい。
「………………」
宍戸はバスタオルに包まったまま鳳の部屋に行き、そこに部屋の主がいないので、多分下で飲み物を用意しているのだろうとあたりをつけた。
甲斐甲斐しい事この上ないのだ。
宍戸はそのままベランダに出た。
一人掛けの大振なラタンのチェアに座り、足も座面に引き上げて丸まって寄りかかる。
湯上りに外気がちょうどよかった。
十一月になったというのに、日中は毎日二十度を越えてやけに暖かい。
日も暮れればさすがに気温は下がるけれど、今の宍戸には少し涼しい風が丁度良かった。
「宍戸さん…!」
「…おう」
しかし鳳は、血相変えてベランダに現れた。
多分そういうリアクションをとってくるだろうと宍戸は思っていたので、図らずともその唇には苦笑いが浮かんでしまう。
案の定鳳は宍戸を叱り付けてきた。
「なんて恰好でこんな所にいるんですか!」
「お前んちのバスタオルに包まってたら別に平気だろ」
実際顔だけしか出ていないくらい、宍戸が身体にしっかりと巻きつけたバスタオルは、寧ろまだ余裕がある程だ。
バスローブの上から更にガウンを羽織っているくらいの感触なのだ。
「駄目ですよ! 風邪ひいたらどうするんですか」
鳳がラタンのチェアの脇に立って、手を伸ばしてくる。
長い指が宍戸の髪に差し込まれてくる。
「髪まだ濡れてるじゃないですか」
「じゃあお前がかわかして」
「あのねえ、宍戸さん」
「………………」
もう、と深い溜息をつきながら。
宍戸が黙って動かないでいると結局鳳は折れて、部屋に行き、そうしてすぐにベランダに戻ってきた。
手にはドライヤーを持っている。
屋外用の電源がベランダにはちゃんととられていて、鳳はそこにコンセントを差し込むと宍戸の背後に立った。
宍戸の髪に温風をあてながら、手ぐしで丁寧に髪をかわかしてくる。
今は宍戸の髪は短いから、昔のようにドライヤーを使わなくてもすぐにかわくのだが、鳳の手が気持ちいいので時々こういう事をさせている。
鳳に言わせればさせて貰っているという事らしいが。
「もうこれ片した方がいいですかねえ…」
「何でだよ」
ドライヤーの音に飛ばないように、声を少し大きくして会話を交わす。
目線は合わないけれど、宍戸には鳳の表情がリアルに想像出来た。
さぞや真面目に困ったようにひとりごちているのだろう。
「宍戸さんが、ここ気に入ってくれてるのは嬉しいですけど、冬になってもこんな事されたらと思うと気が気じゃないです」
「いくら俺でも冬の寒い中やんねーよ」
すっぽりと身体を受け止めるようなラタンのチェアに寄りかかって、シャワーの後にここで冷たい飲み物をよく飲んだ夏はもう過ぎてしまった季節だ。
外部から見られないように作られているらしい鳳の部屋のベランダが、確かに宍戸は気に入っている。
今みたいに鳳の手に髪をすかれながらドライヤーでかわかされている状態が、どれだけ贅沢なのかも判っている。
「はい。できました」
ドライヤーのスイッチが切られる。
急に場が静かになる。
「涼しくなってきた」
「入りましょう。中に」
鳳の促しに、宍戸は今度はおとなしく従った。
チェアから足を下ろして、バスタオルに包まったまま鳳の後ろを歩く。
「なあ、長太郎」
「はい?」
「お前この後、俺抱くか」
「抱きたいよ」
先を歩いている鳳が、まるで見えてでもいるかのように後ろ手で宍戸の指先を手繰り寄せる。
指と指が浅く絡む。
「……ストレートだなぁ。お前」
「宍戸さんにそれ言われても」
鳳は笑っていた。
部屋に入るなり、締めたガラス戸に宍戸は背を押し当てられる。
まだあたたかい髪に鳳は唇を埋めてきて、気分じゃない?と問いかけてきた。
宍戸は不服も露に呟いた。
「……こっちの台詞だっての」
「どうしてですか」
「お前、全然普通のツラしてただろ」
「全然普通って事は全然ないです」
真顔の鳳が断言した物言いを、判りづれぇ、と宍戸は眉を寄せて返す。
鳳がひどく丁寧にそれを否定してきた。
「俺は判りやすいですよ。宍戸さん。こんなに」
「………………」
長い両腕が、バスタオルごと宍戸を身包み抱きすくめてくる。
「………………」
厚手のタオル地越しであっても、鳳の体温は滲むように温かかった。
無意識に宍戸の方からも身体を預けていて、鳳の腕の力が煽られたように更に強くなった。
宍戸の項に鳳は頬を寄せて、低い声で囁いてくる。
「やっぱり冷えてる」
「………………」
「早く何か着ましょう。宍戸さん」
「いらね…」
「いらないことないでしょう。これに包まったまま眠る気ですか」
バスタオルの上から背中を数回軽く叩かれる。
何かあったかい飲み物持って来るからその間に着替えて、と宍戸は鳳に耳打ちされた。
鳳の肩の向こう、机の上にミネラルウォーターのボトルが見えている。
おそらく冷えたものを鳳は持ってきたのだろう。
今度は温かい飲み物を持ってくるという。
その間にパジャマを着ろという。
そんな鳳に、宍戸は不満たっぷりに溜息を吐き出した。
「どうしてそう着せたがるかな。服」
「…はい?」
「やっぱ抱かねえんだろ」
結局そういうことだろと宍戸が告げると、それこそ宍戸が溜息に込めた不満を遥かに上回る嘆息が鳳から返された。
「何言ってるんですかねえ…この人はもう…」
「………生意気言うな。アホ」
「宍戸さんの身体見てると自分でもどうしようもなくなるから、無闇に煽らないでって俺はお願いしてるのに」
だいたい無闇矢鱈に飛び掛られたら嫌でしょうと鳳が重々しく呟いてくる。
「何で。やれよ」
「…………そんなに信頼…というか、安心されてるとすごい複雑なんですけど」
「信頼はしてるけど、安心なんかしてねえよ」
鳳は時々、こんな風に自身の激情を危惧する言葉を口にする。
確かに時折、こと宍戸絡みで、それは表面化するものでもあるのだけれど。
宍戸は両腕を持ち上げて、広い背中を抱き返した。
「……俺は、お前の好きにされんのが好きなんだよ」
ぐっと、背筋が反るほど抱き竦められる。
宍戸が囁いたのと同時にだ。
「長太郎」
「…………降参」
呻くような声音に宍戸は小さく笑った。
「粘ったなぁ…お前」
「何言ってるんですか。ちょろすぎるって、また向日先輩達でももしここにいたら絶対言われてますよ」
「手こずらせんじゃねえよ」
宍戸は身体を包んでいたバスタオルを肩から落とした。
笑った形のままの唇を、すぐに鳳に塞がれる。
「……、……ン……」
湯上りに極上の大判タオルで身体を包む心地良さを更にもっと上回ってくる感触で。
全身を、直接、抱きこまれた。
足元に完全に落ちたバスタオルは、宍戸の身体の湯を吸い取ったけれど。
今宍戸の肢体を包むものは、逆に宍戸の肌を温かく濡らし出す。
舌を奪われながら素肌を熱い手にまさぐられ、そんなイメージを体感しながら。
宍戸は鳳の腕の中でゆるく濡れていった。
それは例えば鳳の背の高さにあわせたものかと宍戸は最初思ったのだが、どうやら鳳家のバスタオルは全て同じメーカーのもので統一されているようだった。
それもとびきり高級であろう代物だ。
ただサイズが大きいだけでなく、毛布並みのあまりにも贅沢な手触りは、分厚く柔らかく心地良かった。
バスタオル専用のクローゼットに整然としまわれている様子を目にしてしまえば尚更だ。
今日も宍戸がバスルームから出るといつものバスタオルが用意してあった。
最近すでに馴染みつつある、でもいつでもしみじみと気持ちのいいそれに宍戸は包まるようにして、バスルームとほぼ直結している鳳の部屋に向かった。
どういう家の造りだと宍戸は思うが、鳳に言わせると二階のバスルームはゲスト用だから狭いでしょう?と至って控えめな事を言う。
確かに広くはないが、別に狭くもない。
殆ど鳳の専用になっているらしい。
「………………」
宍戸はバスタオルに包まったまま鳳の部屋に行き、そこに部屋の主がいないので、多分下で飲み物を用意しているのだろうとあたりをつけた。
甲斐甲斐しい事この上ないのだ。
宍戸はそのままベランダに出た。
一人掛けの大振なラタンのチェアに座り、足も座面に引き上げて丸まって寄りかかる。
湯上りに外気がちょうどよかった。
十一月になったというのに、日中は毎日二十度を越えてやけに暖かい。
日も暮れればさすがに気温は下がるけれど、今の宍戸には少し涼しい風が丁度良かった。
「宍戸さん…!」
「…おう」
しかし鳳は、血相変えてベランダに現れた。
多分そういうリアクションをとってくるだろうと宍戸は思っていたので、図らずともその唇には苦笑いが浮かんでしまう。
案の定鳳は宍戸を叱り付けてきた。
「なんて恰好でこんな所にいるんですか!」
「お前んちのバスタオルに包まってたら別に平気だろ」
実際顔だけしか出ていないくらい、宍戸が身体にしっかりと巻きつけたバスタオルは、寧ろまだ余裕がある程だ。
バスローブの上から更にガウンを羽織っているくらいの感触なのだ。
「駄目ですよ! 風邪ひいたらどうするんですか」
鳳がラタンのチェアの脇に立って、手を伸ばしてくる。
長い指が宍戸の髪に差し込まれてくる。
「髪まだ濡れてるじゃないですか」
「じゃあお前がかわかして」
「あのねえ、宍戸さん」
「………………」
もう、と深い溜息をつきながら。
宍戸が黙って動かないでいると結局鳳は折れて、部屋に行き、そうしてすぐにベランダに戻ってきた。
手にはドライヤーを持っている。
屋外用の電源がベランダにはちゃんととられていて、鳳はそこにコンセントを差し込むと宍戸の背後に立った。
宍戸の髪に温風をあてながら、手ぐしで丁寧に髪をかわかしてくる。
今は宍戸の髪は短いから、昔のようにドライヤーを使わなくてもすぐにかわくのだが、鳳の手が気持ちいいので時々こういう事をさせている。
鳳に言わせればさせて貰っているという事らしいが。
「もうこれ片した方がいいですかねえ…」
「何でだよ」
ドライヤーの音に飛ばないように、声を少し大きくして会話を交わす。
目線は合わないけれど、宍戸には鳳の表情がリアルに想像出来た。
さぞや真面目に困ったようにひとりごちているのだろう。
「宍戸さんが、ここ気に入ってくれてるのは嬉しいですけど、冬になってもこんな事されたらと思うと気が気じゃないです」
「いくら俺でも冬の寒い中やんねーよ」
すっぽりと身体を受け止めるようなラタンのチェアに寄りかかって、シャワーの後にここで冷たい飲み物をよく飲んだ夏はもう過ぎてしまった季節だ。
外部から見られないように作られているらしい鳳の部屋のベランダが、確かに宍戸は気に入っている。
今みたいに鳳の手に髪をすかれながらドライヤーでかわかされている状態が、どれだけ贅沢なのかも判っている。
「はい。できました」
ドライヤーのスイッチが切られる。
急に場が静かになる。
「涼しくなってきた」
「入りましょう。中に」
鳳の促しに、宍戸は今度はおとなしく従った。
チェアから足を下ろして、バスタオルに包まったまま鳳の後ろを歩く。
「なあ、長太郎」
「はい?」
「お前この後、俺抱くか」
「抱きたいよ」
先を歩いている鳳が、まるで見えてでもいるかのように後ろ手で宍戸の指先を手繰り寄せる。
指と指が浅く絡む。
「……ストレートだなぁ。お前」
「宍戸さんにそれ言われても」
鳳は笑っていた。
部屋に入るなり、締めたガラス戸に宍戸は背を押し当てられる。
まだあたたかい髪に鳳は唇を埋めてきて、気分じゃない?と問いかけてきた。
宍戸は不服も露に呟いた。
「……こっちの台詞だっての」
「どうしてですか」
「お前、全然普通のツラしてただろ」
「全然普通って事は全然ないです」
真顔の鳳が断言した物言いを、判りづれぇ、と宍戸は眉を寄せて返す。
鳳がひどく丁寧にそれを否定してきた。
「俺は判りやすいですよ。宍戸さん。こんなに」
「………………」
長い両腕が、バスタオルごと宍戸を身包み抱きすくめてくる。
「………………」
厚手のタオル地越しであっても、鳳の体温は滲むように温かかった。
無意識に宍戸の方からも身体を預けていて、鳳の腕の力が煽られたように更に強くなった。
宍戸の項に鳳は頬を寄せて、低い声で囁いてくる。
「やっぱり冷えてる」
「………………」
「早く何か着ましょう。宍戸さん」
「いらね…」
「いらないことないでしょう。これに包まったまま眠る気ですか」
バスタオルの上から背中を数回軽く叩かれる。
何かあったかい飲み物持って来るからその間に着替えて、と宍戸は鳳に耳打ちされた。
鳳の肩の向こう、机の上にミネラルウォーターのボトルが見えている。
おそらく冷えたものを鳳は持ってきたのだろう。
今度は温かい飲み物を持ってくるという。
その間にパジャマを着ろという。
そんな鳳に、宍戸は不満たっぷりに溜息を吐き出した。
「どうしてそう着せたがるかな。服」
「…はい?」
「やっぱ抱かねえんだろ」
結局そういうことだろと宍戸が告げると、それこそ宍戸が溜息に込めた不満を遥かに上回る嘆息が鳳から返された。
「何言ってるんですかねえ…この人はもう…」
「………生意気言うな。アホ」
「宍戸さんの身体見てると自分でもどうしようもなくなるから、無闇に煽らないでって俺はお願いしてるのに」
だいたい無闇矢鱈に飛び掛られたら嫌でしょうと鳳が重々しく呟いてくる。
「何で。やれよ」
「…………そんなに信頼…というか、安心されてるとすごい複雑なんですけど」
「信頼はしてるけど、安心なんかしてねえよ」
鳳は時々、こんな風に自身の激情を危惧する言葉を口にする。
確かに時折、こと宍戸絡みで、それは表面化するものでもあるのだけれど。
宍戸は両腕を持ち上げて、広い背中を抱き返した。
「……俺は、お前の好きにされんのが好きなんだよ」
ぐっと、背筋が反るほど抱き竦められる。
宍戸が囁いたのと同時にだ。
「長太郎」
「…………降参」
呻くような声音に宍戸は小さく笑った。
「粘ったなぁ…お前」
「何言ってるんですか。ちょろすぎるって、また向日先輩達でももしここにいたら絶対言われてますよ」
「手こずらせんじゃねえよ」
宍戸は身体を包んでいたバスタオルを肩から落とした。
笑った形のままの唇を、すぐに鳳に塞がれる。
「……、……ン……」
湯上りに極上の大判タオルで身体を包む心地良さを更にもっと上回ってくる感触で。
全身を、直接、抱きこまれた。
足元に完全に落ちたバスタオルは、宍戸の身体の湯を吸い取ったけれど。
今宍戸の肢体を包むものは、逆に宍戸の肌を温かく濡らし出す。
舌を奪われながら素肌を熱い手にまさぐられ、そんなイメージを体感しながら。
宍戸は鳳の腕の中でゆるく濡れていった。
喉ですか、と海堂が低く呟くと、乾は少しの間視線をあらぬ方へと飛ばしてから観念したようだった。
背の高い大人びた風貌とはミスマッチな所作で、こくりと頷いてくるから。
海堂は大きく嘆息した。
「……窓開けたまま遅くまでデータまとめてて、そのまま机で寝てたとか言わねーよな」
「海堂、見てたのか」
「見てたらベッドで寝かせてる!」
「確かに」
暢気に笑う乾は海堂の憤慨に気にした風も無く、長い指の先で喉元をゆるく辿っている。
「声、おかしくないだろ? 何で判った?」
休日の自主トレからの帰り道だ。
「……もっと早く判ってたら、とっとと家に帰しました」
乾の呼吸が、随分と渇き乱れていると海堂が気づいたのは、仕上げのランニングの後だった。
もしやと思って注意深く乾を窺うと、何となくだが体調不良の気配がした。
なので、気のせいならいいと思いながら海堂が問いかけた言葉に、乾はしかし肯定を返してきたわけだから。
海堂が不機嫌になるのは道理だ。
「海堂と一緒にいたかったんだよ」
怒るなよと笑う乾の声音に海堂は息を詰まらせながらも剣呑と乾を睨み上げた。
「送っていきます。家まで」
「それは嬉しい」
でもたいしたことないぞと乾は海堂に告げてくる。
今日の夕焼けは鮮やかだった。
肩を並べて歩く。
乾は温和に、海堂は憮然と、でもお互いがお互いといる時の空気は、いつも藹々としていた。
自主トレをしている河原から乾の家の前まで、然程の距離もない。
すぐに辿りついたマンションの前で、海堂は改めて乾を見上げた。
「ご両親いるんですか」
「いや?」
「……あんた、家帰って、メシ食って、薬飲んで、早く寝ますか」
「い………や、努力はします。そうするように」
本当はあっさりそれを否定しようとしたのであろう乾は、海堂の眼差しの鋭さにやけに神妙な返事をしてきた。
「おい、海堂?」
海堂は乾の腕をとって歩き出した。
「薬飲むまでは見届けて帰ります」
当てにならないのだ。
乾は。
自己管理を怠るような事はないと海堂も思うのだけれど、これくらいたいしたことないと思っている以上油断ならない。
海堂はぐいぐいと乾の腕を引っ張って、マンションのエントランスに入り、エレベーターに乗り込む。
目的の階で降り、海堂はドアの前で乾が鍵を取り出すのを腕を組んで待った。
乾は妙に機嫌が良かった。
「どうぞ。海堂」
入って、とドアを背で支え海堂を先に促してくる。
「………………」
「ん?」
「…おじゃまします」
「はい、どうぞ」
初めて訪れた訳ではないので、乾の部屋がどこにあるのかは判っている。
海堂は乾に促されるまま先を歩き、乾の部屋で手荷物を下ろした。
「風邪薬と、何か腹に入れるもの」
「何でそんな睨むんだよ海堂」
「俺の目の前で飲んで貰う。それ見たら帰ります」
「それじゃ逆効果だ。飲みたくなくなる」
海堂は乾の部屋の壁に背を押し当てられる。
立ったまま、乾が上半身を屈めてきて、海堂の唇に重なるだけのキスをしてきた。
舌で探られる事はないけれど、重なっている時間は長かった。
離れる時に小さく粘膜が音をたてる。
「………あんた」
「…ん?」
「口…、熱い」
「そうか?」
中までまだなのに?とひそめた声での乾の笑いが、振動で海堂の唇に伝わってくる。
多分、ひきはじめの風邪を、乾は海堂にうつしたくないのだろう。
だから粘膜が直接触れ合うようなキスは、最初からする気がないのだ。
まだ、などと言いながらも。
「………………」
海堂は不機嫌になって、乾のジャージの胸元を片手で掴み取った。
ぐいっと引き寄せて下から乾の唇を塞ぐ。
舌で、海堂の方から乾の唇をくぐると、やはり中は熱かった。
それを海堂が確かめた途端、痛いくらいに海堂の舌は乾に絡めとられた。
「ン、…っ……」
「………………」
「……ぅ……、っ…」
優しく髪を撫でてくる手と、遠慮なく深みを探る舌とが、同じ人間の器官とは思えなかった。
乾にはそういうところがある。
一度目はあっさりと触れるだけのキスで済ませたくせに、二度目はがっつくようなこんなキスだ。
海堂が小さく忙しなく喉を鳴らしてやっと唇は離れていった。
「海堂」
「……、薬」
「別に薬飲むのが嫌でしてるわけじゃないんだが」
さすがに苦笑いを浮かべた乾が、海堂をキッチンへと連れて歩き出す。
乾の家では薬はそこにあるらしく、ラックから取り出したメディカルボックスをテーブルの上に置き、乾は冷蔵庫を開けた。
「何か腹に入れるもの……って、今日は調味料しか入ってないな、この冷蔵庫」
「……牛乳ありますか」
「ああ。あるよ」
「リンゴ一個貰います」
「海堂?」
テーブルの上の陶器の皿に真赤なリンゴがある。
そのうちの一つを海堂は手にして、乾から牛乳パックを受け取った。
「ちょっと台所借ります」
「はい、どうぞ」
乾は面白そうに答えてきて、椅子をひき、そこに腰を下ろした。
海堂は置いてあったジューサーをすすぎ、中に牛乳を注ぐ。
リンゴもざっと水で洗い、包丁で四等分してリンゴの芯を取った。
皮は剥かずに牛乳の中に入れる。
スイッチを入れて少しだけ攪拌して、スープ皿らしい器に中身を注ぎいれた。
スプーンと一緒に乾に手渡す。
「ふわふわだな」
「………………」
「綺麗なピンク色で」
お前の肌みたいだと余計な事を呟く乾の頭を、弱冠の手加減と共に海堂は平手で叩いた。
「いいから早く食えっ」
「いただきます」
乾は笑っている。
ずれた眼鏡を外してしまい、卓上に置いてからスプーンを口に運び、うまいなこれと言った。
「リンゴと牛乳だけでこんな触感になるのか」
「……飲み込むのが辛くなるとうちでは昔からこれなんで」
味はほんのりと甘く、淡いピンクの色合いで、そしてスプーンですくわないと口に運べない、今となっては少々気恥ずかしくも思える取り合わせなのだが、海堂の家ではこれが定番だった。
腹持ちもすこぶる良い。
「うまかった。ごちそうさま」
「薬」
「はいはい。海堂は厳しいな。……喉の痛み…は、…これか」
「水」
「海堂は気が効くな」
「いちいちうるさい…!」
薬を探し出した乾にコップに入れた水を手渡しながら海堂は怒鳴った。
乾が薬を飲んでいる間にジューサーと皿とスプーンを洗う。
「海堂は手際がいいなー」
「乾先輩!」
「からかってんじゃないって」
洗い物を伏せている海堂の背後からのしかかるように乾が被さってくる。
背中にぴったりと密着している乾の体温に、閉じ込められているかのような長い腕に、海堂はじわじわと赤くなる。
自分の方が熱が出てどうするんだと言葉にならずに悪態をつきたくなるが仕方がない。
乾相手だと、こうなるのだ。
乾だけに、こうなのだから。
「風邪うつしたらごめんな」
「………………」
緩まない手が嬉しい。
離れない距離に安堵している。
リンゴとミルクの味のするキスのさなかに海堂が考えていた事は、それだけだった。
背の高い大人びた風貌とはミスマッチな所作で、こくりと頷いてくるから。
海堂は大きく嘆息した。
「……窓開けたまま遅くまでデータまとめてて、そのまま机で寝てたとか言わねーよな」
「海堂、見てたのか」
「見てたらベッドで寝かせてる!」
「確かに」
暢気に笑う乾は海堂の憤慨に気にした風も無く、長い指の先で喉元をゆるく辿っている。
「声、おかしくないだろ? 何で判った?」
休日の自主トレからの帰り道だ。
「……もっと早く判ってたら、とっとと家に帰しました」
乾の呼吸が、随分と渇き乱れていると海堂が気づいたのは、仕上げのランニングの後だった。
もしやと思って注意深く乾を窺うと、何となくだが体調不良の気配がした。
なので、気のせいならいいと思いながら海堂が問いかけた言葉に、乾はしかし肯定を返してきたわけだから。
海堂が不機嫌になるのは道理だ。
「海堂と一緒にいたかったんだよ」
怒るなよと笑う乾の声音に海堂は息を詰まらせながらも剣呑と乾を睨み上げた。
「送っていきます。家まで」
「それは嬉しい」
でもたいしたことないぞと乾は海堂に告げてくる。
今日の夕焼けは鮮やかだった。
肩を並べて歩く。
乾は温和に、海堂は憮然と、でもお互いがお互いといる時の空気は、いつも藹々としていた。
自主トレをしている河原から乾の家の前まで、然程の距離もない。
すぐに辿りついたマンションの前で、海堂は改めて乾を見上げた。
「ご両親いるんですか」
「いや?」
「……あんた、家帰って、メシ食って、薬飲んで、早く寝ますか」
「い………や、努力はします。そうするように」
本当はあっさりそれを否定しようとしたのであろう乾は、海堂の眼差しの鋭さにやけに神妙な返事をしてきた。
「おい、海堂?」
海堂は乾の腕をとって歩き出した。
「薬飲むまでは見届けて帰ります」
当てにならないのだ。
乾は。
自己管理を怠るような事はないと海堂も思うのだけれど、これくらいたいしたことないと思っている以上油断ならない。
海堂はぐいぐいと乾の腕を引っ張って、マンションのエントランスに入り、エレベーターに乗り込む。
目的の階で降り、海堂はドアの前で乾が鍵を取り出すのを腕を組んで待った。
乾は妙に機嫌が良かった。
「どうぞ。海堂」
入って、とドアを背で支え海堂を先に促してくる。
「………………」
「ん?」
「…おじゃまします」
「はい、どうぞ」
初めて訪れた訳ではないので、乾の部屋がどこにあるのかは判っている。
海堂は乾に促されるまま先を歩き、乾の部屋で手荷物を下ろした。
「風邪薬と、何か腹に入れるもの」
「何でそんな睨むんだよ海堂」
「俺の目の前で飲んで貰う。それ見たら帰ります」
「それじゃ逆効果だ。飲みたくなくなる」
海堂は乾の部屋の壁に背を押し当てられる。
立ったまま、乾が上半身を屈めてきて、海堂の唇に重なるだけのキスをしてきた。
舌で探られる事はないけれど、重なっている時間は長かった。
離れる時に小さく粘膜が音をたてる。
「………あんた」
「…ん?」
「口…、熱い」
「そうか?」
中までまだなのに?とひそめた声での乾の笑いが、振動で海堂の唇に伝わってくる。
多分、ひきはじめの風邪を、乾は海堂にうつしたくないのだろう。
だから粘膜が直接触れ合うようなキスは、最初からする気がないのだ。
まだ、などと言いながらも。
「………………」
海堂は不機嫌になって、乾のジャージの胸元を片手で掴み取った。
ぐいっと引き寄せて下から乾の唇を塞ぐ。
舌で、海堂の方から乾の唇をくぐると、やはり中は熱かった。
それを海堂が確かめた途端、痛いくらいに海堂の舌は乾に絡めとられた。
「ン、…っ……」
「………………」
「……ぅ……、っ…」
優しく髪を撫でてくる手と、遠慮なく深みを探る舌とが、同じ人間の器官とは思えなかった。
乾にはそういうところがある。
一度目はあっさりと触れるだけのキスで済ませたくせに、二度目はがっつくようなこんなキスだ。
海堂が小さく忙しなく喉を鳴らしてやっと唇は離れていった。
「海堂」
「……、薬」
「別に薬飲むのが嫌でしてるわけじゃないんだが」
さすがに苦笑いを浮かべた乾が、海堂をキッチンへと連れて歩き出す。
乾の家では薬はそこにあるらしく、ラックから取り出したメディカルボックスをテーブルの上に置き、乾は冷蔵庫を開けた。
「何か腹に入れるもの……って、今日は調味料しか入ってないな、この冷蔵庫」
「……牛乳ありますか」
「ああ。あるよ」
「リンゴ一個貰います」
「海堂?」
テーブルの上の陶器の皿に真赤なリンゴがある。
そのうちの一つを海堂は手にして、乾から牛乳パックを受け取った。
「ちょっと台所借ります」
「はい、どうぞ」
乾は面白そうに答えてきて、椅子をひき、そこに腰を下ろした。
海堂は置いてあったジューサーをすすぎ、中に牛乳を注ぐ。
リンゴもざっと水で洗い、包丁で四等分してリンゴの芯を取った。
皮は剥かずに牛乳の中に入れる。
スイッチを入れて少しだけ攪拌して、スープ皿らしい器に中身を注ぎいれた。
スプーンと一緒に乾に手渡す。
「ふわふわだな」
「………………」
「綺麗なピンク色で」
お前の肌みたいだと余計な事を呟く乾の頭を、弱冠の手加減と共に海堂は平手で叩いた。
「いいから早く食えっ」
「いただきます」
乾は笑っている。
ずれた眼鏡を外してしまい、卓上に置いてからスプーンを口に運び、うまいなこれと言った。
「リンゴと牛乳だけでこんな触感になるのか」
「……飲み込むのが辛くなるとうちでは昔からこれなんで」
味はほんのりと甘く、淡いピンクの色合いで、そしてスプーンですくわないと口に運べない、今となっては少々気恥ずかしくも思える取り合わせなのだが、海堂の家ではこれが定番だった。
腹持ちもすこぶる良い。
「うまかった。ごちそうさま」
「薬」
「はいはい。海堂は厳しいな。……喉の痛み…は、…これか」
「水」
「海堂は気が効くな」
「いちいちうるさい…!」
薬を探し出した乾にコップに入れた水を手渡しながら海堂は怒鳴った。
乾が薬を飲んでいる間にジューサーと皿とスプーンを洗う。
「海堂は手際がいいなー」
「乾先輩!」
「からかってんじゃないって」
洗い物を伏せている海堂の背後からのしかかるように乾が被さってくる。
背中にぴったりと密着している乾の体温に、閉じ込められているかのような長い腕に、海堂はじわじわと赤くなる。
自分の方が熱が出てどうするんだと言葉にならずに悪態をつきたくなるが仕方がない。
乾相手だと、こうなるのだ。
乾だけに、こうなのだから。
「風邪うつしたらごめんな」
「………………」
緩まない手が嬉しい。
離れない距離に安堵している。
リンゴとミルクの味のするキスのさなかに海堂が考えていた事は、それだけだった。
俺も行くと言ってきかないのだ。
まるで駄々をこねる子供の言い草だ。
「ついてくるなと言ってるでしょう…!」
観月はじめは道中足早に歩きながら、前方を見据えたままで幾度もそう言った。
するとその都度その相手は、同じ回数、俺も行くと返してきた。
「目立ってしょうがないんですよ! あなたみたいに、やたらとでかくて色の黒い人が偵察についてきたら!」
観月はとうとう立ち止まった。
背後にいた男を振り返って怒鳴る。
相手は、お、という顔をして観月と同じく足を止めた。
「帰りなさい!」
他校のデータ収集に向かっている観月にとって、今目の前にいる男は、はっきりいって一緒に連れていきたくない相手筆頭だ。
目立ちすぎる。
怪しいこと極まりないと憤慨している観月をよそに、相手の男、赤澤吉朗は飄々としたもので観月に平然と言い返してきた。
「お前みたいに、やたら綺麗で色の白い奴が偵察に行ったって充分目立つだろうが」
「な…っ………」
「俺もついていく。もう帰り道判んねえし」
唇の端を引き上げて笑う赤澤の表情は明るく快活だった。
前髪を骨ばった長い指ででかきあげながら、うそぶいてそんな事を言う割に。
全く不誠実に見えない所が、赤澤の最も不思議な所だった。
観月は唇を噛み締めて赤澤を睨みつけているのだが、彼はまるで動じた風もない。
「日比野第五だっけ? 歩いていくのか?」
「………………」
むしろ穏やかに問いかけながら、デジタル機器があれこれ入っている観月の鞄を赤澤は観月の手元から奪い取った。
どれもコンパクトであるけれど、如何せん様々なツールが詰まっている観月の鞄は、見た目よりも遥かに重い。
「………………」
赤澤は観月の鞄を肩にかけ歩き出した。
観月は赤澤の背中をきつく見据えながら、声にならない声で唸るような悪態をつくしか出来なくなる。
赤澤は派手な野性味を晒しつつも徹底したフェミニストでもある。
バランスがいいのかわるいのかさっぱり判らない。
それが赤澤なのだ。
観月は身軽になって、しかしだからといって嬉しい訳でもなくいる。
赤くなっている自分が嫌なのだ。
「観月ー」
「………………」
観月に背を向けたまま赤澤は片手を肩先まで挙げて、来い来いと指先の仕草で観月を促した。
そうやって敢えて赤澤が振り向かないでいるという事は、結局観月の今の状態など全て見通しているのに違いなかった。
それがまた観月には悔しいのだ。
都大会の四回戦の相手校になると観月が目星をつけた日比野第五の偵察には、然程時間がかからなかった。
もういいのかと赤澤が観月に聞いたくらいに早く済んだ。
「ええ。ダブルスで決まりますよ。僕と貴方は出番無しですね」
問題はその次に来るであろう青学ですと観月は言って、赤澤に帰りを促した。
「後は部屋でまとめます」
「そうか」
「………そうかって、ちょっと何、…」
いきなり赤澤に腕を取られて引っ張られる。
観月は目を丸くした。
何でこんな。
突如赤澤は自分の腕を取って帰路とは逆の方角に向かって歩いているのだ。
「赤澤、…っ…」
「予定より早く終わったんだろ? 少し寄り道して行こうぜ」
「ど、……どこに行くんですか…!」
「んー? なんか甘いもんでも食いに行こうかと」
「は?」
「好きだろ?」
ケーキとか、お前さ、と赤澤は歩きながら観月を流し見てきた。
「あなた、何意味の判らないこと言って、……」
「疲れた時には甘いものってのが定説だろ?」
赤澤が目を細めた。
笑うといきなり人懐っこくなるのだ。
この男は。
「………………」
「お前の事だから無茶しすぎてぶっ倒れるとかは思ってないけどな。寮戻ったらどうせすぐ部屋に籠もってまたデータ分析すんだろ?」
「いけませんか。それが僕の仕事です」
「いけなかねえよ。頼りにしてる」
「………………」
一歩間違えると悪目立ちしかねない風貌で、それは優しく笑ってみせる。
最初から観月に無条件に信頼を寄せてきた赤澤がいなければ、はえぬき組とスクール組とが混合する部内の融合はなかったかもしれない。
赤澤が部長だったからこそ、観月が多少暴君めいた指示を出しても不協和音は生まれなかったのだ。
それは誰よりも観月が自覚していた。
「………どこまで行くんですか」
観月は異論を唱えるのを止めた。
手首の辺りはまだ赤澤に掴まれたまま。
歩きながら小さく尋ねれば、赤澤の歩調が少し遅くなった。
「まあ、近場で」
「…………あなた絶対浮きますよ。とんでもなく居心地悪いですよ」
「行ってみなけりゃ判んねえだろ」
「……だいたいなんでこんな事」
話を蒸し返して観月が呟く言葉を赤澤は当然のように聞きつけた。
「だからさ、お前好きだろ。ケーキとか紅茶とか。俺はそういうお前を見てるのが好きだしな。だから一緒に行くって言ってる。問題あるか?」
「………ありますよ」
何をさらっととんでもない事を言ってるんだと観月は唖然とした。
好きとか何故そんな風に言えるのか。
この男。
「あっても行く」
また駄々をこねる子供再びだ。
そんな見目をして、こんな言い草で。
ありえない。
観月は頭上を仰いで溜息をつくしかなかった。
近場でと赤澤は言ったが、電車に乗った。
駅からは然程離れていない。
そうして観月が連れていかれたのは観月もよく知る著名なホテルで行われていたデザートビュッフェだった。
ケーキの類はあまり食べない赤澤は、案の定コーヒーだけとってすでに席についている。
周囲は見事に女性陣しかいないが、赤澤はまるで気にした風もなかった。
テニスの試合にしても日常生活にしても、赤澤は豪胆だ。
どうあっても自分のペースでいる。
「………………」
赤澤が周囲の女性達から集めている視線は、好奇というよりも、もっと華やいだ気配に満ちている。
それにどこまで気づいているのかいないのか。
観月は不機嫌に睨みつけてやったが、赤澤はコーヒーカップに口をつけながら、邪気のない笑みで笑いかけてくるだけだ。
「………………」
嘆息するしかない観月は、好きなケーキだけを厳選して皿に取り分け、クレープをオレンジのリキュールでフランベしてもらったものと、紅茶のカップを手に席に戻った。
「観月、ここのスタッフよりうまいんじゃねえ?」
「……何がですか」
「皿の持ち方とか、ウォーキング?」
「ウォーキングって全く意味判らないですけど」
「まあまあ」
笑う赤澤に観月はプレート二枚とカップを卓上に置いて席につく。
「これ」
「ん?」
ケーキのプレートを赤澤の方に差し出す。
「スイートポテト。さつまいもです」
これなら食べられるでしょうと観月が言うと、案外素直に赤澤はフォークに刺して、スイートポテトを口に放り込む。
一口だ。
「おー…これうまい」
「……こっちのも、食べられますよ」
「わざわざ俺が食えるの探してきてくれたのか?」
「………っ…」
観月は、ぐっと息を飲んだ。
こういう所が、赤澤は、デリカシーがないのだ。
それこそわざわざ言葉にして言う事かと観月は赤澤を睨み据えて。
「探すまでもないです。こんなこと」
見れば判るんですからとか。
焼き芋が好きならスイートポテトが食べられない訳ないでしょうとか。
観月が何をどう言っても、赤澤は唇に浮かべた笑みを消さなかった。
腹立ち紛れに観月が甘いオレンジのシロップがたっぷりしみたクレープシュゼットを食べ始めると、赤澤は片手で頬杖した体勢で、じっと観月を見つめたままになった。
あまりに直視されて、さしもの観月も居心地が悪くなる程だった。
「なあ、観月」
「……なんですか!」
手は止めないものの語気荒く問い返した観月に、赤澤は言った。
「そこのフロントの横ん所のコンシェルジュ、俺の親父なんだけどさ」
「………、……は……?!…」
「紹介していい?」
「何の冗談……、…」
「や、冗談じゃなくてマジな話」
「このホテル…って…」
「そう。俺の親父が勤めてるとこ。今も見えてんだけどさ」
さすがにもう冗談だろうと観月も言えなくなった。
赤澤の父親の職業は観月も知っていたし、ここに連れてこられた時何故赤澤がこんなホテルのデザートビュッフェなど知っているのかと疑問に思った謎もそれで解ける。
「なあ、いい?」
「駄目です…!」
「えー…何で」
えーとか言うな!と観月は真っ赤になって怒鳴った。
無論、声はひそめてだが。
「こんな恰好でご挨拶できるわけないでしょう…!」
「どこから見てもちゃんとしてるし、綺麗だけどな?」
「き…、…っ……」
憤死してしまいそうな観月になど赤澤はお構い無しに笑んでいる。
「何ですかその笑い顔は…!」
「いや、かわいいなあと…」
「か…、…っ……」
もういやだ。
もうしぬ。
観月は叫びだしたくなった。
なんなんだこの男。
「自慢してえじゃん?」
いったい自分の父親に自分の友人をどう自慢する気なのかと危ぶんだ観月は、ひどく物騒な考えに直面してしまった。
「赤澤……あなた……何て言って僕を紹介する気なんですか」
「ああ?……あー……そうだなあ……」
「………………」
「こいつは、俺の……」
「………………」
「俺の……観月です。って感じか」
「……っ…、…俺の観月ってなんなんですか! 俺の観月って!」
ふわりと甘いオレンジの香りの中。
そんな言い争いがエスカレートしていく。
とんでもない。
めちゃくちゃだ。
観月は、ともかく、断固として。
今この状況下で赤澤の父親と対面する事だけは避けようと、それだけに必死になった。
真っ赤になって、涙目で、会える訳がない。
翌日、聖ルドルフのテニスコートにはいつもの光景が繰り広げられていた。
声を荒げる観月と、笑ってそれを宥める赤澤と。
いつものことだとその喧騒を気にした風も無いテニス部員達の耳に届かなかった詳細は。
「な、…っ……気づかれてたんですか…っ?」
「みたいだなー。お前のシュゼットは実に綺麗だったなとか言われたし」
「……それは……クレープ…の話なわけ…」
「ないだろうな」
肩を竦める赤澤に、観月は茫然とした。
クレープシュゼットは、クレープの女王様という意味なので。
赤澤の父親が言った言葉が、クレープの話のわけがない。
まるで駄々をこねる子供の言い草だ。
「ついてくるなと言ってるでしょう…!」
観月はじめは道中足早に歩きながら、前方を見据えたままで幾度もそう言った。
するとその都度その相手は、同じ回数、俺も行くと返してきた。
「目立ってしょうがないんですよ! あなたみたいに、やたらとでかくて色の黒い人が偵察についてきたら!」
観月はとうとう立ち止まった。
背後にいた男を振り返って怒鳴る。
相手は、お、という顔をして観月と同じく足を止めた。
「帰りなさい!」
他校のデータ収集に向かっている観月にとって、今目の前にいる男は、はっきりいって一緒に連れていきたくない相手筆頭だ。
目立ちすぎる。
怪しいこと極まりないと憤慨している観月をよそに、相手の男、赤澤吉朗は飄々としたもので観月に平然と言い返してきた。
「お前みたいに、やたら綺麗で色の白い奴が偵察に行ったって充分目立つだろうが」
「な…っ………」
「俺もついていく。もう帰り道判んねえし」
唇の端を引き上げて笑う赤澤の表情は明るく快活だった。
前髪を骨ばった長い指ででかきあげながら、うそぶいてそんな事を言う割に。
全く不誠実に見えない所が、赤澤の最も不思議な所だった。
観月は唇を噛み締めて赤澤を睨みつけているのだが、彼はまるで動じた風もない。
「日比野第五だっけ? 歩いていくのか?」
「………………」
むしろ穏やかに問いかけながら、デジタル機器があれこれ入っている観月の鞄を赤澤は観月の手元から奪い取った。
どれもコンパクトであるけれど、如何せん様々なツールが詰まっている観月の鞄は、見た目よりも遥かに重い。
「………………」
赤澤は観月の鞄を肩にかけ歩き出した。
観月は赤澤の背中をきつく見据えながら、声にならない声で唸るような悪態をつくしか出来なくなる。
赤澤は派手な野性味を晒しつつも徹底したフェミニストでもある。
バランスがいいのかわるいのかさっぱり判らない。
それが赤澤なのだ。
観月は身軽になって、しかしだからといって嬉しい訳でもなくいる。
赤くなっている自分が嫌なのだ。
「観月ー」
「………………」
観月に背を向けたまま赤澤は片手を肩先まで挙げて、来い来いと指先の仕草で観月を促した。
そうやって敢えて赤澤が振り向かないでいるという事は、結局観月の今の状態など全て見通しているのに違いなかった。
それがまた観月には悔しいのだ。
都大会の四回戦の相手校になると観月が目星をつけた日比野第五の偵察には、然程時間がかからなかった。
もういいのかと赤澤が観月に聞いたくらいに早く済んだ。
「ええ。ダブルスで決まりますよ。僕と貴方は出番無しですね」
問題はその次に来るであろう青学ですと観月は言って、赤澤に帰りを促した。
「後は部屋でまとめます」
「そうか」
「………そうかって、ちょっと何、…」
いきなり赤澤に腕を取られて引っ張られる。
観月は目を丸くした。
何でこんな。
突如赤澤は自分の腕を取って帰路とは逆の方角に向かって歩いているのだ。
「赤澤、…っ…」
「予定より早く終わったんだろ? 少し寄り道して行こうぜ」
「ど、……どこに行くんですか…!」
「んー? なんか甘いもんでも食いに行こうかと」
「は?」
「好きだろ?」
ケーキとか、お前さ、と赤澤は歩きながら観月を流し見てきた。
「あなた、何意味の判らないこと言って、……」
「疲れた時には甘いものってのが定説だろ?」
赤澤が目を細めた。
笑うといきなり人懐っこくなるのだ。
この男は。
「………………」
「お前の事だから無茶しすぎてぶっ倒れるとかは思ってないけどな。寮戻ったらどうせすぐ部屋に籠もってまたデータ分析すんだろ?」
「いけませんか。それが僕の仕事です」
「いけなかねえよ。頼りにしてる」
「………………」
一歩間違えると悪目立ちしかねない風貌で、それは優しく笑ってみせる。
最初から観月に無条件に信頼を寄せてきた赤澤がいなければ、はえぬき組とスクール組とが混合する部内の融合はなかったかもしれない。
赤澤が部長だったからこそ、観月が多少暴君めいた指示を出しても不協和音は生まれなかったのだ。
それは誰よりも観月が自覚していた。
「………どこまで行くんですか」
観月は異論を唱えるのを止めた。
手首の辺りはまだ赤澤に掴まれたまま。
歩きながら小さく尋ねれば、赤澤の歩調が少し遅くなった。
「まあ、近場で」
「…………あなた絶対浮きますよ。とんでもなく居心地悪いですよ」
「行ってみなけりゃ判んねえだろ」
「……だいたいなんでこんな事」
話を蒸し返して観月が呟く言葉を赤澤は当然のように聞きつけた。
「だからさ、お前好きだろ。ケーキとか紅茶とか。俺はそういうお前を見てるのが好きだしな。だから一緒に行くって言ってる。問題あるか?」
「………ありますよ」
何をさらっととんでもない事を言ってるんだと観月は唖然とした。
好きとか何故そんな風に言えるのか。
この男。
「あっても行く」
また駄々をこねる子供再びだ。
そんな見目をして、こんな言い草で。
ありえない。
観月は頭上を仰いで溜息をつくしかなかった。
近場でと赤澤は言ったが、電車に乗った。
駅からは然程離れていない。
そうして観月が連れていかれたのは観月もよく知る著名なホテルで行われていたデザートビュッフェだった。
ケーキの類はあまり食べない赤澤は、案の定コーヒーだけとってすでに席についている。
周囲は見事に女性陣しかいないが、赤澤はまるで気にした風もなかった。
テニスの試合にしても日常生活にしても、赤澤は豪胆だ。
どうあっても自分のペースでいる。
「………………」
赤澤が周囲の女性達から集めている視線は、好奇というよりも、もっと華やいだ気配に満ちている。
それにどこまで気づいているのかいないのか。
観月は不機嫌に睨みつけてやったが、赤澤はコーヒーカップに口をつけながら、邪気のない笑みで笑いかけてくるだけだ。
「………………」
嘆息するしかない観月は、好きなケーキだけを厳選して皿に取り分け、クレープをオレンジのリキュールでフランベしてもらったものと、紅茶のカップを手に席に戻った。
「観月、ここのスタッフよりうまいんじゃねえ?」
「……何がですか」
「皿の持ち方とか、ウォーキング?」
「ウォーキングって全く意味判らないですけど」
「まあまあ」
笑う赤澤に観月はプレート二枚とカップを卓上に置いて席につく。
「これ」
「ん?」
ケーキのプレートを赤澤の方に差し出す。
「スイートポテト。さつまいもです」
これなら食べられるでしょうと観月が言うと、案外素直に赤澤はフォークに刺して、スイートポテトを口に放り込む。
一口だ。
「おー…これうまい」
「……こっちのも、食べられますよ」
「わざわざ俺が食えるの探してきてくれたのか?」
「………っ…」
観月は、ぐっと息を飲んだ。
こういう所が、赤澤は、デリカシーがないのだ。
それこそわざわざ言葉にして言う事かと観月は赤澤を睨み据えて。
「探すまでもないです。こんなこと」
見れば判るんですからとか。
焼き芋が好きならスイートポテトが食べられない訳ないでしょうとか。
観月が何をどう言っても、赤澤は唇に浮かべた笑みを消さなかった。
腹立ち紛れに観月が甘いオレンジのシロップがたっぷりしみたクレープシュゼットを食べ始めると、赤澤は片手で頬杖した体勢で、じっと観月を見つめたままになった。
あまりに直視されて、さしもの観月も居心地が悪くなる程だった。
「なあ、観月」
「……なんですか!」
手は止めないものの語気荒く問い返した観月に、赤澤は言った。
「そこのフロントの横ん所のコンシェルジュ、俺の親父なんだけどさ」
「………、……は……?!…」
「紹介していい?」
「何の冗談……、…」
「や、冗談じゃなくてマジな話」
「このホテル…って…」
「そう。俺の親父が勤めてるとこ。今も見えてんだけどさ」
さすがにもう冗談だろうと観月も言えなくなった。
赤澤の父親の職業は観月も知っていたし、ここに連れてこられた時何故赤澤がこんなホテルのデザートビュッフェなど知っているのかと疑問に思った謎もそれで解ける。
「なあ、いい?」
「駄目です…!」
「えー…何で」
えーとか言うな!と観月は真っ赤になって怒鳴った。
無論、声はひそめてだが。
「こんな恰好でご挨拶できるわけないでしょう…!」
「どこから見てもちゃんとしてるし、綺麗だけどな?」
「き…、…っ……」
憤死してしまいそうな観月になど赤澤はお構い無しに笑んでいる。
「何ですかその笑い顔は…!」
「いや、かわいいなあと…」
「か…、…っ……」
もういやだ。
もうしぬ。
観月は叫びだしたくなった。
なんなんだこの男。
「自慢してえじゃん?」
いったい自分の父親に自分の友人をどう自慢する気なのかと危ぶんだ観月は、ひどく物騒な考えに直面してしまった。
「赤澤……あなた……何て言って僕を紹介する気なんですか」
「ああ?……あー……そうだなあ……」
「………………」
「こいつは、俺の……」
「………………」
「俺の……観月です。って感じか」
「……っ…、…俺の観月ってなんなんですか! 俺の観月って!」
ふわりと甘いオレンジの香りの中。
そんな言い争いがエスカレートしていく。
とんでもない。
めちゃくちゃだ。
観月は、ともかく、断固として。
今この状況下で赤澤の父親と対面する事だけは避けようと、それだけに必死になった。
真っ赤になって、涙目で、会える訳がない。
翌日、聖ルドルフのテニスコートにはいつもの光景が繰り広げられていた。
声を荒げる観月と、笑ってそれを宥める赤澤と。
いつものことだとその喧騒を気にした風も無いテニス部員達の耳に届かなかった詳細は。
「な、…っ……気づかれてたんですか…っ?」
「みたいだなー。お前のシュゼットは実に綺麗だったなとか言われたし」
「……それは……クレープ…の話なわけ…」
「ないだろうな」
肩を竦める赤澤に、観月は茫然とした。
クレープシュゼットは、クレープの女王様という意味なので。
赤澤の父親が言った言葉が、クレープの話のわけがない。
しちゃったんだなあと神尾はぼんやり考えた。
最中しがみついていたのと同じ力で、終わって落ちてきた跡部を抱きとめた。
濡れた、熱い、固い背中を抱きしめた。
跡部がゆっくりと繋がっていた箇所を解いてきて。
その間きつい口付けに唇を塞がれていて。
引き出されていく感触にきつく目を閉ざす。
しきりに跡部の手のひらに頬を拭われたので、神尾は自分が散々に泣いている事をその所作で知ることになった。
唇が離れて、繋がっていた箇所も解けた。
長い事ものすごい状態にさせられていたせいか、何だか股関節の辺りが少しずれたような、おかしな感じがする。
腰の辺りも重だるい。
少し身じろぐだけで、体内で今日初めて神尾が知った感触が生まれては消えていく。
跡部の通った経路。
燻る火種が小さく爆ぜているかのような余韻をずっと灯している。
首筋、喉の辺りが微かにひりついて、神尾はその箇所に自分の指先を伸ばしたのだが、神尾が触れるより先に跡部がそこに唇を寄せてきた。
正確には喰らいつかれた。
神尾が覚えたひりつきの、それよりもっときつい感触。
原因はこれかと神尾は気づいた。
痛むほどに、強く固執されて。
喉元に散らされていく、恐らく幾つもあるであろう痕のせいだ。
目を閉じて、小さく息を飲んで。
喉を吸われる生々しい感触に。
自分を組み敷く男に。
ヴァンパイヤかお前はと、神尾は頭の中だけで唱えた。
息が上がる。
くらくらする。
本当に血でも吸われているみたいだ。
「泊まっていくだろうな」
「…んで…凄むんだよ…」
神尾の喉元に食いつくようなキスを繰り返してきた跡部が、漸く顔を上げたかと思ったら、言ったのはそんな言葉だ。
神尾は思わず苦笑いしてしまった。
初めてしたっていうのに。
何で終わった後の方が、こんな。
余裕もないような凶暴な顔をするのか。
跡部は濡れた唇を舌でも舐めながら、神尾を強く見据えてくる。
卑猥な事この上ない。
「無理矢理足腰立たなくさせてもいいんだぜ?」
「……だ、から…どうして跡部はそういうこと言うんだよ」
もう多分足腰立たないとは神尾も言わない。
それにしたって。
「………………」
跡部は片眉を器用に跳ね上げて尊大な目つきで神尾を見下ろした。
「水取ってくるからな。逃げんじゃねえぞ」
「……ど、…やって逃げんだよ…こんなんで…っ」
神尾が真っ赤になって叫ぶと、漸く跡部は笑った。
「いいな。待ってろよ」
「……だから…ー…」
何言っても駄目か。
それともまさか本気で逃げるとか何とか、心配していたりするのだろうか。
「………………」
ベッドから降りた跡部が、床に落としてあったシャツを羽織っている。
振り返ってきて、神尾を流し見た上で見下ろして。
「俺の飲み残りならやるよ」
いらねえよ、ばーか、と。
神尾は小さく呟いた。
聞こえていたのかいないのか、跡部は応えずに部屋を出て行った。
神尾はベッドの上で丸くなる。
「………………」
見送った跡部の背中。
いろんな意味でドキドキした。
ベッドの上で小さく小さくなって。
血液が煮えているような何ともいえない熱さにまみれながら、神尾はひとしきり跡部の事を考えた。
そして、ふと気づいた事があった。
「………ひょっとして…」
もしかして。
「跡部…機嫌いいのかな…」
実際口に出して呟いてみると、妙に気恥ずかしくなった。
初めてした。
だから?と神尾は指先を手のひらに握りこむ。
指の先まで、じんわり甘く幸せな感じが詰まっている。
神尾は仰向けになって、だるい腕を持ち上げた。
高い天井を飾る照明に左手を翳す。
「………………」
指の縁と爪先がほんのり赤みを帯びている。
「何やってんだ」
「ん……?」
戻ってきた跡部が神尾のその手を取った。
「………………」
びっくりするほど優しい仕草だった。
「んーと……なんてゆーか……予期せぬ幸運だなーって思ってた」
最中は、神尾には何が何だか判らない事の方が多かったのだけれど。
正直、結構しんどい思いもしたのだけれど。
でも今、こんなにもふわふわと神尾は甘く幸せだ。
「転がってきたのはお前だろ」
ひとりごちた跡部の言葉に目を瞠る。
「俺?……じゃあ、俺って跡部の幸運?」
「さあな」
「はあ? さあなって何だよ、さあなって!」
嘯くように肩を竦めた跡部がベッドに片膝で乗り上げてくる。
神尾の手はとったままだ。
じっと跡部を見上げた神尾は、跡部が持って来たミネラルウォーターのキャップを口で開ける様を見て、凶暴のようで粗野に見えない不思議な男だと思っていた。
「………………」
食いちぎるように噛んだキャップ。
手にした親指で回転させてキャップを外し、ミネラルウォーターを喉を反らして飲んだ跡部が、ボトルをベッドヘッドに置き、神尾の顔の両脇に手をついて屈んでくる。
水を含んだ唇が下りてくる。
重なる。
「………………」
重なったキスはひんやりしていた。
神尾の口腔に入ってきた水は、互いの唇をくぐってぬるまっていた。
それがやわらかく喉に流れてくる。
「………飲み残りって、…こういうの言うんだっけ…?」
これは単に口移しなんじゃと神尾は赤くなっているのを眺めるようにしながら、跡部は数回それを繰り返した。
あんな泣くから水分欠乏するんだとか言いながら。
何度も何度も水を含んでキスをしてきた。
「……ん………」
「………気持ち良さそうなツラしてんじゃねえよ」
今のがいいみたいな顔すんなと跡部に凄まれたけれど。
そんな比べるみたいなこと言われても神尾には判らない。
全部全部跡部は跡部だ。
「……跡部…」
もう水はなく。
ただキスだけを交わすさなかに神尾が呼べば、色素の薄い綺麗で怖い男が目線で問い返してくる。
「あのよぅ……」
「…何だ」
「今日…泊めてくんない…?」
冗談じゃなく本当に立てない。
普通こんなになるものなのかどうか、神尾は知らないけれど。
だからこそおずおずと言ったというのに、何故か跡部は目つき悪く凄んだうえに、神尾の耳を引っ張ってきた。
「…っ…た…!……痛い…! なにすんだよっ」
「何を聞いてやがんだこの耳は。お飾りか!」
この期に及んでまだ帰る気でいやがったのかと跡部が怒鳴るので。
だから泊めてって言ってんじゃんと神尾は必死に応酬した。
「完璧に足腰立たなくしてやる」
「…っ…もうなってんだけどっ!……うわ…、…っ…跡部…っ」
本気で眼の据わった跡部に神尾は本気で慌てた。
ベッドの上でじたばたと暴れては押さえつけられ、キスされて、また喉元に食いつかれ、吸われて。
「……ぁ…とべ…ー……」
「………泣くんじゃねえよ。このくらいで」
「…じゃなくて……じゃなくてさ、…跡部」
「……何だ」
髪を撫でられる。
そういえば跡部が入ってくる間もずっと。
こうされていた事を神尾は思い出した。
何が言いたいのか判らなくなって、言いかけていた言葉も忘れて、でも今神尾の思考いっぱいを埋めた感情は。
「………………」
神尾は両手を伸ばした。
跡部の両頬を支え、少し跡部を引き寄せて、少し自分から仰のいて。
きれいな色をした唇にキスをした。
神尾の手のひらが温かくなった。
「好きだよ。跡部」
じっと見つめて、神尾は告げた。
跡部は何も喋らなくなった。
ただ神尾を見つめて、その両腕で。
神尾の背がベッドから浮き上がる程に強く、抱き竦めてくる。
強く。
きつく。
「跡部……」
苦しくて嬉しくて愛しくておかしい。
「跡部」
何も喋らなくなった男の、しかし何より雄弁な抱擁に。
神尾は雁字搦めにさせられて、その拘束の甘さにほっと息をついた。
最中しがみついていたのと同じ力で、終わって落ちてきた跡部を抱きとめた。
濡れた、熱い、固い背中を抱きしめた。
跡部がゆっくりと繋がっていた箇所を解いてきて。
その間きつい口付けに唇を塞がれていて。
引き出されていく感触にきつく目を閉ざす。
しきりに跡部の手のひらに頬を拭われたので、神尾は自分が散々に泣いている事をその所作で知ることになった。
唇が離れて、繋がっていた箇所も解けた。
長い事ものすごい状態にさせられていたせいか、何だか股関節の辺りが少しずれたような、おかしな感じがする。
腰の辺りも重だるい。
少し身じろぐだけで、体内で今日初めて神尾が知った感触が生まれては消えていく。
跡部の通った経路。
燻る火種が小さく爆ぜているかのような余韻をずっと灯している。
首筋、喉の辺りが微かにひりついて、神尾はその箇所に自分の指先を伸ばしたのだが、神尾が触れるより先に跡部がそこに唇を寄せてきた。
正確には喰らいつかれた。
神尾が覚えたひりつきの、それよりもっときつい感触。
原因はこれかと神尾は気づいた。
痛むほどに、強く固執されて。
喉元に散らされていく、恐らく幾つもあるであろう痕のせいだ。
目を閉じて、小さく息を飲んで。
喉を吸われる生々しい感触に。
自分を組み敷く男に。
ヴァンパイヤかお前はと、神尾は頭の中だけで唱えた。
息が上がる。
くらくらする。
本当に血でも吸われているみたいだ。
「泊まっていくだろうな」
「…んで…凄むんだよ…」
神尾の喉元に食いつくようなキスを繰り返してきた跡部が、漸く顔を上げたかと思ったら、言ったのはそんな言葉だ。
神尾は思わず苦笑いしてしまった。
初めてしたっていうのに。
何で終わった後の方が、こんな。
余裕もないような凶暴な顔をするのか。
跡部は濡れた唇を舌でも舐めながら、神尾を強く見据えてくる。
卑猥な事この上ない。
「無理矢理足腰立たなくさせてもいいんだぜ?」
「……だ、から…どうして跡部はそういうこと言うんだよ」
もう多分足腰立たないとは神尾も言わない。
それにしたって。
「………………」
跡部は片眉を器用に跳ね上げて尊大な目つきで神尾を見下ろした。
「水取ってくるからな。逃げんじゃねえぞ」
「……ど、…やって逃げんだよ…こんなんで…っ」
神尾が真っ赤になって叫ぶと、漸く跡部は笑った。
「いいな。待ってろよ」
「……だから…ー…」
何言っても駄目か。
それともまさか本気で逃げるとか何とか、心配していたりするのだろうか。
「………………」
ベッドから降りた跡部が、床に落としてあったシャツを羽織っている。
振り返ってきて、神尾を流し見た上で見下ろして。
「俺の飲み残りならやるよ」
いらねえよ、ばーか、と。
神尾は小さく呟いた。
聞こえていたのかいないのか、跡部は応えずに部屋を出て行った。
神尾はベッドの上で丸くなる。
「………………」
見送った跡部の背中。
いろんな意味でドキドキした。
ベッドの上で小さく小さくなって。
血液が煮えているような何ともいえない熱さにまみれながら、神尾はひとしきり跡部の事を考えた。
そして、ふと気づいた事があった。
「………ひょっとして…」
もしかして。
「跡部…機嫌いいのかな…」
実際口に出して呟いてみると、妙に気恥ずかしくなった。
初めてした。
だから?と神尾は指先を手のひらに握りこむ。
指の先まで、じんわり甘く幸せな感じが詰まっている。
神尾は仰向けになって、だるい腕を持ち上げた。
高い天井を飾る照明に左手を翳す。
「………………」
指の縁と爪先がほんのり赤みを帯びている。
「何やってんだ」
「ん……?」
戻ってきた跡部が神尾のその手を取った。
「………………」
びっくりするほど優しい仕草だった。
「んーと……なんてゆーか……予期せぬ幸運だなーって思ってた」
最中は、神尾には何が何だか判らない事の方が多かったのだけれど。
正直、結構しんどい思いもしたのだけれど。
でも今、こんなにもふわふわと神尾は甘く幸せだ。
「転がってきたのはお前だろ」
ひとりごちた跡部の言葉に目を瞠る。
「俺?……じゃあ、俺って跡部の幸運?」
「さあな」
「はあ? さあなって何だよ、さあなって!」
嘯くように肩を竦めた跡部がベッドに片膝で乗り上げてくる。
神尾の手はとったままだ。
じっと跡部を見上げた神尾は、跡部が持って来たミネラルウォーターのキャップを口で開ける様を見て、凶暴のようで粗野に見えない不思議な男だと思っていた。
「………………」
食いちぎるように噛んだキャップ。
手にした親指で回転させてキャップを外し、ミネラルウォーターを喉を反らして飲んだ跡部が、ボトルをベッドヘッドに置き、神尾の顔の両脇に手をついて屈んでくる。
水を含んだ唇が下りてくる。
重なる。
「………………」
重なったキスはひんやりしていた。
神尾の口腔に入ってきた水は、互いの唇をくぐってぬるまっていた。
それがやわらかく喉に流れてくる。
「………飲み残りって、…こういうの言うんだっけ…?」
これは単に口移しなんじゃと神尾は赤くなっているのを眺めるようにしながら、跡部は数回それを繰り返した。
あんな泣くから水分欠乏するんだとか言いながら。
何度も何度も水を含んでキスをしてきた。
「……ん………」
「………気持ち良さそうなツラしてんじゃねえよ」
今のがいいみたいな顔すんなと跡部に凄まれたけれど。
そんな比べるみたいなこと言われても神尾には判らない。
全部全部跡部は跡部だ。
「……跡部…」
もう水はなく。
ただキスだけを交わすさなかに神尾が呼べば、色素の薄い綺麗で怖い男が目線で問い返してくる。
「あのよぅ……」
「…何だ」
「今日…泊めてくんない…?」
冗談じゃなく本当に立てない。
普通こんなになるものなのかどうか、神尾は知らないけれど。
だからこそおずおずと言ったというのに、何故か跡部は目つき悪く凄んだうえに、神尾の耳を引っ張ってきた。
「…っ…た…!……痛い…! なにすんだよっ」
「何を聞いてやがんだこの耳は。お飾りか!」
この期に及んでまだ帰る気でいやがったのかと跡部が怒鳴るので。
だから泊めてって言ってんじゃんと神尾は必死に応酬した。
「完璧に足腰立たなくしてやる」
「…っ…もうなってんだけどっ!……うわ…、…っ…跡部…っ」
本気で眼の据わった跡部に神尾は本気で慌てた。
ベッドの上でじたばたと暴れては押さえつけられ、キスされて、また喉元に食いつかれ、吸われて。
「……ぁ…とべ…ー……」
「………泣くんじゃねえよ。このくらいで」
「…じゃなくて……じゃなくてさ、…跡部」
「……何だ」
髪を撫でられる。
そういえば跡部が入ってくる間もずっと。
こうされていた事を神尾は思い出した。
何が言いたいのか判らなくなって、言いかけていた言葉も忘れて、でも今神尾の思考いっぱいを埋めた感情は。
「………………」
神尾は両手を伸ばした。
跡部の両頬を支え、少し跡部を引き寄せて、少し自分から仰のいて。
きれいな色をした唇にキスをした。
神尾の手のひらが温かくなった。
「好きだよ。跡部」
じっと見つめて、神尾は告げた。
跡部は何も喋らなくなった。
ただ神尾を見つめて、その両腕で。
神尾の背がベッドから浮き上がる程に強く、抱き竦めてくる。
強く。
きつく。
「跡部……」
苦しくて嬉しくて愛しくておかしい。
「跡部」
何も喋らなくなった男の、しかし何より雄弁な抱擁に。
神尾は雁字搦めにさせられて、その拘束の甘さにほっと息をついた。
甘えきった無防備さで鳳は熟睡している。
宍戸の肩口に寄りかかって寝入ってしまっている。
「………………」
宍戸が流し見る視線の先で、色素の薄い鳳の髪はやわらかな曲線で閉ざした目元にかかっていた。
癖のない体温の甘い香りがする。
「………………」
宍戸は徐々に薄暗がりになっていく静寂に満ちた部室で、鳳の寝顔をそっと眺め下ろしていた。
部活も終わって、部室にいるのは宍戸と鳳の二人きりだ。
宍戸の手元には部室の鍵がある。
宍戸がレギュラー落ちしてからずっと、様々な事が目まぐるしかったこれまで。
レギュラー復帰が叶って漸く不安定な心情が落ち着きを取り戻してきたここ最近。
今日も、一番最後まで二人で居残りをしていたとはいえ、ふっつりと緊張の糸が途切れたかのように、ちょっとした時間の隙に鳳がこんな状況になるほど疲れているのだとしたら。
これまで、ここ最近。
鳳を疲れさせたのは自分だろうと宍戸は思っている。
宍戸のレギュラー復帰を当然の事のように受け止めた鳳だったが、そんな彼にどれだけの気苦労をかけさせたのかは、宍戸が誰よりも一番よく判っている。
無茶な特訓をせがんだ宍戸に鳳が随分と胸を痛めていた事も判っている。
鳳は宍戸のレギュラー復帰を欠片も疑ってはいなかったが、そうなった今になって、誰よりも安堵しているのもまた彼に違いなかった。
ラケットを持たない宍戸にスカッドサーブを打ち込み続けている時の鳳の表情を宍戸は思い出し、今更ながらにどれだけ鳳に心痛を与えてしまったかを知る。
今宍戸の肩口で眠る鳳の穏やかな寝顔で余計にそれを知る。
「おい。まだ誰かいんのかよ」
突然に快活な声がした。
宍戸は眉根を寄せて部室の扉を見やる。
「………………」
ひょい、と扉から姿を現したのは向日だった。
宍戸が眼差しを強く向けると察しの良い向日はぴたりと口を閉じたが、すぐにあからさまに面白がって寄って来た。
「珍しいじゃん。鳳」
うわー熟睡、と鳳を覗きこむ向日を宍戸は一睨みで牽制する。
向日はすぐさま不服を露にしてきた。
「何だよ。起こしてないだろ。睨むんじゃねえよ」
「うるせえ。…こいつを見るな」
「………う…っわー…どういう独占欲だよ。お前」
信じらんねえと向日は顔を歪め、そして笑う。
宍戸は舌打ちで返した。
独占欲だろうが何だろうが構わない。
実際本音で見せたくない。
「岳人ー。何してるん?」
「………………」
今度は低音の西のイントネーションだ。
また増えたと言わんばかりにうんざりと溜息をついた宍戸に、次いで現れた忍足もまた、向日と同様にいかにも興味深そうに室内へ入ってきた。
「ん? わんこはお昼寝中か?」
唇の端を引き上げてやんわりと笑みを浮かべる忍足が、鳳の顔を覗きこんでくる。
このダブルスはやることなすこと全部一緒かと宍戸が嘆息した隙を攫って、忍足が宍戸の手から部室の鍵を取り上げた。
「おい、……」
「俺達が鍵閉めて出て行ったるよ。そしたらお前ら密室に二人きりやで」
「ふざけたこと言ってねえでその鍵返せ」
「何や。堅実やな、宍戸は」
俺なら絶対そうするのにと忍足は向日の肩を抱き寄せた。
向日は、何だよ侑士と言いながらも、それには抗わない。
部室のソファに座る宍戸と鳳、二人の前に立つ忍足と向日で向き合う羽目になった。
「…だいたい何でお前ら戻ってきやがったんだよ」
「部室の鍵がまだ戻ってない言うて跡部が岳人にお使いを頼んで、俺はそのつきそいやな」
「とっと帰れ」
宍戸の呻くような声に、忍足はあっさり頷いた。
「せやな。帰ろか、岳人」
鍵は再び宍戸の手に戻ってきた。
この気まぐれめと宍戸は忍足を見やって唸る。
忍足はといえば向日をじっと見つめ、向日もまた同様に。
「ああ。帰るけど」
「けど?」
「手はつなぐな」
「何でやねん」
「俺は人前でベタベタすんの好きじゃねえんだよ! こいつらとは違うんだっての!」
あからさまにこいつらと向日に顎で示された宍戸は憮然とした。
ベタベタ。
そんなものどっちがだと思っていれば案の定。
「人目がなかったら、ちゃあんとベタベタさせてくれるからええけどなー」
「そういう事を口に出して言うな!」
「嫌やー」
「嫌とか言うな! 嫌とか!」
向日はガミガミと忍足を叱りつけている割には、指を絡めている恋人繋ぎの手はそのままだ。
忍足もまた普段聞いた事もないような甘ったれた声を出してはひとしきり向日を構い倒している。
結局彼らはしまいには、宍戸や鳳の存在など無いもの同然の扱いで。
揃って部室を出て行った。
そして再び訪れた静寂。
出て行ったのは嵐そのものだ。
いったい何なんだあいつらはと宍戸は深い溜息を吐き出すしかなかった。
そして宍戸は自分の肩口をそっと見下ろし、呟いた。
「長太郎。……起きてんだろ」
「………ええ。さすがに」
囁くような声だったが、寝起きのそれとは少し違う。
宍戸に答えてから、鳳の睫毛が動き、その目がゆっくり見開かれていく。
まだ宍戸の肩に凭れたまま、鳳は視線だけ宍戸へ向けてきた。
目線を合わせてから少し笑みを浮かべて、頭を起こし、身体を離して行こうとする鳳に。
宍戸はゆっくり顔を近づけた。
その唇にキスを重ねる。
「………………」
「…悪かったな。寝かせてやれなくて」
唇と唇が離れる合間で吐息程度に囁く。
鳳はひどく大切そうに宍戸からのキスを受けとめてから笑った。
「………眠るより元気出ましたよ…」
「………………」
「うれしいこと聞けましたし」
今度は鳳の方からキスをしてきた。
二度、三度、と双方からしかけて繰り返すキスの合間に言葉を交わす。
「……何か言ったっけか?」
「見るなって」
「ああ…言ったけど。…それが嬉しいもんか?」
「はい。すごく、ね…」
鳳からの最後のキスは宍戸の頬にだった。
宍戸は鳳の目尻にし返してから立ち上がる。
「変な奴だな……ま、いいけど。帰ろうぜ。長太郎」
「はい。…すみませんでした。宍戸さん」
「何が?」
「起こしてくれて良かったのに」
申し訳なさそうに言う鳳の、それでいて和んで柔らかな表情に宍戸も眼差しを緩めた。
「起こしたくなかったんだよ。お前寝てる時、妙にかわいいから」
「………宍戸さん。それこそ変です」
生真面目に眉間を歪め控えめながらもきっぱりと否定してきた鳳を宍戸は笑ってあしらったが、多分に本気だ。
自分の肩口で眠っていた鳳の感触が、まだ皮膚に残っている。
宍戸は鳳と他愛ない言葉を交わしながら。
右手で。
甘い余韻の残る自身の左肩を、そっと撫でた。
鳳が宍戸の肩に凭れかけていた方、右側の髪を。
それと同時にかきあげていたのは、恋の同調に他ならない。
宍戸の肩口に寄りかかって寝入ってしまっている。
「………………」
宍戸が流し見る視線の先で、色素の薄い鳳の髪はやわらかな曲線で閉ざした目元にかかっていた。
癖のない体温の甘い香りがする。
「………………」
宍戸は徐々に薄暗がりになっていく静寂に満ちた部室で、鳳の寝顔をそっと眺め下ろしていた。
部活も終わって、部室にいるのは宍戸と鳳の二人きりだ。
宍戸の手元には部室の鍵がある。
宍戸がレギュラー落ちしてからずっと、様々な事が目まぐるしかったこれまで。
レギュラー復帰が叶って漸く不安定な心情が落ち着きを取り戻してきたここ最近。
今日も、一番最後まで二人で居残りをしていたとはいえ、ふっつりと緊張の糸が途切れたかのように、ちょっとした時間の隙に鳳がこんな状況になるほど疲れているのだとしたら。
これまで、ここ最近。
鳳を疲れさせたのは自分だろうと宍戸は思っている。
宍戸のレギュラー復帰を当然の事のように受け止めた鳳だったが、そんな彼にどれだけの気苦労をかけさせたのかは、宍戸が誰よりも一番よく判っている。
無茶な特訓をせがんだ宍戸に鳳が随分と胸を痛めていた事も判っている。
鳳は宍戸のレギュラー復帰を欠片も疑ってはいなかったが、そうなった今になって、誰よりも安堵しているのもまた彼に違いなかった。
ラケットを持たない宍戸にスカッドサーブを打ち込み続けている時の鳳の表情を宍戸は思い出し、今更ながらにどれだけ鳳に心痛を与えてしまったかを知る。
今宍戸の肩口で眠る鳳の穏やかな寝顔で余計にそれを知る。
「おい。まだ誰かいんのかよ」
突然に快活な声がした。
宍戸は眉根を寄せて部室の扉を見やる。
「………………」
ひょい、と扉から姿を現したのは向日だった。
宍戸が眼差しを強く向けると察しの良い向日はぴたりと口を閉じたが、すぐにあからさまに面白がって寄って来た。
「珍しいじゃん。鳳」
うわー熟睡、と鳳を覗きこむ向日を宍戸は一睨みで牽制する。
向日はすぐさま不服を露にしてきた。
「何だよ。起こしてないだろ。睨むんじゃねえよ」
「うるせえ。…こいつを見るな」
「………う…っわー…どういう独占欲だよ。お前」
信じらんねえと向日は顔を歪め、そして笑う。
宍戸は舌打ちで返した。
独占欲だろうが何だろうが構わない。
実際本音で見せたくない。
「岳人ー。何してるん?」
「………………」
今度は低音の西のイントネーションだ。
また増えたと言わんばかりにうんざりと溜息をついた宍戸に、次いで現れた忍足もまた、向日と同様にいかにも興味深そうに室内へ入ってきた。
「ん? わんこはお昼寝中か?」
唇の端を引き上げてやんわりと笑みを浮かべる忍足が、鳳の顔を覗きこんでくる。
このダブルスはやることなすこと全部一緒かと宍戸が嘆息した隙を攫って、忍足が宍戸の手から部室の鍵を取り上げた。
「おい、……」
「俺達が鍵閉めて出て行ったるよ。そしたらお前ら密室に二人きりやで」
「ふざけたこと言ってねえでその鍵返せ」
「何や。堅実やな、宍戸は」
俺なら絶対そうするのにと忍足は向日の肩を抱き寄せた。
向日は、何だよ侑士と言いながらも、それには抗わない。
部室のソファに座る宍戸と鳳、二人の前に立つ忍足と向日で向き合う羽目になった。
「…だいたい何でお前ら戻ってきやがったんだよ」
「部室の鍵がまだ戻ってない言うて跡部が岳人にお使いを頼んで、俺はそのつきそいやな」
「とっと帰れ」
宍戸の呻くような声に、忍足はあっさり頷いた。
「せやな。帰ろか、岳人」
鍵は再び宍戸の手に戻ってきた。
この気まぐれめと宍戸は忍足を見やって唸る。
忍足はといえば向日をじっと見つめ、向日もまた同様に。
「ああ。帰るけど」
「けど?」
「手はつなぐな」
「何でやねん」
「俺は人前でベタベタすんの好きじゃねえんだよ! こいつらとは違うんだっての!」
あからさまにこいつらと向日に顎で示された宍戸は憮然とした。
ベタベタ。
そんなものどっちがだと思っていれば案の定。
「人目がなかったら、ちゃあんとベタベタさせてくれるからええけどなー」
「そういう事を口に出して言うな!」
「嫌やー」
「嫌とか言うな! 嫌とか!」
向日はガミガミと忍足を叱りつけている割には、指を絡めている恋人繋ぎの手はそのままだ。
忍足もまた普段聞いた事もないような甘ったれた声を出してはひとしきり向日を構い倒している。
結局彼らはしまいには、宍戸や鳳の存在など無いもの同然の扱いで。
揃って部室を出て行った。
そして再び訪れた静寂。
出て行ったのは嵐そのものだ。
いったい何なんだあいつらはと宍戸は深い溜息を吐き出すしかなかった。
そして宍戸は自分の肩口をそっと見下ろし、呟いた。
「長太郎。……起きてんだろ」
「………ええ。さすがに」
囁くような声だったが、寝起きのそれとは少し違う。
宍戸に答えてから、鳳の睫毛が動き、その目がゆっくり見開かれていく。
まだ宍戸の肩に凭れたまま、鳳は視線だけ宍戸へ向けてきた。
目線を合わせてから少し笑みを浮かべて、頭を起こし、身体を離して行こうとする鳳に。
宍戸はゆっくり顔を近づけた。
その唇にキスを重ねる。
「………………」
「…悪かったな。寝かせてやれなくて」
唇と唇が離れる合間で吐息程度に囁く。
鳳はひどく大切そうに宍戸からのキスを受けとめてから笑った。
「………眠るより元気出ましたよ…」
「………………」
「うれしいこと聞けましたし」
今度は鳳の方からキスをしてきた。
二度、三度、と双方からしかけて繰り返すキスの合間に言葉を交わす。
「……何か言ったっけか?」
「見るなって」
「ああ…言ったけど。…それが嬉しいもんか?」
「はい。すごく、ね…」
鳳からの最後のキスは宍戸の頬にだった。
宍戸は鳳の目尻にし返してから立ち上がる。
「変な奴だな……ま、いいけど。帰ろうぜ。長太郎」
「はい。…すみませんでした。宍戸さん」
「何が?」
「起こしてくれて良かったのに」
申し訳なさそうに言う鳳の、それでいて和んで柔らかな表情に宍戸も眼差しを緩めた。
「起こしたくなかったんだよ。お前寝てる時、妙にかわいいから」
「………宍戸さん。それこそ変です」
生真面目に眉間を歪め控えめながらもきっぱりと否定してきた鳳を宍戸は笑ってあしらったが、多分に本気だ。
自分の肩口で眠っていた鳳の感触が、まだ皮膚に残っている。
宍戸は鳳と他愛ない言葉を交わしながら。
右手で。
甘い余韻の残る自身の左肩を、そっと撫でた。
鳳が宍戸の肩に凭れかけていた方、右側の髪を。
それと同時にかきあげていたのは、恋の同調に他ならない。
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