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How did you feel at your first kiss?
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 欲情した跡部が判るようになった。
 普段から彼が持ち合わせている淫靡な気配よりもっと。
 色濃く変貌した顔を、跡部は神尾を組み敷き、見つめあうさなかに晒す。
 跡部の顔。
 吐く言葉。
 漏れる息。
 そういうものが全部、神尾の前で暴かれるのだ。
 最初のうちは。
 例えば抱かれる時などに、何でいきなり、だとか。
 跡部ばかり平然としていて、これではあまりにも不公平ではないだろうか、とか。
 思っていた神尾だったが、近頃いろいろ判るようになってきたのだ。
 跡部も欲情する。
 それを神尾に向けてくる。
 薄い色の瞳に濡れたような熱が煌き灯る所から始まって。
 まばたきをしなくなる。
 長い睫毛がやけに目につくようになるのは、薄く目を細めるように伏目がちに見つめてくるからだ。
 それもひどい至近距離から。
 生々しい視線で、それこそ神尾の顔からちょっとした所作まで何一つ取りこぼさず見つめてくる。
 見つめたままで身体中まさぐってくる。
 跡部の手は不思議だ。
 指先はこの上なく繊細なのに、手のひらは傍若無人に触って確かめるかのように神尾の四肢のあらゆる所を包み、さすり、辿ってくる。
 子供のような、動物のような。
 率直で、卑猥な手に。
 神尾は身体も顔も撫でられる。
 普段辛辣な言葉を吐くことの多い跡部の唇の中は、とろりとやわらかかった。
 神尾は自分の身体のあちこちでそのことを知っている。
 そのやわらかいものは神尾の殆どの場所を含んだからだ。
 やけに苦しがる顔で跡部が自分を貪る事も。
 甘ったるく喉を鳴らして吐き出してくる事も。
 神尾は今は知っている。
 でも昔は知らなかったそういうものが気づけるようになったからといって、ほんの少しも余裕が生まれたりはしなかったけれど。
 結局は、跡部に翻弄されて、神尾はめちゃくちゃになる。
「………キリねえな」
「……、……ごめ………」
 ベッドの上でしとどに潤んで身体を震わせている神尾は、幾度目かの放埓を体内に含み入れた後も、跡部から与えられ続けるキスに呼気を乱して胸を喘がせている。
 もう跡部は、中にはいないのに。
 だから跡部の呻きは最もで。
 終わっても終わってもおさまりきれない身体が神尾自身怖かった。
 性懲りもなくまた震え慄いている。
 跡部のキスに口腔を濡らして、また。
 まだ。
「てめえじゃねえだろ」
「……え…、…?……」
「…馬鹿が」
「………っひ…、…っ…」
 跡部の両手に頭を包まれて、きつく固定されながら唇が塞がれる。
 神尾の身体に跡部が通る。
 脳まで直結しそうに、一息に。
 凄まじい圧倒的な熱で。
「…ッ……、っ、…、っ…ぅ…」
 喉を震わせる神尾の唇は完全に塞がれて、嬌声も出ない。
 神尾の眦からあふれて零れる涙は、苦しいだけではない。
 跡部は、幾度もその手のひらで拭ってくるけれど。
 思考が届かないような深い所で、絡み合えている自分達が不思議で、怖くて、訳もなく嬉しかった。
 跡部、と口にしたい。
 言葉にしたい。
 好きで、好きで、胸が押しつぶされそうに詰まっているものを、跡部がこうしてまだ与えてくるから。
 懇願してでも呼びたい。
 跡部。
「……っぁ、」
「…、……舌まで、いちいちエロいんだよお前は…」
 低く吐き捨ててくるような悪態と一緒にキスが解かれる。
 跡部に貪られていた舌が、どう動いてしまっていたのか神尾には知る由もないけれど。
 跡部の名前を呼びたくてもがいていただけだから。
「………、とべ……あ、…っ…跡…部…、っ…跡部」
 堰をきって迸り出る言葉に神尾は震え上がる。
 キリがない。
 キリがない。
 本当に。
 そんなことは本当にお互い様だ。
「………ぁぅ、…っ、…」
「………くそったれ、」
 また跡部が悪態をついて、がっつくように動きを早める。
 神尾を強く、きつく、揺さぶってきた跡部の赤裸々な欲望に。
 見合う必死な仕草で、神尾は跡部の背中をかきいだく。
 抱き締め返す。
 キリがない。
 はてがない。
 しょうがない。


 好きすぎて、それが募りすぎて、こんな事でも繰り返さなければもう、どうしようも、ない。
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 ジローが、ぐっと顔を近づけてきた。
 宍戸は目を瞠る。
「……何だよ?」
「ししど」
 まだ眠気をたっぷりと引きずっている呂律のあまさだ。
 現に、一月というこの時期にも関わらずジローはいつものように眠っていた。
 昼休みの中庭で、気に入りらしい樹の幹に寄りかかって。
 何処でも眠ってしまえるジローの性質は、勿論充分理解している宍戸であったが。
 幾らなんでも凍るだろうと肩を揺すって起こした所、ジローは瞼を引き上げるなり宍戸に詰め寄ってきたのである。
「宍戸」
「だから何だよ」
 だいぶ目覚ましてきたなと思いながらも、やけに深刻な顔のジローを宍戸は不審気に見やる。
 膝を折ってジローの向かいにしゃがみこんでいた宍戸は、制服の胸元をジローの両手に鷲掴みにされ、引っ張られてバランスを崩した。
「おま、…っ……危ねえだろ…っ」
「ししど。おおとりがしにそうだよ」
「は?……ああ?……っつーかジロー、てめえ何でまた眠りやが、…」
 ぐー、と寝息も露に宍戸へとなだれ込んできたジローの身体ごと宍戸は地面に倒れこんだ。
「………宍戸。何してるの」
「滝、おい、ちょっとこいつどけろ!」
 天地が逆さまになった宍戸の視界で、うわあ、と滝は顔を顰めている。
「公の場でそんな事してると、あっという間に尾びれ背びれがついて、噂を聞きつけた鳳あたりはますますおかしくなっちゃうんじゃないかな……」
「じゃあどかせよこいつを!……あ? 滝、お前、長太郎が何つった、今」
「ジローは眠ると体重倍にでもなったみたいに動かないんだよねえ……」
 滝は宍戸の顔を真上から見下ろしながら、宍戸の問いかけには応えず曖昧に笑みを浮かべる。
 宍戸は眠っているジローを、身体の上から地面へと懸命に転がした。
 眠っている時のジローは何故か本当に動かすのに苦労する。
 だからいつも樺地が呼びに行かされていたのだ。
「………のやろ…」
 息を乱しながらも脱出に漸く成功した宍戸は、腹立ち紛れにしては随分加減した力でジローの頭をはたいてから、上半身を起こして座り、滝に対峙した。
「長太郎が何だって?」
「髪の毛くしゃくしゃ」
 滝は宍戸の髪を指先で丁寧に撫でつけながら笑った。
「鳳ねえ…さっき見かけたら宍戸不足で死にそうだったよ」
 かわいそうにと言いつつ尚も笑う滝に、宍戸は息を詰めた。
「そうそうー……おおとりしにそうー……」
「うわっ…」
 突然に、もそもそとジローが動き出し、宍戸の腿を枕にして身体を丸めた。
「だから公開膝枕なんてしてあげたら、例え相手がジローでも、鳳泣いちゃうかもよ?」
「泣くかっ。……、っ……お前は何笑ってんだよっ、滝」
「宍戸も鳳不足だね」
 助けてあげよう、と滝は言って。
 至極簡単に宍戸の膝から眠っているジローを引き剥がした。
「ひどい……」
「はいはい。肩くらいは、かしてあげるから。膨れない」
 むすっと呟いたジローの隣に座り、滝は言葉の通りに右肩にジローを寄りかからせた。
 そのまま宍戸を流し見てくる。
「忙しそうな鳳に遠慮してるのかもしれないけど、限界超えて倒れでもして、久々の再会が保健室でしたなんて事になっても困ると思わない?」
「別に俺は、」
「鳳不足なだけだよね」
 嫌味でもなく、たださらりとそう言って笑う滝に。
 結局宍戸は呻くしか出来なかった。
 毎日の生活の中でかなりの時間を占めていた部活を引退してから後、学年の違いというものを実感させられている。
 新体制になったテニス部で多忙な毎日を送り出した鳳と、エスカレーター式とはいえ受験生になった宍戸は、確かに以前のようにほぼ毎日会っていた状況ではなくなっていた。
 けれど、だからといって疎遠になる事も勿論ない。
 関係が変わる事もない。
 それを知っている友人達は、だからこそ、こんな風な言い方で心配してくるのだ。
「二人とも自分達で思ってるほど平気じゃないんだからさ」
 早いところ充電しておいでよと滝は笑っている。
 そんなにあからさまかよと。
 宍戸は思わず、天を仰いでしまうのだった。



 自分の吐く息が白く目に映って、今日は寒いのだなと鳳はぼんやり思った。
 暖冬のせいか、暖かい日は本当に暖かくて、季節を忘れそうになる。
 今日も昼間は見事な小春日和だったから、防寒具の類は何一つ身につけていなかった。
 コートも着てこなかったので、星の瞬く空の下を制服で帰る道すがらは、やけに寒く感じられてならなかった。
「………………」
 また白い吐息がはっきりと視界に映る。
 要するに、自分が溜息ばかりついているって事だよな、と鳳は思った。
 そういえば部活が終わって、部室に最後まで一緒に残っていた日吉が、別れ際に呆れ返った冷めた目で流し見てきたよなあと思いもする。
 さっさと会いに行けという目だった。
 親切というより、心底鬱陶しがっていた日吉の表情を思い出して、鳳はさすがに唇に苦笑いを浮かべた。
 寂しいとか、哀しいとか、苦しいとか。
 そんなにも強い感情ではなくて、でもそれらがみんな交ざって胸を埋めていくようなこの感じは。
 全て、彼がいないからだ。
 圧倒的に足りないからだ。
 今まで一番近くに一番長いこと一緒にいた人がいない。
「………………」
 まるでむずがる子供の一歩手前だと、何かそのうち爆発してしまいそうなものを必死に奥歯で噛み砕くようにしながら、鳳は前髪をかきあげた。
 指と指の合間に欲しい感触は、これではなくて、などと思いながら。
 歩いていった鳳は、自宅までの道のりがやけに遠く感じられてまた溜息を吐く。
 溜息まみれだと自身を呆れていた鳳の視野に、冴えた綺麗な気配がいきなり飛び込んできたのは、そのすぐ後だった。
「………………」
 足を止めた鳳に。
 歩道際の自動販売機からの発光に横顔を白く浮かび上がらせいた宍戸が気づいて、コートのポケットに両手を入れたまま近づいてくる。
「よう」
「宍戸さん。何でこんな所に……」
「…お前その恰好で寒くねえの?」
 すぐに鳳の元までやってきた宍戸は、鳳の出で立ちを見てきつく眉根を寄せた。
 鳳にしてみれば、そんな宍戸の肌こそ目に見えて冷たく思えてならなかった。
「いつから…」
 咄嗟に頬に手を伸ばそうとしたものの、手袋もないままの自分の手では余計に冷たくしてしまうだろうかと躊躇して。
 中途半端な位置で鳳は手を止めた。
 それを目の当たりにした宍戸が、何故か溜息と共に微かに笑った。
「……弱音吐かねえよなあ…お前は」
「え?」
「結局来ちまっただろ。俺が」
「宍戸さ、……」
 言葉ごと。
 宍戸がコートのポケットに両手を入れたまま、鳳の胸元に落ちてきた。
 飛び込んできた。
 おさまってきた。
 欲しくて欲しくて、鳳が、子供のようにむずがってねだってしまいそうになっていた人が。
「………………」
 薄い肩と細い首筋を見下ろす角度にどうしようもなくなって。
 鳳は闇雲な力で宍戸の身体を抱き竦めた。
 抱き潰しそうな剣幕の力が、鳳自身空恐ろしい気もしたのに、宍戸は嫌がる風もなく、それどころか安寧の吐息を鳳の腕の中で零した。
 宍戸の名を繰り返して呼ぶ鳳に身包み抱き締められたまま、宍戸が笑っている。
「………んな簡単に余裕ない声出すなら、俺より先に来いよな。アホ」
 俺も似たような声だろうけどよ、と。
 宍戸は小さく呟いてくる。
 きつく抱き締めながら、少しだけ距離をあけて、鳳は宍戸の後頭部を抱え込みながら、ひどく窮屈な体勢のまま唇を塞いだ。
 僅かに仰のいただけの宍戸は、きついキスに塞がれて、細い肩を竦ませていた。
 宍戸の両手が鳳の腰に回った。
 強く抱き締めあったまま唇と唇を深く重ねて。
 ふっと、互いの身体が同時に弛緩するのが判った。
 キスがほどける。
 抱き締めあっているのを感じてから、腕もとけた。
 ほっと安堵の呼気を二人で零す。
 漸く視線が合った気がした。
 随分長いこと、見つめる余裕もなく体感だけしていたような気がした。
「宍戸さん」
「……ん」
 少し伸びた宍戸の髪を鳳が指ですくと、宍戸は僅かに上向いて目を閉じる。
 鳳が欲しかった感触が指の合間を通っていった。
 それはあたたかく鳳の感情を埋める、大切なもの。
「真綿…」
「……長太郎?」
「…………真綿で、怪我した所や痛みを感じる所を包むと、身体が自然治癒する為に最も適した温度にその箇所を温めてくれるって話聞いた事あるんですけど」
 ただ無闇にあたためてくるのではなく。
 寒い時、痛い時、自力で治癒が出来る一番良い状態にしてくれる、宍戸のあたたかさはそういうものだ。
 真綿のような。
「……お前みてえじゃん」
 けれど宍戸は宍戸でそんな事を言って。
 ひどく心地良さそうに鳳の指先を受け止めていた。



 軽く、強く、あたたかい。
 そんなものを欲しがって、そんなものに包まれたがって、いったい何が悪いのだと。
 二人は同時に考えている。
 昼休みも残り十分をきったところで乾が現れた。
 二年七組、海堂の教室にだ。
「乾先輩」
 些か面食らいつつも、海堂は教室の前扉へと足を向けた。
 ドアの上部に片手を当てて長身を僅かに前倒しにしていた上級生は、海堂が近づいていくと姿勢を正した。
「やあ、悪いな。海堂」
「別に悪かねえですけど……どうしたんですか」
 乾が部活を引退してからも、メニューのことなどで時々昼休みを一緒に過ごす事はあった。
 けれど、こんな風に乾が海堂の教室を訪れてきた事は、これまで一度もなかった。
 何か緊急の話だろうかと危ぶんだ海堂の僅かな緊張を、乾ののんびりとした言葉が砕く。
「なあ海堂。今日の放課後、蓮二と会うんだが。その場にちょっと付き合って欲しいんだけど都合どう?」
「………………」
 乾が言うところの蓮二というのは、つまり彼の幼馴染で立海大付属の柳蓮二であるという事は、無論海堂にもすぐに理解ができた。
 立海の参謀、達人、そして乾と同じデータテニスをする男。
 問題は。
「どうしてそこに俺が行くんですか」
 ものすごくおかしな事を言い出した相手を海堂は怪訝に伺い見ながら、そう口にする。
 どうして自分がそこに。
 元来単独行動の多く、むしろ極度の人見知りの感もある海堂からすると。
 相手が例え過去の対戦校の選手だとしても。
 例え乾の親しい友人であったとしても。
 寧ろそれなら尚更のこと、乾の言うような事が出来る訳がない。
 や、無理っす、とそれでも目礼はして背中を向けた海堂の腕を乾は引いてきた。
「待った。海堂。頼むよ」
「頼まれたって困るんで」
 無愛想に返す海堂に、乾は取り縋らんばかりにして、言い募ってきた。
「二対一になる上に、終始激しく威嚇されるんだぞ。何だかおっかなくてな…一緒に行ってくれよ海堂」
 そんな事を言いながらもたいして脅えてる風もなく。
 乾は淡々と、それどころかどこかひどく面白がっているような気配を醸し出していて。
 海堂はいぶかしむように眉根を寄せた。
「……柳さん以外に誰かいるって事っすか?」
「ああ。二年生エース切原赤也が、蓮二にべったりくっついていて、フーフー威嚇してきて面白いから見にいこう」
 真顔で、しかしこれでも確実だ。
 乾は完全に状況を楽しんでいる。
 海堂は今度こそはっきりと呆れて嘆息した。
「威嚇されるって、あんた何やってんですか」
「特に何も。それなのに、どこからともなく現れては、蓮二が貞治って呼ぶ毎に噛みつかれそうな目で睨まれるし、俺が蓮二って呼べばそれはもう手酷く罵られたりするんだよねえ…」
 別段腹を立てている訳でもないらしい乾の紡ぐ嘆きの言葉の数々に、海堂は控えめに問いかけた。
「……柳さんと切原ってのは…」
「うん? ああ、まあそういう事なんだろうな。面と向かって確かめてはいないけど、ああまで判りやすくこられるとね」
 二人の頭上で予鈴が鳴る。
 あと五分しか時間がない。
 海堂は乾に腕を取られたまま、じっと乾を見据えた。
 改めて断りをいれる。
「俺は切原の気持ちも判らなくはないんで」
「でも海堂は蓮二を睨みつけたり罵ったりしないだろう? ちなみに切原はその度に蓮二に厳しくやられて、極めて悪循環なんだけどね」
「楽しそうっすね…乾先輩」
「なかなか興味深いよ」
 ということで、どう?と食い下がってくる乾は、結局同意以外欲しくないのかもしれない。
 そんな乾も珍しくはあるけれど。
「柳さんの気持ちも少しは判るんで遠慮します」
 海堂は、どちらの気持ちも少しずつ判る気がした。
 切原の気持ちも判る。
 好きな相手が、幼馴染でもありダブルスのパートナーであったこともある相手と親密に話をしている場に居合わせる、ちくりと胸の痛むような痛くないけれど苦しい感じだとか。
「………………」
 柳の気持ちも判る。
 好きな相手を、好きな相手の側にいる自分を、例えば見せびらかしたいという観念は持っていないのだろう、あの人も。
 多分。
 海堂はそう思った。
 自分もそうだ。
 隠そうとは思わない。
 ただ、特別な相手といる時の自分は、誰彼構わず見せて回れるものでもない。
 乾といる時の自分の緩さに徐々に自覚のある海堂だったから尚更だ。
 柳ならばそんなものは上手に隠すのだろうけれど。
「海堂ー」
 やけに甘ったれた声で泣きつかれたって、海堂は首を縦には振らなかった。
 たぶんもうすぐ本鈴が鳴る。
 今更ながらだがこんなにも人目のあるところで自分達は何をしているのかと思いながらも。
 海堂は、じっと乾を見上げた。
「…海堂?」
「あんたは面白いものが見られるから行こうって言うけど」
「うん?」
「俺はどうせあんたしか見ない」
 だからそういう誘いは無駄だ、と乾にだけ聞こえる声で言って。
 海堂は横開きの扉をぴしゃりと閉めた。
 廊下に乾を閉め出した理由は、一つに本鈴が鳴ったから。
 そしてもう一つに、とてもじゃないが今の自分の顔を見られてはたまらないと思ったからだ。
 しっかりと暖房のきいた跡部の家の一室で食べる、今日の昼ご飯は冷たいとうもろこしのスパゲティだった。
 一口食べるなり、それがあまりに美味しかったので、これうまいなあ、またこれ食べたいなあと言った神尾に、跡部は間髪入れずに明日また来ればいいと言った。
「……今さっき顔合わせたばっかで、もう明日の話かよう」
 なんかへんなのと妙な気恥ずかしさで神尾が呟けば、どっちがだと跡部は呆れた顔をした。
「今食ってる最中の物を、また食べたいとか言ってるお前に言われたかねえよ」
「だってうまいし」
「ああ、そうかよ」
「…ぅ、すっげ、むかつく」
「これっぽっちも気にならねえな」
 口の悪い跡部は表情一つ動かさず、神尾に対してそんな事を言いながら、いいから食えと顎で指図してくる。
 本当に高飛車な男だ。
「……なんでそう、いちいちえらそうかなあ、跡部は」
「えらそうじゃなくて実際えらいんだよ、俺様は。お前はつくづく馬鹿だな」
 皮肉気に唇の端を引き上げる跡部は、手にしたフォークを、まるで魔法の道具のように優美に扱っていた。
 あれは本当に普通のフォークなんだろうかと神尾が危ぶむほど。
 自分が手にしているものと本当に同じなのだろうかと不思議に思えるほど。
 跡部の手つきも、操られるフォークも、その動きの全てが滑らかで綺麗だった。
「………………」
 跡部はフォークの先を垂直に皿に宛て、僅かな動きでスパゲティをからめとっては口に運んでいる。
 殆どフォークを動かしていないように見えるのに、きれいに巻きつけられたスパゲティは跡部の口に入っていく。
 つい神尾が食べるのも忘れて見入ってしまうくらい、跡部の所作は指先まで完璧に整っていた。
 神尾の率直な視線に、当然気づく跡部が。
 眉根を寄せて何だと睨みつけてくる。
 神尾はしみじみ呟いた。
「なあ、跡部ー。昔々さ」
「ああ?」
「イタリアのお姫様がフランスの王子様の所にお嫁に行く時に、フォークを持って行ったって話知ってるか?」
「王子の前でスパゲティを少しでもきれいに食べられるようにって話だろ」
「それそれ。…でさ、跡部って、それみたい」
 上品であるけれど豪胆にスパゲティを食べていた跡部がどうしようもなく不機嫌そうにフォークを操る動きを止めた。
「俺がどっちだって」
「イタリアのお姫様」
「それでお前がフランスの王子様かよ」
「まあ、そう。…何? 不満?」
 俺すっごい大事にするのに、お姫様。
 神尾がそう思って跡部を見返すと、跡部はフォークを更に置き、立ち上がった。
「へ…? 跡部…?」
「俺が女だったらそうするって?」
「は? 跡部が女?……それはそれで凄いけどさ」
 すぐに神尾の側までやってきて、腕を組み目を細めて神尾を見下す跡部は、不機嫌極まりなかった。
 あ、ばかだな、と。
 神尾は即座に思った。
 ばかだ、跡部。
「……今みたいにって事だぜ?」
「………………」
 何だかさすがに見つめ返すのはどうにも。
 だから神尾はスパゲティをくるくるとフォークに巻きつけながら言った。
「俺、今、跡部がすっごく大事なんだからな」
「………………」
 視線は感じるけれど、跡部は何も言わない。
 暫くして、神尾は、聞いてしまった。
 見てしまった。
 だから。
 神尾はやけっぱちに怒鳴るしかなくなった。
「……信じてないだろっ」
「いや……お前、顔、火噴きそうだぜ」
「………っ……とべが笑うからだろ…っ」
「何で俺が笑うと赤くなんだよ」
 それはだって、きれいに笑うからだ。
 跡部が、ひどく幸せそうに笑うからだ。
 神尾が言った言葉に、あんなにも不機嫌そうになっていたくせに。
 たった一言、また神尾の言葉でそんな顔をするからだ。
「自分で言っておいて照れてんじゃねえよ。バァカ」
「照れてない!」
「純情王子だな」
「お前はとんだお姫様だぞ!」
 跡部の指先が神尾に伸びてきて、爪の先まで綺麗な指が、するりと神尾の頬を撫でた。
「キスしてやるよ。王子様」
 顔上げな、とうんざりするほど色っぽい声に言われて、神尾は発狂しそうになった。
「スパゲティ食べてんの! 俺はっ!」
「食いながらでも別にキスするのは構わねえだろ」
 構うだろっと怒鳴ろうとした神尾の顎を跡部は指先で軽く支えて。
 神尾の頬に唇を寄せてきた。
 こめかみと。
 額にも。
 甘ったるい軽い触れるだけのキス。
「食ってていいぜ?」
「……くっ、…く…っ…食えるか…っ! こんなんでっ!」
 ちゅ、と可愛らしくも小さな音をたてるのは絶対にわざとだ。



 王子様はもう、全身茹で上がるような気持ちで、行儀の悪いお姫様にされるがままだった。
 嵐めいた強風と雨と雷との、荒れた天候。
 一月だというのに、まるで台風みたいだと、鳳と宍戸が話をしていた矢先だ。
 全ての電気が一斉に落ちた。
「……停電か?」
「そうみたいですね」
 突然の事にも、屋外の気候を考えれば充分納得が出来て、溜息交じりにそんな言葉をかわしたのだが。
 彼らが今いる鳳の部屋は、停電の中にあっても暖かな光で満ちていた。
「すげえな、これ」
 部屋が暗くなる前は暖房器具としてのみ体感していた石油ストーブは、全ての照明が落ちてしまった今、蕩けそうな色を放ち煌々としていた。
 四つん這いで側まで這いずって行きながらの宍戸の感嘆にやわらかく笑った鳳の表情も甘い色で照らし出される。
「船舶の油用マリンランプがモチーフらしいんで、あたたかいのは勿論、本が読めるくらい明るいって聞いてましたけど……こうなってみると実感出来ますね」
 温もりのある光にどちらからともなく自然と近づいて行って、波型のガラスや真鍮板に乱反射する揺らぎを見つめる。
「お前の部屋さ、エアコンはエアコンでちゃんとあるのに、なんでアナログの石油ストーブ使ってんのかなあって思ってたけどよ」
 これすげえいいな、と宍戸は言った。
 リアクションがないので視線をゴールドフレームから鳳へと向ければ、驚くほど近くに鳳の顔があった。
「………………」
 浅く唇と唇が重なる。
「………長太郎…?」
「なんか……あんまり綺麗で。すみません」
「…………は…?……」
 そんな事を言った鳳の方が、いったいどれだけ。
 思わず出かかった言葉を宍戸は無理矢理飲み込んだ。
 暖色の揺らぎある光は、鳳の色素の薄い髪や目を一層透きとおらせている。
 あまりにも綺麗な、なんてものは。
 どう考えたってこっちだろうと宍戸は呆れた。
「………アホ」
 けれど鳳の長い指は、そっと宍戸の髪をすき上げて。
 瞬く睫毛が触れそうな程近づいて。
 鳳は宍戸を見据えてくる。
「宍戸さんの髪も、目も、真っ黒で」
「………………」
「光ってて、綺麗な星空みたいなんです」
 見せてあげられなくて残念ですが、と鳳が笑んだ。
 宍戸は宍戸で、この状態で、
 鳳の髪や目に、弾けるような明るい光と、虹のような煌めきを見て取った。
「……別に。俺は、お前が見られないもの見てるからいいけどよ」
「………はい…?」
「…なんでもね……」
 重なるだけ、啄ばむだけ、そんなキスを繰り返しながら囁きあう。
 停電と共に同時に現れた暗闇と灯りとに、更に身体の中の何かのスイッチまで落とされたようになってしまう。
 何の話をしていたんだっけかとぼんやり思いながら、宍戸は鳳に組み敷かれていた。
 床にあたる背中を意識するより先、シャツの中に鳳の手が忍んでくる。
 即物的で、でもそれを容易に上回る優しい手のひらだ。
 宍戸は小さく息をつく。
 唇を塞がれ、今度は深く潜ってきた鳳の舌の先を、そっと噛んだ。
 鳳の手のひらが止まってしまったので、嫌がってるとでも思われのかと、宍戸は両腕を持ち上げた。
 鳳の頭を抱きこむようにして自分から深いキスをしかける。
 すぐに互いが均等にむさぼりあうキスになった。
「…………なあ……」
「何ですか…?…」
「やってて俺が暴れたら…力づくで押さえ込むなりしろよ」
「宍戸さん…」
 急に何言い出すんですかと呆れた吐息と共に鳳が呟く。
「そんな無理強いみたいなこと宍戸さんにしません。………その暴れるって、嫌でって事ですか?」
 そのくせ陰影のくっきりとした鳳の顔は、少しばかり困ったような力ない表情を浮かべている。
 宍戸は唇の端を引き上げた。
「馬鹿、そうじゃねえよ」
 そうじゃなくてよ、と呟きながら。
 宍戸は自分の頬に添えられた鳳の手のひらに自ら擦り寄るようにして、手のひらのくぼみに唇を押し当てる。
「火の側で暴れんの危ねえだろ」
「宍戸さん…?」
「お前やたら綺麗で、何かこっちは変になりそうだから、言っただけだ」
 どうなるか判んねえよと宍戸がひっそりと告げると、背中が床から浮く程きつく抱き竦められた。
「……ほんと、宍戸さんは、とんでもないこといきなり言うんだから」
 参った、と呻く鳳はかわいかった。
 宍戸は笑って自分の肩口にある鳳の髪をくしゃくしゃにする。
「お前も、そういう可愛すぎんの、どうかと思うぜ」
「勘弁して下さいって。本当に」
 泣き言めいたそれに宍戸はひそめた笑い声を響かせ続けた。
 それに共鳴するようにゴールドフレームの炎も揺れていて。
 その後は。
 室内の空気は、ひどく甘く、乱れていくばかりだ。
 海堂は自宅の玄関口で目を瞠って二人を出迎えた。
 買物に出かけていた母親が、乾と一緒に帰ってきた。
「ただいま。薫」
「やあ、海堂」
「………………」
 状況がつかめないながらも、海堂はおかえりと母親に言い、乾には目礼した。
「荷物持ってくれてありがとうね。乾君」
「いいえ」
 どうぞ、と乾がにこやかに穂摘に手渡したスーパーの袋はどう見ても本来の目的であるスパイスの小瓶一つしか入っていない。
 乾自身が持っているスーパーの袋の方がはるかに大きく膨らんでいて重そうだった。
「あがっていって頂きたいんだけど、急いでおうちに帰らないと駄目なのよね」
 哀しげな溜息をついた穂摘が、五分だけ待っていてもらえる?と乾を見上げて、了解を得るなり素早くキッチンに入ったのを海堂は怪訝に見送った。
「あの…?」
「スーパーで偶然穂摘さんと会ってね。一目でも海堂に会えるかなあという下心でついてきました」
 声を潜め、悪戯っぽく笑う乾に、海堂は息を飲む。
 それだけの言葉で赤くなりそうな気配がする頬に手の甲を押し当ててから、海堂はとにかくこんな所じゃなんだからと乾を促したのだが、それは乾の苦笑でやんわりと阻まれた。
「実は両親が二人して週末から寝込んじゃってね」
「……風邪っすか?」
「腹にきちゃってるもんだから、よもやノロかと思ったけど大丈夫。今は食欲も出てきたみたいで」
 それでこれ、と乾は持っているスーパーの袋を軽く持ち上げてみせた。
 珍しく俺は今回無事だと笑う乾を、海堂はじっと見つめた。
「あんたは……ちゃんとメシ食ってんですか」
「親子だねえ、海堂。同じ事をスーパーで穂摘さんにも聞かれた」
 そして若干の駄目出しをくらいましたと続ける。
 どうやらそれは買物の内容についてものようで、乾の視線がそこに軽く落とされた。
「100㎏の豚肉から130㎏のハムが出来る話とか、おっかないやら興味深いやらでなあ…」
「………化合物や添加物に絶対反対って訳じゃないけど体調不良の時は身体に良い物をってよく言ってますよ」
 乾は軽い症状で治りも早いのだが、割合と頻繁に風邪をひく。
 何事にも緻密な彼だけあって、最初と最後のケアがきちんとしているから大事ではないものの、それを知っている海堂はつい小さな溜息をついてしまう。
「ちゃんと食って、ちゃんと寝ろ。風邪は身体が弱ってる時にうつるんだから」
「ありがとう。海堂」
「……、…別に礼言われるような事じゃ」
 乾の浮かべた笑みとストレートな言葉にたじろいで、海堂は顔を背けた。
 また頬に赤みがぶりかえしそうで怖い。
 年上の乾が、時折海堂に見せる砕けた無防備な甘えに、海堂はいつまでたっても慣れないのだ。
「玄関先でお待たせしちゃって本当にごめんなさいね」
 穂摘がキッチンから戻ってきた事に海堂は思わずほっとしてしまう。
 タッパーや紙製のランチボックスを幾つか抱えた穂摘は、マチの広い紙袋に手早くそれらを詰めていきながら一つ一つ説明をした。
「これはお粥。ご両親にね。お米をミキサーで砕いてあるから、水をタッパーいっぱいまで入れて鍋に移して煮ればすぐに出来るわ。こっちはおろしれんこんのスープ。整腸作用があるから温めて食べてね。これが玄米餅で、乾君はスープだけじゃ物足りないでしょうから、焼いて入れてみて。こっちのはミートボールとコーンのクリームシチュー。それと、薫」
 ぐいっと背を押されて海堂は面食らった。
「…、…え?」
 背後を振り返った海堂の視線の先、見慣れた柔和な笑顔を浮かべる穂摘がいた。
 さすがに乾も驚いたようで、それまで逐一告げていたありがとうございますとかすごいなとかすみませんだとかいった言葉がぴたりと止んだ。
「だって乾君はもう荷物を持っているし、もしすぐ乾君がご飯を食べるとしたら一人じゃ味気ないでしょう? 本当は寄っていって欲しいのよ、でもご両親の事も心配でしょうから」
 だからね、薫、と微笑む姿に、乾と海堂がまだリアクションをとれずにいると。
 穂摘の表情がゆっくりと曇った。
 でもやっぱりそれはお邪魔かしらねえ、という呟きを、しかし今度は乾がきっぱり遮った。
「風邪をうつしたら大変なので長くは引き止めませんから、食事の間だけでもよろしいですか? お付き合いしてもらって」
「ええ。勿論。さ、薫。支度して」
 ちゃんとコート着ていくのよと促す母親と、すさまじく明るい笑顔の乾とに、海堂は発する言葉もないまま家を出る事になった。



 外は風もなく穏やかな天気だった。
「悪いね、海堂」
「……別に構わないっすけど」
 機嫌の良すぎる乾を上目に見上げたまま海堂は小さく応えた。
「うん?」
 乾は眼差しで言葉の先を促してくる。
「…………何でそんなに機嫌良いんですか。あんた」
「一目会えればいいなあと思っていたのが、それ以上の結果になったのが嬉しいからだね」
「……明日になれば普通に学校で会うだろ」
「今日会えたって事が大事なんだよ」
「今日…何かの日ですか」
「アニバーサリーでなくても一日一日は大事なもんだろう?」
「まあ、…そりゃそうですけど」
 のんびりとした会話を繰り交わしながら、そういえば、部活や学校も関係なく、約束をした訳でもなく、偶然だけの結果でこうして肩を並べて歩いているという事は滅多にないと思う。
 滅多にないという事は、つまりこれは、特別な事なのかもしれない。
 その割にはゆったりと力が抜けているけれど。
「………………」
 特別という事は、別段畏まったりするものではないのだなと海堂は知った。
「買物帰り、家についたら玄関で海堂のお出迎えを受けるっていうのは、かなりのインパクトだったな」
 乾のそんな言葉に海堂は呆れた。
 だいたい、しみじみ噛み締めるように言うような事かと。
 だって。
「それが日常になんだろ」
「…海堂?」
 何年か後には。
「違うんですか」
「いや。全くこれっぽちも違わない」
 熱出そうなんだけどと上機嫌のまま笑う乾に、海堂は今度こそ心底から呆れた。
「俺がちょっと何か言うだけで狼狽えたりするのに、自分はとんでもないこと平気で言うんだからなあ。海堂は」
「俺は当たり前の事しか言ってねえ…」
「ほらまたそうやってさー」
 だからそういう甘えた言い方をどうしてするんだと海堂は今日幾度目かになる顔の熱を自覚した。
 何も聞こえないという音が聞こえそうだと思う。
 耳をすませて、一人、深夜のベッドで丸くなる。
 目を閉じる。
 何も見えないという物が見えていそうだと思う。
 静かで、暗くて、でもそう感じているのは自分だけで、本当はこの世界には今も何かの音がしていて、何か様々な物が見えているべきなのかもしれない。
 息を吸う、息を吐く、でも実際に吸えているのか吐けているのか、呼吸を自分はしているのかしているつもりなだけなのか。
 判らないというよりも決められない。
 本当は、どうなのだろう。
 本当は、本当って、何なのだろう。
 ずっとずっと考えているのはそんな事だ。
「………………」
 部屋の扉が開いた気配がする。
 神尾は目を開けた。
 もぐりこんでいた毛布の中から顔を出した。
 暗い部屋、即座に。
 神尾の横に滑り込んでくる冷たい服を纏ったままの男。
「帰って……きた」
「決まってるだろうが」
 低い声。
 背中を抱かれる。
 冷たい服。
 冷たい指。
 外は恐らく恐ろしく寒いのに違いない。
「跡部……」
「お前、何考えてた」
「………………」
「神尾」
 髪を撫でつけられる。
 何かを堪えているような跡部の手つきに神尾は小さく息を吸い込む。
 冷えた、慣れた、香りがする。
 跡部の匂いだ。
「………跡部…」
 帰ってきた、もう一度そう思った。
 神尾は抱き込まれている跡部の喉元に擦り寄るように近づいた。
 神尾の方から近づいた時、初めて跡部の拘束が暴力的に強まった。
「お前のいない何処に帰るって?」
「………………」
「言えよ。神尾」
 苛立っているようで、その実跡部の手は優しすぎる程優しく神尾を抱きこんでいた。
 服を着たままベッドに潜り込んできた冷たい感触の跡部は、自分から暖をとることは出来ないのかと思うと神尾は微かに物悲しくなる。
 こんなにくっついているのに。
「………………」
 もっと暖かくいられて、そんな辛そうな声など出さないで済む場所が、きっと跡部にはある。
 寒いままで、辛いままで、自分とここに居る事ない筈なのに。
「………………」
 涙は、こんなにも距離の近い、跡部の衣服に直接滲み込んでいってしまう。
 身体中縛りつけられるように。
 痛いくらいに。
 跡部の腕の力が強くなって、神尾は小さくしゃくりあげた。
 どうしてまた、もしくはまだ。
 こんな風に不安なのか。
 疑問に思うのが半分。
 どうしてもなにもないと判っているのが半分。
 混乱する神尾を抱き締めてくる跡部の腕の力はますます強まる。
 跡部の世界が広すぎて。
 一緒にいる時間が長くなればなるほど果てしなく広がっていって。
 神尾には今こうして自分のしたいようにしている事が、跡部にとって正しいのかどうか、見渡す事も出来ないでいる。
 そんな神尾の懸念や脅えに跡部は敏感で強暴だ。
「一生こんな風にお前を泣かせるんだとしても、怖がらせるんだとしても、逃がしやしねえよ」
 上着を脱ぎ捨てただけのフォーマルのシャツ、その下の跡部の身体は外気に冷やされたままのように冷たい。
 実家の用事で跡部が呼び出される事が増えて、跡部は何も言わないで、でも神尾には何かが判ってもいた。
 全てを知っているらしい跡部の家の人間に呼び出され、離別を促され、身動きがとれなくなった時に、すでに自分はこんな現実を予兆していたと神尾は思ったのだ。
 同意をした訳ではない。
 でも否定も出来なかった。
 跡部はすぐにその出来事を知り、神尾が初めて見る凶暴さで、獰猛さで、そして怯えで、神尾を雁字搦めにしてきた。
 恐怖心というなら、それを持ったのは跡部の方だった。
「もしお前が逃げても、俺は絶対に逃がしてやらねえからな」
「……跡部」
 逃げたい訳がない。
 怖くても、不安でも、例えば今日のように。
 大晦日、実家からの呼び出しに跡部が出かけて行き、彼の帰りを待っているだけしか出来ないこんな時間があったとしても。
 逃げたい訳がない。
 でも、逃げたい?と跡部に向かって思って聞きたい気持ちも神尾の中には在るのだ。
「………だって、俺といると、跡部は冷たいままだぜ…」
 こんな風に。
 跡部がこの出で立ちで、実家で、誰に何を言われ、何を言い返しているのか。
 それを神尾は知らないでいるけれど。
 本当はもっと、跡部に全てがいいようになっている場所があるのかもしれないのに。
「馬鹿だな。てめえは」
「………………」
 昔っから本当にと跡部が微かに笑った気配がした。
 そのままキスを、された。
「冷たいかよ」
 問われて神尾は息を飲む。
 重なった唇は冷えていた。
 しかし、ひらいて絡ませ合った舌は燃え立つように熱かった。
「冷たいかよ」
 もう一度跡部が言うのに、神尾は首を振った。
 左右に、強く。
 熱い。
 熱かったから、何度も首を振った。
「………………」
 口づけて知る跡部の中の熱さ。
「お前だけだろうが。こう出来るのも、これ知ってんのも」
 俺を中身まで凍らせるなと跡部は言った。
 お前がいるから中身は凍らないんだと跡部は言った。
「跡部……」
「ああ」
「…跡部……跡部……」
 跡部の言葉は年月が立つ毎に神尾に判りやすくなっていった。
 出会った当初は混乱ばかりしていたのに。
 今は跡部の言葉で神尾は解ける。
 でもこんな風に気持ちが甘く苦く押しつぶされてしまえば、言葉には変えられない。
 抱き締められて、涙の上に口付けられて。
 何も言えなくなる。
 本当は唇に直接それが欲しい。
 言葉が捕まえられないから、神尾はねだるように跡部の顎を小さく一度啄ばんだ。
「跡部」
「……、…お前な…」
「好きだよ」
 神尾がその言葉を口にすると、跡部はいつも同じ顔をする。
 いつもの不遜な顔ではなく、神尾だけが知る、神尾の言葉には置き換えられない顔をする。
「好きだ」
「ずっと言ってろ」
 気失うまでずっと、と跡部が嗄れた声で言う。
 荒々しく神尾のパジャマの中に跡部の手のひらが入り、耐えかねたような手のひらが直接神尾の肌を辿る。
 ああ、手のひらも、ゆっくりゆっくり、ちゃんと温かくなっていると、神尾は気づいた。
「本当に、俺でいいのかな…跡部…」
「お前だ」
 お前がいいと、尋ねる訳でもない神尾の呟きに跡部の声音は真摯だ。
「好きだよ…跡部」
「お前以外、いらねえんだよ」
「跡部」
「捨てたら、狂う」
 自分達は、本当に会話をしているのかどうか。
 時々判らなくなるけれど。
 例え意味が判らなかったとしても、相手の言葉が必要な時がある。
「跡部…」
「捨てやがったら、狂ってやる」
「好き」
「いいな」
「跡部」
 抱き締めあう。
 怖くてもいいじゃないかと、ここにきて漸く神尾は思う。
 だって、好きだ。
 ずっと一緒にいるのなら、怖くても、いい。
 不安で、泣いても、こうしている方がずっといい。
 抱き締めあう。
 抱き締めあう。
 静寂という音を聞き、暗闇という色を見て、それは何一つ間違いでないと知るこの身で。



 この不安定で怖い感情こそが、永遠の幸せなのだと知っている自分達だから。
 前しか見ていないのに、背後で何が起きているのか何故かいつも見えているらしい跡部が、足を止め振り返りながら言った。
「旅行か」
「……へ?」
 神尾が気の抜けた声を上げると、跡部の溜息がそこに被さってくる。
 旅行会社の前、表に出ているツアーのパンフレットに神尾は視線を流しただけだ。
 どうやって気づくんだそんな事と神尾は凄まじく驚いた。
「や、……この間さー……」
 しかも、何でそんなおっかない目で直視してくるんだと思いながら、神尾はカタログスタンドに近づいて行って、覚えのある表紙のパンフレットを一冊抜き出した。
「学校でこれ見たんだ」
「オランダ?」
「そう。でさ、……ここ」
 立ったままパンフレットを捲って、神尾はあるページを開いて跡部に見せた。
「これ行ってみたいよなーって思ったんだよな。これ持って来てた奴は、そうかー?とか言ってたけど」
「てめえ、そいつと行きたいってのか」
「は?…違う違う、俺が自分で見てて思っただけだって!」
 そういう訳でその態度かと、神尾は漸く気づいて慌てた。
 これくらいの事でそんなに凄まれても困るよぅと思いもした。
 跡部の綺麗すぎる顔は、厳しい表情をするとちょっと一言ではいえないくらいの迫力になる。
 まだその表情のままだから、神尾の言葉で納得したのかどうかは判らないが、跡部は改めてパンフレットに視線を落としてきた。
「ファルケンブルク、洞窟のクリスマス市。八日で二十二万八千八百円か」
 言うなり携帯をひらいている跡部に神尾は冗談でなく飛び上がった。
「うわっ、…げ、なんか押してるっ。跡部! ストップ!」
「アア? 俺様を犬扱いか。てめえ」
「してねえよ! てゆーかお前何してんだよっ」
 大慌てで神尾は跡部の右腕にしがみつく。
 跡部はそんなもの物ともせずに平然と言った。
「何って決まってんだろうが。チケットの手配とホテルの手配」
 行きたいなら早く言やぁいいだろうがと、一週間後にクリスマスを控えたこの時期に、まさに今すぐに。
「見ただけだってば!」
 うわあ信じらんねえやっぱりだぁと神尾は頬を引き攣らせた。
「ただ見ただけ! それで面白そうって思っただけ!」
 跡部の携帯を必死で折りたたみ、コートのポケットに入れ、神尾は早口に言い募った。
「面白そうじゃん。洞窟の中でクリスマスとかさ、あとオランダってボートハウスで生活してる人も多いっていうしさ、水の上の家とかも面白そうだしようっ。あと、あとさ、」
「一番肝心なこと忘れてやがるだろう、お前」
「え?」
 跡部が尊大に神尾を見下ろし言い放つ。
「オランダは結婚出来るだろうが。男同士で」
「は?……へ?」
 別にクリスマス市なんざどうでもいいが、だから行ってやってもいい、と続けた跡部が。
 いったい何を言っているのか。
 神尾には全く理解できなかった。
 ぱかーと口を開けて見上げていると、跡部の眉根がみるみるうちに寄ってくる。
 そして舌打ちと一緒に跡部は吐き捨てた。
「判ってて言ったんじゃねえのかよ」
「………跡部…ぇ?」
 何かとんでもないこと言ったぞ跡部、と神尾が混乱しきっているのをどう見たのか、跡部はもう一度舌打ちして、コートのポケットに手を入れた。
 神尾はそれで我に返った。
「わわ…っ! 跡部今度はどこに電話…!」
「洞窟でクリスマス市がやりたいだけなら、洞窟に作らせてやる」
「いらないっ。つーか、お前んち、洞窟まで持ってんの?!」
 おそろしいと身震いした神尾をヘッドロックまがいに片腕で抱きこんだ跡部が、秀麗な面立ちを鋭く凄ませ至近距離から見下ろしてくる。
 神尾がぎゃーぎゃー騒いだのはその距離から盗むようにキスされそうなのが判ったからだ。
 こんな往来でそれはないだろうと必死で抵抗する神尾を跡部は薄笑いで見ていたのだが、その唇が触れ合う寸前、ぴくりとその動きを止めた。
「長太郎、あの馬鹿を蹴り飛ばして来い。公害だ。氷帝の恥だ」
 そんな声が聞こえてきたからだ。
 跡部と神尾が揃って声のした方に顔を向けると、跡部達が来た道を、うんざりとした顔の宍戸と、柔和に微笑んでいる鳳が並んで歩いてきていた。
「こんにちは」
 律儀に目礼してきたのは無論鳳で、宍戸はいかにも寒そうにマフラーを口元近くまで引き上げ、くぐもった声で、あんなバカヤロウに挨拶なんざいいと呻いている。
「宍戸、てめえ」
「あ? 何だよ。やんのかよ」
 ゆらりと動いて宍戸に近づく跡部の険悪さと言ったらない。
 平然と受けて立っている宍戸の迫力もまたしかり。
 慌てた神尾が懸命に間に入って取り成すも、荒い言葉の応酬は止まらない。
「誰が公害で氷帝の恥だって? アア?」
「お前だお前。跡部景吾、お前以外に誰がいる。こんな街中で、無理矢理他校生襲ってんじゃねえよ、アホ」
「可愛がってやってんだよ。この節穴め。てめえこそ相も変わらず鳳従えて歩いてんじゃねえ」
 跡部と宍戸の言い争いの合間に、ぎゃー!とかふざけんなー!とかいう神尾の悲鳴が入る。
 その場でただ一人、鳳だけが肩を震わせて笑いながら、極めて手際よく彼らの中に割って入って行った。
「跡部さんも宍戸さんも氷帝の誇りですから。そんな大きな声出さないで下さい」
 お願いしますと尚も微笑む鳳に、跡部と宍戸が毒気が抜かれたように一瞬黙り、その後二人で妙に苦々しいような顔をした。
 神尾はといえば、ぴたりと止まった喧騒に、すげーすげーと鳳を見上げて感心することしきりだ。
「鳳、お前すっげー!」
「……神尾は跡部さん頼むね」
 こっそり鳳に耳打ちされても神尾は依然キラキラした目で鳳を見上げているので、結局憮然としている跡部がひったくるように神尾を奪いにきた。
 火に油注いでんのは何気にお前かと宍戸が笑い出す。
 鳳はそんな宍戸の、僅かに乱れたマフラーを丁寧に巻きなおしていく。
「あ? いいよ、自分でやる」
「させて下さい」
 お願いしますと笑む鳳に、全て任せながらも宍戸は軽く溜息をついた。
「お前さぁ…長太郎」
「はい?」
「させちまう俺も俺だけどよ……そんなに何から何まで気使わなくていいぜ」
 おや、と鳳は思った。
 宍戸の細い首から続く硬質なラインの肩が少し落ちていて、これは多分、さっきの跡部の言葉にも少しばかりのダメージがあるのかもしれない。
「俺は、従ってる訳じゃないんですよ。宍戸さん」
「………………」
「俺のしたい事を、宍戸さんが許してくれてるんです」
 ありがとうございます、と言って宍戸のマフラーから手を離す。
「宍戸さんが、会ってくれてるだけで俺は嬉しいです」
「お前それ異様に望み低くねえか」
「そんな事ない」
 宍戸が何度だって見惚れるような鳳の柔らかで艶のある優しい笑みは、今もこうして惜しみなく注がれてくる。
 そっと肩を手のひらにも包まれて、これではどっちが年上か判ったものじゃないと宍戸は思ってしまった。
「………どっちが公害で、どっちが氷帝の恥だって」
 皮肉気な跡部の声がするまで、そういえばその存在を忘れていたと、鳳と宍戸は顔を見合わせた。
 揃って視線を向ければ、そんなこと言うなようと弱り顔の神尾を横にして、跡部が嫌味たっぷりに目を細めていた。
 しかしすぐに跡部のその眼差しは神尾に落とされる。
「俺があの馬鹿に言われた台詞をそのまんま返しただけだろうが!」
「宍戸さんの言葉には愛情があるけど、跡部の言葉は呪詛みたいで怖ぇよぅ」
「アア?」
 本気で凄む跡部と、案外豪胆な神尾とに、鳳と宍戸は思わず笑い出す。
「な、…なんかおかしかった…?」
 怪訝な顔の神尾に、鳳が首を左右に振って返す。
「そうじゃないよ。ええと…邪魔してごめん。クリスマスの予定を話してたんだろう?」
「そういう訳じゃないけど……あ、なあなあ、鳳はクリスマスに行ってみたい所とかある?」
 神尾は慌てて話をごまかした。
 これでまた当然のように、海外で過ごす手続きなんか跡部にされてしまっては、とても困る。
 しかし、神尾の感覚からすると、跡部に限らず氷帝自体がやはりブルジョワなのだ。
 矛先を変えて尋ねたものの、鳳の返答もまた、当然のように異国の地名だった。
「ドイツかな。とても綺麗な国だったから、宍戸さんと一緒に見たい」
 鳳の言葉の語尾は眼差しと一緒に宍戸へと向けられる。
 宍戸は、俺はテニスが出来りゃどこでもいいよ、と言った。
 そして、ふいに宍戸の視線があらぬほうへと向けられる。
「海堂、自主練か?」
 突飛とも思えるいきなりの言葉に、鳳と神尾と跡部が一斉に振り返る。
 そこには確かに、宍戸の言葉通りに。
「…………ッス……」
 黒のジャージ姿の他校生がいた。
 大分走ってきたらしい足を止め、汗を滴らせて息を弾ませている。
 トレードマークのバンダナを頭に巻いた青学の海堂は、声をかけてきた宍戸に会釈した後に、一斉に振り返ってきた三人にも気づき目を見張っていた。
「海堂、お前、どんだけ走ってんだよ」
 この真冬に尋常でない汗を流している海堂に、神尾が呆れた声をあげる。
 うるせえと海堂は即座に小声で吐き捨ててきたのだが、一人かよ?と宍戸が尋ねてくるのには一瞬言葉を詰まらせた。
 一人ではないだろうと、その場にいる誰もが思っていた通り。
「乾よ、まさかお前、自転車で振り切られてんじゃねえだろうな」
 腕組みした跡部が呆れ返った風情で吐き捨てる。
 自転車に乗った乾が現れたのだ。
 やあ、お揃いで、と面々に向けて言った後、乾は跡部を見て肩を竦めてみせた。
「そう言うな。もうここらで三十kmは走ってるんだから」
 信号や道路によってはまかれるんだよと、海堂と同じくジャージ姿の乾が跡部に向けて笑って告げる。
「………三十kmって……正気か海堂」
「うるせえ」
 今度も神尾には即答して返した海堂だったが、よく走るなと感心しきった宍戸の言葉にはどことなく決まり悪そうな面持ちでまた目礼する。
「宍戸さんは、海堂を買ってますよね」
「こいつの体力判ってないで、もう終わりだとか言っちまったからなぁ…」
 鳳と会話しつつも、あん時は見当違いで悪かったなと宍戸は海堂に言った。
 口が悪くて気も短そうなのに、感心するにしても詫びるにしても、宍戸は歳の差も関係なく潔く告げてくる。
 海堂は慌てて首を左右に振った。
 にこりと笑って返した宍戸が、あーテニスしてーと呟いたのに、もう一つ同じ言葉が重なった。
「いいなー。俺もテニスしたい」
「………これからって言うんじゃねえだろうな。神尾」
「これから! 今したい。なー跡部、テーニースー」
 跡部のコートを掴んで、引っ張りながら左右に揺するという、多分他の誰にも出来ないような事を平然としている神尾に、否が応でも視線が集まる。
 跡部は振り解こうともしない。
 ふざけんなと口ではいろいろ言ってはいるが、そのままだ。
「宍戸さん、テニスしたいですか?」
「おう。付き合うか?」
「喜んで」
 鳳と宍戸は話が早い。
 デート中なのに皆酔狂なものだなと乾がしみじみ呟き、一つ提案する。
「これから俺と海堂はストテニ行くんだけど、ダブルスで試合やるかい?」
 やる!と真っ先に返事して、真っ先に走り出したのは不動峰のスピードエースだ。
「てめ、…っ…、俺はやるっつってねえだろうが…っ!」
 物凄いスピードで走り出し、瞬く間に背中の小さくなっていく神尾に、激怒した跡部が後を追い走り出した。
 頬の汗を、ぐいっと拭った海堂が黙ってその後に続く。
「宍戸。鳳。荷物運ぶよ」
「悪いな、乾」
「すみません」
 乾に荷物を渡した宍戸と鳳もまた走り出す。
 荷物を積んだ乾が最後にペダルを踏み込んで、六人はストリートテニス場に向かって走っていった。




 
 ダブルスの組み合わせと試合順番は、公平を期す為クジで決めた。
 コートでは跡部・乾ペアと、宍戸・神尾ペアとで、試合が始められている。
「何だかあっちのコートは二人ともかなり濃い感じで見えづらくて、こっちのコートは二人とも素早すぎて見えづらい気がする……」
「………全くだ」
 鳳と海堂は肩を並べて立ち、若干目を細めるようにして、コートを見やっている。
 跡部と乾のコンビは、コート内の雰囲気があまりにも濃厚だった。
 宍戸と神尾のコンビは、二人して所狭しとコートを走りまわっている。
 跡部は相も変わらず派手極まりないテニスを繰り広げ、乾はいつものようにぶつぶつ何かしら呟きながら、恐らくは一斉に三人のデータをとっているようだった。
 宍戸と神尾は動きだけでなく、跡部への物言いもうまい具合にシンクロして盛り上がっている。
 賑やかであること極まりない。
「………………」
 鳳の呟きに、全くだとしみじみ同意した海堂は、ふと視線を感じて鳳へと顔を向けた。
「何だよ」
 見上げる角度は、慣れた乾へのそれと同じくらいか少し高いかだ。
 鳳もまた、同じような事を考えながら海堂を見下ろしつつ言った。
「次の試合は、勝った方と俺達だから……海堂はどっちだと思う?」
「お前と逆の方」
「跡部さんと乾さんってことか…」
「………………」
 鳳と海堂の視線が、かっちりと合う。
 少しの沈黙の後、再び話し出す。
「即席コンビだからこそ、後戦の有利さを生かして今対策を練っておくべきだよな」
「当然だろう」
 目の前の試合を見据えながらの会話。
 ラリー音を聞きながらの、再度の沈黙、そしてまた鳳と海堂の視線が合う。
「宍戸さんと神尾だと思うんだけど?」
「俺はその逆だ」
「譲らないねえ…」
「お前もな」
 視線を合わせながらも、鳳と海堂の眼差しは確固たる信念で揺らがない。
 暫く無言でいた後、彼らは二人同時に溜息を吐き出した。
 そして、鳳と海堂はラケットを手にして、空いているシングルスコートに入る。
 次元の違った勝負が始められた事に、真っ先に気づいたのはやはり跡部だった。
「何であの二人が試合してやがる」
「待ちきれなくなったかな。海堂はじっとしていられないから…しょうがないなあ」
 暢気に笑う乾の言葉に被さって宍戸が怒鳴る。
「何やってんだよ長太郎!」
「すみません、宍戸さん。ちょっと譲れない事で勝負中です」
「はあ?」
 皆余所見しすぎだぜー、とリズムに乗りきった神尾が軽快にスマッシュを決める。
「て…め…、…神尾っ!」
「へへー、跡部の股下抜いちゃった」
 一気に行こうぜ宍戸さん!と神尾が上機嫌でステップをふむ。
「乾! 貴様、海堂ばっか見てんじゃねえ!」
「お前はいいな、跡部。相手が目の前の対戦コートにいて」
 至極残念そうに視線を戻してくる乾を跡部は一喝しているが、全くといっていいほど気にした素振りもない乾だった。
 結局、ダブルスの試合、シングルスの試合と入り混じり、ストリートテニス場は何が何だか判らない状態になってしまっていた。
 そんな中、チームワークの差だなと、ダブルスの試合に勝利した宍戸と神尾はひとまず上機嫌だ。
「お前、本当に早いな、神尾」
「宍戸さんには負ける! すっげー! あれどうやんですか。一気にビュンって動くやつ」
 無邪気に笑う神尾の頭を宍戸は軽く叩く。
「お前、汗拭かないと風邪ひくぞ。海堂タオル余分に持ってねえかな…」
「宍戸! てめえ、それに触んじゃねえ」
 コートのネット越しから跡部の怒声が飛んでくる。
 宍戸に肩を抱かれた神尾は、あのう、と上目に宍戸を伺った。
「……何かわざとやってません?」
 あーおもしれぇ、と宍戸は顔を下に向けて笑っているばかりだ。
 また、シングルスの試合が行われていたコートでも、負けないいい争いが飛び交っていた。
「ちょっと待て! どういう事だ、お前の負けって」
 勝ったじゃねえかと海堂が剣呑と鳳を睨みつけている。
 同じように息を乱した鳳が首を左右に打ち振った。
「この試合前に、海堂、三十km走ったって言ってたからだよ。どう考えたって俺の負け!」
「試合は試合だろうが!」
 一層声を荒げる海堂の元へ、いつの間にか歩み寄ってきていた乾が、海堂を背後から抱え込んでしまう。
「ほーら。喧嘩しない」
 神尾に構って跡部をからかっていた宍戸も、鳳に気付けばすぐにその場にやってきて、何やってんだお前はと鳳の背中のシャツを引っ張った。
「乾先輩!」
「宍戸さん!」
 そんなこと言ったって鳳が、だって海堂が、とお互いまたもや引かない二人だ。
 様子を伺いにきた神尾と、憮然とした跡部もやってきて、コート内は騒然とする。
「てめえ、宍戸なんざにベタベタ触られてんじゃねえよ」
「あのよう……どこ見て何見てそういう台詞が出るかな、跡部はー…」
「うるせえ。帰るぞ。貴様は今日もうちに泊まれ。いいな」
 は?と神尾が呆気にとられる。
「昨日泊まったじゃん。今から俺帰るとこじゃん。つーか、来週も泊まるんだし!」
 来週のクリスマスも一緒にいる。
 当たり前みたいにだ。
「面倒くせえ。来週までそのまま泊まってろ」
「それありえねえから! そもそも面倒くさいって何! お前は待ってればいいだけじゃんか!」
 俺が行くんだしと神尾は言うが、この時点ですっかり、跡部が、言うなれば拗ねておしまいになったのだと神尾も気づいてしまった。
「口答えしてんじゃねえ、神尾の分際で生意気に」
「俺が生意気なんじゃなくて跡部が横暴なんだよ」
「勝手にこんな所に来やがるわ、宍戸とベタベタしてるわ、手配してやるって言ってんのに旅行は拒否するわ、てめえが生意気じゃなくて誰が生意気なんだ、この馬鹿!」
「………跡部ー……」
 延々続く跡部の攻撃に、神尾はしまいに、力なく。
 寧ろとろけるように、ある言葉を呟いた。
「しょうがねえなあ…」
 そして。




 海堂を抱え込んだ乾は、くるりとその身体を反転させて自分と対峙するようにした。
 他の誰をも、もう海堂の視界には入れず、低く言った。
「さすがにオーバーワークだよ。海堂」
「……別に全然平気っすけど」
「だめ。海堂は無理すると、不調の発症が一週間後って事が多いんだ」
 クリスマスに体調崩したくないだろうと乾が言い含めるようにして告げると、別に関係ねえと海堂がそっぽを向いた。
「じゃあ…こう言えばいいのかな」
「………乾先輩?」
 乾が海堂の両肩を、ぐっと握ると。
 海堂が驚いたように目線を上げてきた。
 乾は唇の端をゆっくりと引き上げ、顔を近づけていく。
「クリスマスイブに俺といる海堂が疲れきってたら」
「………………」
「俺は海堂がかわいそうになって、早く家に帰してあげないといけないかなって思い悩むだろう?」
 だから今日はもう休んでと、固い指先にするりと頬を撫でられた海堂は、小さく息を飲み、赤くなった。
「な?」
「………………」
 長身を屈めるようにして吐息程度に囁かれれば尚更だ。
 暫し羞恥心との戦いであった海堂も、乾の言葉をよくよく思い返しているうち、次第に。
 延々続く乾の雄弁な説得に、海堂はしまいに、力なく。
 寧ろ呆れたように、ある言葉を呟いた。
「しょうがねえなあ…」
 そして。





 鳳を叱り付けていた宍戸は、腰に片手を当てて、自分よりも背の高い年下の男を口調よりは大分柔らかな視線で見つめていた。
「お前らしくねえな。何苛立ってんだよ?」
「苛立ってなんかないです」
「苛立ってんだろ」
 そうでなければ鳳が海堂とあんなやりとりをする筈が無い。
 珍しいと思っている分、宍戸も言葉ほど怒っているわけではなかった。
「あのね、宍戸さん」
「おう?」
「俺はね、怒ってないです。これは拗ねてるんです」
 覚えて、と真顔で言った鳳に宍戸は思いっきり面食らった。
「長太郎?」
「宍戸さんが楽しそうに髪触ったり、くっついてたりするから、拗ねてるだけです」
「……あ?……おい、待てよ。相手神尾だぜ?」
「誰でもです。跡部さんをからかうんだとしても嫌です」
「嫌って……嫌って……お前さあ……」
 宍戸は完全にペースを乱された。
 歯切れの悪い言葉しか口から出てこない。
「くっついてるなら俺がそうしてたいし」
「おーい……長太郎ー……」
「宍戸さんが足りないって思ったらもう、しんどくって立ってられないです」
 実際に鳳が宍戸にのしかかるように体重を預けてきた。
 宍戸はぎょっとして鳳を抱きとめる。
「ば、…お前みたいにでけえの、俺が運べる訳ねえだろ」
「運ばなくてもいいです。別に一緒にこのまま倒れてくれて」
「お前、マジでどうしたよ…!」
「知りません。…だから拗ねてるだけだって言ってるじゃないですか」
 延々続く鳳のキリの無い拗ねっぷりに、宍戸はしまいに、力なく。
 寧ろどことなく優しげに苦笑いを浮かべ、ある言葉を呟いた。
「しょうがねえなあ…」
 そして。





 しょうがねえなあ、と。
 一つの言葉が三つの声で、誰にも気づかれず、交ざって重なる。
 とろける声の神尾も、呆れた風の海堂も、苦笑いの顔の宍戸も、しょうがねえなあと呟きながら。
 伸び上がり、人目を盗んで、恋人の頬へとキスをした。



 三つの言葉と、三つのキスは、同時に三人の男をあやした処方だ。
 クリスマスの静かな夜だ。
「………なに見てるんですか」
「観月」
 寮のベッドで。
 うとうととまどろむような浅い眠りから、ふと睫毛を引き上げた観月は、同じように横たわっている赤澤の視線に晒されていた自分を知り、小さく呻いた。
 観月が自分でも判るほど眠気にとろけた声だった。
 赤澤が笑っていた。
「…………悪趣味ですよ」
「寝顔も好きなんだよ」
 人の寝顔なんか見てと詰ろうとしていた観月の言葉を赤澤はあっさりと遮った。
「あなた何でもいいんじゃないですか」
 泣いている顔も、と言われた事がある。
 怒っている顔も、笑っている顔も、真面目な顔も、困っている顔も。
 ともかく四六時中、観月は赤澤にそんな事を言われている気がする。
 その都度うろたえてなどいられないと思うのに。
「観月はどんなでもいいよ」
「………………」
 低い赤澤の声が、夜の静寂に滲むように響いた。
 長めの髪が横たわっている事で寝乱れて、真っ直ぐに観月を見据えてくる視線を露にしている。
 さらりとした口調はいつも率直で、そのくせ言葉の意味は後から観月を雁字搦めにしてくるのだ。
 こういう男なのだろう。
 きっと誰にでも。
「一緒にいる時に寂しそうなのは、ちょっと痛いかな」
「………………」
「何か寂しくさせたか」
 そんなのあなたのせいに決まってるでしょうと、言ってやろうかと一瞬思ったものの、観月は口を噤んだ。
 我ながら馬鹿な事でと判っているからだ。
 代わりに観月は溜息交じりに呟いた。
「そんなに僕の顔が好きですか」
「うん?」
 観月の視界に、ふいに影が落ちる。
 赤澤がベッドに腕をついて、上体を伸び上げるようにして観月の唇を浅いキスで掠った。
 どれだけ丁寧にされているのかは、やはり一瞬後に気づく。
 キスされた瞬間は、あまりに自然すぎて判らないのだ。
「顔なあ……確かに俺はお前の顔、好きだけどよ。好みなのは丸ごと全部だから、顔見えない時でも結構ヤバイ」
 今度は赤澤の手が伸びてきた。
 骨ばった指に髪を触られる。
 赤澤の声音は独り言のようだった。
「声だけ聞こえてくるとか、影だけ見えてるとか」
「………声はともかく影って何ですか」
「とにかく頭…てゆーか、顔。ずばぬけて小さいのとか、影だと一発だぜ」
 コートにうつってる影とかな、かわいい、と臆面もなく告げられて観月は絶句する。
 そんなこと言われた事がない。
 影なんか好きだとか言われて赤くなりそうな自分も信じられない。
「声もな、すごいいい」
 ゆったりと微笑む赤澤は、昨日のクリスマス礼拝の賛美歌もよかったしなと囁いた。
 ひょっとすると、赤澤の方こそ大分眠いのかもしれない。
 本当に質が悪いと観月が赤い顔で唸りたくなるほど、声も気配も甘く気だるかった。
 観月の髪を手遊びしながら、無防備すぎて観月が怖くなるほど心情を全て観月に晒してくる。
 赤澤は、好きだという言葉を繰り返し繰り返し口にする。
 でもほんの少しもその言葉に込めた感情や、その言葉が観月に与える影響力が薄まる事はなかった。
「………………」
 観月は自分の前髪に触れている赤澤の手首を目前に見つめながら、その内側に静かに唇を寄せた。
 唇の薄い皮膚に、とくんと脈が重なった。
 大きくかわいた熱い手のひらに。
 髪ではなく片頬を包まれたと観月が思った時にはもう、唇が深く塞がれていた。
「……、…ん…」
 自分に乗り上がってきた赤澤の背を観月は伸ばした腕で抱き込んだ。
 こんなにも近い距離。
 触れられた瞬間は平気だったのに、やはり後からだんだんと怖くなってくるけれど。
 唇を開いて、舌で繋がって、濡れて、生々しく、こんな事をして怖くもなってくるけれど。
「観月」
「………っ……は…」
 零れた吐息にまで丁寧に口付けてくる赤澤だからこそ怖くて、でもそれは失くせないものを見つけてしまった慣れぬ飢餓感のせいだと観月は知っている。
「……観月?」
「随分…眠そうだったくせに…」
 全然平気そうだったくせにと、まるで恨み言めいた言葉が勝手に観月の口から零れてくる。
 それはここ最近の話でもあって。
 キスのさなかに織り交ぜた観月の呟きに赤澤は微かに苦笑いした。
 舌先を赤澤に甘ったるく噛まれる。
「賛美歌独唱のお前の、喉痛めさせる訳にいかないだろう」
「………もうクリスマスは終わりました」
「歌えなくなっても…?」
 もう賛美歌は歌わない。
 もう時期にクリスマスは終わる。
「……好きにして下さい」
「お前の声、獲っちまっても?」
 微量の獰猛な提案に、観月は身体の力を抜いて艶然と笑った。
「どうぞ。僕の声が聞けないでいても、あなたが我慢出来る範囲でね」
 どうなるのだろうかと寧ろ後の状況を楽しみに思い、観月は今年のクリスマスを終わらせた。
 例え力づくでも、と鳳は言った。
 今から俺の言う事を、絶対に、聞いて貰いますと。
 低く重々しい口調で断言した。
 それを聞いて喜んだのは、鳳の視線の先にいた宍戸の、隣にいた向日だ。
「聞いたか侑士! とうとう忠犬の反逆だぜ!」
「何でてめえがはしゃいでんだよ!」
 宍戸の怒声など全く耳に届いていないかのごとく、向日は忍足の制服の二の腕あたりを激しく引っ張って嬉々としている。
 忍足はといえば、ほんまやなぁ、と至って暢気に応えているばかりで、向日によって腕だけを揺さぶられながら密やかに宍戸を流し見てきた。
 無論宍戸はその視線に気付いてはいたが、不機嫌も露にそっぽを向いて、今まさに足を踏み出そうとしていた正門を突破すべく歩を進める。
「……何邪魔してんだよ」
 宍戸の正面に立ちはだかったのは鳳だ。
 相当きつい宍戸の眼差しにも臆した風もなく、鳳は首を軽く左右に振った。
 その唇には、絶やされる事の無いいつもの笑みは無い。
「俺と行くんですよ。宍戸さん」
「あ? 知るか…!」
「駄目です」
 暖冬らしい今年の冬は、いつまでも厳しく寒くはならないままでいる。
 もう十二月だというのにだ。
 今頃になって漸く散り始めた黄金色の葉の下で、授業が終わって、部活も引退してしまっている三年生の面々が帰途につこうとしているのを、こうして一人の下級生が制している。
 名の知れたテニス部員達の喧騒に、敢えて割って入る生徒の姿はなかった。
 鋭く眼差しを吊り上げて激怒している宍戸と、普段の温和さをどこに置いてきたのか厳しく我を通そうとする鳳と。
 好奇心全開で瞳を煌かす向日と、さして興味もなさそうな顔をしながら立ち去ろうとはしない忍足と。
 氷帝学園の正門前で相対している。
「宍戸さん」
「ああもううるせえよ。手離せ、この馬鹿力!」
「力づくでもって、俺言いましたよね」
「ふざけんな! やれるもんならやってみろよ」
 鳳も宍戸も真剣に怒鳴りあっている。
 さんざん面白がっていた向日が、暫しその状況を眺めた後、ふいに表情を怪訝に歪めた。
 一転小声で、ダブルスのパートナーである忍足を上目に見つめ、口をひらく。
「…何あれ。もしかして…マジ?」
「らしいな。…どないしたん岳人。急にそないな顔して」
「………だってあいつらマジだぜ?」
 せいぜいが軽い小競り合いだろうと向日が思っていた事は、その表情を見れば明確だ。
「えー…何あれ。何なんだよあれ?」
「さあ…?」
 忍足はといえば、最初から判りきっていた事だけに、ゆったりと唇に笑みを浮かべて、向日の肩を利き手で抱きこむ。
「…あ? 何だよ侑士」
「見物」
 あれが氷帝名物のバカップルやで岳人、と忍足は真顔でふざけている。
「てめ、人んことおちょくってんじゃねえッ、忍足!」
 即座に物凄い勢いで宍戸が忍足に噛み付くように怒鳴ったが、宍戸はその両頬を鳳の手に包まれ、顔を向ける方向を変えられる。
 グキッと音でもしそうに無理矢理顔を鳳と向き会うような位置に変えられた宍戸の激昂ぶりは凄まじかった。
「いっ……てえんだよッ! 馬鹿野郎!」
「だから早く行った方がいいって言ったじゃないですか!」
「そっちじゃねえ! 今お前が力任せに…、……ああもうッ、離せッ!」
「縛り付けてでも今日は連れていきます!」
 温和な普段の印象など全てかなぐり捨てて、鳳も宍戸に負けない怒声で張り合っている。
 うるせえ、と眉根を寄せた向日の両耳を忍足がやんわり塞いでやっていた。
「お前の言う事なんか知るか! 俺の事は放っとけッ! 俺に構うなッ!」
 忍足の手のひらでもっても防げなかった宍戸の怒鳴り声を聞き取って、向日は、あーあ、と呟いた。
 言ってもうたなあと忍足も苦笑いする。
「宍戸さん」
「……ほら…忠犬が今度こそマジで怒ったぞ」
「ほんまにアホな飼い主やなあ……」
 ひそひそと向日と忍足が会話を交わす視線の先で、整う面立ちから従来の甘さを根こそぎ剥ぎ取ったきつい表情で鳳が宍戸を呼んでいた。
 普段丁寧な立ち居振る舞いをする鳳とは思えない程、粗野にその両手が動く。
 宍戸の髪を掴み締めるようにしてその後頭部を両手で包み、鳳が宍戸に顔を近づけていく。
 宍戸が俄かにうろたえ出した。
「ちょ、…てめ……長太郎、…っ」
「………………」
「バ…ッ…何する気…、だ…よっ!」
「キスを」
「馬鹿野郎っ……ちょっと、おい、……マジかよ…っ」
「………………」
 大きく首を傾けて。
 あろうことか学校の正門前で暴挙に出ようとしている鳳は、宍戸の腕の力ではびくともしないらしかった。
 躍起になって鳳と格闘していた宍戸が、切羽詰った声で忍足と向日の名を叫んだ。
「お前ら黙って見てねえでこいつどうにかしろよ…ッ!」
「はあ? 何で」
「せやな。宍戸が悪いで、どう考えてもな。恋人きれさすようなこと平気で言うからや」
「そうそう。侑士の言う通りだぜ」
「……っざけんなっ!」
 したり顔の忍足と向日を怒鳴りとばしながら、宍戸は鳳の肩を両腕を突っ張らせて懸命に押しやっている。
 宍戸が全力を出しているのは傍目にも明らかだったが、鳳は揺らぎもしていなかった。
「止せって…! このアホッ」
「力づくというのは止めました」
「全然止めてねえだろうが! これが力づくじゃなくて何が力づく、」
「最初からこうすればよかったですね…」
「長太郎っ!」
 唇と唇の近すぎる距離。
 止めてやる?と上目の目線だけで忍足を伺った向日に対し、忍足は全く返答になっていない笑みを返すだけだった。
 視線は向日に向けたまま、忍足は低い声でひとりごちる。
「鳳に虫歯移して、二人で歯医者通ったらええやん。宍戸。一人で行くのがそんなに嫌ならそれはいっそ得策やで」
 ええこと思いついたなぁと忍足は笑って続けた。
 後の言葉は鳳に告げたものだ。
 恐れ入りますと鳳が応えていた。
 今にも宍戸の唇にかぶりつきそうな角度で。
「長太郎、止せっての…! いや、もう、頼むから止めろっ! 止めて下さい!」
「知りません。宍戸さんなんか。歯医者が本当に苦手だって言うから、それなら治療中は側についてますって言ってるのに、それでも行かないって言うんだから」
「それが嫌だっつってんだよッ! ありえねえだろっそれ!」
 立会い出産じゃあるまいしと錯乱した宍戸が喚いている。
「………あいつら…つまりなにか。そういう事なのか」
 向日の声音が一気に低くなった。
 凄む向日の呟きに、忍足が逐一頷いている。
 くわっと牙を剥く勢いで向日が声を荒げた。
「歯医者に行く行かないであれか! 虫歯がどうこうであの騒ぎか!」
「まあまあ岳人。無類の歯医者嫌いの宍戸の為に、治療中は側について手でも握って、一生懸命励ましたろうって思ってた忠犬が、きれてもうて、ああなってん」
 気の毒な話やんと忍足は向日を見つめて言った。
「しかも一人じゃ怖いくせして異様に恥ずかしがり屋の奥さんは、旦那の立会い拒んだあげくに共同出産ってな」
 そこまで忍足は至極平静な真顔で言って。
 そして沈黙の後。
 とうとう耐えかねたらしく、忍足は深く深く俯いてその肩を震わせ出した。
「………………」
 向日は。
 自分の両肩に手を置いて声にならない声で激しく笑う相方を小さな身体でしっかりと受けとめながら。
 騒動の根源の二人を心底から呆れ返って、睨みつけた。
 ひとしきり騒ぎが続いた後に。
「さっさと歯医者に行ってきやがれこのバカップルがッ!」
 勇ましく、雄々しく、鳳と宍戸を足蹴にして。
 正門から校外へと蹴りだした向日によって漸く、状況は沈静化されたのであった。
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